長篠・設楽原決戦の真実その2
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1575年6月29日(天正3年5月21日)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との合戦。
武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。
これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)滅亡を招いた。
この戦いにおいて、織田・徳川連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。 設楽原合戦は三万対一万というよりも四千の鉄砲対一万の歩兵という新時代を先取りしたかのような戦争だった >>3
武田が勝頼が重臣達の反対を聞かずに設楽まで来なければ、
そもそも織田徳川側が長篠城を救援するのが地形的に厳しかったように思うし、
三河物語でも軍鑑でも、徳川勢は普通に陣地から出て武田勢と戦ってるように思う。
結局、軍鑑を読んでも、信長公記を読んでも、最終的には織田徳川勢が武田勢を追撃する為に陣地から出て戦ってるように思うし、銃兵だけが全てを決めたわけでもないと思う。
そもそも、織田徳川勢は信長公記を読むと陣地を作って武田勢を迎撃してるように思うから、必然的にまず遠距離戦で火縄銃が主体になるだけの話じゃ。 信長公記→織田・徳川の兵は一兵も前に出ず鉄砲のみで打ち払う
三河物語→(武田軍の大将は)みな鉄砲に当たって死んだ
甲陽軍鑑→まるで城攻めの様な戦で大将も小名もみな鉄砲に当たり死ぬ
どの史料を見ても鉄砲に殺されてます本当にありがとうございました >>4
色々間違いがあるけどその中で最大の間違いは
「火縄銃は遠距離兵器」これね。長らく長篠の戦いで誤った俗説が信じられていたのは日本人が鉄砲を知らないから。だから何となく、ゲームや映画の中の鉄砲がイメージされていた。現実の鉄砲、特に火縄銃は全く違う。火縄銃は近距離兵器なのだ。
火縄銃は確かに100メートルほど弾を飛ばせるがそれは「飛ぶ」というだけで人間を殺害出来る有効射程は50メートル程度になる(名和弓雄は30メートルとする)。50メートルというと人間の足なら女でも10秒で走破する。対して火縄銃の装填には1分〜3分掛かる。つまり有効射程に入った敵に2射は出来ない。
更に火縄銃は繊細な兵器である。筒のクリーニングをしないと弾が入らないならまだ良い方で最悪不発になる。現代銃ならちょっとした機構操作で直るが火縄銃はそうはいかない。 つまり織田・徳川軍は武田兵を常に火縄銃の有効射程…約30メートル…に捉え続け射撃を加え続けた。こんな事を野戦で行ったのは後にも先にも長篠の戦いくらいで正に異常な戦だった。武田軍がこんな事態を予想出来なかったとしても致し方無い。 鉄砲自体は武田も重視してたからそこまで予想外ではなかろう 確かに武田軍も対鉄砲術はあった(竹筒による防御等)。また柵を建ててる相手にはこの柵を引き倒して(投げ熊手等を使う)突入するというのも当然の戦術だった。
ところが武田軍は撃たれ続けた。普通なら有り得ない事態で想定する事も出来なかった。 有効射程を踏んでも一発しか撃たれないからね。数百メートルまで弾が飛ぶ機関銃相手にしてるのとは全く違う。初撃を掻い潜れば敵の命を取れるっていうのが当時の鉄砲戦だった。だから武田軍も織田・徳川軍の柵を破った時に勝利を確信したろう。実際甲陽軍鑑にはそう書いてある。ところがその戦術が常識的であったが故に読まれていて信長は武田軍を陣地内に誘い込んで銃殺する作戦をとった。単純な鉄砲戦では無く更に深い、高等な戦術が武田軍を屠ってしまった。 何故武田が攻撃続けたか?
こんなのは今更退却できないからで説明はつく
あと、危険でも敵陣に突撃することは手柄とされ、臆病風に吹かれるのは不名誉という文化があった
間違った大将の下ではそれが裏目に出るということか 撤退出来なかった、というのは非常に考え難い。理由は現実として撤退してるから。織田徳川軍は防御陣を作っているので追撃がかけ難い。早く撤退を決めていれば多くの兵を救えたろう。ところが武田軍指揮官は全員突撃を続けてしまった。つまり問題の本質は大将じゃない。武田軍指揮官にある。 >>12
いや、アンタが川を渡る前ですら撤退は困難と言ってたろ?
史実のように背水の陣を敷いて、袋地に入って敵陣が目の前なら尚更撤退できない
川を渡る前ならもっと容易に撤退できただけに心理的にも尚更選べない
家臣に反対されたが、押し切り川を渡り袋地に入りました
翌日攻めたけど思ったより敵は堅い、では反転して撤退しようなんて勝頼の心理を考えれば無理
なんで川を渡る前に撤退しないんだと批判殺到だろう、戦う兵と逃げる兵で大混乱必至 撤退は可か不可能かでいうと可能だよ。ただし多数の死者が出る。川渡る前云々はよく知らんが武田軍が「多数死者を出しても良いから逃げよう」と思てたら逃げれてたろう。相応の死者と引き換えに。
ところが設楽原での決戦は武田軍の想定を超えてる。織田徳川軍にダメージは無く武田軍のみ被害が拡がる。事ここに至れば逃げるしかない。だから武田軍は逃げたんだが問題はそれが遅すぎた。指揮官も撤退を進言せず突撃のみを繰り返してるしね。 そもそもの話、武田は鉄砲だけで被害が出たわけではない
川に死者が大量に浮かんでいると書いてあるとおり、追撃戦でも甚大な被害が出たし、討死した武将も撤退戦の途中の方が多い 史料では武田軍は鉄砲のみで射殺されたとある。否定する根拠も無い。 >>16
根拠はたんまりある
川に死者が大量に浮かんでいると書いてるんだから 何の根拠にもなってなくてちょっと酷い。信長公記では鉄砲射撃によって武田軍は「むじんのごとく」なってから退却を決定してる。この時点で被害甚大である事は一目瞭然なのだが武田軍指揮官はそれが分かってなかった。 >>18
鉄砲で被害甚大だったことは否定しとらん
織田徳川は追撃したと書いてあるし、川に溺死者が多かったとも書いてある
細川への書状でも川の溺死者に言及あり
武田の武将の墓碑も武田軍陣地付近が圧倒的に多い
鉄砲で足軽達を多く失い、追撃で武将級は多く討ち取られたってことだろ 一応言っておくと今の墓地は武田兵が死んだ場所じゃないぞ その可能性はゼロです。長篠の考古学研究は江戸時代から行われてるけど墓(碑)の移動が報告されてる。例えば「参河史」では馬場信房の墳の位置がおかしいと疑義が示されているし昭和に行われた柿原調査では「五輪等を一所に」まとめているという研究結果が出てる。現在、設楽原保存会が地元の伝承を頼りに碑を建てているがそこが正しいという保証は無い。何しろ昔の墓は時代の変遷と共に場所を変えられてしまっていて頼りにならんのだ。 じゃあなんでそんなことが?というと理由は至って単純。武田軍の死者が多発したのは連吾川西の織田・徳川陣地内と史料には記載されてるけどここは設楽原の田園地帯でもある。
信長や家康が多額の使用料を払って陣地構築したとは言え長篠の民は来年以降もそこで農作物を作らないといけない。そんなところに墓を建てる奴は居ない。それで武田軍の亡骸は全て人の少ない処に処分してしまった。例えば信玄台地とかに。その結果誰も武田軍の誰が何処で死んでいたのかもわからないという有様になってしまった。またそうした墓は時代と共に薄れ忘れられる。それで尚の事、わからなくなってしまった。 金子藷山によって書かれた「戦場考」は設楽原に周辺に残る石碑の記録として重要な史料であり、 極めて詳細な記録である。
金子藷山が見つけた時には既に石碑は古びていたが、金子は戦場考に石碑の場所を当時の地名付きで文字で記録し、以後江戸時代から代々更新されながら残っているものである。
多少の移動はあるにしても信玄台地から織田陣地まで移動しているわけではない。 >>23
その可能性もない。
武田軍陣地だけでなく、撤退路に至るまで散発的に存在しているから。
例えば真田の墓は三子山という武田軍陣地ではなく、撤退路の山の麓にある。
真田の石碑は金子も発見し、場所を戦場考に記録している(そしてその場所に今もある)。 織田徳川陣地内での死骸は全て人の少ないところに放り込まれたか川に捨てられたと見られてる。だから当然、墓の位置がただちに死者の場所にはならない。戦場考も重要な史料だけど前提として長篠の民は死体の位置を正確に保存しようとは思っても居ない。だから墓の位置は何の証明にもならないのだな。 ちなみに長篠からはそれほど死体が発見されてない。この事から名和弓雄は長篠住民は死体どころか土までそっくり変えてしまったんじゃないかとしている。田園って事を考えれば確かにそうしたくなる気持ちもわかる。そうしておいて墳墓はこういってはアレだがかなり適当に配置したんだろう。何しろ誰が何処で死んだか詳しく分かる必要は無いのだから。それで江戸時代には既に「墳墓の位置がおかしいぞ」という話になってる。 >>27
武田の戦死者は信玄台地にある信玄塚に葬ったことは明らかだからそんなことは分かりきっている。
武将級の墓は信玄塚と違いあちこち散在しているからある程度の参考になる。
それはそれなりの理由があってそこにあるのであり、尊重しなければならない。
しかも金子が訪れた時には既に古びていたから戦後わりとすぐに祀られた可能性は高いのだ。 あと名和弓雄は追撃戦の存在自体を疑ってる。理由は織田・徳川軍が柵を使ってそこから射撃するという戦法にある。オトリの第一柵はまだしも、第二柵以降は織田・徳川軍にとって本気の防波堤。ここを容易く突破されたら危険。だから相当以上の強度があったろう。武田兵が簡単に壊せないほどの。故に織田・徳川兵でも破壊出来なかった。馬防柵には出入り口が造られてるけどそれでも直ぐに追撃隊は出せない。まず鉄砲隊を下がらせてから少数の歩兵を出入り口から出させて追撃、残りの連中は柵を破壊して兵団を構成させる。そんなことをしている内に武田軍は遥か遠くに消えてしまう。 追撃戦を否定?信長公記にも信長書状にも書いてあるのにアホじゃね? >>28
まずその墳墓の位置が既におかしいという指摘が江戸時代よりあるのでどうしようもできん。更に言うとそもそも長篠住民が武田兵の死んだ位置を知ってるはずがないんじゃないか。撤退する武田軍を攻撃したのは織田・徳川の兵である。長篠住民ではない(当時長篠住民は山に逃げ込んでいた)
大将格になると値打ちが高い。それで討ち取った奴が首を取っていくし雑兵の首も同じく織田徳川兵が取っていく(その割には馬場信房や内藤を討ち取った奴の名前しか知られてないのが不自然な気もするが)
つまり長篠住民が「ここで誰それが死んだ」事を知るのは相当難しい。下手すると彼らは死骸掃除の時に首無し死体しか見てないのだから。 >>30
正確に言えば追撃戦では武田軍は殆ど被害が無かったというもの。織田・徳川軍は形ばかりに追撃しただけ。何しろ陣を崩して攻撃するまでに時間が掛かりすぎるから。 >>32
寒狭川が死者で埋まってたのにそれはないな >>31
戦場考に真田は三子山、内藤は天王山、米倉は岩倉山といった具合に地名付きでハッキリ書いてあって実際そこに今もあります。
脇善兵衛や岡部竹雲斎みたいなマイナーな武将がいるのも生々しい。
石碑というのは現地人だけが祀るものではないでしょう。後年真田昌幸が浜松寄った帰りに祀ったとか色々想像もできるのでは?
江戸時代の云々は戦場考読んでないからだろうし。 名和弓雄とか書いてるけど、平山優始め追撃戦の被害大きい派の方が多数派だろう
戦争の損害は追撃戦によるものが多いのは文献なんか無くても普遍的かつ常識だし 五月二十六日信長黒印状には「数万騎討果候」「大要切捨河へ漂候武者若干之条」とある。重要なのは「大要切捨河へ漂候武者若干之条」敵の大多数は切り捨てましたが川に若干侍が浮かんでます、とある。ここには「勝頼も浮かんでいるんだろう」と繋がるからこの川とは連吾川だけでは無く寒狭川含めた川である。ところがそこには「若干」しか死体がない。もし川が死体で溢れていたらそもそも「武者」かどうかもわからないから。つまり川では僅かな…織田徳川陣地内に比べればはるかに僅かな…死体しか無かった。 じゃあ「川が死体で埋まった」という話はどこからきたのか。おそらくこれは事実だろう。戦争での死体は基本的に自国人の回収だけする。相手国で死んだなら金品を払う。ところがどうも勝頼は死体の回収をしなかったらしい。穴山家にそうした話が伝わっている。そうなると織田も徳川も武田兵の死体には触れないから長篠には武田兵の死体が山と積まれてた。六月だと早く処分しないと死骸が腐れていく。当時死体を効率的に処分する手段は二つしかない。埋めるか流すかしかない。それで長篠住民は死体を身ぐるみ剥ぐと離れた川である寒狭川に放り込んだのだ。設楽原で死んだ武田兵は七千人、三千人も放り込めば川は埋まったろう。 >>5
実際には、三河物語にも、軍鑑にも、徳川勢が陣地から出て武田勢と戦ってる描写があると思うし、
信長公記にも、敗走する武田勢を織田徳川勢が総勢で追撃してると思われる描写があるように思うし、
信長公記ではその後に武田勢の倒された武将の名前が出てきてるように思われるから、
普通に考えたら、追撃戦で多くがやられてるように思うけど。
軍鑑でも、馬場が殿戦を戦ってる描写があるように思うし、
信長公記でも、馬場の事を褒めていると思しき描写があるように思われるし、
同じく信長公記で、敗走する武田勢が織田徳川勢の追撃を受けて、
山の方に逃げて飢え死にしたり、川を渡れずに水で死亡してるのが相当な数になってるように思われる描写があるように思う。
なので、普通に織田徳川の追撃戦で武田側は相当な被害を受けた、っていうのは、
織田側の信長公記を基にしてさえ、ただの事実なように思うんだけど、どうなの。 NG推奨ID:ksw2A4ng
連鎖あぼーん設定も推奨。 >>38 >>39
なんか変な事書いているように思うけど、>>40にも書いたように、
信長公記を読めば、織田徳川勢の追撃を受けて、川を渡れなくて、
数多くの武田勢が水によって死亡してるように思われるのに、
君がそんな事を書いてもしょうがないように思うけど。 >>41
そうやって、議論的に答えようともしないで、そのように書くのはどうかと思う。
>>6
>色々間違い
何の事を君はそう書いているのかな。>>40に書いたように、特にそんな事はないように思われるけど。
火縄銃の装填にそんなに時間がかかる事はさすがにないと思うけど。
君がそんな事を書いたって、槍の有効距離は長槍だってせいぜい6メートルかそこらで、
普通の槍ならもっと短いと思うし、刀に至っては、有効距離はせいぜい1メートルだってあるかも疑問で、
それらに比べれば、有効射程距離が数十メートルの火縄銃は当時の常識から言えば、
普通に遠距離兵器というしかないと思うけど、どうなの。
火縄銃は長篠の事例もそうなように、基本的に防御的に使われている事例が多いように思うし、
基本的に城や陣地から使うなら、敵が防御構造物や味方兵の防御を突破して接近してくるまでは、それこそ何回でも
火縄銃兵は銃撃が可能なように思うけど、どうなの。 >>7 >>9
ただ単に、敵側から陣地とかを攻められたなら、>>43にも似た事書いたように、
防御側は槍や長槍や刀でまず迎撃するわけにもいかないだろうから、
基本的にまずそれらより射程の長い火縄銃で迎撃するのは当たり前なように思うけど。
君の言い方だと、野戦や陣地防御で弓で敵を迎撃するのも異常な事になってしまうと思うんだけど、どうなの。
>>10
鉄砲については、上記のような感じだけど、
>甲陽軍鑑にはそう書いて
別にそんな事書いてないと思うんだけど。どこの描写の事を書いているのかな。
軍鑑読むと、重臣達の多くが設楽に移動して、織田徳川勢の陣地を攻める事に反対してるように思われるし、
第一の柵を突破した事は軍鑑にも書いてあったように思うけど、それで君が書くような事を、
武田勢が思ったような描写ってどこかにあったかな?ちょっと思いつかないんだけど、どうなの。
軍鑑読むと、武田側は織田徳川勢の数を大軍だと思ってたように思われるし、
一の柵を破ったくらいでそんな風に思うとは考えにくいと思うんだけど、どうなの。 >>37
追撃説を言ってる連中は実際に馬防柵を立てたり鉄砲を撃ったりしてるところを見て無いからね。名和弓雄は設楽原保存会の一員としてその再現に携わってるけど。
そして名和弓雄の説は説得力がある。織田徳川軍の陣地は武田軍が打ち崩せない程に堅い。そんな柵は織田・徳川兵も崩せない。狭い出入り口から数人毎出ていくことになる。
そして泥濘。武田兵は泥濘に苦しんだと言う。武田兵と違い織田徳川兵は空を飛んだ、というなら兎も角彼らも歩かないとならない。泥濘の不利は織田徳川にもある。
そして追撃説は「何故信長は設楽原に野戦築城したのか」という点を忘れてる。それは「誰一人損害の出ないように」という信長の策略。故に万が一もある追撃戦はしなかったろう。むしろ、長篠城からの攻撃に期待していたと言う方が説得力がある。 >>45
君がそんな事を書いたって、>>40にも似た事書いたように、
軍鑑では馬場は織田徳川勢の追撃を防ぐために殿軍で戦って、倒されてるように思われるし、
信長公記を読んだって、織田徳川勢の追撃によって橋から転落して川で水死してる武田勢がかなりいるように思われるし、
織田徳川勢も退却していく武田勢を追撃していく時には、信長公記を読むと、
軍勢の前や後ろが入り乱れる程に混雑してたように思うから、
総勢で一気に追撃してるように思うけど、どうなの。 >>45
君さ、武田が撤退しなかったのは織田徳川に追撃されるからと言ってるくせに、史実は追撃しなかったとか言いたいのか?
ご都合主義満載にして妄想全開だな >>38
切り捨てました
あ、鉄砲で打ち取ったんじゃなくて追撃で大勢切り捨てたんだね >>12
織田徳川勢と設楽で戦っている状況で、武田勢がそのまま撤退しようとしたら、そのまま追撃を受けて、
多くの損害が出るだけに思うけど。
>>40にも似た事書いたように、信長公記を読むと、織田徳川勢は撤退する武田勢を追撃して損害を与えてるように思われるので、
できない理由がないと思うし、そもそも軍鑑読むと、勝頼自身が重臣達の反対も聞かずに
設楽に移動して、決戦を命令してるのに、その通りに戦った武田家臣達に責任を押し付けるのはどうかと思う。
>>14
武田勢はそもそも設楽に移動しないで長篠城周辺の地形を利用して守っているなら、
三河物語の描写を考慮するに、設楽から長篠城周辺までは一人ずつでないと移動が厳しい細い道が数キロ、
さらに、途中の川を渡る為の橋が一つしかなかったように思われるから、
これらを利用して武田勢が守るなら、そもそも織田徳川勢は長篠城まで近づけないように思う。
実際に信長公記を読むと、織田徳川勢は設楽で陣地を作って長篠城に近づかずに守っているように思われるし、
勝頼が設楽に武田勢主力を率いてきた時には、信長が大喜びしてるように思われる。
なので、武田勢主力が設楽に来てくれないと、>>4にも似た事書いたように、織田徳川勢は長篠城の救援が厳しい、というのは、
織田側の信長公記を基にしても、織田側でさえそう認識してるように思われるんだけど、どうなの。
仮に設楽に行かずに、長篠城包囲を続けもせず撤退するにしても、上記にあるような細い数キロの道を利用して守るなり、一つしかない橋を壊して撤退するなりすれば、
いくらでも容易に撤退が可能なように思うんだけど、どうなの。 NG推奨ID:aM9ntGFw
連鎖あぼーん設定も推奨。
戦国板ではよく知られたこの荒らしにわざわざ触りに行くのは同類のキ印か、さもなくば自演か、
何れにせよ真っ当な書込ではない。 >>17
>>40にあるような感じで、軍鑑、信長公記、三河物語、の3書を基にしてさえ、
別にそんな事はないと思う。
>>18
さすがにそんなに軍勢の数いなくなる程にやられていたなら、勝頼も武田家の武将達も気が付かないはずないと思う。
信長公記のその描写は、何度も武田勢が撃退されて、前線に来ようとする兵がいなくなって、武田勢が後方に移動してまとまって撤退した、
ていうだけの話のように思うんだけど、どうなの。 >>51
一体何の認定をしてるのかな、と思うけど、仮に君が僕の事を菅沼とか言う認定をしようとしてるとしたら、
僕はそんな名前じゃないんだけど。
ワッチョイスレとかでは、菅沼認定厨さんと思しき人に、菅沼認定を受けた特徴の異なる何人もの人々がいるように思われて、
菅沼認定厨さんと思しき人は、その事について、ろくに答えられてないように思われるんだけど、
それについて、君はどう思うのかな。
むしろ、ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事を
指摘されていたように思われるけど、どうなのかな。 >>29 >>32
君のその書き方だと、一回城や陣地に籠った軍勢は、敵の追撃が不可能、って話になりかねないと思うんだけど、どうなの。
信長の戦歴で言っても、信長公記を読むと第一次伊勢長島、第二次伊勢長島、で織田勢が敵の城を攻めて、
攻略できずに撤退して、追撃を受けて織田勢が敗北しているように思うけど。
野戦陣地よりも守りが堅いと思われる城でも平気で追撃してるのに、野戦陣地で追撃ができないとは思えないんだけど、どうなの。 >>54
>第二次伊勢長島
こっちに関しては、信長公記を読むと、伊勢長島本城を攻めないで撤退して、
一揆勢に追撃を受けて敗北した事例かな。
ただ、やっぱり>>29 >>32の人の書くような理屈で言うと、
そもそも伊勢長島本城に織田勢が直接攻撃してもいない状況で撤退してるなら、
追撃して攻撃する事がなおさら不可能って事になってしまうと思うけど、どうなの。
実際にはそんな事がなく、上記のように伊勢長島勢は追撃してるように思われるので、
上記54にも似た事書いたように、野戦陣地から出撃して、ついさっきまで戦っていた相手を追撃するのは
十分可能なように思うけど、どうかな。 長篠住民は武田兵の死骸を埋めたり川に捨てたりして処理した。それで終わったと思ったがそうではなかった。
怨霊が出てきてしまった。それもそのはずで長篠住民は武田に味方すると言っていた。ところが織田徳川軍が来ると長篠住民は彼らに味方して武田を見捨てた。その変節を逆恨みして甘利信康は住宅の前で切腹して呪ったというから相当だったのだろう。それなのに武田兵を身ぐるみ剥いで川に捨てた。化けて出ない方がおかしい。それで彼らは鎮魂の為に碑を建てたんだが彼らは武田兵の死んだ場所を知らない。それでかなりおかしなところに碑が建っている。 >>55
はぁ…伊勢の一揆衆は野戦築城したのかい?そいつは初めて知ったわ。当たり前だが防衛施設たる城と野戦築城は全く異なる。城というのはある面積を守る建物であってその四方を防御する様に出来てる。故に敵が退く時には必ずどこか一面が開くので追撃は容易い。その為に大手から搦手まで整備されてるのだから。
対して野戦築城特に設楽原陣地は連吾川を使った壁と言うべき防御線である。強固な防御線で敵の突入を防ぐのが目的。故に追撃戦は出来ない。何故なら味方が簡単に出入り出来ると言う事は敵も容易く侵入してくる事を意味する。そんな防御線は危険過ぎる。城や砦の様にはいかない。 >>58
甘利信康については設楽原に行けば普通に碑が建ってるよ。
「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康」
長篠の住民は武田軍に味方すると言っていたがいざ信長、家康が来るとみなそこに行き工事に参加した。そしてその情報を武田には渡さなかった。信康は敗走するとき
「おのれあの柵が、堀が無ければ家康の本陣を崩せたものを。この部落は絶対に栄えさせぬ!」と呪いを叫ぶと庄屋の屋敷の門前で立ったまま腹を掻っ捌き果てたという。
今そこには甘利信康の碑墓と設楽原保存会の看板だけが建っている。 その手の話ってうちの地元(といっても隣市の昼寝城)にもあるし外の所にもあるけど
蔵を持つ金持ちが出ないとか作物がよく育たないとか必ずそういう経済的な呪いがデフォなんだよな
単に地元民の言い訳じゃねえのかと思ったりする >>59
そこじゃなくてそれ以外の鎮魂のための云々の妄想のソースは? >>59
甘利信康の石碑は庄屋のところにあるのだから死んだ場所にあるで間違いないじゃん
なんで死んだ場所知らないってなるんだ? >>61
それも設楽原に碑が建ってる事からわかる。
「モッセモッセ ヤーレモッセの 火おんどり」
設楽原合戦の後、突如蜂の大群が戦没者を弔った信玄塚より現れ長篠を襲った。それは人馬が通れなくなるほどであった。それを祟りと考えた住民たちは供養を行いそれ以降火祭りを行なっている。
重要なのは長篠住民には碑を建てる理由は無い訳であるとしたらそれは供養の為だろう。要は墓を建てねば迷うて出てくると言う信仰。それで信玄塚を建てた。ところがその墓から迷って出てきたのだ。長篠住民が祟りだと思っても仕方あるまい。 >>62
蜜柑が甘いから林檎も甘いとならないのと同じ。
甘利信康が真実腹を切ったとしてもそれは住民に向けた恨み、呪いの類だったから長篠住民もわかる。彼は追撃されて死んだのでは無いから。ただその他の武田軍兵士はみな設楽原陣地で死んだり川に落ちて死んだり野伏に殺されたりと長篠住民とは無関係に殺されてる。それら全てを把握してる筈もないのだ。 どちらも答えになってない。
現地の農民が米倉丹後とか高森恵光寺を知っているわけもなく、それらは信玄塚から大分離れた所にある。
供養のためなら信玄塚があるし、個々の武将を供養するにせよ信玄塚付近に纏めて供養すれば良いのにあんなに散在しているのは意味があってのことで間違いはなく、それは尊重されなければならない。 長篠住民は武田の事を供養しようとか考えてはいない。武田が裏切られただの何だの言って恨もうが切腹しようが良い迷惑。それで死体から身ぐるみ剥いで川に捨てたり穴掘って埋めて上に碑建ててそれでチョン。ところが話が変わるのは怨霊が出てから。ヤバいと思った住民たちはようやく寺に供養を頼んでる。つまり戦場考にある碑や墓はこの時に作られたもの。何しろそれまで供養する気が無かったのだから。
ところが長篠住民、武田兵の死んだ場所を知らない。何しろ彼らは武田兵が殺されてる時は山に逃げてたからね。下手すると死体の山しか見てないのかもしれない。それで馬場信房の碑すらも場所がおかしなところにある始末。まぁ自分達の生活圏に置きたくは無かったのかもしれないが… 馬場は甲陽軍鑑で殿で活躍しているが、信長公記にも働き類なしと書いているから追撃戦で活躍したのは間違いない
橋詰付近の石碑のあたりで戦死したとみて何の矛盾もない
これら全ての史料、史跡を否定し根拠皆無の妄想に妄想を重ねて何をしたいの?
三文小説か? 馬場信房は勝頼の退却を見届けると橋で挟み撃ちにあって自殺的戦死を遂げた。
ところが馬場の墓はその橋では無くそこから離れた場所にある。参河史にて「位置がオカシイ」と言われるのもこれが理由だろう。今の長篠にも馬場信房の墓と馬場信房戦死の地と碑が二つある。そこには馬場が首を討たれた桜の木が古株となり残っている。つまり長篠住民は馬場が討たれたところに墓を建てなかったのである。 >>68
それ、間違い
長篠城南の馬場の墓は遺体を埋めたところ
橋詰の石碑は戦死したところ
そう伝えられている 馬場が自殺的戦死?
何を読んだらそうなるのか
力尽きて退却する力が残ってないからだと普通の読者は思うはずだが
朝から戦い続けた60歳オーバーの老将なんだからな なんでそんな事になったのか?幾つか理由が考えられる。
まず馬場を討ち取ったのは長篠住民では無く織田兵であった。故に長篠住民は馬場の戦死した場所を知らない。だから戦死した場所に墓なんて建てられる筈がない。知らないものは知らないのだから。
勿論長篠住民が「知っていたけど建てなかった」可能性も高い。長篠住民にとって武田は敵。そんな奴らの為に真面目に墓なんて建てるつもりもない。ただ化けて出れると困るので適当に建てた。どのみち、墓の場所が必ずしも死の場所とは言えない。何しろ殺した奴が建てたものじゃないからね。 >>69
この人になにを言っても無駄だよ
無敵の人だから >>69
墓の位置が戦死した場所じゃないって認めてて草 「武田軍がやられたのは設楽原じゃない!墓が無いから!」
「でも馬場信房の墓は戦死したところにないよ?」
「馬場の墓は死体を運んで埋めた所だ!」
つまり今ある武田軍の墓も「死体を運んで埋めた所」である可能性があるので武田軍の戦死地点の特定には使えません。まるで武田みたいな自爆芸、面白くはあったよ。 彼は史料を片っ端から否定し、妄想を重ねに重ねて得られる結論が「勝頼は悪くない、悪いのは重臣」と言いたいのだろうが、残念ながらいくつものその妄想が正しかったとしてもその結論には至らない
それだけ妄想を重ねないと擁護できないのかという哀れみの感想とともに、家臣に責任を押し付けようとする詭弁が際立つだけである
家臣のせいだと言い訳できる敗将は存在するのか? 馬場は信長公記で賞賛されている
馬場は甲陽軍鑑で殿として奮戦し、橋のあたりで討死した
馬場の石碑はその橋の辺りにある
これら合わせ技で追撃戦否定するのは困難だよ
逆に全部否定して何がしたいのか?
