【疑問】スレ立てるまでもない質問16【戦国時代】
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後北条氏の北条改姓についてですが、これはどういう理由を付けて改姓したんですか?
例えば家康が松平から徳川に改姓したのは、彼が新田源氏の徳川氏の子孫だからというのが一応の理由ですよね?(その真偽はともかく)
そういう建前が何もないのに、急に大昔に滅亡した家の苗字を勝手に継ぐことってありえるんですか?
あるなら後北条氏以外の例を教えてほしいです 信長が主要家臣たちに惟任とか惟澄とかの名族の苗字を継がせた件も、特に来歴とかなく継承させてた気はするが、勅任で継がせる形だったっけ? >>46
後北条氏は女系でつながってるのが根拠なんじゃないかとは言われてる スレチすみません。
一次史料から見られる九郎義経って鎌倉殿のような性格なんでしょうか。 ここって戦国時代板の質問スレだから、日本史板の質問スレで質問し直す方がいいのかもしれないな 足軽とかの馬に乗らず幟をさして真っ先に突っ込む悪く言ったら下っ端の兵隊の身分は武士なんでしょうか?
彼らは戦のない平時は現代の自衛隊のように訓練とか警戒をして給料を貰っていたのでしょうか? 関東とかだと馬に乗って戦う馬足軽とかもいたし、場合によりけりなんじゃないかと思う
商人・職人・百姓も普段から腰に刀を差していた時代で、江戸時代だと日本尺が武士の特権になる
足軽は武士だと思うけど、侍の定義の方が難しいんじゃないかと思う 足軽は正確に言えば武士身分ではないが、軍役の代わりに領主から様々な特権を与えられた「給人」という存在であり、百姓とも区別される 足軽は室町時代以降は武士身分
給人は所領を持った地侍のこと 平安から鎌倉は武士身分として扱うかは微妙だけど、南北朝以降は足軽は武士身分 国史大辞典の「足軽」「軍事制度」を引いてみたら
足軽は源平合戦〜室町時代は乱暴狼藉を行って敵陣を撹乱する傭兵のこと
南北朝時代に土豪が惣村から動員した農兵が野伏で、応仁の乱以降は大名も似たようなことを行うようになって、これが足軽と呼ばれるようになった
これだけだと農民身分っぽいけど、戦国の終わりごろには兵農分離で武士は城下町集住になるから武士身分になるのかな?
ただ長宗我部の一領具足とかもあるし、農兵が全部城下町に行ったわけでもなさそうだからよくわからん 連投スマソ
地侍(郷村を支配した名主=上層農民)が年貢免除などの代わりに軍役を付加されて足軽になるらしい
これが戦国大名の家臣(=給人、知行を受けて軍役を果たす人)に組み込まれるか、太閤検地前後の兵農分離で武士になったらしい
だから身分的には基本的に農民が多いけど場合によるとしか言えないと思われ
いずれにせよ給料が出るわけではなく、そもそも地主(手作り経営+下層農民からの加地子=年貢の中間搾取)で給与がある所に、加えて自分の土地の年貢免除があるという理解でよさそう
足軽がどの程度家臣化・組織化されていたかは大名によるので、それ以上一般化はできない >>58
そのときの兵農分離を命じた法律って、武士でなくても耕作しない人間は農村内に住ませるなってので、博徒とかも城下に追いやられたんだよ
だから、城下に集住になったひとのうちには、武士以外も少なくないんだよ >>59
地侍は鎌倉時代までの制度でも武士で、足軽じゃなかったはずだけど >>60
まあたしかに商人や職人とかもいるから城下町に住んでる=武士ではないかもしれんな
まあ江戸時代以前は武士身分というのが確固としてあるわけでもないからしょうがないけど
>>61
地侍は鎌倉末期〜戦国期の話だからなにかと混同してない? 平安から鎌倉の頃の足軽は主に雑用係で、鎌倉末期ごろから力を持った百姓が武家の家系図を買ったり盗んだりして地侍として武士になる
