豊臣七将による石田三成襲撃事件を考察する
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加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興(研究者により池田輝政、加藤嘉明、脇坂安治の場合も有)が、
五大老である前田利家が亡くなった直後、石田三成を襲撃し、徳川家康の裁定で決着したとされてきた事件です
学者の論文などからも分るように研究者達の間でも様々な意見があり、事件の経過や襲撃なのか訴訟なのか、
原因は何なのか、史料はどう解釈すべきなのか等々多くの不明なところがある事件ですが、色々と考察してみましょう 白峰氏は「立て籠った」ではなく「謹慎処分を受けた」という意味だとしてるね(かなり苦しい気がするが…)
三成は大坂で襲われる前に脱出したからそういう意味では七将襲撃事件は無かった事は確か。でもそれは「七将が襲撃しなかった」事までは証明できん。 三成だけじゃなく、増田とかも一緒に立て籠もったはずなのに謹慎はどうだろうか 昔の俗説だと佐竹に匿われて三成は虎口を脱出したみたいな感じだったと思うが
今だと佐竹とかこの事件に関わったりしているのか? 佐竹とかに匿われたってのは慶長著聞集だったっけ。
三成が単独で虎口を脱するとは確かに考え難いし誰かに教えて貰ってるのは理屈に合う。
閏三月三日に利家が死んで四日には三成は伏見に来てる。
この時伏見には浅野長政が居たと思われていて(七将宛家康書状)これが三成の移動と関係していない訳が無い。
まず三成を大坂で襲撃して、同時に家康に訴訟というか陳情していたんだろう。 そもそも信頼に足る史料で、襲撃の記載はないという話。 まず間違いなく三成襲撃計画は実行されてる。これは三成自身が言ってるからまず間違いない。
そうでないと三成が伏見に逃げ込んだ理由や、毛利に挙兵を頼んだ理由が説明出来なくなる。まぁ説明は出来るんだがそれは「三成は自分が訴えられるとこれは襲撃だと叫んで軍事行動を起こそうとした」という大変不名誉な結論になるし。 別に当人が襲撃だと思ったから逃げたと
実際は襲撃ではなかったは矛盾しなくないか? そんな状況有り得るか…?しかもそうだとすると三成は「本当は自分に対してじゃないかもしれないけど挙兵を頼んだ」事になって尚のことヤバい奴になってしまうんじゃ。
現実、三成が大坂から伏見に逃げた事で七将の攻撃は空振りになってる。そういう意味では襲撃は無かった訳だが… そもそも襲撃を示す(信頼に足る)史料がないのに。
このスレは物語を議論するスレなの? そもそも襲撃を示す(信頼に足る)史料がないのに。
このスレは物語を議論するスレなの? >>9
『まず間違いなく三成襲撃計画は実行されてる』って、襲撃が前提になってるけど。
キミは何の史料を根拠にしてるの?
慶長年中卜斎記?(笑 >>9
うん、ぶっちゃけ現状だとその
当人が訴訟を襲撃だと思い込んで、武器持ち込んである自分の私邸に入った挙げ句毛利呼んだ
のがまだ筋通る 白峰氏が引っ張ってきた史料は、襲撃ではなく「申合」しかない。
つまりは訴訟。 慶長著聞集や卜斎記、看羊録に記載はあるらしいがそれより毛利の書状である所謂「46号文書」
ここでは三成が輝元に対して「ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、於于今ハ仕合候条、自此方可被仕懸候、左候ハヽ、輝元天馬のことく罷下陣取…」と要請したとある。
つまり三成は自分が何者かに「ねらいたて」られたていてそれが失敗(一こう珍事なく、結句手おきたる)したと言っている。
これは訴訟のことか?それは考え難い。閏三月四日に三成が伏見に来てから始まった訴訟は十日に裁決が出る。つまりどの時点を切り取っても「結句手おきたる」とは言えない。
もっというと後段は凄いことを言ってる。「(敵方はこのザマだから)今はこちらから仕掛けるのが良い」と輝元の挙兵を頼んでる。これで尚更、訴訟のセンは無い。訴訟だとすると三成は訴えられただけでこれが自分への攻撃(ねらいたて)と叫び輝元に挙兵を頼むという暴挙に出たことになる。 >>17
46号文書のその訳は、光成氏のを引用してるんだろうけど、氏はそもそも襲撃を前提として訳してるからね。
文法的に、『仕り候』は、自己の動作の謙譲語だから、『(何者かに三成が)ねらいたてられた』という訳はおかしいよ。 つまり、『ねらいたて仕候者』は、前後関係を考えれば、家康を指すと思われるよ。三成が家康をねらいたてているという事。
白峰氏は、『狙い点』と茶の用語で説明してたけど、この場合でも『ねらいたて仕候者』は、家康を指すとしている。 それは「この襲撃の」黒幕は家康という三成の予測は意味するけど訴訟に関しては全く意味してない事になるけど…
要は石田三成が輝元に「挙兵を頼んだ」事の意味の大きさよ。単純な訴訟なら三成はとんでもない悪人だったという事になる。まぁ確かに三成は後にクーデターを起こしてるからあり得なくは無いが…
そのまま考えれば、狙い立てたというのは七将らの襲撃計画でありこれが失敗に終わった(三成が伏見城に逃げ込んだから)のでこちらから仕掛けたいというのが三成の要請だろう。
さ 「つかまつり そうろう」だと確かに謙譲語だけど
「つかえし こうしゃ」ではないの?
敵(背後にいる者を示唆)の尖兵として狙ってきたという意味で >>20
いや文法的にそう訳せないんだよ。『ねらいたて仕候』の主語は三成。また46号文書は、他に七将襲撃について触れている部分がない。
キミだって、『ねらいたて仕候者』の訳だけで襲撃があったと決めつけていて、それを元に文章全体の意訳を進めているわけでしょ? >>21
それは読み過ぎでは?
46号文書では、他に七将に触れたものが一切ないし、七将に加えて背後に家康がいることまで『ねらいたて仕候者』だけで読み取らせるのは流石にないでしょ。
また、『仕ふ』の活用とするなら、『仕し候者』と表記するのでは? これが訴訟だとしても上杉討伐だとしてもかなりの問題がある。
「ねらいたて仕候者」は「一こう珍事なく結句手置きたる」と三成は言ってる。つまり三成の目線では「ねらいたて」は不発に終わってなければならない。
ところが訴訟も上杉討伐もどちらとも「一こう珍事なく」とは言い難い。のみならず、訴訟も上杉討伐も家康が責任者として差配しそして家康の裁決通りに落着してる。
つまり三成が「私を狙った徳川家康の目論見は外れました!」と言ったところで輝元からすると
「何言ってんだコイツ」という感想しか出ないんじゃないか。その上で挙兵を求められたも応える筈もない。
では三成目線で失敗した計画は何かと言えば七将による襲撃計画しか無い。さもなくば三成が訴訟を武力でぶっ壊そうとするとんでもない悪奉行だったとするか… >>25
いや、全く問題ないよ。
大前提として、キミの主張する『七将襲撃』は、信頼に足る史料には全く存在していないという事。
一方で、七将による『申合』『申事』では、複数の同時代史料で存在している。
つまり、ここから先の議論は、キミの妄想に付き合う人がいるかどうかというだけ。
私は付き合えないし、キミは嘘をつくし、鬱陶しいので否定させてもらったわけね。 >>22
その訳はかなり問題がある。
46号文書は三成が輝元に送った内容なんだが、「ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる」の主語が三成だとすると「私は(何かを)しようとしましたが、何一つ出来ず、結局諦めました」という事になる。
つまりクーデター失敗の告白にしかならない。そんな意味不明な事を輝元に言う理由はどの時空にも無い。
明らかに三成は自分が被害者なのであって「ねらいたて」られそうになったが虎口を脱したという意味にしかとれん。この点は光成氏も白峰氏も同じ。
じゃあその「ねらいたて」た者は何を狙ったのか?それは明らかに三成襲撃計画しか無い。何故なら訴訟はこの書状が送られた時点で審理中で「結句手おきたる」とは言えないから。 >>27
キミの理解力が大問題だと思うよ。
『ねらいたて仕候』の主語は三成で、
「(三成が)ねらいたて仕候『者』=家康」なわけ。
で、家康は手をこまねいている状況。
>>19で説明してるけど。 ああ、それからまた嘘ついたね。
白峰氏は、『ねらいたて仕候者』は家康としているよ。
光成氏の訳とは全く違う。 その読み方は白峰氏の読み方とも違う、かなり珍妙な読み方をしてる事になるよ!
白峰氏は「ねらいたて仕候者」が「一こう珍事なく」としている。つまりねらいたてた奴ということ。
君の三成がねらいたてた奴、となると三成が何らかの運動でやり玉にあげてた奴がいることになる。この時期の三成がそんな事をしていたとは知らんかったがそりゃなんなんだい?
こういう珍妙な訳は普通の訳を外そうとするから発生する。正直、白峰訳もツッコミどころのオンパレードで説得力に欠けている。
仮に三成がそう言っていたとして、それが挙兵する理由に成るだろうか?正直かなり厳しいと思うが…
光成訳の通り、「私の命を狙った者」と訳するのが無駄な労力を省くことになるだろう。 >>30
珍妙なのはキミだな。古文の文法を無視して、感覚で訳している。
>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
また46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ないんだよ。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。 残念ながらその珍説は捨てた方が良いぞ。だってそうすると「三成はいつ、誰に、何をしてその結果毛利に挙兵を頼んだのか」を君が論じないといけない。
白峰氏はねらいたてたのは三成じゃなくて家康が上杉討伐をしようとした事だとしてる。まぁこれはかなりこじつけなんだけどね…
君の場合白峰氏よりも厳しい道になる。三成が何をしたのかから論を組み立てないといけない。だから論を組んだら教えてくれ。面白かったら小説にでもしようじゃないか。
46号文書では三成は輝元に挙兵を頼んでる。これは奉行として最悪の選択で要は謀反ってこと。仮に輝元に裏切られたら三成は良くて斬首だろう。つまりそれだけの危険を三成は味わった。
っていうとそれは各史料にある三成襲撃計画に他ならないだろう。それなら、三成がこの禁じ手を使おうとしたのも理解出来る。
まぁ、君の言うように「悪虐な石田三成は天道に逆らって徳川家康に刃向かおうとした」可能性も否定はしないけどね。そういう小説は嫌いじゃない。 >>32
文法の切り口で反論できない時点で、キミの主張は終わっている。
残念ながら、キミは古文をもっと勉強したほうが良い。
勉強不足、無知を自慢してどうする。
繰り返すが、46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。 白峰氏の言う通り「ねらいたて」が「狙い点」つまり「見せ場を作る」という茶道用語だとすると主語が三成というのは間違いなくおかしい。
何故なら「私が見せ場を作って差し上げたあの方」って事だろう?「あの方」が家康?
いやまぁ。そういう小説もあってもいいさ。『三成は本当は徳川の世を望んでいた!それで敬愛する家康の為に捨て石になったのだ!』うん。売れるかもね確かに。
でも詩学的よりもここは史学的に行こう。
三成はそんな事は言わない。つまり「ねらいたて」とは「命を狙った」という事になる。だがそれも意味は通じない。というか宿敵に真面目に謙譲する奴がいるかな?
つまりこの解釈は間違っている事になる。光成氏の様に「私の命を狙った輩」とでも訳すのが無理がない。無理にこれから外そうとするから厄介な事になる。
三成「が」何をしたのかから考えないとならなくなる。大変なことよ。 >>34
キミさ、ゴニョゴニョ言って逃げてるだけだよね。
こちらの指摘に全く回答しないもんね。
・文法的な誤訳。>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
まずはこれに回答して、自説の正しさを立証してよ。 凄い気になるんだけど、お前さんそんなに頑張ってどんなストーリーを思い浮かべてるわけ?
つまり「三成が46号文書で輝元に挙兵を頼んだ理由」は何だと考えてるのさ?
光成氏も白峰氏も、「ねらいたて仕候者」を「三成がねらいたてた」とは訳してない。そりゃ当たり前で話がおかしくなるから。
君は三成がどんな事を輝元に話したと思ってるのかな?
今の状態だと「三成襲撃事件があった事を否定したい」という為だけに頑張って屁理屈捏ねてるようにしか見えないんだが…
三成が「ねらいたてた」それはなに? >>36
ストーリーを思い浮かべるとか(笑
キミがこちらの指摘に回答せず逃げ回ってるという事は、キミ自身が誤りを認めているという事だ。
頑張っているというか、キミが答えられないのはわかってるから、同じ質問続けてればいいだけなので楽チンだよ。気にしなくてもいい。
ミスリードを一つしてるから言っとくけど、白峰氏は、『ねらいたて仕候者』は家康としてるので、私と同じだよ。なんならリンク先貼ってもいいけど?
では、再度指摘させてもらうよ。
・文法的な誤訳。>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
まずはこれに回答して、自説の正しさを立証してよ。
どうせ逃げるんだろうけど(笑 「仕候」にそんな深い意味は無いよ。敢えて言えば単なる謙譲表現に過ぎん。ていうか光成氏はおろか白峰氏も気にもかけてない単語に良くそんなに拘るねぇ。
結論から言うと「私が…した」と訳するのは間違い。
何故なら「ねらいたて」が「命を狙った」(光成訳)でも「見せ場を作ろうとした」(白峰訳)でも主語が三成になると
「私が命を狙わせていただいた」「私が見せ場を作らせていただいた」となって不自然。
そうなるとまず「三成がいつ誰に何をしたのか」を説明しないといけなくなる。
光成説も白峰説も三成は被害者という点で一致してる。よほど「三成が仕掛けた、三成が悪いんだ!」と言いたいんだろうけど。
よくある「こう読める」系珍説はあまり言わない方が良いよ。余程知識が無いとボロが出てしまう。ていうかまず説にすらならんし。 白峰氏は従来の訳語解釈への批判がひとつの武器だけども、こじつけ過ぎと思うこともある たたき台としちゃ面白い人だけど、その分主張が雑な人だなぁって印象 >>39
キミが古文を全く知らない事を白状しなくてもいいから(笑
『仕候』に意味がないとか、単なる謙譲表現とか、古文の成績相当悪かったでしょ?
さらに言わせてもらうと、『ねらいたつ』なんて単語はないよ。
『ねらひ(他動詞狙うの連用形)+たて(補助動詞たつの連用形)』なわけ。意味は自分で調べな。特に『狙う』にはいろいろな意味があるから。自分の無知を恥じるんだね。
白峰氏は、『狙い点』と茶の用語で組み立てていたが、これは流石に如何かと思うし、光成氏の訳は10年以上も前の著書で七将襲撃の存在に全く疑問を持たれなかった時代の現代語訳だからね。その存在が疑問視されている只今現在で、当時の現代語訳を参照することに意味はない。 >>39
忘れてたよ。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
この文書だけでは、七将襲撃は確定できないけど、どう説明するのかな? >>41
なんだこいつ
君のターゲットでは俺はないぞ
「狙い点」なんて超訳はおかしいと言ってるだけだ >>43
いや、ゴメンゴメン。
アンカ先間違えましたね。
当の本人は自分に向けられてるとわかってるでしょうから、修正しないでいた次第。 46号文書では「三成が何者かに狙われたこと」「そして敵は失敗したこと」「故に毛利に挙兵を頼む」事が書かれてる。
(ちなみに毛利の調査で事態が深刻だと判明してる)
これに当て嵌まる事件は七将襲撃事件しか無い。
と、いうかそうでないと三成がとんでもない悪奉行になってしまう。
軍事攻撃されたわけでも無いのに挙兵を頼んだとすれば十人衆で一番のワルになる。
だから光成説が正しく、七将襲撃事件があったということになる。それ以外に説得力のある説は無いからね。 結局、七将襲撃ありきの主張ということか
三成がとんでもない悪奉行になってしまうから七将襲撃があったんだ、というのはおかしい ていうかそもそもそれ以外に説が無いからね。
「三成がこう言ったのはこうした事情があったから。それはこの史料に書かれてる」というのが説。
そうじゃなくて単なる言葉遊びに夢中ってんじゃ話にならん。子供じゃあるまいし。
史料を見つけて説を作らないと白峰説や光成説を批判する事もできんよ。
46号文書からは三成が七将に襲撃されこれに逆襲しようという姿勢がわかる。だが、これを封じるべく七将が予め「訴訟」しておいた。七将の方が一枚上手だったんだな。 >>47
いや、キミ何言ってるの?
正しい文法で読解して初めて正確に文意を理解することができるんだけど
『ねらいたて仕候』の誤訳をあくまで押し通すということで理解していいのかな?
そして白峰説は、七将襲撃の否定なんだけど >>48
だから君に聞いているだろう?
君は46号文書を読んで、それが何年何月のものと思ってるの?
三成がいう「ねらいたて仕候者、一こう珍事なく」とは何のことを意味してるの?
これを君が言わないなら光成説が正しいって事になるし、当然「ねらいたて仕候者」は「私の命を狙った者」で正しい。
「人は落ちこぼれると批判することに執着する」というけど君は落ちこぼれなのか?
頼むから君はどんな説を信じてるのか教えてくれ。僕は落ちこぼれですと言うなら取り敢えず日本史の教科書でも読んでおいてくれ…頼むから 白峰氏は46号文書の発給時期を慶長5年6月上旬に比定してる
これが事実だとすると輝元に援軍を頼む話はこの騒動とは無関係になるが、
白峰氏の年代否定に異儀を唱えてる研究者って他に誰かいるんかね >>49
少し落ち着けば?
まずはこちらの質問に答えてよ
『ねらいたて仕候』の誤訳をあくまで押し通すということで理解していいのかな?
キミの質問に答えたとしても、キミが誤訳をしていることに変わりはないよ
『ねらいたて仕候者』が誰を指すのかは、この議論の核心でしょ
で、>>41で高校一年生レベルの古文の読み方を抗議してあげたわけだけど、キミは誤訳を押し通すということでいいのかな
YES/NOで回答してよ 相手の批判しかせず自分の案を持たない人間がいて議論が一歩も前進しない典型例だな
仕事の会議ではなく5chなことが唯一の救いか 私の事?(笑
私の主張は、最初から『七将の騒動は、襲撃ではなく訴訟』ね
なぜなら、襲撃を示す信頼に足る史料が存在しないから
46号文書は襲撃の根拠にならないことを指摘するのは、自説の論拠になる話 46号文書が書かれた時期は実はかなり精密に導く事ができる。
まず「自治少・小西・寺沢被越候」とある通り三成と小西行長と共に寺沢広高が来ている。寺沢広高は元々奉行で名を馳せた男で故に三成と同じ文治派と見られていた。そんな彼は三成が失脚した慶長四年以降家康に急接近し盛んに奉公。関ヶ原では東軍について天草四万石に加増されている。
つまり寺沢が三成と行動を共にするのは慶長四年閏三月ぐらいまでという事になる。
次に46号文書では大坂城が徳川の手に落ちていると書かれている(「御城ハ彼方衆持候と聞え候」「御城つめニハ、こいてかたきりなと居候、是ハ内府かたにて候」)
大坂城は元々秀吉遺言で前田利家が入っていた。それが慶長四年三月八日、利家が家康を招いて利長の後見を依頼。家康はこれを請け前田家は徳川の勢力下に入る(利家公御代之覚書)
その後、家康は九月九日に秀頼に会いに大坂城に行くがここで家康暗殺計画を知らされ大坂城西の丸に入ることになる。
つまり「大坂城に内府の兵が入る」のは慶長四年三月から九月のことになる。 >>55
肝心の、46号文書の誤訳の件は回答してくれないのかね?