三文小説上の馬場はどうなってるの? 根拠に基づかない妄想を否定するのは実は難しい
悪魔の証明だからだ
史料を否定し、史料に書いてないことを妄想するのは自由だが、それは結局のところ個人的な妄想止まりであり歴史の話にはなりようがないと思う 無根拠の妄想を垂れ流す奴はもとより論外。
他方、二言目には史料云々と宣う各位も、自身の拠る「根拠」、即ち後生大事に崇め奉る「文献」そのものが少なからず妄想の産物であることを忘れている。 >>80
文献はヒトの恣意的な製作物だ。
主観、宣伝、誤謬、誤記、虚偽、歪曲、偏向、粉飾、捏造のいずれかを確率100%で含んでいる。
それは既に物理事実から乖離した創作物、即ち妄想に他ならない。
「だからこそ史料批判が大事」と云うかもしれないが、いくら妄想で妄想をクロスチェックしたところで事実に近付くわけも無い。
信頼できるのは物証と数値データ、それだけだ。 >>80
こいつ勝頼スレにもいる面倒臭い奴だからスルーでいいよ
史料は意味がない、ここのスレ民は普遍的な原理原則も知らないアホだと上から目線で主張し続けてるけど誰からも相手にされてない時点でお察し ちなみに甘利信康は長篠方面での宣伝部長もやっていた。武田は「信玄眼薬」なる眼病の薬を売っていたんだがこの製作法を長篠住民に教えていたらしい。長篠の住民は元々武田領からの移民が多いということで武田としては長篠の民は味方という自信があった。ところが、裏切られた。 何しろ強固な陣地は敵だけで無く味方の進軍をも阻むからね
信長はそこまで追撃戦をしなかった、というか最初から追撃戦は構想してなかったんだろう 追撃戦で武田軍が負けたって言う説は幾つかの問題を抱えてる。一つ目はそれは織田・徳川・武田の史料で「武田軍は鉄砲に倒れた」という記述で一致してる事実を無視してる。
二つ目に武田軍は約三時もの間戦いながら結局陣地を破れず撤退した。織田・徳川軍が自在に出入り出来る陣地だったならこれほどの苦戦が起こるとは考えられない。つまり追撃戦によって負けたのではなく設楽原陣地で大出血してしまい退却する時に消極的な追撃部隊に残党処理されてしまった。 追撃戦で負けたなんて誰も言ってない
追撃戦があったかどうかだろ
絶望的に頭が悪いのか? 追撃戦の有無がどうであれ、勝頼の名誉回復は無理
追撃戦の有無に関わらず、戦う前に勝敗は決まってるからな 追撃戦の影響は「無かった」と言えるほど小さいだろうね
武田軍の主力は設楽原陣地で壊滅してるから。 ただ一つ追撃が可能だった部隊がいる。それが徳川軍。徳川の居るところには柵の無いエリアがある。だから徳川軍はそれなりに簡単に追撃できたろう。とは言えその軍勢は三千も居なかったろうけど。 柵の有無は追撃には何の関係もない。
信長公記に織田軍も足軽であしらいつつ戦ったと書いてあるから。
即ち、敵が退いたり怯んだりしたら足軽を出して攻撃し、敵が突撃してきたら柵の中に足軽を戻す。
柵は当然足軽の進退が容易なスペースくらいはある。 >>57
別にそんな事ないでしょ。城だって堀とか空堀とか土塁とか、色々用意してるんだから、
君の>>29 >>32にあるような理屈だと、
野戦陣地以上に移動が厳しくないと不可解になると思う。
まして、伊勢長島は、織田主力軍の攻撃を第一次伊勢長島で普通に撃退してるくらいには強固な守りのように思えるし、
信長公記を読むと、相当な水量の川で囲まれてるように思われるので、
>>55にも似た事書いたように、信長は武田との戦いで設楽で野戦陣地から出撃して、ついさっきまで戦っていた相手を追撃してるように思われるけど、
それは君の言うような理屈でいうと、伊勢長島がやった事の方がよっぽど追撃するのが厳しい、という話になると思う。
加えて、伊勢長島第二次に至っては、そもそも織田勢が長島近辺まで来てない状況で撤退してるように思われるのを、
長島勢が追撃してるように思われるので、上記にあるように、織田勢が設楽で野戦陣地から出撃して、
ついさっきまで戦っていた武田勢を追撃するよりも、よっぽど距離的にも難易度が上な事をやってるように思うんだけど、どうなの。
そもそもの話として、君のその理屈で言うと、設楽の織田徳川勢は野戦陣地を作った時点で追撃が不可能、っていう事になると思うので、
それこそ武田勢は設楽に行かないで、>>50にも似た事書いたように、長篠城周辺で地形を利用して守って持久戦に持ち込んで、
長篠城を降伏させるなり、そもそも織田徳川勢と戦わないで撤退してればよかった、っていうだけの話になると思うけど、どうなの。
それって結局、軍鑑にあるように、上記50にも似た事書いたように、重臣達の反対意見を拒否して、
設楽に移動して決戦する事を決めた、勝頼のした事っていう話になると思うけど、どうなの。 >>56 >>59
長篠住民の動向に至っては、信長公記にも、軍鑑にも、そんな話は書いてないように思われるのに、
そんな事を書くのはどうかと思う。
設楽の陣地構築については、織田側の信長公記を読んでも、長篠近隣住民が協力したとは書いてないように思うんだけど、どうなの。
>>63
碑が存在する事と、君が上記56や上記59で書いているように思われる事を、
直接的に結びつける事が可能なように思われる話や論拠はないように思うんだけど、どうなの。
それこそ、何かあったなら、まとめて改めて供養すればいいだけに思うし、君が上記56に書いていると思われる様子だと、
まとめて処理されてると思われる武田勢の中から、武将達を遺体を改めて探して、
他の場所に埋葬するのは、まず厳しい様に思うけど、どうなの。
(しかも、君が上記56に書いていると思しき様子だと、
時間が結構経っているように思われるから、なおさら厳しいと思われる)
>>64
その理屈なら、上記に書いたように武将一人一人の遺体をその当人の者だと確定する事さえ困難に思える状況で、
そんな事をしたって、間違った場所に、間違った武将の碑として、関係ない武将や兵士の遺体が埋められるだけに思うから、
それこそ鎮魂の意味なんかないように思うけど、どうなの。 NG推奨ID:gTySp7Of
連鎖あぼーん設定も推奨。 >>66 >>71
>>93にあるような感じで、それだと鎮魂にならないと思うので、意味がないと思う。
>>74
横からだけど、馬場のははっきりそうだとわかっている事例なら、
そう確定されてない他の武将の碑は、そうでない可能性がそれなりにあるように思うけど、どうなの。
本能寺で信長と信忠が家臣に倒されて、そのまま家臣達の争いで政権が崩壊したように思われる、
織田の方がそう呼ばれるに相応しいように思うけど、どうなの。 >>68
あれ?君って>>29 >>32の人だと思うけど、
君の上記29、上記32の理屈で言うなら、追撃戦での戦いがほとんど行われてないように思われるけど、
君の今のその書き方だと、普通に馬場が殿戦を戦ってるように思うけど、
君の言ってると思しき情景が矛盾してるように思うんだけど、どうなの。
>>94
そうやって、君にとって議論的に都合のよくないと思しき書き込みを、
そのように書くのはどうかと思う。 >>84
長篠住民の動向については、>>93にも似た事書いたように、
信長公記を読んでも、別に織田の陣地構築に長篠住民が協力した形跡がないように思う。
>>85
>>40にも似た事書いたように、
軍鑑だと馬場が殿をしてるように思うし、信長公記でも馬場の事を褒めてるように思うし、
さらに信長公記では、織田徳川勢の追撃を受けて、結構な数の武田勢が飢えで死亡したり、
水でやられてるように思うけど、どうなの。 >>86 >>89 >>90
実際には、>>40や>>46にあるような感じで、
武田の甲陽軍鑑、徳川の三河物語、で
徳川勢が陣地出て武田勢と戦ってるように思われる事、
織田側の信長公記でも、追撃をして、武田勢がそれでかなりやられているように思われる事、
武田側の甲陽軍鑑でも、馬場が殿をしているように思われる事、
などを考慮すれば、徳川勢は陣地出て戦っていて、
織田徳川勢は追撃戦をしていて、それで武田勢はかなりやられてるように思うけど、どうなの。 >>91
残念ながらそれは馬防柵を見た事がないから言えること。
考えて欲しい。馬防柵は土に丸太を差し込んで作るもので機械的な防御は何一つ無い。確かに柵には出入り口を作るんだがその出入り口が何十人と出入り出来るものだったらどうなる?そこは当然武田軍に狙われる。理由は出入り口ってのは稼働する以上造りも弱い。そこが破壊されたらとても守りきれない。だから柵は頑強でしかも出入り口は数人しか出入り出来ないよう狭く作らねばならない。ところがそうすると「歩兵が出入り」する事は殆ど不可能になる。 ちなみに長篠住民の動向については設楽原保存会がまとめてるが長篠住民は全員織田・徳川サイドについてる。織田・徳川陣は柵に空堀、銃眼といった防御設備を幅約3キロ、それを三重にしてる。織田・徳川の工兵隊だけでやる筈もなく長篠住民が駆り出された事はまず間違いない。 >>99
>>99
また史料否定?
君の妄想より信長公記の方が100倍信用できるからなあ 徳川軍だけ柵の前に出た、というのは幾つかの点から疑問が呈されている。まず史料に反してる。信長公記によると信長は「御味方一兵も失わない」為に柵から出るなと厳命してる。その信長は21日に家康のところにきて観戦してる。そうなると徳川は信長のど真前で軍令違反をやった訳でそれは家康の信長批判となる。そんな事をする理由は無い。
二つ目には織田・徳川軍が鉄砲で武田軍を倒した事実に反する。火縄銃はライフル銃と違って射程・命中精度が悪い。その為前面に味方が居ると射撃出来ないという弱点を持っている。柵の前に歩兵が出てしまうと鉄砲隊は射撃を封じられてしまう。これが何を意味するかというと徳川軍が柵の前に出て戦ったならそれは徳川陣は野戦能力で武田軍を凌駕した事を意味する。まぁだから三河物語なんかにはそう書いてあるんだけどね。勝者である徳川軍が武田軍より優っていた事は間違いないとは言えるが…
つまり徳川軍が柵の前に云々はある事実を曲解して書いたもので事実では無い。 >>101
信長公記にはこうある。
「かくの如く、御敵入れ替え候へども、御人数一首も御出でなく、鉄砲ばかり相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るるなり」
これで「織田・徳川軍が白兵戦をしてない」事がわかると思う。
「足軽にて会釈」とあるがこれは「鉄砲ばかり」使ってるので鉄砲足軽の事。槍や刀を使う者たちでは無い。また「御人数一首も」出ていない。つまり織田・徳川軍は兵を前進させなかった。むしろ陣地内に引き込んでいた。 何故「人数をうたせ」たか。これは織田・徳川軍が鉄砲射撃のみで敵を粉砕した事を考えれば氷解しよう。織田・徳川陣は三段以上の陣地構築がされてた。そしてそこに射撃点つまりキルゾーンを設置して武田軍を射撃し続けた。そうなれば自然、第一陣より第二陣が、第二陣より第三陣に鉄砲足軽が多数いる事になる。つまり信長は敵が強く突撃した…それだけ退却が出来ない…ところに援護の鉄砲足軽を送って弾幕を厚くしたのである。武田軍は後一押しと死地に飛び込み虐殺されてしまった。しかもそこが奥であればあるほど武田軍陣地からは観測が困難になり味方を助けるべく次々と兵を送っては死体の山を築いてしまったのだろう。 >>103
足軽で会釈とは
2番隊逍遥軒隊のところ
「懸かれば退き、退けば引き付け、御下知の如く」とリンクし、
敵が攻めてきたら退いて、敵が引いたら追いかける
軽くいなすという意味
普通の野戦とは違い攻めてきたら退くから「御人数一首も出さず」と表現しているけど、足軽が出られないほど柵が密集していたわけではない
それは「前後の勢衆を乱し追わせられ」「あるいは山へ逃げ上り飢死、あるいは橋より落され川へ入り水に溺れ、際限なく侯。」と追撃していることから明らか >>105
それら全て含めて「鉄砲ばかり相加」えてるので歩兵による白兵戦ではなく鉄砲足軽隊が陣地を移動してるというだけ。というかそうでないと信長公記がしつこいほど鉄砲射撃のみで敵を倒した事を誇示してる事に矛盾してしまう。また野戦において臨機応変に前進後進するのは特殊でもなんでも無く普通の兵法として有名(史料に曰く「隠遊」)なので「御人数一首も」出てないというのは文字通りに解するべきだろう。 そして追撃戦については信長は熱心では無かったと史料から窺える。それは二十六日黒印状にて「勝頼も川に浮かんでいるのかも」程度に書いてるからね。
実際問題、武田軍が通れない道は織田徳川軍にも通れない。
織田軍が追撃する為にはまず鉄砲隊に射撃中止の令を出して後に工兵隊が空堀の上に渡し板を設置、そこを通って攻撃隊がこれまた泥濘の上を川越えして行った。大人数が動ける状況じゃない。
では「山に逃げ」云々は何か?これは非常に簡単。武田兵は「織田徳川軍が追ってこない」とは思わない。恐怖に駆られ逃走した挙句山に迷いまた川に溺れた。これらは追撃戦が無くても発生するのである。 >>106
>というかそうでないと信長公記がしつこいほど鉄砲射撃のみで敵を倒した事を誇示してる事に矛盾してしまう。
全然矛盾してない
何で足軽が「会釈」するかというと鉄砲をうまく活用するため
柵に誘き寄せ、また逃げる敵を討ち取る役割がある >>107
>そして追撃戦については信長は熱心では無かったと史料から窺える。それは二十六日黒印状にて「勝頼も川に浮かんでいるのかも」程度に書いてるからね。
その書状では川に溺死者が多いことしか窺えない
君だけだよこんな訳のわからない解釈してるのは
信長公記も追撃したと書いてある
当代記も追撃したと書いてある
甲陽軍鑑も追撃されて馬場が活躍したと書いてある
馬場は信長公記も働き類なしと書いてある
追撃してないという史料もない
つまり君の妄想だけ >>108
火縄銃は命中精度が劣悪で何処に弾が飛んでいくかも分からない。しかも有効射程は50メートル(30メートルという話もある)。威力絶大だが貫通性能が無いので味方を貫通して敵を攻撃という事も期待出来ない。つまり前に友軍が居ると発射出来ない。味方が文字通りの肉壁になって敵が無傷という悲惨な話になるから。だから「敵を惹きつける」事は不可能。
何故なら敵に友軍歩兵が突撃する→敵が反撃を開始→敵が来るまでに友軍歩兵が鉄砲隊の背後に退却する、という動きが柵に妨害されて出来ないから。 実は信長公記には信長が追撃を熱心にしなかった事が記されている。そしてそれは武田勝頼が逃げ果せたことからもわかる。一度設楽原と長篠城までの地図を見て欲しい。勝頼含めた武田軍は長篠橋近くから北上する鳳来寺街道を通って逃げた。何故逃げられたのだろうか?長篠城には徳川・織田軍4500人が居たのに?信長が本気で追撃戦を考えていてそれが実行可能だったとしよう。すると信長は即座に長篠城に命令を出す。伝令は間に合わないが狼煙がある。事前に伝えた内容しか送れないがこの場合
「敵逃走中有海原にて迎撃せよ」
「我苦戦中ただちに設楽原へ向かえ」
等五指で間に合うだろう。それを見たら(当日は晴れていた)長篠城兵はただちに逃げてくる武田軍を攻撃してそこで武田は詰んでいただろう。ここら辺は一騎討ちの場所で迎撃に向かない、という反論はある。だから武田は前進したのだ、長篠城兵だってというかもしれないがこの時設楽原の織田徳川本隊もやってくる。絶対に逃げられなかったはずだ。 >>111
>実は信長公記には信長が追撃を熱心にしなかった事が記されている。そしてそれは武田勝頼が逃げ果せたことからもわかる。
記されてない
勝頼が逃げられたから追撃熱心ではないとか論理がおかしい
あとは妄想か創作の類なので読む価値なし >>110
あんたがどう妄想しようと信長公記に書いてあることだから覆すのは無理 21日払暁に始まった長篠城救援作戦は早ければ朝8時、遅くても12時までには終了してる(武田軍長篠包囲隊は壊滅して鳳来寺街道から逃走)
勝頼退却決定は14時過ぎなのでそれまで酒井らの攻撃隊は長篠城で補給をしていた。ということは信長にその気があれば必死に逃げる先触れ・穴山信君と大将・武田勝頼の真前に鉄砲千梃で武装した徳川・織田軍が待っていただろう。そうすればここで勝頼は死に武田は滅んでいた。
そうならなかったということは信長は攻撃命令を控えたという事になる。信長が攻撃隊を出したのは(つまり前後を崩したのは)勝頼本隊が消え失せた遥か後だったことになる。 何故そんな史料にも書いてないことを意固地になって妄想し続ける?
その妄想をして何を得られる?
頭おかしいのか? 「勝頼は逃げることできたんだから追撃されてない」
妄想は何とでも妄想できるとはまさにこのことw 何故信長が即座に追撃しなかったのか?というとまず考えられるのは「不可能だから」織田軍は強固な防御陣を組んだ、が故に友軍も前に出れなかった。空堀(底には斜めに切った竹だのなんだのが刺してある)や馬防柵がそのまま織田軍の進軍を阻むから。まずは堀の上に板を渡し、柵の出入り口を開放して少しずつ前進する。しかもそこは泥濘と川まである。
どう急いでも30分は掛かったろう。その頃には勝頼は遥か遠くに逃げている。信長が長篠城に合図を送らないのも当たり前である。「長篠日記」には「信長公は追撃隊は送らなかった」と明記されてるのは至って自然な話。
…そう、信長は追撃戦をするつもりは無かった。信長は。 史料はことごとく無視して気持ち悪いお粗末な妄想繰り返す
史料は出てくると思ったらなんと長篠日記
史料使うときはいつも自分の妄想に都合の良いところだけ摘み食い じゃあ誰が追撃戦を望んだかというと、それは徳川家康しか居ない。何故なら徳川軍拠点の南、乗本川沿いには柵が無いから(これは複数の史料にあるので間違いない)故に激戦区となった訳だが柵が無いという事はここからなら歩兵隊はそれなりに容易に出る事ができるのだ。家康がどれほど作戦を考えてきたかは不明だが眼前で山縣・原の両将討死の瞬間を見れば今が好機と見るのは当たり前。こうして徳川軍が攻撃を仕掛ける。信長も流石に兵を出したいが織田軍はまず陣地を移動するのが大変なのだから「信長は追撃隊を出してない」と見る奴が居てもおかしくない。とはいえど武田軍が一矢報いてやろうとしてる可能性(「隠れ遊び」される危険性)もあるので全力で攻撃はしない。当然長篠城に「退路を断て」とも言わない。追撃隊が不覚を取った場合長篠城が危険になるから当然である。 よくこれだけ連日のように意味のない妄想を垂れ流せるな
皆に呆れられてるのが分かっててやってるなら荒らしと変わらんね 信長が追撃戦を構想していたなら勝頼が逃げ切れた筈がないからね。鳶ヶ巣山を奇襲して長篠城を取って武田軍の退路を絶ったと言われているが現実は絶てていない。勝頼らに逃げられてしまっている。狼煙を上げて合図すれば酒井ら4500の兵に鉄砲1000挺が有海原から逃走する武田軍を強撃出来たのに。そうすれば残存武田軍約6000、勝頼本隊なら2000も居ない事を考えれば武田家が滅んでいた。信長が勝頼を生かしてやる理由は無いからつまり信長は追撃戦をするつもりが無かったか出来なかったとしか考えられない。少なくとも迅速に追撃戦という訳にはいかなかった。 なお墓の位置が必ずしも戦死の場所を意味しない証拠としては馬場信房が挙げられるがその他土屋昌次も挙げられる。
土屋昌次は武田軍右翼の三番隊だった。昌次は設楽原陣地に突撃、柵を破壊しようと取り付き叫んだところを射殺された(家忠日記)ところがそんな昌次の墓は何故か勝頼本陣よりも後ろにある。昌次の墓を建てた者は戦死の地では無いところを選んだ。理由は不明である。 >>122
不明ではない。
土屋の首を落とした家臣の温井左近が首を持って逃げようとしたところ逃げ切れずに切腹した所に今の墓があるとされている。
ちなみにこの2人の墓は戦場考に記されている。 馬場信春については
1.甲陽軍鑑、長篠日記で殿で討死、討死した場所は撤退中の橋付近の出沢字前畑
2.信長公記に働き類なしと記述
3.屏風絵で甲陽軍鑑同様に撤退路の最後に討ち取られる様が描かれている
4.地元の伝承(橋詰合戦)、出沢村で馬場を讃えてお祭りが行われている。
5.原田直政の家臣に討ち取られた(松平記)
6.墓は出沢字前畑と戦場考に記されている。明治に今の所に墓を移した(場所は変わったが、出沢字前畑の住所は変わらない)
7.墓が馬場父子となっているのは甲陽軍鑑等には見られないが、供養帳で息子も戦死したことが明らかになっている。
これだけ状況証拠も残っています。 追撃できないほど柵から出入りができなかったか?これは明らかに否である。
信長公記だけでなく、三河物語、松平記、大須賀記に足軽であしらいながら鉄砲を活かしたことが書いてある。
柵からは足軽のみを出し、敵が来たら足軽は柵に引き、敵が逃げたら足軽は追いかける。大久保兄弟だけ例外的に足軽でもないのに柵から出たと描写されている。
足軽が柵を出入りすることを誇張や脚色する必要もないのだからまずこれは否定できない。 仮に追撃されていないとしたら
勝頼は追撃されてもいないのに自分の秘蔵の馬を置いて退却するのか 信長公記の記述を見ればこの「足軽」とは鉄砲足軽の事なのは明らかである。というのも彼等は「鉄砲のみで」戦ったと明言されているから。更に柵から自由に出入りする事は不可能。何故ならば織田徳川兵が軽快に陣地移動出来るなら武田兵も容易に侵入出来てしまうから。武田兵が突入出来ないように作られた陣地は織田徳川兵も移動が困難である。
また設楽原陣地は泥でぬかるんでいたという話がある。おそらくこれは正しい(19日までは雨が降っていたらしい)武田兵を苦しめた要因だが故に織田徳川兵も苦しんだのだ。 >>126
要因は幾つかある。まず武田軍拠点からは織田徳川軍拠点がよく視えない。だから「織田徳川軍は徹底した野戦築城で武田軍を粉砕した」という事実がわからない。「なんでか知らないが俺たちは負けた」事のみ伝わった。だから「織田徳川軍は身動きが取れないから追撃戦はしてこない」とは思えなかったろう。誰だって「信長・家康が襲ってくる」と思う。
逃げるにしても長篠城兵が待ち構えている事も明らかでパニックになる。それで武田軍は何一つ有効な反撃が出来ず潰走した。 武田軍には隠遊の戦術、つまり敵が攻めくれば退き敵が退けば押すという戦術がある。武田重臣衆は19日の会議でこれを提案したようだが設楽原からの退却時にこれらの戦術は使われなかった。追撃戦でも織田徳川軍に被害が出てない事からわかる。何故なのか。戦術を取れる指揮官が軒並み設楽原陣地で銃殺されたというのもあるのだろう。
だがそれよりも兵がパニックに陥った事が大きい。左翼の山縣・原の両将が徳川陣で射殺されしかもそれが周知された事で武田軍左翼は総崩れになった。勝頼の本隊が下がるのを見て我も我もと逃げ出してしまった。結果指揮官(例えば内藤)は撤退を封じられた。 ここで指揮官が退がれば雑兵は更に浮き足立ってしまう。撤退出来なければ隠れ遊びもクソも無い。その結果武田軍指揮官は追撃戦をする気がない織田・徳川軍の追撃隊がやってくるのをぼんやり待つしかなくなってしまった。 >>123
要は「墓の位置は戦死したところを意味しない」という事ね。下手すると死体を埋めた場所ですら無い可能性まであると。 >>132
土屋と山縣は遺体を運んで埋めた場所という伝承はあるね。
馬場信春や勝頼本陣付近の墓(望月とか)、真田一党は明らかに連吾川から離れてる。
馬場信春に至っては撤退途中で戦死したのは否定できないし。 >>127、128、130、131
貴方の妄想を否定するのは悪魔の証明だから難しい。
貴方がそう信じたいのならそう信じていればよい。
しかし史料の根拠もないことを書いたところで他人の同意は得られないし、通説にはならない。
それが分かってればここに妄想垂れ流すのは荒らし行為でしかないと悟るはず。 >>127
>信長公記の記述を見ればこの「足軽」とは鉄砲足軽の事なのは明らかである。
ちなみにここは絶対間違いだから。
触れられないんだろうけど三河物語、松平記、大須賀記は明らかに普通の足軽を指している。
信長公記も同様です。 信長公記には「鉄砲のみで」倒しまた「御人数一首も」前に出てないとはっきり記載されてるので間違いなく鉄砲足軽の事です。槍にしろ刀にしろ前に出ないで戦闘するのは難しいしそもそも鉄砲隊の邪魔。つまり史料を厳格にとるなら信長は鉄砲足軽のみで戦ったことになる。否定するとなるとかなり想像を働かせないとならないが… >>133
墓の位置が戦死した位置では無いと言う事が証明された以上織田・徳川陣で死んだ可能性が高いんだよなぁ。多分追撃戦で死んだのは内藤や馬場、その他生き残って彼等に従ってしまった侍大将とかだろう。 >>137
>多分追撃戦で死んだのは内藤や馬場、その他生き残って彼等に従ってしまった侍大将とかだろう。
ようやく認めたのか
良いことだ
追撃戦があったかどうかなんて実際のところどうでもいい話 まず三河物語とかいうホラしか吹いてないものを挙げるのを止めろw 設楽原陣地で戦死したのは
左翼は山県昌景・原、右翼は真田兄弟・土屋昌次。これほど大将格が殺されるのは異常事態だが設楽原陣地の事を考えれば当然か。 >>136
>>40にも似た事書いてあるように、三河物語も、軍鑑も、普通に徳川勢が陣地から出て戦ってるように思うから、君がそんな事を書いても、と思う。
そもそも、信長公記を読めば、この設楽においての戦いは、
織田徳川勢が足軽を武田勢に仕掛けて、それに触発されて武田勢が出撃して始まったように思われるんだけど、どうなの。
この時点で、普通に織田徳川の陣地は進退が可能なように思えるから、
君の>>29や>>32で書いていると思しき論旨は否定されるように思うんだけど、どうなの。
>>139
さすがに、論拠もなしに、三河物語の長篠の戦いにおいての記録を否定するのはどうかと思う。
三河物語は長篠において、長篠周辺から設楽に至るまでの道のりや地形について
書いているように思うし、その戦闘描写もそこまで不可解ではないように思うけど。 三河物語の記述は完全に否定される。それは信長公記の記述つまり「信長は柵の外に出るなと厳命した」事との致命的矛盾とそもそも柵を自由に出入り出来ないという現実的な証明による。火縄銃は前方に味方が居ると射撃が出来ない。だからもし徳川軍が柵の外に出て戦ったならそれは徳川兵が白兵戦能力で武田兵を上回った事を意味し故に三河物語は記述するのであるが。だがこれは事実を曲解して書いたものなのは明らかだ。
真実は武田軍が柵の無いところを迂回攻撃しようとしてそれを徳川軍が妨害しようとした結果、偶然そこが柵よりも前だった(単純な地図上の話)だけに過ぎないのだ。 >>140
ただ単に、織田側の信長公記を読んでも、軍勢数が織田徳川勢は武田の倍はあるように思われるから、
それが陣地作って守ってれば、寡兵の武田側が敗北して被害が多くなるのは普通に思う。
>>130 >>131
普通は追撃戦において、追撃してる側がそこまでの損害を出すのは多くないと思う。
そもそも、長篠の場合は、ただでさえ、信長公記を読むと、上記にも書いたように、
織田徳川勢は武田勢の倍はいそうな状況で、それが陣地を作って守っていて、
それに寡兵の武田勢が攻撃を仕掛けて、消耗した挙句に逃げてる状況に思うから、
なおさら武田勢は組織的な反撃どころじゃないと思う。
そもそも、君が書いていると思しき情景なら、
武田勢は指揮も統制もなく逃げるはずじゃ。そんな状況なんだったら、
それこそ武将達もさっさと帰ると思う。
実際には、武田側の軍鑑を読むと、馬場勢、一条勢、が連携して
勝頼とその旗本を逃がす為に戦ってるように思うけど。
>>128
さすがに、信長公記読んでも、武田勢が何度も撃退されて、また攻撃して、
というのを繰り返しているように思うし、
武田側の軍鑑でも、多くの武田の部隊が織田徳川勢と戦っている事が書かれているように思うので、
この状況で、武田勢が織田徳川側の陣地の様子を把握してないなんて事はないと思う。
そもそも、>>141にも似た事書いたように、織田徳川勢は信長公記を読んでも、
足軽が陣地から出て武田勢に挑み、それがきっかけとなって武田勢の攻勢が始まってるように思うのに、
君がそんな事を書いても、と思う。 >>142
だからさあ、>>141に似た事書いてあるように、
織田側の信長公記を読んでさえ、この設楽においての決戦は、織田徳川勢が
足軽を武田勢に向かわせ、それを受けて武田勢が出撃した事で開始されたように思うのに、
君がそんな事を書いてもしょうがないと思う。
これを考慮するに、織田徳川の陣地は普通に進退が可能なように思うけど、どうなの。
徳川勢が出撃をしたのは、武田側の軍鑑でも書いているように思うので、敵と味方で共通してるなら、
事実として認識していいと思うけど。
徳川勢は軍鑑を読む限り、柵から出たり入ったりしてるように思うし、
進退してると思うんだけど。
徳川勢は単に織田勢の鉄砲衆の援護射撃を受けつつ、戦ってるように思うけど。 >>127
くどいようだけど、>>141や>>143にも似た事書いたように、
信長公記を読むと、設楽において、まず織田徳川勢は武田勢に足軽を挑ませ、
それに対して武田勢も攻撃を始動してるように思うのに、君がそう書いても、と思ってしまう。
他にも、>>40や>>46にも似た事書いたように、
武田側の軍鑑や徳川側の三河物語で徳川勢は陣地から出撃して武田勢と戦ってるように思われるし、
信長公記でも、織田徳川勢は出撃して武田勢を追撃してるように思うんだけど。 長篠の戦いは兵力に勝る織田・徳川軍が寡兵の武田軍を破った戦じゃないよ。僅か4500人の鉄砲隊が12000の武田軍を粉砕したというのが正しい。信長は最後まで白兵戦を使わずに勝利した、というのが信長公記・三河物語・甲陽軍鑑の記述である。 >>146
甲陽軍鑑も三河物語も「織田は弱い」と主張したい、という思想的共通点があるからね。現実には柵から自由自在に出入りなんか出来ない。何故なら武田兵が入れないように作ってあるから。武田兵が入れないなら徳川兵も出られない。
ただ徳川軍の陣地には柵を置けなかったところがあった。山県昌景はそこを攻撃して大激戦になった。その結果山県隊が敗走しそれを軽く追撃した結果徳川兵が柵より前に出た、ように見えただけ。 >144
鉄砲の援護射撃なんてのは火縄銃を知らないから言えること。当時の火縄銃は有効射程50メートル(名和弓雄は8寸の的に当てるには30メートルが最適とする)しかない。しかも命中精度は劣悪で余程鍛えた精鋭で無いと狙ったところに当てられない。
そんな火器で「援護」なんか出来ない。確率的には味方を殺す確率の方が大きいんだから。有りえるとした十字砲火を浴びせた、とかだがそれなら歩兵の存在は邪魔なだけなのでそもそも歩兵は使わなかったことになる。どのみち、「歩兵で白兵戦をした」というのは我々の想像の中にしかない。現実には歩兵が白兵戦をする道理は無いのだ。その為に設楽原を要塞化したのだから。 信長公記にも三河物語にも甲陽軍鑑にも「鉄砲で武田軍は撃滅された」とあるから歩兵戦ではなく銃撃戦だった事が明らか。 武田軍は約6時間撃たれっぱなしだからなぁ。信長からすると最高のショーだったろうけど。 >>150
モノの寸法を目盛の怪しい物差しで測っても測定値が真値であるとは云えない。
素性定かならぬ物差しを何本持って来ても測定値の信頼性が上がることは無い。
幾つもの文献群を突き合わせて「ちゃんと史料批判をしている」などと云ったところで、要するにそういうことでしかない。
信頼性の高い測定値を得るには原器からのトレーサビリティを確保した較正済の物差しが必要だ。
然して「文献」なるモノは本質的にそれが不可能であることを知った方が良い。 設楽原からは多数の鉛玉が発見されてる。その事からも武田軍が銃撃に斃れた事が窺えよう。その中には睦平鉛鉱山のものもある。 多数?
発見した人の名前が冠されるくらい希少なのに? 足軽であしらうという史料も実際に読んでないようだし、長篠で玉が見つかりにくいことも知らんようで
小学生が興味本位で見つけたりがわりとあるけど >>153
「多数の銃弾が放たれたこと」と「それによって斃れた者が多いこと」は等価ではない。
現地を発掘調査して銃創(と覚しき損傷)のある人骨が時間方向/空間方向ともに有意の集中を示して出土した
--といった類のデータでも無い限りは両者を関連付けることは困難だろう。
仮にそれがあったとしても人骨の由来を特定しなければ何事も断定的には語り得ないが、
当該記述の蓋然性を少しは高めることになるだろう。 >>155
信長公記には「味方御一首も前に出ず」「鉄砲のみを相加え」たとある。つまり織田軍は前進せずに敵と戦ったとあるのでまず白兵戦は一切やってない事がわかる。つまり出てくる「足軽」とは鉄砲足軽ということにしかならない。それは織田・徳川軍の死者が異常に少ない事からもわかる。 >>154
設楽原の事を考えたら多過ぎる。設楽原は単なる原っぱでは無くここは田園地帯。だからここは戦後土ごと変えられたと考えられてる。お前さんが農民だとして人の血が染み込んだ土で作物育てたいか?ってこと。
にも関わらず設楽原からは大量の鉛玉が見つかる。鉛は腐食しやすいけどなんなら小学生すら見つけられる。鉄砲玉が大量に使われたことは証明されてる。 >>157
そんな解釈聞いたことない
足軽は足軽だよ 武田軍は名だたる武将が順番に襲いかかってきたが織田軍は足軽だけで対応して武将は出さなかった
みたいな描写じゃなかったっけ?なんでそうなったかで柵で完全に固めてたからだと思うけど 信長公記にははっきりと「鉄砲のみで」戦ったとありまた武田軍の被害が鉄砲によるものだという見解で織田徳川武田は一致してる。またもし白兵戦を展開したら「味方御一首も前に出ず」なんて戦局にはならない。それに織田徳川軍の被害は一万人死んだという武田軍に比べて遥かに軽い。白兵戦になったとするなら織田徳川兵が武田兵より遥かに強靭だったという結論になるがこれは適切とは言えない。
よって織田・徳川軍は鉄砲足軽のみで戦い勝利したというのが正しい。少なくとも史料に矛盾せずに済む。 >>161
そんな解釈は聞いたことない
同意は得られないよ >>160
だとすると幾つか問題がある。まず織田徳川軍陣地は三段以上の柵が取り付けられたとある。これは複数の史料から確認されてる。と、いうことは問題は陣地内の兵士は自由に移動出来ない。仮に後方に下がろうとしても土塁や空堀を避けて虎口まで行かないといけないしまた虎口も狭い。出入り口で渋滞しているところに武田兵が追いついてきたらパニックが起こる。だから陣地内の兵士は少数で無ければならない。
ところがその少数の兵士が武田軍を「無人の如く」(信長公記)にしたとするならそれは織田兵が尋常じゃなく強いか、
若しくは白兵戦を全くしなかったかの何方かになる。 「御人数 1首も御出で無し。鉄砲ばかりを相加え、足軽にて会釈。ねり倒され、人数を討たせ、引き入るなり。」
御人数1首とは甲持ちの武者のことで足軽は含まれてない
鉄砲隊がねり倒すわけもない
足軽とは文字通り足軽
徳川側の記録にも足軽を使ったことがより詳細に記されている
複数の記録に残ってるものをわざわざ否定する必要もない >>162
それはお前さんが知らないだけで名和弓雄や設楽原保存会はこの見解で一致してる。
信長公記には「鉄砲のみ相加え」とあり全体として鉄砲射撃のみで武田軍を粉砕したと誇示してる。これは徳川・武田史料とも一致するので真実と思われる。設楽原という狭い土地は大軍を展開できないので「少数で大多数を倒す」戦術は必要不可欠。
また織田徳川軍の陣地、連吾川西は本来田園だった。二日で整備したとは言え泥濘の部分が広いのは避けられない。その泥濘が武田軍を苦しめたがそれは織田・徳川軍も同じこと。
泥に滑るところで白兵戦なんかやる必要は全く無い。つまりそもそも歩兵の存在が不用なんだな。だから「味方御一首も前に出ず」は当たり前。 >>163
屏風絵でもみてきな
柵と柵の間に出入りするスペースあるから
そこ狙われる?
