長篠・設楽原決戦の真実その2
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1575年6月29日(天正3年5月21日)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との合戦。
武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。
これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)滅亡を招いた。
この戦いにおいて、織田・徳川連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。 兵力でも劣ってるのに正面から正攻法で攻撃するのはバンザイ突撃感がある お前はアホか
両翼を迂回しようと必死で攻撃してただろうが 数で勝る織田軍は予備兵力も充分あったろうな
どちらかの側面にうまく回り込もうとしても、新手が出てきたんじゃないかね >>751
ん?その程度の作戦は正攻法で正面から相対してるだろ…
その程度で勝てると思ってたならアホだろ 武田軍だって馬鹿じゃないので一応織田徳川軍の後方を攻撃する作戦は実行していた。設楽原北を行軍して牛窪城を攻撃、敵を動揺させるつもりだったらしい。 武田軍も織田徳川軍の背後を突こうと奇襲攻撃隊を出していた。ところがこいつら、長篠民に発見された挙句通報され織田・徳川軍に逆に待ち伏せされてしまい攻撃は失敗している。彼等には何故自分達が察知されたかわからなかったろう。
その理由は設楽原の殺戮陣が教えてくれたろうが。 >>755
それ地元伝承しか残ってないからね
たしかに織田方も二俣方面は心配したのか守備兵力を残置してるあたり、そういう奇襲ルート自体は有力だったとは思うけど
両勢力の一次、二次史料ともにまったく言及がないから、威力偵察の足軽小競り合いがあっただけとか、別の合戦が長篠のときと誤伝されたとか、そんなとこだろう 史実は知らんけど有力な手だよな
逆にロクに手合わせも出来ない柵に突っ込んでるだけじゃただのバカじゃん
迂回して柵無い方から行けば心理的効果もデカい
普通は武田みたいにあんな死ぬまで戦わず逃げ出して戦が終わるわけで、織田の兵なんか横から来られて逃げ道なくなると思ったら速攻逃げそうだし 現代の小学生だって「どうして武田軍は回り込んで攻撃しなかったの?」って思うくらいなんだから当時の武田軍だって思い付いていたろ。ところが想定外の事態が重なり続けて大損害に繋がった。 武田が思いつくなら織田も思いついてると思わないのかな 思い付いてたから三千人も長篠に布陣させたんだろ。四千五百の兵で奇襲成功させた徳川が凄過ぎるだけで。 どれだけ過大に見積もっても2千程度にしかならん戦場と直接関係無い砦に倍以上の軍勢で押しかけて当然の勝ち拾って「徳川は凄い!」
徳川オタってこいつみたいな知能低いのしかいないのはお約束 武田本隊が設楽原に移動すればほぼ確実に織田・徳川軍は背後を突こうとしてくるし(武田も同じ作戦してるんだし当たり前)そうなったら徳川が握ってる別所街道を使われる事も確実。だから僅か500名の長篠城兵の押さえに3000人も割いた。防御側は攻撃側の3倍に比するという原則からすれば9000人居ないと突破出来ない。仮に少数の奇襲隊なら返り討ち、大軍勢の強襲隊なら遥か向こうからでも確認出来るので長期戦に持ち込める。それは武田本隊の勝率を高める。
ところが徳川は4500という絶妙な軍勢を、しかも武田軍監視隊の目を掻い潜って奇襲させた。これだけの軍勢が全く動きを悟らせずに攻撃成功した訳でそりゃ見事の一言しかないわ。 信長の戦術の唯一の弱点は敵が後退した時に即座に追撃できない事。逆に言えば逃げられる前にあれだけ仕留めてみせたのが凄い。 後詰が来てしまった時点で武田軍は大損害覚悟で逃げるか勝負するかの択一。長篠は地形と情勢が完全に武田を祟った。鳳来寺街道を使われたら下手すりゃ挟み撃ちになるから軍は前進させないといけないつまり殿は全滅前提の特攻隊。また味方だと思った長篠民は全員徳川派だった。どうしようもありません。全滅です。 >>762
軍鑑を読むと、武田が織田徳川の鳶ケ巣砦奇襲を予想してたとは、ちょっと思えないんだけど。
>3000人
とはいうけど、その時の武田は確か5つの砦を長篠城の近くに配置してたと思うので、
単純計算で一つの砦の兵力は600程、って事になると思う。
それを奇襲で酒井勢4千程が襲い掛かれば各個攻略が可能だと思うけど。
>>763
信長公記を読むと、普通に追撃をしてるように思うけど。 >>765
三河物語を読むと、織田徳川がいた設楽から、長篠城周辺まで行くには、
一人ずつでしか移動できない細い道を何キロも進み、
さらに、途中の川を渡る為の橋も一つしかなかったようで、
この細い道の出口にある程度のまとまった軍勢を配置して殿軍にするなり、
途中の川を渡る為の橋を壊してから撤退するなりすれば、
普通に撤退可能だと思う。
鳳来寺道をどうやって当時の織田徳川があの状況で使うのか、と思うし、
使えるんだったら普通にやってたと思う。
信長公記を基にするなら、設楽に武田勢が来た事で、信長は大層喜んで、
酒井勢の派遣を決めたように思うので、設楽に武田勢が来なければ、
