【疑問】スレ立てるまでもない質問16【戦国時代】
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初歩的な質問ですが、戦国時代というか
近代以前の日本の戦いって
全て「合戦」というんでしたっけ
それとも「合戦」と「~の戦い」を
呼び分けたりするんでしたっけ >>5
いろんな戦いがあって、時と場合により、変、役、乱などと呼び分けられていると思うが 変と乱は違いがあった気がする
10年以上まえに中学の先生に聞いたことだから真偽は分からん 返信ありがとうございます
僕が聞きたかったのは
「合戦」と「~の戦い」は
全く同じ意味なのかってことです
わかりにくくてすいません >>9
日露戦争の頃までの帝國海軍では、臨戦態勢に入る時「合戦用意!」と発令したと謂う。
となると、前近代以来明治辺りまでは「合戦」と云う言葉は彼我承知の上での交戦行為全般を意味したかと推測される。
昭和戦前の海軍や戦後の海自がどうなのかは知らない。 >>10
さすが詳しいですね
ありがとうございます >>8
変は成功した反乱(=政変)、乱は失敗した反乱を指すという説明だと思うけど
当てはまらない事例(薬子の変とか)が多いからあくまで慣用的な使い分け
合戦と戦いについては、前近代で「○○(地名)合戦」はあっても「○○の戦い」という用例が全然見つからないから
もしかしたら近代歴史学で"battle of ○○"という表現を直訳したのが最初なのかも 足利義昭は秀吉の庇護を受け、室町内府という称号を得ましたが、かつての部下の細川藤孝とは再会したんですか? やんごとなき存在たる天皇(実質後鳥羽上皇)が起こした戦いも
「乱」と言われる始末だしな
後醍醐天皇が起こした倒幕運動や明治維新も
失敗してれば「元弘の乱」「慶応の乱」とかと呼ばれてたかも >>13
享徳ノ乱、長享ノ乱、永正ノ乱、…、
むしろ文字通り乱れに乱れて乱脈と混乱を極めた挙句、
誰が勝ったのか負けたのか成功したんだか失敗したんだか、
そもそも誰と誰が闘ってんのかさえ全くワケの解んねえ案件にこそ「乱」の称号が相応しい。 >>14
ウィキペディア見たら天正15年(義昭の帰京の打ち合わせのため)と16年(毛利輝元に同行)に面会してるらしい
出典は奥野高広『人物叢書 足利義昭』だから確かだと思われ
それより室町内府というのは聞いたことない
義昭が内大臣だったことはないようだし >>15
訂正
「正慶の乱」だった
勝者が敗者の年号など認めるわけなかったな >>19
享徳ノ乱の方が十年以上早い。
「戦国」を定義する機能要素としても応仁より明確。 >>20
でもそちらは関東限定の戦国時代で、全国的に戦国時代にはいるのは応仁の乱と明応の政変を経てからだから >>21
規模の議論をしていない。
室町体制的統治秩序が崩壊して実力=暴力による地域権力体が台頭する、或いは遷移して行くという「戦国」の本質に関して、
享徳ノ乱の方がより鮮明にそれを示している上に時系列としても先行している。
応仁ノ乱は同じ本質を孕みつつもなお旧秩序を前提とした夾雑物を纏い過ぎている。
謂わば、純度が低い。
細川山名が京畿に於いて対峙するという、物理的在地性の欠如がその夾雑物の最たるものだ。 >>23
難しい言葉などただの一つも使っていない。
極めて簡明な日本語をを難しいと感ずるのであれば、失礼ながら貴君こそ紛れもない馬鹿であろう。
己の日本語能力を疑った方が良い。
所謂「ユトリ」だろうか。 未だにゆとりとか言ってるジジイ何歳だよ…40は行ってそう 戦国時代のメルクマールとして在地性を重視するなら、むしろ守護の任国下向が本格化する応仁文明の乱の方が適切だと思う
享徳の乱は結局鎌倉公方家の内紛が室町幕府による討伐(失敗したが)を経て都鄙和睦に至ったというだけの話で、義満や義教の時代の守護討伐と区別できない >>27
享徳ノ乱の進行過程で古河足利、山内上杉、扇谷上杉など旧秩序の代表格の勢力群が地域権力へ遷移して行った。
また扇谷家宰太田道灌による在地の支配の実際例を見ると、
複層的・複線的かつ非物理的な旧支配方式を破壊して暴力による物理的な一元的支配を強要している。
この辺りをどう評価するかという問題だろう。
俺は、これは明らかに黒田らの提示する「戦国大名」へ向かうものと考える。 養子について質問です
①跡継ぎがいるのに養子を取る場合はあるのか
②養子と養子が来た後から生まれた側室の子供の場合どちらが家督を継ぐ権利があるのか
③実子と養子の娘を嫁がせる場合どちらが嫁ぎ先から喜ばれるのか >>29
@ある。家格・政治力の高い家から入れて、場合によってはそちらが嗣子とされる
A基本は養子だが廃嫡もできる
B実子 >>30
> ①ある。家格・政治力の高い家から入れて
急須で申し訳ない。
北條綱成などは例外的な事例か。 >>30
ありがとうございます。
嫁ぐのは実子、跡継ぎは養子で良い理由も良ければ教えて欲しいです 実力重視か
血統重視か
その他云々か
そんなのお家によりけりだろ 大内義長の様に
一旦養子に出されたけど養父に実子が生まれて出戻って
その養父を下剋上した謀臣に担ぎ出された例もあるがな 先方に嫡子があろうがなかろうが乗っ取り目的で送り込む押っ付け養子ってのもあるな。
北條の得意技。 >>35
毛利元就が小早川家や吉川家に養子を送り込んだのも、織田信長が木造家や北畠家に養子を送り込んだのも、同類とは言える ★したらば、爆サイの管理人を逮捕★
高岡早紀の兄 逮捕までの悪行放蕩づくし
週刊新潮2020年3月5日号
どうもこの人の周りではよく逮捕者がでるらしい。
女優の高岡早紀(47)の実兄、高岡賢太郎(48)が法人税など5900万円を脱税したとして、2月20日東京地検特捜部に逮捕された。
元内縁の夫が詐欺の疑いで逮捕されてから2年たらずだ。
「高岡兄は実質的に経営している会社を舞台に、架空発注を繰り返す手口で2億4000万円の所得を隠していた。本人は容疑を否定しているが、国税局査察部、いわゆるマル査が約2年も調べを進めてきた肝煎り案件。悪質性が高ければ、実刑判決の可能性もありますね」(全国誌社会部記者)
高岡兄は、ホストクラブや飲食店の経営アドバイザーをしていたが、ここ数年はインターネット掲示板『爆サイ』の運営が主な収入源になっていた。
「『爆サイ』は全国の地域コミュニティの掲示板で、月に7億PVを超えるほどの人気サイトです。国税は、広告収入だけで月に約4000万円は稼いでいたと見ている。高岡兄はプロデューサーのような肩書きで、関連会社を通じて、少なくとも月額200万円の報酬を手に入れていた」(同)
昨年5月にマル査が自宅や事務所にガサ入れした際には、約2億円の現金が見つかっているとの情報も。
「彼はとにかく会社を私物化していましたよ」とは高岡兄の知人。
「家賃50万円ほどの新宿区の自宅のほかに、沖縄に別荘を借りていましたが、それもすべて会社の経費にしていました。昨年の正月には仲の良いキャバ嬢とファーストクラスでアメリカに行っていた。その旅行の時には、現地で早紀さんとも会ったみたいですよ」
兄の逮捕について高岡本人からの言及はないが、「高岡は一時期、兄の会社にブログの運営を任せていましたし、会社に子供を連れてきたこともありました。何も触れないのは不自然ですよね」(同)
魔性の女の身辺にはやはり魔が棲むようだ。 爆サイ、したらば、5chはパチンコ店の資金で運営されてるステマ掲示板
パチンコ店スレの工作員
1,
爆サイ、したらば経営者、高岡賢太郎。
女優、高岡早紀の兄。
脱税で逮捕。
脱税した金をキャバクラ嬢に貢ぐモテないブサイク男ハゲ(短髪坊主)。
脱税した金で女を釣るブサイク男ハゲ(短髪坊主)。
身長は170センチぐらい。
パチンコ店を批判するか書き込みをした者にハッキング、名前特定のために自宅、ネカフェまでやってきてネカフェの個室のドアのカギを何らかの方法で開けて違法に部屋に侵入して、動画サイト(Hulu)のカードを2枚盗む嫌がらせをした泥棒。
ネカフェの隣の部屋から壁を蹴る嫌がらせをしてきたブサイクハゲ(短髪坊主)。
2,パチンコ店長(ブサイク、低偏差値)
3,パチンコ店に雇われたネット工作会社ピットクルー(時給1000円ぐらいのバイト)
パチンコ店スレは工作員1、2,3が連携しながら書き込んでる。
パチンコ、パチスロの大当たりは全て遠隔大当たり(違法行為)
パチンコ店を批判しすぎると爆サイ管理人のチンカス高岡からハッキングされ、名前を特定しようと自宅やネカフェまでやってくる。 >>39
境目はあいまいで視点によって変わるので一概に言えるものではないですが
慣例的には一郡以上を一元的に支配してる在地勢力(国衆)を戦国大名と呼ぶことが多いです。 >>39
権力構造の面から両者を区別することはできない、
と黒田基樹氏は述べている。 >>40
誰がそんなこと言ってるの?
知ったか恥ずかしい 後北条氏の北条改姓についてですが、これはどういう理由を付けて改姓したんですか?
例えば家康が松平から徳川に改姓したのは、彼が新田源氏の徳川氏の子孫だからというのが一応の理由ですよね?(その真偽はともかく)
そういう建前が何もないのに、急に大昔に滅亡した家の苗字を勝手に継ぐことってありえるんですか?
あるなら後北条氏以外の例を教えてほしいです 信長が主要家臣たちに惟任とか惟澄とかの名族の苗字を継がせた件も、特に来歴とかなく継承させてた気はするが、勅任で継がせる形だったっけ? >>46
後北条氏は女系でつながってるのが根拠なんじゃないかとは言われてる スレチすみません。
一次史料から見られる九郎義経って鎌倉殿のような性格なんでしょうか。 ここって戦国時代板の質問スレだから、日本史板の質問スレで質問し直す方がいいのかもしれないな 足軽とかの馬に乗らず幟をさして真っ先に突っ込む悪く言ったら下っ端の兵隊の身分は武士なんでしょうか?
彼らは戦のない平時は現代の自衛隊のように訓練とか警戒をして給料を貰っていたのでしょうか? 関東とかだと馬に乗って戦う馬足軽とかもいたし、場合によりけりなんじゃないかと思う
商人・職人・百姓も普段から腰に刀を差していた時代で、江戸時代だと日本尺が武士の特権になる
足軽は武士だと思うけど、侍の定義の方が難しいんじゃないかと思う 足軽は正確に言えば武士身分ではないが、軍役の代わりに領主から様々な特権を与えられた「給人」という存在であり、百姓とも区別される 足軽は室町時代以降は武士身分
給人は所領を持った地侍のこと 平安から鎌倉は武士身分として扱うかは微妙だけど、南北朝以降は足軽は武士身分 国史大辞典の「足軽」「軍事制度」を引いてみたら
足軽は源平合戦〜室町時代は乱暴狼藉を行って敵陣を撹乱する傭兵のこと
南北朝時代に土豪が惣村から動員した農兵が野伏で、応仁の乱以降は大名も似たようなことを行うようになって、これが足軽と呼ばれるようになった
これだけだと農民身分っぽいけど、戦国の終わりごろには兵農分離で武士は城下町集住になるから武士身分になるのかな?
ただ長宗我部の一領具足とかもあるし、農兵が全部城下町に行ったわけでもなさそうだからよくわからん 連投スマソ
地侍(郷村を支配した名主=上層農民)が年貢免除などの代わりに軍役を付加されて足軽になるらしい
これが戦国大名の家臣(=給人、知行を受けて軍役を果たす人)に組み込まれるか、太閤検地前後の兵農分離で武士になったらしい
だから身分的には基本的に農民が多いけど場合によるとしか言えないと思われ
いずれにせよ給料が出るわけではなく、そもそも地主(手作り経営+下層農民からの加地子=年貢の中間搾取)で給与がある所に、加えて自分の土地の年貢免除があるという理解でよさそう
足軽がどの程度家臣化・組織化されていたかは大名によるので、それ以上一般化はできない >>58
そのときの兵農分離を命じた法律って、武士でなくても耕作しない人間は農村内に住ませるなってので、博徒とかも城下に追いやられたんだよ
だから、城下に集住になったひとのうちには、武士以外も少なくないんだよ >>59
地侍は鎌倉時代までの制度でも武士で、足軽じゃなかったはずだけど >>60
まあたしかに商人や職人とかもいるから城下町に住んでる=武士ではないかもしれんな
まあ江戸時代以前は武士身分というのが確固としてあるわけでもないからしょうがないけど
>>61
地侍は鎌倉末期〜戦国期の話だからなにかと混同してない? 平安から鎌倉の頃の足軽は主に雑用係で、鎌倉末期ごろから力を持った百姓が武家の家系図を買ったり盗んだりして地侍として武士になる
こういった地侍を当時は新侍と言って、戦の多くなる南北朝時代に国人や大名が自陣営に兵力として入れるために武士と認めるようになる 本能寺の変が起きた理由で歴オタや研究者から最も有力視されてる説ってなんですか? 光秀の単独野望説。
後はせいぜい四国問題がトリガーになったかならないかくらい 佐久間とかが追放された影響で、光秀も自分が亡くなったら息子も追放されるのではないかと考え計画なしで突発的にやったのではないかと言われてる
更年期やね >>63
江戸時代でも豪農が武士株を買って息子を武士にすることもあるし
いつの時代も人間のやることはやることは変わらない >>69
でも、そういうヤツの大半は、兵農分離(のようなもの)の際に農村で庄屋になるか村を去って武士になるかを選ばされて農村残留したヤツの子孫で、一般庶民ではなかったんだよな そもそも、戦国時代は云うに及ばず江戸時代だって「兵農分離」にどれだけ実質が伴っていたかは疑問だ。
俺の地元は多摩地域だが、
旧家の多くは江戸時代から苗字は名乗る、刀槍は常備する、道場を拵えて剣術に励む、果ては幕府代官が鉄砲まで貸し出す、
何処が兵農分離だよと。
多摩の過半は直轄領だから特殊だったのかねえ。 八王子千人同心だろ
こういった中間層が浮き出て見えるのも兵農分離が進んだ結果とも言える >>74
なるほどなあ。
お前さんが書物だけから半端で浅薄な知識を得た人だってことはよく解る。
いや、お前さんはそれでいいんだが、
学者だ研究者だって御大層な肩書を背負った御歴々の中にもお前さんと同等の御仁が少なくないってのが問題なんだよな。 >>76
実際に(八王子とは縁の薄い)北多摩辺りの旧家に行って話を聞いたり蔵の中を見せてもらったりしてきな。 江戸時代でも兵農分離は実際には出来てなかったでしょ、幕府でも下級藩士は禄米だけでは暮らしていけないか内職してたし
地方の藩でも普段は農業してて、城下町に強制的に住まわせられてる奴は農業もできないから1番下の奴より貧乏だったと言われてる 戦国時代板だから仕方無いがみんなの江戸時代像があやふやだから意見が割れてるんだと思う
「兵農分離」というのは文字通り武士(軍役を負担する)と農民(年貢と諸役を負担)の身分を分離するということで、少なくとも幕府領では徹底されてる。大名などでは自分仕置権が認められてるのでその限りではないけど
>>73が言ってるのは身分統制令(刀狩りなど)が徹底されていないじゃないかという話だが、身分統制令の趣旨は公の場で苗字を名乗れないことと帯刀ができないというだけの話で、私的な場での苗字使用や在村武器は全国的にあったこと。農民の剣術修行や農兵動員は幕末限定の話なので別
>>78は下級武士が貧困なのは兵農分離と関係ない話だし、後者は地方知行制から俸禄制に移行しなかった藩で、かつ手作り経営しているパターンなので、全国的な話ではない
厳密な兵農分離が全国で徹底されていたわけではないということには同意、これは平井上総『兵農分離はあったのか』を読めばいいんじゃないかな >>79
公文書における苗字が名乗れなかったのは同意だが、苗字じたいは名乗れていたんだよ。
帯刀も二本差しが原則禁止されていただけで、刀を持つこと自体は都市部でも地方でも出来たが町では旅人は持っていたが町人は持っていなかっただけ。
日本が兵農分離できたのは明治からで、江戸時代は誤魔化そうが兵農分離はできていなかった 毎度この手のは定義が違うと諭しても聞く耳持てないからスルーでいい >>79
んで、庄屋とかは例外的に公式の場でも苗字を使えるなど、一般の農民とは別の扱いを受けてる 話を変えて質問するけど戦国時代の行軍は鎧を着てるイメージが強いけど、実際は鎧櫃に入れて行軍してたから鎧は着てなかったとされるけど戦場までどの程度の距離で装備するのかという疑問
着てなかったのは武将格の奴らだけなのか、足軽クラスも勝てなかったのか知りたい
前田利家が目立ちたいから出陣時に町では飾りのデカい兜使って、戦場では小さい兜使ってることは知っている >>80
いずれにせよ兵農分離は単なる身分統制ではなく役負担の違いなのと、武士はただの身分ではなく戦闘者身分なのを忘れてる
武士というのは主従制に組み込まれて知行または封禄を受けて、代わりに戦闘、参勤交代、役普請などの軍役に動員される人を指す
太閤検地の後の一回きりの出来事と捉えると武士株を買って云々の話が反証として出てくるが、それは身分が流動的なことの証拠にしかならなくて、武士・農民自体の定義が代わるわけではない
幕末を除けば農民が軍役に動員されることはなく年貢・諸役を負担するだけで、商人職人も運上冥加設定までは役負担がない
>>82
村役人でも帰農した武士ともともと農民だった人がいるので全員ではないし、苗字帯刀は基本的に一代限りで、代々認められてる場合があるだけ >>84
古典教科書的概念論だな。
近世以前の「村」は最小の政治単位であってそれ自体が戦争主体にもなり得るし、その為の規範も暴力装置も保有していた。
「戦闘者であること」は武士を分離する要件にはなり得ない。
また苗字を認めるの認めないのと云った所で現実に名乗って通用していた事実は変えようもない。
そもそも誰かに「認めてもらう」ものではない。
そこを過度に重視する姿勢は、「歴史」をあまりにも上位権力に偏った視座から眺める英雄史観と云われても仕方あるまい。 >>85
説明が規範的すぎ、もう少し実態に即して言ってくれないと伝わらん
苗字帯刀に関しては>>79の通り、旧家の蔵見せてもらったなら書上くらい読んだことあるでしょ >>86
84の意見は一般的な回答であれば概ね正しいとされるけど、 歴史を調べた上で出版されている本や論文などを見る限り違うという話
江戸時代の資料も少ないから絶対に間違いというわけではないが、84の意見は違うということ じゃあ何が違うかわかるまで待つわ
誰か>>83にも答えてあげてね >>84
身分の扱いとして、武士と下人の間と同じように庄屋(など村役人クラスの階層)と一般の農民の間に壁があって、武士と入れ替わる可能性があったのは上の階層の上流農民だけ
この階層は苗字を公的に名乗れる家も少なくないが、一般農民には許されてない 肖像画で正面向いてるやつとそうじゃないやつがいるのはなんで? >>92
ラフ(紙形)を沢山書いてその中から依頼者が好きな構図を選ぶらしい(by宮次男『肖像画』) 明や琉球王国は正面向いてるけど日本のはほとんど斜めだろ 向かって左を向いてる肖像画は没後描かれた遺影
向かって右を向いてる肖像画は生きてるうちに還暦祝いや出家祝いでかかれた寿像
正面は数少なく中国の技法に倣った高僧の図とかしかみ像とか宗教的に何らかの意味がある特殊な物と言われてる 立体的に描ける斜めの方が人物の特徴を出しやすいというからな みなさんあざす
>>96
斜めの寿絵もあるから必ずしもそうじゃないくさい 北条高広の「きたじょう」と読むソースはなんですか? >>100
小田原北條から彼に宛てた文書は「喜多条」の文字を使っている。 越後北条(きたじょう)を領していたのできたじょうと呼ぶのが自然 大河ドラマ真田丸で大坂の陣で真田隊がお揃いの甲冑や旗を使って戦ってましたが実際はどうだったのでしょうか?