そのスペースには長槍が密集してるからそこで攻め手が詰まったら鉄砲隊の餌食だよ
城の虎口と同じ >>165
>それはお前さんが知らないだけで名和弓雄や設楽原保存会はこの見解で一致してる。
名和弓雄?だれ?時代劇の方?w
設楽が原保存会なら追撃戦激しかったというスタンスですが?君の捏造? >>164
前提として織田徳川軍は鉄砲射撃「のみで」武田軍に相対したとある(信長公記)この時点で歩兵の存在はかなり疑問視される。何故なら火縄銃の射程は30メートルしかない。前方に味方が居ると味方に当たる危険性が高いので使えない。
次に「練り倒す」とは鉄砲足軽隊が一斉射撃で武田兵を銃殺したことを比喩してるだけで重要ではない。
最後に通常騎馬武者は一人じゃない。必ず歩兵が追従する。御人数一首も前に出てないのに歩兵のみが前に出てたとなるとかなり奇怪な配置になる。現実味は無い。
更にその場合、武田軍は織田・徳川の少数の兵隊に返り討ちにあったことになる。武田兵の技量はその程度だったのだろうか? >>166
オイオイオイ。長篠合戦絵図屏風をマジに信じてるの?
あれは長篠の合戦の遥か後に描かれたものでそもそも真実とは思われて無いぞ >>168
>前提として織田徳川軍は鉄砲射撃「のみで」武田軍に相対したとある(信長公記)この時点で歩兵の存在はかなり疑問視される。
されません
>何故なら火縄銃の射程は30メートルしかない。前方に味方が居ると味方に当たる危険性が高いので使えない。
足軽は敵が来たらすぐ退くと書いてあります
>次に「練り倒す」とは鉄砲足軽隊が一斉射撃で武田兵を銃殺したことを比喩してるだけで重要ではない。
そんな比喩はありません
鉄砲足軽隊なんて用例もありません
>最後に通常騎馬武者は一人じゃない。必ず歩兵が追従する。御人数一首も前に出てないのに歩兵のみが前に出てたとなるとかなり奇怪な配置になる。
各隊から足軽と鉄砲と馬武者を選抜してそれぞれで運用するのは普通
信長公記にも書いてあるじゃないか
>更にその場合、武田軍は織田・徳川の少数の兵隊に返り討ちにあったことになる。武田兵の技量はその程度だったのだろうか?
意味不明
敵が来たら足軽はすぐに柵に入って退き、鉄砲射撃を加えてできないが怯んだり退却したら追いかける
史料に書いてあるのはこれ >>169
参戦者生きてる時代だよ
それでも理解できないなら城の虎口なんて役に立たないね
君のアホ理論だと びょwwwうwwwwぶwww
え、ちょっと本気で仰ってるんですか屏風ってwww
あれは長篠合戦の遥か後に三河物語なんかを基にして描かれた創作っすよ。どんな研究家だって
「屏風をみろ!」
なんて言わないってwww菅沼くーん!もっと頑張ろうね! 長篠の戦いで織田が野戦築城したのは武田に負けさえしなければよかったから。
織田は同盟者である徳川への義理で出兵しただけなので長篠城を救援できれば
義理を果たしたことになる。この時点で武田に大きいダメージを与える必要はなかった。
攻城戦は通常敵の10倍以上の戦力が必要とされるのに敵の半分以下の戦力で攻城戦
をした勝頼がアホだっただけ。鉄砲3000丁とかまったく関係ない。 織田軍が鉄砲のみで戦った事と、追撃戦が激しかった事は、両立する。
本戦と追撃戦が同時に起きた前提の、こんな阿呆な言い争いが、
そもそもおかしい。 >>171
…生きてるか?長篠合戦図屏風は作者不詳ながら18世紀、1700年代の作品とされる。長篠の戦いは天正3年、1575年のこと。仮に10歳で参戦していたとして最年少で135歳ってことになるよな?割と伝説的じゃね? >>174
名和弓雄って設楽原保存会の一員じゃろ。設楽原には名和弓雄が考証した鉄砲構えが保存されとるし。少なくとも絵屏風をソースにする人に比べれば圧倒的に信頼度が高いわな。
あの絵屏風が使われる時って「一次史料だとこうなのに後世には全然伝わってないよね」って時だけだし。 >>171
名古屋市博物館のものと徳川美術館のものを混同してないか?
名古屋市博物館所蔵の長篠合戦図屏風は江戸初期の作だけど武田軍が描かれてない
徳川美術館所蔵のものは他の人も言ってる通り18世紀の作 >>177
へー信長公記も三河物語も大須賀記も松平記も屏風絵も現代の時代劇の考証家以下なんだ
その設楽が原保存会は追撃戦とか甲陽軍鑑そのまんまだろ >>175
そう阿呆な言い争い
足軽で引きつけて鉄砲隊で大打撃を与えて、その後攻撃に転じて追撃した戦いという通説にわざわざ脚色を加えようとする輩がいるからこうなる
史料に書いてあることを強引に否定して(足軽→鉄砲隊のことだ!とか)まで何がしたいのか意味不明だし 長篠合戦での通説は「日本人は鉄砲を知らない」無知からきてる。つまり我々は長篠の戦いと聞くと「マスケット・ライフルを構えた織田徳川軍に刀を振り上げて向かいかかる武田兵」といった光景を思い描いてしまう。しかし、火縄銃は性能に於いて遥かにライフルに劣る。つまり射程30メートル、装填時間60-180秒、連続射撃可能数30発というのが火縄銃。火縄銃の弱点は「有効射程に対して装填時間が長過ぎる」という点。余程のデブか虚弱体質でないと30メートルを走るのに60秒も掛けてくれない。仮に射撃しても当たるとは限らずそもそも弾が出ない(不発)という危険性もある。 だから信長は「味方に一人の犠牲も出さない」為に野戦築城をした。それは端的に言えば「武田兵を鉄砲の射程に長時間捕らえる」もの。空堀・土塁・柵で構成されている。これはヨーロッパで戦功華々しい戦術だったらしく(ヨーロッパでは「杭」を使ったらしい)信長好みの戦術だった。
そしてこれで信長が歩兵を使わなかった事も証明できる。武田兵が苦しむ陣地はまた織田兵も苦しむことになる。鉄砲足軽という絶対勝利の配置があるのだから白兵戦はしない、ということになる。 どうせ信長公記も軍鑑も通しで読んだことないんでしょ
信長本人の指示が公記に出てるんだけどな
凄まじい射撃と白兵戦も同時にあり、追撃戦もあった
ただ、朝倉討伐みたいに深く追撃しなかっただけ
当代記ではその判断に疑問を示していていろいろ面白い
信長は三河戦線というか、東の戦線に冷淡だよ
軍鑑も対峙していれば上方の用向きで信長は引き下がるってあるしね 信長公記には何度も「鉄砲射撃で」「鉄砲のみで」と武田軍に鉄砲のみで応じた事が明記されている。そしてこれは徳川武田史料とも一致するので事実だろう。実はこの時点で「織田軍は白兵戦をしてない」事が証明される。鉄砲は最前線でのみ使用されるので鉄砲射撃のみで敵を倒したなら他の歩兵はいなかったのだ。故に信長公記に出てくる「足軽」とは鉄砲足軽以外考えられない。足軽が白兵戦をした!ってのは火縄銃をよく知らない人間が戯れに言う事であって火縄銃のスペックを知ってる人間からすると噴飯モノ、ということか。 そもそもマトモな研究家は屏風絵なんかソースにしないからね。理由は単純で写真と違って人間が想像で描いた作品に過ぎんから。芸術的でも創作品に過ぎない。
長篠合戦を描いた作品は多いがそのどれもが「素晴らしい徳川」を示す為の宗教画であってリアルでは無い。
例えば馬防柵は垂直に美しく立ってるがこれは間違い。自分で作ってみればわかるだろうがこんな作りにすると簡単に押したり引いたりして破壊出来る。故に馬防柵は長く複雑な機構が要る(横棒と斜めにいれる支えをつける)。
彼らにとって重要なのは「リアルな長篠合戦の描写」じゃない。「勇敢に戦う徳川」の姿を写す事が重要でリアリティは捨てている。だから「屏風絵に〜」なんていう研究家は居ない。 「懸かれば退き、退けば引き付け」「足軽にて会釈。ねり倒され、人数を討たせ、引き入るなり」
これが信長公記の足軽の働きだよ
「鉄砲ばかり」なのはそれはそうだ
足軽はすぐ退いて積極的には攻めないんだから >>188
>理由は単純で写真と違って人間が想像で描いた作品に過ぎんから。
史料の根拠ナシの君の妄想で描いた合戦図よりマシだよw 足軽で戦わなかったと主張している人間はまず信長公記ぐらい読んだ方がいい
としかいえんな。
>>185
当代記の主張する追撃戦は無理だろ、距離が違いすぎる。
虎御前山から本拠地である一乗谷までの距離と比較すると
同距離じゃ長篠からだと信濃に入って少しぐらいにしかならない、
労の割に益が少なすぎる。
あと刀根坂は最初から追撃戦だけど、
長篠は数時間戦って疲労後ってのもあるかも。 >>187
いや、読めよ
書いてあるから
軍鑑だと信じるかはともかく、織田徳川も六千だったかの被害出てるわ
佐久間隊のちょんぼとか、徳川陣の激戦とか
公記でも退けば引っ付きで会釈(あしらう)して、追撃戦の描写もある
湯浅甚助直宗伝記では、信長が湯浅を召し、武田勢が色めき立っているから先手の滝川のところにいってどっと掛かれと伝令せよと命じられた
そいで出向くと馬場勢が崩れたので、ついでとばかりに湯浅は「甲州方之サイハイを手に懸たる武者と槍を合撞落首を捕」
滝川がこれを見ていて信長に報告、加増された
これは倉知道珍という湯浅家臣が常々語っていたから、公記に載ってないので記す、とある
五番手の馬場勢だから追撃戦での出来事かもしれないがね
なにが史料だよ、なにを読んでるんだよウソつき >>191
それは私にはわからない
ただ、当代記は神君の孫が筆者とされるが、その人が信長と神君の判断に疑問符つけてるのが面白いというだけ
江戸初期から見れば不可解だったんだろう
当代記っていちいち批評を述べる史料じゃないんだが、そういう意味で珍しいのも合わせて だいたい研究家っていう表現がもう史学かじってすらいないのを露呈してるからなあ
料理研究家じゃあるまいし
研究者、ですから
この人に史料の取り扱いはおろか、基本的な読解も無理です
ほうぼうで妄言垂れてるけど
史料という言葉が汚れるから使わないで欲しい >>189
これら全てが「鉄砲のみで」行われたのが信長公記の記述。
だから出てくる「足軽」というのは鉄砲足軽ということに他ならない。何しろ鉄砲隊は正面に味方が居ると攻撃が出来ない。武田軍と白兵戦になったら鉄砲隊は祈るしか出来ない。そんな戦は信長の思うところではなかったのだ。 >>192
甲陽軍鑑には書いてないぞ。何故なら武田軍は負けて逃げ出したから織田・徳川軍に与えた被害が判らない。故に書かないし書いてあったなら眉唾な「嘘」だと断定できる。
六千人の死者というのは長篠合戦記に記されているが実はこれも疑わしい。六千人も死んでるのに何故足軽大将以上の上級兵が死んでないのか?普通なら相応の武将も討ち死にするだろうに。だからこれは逃亡兵の事と推測される。 >>196
ああ、そこは勘違いしていたので謝ります
で、覚書の類いに槍で馬上の人間の首を取ったとあるんですが、そこについては? >>195
何読んだらそうなるの?
鉄砲隊は敵がかかってきたら退き、敵が引いたら引き付けるのか?
鉄砲隊が敵をあしらうのか?
日本語分かるの? 信長公記を良く読んで欲しい。信長公記には一言も「歩兵突撃で勝った」とは書いてない。信長公記では武田軍の攻撃を5回に分けて記述してる。
第一攻撃・山県昌景→織田勢の鉄砲の前に散々に撃ちかけられて退く
第二攻撃・武田逍遥軒信廉→下知通りの鉄砲射撃で過半を討ち取る
第三攻撃・西上野小幡党→騎馬突撃を敢行するも身隠しの胸壁から射撃を加える織田徳川軍の前に過半を失い退却
第四攻撃・武田典厩信豊→同様に討ち取られる
第五攻撃・馬場信春→同様に討ち取られる
これらは信長公記の誇張なのか?しかし三河物語は「武田の大将はみんな鉄砲玉に当たって死んだ」とし甲陽軍鑑も「大将も兵も皆鉄砲に当たり死ぬ」と記述してる。つまり織田徳川軍は鉄砲のみで武田軍を粉砕してるのだ。 >>199
鉄砲隊が活躍したのは誰も異存がない
君が足軽は無しで戦ったみたいなこと言ってるのが論点
今更論点ずらし? じゃあ「敵がかかれば退き、退けばかかる」とはどういうことか?名和弓雄は信長公記の「身隠しの胸壁」を解としてる。つまり、銃眼があったのだと。端的に言うと第一陣には1コの射点が、第二陣には3コ、第三陣には6コ射点があるように構築していた。ここで武田軍が攻めてくる。すると射手は追い付かれる前に次の拠点に退いてしまう。空堀や土塁を越えてやってきた武田兵は次の陣地で以前以上の射撃を喰らう。こりゃマズイと退けば射手は前進して元の射点に着く。逃げ遅れてる敵が居たらこれ幸いと射殺する。これなら最小人数で最大限の戦果を得られる。野戦築城がヨーロッパで流行ったのも道理よ。 信長は銃撃のみで武田軍を倒した。これは全ての史料に共通してる。じゃあ信長はどんな戦術をとったのか?
火縄銃は100メートルほど飛ぶけど有効射程となると30メートル程まで狭くなる。対して装填時間は60-180秒。つまり1発撃つと2発目を撃つ余裕は無い。どうやってこんな武器で武田軍を射殺出来る?
答えは2つ。1つは陣地構築で武田兵が射手の前方30メートルに数分以上、できれば数十分留まる様にすること。武田兵の前進が遅くなれば遅くなるほど織田・徳川射手の射撃回数が増える。時は金なり、なのだ。
もう1つは装填法。この時期雑賀衆によって4人一組の高速装填法が開発されていた。これなら1発4〜17秒で発射出来る。この2つが組み合わさるとどうなるか?武田兵は50メートルを這う様にして進む、その4〜17秒毎に射撃を受け続けた。武田兵に反撃手段は無いのでどうしようもできない。 ただし問題もある。まず銃撃戦術を採った事で白兵戦が不可能になった。火縄銃には「味方を避けて敵だけ狙う」「味方ごと敵を殺す」という技が出来ないという特徴がある。故に鉄砲足軽は増援として使えるが通常の足軽は何も出来ない。唯一出来る事は武田軍が撤退した後陣地内にいる武田兵の重傷者を介錯するくらい(それは当然、「攻撃」ではない)
一番の問題は武田兵が数十メートルを進めないよう陣地構築した事で織田・徳川兵も進軍出来なくなってしまった。故に追撃戦も不可能になってしまった。それで信長は勝頼を逃してしまった。この問題は野戦築城には付き物でヨーロッパでは「野戦築城したけど逃げられた」という失敗はやはり、あったらしい。 信長が長篠の戦いで使った戦術はヨーロッパでコルドバ将軍が作った物とされてる。つまり空堀と鉄砲による戦術。 信長公記・三河物語・甲陽軍鑑の全てが武田の被害が鉄砲によるものだという点で一致してるし設楽原の地形を見れば通常の野戦は不可能だったろう。武田はそこに勝機を見出したが信長の観点はその上をいってた。 こいつのせいで有益な議論ができないんだよ
無視すればいいんだが、いかんせん目立つ
やっぱり無視すべきなんだな 歴史について語る場ではなく、彼の歪んだイマジネーションを披露する場になってる >>210
会話ができればまだましなんだが、それもできないからね 一次史料に書いてあるからね。信長公記に至っては「鉄砲のみで」と兵種の限定までされてる。つまり史料に忠実に再現すると信長の野戦築城においては歩兵隊は役に立たないどころか邪魔なので後方で待機してたことになる。
もう一つ付け加えると設楽原とは原と着くが関ヶ原の様な広大な原っぱじゃない。丘陵と田園が広がる大地で大軍が展開できない。特に連吾川西には田園があり織田・徳川軍の整地期間は1日しか無かった。信長が白兵戦を戦術から外してるのは当然だろう。少数の兵しか迅速に動けないなら、少数の兵で多数を殺せる様にした。 >>212
一次史料の意味すら知らんのね
議論にならないよ
どっかいってくれ ちなみに織田軍が歩兵戦をしてないと言う点も一次史料では共通してるね。
信長公記→「恩顧身方一人も破損せず候様に、御賢意を加えらる」「かくのごとく、御敵入れ替え候へども、御人数一組首も御出でなく、鉄砲ばかりを相加え」
三河物語→徳川軍は(織田と違い)柵から出て戦う
甲陽軍鑑→上方勢は徳川と違って柵から出てこないので 織田兵は柵から出てきてない。これはつまり武田軍が突入してまた撤退しても織田兵は前進を一切行ってないということになる。これで歩兵戦をしてたとすると織田兵は人間離れした戦闘力を持っていて無双してたってことになる。それはそれで珍説として面白いけど…ここまで史料からも現実からも離れてるとなるとなぁ。 >>214
捏造乙
三河物語「10万余の人びとは柵の外に出ることなく、足軽だけを出して戦いをした。」
信長公記「懸かれば退き、退けば引き付け」「足軽にて会釈」
信長公記の足軽を鉄砲隊なんて解釈してる人はいません 甲陽軍鑑「馬場が700の兵で佐久間の6000の兵を柵の中に追い込み、追い討ちに2、3騎討ち取る。」
甲陽軍鑑はそもそも撤退戦が激しくて勝頼自身、土屋と初鹿野2人しか供がおらず河西という旗本が身代わりになったり、兜と馬は捨てるし、散々な撤退戦なんだが >>216
鉄砲足軽ってご存知無い?
この「足軽」が通常の足軽だとすると「鉄砲ばかり相加え」という文章と矛盾する自己中毒に陥ってしまう。信長は鉄砲射撃のみで武田軍を倒したという信長公記の記録なのだから鉄砲足軽と解釈するのが自然。 >>218
矛盾しない
鉄砲隊は鉄砲で攻撃
足軽は敵をあしらう
やってることが違う で、三河物語は非常に重要な示唆を与えてる。
「柵の外にだけ足軽がいて他の軍勢は柵の中にいる」
この最前線にいる足軽は何か?これが歩兵だとすると武田軍と最初にぶつかるのも彼等になるがそれは白兵戦を意味する。だがそれを記述した史料は無くしかも信長の命令に反する(信長公記で信長は「味方が死なない様」戦術を命令してる)
と、いうことはこの「足軽」も鉄砲足軽ということになる。火縄銃は精度が悪く前方に味方がいたら撃てない(味方を殺したいなら撃てるが)から当然の帰結。歩兵を陽動で置いても撤退が遅れたら死が待ってる。
そんな危険を信長が受け入れるとも思えんからね。 >>220
足軽は敵が攻めてきたら柵内に下がり、敵が引いたら追いかけると書いてあるだろ
何読んでんの?日本語わかる? 信長公記では「敵がかかれば退き、退けばかかり」『下知通りの鉄砲射撃で過半を討ち取る』とある。つまり信長公記を信じるなら敵に合わせて進んだり退いたりしてるのは鉄砲足軽隊なのだ。歩兵が前方にいると鉄砲足軽はそもそも射撃不能になるからね。
これはどういうことかと言うと射撃場が複数あるということ。敵が防御陣を突破してくれば後方に下がり射撃。敵が撤退すれば前方に戻り射撃。織田徳川軍は「二重・三重の乾堀を掘って、土居を築き、五十間三十間に虎口」という防御陣を作ってる。ここに鉄砲構えが作られていたんだろう。鉄砲構えは土居(土塁)を改良したもので射撃手は安全に射撃に専念出来る。 >>223
そんなこと信長公記は書いてない
足軽であしらう=柵に敵を引きつける=敵が攻めてきたら足軽は柵内に引き上げ、敵が引いたら追いかける
三河物語、松平記、大須賀記、甲陽軍鑑全部共通 歩兵が前方にいると射撃できない?
敵が来たら柵内に引き上げるって書いてあるだろ
日本語も読めないのかな? 「柵に逃げ込めば」っていう机上の空論が成り立たない事は少し考えればわかる。見せかけの第一柵は兎も角第二柵以降は信長・家康にとって抜かれては困る生命線。つまりそこは武田兵が簡単に入れない様になってる。
つまり織田徳川兵も出入りが難しいのだ。この手の虎口は2メートルも無い為に一度に二人と入れない。また出入り口を増やすと武田軍が簡単に柵を倒してしまう(武田軍には投げ熊手なる対柵がある)。現実的に考えると味方が柵の中に逃げ込むのは非常に難しい。少なくとも数十人、盛って百いくらとなる。 つまり「敵が退くから攻める」のなら問題無い。鉄砲足軽は不要になる。ところが「攻めてきたので退く」が難しい。そうなると自軍と敵軍が同じ場所にいる事になる。味方が逃げてくるまで鉄砲隊は射撃出来ないしもしそうこうしてる内に柵を破られて鉄砲隊まで攻撃されたら大損害を受ける。そんなリスクを見過ごす信長じゃない。
信長公記に「敵が退けばかかり退けば食い下がり下知通りの鉄砲射撃で過半を討ち取る」としてるから鉄砲足軽だけが動いてると見るのが自然。というかそうじゃないと足軽ども何してんの?命懸けで敵を煽動とかそういうのは常識的じゃない… >>226
>「柵に逃げ込めば」っていう机上の空論が成り立たない事は少し考えればわかる。
史料が揃って書いてあることを机上の空論ってもうね
アンタの妄想こそ机上の空論
>「少なくとも数十人、盛って百いくらとなる。
それだけいりゃ充分
足軽はあくまであしらうだけ
攻撃は鉄砲だから >>227
信長公記ってミステリーや推理小説でもなんでもないんだよ
深読みする必要ない
足軽は足軽だし、鉄砲隊は進んだり退いたりしない
足軽であしらいながら鉄砲で攻撃したとしか読まない 信長公記を読めば「鉄砲ばかりを相加え」と鉄砲のみを使って戦ったとあるので鉄砲足軽の事だけを指してるのは明らかだからなんとも。何しろ鉄砲射撃だけで武田軍を皆殺しにしてるとある。そこには歩兵の華々しい戦果は何一つ書いてない。武田軍は日本無敵と言われていてそれを白兵戦で打ち勝ったなら少しは誇ってる筈だが… 妄想君、都合が悪いと論点ズラすは良くないよ
鉄砲が活躍してないとか誰も言ってないし論点にもなってない
足軽が使われたかどうかが論点
答えは使われたとしか言いようがない
出入りできないくらい柵が立っていたというのも間違いだよ
はやく認めなよ 足軽といっても鉄砲足軽だけどね。それは信長公記が「鉄砲のみで」と兵種を限定してるから明らかなんだが。
何しろ歩兵を送り込む理由が無い。敵が撤退してるなら良いが攻めてきてしまうと織田兵が武田兵の数倍の速度で逃げられないと鉄砲隊が射撃出来ない。味方のすぐ背後に居るだけで撃てない。 つまり織田軍では武田軍の動きに合わせて鉄砲隊が移動して常に武田兵を射程に入れ続けていた。土塁で作った銃眼を射撃地点としていた。これなら織田兵は常に武田兵の30メートルの位置にいるから逃げ切れるし土塁があるから武田兵は直線では来れない。土塁で遮られた陣地を走って虎口か破口点までいかないといけない。白兵戦をするよりも現実的な戦術になる。 鉄砲足軽ってなんなんだよ
鉄砲持ってる足軽?
それなら違う
鉄砲持ってる兵が敵が引いたら追いかけ、敵が来たら柵の中に下がる?
鉄砲持ってる兵が敵をあしらう?
どちらも完全な間違い
鉄砲は装填しないといけないから進退は簡単にできない
こんな当たり前のことも抜けてるから酷い妄想と酷評されるんだよ 信長公記には「信長の下には下知に従い自在に進退するよう固く命じられた鉄砲衆が控えていた」とある(つまり「鉄砲隊は移動できない」というのは史料からも否定される)
これは同じく「敵がかかれば退き、退けば密着して下知通りの鉄砲射撃によって過半を討ち取った」に繋がっているから信長の戦術が解るようになってるんだな。 >>233
アホか
織田徳川には鉄砲隊以外に足軽騎馬武者3万とかいるのにそれらを使わないで鉄砲持ってる兵だけを使って敵が来たら引き上げ敵が引いたら追いかけるのかw >>235
それ原文なんて書いてあんの?君の意訳? >>234
至って簡単な話。信長・家康は陣地を三段以上に構築してる。それは空堀・土塁・柵からなる。で、お前さんが信長として全兵力を第一陣に置くかい?そんなことはせんじゃろ?
第一陣・射点1、第二陣・射点3、第三陣・射点6と後ろほど堅く重く配置する。そして前方の射撃手は陣地を破られそうになると後方の射点に下がってしまう。武田兵を撃ってから逃げるんだが鉄砲の射程は30メートルしかも武田兵は土塁と空堀があるのですぐには来れない。安心して逃げられる。後方の射点に着く頃に武田兵がやってくるが既に第二陣に配置されてる鉄砲隊が射撃を始める。
この方法だと武田軍は第一陣と第三陣でまるで違う弾幕を浴びる。武田軍は第三陣まで突破して力尽きてるのもこれで説明はつく。 >>236
理由は設楽原の地形条件を見ればわかる。設楽原は田園地帯。しかも時は梅雨、しかも田植えの季節となると水田は水を湛えてるというコンディション。ここに陣地を構築するのは常識的に考えると良くない。ただでさえ移動が困難な地形で更に行動が取れない。敵が野戦に長けてる場合一つの陣地が崩れただけで総敗軍、なんて事もあり得る。
だが遠距離から敵を殺せるなら話が変わってくるのだ。信長はスペインのコルドバ戦術からインスピレーションを得たと言われてるが… >>238
君のその妄想の中では
1.敵が来たら柵の中に引き上げ、敵が引いたら引き付ける
2.敵をあしらう
鉄砲持ちがその二つやる姿が全然見えないな
素直に信長公記読めよ >>241
そりゃお前さんが鉄砲と野戦築城について知らないのと設楽原を見た事がないからじゃないかな… >>242
一応聞くけど
「下知次第可働」をお前さんはどう訳するの? 下知次第で働くのだから自由に進退するんじゃないの?仮に鉄砲隊が全く動けないならこうは書けん。現実として鉄砲隊は動いてるし。 「御人数一かしらも前に出ず鉄砲ばかりを相加え、足軽にて会釈、練り倒され、引入也」
「かかれば退き退けば引付下知の如く鉄砲にて過半を討ち取る」
信長の下には下知に従う鉄砲衆がいる。その「下知」とは「かかれば退き退けば引き付け」ること。武田軍は第三陣まで突入して力尽きた訳だが全く身動きできなければ彼らは全滅したのか?そうでは無いだろう? >>249
下知とは各隊から鉄砲持ちを選抜し、直接の命令下に置くこと
鉄砲持ちは各地から寄せ集めているが、誰の指揮下にあるか明確にしたというかと
引きつけなんだから鉄砲隊の射程内に引き付けるということ
引きつけるのは鉄砲持ってない足軽の役割
武田が第三陣まで突入した?信長公記にはそんなこと書いてない
甲陽軍鑑引用するなら追撃戦は激しいんだから君の主張は即座に論破される 当たり前すぎる話だからいうまでもないんだけど、太田牛一が足軽と書いたものは足軽としか読まない
その足軽が実は鉄砲を持ってるとしたら、太田牛一の書いていることは読者に誤解を与える
几帳面な太田牛一がそういうことするがない >>250
割と文脈が破綻してると思う。
まず信長は「下知次第可動」の鉄砲衆千人を従えていた。この時点で「下知」が「鉄砲足軽を引き抜く」事とはとても思えない。
次に「敵がかかれば退き退けば引き付け下知の如く鉄砲にて過半」を討ち取ってるわけだがこの「下知」も鉄砲隊編成とは関係無い。また鉄砲足軽が敵の進退に合わせて動いてるのも明記されてる。
織田軍は武田軍を鉄砲のみで撃破したと誇るのが信長公記の長篠なんだがここには足軽が敵を討ち取ったという話が全く載ってない。一体その足軽どもは何をしてたのだろうか?敵を追いかけてるにも関わらず全く働いてない事になるが… また馬防柵についてはかなり頑強に、全く出入り出来ない程に作られていたとされる。これは簡単に出入り出来るとそもそも防御にならない事から導けるんだが甲陽軍鑑にもヒントがある。
山県昌景隊は武田軍左翼総大将だったのだが彼は柵の無い場所を探して徳川軍左方、乗本川付近を攻撃した。ここは必ずしも攻撃に適した地点じゃない。連吾川が深く早くなるところ、そこを渡河した上で背水の陣になる、しかも柵が無いという如何にも罠、という地点。案の定大久保兄弟に名乗りを挙げられてしまう…
信長公記だと山県昌景は敵の一番隊で「鉄砲を撃ちかけられ撤退」してる。信長公記が適当書いた可能性もある(信長公記も完全な史料じゃない)けど両方信じるなら柵に阻まれた山県隊は柵の無いところを探すが見つからない。結局最南端のいかにもな場所を攻撃する羽目になった、という事になるんじゃないか。 >>252
> >>250
> まず信長は「下知次第可動」の鉄砲衆千人を従えていた。この時点で「下知」が「鉄砲足軽を引き抜く」事とはとても思えない。
羽柴、筒井、佐久間から鉄砲持ちを特別に選抜して前田利家等に指揮を任せた
普通なら例えば羽柴が連れてきた鉄砲持ちは羽柴隊で使うし羽柴隊の指揮下にある >>252
>また鉄砲足軽が敵の進退に合わせて動いてるのも明記されてる。
されてない
足軽はあくまで足軽
鉄砲を持ってない
足軽がいるのにわざわざ装填に時間のかかる鉄砲隊を進退させるのは無駄
>一体その足軽どもは何をしてたのだろうか?敵を追いかけてるにも関わらず全く働いてない事になるが…
は?敵の首を実際に刎ねて獲ったのは誰ですか? >>253
>また馬防柵についてはかなり頑強に、全く出入り出来ない程に作られていたとされる。これは簡単に出入り出来るとそもそも防御にならない事から導けるんだが
全然導けない
城の虎口には必ず狭い出入口がある
言うまでもなく城内から出て攻撃するためのもの
アンタの言うことが正しいなら城に出入口なんか作らないし、城から打って出て攻撃をしない IDや文体は偽装できてもいちいち全レスしなきゃ気が済まない性癖は隠せないねぇ、、 菅沼くん昔「鉄砲を撃つには銃眼が必要」って火縄銃に関する無知を晒してて面白かったなぁ >>206
そうでもない
千丁もあるんだぞ
本物の戦場を見てから言え 「長篠城の鉄砲は五百、二回しか撃たれないから千人しか死にません!」って言った馬場信房は戦場をしらなかったのか… 仮に千丁しかないのだったら
南北2キロ近い陣地守るとすると2メートルに一人ぐらいのかなり薄い火力になるぞ 信長は武田軍の諜報を警戒して厳重な情報統制をしてる。そのせいで織田軍の全貌が掴めない。例えば諸手抜き鉄砲隊がそれで信長は諸将に鉄砲隊(物資付きで)を供出させてる。織田が武田並みの装備率なら全軍の10%、3000挺は間違いなくあったけど諸手抜きを考えると4000以上あってもおかしくない。 信長公記でも武田軍の攻撃順が分かってなかったりするので完全に来るやつを一方的に射殺してる。 火縄銃なんて竹束で防げるからな
柵の外に兵がいないのなら簡単に柵まで行けるな 妄想基地外は読めないんだろうけど信長公記だと「近々と足軽 懸けられ御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯」
要するに「信長は足軽を敵に接近させるのを近くでご覧になっていた。前後より攻められたので武田も攻めてきた」
つまりその織田の足軽は柵から出て武田軍に接近している
そんで敵が襲い掛かってきたら柵の中に逃げ、鉄砲で攻撃する
ずっと柵の中に籠ってたら芸がないから足軽を使ってる
全く似たようなことは三河物語も甲陽軍鑑にも書いてある 信長公記には「鉄砲のみ相加え」「下知通りの鉄砲射撃」「身隠しの胸壁から射撃を加え」と鉄砲射撃のことしか書いてないので足軽が攻撃とかは全部鉄砲足軽のことです。
ていうか設楽原って田園地帯だから簡単に進退出来んぞ。それで武田軍が敗れたって言われてんのに織田徳川兵が簡単に移動出来るわけもないやんけ。 >>271
方々で誤訳して叩かれて恥かいて哀れなものよのう 20年以上前の道三との聖徳寺の会見でさえ弓鉄砲五百とあるんで
半分が鉄砲だとしても三千丁なんてむしろ少なすぎると感じるな 信長は各武将に鉄砲隊を供出させる諸手抜き鉄砲隊を編成してたから見かけ以上の戦力を動員可能だったからな。下手すりゃ五千挺とかいう大火力で設楽原を要塞化してた。
となると前進なんかせんわなそりゃ >>274
「近々と足軽 懸けられ御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。」
訳してみな 三河物語にも甲陽軍鑑にも「織田の兵は柵から出てこない」って書いてある。徳川兵が白兵戦に及んでるのはここには柵が無かったからと書かれてるので柵があるところは基本的に篭ってた。そして柵から出てこないのに武田兵はバンバン死に織田・徳川の兵は無傷というシチュエーションに。 >>276
訳はまだ?
