長篠・設楽原決戦の真実その2
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1575年6月29日(天正3年5月21日)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との合戦。
武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。
これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)滅亡を招いた。
この戦いにおいて、織田・徳川連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。 >>899
信長記に載ってないから記したって湯浅伝記に書いてあるんだけど(牛一かほあんかは知らん)
読んでないの?
国会図書館のアーカイブで簡単に読めるのに
桶狭間についても興味深い逸話が書かれているよ
長篠のエピソードも事実かはともかく、こういう話があったと書いても世間一般に不審がられないということ
「織田軍は柵に引きこもってでてこなかったじゃなーいか、嘘松乙」とはならなかったってことだ 信長公記の話が出てるのが一番胡散臭いな。信長記が知られてから書いてる訳でリアリティはゼロ。大体湯浅甚介は本能寺で死んでる。本人の日記ならまだ信用もされるが…討ち取った大将の名前すらわからんなんて有り得るか?腐っても軍功なのに?長篠日記よかうさんくさいな。 信長公記に追撃したと書いてあるじゃん
「前後の勢衆を乱し追わせられ」
やっぱり読めないのね… >>901
読んでないんだね
原文では「信長記」とあって牛一かほあんか分からないとは書いといてあげたのに 長篠日記の方が信頼されてそう。あれ長篠住民の手記だし。
湯浅甚介のやつは軍記物だろこれ。 長篠日記も馬場が織田に追撃戦で討ち取られてなかったか? いや、相手が柵まで来なくなったら手じまいとかないわw
そりゃ目に入る辺り掃討するなんて普通でそれ追撃戦解釈とかナンセンスも極まってる 逃げ去って行く敵をそのまま黙って見ているなんてのは
よほどアホな武将でない限り絶対にやらんだろ 信長だって馬鹿じゃない。だから追撃はしなかった。長島一向一揆の時に逃走する一向衆に鉄砲を撃ちかけて追撃したら敵は諸肌脱ぎになって逆襲、散々に打ち負かされて織田一門衆まで死者が出てる。一向門徒でこれなら武田兵なら何が起きるかわからん。武田には隠遊の戦術もあるから迂闊な追撃こそ敵の狙いかもしれない。武田の反撃を誘ってそこを撃滅しようってのが自然。もし信長が運否天賦で決戦してたら武田はここで滅んでたかもしれない。まぁ最終的に武田は滅んだ訳で無理する必要は皆無だったけど。 >>905
>>909
史料読めない自慢はもうけっこう
だいたい長島の戦いのどこが追撃戦なんだよ
退去するってやつを騙し討ちして激怒されたんだろ?
いまのウクライナの戦争でもやってるが、退路絶たれると死に物狂いになるからご法度なんだよ
必ず一ヶ所は退路をあけておく
長篠は単に逃げるのを追撃しただけでまったくの別物 鳶ヶ巣山砦を取り戻して長篠城を救援してるから武田は死に物狂いだった、ってのが前提なのでは?だとすれば追撃戦は危険だろう。 雑兵はともかく重臣連中がバタバタ死にまくってる時点で激しい追撃受けてるに決まってるだろ 何を以て重臣衆と決めるかによるけど武田軍被害の大多数が設楽原なのは史料で共通してる。銃殺劇だからなんだろうけど織田も徳川も誰が槍をつけたかとか気にせずただ淡々と武田が死んだとだけ残してる。武田も余りの敗戦にどうでも良くなったのか大将もみな鉄砲に当たって死んだと書いてる。
追撃部隊が徳川主力の小規模だったから命拾いしただけ。まぁ馬場信春からして無抵抗だったから敗軍のショックでイカれてたんだろうけど。 >>911
挟撃の可能性と退路を完全に塞ぐのはまったく別の行動だよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0011?m=all&s=0006&n=20
一次史料で信長は数万を討ち取ったとした上で「大略切捨河に漂候」と書いてますが
数万は盛っていても、「大略」は切り捨て川に漂った、要するに追撃戦で「大略」が死んだんだよ
ま、君は読めないんだろうけど
ついでに首実検に苦労している様子も書いてある
信長公記によると、桶狭間では今川方の軍僧捕まえて当日に首実検させてるんだが、長篠では都合のいい人物を捕獲できなかったんだろ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0007?m=all&s=0006&n=20
合戦当日に「仮名」を送るといってるのが上記史料だが、5日たっても特定できていない
湯浅甚助が誰を討ち取ったのか分からないのも不思議ではない
その働きは滝川が見ていて後日、信長から感状がくだったとあるのが湯浅伝記
ちなみに軍記物語じゃないですよw >>913
史料読まない、読めない人が史料出すの恥ずかしいって自覚はないの?