逃げたように見えるけど。 >>53
ちゃんとアンカーつけなよ
誰のことかわからないじゃん 暴れてる文法くんは、勝頼スレや史料スレで総スカンを喰らったコピペ連投荒らし。 反論が止まったら、別IDが荒らし認定を始めるのはお約束だなぁ という下手な返しもいつも通り
IDや文体を変えてもやることがナントカの一つ覚えだからすぐバレる 他板に比べると戦国板の荒らしはウブだねー
バレて指摘されるとテンプレの返ししかできなくなる 白峰氏も認めてる事だけど「七将襲撃事件は無かった」論の最大の弱点は「どうして三成が伏見に来たのか」を説明出来ないという点にある。何の問題も無いなら大坂を出る理由が無いからね。それで光成氏や笠谷和比古氏は七将襲撃事件はあったとしている。
46号文書は内容からして間違いなく七将に襲撃された三成からのSOSな訳だけど幾つか面白い点がある。
大谷吉継が輝元に「早く内府にあった方が良い」と忠告している(内府むかいつらに成候様)んだけど、看羊録では輝元が家康に和議斡旋を要請し家康がこれに同意、長束正家は三成を説得して家康に対して謝罪させて問題を解決させたという。
つまり挙兵を頼む三成の意に反して、周囲の人々は家康による解決を望んでいたことになる。 >>62
一応言っとくけど、別人ね
なので、何を言われても響かんけど >>63
じゃ、私の質問には回答できないということで逃亡ね
お疲れ様でした(笑 そもそも七将の襲撃として記載されている史料がないということでしょ
白峰がそれを掲げたみたいだけど、それに反論できなきゃその後の議論は意味ない 46号文書で三成が「自分が狙われた」事とそれを理由に毛利に挙兵を頼んでるから襲撃された事は間違いない。
ただ七将(正確には十人くらい居る)は予め家康に訴訟として話を持ち込んでいたから三成の計画は水泡に帰した。
笠谷和比古によるとこの時伏見城が七将らに包囲された可能性もあるらしく(46号文書にも似たような記述がある)
結局輝元も家康に和議斡旋を頼むしかなくなってしまった。 なんで三成が訴訟を襲撃という事にして毛利に挙兵要請したって可能性を低いと判断してるのかだけが気になる
毛利宛の内容も三成が自分に良いようにお手盛りしたって考えちゃいかんのかね? 訴訟だとすると「一こう珍事なく」「結句手おきたる」って情勢じゃないのが明らかだし挙兵頼むのもおかしい。
しかも訴訟は十人衆合議で決するのに家康と輝元に何故かねねを交えてお話し合いだし。 三成が、書状では毛利に挙兵してほしくてそう書いたけど実際は虚偽の状況じゃないの?って疑問に
書状にこうあるよは反論としてはちょっと変じゃない? 46号文書は、毛利元康あてに輝元が送った書状で、『 』は、三成の言葉。
自治少、小西、寺沢被越候ハ 『ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきた
る、於干今ハ仕合候条、・・・』
石田三成、小西行長、寺沢広高が来られまして、『(私が)ことさらに様子を窺っております者(=家康)は、一向に変わったこともなく、むしろ手をこまねいている今がよい機会ですので、・・・』
直訳したらこんな感じですかね。
問題の「ねらいたて仕候」は、『狙う』が「様子を窺う」、『たつ』が「ことさらに〜する」の訳が適当。
『仕る』は話し手(三成)の動作で、受身の語が使われてないので、「ねらわれた」の訳はない。
同じ文書で、家康を敵性大名と見做しているので、『ねらいたて仕候者』は、白峰氏も言っている通り家康。ただし、『狙い点』という茶道用語の引用には賛同出来ないな。
結論は、46号文書では、七将の襲撃か訴訟かは判断できない。 襲撃事件の他の史料とかになると慶長見聞書みたいなのになるしな かなり古くて申し訳ないんだけど、光成氏の「関ヶ原前夜」だと、三成が小西と寺沢を使いに出した事になってるんだけど、これはどうなんだろ 七将襲撃はなかった
なぜなら襲撃を示す史料がないから、ということでこのスレは終了 ねらわれた、なら「ねらいたてられ候」だろうね
仕るは入れないで、いったん文を切るんじゃないか >>74
46号文書からだろうからまず間違いない。
七将襲撃事件の時点では小西も寺沢も文治派だったから。
三人で行ったのか小西と寺沢が使いだったのかはわからんけど少なくともこの三人が連携してたのは確か。 >>74
一、冶少、小西、寺沢より越され候ハ
光成氏は三成は伏見にこもって動けないはずだから三成の使いで小西寺沢が使者として来たと解釈したんだと思うけど
これ単純に3人の連署状および密使が来たちゅう事じゃないかな 白峰氏は「狙いたて仕候者」を徳川家康としてるけど、
訴訟にしろ上杉討伐にしろその黒幕が家康ってのはかなり疑わしい(てが情勢上否定されてよい)
それに幾ら敵視しているとはいえ三成が「訴訟の黒幕は家康」っていうのも意味わからんと思うのよね。家康は訴訟を受理しただけだし。
しかも訴訟は始まったばかりでしかもどう見ても珍事ないなんて状況じゃないし。 三成は自分に都合のいいよう結構話盛るからそれかもしらん
宇都宮氏改易の時の書状も随分お手盛りしてたし 「三河物語」では、「七将襲撃事件」自体が無くて、狙われたのは家康で、三成は暗殺を目論んだ豊臣方の大名たちから
責任をなすりつけられた、的なことになってたと思うけど、それはどう考えられてるんだろう
「七将襲撃事件」なり「家康暗殺未遂事件」なり、とにかく「何かあった」のは間違いないんだろうけど 三河物語は襲撃なのかと思ってた
一体、襲撃として記載されている史料って何があるの?
冗談抜きでないような気がしてきた 実は三成襲撃計画は二つある。
一つめは閏三月三日に大坂で実行しようとしたもの。
二つめは閏三月九日に三成佐和山謹慎の道中に実行しようとしたもの。
46号文書が書いているのは最初の襲撃でこれは慶長著聞集や看羊録に書いてある。
三河物語では後者の襲撃計画を記している。それによると心変わりした諸将は三成に腹を切らせようとして家康の仲裁も聞き入れず、家康が三成を佐和山に謹慎とすると諸将は道へ押し掛けて三成を切腹させようとしたので家康は結城秀康を護衛につけたという。
何方の計画も未遂で終わったわけだけど、どのみち家康が居なかったら三成は死んでいたかもしれない。 46号文書には襲撃のことは書いてないみたいだし、
三河物語、看羊録、慶長著聞集とか、史実の議論で根拠にしたら恥ずかしい
史料では? 笠谷和比古とかは普通に信用してたな。
46号文書も三成襲撃事件の事でないという論は白峰氏の上杉討伐説しかないけど時期的にも内容的にもかなり厳しいし。
三成は普通に武力襲撃されたと見るべきかと。 そもそも46号文書に、7将襲撃が記載されていないって話でしょ。
上の人が『ねらいたて〜』の所をそんな感じで訳してたけど、どう考えても無理だと思うよ。 笠谷や光成の引用元は15年以上前の著書だよね。
七将襲撃があるとかないとか議論が存在しない時代。
あるのが当然の意訳だから、説とかそんな次元の話ではない。 でも他に46号文書の解釈でマトモなやつは無いからね。光成説を除くと白峰説だけどこれはかなり苦しいものだし。
三成襲撃計画は空振りに終わったから史料に残る難い(成功してたら残ってたろうね)ものだけどね。
何しろ三成襲撃が無かったとすると「どうして三成は大坂から伏見に来たのか?」を説明しないといけなくなってしまうし。白峰氏も「説明はできない」ってブン投げてる始末。 昔は光成と書けば三成の誤変換だった
頭の中にそう刻まれたから、研究者の光成氏がどうもゾワゾワする 証明なしでの理屈なんていくらでも付けられちゃうから、史料が先で解釈はそれに沿っていくべき、わからないなら無理に理屈つけずにわからないとする方が余程誠実だと思うがね
勿論白峰氏の解釈は無理が過ぎるが、かといって笠谷氏らの解釈も正直推論に過ぎる 今のところ確実に否定されてるのは「三成は敢えて家康を頼って伏見に逃げた」という逸話だけ。何故この閏三月四日に三成が大坂から伏見に逃げたのかは襲撃説以外説明が付いてない。
利家は死ぬ前に家康に利長の後見を依頼してここで大坂城は徳川の城となったので利家の死で襲われると思って逃げた…
みたいな説明もできなくは無いけどこっちは史料が無いからね。 研究者の説を待つまでもなく、自分で調べればいい。
古語辞典ひけば、誰でもわかるレベルの訳。
白峰に疑問を持てるんだから、光成や笠谷にだって疑問を持てるはず。
そうならないのは、キミが七将襲撃ありきからスタートしてるから。 なら信用できる史料には襲撃と書かれておらず現状は襲撃と言う可能性は低いでいいじゃん?
それこそ君が言ってた訴訟を襲撃と言う事にする為に逃げたって仮説で全然良くて、何故そこからいや説明つかないから襲撃はあったんだに短絡させたいのか
そこにみんなおかしいと言ってる訳でしょ 今のところ確実に肯定されているのは「七将襲撃」を示す信用できる史料は存在しないという事だけ。 15年くらい前っていうと、三成が七将に襲撃されて家康の懐に飛び込んだのが普通に史実だった頃だな。
七将の黒幕が家康で、七将を操っていたという。
清正・正則あたりの評価が、裏切者から家康にまんまと騙された脳筋にシフトし始めた頃。 三成襲撃がないとすると「三成が不名誉だから」とか
「三成が暴挙に出たことになるから」って理由で
襲撃だったはずと主張してるけど
普通に素直に読めばまさに三成は不名誉で
暴挙を企んでるようにしか読めないんだけどな >>91
その襲撃説の、根拠となる史料がないんだろ?
今まで頑張ってあげてた史料は全否定されてるし 白峰氏も「三成が大坂から伏見に移った理由は説明出来ない」って匙投げてるのが現状だし。七将の襲撃計画を知った三成が密かに脱出して伏見に逃げ込んだ以上の説は出てこないだろうなぁ。 >>98
白峰氏そんなこと言ってたっけ?
著書では騒動以前の閏3月4日に三成は大坂から伏見に移動してきており、
逃げてきたわけではないって主張だったと思うが というか三成が伏見に行くのってそんな不思議?
豊臣政権の中心的政庁だぞ
奉行が大阪で権力争いしてる方が
むしろ本来の姿から遠いわけだが 大老利家死後直後だから伏見は急用でも部下に任せるなりで
すぐに大坂を離れないといけない理由もないと思うが いや逆に本来いるべきは伏見だよ
秀吉存命中も大阪に出仕してた訳じゃない 秀吉存命中は秀吉がいるところが政庁だろ、聚楽第でも名護屋でも そうだよ
では秀吉の死で大阪が政庁になったのか?
遺言ではそうは言われていないね した側でなくても信用できる史料に襲撃として記述されてなくてって話でしょ
起きたと言うには信用の置ける証明ありきなのは当然でしょ 三成書状も襲撃説側が主張する様に
三成が狙われたとは読めないしな 利家の死でなんかあったかね
宇喜多秀家は大坂に居座り続けて家康から遺言違反指摘されたりしてるね >>100
白峰氏は論文の中で「石田三成が大坂から伏見へ移った理由については記されていないので、その点は注意を要する」と書いているね。白峰氏もどうして三成が伏見に行ったのかは説明出来ないらしい。まぁそりゃ「史料に無い」から襲撃事件は無かったと言っている以上史料に拠らない主張が出来ないというジレンマがあるからね… >>109
三成の最後の移動って確か慶長三年十二月に朝鮮からの撤退が完了したとして大坂に到着した、だったかと思うけどこの後の移動について知ってる人はいますか?教えて偉い人。
この後、前田利家が慶長四年の三月に家康を大坂の屋敷に招くんだけどここで「三成が家康を襲撃しようとしてる」って話が出て徳川家はかなり気を遣って移動してたはず。それで利家と家康の会見の時にはボディガード代わりに諸将が詰め掛けてたらしいし(利家公御代覚書)
逆言するとこの時期まで三成は大坂に居たんじゃないかな。 例の書状は普通にこう言うことだろ?
三成「家康狙ってるけどアイツ手をこまねいてる」
輝元「 >>101
白峰氏がわざわざ「三成が伏見に行った理由は説明出来ない」って言っている以上、不思議があるってことになる。
おそらくそれは秀吉の遺言が原因。
早稲田大学蔵書秀吉遺言覚書には「奉行共五人之内徳善院・長束大両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事…大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事」と書いてある。
つまり「五奉行のうち、伏見城には前田玄以と長束正家が留守居をせよ。残る三人のうち一人は伏見、二人は大坂にいるようにせよ」と命令したワケ。ところが慶長四年閏三月四日以降、石田三成・増田長盛・前田玄以は伏見にいる(立て篭もりまでしたらしい)、長束正家も伏見、浅野長政も伏見にいる(閏三月五日の家康書状より)つまり五奉行全てが伏見にいるという異常事態が起きてる。
単なる訴訟なら三成だけが出頭すれば良いので誰かを大坂に送ってるはず。大坂城は確かに豊臣の私城だけどだからといって放っておいていい場所でも無いからね。 そもそも在番の義務がある伏見を
ほっといてた方が異常じゃん
あと白峰氏が言う通り
訴訟のタイミングより早く戻ってる
そこら辺丸っと無視して
伏見に戻った理由がわからない!
訴訟じゃなく襲撃があったんだ!
ってかなり謎主張だぞ >>110
つかなんの遺言に違反したんだ?
家康と利家や奉行の在番する場所は決められていたが秀家がどこにいるかなんて決められてなかったと思うが >>112
・慶長3年12月27日付島津忠恒宛立花宗茂書状から三成は宗茂と同道して大坂に到着したことが分かる
・慶長4年1月28日付島津義弘・忠恒宛石田三成書状で、病気のため薩摩に下向することができなかったが、明日出発すると述べてる
・2月1日付島津義久・義弘・忠恒宛石田三成書状で、近日薩摩へ下向して義久や義弘と直談したいこと、
またここまで薩摩への下向が延びた理由を島津忠長へ申し入れたことを述べてる
その後三成が薩摩へ下向したことは確認できない
三成がどこに居たか判明してるのは慶長3年年末に大坂に居たということだけ
恐らく騒動まではずっと大坂に居たんだろうと思うけど >>116
遺言でそれぞれの城任されてる家康と利家以外は
西国の諸侯は伏見城、東国の諸侯は大坂に詰めろとされてるね あ、書き忘れてた
慶長3年6月27日 西笑承兌書状案に記載される秀吉の命令ね >>118
それは諸大名宛であって、政権を担う大老を拘束するものではなかろう 実際それが届けられた景勝が上洛して大阪に移ったわけじゃないしな 景勝は秀吉の許可を得て帰国してるんで関係なくね?強いて言えば上洛命令が出た後には大坂詰めになるってだけで
逆に大老はこの書状じゃ例外になるってのは何を根拠にしてなの? 居住地が問題になったのってその一件くらいしか知らんが他にもあるんかな 秀吉が伏見と大坂どっちを重視してたのかはわからないけど、遺言上五奉行は伏見に三人大坂に二人居ないといけない。実際、大坂を空けておく訳にはいかないはずなんだが…
五大老は伏見・徳川家康(向島)、毛利輝元、上杉景勝。大坂・前田利長、宇喜多秀家、といたらしい。 >>117
ありがとう。やっぱり三成は大坂に居続けてたのか… >>122
おそらくだけど豊臣政権の構造が「秀吉ありき」で作られた結果秀吉の死後「誰が公儀なのか?」で混乱が起きてるのかと。
例えば御掟だと「誓紙起請文の類は絶対に禁止」としてるけど秀吉の有形無形の命令によって起請文は出てる。つまり御掟は公儀を拘束しない。そうなると「俺は秀吉さまから!」みたいな話も出るし「我々五大老は公儀だから」って話も出てくることになる。 慶長4年伊集院殺害の件で石田が対応してなかったっけ? 慶長四年三月九日、伏見島津屋敷内で島津忠恒が伊集院忠棟を誅殺してこの後始末については三成も処理に関わっていたらしい。
らしいんだけどこれで伏見に移動したかどうか知らぬ…この後閏三月四日に三成は大坂から伏見に逃走、十日には佐和山謹慎の処分が出て庄内の乱にはタッチ出来なくなったようだが…
ただ閏三月四日の時点で大坂にいるって考えると大坂から処理をしていたんじゃないかな。 まず襲撃の史料がない
ゼロから史実を作るわかにはいかない >>122
秀家がというか輝元もかな?みな大老は従ってないからだよ
誓紙のやり取りも大老や奉行同士では盛んにおこなわれたがそれを違反と指摘するものはいなかった
家康が批判されたのは、大老奉行同士ではなくて、それ以外と誓紙のやり取りをしたことについてだからね。
当時は法というのは諸大名を縛るものであって、政権を縛るものではない
将軍家は武家諸法度には縛られないようにね >>124
秀吉が健康な時は伏見が国会議事堂で大阪城は首相官邸みたいなもんかな
国権の最高機関は国会であり、政権はここで運営されていた
首相官邸は総理の自宅であって重要な場所ではあるし、来賓を迎えたり行政を担ったりはするが、
あくまで政府の公的な機関とはいえない。
ただ秀吉が死んで秀頼が成人するまで秀頼の所に誰もいないわけにはいかない、人質なども大阪城を拡張して大阪に集められているから
この時に大阪に移ったのではといわれても間違いではないかもしれない
元々移転ありきで、途中で秀吉の体調が持たずに亡くなったのではなかろうか
工事間に合わなかったしな 違反と指摘されなかったから違反じゃなかったは私的には疑問かな、まず五大老は家康と利家以外政務預けられてないと解釈してるしで秀吉の統制が外れて好き勝手しだしたと自分は認識してる
あと結局遺言で伏見を家康に預けてたりと、政庁も移してないと自分は解釈してる んー俺はそもそも大老奉行は対等で、家康利家にそもそも独断で政務をやる権限などないと解釈してるからなあ。
全員の合議でやる形
実際初期はそうなっていた 初期と言っても浅野家所蔵遺言や他遺言による家康に集権していく形で利家は豊臣家の後見といった内容食い違ってて、実際合議による政務についての記述は秀吉没後以前は遡れないからなぁ
とりあえず前提が違うから上での解釈も分かれたのは理解しました 秀吉の遺言では政務の全ては家康と利家が取ることになってた。それを無理矢理十人衆合議にしたんだが故に空中分解起こしてしまった。秀吉が生きてる時から合議制してたなら兎も角死後の政治的妥協の産物がうまく動くはずもないわな。 >>131
いや普通に秀吉伏見城にいたので
国会議事堂で首相官邸かと
豊臣滅亡の舞台になったり江戸期以降の大阪町人が
太閤はんのお城と親しんだりして勘違いされがちだが
秀吉が大阪城にいたのは関白就任前 あと秀頼が大阪城に移ったのもはっきりしてて
天正4年の年賀の礼は伏見城で受けて
その直後に利家と映ってる 伏見城も大坂城も等しく重要拠点でそこに奉行か大老が居ない訳にはいかないし、特にこの慶長四年はイベントがありすぎたしね。だからこそ三成も大坂に居続けてたんだろうし。
三成が伏見に移動するなら他の奉行を大坂にやらないとならんがそれもしてないんだよなぁ。かといって三成は前田閥じゃないから利長に全てを任せたって訳でも無いし。 他の奉行の居所もはっきりしてんの?
天正4年に秀頼-利家が大阪入りしてから
三成は利家や他の大老巻き込んでの
家康弾劾に動いてた訳でしょ
それが利家家康の和解でご破産になって
利家死去で完全に目がなくなって
大阪に詰めてる必要がなくなったんじゃないの?