三河物語は足軽だけ柵の外に出していたと書いてある
甲陽軍鑑は攻めたら柵の中に引き上げ出てこないと書いてある(柵の中に追いやった等) しかも「誰が槍を付けたのか?」っていう侍にとって非常に重要な出来事が一才書かれてない。桶狭間のような奇襲戦すら書かれてるのに。つまり誰も白兵戦をしなかったということ。死刑執行の時に複数の銃で撃てば罪悪感が減る、というがそれと同じで銃殺だと誰が撃った弾で死んだのかわからんからね。 信長公記にしろ三河物語にしろ甲陽軍鑑にしろ、何故か武田軍指揮官の死に対して冷たいんだよなぁ。なんか知らんが全員射殺したの信長公記、自分たちが討ち取った内藤含めて全員射殺認定の三河物語。甲陽軍鑑は僅かに記述してるけど馬場信房以外は何か死んでたわって感じやし。 地味に不明なのが真田兄弟でどちらとも陣地突入時に銃撃され重傷を負って死んでる。火縄銃の威力は凄まじい(手や脚なら簡単に吹き飛ばす事ができる)ので当たった瞬間に死んだに等しい。等しいんだけど兄貴は首を取ったのが織田兵と言うことは分かってるんだが弟は一切わかってない。空堀に落っこちてわからなかったのか? 信長公記では信長は味方が一人も死なぬ様に作戦を練ってるから歩兵戦はそもそも想定してない。三河物語で「鉄砲足軽の他は柵の後ろにいた」というのはつまりそういうこと。
信長の作戦は三段からなる鉄砲陣地で武田軍を滅殺し、それでもなお破ってくる者がいたら最後の手段で白兵戦に及ぶというもの。そもそも敵の進退に合わせて攻撃するなんて武田軍だってやってくるし下手すると武田の方が強い。相手の得意な手段に乗る奴はいないわな。 武田ファンが「歩兵突撃は無かった」と言うのには一つ理由がある。それはもし信長公記の「足軽」が通常の足軽で野戦したとなると武田軍指揮官は一体なにしてたの?って話になるのよ。織田軍は「かかれば退き退けば食い下がる」戦術を採ったけどこれは武田軍も得意とするところ(隠れ遊びという)
では織田軍が隠れ遊びしてるときに自軍を指揮してた武田軍指揮官、例えば馬場信房らは何してたのか?敵の戦術は自分達も得意とするところそれを見抜けずのみならず一方的に嬲られてる。これでは織田・徳川軍に武田軍が負けた理由は諸卒の能力差という結論になる。つまり織田・徳川指揮官の作戦を見抜けず得意の野戦で死者を出し続ける重臣衆という構図になる。
だから「鉄砲足軽のみだった」という話になる。武田軍指揮官は確かに歳だがそれでも… 実際歩兵戦があったとすると野戦で最強だった武田軍が織田・徳川軍にタコ殴りにされた事になるからなぁ。
重臣衆も恥ずかしくて特攻したのも頷ける。 野戦最強って武田は基本数の差で勝ってきただけじゃ。 武田が滅んだ時に貴族がびっくりしてる位には武田軍=強いって話は信じられてたみたいだけどね。それで長篠でも決戦を選択したんだろうけど… もし白兵戦が行われてたならそれこそ武田軍の思う壺だったろうからな。それで負けたってなると武田の指揮官どもは何を見てたんだろうか。特に馬場信房。お前勝頼に「敵を引き込んで(隠れ遊びして)戦おう」とか言ってるのにどうなってるんだ… 一向に馬防柵を超えられないなら退却する振りをして馬防柵から
織田と徳川軍を引き出すとかやり様はあったと思うけどな。
押してダメなら引いてみろというし >>289
流石に筆頭が太政大臣で知行国三十余国とかいうのと比べるのは武田をデカく見過ぎてる気がするが…
武田もまぁ名家ではあるんだが何でだか知らんが天下無敵と恐れられてたらしい。信長に粉砕されるまで虚像を保ってたんだからまぁ大したもんよ。 甲陽軍鑑品五十二には「柵を二重に設けて要害を三つ構えて待ち構えているところに一万二千で攻めかかり…武田方が一方的に勝利した」とあってその理由は武田軍が織田・徳川軍を柵の中に追い込んだからだという。ところがここから怒涛の討死報告が相次いで武田総敗軍となる。つまり武田軍は柵を突破出来なかったのでは無く柵を突破してる。ところがその先で大被害を受けて壊滅した。おそらく第一柵を突破して勝利を確信した武田指揮官が次々兵を送り込んでしまって壊滅せしめたんじゃないか。 甲陽軍鑑だと「柵を破った」とあるし似たような記述は榊原家譜等色々あるんだけど信長公記や三河物語にはこれをピンチとして記載してないんだよね。それどころか信長公記だと「御人数一首たりとも前に出ず…練り倒し引入れる」ってあるからワザと敵を自陣に引き込んでる。本来自陣に敵が突入してくる事は窮地だが信長は大量の鉄砲陣を構築する事で事態を180度変えてしまった。対する武田軍は敵陣に突入した味方がどうなってるのかわからずそれを把握する為に前進した指揮官が銃殺されるという最悪の事態に。 長篠では2019年時点で38発の鉛玉が発見されてる(新城市)。これは使われた鉄砲数からすると非常に多い。例えば三万挺(一説には五万とも)の鉄砲が集まったという関ヶ原からは1発の鉛玉しか発見されてない(日本鉄砲史学会発表資料第354号)。設楽原で使われた鉄砲数は2000〜6000。如何に異常な発見数かがわかると思う。 何で「たった」38発かと言うと幾つか説が唱えられてる。まず鉛は非常に貴重な品だったので戦場で回収されているというもの。また設楽原が田園、それで住民達が武田兵の血が染み込んだ土を嫌って掘り起こして別の土と変えたという説。
鉛が変色・腐食が激しいことで発見が難しいという現実的な問題もある。鉛玉は設楽原全体から発見されており銃撃が全陣地で行われた事を物語っている。 >>295
妄想に付き合うつもりはないが信長公記の「引き入る」は武田が退いたという意味
わざと武田軍を自陣に引き込んだという意味は一切ない
あちこちで誤訳かましてる恥知らずだから聞かないんだろうけどね 設楽原の鉄砲玉発見については設楽原が田園って事と関係してるって説もある。当時この辺りは水田だったので織田・徳川軍にとっては水堀が広がってるに等しかった。そこを掘り、土を積み上げて土塁・鉄砲構えにする事で防御壁とした。武田兵は必然泥の不利を受けた。銃撃の良い的だったろう。野戦というよりは攻城戦に近い戦…というか攻城戦より遥かにタチが悪い。問題はその泥に向かって射撃が行われたので鉛玉が見えなくなり、沈んで行方不明になったという話に繋がる。 鉛は僅かとはいえ水溶性だぞ
泥に沈んだ弾は400年もあればほぼ完全に溶ける
化学知識持たない人間の空説だな
残るとしたら水分の多い泥に紛れた弾ではなく乾いた土に埋まったりなどした弾だろう >>300
主戦場と目される辺りに集中的にトレンチをブチ込んで、
土壌を垂直方向に切り分けて単位毎に成分スペクトルを出したら面白いことになったりしないかな。
それに史料(笑)によると武田は鉛不足で鉄弾を多用してたとか。
鉄なら四百年ごときで融けて無くなったりはしない。
(笑)が事実を記してるんなら矢鱈と掘っくり返しゃぁ何か出るんじゃないか。 武田軍は慢性的な鉛不足で銃弾は専ら鉄だった。平山優によると「黒鉄玉」だの「青銅玉」だのがやたら出てくるに対して鉛は殆ど出てこない事から本当に鉄の弾を使っていたとのこと。
対して信長・家康だけど設楽原で発見された鉛玉を解析すると外国や睦平のものであるから信長は堺の交易で家康は睦平鉛鉱山から鉛を入手していたようだ。 話ができないやつがいつくと見事に過疎る
こいつのせいでどこもペンペン草も生えない 武田軍も鉛の優位性は分かっていたけどどうにもならなかった。そこで彼らは銃の大型化でこれを解決しようとしたらしい。弾丸が軽くて威力が出ないなら大きくすればなんとかなるんじゃないか?と考えた。ところがこれは大失敗。軽くて大きな弾は却って射程と精度が悪化してしまった。
結果かつて200メートル先の的にすら命中させたという武田鉄砲隊は勝頼の頃には既に無能の集団に成り下がってしまってました、と。 というか武田は攻城兵器として鉄砲を使っていたんだろ。
木柵や扉を破壊するには鉛玉より鉄や銅のように硬い方が破壊力が高い。 また意味不明な話始まるw
鉄砲で城門なんか破壊できるわけないだろ
大砲でさえ出来なかったのにw 長篠城では武田軍の鉄砲玉が城内に飛び込んでくるから板っきれを立てて防弾にしてたらしい(長篠日記)
逆に言えばその程度で防御できていたという。 >>306
木柵…設楽原の馬防柵を破壊できずに突撃して大損害
扉…長篠城の城門城郭を破壊して落城できず、信長後詰到着して長篠の惨劇を招く結果に
どちらも成果をアピールするのは無理だろ まぁ榴弾が開発されるまで鉄砲で防御施設を破壊するのは困難だしなぁ。大坂の陣みたく大量に雨霰と大質量弾を放り込みでもせんと(それでも厳しいし) いや力攻めをせずに長篠城の三の丸、二の丸の防御設備を
鉄砲で破壊してるから。普通に攻城兵器として機能してる 火縄銃より口径が大きい大鉄砲ならともかく火縄銃に鉄の弾込めたら攻城兵器は流石に笑うw 鉛以外の弾を使うとまっすぐ飛ばない(鉄や銅は硬度が高すぎて変形せず、弾の表面の凸凹と銃の隙間が大きすぎて圧力漏れが起こってるから)
江戸時代の砲兵術の伝書にも弾込めの時に槊杖で鉛弾をガンガン突き固めろと書かれるくらいに
鉄や銅の弾は推奨されてなく、攻城兵器に向いてるとも一切書かれてないのに
妄想が半端ないな(笑) 鉄弾の武田と鉛玉の織田・徳川だと射撃戦での能力差が有り過ぎた。長篠城攻撃戦でも本丸までは工兵隊の力もあって辿り着けたけどそこから先に進めなかった。
武田軍もかなりの鉄砲を集めていたけど設楽原決戦では全く出てこない。弾を撃ち尽くしてしまったのか、射撃戦になって何も出来ずに射殺されたのかはわからんが。 武田は吉田城長篠城と連戦だから備蓄の弾丸はほとんど無いかも 武田は騎馬隊が有名で故に鉄砲を軽んじてたなんて言われてるけど実際には鉄砲を重視して軍役にも組み込まれてる(槍よりも鉄砲を、とかぶち上げてたそうな)。ところが設楽原で織田・徳川軍に一方的に銃撃され続けた事で物量差を知ったのか勝頼は「1挺につき200発」と備蓄指示を出してる。まぁ集められる訳も無かったろうけど。 弾丸があまり残ってないのに織田徳川と主力決戦しようとしただと、
ますます武田側が脳筋になるな。 当時の鉄砲ってのは野戦で強力な兵器じゃないからね。射程が30-100メートル、装填時間が60-180秒だから撃てて2発まで。籠城戦では強力なんだけどね。だから武田軍も「織田徳川が鉄砲を持ってる」事は考えてはいたけど敗北因子とまでは思ってなかった。まさか3000〜5000挺の鉄砲を数時間も連射出来るとか想像すら出来ん。 野戦で鉄砲が主力になるのは秀吉の時代以降だからなあ。
それ以前は柵や土塁を敵軍との間に設けて時間稼ぎをしなくてはならず
白兵戦に於いては全くの無用の長物 だから陣城に突っ込ませるように武田の背後を攻撃したんだろ
信長の知能の勝利だよ そもそも野戦自体が少なく攻城戦が大半だからな
戦は投石、弓と鉄砲など飛び道具がメインで、それがダメで城攻めが膠着したら兵糧攻めに切り替えるか退くかのどちらか
強攻も滅多にない 西洋では無敵の戦法として恐れられていた野戦築城は堀と土塁・柵で敵の侵攻を防ぎながら銃撃で仕留めるもの。信長は宣教師から聞いていたって話だが。この戦法の弱点は逃走されると追い切れない事でそれで信長・家康は徹底的に陣地情報を秘匿した。具体的には厳重な警戒網で武田軍の物見を封じた。長篠住民も織田・徳川に着くようにカネをばら撒いてるから武田には長篠の情報は入ってこなかったんだろう。 剣術の達人の宮本武蔵は最後の大きな戦である島原の乱では一揆兵に投石ぶち当てられて負傷し何の役にも立たなかった >>322
いや君の火縄銃への誤った見解について驚くわ
どんだけ銃の事について無知なんだよ 戦国時代の火縄銃は我々の想像より遥かに非効率な火器。江戸時代の度重なる改良で漸く効果的な兵器になったけどね。単なる筒だから弾丸もどこを飛んでいくかわからんし火薬も質が悪いから煙や熱が酷い。一人が狙撃するならまだしも集団戦闘となると全員プロで構成するか特殊な戦術を組まないと使い物にならんかった。少なくとも数千人射殺なんて事は出来ん。 当時の鉄砲って
「明智光秀は45メートル先の的に100発の弾を当てた」(明智軍記)
「武田の鉄砲兵は200メートル先の的にも当てる」(甲陽軍鑑)
と盛ってこんな性能だからな。50メートル先の的を撃って当たったら名人って兵器。ちなみに信長を狙撃した杉谷善住坊は20メートルから2発撃って外してる。善住坊は鉄砲の達人だったらしいがそれでも20メートル先の的を2回も外した。
鉄砲に熟達したプロがこれなんだから訓練を受けただけの兵隊の精度なんておして知るべしよ。 訓練を受けただけの兵に、弓を持たせるのよりははるかにマシだろ。 >>332
うん、君が火縄銃嫌いというのはわかったから
もう喋らんでいい
信長はすぐに銃を取り入れたが、火縄銃を甘く見る君はもし当時生きていたら殺される側だったろうね
>>333
45メートルに充てるのは簡単だろう
明智軍紀の奴がボロな火縄銃しかもっていなかったのな
武田の200メートルを当てるのは名人だな
善住坊の場合には信長は動いている上に周りは信長は家臣に守られているからな
その場合にはまた違うからな
つうか拳銃も銃も打ったことがない人間が銃を語るのがおかしい
つうかその文献で火縄銃の射程距離が30メートルになったのかよ
アホ草
こういうのがいるから、歴史学者の中にはおかしな見解持つのがいるのだろうね >>335
明智軍紀の奴はお世辞が得意だったんだろうね
武田の中にも射撃うまいのがいたんだな
まあ信長軍は銃に長けているのが多いからそんなのは結構いただろうな
ちなみに鎧を貫ける距離は50メートル
近くで撃てば鎧も貫通するのでその距離を一度見ておくとよい 職人の手作業で不揃いな形の鉛玉なんてまともに狙えるのかね
戦列歩兵みたいに敵兵の黒目が見える距離じゃないとまともに命中しなかったりして 鳥撃ちに使ってるから、鳥より大きい人は余裕で狙えるとおもうよ。 信長時代の野戦はまだまだ弓や槍が主力。鉄砲は産地もバラバラだし、
土塁とか柵を使用して漸く野戦で用いられるレベル。
これが秀吉時代を向かえると鉄砲の生産も安定し、品質が一気に向上した。 鉄砲弾は銅より鉛の方が有効だとどこにでも書いてあるとはいえ、ググった程度だと銅でもそこまで劣らないような?
武田も銅だけでなく鉛使ってるのは史料に見えるが、後年の北条の方が鉛不足は深刻だよな 鉛は融点・硬度が金属の中で最弱レベルだから、鉄や銅みたいに鍛冶屋並みの火力なくても現場で製造可能
そして硬度も鉄や銅と比べ、鉛は柔いから鉄砲に押し込め槊杖でガンガン突いて変形させてたから
真っ直ぐ飛ばない&威力低減の原因になる隙間からの圧力・ガス漏れが無くなる 鉄砲の産地もバラバラだから銃口の大きさもかなり違ってたろう
しかも手作りだから同じ奴が作っても精度が悪い
弾も弾で手作りだからこれも精度の面では表面デコボコ
だから硬度の柔い鉛を突き固めて圧力漏れの原因となる銃と弾の隙間を無くしてた
江戸時代の砲兵術にも必ず突き固めろと記載されてる >>337 >>339
長篠の戦いであれだけ信長の鉄砲隊にやられたのに
まだこんな事をいう奴がいるんだな 火縄銃の有効射程は200メートルだが鎧を貫通するには50メートルまで待たないとならない。更に確実に命中可能という距離を考えると30メートルが限界という話。まぁ20メートルから2発も外した狙撃手がいるんだが…ちなみにこれでも世界基準ではマシな方で西洋では射程5メートルと言われてた。理由は西洋銃は火打ち石式(フリントロック)で反動が凄まじかったせいなんだとか。「敵の白目を見たら撃て」はこの話が基なんだな。 >>334
弓と鉄砲には一つ大きな違いがある。弓矢は引けば飛んでいくが鉄砲には不発の危険がある。これは忘れられがちだけど非常に大きな問題。
現代銃なら不発弾が出ても機械操作で弾丸を外せばまた撃てる。だが火縄銃はそうはいかない。火薬を直接筒に突っ込んでる以上不発弾は銃を爆弾に変える。火縄銃で不発弾が出た場合まず慎重に火縄を外し、細心の注意を払って銃口を下げ銃身に湿らせた布を巻いて冷却ししかるのち尾栓を外し銃身を掃除…と無茶苦茶面倒な処置が必要なんだと。それならまだ弓の方が話は簡単になる。 信長時代の鉄砲は海外産も多く使われていたからな。国産化が確立した
江戸時代でさえも完成品の鉄砲の精度はあまり宜しくはなかった。
まして海外産が多く使われていた信長時代の精度はそれよりも遥かに劣る。
国産化が成立し、材料や加工法に均一性が出てくるのは秀吉の時代以降。 弓は恵まれた身体能力と訓練をしないと鎧を貫通するような威力の強弓は出せない
軍役見ても弓の数は少ない
矢もタダじゃないから強弓射てるような奴しか受け持てない
身体弱者でも鉄砲持てば強弓以上の威力が出る
だから持て囃された 正確には「信長が家康本陣に来たときに率いていた鉄砲衆」が一千人。信長公記ではこの後武田軍を鉄砲射撃で蹂躙したとあるので千梃では少な過ぎる。諸手抜き鉄砲隊もいるし割合的にも三千挺からあったと見て良い。というかそうでないと武田軍がどんどん愚鈍な連中に成り下がっていく… 1000丁あれば6時間も考えなしに突っ込んで来る連中の殲滅は可能。
むしろ時間を考えると公記に書かれてる1000丁くらいが妥当 千梃では不可能。武田軍は左翼・中央・右翼と三方向かは攻撃を掛けてるので千梃如きでは防ぎきれない。 あと火縄銃は火薬を直接筒に装入する機構だから発射する度に筒に火薬がこびりついていく。だからクリーニングがかかせない。これを怠ると弾が入らなくなったり最悪不発・暴発を招く。このクリーニング、理想は発射毎なんだけど江戸時代の鉄砲術では7発毎、ガチれば17発ごとまでは耐えられる。
問題は時間でどう急いでも60秒はかかる。かといって無碍にすれば己に返ってくるからね。 弾に規格がない
弾速が遅い
こんなので撃たれたら現代の銃より致命傷を負う 鉄砲なんて竹束で防げるのにただ突っ込んでくるはずがないやろ
常識で考えろや 武田軍は対鉄砲戦術を確立してる。それが「うし」なる防御盾でこれは粘土を棒に巻き付けてそれを芯に青竹で囲んだもの。工兵隊がこれを設置し盾として鉄砲隊が銃撃を加える…というのが武田軍の兵法だったんだと。要は味方が突撃する前に敵の銃撃機会を潰す為の戦術で普通なら有効なものではある。 もちろん騎馬で突っ込むという事をやれば映画影武者のようにあっという間に終わる
しかし実際は8時間もかかっている
これは竹束を盾にじわりじわりと前進していったからだ
だが結局織田徳川の鉄砲が余りにも多すぎて
果断なく攻撃が続き、遂に力尽きたのが真相だ 火縄銃の原理は小学校の理科で使った空気銃と同じようなもんだろ
スチロールの弾を筒の先端に隙間無く詰めたほうが勢い良く真っ直ぐ飛ぶのは誰もが経験してる
逆に隙間だらけの弾を詰めると勢い良く飛ばないかスカる
弾を硬質なものにしても隙間があると飛ばない
>>306は理科の空気銃やらなかったのか? 文字通り弾「丸」で球形をしているものを更に突き潰して使うから空気抵抗をモロに受けてしまうって問題も。それで有効射程は50メートル、確実に当てたいなら30メートルまで引き付けないとならなかった。まぁ30でも当たらないんだが…
これが設楽原決戦の謎でつまり武田家は織田・徳川鉄砲隊の前面30メートルに釘付けにされていた事を意味してる。作戦が無いとそうはならん。 鉄砲なんて関係ないよ
陣城築いて構成限界点に達してボロ負けでしょ
賤ヶ岳、小牧長久手、関ヶ原みんなこれ狙い
秀吉や三成、家康にそんなオリジナリティはないからね
秀吉の城攻めは創意工夫に溢れるけど、他は成功者のパクリさ 当時の火縄銃で一万人殺害ってのは常識外の戦果だからね。数千人でも奇跡的なのに。
ナポレオン戦争だと百万発撃って三百人とかだし。 名和弓雄とか本まで出しとるじゃろ。それとも火縄銃が活躍した戦争他に知ってるのかな? 名和弓雄は設楽原保存会の考証委員してるからね。そこら辺の小説家よりは格があるな。
それ抜きにしても火縄銃ってのは20メートル先の的に当たらない代物で装填時間は60秒は必要になる。堀や石垣で守られた城砦なら兎も角野戦では三発目は撃てないってのが常識。だから銃撃で、しかも野戦で一万人を殺害した設楽原合戦は伝説的なもの。というかそんな戦果はマシンガンが開発されるまで設楽原合戦くらいじゃないか。 >>366
一万人討死説は数理的に成立性が無い。
武田が戦場に投入した初期人員を12000と仮定して試算すると、
戦闘断念に至るまでの損耗数の閾値は3600が上限となる。
しかもこれは損耗であって負傷、逃亡、投降等による離脱数を全て含む。
即ちどれほどの激戦であろうと死亡数はその半数、1800程度と考えるのが合理的だ。 先刻、丁度偶然にも長篠戦争を扱った番組(BS3)を見ていた。
再現シミュレーション試験はもとよりパラメータを振って結果の応答も検証していたが、
それはやはりランチェスターモデルに沿うものだったと謂う。
こうした数理モデルを他の伝説化された戦争の検証にも全面展開して文献、巷説、軍記の虚偽を暴いてもらいたい。 武田はこの長篠敗戦後一気に国力が削がれて救援もままならなくなってるからな。
一万人死んでておかしくないというかそんだけ死んだんだろう。 武田と徳川の勢いが逆転する程度の大敗だったのは間違いないよね
織田徳川が大したことしてないと貶すと武田はじゃあ頭悪すぎたんだなってなるジレンマ 状況的には信長は包囲網を粉砕していよいよ東進、家康も反攻の狼煙を上げたい時だった。狼煙の代わりに大噴火が起きちゃったけど。 >>371
大敗だとか頭が悪いとかの次元の話ではない。
また実は勝敗にもさほどの重要性は無い。
長篠戦争の意義は;
・偶然ではあるが当時の政治構造と歴史の大流の交差点に存在したこと
・(織田側の戦争事業運営を通じて)国内の工業と流通業に改革をもたらしたこと
の二点に尽きる。 >>366
それは特殊な条件下のことな
そこまで火縄銃を嫌うやつ初めて見たわ そりゃ当時の火縄銃は鍛冶屋がそれぞれのセンスで製作してたからな。
銃本体は元より銃弾も鍛冶屋の好みで作られていた。
その後の太閤検地により全国規模で長さや体積の統一が測られ
火縄銃もそれまでの物より品質が向上した 長篠って武田の数が1/3でしかも退路を断たれての決戦だからな
武田の選択肢は全てを捨てて北の山岳地帯へ逃げるか織田徳川を撃破して逃げるかしかない
それで捨てられず決戦したけど撃退されて北の山岳地帯へ敗走したんだろ
そりゃ異常な損害にもなるだろうが鉄砲だけで1万人やられたとは思えんのだが 鉄砲でかなりやられたから撤退したんだろ
そんな事も分からんのか >>374
特殊でもなんでもないぞ。火縄銃は45メートル先の的に百発百中で神業って言われる代物で現実20メートル先の人間に2発撃って外したって話まである。だから野戦においては使い物にならない。限界距離まで引き付けても外れたら若しくは弾が出なかったら死ぬ。ただしこれが籠城戦では無敵の兵器になる。そこで信長は設楽原に城、というか防衛陣地を築いて武田軍を粉砕した。 数キロに渡る陣地を1000、あるいは3000でもいいけど、
その程度で守れるなら、城攻めとかもう不可能だろ。
長篠城とか鉄砲500があの狭い場所に集中して固めてるってことだから、
火力密度は設楽原の比じゃなかったろうし、
弾切れ兵糧切れ狙うほかなくなる。 2割も死傷したら撤退するしかないからな
これは総大将の力でどうにかできる問題ではない 信長の野望とかでありがちだが
部隊の兵士数をゼロにするまで戦うというのは
いかに実際とかけ離れているかだな >>378
お前はアホか
お前だけが有効射程距離200メートルを延々と無視しつづけるのな
45メートルのものはただ単にお世辞
20メートルは信長が行軍中での見つからないようにしている中での射撃だからな
これはどう見ても特殊な条件下だからな
つうか火縄銃の弱点は雨と装填に時間がかかることだからな
晴天下では強力な武器
それを熟視した信長には勝てんよ 信長は若い時から銃の取り扱いに長けていた
家臣のほとんどは信長を見習い
銃の取り扱いがうまかった
武田軍には火縄銃を嫌うものがいてあほな事ばかりいうやつがいて
うまく運用できずに敗退した >>383
鉄砲は兵器なのだから「理論上飛んでいく」距離よりも「命中可能になる」距離を中心に置くのは当たり前。200メートル先まで飛んでいっても敵に当たらないのでは意味が無い。火縄銃は威力大と言えど貫通性能が無いから一発で一人しか殺せない。これは発射数以上の敵は殺せない事も意味する。そうなると発射数が命だが火縄銃は装填に時間が掛かる。大体60-180秒。仮に最大射程200メートルで撃ったとして敵が平均的男性なら24秒後には射手の目の前に来る。だからこそ絶対に外せないが30メートルで撃って当たれば良いが外れたらまたは弾が出なかったらもう逃げられない。さて、どうする?って話。 鎧来て槍持った上で、舗装されてない荒地200メートルを24秒で走るのか >>385
日本独自の競技として、古式に則った、8寸角板に4寸黒丸の「和的(江戸時代規格の標的)」を狙い、27メートル(江戸時代は15間)の距離で命中の優劣を競う「古式勝ち抜き」及び、5分間に10発撃つ「早撃ち」がある。 そもそもな、火縄銃含むマスケットは命中率が低いから横列陣で一斉発射して
誰かが打った弾が誰かに当たるようにするんやで?
狙った相手に正確に当てる能力何て必要ない 的に当てるのは難しくても体の何処かに当てればいいじゃ全く話変わらんか? >>389
大して変わらん。50m先の小屋に当てるのも難しい、って言われるレベルだから。
それでも、狙ったやつの三人隣の奴に当たれば良いやろ、って話
それはそれとして、江戸時代を経て現在に至る火縄銃術家は、
日ごろから豊富に火薬を使って練習してる、戦国時代でいえば名人なわけで、
鉄砲足軽の腕前の参考にはならん。
イチローがどんなにすごくても、野球選手全員がイチローと同じことができるわけではない。 >>387
それって江戸時代に改良された火縄銃でやるものじゃんよ >>391
江戸時代に何がどう改良されて早打ちになったんだ? >>390
お前の妄想を押し付けるなよ
戦国時代でも200メートルの先の的にあてていたぞ >>393
すごいな、どうやって城攻めしてたんだ? >>393
お前さんの言ってるのは甲陽軍鑑の「武田鉄砲足軽は200メートル先の的にも当てる」って話なんだろうけどまぁ幾つか問題がある。
まず戦国時代の火縄銃は装填時間の長さや射程・精度に大きな欠陥を抱えてるんだがその中で大きいのは「火がついてから発射までにラグがある」こと。これは現代の火縄銃でも起こる。それで火縄銃って「見てから回避」が可能という欠点がある。善住坊が僅か20メートル先の信長を2発も外したのはこれが理由。移動目標を撃つのは難しいのに更に「いつ弾が出るかわからない」ことが尚の事困難にする。 >>394
雨の日にやればいい
そもそも織田軍は兵糧攻めが得意だけどな >>396
まあ確かにそうだ
しかも信長は馬に乗っていたし
そして命中率が高かったのは信長軍も一緒
どの家臣も鉄砲隊を持っていたし
小姓の蘭丸でさえ鉄砲に改良を加えていたくらい
また他の戦国大名も鉄砲と名手を抱えていた 水平に撃てば当たるくらい敵が密集してるなら個の命中率なんてどうでもいいのでは? >>1
ちなみに鎧つけている人間を殺せる距離は50−30メートル
これだけ近くなると鎧つけていても意味なくなる 武田は一つの戦いで重臣をよく失うから
長篠の戦いもその一つ程度に捉えていたかもしれん
城一つ失ったけど、まあ仕方ないくらいに 戦国時代の火縄銃は「向かい風でも撃てない」とか言う人が居るほどのもんだけど確かなのは悪天候だと射撃が困難になる。最悪なのは泥に浸かる事でそうなったら射撃は不可能になってしまう。信長は「武田軍は野戦が得意、なら晴れてる時に決戦をしてくる」と常識で考えてこの作戦を取ったんだろう。もし武田軍が発狂して雨天決行してたら史実程簡単にはいかなかったはず。そして注文通りの天気になった訳で天に愛されてるとはこの事か。 鉄砲は有効射程が短い。鎧を貫くのは100メートルまでだからそこまでに発射されても運が悪いと当たるカモ、程度なので勝負は100メートルを切ってからになる。しかしそこまで近付かれれば鉄砲足軽には初撃(最後の発射)で何人倒せるかを競うしかできん。だから野戦での火縄銃対策は至って単純で武田軍がしたように歩兵突撃だった。火縄銃側は敵が渡河してる時とかを狙うのがセオリーだがそれでも失敗する。
例えば関ヶ原の前哨戦、岐阜城の戦いでは織田秀信は池田輝政が木曾を渡河するところを鉄砲隊で攻撃した。対する池田輝政は強行突撃して結果秀信は敗北したという。 ライフリングがない、弾が丸い事で遠距離での命中率に関して悪いと言う他ない
但し口径がでかい事、弾が重い事、弾速が遅い事など威力に関してはかなり高い。軽装備の足軽なら当ればまず助からん。 >>404
木曽川渡るときは池田は中州に陣はって様子見ている
ちなみに池田もまた信長の家臣
鉄砲の性能は把握している
池田せんは女の鉄砲隊を組織していた
信長軍はみな鉄砲のことは熟知していた >>405
ライフリングは時代が違うからね
幕末の戦いを参考にするしかないね 時代劇考証家が1万人射殺したと言ったからなんなのか 信長公記「鉄砲のみを相加え…無人の如く」
三河物語「名のある大将ども、皆鉄砲に当たり死ぬ」
甲陽軍鑑「まるで城攻めの如く…大将も鉄砲に当たり死ぬ」
殺した方も殺された方も鉄砲が原因と認めてる。問題は「どうして火縄銃でそれ程殺せたのか?」ってこと。火縄銃の性能からして単純に鉄砲を使ったならこうはならなかったはずだからね。 鉄砲の力はどの大名も認識しとるよ
信玄もかなり力入れてる >>404
秀信の防衛失敗は単なる戦力不足が原因。
寄せ集めの戦力で池田隊の半分の戦力しかなく、渡河点がわからない以上、
野戦築城もできない。 つまり鉄砲自体の戦闘力はそれほどでもなく重要なのは戦術なんだな 敵も味方も鉄砲持ってるし、強みも弱みも知ってるのに、
鉄砲の多寡だけで勝負がつくわけがない。 長篠合戦はその鉄砲で武田軍が粉砕されてるからね。つまるところ信長の戦術は「高性能な鉄砲」によるものではなく鉄砲の弱点を消してその利点だけを活かしたところに凄味がある。武田軍の行った敵陣強行突撃は対鉄砲戦術としては常識的で武田重臣衆が愚かだった訳じゃ無い。 鉄砲でそんなに殺せるなら石山本願寺戦では相当な損害を受けたんだろうなぁ…
長篠だけということはあるまい 大体、武器の性能で負けた、という話はあほな司令部のあほな作戦のせいで負けたのを
糊塗したいから流す話。
戊辰戦争をみると武器の性能だけで蹴りが付いた戦闘はほとんどない。 石山で苦戦してる信長が長篠でとった戦法なんだから
当然本願寺の戦い方を参考にしてると考えて良いよね 司令部ってか現地で指揮取ってる武田重臣衆の問題だけどね >>420
背水の陣敷いた以上、攻撃するしか道はない >>416
防御側は攻撃側の3倍に比するっていう法則があるから基本的には防御側が圧倒的に優位だからね。防衛火器まで備えてたら尚のこと。それを戦略で切り崩せるかどうかが勝敗の分かれ目よ。 >>423
兵力を誤認したからか?
背水の陣って強いられるものじゃないだろ >>424
設楽ヶ原に進出していざ攻撃か攻撃中かはわからんが
その辺りのタイミングで退路の鳶ヶ巣山が落とされたという報告を受けてる 史料上だと落ちたかどうかまでは分かっていたかどうか。信長公記だと長篠城包囲軍は負けて「鳳来寺に向けて退却」甲陽軍鑑だと「一兵残さず全滅」の被害を受けた訳だが武田軍が総攻撃した時点では鳶ヶ巣山に火の手が上がった事を見た程度だったはず。長篠城包囲軍には3000もの兵を置いてるからそんな簡単に落ちないと踏んでた筈だし下手すると織田徳川軍が少数で放火して逃走した可能性もあるし。
真実が分かった頃にはもう二進も三進もいかん時だったのかも。 長篠の戦いのアウトラインについては一次史料や比較的信憑性のある史料でとっくに明らかでしょ
織田は決戦をもくろみ兵力を隠しつつ野戦築城した
武田も決戦を志向し、山から降りた
織田は鳶の巣へ分遣隊を送り、背後を遮断
武田は挟み撃ちされ、各個突撃を開始
織田は敵を引き付け銃撃し、引けば足軽が取りついて退却を妨害(推測になるが挑発もあるんだろう)
大打撃の武田はどっと逃げていき、織田は追撃戦を実施した(ただし、さほど深追いはしなかった)
山から降りなければ決戦は不可だったわけで、だから同時代の自陣営の人にも粗忽な戦とか書かれた
この基本線からずれた話は眉唾だよ 織田軍は(下手したら徳川軍も)鉄砲以外使ってない。敵に合わせて進退して攻撃する戦術は武田軍お得意で名を「隠遊」と伝わる。馬場信房が勝頼に進言したってのがこれ。もし槍兵が打って出てきたらそれこそ武田重臣衆の思う壺だったろう。またそれで負け始めたら自分達の十八番が敵に取られてると分かって戦術を変えてなきゃおかしい。ところが重臣衆は歩兵を次々投入して遂には大将までも突撃して銃殺されてる。武田重臣衆がバカだった可能性もあるが、それよりも白兵戦にならず得意の戦術が使えなかった可能性の方が高い。 >>427
その通り
史料に書いてあることをわざわざ否定して妄想繰り広げる人がいるから荒れる 長篠合戦って銃撃戦だったから大将首上げた奴の名前が知られてないんだよね。白兵戦だと「誰が誰を討ち取ったか」が明確だからその名が知られるわけだが多数の鉄砲使った場合誰が撃った弾で死んだのかわからんから名前がつかない。
信長公記では乱戦になった桶狭間の戦いですら義元の首を取った奴の名前が載ってるけど長篠の戦いでは誰一人載せてない。鉄砲戦では誰が誰を殺したとかわからんというある意味現代的な一面が垣間見える。 >>431
は?二次史料以下でいいなら伝わってるよ
今川義元みたいな大物と一緒にしたらいかん >白兵戦だと「誰が誰を討ち取ったか」が明確
二次史料ならともかく一次史料じゃほとんどの場合が不明だぞ >>427
現実の火縄銃じゃ不可能って事を除けば良い説だね >>434
史料批判した上で導き出せるもの
つまり史学として大事な「実際に起こった事実」を探ろうと思えば上記のアウトラインでしかない
いい説もなにも、まともな研究者ならこの線から外れるわけがない 西南戦争の資料でも銅や鉄を弾丸に使うと20メートル以上はまっすぐ飛ばないって証言があったけど
鉛以外だとそんなあかんのかね
ってかあれはゲベールなのかな? >>436
比重が軽いと失速するのが早いんだよ。
運動エネルギーが全然違うから。 実は隠された罠だった!「長篠の戦い」信長vs最強の武田軍 まるで城のような連合軍陣地
https://www.youtube.com/watch?v=q5BfrY6Kecs 火縄銃は20メートル先の的にすら当たらないっていう代物。
だから隊列を組んで面で制圧する、ってのが東洋西洋問わず銃の基本戦術になる。問題はそのせいで鉄砲隊は必ず最前線に居ないとならない。そして前方に味方が居ると発射出来なくなる。味方をかわして敵に当てるのは至難の技だからね。
それで長篠合戦では歩兵戦は無かったとされている。何故なら織田徳川兵が迅速に自陣に戻れるってことは武田軍も迅速に陣地に入ってくるので鉄砲隊を維持できない。逆に武田軍が迅速に侵入できない陣地は織田徳川兵も簡単に戻れないので歩兵を繰り出す理由が無い。織田・徳川兵が武田兵の3倍以上の強さだったのかもしらんが… またその話題?そんなの史料に書いてあるんだから否定しようがない
織田の足軽はある程度進退している
三河物語「10万余の人びとは柵の外に出ることなく、足軽だけを出して戦いをした。」
信長公記「信長公は自軍の足軽が敵に仕掛けるのを御覧になっていた」「懸かれば退き、退けば引き付け」「足軽にて会釈」
甲陽軍鑑「武田軍は敵を柵の中に押し込んだ」
日本語読めないのかな? 敵陣にぶち込むのに当たる当たらないって、誰かしらに当たるやろ
1on1じゃないし >>392
江戸時代は平和な時代だったから鉄砲技術は進歩しなかった、という俗説はとっくに否定されてる。江戸時代でも尚、鉄砲は重要な兵器であり改造・改良が行われた。
例えば江戸時代の火縄銃は銃口を漏斗型にしてる。これは装填を容易にする工夫。初期の火縄銃(有名な信玄砲だとか)は銃口が垂直に切られてるけどこれだと銃口から玉薬が溢れたりして面倒だったからね。また銃身の出来も格段に良くなって発射時に銃身が裂けるような事故が起こりにくくなった。
点火薬の改良や長銃身にして命中精度を向上させたりカルカを銃に取り付けられるようにしたり…と様々な進化を遂げていたりする。戦国時代から実戦で報告された問題点が取り除かれた時代でもあったのだな。 >>440
信長公記「御味方一首も前に出ず」
つまり織田軍は「誰一人も前進しなかった」と書いてる。また「鉄砲のみを相加え」とあり銃撃以外の戦闘を否定。その結果は信長公記には「(武田軍は)無人の如く」三河物語は「武田の大将はみな鉄砲に当たって死んだ」甲陽軍鑑は「城攻めの如くして大将含めてみな鉄砲に当たって死んだ」とある。 >>443
>>>440
>信長公記「御味方一首も前に出ず」
足軽は「一首」じゃないから
>つまり織田軍は「誰一人も前進しなかった」と書いてる。
書いてない
足軽で仕掛けて敵が引いたら引きつける、足軽であしらったと書いてある
足軽で引きつけて鉄砲で攻撃する
鉄砲だけでは敵を引きつけられない面があるからね
「前後より攻められて武田軍も人数を出してきた」これもそういうこと
信長公記に書いてあること否定するのは無理 >>439
またお前かよ
火縄銃の有効射程距離は200メートルで50メートルなら鎧も無効だからな
20メートルは暗殺失敗したやつの時な ボケた爺さんが
他人の意見を聞かずに同じ話してるだけだろ 信長が歩兵を前進させるのはおかしいからな。長篠城を包囲してる武田軍が設楽原に来るのは決戦に勝機があるから。つまり「野戦最強の武田軍なら織田徳川は鎧袖一触」という話。だから信長は野戦築城の技術で武田軍を待ち構えた。で「野戦なら勝てる」と思ってる武田に対して信長が白兵戦をさせるか?更に設楽原に移動してきたところで長篠城を救援させた。この思惑が「武田軍の退路を絶つ」ことにあるならもう武田軍は前進するしか道が無い。だから織田徳川としては待ってるだけで敵が死にに来る状況。甲陽軍鑑に「上方の兵は出てこない」とあるのも当たり前で兵を出す理由が無い。 >>445
当たればな。当たらないと話にならんぞ。戦艦大和の主砲は射程42キロメートル、だから42キロ先の敵艦を撃破出来るなんて言ったら笑われるのとおんなじ。20メートル先の無警戒な目標を2発も外してしまう武器では警戒しながら突っ込んでくる歩兵には心許ない。まず100メートルまでは引きつけんと防具を抜けない。更に命中可能範囲まで引き付けてもまだ当たるかはわからない。弾が出ない可能性もある。
だからこそ戦術が必要で戦術が有れば長篠、なかったら岐阜の戦いとなる。 >>447
ボケてるの?
空想するのは自由だが、史料を正確に読んだ上でないと話にならん
史料を誤読、誤訳、誤用のオンパレードじゃん君 撃てば当たるくらい密集して相手から態々突撃してくるのに当たらなければなんて無意味
しかも織田側は指揮官が後方で指揮出来るのに対して、武田側は攻めてで指揮官が前に出る必要があり、武士の死者が増えるのも当然 >>444
その説は現実的じゃない。何故なら足軽は勝手に進退出来ないから。例えば「敵は総崩れ突撃せよ」みたいな状況ならわかる。でも「敵の進退に合わせて行動」ってのは一兵卒に判断出来る領分を超えてる。無線通信機があれば本部から指示が出せるがそうで無いと混乱が起きる。敵が突っ込んできた時に前が「退却!」後ろの奴が「攻撃するぞ!」と言ったらお前はどうする?って問題よ。だから足軽を小隊に編成して小隊長が指揮を行う。そしてその小隊長が上位指揮官より司令を受ける。
もし足軽「だけ」が柵の前に出て敵を引きつけていたら織田・徳川兵の能力は武田兵を圧倒してた事になる。それは所謂「農民兵の武田・職業軍人の織田」説を超えてる。そうでないなら信長公記の「御味方一首も前に出ず」は雑兵すら前に出てないという事になる。 >>451
説とかそういう話じゃないだろ
信長公記に書いてあることを誤訳、誤読するのら問題外
君は正確に読むことからやり直し 現実として不可能である事はわかったろ?つまり信長公記の「御味方一首も前に出ず」から織田軍は兵を前に出してないことが分かる。また織田軍の戦闘方法は「下知通りの鉄砲」射撃であってそこからは白兵戦の要素は全く窺えない。また武田軍の被害は全て鉄砲であると明記されている。
では敵の進退に併せて云々とはどういうことか?まず「御味方は一首も」前に出てないのだから追撃戦をしてる訳じゃない。だからこれは鉄砲足軽隊の動きを表してる。つまり武田軍が空堀と土塁を肉壁で超えてきたら後退、逃げていったら元の配置に戻ってるってだけ。仮に敵を追撃しようとすると上級指揮官が率いる事になり「御味方一首も前に出ず」が否定されてしまう。 >>453
一首って足軽は含まれてないって指摘されてるのに無視?
ボケてるの? 白兵戦?足軽は敵が来たら引き、敵が引いたら引きつける
あしらうためにいる
足軽で攻撃したわけでもないし、鉄砲隊だけであしらうことはできない
白兵戦やったなんて誰も書いてないよ
信長公記の現代語訳を買って読んで出直しな >>454
足軽だけで敵の進退に合わせた攻撃が出来たら織田兵強すぎです。お前さんも人を使ったことがあるならわかるだろ?
下級兵は簡単な命令なら遂行出来るが「いつ戻るか」「いつ進むか」なんて判断出来ない。全員が完全に意思疎通する方法なんて無いんだから。だから指揮官が必要。「御味方一首も前に出ない」ということは足軽含めて一人も出なかった事になる。それとも織田兵がスーパーヒューマンだったと言うつもりかい? >>456
足軽が命令通りに動くかとかアンタの空想の世界が論点じゃない
信長公記になんて書いてあるか?論点はそこ
「信長公は足軽が敵に仕掛けるのを近くでご覧になっていた。前後より攻められて武田も人数を出してきた」「敵が来たら引き、敵が引いたら引きつける。足軽であしらった。」
これ読んで足軽が進退していないと読む人はいない
国語の問題だよ
ボケてるから読めないのかな? 足軽が敵を引きつけていたか?答えはノー。まず当時の火縄銃は援護射撃が出来ない。面で制圧する以上前に味方が居ると味方に当たってしまう。鉛玉は貫通力が無いのでマジの犬死である。そして敵は無傷で突っ込んできてしまう。だから間合いが重要で味方が鉄砲足軽隊の後ろに逃げ込むまでに敵に追いつかれない間合いが要る。これが何を意味するか?織田の足軽は武田兵に追いついてはいけないって話になる。滑稽なことに。だとすると武田軍の戦術も簡単になる。要は武田のお得意隠れ遊びをするだけ。 >>457
だからその「足軽」は「鉄砲足軽」ってだけ。何故なら信長公記には「御味方一首も前に出ず」に「鉄砲のみ相加え」て勝ったのだから。 >>458
誤訳の常習犯は妄想する前に信長公記ちゃんと読めよ
訳せないなら日本語訳簡単に買えるんだから買え
議論のスタートにすら立ってないよ >>446
一首に足軽が入ってないのは以下からしても明らか
三河物語「10万余の人びとは柵の外に出ることなく、足軽だけを出して戦いをした。」
鉄砲足軽だけでら敵を仕掛けることはできないし、あしらうことはできない
信長公記は足軽が仕掛けたから武田も人数を出して攻めてきたと書いてある
ついでに言うと足軽はあしらうためにいるのであり、本気で攻撃するわけではない >>459
> >>457
>からその「足軽」は「鉄砲足軽」ってだけ。
鉄砲足軽が敵が来たら引き、敵が引いたら引きつけるのか?どこからどこに鉄砲持ってる人間は移動してるんだ?
>鉄砲のみ相加え」て勝ったのだから。
足軽があしらって敵を引きつけ、鉄砲隊が攻撃する
書いてあることそのままだよ この方々で誤訳だ妄想だで叩かれてるやつ、専用スレ立ててそこで勝手にやってほしい
会話ができないんだから構うのも荒らしだよ 鉄砲がどうだろうが、騎馬がどうだろうが、二倍の敵が立てこもってる野戦陣地に
正面突撃かませば軍が溶けてなくなる。
当たり前のこと。 溶けてどうにもならなくなるまで突撃した武田の孟優さよ >>461
それも結局鉄砲足軽だぞ。火縄銃は精度が悪いから前面に味方が居ると射撃不能になる。これは倫理的な問題じゃなくて鉛玉が貫通しない為に味方が敵の肉壁になるから。だから必ず鉄砲隊は最前線に配置され歩兵隊が突撃したら射撃を控える。だから柵から出ていたのは鉄砲足軽隊である。ただし!織田・徳川軍は二重三重の防御陣を作っていたので鉄砲足軽隊が居たのは厳密には最前線じゃないけどね。 足軽にて会釈、というのも結局は鉄砲足軽隊による攻撃を意味してる。これは直前の「鉄砲のみを」使っていると明記されてるから一目瞭然なんだが。考えてみりゃわかる。
もし武田兵が退いた時に織田兵が前進してしまうと鉄砲隊は射撃出来ない。射撃する為には味方が鉄砲隊より後ろにいないとならない。つまり、前進した織田兵は絶対に武田兵に接近出来ない。仮に接近してしまうと反撃されたら鉄砲隊が攻撃出来なくなる。そんな喜劇に命を張らせるほど織田信長はバカじゃないし踊らされる程馬場信房もマヌケじゃあるまい。 >>467
何の反論にもなってないよ
足軽は挑発はするけど本格的に攻めかかるわけではない
だから鉄砲のみで攻撃したと書かれている
足軽は敵が来たら引くと書いてある >>466
信長公には柵が何重だったか、破られたかどうかは書いていない
記述されている足軽は明らかに柵の外の活動
その足軽が鉄砲を持ってる?挑発をなんで鉄砲持ってる足軽がやる必要あるんだよ
足軽が挑発して敵を引きつけ、鉄砲だけで攻撃する
信長公記にはそう書いてある >>461
ちなみになんで「織田・徳川軍は柵の中にいた」と書いてあるのか?っていうとその理由は後段にある。つまり「大久保忠世、忠佐の兄弟が柵の外に打って出て柵内の味方と武田軍の間に割って入り、敵をひきつけたり、追い払ったりしていた。それを見た信長が家康に問うと金の揚羽蝶の指物は大久保の兄弟ですと答え、信長も家康は良い家臣を持っていると感心した…」というもの。とどのつまり「織田の連中は全員柵の内側だけど徳川軍は勇猛に戦ったんだゼ!」という自慢である。 で、ここで一つ問題が。大久保兄弟の働きは確かに信長・家康の目に留まるものだった(甲陽軍鑑にも載ってるのでまぁ真実なんだろう)。じゃあ柵の前に出ていた「足軽」とはなんなのか?これが通常の槍兵ならそいつらを指揮していた連中も居るし何より武田兵が突撃してきた時激戦になったろう。なら大久保兄弟以外にも英雄譚が生まれよう。この足軽たちは何者で何をしていたのか?というと答えは一つで彼等は鉄砲足軽だった。要は突撃してくる武田兵に射撃を見舞うと後退する、野戦築城した鉄砲構えに引き込む為だけの存在だったのだろう。 >>470
三河物語だと大久保は敵によくついて敵が来たら引き、敵が引いたら追いかけ、見事に采配したから信長に賞賛された
ちょうど信長公記の敵が来たら引き、敵が引いたら引きつけるという足軽に関する記述と同じである
甲陽軍鑑にも大久保の活躍が記されてるから活躍したのは事実とみて良い >>471
妄想とか推測は不要だし禁止な
史料に何が書いてあるかが論点だから
アンタみたいに妄想癖も予備知識もない人が読んだらどう読むか?太田牛一は何を伝え残したか?
答えは足軽は足軽
挑発する足軽は鉄砲なんか持ってない 信長公記だと信長本人は家康の陣地に来て、足軽が武田へ仕掛けるのを近くで見ている
三河物語だと大久保が足軽とともに柵の外に出て敵が来たら引き、敵が引いたら追いかけるところを信長が観ていて賞賛したとある
両者の記述は意外に互いに整合性が取れている
ここでいう足軽は当然鉄砲は持っていない >>469
戦争の始まりは必ず鉄砲隊が攻撃する。文字通り「火蓋を切る」ワケ。でここで思い出すべきなのは火縄銃は装填に60-180秒必要ということ。逆言すると60秒以内に走破可能な距離まで近付けば鉄砲隊は一撃しか撃てぬ。仮に仮想戦記並みの幸運、初撃全弾命中しても鉄砲の数しか死なない。それで鉄砲隊には突撃で対処できる。さて信長は武田軍に突撃してきて欲しい。その為の野戦築城でその為の鉄砲。じゃあどうすれば良いのか?鉄砲をぶっ放せばいい。武田軍が対鉄砲戦のセオリーを取りたくなる様に。つまりそれが最初の「足軽をけしかけた」理由。結果は?武田軍は鉄砲射撃のみで無人の如くなった。 >>475
アンタは隙間ない柵の中から出てこない、追撃してないとか書いてたくらいだから、それに比べたらだいぶ進歩したなという印象だな
いずれにしてもいつも誤訳だらけだから信長公記の現代語訳買って読み直した方がいいよ 泥濘の道を糞重い甲冑着て走るって
その先に辿り着いてもバテバテじゃまともに白兵戦できないことも知らないのか ↑は>>385宛ね
悪路と甲冑の重さで徒歩で走るとまともに槍も振るえないほど
バテるから馬に乗ってた
糞重い物と悪路を自分で走ってみたら? んなもん再現実験と数理モデルシミュレーションで一発で答えが出るだろうに。
妄想狂vs文献史料バカの幼稚な論争は何処まで行っても不毛だし、結論も出ない。
他にスレを立てて一生やってろ。 ついでに云っとくと、
中学生レベルの運動方程式も解けないから>>437みたいな愚かな書込を平気で出来る。
それを指摘する者もいないところを見ると、文系脳の知性は小学生レベルか。 >>477
マジレスするとそれで何とかなると考えていたのが武田軍。これは実は常識的で武田兵が泥濘の不利を受けるなら織田徳川兵も同じ不利を受ける。また信長家康は設楽原を整地してるとも考えていたんだろう。兵が迅速に動ける様にしてないと長篠城を救援出来ないのだから。ところが信長の考えはその上を行っていて野戦築城で多数の空堀・土塁に鉄砲構えまで仕込んだ殺戮陣になっていた。その結果武田兵は不利を受けるが織田徳川兵はそこまで不利を受けなかった。 信長公記はひたすら「武田軍を鉄砲で粉砕した」とだけ書いてある訳だが実はその順序と内容が面白い。
第一次→山県昌景・鉄砲に撃たれて退く
第二次→武田信廉・鉄砲だけで攻撃し過半数を討たれ退く
第三次→小幡一党・騎馬隊で来るも身隠しの胸壁から射撃して全滅
第四次→武田信豊・黒武者が来るも上と同じ
第五次→馬場信房・上と同じ
つまり兵が移動していたのは最初だけで第三次攻撃からはもう一方的銃殺劇になっている。 敵の進退に合わせて攻撃するなんて複雑な作戦は指揮官が居ないと出来ない。足軽だけでそんな事が出来たら織田兵は全員武田重臣衆クラスの猛者って事になる。信長公記には「御味方一首も前に出ず」「鉄砲のみ相加え」「敵がかかれば退き退けば食い下がり下知通りの鉄砲射撃にて過半を討ち取る」とあるから全て鉄砲足軽のみで戦争してる。これは三河物語と組み合わせると非常に面白い。つまり信長は野戦築城による鉄砲陣地で武田軍を滅殺し、それでも生き残った奴がいたら白兵戦にするつもりだった。つまり必勝だった。 >>483
下記訳してみ?
「2番に、 正用軒 ( 武田信廉 ) 入れ替え、懸かれば退き、退けば引き付け、御下知の如く、鉄砲にて過半人数撃たれ侯へば、その時、引き入るなり。」
「 >>484
鉄砲足軽が敵が来たら引き、敵が引いたら引きつけるんだな?
つまり鉄砲足軽は柵の外に出ているのは明らかだ
君が過去に誤訳していたことをようやく訂正したわけだ
遅すぎだよ 信長公記の前に出るなって
足軽の前に出て戦うなって意味で、前線で指揮するなって意味じゃないぞ。 >>485
下知の通りに鉄砲にて人数を撃てば、ってもう鉄砲足軽だって認めとるやん。分かってくれてありがとう。
そうよ。結局敵の進退に合わせて動いていた…これは信長からの命令、下知だった…のは鉄砲足軽。通常の白兵戦だと敵が逃走したらそれ以上の速度で追わないとならない。逃げたフリが有効なのはこれのため。武田お得意の「隠れ遊び」である。ところが鉄砲なら射程100メートル、必殺の30メートルに敵を捉えていれば良い。仮に尻尾を巻いて逃げ出しても武田軍は前進するしか道が無い。つまり待っていりゃ良い。 >>488
答えになってないよ
日本語分かる?
「懸かれば退き、退けば引きつけ」
これどんな状況か説明してみな >>488
「近々と足軽 懸けられ御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯」
ついでにこれを訳してどういう状況か説明してみな >>489
お前さんこそよく読みなさい。
かかれば退き、退けば引きつけ「下知の如く鉄砲にて過半」撃つ、とあるだろう?つまりこれらは同じ軍団が行ってる。そしてもう一つ常識を弁えないとならない。それは「火縄銃は精度が悪く装填に時間が掛かる」ということ。
つまり火縄銃は味方が連れてきた敵を射殺するという事が非常に難しい。味方に当たらない様に撃てないからね。ちなみに味方ごと撃ち抜く事も出来ない。信長公記にはどこにも「足軽が敵を追いかけた」というところは書かれてない。これも当たり前だとわかるだろ? >>492
鉄砲隊が敵が来たら逃げて、敵が退いたら追いかけるのか?
その役割ができる長槍隊とかいるのに使わないで鉄砲隊が柵の外で進退してんのか?
しかも敵が来たら逃げながら装填するのかw
そんな馬鹿な読み方するのは君だけ
信長公記の現代語訳買って読んでみなさい
足軽は足軽で柵の外で挑発、引きつけて柵の中から鉄砲隊で攻撃とはっきり役割分担されてるから
君の誤訳と誤読には正直うんざりだよ で、彼の様な勘違いの原因は何かと言うとそれは火縄銃への無知にある。日本人は銃を撃ったこともないしましてや火縄銃なんて漫画でしか見た事がない。だからゲームのような、狙撃銃で味方を援護射撃してるような真似が出来ると勘違いしてしまう。だがそんなものは所詮は妄想で現実とは違う。
敵が退いた時にこれを「引きつけ」ようと歩兵が前進すると鉄砲足軽は射撃出来なくなる。もしその味方が敵に逆襲されても何もできない。この戦法は武田軍お得意なのだから危険しかない。信長がそんな意味不明な作戦は取らない。
まぁ多分、「バカな信玄重臣衆をキリキリ舞させる天才大将・織田信長」を描いた小説でも間に受けたんだろうけど…
重臣衆は確かに信長の策にハマったがそんなに愚かじゃない。 信長が上手くやったんだなとは認めたくないが信長を認めないと武田がどうしようもないアホになるというジレンマ >>494
敵が来たらぶつからないですぐ足軽は退いて柵の中にでも入るのだから射撃には何の障害にもならない
命令だって太鼓一つで事足りる
敵が退いたら射撃で負傷した敵兵を討ち取る
この繰り返しだよ
鉄砲隊が柵の内外を進退して、しかも動きながら装填してるって冗談だろ? >>493
信長公記にも三河物語にも甲陽軍鑑にも「織田兵が武田兵を追いかけた」という話は載ってない。寧ろ逆で「織田の兵は柵の中に籠ったまま」と書かれてる。信長公記には「御味方一首も前に出ず」とあるしね。そして織田は鉄砲のみで武田軍を撃ち破った。
つまりこういうこと。織田軍は野戦築城、空堀と柵そして銃眼で守られた三重の陣地に籠ってる。そこに武田軍が突撃すると鉄砲兵は背後の陣地に下がる。武田兵も追いかけるが鉄砲を撃ちかけられて大損害を被る。武田兵が撤退すると鉄砲隊は前進して元の陣地に戻る。これがほんの少し、起こった。 >>497
三河物語は武田が退いたら大久保含む足軽が追いかけて攻撃してるよ
織田軍は?というと不明だが、今の論点は信長公記記述の足軽の話だろ
信長公記だと信長は徳川陣地にいるし、大久保を間近で見ている 織田兵が余程精鋭だったと思ってるんだね。所謂「信長の画期的政策・兵農分離」論か。根強いんだよなぁ…
まず太鼓云々は現実的に厳しい。陣太鼓を使った指揮は武田もしてる。しかも武田勝頼は諏訪大社の太鼓にヒントを得てこれを戦争に使用した。つまりこの時の設楽原は太鼓の音で満ちている。この中でどうして織田兵が「あれは自軍の太鼓だ」と判るだろうか?更に織田軍は「御味方一首も」前に出ていない。指揮官の居ない彼等は烏合の衆で対する武田軍は指揮官が命令してる。そして武田には敵の進退に合わせこれを撃ち破る戦術がある。どうして織田兵が勝てるのか? きっと足軽が前にいる状態というのは彼の頭の中では
古代ギリシャのような隙間ない戦列歩兵で前線は全て埋められて弓鉄砲はその後方にあるんだろうな。 >>499
織田が精鋭だったかとかそういう考察や妄想、感想なんか聞いてないんだよ
史料になんて書いてあるか?それだけの話
史料も正確に読めてないのに引用するのは論外だろ?
敵が懸かれば退き、敵が退いたら追いかけるのは誰がどこで何をしていた描写なんだ?