寄せ集めの浪人なのでバラバラだったのでしょうか? 城を落とさずに無視して進軍すると
前後から挟み撃ちに会うから城攻めするんだよね?
だとすると浜松城放って進軍した信玄は
どういう腹積りだったの? 信玄にとって怨みのつのってた徳川を無視するポーズ、公的には織田討伐ということになってるので私戦じゃなく幕府のためとの、表向きを前に出したふりして徳川をおびき寄せたかったのでは?
城攻めより野戦のほうが徳川を叩きやすいからとの作戦じゃないの 日本歴史最新号に本多隆成「信玄の遠江侵攻経路―柴辻俊六説批判―」が載ってたな 三方ヶ原で家康にまともな打撃与えられなかったからだろう
よく言われてるような完全勝利ならなんでそのまま浜松を攻めないのとなるし
信玄存命中でも奪われた城を奪い返す程度の打撃しか与えられてない >>109
いや、スルーするふりしておびき寄せて叩いたのが三方ヶ原でしょ
それでも叩ききれなかったのだろうけど 家康の目的が損害軽微なら成功なんじゃね
西進阻止なら違うだろうが 当時の戦は2割も死傷すれば負け戦だし
敵大名を討ち取るなんて奇跡レベルだよ 殺される可能性があるけど出される人質ってどんな人が選ばれるんですか? >>114
当主の生母や嫡男でさえ人質に送られてるぞ >>115
仲の悪い家や降伏した相手に人質を送る時も生母や嫡男を送るんですか? >>116
謀反の嫌疑をかけられた前田利長は生母芳春院を人質として江戸へ送った。 >>68
昔はノイローゼ説が有力だった
最近はノイローゼって聞かないが呼称が廃止になってたんやな 秀吉が朝鮮出兵した時に結構な大軍を送り込みましたが当時の船ってどんくらいの大きさだったんでしょうか? 光秀の謀反ってボケのせいにしないといけないほど突発的なものなんやな >>119
大型戦闘艦の安宅船は全長30m前後あったそうだ >>120
わりと昔から歴史上の人物は心理学や精神科などの分野から考察されてるからな
ボケかどうか知らんけど通常の精神状態じゃなかった説は多くみたけどね まあ数十回も戦に出ていれば何かしらの障害は持ちそうだしな ボケだか思い込みだかで潰されたノッブと信忠が可哀想だな 長篠スレで見たのですが、
織田軍の銃が三千丁だった、
三段撃ちも史実だったというのは
現在の定説なのでしょうか
僕はてっきり銃は千丁、
三段撃ちも虚構だと思ってました ・織田軍の銃が三千丁だった
→可能性は有るがそれを証明する史料はない
・三段撃ちも史実
→三段撃ちなどの連続射撃が日本で行われていたらしいのは明の記録などから
おそらく確かだと考えられるが、それが長篠で用いられていたかどうかは解らない。 数千丁の鉄砲を用いた三段撃ちは高度な連携が必要となるので成立したのは
秀吉時代に於ける全国統一の軍役と度量衡の規格が定められてからと聞いたことがある 長篠で三段撃ちをやったという記述は『甫庵信長記』にしかなく内容に創作が多い書物なので信用できない
三段撃ち含む交代射撃は唐入りの時には日本軍の基本戦術の一つってくらいメジャーな戦法であり
本願寺もよく使っていた戦術なので信長が本願寺をまねて長篠でやってた可能性は無いわけではないが史実だった可能性は今のところ低い 宇喜多秀家が幼いうちから秀吉に優遇された理由はなんですか? 秀吉に最初に降った大名クラスで父親が死んで間もない後ろ盾も少ない幼君
親族が少なく譜代も居ない秀吉にとって悪く言えば手駒候補としてちょうどよかったんだじゃないかな >>131
そのシリーズあまり信用できないんですよね…
>>132
確かにありそうですね 本能寺直後の向背定かではない毛利への防波堤という位置もよかったのではないかと 姉の子且つ関白継承したのに粛清された秀次
義兄の子なのに厄介払いされた秀秋
札付きの裏切り者の子なのに
五大老の一人になるまで優遇された秀家
どうしてこうなった 大正11年までは未成年も飲酒できたからな
その直前を舞台にした「はいからさんが通る」で未成年の主役が悪酔してたし 人質として他の家に預けられている間に家が滅びてしまったら人質はどうなるんですか?穀潰しとして消されるのか、それとも預け先の家で家臣として生きるのか >>141
それを捨てるなんてとんでもない!
人質の実家が滅んだなら、それを滅ぼした勢力(ほぼ確実に、自分とこの敵)との戦いの前線に送って、
そこの家のお家再興を支援する名目で戦わせる
もちろん、それ以後は独立の大名ではなく自分の家臣に格下げする
大抵は勢力拡大のチャンスなので、活用する
もしくは、まれなケースだが、そこの係争地から手を引くことにして、和平のしるしに、そこを滅ぼした勢力に献上する
平民に落とすとか、もったいないことはしない
まあ、単に家臣として召し抱えられるだけの場合はあると思うが。 >>142
ありがとうございます。便利な存在なんですね 磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦
上の豊臣秀次の辞世の句ですが、
最後の部分は
生きてなく ネズミ に死
という、秀吉に対する呪いが含まれているように見えたのですが
自分の妄想以外でこういう説を聞いたことある人、いますか?
しょうもない質問ですみません・・ やっぱりないですよねすいませんw
ちなみに古語の知識は全然ないのに素人が更に妄想ですが
友ちどり
千鳥が鳴いたという石川五右衛門による暗殺未遂事件を踏まえ
五右衛門への共感?
(千鳥香炉の逸話が当時あったとも思えないが・・)
にしの浦
京都から見て、大坂は西の浦
当時は秀吉は伏見だったけど、本拠を指して?
だったらいいな・・ >>146
秀次の本拠は聚楽第で、大阪城には幼少の秀頼がいたのでは? >>147
なるほどそうですね
秀吉・秀頼親子をにしの浦とした、のかも?
まあ妄想ですw 更に妄想
すみにしと住吉は、音が似ているとも言える
秀吉との繋がりが強かった住吉大社をかぶせたのかも?
陰謀論者だな・・ 質問です
徳川家康は本能寺の変で、伊賀を越えるより姫路を目指した方が安全だったのでは無いのですか?
ふと疑問に思ったのですが検索しても出てこなかったので、どなたか考えを教えていただけませんか 本拠に辿り着く以上に安心できる場はなかったのではないでしょうか
戦国時代ですしお寿司 >>149
昔は住吉と書いてすみのえと読んでいたと聞く
少し離れた場所だが住之江と同じ読み、というか、元々は同地名らしい
秀吉の時代にもすみのえと読んでたのか、当時はすみよしと読んでたのかは知らん >>150
距離的には大差ないし、伊賀の住民たちが敵視してる信長と家康は同盟関係はあるが、カタキそのものではないので、どの程度の危険かは不明
単に、味方でない地域ってだけなんじゃないかと 戦国には戦国なりの秩序があったからな
大義名分がないと相応の立場の人間を害せんよ
やれば一族郎党の末路は悲惨だろね(ニチャァ >>152
いろいろ勉強になります
ウィキ先生によると、平安時代頃からスミヨシの呼称はあったようだけど
そもそも住吉まで意味を込めたというのも変な気もする
ただ文学に造詣が深かった秀次のことだから、
表層の解釈以外の含意は込められていたとは思う
やっぱりネスミが気にはなるな 姫路が安全なんてのは後世の人間からみた結果論で
当時の家康が置かれた状況では姫路が安全かどうかなんて分かる訳がない それもそうだ
だいいち、変を知った毛利が反転攻勢をかけて数日のうちに姫路も陥落する可能性だって想定できるほどだしな
そこまでいかなくても、秀吉が家康を害しようとする可能性が否定できないし 現世の幸せは捨てて仏と国家と民衆救済のために身をささげるわアピール(だからみんなついてきて)型
後継者に当主の座を譲ったアピール(実権握ってるけど俺一応隠居だから))型
謹慎や降伏などの時の反省してますアピール型
ガチの隠居や近親者の死や自身の大病など心の変化型
あたりが良くあるパターン 大病というか、病気による引退の時だな
引退を余儀なくされるぐらいの病気になったらだいたい出家してる
その際に、側近など何人かが付き合いで出家したりする だからあいつら出家してるのにバリバリ戦争してるんですね、納得です。
あざす と言うか
出家してるのにバリバリ交尾してるやん
(一向宗も含む) 浄土真宗系は、厳密には出家じゃないし婚姻オーケーだから関係ないとして、
他の宗派については、いちおう戒律で姦淫禁止になってるから、隠れてこそこそと妻妾を囲ってるだけだぞ
バレバレの人とか、むしろ堂々と囲ってる人とかもいるとはいえ、いちおうは隠してることになってる どうして当時の民衆は
自分たちを戦禍に合わせた上に統治能力すら失った
幕府や朝廷を直接襲撃しなかったの?
今現在のアベガーな連中が口先だけで
なんで今すぐ国会を皇居を襲撃しないのかと思って >>164
民衆を大規模に連合させることのできる存在がない
そういった指揮を取りうる可能性のあるものすべて、その質問における「責任者」だからな >>164
幕府や朝廷を潰したほうが事態がもっと悪化する事をみんなわかってる。
昔の人も馬鹿じゃないんだから。 >>164
当時の法制から云うと、
在地の暮らしに責任を負う者、即ち人民から見た問責先はあくまでも領主であって幕府や朝廷ではない(直轄地を除く)。
また人民の実際の感覚でも中央政権までは視野に入らなかったろう。
歴史的事実として人民が暴力を以て領主の統治責任を問うた事例は幾らでもある。
現下の状況で人民から権力へ向かう暴力が発動されない理由は簡単。
「暴力=悪」と云う洗脳が抜かりなく行き届いているから。
ただそれだけた。 社員の給料上げられない、労働生産性の低い会社が労務倒産し始めたから、
そろそろ平均給料あがると思う >>166
室町幕府を滅ぼして
任官拒否で朝廷をコケにした
うつけの吉法師は真のうつけだったんか >>169
義昭は鞆で幕府を開いているので、足利幕府は滅んでません。
将軍が京都から追い出されたぐらいで滅んでたら、尊氏の時に滅んでます。
逆に言うと、義昭との関係修復を望んでいた信長は、征夷大将軍とか
太政大臣とかに就任するわけには行かなかったのです。
それすると本気で足利幕府を滅ぼしちゃいますから。
三職補任を断ったことについては、「任官の打診を最初は断るのが礼儀」と解釈されていますが、
義昭との関係修復をあきらめるかどうかで悩んでいたのではないかと思います。 朝鮮出兵で一時は半島通り越して明まで行きましがこんだけ戦線が広がると撤退のときに逃げ遅れる武将や兵隊はいなかったんでしょうか? ただし、幕府は滅んでないけど、武家天下人として足利将軍家はもう否定されてるのよね
信長にとっての義昭との和解というのは、義昭がもう足利の天下はないと諦めて織田に服属してくれること >>172
幕政を動かしてた官僚たちの大半は義昭に同行せず京都に残って信長の配下になったので、幕府はほぼ滅亡してるとも言えるんだよな
その考え方で言うと、南北朝時代の南朝は正統どころか、まったく王朝の体をなしてないわけだが。 >>171
フツーにいるだろ
と言うかチョッパリは殺すニダー< `∀´>
されたのは明白だろ >>171
どうせ釣りなんだろうが沙也可あたりで調べればいい >>176
その人は伝説上は日本が有利なうちに寝返った人ですので、
質問とは趣旨が違うと思います。
で、逃げ遅れた名のある武将はいません。
記録にないから。
一方、朝鮮から倭の捕虜です、っつって明に送られた人はいるので、
逃げ遅れた兵はいたんじゃないでしょうか。 全然いないってのも不自然だし末端の兵達は捕まったのもいるだろうね 組織のトップが負うのは結果責任。
つまり無能。北条氏政しかり織田信長しかり。 >>179
歴史を語るのに床屋政談的な「個人の有能/無能」を持ち出すお前さんよりは、
武田勝頼の方が遥かに上等な御仁だったろうよ。 秀吉の行った太閤検地により農地と農民が正式に紐付けられたとありますがそれより前
農民には正式な土地の使用権はなかったのでしょうか?というかそういう利権はどうなっていたのでしょうか? 江戸時代以前は本百姓達による共同管理が基本。庶民が土地の権利を有するのは明治維新後から。 >>182
土地の使用権か…
難しい話だな
荘園制における領主という存在が所謂領国と言われるものとは別に存在したのは確かかな 調べてもなんかこれといった納得ができる回答が得られないんですよね。
他にも荘園とか寺社もあるわけですし。 織田信長の血族で明治まで藩主でいれた人っているのでしょうか? 村の中での土地の権利関係については、村のルール依存で全国共通ルールなんて明治維新まではないからなあ
村より上の上層部の間での権利関係は法律があって(律令やら、その後の慣習法やら)おおむね全国共通だが。 戦国時代は大名や領主が土地の所有権を持ちその下の使用権は
各村の村長とか豪農に委ねていたんだろう。 >>186
つまり、途中で養子に継がせたりしてないのがいるか、てこと? >>189
血が繋がってない養子をいれてないで織田の血が明治まで続いたのか知りたいのです >>188
前にも書いたけど
それが文書されていたら後世でも所有権の証拠になるだろうな >>188
村長というか庄屋が大名直臣として仕えてたりするので 使用権はその土地を実際に耕作していて年貢を払ってる農民の物で農民の正統で強固な権利ちゅうそれこそ墾田永年私財法の頃から長年かけて培われた思想があって
だから土地を担保に借金がそもそも違法だろ返さんでええよな?徳政令みたいなのがまかり通って、太閤検地による紐付けが習慣法を明文化しただけなんで全国的にすんなり受け入れられて、最後にはGHQによる農地開放が成功裏に終わった要因みたいな説はある >>194
戦国期の田畑所有者は「抱」とか「所持」と表現されたそうな
例えば質に出しても質取り者、小作人ともども「所持」しているとされていて、現代的な感覚とはちょっと違う
大名などによる土地所有はあくまで徴税権や裁判権を持っているという話で、個々の土地自体は庶民持ち
ご指摘の通り、秀吉が太閤検地で従来の制度を明文化というか固定したんだね
論文なんかだと、現代でも国家権力による土地の収公に日本が自制的なのは古来からの伝統なんじゃなんて指摘もあった
と、ここまで書いて疑問が
江戸に火除け地をつくったときは金銭でも払ったのか、代替地を用意したのか
寺社移転なんかみると後者なんだろうか ちょっとネットで調べたら神田連雀町の町人地はいまの三鷹下連雀に移されて新田開発したとか
花のお江戸どころか23区の外とはつらい
借家暮らしならほかに引っ越せばいいが、土地持ちは踏んだり蹴ったりだ 武家屋敷は徳川から貸し与えられている形式だが寺社は自己所有だったのかね >>196
大消費地の近くに農地貰えたのならそんなに悪い話でもないような
まあ現代の子孫がそのまま土地継承してたらウハウハかもな >>198
そういう名士がいまもいるんじゃとちょっと検索したが、のちに引っ越してきた人しか引っ掛からなかったよ
土地の名士を記した史料を武者小路が保管してるみたいだから、それ見れば少しは分かるかもね >>199
名士ってのは、庄屋とか村方三役ぐらいの子孫で、単なる土地もちのことじゃないだろ 豊臣恩顧の大名達は関ヶ原で東軍についた時にはもう豊臣を裏切るつもりだったのでしょうか? 東軍も豊臣軍です。関ヶ原戦役は豊臣政権内の権力争いの内戦でしかないので >>194
逆に公地公民制が成功してたら
赤化に成功してただろうな >>202
名目上はそうですが秀吉死後の家康の行動は豊臣から天下を奪取しようとしているとしか思えない >>204
それは結果的に家康が江戸幕府を開いたところから来る思い込みにすぎない。
同時代史料をきちんと見れば関ケ原まで家康は豊臣家を終始尊重している。 >>203
そもそも公地公民制度を徹底したことは一度もない件
制度スタートの時点ですら、一部の皇族や高位貴族の土地私有を公認していたしな >>205
>>204みたいな手合いは相手にしない方が良い。
豊臣関連スレ辺りに巣喰う「家康はサタンだ!」教会の信者がハミ出て来ただけだろう。
最初から結論ありきで、自分の耳に心地良い言説しか聞かないから議論が成り立たない。 >>207
そうやって決めつけて対立煽ろうとしているのが一番害悪 少なくとも質問スレは自分の印象を押し付ける場ではない 戦国オタクや史学の中ではともかく腹黒家康は創作の世界ではまだまだ主流なんでこの程度のレスで排除しようとするのはまだ過剰反応かなと >>207
でもどっちかというとサタンよりかサターンに近くね、農本主義だし この前やってた番組で家康が豊臣を滅ぼして天下を狙ってたかのように語られてたけどいつまで狸ジジイ路線続けるんやろな >>210
しかしなあ、
こういう場は強制でも不可抗力でもなくて自ら能動的に「好んで」足を踏み入れるところだろう?
ましてや創作について語りたいんなら他に然るべき板もスレもある筈だ。
わざわざここへ来たからには歴史と云う土俵で議論したいんだろうし、
ならば最低限の基礎知識は予め得てから来るのが作法ってもんじゃなかろうか。
この板も創作と史実の区別がついてない奴等だらけだろ でもまあ、どう答えてほしいのかバレバレな質問はちょっとなあ 大谷吉継配下の湯浅五助は紀伊の湯浅氏の流れだと思っていたんですが
美濃の加治田衆にも湯浅氏がいるのを見かけました
織田家・豊臣家の勢力範囲的にも美濃の湯浅氏の出のような印象を受けますが
出自をご存知の方いっらっしゃいましたらお願いします >>218
ネットサーフィンしたら関東浪人とあったのでソースを調べてみた
慶長年中卜斎記に「此五助は関東浪人馬乗にて刑部少馬屋別当小身なる者其上新参者三十余(歳)なる者なり」とある
馬屋の別当で湯浅という姓も付されずもともとが武士身分だったのかも怪しいが、直前に「五助と申す侍」とは記述がある
常日頃から首を隠せという逸話は卜斎記にも載っているので大谷から信頼はされていたようだが、もとは中間かなんかだったのかもしれない
以上、慶長年中卜斎記を信じればという話なんですけどね ちなみに藤堂が約束守って家康が感心したみたいな話は卜斎記には載っていないし、五助が誰に討ち取られたかもない
全文読んだわけじゃないけど 卜斎記からの引用ありがとうございます
引用してもらった箇所に湯浅という文字がなかったのでもしかして苗字から不確かなのか?
と思ってしまいましたが、調べた限り湯浅という苗字で問題ないみたいですね
関東浪人というのは見逃していました
関東で湯浅氏というのがピンときていなかったんですが、埼玉の苗字辞典見たところ
鉢形城のあたりに湯浅氏がいたようなのでこの流れかな?という気はしてきました
小田原征伐で大谷はあの辺りにいましたし
この湯浅氏がどこから来たかまでは辿れなそうですが
諱の隆貞から丹波湯浅氏の貞との関連を指摘している人も見かけました >>220
藤堂高刑が首の在り処を徳川家康に教えなかった話は「平尾氏箚記」が出典のようですが
どういった書物なのかわかりませんでした
五助が大谷吉継の首を埋めた話は常山紀談とのことでしたが >>222
国会図書館のアーカイブで湯浅五助を検索すると昭和初期の津藩藤堂礼賛本らしきものが出てきて、そこに記された『平尾留書』だといくつかヒットする
高山公(高虎)実録に引用されているのが確認され、高虎が織田信澄の配下にいた頃の事蹟に触れているから、平尾ってのは藤堂家臣なんじゃないの
と思って分限帳を見ても平尾姓はないなあ >>221
いろんな分限帳なんか見てると分かるけど、名字から探るのはよほど記録が残っていないと難しいよ
たとえば藤堂家の分限帳にもけっこうな大身の湯浅姓がいるし、長曽我部までいる
卜斎記は割と成立が古いからひとまず信じてみるとして、関東浪人の馬乗りといわれると西上野の人間だったのかなと連想したくなる
武蔵の埼玉より >>224
それはそうかも知れませんね
鉢形城は北武蔵で川を越えればすぐ上野でもあり西上野の住人という可能性はあるかと思います
自分の書き方が悪かったのか誤解があるみたいですが、参考にしたサイトでは
「鉢形城士、かち衆、上野国住人」の旨がありました
同時期に上杉と武田の北関東での文書に湯浅姓の士の名前も見えます
尾張徳川に仕えたという五助の子孫の情報がよくわからないため流れは見えず妄想ですが
とりあえず紀伊の湯浅氏ではないだろうという確信はもてました >>225
埼玉苗字辞典見てみました
群馬にも湯浅がいるし鉢形のは湯浅五郎助なんだね
これはWikipedia情報ですが、足利氏支流の桃井氏から群馬県榛東(しんとう)村に源姓湯浅氏が分立してるそうで
にしても五助は推測ですが、湯浅の傍流の人だったんじゃないだろうか
とはいえ、寛政諸家譜で子孫が源姓名乗っていたらほぼここの出と考えていいのでは
蛇足ですが、あの関孝和の外祖父が高崎藩士の湯浅姓だったという論文がありました
もしかしたらあの天才に五助の血が少し流れてるかもしれませんね >>226
>足利氏支流の桃井氏から群馬県榛東(しんとう)村に源姓湯浅氏
ありがとうございます、なるほどそういう
慶長年中記の関東浪人が間違いなければ、という前提ですが
鉢形の五郎助にしろ、大谷にも仕えたという五助の子・十郎左衛門が次に仕えたのが
武蔵岩槻藩だというのも関東への地縁を感じますね 下総千葉の支流にも湯浅氏がいるけどね
紀伊湯浅氏の養子に入った千葉一族の子が下総の熊野社領の地頭として戻ってきたのが始まり
実際に養子に入ったかも五助と関係あるかも不明だけど >>232
それは知っているんですが何故大規模な戦いが起きているのにも関わらず止めなかったんですか? >>233
止められなかったのではなく
西軍の反乱を東軍(豊臣)が鎮圧、
つまり止めたのではないだろうか 筋道から考えても上杉討伐を決める段階で毛利も宇喜多も異論があるなら表立って家康に意見すれば良かったんや
意見しないのか出来ないのかは置いといて上杉討伐の前段階で徳川を糾弾して決起するのは明らかに反乱やからね >>195
亀だがそれは墾田永年私財法から数百年後に発展した荘園制度をはしょりすぎでないか? 大貴族、寺社、国司の所有地だった荘園に多くの農民が入り込み時代が下る毎になかには自身の土地を荘園に寄進し
武力から護ってもらう者まで現れ、荘園の所有者が武士に移行しそれが領国に進化したと聞いたことがある。
官憲を当てに出来なかった秀吉以前の時代は土地を護る手段は自衛と自力救済しかなかったから
武力を有する有力者に土地を寄進することでその庇護下に入るのは自然だと思われる それは研究が浅かった時代の古い理解ではないかな
それと、もともとは武力よりも法律や行政のほうが深刻な脅威だったから、荘園の寄進先は大抵の場合、武士ではないよ 墾田永年私財法で開拓地が自分の土地になっても、税がかかるのは変わらないから、
形式的に貴族や寺社の荘園ってことにして、税金よりは安い地代を貴族に支払うのが
寄進制度の趣旨。 貴族や寺社から税を取り立てる権威が国にないため。
この荘園に住み着いた、家職を武芸としている下級貴族が、地元の有力者と
結びついたのが武士の始まり。
有力者の荘園であっても、土地の管理人だったはずの武士から貴族寺社に
送られる地代が滞るようになったのが戦国の世。
鎌倉・室町までは武士が地代を納めない場合、幕府が間に入って納めさせている。 荘園制度は太閤検地により消滅する前の中世時代の根幹部分だけど教育現場じゃ触りしかやらないんだよな。
桶狭間や長篠なんてどうでもいいくらい重要で武士の台頭、貴族の没落といった日本史の根本なのに。 >>241
せめて中公新書の『荘園』くらい読もうや 始まりが荘園で次に領地、そこから規模が大きくなり領国。でもって最終的には幕藩体制に繋がっていったのか 八つ墓村の落ち武者狩りの方には元ネタになるような史実はあったのかしら? 主人公は亀井維矩の子孫という設定なのか
知らんかった いしいひさいちの漫画「忍者無芸帖」で
戦場から戦死者を拾ってきて肥料として埋める農民が出てきましたが
そういうことは実際にあった? 無いよ。
敵味方区別なくちゃんと供養するのが日本の慣習 狼や熊に人間の味を覚えさせない。という現実的な理由もあったそうだね。 平安時代、平安京では行倒れ死体を路端の側溝に捨てていて、野犬が人の死体を食べるのが常だったと伝えられる
生きてる人を襲って食べていたわけではないようなので、狼のようになったわけではない 犬猫飼ってた人が孤独死後に食われてたなんてニュースたまにあるよね まあ、その場合は飼い犬は餓えて仕方なく飼い主を食ってることが多いだろうから、少し状況は違うような
犬にとっては、共食いみたいな状態だろうしな 江戸時代は害獣対策に農具として鉄砲が大量に所有されていたけど戦国時代以前はどうしてたんだろう?
熊、猪は弓矢じゃまず仕留められないといし 戦国時代までは灌漑や治水が十分に進んでなかったから、野獣が山を降りてくることは少なかったし
てか、その頃までは農具も領主が貸し出してて農民個人では所持してないよ
種籾の管理だって領主の仕事で、農民は種籾を借りて利稲(利息)を払ってたし 灌漑や治水が未発達と野獣が山を降りて来ないの因果関係は何ですか? >>261
なんでこういう知ったかぶりさんが湧くんだろうな >>260
鉄砲は認可制じゃなかったか?
あと農具扱いで大量保有というのもよくわからんのやけど そこはどうでもいいです。
知りたかったのは鉄砲が普及する前はどうやって害獣対策をしていたかなのです >>265
農具とかで追い払ってたんじゃね?
(国名)守はなれると凄いんですか?
また入る国名は適当に選ばれるんでしょうか >>265
たいていの村は周囲に空堀巡らしてなかったっけ 村内を堀と柵で囲う自衛しかないだろう。
あと場合によっては集落の内側には入れない牢人の住居(たて穴式住居)を
集落の外側に配置し万が一の時の盾としたらしい >>269
牢人については、秀吉の頃の法令で牢人を剃村内に住まわせるなと命令された以後のことかもしれない >>260
熊も猪も旧石器時代から狩りの獲物ですが、何か >>272
具体的な捕り方を言わないと駄目じゃないか? >>273
大人数で囲む。槍で遠ざける。弓矢で射込む。毒矢も良き。後は落とし穴。 >>274
狩猟採集の時代なら分かるが農耕で生計を立てていた中世の農民にそんな時間と装備があったのか疑問 >>275
中世の村は武装集団で、村と村の間で武士の介在もなく戦争したりしてるぞ
農業一辺倒の平和的な村など存在しない >>275
中世の「村」という政治単位について詳しく学ぶことを奨める。
スレ的に言えば大坂夏の陣でも徳川に逆らって敵対した村もあるぐらいだいな そういえば武田信吉だったか弟たち(頼宣、頼房)だったか確定してないけど、水戸に入部間もない頃に一揆を起こして殲滅された村があるとか
言い伝えでは税を二重取りされそうになったので2度目に訪れた役人を偽者だと断じてぶち殺したんだそうな
徳川家のほうでは入部間もない頃なので放っておいては示しがつかないということから討伐が決まったとか
税を二重取りしようとした上に殲滅と聞くとまるで徳川家が鬼のように思えるけども、実ははじめに税を徴収していった役人というのは偽物で次に徴収に現れたのが本物の徳川家の役人だったとか
これが本当なのかどうかはわからないけど、血なまぐさい地名や言い伝えが残っている生瀬のお話
ちなみに秋田に移る佐竹義宣から和田昭為に夏年貢を取れとお手紙が届いていたとかなんとか >>279
幕末の藩士同士が族滅しまくる惨状の原点か 戦国時代、村に住んでいた牢人達は兵役や賦役を代行することで口に糊をしていたと聞きますが
戦や賦役がない平時はどうやって凌いでいたのでしょうか? >>281
戦国時代には、小競り合いすらない完全に平和な年なんてないので、近隣の小競り合いにでも参加するのでは >>279
戦国時代なら前の領主と新しい領主への二重取りなんて無理だったし、やろうとしたら軍事的抵抗にあって領主の方が追い出されるので、戦国時代が終わる時期特有の事件かもね
もちろん、出ていく領主が急いで年貢をとっておこうなんてのも、戦国時代には普通は無理だったからね >>281
一応は水利の不便な下田を村から与えられて麦、粟、稗、蕎麦といった畑作をやったり
駆除した害獣をバラして小銭を得たり、季節によっては狩猟採集を行い何とか暮らしていたらしいね。 >>282
小競り合いくらいじゃ飯なんて出ないんじゃね?というか近隣の村々と年に何回も揉めるとかそうないかと 大名や領主からの軍役が村に何人、年間何日までって規定で、それなりにかかってくるんだから、
そこに村を代表して参加するかわりに村から一定の金か食料(要するに米)を出すわけでな
小競り合いは毎年やるのが戦国時代クオリティ
そして、小競り合いでの出陣先でなにがしかの略奪をして生活費にあてようと皆が考えるのが戦国時代クオリティ >>288
自称された官位について
ttps://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211096514/ 三大不人気官位(○○守)ってなんだっけ? あと一つが思い出せん
日向守(明智)
伊予守(木曽) >>287
略奪。ランボウ取りはどういう物がよくその対象になったんですか? 言うまでもないでしょ
威張ってた殿様だろうがお公家様だろうが
没落すりゃ乱妨取りされるだけの存在に成り下がるし そして勝ち戦で乱妨取りしてた雑兵も
負け戦になったら逆の立場だろ そして乱妨取りにかまけて大将首が取られた戦もあったなwwwy
確か桶狭(ry 乱妨取りには人材の採用みたいな側面もあったしな一概には語れないしなあ。
大坂の陣で伊達家に捕らえられるも文官として登用された人物もいたし 大阪の陣で乱妨取りされた村は絶対に徳川に恭順しないと拒絶したから徳川が乱妨取りを止める理由が無くなった 乱妨取りされた武将「今は何も話す気になれぬ」
伊達政宗 → 登用
乱妨取りされた武将「斬るがよい」
伊達政宗 → 登用
乱妨取りされた武将「斬るがよい」
伊達政宗 → 斬首
乱妨取りされた武将「顔に一匹の止まった虫さえ今は奇妙にいとおしい。ぐえっ」
こんな感じだったのかもね。 >>298
信忠スレでも下らねえ前時代なこと書いてるな
こっちもつまらねえし
だいたい武将を乱取りって、基本のキの字も理解してねえな
阿波蜂須賀藩が大坂の陣で捕らえた人間の帳面、大坂濫妨人之帳でも読めば?
ttps://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/detail
捕らえた人間(預り)や捕まえられた濫妨人の生国、捕まえた場所や身分なんかが書いてあるだろ?武将なんかいるか?
こいつは濫妨の実態を表す史料としてよく扱われるし、真田信繁配下の鉄砲衆女房や草履取りも濫妨人になっていたことでも紹介される
丸島氏の簡単な論考が『国文研ニューズ』の2016年ナンバー44summerででも検索すればPDFが出てくるだろ
記憶では藤木氏が詳述してたと思うが リンク先無駄だったな
収蔵歴史アーカイブズデータベースでググって、そこから大坂濫妨人之帳で検索して見てくれな この時代の貴族の食事はどういう感じだったのでしょう?
奈良時代から平安時代は山盛りの白米に全国津々浦々から献上された
塩漬けの珍味ばかりで糖尿病や高血圧に苦しんでいたらしきですが
戦国時代でも相変わらずそういった不健康な食事だったとか。 荘園が軒並み反逆したり略奪されたので白米供給途絶
応仁の乱で解るように首都崩壊しまくり
どう考えなくても庶民より(ry 貴族たちが仲間同士持ち回りで食事に招待して食事会にすることで、大量調理にして節約しようとしたって話もある
のだが、ホントに節約になってたのかと疑問に思う
あと、都を離れて領地の荘園に滞在して食費を荘園経費にした(憶測)り、親族の家やら領地やら寺に行って養ってもらったり。 >>301
平安時代でも中堅貴族ぐらいになると食べ物が足りない人が多く、飽食は最上位の一部貴族だけ
少なくとも道長や清盛あたりは食い過ぎによる糖尿だったっぽいが、
食い過ぎになるほど食ってたのがどの範囲までだったのかは不明
国司として任地に下ってた受領は、たしか太かった気がする 内陸の人間は海の魚が手軽じゃないから色々と大変そうよな 山口に逃げてきた公家は天国のような思いだったろうな
大寧寺の変以降は逆に地獄と化したけど 貴族を迎え入れていたのって織田と今川、大内、朝倉くらいだっけ? 普通の一般的な地方領主は貴族の受け入れなんぞにメリットが無いからな 短期的な下向レベルならあいつら何処にでも行くからな 信秀は朝廷と貴族に工面し色々と働きかけてたな。
下剋上で成り上がった織田としては幕府への工作より貴族の方がやり易かったのだろ。 土佐中村は現代でも日本の最果て感が強いのにわざわざ行くのは深い理由があったと思う >>314
一条家の領地荘園が大規模にまとまってる重要な場所のひとつで、そのなかでも特に年貢が滞ってたとこなので、
自ら乗り込んで年貢を集めようとしたらしい
しかし、実の親から、土佐までいくなら家督は召し上げるといわれ、弟を養子にして家督を譲らされた上で土佐にいった
前関白が入植した荘園なんて、他の地域ですらも、ほとんどないぞ
大坂南東部の日根野荘に九条政基が入植したが、十年ちょいで京都に戻ってるしな youは何しに土佐へ?
ポツンと一軒家を建てに来ました
こういうノリだろ 最果ての地の貴族といえば時折、信長の野望に出演する浪岡北畠さんでしょ
何を考えてわざわざ青森県で貴族やってたのか そうでなくて。どうして戦国時代になっても京都に帰らなかったのかが不思議 貴族としてやっていく基盤もなくなった京都に戻る必要があるのかな
官位も北朝方に占められているし戻らない他の南朝方の貴族もいたんじゃないのかな >>321
南北合一の際、吉野から戻った貴族の大多数は貴族として生きていく枠が存在しなくて、オワターと記録されてるしな
戻らないで生活できるなら京都に戻らない方がましだったはず 一条・北畠で思い出したが
戦国三国司以外の国司が戦国大名になれなかったのは?
守護はもちろん、地頭ですら大名になったのもいたのに 名目だけの存在だったから。伊勢北畠氏だけは実態があったが結局は守護を兼任した。 没落貴族はどこかで断絶じゃないの
男子で代々家を継承していくにはそれなりの経済力もいるから King of 没落貴族は
松殿さん
で間違いない 普段はウィキとかしか読まない者なんですがオススメの本が知りたいです
まず手始めに戦国時代の年表をまとめている本を読もうと思っていますが可能な限り細かく書いてあるものがいいです
値段は問いません >>330
すでに新本は手に入らなくて古本だけだが、クロニック戦国全史 なんかはどうかな? >>331
こういうのが欲しかったんです
ありがとうございます
ひとまず買ってみてからまた何かあったら質問させて頂くかもしれませんのでその時は何卒宜しくお願いします >>326
大内のように理解のある武家を頼って下向したんじゃねえの。何だかんだで大名や有力者は
朝廷から賜る叙任官位や上位貴族から買える系図を求めていたしその橋渡し役に没落貴族は丁度いい 武田信玄の正室、三条夫人(三条の方)についての質問です。
日本史上の女性は○○院と呼ばれ固有名詞として扱われていることが多いですが、その由来は戒名(院号?)かと思います。
三条夫人(三条の方)もキチンと戒名が伝わっているのに、円光院という呼び名が一切使われず
取ってつけたように、生家の名字+αで呼ばれているのは何故なのでしょうか?
そこまで深い理由はなく、三条夫人で一般的に広まってしまったから、というだけの話でしょうか?
何かご存じの方がいらっしゃいましたら、お教え頂ければと思います。 新田次郎の小説「武田信玄」の影響だろ
一般的に武田信玄を語る場合はこれがベースな事が多い
ちなみに家康なら山岡荘八とかだろ >>336
教科書に乗ってる人名の相当数が、当時の呼び名では呼ばれていないわけだが >>338
例えば武将や大名ならば、
同時代の呼称に係わらず現代の学術水準ではどう表記するかという慣例が確立されている。
女人についてはそれが必ずしも確立されていないことが呼称に於ける混乱や恣意性を許してしまっている。
>>336が急に話を変えて来てるんだが何の話がしたいのか??
なにが? 女性の呼称でしょ?
日数は経ってるけど、すぐ前にその話があがってるでしょ 当時の呼び名は史料には残ってなくて不明
てひとが大多数
当時の呼び名がわかる人は例外的 武田信玄 晴信 だろ
上杉謙信 輝虎 だろ
松平春嶽 慶永 だろ
例えば
「陶隆房」が「陶晴賢」に改名したことを知らず
更にその「陶晴賢」本人が死んだあとも
それでも「陶隆房」としか記憶してない人もいただろうな >>343
それは呼び名じゃなくて実名(ジツミョウ)で、呼び名として使われることはない。
公文書でのサイン用とかで使うぐらいだが、当時の大名が書く文書の大多数は私文書で公文書じゃないんだよな 鎌倉時代は小四郎とか生誕順の~郎だらけだったみたいけど
いつ頃から官職自称が始まったんでしょうか?
室町時代初期は既に官職呼び? 官職自称が当たり前になったのは室町時代やね
官職呼びはもとは公家の文化で初期の武士はしてなかったが鎌倉時代を経るうちに
金で買えたり関東じゃなんちゃって官職名の東百官が当たり前だったり先祖が貰ってたら子孫の自分も名乗っていいだろとかグダってった >>345
一応言っときますが私文書でも差出人署名は普通は実名(諱)です。 現代の一般的な呼び方がどういった経緯でそうなったかというのが元々の話だろ
一般的呼称がなぜ厩戸皇子じゃなく聖徳太子なのかがわからないアホも多い 戦国時代の公文書っなんだ?御判御教書?御内書?幕府奉行人連署状は?大名の制札は?朱印状は?黒印状は?起請文は?神仏への願文は?寄進状は? >>348
グダグダだったけど、没落した公家を迎え入れて箔を着けたりと差別化の努力ははしてた模様 >>353
幕府や朝廷との公式な遣り取りの文書が公文書。
その遣り取りによって統治権力の正当性を保証された戦国大名は公権力と云って云えないこともないが、割合としては少数派。
他の多くは暴力を以て在地に実効支配を敷く私的権力だから、彼等が領国や他大名に向けて発行する文書は私文書ということになる。
公文書にはそれぞれの文書の種類に応じた書式があり、それにのっとっていない文書は朝廷や幕府からの発行でも私文書になる
大名が家臣や同盟相手等に出す文書はまず間違いなく私文書
文書というよりもむしろ手紙に近いことさえ多い >>355-356
あ・た・お・か
書式wwwwww
則っていなければ私文書wwwwwwwww
見てみてえ
書式に則っていない朝廷・幕府の私文書www 母乳って乳母があげるんですか?
実母も子を産んでるので母乳が出ると思うんですがあげたりしないんでしょうか 基本的に上流階級では乳母がやるもので実母はやりません。
身分差が大きく叩き上げが多い戦国時代の武士のどこまでが上流階級かはケースによるかと思いますが 例えばケースによるもっとも端的な例は下層から関白まで成り上がった秀吉で
秀吉が淀君にあてた手紙で「拾に乳をよく飲ませてください、滞りなく養育するように。貴方も良く乳が出るようにめしをよく食べるようにして下さい。」と実母の淀君の母乳で秀頼を育てさせていたのが分かります。
関白ですらこうなので叩き上げが多い豊臣徳川大名なんかもケースに拠る面はあるかと思います >>360
淀殿が母乳で育てていたのは
秀吉が当初、参籠による秀頼の受胎&生誕に冷淡だった影響では? 興味がないのは構わないけど
せめて淀君はやめてほしい 大名って江戸城玄関から?は1人ぽっちだったの?
お目見え程度でも年寄りの御三家斬れね?
10万石毎にお供連れられるとか
親類大名同士で固まるのかな? >>364
「規範」「法度」と云う名の共同幻想。
いやしくも歴史系のスレに書くんなら共同幻想の何たるかぐらいは理解してから出直して来い。
当時の庶民や下級武士は今と比べても健康的な食生活と聞きますが
具体的にどう健康的だったのでしょうか?
白米や酒は庶民にとっては高価だった以外でお願いします 砂糖を取らなかったとか?
醤油も流通してなかったから塩分も控えめ?
秀吉は母親が弟妹を母乳で育ててたの見てたんだな ・2次救急の病院
・食料を3倍にする魔法
があってもダメな根拠出せるの?
>>365
300諸侯はお前みたいに、
修学旅行ぼっち
修学旅行ぼっちじゃ無いからwww 値段の張る塩を控えた食事。高タンパク質、低脂肪の昆虫食。あと摂食する野菜の種類が現代人より多かったとか。 戦国時代の食生活なんて
下手すりゃ共食いするレベルだろ >>366
食生活の健康度を決定的に下げてしまう栄養失調に、常にさらされてますからねー
戦国時代には、武士でも下っぱは健康ではなかったと思います
上の方はともかく、下っぱはわりと病気による早死にも珍しくないでしょ? >>366 を
量じゃなくて質
量じゃなくて質を聞いてると読解できない特アでさえ
江戸城中ほどでは、御三家もぼっち>>364
だなんて暴論には異論ないのかよw
関ケ原以前まで敵なんてザラなんだから、
爺ちゃん同じ同士くらいでグループ作るだろうに、、、 戦国時代って庶民も武士も肉体労働だろうに米と漬物だけで足りるのか いや、主食は麦だろ
麦の収穫前の春ごろがいちばん餓死が多かったようだぞ そんな生きる≒充分な運動に
栄養豊富な玄米&納豆を腹8分目まで3食とか
令和の途上国民でも完敗の「質」だわなw
水や食料の争いが無くなりゃ
ビワみたいなビタミン類の量だけ人口増えるわ >食生活の健康度を決定的に下げてしまう栄養失調に、常にさらされてますからねー
それは昭和まで腸に居た寄生虫の仕業とも♪
駆逐して太るわ、免疫が過剰反応してアレルギー出るわで大変w
糞便だけは早々に肥料だって気付けたが
収穫した米から、食いにくさと一緒に栄養捨てたのが白米。
飢饉で仕方なく食べたのが、栄養豊富な雑穀米で、
捨ててた大トロが高級品になったんだっけw ↑異論すら出せない馬鹿がよくする
必死の抵抗≒見えないフリの表明で、
やっと量じゃなくて質の話だと認識できたのが分かるなw >>381
勝手にしとけ
何をNGにするかなんて
各々自分で決めるだろ >>368
庶民にも江戸患いのような生活習慣病が出始めたのは江戸時代からなので。
>>374
栄養失調はその通りだけど、知りたいのは生活習慣病や食生活が
原因での病気は庶民はあまりなかったようなので何を食っていたのか >生活習慣病や食生活が原因での病気は庶民はあまりなかったようなので
まずこれがなんのこっちゃなんでソースは何ですかね?もしその通りに書いてあったならただのクソなんで忘れればいいですよ。 玄米を中心に補助に麦蕎麦雑穀などの穀物を大量に
それにその時取れる野菜と野の物と少量の魚などの動物タンパクを鍋にぶっこんで
味付けは塩だけで煮た雑炊が庶民の当時の基本的な食事と言われています。
冬の野菜系は漬物だけ。娯楽は飲酒ぐらい
玄米が完全食に近いからどうにかなってたけど現代から見れば非常に偏った食生活なんで理屈上は生活習慣病も比じゃなかったでしょ。
高脂質や喫煙などの現代型の生活習慣病がないというならだからなんだという話です。 >>366
戦国時代と限定するなんなら、
当時は「小氷期」の寒冷化と恒常的戦争状態(より正確には前者が後者を生んだ)で飢餓・飢饉が常態だぞ。
庶民は生命維持そのものが至上命題。
健康云々以前の問題だ。
麦でパン・うどん作れる技術持ってったら戦国時代で天下取れるな >>388
「米が無ければ麦を食べれば良いじゃない?」…ってマリー・アントワネットかよ。
「貧乏人は麦を喰え。」…って池田勇人かってえの。
喰う麦があるような状態を「飢饉」とは云わない、我が国の言語では。
健康的な食事がなにを指すかだが栄養バランスで考えたら現代のほうが圧倒的に良いに決まっている
現代は個人の嗜好の問題で偏食してるのをいくらなんでも過去と比べるのは違うと思うよ 食のテーマは世界史(地理)で勉強するのが面白い
日本は飢餓など無縁な環境やと思えるけどやっぱり人口密度が高いのが悪かったんかな むかしは生産環境が悪くて現代より収穫領が大幅に少なかったから、飢餓と無縁の土地なんて世界中のどこにもない
特に穀物系は、普通に現代の2割程度が基本で少ないからね 農機や生産技術的に
農機や生産技術的に量への疑問じゃない常識が通用しないばかりか
ダメ押しまであるのに「量を言出す」特ア思考にマトモな議論はムリか、、、w
>>366 今と比べても健康的
>>366 今と比べても健康的な食生活 15世紀頃中国から大鋸と台鉋が伝来し大きくて平らな板をそれまでより短時間で製作できるようになった
そのおかげで板の上で生地をのばした切麺である蕎麦切りやうどんが普及するようになった
という説がある >>393
山形とか秋田とか東北地方でもピンポイントながら水田稲作してたでしょ、古墳時代でも。
面じゃなく点だけど。 >>395
大きな板を容易には作れなかった時代には、木の板は安価には入手できなかったから、庶民住宅の主流は竪穴式住居だったんだよな
鎌倉時代後半ぐらいまでの話。 湿度の低い東北地方では戦国時代まで竪穴式住居が使われていたけどな 島原の時に原城にこもった一揆は半地下の建物を作って利用してたそうだけど、それも竪穴式だとか >>391 >>392
印度の経済学者アマルティア・セン氏に拠れば、
飢餓の最初の契機は自然条件であるにせよ、飢餓を拡大再生産して恒常化させる主因は食糧の絶対量不足よりも寧ろその分配システムの不在又は不全であると云う。
藤木久志氏や黒田基樹氏も拠るこの説に鑑みれば戦国時代などは正にその典型であるし、
また如何なる時代の如何なる統治体制であれこの危険から無縁ではあり得ない。 >>400
戦国時代だと、どの階層の人もみな窮乏してて、誰も裕福な生活をできないイメージ
貴族も武士も質素倹約を余儀隠されてるじゃん 室町時代から戦国時代は二毛作や鉄器の普及でそれまでより食糧の大量生産が可能になったんだけどな。
それによって余剰人口が発生し、それまでとは比較にならないほど商業や工業、土木建築技術が発展した。 室町時代半ばごろから気候の寒冷化で穀物生産が激減してるので、それを補うために二毛作が必要になったのでしょ
生産は増えてない、どころか飢饉連発の時代です
特に戦国時代になると、毎年毎年、全国のどこかで飢饉が起こっていたことが判明しています 耕作により富の集中や税徴収の問題が出てきてから飢餓の問題が深刻化しだしたんや
日本の場合は食料供給量に対しての人口が多すぎるからだろ
古今東西の食料問題は政治から来てるのが大部分 曲解特ア
曲解特アに、御三家でもぼっち>>365 に成りそうな重陰キャしか居ねーwww 因果律、物事の原因と結果を構造的に考えろ。
気候寒冷化とプレート活動活発化に起因する恒常的飢饉に対して機能不全に陥った室町型統治システム。
それに取って代わるべき統治/分配システムはどうあるべきか。
その次代に向けたtry&errorの運動を「戦国時代」と呼ぶんだよ。
>>404
基本的に、食料事情の許す範囲でしか人口は増えない
人口が多いのは、相応に食料があるからや
その上で、気候変動によって生産量が上下変動する
増えるときはいいけど、大きく減るときは餓死多発するわけやで >>406
ミクロばっかり見すぎなんだよな、この国の史学は
戦後の行き過ぎたマルクス史観への反動なんだろうが >>408
マトモに人口を推定できるのは平安時代のあとは秀吉時代まで、長く開いている
そして、古墳時代から平安時代までの時期や秀吉時代から江戸時代半ばまえごろ(おおよそ元禄の頃)までの時期とくらべ、平安から秀吉時代までの期間の増加度は低い
戦国時代が人口の減少期だから増えてないのだと思う 室町時代を通じて1.5倍の人口増でしょ。江戸前期でさらに倍以上になるけど 二期作、牛馬耕、堆肥の使用が全国的に普及したのが室町時代以降で、それにより食糧生産量の増加と効率化が進んだ。 >>411
秀吉の頃の人口は室町初期じゃなくて平安時代の1.5倍ぐらいしかないぞ >>413
日本の農民は基本的に米をメインに作ってるわけでな
メインに作ってるものを人口の8割を占める層が食わないんなら、
どうやって残り2割だけで食いつくすんだよ、って話。 鎌倉時代で人口が減少して室町時代から増え始める
夏場に天候不順で秋に収穫できないと冬に麦などを平安や鎌倉時代で栽培したけど、室町時代初期から西日本はそれが普通になってくる
稲作も早生 晩生 中生と同じ村でも収穫時期をずらしたり病気などで稲が全く取れないようなことがないようにしている 江戸初期の武蔵田圃帳に水田・畠の作付面積が記されてる >>418
室町時代半ばごろには大飢饉が起きるなどして、飢饉連発時代に入ってるぞ
天候不順の年が多くて収穫がかなり悪いことが多くなり、人口は減ってるはず
まあ統計もなにもないので、減った証拠もないのだが、もちろん増えた証拠などなにもないわけでな 度々、起こる飢饉を乗り越えるために作期をずらしたり、二期作、牛馬耕、堆肥の使用が全国的に広く普及したんだろ。
それが食糧生産の増加と著しい効率化に繋がった。そしてそれに伴い余剰人口が発生し商工業の発展、
これまでとは比較にならない土木建築技術の誕生に結び付いた >>422
実際に生産が向上したのは戦国時代が終わってから
技術の進歩した現代でも気候に恵まれないと生産半減しかねないのは90年代の冷夏の年によく分かっただろ
天気には勝てないんだよ
収穫が伸びない時期だからこそ農兵、雑兵が増える
生産が伸びたら分業が発達して農民を動員することはなくなる
気候が悪くて生産が落ち込む時期には統一国家が破綻しやすく分裂時代になりやすい
というのが世界的傾向で、戦国時代も同様だっただけ 仮に--あくまでも、仮に--「戦国時代には生産が増えた」説が正しかったとしても、
>>400に記した如くその分配システムが壊滅していれば飢饉は続いて行く。
その飢饉が更なる戦争の動機を創出して--と云う「飢餓と暴力の循環的拡大再生産」は世界史普遍の原理で、
本邦の戦国時代もその典型的な実例の一つに過ぎない。
そこに本邦個有の特殊性を見出そうとする試みはあまり有意義なものとは思われない。
質問ではなく自分の考えを押し付けたいだけみたいなので相手にしなくてよいのでは 因果関係が逆。
農業の生産力が上がり余剰労働力が生まれたから百姓(軍役衆)を兵として長期間の動員する事が可能になった。
ちなみに生産力の低かった平安時代、鎌倉時代は戦国時代より圧倒的に動員されていた兵は少なかった >>424
違う。
「喰う為」にこそ戦争は遂行される。
戦国時代の軍兵の過半は飢民だ。
飢えたる者が飢えたる者から略奪する為に戦う。
上杉謙信の関東戦争など馬鹿馬鹿しいまでに解り易い。 迷惑な話だよな
冬の間関東にあぶれ者連れてきて飲み食いして春に帰っていく まあ戦争ばっかやってた武田信虎が嫌われたのがは国内の内戦であり攻められた防衛戦だからで
同じく戦争ばかりだった信玄が称賛されたのはそれが外征であり、兵士たちは外で略奪しまくって国民が潤ったからだと
だから甲斐の外、特に北信濃や上野に同時代史料における信玄や武田家の評価ってもうクソミソよ 正保年間(1644〜47)の武蔵田圃帳
上練馬村 田219石 畑923石
下練馬村 田292石 畑933石
上石神井村 田102石 畑355石
下石神井村 田110石 畑264石
8割米作るとかないない >>433
単位面責あたりの石高が水田の何分の1か、低いはずの畑の方が石高が多いってことは、それだけ面責が何倍も広いってことだよな
耕地の大半が畑で水田は一割ぐらいか、もっと少ない感じかな あと、屋敷地は上田(じょうでん)扱いで登録されて課税されてるはずだから、それも水田として登録されてると考えると、もう少し実際の水田は少ないのかなあ? 一応、江戸には米がある(集まる)から野菜を作るって面もあるらしいが >>433
武蔵野台地のド真ん中の高燥地。
地上の顕在水源と云っては石神井川、三宝寺池、その他小支流ぐらい。
地元近くだから解るが、そりゃそうなるよ、と。
この地域では無視できないオカボ(陸稲)も畠に計上されてるんだろうし。
多摩川や隅田川に近い村のデータだとまた比率も変わるんじゃないか?
まあ、それでも「八割」米ってぇのは無いだろうが。
江戸時代以前の関東は資源がなく米を上方に送って売りさばき
必要な鉄やら鉄砲を購入してたらしいが。 その米を作れる土地が関東平野には少ししかなかったんだよなあ
あまりにも少なすぎたから、関東の武士は共存が難しくて殺しあいが激しかった、
近畿の平家が一族で協力しあうことで全体の収入のパイを増やす方向だったのと逆に関東の源氏は限られたパイを奪い合うしかないから源氏どうしで殺しあいを続けたとの説が、まあ平安末や鎌倉時代だが、
指摘されてたりするな
広域的な領主があらわれないと大規模な治水感慨はできない地形なので、戦国時代末ごろまで状況がかわってないはず >>439
関東の準広域的な治水は古河公方に於いて確認される。
時期としては多分これが一番早い。
次いで小田原北條氏。
利根川の堤防工事や小田原早川上水が知られている。
前者については沿川の関係諸村のみならず領国全体に広く薄く負担を求めた。
広域一元直轄統治の利点を活かした事業形態と云える。
正に斯くの如き施策を可能ならしむる権力体こそが災害や飢饉に喘ぐ時代の要請だった。 横から
関東平野を他の平野と同じ定規で考えるのって危険な気がするわ
関東平野でいい土地を例え面ではなく点と捉えても、他の平野と同じくらいの農地の
土地があったと考えられるんじゃないの?それぐらい大きさ違くない? 関東ローム層があるから
関東平野は稲作向いてなかったんじゃないの?
ちなさっき見たヤツ
tp://hist-geo.jp/img/archive/162_004.pdf 北条の利根川の堤防って、下手したら江戸時代に作られたとかいわれてるやつ? 決定的な史料は無いので正確なところは分かりませんが現在は『家忠日記』等の記述から親子対立説が優勢のようです。 正室の瀬名姫も一緒に殺害してますから単なる親子不和でなく
岡崎衆と浜松衆の対立の果てという見方もありますね >>443
どうだろうか。
北條の書状が残っている案件だから疑問の余地は無い筈だが。
もっとも事の性質上、何回も修築や拡大があって然るべきものだから徳川の世に同箇所の事業が為されていても不思議は無い。
歴代将軍家もそうだけど、断絶もしてない御家騒動が
どうなって詳細不明なのか不可解だよな。
勝者に都合良い歴史くらいは残るだろと 持氏までの鎌倉公方は広域権力として機能していたから
15世紀までは大規模な土木工事(灌漑)をやる技術がなかっだけだな >>449
広域的な治水のためには、相応の財源も必要だろ
室町幕府は財政能力は低かった、鎌倉公方は京都の幕府以上に資金力が低かったように思うが? まあこの時代の米の多くは水稲でなく陸稲だからそこまで大規模な灌漑施設は使わなかったんだろう 関東平野みたいなとこは分からんが、たいていの地域は陸稲主体じゃないぞ
縄文時代じゃないんだから
そもそも、稲の栽培は陸稲からではなく水筒から始まってて、栽培種としては陸稲の方が新しいんだぞ >>449
技術は勿論だが、
鎌倉府(室町式)の複線/複層型統治システムと戦国大名の一元統治システムでは広域権力の意味が全く違う。
大規模土木工事や広域農政は前者では不可能。
そもそもその発想さえ無かったろう。
>>449
鎌倉府は訴訟を扱う機能、警察機能のための一定の常備軍
以上の機能はなかったんじゃないの
そもそも足利公方家の領地は各所に点在しているものの
動員力を担保するな大きなものはない
、
後は足利という門地の高さでヒエラルキーを形成していたけど
禅秀の乱のようなことを起こされると、実地に領国を持っている
有力守護と大差ないのが明らかになってしまっていた 江戸幕府が六波羅探題や鎌倉府のような「幕府と同列の権限をもたせた出先機関」を作らなかったのは
やっぱりそれらの失敗からですか? 長崎奉行や京都所司代などより職務に適した機関を置いたんじゃないの そりゃあ、前代よりも高速緊密に連絡を取れる街道整備を進めたので、最大の出先機関である京都所司代と大坂城代の権限が六波羅探題や鎌倉府よりも小さいのではないかな?
六波羅探題が南北二人に権限を分けていたり鎌倉府が鎌倉公方と関東管領で牽制しあったり(鎌倉公方より関東管領の方が幕府よりだった)してたのと、京都所司代と大阪城代の役割り分担とは似てるような気もしなくはない >>456
いちおう、鎌倉時代の鎮西探題やら、室町時代には九州探題中国探題奥州探題出羽探題などいろんな出先機関はあった >>455
恐らく、江戸幕府や東京行政が天皇制のそれであることが
日本の安定を図ってると本気で自分は考えてる。
今だに全国にある雰囲気「西より発生した歴史」において
東に行政機関を置くことで統一性や日本人を安定させてる。
別の言い方で、関東のアンデンティティを犠牲にして東京行政を
全国集合体と認識を無意識に国民が共有してると思う。
だから今後首都をズレせば分断時代が来ると割と本気で思ってるw 中国が人権を尊重し、経済で篭絡すれば
日本省になるほうが早そうだけどなw 今の20代30代に世代交代したら一気にまともになるのか
共産党中枢にいるようなのは20代30代でも習近平と変わらないのか >>461
まともになるわけない
中国はずっと同じ
世代交代でまともになるなら
とっくにまともになってないと オカシイ基準(中共)の監視社会で
表層的な民度はぶち上げみたいな状況らしくて
どうなったのか類似例あるなら教えて欲しいけどな。 >>460
なるわけねーだろ
どんだけ中国を評価してんだよ
あ、逆に日本を下げてんのか 宗教フリーの戦争放棄という超絶国
だなんて「気分」より、人権とか尊重される平均年収千万で
中国本土から色々吸上げる特区民として生きたい国民のが多いだろ。
無職には理解できないだろうがw >>466
いや、たぶんだが、前者のような事態は起こり得ない、中国の民主化なんて天と地が引っくり返るような出来事だぞ、と言ってるのではないか? なるほど
その考えに反対すると
無職扱いされるから
誰も反論出来ないわけか
考えたな 最近多い昭和ノスタルジー番組見てると
つい数十年前までは、中国と変わらん野蛮さだったんだから
欧州みたいな憧れの国になるのは時間の問題で、
年内にもロシアのマネして台湾侵攻して、
大失敗 → 社会主義壊滅とかなけりゃ
高齢化跳返すだけの根拠なんて円安くらいだから
中国全土から富を吸う日本省になるほうが豊かってだけだわ。
中国会社の、平均勤続年数が伸び続けてる東京支社で
年収千万の仕事なら、誰でも飛びつくw >>471
> つい数十年前までは、中国と変わらん野蛮さだった
どんな反日プロパガンダ番組を見たんだよ…。
チャンコロの奴婢がなんか落書きしてるぞ
おまけに春秋戦国ネタですら無いし 電車から大小便垂流してた国が、
技術パクって先端化した中国に勝てる要素なんてもう
もてなし くらいしか残ってないだろ?
年寄りの切捨て
日本 → できず
中国と信長 → バッサリ行きそう >>474
電車から流してたって、いつの話なんだよ
と思ったが、特急車両とかの車内トイレは線路に垂れ流しでタンクにためて回収してるのは新幹線だけだったっけ、
それを改善してから何年になるのか知らないが 信玄が死ぬときに自分が死んだ事はしばらく隠せって言ったの本当ですか? 直接の史料はありませんが信玄の死後も信玄の名で書状が出されたり葬式が3年後だったりするので事実だった可能性が高いです >>474
中国大好きなんだね
かわいそうに
中国に移住したら? >>477
ありがとうございます!
本人が言ったか周りが勝手にそうしたのか分かりませんが本当に隠してたんですね >>479
そして、いちばん隠したかった相手、敵対者である織田には即ばれしてて、同盟相手だけが騙されてた件 >>478
俺は遣隋使~江戸期まで?の立ち位置に戻る話をしてるだけで、
人権軽視の野蛮
人権軽視の野蛮国が好きとかねーからwww >>481
お前はどの文章に絡んだんだ?
どの質問に関わってるんだ?
反射的にそれに乗っかった奴もただただガッカリだよ
人間が考えるって事象の質を下げる行為だ アメリカ人が人権意識高いかっつたら疑問だけどな
国民個人でみたら多分中国人のが高いだろ
国家のシステムが属人的でどうしようもない国だからワンチャン・トップ次第で変わる可能性もある ・見かけた超美人を3人連続で強姦 どころか
・尻すら触ったワケでも無く
・法定されてる死刑実行って地味な仕事だよね
だなんて失言で閣僚のクビが飛ぶ国では
そんな1チャンすら望めない ( ´△`) 安倍官邸スタッフなよれば件の法相は菅義偉なら即切りしてたレベルの失言らしいが >>454
室町型統治システムの典型である鎌倉公方から急速に地域権力=戦国大名への転身をやってのけた足利成氏期の古河権力はもっと評価されて良い。
現在の不当な低評価は軍記物の影響か、それとも司馬シンドロームか。
>>484
失言でもなんでもない
マスコミと偏向報道を
真に受ける視聴者が阿保 鎌倉府は広域権力だから軍事行動に東国中(含陸奥)からも動員してるんだぞ >>489
非の打ち所がない偉人って居るのかな?
謙信は酒で身を滅ぼした。 と言うか
義元のグランパが頃されず
伊勢新九郎が脱サラしてなければ
古河公方も強大化出来たかもな >>490
それはあくまで「制度」=共同幻想としてそうなっていただけ。
統治権力としての実体、即ち暴力による在地の実効支配を実現していたわけでは全くない。
古河権力は元々鎌倉公方の御料地が集中していた地域に在所も移して(移ることを余儀なくされて)事実上の直轄一円支配を遂げた。
また周囲地域も簗田、千葉、野田等の直臣で固めて実体的な勢力圏を形成した。
両者は全く性質の異なる権力体だ。
そして後者の如き大規模の領域権力を戦国大名と云う。
>>492
どうだろうか。
山内も扇谷も領域権力化して己の利害次第でドライに動く状況になっていたから、利根川左岸全域というのが古河の上限かもしれない。
その上に小弓という存在もあった。
旧型の権力だが国府台段階では里見や真里谷を糾合できていたわけで、房総で領域権力化した可能性はある。
ifにあんまり意味があるとは思われないが、
敢えて「伊勢宗瑞の来なかった関東」を妄想すると、
利根川左岸:古河
利根川右岸:山内
房総:小弓または里見
という鼎立状況の蓋然性が高かったように見える。
>>490
もともと、東北には斯波の分家である奥州探題大崎氏、出羽探題最上氏らをおいて大きな軍事拠点としていたが、のちに鎌倉公方の分家として篠川公方や稲村公方が設置されたことで両探題は幕府から重視されなくなっていたんだが、鎌倉公方と戦うことを幕府が決定したことにともなって篠川稲村にかわって両探題を重視する政策を取っている
だからといって両公方が消滅したわけではないが。
しかも、両公方のうち片方、篠川の方は鎌倉公方でなく幕府についているし、他方の稲村の方は早期に地盤を失って東北地方の武士達との取り次ぎ、連絡役しかできなくなっているようだ
だから、古河公方が動員できる東北の武士は少ないはず
むしろ、両探題を経由して幕府が東北の武士を動員しようとした
のだが、斯波義敏の方は家老の甲斐と争うことに注力して非協力だったし次の義廉は非血縁者なせいか分家と交流できなくて、いずれも両探題の協力を得られていないわけだが。 >>494
たしか里見とか真里谷とかは古河公方の代に入植させて設立された新しい家で旧来型じゃない新しい材地支配をしてるはず >>496
両家についてはその通り。
それは理解している。
小弓義明は房総に固有の地盤を持たず彼等に養われつつ名分を与える存在、という意味で旧型と表現した。
戦国武将も大夫成りしたら立烏帽子にしたんだろうか
というか通称以外に何が変わったんだろうか >>493
いや、454もそうなんだけど、それが重要だと思うんだが
特に後者の共同幻想こそが大切だと。性質の異なる権力体注目するなら
小さい点(民衆などが)が誰に従うかの争いではなく、例え前時代の名残
としても制度に従い、従う上層を決めるってのが大きい面の支配になる俺は思う。
戦国と似たり被る所があるが鎌倉府は結局脱却せず終わる。
正直、定義だけで言えば後北条氏も里見氏も脱却せず鎌倉府の「国衆」と見る事もできると
考えている。(横から) >>500
そういう脊髄反射の発声だけじゃ議論にもならない。
論拠を示して論理的に書いてくれ。
里見
農政、商業・流通政策等の面において記録に残るような
他地域にはない独自政策が
里見10代のうち記録が十分にある4代目以降で見られない
強いて上げるなら房総水軍による海賊行為で商船を拉致してるのが
他地域では見られない活動
って煽ってるわけじゃなく、千葉県民なんだけど
誰か里見のいいとこ教えてД 実は日本最大級の海賊大名なんじゃとかかっこいいやん。いくさクソ強いし やっぱり海賊なことが(唯一のw)売りでしょうかね
関東の小規模な田舎勢力だから大軍勢の用兵に長けているはずもなく
鉄砲などの先進武器の入手も後追いで
ひたすら山城の奪い合いでエイエイやってる小競り合いが
得意だったのでしょうか
源氏の名門という誇りが日常の武芸の鍛錬の
モチベーションになってたかもしれませんね
でも北条の農政とか上方の集団鉄砲戦術とか
先進的な里見の武器ってほしいなあ
いやまあ田舎大名でいいけどさ・・
せめて里見流そ操船術みたいな秘技あったらいいのに
どうでもよくてスマン 東京湾を挟んで武蔵の沿岸地帯を襲撃して、一部は里見に税の半分を治めるくらいになってるし
なんどか鎌倉を襲撃したりもしている 安東水軍みたいに海外との交易といったロマンが里見水軍にないのがなあ。 >>504 >>506
永禄以来、北條水軍を向こうに回した武総海戦はやや里見優勢で推移したが、
天正二年に於ける北條の関宿制圧以後は海戦も北條優勢へと逆転、
頼みの水軍でも利を失った里見は為す術も無いまま天正五年の屈伏(房相一和)に至る。
その後は沼尻合戦や天正壬午ノ乱等の遠方の戦争にまで北條への援軍提供を強要されて苦しんだ。
ロマンを壊して申し訳ないが、
後期里見の軌跡を俯瞰すると「時代の権力統合運動に淘汰された小国の一事例」という評価に落ち着く。
比較的遅い時期まで独立性を保てたのは、里見プロパーの要因ではなくて主に越後上杉(一時は甲斐武田)との連携という外因によるものだろう。
千葉県民自ら下げといてなんだけど擁護してみると
安房里見初代は全く地盤のなかった房総の南端から出発して
初代か二代目までには安房一国を掌中に収めた
これは英雄的な事業と言っていいんじゃない?
まあ辺境の小国安房だけども
その後も数十年の間に上総を掌握、北は武蔵や下総
得意の水軍で相模にも度々侵入するウザさ
一応南関東天下分け目の国府台合戦の一方の主役でもある
まあ後世の評価からは、大阪桐蔭に挑む鳥取代表程度の決戦だけども
上杉とは規模は対等ではなかったにしても
従っているわけではなく対等な外交関係
寄らば大樹の関東八屋形みたいな言われようは違うと思う
まあ結局北条に屈するわけだけども、
秀吉政権下の家康くらいの地位は得たよね
でも大河の主役になるには圧倒的に魅力が不足
やはり必殺技になる瓜がほしい・・ >>509
> 安房里見初代は全く地盤のなかった房総の南端から出発して
> 初代か二代目までには安房一国を掌中に収めた
何処かで--房総からそれほど遠くない場所で--似たような話を聞いたような気がする♪
宿敵は互いに似た者同士。
南総里見八犬伝は曲亭馬琴が里見氏に浪漫追った結果か >>509
何故そんなに大河ドラマにこだわる?
むしろ近年は「大河になったら負け」だろう。
俺は東京者だから関東戦国史に強い関心を持っているが、絶対に大河ドラマにだけはしてもらいたくない。
ゆても一番影響量があるの大河だし本もいっぱい出るしな >>513
悪影響の方が遥かに大きい。
何十年も前に否定された俗説を臆面も無く採用したりする。
それをあくまでも御噺として見れば良いが衆愚は史実と思い込む。
無知の拡大再生産。
地元の観光商売ぐらいか、好影響は。
別に一般人が歴史に少しでも興味を持って貰えて観光商売にでも好影響が出ればいいじゃない
ドラマ見てる人に史実がどうこうとムキに語るの滑稽すぎる 水戸黄門が実際に諸国漫遊してなかったことも
徳川吉宗が御自ら悪人を断罪してなかったことも
知ってて見てるのが多いかもな 桶狭間の戦いで信長の待機命令無視して勝手に武功上げたけど認めてもらえなかった武将っていませんでしたっけ?
検索しても桶狭間の戦いの奇襲がどうとかしか出てこないので記憶違いでしょうか 攻め手の足軽のモチベーションを上げる容易な手段として乱取りは黙認されてますが
逆に守り手側の足軽のモチベーションを上げる方法というのはあったのでしょうか?
まさか自国で乱取り差せるわけにもいかないだろうし、足軽に報酬は基本的にないと聞きますが >>519
ごく一例というか、特殊事例ではありますが
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1106/0437?m=all&s=0437
信濃の木曽義昌が小牧長久手の戦いで徳川勢を迎撃したときの事例
軍役外の身分の者も参陣して働けば一人二十俵を給与する
中間(ちゅうげん)ならばかせ者(最下級武士)に、百姓なら中間身分にアップする
功名を挙げれば年貢などは免除
働き次第では何でも望みは叶える
みたいなことが書いてます
実際に身分が上がったり夫役の免除があったようです
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1106/0439?m=all&s=0437&n=20
身分、金銭や米ないしはその他物品の供与、諸役の免除、感状の交付といったケースが多いと思います
持ち出しになって苦しいですが、滅ぼされるよりはましでしょう >>519
考え方としては守り手側は負けたら命も危ういので元々士気が高く、それに対抗するために攻め手は乱取り許可するくらいした方がいいよねという理屈
それ以上の士気が欲しいなら上の>>520の例のように金でも何でも持ち出しで他の恩賞も加えるしかない
あと足軽の報酬は基本的には従軍をすれば年貢を払わなくていいというもので軍役と言う。城下住なら単純にサラリー。活躍すれば武士への道もある。 >>520
場合によっては大名が身銭を切り足軽に報酬を与えていたんですね。
>>521
武田崩れや朝倉滅亡をみると守り手の士気が高いのは当然。というのは違和感があります >>522
ところが攻撃側の士気も怪しい。
「乱取りばかりに熱中して肝心の戦闘など全くやる気が無い」(甲陽軍鑑)というのが雑兵の偽らざる実態だったかとも思われる。
己が喰う為、生きる為だけに参戦する者たちは決して大名や武将の意志通りには動かなかったろう。
守戦側は使えるカードが少ないから、武将の資質、力量に大きく結果が左右される。 >>524
否。
結果を規定するのはそんな曖昧な要素じゃなかろう。
「資質」に非ずして「資源」。
「力量」に非ずして「質量」。
即ち投入出来る物資の絶対量だ。
>>521
足軽なり武士なりをどう定義しているのか分からんのであれだが
木曽氏の百姓、中間への参陣要請は特殊事例だと書いたが、裏を返せば普段の戦闘員は「かせもの」(最下級武士)以上だったはず
北条、武田、今川なんかだと軍役を勤める者は武士と規定され、年貢は免除されていた
古い論文だが「戦国大名後北条氏の百姓と侍」というのがネットに転がっているよ
あなたの主張の根拠を知りたい 足軽なり武士なりをどう定義しているのか分からんのであれだが
恵林寺の検地帳なんかが根拠やね。武田の軍役衆の論文はいくつもネットに転がっているよ >>522
武田崩れや朝倉滅亡など負け確なら当然士気なんてないでしょう >>527
えりんじ検地の狙いに関する藤木氏の論文では、検地増分の没収免除により有力百姓を軍役衆に編成すること
次いで、農民を軍役衆と惣百姓に身分編成すること、とあるようだが(戦国大名武田氏の貫高制と軍役、という論文参照)
先のレスで挙げた論文によると、北条氏では検地で増分が出ると、百姓は没収されたが武士は許されたそうな
二点目なんてまさに、最底辺ではあろうが武士身分への転換でないかね >>524
財政難だった場合、守り手側は士気も低いだろうから如何に大将の采配や鼓舞が重要そうですな 質問とは関係無いけど守りの(土地が増えない)戦いってあげれるものが無いから適当にごまかしてるイメージしかない 流石に守護職とか家督とかを褒美にしたやつは…流石に存在しなかったよね? >>531
守護職はともかく、家督ならありえそうだ
てか、フクスウメイデ家督を争ってる当事者がそれぞれ別の勢力に属して争ってる場合に、自分の上司が破れたら自分も家督を逐われるって感じで一蓮托生になってる場合とかには、主君が捲土重来を期して蓄電する際に自分も領地を離れて同行するとかは、わりとあった気がする 褒美が無い為にモチベーションの低い下っ端の足軽を戦場に繋ぎ止める為
守戦側はそれこそ飯や酒は大盤振る舞いだったと聞いたことはある 日本の戦国時代に守戦の名将って誰かいますかね?
北条氏康や真田昌幸のような籠城じゃない戦い方で。 毛利や川中島4や信長包囲網や島津や
小牧長久手や、関ケ原じゃね? >>540
毛利元就は謀神。上杉謙信は軍神。って感じで守戦の名将とは違う気がするけどねえ
日本には守護神という感じの武将は居ない気がする 元就は守りまくってったら
周りが取込めてしまった感じ。 >>538
やっぱり北條氏康だろう。
越山侵攻して来た上杉謙信との関東戦争に於いて支領ネットワーク戦略と三国同盟の威力を存分に発揮、
軍神様(笑)を八方塞がりに追い込んで。結局は関東から叩き出した。
実は北条氏政もすごいぞ
攻めよせてきた謙信を撃退して、「あいつさっさと死んでくれ!」と願掛けさせている 長野業正も何度も信玄を撃退してるが、守戦の武将というような評価はないな 小弓公方の足利義明が小弓の前に居たとされる高柳御所が埼玉の久喜って根拠あるんですか? 小弓公方の足利義明が小弓の前に居たとされる高柳御所が埼玉の久喜市栗橋って云われている根拠ってあるんですか? 何かの為でもなく己の私利私欲の為に動いてるガチの悪人っていますか? 気分次第で上から下まで問答無用に殺戮したのなら
いましたが? 一族の繁栄のため
これはほぼすべての戦国武将に共通
これを私利私欲とするかどうかで議論の方向性が決まる 島津が秀吉に逆らわずに大友攻め直前で止めてたら
そこまで獲得した領土は安堵されてたのかしら? >>523
>「乱取りばかりに熱中して肝心の戦闘など全くやる気が無い」(甲陽軍鑑)というのが雑兵の偽らざる実態だったかとも思われる。
毎年飢饉で餓死者出まくりな甲斐の特殊性がありそうだが
占領地で城預けられても領民連れ立っての普請がついてくるから不満貯まるのが甲斐 そもそも乱取りは勝たなきゃ出来ないわけで。乱取りするために一生懸命に働くのは当たり前かと。 >>558
> 毎年飢饉で餓死者出まくりな甲斐の特殊性
『日本中世災害史年表稿』辺りを読んでみると良い。
決して甲斐が特殊だったわけじゃない。
当時は気候寒冷化とプレート活動活発化の時代で、災害飢饉頻発は甲斐どころか地球規模の現象だった。
そして恒常的飢餓は必ず暴力との循環連鎖を生み出す。
これに対して機能不全に陥った室町幕府型統治システムに替わるべきものは何なのか、
そのtry&errorの運動を「戦国時代」と呼ぶ。
この構造を踏まえれば『甲陽軍鑑』の記述はむしろこの時代のスタンダードと見るべきものだろう。
>>559
とも限らない。
関東に侵攻した越後軍など敗走の傍ら濫妨を働いている。
戦争と略奪、どっちが目的だったのか
知れたものではない。
後の話になるが
浅間山の噴火が天明の大飢饉どころか
フランス革命まで起こす程だと言うし >>558-560
そもそも、寒冷化で農業収入が少なくなる時期には募兵しやすくなったり農兵を集めやすくなったりするのが世界的傾向で、
逆に好適気候で収穫が増える時期には雑兵や農兵を集めにくくなって専業兵士が主流になるとされている
日本だと、鎌倉時代は専業兵士が主流だが南北朝時代から雑兵が増え、戦国時代には特に農民動員が活発になった
戦国時代末ごろから農民が軍事動員に非協力的になって兵農分離に向かったわけで >>561
謙信はともかく、従軍した連中の多くは略奪を目的にしてたんだろ 敵国の領地を併合する意思が無いならむしろ破壊活動をしたほうが良いという政策 >>565
それは本当にあると思うんだよ。
侵攻地を領国化すればアガリも大きいが経営コストもまた大きい。
略奪対象としての客地としたままなら利得に限界はあるがコストもリスクも低い。
そのバランスをどう評価するかによって主体の行動が規定される。
戦国関東について云えば前者の立場を選んだのが小田原北條で後者を選んだのが越後上杉という構図。
>>566
この時代に
生命すら存在しない不毛の地に変えてしまった例あった? >>567
不毛の地にしちまったら次の年に略奪できないだろう。
>>568
四国西部の武士が残した日記で、当時の武士達が略奪されることに苦しむ様子が記されてるとかな
毎年、収穫期に西から海を渡って略奪が来るから、その前に収穫をすませられる早生種をメインに植えたりとか >>568
越前の狂犬ならやりかねんだろ
約70年後に大陸で張献忠が
四川を(後に民族構成が激変するほどの)大殺戮したしな 勝山記、天文10年以降
10年 此年春ル餓死至候て人馬共ニ死ル事無限
11年 人々餓死候事無限
13年 大麦一切悪ク御座候て夏ツ餓死至候…ホシハ(干し葉)ニテ身命ヲツキ(続き)申候
14年 春ル人々ツマル事無限、二月十一日冨士山ヨリ雪代水ヲシ候て吉田ヘヲシカケ人馬共ニヲシナカシ申候
15年 世間悉ク餓死致候
16年 奉公ノ人々ハ信州ノ御陣ニ迷惑致候…世間ツマル無限
17年 世中廿分ニ越エタリ【この年は珍しく豊作】
18年 世中半分ニテ御座候、サレトモ毎年ノ福貴カ此年マテツキ(続き)ヨリニ成リ候【前年の蓄えで助かる】
19年 世間餓死致候事無限、…【信州攻めで討死数多】国中皆捨テ候、ナケキ(嘆き)言語道断無限、…春中少童共モヲヤミ候て皆々死ル事不及言説、下吉田ハカリニテ五十人計リ死ニ申候
20年 去年ノ餓死ニ人ノツマル事言語道断無申計リ、人ノカツエ(餓え)死ル事無限
ずっとこのノリ
関東近国の他の日記・年代記にこんな窮状ない
これで信州攻めで攫ってきた人質を人身売買するわけだから北朝鮮みたいな国だわな この時代、何処でも行われていた事にすぎない。西国なんて乱取りで捕まえた
人質を外国人貿易商に売り払うなんてことまでしていたからな 甲斐は重税からの飢饉コンボのイメージがあるからなんか違うんよな 現代人が現代の感性で考えると見落とすことがある。
中世の社会構造や生産技術の下では、或る年に飢饉となればその傷は一年や二年では癒えないということ。
「飢饉=喰うモノが無い」。
よって本来は次年度の為に取り置く筈の種子や種籾まで喰い尽くす。
それでも足りないから山野の生り物まで喰い尽くす。
それでも足りないから斃れた牛馬まで喰い尽くす。
牛馬で済めば良いがやがて人(以下自粛)。
或いはそうなる前に逃散する。
次の年の春、
天候が順調に復しても田畠に蒔く種は無い。
蒔く人もいない。
耕す牛馬もいない。
耕作が出来なければ収穫は無い。
それでも年貢も賦役も課せられる。
戦争による生産破壊も続く。
社会の富の分配システムは崩壊して久しい。
その間にもこの時代特有の大規模自然災害が連続して襲う。
そんなことが続いて行く。
これらの全ての構造をこそ「飢饉」と云う。
恒常的飢饉という構造的事象が甲斐だけのものであったか否か、
この現実認識を踏まえて議論されなければならない。
>>579
しかしな
中世までの農耕の社会システムとしては、種籾も農具も領主(村長とか庄屋とか)が農民に貸し出して、対価のように年貢をとって集積し、
上の領主への年貢は個々人ではなく村からの支払いとして、その備蓄の中から払うんだよ
つまり、種籾まで食べてしまうようなことは普通は起こらない
そもそも、手元にはないので食べられない
戦時の略奪もたいていは田畑薙ぎ、収穫前の米を先に刈り取って持っていくもので種籾までとることは少ない
逆に言えば種籾までとることはとっていくキツい略奪は悪名が長く記憶される
まあ、略奪どころか用水路とかを破壊するまでやってしまった某大名の例もあるが >>582
「普通は起こらない」ことが起こらないうちは飢饉などとは云わない。
古代エジプトに共産主義的な価値観を当てはめたりとか 古代エジプトだけじゃないだろ
原始共産制という架空の社会モデルを提唱して、初期文明の時代には皆が平等だったと想定したのもマルクスでは? >>585
武田スレじゃなくて、藤木スレに行けば
と思ったが、すでに存在してないようだ と言うか原始時代なんて焼肉定食もとい弱肉強食だろ
と言うか人間を焼肉にして食ってただろうな
このスレだと鳥取城とか 喜連川判鑑に飢饉の記述は1箇所
己亥(1419年)…七月ヨリ九月迄大洪水十ケ度。十月大風、大木折レ人屋破損ス。大旱魃。大地震。飢饉。
六地蔵寺過去帳
〈下一向ニ子丑年ノ餓死〉道円禅門〈妙円禅尼〉
〈丙寅餓死〉道新〈藤門前、新六〉 長楽寺永禄日記なんかはテキストにしてないからパッと探せないけど困窮した世界観はないな 江戸時代以降だと飢饉が酷い土地はだいたい決まってるからな
重税ありきの統治の問題
口減らしなどの伝承が残ってる土地がそれ
姥捨て山やカッパ伝承のある土地は破綻経済やから人為的と言える飢饉も多かった >>589
長生きして変異しまくりの動物のたんぱく質なんて病気が怖くて食えないって。
食ってもせいぜい胎盤がいい所 じゃなんで現代まで食人族だった種族が生存してるのか?
4000年だか5000年だかを騙ってる三国人は同じぐらい人食ってるのに
むしろ無駄に増殖してるぞ 異常プリオンは食べる部位で発症率が違うだろ
デリケートな問題やから狂牛病すらデータがあんまり取れてないんやな
たしか神経系の脳や脊髄とかがかなり危ないんやろ
胎盤もまずまず危険やったと思う といっても肉食を行う限り大小あるがその危険は付き纏う。
仏教が体を汚さない為に肉食を禁じていたのもそのせいだろう >>593-596
飢饉の時の話をしているんだが。
飽食のせいで脳味噌まで脂肪まみれになって想像力を失ってるのか?
氏真、北条家の通字である「うじ」ですが当時は虫のウジを連想させる言葉では無かったのでしょうか
現代だと子供の名前に入れたくないと思う人は多いと思いますが >>598
その時代は知らんが、江戸時代後半になると、連想する人はいた
わが家は、(途中部分を忘れた)ハエぞ住む、世を蛆家と、人は言いける
だったかな、そういう狂歌が残ってるし
もちろん、有名な和歌のパロディで。
わがいをは、都のたつみ、鹿ぞ住む 世をうじやまと、人は言いける だっけ 軍神て戦前戦中は命を捨てた鉄砲玉に使われてたのにどこで今の意味に変わったんだろうな >>602
だいたいこういうのは小説がきっかけでゲームで拡散じゃないの
軍神=謙信ってのはノブ野暮じゃないの 知らんのやけど戦国時代に人物を軍神などと評してた資料あんの?
現代人が勝手に戦国武将に二つ名付けてるのかと思ってた
美濃のマムシ的なノリの表現のやつ 日露から太平洋戦争までの使われ方なら鳥居強右衛門・島津豊久みたいなのが軍神と呼ばれたはず
ネットで違法動画あげたやつが神と呼ばれてたのは本来の使われ方に近い >>610
元々、足利政氏/高基父子の抗争に於いて義明は高基と結託していた。
それが高基の勝利に終わると何故か政氏との関係を修復して反高基の旗を挙げた。
つまり「敵対勢力が拠点を築いた」のではなくて、「拠点にいた者が敵対勢力になった」。
>>611
でもそれって、その場所と決めつけて後付けで考えてるロジックだよね >>612
いや、歴史そのままの事実経過だ。
「御料所に敵対勢力が云々」という言説こそが確定結果から遡及して語るという逸脱を犯している。
義明が拠点を構えた時点では高基の同盟勢力だった、それだけのこと。
>>613
だから拠点がどこかで話が変わるてことよ、そこずらしちゃダメだろ >>614
政氏が結城だか誰だかに出した書状で「高柳の義明にも忠節を尽くせ」っつってるんだから高柳にいた蓋然性は高い。
その高柳が栗橋の高柳じゃないってんなら何処だと思うのか、
その論拠は何なのか、
通説に異を立てるんなら立てる奴の方から議論を提出しなきゃ単なる言い掛かりだ。
話になんねえよ。
>>615
千葉県柏市高柳
下総高柳と書かれている事から。久喜高柳も下総だが、明確に下総なのはこっち。
また勢力地域、距離としても問題ない事。ただし、古河から距離や支配域が異なるため
既存のロジックは疑念を持つことが生じる。 所詮
室町幕府なんて
いきなり「足利尊氏が強引に作って一旦捨てる」ほどだったから
上記のようなgdgdになるし
嘉吉の乱とか応仁の乱とか起こされた挙げ句
最終的に織田信長とかいう「将軍の家来の家来の家来でしかない存在」によって
あっさり下剋上させられる程度の存在でしかなかったな >>618
鎌倉幕府よりは平和で安定した幕府だったと思うがな >>616
何だ、「ぼくがこうおもうからこうにちがいない」の類か。
お前さんには邪馬台国論争あたりの方が向いてるよ。
>>619
いうほど安定したたら
戦国時代も起こらなかったし
手のひらフル回転させまくった大内山名どころか
それより格下だったはずの長慶久秀信長に舐められなかっただろ 秋田やばくて草
佐竹森
秋田県が新たなフェーズに突入。年間出生者数4000・死亡者数16600・高齢化率39%
秋田県はなぜ人口が減ってるのですか?
本県では、平成5年に自然減が始まり、11年には社会減を上回り、それ以降、自然減は急速に拡大していった。 このことからも、人口減少が加速した要因は、従来からの社会動態(転入−転出)による減少が拡大したことに加え、自然動態による減少が急速に拡大したためといえる。
秋田県の独身率は?
秋田県の未婚率は、男女ともに年々上昇傾向にあります。 令和2年の30〜34歳の男性の未婚率が 52.8%である一方、女性は36.8%と、男性の未婚率はどの年代においても女性よりも高い傾向が見られ ます。
秋田県の出生率は?
厚生労働省が3日発表した2021年の人口動態統計(概数)で、秋田県の出生率が4・6となり、27年連続全国ワースト1となった。
秋田県の人口減少データは?
令和4年11月1日現在の秋田県の総人口は 928,893人で、前月に比べ 1,022人(0.11%)減少しました。 また、世帯数は 386,236世帯で、前月に比べ 3世帯減少しました。 >>624
何故そうなる?
小弓への入部は武田に招聘されたからであって、最初から上総の地域勢力だったわけではない。
それどころか最後まで在地性を獲得した形跡が見当たらない。
足利義明はあくまで室町型の権威アイコン(寄生蟲とも云う)として終始した。
居処と政治的立場の関連に拘るのは無駄なことだ。
古河公方や関東管領までもが急激に地域権力化して行く関東戦国に於いて、
小弓公方は消滅する旧時代が最後に放ったノイズだった。
やっぱり室町幕府自体gdgdだったから
小田原評定してたやつに笑われても仕方ないだろうな そもそも尊氏が鎌倉に幕府を再興するか
江戸とか小田原とかに立てればよかっただけなのに
タイミングとしては中先代の乱あたりか 質問じゃないけど日本海側が豪雪地帯だから
謙信、勝家、前田と領地に雪で閉じ込められるから人生50年の時代にはタイムロスやな。
3~4ヶ月は動けないのはでかいわ。 >>629
雪が積もる前に出発して関東に数ヵ月もの遠征をする、なんてことを謙信は何回かやってるだろ
冬は雪に閉じ込められて何もできない、てほどではないことは明らかだ
行動制限が大きいのは間違いないけども。 >>630
春先に飢民の群れを連れて越山して、
行った先の端境期の飢えた村々からなけなしの備蓄食糧を略奪、
春物の少ない収穫を略奪、
夏物の収穫を略奪、
やっと実った秋物の収穫を略奪、
気に入らないことがあれば青田刈りで生産破壊、
奪い尽くした後は片っ端から放火、
その合間に拉致誘拐で人身売買ビジネス、
雪の気配が漂い始めたら越後へトンズラ。
これが義将上杉謙信の国家政策事業。
越後の飢民はこれで少なからず救われたから国内視点では確かに正義の名君だったろう。
しかしこんなことを何年も定例で続けた上に戦争そのものも云うほど強くはなかったし、
そりゃぁ関東はみんな北條に付いて当たり前。
苟しくも「関東管領」が何をやってんだか。
昭和時代でも越後民は冬が来れば関東などに出稼ぎしに行って色々悪さもしてたからな 自己訂正。
>>631は酷い間違いをしてしまった。恥ずかしい。
以下に差し替え。
**************
秋口に飢民の群れを連れて越山して、
行った先の田畠から錦秋の実りを略奪、
冬から端境期の飢えた村々のなけなしの備蓄食糧を略奪、
春物の少ない収穫を略奪、
夏物の収穫を略奪、
気に入らないことがあれば青田刈りで生産破壊、
奪い尽くした後は片っ端から放火、
その合間に拉致誘拐で人身売買ビジネス、
雪融けの音が聞こえたら越後へトンズラ。
これが義将上杉謙信の国家政策事業。
越後の飢民はこれで少なからず救われたから国内視点では確かに正義の名君だったろう。
しかしこんなことを何年も定例で続けた上に戦争そのものも云うほど強くはなかったし、
そりゃぁ関東はみんな北條に付いて当たり前。
苟しくも「関東管領」が何をやってんだか。
っていうか、質問スレで答え側の意見が異なって議論になるは分かるけど
雑談、議論目的で在中してる奴がいるのが笑える
質問→アンサーが機能してないw 芦名は中通り・浜通りに冬季出稼ぎしなかったんだろうか 新潟県出身の田中角栄が首相になると、「出稼ぎをしなくても雪国で暮らせるようにしよう」と日本列島改造論を唱え、全国で公共事業が増えた。その結果、出稼労働者は、1972年度の54万9千人をピークに次第に減少している[2]。 >>639
今日に続く日本国権力中枢の恥知らずな腐敗は、
その淵源を辿れば必ず田中角栄に行き着く。
戦後に於ける亡国の宰相を挙げれば筆頭は岸信介で文句無し、
安倍晋三、田中角栄、中曽根康弘がこれに次ぐ。
中曽根「慰安所作りました。原発作りました。日本をアメリカの不沈空母にしました」 原発は必要だろ
今も原発稼働してないせいで電気代が高い アホ共が居なくなるまで過疎らせとけ人居なくなれば勝手に死滅する奴らだ 電気代が高いのは原発がないせいじゃないだろ
むしろ事故処理費用を電気代に負荷されてるんだが 廃棄できないから運転60年延長するチキンレースに突入 >>643
ゼニカネの問題じゃねえんだよ。
たった五百年前の戦国時代のことさえ解んねえことだらけだからこんなスレが出来るのに、
プルトニウム239の半減期は二万四千年、無害になるまで更にその何倍か、
ヒト如き短命の生物がその間一寸の抜け漏れも間違いも無い記録と手順で安全に管理し続けられるのか?
自然災害や戦争動乱から完全に防護できるのか?
原発の最大にして絶対解決不可能な問題はそこだよ。
>>646
いやいま原発稼働したら
確実に電気代安くなるよ 原発否定するのって
大体左翼なんだよな
ここ左翼が多いんだな >>652
原発否定派には
何も言わないんだね
お里が知れるわ >>651
お前の論旨は;
・今だけ、俺だけ、カネだけ
・他人がやってるんだから自分もやって良い
支那人は大陸に帰りな。
無論仏も
宇宙の意志もだ
>>660もついでに滅べ 文明18年の月山富田城での正月のように
新年早々散々、もしくは凄惨な正月は他にあったでしょうか >>666
享徳ノ乱を詳細に調べたら毎年幾つもありそうな気がする。 >>666
大名格でありながら新年早々単騎で抜け駆けして討ち取られた佐野宗綱とか? そういうのって文官はどうしてたんだろうな
>廃棄できないから運転60年延長するチキンレースに突入
EUなんて1年前からエコ発電認定だから
江戸城下なのに原発事故で財産半減された俺も
認めざるを得なくなってきてるわ。 快元僧都記の原本が残ってないのって
廃仏毀釈で鶴岡八幡宮の僧坊・仏像・経典が燃やされたせい? そもそも原発はエコでクリーンで低コスト化も出来るから推進の流れだった事を理解しておかないといけない
大前提が数十年経って崩れさってるからな 原発の電気が安いってのはもはや世界中で日本の原子力村しか言ってない 盗賊大名上杉・武田に攻められた北条「💡総構えで城下ごと守るしかないな」 >>675
小田原が本格的に惣構えになったのは武田来攻の後なんだが。
【接種率】 モルモット国民80% > 厚労省職員10%
://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/cafe50/1670117740/l50
ほらな、質問が投稿されていないのに答える奴がいる
スレの本質が壊れていく瞬間だよな 自分が知ってることを書くだけの雑談スレだもんな
日本史板の質問スレもぶっ壊れている 鶴岡八幡宮の仏像・経典なんて寄進者の情報の宝庫だっただろうに 志摩七党に関する話が解説されてる本でオススメないですか?
信長が九鬼氏を支援するに至るまでの経緯や松平家が阿倍忠政を援軍に送った?みたいな話が載ってるのでオススメを知りたいです
ほとんど謎だからわからないって言われても仕方ないですが九鬼氏の本で検索かけると色々あってどれから手を付けていいのかわからなかったので… 相承院文書は残ってるのに快元僧都記は原本が失われたのはなぜ? 信康事件から本能寺まで、「家康が急死したら誰が継ぐか」はどうなっていたのでしょう?
それこそ本能寺から伊賀は九死に一生。死んでいたら…
のちの秀忠は幼すぎますし、結城秀康は家康本人が認めない…
そう考えると、信長が男子と正室をねじ込まなかったのも不思議です。
それこそお市でも。 秀康派と秀忠派で争って勝利した方が徳川を継ぐんだろうな。 雑談嫌いな人には済まないが
今年の大河初回の大高城兵糧入れは戦国好きなら見て損はない バカなのマン邪魔だな
他にやることないんだろうか
>>685
家康が認知してないなら秀忠でしょ 大阪で発掘調査された江戸時代の墓地の人骨1700体
半数以上に梅毒の病変があったとか 自作した生物兵器が、特効薬もないまま漏れて
世界中を大混乱させたは良いが、
自国にもっと広がった国みたいな歴史はないの? >>694
スレチ?
スレの時代の生物兵器といえば
病死体とかウンコ程度だったろ まあ、完全にスレチだよな
実際のとこ、そんな事件が現実に起きたことはないわけだが。 自分が野グソするとしたら、普通に葉っぱくらい使うだろ?
被曝もバブルも実験台になった国民的には、
中国の先端自爆は楽しみだw 葉っぱは紙で拭く文化があっての代用品では?
葉っぱで拭く発想があったら木べらにいかないでしょ 使用済みの和紙とか色々あるだろう。
原始人じゃあるまいし 農民とかってうんちとかおしっこどこでするの?
庶民の家にはトイレみたいなのないんでしょうか >>700
使用済みの和紙は別の用途で使われてるし、けっこう高く売れるから、トイレ用で使えるのは金持ちだけ、身分の高い人だけじゃないかな 米の採れない地域の村が米の代替品として和紙を納めていたとあるし
農民が片手間で製作できる代物だからそんな高級品というわけでもないんじゃ >>703
江戸時代なら漉き返しの漉き返しの漉き返しの漉き返しの漉き返しぐらいの「落とし紙」が製品化されていたようだが、戦国時代はどうだったのか。
戦国時代の冬、特に雪で身動きがとれない雪国は草履や簑笠、和紙の作成が
貴重な経済活動の手段で相当の量を生産してたらしい >>706
稲作困難な村もあるし、産業振興策として大名の方から指定する場合もある。
年貢=米、米が最上位の貢納物だからその代替品は高級品、という概念は図式的に過ぎる。
そもそも、年貢と言えば米、てのが普及したのは戦国時代も後半になってからで、それまでは米を年貢とする地域の方が少ないぐらい 戦国期の関東は貫高制(銭納)が基本で、特産物や軍需物資の生産者については現物納指定。
年貢に関して米の現物納が正規に認められたのは後年のこと。
鐚銭蔓延への対策。
戦時の米の臨時徴発はまた別枠。
但し臨時分は労役徴発等と併せて翌年の銭納額から減免される場合も有。 >>712
柿渋とか紙とかなら、当時は価値があって今は安いな 大名の税制度はそれ以前の荘園年貢が元になってるわけだから、中世の荘園年貢が参考になる
もともと各地の特産品はだいたい年貢にされてたのが、京都までの輸送の便が悪い遠隔地は領主との交渉で銭納に切り替わっていったから、関東はほぼ全て銭納、近畿とかはだいたいの土地が現物納のはず 遠出中に食い物がなくなったりしたら通り道に住んでる農民からからカツアゲしたりするんですか? 村にだって柵があったり空堀があったり城があったりするんやで >>719
然り。
場合によってはそれが主目的のことさえある。
時代は果てしなく続く飢饉。
奪う者も飢民、奪われる者も飢民。 >>719
カツアゲされる側の農民も武装してるから、返り討ちにあって殺されることもあるな だからと言って、桶狭間みたいな
とん死まで落ち武者狩りとかは違和感ある。
やられるほど傷ついてないよな。 毛皮の歴史についてですが日本には多くの野生動物が生息していたのに
外国の様に庶民が毛皮を纏わなかったのは何故でしょう?
当時は小氷期で今よりも寒いはずなのに >>724
仏教の教えで肉食禁止なのに毛皮を取るのは問題ないと思いますか? 時代劇で江戸の町民がみんな毛皮の着物きてたら面白いな
ねずみ繋げたの
犬・猫
たぬき・きつね
熊
舶来の虎・豹
蝦夷のアザラシ 昔ばなし読むと肉食は割としてると思う
たぬき・うさぎ・お婆さん 簑で十分凌げるくらいの寒さだったんだろ。高価な毛皮に頼るほどじゃなかったとか。 使いやすそうな大きな毛皮を得られる野生動物がクマか猪ぐらいしかいなかったような気がする
頻繁には狩れないんじゃね、強すぎて。
あと、植生や地形的に畜産が行いにくくて、家畜の毛皮も数量が少なかったのでは?
まあ、太鼓や三味線には動物の皮を使ってるわけだし、利用してないわけではないよ
着衣にするには数が足りなかっただけでは? >>726
武士は武具に牛馬の皮や鳥の羽など動物由来の材料を用いていた様なので問題ないかと。
>>730
古くから巻狩などで熊、猪、鹿など多くの獣を狩っていたともいうから、それなりに数は居たと思うんですよね 諏訪神社は祭礼で鹿・猪・兎を数百匹殺してたから相当な皮革を取れたはず
まなづるのマナはまな板(美味いから)
なべづるのナベはお鍋(美味いから)
丹頂鶴はあまり美味しくないらしい(塩漬けにする) こう見ると
肉食禁止なんてとっくに有名無実化してるよな
牛肉でさえ文明開化を待たずして
細々と食われてたし 人を食う話は、飢饉の激しさを説明するための文飾で実際にはほぼ人肉食されてないのではないかと、考古学からの説明はあったな 人なんて他の哺乳類よりも長生きだから固いわ、臭いわ、病気を持ってるわで食えたもんじゃないらしいな。 >>738
訪日したグラント将軍とニコライ二世も食ったんかな 何しろ戦国どころか昭和も戦後になってからの最高権力者でさえこの有様だ。
記者団「首相はいつもお元気ですね。特別の健康法や不老長寿の薬でも飲んでいるのですか?」
吉田茂「はい、人を喰っておりますッ。」
という、人を喰った御噺で…。
お後が宜しいようでございます。
先日、年上の女性に
「お前がババアになっても介護して看取ってやるよ」
と言ったが
「キモいから勘弁してw」
と言われました
さて戦国時代の庶民などは定番のプロポーズの言葉とかあったのですか? どうする家康みたいな戦死交名って実際に作られたの?
(村名 名前 戦死または行方不知 と書かれた短冊を読み上げながら冊子に纏めてた) こいつがこんな怪我したリストみたいなのあるから死亡リストもあると思うよ 結婚式の最中に敵が殴り込んで台無しにするほどだしな 権力者が座敷牢で仕方なく育ててる跡取りの一人息子の池沼に若い生娘を与えて孫を孕ませさせるとかあったんでしょ
跡取りが出来るまでは池沼も潰さないと聞いたけど本当なんですか? 大鏡・江談抄・古事談などにあるらしいんで
貴族社会に伝わっていた話ではあるね 冷泉天皇950〜1011
花山天皇968〜1008
大江匡房1041〜1111
大江は学者の家 明治時代にある大名家の当主が精神病院に入れられてお家騒動になった事件はある 武家は養子システムが一般的やから跡取りに関してはあんまりエグい逸話とか聞かないな
昭和でも百姓村社会の濃い血縁社会だと池沼は一定数いたからな >>754
そういう、余分な働かない人間を養えるほどの余力が当時の日本にはなかったと思う
あと、長男重視が顕著ではなかったので、跡継ぎが使い物にならない感じだったら別の子を跡取りに据える方が多かったしなあ
無理して使えない跡取りに継承することは少なかったはず 江戸商人は息子に商才がなさそうだと平気で養子に継がせてたそう と言うかこれも「家によりけり」案件だな
世間体を気にしても成功すりゃ無問題だし >>740
むしろ江戸の世になっても肉食ってただろ >>763
商才があっても息子に跡を継がせる商人はハブられる社会だったらしいぞ
取引停止を食らって存続できるとこは滅多にない。 武家以外が一族の世襲で力を増大させられると困る社会だからな。 それなら落語に出てくるような放蕩若旦那になったほうが得だな 江戸時代の低身長は人口増えたりで
一人当たりの栄養価が減ってそう 福助人形のモデルは実在した障害者
障害者は閉じ込める・生まれた時点で〆るみたいなのは明治以前の日本の文化にはないんじゃない 史実の大友宗麟とキリスト教の関係について分かる本ってありますか?
また、宗麟はキリスト教なのに出家してますが宗教を掛け持ちしているということでしょうか >>767
ひょっとしたら、バカ息子を偏愛して跡を継がせてるボケかもしれんやろ、
そんなのと取引してて倒産されたら売り掛け金を回収できなくなるわけで、取引リスクが高い
だから取引したくないと、たいていの商人が思うから、ハブにされるんだよ
自由意思による自発的行動な
特に江戸商人は上方商人よりも実子相続の商人に対して厳しかったらしい > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>774
江戸幕府にしても本領のお膝元に自分たち以外の一族が運営する財閥が誕生したら嫌だからなあ。
だから江戸では血縁による財閥が誕生せず主に株仲間主体の商工業団体が運営されていた 江戸時代初期には相当な大商人でも倒産する事例が多くて、江戸時代初期の大商人の大半は元禄以後の時代に存続を確認できないが、それ以後は没落する商人は少なめだった
その時期に積み重ねられた、生き残るための(倒産しないための)ノウハウのひとつが婿養子に跡を継がせる風習なんだろ
その風習は昭和中期ぐらいまで残っていたっぽく見える まぁ普通に考えれば、
愛子さま?に優秀なムコ天皇を迎えたほうが良いのに
どう育つか分からん子どもに継がせるのが分からんw 加藤清正・前田利長も梅毒とは知らなかった
大名クラスを相手にする京阪の遊女に感染者がいたんだろうな
清正・利長・秀康・義宣の妻妾もうつされちゃったんだろうか 今年の大河は「どうする家康」ですが
「どうする早雲」とか「どうする信玄」とか「どうする元就」とか「どうする信長」とかもあり得たでしょうか? >>780
ここは歴史を語る場であってテレビドラマを語る場ではない。
こちら↓へどうぞ。
【2023年大河ドラマ】どうする家康★21
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1674634596/ >>782
ttps://cir.nii.ac.jp/crid/1050001338864328832
ここからたぐっていけばいいんじゃないですかね 今やってる大河で監修の先生の意見を無視して変えたって言ってる人がいますが製作に関わってる誰かがそう公言したんですか? >>784
どうして戦国時代板で質問するのですか? すまん>>781のURLに飛んだつもりがここに書いてた >>786
もともと当時の日本人の栄養接種率は良くもなく現代から見れば軽い栄養失調状態だから誤差なんじゃないの
WW2前でも庶民だと食事もかなり粗末な物やぞ またまたアンカー間違い
>>788は>>769宛てやった
2重にズレまくってた スマン 商人が実子が不出来なら養子に継がせるのは老後のことも考えて
バカ息子に身代潰されるくらいなら能力と人となりがわかってる店の者を養子にして老後の面倒見てもらったほうがいい >>793
そういうのは江戸時代の初期ぐらいまでで、それ以後は婿養子に跡を継がせるのが規範、ルールになってたんだけど 養子の話とは逆に
実子がいるのにそれらをすべて尼僧にして絶家させる例(足利将軍家とか)もありましたが
その様な家はどういう心境だったのか 出家しても普通に戻ってくるやつとか出家したまま戦うやついるけど出家させる意味あるん? 同時代史料から確実な例と
後世の史料で末裔と言い出す例と と言うか義元がノコノコと織田領に来た事自体罠かもな 学者の説しかドラマに出来ないなら
名だたる鎌倉武士が雑人に暗殺された去年の大河はどうなってしまうのか じゃ狸親父を
平和希求者とかどうする言うヘタレとかにできんわな 栴岳承芳って名前は江戸時代以降に作られた名前ですか? また大河だが
ナレーションに当時の実在人物を当てるだけでなく
死後幽霊にしてまで語らせるのはまだいいけど
最終話まで寿命を伸ばしたり
生まれる前のことを語らせるのはどうかと >>806
吉宗の大河の時も、まだ生まれてもない孫を最初からナレーションにしてたんだよなあ 戦国時代板質問スレでドラマ語り、しかも吉宗
アホ? 葵徳川3代は光圀と助角が狂言回し
今年のは春日局が家光に語りきかせてるんだろうと 高松城包囲中の秀吉が信長公出馬を請うたのはパフォーマンスだったのでしょうか
その気になれば秀吉軍だけで毛利に勝てた? 牢人の出国を禁止した結果
島原の乱や慶安の変と言った内乱(及び未遂)に繋がり
ただでさえ設立間もない江戸幕府を悩ませましたが
逆に牢人を海外に厄介払いしたとしたら
三浦の乱や寧波の乱やアンボイナ事件と言った事件を乱発するにしても
むしろ日本の武威が向上したと思いますが 史実でも輸出されて戦果は挙げていて
この通りの評価 >>816
推定数千人が西洋列強に買われて東南亜細亜の戦場で猛威を振るったと云う。
牢人がアメリカや(当時「発見」されてなかった)オセアニアに渡って
インディアンやアボリジニを家臣化して
国家を形成しても良かったのに 日本人の性格なら若い女を嫁に貰って家臣化されてそうやけどな 東南アジアならともかくオセアニアの女を嫁にもらうかね? 東南アジアのどこかで王の娘婿になった商人がいた(山田長政ではない) >>815
日本の武威を世界に示すのは唐入りで十二分に達成できたでしょ。
日本側、民側共に。十万以上の軍勢をあの時代に動員できた国は他にないよ。 当時もはや無用の長物化していた公家共が
どうして生きながらえてたんだろうか
それ以前なら唐朝滅亡時の白馬の禍
それ以後ならフランス・ロシア両革命のように
貴族という概念自体駆逐されてもおかしくなかったのに 少なくとも摂関家に「ノブレス・オブリージュ」なる概念が存在してたら
塗炭の苦しみを舐めながら生き恥晒さなかったろうに >>823
浅い。
権威の在処と権力(暴力)の在処が分離していたからこそ、
本邦は諸外国の如き妥協不能の相互殲滅戦による国体断絶を経験せずに済んだ。
戦国時代でさえ「威/力分離」から既に五百年、
武将たちは権威という共同幻想の重要性をよく理解していた筈だ。
>>823
そんなのが世界的常識だったら、スルタン-カリフ制なんて存在するはずがないし、中世ヨーロッパで世俗王よりローマ教皇の方が権力が強いなんてことも起きるはずがない、つまり、そちらの常識は間違ってるからだよ 気がついたんだよ
神輿(権威)を担ぐ体のほうが責任が分散して楽って事に ケーキさんも昭和天皇も、神輿だったから
天寿まっとうした? >>828
昭和天皇裕仁が文字通り最高権力者だったら極東軍事法廷は彼を絞首台に送っていた。
あの暴虐な偏向裁判でさえ実体権力の所在が裕仁ではなかったと認めざるを得なかった。 そういう意味では誰も責任取ってない先の大戦はいい見本だな
自発的に自殺した政治家・軍上層部もいたが裁かれてはいない
対外戦争で大敗して国民数百万人死なせて国土をを焦土にしても有耶無耶なまま >>832
有耶無耶は許さない!と正義を掲げて誰かが誰かを裁く。
何が正義か悪か、国民が分断・対立に陥る。
最悪の場合は内戦・殺戮、そこまで行かずとも果てしなき憎悪と疑心暗鬼。
責任を明確にする御立派な諸外国はそういう道を繰り返し歩んできた。
それが良いことか?
有耶無耶でも灰色でも、憎悪の連鎖よりは穏やかに過ごす方が良い。
それがこの国の人々が選んできた道だ。
その御蔭で今日の我々が在る。 素人の現代人でも読めるような文字の書き方って戦国時代やそれ以前の時代でも存在したんです?
史料を漁ってると書状系はぐねぐねして読めないものが多いのですが本や石板に刻まれたものだと一文字ずつ丁寧に書かれてますよね。あれは近代ではなく当時書かれたものなんですか? >>834
石板?
石碑のことなら、墓石以外の文字を刻んだ石碑はたいてい大正から昭和初期ごろの製作じゃないか
明治より前は、公文書は漢文の草書で書かれてて、素人では読めないよ 安堵状・着到状なども草書じゃない
譲状は高確率で草書
江戸時代の本は印刷物だけど草書
子供向けのほうが草書な気がする
かな混じりとかほんと読めない >>837
その文書ってどれも、公文書じゃなくて私文書なんだよな キツツキ作戦で奇襲隊のが多いってバカじゃない?
平地で待受けるほうが大変じゃね? 法制上、公文書に該当してないじゃん
大名の定める分国法は私法だし、大名が家臣に出す文書は私文書だろ
それどころか、鎌倉幕府のヤツだって、式目は私法だし文書は私文書だろ >>842の脳内では
武家諸法度も日本国憲法も私法扱いだろうな 知ってるか、政所って家政機関で私的機関なんだぜ、決して公的機関じゃないぜ 大名クラスになると服着替えるのも部下呼んで着替えるんですか? >>849
自分でする方が早くないですか?
万が一間に合わなくて漏らしたらどうするんですか? 大名クラスとなると戦以外にも様々な儀式や行事に参加しないとならないから
専用の装束係がいたらしいな。衣紋型とかいう今風に言えばドレスコーディネーター 戦国時代板なのですがねえ
江戸時代の大名と同じなわけがないだわねえ 戦国時代に公文書私文書を分けたり公法と私法を区別したり公機関と私機関を区別したりするようなナンセンスな話題も大差がない
全部私文書で私法で私機関の時代だろ
まあ、多少は公文書もあるし公法もわずかに生きてるが >>856
この時代でも朝廷が式に則って発出する文書は公文書だろう。
幕府もこれに準ずる。
それ以外は大名発だろうが寺社発だろうが個人発だろうが基本的に全て私文書。
但し戦国大名が名目上守護や管領等の公職に在って形式的にその立場から出す文書は…、という所か。
この時期になると……
というか、かなり以前から、朝廷が政治上の必要性から出してる文書ですら大半が私文書になってるんだよな
さすがに、全部が私文書に切り替わったわけではないし、戦国時代にも公文書は使われてるが。
中世の社会は公と私の境界が曖昧になって、私文書が公的な役割を果たすことが多かったってだけなんだが。
私宅と政庁の区別もなくなるしな >>859
しつこい。醜い。見苦しい。卑しい。
反論したけりゃ正面からやれ。
››855
戦国時代でも正装というのは用途によって様々なんだけど。
室町幕府が定めた正装、朝廷が定めた正装。あと儀式や行事に於いても細々した決まりがあるわけで。 >>859にはローマ帝国も中華帝国も大英帝国すら
将門の新皇政権同類なんだろうな 行政文書に関する法規定が養老律令、延喜式、その後の個別の法令で定められたまま長く放置されてて、法規定のない私文書で主に行政を行うようになったからだよ
中国やローマは自前で法規定を行ってるから関係ない
日本の律令では天皇の私的空間と政務を行う公的空間は分けられていたが、平安時代の途中ぐらいから、公的な政治空間が廃れて私的空間で政治を行うようになった
文書も、公文書の使用が段々と減って私文書を代用するようになった
役人の養成も公的な育成が廃れて私的に育成するようになって世襲化した なんか難しい話でついていけない俺
地の底から低みの見物 歴史史料が私文書じゃないと死んじゃう人が一人いるだけ むしろ、なんで私文書やとアカンのか?
公文書は私文書より価値が高いとでも?
まあ、私文書にもピンからキリまであるわけで、使い物にならないゴミも多いけどさ
内部決済用の非公式文書を公文書の代用にすることが多くなった中世以後には公文書は少ししか発行されてないんやで
いろんな役所の判が必要で面倒やったからかもな この切り口は意外と面白い。
「公」とは何か、「私」とは何かを突き詰めて考えて行くと、
究極的或いは本質的には全ての権力が「私」なのだと云う結論に帰着する。
「公」を自称する権力、国家なる共同幻想がその代表例だが、実はその自称にアプリオリな論理的/倫理的/道義的/物理的正当性又は正統性があるわけではない。
その支配下に在る全ての小共同幻想群即ち「私」的権力との間に質的な差異は無い。
あるのは量的な差異、就中その保有する暴力装置の規模に於いて他に対して超越的であるというだけのことだ。
特に近代国家は「暴力の独占」を成立要件としているだけにこれは当然とも云える。
即ち全ての「公」権力は超越的暴力を以て自らを「公」、他を「私」とする枠組を強要しているだけ、と解するのが妥当だろう。
「公」とは、結局の所グロテスクなまでに巨大化した「私」の別称に過ぎない。
愉快なことに、
「公」を自称する権力は自らが正しく「公であること」を如何なる他者からも担保してはもらえない。
できるのは自分による自分の「保証ごっこ」だけだ。
自称が恰かも真実であるかの如く共同幻想の体裁を整えていくのみ、
謂わば「自作自演」の永久運動を続けて行くしかないのだ。
>>857
他のスレから必死を見て追いかけてきたんだけども、
「なぜ戦国時代の後に平和な江戸時代が到来したのか」というスレを立ててあなたの好きそうなテーマで議論しているので、よければこちらに来てみてほしい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1677225401/?v=pc
向こうのスレはもう見なさそうなので、見る確率の高そうなこっちにも貼らせてもらう
しかし向こうのスレの連中は実に非道い 前提として、本来的な前近代日本の「公」は天皇、厳密に言うならば律令(格式)により規定された天皇及びその行為を原点Oとして、そこからの物理的・精神(意識)的・政治的距離により減衰するものであると思うが…
それはそうと、中世における公と私は、実力と公意識という観点が重要だと思う
文書に関して言えば、その物理的精神的な普遍性を観点とすべきだろう
しかも私文書公文書、私法公法というのはグレーゾーンをかなり含む
公たるものとしての自覚を強く持って出された幕府文書は法制上は私文書であっても公文書としての色を濃く持つ
逆に天皇の日記は私文書だろうし
本郷和人は武士の公としての意識というものをかなり気にしているようなので、著書をあたると面白いかもしれない 天皇の日記は私文書ですって所から説明しないといけないスレって凄いね 公意識が問題だと言っている
日記は日記でも日記の家の日記は公意識を持って書かれたものであり、実際に公的儀礼に用いられるわけだから、私文書であっても公的性格を全く持たない訳ではない グレーゾーンは断定しないが少なくとも日記を公文書とは言いません
扱いについては別問題
言ってる事はわかりますか? 何が、というより誰に言いたいんだろ
他の人と勘違いしてない? どうかな。
俺の目には、軍記講談小説漫画辺りで読み囓った虚説を「歴史」だと勘違いした浅薄な若僧ばっかり蔓延ってるように見えるけどな。 >>881
違うな。
特に漫画とゲームで「知識」(笑)を得た若年層が壊滅的に酷い。
この年代は論理的思考も批判的考究もできない白痴として調教されているから、
上記の衆愚向けメディアの流布する英雄史観の巷説俗説を真に受けるばかりで
これを克服しようとする発想そのものが完全に欠如している。 おじさんから言わせてもらうと昔は情報を得る手段があまり無かったし情報のブラッシュアップも行われにくい時代だったから年寄りのほうが酷いかもしれんよ
若者のは単に勉強不足なだけ 真田幸村とか北条早雲とかいう
当時存在しなかった呼称を史実といいそうだな 重度のアニオタが普通のアニメ好きな人を叩いているのと同じやな 爺さんイライラで草
講演会とか言っても古い知識しかないジジイが先生困らせたりしてるのに 妄想を国際問題にまでしてしまう隣の国と比べてどうなんだ? 本郷和人が木っ端レーベルの新書やバラエティ番組等で適当な仕事を乱発しまくってるのは事実だが、中世国家論においては五味文彦の二つの王権論を正統に後継している相当まともな学者だということを知らんやつがおるらしいな…
武家の公儀性という話をしたいなら確実に当たるべき学者だが >>892から溢れる高齢けんも感
他の板でも唐突に隣の国とか言い出してガイジ扱いされて欲しい 質問なのですが、三方ヶ原の戦いで、徳川軍は敗北、武田軍が圧勝しましたが、
そこにいたるまでに、武田軍の軍議で、真田信綱の提案を武田信玄が採用したというのは本当なのですか? >>895
まずその情報の出処から精査せいよ
アホすぎるから出入り禁止な >>896
ここは初心者も気軽に質問して良いスレだろ
お前みたいなやつの方が害悪だし消えろや >>897
例えば自動車運転の「初心者」と云うのはクルマに関して何も知らない何も出来ない素人のことではない。
基本的な法知識、工学知識、運転技術は最低限身に付けた上で免許を受けて、しかし未だ熟練の足りない者を云う。
繰り返すが、
初心者とは素人のことではない。
ましてや自分で調べるべきことも調べずに訊けば誰かが教えてくれると勘違いしている白痴的な餓鬼のことでは断じてない。
>>897
>>1を100回読め
初心者も気楽に はお前の妄想 老害キモすぎて草生える
お前らみたいな社会から必要とされてないゴミでも唯一ありがとうって言ってもらえる場をわざわざ破壊しなくてもよかろうに >>895
オメーもオメーだ
そもそもそんなしょーもないこと本当でも嘘でもどうでも良いだろ >>900
「老害」「キモすぎて」「草生える」。
見事なまでに借り物の言葉しか使えない語彙の貧しさと知性の低さに、乾杯。
おいおいお年寄りの血圧上がっちゃうだろやめてやれよ 若者でも年寄りでもいいが中身ある発言したいんやけれどな
>>895みたいな創作か俗説かの否定から議論するの疲れるんやけどな
一次資料や有力な資料が無いから本当じゃ無いですと言っとく >>908
これをどうでもいいことと云える感性の救い難さよ。
それとも日本語を母語としない者なのだろうか。
何れにせよ、
愚鈍は恥ではないが愚鈍に居直ることはこの上無い恥だと知れ。
完全に年金受給者のレスじゃねーか
どうせ暇なら質問に答えてやれば良いのに >>910
あんたは完全にブーメランが刺さってます
悪口を言うにしろ論理的じゃないから意味不明で煽りにすらなってない 香道も茶道のように戦国時代に各地に広まったらしいですが武士で、香道または香木に嵌っていた人物はいますか? 信長が武力を背景に蘭奢待を切り取ったくらいしかエピソードなさそう 江戸時代には庶民文化までになっているわけでしょ
文化に造詣のある武将や大名ならたいていは嗜んでいそうな気もする 嗜むってのがワードで1番の趣味が香道ですって変態はそうそう居ないだろ 障害で思い出した
武茂氏の初代はチンバ(足の障害)で廃嫡されて別家(武茂氏)を立てた なんでも超人、細川藤孝は香道の著述もなしているな
その名も「香之記序」
内容は知らん 元は貴族の遊びだし武士の嗜みとしては軟弱と見えたのかもな 戦場に臨む鎌倉武士は甲に香を焚きしめたと云う。
野に骸を曝す時の匂いを和らげる為だとか。
軟弱どころか生死の際に在って命懸けの嗜みだった。
時遷り世も変わり人の品も地に落ちた戦国の侍たちがどうだったかは知らない。
大戦まえの常套句「大領やるから味方しろ」って
どのくらい守られた、
守られなかったもんなの?
桶狭間んときの梁田は5千石くらい加増されたのかな? 室町前期ごろには婆娑羅の間で流行ってるよね
佐々木道誉とか香道やってたはず >>923
まあ実際は死臭なんてそんなもんじゃ誤魔化せないけどね… 香木の香りは香水には程遠いし、悪臭を紛らわす手段というわけではないだろ。 >>927
だから嗜みだよ、嗜み。
風呂に入んねえ薄汚ねえ仏蘭西人がいくら香水を発達させたって無駄な抵抗なんだが、
それはそれとして香水を纏う優雅さは称揚される(らしい)と。
それと同じ。 日本だって香が流行った原因は風呂入らなくて臭かったからだし…平安時代の話だけどね 世耕議員「走り書きのメモでも役所で2人以上に共有されたら行政文書」
中世の行政文書・印判状を公文書と認めない人に聞かせたいね 法的に定められた定型の文書ではなく内々で処理するための内部文書で政治してた時代で、公的な私文書が使われてただけなんだが 公的な私文書って、かなり訳が分からないけど、私文書が公的な役割で使われていたってことでな >>934 >>935
933氏はいくつものスレに跨がって公文書私文書の話にずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと粘着して独自の所論を宣い続けてる奇特な御仁だ。
触らずにそっとしといてあげるのが宜しい。
質問があります。
少弐家は1441年から大名として滅亡する1559年までの間、満貞、教頼、政資、資元、冬尚の5人の当主が戦死しています。
しかも、最後の冬尚以外は、全て大内家に攻められて戦死しています。
これほどまでに当主が戦死しても1559年まで滅亡しなかったのは、家臣たちの支えが大きかったようです。
しかし、このように何度も当主を戦死させるという失態を犯したにも関わらず、家臣たちはなぜ少弐家に助力し続けたのでしょうか?
家臣たちは大内家に従属すれば争う必要がなくなります。
なぜそれをせず、少弐家に味方し続けたのでしょうか? ››932
明治時代まで京都は慢性的な水不足だったからな。 >>938
水不足が風呂の問題に直接的に結び付いて考えるのには物凄い違和感でしかない
なんかズレてないか? >>936
くやしいのう
書状が公文書だと困るからのう 行政文書・公文書を認めないの流行ってるな
有本 香 Kaori Arimoto@arimoto_kaori
ワケの分からん文書を持ち出して、我々の血税で運営されている予算委の時間を無駄遣いする貴殿こそ、万死に値する。
さっさと何処へでも亡命なさいよ。 行政文書・公文書を認められない人って後ろ暗いことがあるんだろうな
[東京 8日 ロイター] - 高市早苗経済安全保障担当相は8日の参院予算委員会で、放送法の政治的公平に関する総務省の行政文書を巡って「これが事実であれば、私は責任を取る。でも事実ではない」と述べた。高市氏は「少なくとも私が登場する4枚については事実ではない。これは断言する」と語った。
総務省の今川拓郎官房長は、放送法の「政治的公平」に関する行政文書を巡り「一般論として、行政文書の中に捏造があるとは考えにくい」と述べた。 戦国時代は終わっていない
終わっていない以上、江戸時代も現代も戦国時代
つまり、現代の話をしても何の差し支えもない 3:00にクソみたいなレスする奴の感覚がわからない そもそも、公と私の境界が曖昧で、私的な関係が公的な意味を持つことが多かった中世と近代法治国家として講公私の区別を厳密に行うべき現代を区別できてないヤツはおかしい >>944
もっぱら私的な存在が社会を動かすような中世から、公を立て直す試みが幾度も失敗するなかで、ようやく本格的に公を再編しようとしていた時期が戦国時代、
それを経て新しい公的存在が創始されたのが江戸時代かな? その話には確かに一理ある
でも、江戸幕府を公的な存在というには無理がある
例外はあったにしろ、老中を務められるのは譜代大名のみ
将軍は徳川家の血縁者のみ
諸藩の藩主も血縁者か相応の家柄のみ
家老も決まった家柄のみ
江戸幕府は公共の福祉を考えていたわけではない
徳川家が頂点の武家政権をいかに長く保てるか、いかに安定した収入を保持できるか模索していただけ
まず私的な関係は具体的にどういった関係を指す?
今の総理大臣である岸田文雄は、3世議員だけど、これは公的な関係?それとも、私的な関係?
歴代総理大臣のうち、初期は薩長が主、後には先祖から続く政治家に主になるけど、そういった繋がりは私的な関係に当てはまらない?
確かに法のもとに人は平等であることは間違いない
法を犯せば、総理大臣だろうが誰だろうが相応の対応をされると思う
その意味では、確かに公的な存在と言える
では、法の適用されない部分ではどうだろう
例えば、大臣の任命等に私的な関係が存在するように思うけど、これは勘違い? なんか目を合わせちゃいけないタイプの人だったんだな 調略や一揆煽動って成功しやすかったの?
武田の信越勢への調略工作や伊達の一揆煽動が面白い具合に成功してるので。 >>954
地獄の沙汰もカネ次第。
時代は飢餓と貧困。
空手形でも利を啗らわせれば閻魔様でもコロリと転ぶ。
武田さんとこだって上杉某の甘い餌に喰い付いてアッサリ北條さんを裏切ったじゃないか。 ダメ元でたくさん調略交渉して、ごく一部が成功してる感じじゃないの
ひたすら手紙を送りまくってた某さんとか、成功率の低さでは最右翼
まあ、空手形しか用意できないような人の調略に応じる人は少ないしな
それでも大きな成功が何件かはあった、武田とか。 >>954
成功したのが目立ってるだけだろ
失敗したのは表に出るとも限らんし
それに調略は伝手作りや揺さぶりなど多要素があるからどこまでを成功と見るかで話は変わる 竹中半兵衛のように好条件で信長から岐阜城を明け渡す言われたのに実行しなかった話もあるしな。 毛利元就ですら
大友側の武将を調略しようとして
その武将に手紙の中身をバラされたほどだしな >>958
単に、城取りは成功したけど応援が来るまで持ちこたえられなかったから明け渡して退去しただけなんじゃないかと、オレは疑ってるけどね 昔の人って他人から受け取った手紙を、襖や障子、屏風の補修用として再利用してるんだよね
旧宅解体するときよく発見されるのよ、佐竹家臣も政宗から調略の手紙再利用してた話あった そういった再利用は、不要になった手紙に限定だよ
不要にならない手紙は大切に保管するから、そういう場所で見つかる
紙は高価だったから、不要になれば手紙でも契約書でもなんでも再利用するんだよね >>962
不要にならない手紙はどこに保管するの? >>962
で、それで内容がバレて
相手側に攻められたり
後に信長・秀吉・幕府に改易された例は? 敵対者が近隣に生きているってだけの理由で攻め込もうとしないように、
調略の手紙を送った程度で攻め込んだりはしないだろ、普通
調略交渉を仕掛けるなんて、呼吸するのと大差ないぐらいの当たり前の行為だと思う 敵対勢力と書状のやりとりをしたことが主君にバレて、主君から謀反を疑われて消された武将いなかったっけ
名前は思い出せないけど 信長に突然に反旗をひるがえしたやつらの動機がそこにあってもおかしくはない、ような雰囲気はある
荒木の謀反の理由はそれ、という俗説すらある 離間の計なんて古来からあるし近世大名ならともかく、戦国大名が証拠もなく家臣を罰していたら
それこそ家臣達に自身から離反する正当な理由を与えてしまう事になるがな。 証拠ってなんなの?
敵とやりとりした書状が見つかれば、家臣を罰することもできるだろう
でも、そんなもの必ず見つかるわけでもないし、何が決め手になるのかいまいち分からん
家臣からの讒言? 現代と違って物的証拠なんて簡単に押さえられないから基本的には間者を現行犯か徹底的に容疑者を調べ上げるしかなかったろうな だから、謀反を疑ったときには釈明に出向くように呼び出しをかけたんじゃね?
お前、さては謀反をたくらんでるんじゃなかろうな、無実なら釈明に来いって
後醍醐天皇が、関東にいた頃の足利尊氏を呼び出したみたいに。
信長が荒木村重を呼び出したみたいに。
どちらの場合も、それに応じて出向いたら殺されると思って応じなかったわけだがな 逆に賽を投げたシーザーのごとく
主君の呼び出しに完全武装でお礼参りに行ったのは?
本能寺・大寧寺除いて 武田って侵略した駿河・武蔵・信濃で略奪の伝承が残るのな >>976
むしろ人狩り乱取り放火をしなかった戦国大名がいたのかと問う方が早い。 人狩り略奪が恒常だった時代において、それでも語り継がれるほど度が外れていたとも言える >>978
語り継がれ…た、には相違無いんだ…が。
武田の場合は『甲陽軍鑑』で
「信玄公は他国での略奪誘拐で甲斐國を裕福にしてくれたから名君ですッ(明快)。」
と正々堂々アッケラカンと誇ってるからなあ。
まあ、全国的にそういう価値観だったわけだ。
果たして戦国大名は揃いも揃って「天下統一」を狙ってたのだろうか?!
それとも「くるい咲き: 越前狂乱」の
「尾張を治める男が、この北陸になんの用がある?」と言われる様に
「織田信長がしようとした事」自体理解出来なかったのだろうか? 邪魔なやつは殺したいし周りより偉くなりたいと思ってたやつはいると思うけど天下を狙って動いてた人はいないと思うの🥺 >>982
義昭を京都から追放せざるを得なくなったあたりで将来の展望を考えるなかで天下統一を意識せざるを得なくなった、ぐらいの感じなんかな?
それまでの時期の信長は京都を押さえることを天下と思ってた時期の可能性? と言うか長慶や信長は
なんで「お飾りになりたくない」感満々だった義輝・義昭兄弟を
将軍にしたんだろ
義栄ですら遅すぎたぐらいだし
むしろぎりぎり「尊氏直系の末裔」といえる無名の存在を
当初から立てるべきだったろ それをやったら収拾がつかなくなる。
戦国時代まで時代が下がると尊氏の子孫だけで何百人となってるだろうし >>982
織田権力体が列島統一政権を意識したのは織田信長の最晩年も最晩年、甲斐武田を殲滅してからではないか。
それまでの「敵対者は全て蹂躙」路線から「惣無事」モドキの統治システムに大転換した関東仕置にその兆候が幽かに窺える。
関東の自然環境や当時の気候状況下では濃尾や畿内の統治システムが機能しないと踏んだのではないか。
あの時点で織田が関東の先に在る奥羽や遥か背後の九州に如何なる構想を抱いていたかなど知る術も無いが、
関東をそれに先立つプロトタイプと位置付けていた可能性は想定し得るだろう。
織田が好き好んで少なからずも惣無事系に方針を転換した訳でもないからな
北条筆頭に土下座外交に舵を切ってるから判断つきかねる状況だったとは思う
織田家の性格上だと北条家も大身のまま据え置きとか考えにくいかな >>989
織田の傘下に入ってた頃の北条は、武田上杉と関東東部諸侯の挟撃で領土を削られまくって、根拠である伊豆や相模以外では、武蔵すら半減、それ以外はほとんど失陥で大幅縮小してた時代だろ
あんまり大身って感じはしない、むしろ徳川の方が大きくなりつつあった頃では? >>990
いやまぁ北条も最大版図で話する気はないが100万石もあれば充分な大身と思ったからさ
信長は宇喜多の臣従の件でも仕方なし感があったみたいやし臣従は大歓迎って話でもなさそうに読んでたからね >>991
そこまでの大きさじゃなかったと思うけど
伊豆や相模は石高が小さいし、当時は武蔵をも大幅に失ってる状態なんだから、100万石を切ってたと思う ドラえもんのもしもボックスでは無いが、
・月曜の午前中にちゃんと起きて
・都県庁の担当課行くだけで「合法で」
・橋本環奈ほか好きな美少女を嫁~養女にした上で、
・孫正義の全財産を受取り、
・好きな役職に就ける
・どっかの書記長みたいな権限あっても
行きません何てヒキニートでも言わないだろう?
程良い労力では、大した立場になれないからと言って
成りたいと思ってないワケじゃ無いぞ <`ヘ´> 最近の研究で信長の天下布武は近畿圏統一じゃなかったっけ?権力ない足利将軍より天皇の勅命が効果デカいよね 信長の天下布武は始め畿内支配ぐらいの意味だったが後年は全国支配の意味合いにはなってる 天下布武=(五畿内に)室町幕府を復興させる
だから上洛した時点で天下布武は達成された 天皇って腐ってもどの時代でも天皇なのはある意味凄い このスレッドは1000を超えました。
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