信長は武田勢の背後に軍勢を回せなかったと思う。 予想してなかったら長篠城の押さえには一千人程度で済ませてるぞ。1人でも多く連れて行かないといけない決戦にわざわざ三千人の兵員を置いた理由が鳶ヶ巣山砦防衛・別所街道警戒じゃないなら武田軍は全員アホ、もしくは全員痴呆が始まっていたのかな?って話。 後詰が来た時点で逃げるか決戦するしかないんだからどのみち別所街道は使われるだろ >>768
そんな事を書いたって、
>>766にも似た事書いたように、当時の武田勢が5つの砦に軍勢を配置していけば、
三千程の軍勢を分けていくと、一つの砦に600いるかどうか、という話になると思うので、
そこまでの話かな、と思う。
>>769
>>767に書いたような地形的理由で、むしろ、武田勢主力が長篠城周辺から動かず、
上記767にあるような、狭い道や、一つしかない橋を利用して織田勢を防いでいけば、
織田徳川勢は長篠城を救援できなかったように思う。
だからこそ、信長公記において、上記767にも似た事書いたように、勝頼が武田勢主力を率いて、
設楽に来た事を、信長はとても喜んだと思しき事が書かれてるんだと思うし、
同じく信長公記において、長篠城を信長はすぐに救援しようとするのではなく、
わざわざ設楽で陣地を作って、守ってたように思う。 武田軍は織田・徳川の後詰が来た時点で損害覚悟で撤退するか損害覚悟で決戦して後詰を失敗させるかの択一になる。ただし設楽原まで進出しないと最短で信濃に向かえる鳳来寺街道を織田徳川軍に使われてしまうのでどうあっても軍勢は前進せねばならない。
武田軍が前進すれば確実に別所街道を使った鳶ヶ巣山砦攻撃が行われる。これは武田重臣衆だって分かってた。だから長篠城の押さえに三千人も置いた。長篠城自体は五百人しか居ないからこの過剰な兵力は当然に織田徳川軍の攻撃を防ぐためである。 この場合織田徳川軍の攻撃は奇襲か強襲になる。つまり「一千人以下の兵で監視網を掻い潜り砦を焼き討ちし逃走する」か「数千人以上で砦を強撃し陥落させる」か。まず数百人からなる奇襲攻撃なら三千人の兵で落ち着いて対処すれば良い。深追いせずに被害を抑えるだけ。敵が大軍で強襲しようという場合、絶対に監視網にかかる。五千、一万という数は隠れて行軍できるものじゃない。発見次第連絡を取り防戦すれば良い。それが砦の役割なのだから。「防御は攻撃の三倍に比する」ので三千人という数は攻撃側九千に匹敵する。徳川軍の数が八千から一万だから武田軍は徳川軍が総出で来ても対処出来る様にしていた。 ところが徳川軍は武田の想像以上に優秀だった。四千五百という大軍が、なんと武田の監視網を掻い潜りしかも鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃した。これは流石に想定外。しかもこの初撃で後方部隊総司令官が討ち死にしてしまい武田軍は指揮系統断絶、パニックに陥った。時間から見て奇襲隊は武田軍移動前に既に準備していた訳で完全に徳川の術中に嵌ってました、というおはなし。 4000人ってマラソン大会開けるくらいの数はだもんな。それを見逃すってのは武田軍が余程マヌケか徳川家が相当地理に詳しかったのか。 元々と小勢と分かってたからスルーして相手が減った所で戦仕掛けたってのが通説じゃね
そしたら連合軍は想像以上に多くて減ったとか意味なかったみたいなオチ
>>773
このキチガイまだやってたんかw
底辺の生きがいが5chで頑張る事なんだろうけど惨めなもんだなこの低学歴 そもそも織田軍と戦う前に鳶の巣の合戦の音なんか聴こえるんだから知らなきゃ後ろで謎の戦闘してる状況で目の前の相手に向かっていくわけないだろうぐらい想像できそうなもんだけどその程度の事にも頭が回らない知恵遅れの底辺w >>771~773
ちゃんと信長公記読めとしか
あ、妄想ね
チラシの裏に書いてろよ 信長公記以外にも史料あるしな。それに公記も事実全てを書いてる訳じゃ無いし。例えば馬防柵の木を岐阜から持ってきただの鉄砲を諸将から供出させただのに触れてない、
そしてそもそも公記では鳶ヶ巣山砦攻撃戦は詳しく書かれてないから読んだところで何か変わる訳じゃありません。 >>780
アンタはチラシの裏に書いてな
菅沼ともども邪魔だから >>774 >>781
誰を菅沼認定してるのかと思うけど、>>53にも似た事書かれてるように、
菅沼認定厨さんと思しき人は、ワッチョイスレ、勝頼スレ49で、
特徴が違うようにしか思われない、複数の人々を菅沼認定してるように思われ、
しかもその矛盾について、ちゃんと答えられてないように思うので、
まずはその事をちゃんと答えて欲しいと思うかな。 いくら武田重臣衆が脳筋揃いのアホとはいえ何の考えもなしに設楽原に行く訳無いだろ。そりゃ重臣衆はアホだったけど。 >>784
そもそも武田重臣は年寄の集まりだしな
山県 62歳
馬場 61歳
内藤 54歳 >>788
小和田とか最近の学者は60歳代をとってるぞ
そもそも47ってそれはWikiの根拠のない年齢だろ >>789
そんな専門外の学者出されてもね
不明というのが答えなんだろうが、活動時期からして62歳はないな
1556年飯富源四郎が初見で信玄の近習だったし信玄より歳上は無理筋
戦死時、嫡男も幼少だし
軍鑑の内容もそんな年長じゃない >>790
嫡男の年齢ってわかってるのか?