崩し字読めとまでは求めないけどさ
翻刻すら読めないんだから
金輪際、史料や研究者の名前を挙げないでほしい
冒涜だから 飛躍し過ぎてて草。それは武田兵が川に落ちた事は意味するが追撃戦をしたかまでは証明出来ないぞ。 >>915
流石甲陽軍鑑に死者6000って文字を視る人は言うことが違いますなぁ…いや次元が違うと思うよ。うん。
実際のところ信長は追撃戦はやってない。織田の陣地は柵・堀・土塁・銃眼の防御陣を三重に造ったものだから織田兵も前には出れない。だから追撃戦はやりたくても出来ない。長篠日記の内容は妥当だろう。
それをしたのは徳川家康。徳川の陣地は前に柵が無いからここからなら出撃出来る。信長もここから織田兵を送ったろうがいかんせん狭い。数千の軍勢がどうにか出撃していったことになる。それでも壊滅していた武田軍には致命的だった。 長篠日記は史料価値ないから何の参考にもならない
妄想レス乞食の相手しても無駄だけど 長篠日記も織田勢は追撃して殿で活躍した馬場信春を原田直政配下が討ち取ったと書いてあるんだが? 長篠日記は実はいくつかバージョンがある。
元々は長篠乗本村の阿部四郎兵衛(定次)が記していた日記である(本来は四郎兵衛日記とでも書くべきなのだろうが)定次はかなり筆忠実な男だったらしい。定次は長篠合戦にも参加しており鳶ヶ巣山攻撃隊の案内人の一人だった。 その記録を定次は妻の実家に送る。これが長篠日記(阿部本)と呼ばれるもの。送られたのは粟世の熊谷八郎兵衛である。
ピンとくる人が居るかもしれない。この熊谷こそ柳田國男が高く評価する「熊谷家伝記」を残した熊谷家である。熊谷家伝記には「(長篠合戦の)委細は阿部氏之日記に詳也」とある。 ここで熊谷家について触れると熊谷家は歴史ある名家でこの天正年間は武田家に仕えてる。軍役の代わりに物納で済ませてた農家でもあり、粟世では「御館」と呼ばれていた資産家でもあった。そんな熊谷家は実は子孫が高力重長を名乗り松平に仕えたという話もあり徳川とも親しい。
その為阿部四郎兵衛は徳川と武田の情報に触れる事が出来る珍しい人物だった。そんな彼が熊谷家の依頼で完成させたのが今知られている長篠日記ということになる。阿部四郎兵衛はこの時それなりにトシだったので一線は退いていた。その為時間はあったのだろう。 >>921
太向義明氏は、『長篠日記』を、「内容には『甲陽軍鑑』や小瀬甫庵『信長記』『総見記』等の流布書との類似が著しく、近世中期以降の成立であることは明白である。」とされている。このような、末書の類を基本史料とすることには疑問を感じざるを得ない。 甲陽軍鑑の焼き直しも何も阿部四郎兵衛と長篠日記を作った熊谷家は武田に仕えていたのだから武田の情報が入るのは当たり前。
だから長篠日記を評する上で「甲陽軍鑑と似てる」は実は史料批判になってないという問題がある。 阿部四郎兵衛は織田・徳川軍の陣地構築や鳶ヶ巣山砦攻撃戦の様子、その後の戦果といったところを詳しく書いていて長篠合戦の重要史料を残したと言える。熊谷家伝記に存在が確認されるから後世の創作で無い事は確定したようなものなんだがここを知り尽くした上で史料批判をしないといけない。 長篠日記信じるなら勝頼の馬鹿っぷりや大通寺の訣別の盃とか信じないとねー 長篠日記は阿部四郎兵衛の織田・徳川の情報と熊谷家の武田の情報を突合させたものでおそらく長篠合戦の実態にかなり近い史料だと言える。信長公記や三河物語ではわからなかった武田軍の攻撃順なんかも書いてある。そんでこれを熊谷家が求めたのはおそらく「何故武田が敗れたのか」を詳しく知りたかったからなんだろう。熊谷家は当時一帯を支配する実力者で故に情勢には敏感でなきゃならんかった。武田が大敗したなら徳川に従わないと未来が危ないからね。 実は徳川の戦果がとんでもないことになってる。信長が追撃しなかった、という根拠の一つだろうか そりゃ徳川領内の勝ち確の追撃戦なら徳川が気張るのは当然 >>885