こういった地侍を当時は新侍と言って、戦の多くなる南北朝時代に国人や大名が自陣営に兵力として入れるために武士と認めるようになる 本能寺の変が起きた理由で歴オタや研究者から最も有力視されてる説ってなんですか? 光秀の単独野望説。
後はせいぜい四国問題がトリガーになったかならないかくらい 佐久間とかが追放された影響で、光秀も自分が亡くなったら息子も追放されるのではないかと考え計画なしで突発的にやったのではないかと言われてる
更年期やね >>63
江戸時代でも豪農が武士株を買って息子を武士にすることもあるし
いつの時代も人間のやることはやることは変わらない >>69
でも、そういうヤツの大半は、兵農分離(のようなもの)の際に農村で庄屋になるか村を去って武士になるかを選ばされて農村残留したヤツの子孫で、一般庶民ではなかったんだよな そもそも、戦国時代は云うに及ばず江戸時代だって「兵農分離」にどれだけ実質が伴っていたかは疑問だ。
俺の地元は多摩地域だが、
旧家の多くは江戸時代から苗字は名乗る、刀槍は常備する、道場を拵えて剣術に励む、果ては幕府代官が鉄砲まで貸し出す、
何処が兵農分離だよと。
多摩の過半は直轄領だから特殊だったのかねえ。 八王子千人同心だろ
こういった中間層が浮き出て見えるのも兵農分離が進んだ結果とも言える >>74
なるほどなあ。
お前さんが書物だけから半端で浅薄な知識を得た人だってことはよく解る。
いや、お前さんはそれでいいんだが、
学者だ研究者だって御大層な肩書を背負った御歴々の中にもお前さんと同等の御仁が少なくないってのが問題なんだよな。 >>76
実際に(八王子とは縁の薄い)北多摩辺りの旧家に行って話を聞いたり蔵の中を見せてもらったりしてきな。 江戸時代でも兵農分離は実際には出来てなかったでしょ、幕府でも下級藩士は禄米だけでは暮らしていけないか内職してたし
地方の藩でも普段は農業してて、城下町に強制的に住まわせられてる奴は農業もできないから1番下の奴より貧乏だったと言われてる 戦国時代板だから仕方無いがみんなの江戸時代像があやふやだから意見が割れてるんだと思う
「兵農分離」というのは文字通り武士(軍役を負担する)と農民(年貢と諸役を負担)の身分を分離するということで、少なくとも幕府領では徹底されてる。大名などでは自分仕置権が認められてるのでその限りではないけど
>>73が言ってるのは身分統制令(刀狩りなど)が徹底されていないじゃないかという話だが、身分統制令の趣旨は公の場で苗字を名乗れないことと帯刀ができないというだけの話で、私的な場での苗字使用や在村武器は全国的にあったこと。農民の剣術修行や農兵動員は幕末限定の話なので別
>>78は下級武士が貧困なのは兵農分離と関係ない話だし、後者は地方知行制から俸禄制に移行しなかった藩で、かつ手作り経営しているパターンなので、全国的な話ではない
厳密な兵農分離が全国で徹底されていたわけではないということには同意、これは平井上総『兵農分離はあったのか』を読めばいいんじゃないかな >>79
公文書における苗字が名乗れなかったのは同意だが、苗字じたいは名乗れていたんだよ。
帯刀も二本差しが原則禁止されていただけで、刀を持つこと自体は都市部でも地方でも出来たが町では旅人は持っていたが町人は持っていなかっただけ。
日本が兵農分離できたのは明治からで、江戸時代は誤魔化そうが兵農分離はできていなかった 毎度この手のは定義が違うと諭しても聞く耳持てないからスルーでいい >>79
んで、庄屋とかは例外的に公式の場でも苗字を使えるなど、一般の農民とは別の扱いを受けてる 話を変えて質問するけど戦国時代の行軍は鎧を着てるイメージが強いけど、実際は鎧櫃に入れて行軍してたから鎧は着てなかったとされるけど戦場までどの程度の距離で装備するのかという疑問
着てなかったのは武将格の奴らだけなのか、足軽クラスも勝てなかったのか知りたい
前田利家が目立ちたいから出陣時に町では飾りのデカい兜使って、戦場では小さい兜使ってることは知っている >>80
いずれにせよ兵農分離は単なる身分統制ではなく役負担の違いなのと、武士はただの身分ではなく戦闘者身分なのを忘れてる
武士というのは主従制に組み込まれて知行または封禄を受けて、代わりに戦闘、参勤交代、役普請などの軍役に動員される人を指す
太閤検地の後の一回きりの出来事と捉えると武士株を買って云々の話が反証として出てくるが、それは身分が流動的なことの証拠にしかならなくて、武士・農民自体の定義が代わるわけではない
幕末を除けば農民が軍役に動員されることはなく年貢・諸役を負担するだけで、商人職人も運上冥加設定までは役負担がない
>>82
村役人でも帰農した武士ともともと農民だった人がいるので全員ではないし、苗字帯刀は基本的に一代限りで、代々認められてる場合があるだけ >>84
古典教科書的概念論だな。
近世以前の「村」は最小の政治単位であってそれ自体が戦争主体にもなり得るし、その為の規範も暴力装置も保有していた。
「戦闘者であること」は武士を分離する要件にはなり得ない。
また苗字を認めるの認めないのと云った所で現実に名乗って通用していた事実は変えようもない。
そもそも誰かに「認めてもらう」ものではない。
そこを過度に重視する姿勢は、「歴史」をあまりにも上位権力に偏った視座から眺める英雄史観と云われても仕方あるまい。 >>85
説明が規範的すぎ、もう少し実態に即して言ってくれないと伝わらん
苗字帯刀に関しては>>79の通り、旧家の蔵見せてもらったなら書上くらい読んだことあるでしょ >>86
84の意見は一般的な回答であれば概ね正しいとされるけど、 歴史を調べた上で出版されている本や論文などを見る限り違うという話
江戸時代の資料も少ないから絶対に間違いというわけではないが、84の意見は違うということ じゃあ何が違うかわかるまで待つわ
誰か>>83にも答えてあげてね >>84
身分の扱いとして、武士と下人の間と同じように庄屋(など村役人クラスの階層)と一般の農民の間に壁があって、武士と入れ替わる可能性があったのは上の階層の上流農民だけ
この階層は苗字を公的に名乗れる家も少なくないが、一般農民には許されてない 肖像画で正面向いてるやつとそうじゃないやつがいるのはなんで? >>92
ラフ(紙形)を沢山書いてその中から依頼者が好きな構図を選ぶらしい(by宮次男『肖像画』) 明や琉球王国は正面向いてるけど日本のはほとんど斜めだろ 向かって左を向いてる肖像画は没後描かれた遺影
向かって右を向いてる肖像画は生きてるうちに還暦祝いや出家祝いでかかれた寿像
正面は数少なく中国の技法に倣った高僧の図とかしかみ像とか宗教的に何らかの意味がある特殊な物と言われてる 立体的に描ける斜めの方が人物の特徴を出しやすいというからな みなさんあざす
>>96
斜めの寿絵もあるから必ずしもそうじゃないくさい 北条高広の「きたじょう」と読むソースはなんですか? >>100
小田原北條から彼に宛てた文書は「喜多条」の文字を使っている。 越後北条(きたじょう)を領していたのできたじょうと呼ぶのが自然 大河ドラマ真田丸で大坂の陣で真田隊がお揃いの甲冑や旗を使って戦ってましたが実際はどうだったのでしょうか?
寄せ集めの浪人なのでバラバラだったのでしょうか? 城を落とさずに無視して進軍すると
前後から挟み撃ちに会うから城攻めするんだよね?
だとすると浜松城放って進軍した信玄は
どういう腹積りだったの? 信玄にとって怨みのつのってた徳川を無視するポーズ、公的には織田討伐ということになってるので私戦じゃなく幕府のためとの、表向きを前に出したふりして徳川をおびき寄せたかったのでは?