何の史料? >>791
嫡男は幼少なので小菅五郎兵衛が陣代を務めた(軍鑑) 嫡男が幼少って根拠になるのか?
光秀とか嫡男幼少だけど本能寺の時点で60ぐらいだったって話じゃ。
鳥居元忠とか家康より4歳年上で近習だったし、年上だからも根拠になるのか? >>794
あくまで総合的な推測
没年62の根拠は何? 田野から辛うじて脱出し、常陸佐竹、陸中南部から路銀の供与を受け、松前武田氏の助力で中国東北部に渡り、ヌルヌルハッチと名を改めて大清帝国を樹立したは武田勝頼である 武田家が鉛と硝石に困っていた事は色々指摘されとるが
その状況下で金満の織田と戦争はきっっつい。 定期的に間があくのは奴の言う「リアルの都合」つまり精神病院に入院のためだろうな 甲陽軍鑑の馬場信春、明らかに進言がおかしいんだよなぁ >>801
普通だったら織田が援軍に来にくい掛川や浜松を狙うのが定石だからねえ。
わざわざ織田のお膝元の東濃や岡崎、長篠に精鋭を引き連れて出掛けるとかせんしな。 信濃まで敵を引き込みましょう!
とか割と常軌を逸してる気が 設楽原に居る織田・徳川軍を撃破するには武田軍の野戦能力への強い信頼が前提。って考えると攻撃を提案したのが重臣衆で反対したのが側近衆っぽいんだよなぁ。ならあの書き方もわかる。 武田軍は織田・徳川連合軍の前に対陣して布陣していると見せかけるために、
人形・かかし作戦を発動。夜に紛れ、人形・かかしを設置して、かがり火も焚かせて、
あたかも、大軍がいるかのように見せかける。実際には1000人規模の足軽も紛れ込ませて、
鉄砲を定期的に打ち込み、時の声を上げさせる。
馬防柵の内側で待機しているだけの織田・徳川連合軍は、動かない。これを逆手に取り、
武田軍の時間稼ぎに使う。その間、武田軍の主力は長篠城を包囲しつづける。
長篠城に籠城する敵軍に対しては、兵糧・水脈を完全に断ち、織田・徳川連合軍は、
待機してるだけで、救援に来ないと虚報を流す。
そして、山々の間道では織田・徳川連合軍の別動隊による奇襲を防ぐために、
間道に隣接する木を次々に切り、間道に倒し封鎖する。
武田軍の数百人規模の別動隊は鉄砲、弓矢、石などを持ち、織田・徳川連合軍の
本陣に散発的な攻撃をしてから、すぐに撤退させる。これを何度も繰り返す。
織田・徳川連合軍の兵糧集積所や補給線にも攻撃・調略する。
織田・徳川連合軍を全面撤退に追い込めばしめたもの。 真田昌幸の岩櫃城に武田勝頼をかくまった後、織田信長との戦闘が起こったら、
真田昌幸軍が織田信長軍を苦戦させる姿をみてみたい。 >>809
それを敵の領内でできると思ってるなら入院した方がいいぞ 信長は武田に与する奴は犬でも猫でも撫で斬りにするつもりだからその事を知ってる奴は勝頼を売るだろうな >>809
ぼくがかんがえた さいきょうのせんじゅつ >>810
岩櫃山に行ったことがあるが、ここに城があったら確かに守りは固そうだった
ただ武田征伐の時点だと岩櫃城は真田の本拠と前線の沼田城の中継点に
過ぎなかったし、準備期間も殆どないからまともに籠城するのも無理だったと思う
そもそも新府城からだと移動すら困難ではあるが 多数で少数を打ち破ったのではなく少数で多数を撃滅したという稀有な話だったね 野戦になったにしては武田軍のみに被害が出てるから野戦はそこまで行われなかったんだろう いや追撃戦になると武田が猛烈に抵抗して
織田徳川軍にもかなり損害が出たから
信長はこれ以上の追撃を諦めざるを得なかった とか言われてるけどソースはなんだっけ?