それがおかしい。馬場信春を原田家臣が討ち取ったというのは長篠日記にある話だけど長篠日記によれば
内藤昌豊→朝比奈泰勝が討ち取る。泰勝は今川家臣。この時は伝令として徳川陣に居た
真田信綱→渡辺政綱が討ち取る。政綱は徳川家臣。
とある。対して織田が討ち取ったのは馬場信春のみで信春は最後わざわざ戻ってきて槍を受けた実質の自殺。
これは織田信長が追撃を命令したのならおかしい。昌豊は滝川軍を受けたところを横から徳川が、という話はあるかもだけど信綱は攻撃中に鉄炮で致命傷を負って逃げるに逃げられない状態。普通なら佐久間軍に殺されてるはず。それが徳川にやられた。 松平記
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0019?m=all&s=0006&n=20
「馬場をは信長衆原田備中守内、河井三十郎と申者討取けると聞えし」
徳川方でも記録されてんですよねえ
>>935
ほなら馬場美濃は三重の柵の中まで進んでいって槍つけられたのか?w
長篠合戦図屏風見てこいよ そもそも長篠日記だと織田も適宜柵の外に出て武田軍に横槍突いてます
信長公記もそうだし >>936
屏風は流石に何の手掛かりにもならないでしょ 追撃したなら真田信綱が徳川に討ち取られてる筈がない。佐久間の真ん前なんだから。原田の役を考えると追撃に出たのは徳川と信長の援軍だけだったと。ただ武田の被害が甚大で退却戦すら出来なかった。 真田信綱が渡辺政綱に討ち取られたというのは三河後風土記という江戸時代中期に書かれたものでかなり怪しい
信綱は武田軍右翼を担い、織田方と戦って鉄砲で撃たれそのまま死んだ(軍鑑)
信綱の首を包んで信濃に持ち帰ったという伝承がある(血染めの陣羽織)
武田撤退路近くに真田一党の碑があり、そこは武田軍右翼寄り
それに信長自ら弾正山で家康の側にいたんだから両軍混合状態だろう 織田軍は設楽原の2/3を覆っていて徳川軍は南端なんだよなぁ… 諏訪殿、拙者は御館様の所に行くことに決め申した
殿をつとめまする
甲斐にお逃げくだされ ってかもう勝頼に付き従ってても先はないと思ったんじゃないかな 穴山「無謀な戦に挑み信玄公以来の重臣を悉く失ってしまったではないか!」 勝頼に従うからこそ突っ込んだんだろう。もし反対してたら少なくとも撤退を進言するし最悪サボタージュ。まぁ重臣衆が勝頼に決戦を提案していたから退くに退けなくて損切り出来ず全損したのかもしれんが 結局は長篠城を解囲されるわ
前後に敵を抱えるわで前進しか選択肢無くなった結果じゃないの 勝頼の慢心に命かけて付き合うほど武田の重臣が阿呆だったとは俺には思えないがな
みんな撤退を進言してたんだろ? >>954
重臣達が反対したのは全軍で城を包囲中の時期 攻城中に後詰が来た時点で挟撃されてるに等しいからな
選択肢は部下と兵を特攻隊にして自分だけ逃げるか決戦するかしかない >>958
甫庵信長記じゃないの
資料じゃないけど 城を攻めれば当然援軍(後詰)が来る
桶狭間が信長が仕掛けた戦いであるように
長篠は勝頼が仕掛けた戦いなのである 織田徳川連合軍が設楽が原から動かないならさっさと撤退するか
長篠城を力攻めで落すかの二択だよな
武田の3倍の兵力で後詰した挙句長篠城見捨てて落とされたとなれば
三河の徳川方の豪族はもうドミノ倒しのように武田に寝返るだろうし 大河で今週長篠だからこのスレも賑わうのかな?