城攻めより野戦のほうが徳川を叩きやすいからとの作戦じゃないの 日本歴史最新号に本多隆成「信玄の遠江侵攻経路―柴辻俊六説批判―」が載ってたな 三方ヶ原で家康にまともな打撃与えられなかったからだろう
よく言われてるような完全勝利ならなんでそのまま浜松を攻めないのとなるし
信玄存命中でも奪われた城を奪い返す程度の打撃しか与えられてない >>109
いや、スルーするふりしておびき寄せて叩いたのが三方ヶ原でしょ
それでも叩ききれなかったのだろうけど 家康の目的が損害軽微なら成功なんじゃね
西進阻止なら違うだろうが 当時の戦は2割も死傷すれば負け戦だし
敵大名を討ち取るなんて奇跡レベルだよ 殺される可能性があるけど出される人質ってどんな人が選ばれるんですか? >>114
当主の生母や嫡男でさえ人質に送られてるぞ >>115
仲の悪い家や降伏した相手に人質を送る時も生母や嫡男を送るんですか? >>116
謀反の嫌疑をかけられた前田利長は生母芳春院を人質として江戸へ送った。 >>68
昔はノイローゼ説が有力だった
最近はノイローゼって聞かないが呼称が廃止になってたんやな 秀吉が朝鮮出兵した時に結構な大軍を送り込みましたが当時の船ってどんくらいの大きさだったんでしょうか? 光秀の謀反ってボケのせいにしないといけないほど突発的なものなんやな >>119
大型戦闘艦の安宅船は全長30m前後あったそうだ >>120
わりと昔から歴史上の人物は心理学や精神科などの分野から考察されてるからな
ボケかどうか知らんけど通常の精神状態じゃなかった説は多くみたけどね まあ数十回も戦に出ていれば何かしらの障害は持ちそうだしな ボケだか思い込みだかで潰されたノッブと信忠が可哀想だな 長篠スレで見たのですが、
織田軍の銃が三千丁だった、
三段撃ちも史実だったというのは
現在の定説なのでしょうか
僕はてっきり銃は千丁、
三段撃ちも虚構だと思ってました ・織田軍の銃が三千丁だった
→可能性は有るがそれを証明する史料はない
・三段撃ちも史実
→三段撃ちなどの連続射撃が日本で行われていたらしいのは明の記録などから
おそらく確かだと考えられるが、それが長篠で用いられていたかどうかは解らない。 数千丁の鉄砲を用いた三段撃ちは高度な連携が必要となるので成立したのは
秀吉時代に於ける全国統一の軍役と度量衡の規格が定められてからと聞いたことがある 長篠で三段撃ちをやったという記述は『甫庵信長記』にしかなく内容に創作が多い書物なので信用できない
三段撃ち含む交代射撃は唐入りの時には日本軍の基本戦術の一つってくらいメジャーな戦法であり
本願寺もよく使っていた戦術なので信長が本願寺をまねて長篠でやってた可能性は無いわけではないが史実だった可能性は今のところ低い 宇喜多秀家が幼いうちから秀吉に優遇された理由はなんですか? 秀吉に最初に降った大名クラスで父親が死んで間もない後ろ盾も少ない幼君
親族が少なく譜代も居ない秀吉にとって悪く言えば手駒候補としてちょうどよかったんだじゃないかな >>131
そのシリーズあまり信用できないんですよね…
>>132
確かにありそうですね 本能寺直後の向背定かではない毛利への防波堤という位置もよかったのではないかと 姉の子且つ関白継承したのに粛清された秀次
義兄の子なのに厄介払いされた秀秋
札付きの裏切り者の子なのに
五大老の一人になるまで優遇された秀家
どうしてこうなった 大正11年までは未成年も飲酒できたからな
その直前を舞台にした「はいからさんが通る」で未成年の主役が悪酔してたし 人質として他の家に預けられている間に家が滅びてしまったら人質はどうなるんですか?穀潰しとして消されるのか、それとも預け先の家で家臣として生きるのか >>141
それを捨てるなんてとんでもない!
人質の実家が滅んだなら、それを滅ぼした勢力(ほぼ確実に、自分とこの敵)との戦いの前線に送って、
そこの家のお家再興を支援する名目で戦わせる
もちろん、それ以後は独立の大名ではなく自分の家臣に格下げする
大抵は勢力拡大のチャンスなので、活用する
もしくは、まれなケースだが、そこの係争地から手を引くことにして、和平のしるしに、そこを滅ぼした勢力に献上する
平民に落とすとか、もったいないことはしない
まあ、単に家臣として召し抱えられるだけの場合はあると思うが。 >>142
ありがとうございます。便利な存在なんですね 磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦
上の豊臣秀次の辞世の句ですが、
最後の部分は
生きてなく ネズミ に死
という、秀吉に対する呪いが含まれているように見えたのですが
自分の妄想以外でこういう説を聞いたことある人、いますか?
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