ちなみに織田徳川軍死者六千ってのはガセらしい。明治時代に「武田が一万死んだなら織田徳川もこれくらい死んでるはず」で作られたんだと。また名和弓雄氏は逃亡兵を死人扱いしたんじゃないかとか言ってたな。この戦争で織田徳川からは逃亡者が出てないのが不自然なんだとか。 本国に帰る為には山路数十キロ歩いてねとか遭難不可避なんだよね… 長篠日記には信長は追撃戦はしなかったと書かれてるし、実際本気では追わなかったんだろう。そんな危険を踏む必要無いくらい勝ってるし。 空堀と銃眼に柵まであるから出ようにも出られないんだよなぁ
道を開けた頃には武田軍は遥か遠くだ 誤訳以前に史料を知らないで言う人がいるからね。
司馬遼太郎の「関ケ原」をソースに関ヶ原を語る様な奴がね… >>818
織田徳川軍に被害が出たって史料は長篠合戦記しかない。更に言えばその長篠合戦記では「信長は追撃戦はしなかった」と明記してるので死者は追撃戦の前に出ていたことになる。信長公記も三河物語も甲陽軍鑑も織田徳川軍の被害には触れてない。そもそも織田徳川軍の死者は鳶ヶ巣山砦攻略部隊にしか居ない。 >>831
話盛ってるにせよ甲陽軍鑑に織田徳川6千討死と書いてあるだろ
また誤訳?
史学的には長篠合戦記は史料価値なし
勿論甲陽軍鑑以下
引用するの禁止ね >>830
あれ見れば追撃戦なんか出来んとわかるわな >>834
彼の見た甲陽軍鑑には書いてあったんだろう…長篠日記は史料価値がかなり高いから後世で逆に甲陽軍鑑に付記されてもおかしくない 柵に頼って鉄砲撃ちかけてこその勝ちであって、追撃戦みたいに散散バラバラじゃ逆襲食いそうだから相手敗走した所で十分と追い打ち留めてた織田軍と、これまでやられた腹いせにこれ幸いと殺し回ろうと思ったら案の定痛い目合わされて腰が引けた徳川軍 長篠合戦の前に信長は長島一向一揆で痛い目に遭ってる。追撃部隊が逆に襲撃されて将兵多数死傷という大損害を出した。ど素人同然の一向衆ですらこれなんだから武名誉れ高い武田兵ならどんなことになるかわからん。信長が追撃戦に消極的だったのは自然だろう。決戦時点で勝負は決まってたんだ。 追撃したかどうかなら、信長公記、当代記、松平記と比較的信用できる史料全てに追撃したと書かれてる
議論の余地すらない 追撃というか徳川領からの追い出しであって武田領深くには入ってない。
戦場の完全制圧と敵国に入り込むのは全く違うこと。 結局「信長は追撃戦をして死者数千人だした」という逸話自体が長篠日記の史料価値を証明してるようなもの。というのはこの話は長篠日記にしか無い。ただおそらくこの逸話を作った人は「信長は追撃戦をしなかった」「死者数千人」をひっくり返して内容を面白くしてる。つまり「信長は死者数千人出したから追撃戦をやめた」ってことにした。多分信長嫌いの小説家なんだろうが… ①武田は陣城に攻撃を繰り返して甚大な被害を被った
②織田徳川は昼過ぎに柵から出て総攻撃し、追撃した
まともな史料は全てそう書いてあるので議論の余地がないだろう
信長公記には柵から出て多くの武将の首を討ち取った、武田軍の溺死者多数と書かれている
甲陽軍鑑は勝頼が必死になって逃げたり馬場信春が殿軍で死ぬのが書かれている
これらは追撃が激しかったからとしか読めない 追撃か掃討かの定義が論点じゃないだろ
柵から出て追撃(掃討)したかどうかが論点 追撃がなかった信者の人の論拠って、
まさか、武田領国まで入っていかなかったから
追撃の定義に含まれないってことを言ってんのか? 自領から追い払う事を、追撃あるいは追撃戦とは普通は言わない >>840
書いてないんだが?
甲陽軍鑑を否定されたら取り下げてて草 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています