豊臣恩顧大名や武将について考察するその3
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短命に終わった豊臣公儀。豊臣を支えられなかった豊臣家武将についてのスレです。 秀頼が西軍を討つよう命じていればもしかしたら豊臣恩顧の連中は秀頼に恩を感じたかもしれんが 何かのスレで秀吉恩顧の武将についての記録があったけど
秀次事件で連座・関ヶ原で討死・病死のどれかってパターンが多かったなぁ 秀吉って家臣を可愛がったり大事にしたり主従の絆的なエピソードを聞いたことない
創作の逸話でもそういうの見聞きしたことないしそういうイメージがそもそもないな >>5
一柳直末を失ったときの秀吉の落胆・消沈ぶりは、秀吉の小姓が証言している 秀吉は成り上がりだったから同僚イコールライバルだったからね仕方ないね
死んだ家臣だけが良い家臣だったんだろう スレ終わりかけた時だけ来て言いたいこと連投しまくって言い逃げ画策する荒らしもいるね 加藤清正は豊臣を徳川の下にいれるべく苦心してたと片桐家秘話にあるらしいが清正の言う事を豊臣は聞いたかな >>997
本多の名前は知ってるよ。けどそいつの著書なんて普通は読まんよ
誰からもろくに引用されていないものだしな
静岡のおさっしの家康信者で偏っているとその筋では有名だからねあの人
だから論文名は何と聞いている。 925 人間七七四年 sage 2022/04/27(水) 18:47:13.18 ID:r4rKOlme
豊臣恩顧の話になっても徳川に戻るだけだから次があるならスレタイ変えればいい
もうそういう人達が集まってる場所だから >>998
知ってるけどそれが何か?
というか徳川と毛利が相談すれば何事も問題はない、秀吉は秀頼の成人は見届けられないというのが、
家康と秀吉の相談の内容で国家構想だったとか思ってるの?w >>13
スレタイは「関ヶ原を起こしたのは三成、
家康は悪くない」の方が良かったかも 散々言われたように定義のコンセンサスも得ないまま安易に新スレを立てたって、
各自が勝手に「ぼくのかんがえたさいつよのとよとみおんこ」を垂れ流すだけで議論の土俵さえ成立しないアスペルガー隔離病棟になるだけだな。 加藤清正は家康暗殺計画に一枚噛んでいてそれでか上洛禁止命令が出てたけどあの時代かなり混沌としてる気がする >>5
逸話や創作の話なら半兵衛や蜂須賀とかはいて捨てるほどあると思うけど何も知らないの?
俺も創作だと思っているけど、それすら知らないのはちょっとどうかと思うが
実際の話なら津田の話とかかね。信長に切腹命令出されたが秀吉は庇って拒否している
黒田の息子にしてもあれ秀吉のところに預けられていた人質で半兵衛は途中で死んでいるから秀吉が感知していないわけがない
他にも怪我をした部下への見舞の手紙なども現存しているね
基本的に親分肌で子分は守るが、部下の行動を箸の上げ下げまで注意する細かい人間
命令に背いて失敗したら烈火のごとく怒鳴ったとある。 >>12
引用されてないとか思ってるんだーどの筋だか知らないけど随分とカルト的な筋を基準にしてんだね、しかもこっちが散々尋ねてるのに自分の基にした研究は持ってこないんだー
ciniiでしらべろや、こっちもいくらか論文見てどんなだったか覚えてないがな、テメーの根拠不足棚に上げたまましょうもない感想とこっちの要求無視してんじゃねーよ、こすいなぁ >>14
少なくとも昨日俺は書き下しと一緒に自分がどういう根拠でそう認識しているか伝えたのにわざわざそれを歪曲して認識してますって伝えるの、こっちからしたらあのレベルの話も理解ができないバカだったんだって認識にしかならないけど大丈夫?煽り方間違えてない?
お前からろくに書き下しの文も張ってこないし、他人の主張捻じ曲げるし、ついでに書状の内容も歪曲してるんじゃね?ちゃんと引用したい箇所書いて主張してみ >>19
つまり口から出まかせを言ったわけか
まあそりゃそうだよな。
浅野家の遺言から毛利家の遺言で明らかに合議制へと移行しているのに、
それを把握していない奴なんて今時いるわけがねーもん >>21
さすが、自分が元にした研究者の名前すら出せないほどでまかせ言ってる人間さんは著者名出してる人間をでまかせ扱いできると思える合理的な考え()をしてる方はちがうなー >>20
俺はそのまま原文を張っている。
家康と被迎合候子細をハ殿様へ
なんならこの後も引用しようか?
被成御物語之由候と続く
子細は殿様へとあるように、詳細はここではふれられてねーんだよ。
要約している野村玄も詳細は残念ながらその内容は記されていないとしている。
なのにお前はそのあとに書かれていることを家康と秀吉が相談した国家構想だとか言い出すから失笑ものなんだよなあw
ああ、お前じゃなくて本多だっけ?w >>22
ならさっさと本多の名前じゃなくて書名か論文名あげたら?w
存在しているんだろw >>24
やっと書き下し出したと思ったら俺がこないだ書いた書き下しそのまま出してくるのか、だっさ
仔細は殿様へとされてるがこの宛先に対してその仔細の内容を以下に書いたとした方がつながりとして自然だわな
また毛利がそれだけの権限があったなら官位が席次含めりゃ秀忠以下とされてるのもおかしけりゃ別家創設を毛利領から割り振るよう遺言されてそれを反故にしてるのも充分おかしな話なんだが君の合理的な考え()はそれを都合よく無視できる訳だと
じゃあとりあえず定本徳川家康でも読んでみ というかそれが国家構想だと仮定したとしても
東西を輝元家康、北国を利家、五畿内を奉行に任せればと言っている時点でどうみても分権型だろうに
どうしてこれで家康に任せたになるのかねえ?
まだパシオの奴とかならわかるが。
まああれば秀頼を国王、奉行に家康を目上として敬うこととしてて、
ちょっと表現が異なり、家康に任せたというよりは、老中首座についたようなもんなんだがね >>26
政策決定を秀吉家康で相談して決めるという形だったため他大老らと違って政策決定の権利があるって話だね 毛利への西国での権限拡大は
秀吉が耄碌して言ってしまったか
秀吉の耄碌につけ込んだかだと思ってる
もちろん史料的裏付けはないよ
でもあまりに突然の方針転換とその内容で
そりゃ混乱しますわな、大乱にも繋がるわなと >>25
俺は前スレの998ですでに書いているが?
要約なら何度もそれ以前に書いている。
以下に書いているというのはお前の個人的な解釈だろ?そもそもそんな内容ではない
家康と輝元が相談すれば何事も問題なく、秀頼が成人するまでは秀吉は生きられないが、みなが協力すれば王位が廃れることはない、
半島からはいったん引くが、秀頼が成人したら再征伐をしてもよいという内容だぞ?
子細は殿様へとあるのに、子細を書いてあるなら、殿様へなど書かれないだろうがどういう頭してんだよお前は
秀忠は権中納言、輝元と同じ、同じ地位なのは秀忠と利長の二人は家康利家が高齢の為、
二人が早期に病で政務がとれなくなったりや死去した場合、地位を世襲することが事前決められていたから。
利長もこの前の浅野家の遺言のほうで中納言任官が言い渡されている。
別家創設を輝元が反故にした?輝元はというか石田が秀元の家設立はして、輝元はそれを認めている
石田失脚後に家康がむしろ秀吉の遺言破って、秀元に周防長門与えたりしてるんだよ >>27
その前に輝元と秀吉も相談してて、それを家康に言い渡してるんだよ。
こっちは子細ハ殿様ではなくて、子細の説明としてきちんとかかれている。
当主は輝元の子供に譲り、養子の秀元は別家
その領地は石見出雲とすること、銀山も分割相続となっている。
明らかに原文が違うのに、子細の説明はこうだとか言っている時点で笑えるのだがw
ついでにいうと、実はこの石見出雲は吉川領で吉川には小早川の隠居地を与えることになっていたのだが、
領地が減る吉川は反対、輝元は吉川信用していないから領地を減らすだけじゃなくて、そもそも要地におくのに反対で
これを石田が強引に遺言に近い形で押し通した。秀元の領地が石見出雲ではなくて、出雲伯耆になってるから領地は同じだが、
毛利家の端になっているのが違い 「秀吉の遺言」が各大名家に伝わってるけどこれが秀吉の権威を借りたのかマジで言い残してたのかはわからないんだよな。上杉景勝なんて秀吉の遺言を盾に上洛を拒んでるけど秀吉がそんなこと言い遺したとすると合議制はやっぱり秀吉の意思じゃ無かったということに… >>30
殿様へ書かれた内容を以下に記すつってんだよ
席次って字も読めんのかお前は、まさか席次と官位の区別もつけないまま喋ってるのか
ああ二奉行だけで秀吉遺言を反故にした設立をしたやつな、これ合議で定めたなんてのもないし余計に合議である可能性うすいわな >>28
西国を輝元に任せてきたとあるから、西国之儀被任置之由候
いきなりではないのだがね。
ま、秀吉存命中の輝元の権限など取次程度だろうが。
それをいえば家康利家をはじめ大老奉行も同じになる
秀吉が死ぬので、その権限を大老や奉行に譲ったといったところだろう、
秀吉が死にそうで判断力が下がっているので唆した説もないわけじゃないが、
それだとしても遺言が変更されて分権型になったというのには同意してもらえると思うが
遺言もないのに奉行が実権握って家康利家に合議制を飲ませたってほうがありえんだろう >>33
だからどこにいかに記すなんて書かれてるんだよ。
その前の家康へのところは家康へではなくて、備中高松うんうんとつながってるだろうが、
明らかに異なるのに、なんで以下に記すになってんだよw馬鹿かお前は
席次は官位が同じなら任官順になるからだが?お前知らなかったの?
輝元は家康よりも秀吉に従属したのが遅く、上洛も遅かった。小田原の時は秀忠は秀吉の人質になっているから
任官は輝元よりも早いんだよ >>35
つながらんだろ、ちゃんと書状の書き下しを該当箇所はしょってないで繋がるところまで出してしゃべりな
またそうだな、その上で中納言の後継すら据えられて内大臣となってる家康と、後継も定められてない中納言の輝元とで輝元の扱いの軽さもわかるだろ、合理的なーとか当たり前ーとかしょうもない主観で語るよりな >>15
盗将大権現は悪くない、に一票
主君殺ししでかしてるのに、こうやって無理筋で弁護して貰えるのだからどんな手を使おうが
勝てばよいもある意味正しいのな 奈良大の元学長がやった聚楽第調査で作りかけの壕の痕跡が発見されて
城郭研究の視点からだと秀吉不在中の京で城塞化狙うのは完全に謀反だそうな >>37
無理筋どころか資料の捏造に研究者名も出さないで批判から逃げ出して内容以前のことであらしてるやつが言うの、ギャグとしかとれないけどな >>28
唐突に言い出したってわけではないな
少なくとも秀次事件の直後には既に東は家康、西は輝元と隆景に任せると言ってる
文禄4年7月徳川家康・毛利輝元・小早川隆景連署起請文前書案
「坂東法度置目公事篇、順路憲法之上をもつて、家康可申付候、
坂西之儀者、輝元并隆景可申付候事、」
文禄4年8月3日付児玉元次宛毛利輝元書状
「昨日御城へ参候而神文とも仕候、東ハ家康、西ハ我々へまかせ被置之由候、
面目此事候、大慶不可過之候、」 隆景込みだった上で扱われてたのが隆景いなくなってその後権限の上昇といったものが見られないのよな輝元 庄内の乱とか宇喜多騒動なんかで輝元なんかしらの仕事してたっけ 毛利家、家格の上昇も血縁による増強も計られてないあたり、頼られてたのは隆景で輝元は精々オマケよな
その小早川家も金吾が入って家臣団が一掃される形で完全に毛利と関係のない別家になるし
西国のこと任せるでと言われてる割りにそれに見合う箔付けがなされてないし西国に対して毛利が何か仕事をしようとした痕跡もない、リップサービスじゃねと言われるのもそこらへんよな >>43
取次 (豊臣政権)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%96%E6%AC%A1_(%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9)
> ・1587年(天正15年)に比定される6月文書では毛利輝元が備中の代わりに豊前・筑前・筑後・
> 肥後の四カ国を与えられて九州取次となる構想が秀吉から示されたが実現せず、
> 小早川隆景が伊予から筑前に転封されるに留まった。
> ただし、関ヶ原の戦い前後の毛利輝元の書状表記を検討した研究によれば、合戦後の輝元と
> 徳川家康の関係は戦争の勝者と敗者という関係にすぎず、豊臣政権下での優位性を
> 獲得したのは家康の側だったものの、輝元自身は、家康の権力を「公儀」と位置づけたのでも、
> 徳川家とのあいだに主従関係を取り結んだのでもないという意識のうえに立っていた。
> 慶長8年(1603年)の家康の将軍任官によって武家社会の秩序は徳川家を中心にかたちづくられたか
> にみえるが、実際には豊臣家を中心に展開される秩序がまだ残存しており、輝元は本多正信らは
> 単なる徳川家臣にすぎないとの見方に立った。こうした豊臣家を軸とする秩序が名実ともに
> 失われたのは慶長20年(1615年)の大坂の陣の終戦後のことである
> {毛利輝元が徳川家臣に敬称を付したのは、徳川秀忠が領知充行状を発給しはじめた
> 元和3年(1617年)がはじめてであった。} 輝元と上杉景勝は秀吉からは大大名の当主としてしか評価されてないっぽい
毛利家と上杉家が大事で個人の評価は高くない >>44
毛利家が秀吉に臣従したのは賤ヶ岳の戦いのあとだし中国の大大名としてのプライドと中央政権との駆け引きだろう むしろそれを許した徳川の鷹揚さか
家光が言ってたといわれる朋輩扱いかな 主家の権威、影響、主家との関係性を如何に克服するかが下剋上の最終段階だからねえ
秀吉は朝廷の官位を利用して織田を家臣に取り込むことに成功した。家康は結局主家を取り込むことが出来ず戦争で根絶やしにすることで克服することしか出来なかった >>42
一枚噛んでてもおかしくないけど基本徳川家康がやってたな
特に庄内の乱で送り込まれた寺沢広高はこの時徳川派に転向したって話もあるし 輝元って家康を「父のように」思うと起請文出してなかったっけ。家康は輝元を「兄弟のように」思うとしてるから輝元が家康の下についたことになるってやつ。それを反故にされたのにまた輝元を許してやったとしたら家康もかなり優しい奴じゃの。 佐野道可の事件で幕府側から関与なしとされてるのにより厳しい内部粛清して幕府への異心なしをアピールしまくってるし毛利の単なる意地かな >>42
何もしてないと思われる
庄内の乱の時は慶長4年7月の輝元宛の島津義弘と思われる書状(差出人不明)で、度々の使札ありがとうございます
とお礼言われてるからやり取りがあったのは間違いないが、具体的に輝元が何かした形跡は見られない
宇喜多騒動でも輝元が何か動いたってのは聞いたことないな 他家、それも取次なしの自治権をもつ大老の家に、近所でありかつて裏切られた
因縁もあるの毛利家が、公儀からの依頼もないのに動かないのは
むしろ当たり前じゃないか?
一番つながりが深い前田家が利家のこともあってほとんど動いていないのに
頼まれてもいない輝元がご近所の家に勝手に手を突っ込んで騒ぎを納められなければ、
「隣国の力を弱めるためにわざと朝廷に失敗した」とか「裏切者への仕返しした」とか
「黒幕は毛利家」などと噂を立てられ疑われかねない
家康と大谷吉継が動いたのは、奉行たちの依頼があったからだろう 元々は秀吉死後の豊臣政権を家康(と利家)主導とみるか合議制とみるかの話で
合議制を主張する人が西国は毛利が任されていた分権的体制だというから
西国の問題で毛利は何か仕事してたの?って話でしょ
結局仕事はしてない公儀から仕事の依頼もされてないってことなら
毛利は役立たずと公儀から思われてたということになるね
まあ庄内の乱とか宇喜多騒動みたいな雑事は
天下の毛利家の手を煩わすまでもないって見方もできないことはないけど 改めて内府違いの条々を見たけど、やっぱりおかしいな
もし西国における毛利の優位性が太閤遺言で確定してるなら(家康がそれを奪ったのなら)
内府違いの条々にそれが記されていないのはおかしいだろう
この文書自体は、西軍の自己正当化のための文書に過ぎないだろうが、それなら尚のこと
そのことを強く非難していないとおかしい
そもそも西軍の総大将は毛利なのだから、もし家康が毛利の豊臣政権における役割を
不当に奪ったというのなら、毛利がそれを強くアピールしないはずがない
それなら『豊臣政権に認められた毛利の権益を不当に奪い取った家康に、輝元が
憤激して立ち上がった』という形になるから挙兵に余程正当性が生まれただろう
まあこの文書を書いたのは奉行だろうから、奉行が戦後の毛利の権勢の拡大を嫌って
敢えてその辺をぼかしておいた可能性自体は否定できないが、そうなると今度は
奉行側が太閤遺言を都合良く無視して無かったことにした訳だから
家康に対する批判自体が「どの口が言うか!」という話になってしまう >>57
「家康主導 vs 合議制」というのは違うんじゃないか
それは対立する概念じゃないから、共存だってできる
五奉行がそれぞれ担当分野において下役の奉行と協議、あるいは必要に応じて
同僚の五奉行と協議して、重大な案件についてその決裁を大老たちに仰ぎ、
最終的には家康が主導して承認・却下するなら、合議だけど家康主導とも言えるだろ
トップは一から十まで動くわけじゃない
下から上がってきたものに対して、役員会で自らの意見を加えつつOK・NGを出す
秀頼が創業家で大株主であり、形だけの代表取締役会長
家康が代表取締役社長、利家が代表取締役専務、
他の大老が代表権のない常務や平取、
奉行たちが取締役ではない実務担当部門の部長・課長たちだ
そして部長たちは役員会には議案をかけ、家康主導だけど合議制で役員会が行われる
家康はしばらくはその姿勢を保ったが、関ケ原直前にワンマン社長化で会社を
創業家から乗っ取ったってだけでしょ
逆に、「合議制なら分権体制」という主張はおかしい
分権、すなわち担当分野において独裁権を認められているのなら、他の大老と
話をする必要がないので合議制じゃない 信長も秀吉も家康もやってることは一緒
主の権威を利用して自身の与党を増やし力をつける
↓
それに危機感を抱いた他の家中の実力者を排除して独裁色を強める
↓
最終的に主も実力で排除する
↓
朝廷の権威を利用して正当化する 朝廷という超越的な権威がないと相手を三族皆殺しにしなければ終わらない
足利と織田は朝廷の権威に服したから家康も日本の伝統に則って豊臣家が服するのを待ったが
さすが秀吉の頃から朝廷を蔑ろにする家風なだけに頑迷にも朝廷の権威に服することを拒否し
結局一族滅ぼされてしまったわけだ 朝廷は秀吉の事嫌ってたからなぁ。だから豊臣を潰したくて潰したくて色々暗躍してた。しかもそれを防げるのは徳川家康しか居なくてその家康も三成らとの政争で動けなくなればもうおしまいよ。 全ては豊臣家を秀頼たった1人にし他は他人ばかりにした秀吉の責任よ
同じ幼君でも4代家綱のときの徳川松平一族と譜代家臣団の充実ぶりは日本史上最強クラス
家臣団も子飼いや恩顧などという付け焼き刃ではなく先祖から代々仕えて
天然自然に松平徳川家と運命共同体が染み込んでいる譜代から輩出している
酒井忠勝松平信綱阿部忠秋の3人だけ見ても能力といい主家と政権への貢献といい
俺が俺がの政治的野心ばかりで結局主家を滅ぼした三成などは足元にも及ばない >>64
スレタイが豊臣恩顧なだけで実際は徳川礼賛スレだから 輝元って秀吉存命時から実際に取次とかしてるのあったっけ?構想ではなく 持ち上げがおかしいと思うなら
具体的な史料で覆してもいいんやで
それができないならその持ち上げが妥当
ってだけの話であって
>>56
宇喜多騒動については動きにくい理由あるかもね
ただ庄内については疑問
いずれにせよ西国のことは任されてたというには
具体的に毛利の責任で仕置きをしてたという
形跡がないということになってしまうね
>>58
なるほど確かにね
本来毛利が仕置きを担当すべき
宇喜多騒動や庄内の乱を独断で片づけた
という非難はなかったのは事実か 徳信はその持ち上げてる史料が妥当だと思ってんのか気持ち悪いな すごいな、信ぴょう性高いとされてる資料にすらケチつけるのか、それがまともな判断だと思ってるとしたら徳信とか言い出す人の判断能力が低すぎる
資料すらない思い込みにホントに妥当性やら客観性が担保されると思ってその書き込みしたんだろ、さすがにネタで言ってると思いたいが 北国任されてた前田とかも北陸の諸大名に取次したり、朱印状の発行したとかも聞かないよね 豊臣恩顧というほど強固な繋がりをもった家臣団が豊臣家には存在しないっていうことになるが
秀吉の代だと語れないが秀頼の代ならなんとかなるかと思ったら内政面で徳川の助けを借りる始末 恩顧自体がそもそも譜代ほど繋がりとして強くも長くもないのをなんとか言い表す為の言葉だしね 地味に徳川家康が優れてたってのもあるかもしれん。家康ってクソ面倒くさい三河武士と長年つきあっていたからなのかやたらと利害関係の調整、「あちらが立てばこちらが立たず」みたいな事案で両方立たせてみせた、みたいな逸話が多い。実際三成が殺されかけた時も見事事態を収拾してる。だからトラブルが起きれば誰もが「内府の裁定なら受ける」「内府の話を聞きたい」となってしまう。そうなりゃ輝元とかが秀吉から個人的に何言われてようが無意味よ。しかも家康は政権ナンバーワンで越権とかでも無いし。 「豊臣政権下で加増・昇進した大名や武将について考察する」スレにすればいい 西国の諸大名が輝元に裁定を仰ぐそぶりすら資料上見られないしね 上杉なんかもともと関東管領の家柄で
越後に根を張っていたのに
会津に飛ばされたんだから
恩顧なのか何なのか それで引継ぎでグダった挙句それが関ヶ原の呼び水になったってのが面白過ぎる 「毛利輝元が西国担当」は、豊臣政権運営における年寄の話と、
遠国大名に対する取次の話を混同しているだけでは?
亡き小早川隆景や、安国寺恵瓊・小早川秀包・吉川広家を含めたALL毛利家は
一部の西国大名に対する取次だったけど、
豊臣政権の大老-奉行制は家康と三成が主導の合議制
家康・輝元の両頭体制じゃないと思う 家康はともかく三成てそんなか?
三成を特に他の奉行より上席とするような
なんらかの理由であるだろか?
後世関ヶ原の首謀者とされた以外に
それだけならじゃあ小西行長や安国寺恵瓊も
じゃあそんな大物だったのか?となる >>76
漢の高祖の粛清は正しいのかもな、理由なんて後でつければよかったんで
取り敢えず一人殺しとけば大分違うって人物いるからさ >>86
それやって秀次を殺して、あのざま
ということを言いたいのか 三成は一応秀吉配下だとかなりの大役担ってるしまぁ…ね 朝鮮役での外交の任は確かに目立つけど
それだとそれこそ5奉行にもなってない
小西なんかは下手すると上になるか
次期攻勢で大将予定の話でも
増田長盛福島正則と連名になってるし ttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE027QF0S2A500C2000000/
写しの話は出てたかな?原本見つかったと 片桐家秘話によると片桐且元が主張した秀頼の江戸在勤若しくは参勤は元々加藤清正のアイデアだったらしい。岡目八目とやらで当事者でない者達は「秀頼は徳川に降らないとマズい」と思っていたのだろうか。 家康は秀吉が死ぬ少し前からもう勝手な行動してるとか
家康は秀吉の死ぬ一月前の時点で系図制作に取り掛かってて
秀吉からもらってた豊臣から源氏への改姓を企んでたり
秀吉死後三ヶ月後に家康はフランシスコ会の宣教師と面会して
その時に新しい国王を称してたと報告されてるんだけど
イエズス会の方では秀吉存命中からスペインと接触してたという報告書がある 上洛してすぐの段階で秀吉から源姓もらって平姓の織田信雄と一緒に秀吉が朝廷へ挨拶してるしで、報告としても誤ったまるで信用のおけない報告だね
まあ宣教師の報告なんて、一部の人物除いてそういうものではあるのだけれど 死ぬ一月前からだから、秀吉からの遺言を受けて政権の後継としての準備整えてるって話では
老衰で当主から遺言を言い渡される状況の中、海外の使節に顔を覚えておいてもらうといった後釜につくための準備を他大老とか奉行はしていないのか? 家康は外国の事すらも把握して活動しなければならなかったからね。朝鮮からの撤退は確定事項だが問題は負け方で日本軍が敗走するわけにはいかない。そうしないと明・朝鮮の日本侵攻すら有り得るという最悪の事態だった。また日本の動きをキリスト教国も注視してる。秀吉に喧嘩売られた彼等が黙っている確証は無い。その為には公儀を揺るがせる訳にはいかなかった。それでスムーズな権力移行を演じる必要があった。 小西行長が重用された理由がわからん
商売の関係からか貴重な水軍に顔が利いたってことなんだろうが 父の小西隆佐は播磨入りする以前からの付き合いで
朝鮮と付き合いがあったというからそこら辺からじゃないか
南蛮にも顔が利いたというのもあるだろうが >>100
そうすると知米派の山本五十六が真珠湾やむなくやったようなもんか
その後の経緯は小西とは違うけども 秀吉がやるとなったらやらざるを得ない政権だから
少々の軌道修正はできても大きく変えようとしたら改易か切腹 ちょっと話の流れとは違う気がするけど昔読んだ本(中野等の「文禄慶長の役」だったか)によると、
秀吉が小西行長を外交担当にしたのは行長が対馬の宗氏と縁戚だったから。それで侵攻において窓口にさせようとしてた。ところが宗氏は朝鮮との貿易とかで食ってたから朝鮮侵攻には反対で故に行長も反対だった。それで「朝鮮が降伏した」という芝居で秀吉を騙そうとしたけど失敗した挙句戦争になった。
とか書いてあったな… 逆に秀吉死んで豊臣氏のままでいたら
豊臣氏の長者秀頼の地位が怪しくならんかね?
元々氏の長者秀頼より官位上な上
政権の実質的なトップとなっちゃうもの
あと死ぬ前から好き勝手というならば
小西と連んで大嘘で外交の経緯誤魔化してた
奉行の方がむしろ・・・とならんかね 豊臣政権はどうも表面上繕って秀吉の目さえ掻い潜れればOKみたいな節がつよいな、宇都宮改易の時もだし大坂城でも秀吉不在時は盗難頻発するし >>104
むしろ唐入りのために行長の娘を宗に嫁がせたって感じがする
宗義智は本来家督を継ぐ立場の生まれではなかったし、九州征伐直前に養父が現役復帰など
ゴタゴタしていたので >>99
単純に行長本人の才覚と父親の財力・人脈でしょ
行長は宇喜多直家に武士として取り立てられるぐらいに文武両道で才知に富んでいた若者だったし、
小西隆佐は兵站・運輸の奉行や蔵入り地の代官として有能だった 小西行長もかなり外交能力高かったのは確かだと思うんだけど首脳の不可能な要求に対して偽装で対処しようとしたりそれどころか一度失敗したのと同じ手段でごまかそうとしたりと人間的限界も垣間見えるんだよなぁ… >>59
その例えだと、秀頼は大株主兼社長
10人衆は全員取締り役で、当時に自分が社長の子会社の社長でもあるってところかな
そして五大老は全員が元々は別会社の社長だったので豊臣本社の株も大量に持ってると
そういう感じ
そして徳川副社長が、自分一人の印鑑で豊臣本社の財産を自派にばら撒いたり自分が
社長やってる徳川株式会社に財産移そうと「背任」したと
怒った他の取締役が、緊急株主総会ひらいて徳川副社長えを解任、同時に背任と横領容疑で
刑事告訴「内府違ひの条々」でしょうね
現代じゃないので、決着は戦ですが 家康が自分で云々の前に十人衆合議は既に崩壊してる。
前田利長・上杉景勝→本国に帰還。合議から脱落(徳川家康に完全委任)
石田三成→七将に襲撃され謹慎処分。合議から脱落。
浅野長政→家康暗殺計画に参加した疑いで隠居。脱落。
残ってるのは家康・輝元・秀家と奉行3人。しかも秀家も地元でごたついてるから参加出来ない。
奉行3人は家康に従ってるし輝元は家康を「親の様に」慕うと誓約してる。だから家康は五大老の内4人の票を握ってるに等しい。家康の内心を問わず家康が一人で差配しないと回らん。 株式会社の取締役の利益相反事件「背任容疑」は意外と現代でも
その昔破産したエンロン「資源を売る会社」の取締役が、同時に別会社の社長「資源を買う会社」
だった事件が有りますよ
エンロンの取締役としては当然の利害として「資源を高額で」売りたい
自分が社長やってる会社の利害としては当然「資源を格安で」買いたい
まあ何が起きたか分かるでしょ、なおエンロンはシロアリに喰われて破産 >>113
例え話は前提が間違ってるから話にならない
プーアノンとか反ワクとかと同じ 前提があってて初めて例え話は成立するってことも理解できてないみたいだしなあ
そして前提のあってるかどうかは資料や研究によって証明が為される訳だが、それをこいつは捏造と証明の放棄の繰り返しをしてる訳で
話し合いに必要な最低限の信頼も自分で捨てた挙げ句いまだに信頼回復のために必要なこともしないでまだ同じ事してる
同じ結論にしたい人間からしてもこんなのと同列にされたくないんでやりづらいし、どの方面からしても迷惑しかかけてないクズだよ そもそも家康って関ヶ原以前に自分に領土を与えたことって無くね? あぁごめん。そんなに難しい話をしたつもりじゃなかったんだが。利益相反って事は要は家康が豊臣の名で徳川に利益を与える事を言うじゃろ。そうでなけりゃ何が相反してるんだかわからん。ところが家康って関ヶ原以前に徳川領増やしてたっけ?ってこと。 >>117
「そもそも」は物事の根本や原因に言及する様子を表す客観的な表現で、特定の感情は暗示しません あ、このアホみたいな文法くん例の荒らしか。無視無視。 どこにそもそもがかかっているのか?ってことだろうよ
感情ってなんのことだ >>110
会社で言うとオーナーかもしれんが社長じゃないんよ
豊臣政権には彼より上の官位(階級役職)
が上だったり同等の大名がいるんだから
んでオーナーじゃない社長が
新しい会社を起こしたのが江戸幕府で
事業のほぼ全てを引き継いだ上に
元の会社の運営業務が回らなくなると
代わりにやってくれてた >>115
単に基本的な知識がないんだよ
だから全く的外れで無関係なことも
関係あると思い込んでしまう
知識もないと疑うことさえもできないからな そんな美化して語らなくていいし何回家康の話題に振り戻すんだ >>127
五大老五奉行制を明記した文書が無いんだよね
その漫画で言うところの誓詞に無い口上の命令はあったかもしれないが >>125
具体的にどこが美化?
秀頼が株主社長て部分?確かにそうではないな >>127
秀吉死んで終わりのクソマンガやんけ
三成をいいやつにしたから関ヶ原までの政治闘争書けなかったんだろうが
あと作者が漫画書くの辛いと言ってたから早く辞めたかったのもあるか >>127
イデオロギーに染まってない奴は、普通にそう解釈するとしかいえませんね
盗将大権現が一番危険な為、合議制の中に封じ込めようとしたと
しかし、何ていうか大権現様を甘く見てたとしか言えませんな
「何時から我を封印出来ると思ってた?我は大権現なるぞ!!!」 >>130
太閤死後の政治闘争漫画にするのって、現実的には難しい
山岡荘八みたいに、大権現伝説描き切った人もいるけど今やればSNSとかで批判されるの
目に見えてるし
仔細に描けば、ピカレスクな魅力満載の話になるんよなあ
ヒトラーの権力掌握の話は、ヒトラーが大悪人って前提あるから書けますが >>131
司馬遼太郎イデオロギーに染まった奴が言っても説得力ない
>>132
今どき司馬遼太郎イデオロギーで描いたほうがSNSで批判される 一番妄想イデオロギーに染まってるアホが抜かしとるわ、根拠も捏造するもんなー
自分で悪人として魅力的に見たいからどんなに根拠なくてもそうとしか見ませんって次に書いてるのにも気づけないとか、マジモンのバカだろ >>127
変なところで文を区切ってるな
翻刻は「以御本復之上慥得御諚」と御諚まで書かないと意味が分かりにくい
書き下しも微妙に間違ってるし
「上様長々御煩付而、御失念も在之様ニ御座候間」→御失念もこれある様に
まあ漫画だし野暮な突っ込みなのかもしれんが >>123
豊臣家から与えられた領土と地位なので事業を引き継いだではなくて、
ただの乗っ取りですけどね。
戦国時代なんだから別に悪いわけじゃない、とれらるほど弱いのが悪いのだから
けどそれだけの話なのになんで家康は悪くないとかいう奴がいるのかわからない。 関ヶ原後の知行宛行の話をもって遡ってその前から云々言ったり、関ヶ原というデカい事件による状況の変化も理解出来ないで混同させるやつがいるから余計にややこしい話になる 家康による無断加増って森忠政のことだろうけどこれは奉行衆が動いてるから家康の独断とは言えんってオチだし、それで忠政が家康に個人的な恩を感じたのならそれは家康の人徳としか言えん。 その理屈毎回聞くが家康の独裁で奉行が従う立場だったのなら不満があっても従うしかないだろ
とはいっても加増が周囲に不満を抱かえるものだった事が問題 周囲つってもあくまでクーデター起こしたやつらが自分たち悪くないんですーって自己正当化する手段としてしか主張してないからほんとに周囲が不満に思ってたかすら怪しいけどね、知行が決められた時に苦言を呈したとも聞かないしその裁定が西軍挙兵以前に評判の悪いものだったとも聞かない 自分の根拠のない屁理屈は無条件で通ると思うけど他人に似たような理屈使われた時は全部バカに出来ると思う程度の低さを見せびらかして何がしたいのお前?
ぼくのしゅちょうはこのぼくがいってるからカンペキなんです~ってやりたいだけ? これも同じ理屈だと思いますがね
いい悪い言っている人の程度の低さなんて気にする必要ないですが >>141
誰も悪いと言ってないのに1人でムキになってるのがいる感じ 自分も無根拠な憶測で屁理屈並べてるだけって自覚あったんだ
こんな理屈を本気で語ってるのかと困惑した 誰も良い悪いに拘らずに資料を根拠にして判断してることへ無根拠でケチつけてあいつらは家康を悪くないとか言ってるー、ってレッテルを貼ってるのがいるってのが正しいよな
いい悪いに拘ってるとしたらむしろそのレッテル貼ってる側だよな、俺は根拠ないけど中立的に見れてる筈ってやってるんだから
あとは家康が悪人のがピカレスクロマンがあるからつって根拠皆無の例え話で荒らす頭のイカれたのと >>128
それを言い出すと大老奉行ってのは後世につけられた用語になるからなあ
奉行は自らを奉行なんて呼ぶことはなく、年寄といい、家康ら大老を奉行と呼んでいた。
大老らはその逆
家康が勝ったので五奉行になったというだけで
西軍が勝利していたら、奉行が5年寄、5奉行制度になっていたんじゃないかな? そんな奉行とか大老って当時は書かれてないからっていう話ではなく
今奉行とか大老と称されてるやつらの役割に言及したものが秀吉存命時には存在してないって話だろ >>148
名称ではなくて行政機構としての五奉行五大老制が明記された文書が無いのよ
政務を家康、秀頼の守役としての利家、五奉行は家康利家に常に相談することとした遺言ならあるが
輝元、景勝、秀家は名前が上がっただけで役割は振られてない >>149
そりゃ豊臣政権にあったのは秀吉との取次役だからな。
彼らは秀吉から大名の管理と監視を仕事として割り振られていた。
対等だったんだよ
>>150
浅野家の遺言だけしか知らないのか?
毛利家のなどをみれば、輝元には西国、奉行は畿内の担当であったことがわかる
浅野家のほうでも奉行は法度に違反したものへの処罰の権限
算用つまり予算の権限があったことがわかる
当時の制度は属人であり、明確に分かれているわけではないが、ある程度は割り振られている 属人的だよーって話なら、浅野からの報告を家康が秀次に上げたり、以前原本が出たニュースがあった唐入り部隊の撤退を家康が指示したりで対等とは言い難いよな
そして結局そもそも輝元や利家が内藤周竹書状内で任されたとされるその地方に対して取りなしや取次を行った痕跡すらないって話は進んでたよね >>150
それを言い出せば五奉行連中は別に家康利家に相談なんかせずに物事決めて実行してるぞ。
毛利家秀元分与問題とか石田らがやっており、家康らの差配は受けていない。
家康が実権を握ったのは利家が死に、三成が襲撃されて失脚された後 奉行がというか毛利の分与問題に関わるのは石田と増田の2人だけで、実権どうこう以前にそもそもどの政治体制だったとしてもおかしな行動
家康らの差配どころか他3奉行も関わった痕跡もなく、勝手にやった可能性が高い 家康主導体制という意見に対しての合議制を主張する際に出てくるのが
ことごとく一部の奉行が独断行動をしてるものばかりで、家康を含めた
他大老や奉行と『実際に合議して』政権運営してる話が出てこないのは何故なんだろうな
大体合議制を主張するのなら、家康を無視して差配すること自体がもうおかしい
家康だって大老だぜ、合議制なら家康にもちゃんと話を通してないと変だろう
領国に帰国しているわけでもないのだし >>136
やはり基本的な経緯がわかってなかったのだね
確かに関東は秀吉に与えられたものだけど
与えられた時点で政権の領土である以前に
徳川の領土だよ
地位については征夷大将軍も内大臣も
当然ながら朝廷の与えるものだし
豊臣政権下で与えられた内大臣から
征夷大将軍に任じられて
新しい政権ができたんだよ >>136
まさかと思うが与えられた領土云々は
関ヶ原前後の諸大名への加増を言ってる??
だとしたら別に豊臣政権から徳川に
与えられた訳ではなくて正式に
豊臣政権から諸大名への加増だぞ
いくらなんでもそこまでわかってない訳じゃないよな? >>158
それ言うなら、曹操だって曹氏軍閥の家臣に後漢王朝からの恩賞だしてるしなあ
名目上の話じゃ無くて実質が如何かという事だ
名目が丞相だろうと、曹操が全部自分で決めてるなら誰も献帝からの恩賞とは思わん
そして、大権現様のやり方は露骨な悪意いれるもんwwwwwww
無法を通す事で「秀頼なんて飾りです」とね >>154
現実問題として、朝鮮の遠征軍が帰国した直後に家康動いてるからさ
秀頼を伏見城から大阪城に動かして、すぐさま私婚問題が起きてる訳
この辺が家康の恐ろしい所で、大老奉行の合議制の実積が出来ちゃまずいと思ったんだと
思う
一度合議制が機能してしまうと、家康の独裁体制作るの難しくなるから 豊臣政権が崩壊しようと合議制でなければいけない家康独裁は悪という思想なん? >>161
太閤遺言で、我の死後100日で秀頼を大阪に動かせってのがあり、その直後
つまり、未だ合議制で何かを決めたって実積が保々無い状況で行き成り三家私婚騒動
明らかに他の大老が憤激する話を正面からぶつけた訳でね
逆言うと、家康は合議制の実積が詰み上がるの恐れてる様にしか思えません
こういう事やる人に、野望以外の何を見ろと? 家康の立場だったら誰でも独裁を目指していたし
それが豊臣政権にとっても最善の策だったんだよ >>162
>家康は合議制の実積が詰み上がるの恐れてる様にしか思えません
結論ありきの陰謀論者の見方ですね
私婚騒動については前田徳川間での手打ちで終わってますので合議制など無いという証明にしかなりませんよ >>164
大名の婚姻は、実際には人質交換なんで勝手な事すれば他の大老怒るのは当然だぞ
そしてだ、大体家康がやったのは養女「重臣や一門の娘」を使う婚姻だしね
猶更徳川閥作る為の工作の意味合いが強くなる
そして相手が、蜂須賀、福島、伊達とかふざけすぎだろ
太閤生前にやったら、謀反準備容疑ですぐさま討伐軍が来るぞ、露骨すぎるから
これって「俺が全部決める文句あるなら弓矢で勝負」と宣言したも同じ
で、これ秀頼大阪に移動してひと月すらたってないんですよ >>165
この時点で豊臣政権運営を主導しているのは縁戚筆頭である徳川なんだから
豊臣政権と徳川はイコールで考えなきゃおかしいんだが
朝廷と伝手やコネを作る為に藤原氏の末端と縁戚関係になることを
朝廷に対する謀反だなんて表現する奴なんて聞いたことないぞ
徳川が豊臣政権を運営している以上、その徳川と縁戚になるというのは、
その大名家が豊臣政権に取り込まれることを意味すると考えるべき
そもそも秀吉死後の話に秀吉生前のなどと仮定しても意味がなかろう
あくまで家康は秀吉死後にやっていいことをやったにすぎないのだから >>159
曹操は死ぬまで漢王朝存続させたぞ
本邦の場合飾りの主君を戴いて
長く存続した政権もある
やはり基本的な認識がおかしい
私婚問題にしても秀頼の大阪入りで動いたのは
家康ではなく利家と奉行の方じゃん 私婚問題の本質はまさに>>165>>166が
端的に表しているな
当時は政治主体は個人より家単位なので
家康が政権を担う上で「徳川家」の重臣たちは
家康の代わりに動いたり諸大名と結びつく
それは絶対不可欠なんよ
それは当たり前のことだが同時に
元々政権トップの命令を受けて動いたり
諸大名との取次を果たしていた連中は
その役割を失うと言うことでもある
元々「太閤の奉行」として権勢を振るった者らが
それに反発して吊し上げるのもまた当然
秀次粛清もその流れよね >>168
私婚問題の本質はその後の制裁が一切無かったということじゃないかな
破断になったわけでも誰かが地位を追われたことでもない
三成たちが家康追い落としの材料に使えるのに一時的な揉め事扱いで終わってる
大問題と言う割にあっさり終わらせすぎ 徳川の婚姻問題はそこまで重要なものじゃない。そもそも御掟には「許可を取れ」とあるわけで許可を出す側の家は婚姻し放題ってわけ。だからこれは徳川の婚姻ではなく家康の婚姻つまり淀君との婚姻だったという説があるね。 追い落としに使えるのにってより
単純に使えるほどのネタじゃなかった
と言うべきじゃないかね
割と簡単に「明確な御掟違反」「公然と専横を始めて」
とか言われがちだけど散々言われた通りで
御掟については微妙だし弾劾もあっさりしてる 言経卿記によると数日の内に解決してるから後年にあるような大騒動とは考え難い。確か髙橋陽介だったかと思うがそれで「前田利家らが指摘したのは家康が秀吉から遺言されていた淀君との結婚を行わないこと」だったという説がでてきた。実際この後家康と淀君の結婚が取り沙汰されてるし。
対して笠谷和比古は後年の話から五奉行が家康を追い落とそうと御掟違反を理由に弾劾しようとするも無理筋過ぎて逆に家康に叱責されて五奉行が謝罪。それでも家康は許さなかったその姿勢を前田利家らが危惧したという説を提示してた。
確かに婚姻が御掟違反ならその責は徳川と相手方にもあるわけでそれが家康のみが誓紙を出して終わりな訳で家康が一方的に勝利したって可能性もある。 >>169
秀頼の傅役の前田利家と和解してるって事は、その時点で破談にしてるはず
そうしなければ武士の面子的にも、これでへ垂れたら「奴はこれで男か」になるので
それ以外で和解なら、対等では無くて前田が徳川に臣従したも同じ
なのに元に戻してるって事は、前田が死ぬまでの時間稼ぎよな 家康をどうにか肯定するスレは別に建てられたんでそっちでやってくれ >>178
貴方も、最低でも対等和陸で有る事は理解してますよね
これで家康の私婚が其の儘なら、家康の勝利で前田が降伏したのと同じ意味に成ります
家康が出した養女って具体的には、重臣の娘や一門の娘なんですよね
これって、意地悪くみるなら徳川の組下に組み込んだも同じですよ
こんな露骨な勢力拡大策認めるなら、大老何て無意味じゃないですか、誰も文句言えないし
これを許せないって咎めるなら、完全に水にしなければ和解は有り得ない 破談になったって史料を見たことがないけどあるんだろうか。それに利家からはこの後前田家の後見を頼まれる訳だしなぁ。 >>181
徳川が豊臣政権の政権運営を託されている以上は
豊臣政権と徳川はイコールで考えなきゃならないって言ってるだろ
朝廷の傘下に入って朝臣になる為に藤原氏と縁を作ろうとする事を
朝廷に対する謀反とでも言うのか、あなたは? 清正が細川家臣に送った書状にある通り
東軍諸将は西軍の細川改易もその城を接収しようとした軍事行動も
「秀頼様の御命令」と認識していた。
つまり当時の東軍諸将は西軍の行動は「公儀」で
「秀頼の意志」と認識した上で家康に付いてる >>181
それはあなたの個人的な見方だよ
家康が説明して利家が呑んで和解した
政権No.1とNo.2の間で話がついた
それらの婚姻は問題なかったと
ただそれだけの話
そもそも養女とか関係なく娘をもらえば
相手は義理の親だし正二位内大臣より
上の大名などと言うものは当時いない
あなたは徳川vs豊臣という目線でしか
観てないけど他の方も言ってるように
豊臣政権のトップは元より家康なのを
忘れはててる >>185
清正書状の訳を間違えている。
秀頼の命令だとは認識していない。 >>185
7月27日の松井、有吉宛清正書状のことかい?
それだと「越中殿御身上之儀、秀頼様より曲事に被思召之由にて」隣国衆が城を請けとれと「従奉行衆被申付候由」と読める
上方から得た情勢報告であって、しかもあくまで奉行衆がどう喧伝していたかしか表していないと思うけどね
別の文書(松井康之列書状案)だと、毛利、宇喜多、三奉行が派遣してきた木付城請取の使者に「(書状を)一通も不残なけ返し」、重ねて派遣してきたら討ち取ると言い返してる
これは8月28日付けだが、大友へ当郡を「奉行衆より進之」とあり、秀頼の名前は出てこない
公儀と奉行衆を認識してないと思うけどね 清正ははよ丹後に救援に行きな、木付城にはよかったら援軍を送るよとまで書いてる
後者の文書から、実際に木付城の兵糧不足を心配して200石用立てたりしていたことも分かる
秀頼が実際に細川を「曲事」としてやってることに楯突いているなら、清正は北政所にお尻ペンペンされるぞ 8月28日付松井康之・有吉立行宛て加藤清正書状
「其城之儀、大友方へ従、『秀頼様』被遣之由候て、差下之由候、上関辺迄被下候由、我等所へ申越候」
「その城のことは、『秀頼様』より大友義統へ与えたので、大友義統は上関辺りまで下ってきた、との報告があった」
西軍による細川方の杵築城接収と大友義統派兵を『秀頼様』の思し召しと認識している。 この書状から見えてくる一番の問題点は、上杉征伐の時と比べると、
諸侯の動きがあまりにも違い過ぎるという点だろう
上杉征伐の時は徳川の号令の下、全国の大名が関東に集結する動きを見せていたのに、
奉行側が徳川排除を号令した際は近場の近畿においてもはっきりと反抗したものがいる
私が奉行と大老が完全に同格の合議制という意見に賛同できない理由の一つに
この時の諸侯の動きがおかしいという点がある
もし完全に同格なのであれば、徳川の影響力が強い関東や東海はともかく、
それ以外、特に中国地方より西側は完全に西軍にそまってもおかしくないだろう
なにしろこの時点の西軍は一応は大坂城と秀頼を抑えている形なのだから
形式的には秀頼を抱えて諸将に指図している姿となる
にもかかわらず、全国の諸侯がはっきりと西軍に味方しないのは
徳川が豊臣政権を主導的に運営するという形を、反家康派はともかくそれ以外は
問題なく認めていたという事だろう(だから急になかったことにされても素直に従わない) 9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」
秀頼様が御幼少であることをいいことに云々と言ってるんだよなあ
清正も秀頼が独断で大友に杵築城を与えたとは思ってなかっただろう >>190
「我等所へ申越候」=「との報告があった」
報告の真偽や自分が信用してるかどうか
というのは明言してない表現でしょ
他意もなく報告を信じてる可能性も
ゼロだとは言わないけどだとしたら
こう言う書き方は微妙
ソースを明示して説得してるならともかく
むしろ逆な訳なので信用できないソース
として書いてると取られかねない表現
というかそういう意味で書いてるでしょコレ 七歳だからじゃないか。お飾り確定だから西軍が勝手に掲げていてもおかしくない。とはいえそれでもお飾りにされた奴の問題になるんだが 全然関係ないことを書いて無駄な知識自慢のつもりかな
恥ずかしい 清正の書状からすると秀頼の命令とは認識していたけどそれは既に従う道理のないものだとしていた。それは西軍が判断も出来ない秀頼の名前を使っているだけだから。
だとすると豊臣公儀この時点で終わってるようなもんだな。要は「秀頼は何も判断出来ない」って満天下に示したようなもの。家康と並ぶ事も出来んぞ。 >>200
結末を知っているからこその短絡的な考えの典型だな
そもそも公儀観がおかしい 秀頼が既にお飾りと認識されてたってのは割と重要な気がする。ある意味で既に家康>西軍首脳部>秀頼と見られていたとは。 >>203
すごいな、同じ史料読んでもこんな解釈できるのいるんだな
秀頼の権威を当然ながら両陣営とも無視できないとは読めても
お飾りもくそも、秀頼が責任能力持つまで家康、ないしは五大老五奉行がサポートしろっていうのが秀吉亡き後の公儀じゃないか
「奉行側が(ほぼ間違いなく)秀頼の意向を捏造している」という知見は考えられても、飛躍して秀頼お飾りだ大変だと騒ぐ意味が理解できない
根本的にずれてるよ 西軍はモロ「秀頼さまの命令」として活動してるのに東軍方は既にそれらは「秀頼は幼少だから」として無視してる(ないし軽視してる)。武家ってのは現実主義者じゃないと生きていけんから当たり前って言えば当たり前なんだが。つまりこの時点で東軍は家康>秀頼と認識しているんじゃろ?豊臣としてはかなり厄介な状況になった訳で地味に秀頼の器が試されていた事になる。家康に乗るか輝元に乗るかを選ばないといかんかった。 >>197
家継は5歳で既に将軍だったが
秀頼は関白でもなんでもなかった
この違いは滅茶苦茶大きい
もし生前の秀吉の強権で秀頼を関白にしておれば
歴史は変わったかも まぁそれは関白になんかなってしまった秀吉の致命的なエラーよ。関白は藤原氏の権力闘争によって格式が高められて秀吉にも変えられないところがあったからね。それで秀頼は朝廷の貴族どもにボコボコにされて潰された訳で。正直徳川家康が人間離れした聖人だったとしても秀頼を関白に出来なかったかもしれん… いつもの人か
妄想に妄想を付け足していくのもけっこうなんだが、根拠なり史料なり出してくださいね
あなたの私物じゃないんだから、ここ まあ西軍蜂起が軍事政権である豊臣公儀にかなりのダメージになったのは間違い無いだろうし
上位存在の朝廷の存在もあるから豊臣要らなくねと考えるのも出てくるだろうな このスレって隔離スレらしいのにそこでさらに隔離スレ立てられるって相当恥ずかしいよな
関ヶ原を起こしたのは三成、家康は何も悪くない
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1651981216/ もし秀頼>家康って武将がいたら西軍が秀頼を奉じてるって状況は気に掛かったろう。何しろ七歳ってのは完全に知能が無い訳じゃないんだし。もしかしたら本当に秀頼筆頭の豊臣が家康排除を決定したのかもしれない。そうなると豊臣にコンタクトするのが筋ではないか?それで西軍も「秀頼の命令」として東軍の様子を伺った。ところが東軍は「秀頼は幼い」で無視した。これって一見現実的な判断に見えて実は「秀頼は所詮強い者の言う事を聞くだけの存在」って言い切ってるだけな気が…で、戦後に恩賞貰った連中が「秀頼からの恩賞」と思うかな? 少なくとも、西軍は「内府違ひの条々」だしてるから
「盗将大権現はこんなに酷い事をしてる、豊臣家の恩を思う者は大阪に来い」という
建前で動いてます
大老、奉行が同盟して無法者を討つという形
東軍は、全部一人できめてるしなあ >>212
一人で決めても何の問題ないし
家康は豊臣政権・豊臣家に反旗を翻してはいない 内府違いの条々も主に奉行にとって都合の悪いことを列挙してるだけで
諸侯からしたら専横だろうが何だろうがちゃんと「豊臣政権」を運営してくれてるならいいことだしな >>211
妄想に妄想継ぎ足した推論とか無意味というか害悪だから
それぞれに史料なりなんなり根拠示しなよ
さんざん言われているのになんで無視するんだ? 「秀頼は幼いから」って考えてみると秀頼を崇めてる訳じゃ無いよなむしろ逆。秀頼は単なる王冠に成り下がっているという話になる。東軍は既に家康を主人と見ていた訳で後は朝廷が家康を将軍にした事で何の権威も無くなった秀頼は捨てられてしまったと。つまり秀吉が死んだ時に豊臣公儀は半ば滅んでいたんじゃないか。仮に西軍が勝ったとしても秀頼の行く末はあんま変わらなかった事になる。 >>207
家茂も公家からフルボッコだったじゃないか 関白と将軍だと朝廷への依存度が違い過ぎる。関白は就任への条件が無茶苦茶厳しい。対して将軍はそこまで厳しく無い。将軍が頂点の徳川幕府は幼少でも将軍にできるし公儀を維持できるけど関白だと後継が幼少の時点で滅亡確定。そしてこの事を豊臣武将はちゃんと認識してたんか…?家康が朝廷工作出来なくなったらもうおしまいなのに。 結局秀吉は棚ぼたの成り上がりだったこと、そんな気がなかったから卑しい出自であることむしろ利用してたこと、そのせいで将軍になるという選択肢はなかったんだよな
関白として天皇の代理人になる。伝統ある朝廷の官位システムをそのまま利用して同輩たちを屈服させるしかなかった >>216
小封弱体の主君が長く続いた例は意外と沢山ありますよ
ポイントは複数の有力諸侯が居て、お互いに牽制しあってる状況が続けばね
徳川さえ叩ければ、意外と長く続いた可能性あります
だって、毛利、宇喜多、上杉の三大老が同盟して徳川打つ形なんだぞ
家康がやったみたいな、豊臣家の領地みんなで山分けな戦後処理が出来る訳も無く 秀頼を一番排除したいのは朝廷だろう
太閤秀吉の遺児というだけで無位無官で五摂家の関白就任を阻み朝廷活動の妨害する厄介な存在 >>192
誰か「同格」って主張しているの?
まず奉行たちが審議し、それに対し年寄が承認・却下するのは豊臣政権も
それ以前の政権や江戸幕府、さらには各大名家も同じだと思うんだけど 東軍はそもそも秀頼の命を受けての
上杉征伐の最中だったの忘れがち 7歳って武家の世界だとそれなりには自覚せんといかん年齢よな。少なくとも才気の見せ所だった。 武士なんて単に強くて気前のいい奴に従ってるだけだよ
徳川様こそ豊臣政権の正当な主催者とかそんな難しいことまで考えてねーよ。領土デケえ兵力凄え土地くれたとかそれぐらいのことで判断してるだけ だとしたら叛いた奉行らは武士ですらなく
そりゃ当時の統治者として不適格なのも頷ける
ということか まあ勝ちそうな方に着くって意味ではあってる
そしてその一つの要素として
どちらに味方するものが多いか
というのがあって正当性はそこに関係する
そしてその正当性という面においても
手順踏んで秀頼にも支持されて出征した側と
居城を押さえても文書のお墨付きも出てない側
という差はあった訳だ >>230
根拠
歴史のお勉強をしたことがあるなら分かるんじゃないの?私は強い者に従ってるだけでーすって言ってる史料がせかいのどこかにあるなら逆に教えて欲しい 西軍は「秀頼さまの命令」を連発してるから秀頼を押せば武将の指示が集まると思ってたんだろうけど東軍にはまるで効いてなかった。むしろ土地をエサにした方が効いてたりもするし(織田秀信) 7歳の子供がそんな命令出せるわけないのがバレバレすぎてなあ
上杉征伐みたくちゃんと手順を踏んでるならともかく そりゃ公儀としては幼君の場合でも運営しないといけないからな 秀頼はお飾りなんだけどそれでもお飾りの君主として振る舞う最後のチャンスはあった。要は家康含め東軍諸将に西軍討伐の命令を発して恩賞は切り取り自由と言うこと。
西軍は秀頼に捨てられても危害を加える事は絶対に出来ない。そんなことしたら西軍唯一の正当性すら消えるから。こうやって飾りとしても君主として振る舞っていたら家康の出す恩賞はつまり秀頼からの恩賞という形にも出来た。それを風見鶏で潰してしまった。 秀頼に実権なんか無くお飾りって事を証明したのがよりにものって西軍ってのが本当に皮肉 生前の秀吉が徳川に内大臣の地位や政権を主導する筆頭大老の地位を与えたり、
婚姻政策で家康を秀頼の外祖父にしたりして政権内における徳川の立場を保証する事で、
徳川が豊臣政権の存続を支持しやすいようにしたのに、(要は徳川を恩顧化させる為の布石)
西軍の挙兵で豊臣政権における徳川の立場の保証が否定されちゃって、全てぶち壊しだな だから上杉征伐が秀頼の命令と言えるのかは疑問符だけどな 別に拒否ってないけどな
直江の言ってることは筋が通ってるし家康が難癖つけただけ そもそも事の発端は堀氏ら周辺国からの通報だし弁明に来ないんじゃ討伐するしかないだろうさ 御掟は双方呼び寄せて究明せよとはなっているが、上洛しなかったら違反だは拡大解釈 御掟には双方呼び寄せて究明しろってあるんだから
言いたいことがあるなら上洛して主張すればいいだけ
謀反の嫌疑がかけられていて元家臣ですら告発者の一員になっているのに
本人が出向いて釈明しなかったら欠席裁判になるから尚の事まずい それ以前に謀反の疑いで問罪されてるわけで
その上で上洛拒否なんかしたら疑惑が確信に変わるだけ なんでそこまで家康を綺麗にしたがるんだろう
権力闘争の一環であっても別にいいじゃん 欠席裁判って要は「原告の主張を認めます」って完全敗北宣言じゃぞ。そりゃ討伐でしょ。 >>250
家康を貶してない文章を見ると家康を褒め称えているように見えるんだろうね 景勝からすると堀秀治が徳川家康に接近してたから出ようが出まいが有罪確定だと思ったんだろうなぁ そもそもスレチなんで家康の話は上のスレでやった方がいいね 政宗みたいにぬけぬけ出てけばワンチャンあったかもしれないのに おそらく堀秀治にしたっていう嫌がらせが真実で弁解の余地が無かったんだろう。
それにしても言い訳に太閤の遺言使ったのが地味にまずい。領国に帰っていいよとか合議制完全否定じゃん… 手順は大事に決まってるだろ
家康の思惑通りでも家康が秀頼の
主君の命を受けるという手順を整えれば
秀頼も形式上は君主として機能してる
お飾りでも君主でいられる
でもそこすっ飛ばして出してもない
命令を騙られたのではそれすらない訳でな >>250
家康に権力欲がなかったなんて誰か主張してる?
もちろん権力闘争であってその勝者が
敗者よりも大義名分を整える上でも
ちゃんとやることやってるってだけ ルーパチしてIDチェンジしてくるの本当にゴミ
早くワッチョイが欲しいよ 西軍は秀頼の命を使ってたけど効果上がってないんだよな…確か清洲城も西軍に対して徹底抗戦の構えを見せて東軍が戻ってくるまで兵を近寄らせなかったとかいう話があるし。 秀吉の遺言通りなら家康のワントップもしくは前田サブのツートップなのに
秀吉死んだ直後から奉行毛利らが十人衆起請文ゴリ押しして政争しかけてきたからな
そりゃ家康も受けて立つよ
家康がいわゆる私婚に動いたのもその後からだろ >>250
そうなんだよね、家康がやったのは封建制度がある国での下克上のテンプレなのよな
封建制度における主君の役目は、領地の安堵であり同じ主君に仕える領主が攻めてきたり
主君の命令という言い分で勝手に領地削られたりしない事です
なんで喧嘩両成敗が武家の慣習法かというと、勝手に家来同士が戦争始めたら面子丸つぶれ
だから勝手にやったら問答無用で謀反扱いするよって事
でも家康は自分一人の花押で豊臣家の蔵入地削ってるんで、豊臣家の領地すら横領してるも
同じ
会津征伐も、他の大老無視して討伐軍作ってるでしょうが
これで無理やり綺麗な家康にしたがる意味がわからん >>263
時系列考えな、私婚問題は秀頼が大阪城に移動してすぐさまだ
遺言で伏見城に居ろって言われてる家康にすれば、伏見城に秀頼いた方が都合が
良いもんな
でもこの明らかに家康の機嫌を損なう事が強硬されたって事は、他の大老が強硬に
移動を主張して押し切られたって事
この時点では家康の独裁権が成立してない証拠「成立してれば認めるはずは」ですよ
で、家康は合議制が機能し始めたら大変だとばかり、まっ正面から無法な行動をした
それが私婚問題でしょ
他の大老が認めるはずがない内容なので、自分と対等の存在の完全否定だ そら秀頼が長するまでの代理でしかない存在が家康であり大老奉行だからな
道理に従えば政権トップの座はいずれ秀頼に明け渡されるものって事が頭から抜け落ちてるのか? 三成らが政争ふっかけた結果却って家康の人望が上がり遂には天下人にさせてしまった。秀吉の遺言から察するに秀吉は徳川と前田がくっつく事を警戒してたみたいだけどそれも殆ど三成のせいで達成されてしまったし。 >>250
あってもいいとかじゃなくて
事実がどうだったかが大事でしょ 権力闘争の一環なのは間違いないけど
家康はトップなので危ない橋渡らななくて
挑む側である3奉行3大老は際どいことしてるよね 西軍は「家康が秀頼を奉じてるから秀頼を奪えば諸将は家康から離れるはずだ」と思ったけど既に諸将は「家康が公儀であって秀頼がどこに居るか何を言ってるかは重要じゃない」と認識してた。西軍はクーデターのやり方をミスしたとしか。 秀頼は分別に乏しい幼児で実態の無い神輿であって周りがどのように持ち上げるかが大事
朝廷を巻き込んで手順を踏んで持ち上げるしかなくて家康はそれをやった
西軍は持ち上げられるなら何でもいいという風に邪険に振る舞ったから秀頼と豊臣家の権威まで失墜させた 権威というものは有るべきとこにあって
初めて意味を持つ
留守中に盗めば良いというものじゃない
割と真面目に手順無視したら意味ないのよ
公儀というのはそもそも公
秀頼のモノでも家康のモノでもない
その勘違いを西軍首脳もしてたんだろね ところで、豊臣恩顧の定義作らない?
定義1 大名じゃなかったのに、秀吉に大名にしてもらった家
この場合の大名は将軍以外に主君を持っていない、とする。
定義2 秀吉に加増してもらった大名
加増されても、先祖以来の土地から離された上杉とかが恩と感じてたか、
と考えると、定義2は微妙な気もする。 恩顧=情けをかけること。よくめんどうをみること。ひいき。
恩を感じるという意味はない でも意味は時代とともにどんどん変わっていくからね
御前がその良い例 定義づけすると極端な例外持ってきて最後はレスバトルになるからな
ぼんやりしたくくりでいいんでない 天下人の恩恵を受けず大名をやってた奴なんているのかって話になっちゃうからな >>276
あんたが作った定義に何の意味があるんだ? そもそも恩顧自体特に豊臣では誰かを持ち上げて誰かを貶すために使われる情緒的で文学的な言い回しでしょ
後世になってから軍記ものやら講談やらで使われるようになったんだろうし
それとも当時から言われていたのか?
少なくとも親藩譜代外様のような教科書にも載るほどの明瞭な政治的区分用語ではない 御恩と奉公だと一代でなんなら一奉公で消えるからなぁ 褒美ならともかく領土の場合で一代で消えるわないわw
領土を安堵されている間は御恩があるといえるし、
領土を賜っているなら恩顧といえる
それがあるからといって滅私奉公する奴のほうが珍しいわけだがね
一代どころか250年の恩に報いたものすら誰もいなかったのだから 御恩と奉公の「御恩」って土地のことだぞ
ていうか武士の恩ってのが土地しか無い。茶器だの官位だのは後の話 そして領土を保障できなくなったら
一瞬で終わる・・・ 御恩と奉公ってのは平安時代から続く思想でこれが改まるのは江戸時代に入ってから。それまでは御恩の提示を受けて奉公するという傭兵契約だった。そしてその御恩とは土地のこと。これはかなりビジネスライクな契約で提示された御恩が気に食わないなら別の奴に着くなんてこともザラだった。何よりも重要なのは対人契約だったこと。それで「信長には御恩があるが信雄には無い」「秀吉には御恩があるが秀頼には無い」なんていう連中が出てきた。これは恩知らずとかじゃ無くて契約相手が死ねば自然と解消される関係だから。次代に器が無ければ最悪寝首を掻かれる。 御恩というのは、具体的にいうと領土の保証の事ですからね
自分の領土攻められたら、主君が自分の領土「家臣の領地は自分の領土」を攻められたと
解釈して援軍を送ってくれる
そして、その脅しが有るから隣接した領主から行き成り攻め込まれるリスクも減ると
家康ってさあ、幾ら教養有る様にみせてても頭蛮族だし、蛮族の要求に忠実なだけでしょ
桶狭間の戦いの後、今川が弱体化した時も、本能寺の変の時も、太閤死後も いや違うよ
氏真に再三義元の敵討ちを進言したにもかかわらず無視したから
見限っただけ なんかの新書で実際は戦後すぐ当時の今川領に攻め込んでるって見たな
なんだったかな 桶狭間の後も織田属城の挙母や広瀬、梅ケ坪を攻めてるぞ
今川と決別して反今川の姿勢を示したのは氏真書状から永禄4年4月以降だと分かる 蛮族も何も当時は戦略を失敗する=死だぞ。豊臣政権トップになった後は豊臣政権維持の為に奔走しとる。 徳川と今川が交戦状態になった年次は今永禄三年か四年で論争になってる 岡崎城にいた今川の留守居を追い出した時点で自立に向かって行動している スレチだが織田への増援拒否だけならまだしも北条に援軍だして松平を見殺しにしようとしたから独立されたって話だしなぁ、 >>300
あの時の北条は、上杉謙信に小田原城まで囲まれてて滅亡寸前ですよ
北条が滅亡したら、織田と上杉に挟まれる訳で援軍だすの当然かと
今川が三河方面に絶対兵を出せない時を狙って独立だから、苦境に付け込んだ謀反も
同じですね
で独立したら三河の今川方豪族どんどん攻めるんだから冷めた男
思考に慣性が無いのが家康の特徴、普通はもう少し後ろめたいでしょ 三河武士団(笑)は節操ない田舎侍感凄いからな。徳川史観で過剰に持ち上げられてるけど >>301
西側で一番苦境に立ってるの対織田最前線の松平なんですが
松平が今川の傘下になったのは、西三河における松平の立場の保証を今川に求めたからで、
保証どころか今川のためにすり潰されろと言われても納得する訳がない
勿論遠慮などしない、裏切ったのは今川なのだから
御家を背負う武家が上役に求めるのは、奉公に対する適切な御恩(報酬)は大前提の上で、
その立場や権益をきちんと保証してやる事、それが出来ないなら見捨てるのが当たり前
秀頼が領主層である諸侯から見捨てられたのも、結局はこれが原因だ
西軍の挙兵によって豊臣政権を担いでも徳川の立場が保証されないことがはっきりした以上、
徳川が自らを頂点とした政治システムを作るのは当然でこれを非難する方がおかしい
恩顧を強調したいなら領地や財産、権益を与えるだけでなく何よりも立場の保証をする事、
これが出来てないのならいくら取り立てようが出世させようが意味がないと知るべき
少なくともその考え方を優先しないのは御家を背負う武家としては失格としか言えない >>301
そりゃ「俺の為にお前死ね」なんて言えば100人中100人が裏切るぞ。豊臣が滅んだのも同じ理由だし。 >>289
同感、この板で読点使っている文みると警戒するようになってしまったわ たまにいるが句読点で発狂する奴って外国人かなにかなの? 徳川史観も何もその三河武士団が日本史上最も長く安定した政権を作り維持したわけだからな
それは客観的な事実で普通に評価せざるを得ないし
じゃあその三河武士団(笑)とやらに250年も支配された他の武士団(笑)はどんだけ無能だったんだよと
幕末も 幕末も半分くらいは制度疲労からくるものだったしそもそも封建制自体が限界を迎えていた
そこまで200年以上も内乱起こさせずもたせただけでも世界史レベル
国内の安定より他国に侵略してドンパチやりたい豊臣やその直系子孫の大日本帝国信奉者からは許せないんだろうが まぁそれだけ儒教の影響が強いってことよな。現代の日本人すら信仰してるんだもの。ある日上司に呼ばれて「このままだと会社が危ないから五千万円引き受けてくれ」って言われたらどうする?みたいな問題。それで「なんで滅私奉公しないんだ」って言う人それなりに居るからね。でも大抵の人間からすりゃ「知るもんか」だし才能がある奴はこれを好機と見る。問題はそうした連中を相手に豊臣は求心力を維持できんかった。 >>309
ほうぼうで底の浅い妄言垂れ流すのやめろよ
迷惑なんだよ、いい加減 >>309
ほうぼうで底の浅い妄言垂れ流すのやめろよ
迷惑なんだよ、いい加減 江戸時代の儒教的価値観と徳川家康最強理論に基づいた所謂徳川史観てほんと厄介だよな
儒教がゴミってのがよく分かる そうだよね。豊臣を滅ぼしただの今川を裏切っただの
儒教的価値観で家康を不当に叩くのはやめて欲しいよね >>303
別に、あの時点で岡崎城が織田軍に包囲されてるとかじゃあないでしょ?
小競り合いはあっても織田軍が三河に侵攻してる訳でも無い
そして家康の正室と息子と娘は駿府で丁重に保護してる訳で
あそこで独立って、苦境に付け込んでの行為と普通みられるだろ 織田とかスレタイに全然関係ないんだが
知ってることを書けばいいとでも思ってるわけ?
脳が腐ってるのか >>314
>あそこで独立って、苦境に付け込んでの行為と普通みられるだろ
それはその通りというか苦境だから縁を切って織田と結んだ
今川を見限っても生き残ったんだから先見の明があったということになってる
その後の武田家の裏切りが家康の裏切り以上に大きかったというのもあって
当の今川氏真もその後に家康の世話になってて家康の義理堅いという評価を補完することになってる
家康が将軍になったあとでも氏真との縁が切れないというのも面白い >>314
スレチだけどお前さんは徳川家の事情を完全に誤解してる。武田信玄と同じ様に。
松平の支配する三河は実は西三河が凄い重要。ここは木綿等の経済作物を作ってるほか北には鉱山地帯もあって松平ひいては徳川を支える心臓とも言える。だから織田が西三河近くをうようよしてるって状況が既にデッドゾーンでだから「義元の弔い合戦をしろ」とせっついてる。織田の勢力を西三河から遥か遠くに飛ばしてほしいのよ。岡崎付近まで来られたら死を意味するしね。 >>313
どっちかというと儒教的価値観に縛られて簒奪=悪って価値観で顔真っ赤にして家康を持ち上げてる阿呆が暴れてるんだと思うが というか当時の松平家の勢力は
東三河には及んでない
織田が攻めてきて援軍来なかったら
そもそもその時点で詰みの可能性大きい
岡崎城包囲されたらもう織田に着く
とかそんな悠長なこと言えない 別にさあ、家康がした事を正しいとか悪いとか言ってる訳じゃ無くて
何で強引に美化するんだって思ってるだけ
実力のみの下克上の連鎖と言えば末期のローマ帝国なんか典型だと思うがね
勝ち残るのは、必要に残酷な事を果断にやれる奴ですからですね
五賢帝のひとりハドリアヌスですら、トラヤヌスの重臣四人を問答無用で消した
まあ、相手が反対派だからって行き成り消したりしないだろって油断をつかれた
大権現も伏見城乗っ取りが実に芸術的 だって家康を悪の神格化すると
余命幾許もないのに政治闘争吹っ掛けて空気だけ悪くして逝く利家とか
西国統治を任されてるのに西国の問題で頼りにされない仕事をさせてもらえない輝元とか
簡単にお家騒動を起こされてしまう秀家景勝とか
合議制なのに束になっても家康一人に勝てないその他の大老奉行という卑小な存在が出来上がっちゃうからね それよりも秀吉生前は側近として権力をふるっていた奉行が
秀吉の死によって非主流派に転落して返り咲きを図って
家康不在の隙をついて秀頼を担いでクーデターを起こすものの
実力も正当性も負けていたため支持が集まらず
返り討ちにされましたとする方が遥かに筋の通った内容になるもの 疑問なんだけどなんで家康の評価に儒教を絡めようとするんだ?
後の江戸幕府ならともかく、家康って別に儒教に傾倒してたわけでもないし >>324
例えばどの文章が強引に美化しているように見えるの? 美化というか小説みたく陰謀家として
危ない橋は渡ってないってだけだよ
婚姻禁止はいうほど明確な違反でないし
7将を唆して三成を襲わせるとか
何の落ち度もない前田上杉を陥れるとか
史料から経緯を調べると違う部分出てくる
逆に何でそれを無視して美化美化言ってんの?
ってのを他の方は皆んな質問してるんだけどね 江戸時代とかいうクソみたいな時代に日本の歴史は歪められまくったからな >>328
儒教は宗教だから、宗教的信念で事実を曲げる傾向が間違いなくあるんだよ
そして、宗教の信者に良くありがちですが当事者にその自覚がない
儒教の信念は「徳のある人が権力握れば皆が幸せに」「徳のある人が最後の勝利者に」ですよ
逆に言うと最後の勝利者に徳が無いと宗教的信念が崩れるので強引な美化が入る
漢の高祖とか朝鮮の李朝の始祖とか
分からないかな、最後の勝利者って事実から逆算して美化がはいってるのに >>326
別解釈もあるんだけどね
余命いくばくもないのに、太閤遺言守る為に正面から家康と対抗する利家
家康の裏工作でお家騒動おこされる秀家とか
宇喜多騒動は、誰か外部の後援者が無いと反対派家老もあそこまで出来ないと思うんだ
領内で騒ぐのならまだしも、大坂で騒いでるんだよね
あんな事、他の大老の暗黙の了解でも無ければ出来ないのでは? 御家騒動なんて外部の後添えなんか要らんよ。誰にも何も言わんで取次ぶっ殺した島津みたいな例もあるし。 日本は儒教じゃなく儒学の方が印象強い
儒学の教え自体は何度も大陸から入ってきているし日本仏教と混ざっている 家康のとった行動が仕方ないとう評価ならともかく正しいっていうのは美化に感じる そりゃ家康の対応は公儀筆頭が為すべき事を為してるに過ぎんからなぁ。政権担当者としてあれ以外の動きは出来んだろう。 秀吉も家康も一緒
秀吉も指南役として必要なことをやっただけだからな 会津征伐にしてもそう。「景勝に叛意有り」を主張してるのは家康じゃ無くて堀秀治ら周辺国。家康は「景勝に叛意が無いとは思うが出頭して弁明しろ」と言ってるだけ。それをあれこれ言って拒否したら仏も鬼になる。家康への反抗なんて子供みたいな話じゃ無い。豊臣公儀への公然とした反逆だもの。 要するに建前の話をさも家康の真心という風に語るから話がこじれるんでしょ
権力確立の為に派閥増強と他勢力の追い落としを始めた、で良いのにそこでやたら家康を綺麗に語ろうとする 家康に野心があったなら動きが緩慢過ぎる。江戸時代以降作られた「家康は全てを操っていた」という俗説から抜け出すべき時が来た。 家康は本心から豊臣家を守る為に行動していた!みたいな論調にするのが良くないんだよな
一次資料から見た歴史を語ってるつもりが実際のところは想像的な解釈を入れた善悪論になってる 家康は秀吉から豊臣公儀を禅譲されてる。だから豊臣公儀の安定=徳川の利益なので家康は公儀安定に奔走してる。これは政権担当者からすりゃ当たり前。だから秀頼の事もそれなり以上に崇めてる。自分の権源だから当たり前。
これが滑稽な勘違いでつまり秀頼が偉いんじゃなくて徳川家康が偉いんだとわかったのは関ヶ原後、征夷大将軍になってから。 >>345
そんな奴、いるのか?
徳川の行動を無根拠にピカレスクだの盗将だの侮蔑しながら悪意全開で解釈してる奴に対して
ツッコミを入れる展開ばかりにしか見えんが 例えば家康の私婚事件も旧い史料を読めば違った側面が見える。『景勝公御年譜』を見ると家康は開き直ったり言い訳したりはしていない。激怒しているのだ。
「一体誰が俺に異心有りなどと言ってるのかまずそれを明らかにしてから糺明するのが筋だろう。忠輝の婚姻については奉行衆にも伝えていたがそれが伝わってないというなら成る程俺の考えが甘かったんだろう。この件は捨て置きがたい。実否を確かめようじゃないか」
つまり家康はちゃんと話を通したのにそれを黙殺して家康謀反をでっち上げてる奴が居ると激怒してる。その怒りは普段の柔和な徳川家康しか知らない四大老五奉行を震え上がらせた。結果五奉行は過ちを認め出家、四大老は家康に謝罪文を送る羽目になってしまった。
ちなみにこの「言ったじゃないか」「聞いてないぞ」系の話はこれからも割と出てくる事を考えるとどうも十人衆は連絡機能が無かったらしい。そんなんで合議なんかできよう筈もなく… >>348
秀吉死後から大阪城落城まで17年もあるから緩慢というか長すぎるとは思うよ
家康も結構な年なんだしいつ死んでもおかしくないんだぞ、75まで生きたのはあくまで偶然だし
少なくとも秀吉が関白に就任してから死ぬまでの間よりはずっと長い 三成が反家康の動きをしてるなら三成を死刑にする事も出来たしなんなら七将に「襲撃」させても良い。島津でも豊臣公儀の取次暗殺とはけしからんとして伊集院の一派に力添えすれば島津家は大騒動になったろう。それらをしなかったのはひとえに「豊臣公儀の安定」を図っていたからとしか思えん。家康は医術のプロだが自分の寿命は読めないんだ。野心があったなら即座に行動してるさ。それを「敢えて家康は〜」と言われるほど待った。 秀吉が家康に政権の後ろ盾を頼んだのも、家康がそこまで長生きしないという思惑があったからと予想する
そこも秀吉の誤算であったんだろう ちなみに家康によるとされる加賀征伐と会津征伐だけどこの二つは実は家康を中心としたものじゃない。これらはなんと堀一族が起こした波だった。と言うのも利長と景勝は交友関係にあった。その二人が帰国したと聞いて堀氏が焦ったというのは理解できる筈。景勝との間でいざこざがあった事から堀氏は何をしてでも領土の安全を図る。まず家康暗殺事件に利長が参加してると騒いだ様だがこれは「沙汰止み」になった。ところが景勝が道路整備をして武具を集めていると聞くと尻尾を掴んだと確信、家康に「景勝謀反」を訴える。
かの直江状でも「景勝に叛意は有りませんが…讒人の調査をしないのは何故でしょうか?」「隣国の讒人が」「堀直政は戦争を知らないのです。道路整備なんかしようがしまいが…」
とやたら批判してるのはその為なんだろう。 >>343
というか家康には建前と真逆の醜悪さがあるはず
という人が納得できず暴れてるだけだ
誰も彼も行動と情報発信で判断されてる
その裏の話なんて誰にも分からないというのに 家康に野心はあったよ
天下人として号令するという野心が
でもそれは別に豊臣政権の解体や
豊臣家の滅亡への野心ではない
豊臣家の筆頭として矛盾なく
叶うはずの体制が用意されるばずだった
それが何故か秀吉が死ぬ直前に
朝令暮改の遺言を整理する過程で覆り
それで満足せず失脚を狙う動きによって
政権自体の求心力が低下していった 家康は政権担当者として何ら落ち度の無い行動に終始してるのに「家康はきっと〜」とか言うのは申し訳ないが下衆の勘繰りになるのでは?具体的な例を挙げた方が良いけど大抵の家康黒幕説って江戸時代の創作だしなぁ >>353
とはいえ上杉は関ヶ原のときに連れてけと言われたのに残していった旧臣たちに大規模一揆起こさせることが出来てる時点で真っ黒 というかむしろトップとしては妥協的で
ことなかれな裁定に終始してた
という評価もあり得ると思うぞ
太閤の遺命でさえない可能性がある
少なくとも朝令暮改が問題視されてる中で
他の大老奉行からの権勢拡大要求にも
御掟違反の誓詞を交わして受け入れた
その御掟違反で自分を弾劾して死さえあり得る
失脚を狙った連中とも和解
政敵とされる(実際弾劾に参加したばかりの)
三成の死を求める動議も穏便に済ます
自身の暗殺計画発覚でも死罪ゼロ >>357
実際それで景勝は上洛しなかった訳だし何なら最初「秋には上洛する」って言ったのも城が出来るまでの時間稼ぎだった説まであるってことを考えると、こいつら相当のワルなんだよなぁ。直江状だと全部堀のせいにしてるけどそんな言い訳が通用するはずも無かったわな… 秀吉死後の政治状況は破茶滅茶だからね。十人衆起請文の直前に輝元は安芸から兵二万人を上方まで連れてきてる(萩藩閥閲録・五ノ一)何かが起きるとしか思えない状況が続いてたわけでそりゃ家康が天下人になったら誰もが喜ぼうってもんよ。 >>330
家康は小説家に陰謀家にされているって言うなら、その小説家に文句言えよ
スレ外で言われたこと持ってくんな >>363
ここで小説じみた話してるから言われてんだろw >>364
困ったら単芝のいつもの人ね
あなたの書いたレスも十分小説臭いですよ 家康黒幕説ってのは司馬遼太郎が作ったものでその殆どを辿ると江戸時代の創作モノってのは指摘されて久しい(『関ヶ原の合戦はなかった』)実際一次史料からは家康が恣意的な政権運営したっていう事実は窺えない。それは「家康が天下人になった」ことからの逆算でしかないのだ。 ここは割と真面目に司馬信者さんが
史料研究相手にゴネ続けてるスレだと思う スレタイも読めずに過度な極論をぶつけ合う勘違い歴オタたちの痛々しいスレでしょ
内容の不毛さはそもそも隔離スレだからさもありなん 司馬遼太郎の「家康黒幕説」は史料研究によって大分破壊されてきてるんだけどね。やっぱり小説の力は強いよ。例えば家康私婚事件なんて普通に見れば奉行衆によるイチャモンでしかない。豊臣公儀トップの家康が一族の結婚を斡旋したとしても何の問題も無い。相談がなかった事は手続上の不備で次から気をつけてね以上の事は言えん。それを「家康謀反」にこじつけてる奉行衆は明らかにおかしいこと言ってるわな。 >>371
じゃあスレタイに沿った話ふれよスレ奉行 >>372
過疎らせておけばいいだろ
書き込まないと死ぬのか?
底なしの馬鹿だな スレタイにこだわる理由が分からん
盛り上がっていればいいだろ >>373
過疎らせておけばいいんなら返信すんな脳みそ腐ったバカが 底抜け馬鹿、渾身の返し
>過疎らせておけばいいんなら返信すんな脳みそ腐ったバカが >>376
そんなにこのスレが続くのが都合悪いのか?見なきゃいいだろうが 論破され過ぎておかしくなったんだろ。ほっとけほっとけ。
景勝公御年譜だと家康は奉行に話を通したのに黙殺されたと激怒してる。奉行ってこの手の話が多いんだよなぁ。横の繋がりが無かったのだろうか。 まさか令和の時代に江戸時代の御用学者みたいな家康礼賛者がいるとは思わなかった むしろ逆よ。今まで日本では司馬遼太郎が作った「徳川家康像」を信仰してきた。ところがそれは所詮小説でそのソースを辿ると全部江戸時代に創られた二次史料以下の「物語」だった。それが現代漸く史料研究が進んで旧い、信頼度の高い一次史料が発見された。するとそこには「家康が全てを仕組んだ」という話はまるで無くむしろ政権担当者として粛々と政治を行う家康、という姿が浮かんできた。研究が進んだ結果漸く我々は司馬遼太郎のレトリックから抜け出せたのさ。 天下取り前の家康の美談は大体デマカセ
関ヶ原後の家康謀略説は大体眉唾 重要なのは家康黒幕説は江戸時代に創られてる。意外かもしれないが。どうも江戸幕府は「強くて老獪な、全てを操る大将軍徳川家康」像を推していたらしい。髙橋陽介は直江状が発禁処分にされてない事からも江戸幕府がこうした家康黒幕説を流布したがってたと見てる。それで江戸時代、家康黒幕説が流行った。家康が「太閤の遺言を忘れた」と開き直っただのなんだのといった逸話が出てくるのも1700年代の史料から。つまり江戸幕府が広めてた「全てを仕組んだ男、徳川家康」像を間に受けた史料も知らん小説家が作ったストーリーが現代まで信じ込まれてただけ。一次史料を見ると話が全然違うじゃねぇか!ってなるのも道理さ。 そういう家康がどうだという主張は上で出されたスレが適してるからそっちでやれば?
自分たちが隔離スレからさらに隔離される厄介者だと認めたくないのかも知れないが 何度言われてもわからない脳だから
5chしか居場所がないんだろうよ 豊臣恩顧の実態が無いから秀吉晩年の配下筆頭の家康の話になる 秀吉が一代で築き上げて敵対勢力や同等の勢力が無く、譜代家臣も無いから配下武将が全員恩顧武将になってしまう >>350
はあ?秀頼大阪移動からひと月もせずに私婚問題「同時三家」やらかして何処が緩慢だと?
そして、抑々秀頼大阪移動自体が、盗将大権現の政治的敗北だった可能性が
太閤遺言だと「我の死後百日」なのだが秀吉の死は当初秘密にされてたからね
独裁権が成立してたら強引な解釈で延期する事も出来そう
で、行き成りだもん「突然ブレイクダンス踊るデブ」其の物だ 盗将大権現の智謀の素晴らしさは、人間の心が折れる瞬間を良く知ってる事だ
自分の瞬間「とき」が来たと思った時に「デブがゴキちゃん」に変身するんだもん
油断してる相手は、突然の変貌に対応出来ず即攻決められて敗北してしまう
私婚問題でも、行き成り国元から大規模な増援とか予想出来るのか?
何時でも戦えるって装備の軍隊を勝手に東海道通行させるんだぞ
確かに行き成りやられたら、徳川軍迎撃とか出来ないよな、意外すぎて
7将蜂起事件は、利家の葬儀さえ行われてない状況で行われてる
憎いほどに、人の心が何処で折れるか良く知ってるよ、この人 >>383
関ヶ原で家康が天下人になって豊臣が反乱を起こしたのが大坂の陣
なぜかそういう認識だったようだ。それでベラベラとそのような論説が語られるようになった まあ結構行き当たりばったりな簒奪だったと思うよ
大老奉行を各個撃破していこうみたいな方針は見えるけど石田三成があそこまで大老奉行を糾合するとは思ってなかったみたいで内府違いの条々が出された時は焦ってる様子がうかがえる 従来、「老獪な野心家の徳川家康と人望の無い実直な石田三成が戦ったから負けた」と言われてきた。ところがこれは司馬遼太郎の『関ヶ原』が初めて描いた内容である。
乃至政彦はこの小説を「モテない男子高校生が学園でハーレムを形成する少年小説と同じ」と一笑にふしてる。何故なら作中だとそんな人望が無い三成が名だたる英雄を魅了してるサマを描いてるから。単なる作品に過ぎん。 >>388
景勝公御年譜によれば家康は「奉行に話は通した」として「事の実否を確かめよう」とまで言ってる。結果四大老は謝罪、五奉行は謝罪の印として出家させられてる。つまり家康に理があったのだ。これは奉行が徳川家康を陥れようとして墓穴を掘った一例となっている。 >>392
乃至政彦氏の見解は的を射たものだ。
而して氏もまた「上杉謙信」については少女漫画に等しい創作を成す御仁であることを遺憾に思う。 >>382
例えばその美談でどれ?
ここで話されてるもので美談とかないと思うけど? な
>>389みたいな腹黒さな小説的
家康像以外認めないやついるべ?
それが否定されてるスレやで 近年では政争を吹っかけてたのは家康でも三成でも無く毛利輝元だったと言われてるね。理由としては家康には徒党を組もうとした史料が全く無いのに輝元は奉行衆と頻繁に起請文をかわしたり連絡してる。家康一頭体制を嫌った輝元が奉行派を束ねて反抗勢力にしたと。家康はただそれに粛々と対応してるだけだった。家康を天下人にしたのは豊臣公儀の持つ複雑怪奇な権力構造にあったとされる。 家康が悪役になったのは簒奪者家康から薄幸の貴公子豊臣秀頼を守る知勇兼備にして容姿立派な真田幸村の話が庶民に受けたからだろう
源義経と同じ判官びいきから豊臣秀頼が贔屓されて、そこからの派生
一般受けするフォーマットが出来たら後は話を盛るだけ
三国志と三国志演義みたいなもの
創作というのは一般受けするかが重要で歴史的事実はネタ帳の一つ 一次資料の家康は妥協主義の弱腰にも思えるから三成たちから舐められてたかもしれない
結構へたれっぽい 秀吉から単独後継者に指名されたのに十人衆合議をあっさり呑んだりしてるから舐められたのかもしれない。そこで縁辺で攻めたらブチキレられて一撃で出家に追い込まれるっていう。 七将襲撃事件の解決にあたって三成は家康に重家を人質として送ってる(家康も人質を出そうとしていたらしい)
この石田重家、家康にかなり可愛がられてたらしい。そんな重家は大坂城で秀頼に近侍していた。徳川への人質では無いと見做されたのか家康が石田家が公儀と関われる様取り計らったのかはわからない。とはいえど会津征伐で重家は大谷吉継と共に参加する予定だった。ところが大坂城で彼は人質として囚われの身となった。割と重要な動きだと思うんだけど詳細がわからんのよね… 家康は間違いなく政権トップだが
諸侯は家康と主従関係にはない
太閤の遺志や複数の豊臣家臣団の総意
と言った逆らい難いお題目が来ると
それがいかに曖昧でも妥協せざる得ない
それで実際手立てを失ってるから攻めよう
とか言われちゃう状況にはなってた訳でしょ
でもそれは他方ではその立場における
落ち度のない態度という見方で支持も受け
関ヶ原後にそんな弱い基盤では
中央政権として立ち行かないとも スレで言われてもいないことをさもこのスレはそうなんだーと決めつけるスッドレ 三成が西軍の総大将ってのは一次史料には無いからね。もしかしたらコイツも嫡男人質に取られて神輿に乗っちまった可哀想な奴なのかもしれん。 輝元と四奉行は秀吉が死んだら起請文取り交わして徒党を組んでる。対して家康はそうした動きを全く見せてない。
なのに東軍は一枚岩で西軍は空中分解とかホント歴史って皮肉なもんだな。 >>409
私婚は徒党編成ではないのかよ?
東軍の本隊以外は内府違ひの条々で消滅してる事もわすれるな たまたま上手いこと岐阜城が落とせただけで最初は家康は毛利と和睦の線も探ってたからな
家康としたらリスキーな決戦を挑まなくても東の大大名として安泰だったから >>410
起請文は内緒でやってる。私婚問題は家康の認識としては豊臣政権内で合意形成したうえでやった話。
九州でも四国でも東北でも北陸でも、関ヶ原が起こる前から東軍方と西軍側で戦ってるが、東軍が本隊以外いないってどこの世界? >>410
まず縁辺はそれ自体は徒党を意味しない。何しろ結婚イコール徒党で禁止、なんてなったら大名が困る。それで御掟でも「許可を得る様に」としてる。
だから家康は個人で縁辺をしても問題無い立場にあるんだがこれで痛くもない腹を探られるのも嫌だとちゃんと筋は通した。それが景勝公御年譜にある「奉行衆に話を通した」ということ。それで家康は激怒してるワケ。筋を通したのにそれを黙殺されて家康謀反だ!?とね 西軍の場合、同床異夢というか石田三成と他の毛利とかとは考えが違うからね。
毛利家とかが口では豊臣家の為と称しながら、自己の勢力拡大に励む姿を見て三成はどう思ったのだろうか。
前田玄以や増田長盛とかも裏では家康に情報を流してるし。
秀吉死後の増田長盛の動きも何か面白い。 家康には当初「大谷吉継・石田三成が謀反」という報告が入ってきてた。それが「毛利輝元・三奉行まで絡んだ大規模軍事行動」と知って家康は情報収集を行なってる。その中で「西軍の主力隊は伊勢方面で活動してる」って報告が正に値千金だった。ここで家康は池田輝政・福島正則からなる岐阜城攻撃軍を出撃させた(岐阜城の抗湛性や木曽川の渡河可能性についての報告書が確認されてる)
つまり家康は西軍の動きを知った上でその裏をかいて見せた訳で実は最初から岐阜城攻撃の成功確率は高いと予想されてた。ちなみに西軍主力隊を伊勢に振ったのは三成じゃなくて増田ら他の奉行らしい。踏んだり蹴ったり。 城の特集番組で藤堂高虎に言及があった
歴史素人なゲストのためにごく簡単に藤堂についての解説が加わったが、
「徳川家臣」というトンチキな説明だった
君臣関係についての認識がガバガバな輩は実在するんだな
だから細川忠興が豊臣恩顧などと寝惚けたことを言い出す輩も出てくる
知的障害レベルになると、徳川家康が豊臣恩顧の大名ということになるそうだ >>416
あんたが豊臣恩顧をどう解釈してるかしらんが、史学用語で言えば家康も豊臣恩顧でしょ
豊臣から土地の安堵や新恩もらってればみーんな豊臣恩顧
お気持ち、心情とかではなく契約関係ですから
豊臣から土地の保障を得た人はみーんなみーんな豊臣恩顧です
小説かマンガかなんかの話だったら申し訳ないね 豊臣恩顧って史学用語として明確に定義付けられた言葉じゃないでしょ >>418
厳密に言えばそうだね
というより、史学では使わない
源恩顧だの足利恩顧だのわざわざ使わないのと一緒
豊臣恩顧に妙にこだわるのは「北政所に育てられて~」とか、小説ムーヴが大好きな人だけでしょ
恩顧なんて紛らわしい言葉を使わず、豊臣人脈とか豊臣チルドレンとかにしてほしいね 豊臣譜代でしょ。一代成り上がりで譜代という言葉が似つかわしくないから豊臣恩顧と言い換えてるだけで 豊臣恩顧という単語自体に矛盾がありすぎた
藤堂みたいな奴も豊臣恩顧になるからな 正確には秀吉恩顧なんだけど御恩と奉公は一代かぎり、それは秀吉の死によって解消されてるからね いや秀吉が死ぬ前からニヤニヤと揉み手しながら家康に擦り寄っていった まぁそりゃ豊臣公儀内の派閥が朝鮮出兵やらで抗争に発展したからね…そうなりゃ政争に備えた動きが起きても不思議じゃない だから
>それは秀吉の死によって解消されてるからね
などと、ええ加減な事を書くな >>417
>史学用語で言えば家康も豊臣恩顧でしょ
違います
>豊臣から土地の安堵や新恩もらってればみーんな豊臣恩顧
違います
豊臣政権が存在していた期間で小田原の陣後、
全国の武士勢力の全ての領地が豊臣政権の差配で決められたが、
史学では豊臣恩顧とされる武将とされない武将で区分して考察する
本能寺の変以前には存在すらしていなかった新興の大名家がいくつもあり、
その多くが秀吉によって大名級領主として引き上げられた武将で、豊臣恩顧と言う 恩顧=お取立て。やでね。
秀吉お取立ての大名が豊臣恩顧大名であって最初から大身の織田旧臣や戦国大名なんかの外様系は恩顧とは言わない >>427
それが「御恩と奉公」やぞ。御恩と奉公ってのは基本的に一代限り。何故なら「ある主の御恩である奉公」だから。そこに「家に仕える」って概念は薄い。
それが極端に表れてるのが殉死よ。何で主の死で家来まで死ぬ?御恩があるのは「主」で「家」じゃないから。家に仕えてないから主が死んだらその恩に報いて自害してしまう。 >>428
そういう分類を豊臣恩顧という用語で使っている論文教えてもらえます? >>432
ciniiで豊臣恩顧検索しても雑誌記事が一本出るだけなんだけど >>434
いや、お詳しいようだから論文の一本や二本はさっと出せるでしょ 秀吉は死にあたって家康を次期後継に指名して政権を禅譲した訳だけどこれもちゃんとした理由がある。豊臣恩顧ってのは秀吉恩顧でしかない。秀吉が死んだら勝手に動き出すのは目に見えてる。だから「秀吉ver.2」を作りたかった。それで奉行衆に「家康に従え」と言ったり秀頼に「これからは家康を父と思え」と教えたりしてる。全ては秀吉恩顧衆を繋ぎ止める為に。ところが秀吉が死んだらやっぱり秀吉恩顧衆は勝手に動き出してしまった。 >>436
無理して何回も擦られた家康の話題を入れ込まなくてもいいよ 池田輝政辺りが分かれ目じゃないかな
親の代から大身の外様だけど秀吉と近しくて碌も貰ってる 豊臣恩顧ってのは所詮秀吉の存在を前提にしてるってことさ。だから秀吉が死ねば雲散霧消する。唯一の解決策は秀吉の代役を立てるしかない。御恩と奉公ってのはそうしたかなりドライな関係にある。今の滅私奉公する武士観なんてのは江戸幕府が作ったものに過ぎん。「太閤に御恩がある」連中が最後に豊臣を捨てたのも道理なんだな。 >>437
何回言っても通じない人が
いるから仕方ない 仕方無くないんだよなあ
ここは妄言推奨スレなら別だが 豊臣恩顧云々ってのは本多正純のこの言葉一つでオシマイだぞ
「天下人とは天が決めるのです。そう言えば亡き太閤殿下はこの事をよくご存知だったようで織田秀信をどう処遇したか思い出してみればわかると思いますが」
恩があろうがそれは当人が生きてる間だけ、ってのがよく分かるだろう。 >>413
無茶苦茶言いますね、時系列からすると秀頼の大阪移動からひと月も経過せずに三家と
私婚してるんだぞ?
仮に他の大老の許可得る為に根回ししたとしても、時間が足りなくて無理だ
更に相手も問題、大阪の対岸で大阪城の背後を守る形の阿波の蜂須賀とか東海道最大の
要衝の清須の福島正則とか他の大老が認める訳ないぞ
太閤が考えた諸大名の勢力バランスが一辺で崩れる「実際崩れた」 秀吉生前に、最優遇待遇を受けた家康
全大名で最高位・内大臣への昇叙、全大名最大の石高255万石への加増
遺言で政務を託し、実孫千姫と秀頼の婚約
これで政権内での家康の立ち位置がわからなければ、余程の政治音痴
秀吉死後、豊臣家外戚である徳川家が政権の中核になるのは規定路線
豊臣家外戚であり、実力ナンバー1の徳川家が秀吉恩顧・子飼と婚姻関係
を結ぶのは、豊臣家・豊臣政権にとってプラスでしかない
実際、豊臣家は何等問題にしていない
これに困るのは、秀吉遺言体制に従いたくない輩だけ >>444
司馬史観を捨てて史料から観ると全く違うものが見えてくるよ。
まず秀吉の死から十日後、八月二十八日に毛利輝元と増田・石田・長束・前田の四奉行が起請文を交わしてる(毛利家文書)
これは御掟「大小名問わず誓紙起請文は一切禁止」に違反する純然たる徒党形成行為である。その内容は反家康であった。
次に家康は縁辺を進めるがこれは御掟には抵触しない。御掟には「縁辺の儀は許可を得よ」とあるから。だから政権担当者の家康は単独でも縁辺の許可を出せる。しかし家康は十人衆を尊重して奉行衆に縁辺について諮問して許可を得てる。ところが奉行がこれを黙殺して「家康謀反」をでっち上げた。家康はこれに激怒して「事の実否を確かめる」と主張した(景勝公御年譜)初めて見る家康の怒りに恐怖した五奉行は謝罪として出家、四大老も家康に起請文を出して謝る羽目になった。 つまりどっちが最初から「野心」があったかといえば実は毛利輝元ら奉行派の連中なのが明らかなのだ。彼等のやってる事は縁辺なんて比じゃない程危険なもので完全な御掟違反、秀吉への反逆ですらある。何しろ「一切禁止」の起請文を取り交わしてるのだから。この事実を掴まれていたら奉行派は窮地に追い込まれていた事疑いない。奉行派は後々「十人衆の間なら起請文を取り交わしていい」という法を十人衆合議で通すのだがこれは前述の二十八日起請文の違法性を誤魔化す為に御掟を反故にしたのだ。 関白でこそないがほぼほぼ擬似秀吉なんだよな
秀吉以降誰もやってなかった岩清水八幡宮社務職の裁定もやってるし
本来奉行はもちろん他の大老も同列に座れないくらいの立場
その家康に合議を強要するなど秀吉に強要したも同じでとんでもない越権沙汰
十人衆起請文こそ関ヶ原に先駆けたプチクーデターと言ってもいいが(しかも諸大名に公表されたのかも怪しい)
上でも言われてるように主従関係にないこともあり家康が妥協したことで三成らが味をしめることになった
この辺の家康の甘さというか慎重さは関ヶ原後も豊臣家への扱いで変わらず
かえって伊達政宗が危ぶんで秀頼を大坂城から出して手元に置いたほうがいいとわざわざ忠告してる 豊臣恩顧って一般的なイメージだと対毛利以前から秀吉に仕えてた奴と低い身分や幼少の頃から仕えて秀吉に取り立てられた連中って感じかな?
だから黒田親子や奉行衆辺りがギリギリ該当して池田輝政や立花宗茂、細川忠興辺りは豊臣恩顧というイメージではない 秀吉は死にあたって諸将には「家康を後継にする」と明言して奉行衆には「家康をよく補佐するように」と伝え秀頼には「これからは家康を父と思え」と教えた。ところが秀吉が死ぬと輝元と四奉行は結託して反家康運動を始めるのだ。
と、言う事が何を意味してるのかというと、豊臣恩顧の連中(石田三成が筆頭だろう)がいの一番に秀吉の遺言を反故にして体制革命を狙い豊臣には恩のない家康が秀吉の遺言を守ろうとするというあべこべな状況になってるのが関ヶ原までなんだな。 清正と正則はガチ
御恩は一代限りなどと抜かすアホがいるが
秀吉死後も豊臣家に忠節を尽くす
彼らは武士としての鏡 加藤清正と福島正則は恩顧というより御親類衆、一門格だな
福島正則なんか慶長の役では国内組なんだから結果論ではあるが三成たちと同格の奉行にすべきだった
加藤清正も含めて当時の奉行衆より秀吉の能力評価が低かったんだろうが奉行経験もあるんだから秀頼のためには抜擢すべきだった
色々な意味で秀吉の采配に振り回された 加藤清正は朝鮮出兵で三成・行長と衝突して後ろ盾を求めて家康・利家に急接近してる。家康が三成を擁護すると見るや家康暗殺計画を始めようとしたみたいだが最終的には家康に付き従う。どうやって秀頼を家康の下に置くか苦心していたらしい。 概ね同意なんだが、家康暗殺計画は看羊録にしか記載ないし、暗殺による政治効果が何なのか全くわからないので、眉唾。
もちろん、清正が豊臣家・政権などどうでもよく、私情のみで動くアホだったのならわかるが。 家康暗殺計画はおそらく村様した、と思われる。というか前田利長と加藤清正が上洛禁止、無理に進軍するなら必ず止めろと命令が出てるから家康の元にはかなり詳細な情報が入っていた可能性が高い(それが事実かどうかは放っておいて) 家康暗殺計画の理由は乃至氏は「家康と淀君の婚約破棄」だとしてる。ここで注意しないといけないのは「豊臣恩顧は秀吉の遺言に忠実で外様は遺言を破壊しようとしてる」という思い込みから脱却しないといけない。
秀吉は家康を二代目秀吉に指名した訳で故に淀君との再婚も遺言してた。それでこの時期「家康と淀君が結婚する」って噂が出てる。その時が重陽の節句とみられてた。豊臣派からするとこれは家康による豊臣の乗っ取りに他ならないので阻止したい。それで大野らが家康が結婚する前に暗殺してしまおうと計画する。前田利長・加藤清正がどれくらい関わっていたかは不明だけど噂になるような真実味のある情報が流れたんだろう。結局、この結婚は破談になった。豊臣派にとっては勝利だが秀吉の遺言はまた一つ反故になった。 豊臣公儀は幾つもの対立軸を持っていて指摘されてるだけでも東vs西、武断vs文治、大老vs奉行、外様vs豊臣恩顧、そして徳川vs豊臣。面白いのはこの中で秀吉が家康を後継に指名した結果豊臣恩顧衆が反発して秀吉の遺言を公然と反故にしていくというこの流れ。秀吉が見てたら泣くんじゃないか。
よりにもよって目を掛けていた連中が秀吉の意思を破壊していったんだもの。 大昔に笠谷氏が指摘した豊臣政権の構造的矛盾でしょ?
徳川VS豊臣を第5の矛盾として掲げてるところに、時代遅れ感が否めない >>446
なんかwwww枯れた笑いしかでないぞ
四大老が謝罪謝罪して起請文とか書いて有る時点で、信頼度なんかないでしょ
少なくとも、前田利家と家康との手打ちは最低でも対等だ
それ以外の条件で折れたら、前田の面子丸つぶれだしな
死後に家康が有耶無耶にしたとしても、それは死後の事 早朝に書き込まれてから20分で出てくるほうがビクビクしているように見えますけどね オウム返しは図星の証
やっぱりビクビクしながら覗いてたんだね 家康自体が秀吉に指名された豊臣公儀そのものだった。その豊臣公儀に逆らった西軍の連中はテロリスト。家康は何一つ悪くない
結局豊臣潰してんじゃん どうかな。笠谷氏の指摘は俗説を超えたところにあると思う。秀吉は家康を後継に指名して謂わば豊徳合体を遺言して死んだ。これは史料上明らかなんだが問題は当の豊臣にこれを遵守する動きが無い。例えば淀君の密通事件も「家康と再婚するのは嫌」という豊臣家の意思表示だし秀頼がギリギリまで伏見の家康に会わなかったのもそう。つまり明らかに豊臣家は徳川を異物として認識してる。これが豊臣vs徳川の構図。秀吉の遺志を無視して豊臣家が決定してるのがポイント。豊臣家の中にも豊徳合体を志す人がいて加藤清正や片桐且元なんだが彼らの意見は結局豊臣家を動かさなかった。 そもそも、淀君の密通事件とか、淀君と家康の婚姻計画とか、清正の家康襲撃計画とか、史実認定でいいの?
そういう説もあるかも程度なのに、論拠の核にしちゃダメでしょ >>471
まず淀君と家康の結婚話は事実である可能性が極めて高い。
多聞院日記にもあるし看羊録にも書いてある。かなり広く信じられていたんだろう。秀吉が家康を後継にしてる以上淀君との再婚は必須。しかも秀頼に「家康を父と思え」とまで言っとるのだから筋は通ってる。
それが淀君の密通で有耶無耶になってるけどこれ考えてみると損をしてるのは家康なのよね。秀頼の父として豊臣を牛耳る絶好の機会を逃した。後に将軍になって幕府開いてるからノーダメージにみえるだけで。 >>473
看羊録は、朝鮮人捕虜の風聞記なので、当時の世相を知るのは有りだが、その記載を以て史実認定すべきではない
多聞院日記については、計画ではなく祝言をあげた事になってるが? 乃至氏は看羊録も多聞院日記も当時の最高知識層の記録なので軽率に否定は出来ないとしてるね。実はかなり重要な記録でもある。 看羊録を、世相を知る上での史料として否定する気は全くない
水野伍貴氏も、風聞記としての史料価値を認めている
多聞院日記を否定する気もない
繰り返すが、多聞院日記は祝言をあげたとしているんだが? >>476
朝鮮人の捕虜が後で書いた本ですしね
つまり、捕虜の立場で見聞きしたお話を書いてるだけで事実認定は乱暴かな
まあ、当時流れてた噂を知るうえで興味深いのは事実だが
東スポの記事が200年後に残ってたら、確かに貴重な一次資料でしょうがね
それと信憑性は別でしょ 多門院日記を論拠にするなら、家康と淀殿の婚姻関係は成立している事が前提となる
>>470でいう所の、豊臣VS徳川の構造は成立しないということ >>473
> それが淀君の密通で有耶無耶になってるけどこれ考えてみると損をしてるのは家康なのよね。
> 秀頼の父として豊臣を牛耳る絶好の機会を逃した。
家康が成りたかったのは「豊臣家の後見人」ではなく「徳川家の天下人」なのだから損なんかしていない 多聞院日記、慶長四年九月十七日条には
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、 高野へ参候由珍重無殊儀候」
とある。現代語訳すると
「大坂で十日に淀君と家康の祝言があるということでこれは秀吉よ遺言によるものだというが、大野治長が淀君を連れて高野山に入ったということでとんでもない話だ」
とでもなるのか(人によっては「破談になった」と訳してるけど) つまり多聞院の僧侶(英俊か?)は「淀君と家康が結婚した」とは聞いてないという点に注意が必要。むしろ「秀吉の遺言による結婚が破談になった」と聞かされてる。結婚したての淀君が大野治長と二人で高野山にピクニックしたとも思えない。もっというと祝言があったとも思えない(期間が短過ぎる)
内藤隆春書状では「(大野は)淀君と密通して共に切腹のところを宇喜多秀家がかくまって高野山へ逃げると言ったらしい」とあるが… 史料を突き合わせるとこうなる。元々、秀吉の遺言で家康と淀君が結婚すると思われていた。家康が大坂城に行く機会は限られているが重陽の節句に行く事が判ってる。縁辺発表の機会としては最適なので誰もが九月十日に祝言があると思っていた。ところが大野治長はなんと淀君を連れて高野山に行ってしまう。結果祝言は行われなかった。
治長と淀君は密通していたから高野山に行ったのだ、というのが定説(そして秀頼の父親が治長というのが俗説)だが史料上因果関係は不明。つまり密通の事実が露見したから高野山に行ったのか高野山に行ったから「あいつらデキてやがった」と言われたのかはわからない。ただ多聞院日記では全て十日の出来事にしてるから後者が正しいのではないか。 >>481
『去ヌル十日』とあるから過去の話
『祝言之在り候』は過去形で訳すのは当然
「大坂で去る十日、淀君と家康の祝言がありました」
多聞院には、「淀君と家康が結婚した」という情報が入っている だとすると大野治長が淀君を高野に連れて行ったという情報の意味と「珍重無殊儀候」の意味が取れなくなると思う。
現実として家康と淀君の祝言は行われてない。対して治長と淀君が高野山に行った事は複数の史料に残ってる。多聞院には淀君の祝言が破談になった事とその理由が伝わってるんじゃないか。そりゃ多聞院は祝う気持ちにはなれまいよ。 >>481
とんでもない話だなんて訳にはならんでしょ
「高野へ参候由珍重無殊儀候」は高野へ赴いたそうで何事もなくめでたい事だという文意になる
この後に「大名之由候」(大きな名誉だ)と続くし、無事に事が済んで大事に至らず良かったという意味に取れる なんで高野に行く事が名誉なんですかね…豊国社に参るならまだ判るが…しかも高野山に彼等が行った理由は切腹から免れる為ときてるし。 直訳すると、
「大坂で去る十日、淀君と家康の祝言がありました。秀吉の遺言があったとの事です。 大野治長が淀君を連れられ、高野山へ行かせた事は、格別に結構な事です。」
『珍重無殊儀候』については、ほとんど真逆の訳ですが、これ以外に訳せません
ここからは行間の意訳ですが、当時の高野山の意義です
高野山には戦国大名の墓が多くあり、秀吉の墓もあります
大野治長に導かれ、秀吉への挨拶に参上したのではないかと個人的には思います
そもそも、家康と淀君は祝言を挙げていないので、誤った情報から始まった日記ではありますけどね 無殊の殊=事でつまり事無し、何事もないって意味でしょ
同時代の史料から無殊の用例挙げると、
・天正13年11月28日付北条氏規宛徳川家康書状
「上方之儀、至于今無殊子細候、於時宜者可御心安候」
・天正15年2月24日付上杉景勝宛豊臣秀吉判物
「去二日書状加披見候、関東無殊儀之由被申越候」
とんでもないなんて訳にはならんよ やはり史料からは、関ヶ原以前に『豊臣vs徳川』の構造は存在しないとしか言えない 英俊が家康と淀君の祝言があったと信じたとは思えない。
当時の結婚ってのは書類に判子して終わり、なんて事はあり得ない。しかも単なる地侍なら兎も角内大臣・徳川家康と摂関格・豊臣の姫による婚姻になる。まず祝言の前の輿入れが盛大に行われるはずだしその後数日は儀式が続く。ところが多聞院日記ではその儀式が描かれてない。やってないから当たり前なんだが…それで「祝言」をしたというのは怪訝な話だしその直後新婦が夫を置いて男と旅行とか非常識極まり無い。どう考えても一波乱ある訳でそりゃ「とんでもない」事。 そういう日記を書いちゃったんだから、どうしようもないよね
キミの気持ちはわかってあげたいんだけど >>491
複数指摘があるがそれ誤訳だから
それに多聞院日記をつらつら読んでいると分かることだが、伝聞情報が誤りだったとのちに判明すると「コレハウソ」とか加筆あるんだよ
淀殿婚姻が実際にあったかは私には分からないが、英俊はその後も嘘だという認識がなかった可能性がある どこの誰の訳を引用したのか知らんが、まず自分が読めないと恥をかくという話 >>477
新聞も当事者じゃない人の日記も一次資料ではない 多聞院日記を正確に読むと九月十日に何があったかわかる。
十七日条には「家康と秀頼の母の祝言」と「大野修理が秀頼母と高野山に行った」事が記されてるがこれよく読むと時間が一歳変化してない。祝言と大野・淀君の高野山への移動は両立しない。そして史料上淀君の祝言は確認出来ないが二人が高野に逃げた事は確認できる。つまり英俊が書いてるのは「九月十日に祝言」ではなく「九月十日に大野が淀君と逃げた」こと。それを英俊が「珍重では無い」と言うのは当然ってことになる。 >>496
正確に読んでいるのではなく、自分の歴史観に都合よく訳しているだけ
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候」は、「大坂にて去る十日、淀君と家康が祝言を挙げました」以外には訳せません
キミの手法は順番が逆で、多聞院の認識と史実との整合性検証は、別の話であり次の話
まずは正確に訳すことなんだけど、この文章簡単過ぎて間違えようがないと思うんだけど
後半、キミの訳通りの文章を作るなら、
「去十日、大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重無殊儀候」とすればいいだけ
多聞院は文章構成も出来ない馬鹿じゃないと思うよ
さらに、
「珍重無 殊 儀候」ではなく、「珍重 無殊 儀候」なわけ
「珍重無い」という使い方はない
「殊無ク珍重ノ儀ニ候」 もし淀君の結婚と大野による高野山連れ去りが別の時間軸なら英俊はそう書く。つまり去十日…十四日…って感じにね。
ところがこの二つは連続して書かれている。つまり大野修理が秀頼母を高野山に連れて行ったのは九月十日の事となる。他の日を見つけるのは難しい。この二つは両立しない。何方が正しいのか。
まず祝言は史料上存在しない。貴族の結婚なのでその準備だけで数ヶ月掛かる。家康がそうした動きをした史料は無いのでこれは「噂」である。対して大野治長が高野山に行ったというのは複数史料で言及されてる為「事実」になる。と、言う点から殆どの研究者また小説家はこの十七日条を以て「祝言は破談になった」と訳するのである。 >>497
× 殊無ク珍重ノ儀に候
○ 珍重殊無キ儀に候 >>498
日記の九月十七日条に書かれているんだから、大野治長が淀君を高野山に連れて行ったのは、9/17と考えるのが普通
そして文章冒頭で「去ヌル」十日に淀君を家康が祝言を挙げたと書いているので時系列に何等う違和感はない
繰り返すが、キミの訳は事前知識・予備知識があって初めて出来る意訳
戦国時代に興味のない大学受験生にこの文章を訳させたら、キミの訳には絶対ならない >>498
祝言がないのは誰でも知ってんだよ
多聞院日記の誤認も踏まえて訳さなきゃならんのがわからんのかね? 祝言が史料上存在しないんだから、研究者が「破談になった」と訳すのもおかしな話だな
なんか言ってる事がメチャクチャ 婚姻しようとしたら逃げられたと考えればどうだろうか
当時家康に正室いないしな
養父ってことで秀頼見守ってくれと
淀があんなデブ爺イヤーとなったと
ガリ爺の秀吉に抱かれていたのだが、体格で好みがでたのかw >>500
その可能性は無いだろ。なら「十七日」と明記する。
何も書いてないのだから淀君の祝言と大野の淀君連れ去りは同じ十日の出来事でありそして大野が連れ去ったと言う事は祝言が行える訳が無いのだから祝言は破談になったというのが多聞院日記の解釈になる。 >>504
いや、多聞院日記は、基本的に文章中に発生日を付していない
なので研究者は、日記の記載日=発生日で捉えている
この件については、(史実ではないが)家康と淀君の祝言が、日記記載日より過去の事象なので「去ヌル十日
」と特にバックデートを付している
「破談になった」なんて単語はどこにもない
むしろ、誤認によって「珍重(祝うべきこと)」だと言っている
自分の歴史観に都合のよい意訳はやめた方が良い 意訳じゃないし誤訳だよ
ついでに史料批判の精神も欠片もない
多聞院日記の前後をざっと読む限り、英俊は治部の佐和山退去や家康の伏見入城で世の中が静かになると一貫して歓迎している
事実だったかはともかく、どんな錯誤、風聞があったのか、一連の記事も「珍重」と認識しているわけだ
17日条は黒い味のよい酒や水煮の松茸を味わいながら一日遊興して碁を打っている、めちゃくちゃご機嫌
その後も伏見や大坂には普通に使者を出し、情勢不安などは報じられていない
どういう考えなのか不明だが、英俊にとって「天下殿」になった家康の立場を悪くすることとは捉えていなかったんだろう、高野山行きは 多聞院日記には「九月十日に」「大野治長が淀君を連れて高野山に逃げた」と記されてるね。この時点で祝言は破談になったと見做されてる。ちなみにこの祝言は結婚儀式の祝言じゃない。祝言の前には輿入れ等の儀式があるのでそれらを耳にしてない筈がないから。これは広義の祝言つまり「結婚宣言」という意味。当時秀吉が家康を後継に指名した影響で「家康と淀君が結婚する」という風聞があったがこれは家康の動きを見るに単なる風聞だった。 家康と淀君との婚姻が遺言であったとしても文書に残らない一部の人にのみ伝えた口頭の遺言だろう
とはいえ秀吉が利家にこの件での差配を任せたとしたら利家と家康が揉めたというのは分からなくはない
この頃の政局は詳細不明が多いから話は色々と盛りやすい >>505
多聞院日記は文章中に発生日を記さない?その研究者とやらの名前を知りたいな。教えてくれないかな?
ど素人だが少し調べると
「天正十年六月一日、『今日』夜大雨事事敷降、夜明テ五ノ三より止了…信長公『一昨日二十八日』上洛云々大宮番衆ヘス」
「十五日、『去十一日』歟ニ木津ヨリ庄村下地被注了…向州人数千余『十二日』ニ損了… 『昨日』ヨリ筑前大津マテ打越了、『今日』山ニテ見レハ比叡山ノ東ノ方大焼也ト申」
(多聞院日記三)
英俊って普通に発生日まで記してるんじゃないか?
つまり家康・淀君の婚姻と大野修理の連れ去りが時間が別なら、
「去十日家康…祝言在候、昨日大野修理…」って書いてると思うんだが… >>509
私の言ってる事であってますよね?
基本的な多聞院日記の形式として、冒頭に『記載日=発生日』が記載される
(ただ一点、記載日と同日の場合でも、時々「今日」と記載される事があり、これは認識を誤ってました)
で、キミが選んだ『天正十年六月一日の条』には冒頭の記載日がなく、いきなり『今日』から始まるイレギュラーな条だという事
キミが調べてるなら、この条が他の条と異なっていることはわかってますよね?
つまり、
「天正十年六月一日、今日夜大雨事事敷降、...」ではなく、
「今日夜大雨事事敷降、...」となっているはず
この(天正十年六月)一日の条は、4条からなっていて、4条目に
「信長公一昨日廿八日上洛云々」とある
この4条目は、日記の記載日(六月一日)≠発生日(一昨日廿八日)なので、
バックデートを付している
他の3条は、記載日(六月一日)と同日だから、発生日を付していない もう一つの
「十五日、去十一日歟ニ木津ヨリ庄村下地被注了、...」
これは原則どおり、頭に日記の『記載日=発生日=十五日』を付している
この『十五日の条』は全部で6条あるが、最初の1条は発生日が十五日ではないから、バックデートで『去十一日』と付している
5条目も同様に『去月廿三日』、6条目も『先日』と付している
2、3条は発生日(十五日)と同日なので日付は付していないが、4条は同日だが『今日』と付している つまり、
・冒頭の記載日と各条の発生日が同じなら、日付は付さない(ただし、時々「今日」と付することがある)
・冒頭の記載日と各条の発生日が違う場合、バックデートで日付を付す
繰り返すけど、大野の連れ去り(?)を、記載日(9/17)と異なる9/10としたいなら、
「去十日、大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重無殊儀候」とすればいいだけ ながながお互いなにやってるんだか
「めでたい」と書いてあるのに婚姻破談なんて明白な誤訳があるんだからそこでおしまいで、下らないことしないでくれよ
破談したとほとんどの研究家や小説家wが記しているそうなのに、一端でも実名を明らかにできない時点であいつは妄想なんだから触る価値無し 新聞購読を止めて、月3400~4900円、年間40800~58800円の節約
新聞にそのような金を払う価値はない
積極財政を否定し緊縮財政による経済縮小を主張しているからだ
それではいつまで経っても経済は良くならない
それに金を払って購読することは自らの首を絞める自殺行為に等しい 多聞院日記解釈についてはスレ違いではないので続けていい。
>>507のひとが触れてるが、「祝言」には
婚姻の祝言以外の用法はないの?
それと高野山になにしに行ったのかは読み解くヒントにはならないの? >>507
その前に、
慶長四年九月十七日条
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候」を正確に訳してみてくれないか?
>>481では、
「大坂で十日に淀君と家康の祝言がある、」
十日と過去の話なのに、語尾は未来形という訳がわからん訳なので改めて頼む 乃至氏は多聞院日記の記述から九月十日に大野修理と淀君が高野山に逃げたと断定してる。で、俗説で言われる「淀君と大野の密通」は実はこの事実から出た噂だという事がわかる。つまり「淀君と大野が高野山に逃げた→だから2人はデキていた」ということ。ここで重要なのは「家康と淀君の結婚」は噂だけど「淀君と大野の脱走」は複数史料で確認出来るから事実。看羊録にもあるので多くの人間が信じているが家康はそんな遺言状なんか持ってない。それがあれば「家康は秀吉から禅譲された」と言えたんだけどね。 じゃあ何で大野が淀君と逃げたのか?家康と淀君が結婚するというのは事実無根なので理由じゃない。となると理由は一つ。家康暗殺計画しかない。家康と淀君の結婚は上流階級すは信じており豊臣家はこれに反発して家康暗殺を図った。ところがこれが奉行から家康に通報される(俗説では増田長盛だが看羊録では石田三成)内容は「前田利長が家康暗殺の為に兵を送り込んでる、首謀者は大野修理」といったものだった。
これで追い込まれたのは大野治長で重陽の節句が終わると家康に何をされるか分からない。それで高野山に逃げて釈明を行った。つまり大野が逃げたのは家康と淀君の結婚をぶち壊す為でも密通の事実を掴まれたからでも無い。暗殺計画に対する申し開きとして逃げたに過ぎない。 >>519
おーい、逃げないで回答してくれよw
慶長四年九月十七日条
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候」を正確に訳してくれないか?
すぐ出来るでしょ? 慶長四年九月十七日条じゃろ?正確には
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、 高野へ参候由珍重無殊儀候」
とあるね。
「大坂では十日に秀頼の母が家康と祝言をするということでこれは太閤の書置きがあるということでしたが、大野修理が秀頼の母を連れて高野山に行ったとのことでとんでもないことになりました」、と言う事。祝言は無かったというのが多聞院日記の記述で間違いない。
何故なら家康の祝言が在るという日(十日)と大野修理が淀君を連れて行った日が同一だから。祝言は広義と狭義に分かれるが新婦が祝言の日に男と逃げるなんて最悪の出来事(しかも高野山)。英俊はどんな非常識な人間でもこれくらい分かるだろうとこうした書き方をしてるんだね。現実でも家康と淀君の祝言は全く行われてない。豊国社とかならまだ他の訳もあるけどと高野山ではなぁ… >>522
いや、だからそれおかしいだろって
慶長四年九月十七日条
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、」
「大坂では十日に秀頼の母が家康と祝言をするということで」
9/10は過去の事なのに、なんで語尾が未来形なんだよ? 東スポの記事とか、ムーの記事根拠に議論みたいな感じに思えるが?
お坊さんが書き留めた噂を記録した日記にそんなに価値有るのか? まあでも家康は既に秀頼の義理の叔父で将来の外祖父は約束されていたけど
さらに紐帯を強める最後の仕上げとして義父にしてしまうというのは
秀吉の異様な徳川への入れ込みようから有り得なくはないとも思えてしまうな
そうなるともはや徳川を豊臣に取り込むのではなく豊臣を徳川に取り込ませることになりそうだが >>524
秀吉遺言体制の矛盾として、豊臣vs徳川の矛盾が挙がったわけ(>>473)
その根拠として、看羊録と多門院日記が示されたんだけど、
御覧のとおり、多聞院日記では「家康と淀殿の祝言があった」(もちろん誤認なんだが)と認識しており、
その誤認に基づいて、大野治長と淀殿の高野山入りを「格別にめでたい事」としている
つまり、徳川vs豊臣の根拠には全くならない史料だという事
古文を読めない約1名が、デタラメな訳を吹聴しているという状況 高校の授業から古文をなくそうではないかという動きがあるが
アホかと言いたいわ >>523
何を気にしてるか知らんが祝言の噂も大野の脱走も同じ九月十日の出来事だぞ。この二つの出来事に時間的差があるなら英俊はこう記述する。
「『去十一日』歟ニ木津ヨリ庄村下地被注了、乍去坊領ハ除之云々一帖遣之向州人数千余『十二日』ニ損了、坂本ヘワツカ三十計ニテ打帰、『昨日』ヨリ筑前大津マテ打越了、『今日』山ニテ見レハ比叡山ノ東ノ方大焼也ト申」
これは当然の事でその出来事がいつ起きたのか書かないと同時の事と看做されるんだからね。そして祝言と大野の淀君連れ去りが同時という事は祝言は破談になった事を意味してる。 >>528
ゴニョゴニョごまかさないで、まずは訳してくれよ
キミの基礎学力にかけて、正確に頼むよ
慶長四年九月十七日条
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、」 >>528
しかもキミ、本当に卑怯者だよね
全文をちゃんと書きなよ、冒頭の記載日が抜けてるでしょ
>>509では、ちゃんと入れてたよね?
「十五日、『去十一日』歟ニ木津ヨリ庄村下地被注了、乍去坊領ハ除之云々一帖遣之向州人数千余『十二日』ニ損了、坂本ヘワツカ三十計ニテ打帰、『昨日』ヨリ筑前大津マテ打越了、『今日』山ニテ見レハ比叡山ノ東ノ方大焼也ト申」
各文節にバックデートで日付を振ってるのは、各事象が日記記載日の6/15と異なるから
(ただし、時々同日でも「今日」と付す事がある) >>530
そいつに触ったらいけない
妄想マンにして史料を読む国語力がない
古文以前に現代文すらおかしい 多聞院日記では日付が違う場合ちゃんと書いてるので家康の祝言も大野の連れ去りも同じ九月十日の事です。本当にありがとうございました。で、家康祝言の事実は全く無いので事実として伝わったのは大野と淀君の高野山への逃亡の方。 大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、 高野へ参候由珍重無殊儀候
これで同日じゃないはずが無いわな。もし違うなら
大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、『今日』高野へ参候由珍重無殊儀候
ってなってるはずだしな。 一つ注目すべきは大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候となってることで大野治長が淀君を連れてるという点。淀君が自発的に行ったのではなく大野が主となってる。立場的には淀君の方が高い筈だが。「家康と結婚させたくなくて不倫相手の大野が連れ出した」って噂がこの時期には流れてたんだろう。看羊録に載ってるから上流階級すら信じてた、絶好のスキャンダルだったと。 先に指摘された通り、末尾の「大名之由候」になぜ触れないのかね
恣意的というより読んでないんだろうな >>534
「大坂ニテ去十日」と、場所・日付を限定していて、これが指す内容は「秀頼之母家康ト祝言在之候」だけだよ。
文全体を同日にするのは無理がある。 >>534
ならないよ
記載日と同日の場合は、『今日』を付さない方が圧倒的に多い >>505
取り敢えずこの「研究者」とやらは誰なの?そいつの論文読んだ方が早そうだわ。ついでに九月十七日条で「大野修理が十七日に高野に行った」って書いてる本って何さ? >>540
キミが正確に訳してくれたら、必ず回答するよ
キミは卑怯者だから(笑
慶長四年九月十七日条
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、」
よろしくね 日記って、基本は当日に起こった書きますよね。
だから日記なわけで。 >>541
なんだ研究者なんか知らないのか。なら最初からそう言いなさいよ。 >>543
キミと違って、嘘はつかないから安心して
私が心配してるのは、キミが研究者の論文とか著書を読んでも理解できないんじゃないかという事
なぜって、この程度も訳せない基礎学力だから >>542
だから英俊はわざわざ日時を書いてわかりやすくしてる。
「大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、 高野へ参候由珍重無殊儀候」
日が違う場合はそう書かないと混乱するからね。つまり大野治長が淀君を連れ出したのは九月十日ということになる。
問題は英俊のこの事件に対する態度つまり「珍重無殊」だけどこれは「とんでもないこと」と訳するのが一番自然。
何故ならこの時の大野と淀君の「噂」ってのは
「秀吉は家康と淀君を結婚させようと遺言したけど淀君は大野と情を交わし妊娠していたので従わなかった」(看羊録)
「淀君と大野は密通しており本来二人とも切腹になるはずが宇喜多秀家の手引きで高野山に逃げたらしい」(内藤隆春書状)
と最悪の下半身スキャンダル。英俊にも同じ噂が入ってるわけでそれが「素晴らしいことだ」となると英俊が凄い皮肉家なのかもしくは大の家康びいきで「これで家康様の天下は磐石」と言いたいのかって話になる。英俊をそんなキャラにする必要はあるまいよ。 >>544
今必死にYahoo!検索してそう。早く論文見つかるといいね >>546
確かに
キミが理解できるレベルを探すのは骨が折れそうだよ >>546
えっと、今書いた皮肉は理解できてる?
説明した方いいかと思って >>548
そういうのはやめときましょうよ。不毛です。
回答を待ちましょう。
>>545
「去十日、大坂ニテ秀頼之母家康ト祝言在之候、太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重無殊儀候」
であれば、仰る通りかと思います。
珍重 ・・・珍しいものとして大切にすること。もてはやすこと。
殊無し・・・この上ない。格別である。
意味が全然違いませんか? 486や536で指摘されてる「高野へ参候由珍重、無殊儀候、」の後に続く「大名之由候」には頑なに触れないのな
「大名之由候」はどう解釈してるの? >>545
無殊儀を「珍重無き殊(の)儀」なんて読み下すバカは義務教育すら怪しい
漢文調で「殊無き儀」でしかありえない
いくらでも用法はあるが分かりやすいところ
例えば
下燒上云、急懸水間無殊儀
下から焼き上げたというが、急ぎ水を懸けたので大変なことになった、とでも訳すの?
世の中の多数の訳が正反対に変わってしまう
算数もできない人間が数学をとくとくと語ろうとする
おまえさんがやっているのはそういうこと
正直いって恥だよ >>549
珍重=めでたい
殊なし=問題はなかった、特段のことはなかった
中近世の文書ならこう訳すのがほぼ鉄則
現代語で考えても無意味
よく「珍重珍重」がでるがこれはおとぎ話の「めでたしめでたし」だし、「無殊」については「事なき(を得た)」に近い
普段から中近世史料に当たっていれば分かることだろ ソース求められて出さないとかよっぽどトラウマだったのだろうか。可哀想に… もう不毛だから意見を聞きたい
たしかに翌月、大野は配流される
ただ英俊は高野行きをめでたいこととし、配流には触れていない
配流は家康暗殺のかどと関ヶ原戦記などだったと思うがあるが、どうもその理由は分からない
つまり史実かはともかく、英俊の認識では祝言のあとに淀殿の父長政や秀吉の菩提を伴い、めのと子の大野が淀殿参詣を実行したくらいの考えだったんじゃないかね
うーん、まとまらないな >>553
>>554
君らみたいのもいらないから >>552
なるほど。
weblioで該当の古語を調べたところ、全然違っていたので。
いずれもプラス方向の意味だったので、「とんでもない」とはならないのでは?
と思った次第です。 >>558
weblioっての見たら本当にそれしか出ないんだね
いづれにせよポジティブな言葉で、この場合はめでたいとしか訳せない
中近世儀礼の贈答に対する返状とかなら別の可能性も 慶長4年9月23日付島津龍伯・忠恒宛伊那令成書状
「仍而内府十七日ニ大坂江被罷下、重陽之御祝儀被申上、其上於爰元、秀頼様御為悪事申ニ付て、大蔵卿局・大野修理退出被申候」
上記の様に9月17日に家康は大坂城で秀頼に重陽の節句のお祝いを述べ、
秀頼のためにならないとして大蔵卿局と治長を大坂城から追放してる
英俊はこの日治長は淀殿を連れて高野へ向かったとしてるけど、淀殿は大坂城から出てなくて
実は大蔵卿局と治長が高野へ向かったって話がなぜか淀殿と高野へ向かったと改変された可能性もあるかもな
まあその辺は史料に拠らない話なんで推論になってしまうけど >>556
英俊の認識はそれにほぼ同意ですね
当該文に、淀君と大野の不義密通を感じさせる空気は全く感じない
よって多聞院日記は、笠谷氏がいう所の豊臣政権第五の矛盾『豊臣vs徳川』の根拠足り得ないし、その矛盾自体も甚だ疑わしい >>560
九日大坂という看羊はともかく十日大坂という多聞との違いが気になる史料ですよね
こちらの書状の方が普通は(史料批判レベルに無いが)正しいと読むけど
いずれにせよ去十日と半日足らずで情報が伝わるはずなのに、一週間後に記した伝聞の方が価値は厳しいですね
秀吉遺言の婚姻破棄で駆け落ち同然なのに英俊がその後もスルーしてますし
財物隠しただの騒動不斜とか頻出してないと不自然
あくまで一般論ですが
>>561
そこら辺はよく分からないから勉強させてもらいたいもんだ
誤訳君に付き合ってるのだけは時間の無駄だ 高野山に行くって事が「名誉」な訳が無いから多聞院日記を誤訳してる。英俊が聞いた噂ってのは「淀君と大野が密通していて高野山に逃げた」ってもので亡夫の家臣とのスキャンダル。しかも「二人とも切腹」とまで言われてる(内藤隆春書状)からどう見てもおめでたい状況じゃない。
有りえるとしたら高野山で関白・秀次が切腹してる事を踏まえて「淀君も大野も関白みたいに死ねるなんてめでたいなぁ」っていう強烈な皮肉ってことになるけど… 大野治長は兎も角淀君まで腹切るかもしれんって時に「珍重ですね」とか英俊よほど豊臣の事が嫌いだったんだろうなぁ
確か英俊、伏見城に家康が入った時も「天下様になられためでたい」って言ってたし豊臣ではなく徳川の天下を望んでたのだろうか。 >>563
じゃあ大名之由候まで含めた記事の全訳をしてみてもらえますか?
あなた、長篠スレでも誤訳だとさんざ叩かれてますが
思い込み、誤訳で人一倍連投されても邪魔なだけなんですが
レ点からやり直せ 秀吉の遺言が豊臣家によって反故にされてる訳で真実ならとんでもない事態だからな。家康の私婚がーとか七将が三成ををーとかそんなレベルじゃない。その上豊臣家を仕切ってる淀君が切腹になれば豊臣は実質的に崩壊だし。それがめでたいってことは要は徳川家康の時代を喜んでいたんだろう。 指摘された事に反論するでもなく、納得するでもない
レス応酬しても面白くないし、放置が一番 唐突に出てくる淀君の不倫話のソースが多聞院日記・看羊録・内藤書状だけど淀君には特段罰が無い(看羊録でも激怒した家康は大野を流罪にしてるけど淀君には何もしてない)
そもそも秀頼と千姫を枕元から結婚させた秀吉が家康と淀君は遺言とか妙な話で完全なデマだし。家康暗殺事件で首謀者とされた大野を淀君が庇った事から来たスキャンダルなんだろう。 議論する気がない人にレスする必要はない。
なので、この人のレスを読む必要もない。 秀吉は諸将を前にして家康を次期後継に指名し、秀頼に対しても「家康を父と思え」と遺言した(パシオ師の報告)それで家康も政治をしてる。ところが当の豊臣からも反発されてた訳でまぁそれが豊臣崩壊の序曲だよねって 真面目な事書くと、幼少の主君の生母と後見人を結婚させると言う発想はイスラム世界では
普通にあり、この場合アターベクと言われる
考えると分かると思うが、こんな事したら主君飾り物にして下克上企む奴が普通に
湧く訳でね
セルジョーク朝の三代目のアタベクは名宰相で忠臣として有名だけどこういうのは例外で
実際には、下克上正当化する為の名目になってる事が多いですね
本当にそんな事実あるなら、死ぬ前に遺言残してないと変だけどこれだと前田の
傅役と矛盾するんで有り得んと思う 原文を読めず、明らかな誤訳してる人
誤訳の原因は、自説に都合の良い解釈と、原文作者に現代の認識を持たせてる点
2、3回レスを繰り返すとわかる 多聞院日記から「家康と淀君の祝言があった」って言ってる学者や本は見た事が無いな。大抵それは「淀君/大野にぶち壊された」って話になる。看羊録に載ってるくらいだから上流階級まで信じてたみたいだけど徳川と豊臣が結婚運動してたって痕跡は無いからね。彼らは最上位の貴族だから事前の準備だけで数ヶ月は必要だし輿入れからド派手になるだろうし。だから実は大野治長が高野山に逃れてる事の方が大事。 9月9日の重陽の節句は豊臣家が大事にしていた可能性があるんじゃないだろうか
豊臣姓を賜った記念日でもある
であるから秀吉が家康に大坂へ頭下げにこいと書き残し、「祝言」(婚姻ではなく単なる祝い事)させた
と考えてみたが「秀頼之母家康と祝言」だからやっぱりダメな仮説だ
英俊のあの記事は謎が深い ともう一回斜め読みしたが、この記事のあと慶長四年中には大野はおろか政治向きの記載もなし
ちなみに天和三年正月八日条には「無殊事、何方へも不出、咳気散々に成了」とある
なにも用事がなかったのでどこへも行かなかった、風邪がひどくなった
同じ用語用法ですね >>577
いやだから見えないって
確かに番号は飛んでるけど 家康暗殺事件は俗説だと増田長盛、看羊録では石田三成の密告で露見してる。この黒幕は前田利長って話なんだが実行役と思わしき土方雄久が前田利長の縁者って事で疑われたんだろう。家康が理性的だったから良かったけどちょっと気が荒かったら血の粛清が始まってたんじゃないかこれは。 普通に叩きたいからの口実だろ
なんていうか、こういう抜け抜けとした部分が如何にも盗将大権現
この時点まで、露骨に徳川よりだった浅野を隠居させて国元にかえらせる
浅野は自領の甲斐通過して徳川領に隠棲「自主的に人質」という結末
政治的見せしめ効果抜群だけど、浅野の行動は見事すぎて根回し連想するよな
だって「!!!浅野は徳川派では?」となるからね、実に見事盗将大権現の智謀は
素晴らしい、この時期のこの人はラスボス臭がするよ 古文がダメで司馬遼太郎レベルの創作小説からの引用知識での例え話しか出来ないんだろう いい年だろうし
せっかく生きてるうちに戦国研究が進展してるのに、それを理解せずに死ぬんだろうな
勿体ない 司馬遼太郎の小説は最早古典と化してるからね。
ただ当時徳川と豊臣の合体は結局為されなかった。乃至氏は大野と淀君がぶち壊したとするけど秀吉の遺言書が無い事や秀頼と千姫の結婚を考えると家康と淀君の結婚自体根も葉もない噂に過ぎんかったんだろう。ところがそれを間に受けた連中が居たということ。 司馬の本はかなり売れたからね
これに洗脳されない方がおかしい 小説です
水戸黄門や忠臣蔵にもいちいち文句を言うのですか? 小説と史実を混同して語るから
区別するように指摘されてるだけでは?
チンギスハーン義経節前提に歴史語られたらどうだ この時期の淀殿の風聞については二つあり、一つは家康との婚約、もう一つは大野との不義密通。
多聞院日記では、前者は存在したと認識しポジティブに捉えているが、後者については全く記載されていない。
他の史料の風聞と結びつけて、意訳するのはあかんと思うね。
多聞院日記においては、徳川と豊臣の宥和は歓迎されるべき事であったんだろう。 >>588
乃至は司馬と同類の「小説家」だから読むだけ時間の無駄。 >>589
司馬遼太郎の振る舞いに問題があった
あの人都合が悪くなると小説だと言って逃げたけど普段は歴史家であるかのようなミスリードもしてた
文筆家としてはアイデアも文章力も本当に天才的で、小説以外の読み物もいまだに読まれていて、それもただの小説家じゃないと誤解される原因になっていると思う そのドラマやゲームがモロに司馬史観の影響を受けてるんだがな >>596
意外とそうでもない
平山がドラマだから仕方ないとか開き直ってるくらいだし
そのくせ小説家は小バカにするダブスタ しかも司馬って小説だけじゃなく、
エッセイとかも嘘つきまくりだよね
有名な嘘は太平洋戦争中、上官が
民間人を轢き殺せといった話とか 大河と司馬と言えば国盗り物語
この司馬原作大河ドラマが日本人の歴史観に与えた影響たるや
今も残るマムシの道三とか、革命家で無神論者の信長の無体に耐え忍ぶ保守的な明智光秀とか全部戦前からあった本能寺の変の光秀怨恨説を司馬遼太郎のアイデアで一流のエンタメに焼き直した創作だからな 坂口安吾の信長公記首巻の姿を不良少年と重ね
悪童のまま天下に喧嘩を売った織田信長像
そこから司馬遼太郎が国盗り物語で完成させた 仕方が無いでしょ、司馬さんが書く家康像はかっこ良いですからね
表面は腰が低く、無意味なまでに愛想を振りまく大魔王家康
二重底、三重底の謀略を振りまく為に底知れぬ恐怖を撒く大魔王家康
ピカレスクな魅力に溢れる家康像はねえ よく淀殿は大野と不義密通してたと非難されるが何が悪いのかさっぱりわからない
秀吉が死んでたらいいんじゃないの? というか、家康信者は何故司馬が嫌いなんだい?
史実の家康は、ひたすら根暗で陰謀のみの魅力ない人にしかみえないのに
それを、ピカレスクな魅力溢れる大魔王家康に描いてくれてるんだぞ?
陰謀家なのだが、余りに智謀が深すぎて見抜いて動くのすら躊躇われる深さの家康
陰謀を暴いたつもりが「計画通り、思うつぼ」とか言いそうな智謀の塊の大魔王
家康はかっこ良いじゃん
司馬史観の家康は、悪辣な陰謀が流れる様にあふれ出る大魔王だぞ >>606
信者なんていないけどまともな頭があれば
あなたみたいに好き嫌い善悪で歴史を見ないからな 同時代世界史的に見ても隔絶的に突出した「属人性を排除したシステマチックな統治機構」を実現した人物または集団。
徳川家康とその幕僚についてはこの評価に尽きる。
善悪などという曖昧な概念を超えて、徳川家康への批判はここを出発点にしなければならない。
それは同時に、歴史を構造的に把握することに繋がる。 司馬遼太郎は俗説を元にエンタメ小説を書いた天才
三国志演義の羅漢中と同じ
史実は参考程度で盛り上がりのための創作は当たり前
関ケ原のメッケルが有名 司馬遼太郎は司馬懿太郎からもじって命名
しばいたろうか? 司馬遷に遼「はるか」におよばず、で遼太郎なのは有名だが
つかさ、家康って確かに天下人の一つのパターンなのよな
猜疑心が強く、誰も信じず強引な粛清したのに最後の勝利者にと
朱元璋とかに似てるかね、
漂う大魔王の匂いとかも
特に散々利用した大久保長安が死ぬと、遺族処刑して全財産没収とかさ
これだけえぐい事してるのに、後ろめたさが全然感じられない所が大魔王 まあ司馬遷なんだけど、そういう命名からもただの小説家じゃなくて歴史家だみたいにミスリードしようとする意志を感じる 司馬遼太郎自身は散々イデオロギー嫌いだって言ってるんだが
>>611みたいなイデオロギー丸出しの狂信者を生み出してるのが皮肉だな
反論されると黙り込んで後から相手を信者呼ばわりするところなど宗教の狂信者そのもの
まあ実際のところ司馬は相当イデオロギッシュで偏ってるし好き嫌いがえげつなくかなり感情的なんだけど 小豆坂七本槍と蟹江七本槍は成立が後年でいいんだろうか 秀保、秀勝、秀勝(織田の息子)、秀長
ここら辺の一門がみんな早死しちゃうのがな
秀秋もアル中で使い物にならんし 関ケ原の後の史料に出てきたのは黄疸の症状
一朝一夕で出るものではないので関ケ原前からアルコールの取りすぎと判断できる 秀長の夭折した嫡男が生きていれば……
秀次になるだけか 秀秋は後世の小説で散々な目に遭ってるが実際の動きを見ると
伏見城攻めは早々に離脱して徳川への言い訳を用意・西軍指揮下から離脱しつつ情勢を俯瞰・西軍敗北と見るや徳川に内通・松尾山を犠牲無しで占拠して西軍を炙り出す
とやってる事はキレッキレなんだよな。アル中に出来る業じゃない モノは言いようだなあ
二股かけまくりでどっちからも信用されないタイプに見えるけど 古今東西、だいたい人の行動原理は人間関係のしがらみで決まるからな
秀秋はどちらにしろ迷う立ち位置だったなら二股とはまた違う感じがする というか西軍内には挙兵に巻き込まれ
嫌々したがって東軍の勢力が及んだら
鞍替えしてる連中が結構いる
小早川もそうだということ
それを裏切りという道義に反する行為と
捉えるかは評価する側の政治的立場による 関ヶ原の遥か前に指揮下から離れてる奴に裏切られたもへったくれも無いわな そもそも関ヶ原の時には秀秋は売り手側だからな
西軍首脳が秀秋の信頼を勝ち取って働いてもらうよう努力せねばならない
まあこれは秀秋に限ったことではないけど 増田長盛宛石田三成書状だと三成は秀秋の裏切りを関ヶ原以前に掴んでいたらしい事を仄めかしてるけどまぁだからといって何も出来ないんだよなぁ ここで頑張ってた人のためには2じゃなくて
三成は挙兵せず巻き込まれただけの聖人スレ
とか作った方がいいんじゃない 聖人というか単に誘われて乗ってしまっただけ。可哀想なのはそこから総大将扱いされて死刑にされたところ。会社の不正を押し付けられて詰腹切らされる中間管理職感ある もともと毛利奉行衆派には参加してたんだから誘われるのは当たり前
参加したら総大将ではなくても指導的立場を求められるのも当然
失脚したら政争とは全く関係ありませんとは誰も思わない すでに隠居(もしくは謹慎)の処分食らってるやつがクーデターにノリノリで参加してたら
主犯格じゃなかったとしても死罪にされるのは当然の成り行きでは 巻き込まれただけは通用しないわな
実際西軍の中心メンバーの一人として初期段階から策動してたんだし 三成が一人だけ頭使って西軍組織して
関ヶ原という大乱が起きたみたく
フィクションではされがち
なので三成以外の諸将の動向を強調するために
それらが早くから主体的に動いてると
強調するのはまあわかる
でも史料上数日の差をもって
三成は後から参加したので
巻き込まれただけというのは
かなり恣意的な匂いを感じる クーデターを主導した毛利を救済する為に詰腹切らされた可哀想な奴。 三成に選択肢があるか?大坂周辺の大名は三奉行から大谷吉継が西軍に与してる。細川や筒井は家康に従軍していて頼れないし徳川も上杉を警戒するなら即座に戻って来れない。しかも嫡男重家は大坂にいて実質的な人質になってる。西軍に与するしかないし出来て途中で徳川に裏切りとかしかない気がする そうだな
周り中西軍でもそこまでやる気満々でなきゃ
東軍がやってきたらそちらに与したなんてのは
何も珍しくもない話だけど
もう一年以上も前から毛利と謀って
家康追い落としのクーデターそそのかしてるので
今更関係ありませんと毛利や三奉行を
裏切ることはできないかもなw 真面目な話イヤイヤ西軍着くしかなかったなら
京極高次や竹中重門のように振る舞うべ
そうすりゃ国持大名で残ったかもね 三成が家康にクーデターってのは毛利関係なくない?
所謂婚姻問題の時なんだろうけどあれは五奉行全員が叱責されていて誰が首謀者かわからんし 関係なくないだろ。
どさくさ紛れて上杉征伐についていって本国がらあきの四国に軍勢派遣し、九州にもいつか利用しようと匿ってた大友派遣して四国九州取ろうとしてたし安国寺もグルなんだから >>625
近衛信尹が、秀秋は少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、
やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、北政所(高台院)を悩ませるようになったと
書き残している
秀秋をアル中にした悪い友達とは誰だろうね?
年齢的に近い人だと側近の子供たちとか浅野幸長などか?
あるいは、丹波亀山時代はほぼ在京だから、金持ちの秀秋にタカる貧乏公家たちかな? 秀秋も途中まで天下人の側近ルートだったし色々あっておかしくない >>649
「三成が大阪城乗っ取れ言ってきたけど現実的ちゃうよな」
って毛利方の史料が残っちゃってる >>648
まあ、儒教的には最後の勝利者の盗将大権現様は確かに聖人
幕府が儒学を奨励する訳よな、開祖を聖人様と称えてくれるんだもん
もしジャギがケンシロウに勝てば「聖人ジャギ伝説」を流布してくれるのが儒学者 本人的にはなにか上手いこと言ってるという感じなんかな? 安国寺恵瓊は輝元が三成・吉継を呼んだと言っていて広家は国許の輝元が大坂の変を知ってるはずが無いから嘘と弁明してる。
でも大坂三奉行からの呼び掛けに応えて僅か二日で大坂に動いてる時点で輝元が大坂で何が起きるか知ってた事がわかる。てことは恵瓊の言う通り三成達を呼んだのは輝元だったんだろう。恵瓊が輝元に命令出来るとも思えないから。 家臣の安国寺恵瓊は元より奉行に過ぎない増田長盛や長束、奉行から逼塞されてる石田三成が輝元を呼べる訳もない。理屈から考えれば逆だろうな 安国寺恵瓊の本当の所の立ち位置がよくわからんからな
輝元にもそこそこ意見は言えてたんじゃないの? 今度はこっちで三成スレと同じ主張垂れ流してんのか
自演ももうとっくにバレてるんだからやめればいいのに >>660
異見出来るかと言えば出来るんだろうけど輝元の決定を覆せる程の力は無い。だからこそトカゲの尻尾切りに遭った訳で。彼は関ヶ原の終結直後南宮山まできて鎧を脱いで降伏したっていうがこれは輝元に見捨てられた事を悟ったからだろう。もし輝元より上位の発言力があるなら大坂城まで逃げて最後の一戦を企むのが普通だし。 輝元は恵瓊からの要望に基づいて慶長五年七月に右筆を大坂に派遣してる(「譜録」)恵瓊が輝元の意思として大坂で動けたのもこのお陰なんだが、問題はこの一連の行動に輝元が関わってるかどうか。もしこれが恵瓊の独断だとするととんでもない越権行為になる。幾ら毛利家の為と繰り返しても許されるとは思えん。逆言すると恵瓊が処分されなかったという事は恵瓊の行いは輝元の意思と看做して良い。吉川広家が残してるように「三成・吉継を大坂に呼んだのは輝元」なんだろう。 恵瓊も所詮毛利家の一家臣に過ぎないし、広家なら兎も角当主の輝元を騙して担ぎ上げましたなんて通らないだろう。 >>657
儒学者様が常駐してるスレだし。
儒学の教義は「徳があれば最後の勝利者に」ですから。
つまり、「盗将大権現は聖人、これは譲れない」と成る訳で。
きっと毎日「盗将宮に礼拝」してるのでしょう。 じゃ聖人輝元でもいいよ
盗症大権現にボコられた聖人輝元
三成は噛ませ犬 安国寺恵瓊が輝元誑かしたとか言われてるけど、大坂に二日で数万の軍連れてきてる時点で輝元が主犯だとバレバレなんだよなぁ 他の意見や反論があるわけでもないのに一人でずっと同じ主張続けてて楽しいのかね 全体としては輝元が指揮してたのに負けそうになると恵瓊や三成に全責任被せて知らん顔、って見ると悪しき日本軍の大将なんだよなぁ ていうか毛利が「全部私がやりました、
三成も恵瓊も悪くありません」
とかあり得んだろ >>672
昭和天皇それでマッカーサーから感動されてむしろ助かったじゃん あんま追い詰めすぎると戦争になるから徳川もわかってて許したんだよ
それは島津も一緒
死人に口なし
鳥居殿が伏見城入場断ったんですー
しょうがなく西軍ついて家康様に逆らう気などなかったんですー
こんなもん家康だって信じてない
島津も追い詰めすぎると戦争になるから許した
1615年ならともかく1600年じゃ徳川に心から心服してない外様が多すぎて取り潰しなんかさせて各地で蜂起でもされたら項羽と同じ目に合う 目先の敗者の処分で手一杯
上杉も別にいたし
ざっくり半分の大名を処分して半分の大名に褒美を与えないといけない
奉行衆が使えない状況だと本来は手が足りない 三成は執行猶予中にさらなる重罪を犯したようなもんだから詰め腹切らされて当然でしょ
むしろ前田玄以は良く切り抜けられたなって感じ
それまでの功績や関係性が効いたのか彼こそ巻き込まれただけだったのか >>681
例え話になってないって事じゃね
例え話くんだったのか? >>682
いやいや
マッカーサーと昭和天皇の話知ってたら672のレスなんて書けないだろ
お前が無知なだけだよ
必死に言い訳してみっともない >>684
開戦時は主導的役割で終戦時は家臣団に実権を剥奪されて生かされた輝元
終戦時にようやく指導力を発揮して生かされた昭和天皇
この2例を一緒にするのか 近ごろは万事がさかさまで、主人が家臣に助けられなければならぬ時節だ
こんなこと言う主人によく仕えて命を助けたと思うわ >>678
にもあるが輝元と同じ例なら後鳥羽上皇が例え話としては近いが毛利家臣団が有能だったぶん承久の乱よりは被害が小さかった >>685
すり替えるなバカ
責任は私にあります下のモンはどうか寛大な処置をといってマッカーサーがてっきり保身に走るかと思ってたらこんなこと言ってきて感動したこと言ってんだよこのアスペ >>688
ああそういうことか
俺の読解力が悪かったわ
すまん 関ヶ原の毛利への徳川の仕置きと
連合軍の天皇制維持が
同じ力学で動くわけないだろw キエフの珍宝みたいに、「私はここにいる」って手紙書きながら大坂籠城で
良いだろ。
あの時点で東軍の水軍無いのに如何しろと 恩顧じゃないけど、立花ムニ成とか、上杉景勝とか島津氏とか
関が原で恩を果たしたから大阪陣では徳川につきますって方便すごいな。
特に立花とか上杉なんて義の人とかを売り物にしてたくせに 御恩と奉公は一代限り、いつまでもあると思ってはならない 秀吉が死んだ後秀頼は諸大名と主従関係を結んだんだっけ
具体的には秀頼名で所領安堵をしてるんかな、全ての大名の いや東軍も西軍も一応は豊臣軍ではあるのよ
問題は豊臣家が支持を明確にしなかったことでしょ
どっちつかずは言い方を変えればどちらも見捨てたということになるからね
中小クラス以下の家なら大目に見てもらえる立ち回りも
あの時点の豊臣家だとそうはいかない 公家目線では関ヶ原は徳川vs豊臣だったらしいけどね。まぁ東軍諸将は秀頼ではなく家康と御恩と奉公の関係に入ってるから正しくはあるのだが。 >>699
家康が自分一人の花押で文書だしてるしな
それを認めるなら、封建的主君だし >>671
それは輝元に失礼、全然違う、旧日本軍にあんな潔い引き方は出来ないね
「緒戦で痛撃を与えてさっさと早期講和」この条件なら日本の国力でも何とか行けるはず、というプランで開戦したはずが
最初に勝ったら勝ったらで調子こいてやたら戦線拡げまくり
結局その後逆転されて戦況が不利になってもズルズルと無駄な戦いを続ける、ええっ?当初のプランは何だったのよ?と
さらには絶対国防圏とか設定しだして、これが突破されたら終わりだからこれは絶対死守するぞ!と言っておきながら
それが破られるとさ今度は本土決戦とか言い出す、ええっ?絶対じゃかったの?と
挙句の果てには二千万特攻すれば勝てるとか、いや一億総特攻だとか言い出して止まらない
輝元は違う、家康が会津に行かず東海道を引き返した時点で当初の目論見が外れたのを潔く受け入れ認め
講和しやすいよう関ヶ原本戦では毛利家は家康軍との直接対決は避け、大阪篭城などの無駄なあがきもせず
適切な落とし処を探る方針に切り替えた
輝元は大阪篭城もせず撤退したヘタレ、みたいな評価を未だにされる時点で
「日本人は負け方を知らない」と評されたあの戦争から何も学んでない奴が多いという事
引き際、負け方も知らなけりゃ戦争なんて始めちゃ駄目なのよ、でないと一回の敗戦でいちいち国中が焦土と化すわけでね
現代の日本人が出来ないことを400年前の輝元は出来てたのに評価が低すぎるわ これは酷い
一刻も早く入院する事をおすすめ致します >>693
上杉はともかく立花と島津は朝鮮でも散々こき使われてきたから
関ヶ原時点でも恩を果たしたどころかサービス残業状態だろ
むしろ朝鮮から帰国してすぐ豊臣に報復しに行っても許されるくらいだ 豊臣からみた上杉はそんなに綺麗な存在でもないしな
上杉=善で見るから関ヶ原自体がおかしく見えてくる 善悪とか言っているの荒らしだけだろ
もしくはそれを批判している人だけ 善悪は兎も角何考えてたんだって疑問があるからな上杉景勝
西軍どころか石田三成とも共謀してないのにあの強気、もし西軍が決起しなかったら会津焼野原だったろうに そもそも、上杉も立花も毛利も島津も自力で出世したので豊臣に恩はない
それに対して、黒田、福島、藤堂、小早川秀秋なんかは豊臣が滅亡する時に共にしないといけないくらいの大恩があるんじゃないか? 秀吉には尽くせても豊臣にはそこまで尽くす義理が感じられんよ >>711
本当に腕に自信がある有能な人間は、上にいるのが信長だろうが秀吉だろうが家康だろうが関係ない
自分の力を見せつけて認めさせればいいだけだからな
三成みたいに弱くて活躍できない奴だけが秀吉の威光に寄生して恩義だとか言い出すんだよ
そんな弱っちい寄生虫が関ヶ原に来ること自体が矛盾している
豊臣に恩義がない有能な人間が関ヶ原で勝つのは当たり前の結果だった >>713
秀秋は血縁者ってだけで大したことしてないのに大領もらってたよ
石田、福島、藤堂、加藤、黒田なんかは一応は天下取りに貢献して領地もらってたけど 秀秋の親父が妹のコネを積極的に利用してただけでガキの頃から振り回されてた秀秋に恩を感じろは無茶やろ
ましてや秀次の最期も知ってるだろうし >>716
父親は引き揚げてもらって美味しい思いをさせてもらった事実を
体験している
でも、秀秋はガキの頃から貴種として育てられているから
自分の厚遇を当然のことだと思っており、恩は感じないだろうな 秀秋からすれば、石田など家臣も同然の下っ端でしかない
豊臣への恩を感じていようがいまいが、石田に命令される筋合いなどない
石田が無礼な態度で命令してくれば、制裁を下すのは当たり前だろう
豊臣の恩とか言っている奴の大半は石田家と豊臣家を混同しているとしか思えない
秀吉に厚遇されたところで、豊臣一族でも何でもない元官僚でしかない石田に威張り散らされる理由など何もない 主君の命を奉じて行うから奉行
秀吉の命を受けて動いてるのでないならば
奉行に指図される謂れがないのよな >>713
一門枠で領地貰うのを、世間では恩というんだけどね。
実際豊臣が没落すれば物理的に首が落ちるんだから、馬鹿以外は自分の立場理解出来るぞ。
実際、もう少し寿命があれば家康が言いがかり付けて取り潰しだろ。
豊臣一門の時点で家康が残す訳が無い、どんな約束されようと。 >>711
綺麗な言葉で言うと恩ですが、豊臣が没落すれば消されるが正しい。
家康だって自分の子飼いや一門に領地やりたいんだから、小早川や加藤は絶対消される。
この事実を理解できるかどうかの話だね。
加藤清正も福島正則も馬鹿の標本にしか思えんな。
家康が残す訳ないだろうが。 >>720
その世間は江戸時代以降で戦国時代の恩ってのは一代限りだぞ 前田蜂須賀藤堂黒田のように生き残ったのもいるだろう
徹底的に恭順して忠勤を励む姿勢を見せれば徳川だって無下にはせんよ
加藤はお家騒動だし福島は対応を誤ったしでどちらも自業自得なのははっきりしている
今どき何でもかんでも徳川の陰謀扱いする方が馬鹿の標本にしか見えんね >>720
豊臣一門枠で領地を貰ったところで
豊臣一門でも何でもないクビになった元官僚に命令される筋合いなどないだろ
しかも三成は秀秋に向かって関白にしてやるなどと言い放ったわけだし
逆に豊臣一門だからこそ三成の増長ぶりを見過ごすことは許されないよ 豊臣の恩顧を受けた武将は多いが
奉行の恩を受けたものはいない
というシンプルな問題よね 石田三成の子孫が津軽藩の重臣杉山氏として大いに繁栄して
福島正則が改易されて後悔と失意のうちに自決ともされる最期を遂げて
加藤清正の子孫が改易されて旗本にもなれなかったところをみると
やはり因果応報というのはあるのかもしれない 安易に因果応報なんてカルト宗教臭いワード使わんで欲しいね
信長が本能寺で死んだのも因果応報
豊臣家が滅亡したのも因果応報
徳川が250年後に政権を手放したのも因果応報
何でも因果応報で説明できて思考停止になるだけ >>727
因果応報は仏教用語なんだが…
そうか仏教はカルトだったのか!
いやぁ知らなかった… もともとはバラモン教からの流れの思想
仏教もヒンドゥー教も輪廻転生や業(カルマ)の思想はあるがアブラハム系の楽園で完結する考えとは違うからカルト扱いされてるだけ
そもそもアブラハム系の国からすれば仏教もアニミズムも異教(カルト)なんだ >>726
福島家が大身旗本として存続している事はスルーですかw >>731
さらし者にしてるんでしょ。
今川氏真の処遇に近いかな、慈悲じゃなくて嗜虐
主君裏切って、恩賞の約束に釣られたらどうなるかを世間に宣伝してるのだな 福島正則の立場って、明末清初の武将呉三桂に近いよ。
一番重要な城塞の司令官が裏切り、大所領を貰ったけど裏切り先でも不愉快に思われ
代替わりを契機に所領没収されたと
ます清に投降する時に北京に一族が「父親を見捨てた」
清朝の中国平定で南明諸王朝討伐「譜代の主君を裏切り」
その後の取り潰しでは北京に出ている一族を見捨て「息子を見捨て」
これだけやって滅んだんで、清朝があまり非難されなかった
ま、福島正則って主君裏切るとどうなるかの見せしめにされただけ 三成みたいに秀吉の威光を振りかざしては、威張り散らし放題
クビになっても気に入らないことがあれば好き勝手に暴れる
そうやってやりたい放題やりながら忠臣気取りで豊臣のために尽くしているように見せかける
こういう器用な振る舞いが福島にはできなかった
三成は戦は弱いけど詐欺師としては天才だったからな 福島正則のやばいのは養子を家康の養女と婚姻させて、自分の実子が出来たところで養子を監禁して殺してしまった所だな
痺れるぜ! >>738
やばい?別に秀吉とやってることは変わらないだろ >>736
与党幹部(石田)と地方自治体の首長(福島)と野党党首(徳川)の立場の
違いを理解していないな
三成はカリスマ党首を失ってガタガタになった政権与党の幹部として、
政権を守ろうとしただけだし、
家康は一度は与党に入ったものの離脱し、政権奪取を目指して
総選挙に打って出ただけだし、
地方の県知事である正則は、自分の生き残りを賭けて勢いのある野党に合流し、
勝ち組になることを目指しただけ
「忠臣」かどうかはさておき、彼らは政治家としてそれぞれの「立場に忠実」であり、
自分と自分たちの派閥の政治的勝利を目指しただけだ >>740
秀吉の威光で威張れていただけなのに、いつまでも与党幹部気取りの人間がいたら
迷惑極まりないし組織が崩壊に追い込まれるのも当然だろう
「忠臣」かどうかはさておき、「立場」を勘違いしているのが三成の最も悪質なところだよ 光成が奉行辞職して蟄居になったのに政権への返り咲きを狙って五大老分裂と豊臣系武断派武将の追い落としやっただけやからな
関が原直前の三成の立場すら理解できてないやつが語っているの草 三成って秀吉の威光振りかざした事ってなんかあったっけ >>740
家康は豊臣軍として関ヶ原を戦い、関ヶ原の論功行賞も豊臣政権として行っている
豊臣政権からの離脱したのはその後の話 残念ながら家康は野党じゃないんのよね
政権の定めた序列でトップだし
家政的にも豊臣姓与えられてるしで >>739
いや、1608年にそれやってるんやぞ?
しかもまぁその正之の子もまぁまぁ狂ってるしな 家康は野党党首どころか秀吉死去前に朝廷から勅使が派遣され天下人扱いされてる
当然秀吉の肝いりだろうから秀頼成人までの時限付きとはいえ秀吉公認の次期天下人だった
官位も公武唯一最高の大臣職だし
挙兵当時公的な立場のない隠居つまり私人でしかなかった三成とは全く違う >>750
世間一般
ちなみにワイは愛媛やが地味加藤はマイナー扱いよ
久松松平家のほうが色々と推されてる >>752
加藤義明がはどの点で評価されてないの?
逆に久松松平家はどの点が評価されて推されているの?
地元の評価までは分からん >>753
松平久松家が維新以降の松山城の保存に尽力したり江戸時代通じて殿様やった流れでこちらが人気
地味加藤も本来はもっと評価されても良いと思うが逆に現状での世間一般の評価が高いと思ってる?
葵三代でも家光元服での1シーン登場だけやったんやぞ >>754
なるほど、230年に渡る治世と維新後の買い上げから寄付までやったとなると地元の人にとっては
松山城を守ってくれた一族となる訳だねえ
嘉明のどの点が評価されてないの?
世間一般に知名度がないとかドラマで大きく取り上げられないとかは教科書に登場するほどの事跡はなく普通は知らない人だからってことで仕方ないんじゃない?
俺は凄いと思ってるから世間一般も俺と同じように評価しろ!って言っても無理だろう。
君の評価の軸と世間での知名度が一致する必要もないと思うんだけど草 まあ、家康は何ていうか老獪としかいえないな。
昔から調略はしてるんだけど、調略に応じた奴の家が栄えない様にちゃんとしてる。
穴山梅雪なんて、本能寺の変後当主が幼少で取り潰し。
勿論あとで穴山領返還とかしない。
加藤や福島の運命は最初から決まってたと思うぞ
見せしめが実にうまい。旗本に残したのも主君裏切った奴の末裔さらし者にする為 「侍は主家に一生仕えるもの」って概念自体が江戸時代の朱子学で作られたもんだからね。戦国時代には存在しない概念。 >>756
豊臣秀吉を悪く言うのはやめて差し上げろ。
穴山信君については自分の意思で独行を選択した挙句だしな。 >>756
主君を裏切ったのは三成だよ
秀吉は家康に政務を任せていたにもかかわらず、
三成は自分たちが政権の支配者に任命されたかのように捏造して
それが上手くいかなくなると武力で達成しようと謀反を起こした
三成が主君を裏切った者への見せしめとして死罪になるのは当然の末路だった >>758
一応鎌倉末期には日本に入ってきて、室町時代には結構広まっているんじゃなかった?
主流ではないだろうけど 朱子学じゃなくて、江戸時代の朱子学で作られた概念か
朱子学と勘違いした、すみません 一応「主家を裏切るのは悪い」って概念はあったはず。でも御恩と奉公はビジネスライクで主家が御恩を用意出来なくなった場合は下剋上されても仕方ないという概念もまたあった。
だから秀吉に恩があったからといって無条件に秀頼に仕えるべきかというと否。 淀・秀頼は当時家康と全く対立しておらず、豊臣家として会津征伐に賛成していた
あくまで三成たちが不満を爆発させて勝手に蜂起しただけ
秀吉に恩があったところで三成に仕える義務など誰にもない
それなのに三成に従わないのは主君に対する裏切りであるかのようなすり替えが行われた
福島たちが激怒して三成を処刑するのは当たり前のことだった
ところが数百年後の人間の中にはすり替えに騙されて
秀吉に恩あるものは三成に従わなければいけない、三成の言葉に従わないものは主家に対する裏切りなどという
無茶苦茶な主張が繰り広げる者が現れてしまった 秀頼馬廻衆が西軍に与してるからね。実は豊臣は西軍に与してる。秀頼馬廻衆は三成には動かすことも出来んので三成は西軍の中心人物じゃなかったか豊臣は反家康だったかということになる。 妄想くん今度はこっちで妄想垂れ流してんのか
三成が首謀者だったかについては正直微妙だと思うし、水野氏のような否定的な研究者もいる
しかし三成が中心メンバーの一人なのは一次史料からも明らかで、それを否定してる研究者はいない
馬廻衆の件も秀頼の意思が反映されてたのかどうか
秀頼がはっきり西軍支持を示すような史料でもあれば別だが、これをもって秀頼は西軍支持だったと断定するのは難しい そういや蜂須賀領没収も秀頼の意思って話になってたな 三成が西軍の主導者ってのは司馬遼太郎が二次史料を斜め読みしながら書いた小説がソース。で一次史料を見直してみたら全然違うよねってのが昨今の学説。髙橋陽介は三成の序列は大坂三奉行・安国寺恵瓊以下としてるけどそれくらい三成の影は薄い。どこまでを「中心」とするのかによるけど戦略を決定してるのは輝元と三奉行で三成は提案者に留まってる。例えば真田に提示した三成の戦略プランは実行されてない。 失脚した元奉行が三顧の礼で迎え入れられることなんかあるわけないし
西軍の戦略が家康の政治的及び軍事的孤立が前提なんだから
早々に破綻した戦略プランなんか実行できるはずがない >>769
またID変えてるのか
妄想くんって高橋陽介とか乃至政彦とか在野の研究者好きだよね
高橋陽介って白峰旬に論文で相当つっこまれてたけどそれに対する反論はしたんかね 失脚した奉行が三顧の礼で招かれるはずが無いからつまり三成は西軍の中心人物では無い。確かに論理的帰結ではある。
実は石田三成、いつから西軍に参加していたのかまるで不明とかいう厄介な存在なのよね。七月十二日に増田長盛は大谷吉継と石田三成がトラブってる旨を徳川に報告してるがこれは毛利軍が大坂城に来るまでの時間稼ぎで真実かどうかはわからない。髙橋陽介は十二日に大坂城に向かったとするが中野等は三十日まで大坂城には行ってないとしてたりと行方不明状態。どのみち三成は毛利軍大坂入城、伏見城攻撃、大坂人質の収監等々とは無関係なんだと。なら何をしてたんだ。美濃方面に調略をしていたとも思えんし。 >>756
穴山勝千代は幼いから取りつぶしではなく
幼い当主が疱瘡で死んだから無嗣断絶
当然幼くして疱瘡で死んだ勝千代が
成人したはずもないので所領返還もないが
後に家康の息子に名跡を継がせ
旧臣を付けた
(が、その家康の息子も早世してまた断絶) >>771
でも君は何の根拠も示さないよね。良いとこ司馬遼太郎だしな。 >>774
またID変えてて草
中心メンバーの一人とは言ったけど主導者なんて誰も言ってないが
勝手に人の発言都合よく改変すんなアホ
三成も中心メンバーの一人と主張してる研究者なら布谷氏とか谷氏とかいるし
具体的な根拠となる史料なら奉行衆の一員として連署してる下記連署状
発給者は毛利輝元、宇喜多秀家、三奉行、石田三成
8月1日付木下利房宛連署状
8月1日付筑紫広門宛連署状
8月1日付蒔田広貞宛連署状
8月2日付真田昌幸宛連署状
8月5日付川口宗勝宛連署状
8月5日付鈴木重朝宛連署状 初期段階だと三成の発給書状や連署状はないし、表立っての行動は特に見受けられないが
大坂に来てからは真田を通じて上杉に関東へ出馬するよう要請したり
>>775で挙げた連署状のように奉行衆の一人として動いてる
首謀者とは言えないものの、中心メンバーの一人であることは明らか >>772
中野氏の三成が7月30日まで大坂に来てないって根拠は恐らく8月1日付青木一矩宛石田三成書状写のこの部分
「去月廿八御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、拙者儀昨日当地着候」
三成がそれ以前に大坂に来てた可能性もあり得るが、あくまで史料ベースだと7月30日大坂着 >>766
馬廻衆が三成とグルになって謀反に加わったというだけだろ
謀反人たる奉行や馬廻衆に厳罰を与えて解決すべき問題だな 三成が八月以降動き出すのはそうだけどそれは三成が首謀者って事は全く意味しない、というか否定になるよな?首謀者だったら七月の西軍決起以前から活動してなきゃおかしい。
三成は大谷吉継らに誘われて参加して、輝元や三奉行といった西軍中心メンバーから地方軍を任されていたに過ぎない。
一見中心に見えるけど結局使い走りに等しいわな。 >>779
使い走りだと思ってるのはお前だけで完全にお前の主観
奉行衆の一員として連署してるのに中心メンバーじゃないは単なる逆張りにしかならん
否定も何も最初から三成が首謀者だとは誰も言ってない
あとお前都合悪くなると逃げるよな
三成スレでちかひの条々が複数種類があると言って
福岡市博物館所蔵の筑紫文書挙げてたけど論破された後梨の礫じゃん
複数種類があるんだろ?どんなちかひの条々が出てくるのか楽しみに待ってるんだけどまだ? 淀も三奉行も「石田と大谷が謀反を起こしました」という手紙を家康に差し出している
石田が首謀していないなら最初から責任を擦り付けるための捨て駒扱いということ >>781
ていうか間違いなく捨て駒だぞ。
三奉行は十二日に輝元に上洛要請して十五日には諸将の妻子を収監、毛利軍は十七日に大坂城を占拠した。これらの動きは徳川に全く伝わってない。「淀君と三奉行からの書状」はまだ見つかってないけどこの話が出てくるのは七月二十七日、家康が三奉行の裏切りを知ったのは二十九日。三奉行が本当に家康派なら毛利軍の動きを伝えてないとおかしい。伝えてないから家康は裏切ったと判断した。じゃあ「淀君と三奉行からの書状」は何の為にあったのか?っていうと家康の判断を狂わせる為の偽情報だったんだねって。 捨て駒かどうかはわからんが捨て駒扱いのほうが関係者が動きやすかったとも言える >>784
大勢に従う普通の感覚なら会津征伐方として従軍するのは普通
それは別に家康さん大好きっ子じゃなくて豊臣政権内で正式決定された事に従うことなんで
最近は毛利輝元が関が原でこれまで言われてきた以上に本気で戦うつもりだったのでは?という城跡が見つかったり、
奉行クラスの石田三成と大谷吉継の画策程度で宇喜多秀家、小西行長まで会津征伐組から簡単に鞍替えするのか怪しまれたりしている。
特に宇喜多秀家はお家騒動で下手したらお家取り潰しになりかねないほど家中が混乱しているのを大谷が徳川家康に何とか周旋してもらってお咎めがなかった。
政権内の公的な立場としても個人的な恩義としても秀家が家康が豊臣政権の首班としてやることに反対するような状況ではなかった。
それを西軍方に引き込むには家康に対抗し得る勢力を持ち上方にいた毛利輝元が首謀者として直接働きかけてたかもってところ。 例えばロシアだって、口先でプーチン万歳・ウクライナを倒せと叫ぶ人間は大勢いるけど
そいつらの大多数は自分がウクライナに行って戦うことは拒否しているんだよ
それで刑務所の囚人に金と釈放を餌にして戦わせるなんてこともしている
西軍も同じような内情だと考えればわかりやすい
あくまで自分が家康と戦わない前提で豊臣万歳・家康を倒せと言っているだけ
それで政権返り咲きを餌にして危険な戦いを石田一派に押し付けて、負けたら責任も擦り付けているに過ぎない 七月二十七日書状に「淀君と三奉行が三成・吉継が謀叛したので至急上洛を〜」ってあるから俗説を信じてる人は「三成が総大将だから淀君と三奉行は徳川派でこれを訴えたんだ」と思いがち。この時点で既に三奉行が謀叛の仕掛け人だと知ってみれば見方は変わる。 西軍には秀頼も参加してるしまぁ勝てると思ったんだろうなぁ 226事件の時の青年将校と一緒で、こんなに主君のことを
思っている我々が決起すれば、正統性を認めて、
君側の奸を一掃せよと命じてくれる、と思い込んでたんやろ。
実際には、昭和天皇も、秀頼=淀の方も、反逆者をせん滅せよ
って命令したんだけどな。 西軍が秀頼の名において仕置きしてる訳で豊臣は西軍でしょ
だから京だと徳川vs豊臣という構図で語られてる。
問題なのは戦後家康の言葉に乗って豊臣は脅されてたっていう話にして公儀たる資格を捨てたこと。これで徳川の意思が豊臣を超えたと満天下に知らしめた。 豊臣が西軍ならその西軍を軍事的に屈服させた家康は豊臣を煮ようが焼こうが好きにしていいってことになる
敵対したわけだから 奉行が秀頼を監禁してしまえば、奉行は豊臣を支配してやりたい放題ができてしまう
秀吉もそれを危惧していたため、奉行の監視役として家康を招聘して
わざわざ遺言に「奉行は勝手なことをするな、どんな些細なことも家康の許可を取って従え」と書いたが
奉行は秀吉の命令を無視して、家康を排除すれば豊臣を思い通りに支配できると考えた
奉行にとっては秀頼=傀儡であり、自分たちが豊臣政権そのものだと信じ込んでいた 実際には豊臣政権のトップは家康であり、
反乱した奉行達を家康が討伐したのは
当然のこと 秀吉の秀次切腹後の体制が中途半端やったんよな
どうせならいっそのこと征夷大将軍秀頼で執権家康ぐらい目指せば良かった 源氏しかなれない征夷大将軍に秀頼はなれませーんwww
って事を考えると多分公家社会とのシガラミじゃないか。すでに秀吉の豊臣氏は成立過程において藤原氏と戦争状態になってる。それに豊氏長者はどうも藤氏長者を兼ねていたらしくつまり乗っ取りをしてる状態だった。公家源氏は一応親豊臣ではあったけど源氏の象徴たる征夷大将軍を名前だけでも借りようとしたら流石にキレてくる可能性がある(源氏長者まで取られたら…と警戒するだろう)藤原氏と源氏という朝廷の二大貴族を敵に回すのは流石の秀吉も憚ったのではないか。 話の意図が伝わらないのにビックリしたのとまさか源氏しか征夷大将軍になれないと言われたのに驚愕した 征夷大将軍は源氏長者とセットだから実は無茶苦茶厳しいんだぞ?有職故実というより政治的な意味で。
豊臣氏は藤原氏を乗っ取る形で成立した一族だから藤原氏とは険悪な仲になってる。対して源氏とは友好関係にあるがだから征夷大将軍を許されるかというとおそらく許されない。
名前だけ征夷大将軍を使わせてくれといっても秀吉は同じ様な手法で藤原氏を乗っ取ってる。流石の秀吉も藤原氏と源氏を敵に回すことはできん。だから「源氏しか征夷大将軍にはなれない」となって秀頼は征夷大将軍にはなれない、というか申請自体憚られたってこと。 摂関家の豊臣家が征夷大将軍になるのって格落ちになるからどうなんだろうな
ていうか秀吉って五摂家を騙して関白を掠めとったわけで火種を残した状態だったんだから
せっかく唯一無二の天下人になったのに抜本的な宮廷改革をしなかったのが迂闊だし
内政家として評価できないところ
旧来の枠組みをそのままに横から入りこんだだけだから豊臣家が衰退したらあっさり反動が起こった 元々豊臣に賛同してたのは菊亭晴季筆頭にどちらかというと中流クラスの貴族で朝廷に強く介入する力は無かったんじゃないか。征夷大将軍をとることも出来なかった。それに秀次事件で豊臣の朝廷影響力は甚大な被害を受けておそらく回復不能だったし。 関白>征夷大将軍だから別に秀吉が関白を選択したのも間違いじゃないが世襲制には不向きだったお話
他の権威ある世襲に向いた役職があれば良かったが無かったし作り上げる時間も無かった 関白になったら貴族化するしかないのにそこらへんのことを知らんかったのは痛かったな。家康は断ったのに >>807
秀次事件における秀吉の菊亭への扱いは酷いの一言に尽きる
秀次に自分の娘を嫁がせたのは(結果論だが)致命的な政治的ミスではあるけど
それにしたってあの仕打ちはないわ、しかも本人は一年もたたずに許すとか中途半端すぎる >>805>>808
関白は元々は律令制度にある役職ではなく、あくまで藤原が勝手に作った私的な役職だから
別に征夷大将軍より偉いなんて上下関係はない
秀吉以前の武家が関白になっていないのは関白が偉大過ぎてなれないのではなく
藤原貴族の私的な持ち回り職であって武家に関係ないものだったからというだけ 秀吉の構想だと大陸を領することになるから関白の地位も一時的でよかった
大陸で血筋で継承する地位につけばいい >>808
室町時代の摂家の当主は征夷大将軍から偏諱を受けている
家康が関白にならなかったのは京都に常駐するわけにもいかず
朝廷と距離を取りたかっただろう 藤原氏しか関白になれないのにそれを汚したのが秀吉
もっとやり方っていうか外交ってもんがあろうに 藤原氏は愚かだったが馬鹿じゃない。だから学習して全力で豊臣を葬り去った。秀吉は一番喧嘩してはならない連中に喧嘩売った馬鹿者よ。 清盛以来400年ぶりに朝廷に土足で上がり込んで迷惑かけ恨みを買ったからな
大体豊臣政権は平氏政権以来代々の武家政権のマズイところ全部煮詰めたような政権で
朝廷との距離といい後継体制といい諸侯との力のバランスといい
全てその逆をいって日本史上最も安定した政権になったのが江戸幕府
秀次体制が続こうが長くはもたなかったと思う だから不思議なのはどうして秀吉は関白の位に固執したのか。要らんやんあんなの。当時の武士にとっても謎だったんでねぇか?藤原氏と折衝して武家関白を始めておけば良かったんじゃなかろうか。それをしなかったのは多分そんな新設役職だと箔が無いからだろうけど。 >>810
あれで豊臣の命脈も秀吉の評判も地に落ちた感がある >>822
取り敢えず織田閥を名分持って統制出来るからやろ >>804
>征夷大将軍は源氏長者とセットだから
セットではない
寧ろ源氏長者ではない征夷大将軍の方が多い
鎌倉将軍には源氏長者は一人もいないし
足利将軍では義満、義持、義教、義政、義稙の五人だけ
江戸将軍でも秀忠は源氏長者ではない 秀吉視点だと征夷大将軍こそ微妙な役職だろうに
鎌倉幕府も室町幕府も名誉職に近く、微妙なんだし 源氏長者は基本的に源氏で最も官位が高い者がなるけど足利義満以降武家(足利)と公家(久我)の源氏が交代で就くようになった。おそらくこれは両者の交渉によるもので久我氏の要望によるものなんだろう。結局戦国時代に突入して足利氏が公家社会に関われなくなると久我氏が独占できた。
ただこれで先例が出来た。「征夷大将軍に就いた者は源氏長者を兼ねる」先例は秀吉・家康の時代で100年の歴史がある、上に条件が緩い。公家源氏としては独占出来た源氏長者を手放したくは無かったろうさ。 >>826
むしろ関白の方がおかしいのよ。関白は貴族社会では威光高らかな職だけど正直そこまで偉い職じゃない。藤原氏しかなれない貴族の頂点なんだがそれだけだろう?
天下人に必要な格はあるけど貴族社会で長年磨かれてる有識故実も確立した職でこれを一氏独占は不可能。しかも貴族社会と深く繋がってるから必然貴族と繋がってないとあっという間に取り上げられてしまう。現実そうなったし。秀吉がただ凄そうというノリで取ったのならここから既にズレてたことになる…皮肉だが。 ここでも妄想太郎は事実誤認をしながら謝りもしないムーヴ極めてるのか
位人臣である関白を「正直そこまで偉い職じゃない」とは開いた口が塞がらない
貴族社会の秩序の中に武士をはめ込んで序列化した秀吉の意図も無視か そりゃ豊臣を滅ぼしたのが関白職だからな
武士からすりゃ関白でも将軍でも大して違いは無いもの
貴族社会の序列ガーって言ったってそれ自体が武家社会と致命的に矛盾してるわけだしね(貴族社会に親しむなら京に居ないといけないがそれを実行して戦国時代がきた)
結局徳川家康みたく、天下人として認められたら後はガワだけ貰って貴族社会とは離れておくってのが正解だった
関白にしかなれなかったのは秀吉には天下人は向かないとい天命ってやつだったのかもしれない 関白はエラいんだろ?
天子さまの代行だぞ
征夷大将軍てアレだろ、昔尻尾巻いて逃げた足利ナントカの肩書きだろ
そんなもん名乗れるか
いちばんエラくてスゴいやつをよこせ
カネならいくらでも出すから
って感じじゃないの 出自がよく分からんけど根っからの武家気質じゃなかったんやろ
武家社会の家柄良い連中にマウント取るなら武家社会の延長線上の
征夷大将軍より関白の方がコンプレックス解消出来たんや 関白の場合
幼少者はなれない
候補者が五家もある
公家社会のルールに従わないとならない
って小回りが利かなさすぎる。豊臣の後継者が幼かったらこの時点で関白にはなれないし一度取られたら仮に1人五年務めるとして次に豊臣に巡ってくるのは25年後になる
しかもその間朝廷に出て仕事しないといけない訳でもし国許が乱れたらアウトときてる 正直関白と将軍には大して違いが無い、ていうか貴族の最高職と武家の最高職で比べようが無いもの。確かに将軍は関白よりも強いような歴史もあるけど(家康の不興を買った関白・鷹司信尚は辞職に追い込まれてる)それは人格人脈戦力があるからにすぎないし。つまりそれさえあれば関白でも将軍でも大差無かった。でも関白は貴族社会のものだから縛りが厳しい訳で。 そもそも室町時代も室町殿であるのが大事で将軍位は2の次だったんじゃね?
室町っは実力が落ちたから地位が大事になった、戦国時代は実力があったのが逆に地位が必要になったのと逆だね。
豊臣で適当な地位はなかった(朝廷からすれば官位は順序にあがるもんだから、課金してねじゃね)。家康がちょうどいい時期に将軍になれたとは思う。 >>836
幕府という言葉は近衛大将の唐名だからね
近衛大将は原則従三位以上であるが
征夷大将軍は従五位下でも任官令がある
武官の最高職は左近衛大将であって征夷大将軍は征東大将軍や征西大将軍と同じく数ある武官の一つでしかない 家康が将軍になれたのも秀吉か関白を摂家から奪った結果だからね。藤原氏が背後で糸を引いて家康を将軍に導いた。藤原氏が豊臣の味方ならまた違う運命だったろうさ。 関白征夷大将軍氏長者どれも別に
それだけでは強い政治的影響はないよ
政権の柱としての権力は
武家としての実力が伴ってこそだし
そこが盤石なら官職は付いてくる
関白と征夷大将軍源氏氏長者の差というより
武家としての権力の絶頂にいる間に
その権力を次代に引き継ぐ仕組みを作れたか
という部分の差でしかないよ 秀吉がその権力の絶頂に達する直前に起きた
豊臣氏の創出と藤原氏から関白職奪ったのなんて
有職故実から言ったらとんでもない横紙破り
まさに武家としての実力(権力)で無理を通した
それと比べたら徳川家への将軍宣下も
源氏長者の綸旨もごく自然と言っていい
そこまでの無理を通せた実力があれば
幼少での関白任官は通り得る
ただ晩年の秀吉に翳りがあって
そこまでの政治力がなかったと観るべきでしょ まず自ら定めて認めさせた後継者を
ろくな説明できない形で処刑して
せっかく作った世襲の仕組みを壊し
ついで大言壮語して始めた唐入りが
そのはるか手前で得るところ少なく泥沼化
二重の失政で先行き怪しくなっていた
それでも脅しすかして秀頼を関白に据える
というウルトラCもあり得たかもだが
朝廷を脅すようなことして得た地位を
幼い関白が守れるかは全く別の話
武力で豊臣を打倒しようなんて
極端なヤカラはいなかったけど
徳川だけでなく上杉も奉行も毛利も
秀吉生前なら絶対できない舐めた動きしてるぞ 藤原氏はせめて内覧はくれと言ったらしいけど、
それくらいから許してやっても良かったのではというか藤原氏とはそこらへん調整しておくべきだったんじゃ 秀吉に関白の位が必要だったかといえば不要だった、ていうか最終的には邪魔になったし。まぁ秀頼が仮に秀吉から何らかの職を譲られたからと言ってあの混乱を防げたかと言えば多分否定的なんだろう。 秀吉死亡時の五摂家の未来の暗いことよ
近衛家…近衛信尹は精神病になり隠居。京都から追放され、荘園のある薩摩島津領で謹慎。実子無し
九条家…九条兼孝を強制的に隠居。関白職を奪ったあとは天皇につぐ准三宮の地位を与えて、他の五摂家からの恨みを集中させる。
二条家…秀吉に命じられて二条昭実は5か月で関白職から退かされる。30歳の若さでの隠居。実子無し
一条家…一条内基は秀吉に関白職を奪われ36歳で隠居。実子無し
鷹司家…鷹司信房は秀吉関白就任時に20歳と若く、強制隠居の目に合わなかった。しかし1589年に従一位の位階を与えられるが、権大納言で官位は止まり大臣職につけないでいる。これは摂関家の人間としては異常なことで、摂関家より二ランク下で摂関や太政大臣になれない羽林家と同格の家柄に落とされている。
近衛、二条、一条は断絶の可能性が高く、鷹司は摂関家の家格を奪われている、九条だけは嫡男幸家が成長しており、摂関家の最後の希望だったが、他の摂家からは豊臣に尻尾をふる裏切り者扱いされている。
江戸時代には断絶した近衛と一条に天皇家から養子が入り、二条は九条から養子が入って存続するが、豊臣政権が続いていたら存続難しくておとり潰しか、秀吉の縁戚(秀頼の子とか)が養子に入って乗っ取っていた可能性も高かったろうね まぁだからこそ豊臣潰しに躍起になっていた訳だし。
しかも豊臣にはこれを防げる人材が徳川家康しか居ない上にその家康も武家問題で動けないときてた。 関白強奪のみならず武家に官位ばらまいてあぶれる公家が出たり
秀頼成人まで叙任停止なんて無茶苦茶なことやったもんだから朝廷は大混乱に陥った
小説やドラマではすんなり関白になれて朝廷とも仲良しみたく描かれることが多いが大嘘
秀吉ほど朝廷と公家を私物化し迷惑かけまくった男は類を見ない
そもそも朝廷や公家との接点が多い政権なのに対朝廷ブレーンらしき存在がいたのかどうか
あれやこれや総合すると秀吉には持続可能な組織政権を作る才覚が決定的に欠けていたと思われる 菊亭晴季がその朝廷工作担当してたんでないか?関白就任や豊臣姓はこやつの入れ知恵らしいし 菊亭は確かに秀吉にとって対朝廷の重要な工作要員ではあったけど
家康における天海崇伝林羅山のような外部ブレーンとはちょっと違うんだよな
家康が知識人を使って朝廷公家寺社を法的に規定し管理したのに対して
秀吉は清盛のゴリ押しをそのままやって反感買っただけで何の進歩もない
秀吉はそういう知的エリートを使った国家づくりというものには関心がない
というか理解できる素養が無かったんだろう 秀吉に擦り寄った公家はもちろんいたし
朝廷や公家が経済的に潤ったのも事実
ただ秀吉のそれはまさに工作で
言うこと聴くかわり報酬をあたえてはいても
摂関家は家職を奪われ公家全体としても
秀吉がばら撒いた官位のせいで昇進が滞り、と
強引なやり方で生まれた歪みはそのままなんよね >>839
これだな
最近秀忠のスゴさがわかってきた 秀吉の政権てなんかすっげえ幼稚なんだよな
馬上天下を取ったが最後まで馬から降りられず粗暴なままで終わった観がある >>848
その菊亭を秀次事件で地獄に突き落とすのも秀吉だから絶句するわ
さすがに秀吉、マズい事に気づいたのか一年ぐらいで流罪から京に戻してるけど
正直、あれだけ貢献してこの仕打ちかとは思う 貴族の娘が死罪ってだけで一大事な気がする。当時貴族社会だと死刑ってほとんど無かったんじゃなかったか? 加藤清正とか福島正則などのほんとに忠実な武将を奉行並みの待遇で政権に入れなかったのはなぜだろう?
宇喜多以外の大老が武力を持った寄せ集めなのだから危機管理上必要だったでしょう その為に朝鮮出兵した疑惑ある位には土地が無かったんじゃなかろうか >>855
ほんとに忠実な武将とは?
どこかに忠誠度が出てるの? 豊臣政権自体有力大名による連立政権みたいなもんで秀吉恩顧衆に実力を与えられなかった、それでも一応権力だけはやろうとしたら五奉行の内乱よ 1585~1597の秀吉政権は連立的性格を持たないだろ
豊臣政権が連立政権だったのは秀吉が倒れた1598年5月から家康が大坂城に入る1599年9月までだよ 中野等だったか、東と西の連中で分かれていた連立政権だったというのは。どのみち豊臣公儀は未完成なもので大名家がそのまま肥大したものに過ぎなかった訳だけど。 源頼朝 死亡時、息子が幼少
足利尊氏 死亡時、息子が幼少
豊臣秀吉 死亡時、息子が幼少
徳川家康 死亡時、息子が将軍10年目 徳川も前田も毛利も上杉も削っていくのは無理だしなぁ というより諸侯の領地を削るのではなく、さらに広大な領土を手に入れることで
逆に大諸侯の影響力を相対的に落とそうと考えて実行したのが唐入りだろう
確かにこの方法はある意味画期的ではあったのだが…
もう秀吉の時代だと、今更その方向に舵を切るのは遅すぎたと思う
正直それこそ中世の始まりの頃から防衛戦以外での対外戦争が日本では当たり前のように
行われてた位じゃないとダメだったんじゃないかな
明治以降の日本の一時的な躍進は、産業革命という暴力的な技術革新による
強引な余裕がもたらした奇跡に過ぎないと考えているし >>863
政権基盤が脆弱な上に秀吉がじじい過ぎたね そこでやっぱり秀次がって話になるし秀次が中継ぎ関白全うしていたら徳川家康があそこまで力を持てず
武断派大名もしっかり東海道から畿内まで盤石に抑えられただろうけどな
北政所も家康との距離をあそこまで詰めず北政所経由での切り崩しも出来んかっただろう >>866
秀次が秀頼に禅譲する保証がどこにもないやん。
秀次・家康ラインに秀頼・前田ラインじゃ対抗できない。 鶴松が亡くなって
秀次養子にして
関白譲って
そのあとなんで中で出す 関白になった以上、成人の後継者は失う訳にはいかない筈なんだがなぁ…しかも秀次事件で被害を受けたのは主に親豊臣派で外様ほど少ないとかいう裏目に祟り目だし >>867
殺生関白の話を丸々信じてそうなレスで草
秀頼誕生時に秀吉本人が淀に「秀次の娘と秀頼を婚約させ男子が誕生すればその子がのちのち豊臣家を継ぐことになるようにしよう」と手紙を書き送りこれを読んだ淀もそれを喜んでいる
秀吉、秀次、秀頼、秀次娘と秀頼の男子という4代目までの継承を秀吉はすでに期待している
そして秀次に最も近かった外様大尿は伊達政宗であり政宗は秀次が関白になった頃には豊臣政権の奉行や前田利家と同じグループで
旧織田家家臣団筆頭の立場であった池田輝政らと昵懇
一方で徳川家康は関白秀次政権内ではその立ち位置はほとんど史料にないぐらい不明。
年老いていく秀吉から秀次への完全な世代交代を見据えた外様を含めた動きの中でむしろ敬遠されていたのではないか?と思うぐらい秀次と家康の関係は薄い >>871
秀次の娘と秀頼の婚約の記事の出典は書状ではなく駒井日記じゃね
文禄二年十月一日条
「木下半介方より申越、御ひろい様と姫君様御ひとつになさせられ候ハん由、
被仰出由関白様被成還御次㐧、其通羽筑州夫婦ヲ以可被仰出由也」
文禄2年の茶々宛の秀吉書状は三通あるけど、内二通は秀頼によく乳を飲ませるように、と
体調不良の茶々を気遣いお灸が嫌いにも関わらずよく我慢して沢山据えたものだと褒めてるものが一通
婚約に言及してる内容の書状はないな スレタイを理解してから熱弁しようね
バカにしか見えないよ 老いた君主が養子を後継者にしようとしたら実子が産まれてさぁ大変、なんてのは良くあるパターンだし色々な噂が飛び交ったんだろうな。 恩顧といえるのは宇喜多直家くらい
だいたい秀吉に迷惑してた家ばかり 豊臣秀頼の実父は大野治長だというのが通説、判例である。 それって貴方の感想ですよね?なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか? >>878
糞ひろゆきを思い出させるな
反吐が出る 一番バカ見たのは福島正則、確かに本当にバカだったみたいだけど。 明らかに単細胞の脳筋だ
まるで今の日本政府みたいに無能だ
チャンコロに国内を侵略されているというのに
全く何もせず放置だからな 定義曖昧で意味をなさない言葉を
使い続けるために再定義する必要ある? >>878
糞ゆきって全然
論破出来てないよな
マウント取ってるだけ 家康も豊臣恩顧だよ
なにしろ秀吉に100万石以上も加増してくれたんだからね 「秀吉に」と書いてあるからだろ
「秀吉が」の誤字でしょ もしくは、してくれたじゃなく、してもらったにするか 何しろ織田というか信長恩顧そのものの秀吉が
勢威の衰えた織田家をあくまで家臣として立てることなくあっさり下にしたというよき実例を残してるからね
恩顧だからどうのって議論自体が不毛よ それならあんたは退場しなはれ
ここは恩顧のスレだから いやいや
恩顧に拘るのならまず織田の恩顧がどうだったかを押えとかなきゃダメでしょ
織田の恩顧だった誰かさんの行動はある種の先例になってるわけだからね
そこを意図的に無視して豊臣の恩顧だけ切り離しても無意味でしかない スレタイ読めんのか?
ここは豊臣恩顧や
織田にこだわるのならお前が織田恩顧のスレ立ててそっちでやれ 家臣以外で相対的に特別に優遇された大名やと思うんやがあんまり思い浮かばない
京極や石川あたりの待遇もそんなものやと思うし木村は結局は改易やし誰かこれぞ恩顧って言える大名おる? >>898
秀吉に大名にしてもらった連中じゃないの?
むしろ元家臣が該当すると思う。
黒田とか藤堂とかは陪臣から大名に引き立てられてるから、完全に恩顧 徳川も秀吉に大領与えられたから豊臣恩顧といえんこともないな より田舎に移されるのと北条討伐での働きを考えれば少ないぐらいだよ いい加減自分の思ってる恩顧を他人に押し付けるの止めろよ
別にお前の思ってる恩顧が正解なわけでもないのにいちゃもんてつけてる馬鹿のせいでスレがつまんね >>901
それで何か問題あるの?
秀吉がいなけりゃ独立大名になれなかったんだから、多大な恩顧があるよね? そもそも「豊臣恩顧」を考察して何をどうしたいのよ
あいつは恩顧だ、こいつも恩顧だでレッテル貼りしまくって
だから後々豊臣を滅ぼした(滅ぼすことに加担した)のは不忠だ裏切りだーみたいな
みみっちいことしたいわけじゃないよな?まさか 本当に恩顧という言葉について考えたけりゃ
自分の思う定義を押し付けるんじゃなく
その言葉がどういう文脈で
どういう意味で使われてるか
というところから考えてく >>910
というかまさにその文脈でこそ
使われる言葉が「豊臣恩顧」
他の文脈で使われることはほぼないかと 読売恩顧
長嶋、原、大森、高橋由、菅野
冷や飯
槇原、西本、仁志、清水、内海
こんな感じ 石田ではなく豊臣に恩義があるため三成の謀反を鎮圧して豊臣を守ったのだから
東軍大名が豊臣を守った豊臣恩顧だろ
そして関ヶ原で豊臣への恩義は返し切ったので後の行動は各自の自由というだけ でも、関ヶ原の恩賞は豊臣から出たので、またそこから、恩と奉公が発生するのでは
手柄を立てたから主従関係が切れることなど通常無いのでは
関ヶ原の恩賞が一切出なかったわけではないので 諸将が関ヶ原の行賞を誰からのものと捉えたのかが微妙なところで
その後我先に江戸へ伺候して屋敷地まで与えられたのを見ると
武家の主従関係は「御恩」を受ける側が誰を棟梁盟主として推戴するか選択する側面もあるのでは
「関ヶ原の新恩」なんて言い方もあるがこれは当時から言われてたのかな? 実際秀吉が定めた国割りのかなりの部分が家康にひっくり返されたわけでこの時点で豊臣は武家の棟梁じゃなくなってる
書面で出さずに口頭で行ったのは豊臣に遠慮してたからなんて考え方もあるみたいだけど、家康がお前に〇〇の国を与えると言えばその通りになるという家康の権力の強大さの証明でもある 豊臣家が関が原で中立を決め込んだことで
東軍にしろ西軍にしろ大名は豊臣家から見捨てられた形になってる
事態を収拾したのが秀頼ではなく家康であることは明らかだから
加増があったとて豊臣家からの御恩であるとは思われないだろう というか家康は豊臣姓持つ一門筆頭で
当時の政権の決定権者として加増してる
それが翌年大阪を出て伏見に移り
その2年後征夷大将軍宣下を受けて二条城に移り
さらに2年後秀忠に将軍宣下があって
政権トップの移譲、世襲が確定した
つまり別に前政権(豊臣政権)を畳んだわけでも
そのトップを退いたわけでもない
ついでに言うと秀頼がそのトップに付くという
政治的な節目も来たことがない 詭弁に見えるかもしれんけど単なる事実とし
家康は「豊臣政権」を捨てたわけでも
諸将が「豊臣政権」を捨て「徳川政権」を選んだ
と言うわけでもない
後から歴史の区切りとしてそのような
呼び方でくべつするようになった 武士にとって土地をくれる人間が親分であるというのは武士の発祥からずっとそうだから
関ヶ原戦後に家康の分配に秀頼が待ったをかけて覆すことが出来なかった時点でもう豊臣の時代は終わってる
秀吉の息子であり朝廷の顕職である秀頼を敬う気持ちは持ってただろうがそれはまた別のものだしね >>902
そこ見たけどこじづけでしかないんだよね
人間は誰しも色々な人から恩を受ける
だから豊臣だけから恩を受けたわけではないから
豊臣恩顧と言えるわけではないという締めくくり方をしている
アホの極みだよ 恩顧=なさけをかけること。ひいき
与える側の言葉だし働き分の恩賞しか与えなければ恩顧でもない 加藤清正と小西行長とか破格の待遇だし待遇面で言えば恩顧だよな 秀吉に恩があっても豊臣には無いってのが大抵の連中じゃろ >>900
歴戦の織豊武将たちの認識はむしろ逆だよ
自分たちが一所懸命に戦って何もなかった秀吉の地位を引き上げてやったのだから
豊臣の方が自分たちの働きぶりに感謝して恩賞を支払うのは当たり前
豊臣が恩賞を渋るなら別の御輿を担ぐ選択肢もありうる
だから豊臣恩顧などというのは強いて言うなら、武力に乏しい文官連中か
田舎から来たばかりで何も知らない新参外様大名くらいだろう
黒田とか藤堂とかは豊臣恩顧にはまったく該当しない >>927
だからお前の願望人に押し付けるなよ
正解なんて無いのに馬鹿かこいつ 豊臣が強かった時代は恩顧だの恩義だの振りかざす必要はないし、実際してもいない
政権運営に失敗してピンチに陥ってから慌てて恩顧だの恩義だの叫び始めただけ
そんな都合の良い主張なんて意味がないし、馬鹿げた恩着せがましい態度が通用するはずもない しかしながら、関ヶ原で三成たちの味方をしなかったから恩顧に報いてないだの、裏切っただのと言われるのはなんだかなと思う。 正統性があるほうが勝つんじゃ無くて勝ったやつだけが正統性を主張できる 勝てば正当性を主張出来るが正当性があるとは限らない
勝者が正しいとするなら歴史を考察する意味が無いんだわ >>933
「正しい」とか「正当化」とか云う類の単語が出て来る時点で既に歴史考察から逸脱している。
物理学者が物理現象を解析する如く、あくまでも歴史事実の構造とそれを生んだ因果律の解析、そして物証によるその解析の検証に徹しなければならない。
そこにたとえ一片でも正しいの正しくないのと云う「価値判断」などを持ち込んだ瞬間、それはもはや学術ではなくなる。
>>933
歴史は誰かの正しさを証明する道具じゃないぞ アンカー付けなかったが>>931に対しての書き込みやけど凄い読まれ方やな というか敗者も正当性は主張する
歴史を見たらそんな例はいくらでもある
後になって子孫や当時をろくに知らない第三者が
敗者の正当性を主張したり物語にしたりもする 勝てば正当化できるのは間違いではないんだが
正当性を主張するのにもきちんと手順を踏んだとかどういう手法を使ったかは重要だからな
そういう意味では豊臣家とか朝廷といった権威側からの要請もなく
挙兵に至った西軍のやり方は粗雑と言わざるを得ない 西軍の正当性=敵の家康が後で豊臣を滅ぼした
後世現代に至るまでの西軍びいきの論拠はまず間違いなくこれだけ
この後々の結果から逆算遡及して西軍の全ては免罪され正当化されてる >>941
この手の歴史を逆算でしか計れない手合いっているな、歴史が証明してるとか抜かして 突然軍事蜂起して正当性を主張したのが西軍
そこに説得力もなく周囲の理解も得られなかった
それが結果 考察するスレだから否定するにしろ理由ぐらいは欲しいんだが中身が無い書き込みが多くてうんざりするな 戦争は勝った方が絶対正義で負けた方が悪。これはいつの世も変わらん。特に戦国時代だと尚の事シビア。城を包囲されて城兵玉砕しました、ってなると国人衆は「守らなかった」「見捨てた」って言って寝返る。そうした例はゴロゴロあるじゃろ?盗られた奴が悪いって理論は時にして有効だった。諸将からすると大坂城を獲った時に徳川の正統性は消失したのよ。後は「どっちについた方が儲かるか」の話。正統性は利益を提示出来るという点では効果的だけど正統性のみでは何の役にも立たん。 大坂にいた諸侯の妻子を人質にとろうとした時点で西軍の挙兵がクーデターだって自らゲロってるようなもの
しかも取り逃したりガラシャのように自決されたりことごとく拒否られてるんだから
諸侯の盟主としての正統性などその時点でどこにもない
残ったのは東征諸侯に与えた空き巣強盗の印象と憎悪のみ 豊臣公儀が実は豊臣家と無関係に成立してると分かった時点で秀吉恩顧の大名も離れていったと 天下人じゃなく摂家として残せる
ってのは恩顧の大名家にとって
一安心の落とし所だったろうにな 五摂家が黙ってないだろう
秀吉秀次は朝議に出てたのか?
養父近衛前久も朝議には出てなかったが 朝廷、ていうか五摂家のアンチ豊臣が強過ぎて生きてはいけなさそう 関ヶ原後も秀頼の官位は昇任を続け
朝廷の待遇は摂家へのものだったというね
関白位が豊臣家に行ったまま戻ってこないのは
五摂家共通の解消すべき異常事態だったが
元々5つの家は一枚岩ではなく持ち回り
解消後どこまで打倒豊臣に動いていたか
それによって幕府の動きに影響できたか
と言えば微妙でしょう
少なくとも摂家も影響力大きかったはずの
朝廷の任官は豊臣に対して摂家並み 朝廷は秀頼に対して冷酷だったからなぁ…あそこまでせんでいいだろって感じが 豊臣家はどういう形で落としどころをつけるか知らんけど少なくとも徳川の武家体制の中では要らないし禍根の種
そこら辺は公家側で上手にやれよぐらいだろうな
豊臣家も摂家格があれば関白持ち回りとかしなくてもいいやろ
通例社会だろうが適当にやっとけやろな 徳川政権を敵に回すまでは
朝廷は豊臣家を摂家として遇してる 利休が生き続けてたらその子孫は大名になれただろうか? しかしまあ、後々の尾張家や水戸家の勤王ぶりを見ると、旧主家で摂家の豊臣家を断絶させた徳川のトラウマみたいなものは感じるな。天皇以外にそれを正当化できる人いないもんな。
「すわりしままに食うは徳川」って天下餅の皮肉もちょっと説得力あるし。 尾張家や水戸家の勤王が豊臣への後ろめたさからくるものって何か証拠あんの?
そういう徳川は豊臣にずっとおびえ続けてたんだみたいな論調ってバイアスかかり過ぎてて素直に頷けんわ
天下餅の例えも食うだけの実力がなきゃ喉につっかえるか下痢して大乱呼ぶかもしれないんだから強ちバカにもできない 明らかにスレチで熱弁ふるってんだから
その程度なんだよ >>963
そういう言い方するなよ
かわいそうじゃん😢 【怒】 在日外国人にナマポを払ってるのは日本だけ
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/okiraku/1597983275/l50
たぶん、バイアスの背景にあるのは「徳川は豊臣に恩顧あるよね? でも、根絶やしにしちゃったよね?」っていう素朴な疑問なんだと思う。
秀頼か国松を高野山に追放するくらいで収めてたら、それほどでもない。 家光ですら「今の徳川家があるのは秀吉のお陰なんだから、豊国廟復活させてもよくね?」って言ったとされてるし。
まあ、結局は家臣に反対されているし、実話かどうか分からんけど、家光からそういう言葉が出たという逸話が後世に残っているということの意味はあると思う。 家光は阿呆で有名だし、土井ちゃんや知恵伊豆などの家臣に恵まれただけ 結局のところ判官贔屓で負けた方への同情なんだよね
秀頼はまぁ死んでも仕方がない 豊臣国松を真田信繁が保護して、その保護が伊達家に受け継がれてほしかった。 徳川は別に豊臣に恩顧があるわけじゃないよ
秀吉のおかげで大名になれたわけじゃないしあそこまで優遇されたのも秀吉の都合で家康が媚びたのでもない
家康が恩義を感じていたとすれば今川で氏真をちゃんと保護してるしそれも氏真が主人面せず恭順してたからこそ
秀頼は何度も生き残るチャンスがあったのに尽く拒否した甘ったれで自業自得
だからリアルタイムで経緯を知ってる三斎が既に成人してた秀頼を乳飲み子呼ばわりしてるんだよ 三成の謀反を鎮圧したんだから豊臣の恩顧は全て返しただろ
本来なら三成ぐらい豊臣が自分で抑えなければいけないのに
豊臣は三成の武装蜂起を見た途端にびびって何もできない醜態をさらした 戦国時代の常識で言えば家康は秀吉には御恩はあるけど豊臣には無い。御恩と奉公は一代限りで譜代でもなければ本人が死んだら消える関係。ところが江戸時代、徳川幕府はこの観念を変えて一度御恩が有ったらそれに心中しろという朱子学を用いた新観念を作った。これが江戸時代の安定を生んだけど代償として大坂の陣を説明しないといけなくなった。 大坂の陣の前に君臣関係は解消されてるよ
二条城会見をもって解消したとする説があるしそれ以前にも
臣下から君主へ送る年頭礼を家康が豊臣に送ったのが将軍に就任する慶長8年が最後
慶長13年からは秀頼から家康に送られているそうな
将軍秀忠ではなく大御所の家康に送っているのが微妙なところだが段階的に臣従をすすめていたともとれる
近年の研究では淀殿は江戸への下向を承諾しておりむしろ秀頼のほうが強硬派だったらしいね 官位だの遺言だの言う以前に>>973の考え方が本質的なベースなんで秀頼が心情的に支持される事は考えにくい >>966
本来、恩義とか恩顧というのは秀吉の家族だけが主張していいことなんだよ
承久の乱で政子が頼朝の恩義を主張したとされているけど
これを赤の他人が主張したらおかしいわけ
ところが三成のように豊臣一族でも何でもない赤の他人に過ぎない連中が自己の権力目的で乱用したため
恩義とか恩顧というものが価値を失い安っぽい文句に成り下がった
成人した秀頼が主張した頃には、諸大名にとって耳にタコができるほど聞き飽きた騒音でしかなくなった 秀吉と秀長の晩年不仲説唱える人いたが、秀長が病に伏せると平癒祈願を薬師寺に依頼したり、大職冠像を大和に移したことによる呪いだと噂されれば、再び多武峰に戻したり、秀吉なりの必死さは伝わるけどね。
家康と秀長も非常に仲が良く、良い薬はどれか勧めたり、上洛した時には会いに行くと言ってるし、普通に友達感覚で、よほど気が合ったんだろう。
この時までは豊臣と徳川の関係はかなり良かったんじゃないかという気がするんだよなあ。 というか家康と豊臣家は基本仲いいでしょ
成長した秀頼が無茶しだすまでは 秀吉と家康が義兄弟
茶々と秀忠も義姉弟
秀忠と秀頼が義理の父子だもんね わりと秀忠が凡庸な感じで描かれる事が多いが豊臣家からすれば徳川家の跡目と目されてかなりの重要人物として扱われてるんよな
秀吉は家康ありきの付き合いでもなく家と家の強い結び付きで天下を治める意思表示もあったと思う
毛利やその他とは一線を画してる 秀吉は家康と豊臣を繋げようとしたけど秀頼が家康を切ろうとしたのがね。お前親父の遺言聞いてなかったんかと。 書き残せる状態でもなかったやろ
現代にいたらパンチパーマに金ネックレスとかしてそうなキャラだな秀頼 【ヒデヨシはクズ】 何かと異色な大河ドラマ『どうする家康』を徳川家子孫はどう見たのか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/cddd4dfaab04a9bc78b2965e96dd58117bb5437b?page=3
徳川家広 (徳川宗家19代当主 2019年立憲民主党公認で参院選に出馬するも落選)
「この人(秀吉)は明らかに織田家を乗っ取っていますから、家康公が豊臣家を滅ぼしたことで、豊臣同情論が出てくるのはおかしいというのが持論です。
秀吉という人を、怪物っぽく(実態通りに)描いてほしいですね。
特に朝鮮出兵の無茶苦茶さ、大名たちの間での不人気は、きちんと描いていただけると良いと思います。
秀吉の天下統一路線の果てには朝鮮出兵があり、それが大失敗に終わった後を受けて、徳川家康という人は出てきました。
豊臣秀吉は、どれほど丁寧に語っても語り足りないぐらい家康を描く上で大切なんです」 家広も結構残念だよな
跡も残すつもりなく徳川家放り投げて好きなように生きてる
別に封建時代じゃないからいいんだけど 実際天下取ってからの秀吉はやることなすこと大名の不人気買ってたんだから言ってることはさほど間違ってない
さもなきゃあんなにあっさりと徳川に鞍替えせんでしょ
関ヶ原直後将軍にもなってないのに大名が我先に江戸へ伺候したのが何よりの証拠 別に秀吉は天下を取ってからも何も変わっていないし
天下は極めて落ち着いていて秀吉の生存中は死ぬ間際まで誰一人秀吉に逆らう事など出来なかったし、むしろ誰も彼もが必死に忠誠心アピールしていた
その圧倒的カリスマだった秀吉が死んで政権が瓦解したのは当たり前
豊臣政権ではなく秀吉政権であった訳だからな 徳川に鞍替えというか徳川に託したのは秀吉だからな
三奉行と毛利が余計なことしなきゃ豊臣は残ってただろ どうだろ
天皇―関白―将軍の三重権力構造はやっぱり座りが悪いし
いいとこ大坂を出て五摂家が六摂家になるあたりが豊臣にとっていちばんの落としどころじゃないかな >>991
その通り
家康こそが豊臣の忠臣
三成は逆賊 >>992
そもそも秀吉は関白だの将軍だのに興味がなかったからな
本気でユーラシア大陸を制圧するつもりだったので国内のチマチマした政治にはもはや大した関心を示さなかった
だから関白職も将軍職も適当な奴にくれてやって秀吉は中国やインドにまで進出するつもりだったけど残念ながら天命が尽きた そんなに本気なんだったら最初から自ら渡海して最前線で指揮取れって話なんだが
現地の状況実情もどれだけ調べてたのか怪しいしやったことは倭寇の拡大版にしか思えん 名護屋は最前線基地だよ
そもそも国主たる秀吉が最前線になんて出る訳ないだろ
秀吉が陣頭指揮を取ったのは小牧長久手あたりが最後だろう まぁその結果が敗北なんだが
そもそも2週間前のデータを基に2週間後の戦況に対応しろってのが無理ゲー 情報遅れは相手も同じなんだけどな
2週間前なのか1日前なのか程度の差はあるが予測する点においての本質は変わらん そもそも総大将は宇喜多秀家と小早川秀秋だから秀吉がどこにいようが関係ない 言い出しっぺの侵略者なんだから人任せにしないで最後まで責任もって自ら戦って欲しかったわ
同じ国主でもチンギス・ハーンもヌルハチも死ぬまで自ら軍を率いてるんだからさ このスレッドは1000を超えました。
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