でいなくなって利家方に集まってた
豊臣系大名たちによる欠席裁判が始まり
三成自身が弾劾されてしまった流れ 秀吉の遺言で大坂に2人は奉行が居ないといけないし、大坂は簡単に捨てていい拠点でも無いからなぁ。
もし三成が移動するなら他の奉行に大坂へ行くよう引き継いでる筈だけど現状その史料が無いもの。
利家の死でむしろ奉行派としては仕掛けどころだったはずで伏見に行ったのはどうしたわけか(笠谷氏も逆に武断派に仕掛けられたとか言っていたはず) 閏三月の奉行衆の居場所は
石田三成・大坂→伏見(四日) 言経卿記
増田長盛・前田玄以→伏見(九日) 多聞院日記
長束正家→伏見(五日) 看羊録
浅野長政→伏見(五日) 浅野幸長宛家康書状
だったはず。前田玄以と長束正家は秀吉遺言で伏見在住を命令されてるから伏見に居たとしておかしくない。
問題は浅野長政で、彼は三成と朝鮮撤退の指揮で博多に行ってた。その後三成は島津と共に大坂について慶長四年閏三月四日まで大坂にいた。
…で、浅野長政はどこに居たんだろう?知ってる方教えてください… >>134
毛利藩に残るのを見る限り、家康の権限は東国で畿内は奉行北国は前田といったように地域の取次をする奉行のような立場に見える
家康利家に独裁的な権限が与えられていたようにはみえない
また大老奉行の連名の誓紙をみても平等の立場であるし、家康も独断で婚姻を採決したときには他の大老奉行に謝罪をしているので大老な立場と解釈すべきだろう >>136
いや大阪にもいたぞ、中国の使者を迎え入れたのも災害があったとはいえ大阪だったし
自民党本部や首相の自宅という意味合いが強いし伏見よりも下というのはわかるがね。
ただ大阪城拡張後もそうだったかというところがある。
人質は大坂に集めることになり、秀頼も映る事になった。
利家と奉行も一緒に移ったが家康は遺言により動けなかった。
この時の政庁は本当に伏見だったのかということ
大坂に移転するつもりだったが、途中で秀吉が死んだからとみているのだが >>142
うーん、遺言見る限りそんな風には決して見えないし、秀吉のやり残した善光寺仏像の返還やら毛利が宇喜多の成敗が出来ない時は家康が代わりにしなさい(内藤周竹書状)と言う遺言のように秀吉は、明確に毛利や宇喜多らより上家康を据えてるかな
私的には、秀吉死後対等に見えるのは大老や奉行連中が遺言体制を無視しようとした結果だと思ってるので、結果から遡ってって考え方は否定的 移転が結局出来ておらず、移せないとわかった結果があの遺言なんだから
伏見が政庁のままって認識でいいと思うが >>141
後年の成立になるが関ケ原軍記大成では家康問責のときに
大坂の前田のもとに徳川以外の四大老・五奉行が集まっている
これの元になった史料があるのかわからないが
浅野と前田は親しかったというので前田と行動をともにしていても疑問ではない気がする >>144
それはできない場合はであって、西国の管理は毛利に任せているってことだと思うけど、一人一人集めて話をしていたそうで、家康と秀吉の話は記録されていないのは残念だが、家康は利家にもできない場合は他の大老を頼れくらいは言っているんじゃないのか?
輝元や家康でもきかない場合は自分が化けて出るからなとか言っていることからしても、秀家にたいして明確な命令権があるようにはみえない >>147
記録されてないものを前提にするのは一番やっちゃいけない事だし、他遺言を読んだ上でそんな共助なものではないと現状解釈する方が妥当かと
言う事を聞くよう言われてる秀家が輝元の下、その上で家康は更にその上から成敗権を持ってる訳で、正直あなたの解釈は無理があるようにしか見えない 多分だけど秀吉の政治体制は秀吉ありきのワンマン経営、それを無理矢理家康・利家の二大政治そして十人衆合議と権力の分配・再構築を図った訳で結果「誰が偉いのか」とか一切わからなくなったんじゃないかな。
そして秀吉の遺言が重視されるにも関わらずその殆どが口頭だった結果「私はこう聞いた」による秀吉遺言序列が乱立。更に混沌を極めたのをまとめ上げたのが徳川家康と。 何代か続いた武家なら当然培われている継承を前提とした家政組織を
1代で天下まで取ってしまった秀吉は持ってなかったから政権は成り上がりの一人親方のまま
自分の事業を組織化し承継させるだけの体制を作る時間もノウハウもなかった
体制の足固めのための貴重な時間を大陸出兵なんかで浪費してるし >>148
記録されていないものを前提というけど、いなかった上杉は除いても毛利のように、宇喜多やほかの奉行にもそれぞれ声をかけていたと解釈すべきでしょう。
実際最後の所を読めばわかるけど、「東西」は「家康輝元」が。北陸は上杉が畿内は奉行が管理しろとしている。東西とそこで書かれている以上家康の管理する東国についても家康のかわりに輝元が処罰するようにいったと判断するのが妥当かと
またそれを証明するかのようにその後の連名の誓紙では家康利家の突出は認められず、全員合議で動かすことが約束されている
利家が死去し、石田が襲われて失脚するまではその通りに連名で書状をだして運営しており、家康に利家には突出したものは認められていない。 北陸は上杉がではなくて、北国は前田がだね。
間違いです >>149
ある程度の序列はあっても一番偉い人はいないとみるべきでは?
秀頼が成人するまで誰かに突出した権力を与えるよりは、家老たちが合議で動かすほうがよいと判断しただけでは?
別にそんなに珍しい体制でもないと思うけど
江戸幕府の老中にも序列はあったが、そこまで強い権限を首座に与えていないようにね。
織田家でも信長死後は宿老四人の合議で決めていた、すぐに破綻したけどねw >>151
他遺言を無視しすぎだし合議にする旨の連署状は秀吉没後のもの、存命時の遺言はやはり家康利家らへの集権をしてるし事実秀吉は存命中血縁や官位の面でも差をつけてる
声をかけてたとしてもかけた内容を想像してそれを仮定の証明に用いるのはやりすぎだしね >>150
奉行たちによる家政組織が存在しているはずだけど
でないと膨大な蔵入り地からの収入を管理し、何百という大名との取次をこなし、外征までしているのを個人で全て裁くなど
いくら秀吉でも無理だ >>154
他の遺言を無視しすぎというが、家康利家の御意をえよってのは浅野家に残されたものくらいでは?
他の遺言は五人で仲良くしなさいと、秀頼と人質は大坂に移りなさい、家康は伏見に三年間はいなさいとか、
これといって家康に特権を認めたような内容には見えないが?
>>155
序列はあるだろうけど、合議制だよねってこと
実際合議で動かすことが約束されてその通りに動いており、勝手なことをした後は家康は謝罪している。 >>157
早稲田所蔵遺言と石田三成宛伊達政宗書状写なんかもあるよね
政庁を移せていない以上政庁を任せてるのは十分な特権でしょとは思うが、あなたは大坂城に政庁移ってるんだって言ってるんだったか
なんか重視してる点がお互いでズレてるから、このまま話してても埒が明かない気もしてきた 秀吉が自分の死後どんな政治機構を考えていたかは起請文を見るしかない。
まず慶長三年七月十五日の徳川家康・前田利家宛毛利輝元起請文。内容は「秀頼さまに奉公します〜」っていうありふれたものだけどこれは毛利輝元が出したものしか確認されてない。つまりこれは輝元が一方的に家康・利家に誓ったもので家康・利家の優位を意味する。そして二人は同日に同様の起請文を島津義久からも受け取ってる。
御掟で何人も誓紙起請文の類を交わせない。だからこれは秀吉の命令でおそらく諸将が家康・利家に出したもの。つまり秀吉はこの2人に天下を任せるつもりだった。これが秀吉の死まで一ヶ月の七月での考え。 >>158
早稲田所蔵の遺言が157
それに秀頼と人質を大阪に移すことが記されているから、その時点で移転されたのではと。奉行も移っているし
内府は惣様の留守番とあるし、惣様が秀頼だとするなら秀頼が大阪にいる間伏見を任されたとみている、浅野石田増田も伏見番とありついてないといけないのだが守ってないな。 >>160
惣様を秀頼のことだとする話は初めて聞いた
あれは内府が全体の責任を持つことと訳すべきでは てか早稲田大学蔵書秀吉遺言、
宛先が
内府、利家、輝元、景勝、秀家になっていて家康だけ諱を避けてるんだね >>157
秀吉生前に、政権運営(行政)が合議制を指向する証跡などない
知行訴訟についてのみ言及されているだけ >>161
全体のまとめはないなあ。
惣様を秀頼ではなくて政権とみたとしても、留守番である以上、
大坂にみな(政権)が移っているからその間の留守番をしろってことでは? この惣は惣堀なんかで言う総てと同じ扱いで全体って読むべきと思うなぁ
留守というのも、秀頼成人までの留守かもしらんし >>162
秀頼のこと頼みますだと全員諱で
浅野家のだと、秀頼、内府(家康)大納言(利家)羽柴肥前(利長)江戸中納言(秀忠)なのに輝元景勝だけ諱
毛利藩のだと逆に家康が諱で書かれてて、前田伊達宇喜多宰相様(秀元)殿様(輝元)
連判誓紙だと、奉行五人が治部やら徳善院やら役職名で、大老が家康含めて諱そのまま
どういう基準なのかよくわからんよね、浅野毛利藩のだと輝元に配慮したのかなとか、浅野は西軍には配慮しなかったとか考えられるけどさ
秀頼もほぼ秀頼よびだし、避けるのか、それとも使うのがいいのかと 織豊の後期だと諱呼びが最上位の敬意を表す場合と侮蔑や軽んじる意味合いとに分かれるから、本当にややこしい >>165
その場合は様つけるかなと、ただ惣が全体というか政権をさし、
それが移るから秀頼成人してみなが帰るまでその間の留守番という意味なら分かる、その解釈は通ると思う。
ただそれは決定権を持つことではないのではないかなと
留守居の人が全部決めるってことは普通ないでしょ。伏見と大阪は当時は船で短時間で移動できたわけだし >>163
秀吉存命中は大老奉行は存在しているが、鎌倉幕府の評定衆のような組織ではないからね。
取次などの意思伝達組織や検地や行政処理など事務作業をする組織
大河でやるんだろうけど、あれも族滅&族滅で北条氏が独占していったが
武士に話し合いで決めろはなかなか難しい >>169
繰り返すけど、
秀吉生前に、政権運営(行政)が合議制を『指向する』証跡などない
秀吉は、将来にわたって合議制による政権運営など企図していない >>168
うーん、少なくとも惣様は何か名詞を指す並びじゃないと思うがなぁ
本来政治的決定をすべき人間がなんらかの理由で離れている間、代わりに留守が決めるは普通にいくらでもあるし、その批判は的外れと思う >>170
毛利藩のだと輝元と家康が何事も相談すれば秀頼は無事で王位が廃れることはないとか書かれてるけどなあ。 惣様は「総ての」とか「みんなの」って意味でしょ
同時代の惣様の使用例見ても特定の個人を指すような意味では使われてないし、まして政権と取るのは飛躍し過ぎでは?
遺言覚書の「内府惣様御留守居候事」は文字通り内府は伏見城の総留守居役と取るほうが自然だと思うが
いくつか惣様の使用例挙げてみる
・天正12年11月16日付兼松正吉宛堀秀政書状
「惣様御無事之儀付而、貴所御在所之事、御理之通承届候」
・天正14年8月5日付安国寺恵瓊宛豊臣秀吉書状
「惣様者天下之為と申なから、且者毛利家之面目、且者国之旁候間」
・慶長2年2月21日付黒田長政宛豊臣秀吉条書
「任誓帋旨、惣様動之儀、日記を相付け候て、善悪ともに見かくし聞かくさす、日々に可令注進事」
・慶長20年5月7日付大野治房書状
「今日合戦一大事ニ候、主馬一人之手柄ニても惣様之まけニなり候へハ、せんなく候間、軍法堅可申付候」 てか合議制と政権担当者が伏見・大坂に分かれてる機構が滅茶苦茶相性悪い気がする。如何に近いとはいえ数時間は掛かるだろうし >>172
まさかその程度で、政権運営が合議制を指向していたと言えるわけがない >>168
惣様は惣様でしょ
ちょっと解釈に無理がある 内符惣様御留守居候事だから「内府も惣様も御留守居」になっちゃうからおかしな話になるんじゃないか。
その後ろには秀頼様大坂被成御入城ってあるから秀頼様=惣様とも考え難い。 合議制は前田利家が家康に合議制に対する言い立てをしてない時点で有りえない 合議というのは力が対等に近い相手としか成立しない
力が圧倒的に下の相手との合議などありえない
秀吉だってそんなことは理解している
三成たちが理解しないで暴走しただけ 単なる複数名での話し合いという意味の合議はあっただろうけど、
秀吉が制度として合議を定めた、目指したという史料は全くない。 合議制というのは意思決定のプロセスとして
合議の結果が如何なる権力者より優先する
と言う意味だよね?
単に意思決定者が誰かと相談するだけのことを
合議制って言ってる人いない?
秀吉生前も内府や奉行の意見も聞いてるが
秀吉が決定するから合議制ではなく独裁
遺言でも相談しろと言うのはあるが
意思決定は明確じゃない
俺は遺言体制では秀吉生前も政庁であり
奉行3人が常駐と定められた伏見城を
任された家康が意思決定の最高権者と理解してる
その家康を牽制するために秀吉の死後に
(あるいは病床でも)家康以外の奉行大老の権益が
拡大する動きはあれどそれを合議制と言えるかは疑問
>>143
その解釈だと秀吉が家康を政権中枢から排除となるが
俺はそう取るだけの積極的な理由はないと思う
>>144の解釈ならわかる 秀吉の死で権力の空白が生じてそれぞれが
「遺言」を盾に自分の権益を主張してた
という側面はもちろんあったと思う
あるいは秀吉が最後耄碌してあちこちに
矛盾した「遺言」を与えていたという可能性も
あると個人的には思ってる
毛利西国支配も認めたと取られかねない発言が
あったのかもという
「西国のことは毛利殿が頼りです」
「お任せください」
「頼りにしてますぞ」
くらいのことでも下手すると全権委任だから 実際十人衆合議が具体的にどう運用されてたかわからんのよね。連署状くらいしか… >>183
連署状だけでは「有った」という証拠にはならない
運用実績も会合実績も合議後発布書状も無い
つまり無かったという結論になる 直江状にも合議に対することは書かれてない
直江状事態の信憑性は疑わしいかもしれんが >>181
そういう人いるね
七将「襲撃」だった、という人と同じロジック
古文の基本文法や語力がない点も同じ
史料ありきではなく、自分の望む歴史ありきの人がいる ただ朝鮮撤退でも大老と奉行が必ず連署状がくっ付いてるらしいから形にはしたかったみたいなんだよなぁ。 奉行の参会自体が家康のいる所で行われる形を取り続けてる辺り
政庁は伏見でその伏見を預けられてる家康が政務の執行者、家康が大坂に移った時に初めて政庁が移ったって認識のが自然よね 合議制をやる上で、カウンシルみたいな議論場があれば分かりやすいんだけどそうしたものがないからなぁ。
おそらく秀吉の居る場所=政庁、だったのだろう。だから秀吉の死後伏見と大坂の関係は分かりにくくなったんじゃないかな(尤も、豊臣政権の要は朝廷だからより京に近しい伏見城の方が重要かもしらんけど)
三成が佐和山に下がる時五大老は
伏見→家康、輝元、景勝
大坂→利長、秀家
となっていたようだが(そして五奉行も伏見3の大坂2なんだよな) >>189
合議制の前提が存在しないのに、『合議制をやる上で』とか意味不明 合議制自体は十人衆起請文にもあるからそこは否定しにくいんじゃないか。ただそれと実態がどうだったのかというのは別問題ってだけで。 あと秀吉遺言が合議制を言ってないって点で
上で言ったように家康が政治的敗北か政務丸ごと背負い込むのをいやがって一時的に合議制という体制になったかなって話
まあそれにしても決裁権は家康が握ってそうだが 何事も家康利家の確認を取るようにってのは
二人が監督・責任を取るようにってことになると思う >>175
>『指向する』証跡などない
つまりこれは間違いでいいよね?
八月五日の時点では合議制の指向にかわっていたのだから
>>173
皆様あたりが近いのかねえ
つまり秀頼や利家奉行らが移動するので、彼ら皆様のかわりのお留守番という事になるか >>181
政権の中枢からの排除でいいのでは?
奉行やほかの大老が伏見から離れている間に家康が勝手なことをしないように10人誓紙を書かせた。
政権の中枢であった奉行に対する家康と武断派のクーデターだと解釈している >>194
全然近くない
そんな読み方はできない
もうこれは史料の解釈じゃなくて教養レベルの話です
惣様は惣様
様がついてるから秀頼とか噴飯 >>177
俺の持っているのだと
家康は「惣様」の留守居である、石田らから一人は伏見の留守居であるとしているな
補佐兼目付といったところだろう。
大坂に秀頼が移る事も記されているから、秀頼が移った後の留守番ではないかと思ったのだが、
皆様でも確かに意味は通る
ただ>>161はないな、それなら石田らからの一人は伏見城の総責任者になる。
奉行の一人にそこまでの権限を与えるとは考えにくい >>196
なら貴方は「惣様」はなんだと思っているんですか?
Xのままでは意味が分からないでしょ。 >>198
すべて、ないしは総じてでしょ
それ以外に訳しようがない
伏見は家康が責任もって管理せい、ということ 合議制を否定している人にちょっと聞きたいのだけど、10連判誓紙で合議制になっているのは同意するよね?
そして奉行連中よりも大老の家康らのほうが権力あるという主張に見える
秀吉の遺言でもそうなってて、家康らのほうが権力もってて、秀吉死後に連判誓紙で合議制を確認という流れになるのはおかしいと思わない?
むしろ当初は家康利家のツートップだったのが、八月五日の遺言の頃には考え方がかわったか、
奉行やほかの大老らが押しかけて、合議制のほうに切り替わり、10人誓紙で合議制を確認する流れになった
と考えたほうが妥当だと思うのだが
石田らが秀吉死後に家康利家はおろか秀吉の発言を覆すほど権力をもっていたとするよりは、
秀吉が合議制のほうに舵を切ったと考えるほうが整合性がとれると思う >>199
惣村などという言葉があるように。共同体や政権とみるのはわかるが
惣様で全てを管理しろは意味が通らないと思うのだが、様はなにについている?
全て様?それよりは皆様と訳するべきでは?
そして全てを管理しろなら、留守居とつながるのはおかしい
俺の現代語訳されているのでも、「惣様」の留守居であって、全ての留守居では意味が通じなくなる。
皆様の留守居なら意味は通じるが >>200
その後の合議活動が一切見られないので8月5日の連署は秀吉に対する五奉行と大老衆からの誓詞の一つと見るべき
あれをもって合議に移行したと見るほうがむしろ論理の飛躍
内府ちかひの条々でも直江状でも一切出てこない時点で察すべき 橋陽介の「秀吉は家康政権を遺言していた」でも「家康は伏見城で全ての面倒をみよ」とされてたな。おそらくこれが学会の共通認識なんだろう。 >>195
それは考えにくいね
秀吉が排除しようとしてたなら
その時点で家康は失脚、最悪戦争になってる
でも実際には遺言で地位が保証されてて
奉行が決定権者と読むのは無理あるよ >>201
惣様は惣様だろう
様といっても人にかかるばかりではない
有様は人ではないし
様子とか様式とかの熟語もある 余談だけど対外的には家康が次の政権担当者となっていたらしい。それは【フランシスコ・パシオ師の太閤秀吉の臨終についての報告】と【看羊録】に載ってる。
パシオ師の報告によると「秀吉は死にあたって最早誰かに政権を渡して彼が秀頼に政権を返してくれる事に頼る以外に道が無いと考えた。そしてその人物は徳川家康しか居なかった。家康は天下に知られた軍人で人望厚くまた領土も広いので彼が望めば政権簒奪など容易い立場だった。故に秀吉は家康を後継に指名したのである…」
そして看羊録だと「秀吉は死ぬ前に家康と淀君を結婚させて天下を任せ、秀頼が成人したら天下を返すよう頼んだ」とある。
そして彼らの外側で十人衆合議計画は動き出していた。でもそれは結局のところ失敗したんだろう。 >>202
10人連判誓紙は九月三日のもの、八月五日のは毛利家に残っているものや家康は惣様の留守居というやつだね
>御奉行五人一行ニ、一人トシテ判形之事
内府ちかひには、とあるように奉行(注奉行は大老を奉行と呼んでいる)連名で記すところを一人でサインしてるって批判してる
ので10人連判誓紙を破った事で激怒したのでは? 惣様は上でも他の使用例を書いてくれた人がいるようにそれで全てという意味、人物の名前指してるとかそういうのではないしそういう使い方だと主張したいならそういう使用例持ってきて
あと内府ちかいの条々は彼らのクーデター正当化の文の為、事実遺言に即してる即してないの証明にはならない
むしろ清正の関ヶ原時の起請文の内府を公儀としてたり秀吉の遺言に背いて内府と反目してるのがいるって内容の方がまだ信憑性高いよ >>207
そっちは秀吉死後のことだからね
遺言が当然優先されるしほとんどの大名が認めてないのは三成襲撃(訴訟)で明らか パシオの報告も一部切り取らず全文読めば家康警戒している箇所もあるよ
ヴァリヤーノの報告も同様 >>201
惣様が秀頼から皆様の留守居に変わってそこも笑えるんだが
なお笑えるのは皆様の留守居だ、なんだよ皆様の留守居ってw
さすがに草生やさずにおれん
惣様をヨン様みたいに読んでいたのか?w >>203
共通認識なら、その説が多数肯定的に引用されていないといけないのだが
別にそんなことないというか、どちらかというと異説に近い >>204
排除というか遠ざけるが正しいかな
パシオのを引用している人がいるけど、
そこにも家康は簒奪しようと思えばできる人物だから、家康が忠義を尽くさざるをえないように厚遇するといった事が記されている。
厚遇しつつ、権力から遠ざける、名誉は与えるが実権は与えない。 「秀吉は家康政権を遺言していた」は肝心の遺言していた部分が短い >>213
ここらはまだ学説が固まりきっていないが、少なくとも「惣サマ」なんて読む研究者はいないよ
当時のありきたりの熟語なんだから >>208
俺から言わせれば惣様留守居で、家康がすべての決定権を与えられたとか解釈するほうが疑問だが
みなが大阪から離れている間の留守居ならわかる。石田らから一人が伏見の留守居も
奉行のうち一人が伏見で留守番するというだけ。家康もみなが大阪に移っているなかで家康は伏見で留守番をする。 >>217
知らないよ、そんなこと
ただ「惣様」を秀頼だの皆様だの訳してしまう教養なしには突っ込むだけ
あの文書だけ読めば、伏見について家康が全権任されたとしか解せない
政権全部かは知らんよ
というか、いい加減認めろよ、明らかな誤訳、そしてそれに基づく解釈をw
惣サマってのはいねーんだよ >>216
学会で固まり切っていないのを共通認識とか言い出していたのか?
固まり切っていないのならただの一意見にすぎない
ありきたいなら惣様は訳しているけどな、判断が分かれるからそのまま惣様と記している とりあえず173に書かれた事読んで、それでも納得できなきゃ他の使い方してる用例出して主張したらええやん
自分納得できません!で他の用例出さずには駄々っ子よ >>218
知らないのなら口出ししないでほしいのだが、
あの文章を読む限り、秀頼らが出ていったあとの留守番でしかない。
つまり惣様は秀頼を指す、もしくは秀頼についていった皆様を指すと訳すべきでは?
全権うんぬんなら、何なる事でも御意を得とかでいいわけだし。 思うに十人衆合議が失敗したのは朝鮮撤退という大仕事のせいじゃないか。これで合議とか言ってる暇は無くなったし、撤退が終わった三、四ヶ月後には三成は隠居だもの。 >>220
173の用例を見る限り、皆さまとかそういう意味合い。
だから俺は皆さまなら意味が通じるし秀頼ら首脳を訳すのは正しいと判断している。
秀頼個人というより、秀頼に利家ら大老奉行を含めるのは支持する 通らんでしょ
君は全体的に批判的思考が出来てないし、少し先行研究追ってみたらどないよ
ものすごい数連投する前に >>221
それは君が史料を読めないだけだ
惣様は惣様で、そーさまではなくそーよー
君の最終的な政権論に興味はないが、ここはもうどうしようもない、真人間なら顔真っ赤の間違い
というより、間違いようもないと思うんだけどなあ
惣様は惣様、それ以外に答えあるの、単なる熟語でしょ? >>227
俺が浅学なのはその通り
知らない古語は古語辞典引いて調べながらやっている。
間違いを恥ずかしい事とは思っていないし、間違っているのなら改めよう
が、家康は惣様の留守居とある以上、秀頼や皆様と訳すべきでは?
それ以外では意味が通じない
173の惣様御無事之儀付而、貴所御在所之事、御理之通承届候
あたりも惣様を全て任せるという熟語では意味が通じない
皆様あたりと読み解くのが妥当 少なくとも秀頼のとは繋がらないのは認めてくれ、明らかに文法上の前後の文としても意味不明だから 普通に全ての留守居で通じるし、そう解釈する研究者もいる
そんな中これをみんなと訳す積極的な理由もない
君の中だけでの妥当に総ツッコミ入ってる状況だってのは頼むからわかってくれ 俺のもっている研究者のでは家康は「惣様」の留守居と解釈してる
これが個人なのか団体なのかは不明であるが、個人であるなら秀頼以外いないし、団体であるなら、
大老奉行になるだろう。家康が大老奉行の一人の留守居では格下げになる。
秀頼らが移転するので伏見の留守番をすると解釈すべきでは?
家康が留守番のまとめ役なのも支持するが、家康に全権を与えたと解釈するのは無理がある
そうであるなら別の表現がある
全ての留守居と解釈している研究者って誰なのか教えてもらってもいいですか?
俺のネタは谷や野村なのだが、惣様の留守居と解釈し、すべての留守居とは解釈していない。 高橋陽介とか本多隆成とかの解釈ってどうだったっけ、個人を惣と訳すなんて聞いたこともないしでそれだけは決してない
解釈分かれるとしたらみなか全てかのどっちか
みなの留守居だったとしても家康が最も官位が高く筆頭大老で縁戚としても圧倒的過ぎる点からも格下げはまずないわね、飛躍しすぎ
早稲田所蔵遺言は浅野家所蔵遺言の伏見を任された事について書いてあるで全然いいと思うが 秀吉の体調不良で頓挫した大坂への政庁移動は家康の動座で初めて成り立ってるし、奉行の参会は家康動座前は伏見でしてる事を無視して
いや大坂が政庁だったんだ、は無理筋に見える、そも家康の動座以前に大坂が政庁として機能した事があるのか?あるなら是非とも事例が知りたい
諸侯の大坂移動も全諸侯が家康動座の前に移動した訳でも決してなし >>231
横からスマンけど、
中野等は、「家康が伏見城全体の留守居となること」(石田三成伝)と訳してる
清水亮は、「家康が全体の御留守居として責任を持つこと」(秀吉の遺言と五大老五奉行)と訳してる
キミの元ネタの谷、野村のフルネームと著書もしくは論文を教えてもらって良いですか? 無料のWeblio古語辞典だと惣様がひけないから、これを使ってるのかな >>214
すまんがそこまで言葉の意味を
違う意味で使ってると言われると
議論ができないよ
あとパシオを典拠にするならはっきりと
後継に指名したと書いてる 傍から見たら子供の喧嘩
みっともないからもう止めなよ 秀吉死後の遺言体制の核心の議論だと思うけど
ただし、単語・文法の低理解度による誤訳は確かに勘弁してほしいな 政治的だけでなく、軍事的に見るなら、
伏見城代家康、重要曲輪に奉行在番と解せない?
惣様を惣曲輪と捉えるなら。 惣様を惣曲輪とは訳さない
惣曲輪なら惣曲輪とそのまま書く 有名な家康私婚問題は一次史料の扱いが薄い(言経卿記によると十九日に起こった問題が二十日に解決したとあるだけ)から
そもそも徳川家の婚姻ではなく家康と淀君の結婚についての問題だった説(前田利家らが「どうして秀吉の遺言通りに再婚しないのか?」と家康に詰め寄った説)があったけど、
他にも奉行衆が完全に敗北したって説もあるんだね。笠谷氏が書いていたけど。
だとするとその後の七将襲撃事件は「ついでに完全に三成を消してやろう」って考えで行われたのだろうか。 >>226
勝手に入れとけ
NGごときでいちいち宣言するな >>241>>242
自演お疲れ様です
話逸らす前に、指摘にちゃんと回答すべきでは? 奉行共五人之内、徳善院・長束大両人ハ一番ニして
残三人内壱人充伏見城留守居之事、
内府惣様御留守居之事、
奉行衆5人のうち、玄以・長束は一組として、
残り3人のうち一人を充て伏見城に在番せよ、
家康は「惣様御留守居之事」
もっと意訳すると玄以&長束と石田か浅野か増田が伏見在番せよ、
家康は伏見城代として詰めよ、で通じるんじゃない?
文章全体では伏見在番のことを言ってるんだから、
「内府惣様御留守居」は伏見城代とみていいと思うが。 >>228
しつこいなあ
たぶんあなたは引用した「御無事」についても誤訳してると思うよ
みんな無事だとのことで、では明らかにない 利家の死直前での十人衆の居場所は
伏見→徳川・毛利・上杉/増田・長束・玄以
大坂→前田・宇喜多/石田・浅野
ってことになるのかな。
閏三月五日浅野幸長宛徳川家康書状によると浅野長政が伏見に来てる様に書いてるけど石田三成の伏見移動もこれと関係あるのかもしれない。
奉行衆は伏見に三人、大坂に二人居ないとならない(早稲田大学所蔵秀吉遺言)。つまり奉行の長政は勝手に動けないはず。
それが利家の死と時同じく行方をくらませた訳でそれが何を意味するかは有能奉行の三成ならピンときたろうし。 上杉は3年在国命ぜられてるからそも領国では?ゆえに合議制に否定的な理由の一つだけども
上洛してるってわかるもんあったっけ? >>234
ありがとう、こちらのは
谷徹也(秀吉死後の豊臣政権)と野村玄(豊国大明神の誕生)
後者は前者を参考にする形になっているので前者が大元
全権を家康が得ているというよりも留守居の代表という意味か。なら同意する 聞いた話なんだけど尾下成敏の『上杉景勝・居所集成』によるとどうも伏見に居たらしい。
景勝は98年9月に秀吉の葬儀で上洛してるけど、おそらくその後の朝鮮撤退での連署状にサインしてるからそう推定してるんじゃないかな。
てか景勝おらんのに良く合議とかブチ上げたなぁ三成…友達だからなんとでもなると思ったのかもしれんけど… 全部三成がやったとか三成を過剰評価しすぎ
あいつはそこまで有能じゃない >>250
ありがとう
一時的にだけ上洛してたのかねー? >>236
195を読んでもらえばわかるが、権力の【中枢】からの排除としている。
つまり権力から遠ざけるという意味、同じ意味では?
家康個人を排除する意味では最初から使っていない
>>195をうけて>>204と聞いてきたので、権力から遠ざけると詳しく説明した。
>あとパシオを典拠にするならはっきりと後継に指名したと書いてる
イエズス会日本報告集によると
【奉行】一同が家康を目上に仰ぐよう、秀頼が説き至れば国王になれるよう、
今後秀吉を父と思わず、家康を父と思え、などは記されているが、後継に指名したと書いてないのでは?
またパシオは共同で統治している人々の間で固い一致滅多にないと記してもおり、
共同統治になっていることはパシオの記述からも読み取れる >>252
慶長三年十一月二十五日浅野長政・石田三成宛五大老書状に景勝の署名と花押があるからこの時までは確実に伏見若しくは大坂にいた事になる。多分秀吉の葬儀からずっと居たんじゃないかな。朝鮮からの撤退は規定事項だったから国許ヤバいんで帰りますとは言えなかっただろうし。 >>233
秀頼の移動をもって政庁が移転している、人質らも同時に移動している。
家康は伏見の在番を命じられているので伏見からは動けない。
家康は権力の中枢から遠ざけられたということ
でないと秀頼を秀吉が権力の中枢から遠ざけた事になる、秀頼を将来後を継がせる事を目的としていたことを否定する人はいないだろう。
矛盾した行動をしたことになる
無断婚姻の発覚で伏見と大阪で対立したときに伏見にいたのは伊達最上福島池田黒田らにたいして、
他の大老奉行が全員大阪側におり、三中老に加藤(両方とも)細川(忠興)などの武断派、織田一門、小西鍋島佐竹などが集まっているのを考えれば、
当時は大坂のほうが上だったと判断すべきでは?出なければここまで差はつかない >>255
史料解釈の前提が間違っているというか、先入観しかない
基礎知識の欠如による妄想と言い換えてもいい
たとえばあなたが孫引きした「御無事」
これをどう訳してるんだい?先にも指摘したけど
私も当該史料の全文見たことなんてないけども、当時の用法と日付なんかみれば自明なんだ
ちょっと訳してみてくれい 結局どの史料を重視してどの史料を軽視してるのかなのよな
ウチは秀吉遺言でも直接は合議にすると語られていない点や伊達政宗宛秀吉遺言や清正の起請文なんかで言ってるように家康政務の政権こそが遺言と判断してるかな、政庁も移せてないって考えから伏見を預けられた=政務を預かったって判断でね
秀頼が移動したからと言って政庁が移動したって判断は飛躍しすぎと思うし、そこからの仮定は全く頷けないかな
また利家と家康が揉めた際清正は確か家康邸にいるはず、どちらにせよ私婚事件でそこまで差が出たと判断するのも、仮定に結論を寄せそうと急ぎすぎてるように見える 自分の知っている限り私婚事件の際清正は利家方にいたとしか見たこと無い >>254
景勝が上方に居たのは慶長4年4月1日付島津義弘・忠恒宛五大老連署状までは確認できるな
慶長4年8月20日付島津忠恒宛五大老連署状だと景勝と利長の署名はあるが、
この二人だけ花押がないからこの時期には既に帰国していたことが分かる >>256
前後がないからなんともいえんが、「御無事」之儀は「和平」の事とみているが?
だから全て任せるでは意味が分からない
詳しい貴方に真の意味をぜひご教授してほしい。
惣様もあわせて >>260
そう、小牧長久手だわね
日付見てほしいが、これ「みんな」か?
前日に織田方と和睦が完全に整い、昨日までの敵方にあんたの在所の事情も聞きましたと言っているようにしか読めないぞ
家康はかやのそと >>258
記憶あるから探してるんだけどどの史料だったか出てこないわごめんね
あと一緒に探してた内藤周竹の秀吉遺言は最初に「家康と被仰合候子細をハ殿様へ被成御物語之由候」なので、地方の分権についても秀吉と家康の話し合いで決まったとしてるね
上で一度話した秀家の処罰について輝元が容赦するようなら家康がなされるようにって話も含めて
やはり家康に政策決定権を預けた上で、地方分権を企図したかな感 >>259
おお、ありがとう!
11/25〜4/1だから流石にこの間に帰ってるとは確かに考え難い。てなると景勝は慶長三年九月の秀吉葬儀から慶長四年四月までは伏見にいて八月までには帰ってたのか。 >>249
重要なポイントは、いずれも「惣様」は個人を指したものではなく、全てと訳されている点
正確に現代語訳してから、次のステップで意訳だと思うよ そういえばそもそも清正が利家邸に私婚事件のときにいたってのは何が出典だっけ >>261
小牧長久手なら
織田家で和平が結ばれたのであなたの所在が分かりました、と解釈してよいかと
みんなというか織田政権になるか?ひょっとしたら、上司である秀吉や信雄を指しているのかもしれないが
全て任せるとかいう訳だと意味が分からない。
前後の文によっては意味が通るのかもしれないが、この書状の全文を持っていないので調べられない
短期間でマイナーな書状をピックアップできる彼は何者なんだろうか
書籍ではなくて、PDFファイルか何かで持ってるのか? >>264
どちらも全体と訳してるね。
惣自体が惣村など村全体を意味するものなので同意する。
秀頼よりも、政権と訳すべきか?
秀頼と奉行らが人質つれて大阪に移るので、不在の間の伏見の留守居を任された 私婚事件のそれぞれの集った大名の内訳ってのはどの史料を根拠にしてるんだろか あとパシオの報告書の件について
206の記述のあとに否定する側が後継にはっきり指名したって記述はないと否定してる訳だけど、じゃあ206のこの抜粋はなんなんだろ? >>266
史料の読み方を根本から間違えているし、経験も浅いとしか言えない
まあ、私も全文読んでないから人のことは言えないのだが、省略文化の日本語は英文みたいに読めないんだよ
貴所御在所「之事」「御理」之通承届候
おそらく敵方の兼松から和平が本決まりになる前に通信し、なんらかの事情か情勢を伝えた
それを堀は了解しましたと伝えている
文書の冒頭に出てくる定型みたいなもの、あなたの文書は受け取って内容を理解しましたと伝えるための
「私はここにいます」なんて文書を出すわけもなし
和平したから場所が分かった、なんてのはまったく読めていない
「」のところじっくり吟味してみなよ なんかまだ議論続いてるみたいだし全文書くわ
大意はこの度全ての(実際は信雄との)和睦が整ったことにつき、
兼松在所の事はそちらの申し入れの通り了承したって感じだろうな
在所の事は恐らく後ろに続く文が騒動を起こす輩がいれば注進するよう言ってるので、
領地や治安の保証のことを指してると推察する
惣様御無事之儀付而、貴所御在所之事、御理之通承届候、甲田ニ拙者在番中、下々猥之儀聊不可在之候、
万一違背之族候者、可有御注進候、堅可申付候、為其如此候、恐々謹言、
羽柴左衛門督
十一月十六日 秀政(花押)
兼松又四郎殿
御宿所 >>271
議論というか、一人だけ誤訳をかたくなに認めずに珍妙な持論を吐く人がいるだけでしょう
しかしこれ読むと「無事」とは言っても降伏に近い内容だね >>268
一応家忠日記とかに書いてあった気がする >>273
ほんと?なんか史料上で加藤清正が利家邸に入ったってのは加賀藩史料や利家夜話などでも確認出来ない話っての聞いたのだけど、家忠日記で該当箇所どう書いてあるんだろ この時期の家康って、本当にピカレスクな魅力に溢れてるよな
普通の知能が有れば野望が見え見えな所
それでいて不用意な行動とればどんな逆捩じ食らうかって怖さに溢れてて とりあえず、解釈揉めてる上で
合議が最終的な秀吉の判断だとしてる人は史料研究の未熟さを指摘されていると >>253
悪いけどそれは言葉遊びだね
10人に含まれてるのに政権中枢から
排除されてるとか何言ってんの?状態
ここで議論されてんのもせいぜいが
名目上のトップか寡頭制か10人合議かで
そこから排除されてるなんてありえなかろう >>274
いやすまん、この時期徳川邸に集った武将については家忠日記に記載があって顔ぶれは「池田輝政、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、森忠政、織田、大谷吉継」になってる。
ただ日本戦史・関原役だとこれに加藤清正が追加されてる。その根拠までは知らない。 じゃあ前田屋敷に集ったメンバーは?
っていうとこれはわからんのです…なんだろうなぁ利家夜話とか? >>278
調べてくれてありがとう
うーん一体彼は何を根拠に前田邸に集った面子と、それが政庁が移った象徴!とまで言い張れるものだと判断したんだろうか 政庁の概念次第なんだろうけど、合議制を採用していてメンバーが伏見と大坂に散っている以上政庁は伏見・大坂って事になるんじゃなかろうか。
どっちの方が上とか下とかは割と徒労な議論になりそう。 厄介な事に合議制自体は存在したっぽいのよねぇ…
起請文からは明らか。だから問題はそれが現実としてどんな仕組みだったかによるのだが。 それが秀吉が言い遺した体制かどうかが焦点じゃないの? めちゃくちゃ厄介な事に秀吉は合議制を遺言してないけど、合議制は秀吉の意思に反してない。つまり合議制が最初に出てくるのは八月五日起請文なんだがこれは秀吉生前のもの。
そして誰もこれに異議を唱えてない。だからこれは秀吉の意思に合っていたことになる。勿論、疑問もある。八月五日って秀吉の死の2週間前だからそんな時期の遺言に意味があるか?そもそもそれって秀吉の遺言なのか?
まぁこの後五大老五奉行連署状が多発するから彼等は実態は兎も角「十人衆で決める」を実行してなんだろうけど。 >>286
秀吉生前の合議は、知行の訴訟に関するもののみ
つまり司法の一部に限定された話
行政にまで拡大解釈するキミの頭は非常に厄介だな 秀吉の遺言が合議制でないとするなら、奉行(年寄り)は秀吉死後に秀吉の遺言を覆し、前田徳川の抑え込んで合議制にしたということになる
そんな政治力があり、前田徳川も逆らえなかったとするよりはそもそも秀吉の遺言は合議制だったと解釈したほうがよい、実際八月五日の遺言はそう読み取れる 合議制にするには豊臣本家のお墨付きと他の大名への周知了解が必須だが全て行われていない
10大名と他の大名は基本同列
差を付ける権限があるのは豊臣家のみ 実際、奉行に力がないから、合議制が機能しなかったわけで。
秀吉の遺言体制を覆して家康を抑える事はできなかった、と解釈する方が自然。 秀吉の遺言は公開されていなかったんだから全大名への周知は必要ないのでは
起請文は非公開と聞いたことはないので公開なんだろうが 別に徳川が負担でかいから合議化させたけど史実どおり足の引っ張り合いと自前の領地運営優先するのが多くて成り立たなかったから結局元に戻す形になったでいいんじゃねーの
内藤周竹の秀吉遺言に家康と秀吉が話し合いして分権化を決定したってのもあるし
何より上杉が3年在国命じられてて合議なんて前提から無理なんだから >>287
時期を考えればこれは超重大事案だぞ。秀吉は死の間際から朝鮮撤退を考えていてこれは八月には確定事項となってた。朝鮮から撤退すると何が起こる?当然、恩賞の査定を求められる。遠征組の負担は誰の目にも明らかなのだから(しかも、日本は国威発揚のため「戦勝」を演じようとしてた)
で、八月五日起請文には面白い部分がある。訴えを裁定するのは家康と申次大老と五奉行なのだが、家康は訴えを申次が出来ない。つまり訴えの窓口は家康以外の四大老のみ。そして八月二十八日、浅野長政を除いた四奉行と毛利輝元は結託して御掟違反の起請文で同盟してる。
あからさまじゃないか? >>287
ゴニョゴニョ妄想小説はいらない
8月5日付の起請文に記載されている合議は、知行の訴訟についてのみ
つまり、司法の一部についてのみ
それを行政全般に合議制としてあてはめようとするのは拡大解釈過ぎ >>292
豊臣家から公認されるということは周知されることと同義
周知されていないということは非公認
10人が揃うどころか徳川前田のツートップが大阪伏見を行き交う会合も無かったはず 奉行衆の会合は家康が大坂に行く前は伏見で行われてるね、行ってからは大坂 秀吉死後何日立ったら秀頼を大坂に移せっていう遺言があって、それまでは秀頼が伏見にいたんだから前田も伏見にいるっていう状況だったんだろうね 慶長四年三月に利家は家康を大坂に招いて利長の後見を頼んでる。俗に利家が死んで家康を押さえられる者が居なくなったと言われてるけど正確には「徳川派に前田家が参加した」というべき状況。思うに利家は自分たちが政治から遠ざけられてると思ったんじゃないか。合議制といいつつ実質は奉行派が専横しつつある。ていうか輝元・景勝・三成に奉行が三人つけばもう過半数なんだし。 要は秀吉がもはや危篤となったら
家康利家に集中するべきとされてた権力が
急に奉行と他の大老にも寄越せや
って方針に変化してしまった訳だね ただ八月五日起請文だと必ず家康は裁判に参加する事が決定してる(御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府并長衆五人致相談)。これは家康の権限を制限する引き換えの交換条件だったみたいだけど同時に家康がいる所が裁判所になることを意味してる。さもなくば、裁判所の近くに家康が居ないとならない。
つまり合議制の中心地は伏見だったことになるんじゃないか(太閤遺言で家康は伏見にいるから) 上杉君が3年領国にいる間はどうやって合議をするのか? おそらく大老が地元に引っ込んだ時には白紙委任したって事にしようとしたんだろう。そもそも知行に関しては家康と申次大老、五奉行がやることが八月五日起請文に書いてある。
だからそれ以外の大老は居なくても良いしなんなら居ない方がいいまである。
てか上杉景勝は石田三成が取次で超親密な関係なんだ。どうにでもなるわな。 前田利家の後継は利長でよいとしても、浅野長政の隠居と石田三成の隠居(謹慎)の後任(代役)をどうするのか おそらく何も考えられてない。この合議制自体が家康・利家が死ぬまでの暫定的な重石に過ぎなかったんじゃないか。
そもそも秀吉の遺言でも「大老」なんて言葉は出てきてないのだ。利長にしても「羽柴肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、 御煩気にも候間 、相不替秀頼様御もりに被為付候篠、 外聞實儀忝と存知、 御身二替り肝を煎可申と被仰出」と書いてあるだけ。だから利長は下手すると大老になれなかった可能性もある。だって秀吉からは「変わらず秀頼を盛り立ててね」としか言われてないから。利家は自分の死後、そうして利長が排除される事を恐れて徳川家康に後見を頼んだじゃないか。 人数合わせの必要があるなら大谷とかの次席家老の繰上りでいいんじゃ 自演ウザイ
反論にもちゃんと回答したら?
まぁ俺もNGにさせてもらうからどうでもいいけど そもそも合議制なんて無いしね
秀吉の遺言はあるけど 八月五日起請文だと「内府并長衆五人致相談」するとしてる。だからおそらく必要なのは五奉行がいることで大老の存在意義は薄い。かなり意図的な内容だから奉行の連中が企んでいたんだろうが… 利長一応秀忠と同じように後継指名されてなかったかね
勿論秀吉死後やり込められて立場が危うくなってるは全然あり得るが
確か8月8日に起請文交わしたのも4大老じゃなく利家秀家秀忠利長だったでしょ 言いたい事だけ垂れ流して、都合の悪い反論はスルーするキミのやり方にウンザリ
もう誰も相手にしないと思うけど、親切までに(笑
それではさようなら >>314
8月5日の起請文と内容が似てるのを8日にも取り交わしてるのが確かその四人のはず ありがとう!…でもちょっと見つけられん…
慶長四年三月八日の起請文とは別物だもんね。ちょっと探してみます。 慶長四年三月に家康と宇喜多秀家は御掟を破って起請文取り交わしてたな。 >>318
三ヶ条あって内府・利長と同様に、秀家も秀頼を疎略にせず奉公すること
あとは抜公事・表裏はしませんと、依怙贔屓はしませんと起請文によくある定型文だな >>319
ありがとー、その起請文の存在は知らなかったなあ
3月ってのは閏3月なのかな?
利家の死後すぐな利長用なのかな >>320
閏は付いてないから利家はまだ存命中だな
あと秀家が家康一人に差し出した起請文だから利長には宛てられてない
しかし書中で利長の名前をわざわざ挙げてるし、
利家亡き後利長の大老就任に向けての工作の一環と見ることもできそうだな
実際利家が亡くなった直後の慶長4年閏3月7日付鍋島直茂書状でも、
「内府と利長は普段からよく話し合っており、大老5人のうち過半は家康に利長の大老就任を申し入れているそうだ」
と述べてる
3月8日付起請文の一条目だけ原文書いとく
「貴殿・利長被仰談、 秀頼様江無御疎略上者、我等儀何様共御両人同前ニ胸を合、御奉公可申覚悟ニ候事、」 >>321
重ね重ね助かります
取り交わしと仰ってましたがこの起請文は家康から秀家宛の分もあるんですかね? >>322
すまんけど自分は317ではない
ちなみに家康から秀家に宛てた起請文はないよ >>323
人違い失礼しました
双方からの起請文じゃなく一方だけとなると、秀家より家康のが立場が上ってことですね だってキャリアとしては殿様というより
それに仕える優秀な吏僚だもの
熊本入り前の功績は主に代官として
君臨じゃなく統治実績と期待で殿様になった 確か利長は徳川秀忠に対して三月二十四日とかに
「内府のおかげで上方は平穏です。感謝してもしきれません。今後とも御引き立てお願いします」みたいな手紙出してたはず… 秀吉は死に、戦国の気風は根強く、朝鮮引き上げ直後で、諸大名の豊臣への服従も日が浅く
天下泰平が習慣化してないから家康利家クラスがいないと秩序が保てない
上杉征伐で家康が上方を離れるのも反対されるよな 慶長四年三月に利家が家康に後見を頼んだことで徳川が豊臣政権最大派閥になった訳でこの時点で割と趨勢決まった感があるな… 元々秀吉のお膳立てとして徳川の政務する形は整えられてた上の話だしね イェーイ!
\ 俺たちアサミ推し!./ \ シコってるかーい?/
 ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ . ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ヘ
〈。゚ 〉
∧_∧|lll| ギュンギュン ∧_∧ シコシコ
( ´Д`)⊂llll ( ´Д`)/^lヽ
/´ハーミット |⊂llll通報くん( ,人)
.( ) ゚ ゚|lll| ( ) ゚ ゚.| |
\ \_|lll|,.、 \ \___.| ⊂llll
j\__,つ )) j\__,). ⊂llll
( ) |_| ( ( ノ ノ
| (_,rー、,)) | (__人_)\ 七将は三成を訴えたわけだけど具体的に何を訴えたんだろ
家康と七将は主従関係には無かった訳で相当の説明が必要だった筈だけど…
ましてや「三成を大坂でぶっ殺そうとした」ことは家康にも伝わってるだろうし心証は良くなかったろうし。むしろそこから三成謹慎まで落とし込んでみせた家康の交渉術も凄いと言うべきか。 襲撃があった事自体が怪しいって話を解消できないまま喋ってもしょうがないでしょ そもそも同時代史料には襲撃はなく訴訟
後世の読み物の襲撃は訴訟ではない
なのに何故襲撃した後訴訟て話になってんの? そりゃ三成が伏見に移動した理由から説明しないといけなくなるからね(秀吉の遺言で大坂には奉行が二人居ないとならない)。それで三成襲撃は存在したと説明するとして次の問題が七将の要求はなんだったのか?ってところにいける。 三成が大坂から伏見に移動した理由を襲撃につなげる部分が牽強付会に過ぎるってずっと言われてるのになんで改めないの?
理由が欲しいから史料上信憑性の低い理由をくっつけますなんて事をするなよ
証明がなくてわからないならわからないとするのが正しい考えでしょ 合議の次は、また襲撃か
反論出来なくなったらまた独り言を始めるんだろうなぁ 何しろここについては白峰氏すら認めてる弱点だからね。
奉行は勝手に大坂を留守には出来んし、そもそも秀吉の遺言に違反することになる。「史料に無いから存在しなかった」論の最大の弱点は全てに史料を要求されてしまう事よ。
何しろここから大坂に奉行が居なくなってしまう訳で一体全体なぜなのか?って問題を解決せんといかん。
それを「襲撃されたから」と説明してその次の問題が「七将の訴訟の内容って何よ?」って話になる。 ならない、信憑性の高い史料になくて根拠薄弱なら素直にわからないで置いておけと言ってるの
史学の中にはいくらでも、なんでそうしたのかはわからないけど少なくともそれは根拠がないから違うと言うものはある
ないのにあったんだ!と強弁するのは史学でもなんでもない、想像の類だよ 勝手に伏見に行った理由なんて資料が無いならいくらでも作り放題
本当に勝手に伏見に行ったのか?
豊臣家から勝手な行動に対して咎めがあったのか?
届け出があって許可された記録が無かっただけかもしれない
それと本当に大阪で大名衆が軍勢を動かしたなら謀反の可能性もあるから記録があるはず
武家公家寺社関係の記録があるのか >>335
三成が伏見に移動した理由説明できるの?
襲撃を受けたからという史料一切なくて
騒動前に伏見に移動してるので
普通に考えたら「襲撃を受けたからではない」 襲撃受けたことを伏見移動の理由だと
たった1人だけが主張してるけど
その説明は一切ないな
なのに何故「襲撃以外の理由」がないと
「襲撃だった」ことになるのか説明頼むわ 襲撃の可能性が低いということは、移動の理由が襲撃だったこともまた、可能性が低いということになる
それ以外の理由がある可能性も考えたら、さらに低い だから、最低でも襲撃の可能性が高い事を別に、証明しなければ伏見移動の理由を襲撃と予想することは出来ない 現状理由がわからないけどその可能性が低いって考えを受け入れられないならそもそも史学向いてないんじゃねーかな 同時代史料で、「申合」「申事」と明確に記載された史料があり、襲撃と記載されている史料がないのに、なぜに襲撃? まず史料上三成が伏見に移動したのは七将に襲撃されたとある訳だけどそうでないとすると「何故移動したのか」を説明しないといけない。
秀吉遺言で大坂には奉行が二人居ないとならない。慶長四年だと三成と長政が大坂にいる。それが移動するなら他の奉行に説明して引き継ぎをしてるだろうさ。更に「何故」の部分も割と詳しく調べないといかん。 >>349
>七将に襲撃されたとある訳だけど
ここの史料が無い 私戦の停止ってのは最重要事項だった時代だよ
しかも政権ど真ん中でやってお咎めなしどころか三成がちっきょ
久々に畿内で兵乱となれば洛中、奈良も大騒ぎで大慌てする日記が残ってると思います >>349
確かに司馬遼太郎はじめ後世の小説なんかでは
大変にメジャーな説だよね
でもそれって具体的に一次史料にはないのだけど そもそも歴史なんて一次史料があったところで本当か眉唾なんだよな
たかだか5ちゃんで騒ぎなさんなと思う まあ正確には一次史料にあるかどうかじゃなく信憑性の高い史料かどうかが重要なんだけども
一次史料でも信用できないのもあれば二次史料でも信用できるのもある 話が逸れてるね
七将襲撃(?)について、「襲撃」とする信憑性のある史料はない
これに尽きる >>351
実際、京・大坂は大騒ぎしてるもんね
言経卿記→「石田治少卩入道去四日に大坂ヨリ伏見へ被行也、云々、今日も騒動了」「伏見雑説ニ付而京都騒動了」
また鍋島書状によると伏見は武装兵で溢れているとの報告もあるから相当緊迫してる。 >>355
で?「襲撃」の「信憑性の高い史料」てどれのこと? >>357
そんな状況にも関わらず「襲撃」は記録にないんだよね >>358
俺に聞かれても
俺も信憑性の低いのを理由が他に思いつかないからという理由で用いるなって言ってる側だし 訴訟が後世襲撃に変わった理由はなんだろう
七家のうち浅野、蜂須賀、黒田、藤堂、細川は大名
福島は高級旗本として存続してたわけだし不満はなかったのかな 小説の類だと、襲撃と家康黒幕はセットだよね
もしくは家康の手のひらで操られる愚かな七将
物語的には素晴らしい演出 「訴訟」じゃなかったから。
正確に言うと「当時は取り敢えず訴えれば兵を挙げようが攻撃しようが訴訟にできた」というのが正しいか。
七将は大坂から伏見に武装兵を連れて来てる。そして家康に何らかの要求をしたけどそれは三成を死刑にしてくれといったかなり過激なものだった。更に伏見で他の奉行を訴訟に巻き込もうと画策してたらしい(鍋島書状)
附言するとこれも一応「訴訟」ではある。御所巻みたいなもんだし。ただし実情を知る者(徳川)や日本文化を知らない者(朝鮮人)からすると暴力以外の何物でも無かった。 その認識だとしてなんで襲撃なんて話になんの?
当時の法慣行に照らして真っ当な訴訟であり
当時の記録で襲撃は一切記録にないわけだよね?
ならあったのは訴訟で襲撃は後世のねつ造でしょ また新説出して来たな
あったのが御所巻きのごときものだとして
普通に考えたら取り囲まれたのは
訴えられた三成ではなく
訴える先の家康じゃないのか? 御所巻を理解してないな
どうも1人だけいろんな意味で無知無学な人がいないかい? 豊臣政権においてその手の武力を伴う
強訴自体が記録されてねえからなぁ
諸大名が集まって武装して騒然としてた
という部分は間違い無いのだけど
もっというと三成失脚以前に
利家、家康の元への参集もその図式だし
そこまで記録されてて三成襲撃はされてない というか最初から通説通り襲撃でいいんだよ
義輝御所巻き説とかもあるけど、ああいう事例が過去にある時点で襲撃されたと判断されるだろうよ
紛争だったら総無事令違反にも遺言にも反するから訴訟と言い張っているだけでな >>366
そんなに新説でも無くね?慶長四年閏三月五日浅野幸長宛徳川家康書状から来てる説だし。この書状だと家康は幸長が書状を送った事に感謝し、幸長が兵隊を連れて来た事を受け入れている。そして詳しい事は浅野長政と取次が説明するとしている。ついで同日七将宛徳川家康書状で幸長軍の伏見到着を報告して「城の番はその両人で良い」と指示を出してる。 この書状から分かる事は浅野幸長が兵隊を率いて伏見に来てる事、そしてそれを家康に事後報告的に報告してる事、大坂にいる筈の浅野長政がこの時伏見(しかも恐らく向島)に居る事。
城の番、正確には「其地、御番之儀」は従来大坂城と考えられていたけど笠谷氏はこれは伏見城の事だと指摘してる。つまり七将は三成を大坂で襲撃するも失敗、伏見まで追い掛けて来ると伏見城を封鎖するべく兵員を配置している構図だとする。俗に七将は三成に逃げられると地団駄踏んで悔しがり「こうもなれば家康様を頼ろう!」と家康のところに駆け込んだ様に言われるけど浅野長政が三成移動前に向島に居る事を考えるとかなり怪しい感じがする。最初から家康に「訴訟」する気だったんじゃなかろうか。 で、これが「御所巻」かと言うとこの時豊臣政権が合議制を謳っていた事を考えると巧妙な七将の戦法が見える。
家康は豊臣最大最強の実力者だけど将軍でも関白でも無い。あくまで十人衆の一人として位置付けられる。では閏三月五日時点で「御所」はどこか?大坂には前田・宇喜多、向島に家康と長政、伏見には輝元・景勝と奉行四人がいる。それで七将は伏見城を包囲した。十人衆のうち六人がいるんだし。そうしておいて家康に介入させ三成を殺してもらう。だから七将からすると三成が向島に逃げ込まなかったのは幸いだったはず。そうなると家康を脅す羽目になって良く無い。 問われてる事に答えないまま煙にまくのは自分の説の妥当性を伝えるのに悪手すぎるでしょ 大阪での襲撃は明確な惣無事令違反になるわけだが誰が咎めを受けたのか?
三成が謹慎しただけなんだよな
惣無事令は豊臣政権の根幹だから完全な無視や歪んだ解釈は政権に力が無いことを天下に示したことと同じ 更に言うなら、この件を解決した家康の力が豊臣政権を上回ったことを意味することになる
合議どころか奉行衆大老衆などが家康一強を公認したことになるんだな
まあ襲撃の事実があったらの話だけど >>371
全く御所巻に該当しないのに、御所巻に例えた事が新説なんだろって
御所巻なら、強訴の対象は家康だろ 家康というか豊臣武闘派だな
武力によって法を捻じ曲げる事に成功したということ
最終的に家康が天下とったから矮小化されてるけど、天下とった軍隊で国内でも各地に遠征し半島にも出兵している。
当然強い(断言)
政権中枢から外された武闘派と家康が手をくんだクーデターみたいなもんだ
家康も10人の一人よりも武闘派と手をくんだほうがメリットがあると判断したのだろう いや、御所巻だったら、七将が武力で威圧した相手は家康だろうって事なの
家康を威圧して、自分達の望む判決を家康から引き出そうとしたのか、って話
キミさ、クーデターの意味も今一度正確に勉強した方がいいよ
単語の意味をよくわかってないで使っても説得力ゼロだよ 当時の家康は10人のうちの一人にすぎないでしょ
他の大老奉行に結託されるとどうしようもない どーなんだろな
秀吉遺言だと家康は政務を任されてて彼らが合議制だなんだをしだしたの秀吉死後だし 諸侯最大の石高にして唯一の大臣職
秀吉の義兄弟で秀頼の外戚を約束されてた家康を
三成や毛利らが脅威に感じて10人のうちの1人にしようと躍起になったと考えたほうがしっくりくる 少なくとも清正は家康を公儀として、彼に反目するのを秀吉の遺言に反する
とする起請文出してるしね >>371
無理に話逸らさなくていいよ
その何が「御所巻き」なんだ? >>374
伏見城が包囲されたという記録がないんだって >>383
いずれにしろ罷免切腹を求める相手を襲撃することは
御所巻きでもなきゃ当時の訴訟の容態という訳でもない
襲撃があったことにしたいがめに
当時の記録にある訴訟を実態は襲撃
と無理矢理主張してるにすぎない訳だが
その初手から知識不足を露見しただけのこと 幸長が武装兵連れてきたって一次史料にある以上これが白峰氏の言う「訴訟」なんだろ。 >>388
何しろ他に七将が「訴訟」をしたって証拠が無いからね。
訴状も無い(義輝が殺された時ですら訴状はあったというが)、大老や奉行への訴えも無い(訴訟なら家康以外の大老に申次を頼まないとならない)つまりお前さんの言う通り、これは「訴訟」では無い純然たる暴力。ただしこれを訴訟に擬制する事は出来たと言うだけ。
しかも七将は伏見で他の奉行も狙っていたらしく増田長盛・前田玄以は三成と立て篭もりを起こしてる(多聞院日記)。そして増田は輝元に「三成が身を引かないと済まない」「徳川と上杉の婚姻が整ってる」と伝えてる(輝元書状)。 >>392
三成を訴えた大名たちが惣無事令違反に問われてない
政権の許可なく武装兵に攻撃させれば私闘 >>392
いや、キミに主張を歪曲されてる気の毒な白峰氏が、「訴訟」の根拠を挙げてるでしょ
「申合」「申事」として複数の同時代史料に記載されている >>384
物事は色んな側面がある訳でね、皆が愛する猫だって正反対の見方が同時に成立してる
虎の親戚で、恐ろしい肉食獣とも言えるし、癒し系の愛玩動物とも言え何方も本当です
千姫の事は、恐ろしい家康から孫娘を人質に取ったともいえる訳でね >>395
いえない。
キミに話は歴史ではなく、もはや小説。
日本史を紐解けば、政権最高位の外戚となる事が何を意味するかは、高校生でもわかる。 今更そんな事言い出すやつの時点で荒らしたくてやってるやつでしょ >>380
大臣の一人が他の大臣を放逐して権力を独占したらそりゃクーデターだろ
何いってんの? ほんとに何いってんだこいつ?
今までの話理解して書き込んでるか? >>398
家康は既に政権内で最高権力者だから、三成を追放することはクーデターにはならない。むしろ、ただの人事異動と言った方がいいかもしれない。
七将が三成に対して行った襲撃は、三成の地位・権力に取って代わろうとした事が目的ではないので、クーデターではない。
そして、そもそも訴訟なので、クーデターではなく訴訟としかいえない。 家康は最高権力者ではなくて、10人衆の一人にすぎん
家康が権力を独占するために軍部と組んでやったクーデター まず組んでもなければって話散々されてた訳で
荒らしたいだけでしょ そうだね
秀吉遺言体制で、秀吉死後の政務を託されており、
秀吉の義弟、その直孫は秀頼と婚姻を約しており、
大名中で最高位の内大臣、石高250万石で国内最大、
その戦歴、軍事力は国内最強
10人衆とやらの中で、等しくただの1人かもね(笑 家康が七将を使嗾したという証拠が無い限りただの妄想、願望だな
それよりも秀吉の死直後に遺言破りの私的盟約を結び十人衆体制をゴリ押しした三成毛利らのほうが
秀吉の構想を破壊したという意味でクーデターに近い
少なくとも先に政争をしかけたのは三成毛利のほうで証拠も残っている >>403
その250万石ってのは直轄地ではなくて与力あわせてだからなあ。
直轄地は100万石もない、三河いらいの連中はともかく真田や木曽らにさして忠誠心などないだろう。三河武士の忠誠心()も江戸時代の創作であるし
前田も80万石ってのは直轄地であって、北陸の与力衆をあわせればもっと増える。
そして戦歴?そこまでのものがあったか?
>>404
無断婚姻があるだろ?
ついでにいうと遺言破りなど三成輝元はしとらんぞ。大老奉行の間での誓紙は合法だ、だから誰もケチなどつけとらん 遇しかたが圧倒的なのは変わらんな
あと三成と増田の2奉行で勝手に秀吉遺言の毛利家の別家創設の知行を変えてるな >>394
訴状も無いしそもそも「何を訴えたのか」すら不明な訴訟って前代未聞じゃね?当時は手続法も無い時代ではあるけど。
しかも当事者の幸長は兵隊率いて伏見に来てる訳だし(そういえば白峰氏は閏三月五日書状について触れてないね) >>406
キミが家康どう見てるかなんてどうでもいいわけ
秀吉が家康をどう遇し、多くの大名が家康をどう見たか、という事
十人衆とやらの中で、等しく1人にしか過ぎないと思ってるキミみたいなアホはいないんだよ >>408
それは「訴訟」を「襲撃」に置き換えても同じ事が言える
違うのは、史料には「襲撃」に該当する記録はないが、「訴訟」はあるという事 そもそも通説の襲撃説では三成は
大阪で襲撃から逃れるため伏見に移るが
史料で騒動、物騒と言われているのは大阪でなく伏見
そしてその最中わざわざ三成は伏見に行っている
閏3月7日福島小西が他の大名と申し合わせて
三成に腹を切らせようとしたという「風聞」
8日北政所が仲裁
9日三成と7将が「申し合わせ」
家康が預かって三成の隠居が決まる さてそこで改めて毛利輝元書状
三成が「狙いたて仕候者」が手をこまねいているので
この機会に攻めてくれと言ってきた
という内容
無理矢理狙われてるから助けてなんて読まず
普通に考えたら家康攻めを画策してたってこと
つまり対家康排除クーデターな訳
それはまさに伏見が物騒になる事態だよね
三河物語は家康に腹を斬らせようとする陰謀があり
それが破れたのち三成ひとりに責任を被せた
というのがこの一件の真相だという
改めて一次史料で残る内容を元に組み立てると
案外無理のない筋立てだよねコレ >>411
この時期大坂・京両方とも騒ぎが起きてる。
慶長四年三月二十七日→「一昨日より大坂で雑説があると云々」(言経卿記)
同月二十九日→「(伏見) では一段と騒ぎ」(北野社家日記)
閏三月一日→ 「伏見では物忩とのことである」(多聞院日記)
同月四日→「石田三成が大坂から伏見に移った。今日も騒動があった。」(言経卿記)
三成の移動後、家康は藤堂高虎に書状を送って大坂の様子を報告させてる(閏三月八日付藤堂高虎宛徳川家康書状) 閏三月九日鍋島書状でも「御奉行中・御年寄衆御間御沙汰ニ付而、此此伏見・大坂さわかしく雑説申」とあるし徳川家康が八日に藤堂高虎から大坂の情勢報告を受けてる事を見ると七将が伏見まで三成を追いかけていった後も大坂には何らかの危険因子があったってことなのか。この時奉行衆は皆んな伏見にいるから大坂に残ってる武断派諸将が蜂起するって噂でもあったのか。どのみち大坂も危険な事があったのは間違い無いが。 >>413
北野社家日記は、そもそも襲撃の記載はなく、七将に該当するであろうメンバー小西行長が入っている。
この辺に触れないのは、どうかと思う。
都合のいいとこだけ抽出、都合のいい解釈はアンフェアでは? この時期伏見に騒ぎがあるのはわかる。三月九日に伏見の島津邸で伊集院忠棟が殺されてるから。それでおそらく「似た事件が起きるのではないか」と人々が恐れたんだろう。
それは間違いなく「三成が家康を暗殺する」といったもの。現に家康はこの後伏見城では無く向島に入るわけだがこれは前田利家からの助言(実はこれは遺言違反)。三月八日に家康は利長の後見を請けてるから利家は純粋に家康の身の安全を危惧したんだろう。 >>412
あの書状、「輝元」と呼び捨てにしてるのが気になるんだよね
しかも諱で
あまり石田書状読んだことないから分からないんだが >>415
伏見、大坂で上下の人々がいろいろ事件について噂しあったくらいの意味だよ
これだけじゃ中身は分からない
もし伏見で兵火があれば至近の大坂もやばいし >>407
毛利藩閥閲禄によると秀吉の遺言によると、石見出雲にただし銀山は分割?今銀山とかが何を指しているのかいまいちわからん。
石田らによる宛行は出雲伯耆隠岐で石高はほぼ同じ、
むしろ家康が後にやった秀元に長門周防与えるというほうが遺言無視も甚だしいと思うが
>>409
大老の一人だろ?
権力を握ったのは利家が死去し、石田が失脚し大阪城を乗っ取ってから
それまでは突出した存在ではない。 >>420
石高同じだろうが彼らは合議制を唱えながら2奉行で遺言と違う知行宛行発行してて自分たちの言う合議すら否定してる
自分はそもそも家康が政務を預けられた人間だと判断してるからその上で毛利の事情を勘案しつつ遺言と違う知行を行うのは政権の後継者としてそうおかしな行動とは思わない また、大坂城を乗っ取ったも奉行らの要請やら淀が西の丸天守を喜んだとする記述をまるで無視する書き方で
随分都合のよろしい記述だけを見るんですね、と思うかな 家康の権限は奉行がやったことの監督であって、政務をすることじゃないので
政務を実際に行うのは奉行 家康は三年は伏見で留守番しろと遺言に書かれていたがそれやぶって大阪城に兵をいれて乗っ取ってるからな
そういう事を無視しているお前ほどじゃねーよ それも奉行が大坂へ動座するよう要請したり遺言無視で伏見にいなければならないとされてる諸侯が大坂にいるから、政権の後継者としての行動だね いいよなー、誰が要請したのかすら無視してほら遺言無視ー
奉行の遺言無視は石高そんな変わってないから合議無視しててもセーフなんだもん 諸侯は人質と一緒に大阪に移動だろ?
家康は伏見でぽつんと留守番しとけってのが遺言だからな 秀吉の案は、秀元が石見と出雲 吉川が隆景の隠居地
石田の案は、秀元が出雲伯耆隠岐 吉川が隆景の隠居地
家康の案は、秀元が長門周防 吉川が領地そのままの石見出雲
家康の案が一番遺言から離れてると思うがねw つか家康は政権の後継者ではなくて、クーデターで乗っ取っただけだからな。 石田三成宛伊達政宗書状にある秀吉遺言やら上杉景勝宛西笑承兌書状にある秀吉遺言などをまるっと無視してなにを言ってんだ? >>420
家康が、ただの大老の一人でしかないなら、そもそも排除する理由ないんじゃない?
石高、官位、婚姻と、秀吉からかなりの優遇受け、突出した大名になってしまったからこその、家康排除の動きなのでは? 指摘されてる本質もろくすっぽ理解できないじゃないか君、知行割が近いかどうかの話ではなく
合議制が政治体制だという奉行の主張なら2奉行で秀吉遺言を改変した知行宛行を出してる事自体が異常で彼らの論理ですら破綻してると言ってるのよ 合議制があったのかどうかと秀吉の遺言を守っているかを混同して語りがちだが
それぞれ別々に語ることじゃないか >>413
雑説=騒ぎと理解してそれを襲撃と思い込んでたのね
なるほどそういう理解だと三成襲撃で凝り固まるのね >>432
お前が話をそらしているだけだからな。
奉行の合議で決まったので知行の宛行をおこなっただけ。
それを家康が一人で覆した。 知行を合議で決めたなら2奉行だけで知行宛行書かれる訳がないんだが、そのレベルのことも知らないのか 話逸らすといえば
大坂に家康を呼んだのは奉行という話も逸して家康の遺言違反だーとか言ってるのもあったな 奉行の要請より遺言の方が大事だったなら断ればよかったんじゃ そもそも三成自身が実際に誰か(家康濃厚)を
狙った上毛利に攻めさせようとしてる
それに前後して大阪で雑説→伏見で騒ぎ、物騒の流れ
そりゃ対家康排除の「雑説」も起こるし
騒ぎ、物騒にもなるでしょって話
んでその直後に吊し上げを喰らって
7人または10人の大名と「申し合い」の結果
隠居に追い込まれる
普通に前後を考えると両派開戦寸前まで行って
それが手打ちになって主戦派の三成が
その責任を問われたって流れに見えないか? >>439
見えたとしても毛利に攻めさせようとしたに根拠がなければ何も言えん >>412
面白い解釈だけどそうすると直後の
「面むきハさ様申候か」
の翻訳が大変な事になると思う。
「表向きはそういうことのようですが」って訳だけどこれは「真実は全く違う」ということ。そしてここから三成にとって不利な事実が次々と記述される(城に敵方の兵がいて此方は入れない、増田長盛は三成が退かないといけないと言ってくる、大谷吉継からは内府と面談するよう勧められる…)
もし前段が「三成が手をこまねいている」だとするとここには三成有利の記載が無いといけない。だが逆の事実が書かれている。と、言う事は「三成は自分が有利だと言っているが真実は違う」という解釈が自然なんじゃないかな? >>436
何言っているんだお前は?
知行の宛行に名前を記したのが二人ってだけの話、
決めるのが二人とは限らん
>>437
奉行が家康召還した書状でもあるの?w 奉行に呼び出されて大阪出頭するような状況で家康一強だっとか矛盾したことお前主張してるの?w
ていうか秀吉の遺言で家康に後事託したとか言っているけどさ、それならなんで10人で決めましょうねとかいう誓紙を家康が書かされてるんだ?
家康って秀吉死んだら奉行に逆らえないような立場だったのかw >>440
上で散々議論された書状が根拠だが?
>>441
それは「三成は都合よく言ってるけど
そうはいかんよね」ってだけでしょ
「三成が手をこまねいている」も
「三成が狙われている」も
無理のある訳し方なのは既に指摘のあった通り
「三成は被害者で家康に狙われてるはず」
という先入観で無理矢理そう呼んでる人いるだけの話 >>441
「三成は自分が有利だと言ってるが実際は違う」
というのは全くその通りでしょう
それが毛利が動かなかった理由
三成が軍事クーデターを主導して
それが頓挫して吊し上げを喰らったという流れ だから合議で決したなら知行宛行に名前が2奉行しかないってことにはならないと言ってるの、宛行は誰が決したかの証明書なんだから
そこ理解しないで何いってんだ君は
挙げ句大坂への要請を奉行がしたってのの内容も知らないでキャンキャン喚いてるのか、んで要請と命令の区別もつけられないのか
うん、秀吉没後の不安定な体制で五奉行らなりが結託したら家康が政治的に敗北するのはあり得ると考えるし
なんなら内藤周竹の秀吉遺言のように秀吉と相談の上秀吉没後に他の大名へ分権しようとしたが、政治体制を破壊しようとする動きが多かったからもとに戻したも普通にあり得ると考える >>412のこと?
ここでいう「普通に考えたら家康攻めを画策していた」とは飛躍ではないかと感じます >>446
違うぞ、決定そのものは合議で決まっても、出される名前が単独である事はさして珍しい事ではない
保証する人間にすぎないのだから、奉行二人で保証が十分可能だったというだけ
奉行の権力と影響力の強さを証明しているにすぎん
内府ちかいにあるようにむしろ家康は勝手に入ってきた可能性が高い
奉行の要請は胡散臭いんだよ。こんなの信じてる君の頭がむしろ心配だ >>445
だとするとつまり、「ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる」は三成以外の何者かってことになるけど
それって誰で何をしたのかな?史料になんて書いてあるの? >>447
あなたが何をどう感じるのも自由だけど
否定するのであればその根拠を頼む 決定そのものが合議で決まっても云々の証明は?
知行の宛行は大名の権威を表す非常に重要なもの、決定を誰が下したのかの証明すらないのはありえないな
署名なくとも最低限、この二人が代理しますって意味で黒印すらないのはまずもって
内府ちかいの条々とかいうクーデター言い訳書を根拠にする方がよほど心配になるかなー
それでいいなら清正の起請文の内府が政をすることが秀吉の遺言で、それに反して家康に兵を挙げたのがいるも同レベルの信憑性持ってるわね >>449
それを三成が狙われてると解釈する方が無理だぞ
仕り候なのだから狙ってるのは話者=三成 合議への移行の合意が有ったとしても明文化されてなくて五奉行五大老以外は支持してないから実態に合わずに、すぐに崩壊したんだろ
徳川だけでなく上杉浅野あたりも支持してなかったようだし >>449
以前に古文の読み方知らない人が恥書いてたけど、「ねらいたて仕候者」は家康 上杉景勝に至っては領国に在国3年と命じられてるんだから、そもそも合議なんて土台無理な話だしね >>451
誰が決定したかではない。誰が保証するかだ
根本的に間違っている。重臣の名前で領地安堵とか多数あるし
輝元が反故にされた120万石の領地安堵をまさか単独でだしたとか思ってるのか?
一次史料にある内府ちかいよりも、信ぴょう性高い史料で家康が奉行に呼び出されたという一次史料あるならだしてみ? 奉行の要請ってのはなにに載っているんだ、見つからん 誰が保障したのかならまさしく、当主に代わってそいつが代行する以上当主から代行を認められた証明の印なりが必ず必要になるな、で?黒印なりがあったか?
とんでもない勘違いをしているが、一次史料なら内容鵜呑みにしていいとは決してならない
むしろ彼らが惣無事令のために動いてる家康へ兵を起こした言い訳なんだから、その内容が正しいなんて判断、まともな史学への知識があったら到底しない 遺言にない新体制になったら命令権は別に確保しなければならない状態なのに委任状も無しで勝手やったら回りが付いてくるはずがない
上の中間管理職が勝手やっても部下がついてこないなら仕事にならない
前の体制でやりますと部下に言われたら逆に従うしかない程度の力しかない 根拠がないといったら根拠を出せと言われたでござるの巻 >>457
すまん、今探してるが確かに出典となる史料が現状見つけられてない
もうしばらく探してみるがこの点に関しては根拠不明のまま主張してしまった >>454
申し訳ないけど家康が云々って話はかなり思想的な偏りを生む事になるかと。
その理由は46号文書に「寺沢」があるから。寺沢広高は元々奉行派で三成もかなりの信頼を置いていた人物だけど三成謹慎後に徳川に急接近、関ヶ原では最初から東軍という割と珍しい人物。
つまり「三成が家康を狙っていた」だとするとどんな歴史観が造られるか?まず石田・毛利間の会話は慶長五年時点で寺沢によって徳川に筒抜けだったと言う事になる。それは関ヶ原で家康が提示した「輝元が担がれただけなら罪に問わない」という和睦は謀略ってことになり、会津討伐自体が家康の罠だったという話になる。何しろ「三成と輝元が家康に叛旗を翻そうとしてる」って話をダイレクトに聞いてるんだからね。白峰氏はそういう思想の持ち主だから良いんだけど君もそう言う考えの持ち主なのかな? 「思想」とは大仰だな
あなたは三成が家康に狙われることはあっても
狙うことはないという「思想」に凝り固まってない? 三成が狙ってたのが家康でないとしても
三成は誰かを狙って挙兵で排除企むヤバい奴
となると思うがそれはあなたの「思想」的にいいの?
当時の情勢考えてあなたも>>441で上げた
三成が不利な要素が成立するほど強力な
狙い立ててる相手て誰? 別に君が「会津討伐は家康の陰謀だった!家康は自分が発てば三成が挙兵すると知ってたんだ!」って主張したいならそれで良いとは思うよ >>465
誰もそんな主張してないし
今問われてたのはあなたの考えだが? 三成は遺言の体制から合議制に無理やり移行させようという過激思想の持ち主と言うことも出来る >>466
三成からの使者として寺沢広高がいる事が全ての始まり。寺沢は奉行派として三成ととても親しい仲だったが三成謹慎後に徳川派に鞍替え、関ヶ原では最初から東軍である。つまり彼は徳川に有利な情報は全て渡してる筈でむしろ渡してない方が不自然。
となると家康は「三成と輝元が自分を殺そうとしている」事を知っていた事になる。そうなると俗に言われてるように会津討伐は三成挙兵を誘う陰謀ってことになる。
ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、於于今ハ仕合候条…の内容が徳川に筒抜けである以上、それが「三成の叛意」ならこうした歴史になるってだけ。 >>462
キミ、高校生レベルの文法知らない無学の本人でしたか(笑
何度でも言うけど、初歩の初歩として、三成が狙われたという訳には絶対にならない。
意訳はその後。 >>469
>つまり彼は徳川に有利な情報は全て渡してる筈でむしろ渡してない方が不自然。
これはわからんでもない
>そうなると俗に言われてるように会津討伐は三成挙兵を誘う陰謀ってことになる。
飛躍しすぎw馬鹿じゃねえのw
>こうした歴史になるってだけ。
そう思いたいだけだろw >>469
なんか推定に推定を重ねた、妄想の教科書みたいな内容だな >>469
そうとは言えないね
家康を殺す陰謀は実行前に頓挫して
三成ひとりが槍玉に上がる代わりに
「なかったこと」にされた
家康自体がそう裁定した訳
寺沢としてはにも関わらず
三成がまだ狙い続けてるか確認できない
わざわざ接近する相手が「なかったこと」
にしてくれた陰謀を蒸し返した上で
「俺もその共犯だったんですよ」と
アピールするのは逆効果の恐れもある
そうするのが普通というあなたの考え方は
必ずしも妥当ではない
まして史料的にも無理のある会津との陰謀
なんてこの時点で袂を分かった寺沢が
チクってるなんてのは妄想以外何者でもない >>471
常識的に考えてみなさい。家康は広高から「三成と輝元が打倒家康の計画を練ってる」事を聞かされてる。しかもかなりの確率で「何故それが不発に終わったのか」も知っていたことになる(広高は三成の使者だったから)
そうした思想の下46号文書を見ると確かに書いてある。
「御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事」城に敵の兵がいて此方の兵が入れない、とある。なら城に敵のつまり徳川の兵が居ないとどうなる?
家康は自分への反乱計画を知りながらそれを看過する程愚かな男じゃない。それで白峰氏の様に「家康は全てを知っていて三成を罠に嵌めた」って話になる。
そうならないとしても家康は三成・輝元の計画を知っていた前提が揺るがない以上、家康の会津討伐は三成らを誘う罠って結論も変わらない。 この時期に家康殺害の企みがあったというのは
三河物語はじめいくつか後世の史料にある
が、正直三河物語だしなぁでほぼ無視してた
が、46号文書の存在を知って
素直に読めば反家康の挙兵を促す内容なので
俄然そちらの存在感が増したなと思う >>474
考えてみてくれ
寺沢が知ってるのは
・三成が挙兵を促したこと
・そして毛利がそれに同調しなかったこと
・さらに自分もまた内府殺害に積極的に加担したこと
なんだよ
陰謀が続いていると考える理由は薄い
あなたは後の関ヶ原の経緯を知ってるから
ずっとその陰謀が継続してる前提で考えすぎてる
全ての情報を共有するには内部に取り入るのに
マイナスになりかねない3点目を
詳らかに白状する羽目になるでしょ >>473
まず「三成の計画を家康が無かった事にした」の論拠が判らない。史料上三成謹慎の理由は看羊録の「朝鮮出兵の際、武断派諸将を讒訴した」というものしか無かったと思うのだが…他に何かあるのかい?家康暗殺計画が露見するのはもう少し後の筈だが…
ついで、広高からすると「三成と輝元の計画」を家康に伝えるのにリスクは無いと思う。何せ自分に都合が良い様に報告すれば良いだけだし何よりこれは三成と輝元の計画なんだもの(広高が積極的に関与した証拠は無い)それを家康が聞けば喜ぶだろう。政敵の急所を掴めるのだから。
似た様な事をした話に細川忠興の話がある。忠興は三成から家康襲撃の計画を伝えられるとこれに同調して会談するとその内容をそのまま家康に報告したという。そりゃそうだ。 >>476
広高が家康暗殺に積極的だったとは知らなかった。何か史料があるのかな? >>474
>常識的に考えてみなさい。
この場合の常識とは何だ?w
その説明から頼むわw
>家康の会津討伐は三成らを誘う罠って結論も変わらない。
結論ありきじゃ変わるわけないよなw
家康が誘ってるなら上杉は家康の共犯として仕掛けたと言ってもいいはずで家康派ということになるんだが減封くらってるんですけど 慶長4年3月時点では、だけど、
ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる
これ浅野長政のことなんじゃないかな?
つまり浅野派と残りの石田ら奉行派間での抗争。
浅野幸長が兵を動員してたのは確実だし。
そしてこの書状、彼の方、此の方、内府方という表現、
浅野派、石田派、徳川派って意味じゃないのかな。
んで七将襲撃では石田が閉口処分、
前田征伐時は石田派がやりかえして浅野蟄居。 >>480
文書の中で、他に浅野を仮想敵とするような箇所でもあればね。
その一文節のみを切り取って、あーでもないこーでもない、ならなんでも有りになる。
それと、他の歴史を知ってなきゃ導く事ができないロジックはやめた方がいいよ。
IDコロコロ変えても、同一人物なのはすぐわかる。 >>481
わたしはこのスレでは>>239,244,480しか書き込んでいない。
この3年くらい忙しくて離れてたけど、以前他スレで岐阜城後詰決戦案とか
鳴海上陸作戦案とか書いていた者。
彼方、此方、内府方と書き分けてる以上別勢力を指しているのではないか、
では別勢力、石田らは誰をねらいたて、てるのか、
と考えたら浅野長政が符合するなと思ったから。 誰でもいいけど勝手にテンプレとか作って貼り出すなよ >>477
表向き家康殺害によって処分者が出てない
つまり表向きなかったことになってるのは確定
三成が挙兵を促してるのも輝元書状で確定
>>478
積極的、消極的みたいな言葉遊びに
逃げたいならどうぞ好きにやってくれ
彼が三成に協力してたのはあなたが既に認めた通り
それ以上でもそれ以下でもなくて
イヤイヤやってようがそれはマイナス >>481
一考に値する考え方ではあるけど
その当時の浅野長政がそこまでのリスクを冒し
排除しなくてはならない政敵なのか
挙兵して排除って普通にアウトな行為なんで
内府が勢力として残ってたら確実に
そことも対立することになるよね? >>485
現に浅野幸長(七将)が兵引き連れて石田襲おうとしてる(殺されると思った)わけでしょ?
まずは浅野排除優先と考えてもおかしくはないと思うけど。 さらに言うなら、前田征伐、発端は前田、浅野らが家康を暗殺しようとしているという
増田だか長束のタレこみ。
これに石田も協力して越前まで兵を出してる。
通説以上に浅野と石田らの確執がおおきかったとするならば、
ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる
これは浅野長政は当てはまるなと思った次第。 >>486
浅野の可能性はない。次の条文と話がつながらない。
簡単に。
・「『ねらいたて仕候者』が手をこまねいている今がチャンスであり、こちらから仕掛けるべき。輝元は尼崎に陣を敷くように。」と三成は言っています。
・三成の話は、表面上はそうなのでしょうが、実際は大坂城は家康が支配しており、こちらの兵は立ち入れません。
46号の内容は、そもそも家康の動向を踏まえ、毛利家の舵取りを相談したく輝元から元康に出された文書。なので、上の通り「ねらいたて仕候者」が浅野になる余地は全くないね。
やはり、キミの解釈は他の歴史を知った上で導いたご都合解釈としか言えない。 >>485
「石田三成と浅野長政はこの時(秀吉の死後)、ついに心に隠していた憎悪を爆発させた」(1599年度日本年報)
外国人にすらバレてるくらい仲悪いからなこの二人。
宇都宮国綱改易の一件では三成が佐竹に「上洛して秀吉に弁明しろ。ただし、検使である浅野長政にはバレないように気をつけろ」と言ってる書状があるし、浅野家では「三成は浅野家の元祐筆を金で誘って幸長が秀次と謀反を企んだという証拠をでっち上げて讒訴した。嘘が露見しかけると三成は元祐筆を殺害しようとして失敗、彼は長政に逃げ込んで白状した」なんて話が伝わってるしで犬猿の仲も良いところよ。 >>489
ようやく、三成が狙われた、という誤訳を認めたということでいいのかな?(笑
でも、浅野でもないけどね あ、家康か、なら彼方、此方、内府方と書き分けた意味はないと? >>486
殺されそうだから他に攻めさせる・・・
残念ながら>>488だな あ、違うか、石田派は徳川派を敵と思っていないけど、
毛利が徳川を敵と思ってれば書き分けるか。 ない
それこそ意訳
突然、浅野が天から降って湧いてくる解釈の方が、ご都合的
この文書において、家康を敵性大名と認識している表現はあれど、浅野全く登場していない しかし元々は「家康に狙われてる助けて!」
って読むんだと主張してたのに
「(三成が)狙っているものは」と読むのだと
理解した瞬間に「家康とは限らない!」って・・・ つまり七将襲撃は浅野派と石田派の奉行同士の抗争で、
襲われた石田は毛利に兵を出してくれ今なら勝てると頼んだが、
毛利視点ではこれに介入したところで大坂城は徳川が押さえており
徳川が弱体化するわけでもなく毛利に利はない。
だが懇意にしてた石田派が没落すると毛利の立場は弱くなる、どうしたものか、
ってかんじかな。 で、徳川視点では利家が死んだら奉行同士が抗争始めた。
しょうがないんで仲裁してやるが、浅野派が石田を殺せとイキってるので、
秀康を護衛に付けて石田を佐和山に送った。
石田は護衛してくれた礼に秀康に短刀(だっけ?)を贈った。
こんなかんじじゃないかと思うが。 この人もご都合主義的な妄想家だなぁ
どうしても襲撃じゃないとダメなんかな?
史料に忠実の何悪いんだろ? >>499
石田が命を狙われてないのならば、秀康を護衛に付ける必要ないじゃん。
自分で佐和山行かせりゃいいんだし。
石田も護衛されて助かったから秀康に礼として短刀贈ったんでしょ? >>492
おそらくかなり重要な意味がある。
46号文書では家康の名が出てくるのは「御城つめニハ、こいて・かたきりなと居候、是ハ内府かたにて候…」のところのみ。
実は「大坂城は徳川が〜」ってのは意訳で原文は「彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事」となっていて徳川かどうかは不明。
割と肝なのは「彼衆申候〜」の段から離れたところに「御城つめニハ〜」がある。まずこの二つの「御城」は同じ城か?
更に実は騒ぎが起きてるのは伏見城なのに何故大坂城に此方衆を入れようとしてるのか?
まぁ前段で「彼方衆」と書いて後段では「内府かた」なのでこの二つは別の存在だと解釈するのが自然だろうね。 >>501
「御城」についてはわたしも思った。
これは伏見のことじゃね?と。
でも片桐・小出ってたしか大坂城詰めだよね?
なら大坂なのかなと釈然とはしないけど思った。
で、別々の城のことなら書き分けるよなぁと思った。 46号文書ではっきりしたのは
三成による反家康クーデター計画は
事実であったということ
それが頓挫した直後に同じ豊臣系大名たちから
吊し上げを喰らって隠居に追い込まれたということ >>500
秀康の護衛と石田正宗は、それ以上でもそれ以下でもない。
三成の護衛としか言えない。
秀康が護衛したから、七将の襲撃があったとは絶対ならないよ。 襲撃を警戒しての護衛であって
それが何故襲撃があった証拠と思うのか >>502
あれだけ光成氏の訳を妄信していたのに、今度は否定ですか?
しかし相変わらず適当な事言ってるのか、それとも確信犯的にウソついてるのか(笑
46号で、家康の名が使われてるのは他に2ヶ所あるでしょ?
・御城つめには、こいて・かたきりなど居り候、是は内府方にて候、かくのごとく、、、
・大刑少より申さる事に、下やしき罷り下るの由然るべからず候、内府向い面に成り候様に候との事候、、、
そもそも46号は、家康の動向を踏まえ、輝元が元康に対し毛利家の舵取りを相談した文書。上の文からも、毛利家の仮想敵が家康という事がわかる。
なので、「ねらいたて仕候者」が、文書中に全く登場しない浅野はあり得ない。
また呼び方については、言ってみれば人称代名詞を使ったかどうかだけの話。
46号では、小西・寺澤がそのまま表記されている一方、彼らを指して「彼衆」も文書中で使われている。これを表記方法が違うから別人だと言うバカはいないでしょ。 襲撃があったから襲撃の警戒として護衛がいたんだろ?
通説とも合致する
通説に反する仮設たてるから、矛盾が次々に出てくる
嘘に嘘を重ねているようにしかみえない 謹慎の護送の際に護衛出すのは当時として特殊なことなのか? >>508
必要十分条件を勉強することをお勧めする 護衛であり監視でもある家康からの対立した両者に対する政治的なメッセージ
これ以上騒動を起こすと容赦しないぞと
騒動な中身はわからないが
陰謀論好きな人の理論だと家康が権力を誇示したとか独裁を強めたとかそんな理屈 独裁を強めたのは確かだと思うぞ
元々寡頭政治だったのが太閤が危篤になったのと
前後して何事も奉行と話して決めろとか言われだし
利家のとこ集まってこちら糾弾してきて
利家と手打ちしたら何やら命狙ってるとか「雑説」
さらに仲間割れして三成吊し上げて
家康が仲裁してやっと治まったてだけだが もともとが赤の他人の寄せ集めで潜在的な政敵同士なんだし
統制すべき政権主家はなにも出来ない子供1人だけなんだからそりゃ政争になって当たり前
奉行や毛利が派閥組んで勢力拡大狙うのも当然だし家康も政権での立場と権力を強化確立するために動くのも当然
お互いボケっとしてたら自分の家も所領も滅ぼされかねないからな 「彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事」
「御城つめニハ、こいて・かたきりなと居候、是ハ内府かたにて候」
まずこれから分かるのは「彼方衆」は「内府方」ではない。「御城」が大坂城ならそこに徳川軍が入っているなら門番が内府方だと伝える必要が無いからね。前段の城が伏見城だと解釈すれば意味は通るけど問題はこの時期徳川軍が大坂若しくは伏見を占拠したって話が史料には無い。
大坂にしろ伏見にしろそこを占拠してるのは七将でありつまり三成を狙った若しくは三成が狙った相手も七将の誰かと言う事になる。 「内府方」は内府の配下じゃないのも含むってだけだろ 「徳川軍が入ってる」「7将が占拠してる」て話ではなく
お城には元々詰めてる豊臣の諸将(片桐小出ら含む)
がいてそれが味方ではないので動けないて話 46号文書によると「御城」は「彼方衆」がいて「此方衆」は「一切出入とまり」つまり全く出る事も入る事も出来ないという。出る事も入る事も出来んという事は完全な封鎖を敷かれてる訳で明らかに「此方衆」を敵視してる。問題はそれが伏見城か大坂城かという点。
閏三月五日浅野幸長宛徳川家康書状では幸長は兵隊を率いて伏見に来ている上、「御番」を置く許可を家康から貰ってる。伏見城の可能性は高い。尤も大坂城の可能性も否定出来ない(何方とも「御城」としか書いてないし少なくとも片桐と小出は大坂城の門番なのだ)
どのみち三成を狙った者若しくは三成が狙った者つまり「彼方衆」は徳川では無い事になる。 治部少、小西、寺沢がこう言ってたんだけどの内容が正しいという前提で話が進んでるように見えるんだけど
特に治部少は割と話を盛る癖があるし、今回の場合輝元に出兵させようとしてる訳だけど、彼らの言い分はどの程度信用していいのかとかはチェックって進んでるの? >>515
そんな意味不明な解釈は不要なんだよ。
人称代名詞が使われる場合、それが誰を指すかは前の文章に示されてるの。
当り前過ぎ。
「彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事」
この文の前に当然表記されてるわけで、「彼衆」=小西・寺澤、「彼方(衆)」=「ねらいたて仕候者」。
で、「ねらいたて仕候者」って誰なの?というのは、散々出てるけど、後段まで読み切ってこの文書の主旨を考えれば、家康なわけ。
46号の主旨は、家康の動向を踏まえ、毛利輝元が毛利元康に毛利家の舵取りを相談した文書なの。 >>520
この書状からは毛利は徳川を敵視してるのはわかるけど、石田・小西・寺沢が徳川を敵視してるかどうかはわからない。
彼らが言うには○○だが、実際は○○なかんじで、
この騒動を収めるには誰それは○○すべきだろうと
言っているが、毛利としてはどうするべきか相談したい。
だいたいこんなかんじの内容でしょ?
石田派と毛利が連合してて、対徳川で一致してるなら
敵側は全て「内府方」で統一すればいいじゃん。
でも彼方、此方、内府方と書き分けてる。 三成が毛利動かすために楽観的観測を伝えてるのか
マジで楽観的で状況認識が甘いのか
実際は三成が正しく毛利が悲観的すぎるのか
それはわからないけど
細かい部分の認識の差異はそこまで問題ではなく
三成が毛利の対家康挙兵を求めてるというのが肝かと
通説でよく言われるのは太閤死後家康の通婚問題を
利家が糾弾して双方に大名が参集して緊張が高まるが
2月2日の大老奉行の誓詞交換と続く家康の見舞いで
両者の手打ちとなり緊張緩和というもの
でも46号文書はまさに表向きの手打ち後と思われ
三成は両派の和睦がなったあともまだせっせと内府を
「ねらいて仕候」ていてそれが3月下旬の
「雑説」「騒ぎ」に繋がり閏3月冷戦状態が
続いてたということになる >>521
いやいや、三成は「ねらいたて仕候者」に対する挙兵を輝元に依頼してるでしょ。
議論の入口から間違えてない?