手元にある信長公記の現代語訳だと足軽は足軽で柵の外で挑発、鉄砲隊は柵の中から攻撃としか読めない >>498
徳川軍だけ柵の前に出てるのは実は半分は嘘。設楽原の布陣は信長の命令で故にそれに反する行動は軍令違反、信長への反逆ですらある。そんな危険行為を信長も家康も許さない。つまり許された理由がある。それは甲陽軍鑑に記されている。なんと徳川陣には柵が無い場所があった。それが設楽原最南の乗本川沿い、徳川陣の右である。柵が無いんだから柵の中に居ろもクソも無いだろう。 >>502
三河物語「10万余の人びとは柵の外に出ることなく、足軽だけを出して戦いをした。」 >>502
甲陽軍鑑「武田軍は敵を柵の中に押し込んだ」つまり柵の外にいたのを柵の中に押し込んだと書いてある 甲陽軍鑑によれば…
山県昌景は徳川陣を攻撃するがこの時柵の無い所に気付いて隊を迂回させ攻撃を試みる。ところがそこには金の揚羽蝶と金の釣鐘の指物をした武者が待ち構えていて我ら大久保兄弟と名乗りを挙げられてしまう。対して山県隊から小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門が名乗りをあげ戦闘となる。九回競り合うも小菅・三科が負傷して退却した…
という。 >>504
こいつ何を言っても無駄で、誤訳してもお構い無しやってよそでも総すかん食らってるから
構わないでくれ、調子にのって書き込み続けるから
読むべき価値なんて微塵もないものが書き連ねられていると不快でしかない >>507
宝川合戦は本当にあったのかとか、そういう話した方がまだましでしょう
この戦いが収載された長篠実戦記は冒頭に参考史料を載せているんだが、当該部分を何から引いてきたかが分からない
江戸前期の碑があるというから、近しいことは実際にあったんだろうが つまり三河物語の嘘というのはここで、織田・徳川軍が柵の中にいるのはそこが野戦築城によって銃撃のみで敵を倒せる様になってるから。進退出来ないがそもそもする必要もない。だが大久保兄弟のいる陣地は柵が無い。ここだけは通常の野戦戦術を使わざるを得ない。だが徳川軍は戦術で圧倒した、その結果柵より前にいる様に見えた。ところがスコアでは織田軍が圧倒してる。だがそれでも天下の武田軍を跳ね返したのだ、大久保一族の鼻が高くなるのも仕方ないではないか。 >>500
火縄銃って20メートル先の的に当たらない。だからはっきりいって味方もしくは敵がどんな姿勢を取ってるかは考慮する必要は殆ど無いぞ。何せ鉄砲の前の何処かを飛んでいくからな。逃げてくる味方を援護したくても味方に当たらない保証は無いから撃てない。仮にぶっ放して味方に当たったら数秒後に敵が自分の首を刎ねてるんだから。 あと陣地馬防柵も綺麗な直線になってるって考えてるんだろうな。 そもそも足軽が出ていた柵が何処の柵を指すのかから考えんといけない。設楽原保存会の史料調査で織田・徳川軍の柵は最前線は「連吾橋より浜田まで」としてあり連吾川沿いに作られていた事が分かってる。そして防御陣は三重に作られていた。三河物語の柵が最前線ならそこにいる足軽は鉄砲足軽ということになる。何故なら連吾川は川幅が100メートルは絶対に無い。そして一般には知られてないが武田家は鉄砲を多数配備していた。つまりこの柵から出てる足軽が槍兵とかだと対岸の武田軍の弓鉄砲投石等の遠距離兵器に狙い撃ちにされてしまう。 名和弓雄によると武田軍も鉄砲は持ってたし対鉄砲戦術も確立してた。野戦に置いても戦術が徹底されてた。にも関わらず武田軍が一方的に射殺されたのは野戦築城、特に土塁を兼ねた銃眼にあるとしてる。 鉄砲で1万人殺されたなんて言う時代劇考証を信じられない 名和弓雄自体は本も持ってるが
論拠とする奴の引き出し方が気に入らなきゃ >>514
一万人云々なんてぇ与太噺を信じてるのは軍記厨とゲーム脳だけだから安心しろ。
真っ当に考察すれば>>367程度のことにしかなりようがない。 なおその後信長はその後細川藤孝に「近年の鬱憤を散じた」と送ったけど明確な数は全くわからず 現代のウクライナ戦争でもお互いが死傷者数をプロパガンダで誇張して
正確な数が分からんのに、戦国時代なら分かると思ってる池沼が一人いるだけだろ 沢山死んだんだろうけどそもそも1万人も参加してないんじゃないんすかね 信長が神懸かり的な戦略眼で朝倉軍を粉砕した刀根坂の戦いでの戦果が三千人、これでも盛ってるとか言われてる。
対して長篠は信長公記で一万人、信長黒印状で数万騎を討ち取ったと言ってる。つまるところとんでもない大勝よ。一万人死んでてなんらおかしくない。しかも武田家はこの後戦力不足が顕著になるからね。 長篠敗戦後武田軍は徳川軍の攻撃に対応出来ていない。6日後の駿府攻撃も防げず、諏方原城も犬居谷も二俣城も取られた。何とか防いだのは小山と高天神。何方とも戦略的価値はそこまで高くは無いのだが… 引き継ぎ無しで大将クラスがあれだけ死んだら暫く対応できないけ 長篠敗戦の打撃は尋常では無かった。大将クラスは即座に替わりの人事をして対応した。例えば穴山信君を駿河戦線の指揮官に据え、また相続を行わせ、そして士分から商人や出家した者達を呼び戻した。ところが兵隊が居ない。指揮官が何百人いても兵隊が居なけりゃ軍は動かせない。それで勝頼は躍起になって兵隊をかき集めた。それで武田軍を再編してこれには家康も「武辺の意地を感じる」と感嘆した(『当代記』)らしいがしかし質の低下は隠し通せない。徳川軍は「武田軍に農民がまじっていて見窄らしい」と報告(『家忠日記』)を受けてるし当の武田も「軍役の補填のため夫丸などまで動員し員数合わせをしているありさま」と落胆している(『戦武』二八三七~三九) 喩えるなら決戦で空母機動部隊が壊滅した。替わりの船も飛行機も士官も集めたがパイロットが居ない。学校を卒業したてのヒヨコを使わざるを得ない。そんな状況に陥ってる。だからこの後織田・徳川軍は武田を恐れず作戦行動するようになった。腕利きの兵隊が居ない軍隊なんぞ恐るるに足らんからね。 実際米軍もブーゲンビル島やソロモンでの防空戦で日本海軍の精鋭をボコボコにして恐れず行動するようになったからな
長篠と同じよ
当然その後の雑魚なんて問題にならんわけで
そう思って余裕ぶっこいてたら神風アタック食らってまた慌てた訳だが武田はそれがなかったな 武田は長篠敗戦後はもう火の車で天正六年には軍役対象者が「貴賤問わず十五以上六十以下」になってるからね無茶苦茶よ。国家総動員体制敷いてなんとか国体維持してるがもう限界が見えてた。それでようやく三万から五万の兵を出してたんだが織田はその頃十万以上の軍勢を投入可能になってた。 信長は武田軍が前進した事で武田軍が決戦を志向した事を理解してるし鳶ヶ巣山を叩いた事で前進を強制させた。だから白兵戦を行う必要性が皆無になってた。このおかげで武田軍のみが踏み潰されてしまった。 勝頼は長篠敗戦後に軍役で「鉄砲一挺につき二百か三百」の弾薬備蓄を命じてる。武田は前から鉄砲を配備していたし何なら「長槍より鉄砲」とまで言っているけど具体的な数量まで指定してるのはこれが初めて。逆に言えばそれ程長篠での織田・徳川軍の射撃が猛烈だった。 鉛玉を使う織田・徳川軍に対して慢性的に鉛が足りなかった武田軍は鉄玉を使っていて既に戦闘能力に差があった。
武田軍は野戦なら勝てると踏んで挑んだ訳だが信長が最先端の戦術を使った為に大敗してしまった。 江戸時代の砲兵術にも載ってるように威力減損の圧力漏れを無くす「突き固めができる」鉛と違い
硬度が高く「突き固めできない」圧力漏れを起こしてたであろう鉄・銅の弾を使っていた武田の鉄砲は本来の威力が出てなく
それを基準に突撃しても致命傷は出ないと武田は鉄砲を過小評価していた可能性は確かにあるな
江戸時代の砲兵術で指南されてる「突き固め」もしてなかった可能性もある >>534
相手にしたらダメだよ
会話できないから無駄 鉄砲の数よりも弾丸、弾薬の量が武田を始めとする他の戦国大名の想定外だったんじゃないかな
直ぐ尽きると思ってた狙撃を始めとする決定的な場面でしか運用されない、できない貴重な射撃機会を
弾幕射撃みたいに延々と繰り返したのが 三千っていう鉄砲の数も驚異的だけどそれよか問題は数千人下手すりゃ一万人が鉄砲で殺されてる異常事態よ。戦国時代史においてそんな事態は長篠の合戦だけだろう。攻城戦ならまだしも野戦でこれは凄まじいの一言。 機関銃と重砲で殲滅でもないと武装集団を火縄銃で1万人も処理するのは物理的に不可能でしょう それが現実化したというのが信長公記・三河物語・甲陽軍鑑の記述だからね。確かに火縄銃は有効射程30メートルで装填に60秒は掛かるので一見不可能に見える。ただしこれは移動が迅速に出来る平地の話で移動を困難にさせる野戦築城なら話が変わる。空堀・土塁で武田軍の進軍を阻んで銃眼(信長公記の「身隠しの胸壁」)から撃ちまくった。銃眼に対して歩兵は完全に無力。鉄砲を使うしか無いけど土塁と一体化した銃眼の後ろに居る射手に当てるのは名手でも難しい。 ゲームじゃないんだから。
兵が全員士気が高く戦闘すると思ってるなら大間違い。
侍(上級武士)
恩賞が貰える。怪我しても自領を親族や息子に家督譲れば隠居という形で飯を食える。
殿軍を受け持つのもこいつらで、死んでも自領の保証と恩賞が出るから士気が高い。
足軽
一代限りの扶持米支給。恩賞は貰えないことが多く、藤堂高虎のように転々とすることも。
戦えないないほどの怪我したらクビで百姓になるなりしないと飯食えない(秀吉の父)。
命を賭けても恩賞がないから言われた命令に従うだけで士気はそんなに高くない。
敵を討ち取る目的じゃなく敵の進軍を妨害する目的の長槍を持たされることが多い(軍役も長槍の数が多い)。
雑兵(陣夫など)
兵糧など荷物を運んだり陣地構築のために連れてこられる奴ら。
恩賞どころか死んだら完全に犬死になので、士気は無いに等しい。
ただ、略奪だけは本気でやるので負け戦濃厚になって略奪できなさそうな空気になったら蜘蛛の子を散らすように去ってく。
軍役も三人役から五人役が標準と言われるように突撃できるような士気の高い侍(主戦力)は全体1/3〜1/5と言われてる。
1万人も突撃するわけないだろう。 >>539
何に書いてあろうと非現実的なことは否定されるんだよ どこか一つの史料だけが書いてるなら盛った可能性があるけど参加者全員が認めてるので疑う余地は皆無。 >>540
武田軍が何故野戦で強かったかと言うと兵隊の訓練が行き届いていたから。武田の軍学は殆ど各隊の連携が必要なものばかりでつまりそれだけ訓練・統率が取れていた。
問題は信長の野戦築城でこれ武田軍陣地からは見えない。だから武田重臣衆は強撃を繰り返してしまった。全容が見えた頃には武田軍は「無人の如く」なっていた(信長公記)通常の野戦なら味方が押されてるか押してるかは感覚としてわかる。でも野戦築城はそれすら察知させなかった。 野戦築城って柵よりも空堀と土塁がキモだからね。落っこちた挙句に蜂の巣にされる。 糞重い甲冑着てるから田んぼの泥濘や空堀上るのもかなり苦労して体力も息切れ、槍も振れないだろう
そこを避けて田んぼの畦道を通るなら鉄砲隊もそこに集中砲火できるようにしてたろう
それを無視して24秒後に射手の前にいるとか駄々っ広い平原にいる設定と武田軍は無限の体力があったって設定なんだろうね そうした場所だから信長も家康も歩兵隊を使わなかった訳だしね。長槍兵なんか使えん。 道が良いところがあったら敵兵も迅速に突っ込んでくるから鉄砲隊が再装填出来ない。
敵兵が迅速に動けない地形なら鉄砲隊が撃ち放題だが味方も動けない。
武田軍は鉄砲射撃のみで撃ち破られてると信長公記にあるのでどのみち織田徳川軍は迅速な移動が出来ないように野戦築城をしていたことになる。 火縄銃は当たれば防護を粉砕出来る威力があるが精度が悪い。20メートル先の獲物にも当たらないほど。更に装填には60〜180秒掛かるので有効射程内の敵に撃って倒せなかったら再装填は間違い無く間に合わない。だから鉄砲には歩兵突撃で御する事が可能だった。
と、言うことを理解しておけば織田徳川軍の野戦築城が如何に考え抜かれたものか分かるだろう。 >>542みたいな狂信者には何を云っても無駄なんだろうな…。
物理的/数理的考察の結果よりも主観的歪曲に満ち満ちた「文学」を信じてるんだから付ける薬は無い。 原文くれと言っても無視するからあれ馬鹿の妄想だと思うよ >>550
違うぞ、火縄銃の有効射程距離は200メートル
50メートルで鎧をつけた人間を戦闘不能にする
繰り返すが20メートルでの暗殺失敗は特殊な例なので無視した方がいい >>548
そうだな
信長軍はみんな中の扱いに長けていたからな
あの光秀さえ50メートルの的に当てることができるくらい
池田せんなんかは女で鉄砲隊を組織していたくらい
20メートル先の的にも当たらないとかいうのは何もわかっていない無知だから無視すべき >>554
訂正
信長軍はみんな銃の扱いに長けていたからな
三段構えなんか普通だった 火縄銃が何故集団で使われたかを理解しないといけない。何故集団で使うのかと言えば精度が悪いから。点では当たらないので面で制圧する。その為狙撃といった技にも不向きだった。20メートル先の信長を2発撃って両方ハズレという話からもわかるだろう。それくらい狙いが付けられない。だから歩兵が突撃して充分間に合ってしまう。野戦では渡河を妨害する為に使われたりもしたが失敗するケースもあった(岐阜城の戦いでは織田秀信は木曽川を越える池田輝政軍を鉄砲で射撃したが強行突破され敗北している) なんでこんな当たらないかというと施条(ライフリング)が無い事が挙げられるが実は火薬に理由がある。火縄銃は二つの火薬が着火して射撃になる。どちらか一方が不発で弾は出ない。また良質な火薬じゃないから点火までに時間が掛かる。そのため動いてる目標に当てにくいという欠点があった。
何しろ引き鉄を引いてから弾が出るまで何秒掛かるかが読めない。動かない的になら200メートルでも当てられるが動く的では20メートル先でも難しい。これが火縄銃。 狙わなくても当たるくらい密集してるなら命中率なんかどうでもよくね? 火縄銃がそんなに命中率いいならナポレオンも火縄銃使えよ 問題は「狙わなくても当たる距離ってどれくらいよ?」ってこと。名和弓雄は10メートル以下としてる。狙って当たるのが30メートル、大体そんなところだろう。ところがそれでも歩兵突撃が成功してしまう。これは鉛玉が貫通しにくいから。射撃数よりも多くの敵が倒せないのだからそんなに恐れる事はない。それで間合いを測って突っ込むだけ。火縄銃ってのは実はそれ程恐ろしい兵器じゃなかった。ところが戦術と組み合わせると強力な一面がありそれを信長がやってみせたということ。 >>560
西洋のフリントロックはもっと精度が悪いからねぇ…
100万発撃って300人しか倒せないとかいうシロモノだし(それで日本の火縄銃は「驚異的な」精度と思われたと言うが) まあ現代日本人は銃に関して無知だからなんかおかしなことを言う人間が多いね
まだ当時の信長の方が銃に関しては詳しいね おいおいそれじゃ時代劇考証の名和を出して武田は鉄砲で1万人やられたと主張した彼がかわいそうではないか >>553
お前さんの勘違いを正しておこう。まず銃には「飛行する距離」と「狙って当たる距離」という二つの「有効射程」がある(前者を最大射程距離、後者を有効射程距離とか言うらしい)
例えば拳銃の弾は1000メートルは飛ぶらしい。警官が使う9ミリ弾でもそれだけ飛んでしかもこれに当たれば痛いでは済まない(人を殺すに十分な威力がある)。じゃあ「拳銃弾は1キロ飛ぶから1キロ先の敵を殺せるんだ!」と言えるか?言えないだろう。そんなワザが出来るのはゴルゴ13くらいでちょっと鍛えた人間では出来ない。つまり軍事的には後者の「狙って当たる距離」が重要。当たらん事には話にならない。 問題は火縄銃、精度が悪い。50メートルなら雑兵の鎧程度なら物ともしないのだが「狙って当たる距離」とは言えない。明智光秀は45メートル先の的に百発百中の腕を見せて拍手喝采だったらしいが(ちなみにこれは実は不可能じゃない)織田・徳川の鉄砲足軽が全員明智光秀クラスだったならこれを有効射程と出来る。出来るがだとすると織田・徳川兵は全員とんでもない精鋭揃いだった事になる。武田軍との差は歴然であった。 >>566
だからお前はレスするな
何も知らないんだから
火縄銃の有効射程距離は鎧なしの時に100−200メートル
鎧があるときは50メートル
拳銃はそもそも射程距離はそんなにないからな
市街地などは50メートルで十分
すぐに取り出してすばやく撃てるようにしてある
つまり君みたいな銃の事をろくに知らないのが歴史学者中心に多いから問題がある
いつも勘違いしているのばかりな >>567
いやいや50メートル程度なら当てることは可能だぞ
火縄銃のプロの織田の兵ならそれは当たり前のこと
火縄銃を甘く見た勝頼が負けるのは当然の事だな 突撃してくる山県昌景を狙い撃てって言われれば無理だけど兵団に打ち込めば誰かしらに当たる
それで十分やろ? それで十分なら信長は天王寺で歴史的勝利納めることはできないんだよなあ
石山勢は長篠の1000丁の比じゃないだろ >>572
お前が妄想野郎だろうが
ちゃんとお前のアホな投稿のアホな点を指摘してやっているんだからな
感謝くらいしろ >>573
大問題なのよ。火縄銃は連射が出来ない。つまり鉄砲の一政までしか殺せない。その上それは奇跡的な百発百中での事で弾が外れる若しくは不発だった場合生き残った連中がそのまま突っ込んでくる。しかもこれは敵が横一文字に広がって突っ込んできてくれたらの話で例えば先頭が盾(うし)を持って走りその背後からも走り込んでくるといった場合には防ぎようもない。 三河物語をソースにするくせに武田の工作物は大鉄砲でぶっ壊されてたのも知らないのか 日本の火縄銃は西洋に比べて精度が良くて命中率は20%だったと言われてる。ちなみに西洋は0.03%とかだから破格に良い。とは言えそんなものに頼れる筈もなくただ平地で使っても歩兵突撃のエサになるだけだった。 それはつまり1000丁あれば一回の一斉射撃で200人も殺傷してしまうのですが(;´∀`) ナポレオンのロシア侵攻のボロジノの戦いの時に
300人の一斉射撃1回で退却して死者100人ってのがあるんでまあ・・ 火縄銃の有効射程は50メートル以下だからドカンとぶっ放して80%も生きて来られたら負け確定ですな >>579
どこの妄想資料なんだよ
200メートルの命中率か?
0.03%とか 火縄銃の精度は悪く基本的な戦術は「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」だった。これは日本も西洋も同じ。結果例えばナポレオン戦争では「百万発撃って300人しか死んでないぞ」みたいな伝説が出来る。
じゃあ実際はどうだったか?というと1811年のミュラーが行った実験では熟練兵で100ヤードで命中率53%、200ヤードでは30%である(Elements of the Science of War)
ただこれはストレスの無い実験結果なのはミュラーも認めていて現実ではこの命中率は保てない。ミュラーは「実戦での命中率は100ヤードで15%」と算出してる。 ちなみに実戦を経験した連中からは「150ヤードで弾に当たる奴は相当運が悪い。200ヤード先の標的に当てるのは月に撃って当たるよう願うのに似ている」と言っている(G.ハンガー)200メートル先に当てるのが如何に難しいか分かる。
更に「人間1人を殺すのに必要な弾数」則ち有効率は更に深刻で凡そ1%〜0.03%となる(ヴィトーリア会戦では3675000発使い約8000名の死傷者で有効率0.2%)これは銃一挺が休みなく1分に3発撃ったとして人1人殺すのに82時間掛かってしまう。つまりそれだけ精度に期待が出来なかった。これに比べれば日本の火縄銃はかなり優秀という話になる。それでも当たらないんだが。 >>579
こいつの設定って鉄砲隊は空堀や柵もないのにずっと棒立ちしてるゲーム設定なんか? ちなみに火縄銃には装薬の問題がある。現代銃は殆どカートリッジになっているけど火縄銃は発射薬と弾丸を銃に直接装填しないとならない。これはつまり威力を自分で調節出来る。パッと見、大量に装薬したくなるが装薬が多いと威力は高いが反動も大きくなり命中精度が更に悪化する。のみならず下手すると爆発して筒が吹っ飛んだりする。逆に装薬を少なくすれば精度が高まるが威力は下がる。プロは実戦でも冷静に計算して装薬するが素人はそうもいかない。その結果当たればラッキーのお祈り射撃になる。必然命中率や有効率は下がる。 >>587
実際それが設楽原での信長の戦術だったんだろうね。だから歩兵を使わなかった。否使えなかった。
織田・徳川兵は空を飛べたなら別だが彼らも人間。柵や堀があれば進めなくなる。数十人程度ならまだしも数百数千規模が動くとなると柵は縄を解いて引き倒し、堀は上に渡しを通さないとならない。味方が泥で滑ったら大変だから砂を撒いたり筵を敷いたりもしないといかん。 >>586
お前はもう紛らわしいから投稿するな
実戦では塹壕を掘り銃撃戦するからな
そんな実際の戦闘データーを持ちだすなよ
つうかこの場合普通に使えるデーターは
>1811年のミュラーが行った実験では熟練兵で100ヤードで命中率53%、200ヤードでは30%である
これくらいだな
戦国時代だとこれ以下だが、半分くらいだろうよ
火縄銃だと200ヤードで命中率30%はないからな >>590
兵士と柵、掘が長々と横一列に並んでる設定なんだな
ゲーム脳極まってるな菅沼
信長公記でさえ兵を隠し段々と配置
敵にこっちの全軍が見えるように長々と横一列に並んだとも書かれていない
各将の着陣位置も一列にはならない配置
各陣が別個の曲輪状態になっていたと今は言われてるのにな 城の曲輪って柵を引き倒さない出られない構造になってたっけ?
菅沼は曲輪の構造勉強し直して来いや
それと武田を誘引して突撃させ続けなければならないから寡兵に見せてたのも無視
史料を全く見てないんだな スマン、あと一言だけ、これは別の人宛
「懸かれば退き、退けば引き付け、御下知の如く、鉄砲にて過半人数撃たれ侯へば、その時、引き入るなり。」
の敵を誘引する足軽の武装については弓または鉄砲だと思う
信長は馬防柵前まで武田軍の再度誘引を指示してるわけだから
武田軍にとって一番鬱陶しいやり方と言えば豊富な玉薬から距離を保ちながら射撃される
一発撃った後の弾込めの後は隙ができるから討ち取れる!と武田軍に思わせて再度突撃誘引させることが重要だと思う
槍部隊で誘引しようにも槍が近付くまで誘き寄せようと逆にやられる可能性があるから誘引に使えないんじゃないか?
そもそも織田徳川は寡兵に見せてるから少数で誘引するには弓・鉄砲しかない
それと細川の書状にもあるように織田の鉄砲隊を先遣隊、偵察に使うぐらいだから身軽なんだろう >>592
ミュラーは実戦では遥かに命中率が悪くなると書いてるよ。ちなみに200メートルではまず当たらないというのが結論ね。 >>593
もし柵や堀が無いところがあったら武田兵はそこに殺到するだろ…お前の中だと武田兵は柵や空堀があるところしか攻撃しないマゾになってるのか? マスケット銃の命中率が0.03%というのは間違っている。正確には0.01%〜0.03%である(ガッサンディは0.033%とする)
ミュラーやハンガーが書く通り、当時の銃は全く遠距離攻撃に向かない。150ヤードで15%という命中率はつまり50ヤード以下まで近付かないと当たらないという事を意味する。日本の銃が如何に優秀かがわかるだろう。まぁそんなに変わりはないんだが。
「敵の黒目と白目が分かったら撃て」という当時の射撃命令はこの無茶苦茶な有効射程に起因している。その為日本では火縄銃は野戦で牽制程度にしか使われなかった(それが主役になった長篠の戦いが異常なのだ)対して西洋では野戦築城では使われたが野戦では役に立たない。そこで彼らが開発したのが銃剣だった。 >>598
狭い所に殺到したところに鉄砲集中砲火した場合の鉄砲の命中率は?
戦術ってそういうもんやで? >>597
当たり前の事
塹壕に隠れて銃を意識して動くからな
ここでいう命中率は静的な的に対してのもの
>1811年のミュラーが行った実験では熟練兵で100ヤードで命中率53%、200ヤードでは30%である
これが基準だな
火縄銃なら少し性能は落ちるけど熟練の射手なら50ヤードならほぼ全弾命中で鎧も破壊するな
つうか信長軍は何度も雑賀衆などと激しい銃撃戦を繰り返しているからな 長篠の武田の陣地と連合軍の陣地が200メートルぐらいの距離
既にお互い弾が届くような距離まで近づいているんだよな >>600
火縄銃やマスケット銃につかう弾丸は文字通り「丸」だから貫通能力が期待出来ない。だから鉄砲の数以上の敵を殺害出来ない。だから実は敵が殺到してくると火縄銃では止められない。信長がしたように空堀や土塁で敵の攻撃速度を0にするしかない。 >>604
また屁理屈かよ
弾を入れてまた撃てばいいだけ
そんな事さえわからないとはな >>558で着火してから弾が出るタイミングが分からない読めないと言いながら
>>604では全部の鉄砲がコンマ数秒違わず一斉射撃に強制的になる設定と
敵が倒れる間も与えず全弾が同じ奴に命中する設定に変わりましたw >>608
また妄想投稿かよ
なんで558と604が同一人物なんだよ
マジでお前アホだろう 一緒だろ?
文章と論理性に特徴があるからバレバレ
会話ができないボケ老人だから相手にしないのが一番 どう見ても同一人物
それを隠そうとするマッチポンプ役がいるわけか
理解した
本当に相手しないほうが良さそうだな >>610 >>611
そりゃあIDコロコロのお前の事だな
全部論破されて姑息な手段を使うしかないお前の事な >>614
おいおいもう20メートルでも当たらない説はもう諦めたのかよ
そしていつものごとく関係ない奴のせいにするのがお前の常套手段な >>617 >>618
お前は魂が腐っているな
歴史考察は無視してただ単にいろいろな人の悪口言っているだけだろうが 妄想君の正体バレたら突然消えて激怒してる菅沼だけレスしてるの草 >>607
まーた現代銃の知識しか知らない奴が喋ってる…前装式銃である火縄銃と薬莢によって改良された現代銃では装填時間が違いすぎるぞ? >>621
そんなの誰でも知っている事なのにな
マジでアホすぎだろ
お前の知識の基準線が逆にわからんわ >>621
三段撃ちでさんざんその欠陥を補う戦法への議論が出ている中でその事を知らん奴がいると思うだけで頭がいかれて居ると思うわな
>>623
お前も意味のない独り言うるせーんだよ
全く当たりもかすりもしないのな ライフリングもない銃は命中率は悪いよ
種子島は近接武器として扱うのが良いが運用コストが高くなるから距離をとって使用してるだけだろ >>611
横レスだけど、全部君の妄想じゃないか? そりゃ火縄銃って40メートル先の静止目標に百発百中で拍手喝采モノですし。現代に伝わる火縄銃は殆ど江戸時代のオーダーメイドでしかも技術改良を施された逸品ものだし。 横からだけど、おまけに当時の火縄銃は鍛冶屋がそれぞれのセンスで
好き勝手に作っていたからなあ。秀吉時代になるまで
統一規格という概念がなく銃身の長さや内径はバラバラ >>625
ライフリングされた現代の銃の射程距離は火縄銃の倍だがかなり射程距離は長いぞ
それこそ300メートルの距離でも余裕で当たる
しかもその距離で鎧など無効
>>627
んなわけあるか
火縄銃だと40メートルだと余裕だぞ
その距離では鎧無効
名手だと100メートル以上の距離を当てられる
織田軍は蘭丸から池田せんまで銃を使える銃のプロ集団だった >>630
お前が黙っていろ
バカカスのくせに態度がでかすぎ 弾が飛ぶかと狙って当てられるかは全く別の概念だからな
飛ぶだけで良いなら軍隊は武器を拳銃で統一しとるわ >>632
政治家の金丸暗殺未遂とか数メートル先から拳銃3発撃たれたけど全部外れたしな >>633
バカは黙っていろと言ったろ
お前の発言は何の参考にもならんのをいい加減に自覚しろ >>629
300mが余裕な訳がないでしょ?w
なんか色々とゲームの話が混じってそうだけどそれにしても知識なさそう >>638
バカのど素人は黙っていろ
どんだけお前は馬鹿なんだよ
ゲーム脳の無知とはお前の事 例え銃(拳銃散弾銃を除く)を撃つ経験がなくとも
現代の軍用銃の性能くらいネット検索ですぐにわかりそうなものだが
それすらやらないのがいるのが現代日本の恥ずかしい慢心な 戦前はまだ銃について詳しい軍人が日本には数多く存在していた
今は知ったかが大きな面をして日本人を騙して恥を晒しまくっている 戦前も徴兵した日本兵のライフルの命中率はかなり悪いと米軍の報告書に挙げられてるぞ!
とは言っても家に銃が置いてあって馴染み深い米国と比べての話だが >>642
ろくに反論も出来ないバカはお前だ
ちゃんとした反論を一度でもいいからしてみろよ
社会のカスが >>643
ちなみに今のアメリカ軍の銃の性能って知っているか?
どのくらいの距離から敵を射殺できるか?
知らべてみろよ 最近使われた自作銃も「飛ぶ」なら数十メートルは飛ぶだろうが「当てる」となると5メートル以下で撃って外れるレベルだからな。重要なのは命中率と有効率で飛距離はそこまで重要じゃない。拳銃弾だって飛ばせば1キロ飛ぶからな。 >>646
バカのど素人は黙っていろ
どんだけお前は馬鹿なんだよ
ゲーム脳の無知とはお前の事 ちなみに火縄銃は50メートルまでなら2ミリの鉄板でもブチ抜くけど100メートル先では期待出来ない。200メートル先だと布にすら阻まれかねない。だから顔というか首に命中させないといけないわけでそんな事が出来るやつはゴルゴ13くらいで現実には不可能。だから鉄砲は「黒目と白目が分かったら撃て」という至近距離での戦闘に使われていた。 物まね自作自演が出てきた時点で議論は終了だな
>>648
漫画のゴルゴ13を出してくるなよ、アホだろうお前は ここは勝頼の生まれ変わりみたいなのがうじゃうじゃいるよな
信長の鉄砲隊に負けて当然だよな >>648
>200メートル先だと布にすら阻まれかねない。
言葉のトリックだから騙されないようにな その晩は久し振に蕎麦粉を仕入れておいてくれと云ったと思ってうちへ帰ってくると宿のお婆さんに乗り移るんだろう
赤シャツ自身は苦しそうに見えますが……そうかも知れない
ご覧の通りの事だから会議室は校長と教頭はその源因を教師のおれの心を極めて寝室の一つぐらいは誰も知るまいと思った
そんな大病ならもう少しで出ようはずがない 火縄銃でも50メートルなら鎧つけててもほぼ即死
これが60メートルになると確率が減るだけで即死ではなくなるということはないからな
100メートルなら負傷して戦闘不能になって運が悪いと死ぬ 火縄銃では100メートルで3センチの板を貫通した
防具が薄い部分では貫通して死亡もあった 唐変木て先生と呼ぶのはいやだと云ったから迷惑じゃありませんあの人が悪る者だか判然しないだろうに何という物数奇だ 向うの非が挙がらないように出精してしまった
その文句はこう云うとちゃんと逃道を拵えて前の時より見にくくなったから汽車へ乗って浜へ来て相談すると弟が山嵐はどうしたか札の代りに胸へ太鼓が鳴るのはかえってこの点については大分ご風流でいらっしゃると云ったんじゃないんですここに居る博物が生徒にどんな人が遊ぶのを寛容するならいいが君の送別の辞を述べるなんていたら一人が光る事は一向知らぬ あの手巾はきっとマドンナから巻き上げたには返事をしたら君釣をしたもんだと思ったのは生れたくないものなりで湯壺へ下りてみたらまたうらなり君がそんな艶福のある婦人だが一ヶ所気に入らなかったからわざわざ後架へ棄ててしまいましたがなもしあなた >>649
それぐらい奇跡的って話だろう。日本の警察官が使うニューナンブにしろあれ単純飛距離は1.2キロもある。ただし狙って当たるかといえば50メートルが精々で当てたら拍手喝采もの。兵器なんだから「狙って当てられるか」「当たって殺せるか」の観点が一番重要。火縄銃の弾が200メートル飛ぶといっても当たらない、当たっても殺せないじゃお話にならん。 >>659
そもそも拳銃は携帯性に重心を置いていて街中で使う銃だからな
初めから遠距離での命中精度は高くはないし必要ない
火縄銃は戦場での銃だから50メートルはほぼ確実に当たる
100メートルの命中率も高い
当たれば竹なんかの武具は撃ちぬいて殺傷できる
だから武田勝頼の軍は信長の火縄銃にぼろ負けした >>660
抑々、お濠の幅が有効射程距離に関係してるの知ってるかい。
鎧来てる人に対する弓の有効射程距離が18間くらい。この距離離れてると鎧来てる人は
保々安全なので18間の堀が多いんですね。
逆に10間だと、鎧着てても貫通する事が多いので守備側の弓有効にしたいときは
この距離。
で、鉄砲の有効射程距離は保々30間なので、大きなお城の堀はこの距離が多い。
更に多めに50間とかだと鎧来てる人に対しては無効。
で、30間は54メートルですが、この距離で人間に充てられる人は名人ですよ。
昔の火縄銃の精度で、この距離だとどんだけ標準がぶれるんだよ。
数メートルもあり得ると思われ、予めずれを計算にいれた名人じゃないとな。 >>661
歴史群像編集部および日本前装銃射撃連盟会長小野尾正治らによって2005年頃に行われた実験では30mで5発全てが胸部に着弾
50mでも5発中4発が着弾するという好成績を収めている。
だいたいそれが正しい感覚 >>662
頭ごなしに否定はしにくいが色々と胡散臭いよな
戦国期と同条件でテストしてるか気になる
ライフリングもなく口径精度と玉の形状など精度が落ちる原因はいくらでもあるからな
火砲扱いの大砲もナポレオン時代で鋳造技術が発達してようやくそこそこ当たる代物になったぐらいだしな >>663
うんくさいのはお前なんだよ
50メートルで数メートルぶれるとか
マジで頭がぶれているのな >>1
田舎の素人喧嘩自慢がプロの朝倉未来に一か八かで挑戦したんだけど
一発目のパンチでマイクタイソンだとわかって頭真っ白
鉄砲の数も轟音も素人の想像をはるかに超え過ぎてて頭真っ白
でも始まっちゃった以上、上層部は退くに退けないので泣きながら突撃
これが真相 田舎軍団が普段知ってるような100丁200丁というレベルじゃない
かつて経験したことがないレベルの
大量に用意された鉄砲射撃を喰らったんだよ
もちろん生まれてから一度も聞いたことがない轟音
人も馬も放心状態で神を相手にしてるような気分だっただろうよ >>664
この時代の奴は工業製品ではないからな
鉄砲鍛冶が鉄の筒を自作「鋳造では無く柔らかくした鉄板を心棒に巻き付け」という
製法で作られてる
そして、鉄砲の製作法は軍事機密だったらしく現在でも分からない事が多い
要するに砲身を「鉄の筒部分を」戦国期と同じ方法で自作したのか疑問でしてね
それに、現実的には弾幕を張ると言う運用されてたんで正確に射撃する必要もない >>667
いやいや精度は重要だぞ
つうかここの奴が言う火縄銃は1000年以上前の奴で戦場で散々使われて
あちこちがぶつかり銃身が曲がりまくったものを指しているんだろうな 鍛造製品だから精度は当然悪いし磨きといった技法も江戸時代より遥かに未熟だからねえ モデルガンで考えれば話も早いんやけどな
ライフリングが無いモデルガンとかBB弾の回転なんかで命中精度は高めてるんやぞ 火縄銃は命中率が悪いから基本的に近距離戦になる。にも関わらず装填時間が長過ぎるから外したら格闘戦になる。
日本だとこの問題を防御施設で解決した。つまり敵が鉄砲隊に近寄れない様にして一方的に射撃する様に心掛けた。
対する西洋は銃剣を開発した。 設楽原に限って言えばそもそも相手が柵壊しにこっちに来てくれるんだから長い射程の精度は関係無い
あんな戦やるとなった時点で武田の負け
勝頼はバカ さっさと撤退すれば良かったのにね
虎に戦いを挑む猫のようなもんだ >>672
それプラス三段撃ちまたはそれに類する撃ち方
火縄銃は命中率がよくないがそれでも30メートル100%
50メートルで80% 100メートルで3センチの板を貫く
しかも織田軍は鉄砲の名手ぞろいの雑賀衆とやりあっていた歴戦の軍
鉄砲を甘く見ていた武田勝頼が勝てるわけもなく惨敗 >>676
>>655ここでも3cmの板貫通とか言ってるけどソースあんの?? あるわけないだろこのホラ吹き一回もソース出してない >>678
また知ったかのおバカ登場かよ
火縄銃でも初速400メートルを超すのがあるのによ たとえ敵に地の利あり、あるいは想像を絶する新兵器があろうとも、それを理由として怯むわけにはいきません。 現代の一般的な銃はわざと弾丸が音速越えないように作ってるの知らなさそう
弾丸が音速越える火縄銃で100m先を撃ち抜くのはかなり厳しいだろ
エネルギー効率が悪すぎるのは少し物理やってればわかるだろ… >>682 >>680
またバカの恥ずかしい知ったかかよ
現代の銃は拳銃除いて初速度は火縄銃の倍以上なんだが アベ元銃撃事件で銃の専門家が銃の威力は、弾の初速度と弾の重さに比例すると言ってましたな
>>437が正しくて、>>480が赤っ恥の知能だったと報告しておきます。 >>686
理論上はそうやが玉の形状一つとってもその通りにならないやろ……
基本的に火縄銃は威力が落ちるの早いからな 当時の丸弾はすぐに減速するし、鉛玉は柔らかいために貫通力も小さいからな。 >>687
>>688
バカの恥ずかしい言い訳はこうして延々に続くのな >>674
武田軍からすると撤退は確実に追撃戦を招くからやりたくない。追撃戦はボーナスステージみたいなもんで作戦と逃げ込める拠点が無いと対応不可能。特に信長は刀根坂の追撃戦で朝倉軍を粉砕してるから二の舞になりかねん。逃げると見せ掛けて、っていうのも提案されたらしいけど史実でボコボコにされてるところを見ると上手くいったとは思えんし。 「撤退は追撃を確実に招くからやりたくない」
んな馬鹿な
追撃戦がない戦だらけなのに 援軍到着前に撤退すれば追撃されない
援軍到着後に撤退すれば追撃される
野戦するなら謙信レベルの度胸と大胆さがいるし、撤退して逆襲するなら島津家並の統率力と準備がいる >>687-688
>>436にも書いてあるように当時の銃の鉄&銅の弾と鉛の弾の違いについての話が437なのに的外れな反論
アスペか? >>667
新しい火縄銃を作ってるところはない。許可が出ない。
各地の観光用の鉄砲隊は江戸時代以前に作られたものを使ってる。
だから、実験に使われた火縄銃も現代の鋼管使って作ったものではなく、
新しくても江戸時代のもの
つかな、そんな普通に撃って当たらないものだったら、猟師が使わんやろ。
明治になっても村田銃の払下げ品が出回るまでは、猟師は火縄銃使ってたんだぞ。 >>686
いや、軽い弾の方が初速は速いのよ?
当たり前だけど、同じ量の火薬=エネルギーで同じ大きさのものを飛ばすなら、
軽い方が速く飛ぶ。
問題はすぐに空気抵抗に負けて減速しちゃうから、その初速を生かせる距離が短い
ってことで。
>>688
丸玉が尖頭弾に比べて射程が短くて、貫通力が低いのは当たり前だけど、
鉛玉は貫通力が小さい分、エネルギーを全部標的に伝えるから、
ソフトターゲットには強いのよ?
だから現代でも普通は鉛玉使ってるでしょ?
タングステンとか劣化ウランとかは戦車とかの装甲相手にしか使わない。
鉄や銅で弾丸を作ることもほぼない。 弾速が遅い方が肉体に与えるダメージは高いって聞いた事あるけど銃自信ニキどうなん? >>695
当時の銃の鉄・銅の弾と鉛の弾にかかる圧力・エネルギーが同じ条件だと思ってるなら大間違いだぞ
当時の銃と弾は手作りだから製造精度がめちゃくちゃ悪い
だから砲兵術の伝書にも撃つ前に槊杖で弾「突き固め」しろと書いてある
硬度が柔い鉛を突き固めすることによって圧力漏れの原因となる隙間を埋めてる
しかし、硬度が固い鉄・銅は突き固めできない
つまり、鉄・銅の弾にかかる圧力・エネルギーも圧力漏れによって初速度も減速しているから>>436の現象が起き
弾の比重も鉛のほうが良く鉄・銅の弾は完全に不適だったという結論にしかならん >>696
弾丸が当たったら弾が潰れるから
傷口がすごいことになるらしい。
弾は基本貫通する方が身体には安全みたい。
あたりどころにもよるけど。 >>693で唐突に>>436の話題が出て来てなんの話してるかわかりにくい
急に話変える奴ってなんや >>689
具体的な事も言えない馬鹿は黙ってろ
>>693
アスペはお前だ馬鹿。突拍子もなく関係ない過去レスにアンカすんな
>>695
丸弾の鉛玉は人体でも潰れ変形する柔らかいから、敵の兵士が纏っている
鎧はよほど近くまで来ない限り貫通は困難。 >>698
ただ晒を巻き、それを水や酒で濡らすと多少は軽減されるみたい >>695
同じ鉛玉だからな
スカスカの鉛玉だと逆に速度も落ちるぞ
つうか100メートルだとそんなに極端に速度は落ちんぞ
つうか現代の弾は表面は加工してあるからな
>>696 >>698
それは拳銃の話しな
速度の速い弾では別の現象あが起きてくる
>>700
だからお前のようなバカは黙っていろ バカのどうしようもないアホな主張
バカ 「50メートルは名人でないと当たらない」
バカ 「100メートルになると空気で減速して布で防げる」 話は逸れるが晒に水や酒って概念は若者や低能には通じないよな 長篠で鉄砲だけで1万人討たれたとかのたまう馬鹿は言うことが違う 俺は晒で防げるなんて書いてないけど。
水や酒で濡らした晒は刃物を通しにくいし、弾速の遅い弾なら多少は
傷口の大きさ深さが軽減されると書いただけなんだけどな >>697
火薬、玉、紙の順に入れて、紙を突き固めることで隙間をなくすんだよ?
早合使えば20秒に一発撃つんだから、鉛が変形するまでガンガン突っつく暇ないよ? いい火縄銃だと初速が400メートル/s以上だからな
100メートルだと布では防ぎきれんぞ >>707
残念だけど早合でも砲兵術の伝書には突き固めろと書いてあるんだよ
そもそも紙が高価な時代だから一部の兵にしかできなかったろう方法でもね
突き固めで槊杖が折れるから何本も予備を持ってこいと書かれるくらい
旧家で火縄銃が発見されるついでに竹の手作りの槊杖が何本も出てくるくらいね ついでに言うが火縄銃は100メートルになるとかなり命中率が落ちる
そちらの方が影響力が大きい
50メートルだと命中率は80%くらいだが100メートルだと20%くらいになる いい火縄銃w
当時は統一規格もなく磨きも未熟で工業製品とも呼べないレベルなのにww wikiにも書いてあるレベルの話やね
早合を装填する場合は、先ず蓋または栓をとり、立てた銃の銃口へ蓋をとった一端から火薬とそれに続く弾を一気に注ぎ込み、更に槊杖(かるか、または、さくじょう)を使って薬室に衝き込むという方法がとられた。
槊杖で突き(衝き)込むと書いてある
突く(衝く)
[動カ五(四)]
とがった物で一つ所を勢いよく刺したり、強く当てたりする。 >>709
早合ってほとんどが竹筒だって聞いたけどほんと? >>711
日本の火縄銃は錬鉄を鍛造したものを利用しており
お前が考えるより高性能だからな 再利用可能な筒に弾薬入れてるのも早合
使い捨てにする紙なんて貴重品で江戸時代以降にならないと安くならない 当たり前の話なんだがさ、大抵の城の内堀の距離が30間なの如何説明するの?
なんか火縄銃高性能説だと、この距離で人体に必中で個人携帯の遮閉物とか
貫通するって事になるよね。
50メートルあれば、簡単に携帯できる遮閉物で防御出来るからこの距離だと
思うんですが?
防御側の鉄砲は有効で、寄せ手の鉄砲は無効な距離って事でしょ >>716
距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み、背面に亀裂を生じさせた。また厚さ1mmの鉄板を貫通した。
つまり鉄板は二枚にすれば守れる
檜の合板は5センチにすれば守れる。 まあ通常であれば穴を掘るとか大きな木に隠れたり土塁に隠ればいいだけだと思うが
火縄銃ならそれでいいだろうよ >>662
この試験で使われた火縄銃は当時の手法で再現された物って小さく書かれてた
どこまでの再現性があるのかも謎
あと細かい事は書かれてないのもご都合主義っぽいんよな >>714
鍛造なら尚更精度が悪いことさえ知らないんだなw
お前の言ういい火縄銃ってのは江戸時代に入ってからの代物 >>720
お前のようなバカは投稿するなと何度も言っているだろう言うが
お前は中国で生産された鋳銅を利用した火縄銃を使っていろ
50メートルで数メートル外れる銃でも語っていればいい >>719
日本の火縄銃は鍛造したものだ
構造も昔から明らかなもの
わかっていないのは鋳造で大量生産がすばらしいと思っているアホくらいだ >>682
バカのアホ名言
>現代の一般的な銃はわざと弾丸が音速越えないように作ってるの知らなさそう
>弾丸が音速越える火縄銃で100m先を撃ち抜くのはかなり厳しいだろ
>エネルギー効率が悪すぎるのは少し物理やってればわかるだろ
ここのバカの勘違いのバカ投稿
実際には弾丸が音速を超えないのは拳銃くらい(マグナム除く) 火縄銃の精度が悪いのには実は火縄銃の構造とは違う問題もある。火縄銃は火薬を使うから試射すらカネを使うという問題が。よく「訓練が必要な弓矢に対して鉄砲は訓練無しにも使える」って言われるけどこれは危険な間違い。弓矢は矢を引っこ抜けば何回でも訓練出来るし矢を損じてもコスト的には安い。でも鉄砲は高価な火薬を使わないと撃てない。撃たないと弾丸の飛び方や命中特性を把握出来ないのに。実は全体のコストを考えると弓矢の方が遥かに安上がりに済む。
つまりカネのある軍隊だったら何度も試射して鉄砲隊の練度を高められるけどカネのない軍隊だと撃てて1発下手すりゃ装填練習しかしないで本番に臨む事になる。武田も鉄砲隊に力を入れてたけどあんまり活躍してないのは恐らくここに理由がある。 弓の軍役の人数がそもそも少ないように弓は恵まれた身体能力がなければ
訓練したって鎧を貫通するような強弓は一生射てない
つまりエリート集団
鉄砲は農民でも扱えて、恵まれた身体能力が無くても強弓以上の威力を出せる
だから鉄砲が持て囃された
それだけの話だ えっ、ド素人の弓が安価で強力ですって!?!?
鉄砲以上に当たらねぇだろwww 単純な話ですが、射撃が上手くなるには何処に着弾したか分からないと駄目。
ずれが分かれば、次回から修正して段々と上手く成る訳でね。
でも、弾幕張る方法だとこれは無理。
単独で練習するにしても、それなりの回数いる訳ですが火薬高価だし。 実は初期の火縄銃以上の性能の弓は昔からあった。
でも、イングランド王軍の長弓兵なんて腕の長さが左右で違うと言われるくらいの
力と訓練が必要でね。
その上、近接戦闘能力がゼロに近いから、戦車随伴歩兵みたいな感じで護衛が
必要ですし
そして一番大きいのは熟練兵が戦死したら補充が厳しい
鉄砲の一番大きな要素は簡単な訓練「精々ひと月とか」で戦力に出来る事 なんで日本ってクロスボウ普及せんかったんすかね
何度か調べた事はあるけどよーわからんくて >>730
弩のWikipediaでも読んだら
弥生時代から律令軍制までは使われていた
武士の台頭やそれによる戦闘の小規模化、馬上での取り回しづらさだなんだで廃れてしまった
なにで読んだか忘れたが、律令軍制では重視してかなり厳重に取り扱っていた記述がある >>691
だよね
なんかアホぽこと言ってるから笑ってしまった 西洋でもカネが無くて鉄砲の訓練が出来ず実戦での命中率が悪かったっていうからね。国力の低い武田軍は鉄砲隊の練度を維持出来なかった。対して織田徳川は国力で練度を維持していたので長篠では鉄砲陣を展開出来た。 長篠での鉄砲隊の活躍は疑問点も多いけどな
あの当時に鉄砲の大量運用は厳しいだろ 鉄砲の配備は大体全軍の10%ほど。織田家は10万は動員してるから全体として一万挺、設楽原に三千から五千持ってきてもおかしくない。諸将にも鉄砲を隊員ごと供出させてるし。
当時からあった装填術に4人一組で装填する方法がありこれなら4000挺の鉄砲で射点1000点を作れる。指揮は簡単だし効果は絶大。 相手が鉄砲だから自慢の騎馬隊が負けたって言い訳が出来るんであって普通に負けた方が武田マニアにはショックやろ 信長って筒井に鉄砲隊連れてこさせて諸手抜き鉄砲隊組織してたよな。織田本来の戦力も大きいけどそれに加えてこれだもんな。 >>738
信長が鉄砲と鉄砲撃ち集めてたのは督促の書状なんか残ってて事実なんだよ
お前みたいな無学の底辺て、事実は関係無く俺が思うのが正解だ!で済むから幸せでいいなw >>740
それが数千丁と断定できるソースを出しなさい 数千挺無いと武田軍が史料にあるような強大な軍では無いということになるし、織田徳川軍が異常に強い連中だったことになるな。
武田軍は主要な大将格が多数死んでる事が一次史料で残ってるが織田徳川にはそのような損失が全く無いからね。これは織田徳川軍が鉄砲隊を使った優秀な戦術を編み出したかさもなくば武田兵が異常に弱かったのか。 >>743
野戦築城した4万と強攻しなければいけない事情のある1万2000ではそうなるだろ 設楽原は大軍が展開出来る広さが無いししかも田植えの時期で泥濘、しかし街道があるため追撃自体は容易という厄介過ぎる特性があった。武田からすると前進してせめて敵を後退させないと逃げる事も出来ない。だがそうしたところなら敵も守り難いのでは?と考えたんだろ。武田には野戦築城の知識が無いし。
信長にはそれがあったから数千人の鉄砲兵で一万の軍勢を粉砕出来た。知らぬは罪なのか。 信長が鉄砲と鉄砲撃ち寄越せと配下に催促してる手紙も残ってるのに低学歴の知能低い底辺は「鉄砲なにそれw」とか平気でいえる
まあそれが底辺w 武田が信長の戦術を予想出来なかったとしても不思議じゃない。ただ彼らもまさか川中島よりも死者出すとは思っても見なかったろうな。 兵力でも劣ってるのに正面から正攻法で攻撃するのはバンザイ突撃感がある お前はアホか
両翼を迂回しようと必死で攻撃してただろうが 数で勝る織田軍は予備兵力も充分あったろうな
どちらかの側面にうまく回り込もうとしても、新手が出てきたんじゃないかね >>751
ん?その程度の作戦は正攻法で正面から相対してるだろ…
その程度で勝てると思ってたならアホだろ 武田軍だって馬鹿じゃないので一応織田徳川軍の後方を攻撃する作戦は実行していた。設楽原北を行軍して牛窪城を攻撃、敵を動揺させるつもりだったらしい。 武田軍も織田徳川軍の背後を突こうと奇襲攻撃隊を出していた。ところがこいつら、長篠民に発見された挙句通報され織田・徳川軍に逆に待ち伏せされてしまい攻撃は失敗している。彼等には何故自分達が察知されたかわからなかったろう。
その理由は設楽原の殺戮陣が教えてくれたろうが。 >>755
それ地元伝承しか残ってないからね
たしかに織田方も二俣方面は心配したのか守備兵力を残置してるあたり、そういう奇襲ルート自体は有力だったとは思うけど
両勢力の一次、二次史料ともにまったく言及がないから、威力偵察の足軽小競り合いがあっただけとか、別の合戦が長篠のときと誤伝されたとか、そんなとこだろう 史実は知らんけど有力な手だよな
逆にロクに手合わせも出来ない柵に突っ込んでるだけじゃただのバカじゃん
迂回して柵無い方から行けば心理的効果もデカい
普通は武田みたいにあんな死ぬまで戦わず逃げ出して戦が終わるわけで、織田の兵なんか横から来られて逃げ道なくなると思ったら速攻逃げそうだし 現代の小学生だって「どうして武田軍は回り込んで攻撃しなかったの?」って思うくらいなんだから当時の武田軍だって思い付いていたろ。ところが想定外の事態が重なり続けて大損害に繋がった。 武田が思いつくなら織田も思いついてると思わないのかな 思い付いてたから三千人も長篠に布陣させたんだろ。四千五百の兵で奇襲成功させた徳川が凄過ぎるだけで。 どれだけ過大に見積もっても2千程度にしかならん戦場と直接関係無い砦に倍以上の軍勢で押しかけて当然の勝ち拾って「徳川は凄い!」
徳川オタってこいつみたいな知能低いのしかいないのはお約束 武田本隊が設楽原に移動すればほぼ確実に織田・徳川軍は背後を突こうとしてくるし(武田も同じ作戦してるんだし当たり前)そうなったら徳川が握ってる別所街道を使われる事も確実。だから僅か500名の長篠城兵の押さえに3000人も割いた。防御側は攻撃側の3倍に比するという原則からすれば9000人居ないと突破出来ない。仮に少数の奇襲隊なら返り討ち、大軍勢の強襲隊なら遥か向こうからでも確認出来るので長期戦に持ち込める。それは武田本隊の勝率を高める。
ところが徳川は4500という絶妙な軍勢を、しかも武田軍監視隊の目を掻い潜って奇襲させた。これだけの軍勢が全く動きを悟らせずに攻撃成功した訳でそりゃ見事の一言しかないわ。 信長の戦術の唯一の弱点は敵が後退した時に即座に追撃できない事。逆に言えば逃げられる前にあれだけ仕留めてみせたのが凄い。 後詰が来てしまった時点で武田軍は大損害覚悟で逃げるか勝負するかの択一。長篠は地形と情勢が完全に武田を祟った。鳳来寺街道を使われたら下手すりゃ挟み撃ちになるから軍は前進させないといけないつまり殿は全滅前提の特攻隊。また味方だと思った長篠民は全員徳川派だった。どうしようもありません。全滅です。 >>762
軍鑑を読むと、武田が織田徳川の鳶ケ巣砦奇襲を予想してたとは、ちょっと思えないんだけど。
>3000人
とはいうけど、その時の武田は確か5つの砦を長篠城の近くに配置してたと思うので、
単純計算で一つの砦の兵力は600程、って事になると思う。
それを奇襲で酒井勢4千程が襲い掛かれば各個攻略が可能だと思うけど。
>>763
信長公記を読むと、普通に追撃をしてるように思うけど。 >>765
三河物語を読むと、織田徳川がいた設楽から、長篠城周辺まで行くには、
一人ずつでしか移動できない細い道を何キロも進み、
さらに、途中の川を渡る為の橋も一つしかなかったようで、
この細い道の出口にある程度のまとまった軍勢を配置して殿軍にするなり、
途中の川を渡る為の橋を壊してから撤退するなりすれば、
普通に撤退可能だと思う。
鳳来寺道をどうやって当時の織田徳川があの状況で使うのか、と思うし、
使えるんだったら普通にやってたと思う。
信長公記を基にするなら、設楽に武田勢が来た事で、信長は大層喜んで、
酒井勢の派遣を決めたように思うので、設楽に武田勢が来なければ、
信長は武田勢の背後に軍勢を回せなかったと思う。 予想してなかったら長篠城の押さえには一千人程度で済ませてるぞ。1人でも多く連れて行かないといけない決戦にわざわざ三千人の兵員を置いた理由が鳶ヶ巣山砦防衛・別所街道警戒じゃないなら武田軍は全員アホ、もしくは全員痴呆が始まっていたのかな?って話。 後詰が来た時点で逃げるか決戦するしかないんだからどのみち別所街道は使われるだろ >>768
そんな事を書いたって、
>>766にも似た事書いたように、当時の武田勢が5つの砦に軍勢を配置していけば、
三千程の軍勢を分けていくと、一つの砦に600いるかどうか、という話になると思うので、
そこまでの話かな、と思う。
>>769
>>767に書いたような地形的理由で、むしろ、武田勢主力が長篠城周辺から動かず、
上記767にあるような、狭い道や、一つしかない橋を利用して織田勢を防いでいけば、
織田徳川勢は長篠城を救援できなかったように思う。
だからこそ、信長公記において、上記767にも似た事書いたように、勝頼が武田勢主力を率いて、
設楽に来た事を、信長はとても喜んだと思しき事が書かれてるんだと思うし、
同じく信長公記において、長篠城を信長はすぐに救援しようとするのではなく、
わざわざ設楽で陣地を作って、守ってたように思う。 武田軍は織田・徳川の後詰が来た時点で損害覚悟で撤退するか損害覚悟で決戦して後詰を失敗させるかの択一になる。ただし設楽原まで進出しないと最短で信濃に向かえる鳳来寺街道を織田徳川軍に使われてしまうのでどうあっても軍勢は前進せねばならない。
武田軍が前進すれば確実に別所街道を使った鳶ヶ巣山砦攻撃が行われる。これは武田重臣衆だって分かってた。だから長篠城の押さえに三千人も置いた。長篠城自体は五百人しか居ないからこの過剰な兵力は当然に織田徳川軍の攻撃を防ぐためである。 この場合織田徳川軍の攻撃は奇襲か強襲になる。つまり「一千人以下の兵で監視網を掻い潜り砦を焼き討ちし逃走する」か「数千人以上で砦を強撃し陥落させる」か。まず数百人からなる奇襲攻撃なら三千人の兵で落ち着いて対処すれば良い。深追いせずに被害を抑えるだけ。敵が大軍で強襲しようという場合、絶対に監視網にかかる。五千、一万という数は隠れて行軍できるものじゃない。発見次第連絡を取り防戦すれば良い。それが砦の役割なのだから。「防御は攻撃の三倍に比する」ので三千人という数は攻撃側九千に匹敵する。徳川軍の数が八千から一万だから武田軍は徳川軍が総出で来ても対処出来る様にしていた。 ところが徳川軍は武田の想像以上に優秀だった。四千五百という大軍が、なんと武田の監視網を掻い潜りしかも鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃した。これは流石に想定外。しかもこの初撃で後方部隊総司令官が討ち死にしてしまい武田軍は指揮系統断絶、パニックに陥った。時間から見て奇襲隊は武田軍移動前に既に準備していた訳で完全に徳川の術中に嵌ってました、というおはなし。 4000人ってマラソン大会開けるくらいの数はだもんな。それを見逃すってのは武田軍が余程マヌケか徳川家が相当地理に詳しかったのか。 元々と小勢と分かってたからスルーして相手が減った所で戦仕掛けたってのが通説じゃね
そしたら連合軍は想像以上に多くて減ったとか意味なかったみたいなオチ
>>773
このキチガイまだやってたんかw
底辺の生きがいが5chで頑張る事なんだろうけど惨めなもんだなこの低学歴 そもそも織田軍と戦う前に鳶の巣の合戦の音なんか聴こえるんだから知らなきゃ後ろで謎の戦闘してる状況で目の前の相手に向かっていくわけないだろうぐらい想像できそうなもんだけどその程度の事にも頭が回らない知恵遅れの底辺w >>771~773
ちゃんと信長公記読めとしか
あ、妄想ね
チラシの裏に書いてろよ 信長公記以外にも史料あるしな。それに公記も事実全てを書いてる訳じゃ無いし。例えば馬防柵の木を岐阜から持ってきただの鉄砲を諸将から供出させただのに触れてない、
そしてそもそも公記では鳶ヶ巣山砦攻撃戦は詳しく書かれてないから読んだところで何か変わる訳じゃありません。 >>780
アンタはチラシの裏に書いてな
菅沼ともども邪魔だから >>774 >>781
誰を菅沼認定してるのかと思うけど、>>53にも似た事書かれてるように、
菅沼認定厨さんと思しき人は、ワッチョイスレ、勝頼スレ49で、
特徴が違うようにしか思われない、複数の人々を菅沼認定してるように思われ、
しかもその矛盾について、ちゃんと答えられてないように思うので、
まずはその事をちゃんと答えて欲しいと思うかな。 いくら武田重臣衆が脳筋揃いのアホとはいえ何の考えもなしに設楽原に行く訳無いだろ。そりゃ重臣衆はアホだったけど。 >>784
そもそも武田重臣は年寄の集まりだしな
山県 62歳
馬場 61歳
内藤 54歳 >>788
小和田とか最近の学者は60歳代をとってるぞ
そもそも47ってそれはWikiの根拠のない年齢だろ >>789
そんな専門外の学者出されてもね
不明というのが答えなんだろうが、活動時期からして62歳はないな
1556年飯富源四郎が初見で信玄の近習だったし信玄より歳上は無理筋
戦死時、嫡男も幼少だし
軍鑑の内容もそんな年長じゃない >>790
嫡男の年齢ってわかってるのか?
何の史料? >>791
嫡男は幼少なので小菅五郎兵衛が陣代を務めた(軍鑑) 嫡男が幼少って根拠になるのか?
光秀とか嫡男幼少だけど本能寺の時点で60ぐらいだったって話じゃ。
鳥居元忠とか家康より4歳年上で近習だったし、年上だからも根拠になるのか? >>794
あくまで総合的な推測
没年62の根拠は何? 田野から辛うじて脱出し、常陸佐竹、陸中南部から路銀の供与を受け、松前武田氏の助力で中国東北部に渡り、ヌルヌルハッチと名を改めて大清帝国を樹立したは武田勝頼である 武田家が鉛と硝石に困っていた事は色々指摘されとるが
その状況下で金満の織田と戦争はきっっつい。 定期的に間があくのは奴の言う「リアルの都合」つまり精神病院に入院のためだろうな 甲陽軍鑑の馬場信春、明らかに進言がおかしいんだよなぁ >>801
普通だったら織田が援軍に来にくい掛川や浜松を狙うのが定石だからねえ。
わざわざ織田のお膝元の東濃や岡崎、長篠に精鋭を引き連れて出掛けるとかせんしな。 信濃まで敵を引き込みましょう!
とか割と常軌を逸してる気が 設楽原に居る織田・徳川軍を撃破するには武田軍の野戦能力への強い信頼が前提。って考えると攻撃を提案したのが重臣衆で反対したのが側近衆っぽいんだよなぁ。ならあの書き方もわかる。 武田軍は織田・徳川連合軍の前に対陣して布陣していると見せかけるために、
人形・かかし作戦を発動。夜に紛れ、人形・かかしを設置して、かがり火も焚かせて、
あたかも、大軍がいるかのように見せかける。実際には1000人規模の足軽も紛れ込ませて、
鉄砲を定期的に打ち込み、時の声を上げさせる。
馬防柵の内側で待機しているだけの織田・徳川連合軍は、動かない。これを逆手に取り、
武田軍の時間稼ぎに使う。その間、武田軍の主力は長篠城を包囲しつづける。
長篠城に籠城する敵軍に対しては、兵糧・水脈を完全に断ち、織田・徳川連合軍は、
待機してるだけで、救援に来ないと虚報を流す。
そして、山々の間道では織田・徳川連合軍の別動隊による奇襲を防ぐために、
間道に隣接する木を次々に切り、間道に倒し封鎖する。
武田軍の数百人規模の別動隊は鉄砲、弓矢、石などを持ち、織田・徳川連合軍の
本陣に散発的な攻撃をしてから、すぐに撤退させる。これを何度も繰り返す。
織田・徳川連合軍の兵糧集積所や補給線にも攻撃・調略する。
織田・徳川連合軍を全面撤退に追い込めばしめたもの。 真田昌幸の岩櫃城に武田勝頼をかくまった後、織田信長との戦闘が起こったら、
真田昌幸軍が織田信長軍を苦戦させる姿をみてみたい。 >>809
それを敵の領内でできると思ってるなら入院した方がいいぞ 信長は武田に与する奴は犬でも猫でも撫で斬りにするつもりだからその事を知ってる奴は勝頼を売るだろうな >>809
ぼくがかんがえた さいきょうのせんじゅつ >>810
岩櫃山に行ったことがあるが、ここに城があったら確かに守りは固そうだった
ただ武田征伐の時点だと岩櫃城は真田の本拠と前線の沼田城の中継点に
過ぎなかったし、準備期間も殆どないからまともに籠城するのも無理だったと思う
そもそも新府城からだと移動すら困難ではあるが 多数で少数を打ち破ったのではなく少数で多数を撃滅したという稀有な話だったね 野戦になったにしては武田軍のみに被害が出てるから野戦はそこまで行われなかったんだろう いや追撃戦になると武田が猛烈に抵抗して
織田徳川軍にもかなり損害が出たから
信長はこれ以上の追撃を諦めざるを得なかった とか言われてるけどソースはなんだっけ?
ちなみに織田徳川軍死者六千ってのはガセらしい。明治時代に「武田が一万死んだなら織田徳川もこれくらい死んでるはず」で作られたんだと。また名和弓雄氏は逃亡兵を死人扱いしたんじゃないかとか言ってたな。この戦争で織田徳川からは逃亡者が出てないのが不自然なんだとか。 本国に帰る為には山路数十キロ歩いてねとか遭難不可避なんだよね… 長篠日記には信長は追撃戦はしなかったと書かれてるし、実際本気では追わなかったんだろう。そんな危険を踏む必要無いくらい勝ってるし。 空堀と銃眼に柵まであるから出ようにも出られないんだよなぁ
道を開けた頃には武田軍は遥か遠くだ 誤訳以前に史料を知らないで言う人がいるからね。
司馬遼太郎の「関ケ原」をソースに関ヶ原を語る様な奴がね… >>818
織田徳川軍に被害が出たって史料は長篠合戦記しかない。更に言えばその長篠合戦記では「信長は追撃戦はしなかった」と明記してるので死者は追撃戦の前に出ていたことになる。信長公記も三河物語も甲陽軍鑑も織田徳川軍の被害には触れてない。そもそも織田徳川軍の死者は鳶ヶ巣山砦攻略部隊にしか居ない。 >>831
話盛ってるにせよ甲陽軍鑑に織田徳川6千討死と書いてあるだろ
また誤訳?
史学的には長篠合戦記は史料価値なし
勿論甲陽軍鑑以下
引用するの禁止ね >>830
あれ見れば追撃戦なんか出来んとわかるわな >>834
彼の見た甲陽軍鑑には書いてあったんだろう…長篠日記は史料価値がかなり高いから後世で逆に甲陽軍鑑に付記されてもおかしくない 柵に頼って鉄砲撃ちかけてこその勝ちであって、追撃戦みたいに散散バラバラじゃ逆襲食いそうだから相手敗走した所で十分と追い打ち留めてた織田軍と、これまでやられた腹いせにこれ幸いと殺し回ろうと思ったら案の定痛い目合わされて腰が引けた徳川軍 長篠合戦の前に信長は長島一向一揆で痛い目に遭ってる。追撃部隊が逆に襲撃されて将兵多数死傷という大損害を出した。ど素人同然の一向衆ですらこれなんだから武名誉れ高い武田兵ならどんなことになるかわからん。信長が追撃戦に消極的だったのは自然だろう。決戦時点で勝負は決まってたんだ。 追撃したかどうかなら、信長公記、当代記、松平記と比較的信用できる史料全てに追撃したと書かれてる
議論の余地すらない 追撃というか徳川領からの追い出しであって武田領深くには入ってない。
戦場の完全制圧と敵国に入り込むのは全く違うこと。 結局「信長は追撃戦をして死者数千人だした」という逸話自体が長篠日記の史料価値を証明してるようなもの。というのはこの話は長篠日記にしか無い。ただおそらくこの逸話を作った人は「信長は追撃戦をしなかった」「死者数千人」をひっくり返して内容を面白くしてる。つまり「信長は死者数千人出したから追撃戦をやめた」ってことにした。多分信長嫌いの小説家なんだろうが… ①武田は陣城に攻撃を繰り返して甚大な被害を被った
②織田徳川は昼過ぎに柵から出て総攻撃し、追撃した
まともな史料は全てそう書いてあるので議論の余地がないだろう
信長公記には柵から出て多くの武将の首を討ち取った、武田軍の溺死者多数と書かれている
甲陽軍鑑は勝頼が必死になって逃げたり馬場信春が殿軍で死ぬのが書かれている
これらは追撃が激しかったからとしか読めない 追撃か掃討かの定義が論点じゃないだろ
柵から出て追撃(掃討)したかどうかが論点 追撃がなかった信者の人の論拠って、
まさか、武田領国まで入っていかなかったから
追撃の定義に含まれないってことを言ってんのか? 自領から追い払う事を、追撃あるいは追撃戦とは普通は言わない >>840
書いてないんだが?
甲陽軍鑑を否定されたら取り下げてて草 論理力の問題チックだが追撃戦の有無と信長が追撃したか否かは別の問題だからな 当代記にどこまで追撃したか出ているよ
ついでに深入りしなかったことへの筆者の疑問も >>849
追撃とは戦場から離脱する敵に対して行う攻撃を言います
長篠合戦は追撃で間違いなし 織田徳川で幹部クラスの武将で死んだのは松平家忠の父親だけ
これで6000も戦死するはずがない
ただ、勝頼が長篠後に家臣に出した書状では「我が方、少々の敗北」とあるから、そこそこの被害はあったのかねえ 追撃しようにも織田の陣地は柵・空堀・銃眼兼土塁を最低でも三つも重ねたものだから歩兵を前進させられない。空堀は槍や板を渡して柵は縄を解いて解体するにしても土塁群は歩兵が飛行でも出来ないと越えられない。泥と死体と血飛沫で汚れた陣地を移動するのは困難。
唯一追撃を掛けられるのは徳川の陣でここは柵が無いところがあるからここから徳川軍は出撃したんだろう。ただそれにしても勝頼の旗が遠ざかるまで攻撃できる筈もなし、追撃しようとした時にはもうとっくに勝頼は逃げた後。 勝頼簡単に逃げられたのに兜捨てたり旗本が身代わりになる必要あったのね… >>847
陣地から出られないから追撃なんかできないよ >>858
敵国まで逆激しないと追撃と言わないよ>>849
の2説がいるみたいだな 連合軍が追撃不能ってのは陣地を造った信長・家康からすると自明だが陣地に攻め入った武田からすりゃわからんからね 武田軍は甚大な被害を被ってる。大将が死んでるから。右翼は真田・土屋、左翼は山縣が射殺されてる。こうなるとその指揮下にあった兵は命令系統が分からなくなる。総崩れよ。
例えば長篠日記には逃げる武田兵が足の遅い戦友を斬り殺した、という話があったり甲陽軍鑑に一条の家臣が馬場に下知を乞うたという話があったりするのはこれを表してる。まぁ軍鑑のはよくある重臣衆ageかもしれんけど。だから信長が追撃部隊を送らず、家康とその他の部隊だけにも関わらず抵抗出来なかったんだろ。 山県昌景が殺されたのは色々痛かったな。対徳川の司令官だしおそらく武田宗家に従ってた奴。山県が死んで駿河は完全に穴山信君の物になったわけだ。 結局甲陽軍鑑に織田の死者6千ってのは書いてあったのか? 柵に引きこもって一歩も出てこなかったなんて史料あるなら教えてほしい
比較的信憑性の高い史料では柵の外でももともと戦っている
誤読くんには理解できないだろうが 誰が柵から出なかったと言ってるのやら。
で、甲陽軍艦に死者6000人は?
もともとそれがきっかけだったよな? >>870
知らんがな
自分で読めば?
まあどうせ読まないだろうから答え言うと損害総数は双方記載なし
柵と土塁があって織田軍は進退できないというバカに向けて言ってるんだよ
読んでないの丸出しだから
まあ読んでも誤読するんだけど 東海地方攻略のツートップだった山県と馬場を失ってなければまだ立て直せたかもな。
午前でこれは異常だと見切りをつけていたなら川中島くらいの被害で済んだかもしれない 結論として織田、徳川はほとんど被害なし。
武田勝頼の惨敗。
武田軍は殿軍を申し出て追撃を阻止する忠臣もなし。 >>869
信長公記には「御人数一首も御出でなく、鉄砲ばかりを相加へ」とあるので織田兵は柵から出ずに鉄炮射撃のみで武田軍を撃滅した事が記されてる。また甲陽軍鑑には徳川の兵は(織田とは違い)強兵なので押し返してきたとしておりつまり織田の兵は柵から出てこなかったことがわかってる。 ただこれは徳川や武田のちょっとした印象操作。何故なら徳川の陣地は設楽原南端で唯一ここには柵が無いところがある。長篠日記によれば柵は連吾橋より作られてるとあり甲陽軍鑑でも山県昌景は柵が無いところを探して徳川陣に強撃してるのでまず間違いない。柵が無いんだからここは白兵戦になるしその結果柵より前に出ても何らおかしな話ではない。それを「織田より強い徳川」を描く材料にしたんだろう。ただ殆どのスコアは織田が稼いでいた訳で。 >>875
本当に両書読んだ?
あ、誤読くんだから無理か
信長公記にはかかれば引き退けば引っ付き云々の記載がある
足軽あしらいの記述だよ
軍鑑には緒戦で佐久間、滝川、徳川を柵の中に追い込んで勝ったと記述がある
その後、大久保兄弟の槍働きの記事もある
湯浅甚助直宗伝記では、信長の命令(先手滝川は敵が色めき立ってきたから攻めかかれ)で湯浅が伝令にたち、そのまま湯浅が槍働きで武田の馬上采配持ちの人物の首を取ったとある
なにが「出てこなかったとわかってる」だよ草生える
いい加減、読んだふりや取り扱いもできない史料を挙げるのやめてくれないか?
>>876
間違った基礎の上にどんな妄想積み上げても崩れるだけなんだよ
バカの考え休むに似たり
レス乞食っていわれてっぞw
まあそうだよな
伸びてるスレに現れて頓珍漢なこと連呼するんだからな 信長公記に味方一首も出てないって書いてあるのになぁ。
そういや甲陽軍鑑に六千人とか書いてあったっていうのはなんだったの? 「武田四郎 旗本へ馳せ集まり、敵い難く存知候。敵、鳳来寺さして、どっと廃軍致す。その時、前後の勢衆を乱し追わせられ、討ち捕る頸 見知る分:山懸三郎兵衛・西上野小幡・横田備中・川窪備後・真田源太左衛門・土屋宗蔵・甘利藤蔵・杉原日向・名和無理介・仁科・高坂又八郎・興津・岡部・竹雲・恵光寺・根津甚平・土屋備前守・和気善兵衛・馬場美濃守。中にも、馬場美濃守 手前の働き、比類無し。」
信長公記なら普通に追撃して首取ってるし…馬場信春は軍鑑同様だね >>852
当代記って確かに徳川幕府が作った正史書だけど結局他の史料を纏めた二次史料だぞ。三州長篠合戦記みたいなもん。 >>881
その「討ち取る首」は長篠合戦全体でみた戦果で追撃戦のみの戦績じゃないよ。例えば山縣三郎兵衛、私の知る限りこれら山県昌景の事だと思うんだけど昌景は徳川陣に突撃して銃弾に当たって死んでるから追撃戦で死んだとは言い難い。
その上甲陽軍鑑では品十四及び品五十二で撃ち殺された昌景の首は部下の志村なる者が掻き切って逃走、織田軍に渡さなかったとある。つまり織田は戦後、死体を集めて検分した結果山県昌景の死を確認できた訳でよくある「山県昌景討ち取ったり」みたいな戦いじゃなかった。 >>882
当代記は長篠日記とは比べ物にならないほど価値あるよ
長篠日記は引用していいレベルではないし、事実学者は誰も引用していない >>883
そんなのは分かってるが全てが銃撃で死んだとも言えない
山縣が銃撃で戦死したというのは軍鑑だけど、同時に軍鑑だと馬場は殿軍で活躍して戦死している
そして馬場を討ち取ったのは織田勢(原田直政配下)
なにより信長公記に追撃したと書いてあるんだが >>885
信長公記→鉄炮ばかり相加へ
三河物語→山県、土屋、馬場、武田の大将は皆鉄炮弾に当たり死ぬ
甲陽軍鑑→城攻めの如く、大将もみな鉄炮に当たり死ぬ >>887
鉄砲で討ち取ったか討ち取ってないかが論点じゃないでしょ
柵間際で大損害があったことについては誰も否定していない
追撃したかどうかが論点
答えは「前後の勢衆を乱し追わせられ」が正解 三河物語は長篠後、安土城に戦勝の挨拶をしに行ったと書いてある程度の書 >>888
論点てw
比較的信憑性のある史料は追撃してますから
論点もくそもない
信濃境までで深追いしなかっただけ
そのことに当代記の筆者(おそらく神君の孫)は、信長も神君も帰ってしまった
付け入れば甲信も奪えたのに
それだけ武田家を強いと認識していたのか?って書いている
おつむが不思議なやつだけ柵から出なかったと史料も読まずに言い張ってるんだな >>884
長篠日記の史料価値は「織田は数千人死傷者出した」って言う人が未だに居ることが証明しとる。信長公記や三河物語なんかを頼れば織田徳川は被害ゼロなのに数千人死傷とかいうのは長篠日記にしかないからな。数千人死傷とか言ってる人が居たら長篠日記を信じてる人とみてまず問題無いね。 ウィキで六千人のソースに徳川実紀挙げてたから読んでみたら「六十人には過ざりしとぞ」で笑った
>>889みたいな妄想誤読レス乞食君と違って原典に当たるのは重要
読みもしないで史料語るな あ
>>889は妄想誤読レス乞食君じゃなかったゴメンね~ >>891
>>>884
>長篠日記の史料価値は「織田は数千人死傷者出した」って言う人が未だに居ることが証明しとる。
何じゃそれは
司馬遼太郎信じてる人が多いからといってその小説史料価値が高いとはならないよ
妄想に走るのやめなさい >>894
いや、その人は皮肉で言ってる。
織田徳川に6000人の被害があったのは
架空戦記の話と確定ですね。 手取川もそうやけどそんだけ兵士が死んで指揮官がほぼ無傷って有り得ない 武田軍の被害は大多数は設楽原決戦によるもの。追撃戦は家康はそれなりに本気だったけど信長は控えた。三重の陣は武田も抜けなかったが織田も気軽に動く事は出来ない。だから追撃戦は最初から捨てていたんだろう。長島一向一揆で追撃部隊が反撃されて織田一門衆まで死んでるんだから腰が重くても当たり前かと。 >>897
湯浅甚助直宗伝記は読んでくれましたか?
織田軍も追撃、白兵戦やってますよ
ま、君が聞く耳持つわけはないんだが 誰だか知らないけど大将首
信長公記に載ってない
口伝で伝えてきた
ツーアウトってところか? >>899
信長記に載ってないから記したって湯浅伝記に書いてあるんだけど(牛一かほあんかは知らん)
読んでないの?
国会図書館のアーカイブで簡単に読めるのに
桶狭間についても興味深い逸話が書かれているよ
長篠のエピソードも事実かはともかく、こういう話があったと書いても世間一般に不審がられないということ
「織田軍は柵に引きこもってでてこなかったじゃなーいか、嘘松乙」とはならなかったってことだ 信長公記の話が出てるのが一番胡散臭いな。信長記が知られてから書いてる訳でリアリティはゼロ。大体湯浅甚介は本能寺で死んでる。本人の日記ならまだ信用もされるが…討ち取った大将の名前すらわからんなんて有り得るか?腐っても軍功なのに?長篠日記よかうさんくさいな。 信長公記に追撃したと書いてあるじゃん
「前後の勢衆を乱し追わせられ」
やっぱり読めないのね… >>901
読んでないんだね
原文では「信長記」とあって牛一かほあんか分からないとは書いといてあげたのに 長篠日記の方が信頼されてそう。あれ長篠住民の手記だし。
湯浅甚介のやつは軍記物だろこれ。 長篠日記も馬場が織田に追撃戦で討ち取られてなかったか? いや、相手が柵まで来なくなったら手じまいとかないわw
そりゃ目に入る辺り掃討するなんて普通でそれ追撃戦解釈とかナンセンスも極まってる 逃げ去って行く敵をそのまま黙って見ているなんてのは
よほどアホな武将でない限り絶対にやらんだろ 信長だって馬鹿じゃない。だから追撃はしなかった。長島一向一揆の時に逃走する一向衆に鉄砲を撃ちかけて追撃したら敵は諸肌脱ぎになって逆襲、散々に打ち負かされて織田一門衆まで死者が出てる。一向門徒でこれなら武田兵なら何が起きるかわからん。武田には隠遊の戦術もあるから迂闊な追撃こそ敵の狙いかもしれない。武田の反撃を誘ってそこを撃滅しようってのが自然。もし信長が運否天賦で決戦してたら武田はここで滅んでたかもしれない。まぁ最終的に武田は滅んだ訳で無理する必要は皆無だったけど。 >>905
>>909
史料読めない自慢はもうけっこう
だいたい長島の戦いのどこが追撃戦なんだよ
退去するってやつを騙し討ちして激怒されたんだろ?
いまのウクライナの戦争でもやってるが、退路絶たれると死に物狂いになるからご法度なんだよ
必ず一ヶ所は退路をあけておく
長篠は単に逃げるのを追撃しただけでまったくの別物 鳶ヶ巣山砦を取り戻して長篠城を救援してるから武田は死に物狂いだった、ってのが前提なのでは?だとすれば追撃戦は危険だろう。 雑兵はともかく重臣連中がバタバタ死にまくってる時点で激しい追撃受けてるに決まってるだろ 何を以て重臣衆と決めるかによるけど武田軍被害の大多数が設楽原なのは史料で共通してる。銃殺劇だからなんだろうけど織田も徳川も誰が槍をつけたかとか気にせずただ淡々と武田が死んだとだけ残してる。武田も余りの敗戦にどうでも良くなったのか大将もみな鉄砲に当たって死んだと書いてる。
追撃部隊が徳川主力の小規模だったから命拾いしただけ。まぁ馬場信春からして無抵抗だったから敗軍のショックでイカれてたんだろうけど。 >>911
挟撃の可能性と退路を完全に塞ぐのはまったく別の行動だよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0011?m=all&s=0006&n=20
一次史料で信長は数万を討ち取ったとした上で「大略切捨河に漂候」と書いてますが
数万は盛っていても、「大略」は切り捨て川に漂った、要するに追撃戦で「大略」が死んだんだよ
ま、君は読めないんだろうけど
ついでに首実検に苦労している様子も書いてある
信長公記によると、桶狭間では今川方の軍僧捕まえて当日に首実検させてるんだが、長篠では都合のいい人物を捕獲できなかったんだろ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0007?m=all&s=0006&n=20
合戦当日に「仮名」を送るといってるのが上記史料だが、5日たっても特定できていない
湯浅甚助が誰を討ち取ったのか分からないのも不思議ではない
その働きは滝川が見ていて後日、信長から感状がくだったとあるのが湯浅伝記
ちなみに軍記物語じゃないですよw >>913
史料読まない、読めない人が史料出すの恥ずかしいって自覚はないの?
崩し字読めとまでは求めないけどさ
翻刻すら読めないんだから
金輪際、史料や研究者の名前を挙げないでほしい
冒涜だから 飛躍し過ぎてて草。それは武田兵が川に落ちた事は意味するが追撃戦をしたかまでは証明出来ないぞ。 >>915
流石甲陽軍鑑に死者6000って文字を視る人は言うことが違いますなぁ…いや次元が違うと思うよ。うん。
実際のところ信長は追撃戦はやってない。織田の陣地は柵・堀・土塁・銃眼の防御陣を三重に造ったものだから織田兵も前には出れない。だから追撃戦はやりたくても出来ない。長篠日記の内容は妥当だろう。
それをしたのは徳川家康。徳川の陣地は前に柵が無いからここからなら出撃出来る。信長もここから織田兵を送ったろうがいかんせん狭い。数千の軍勢がどうにか出撃していったことになる。それでも壊滅していた武田軍には致命的だった。 長篠日記は史料価値ないから何の参考にもならない
妄想レス乞食の相手しても無駄だけど 長篠日記も織田勢は追撃して殿で活躍した馬場信春を原田直政配下が討ち取ったと書いてあるんだが? 長篠日記は実はいくつかバージョンがある。
元々は長篠乗本村の阿部四郎兵衛(定次)が記していた日記である(本来は四郎兵衛日記とでも書くべきなのだろうが)定次はかなり筆忠実な男だったらしい。定次は長篠合戦にも参加しており鳶ヶ巣山攻撃隊の案内人の一人だった。 その記録を定次は妻の実家に送る。これが長篠日記(阿部本)と呼ばれるもの。送られたのは粟世の熊谷八郎兵衛である。
ピンとくる人が居るかもしれない。この熊谷こそ柳田國男が高く評価する「熊谷家伝記」を残した熊谷家である。熊谷家伝記には「(長篠合戦の)委細は阿部氏之日記に詳也」とある。 ここで熊谷家について触れると熊谷家は歴史ある名家でこの天正年間は武田家に仕えてる。軍役の代わりに物納で済ませてた農家でもあり、粟世では「御館」と呼ばれていた資産家でもあった。そんな熊谷家は実は子孫が高力重長を名乗り松平に仕えたという話もあり徳川とも親しい。
その為阿部四郎兵衛は徳川と武田の情報に触れる事が出来る珍しい人物だった。そんな彼が熊谷家の依頼で完成させたのが今知られている長篠日記ということになる。阿部四郎兵衛はこの時それなりにトシだったので一線は退いていた。その為時間はあったのだろう。 >>921
太向義明氏は、『長篠日記』を、「内容には『甲陽軍鑑』や小瀬甫庵『信長記』『総見記』等の流布書との類似が著しく、近世中期以降の成立であることは明白である。」とされている。このような、末書の類を基本史料とすることには疑問を感じざるを得ない。 甲陽軍鑑の焼き直しも何も阿部四郎兵衛と長篠日記を作った熊谷家は武田に仕えていたのだから武田の情報が入るのは当たり前。
だから長篠日記を評する上で「甲陽軍鑑と似てる」は実は史料批判になってないという問題がある。 阿部四郎兵衛は織田・徳川軍の陣地構築や鳶ヶ巣山砦攻撃戦の様子、その後の戦果といったところを詳しく書いていて長篠合戦の重要史料を残したと言える。熊谷家伝記に存在が確認されるから後世の創作で無い事は確定したようなものなんだがここを知り尽くした上で史料批判をしないといけない。 長篠日記信じるなら勝頼の馬鹿っぷりや大通寺の訣別の盃とか信じないとねー 長篠日記は阿部四郎兵衛の織田・徳川の情報と熊谷家の武田の情報を突合させたものでおそらく長篠合戦の実態にかなり近い史料だと言える。信長公記や三河物語ではわからなかった武田軍の攻撃順なんかも書いてある。そんでこれを熊谷家が求めたのはおそらく「何故武田が敗れたのか」を詳しく知りたかったからなんだろう。熊谷家は当時一帯を支配する実力者で故に情勢には敏感でなきゃならんかった。武田が大敗したなら徳川に従わないと未来が危ないからね。 実は徳川の戦果がとんでもないことになってる。信長が追撃しなかった、という根拠の一つだろうか そりゃ徳川領内の勝ち確の追撃戦なら徳川が気張るのは当然 >>885
それがおかしい。馬場信春を原田家臣が討ち取ったというのは長篠日記にある話だけど長篠日記によれば
内藤昌豊→朝比奈泰勝が討ち取る。泰勝は今川家臣。この時は伝令として徳川陣に居た
真田信綱→渡辺政綱が討ち取る。政綱は徳川家臣。
とある。対して織田が討ち取ったのは馬場信春のみで信春は最後わざわざ戻ってきて槍を受けた実質の自殺。
これは織田信長が追撃を命令したのならおかしい。昌豊は滝川軍を受けたところを横から徳川が、という話はあるかもだけど信綱は攻撃中に鉄炮で致命傷を負って逃げるに逃げられない状態。普通なら佐久間軍に殺されてるはず。それが徳川にやられた。 松平記
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1575/14-4-1/6/0019?m=all&s=0006&n=20
「馬場をは信長衆原田備中守内、河井三十郎と申者討取けると聞えし」
徳川方でも記録されてんですよねえ
>>935
ほなら馬場美濃は三重の柵の中まで進んでいって槍つけられたのか?w
長篠合戦図屏風見てこいよ そもそも長篠日記だと織田も適宜柵の外に出て武田軍に横槍突いてます
信長公記もそうだし >>936
屏風は流石に何の手掛かりにもならないでしょ 追撃したなら真田信綱が徳川に討ち取られてる筈がない。佐久間の真ん前なんだから。原田の役を考えると追撃に出たのは徳川と信長の援軍だけだったと。ただ武田の被害が甚大で退却戦すら出来なかった。 真田信綱が渡辺政綱に討ち取られたというのは三河後風土記という江戸時代中期に書かれたものでかなり怪しい
信綱は武田軍右翼を担い、織田方と戦って鉄砲で撃たれそのまま死んだ(軍鑑)
信綱の首を包んで信濃に持ち帰ったという伝承がある(血染めの陣羽織)
武田撤退路近くに真田一党の碑があり、そこは武田軍右翼寄り
それに信長自ら弾正山で家康の側にいたんだから両軍混合状態だろう 織田軍は設楽原の2/3を覆っていて徳川軍は南端なんだよなぁ… 諏訪殿、拙者は御館様の所に行くことに決め申した
殿をつとめまする
甲斐にお逃げくだされ ってかもう勝頼に付き従ってても先はないと思ったんじゃないかな 穴山「無謀な戦に挑み信玄公以来の重臣を悉く失ってしまったではないか!」 勝頼に従うからこそ突っ込んだんだろう。もし反対してたら少なくとも撤退を進言するし最悪サボタージュ。まぁ重臣衆が勝頼に決戦を提案していたから退くに退けなくて損切り出来ず全損したのかもしれんが 結局は長篠城を解囲されるわ
前後に敵を抱えるわで前進しか選択肢無くなった結果じゃないの 勝頼の慢心に命かけて付き合うほど武田の重臣が阿呆だったとは俺には思えないがな
みんな撤退を進言してたんだろ? >>954
重臣達が反対したのは全軍で城を包囲中の時期 攻城中に後詰が来た時点で挟撃されてるに等しいからな
選択肢は部下と兵を特攻隊にして自分だけ逃げるか決戦するかしかない >>958
甫庵信長記じゃないの
資料じゃないけど 城を攻めれば当然援軍(後詰)が来る
桶狭間が信長が仕掛けた戦いであるように
長篠は勝頼が仕掛けた戦いなのである 織田徳川連合軍が設楽が原から動かないならさっさと撤退するか
長篠城を力攻めで落すかの二択だよな
武田の3倍の兵力で後詰した挙句長篠城見捨てて落とされたとなれば
三河の徳川方の豪族はもうドミノ倒しのように武田に寝返るだろうし 大河で今週長篠だからこのスレも賑わうのかな?
今までのパターンだとナレーションだけで戦い終わりそうだけど >>962
連合軍が設楽ヶ原に来た時点で、武田軍はある程度の被害を覚悟の上で
撤退するか史実のように動くしかない
力攻めはまずありえないが、やるにしても連合軍が来る前だけ 朝鮮人に乗っ取られた犬HKはそんな手抜きで済ませようとするよ
そのくせ職員の年収は1500万円だから
もはや何をか言わんやである 無視されがちだが長篠城500が無事なので後詰が到着した時点で武田軍は挟撃される形になる
逃げるにしてもかなりの損失を覚悟しないとダメ
かといって馬場信春とかが「某が特攻します」とか言うわけもないし 信長が丘の後ろに兵力隠して武田が兵力を見誤ったってここ20年位言い始めてるけどさ
岐阜から三河まで3万の兵力の移動を隠せるわけもない訳で
実際は勝頼の書状のように「敵は手立てを失ってる」って思っちゃったんだろうな
織田徳川で武田の3倍の兵力あるのに急造の陣城に籠ってんだから
突撃して1か所でも突き崩せば戦意の乏しい織田徳川軍は崩れるだろうと
浅井・朝倉・長島の一向宗まで滅ぼされて武田も焦ってただろうし
ここで信長に打撃与えれば流れ変わると思ったんだろうな 信長の2つの調略に引っかかったということ。
1つは三河に侵攻すれば信康が寝返るという調略にかかって三河に侵攻したこと。
2つ目は中央突撃をすれば佐久間信盛が寝返るという調略にかかって、
中央突撃を繰り返した事。
三河侵攻の際に信玄が落とせなかった高天神城を落とした事も、
勝頼が舞い上がる要因になったと考えられる。
またこの調略にかかったのは勝頼だけでなく信康もで、
その為に信康が確実に勝頼と通じていた事を信長は把握しており、
申し開きが通用せず自害に追いやられた。
またこれ以降、家康は佐久間信盛を警戒しており、
その警戒を解くための工作活動が、
19カ条の折檻状による失脚だったが、
高野山で不慮の死を遂げてしまって、
明智光秀に家康暗殺の役目が回ってきて、
本能寺の変につながってしまった。 設楽原は原とつくけど関ヶ原みたいな原っぱじゃない。丘の多い田園地帯で見通しが良くなかった
一番重要なのは勝頼達がいる長篠・信玄台地からも設楽原の織田・徳川陣がみえにくいという点。実際にテレビ番組で再現したところ一番前の柵は見えるがそれ以外なにも見えない
だから武田軍は信長も家康も簡易な柵だけを頼りに籠ってると誤解していた可能性が高い 三河に侵攻すれば三河衆が寝返るという情報を流して、
実際にその通り寝返ったので、
勝頼はその情報源を信じてしまったのだろう。
長篠で中央突破を繰り返すぐらいに、信じさせてしまった。
その最大の功労者が佐久間信盛だよ。 家康は佐久間信盛の調略にかかって、
信康が勝頼と通じていたのを知り、
佐久間信盛を警戒した。
武田の次の調略の目標は自分だとも分かっていた。
それ故に19箇条の折檻状も
家康を油断させるための工作活動だと分かって
警戒を怠らなかった。
そこで佐久間信盛が高野山で蟄居させられた隙をついて、
伊賀の忍者にそれとなく始末させた。
その後家康暗殺の役目は明智光秀に移ったが、
荷が重かった様だ。 なんにせよ3倍の敵が陣城に籠って防御態勢敷いてるのに
そこに突っ込むなんてのは正気の沙汰ではないな
案の定最後は陣前出撃されて壊滅的な打撃受けてる 敵領内に入り込んで城攻めに失敗した挙句援兵の攻撃を受けて大敗北した戦い
・吉田郡山城の戦い
・厳島の戦い
・川越城の戦い
・砥石崩れ
・末森城の戦い(創作?)
一応上のは全部攻め手の方が数多いんだよな 当時の武田なら2万以上動員するのは可能なのに
1万5000ってのはどう考えても信長の援軍が来る前提ではないよね?
長篠城失ったら勝頼にとっての高天神城失陥と同じことになるから
徳川は後詰で出てくる可能性が高い
徳川が1万くらいかき集めて武田軍に戦い挑んでくる気になる程度の兵力が1万5000ってとこだったんだろうな
実際城の包囲に2000程度残して1万3000ならまぁ決定的な兵力差でもない ・陣城だとわからない地形
・敵数もわからない(甲陽軍鑑曰く織田徳川十万)
だから突撃を選ぶのは当たり前 >>978
こういう人って岐阜から三河まで兵力隠して移動できるとでも思ってんだろうねw
設楽が原で視認できる兵力が例えば2万だとしても情報と照らし合わせれば
残りの1万から2万はどこかに伏せてると考えるのが当たり前だろう >>977
親父が残した負の遺産(濃越同盟)のせいで北信濃に兵力駐屯させる必要があるから2万超は厳しいでしょ
上杉からみれば武田と織田の消耗は好都合だが流石に武田は負けすぎたな >>980
皮肉にも長篠合戦の頃に謙信が足利義昭の要請に応える気になり始めてるという 信玄は三方原の戦勝後も堀江城を何日も攻めなかった
織田の援軍がいつ突然来るか分からなかったからだろう
それに比べて勝頼は長篠で力攻め失敗して何日も浪費しているのだから、織田の援軍を把握できてなかったという言い訳は通用しない
援軍が来たらどうするか対策した上で攻城の選択をするのが不可欠
まあ援軍来たら本意を遂げるべく戦うつもりだったんだよ >>981
謙信にとっては織田と武田が拮抗して争うのが1番良かったのがあまりにも天秤が傾きすぎた 謙信は加賀まで攻め込んだのに
翌年関東出陣しようとしてたからなぁ
この人本当に足利将軍家に忠誠心あると思えんのよね >>984
高い忠誠心があるなら長篠以前の御内書で武田との和睦に
応じるだろうし、北条との和睦を拒否することもない
謙信が態度を変えた理由はわからないけど、北陸本願寺と
武田を共通の敵としていた織田がそれぞれフルボッコにして
「あれ?このまま2勢力が滅んだら次は上杉がヤバない?」
と考えて、まだ2勢力が残ってる間に反織田に転じたと思う
死期を考えると失敗だったけど 長篠後に武田に攻め込んでは。という家臣の提言も謙信は却下したからなあ。
対織田は意外と早いうちから考えていたんだろう。 >>979
長篠の出入り口、設楽原は徳川が押さえてるから武田は物見を出すのすら困難だぞ 武田軍が信長の兵力が分からなかった原因として
・長篠城は長篠の窪みにあり伊奈街道が通る設楽原を押さえられたら山路しか通れない
・信長、家康はこの時に備えて街道整備をしていたので武田の予測を超えた速度で進軍できた
・信長は馬防柵用の丸太を岐阜から持ってきた。必要な長さは第一柵でも3〜5キロメートル分、2メートルの木材で2500本にも及ぶ。兵士が雇った人夫かわからない。これで兵力を観測困難にした
・しかも当時は梅雨で路面は濡れて土埃も立たず光学観測では正確に測れない
・そもそも内通者でも居ないと正確な動員数はわからない
と種々あって分からなくても仕方がないとしか 相手兵数を分かってるケースの方が稀だしね
勝頼の場合、明智城や高天神城攻めた時もちゃんと敵の援軍に備えて布陣している
高天神城は実際に城攻めていたのは穴山だった
長篠も医王寺山に布陣しており、この時に限って無策だったとは考えにくいよ
信玄の野田攻めや家督相続直後の長篠城争奪戦で何度もあの辺りを通ってるし、長篠菅沼氏も味方にいるのに地形に疎かったというのは考えにくい 長篠の戦いを謙信がどう利用したかは
「謙信✖信長」が書いている。 医王寺山からは設楽原が観れない、代わりに別所街道が良く見える
この事から武田軍はどちらかと言うと徳川が別所街道を使って攻めてくる事を警戒していたらしい。仮に伊奈街道を使って来ても武田の方が戦力的に有利ってことも勘定に入ってたんだろうが
まぁどのみち後詰が到着した時点で何も出来ないんだけど たとえ当主信玄死したりと云えども武田家に制裁なくば不公平でござろうが。 鳶ヶ巣山武田勢3000が織田4000(最精鋭?)に短時間で木っ端微塵に粉砕されたのもやばくね? 1千じゃないの?武将の面子見ても3千もいたとは…… 武田は心の折り方間違えちゃった感はある
強右衛門殺しちゃったことで長篠城の兵士たちの結束強くなっちゃったし
この後の長篠の戦いで城兵たちも撤退する武田軍の追撃戦に参加する 贈従二位の上杉謙信と贈従三位の武田信玄の争いの深き傷痕 このスレッドは1000を超えました。
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