今までのパターンだとナレーションだけで戦い終わりそうだけど >>962
連合軍が設楽ヶ原に来た時点で、武田軍はある程度の被害を覚悟の上で
撤退するか史実のように動くしかない
力攻めはまずありえないが、やるにしても連合軍が来る前だけ 朝鮮人に乗っ取られた犬HKはそんな手抜きで済ませようとするよ
そのくせ職員の年収は1500万円だから
もはや何をか言わんやである 無視されがちだが長篠城500が無事なので後詰が到着した時点で武田軍は挟撃される形になる
逃げるにしてもかなりの損失を覚悟しないとダメ
かといって馬場信春とかが「某が特攻します」とか言うわけもないし 信長が丘の後ろに兵力隠して武田が兵力を見誤ったってここ20年位言い始めてるけどさ
岐阜から三河まで3万の兵力の移動を隠せるわけもない訳で
実際は勝頼の書状のように「敵は手立てを失ってる」って思っちゃったんだろうな
織田徳川で武田の3倍の兵力あるのに急造の陣城に籠ってんだから
突撃して1か所でも突き崩せば戦意の乏しい織田徳川軍は崩れるだろうと
浅井・朝倉・長島の一向宗まで滅ぼされて武田も焦ってただろうし
ここで信長に打撃与えれば流れ変わると思ったんだろうな 信長の2つの調略に引っかかったということ。
1つは三河に侵攻すれば信康が寝返るという調略にかかって三河に侵攻したこと。
2つ目は中央突撃をすれば佐久間信盛が寝返るという調略にかかって、
中央突撃を繰り返した事。
三河侵攻の際に信玄が落とせなかった高天神城を落とした事も、
勝頼が舞い上がる要因になったと考えられる。
またこの調略にかかったのは勝頼だけでなく信康もで、
その為に信康が確実に勝頼と通じていた事を信長は把握しており、
申し開きが通用せず自害に追いやられた。
またこれ以降、家康は佐久間信盛を警戒しており、
その警戒を解くための工作活動が、
19カ条の折檻状による失脚だったが、
高野山で不慮の死を遂げてしまって、
明智光秀に家康暗殺の役目が回ってきて、
本能寺の変につながってしまった。 設楽原は原とつくけど関ヶ原みたいな原っぱじゃない。丘の多い田園地帯で見通しが良くなかった
一番重要なのは勝頼達がいる長篠・信玄台地からも設楽原の織田・徳川陣がみえにくいという点。実際にテレビ番組で再現したところ一番前の柵は見えるがそれ以外なにも見えない
だから武田軍は信長も家康も簡易な柵だけを頼りに籠ってると誤解していた可能性が高い 三河に侵攻すれば三河衆が寝返るという情報を流して、
実際にその通り寝返ったので、
勝頼はその情報源を信じてしまったのだろう。
長篠で中央突破を繰り返すぐらいに、信じさせてしまった。
その最大の功労者が佐久間信盛だよ。 家康は佐久間信盛の調略にかかって、
信康が勝頼と通じていたのを知り、
佐久間信盛を警戒した。
武田の次の調略の目標は自分だとも分かっていた。
それ故に19箇条の折檻状も
家康を油断させるための工作活動だと分かって
警戒を怠らなかった。
そこで佐久間信盛が高野山で蟄居させられた隙をついて、
伊賀の忍者にそれとなく始末させた。
その後家康暗殺の役目は明智光秀に移ったが、
荷が重かった様だ。 なんにせよ3倍の敵が陣城に籠って防御態勢敷いてるのに
そこに突っ込むなんてのは正気の沙汰ではないな
案の定最後は陣前出撃されて壊滅的な打撃受けてる 敵領内に入り込んで城攻めに失敗した挙句援兵の攻撃を受けて大敗北した戦い
・吉田郡山城の戦い
・厳島の戦い
・川越城の戦い
・砥石崩れ
・末森城の戦い(創作?)
一応上のは全部攻め手の方が数多いんだよな 当時の武田なら2万以上動員するのは可能なのに
1万5000ってのはどう考えても信長の援軍が来る前提ではないよね?
長篠城失ったら勝頼にとっての高天神城失陥と同じことになるから
徳川は後詰で出てくる可能性が高い
徳川が1万くらいかき集めて武田軍に戦い挑んでくる気になる程度の兵力が1万5000ってとこだったんだろうな
実際城の包囲に2000程度残して1万3000ならまぁ決定的な兵力差でもない ・陣城だとわからない地形
・敵数もわからない(甲陽軍鑑曰く織田徳川十万)
だから突撃を選ぶのは当たり前 >>978
こういう人って岐阜から三河まで兵力隠して移動できるとでも思ってんだろうねw
設楽が原で視認できる兵力が例えば2万だとしても情報と照らし合わせれば
残りの1万から2万はどこかに伏せてると考えるのが当たり前だろう >>977
親父が残した負の遺産(濃越同盟)のせいで北信濃に兵力駐屯させる必要があるから2万超は厳しいでしょ
上杉からみれば武田と織田の消耗は好都合だが流石に武田は負けすぎたな >>980
皮肉にも長篠合戦の頃に謙信が足利義昭の要請に応える気になり始めてるという 信玄は三方原の戦勝後も堀江城を何日も攻めなかった
織田の援軍がいつ突然来るか分からなかったからだろう
それに比べて勝頼は長篠で力攻め失敗して何日も浪費しているのだから、織田の援軍を把握できてなかったという言い訳は通用しない
援軍が来たらどうするか対策した上で攻城の選択をするのが不可欠
まあ援軍来たら本意を遂げるべく戦うつもりだったんだよ >>981
謙信にとっては織田と武田が拮抗して争うのが1番良かったのがあまりにも天秤が傾きすぎた 謙信は加賀まで攻め込んだのに
翌年関東出陣しようとしてたからなぁ
この人本当に足利将軍家に忠誠心あると思えんのよね >>984
高い忠誠心があるなら長篠以前の御内書で武田との和睦に
応じるだろうし、北条との和睦を拒否することもない
謙信が態度を変えた理由はわからないけど、北陸本願寺と
武田を共通の敵としていた織田がそれぞれフルボッコにして
「あれ?このまま2勢力が滅んだら次は上杉がヤバない?」
と考えて、まだ2勢力が残ってる間に反織田に転じたと思う
死期を考えると失敗だったけど 長篠後に武田に攻め込んでは。という家臣の提言も謙信は却下したからなあ。
対織田は意外と早いうちから考えていたんだろう。 >>979
長篠の出入り口、設楽原は徳川が押さえてるから武田は物見を出すのすら困難だぞ 武田軍が信長の兵力が分からなかった原因として
・長篠城は長篠の窪みにあり伊奈街道が通る設楽原を押さえられたら山路しか通れない
・信長、家康はこの時に備えて街道整備をしていたので武田の予測を超えた速度で進軍できた
・信長は馬防柵用の丸太を岐阜から持ってきた。必要な長さは第一柵でも3〜5キロメートル分、2メートルの木材で2500本にも及ぶ。兵士が雇った人夫かわからない。これで兵力を観測困難にした
・しかも当時は梅雨で路面は濡れて土埃も立たず光学観測では正確に測れない
・そもそも内通者でも居ないと正確な動員数はわからない
と種々あって分からなくても仕方がないとしか 相手兵数を分かってるケースの方が稀だしね
勝頼の場合、明智城や高天神城攻めた時もちゃんと敵の援軍に備えて布陣している
高天神城は実際に城攻めていたのは穴山だった
長篠も医王寺山に布陣しており、この時に限って無策だったとは考えにくいよ
信玄の野田攻めや家督相続直後の長篠城争奪戦で何度もあの辺りを通ってるし、長篠菅沼氏も味方にいるのに地形に疎かったというのは考えにくい 長篠の戦いを謙信がどう利用したかは
「謙信✖信長」が書いている。 医王寺山からは設楽原が観れない、代わりに別所街道が良く見える
この事から武田軍はどちらかと言うと徳川が別所街道を使って攻めてくる事を警戒していたらしい。仮に伊奈街道を使って来ても武田の方が戦力的に有利ってことも勘定に入ってたんだろうが
まぁどのみち後詰が到着した時点で何も出来ないんだけど たとえ当主信玄死したりと云えども武田家に制裁なくば不公平でござろうが。 鳶ヶ巣山武田勢3000が織田4000(最精鋭?)に短時間で木っ端微塵に粉砕されたのもやばくね? 1千じゃないの?武将の面子見ても3千もいたとは…… 武田は心の折り方間違えちゃった感はある
強右衛門殺しちゃったことで長篠城の兵士たちの結束強くなっちゃったし
この後の長篠の戦いで城兵たちも撤退する武田軍の追撃戦に参加する 贈従二位の上杉謙信と贈従三位の武田信玄の争いの深き傷痕 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。