呼称については、人称代名詞の使用に過ぎないので意味のない話。
それをいうなら「輝」と「此方」も使い分けられてるけど? 一回その呼称使ったらそれ以降は指示語で書くのは、割と通常の文章かなってハタから見てたら思うかな
毎回毎回対象の具体名書き続けるの、くどいし 敵側は内府方と書けばいいじゃん、
書き分けてるのは別勢力だからではと言ってる。 >>522
三成からすると自分を武力襲撃した時点で豊臣公儀への反逆に等しいから逃げ切った時点で勝ちは決まってるようなもの
だから伏見に逃げ込んだので敵は手をこまねいていると考えていた
ところが七将は予め家康に浅野長政を派遣して三成排除を訴えていたからこの一件は訴訟となって公儀の預かるところになる。七将は伏見城を包囲して敵つまり奉行派が城に出入り出来ないようにしてる上にそれを公儀は黙認してる(正確には徳川家康が追認する形でコントロールしてる)
毛利からすると下手に手出しすれば七将の怒りを買うからどうしようもできんかったんだろう だから、一度内府方って言えばその後はかなたで通じるんだからそう書くのはおかしくないって話でしょ
文章書くにあたって一度出た名詞をずっとその名詞で呼び続ける方が日本語として不自然では?
って言われてる訳じゃん? >>520
人称代名詞が使われる場合それが以前出た人物を指すなら
ねらいたて仕候者=彼方衆は成り立つけど間違いなくそれは家康じゃないぞ
だって「こいで、かたきりは内府かた」ってなってるやん。つまり内府は彼方衆ではないことになる。ここだけ代名詞を外す道理もないし。
つまり情勢・文意全てを鑑みればねらいたて仕候者は家康では無いことになる。 >>526
逆に、別に書き分けてても何の問題もないよね? >>529
全く意味がわかりませんが。
別に、その部分で「内府かた」と、なぜ具体名を使ってはいけない? どっちかというと石田三成がはっきりと
徳川を敵対視してて寺沢もその与党
毛利も味方として出陣求められてるけど
正直勝てる気しないしどうすんのよコレ?
ってなってる日和見状態よね
前段がありそうなんで石田-毛利で
協調してたのは間違い無いんだろうけど
表立って敵対を示すことに
イケイケの三成、及び腰の毛利
まあ表向き大老奉行揃って誓詞出して手打ち
家康が利家見舞って雪解けムードなのは
多分通説通りの筈で石田の強硬を
毛利が持て余すのも無理はないと思うけど >>527
いやだからそれは無理がありすぎだって
大阪では「雑説」のみで騒ぎすら起きてない
三成が移動した後で伏見が物騒となる >>520
と、いうよりここまで頑張って「史料では、史料では」と言っておいて最後の最後が「文意から見たら〜」ってんじゃ台無しじゃん。
そこまで史料に拘るなら最後まで史料に拘って欲しかったな。お前さんの好きな「「彼方衆」が家康ってそれ史料には書いてないですよね?つまり君の想像でしょ?」でオシマイじゃんよ。
例えば、この時期徳川軍が伏見若しくは大坂に移動した形跡があるとか。46号文書では「彼方衆がいて此方衆は出入りできない」というからそれなりの人数が動いてるだろう。しかも奉行衆の軍隊を止められるだけの権勢ある人間がついてたはず。家康からの命令もあるだろうし。
…でもこの時期徳川軍が動いたって史料は聞いたこと無いんだよなぁ。三河物語とかにも無いし… で?あなたは家康以外の政敵と戦争寸前だった
と主張してる訳だね?
どんな史料から論を組み立ててるのか楽しみだな >>527
概ね同意。
わたしもだいたいそんなかんじじゃないかと思う。
「ねらいたて仕候者」については、わたしは浅野長政
じゃないかと思ってるけど。
まぁ傍証しかないしねぇ。 そのねらいたて仕候者が浅野じゃねって言ってる研究者ってどなたかいらっしゃるの?
勿論いないからって信用ならんって訳じゃない >>534
いや、何言ってんの?
そもそも、46号文書を七将襲撃の根拠にしたの、お前さんだよね?
で、こちらは誤訳と文法上の誤りを指摘しただけなんですけど。
このスレ遡ってよく読んでみ?(笑 46号文書に全く登場しない浅野が突然天から降ってきたかの如く、「ねらいたて仕候者」になるおかしさよ 勝手に軍を興して政敵を撃つってそれもう
完全惣無事違反で認めちゃったらもう
武家政権として成り立たなくなる
やるんならそれで天下取り切るくらいの
気持ちでなきゃやれない大博打でしょ
同じこと信長秀吉存命時にやったら
あるいは徳川政権下でやったら
やらかしたやつどうなるか考えてみるべき
7将の襲撃という後世の編纂物由来の逸話を
史実と信じ込んでるから麻痺してるけど
実際にそれがあったと思い難いのは其処
家康がそれ認めちゃうってことは
その後に治世の障りまくるでしょ >>537
わたしがそうじゃないかと思ってるだけだけど。 >>540
だからこそ家康が天下人になったんだぞ。
そもそも七将が公儀に何を要求したかは正確に残ってない。史料上だと「三成の死刑」なんだがその根拠は不明。
よく知られまた真実だと見做されてるのは看羊録の「福原が私利私欲の為朝鮮外征組を讒訴、三成がそれを支持したので怒りが三成に集まった」というもの。現実、朝鮮出兵の再査定と福原にも咎が及んでるから真実なんだろうが… でもこんなの証拠があるわけじゃ無い(むしろ福原の書状からすると三成はその件に無関係)。にも関わらず七将は押し寄せてしかも外観上は勝訴した。
何しろ七将って加藤清正・福島正則・浅野長政幸長・細川忠興…と太閤を支えた重鎮なんだもの。「惣無事違反だ!」なんて理屈振り回せる状況じゃない。下手して戦争になったら豊臣公儀は空中分解してしまう。よりにもよって朝鮮出兵の後始末をしてるこの時に。
だから七将が三成を襲撃してしかも伏見に兵を連れてこようが城を封鎖しようが穏便に解決するしかない。で、家康は見事解決してみせた。誰一人死人は出さなかった訳で最高のところに落としてみせた。そりゃ家康独裁に向けて動き出すだろうさ… 七将による襲撃にしたいキミの思いはよく伝わるんだが
ないものはないんだよ、残念だけど この三点リーダーの長文くんは自分の都合悪いレスには一貫して反応しないな
前の豊臣政権崩壊の要因となった事柄、事件等を考えるスレでも聞かれてることには答えずいつも長文で煙に巻いてたな >>542
いや豊臣政権だけでなく裁定する家康自体が
「大名の勝手な軍事行動を咎めることもできなかった」
ということは変わらなくなるんよ
「実際は命令を受けていて」なんて言うが
仮に裏があっても裏じゃ意味がない
舐められる材料にしかならないし
その後の家康への権力の集中が説明付かない 実際に「襲撃」があったら完全に私闘だからなぁ
しかも喧嘩両成敗ならまだしもやったもの勝ち
「内府に言われてやってるから」なんて同時代には
言われてもいない(というか「襲撃」自体記録ない)
「うまく治まった」どころか「乱世に逆戻り」
が、日記類はその不穏さは微塵も窺えない
子どもの頃襲撃説刷り込まれたせいで
突き詰めて考えたことなかったけど
やっぱかなり奇妙な説だよね そもそもこの事件、別に家康が独断で裁定したわけじゃないしな
豊臣家からも北政所が出てきてるんだろ? そうなんだよねぇ。
子供の頃、家康にまんまと操られたアホ七将を刷り込まれてた。
よくよく考えれば、多くの点で違和感しかないんだよね。
で、調べてみたら襲撃を示す史料がさっぱり無いという。 >509
石田は大名であり、私兵も十分持っている
襲撃されていないのに秀康という10万石の大名クラスが護衛につく理由がない
石田が感謝して太刀を与えるのも意味も分からない
だが七将に襲撃されたとするなら、護衛兼人質として秀康がついていく意味が分かるし、
石田が感謝して太刀を与えた意味も分かる
通説に矛盾する新史料でもあるわけでもないのに、否定する意味が分からない。 最近多い一次史料にないから事件そのものがなかった説は牽強付会が過ぎる気がする
話題先行というか、ではなぜ通説が流布したのかまで踏み込んでほしい 逆に通説が信用できるとするなら
どの史料からそう言える?
別に一次史料でなくとも二次史料でもよいよ
看羊録気になって調べてみたけど
それも実はかなり通説とは異なるね
清正(大悪人)が三成を「伏見に」攻めようとした
(「攻めた」ではない)
安国寺恵瓊が輝元を動かして家康とも会談し
戦争を回避、三成が何故か家康に詫び、
人質を出して国へ帰った
全体になんでアンタそんな裏事情やら
陰謀の企みやら知ってんの?て内容だが
一部ここで言われたように「襲撃があった記録」
「襲撃から逃れるために三成が伏見に移った記録」
いずれにも実は該当してないね 白峰氏の論文に載ってたから引用一部抜粋。
「(慶長四年)閏三月七日付鶴田善右衛門・久池井弥五左宛鍋島直茂書状」
(「鶴田家文書」、『佐賀県史料集成』
今少、石治少、被仰事共候けに候、是も御無事ニ可成と存候、
其面普請彼是不可有油断事、肝要候、
右之分ニ、未二三人も依不相済躰候、
たゝ今も弓・鑓取あハせ、走あひ候儀、やミ不申候、
この「たゝ今も弓・鑓取あハせ、走あひ候儀、やミ不申候、」ね。
今も弓槍寄せ集めて走りあってる状態は止んでない。
3月7日時点で、今でも弓槍持った連中が走り回ってる、とでも意訳するかな?
訴訟とか申し合いという体をした襲撃未遂事件、とでも言えばいいのかね? 襲撃未遂から訴訟に移行したとみれば矛盾は少ない気がする
ただのつじつま合わせだが 基本的に襲撃した側が、襲撃しましたなんて都合の悪い記録を残すはずがない。
だが公家とか日記ににも明確に七人衆が石田を襲撃したという記録もない。
だが、状況証拠として、石田は大坂から伏見に移動した、
浅野長政は大坂から伏見に移動した、
石田は伏見に引き籠った、
浅野幸長が兵を引き連れ伏見城を封鎖した、
石田が佐和山閉口と裁定されその護衛に秀康が付き、
石田は助かった礼として秀康に刀の石田正宗を贈った。
これらの項目に「なぜ?」と考えれば、石田が襲撃されたから、で筋が通るやん。 まず襲撃が有ったか無かったかで言うと無かった。何故なら三成は大坂から脱出して七将は捕まえ損ねてるから。居ない人間は襲撃出来ない。
とは言え七将も愚かじゃない。仮に成功しても奉行への攻撃が謀反に問われる事は分かってた。それで予め徳川家康にお伺いを立てていた。それで閏三月四日以後滑らかに軍事行動を起こしてる(三成より先に浅野長政は伏見・向島に居たと思われる)。七将の過激な行動に三成は伏見で立て篭もり、また増田長盛は三成の引退で済むならと毛利に進言してる。
もし平和裡な訴訟ならこんなザマは晒さないだろう。更に言うと戦国時代、これも「訴訟」だった。
つまり七将が「訴訟」をしたのは当たり前のことでそれ単体では襲撃の有無までは否定出来んのだ。 なぜのところをなんも考えずに襲撃だからにする考方の意味がわからないし、そんな埋め方しちゃだめっしょ、別に襲撃の有無の話じゃなく
理屈なんていくらでもくっつけようがあるんだから 襲撃以外で納得する理屈ってなにかある?
そして江戸時代の二次史料などにみな七将襲撃とされているのはなぜ?
勝ち組に都合の悪いほうが通説になってるんだが。
事件が起こった直後でみな情報が錯そうしてて把握していないときよりも、あとのほうがわかる事例は少なくない。
一次史料と矛盾するってんならそりゃ俺も一次史料のほうを優先するが、
別に矛盾するわけじゃないからなあ。
訴訟っていっても集団で押しかけられたら襲撃と判断されても仕方なくね?
武闘派ヤクザの比じゃねー連中が供回りつれて押しかけてきたら、俺だって漏らすわ 勝ち組がどうとかって考えもちょっと危ない、弱者に都合の悪いことだから史料から消されたんだ云々って陰謀論にもつながりかねないし判官びいきだって人間いくらでもする
理屈なんてなんか前に誰かが言ってた三成が訴訟を襲撃ってことにしようとしたとかも通っちゃうし
もっと精査が必要で不用意に決めつける必要ないんじゃねってのが自分の考えです 訴訟ないしや御所巻きであるとする。
では訴訟を受けない、相手にしないという態度をとったらどうなるんだ?
義輝みたいに殺すのか?それは襲撃と何が違うんだろうか。
三成がひいて「穏便」に片付いた事をもって訴訟であり、三成側からすれば襲撃というのならわかるが
また当時は大名同士で争った場合の訴訟はあるが、大名が公儀に属する人間に対しての訴訟のシステムはない
政宗が浅野にきれて取次変えてくれとか訴える事はあったし、それは秀吉が認めて変えさせられた。
公儀から外せとか奉行から外されたわけではないし、そもそも裁定する秀吉はおらず。
10人で合議でとなっていた。 >>553
伏見が『弓槍寄せ集めて走りあってる状態』なんだろうけど。
で? それが七将の襲撃が存在した証明にはならんだろ。
>>555
仰る通り。第三者の記録にも、これほど大きな襲撃事件が記録されたものがない。
キミが掲げた状況証拠が仮にすべて真実だったとして、これもやはり七将の襲撃を証明することにはならない。
例えば、なぜ七将なの?六将でない理由は?
というのは、福島正則が三成に対して恨みつらみを持った同時代史料は実は全く存在しないわけ。
正則が襲撃に参加した理由を説明できる史料ある? ホントに合議かどうかもそもそもかなり自分は疑問ではある
他遺言だと家康政務にされてるし、こないだの2奉行連署状も合議で決まったかんだよって言ってた人いたけど、それの証明になる史料出ないままだったし >>558
>訴訟っていっても集団で押しかけられたら襲撃と判断されても仕方なくね?
>武闘派ヤクザの比じゃねー連中が供回りつれて押しかけてきたら、俺だって漏らすわ
言わんとすることはわかるしわたしもそう思う。
今のウクライナ情勢と同じで、ロシアは演習です、といって国境線に10万以上の陸軍を展開している。
実際に演習なのかもしれんし侵攻するつもりなのかわからんが、
ウクライナからしたら、ロシアが侵攻してくる!と脅威に感じるわな。
クリミアの例もあるし。
七将がいくら訴訟です、と言ったって石田からすれば俺を殺しに来た、と感じてもおかしくはない。
実際に殺すつもりはなかったとしても。 >>558
襲撃と記載された史料がないからだよ。
天下のおひざ元で、奉行相手に襲撃なんていったら、そりゃ大事件よ。
第三者史料で残ってなきゃおかしいでしょ?
しかし全くない。これに尽きる。 別に信憑性が高いと判断されてるなら二次史料からでもいいと思うんだけど
二次史料の信憑性の高いとされてる史料で七将の話に言及してるのって何かあるの? >>561
じゃなぜ弓槍持った連中が走り回ってるのか説明してもらえる?
わたしは「訴訟とか申し合いという体をした襲撃未遂事件とでも言えばいいのかね?」と書いてるんだけど。
>後段
なぜ七将なのとかそんなの知らない。通説というか、徳川家康書状でも宛名に
藤堂高虎とか入ってるし、
なぜ六将でないかとかそんなもん知らん、
わたしは「これらの項目に「なぜ?」と考えれば、石田が襲撃されたから、で筋が通るやん。」と書いてる。 >>566
うーん、やっぱりわかってもらえないか。
キミの手法、つまり状況証拠とやらから七将襲撃の存在は証明できないことが言いたいわけ。
『弓槍持った連中が走り回ってる』だけの話で、これ以上でもこれ以下でもない。
もし襲撃に該当するなら、文書中に七将の誰か一人でもいいから名前が出てもよくないか?
福島の話も同じ。キミが説明できない事は、当然わかってる。
その状況証拠からは、なぜ七将かも説明できない。
結局、通説ありきの説明しかできないということ。 というよりここまで頑張って「襲撃は史料に無い!」と言っておいて肝心の三成のクーデターは「文意から判る!」ってのはちょっとなぁ…それじゃ史料に残ってる七将襲撃計画を否定するには弱過ぎる。
手伝う為に考えると確かに三成が家康暗殺を図ったって話は残ってるよね?徳川実紀だっけ。この時期三成は家康暗殺を図って暗躍してたらしい。とはいえ流石に一次史料に残るようなものでもないし46号文書がその件だとすると寺沢から家康に内容筒抜けって事を踏まえると。
家康が聖人君子になってまう。 通説俗説なんて「信じたい人」が多いかどうかの人気投票だよ
大衆受けするかどうかが問題で真実事実は二の次
織田信長は非情と狂気と革新性の男
上杉謙信は常勝無敗の義将
武田信玄は家臣民衆のため暴君の父親を主導して追放した仁君
今も多くの人が信じてる「通説」
これらが覆されたのは最近のこと
400年近くも信じられてきた >>555
・実際に起きた戦乱が何故全く記録に残らないのか?
・実際に起きた政権を否定する行為がなぜ処罰されないのか?
矛盾だらけだよ >>569
残念ながら覆されてない
ほとんどの日本人は
古い俗説しか知らない >>558
史料通りでいいじゃん
3月下旬大阪で「雑説」(言経卿記)伏見「物騒」(多聞院日記)
閏3月4日三成伏見入り
46号文書
輝元「狙っている家康は手をこまねいているから
今攻めろ」と三成に言われてる
閏3月7日 大阪、伏見で騒動「福島ら大名衆が三成に腹を
斬らせようとした」という「風聞」
閏3月8日 北政所の仲裁で「無事」になる(言経卿記)
閏3月9日 三成と前田増田が一所に籠るが仲裁(多聞院日記)
三成と7将の「申合」をし家康が裁定(舜旧記)
閏3月10日 三成が佐和山へ隠居(言経卿記)
>>563
「襲撃側が襲撃といってる史料がない」のではなく
「第三者も含めて誰一人襲撃と言ってない」のよ
逆に三成がクーデター画策してたのは46号文書で言われてる >>566
そりゃ誰かさんが戦争準備してるからでしょ
隣で戦争準備してんのに悠長に構えてる奴はいない
大名がこぞって武装する羽目になってる >>568
陣営移ったものが出るとそいつに都合の悪い情報まで
全部筒抜けになるってあなたの独自ルールおかしいよ
政治はそんなふうには動かない
てか人間そんなふうには動かないだろ?
あなたの会社はあなたのこと全て何もかも
把握したりしてない >>568
違うなぁ。正しくは、
「襲撃は史料に無い!」と言っておいて肝心の三成のクーデターは「史料にある!」
でもって、肝心なのは三成のクーデターではなく、七将の襲撃など存在しないこと。 >>574
寺沢広高は元々奉行派で三成ともかなり親しい仲だった。
ところがその寺沢は三成謹慎後に徳川に近付いて関ヶ原では最初から東軍というかなり珍しい立場の人物である。
仮に46号文書がクーデター計画ならそれは確実に徳川に伝わってる。元々敵対者だったのが裏切って転向するってなれば情報は何よりの手土産になる。しかも仮にクーデター計画が露見した時を考えれば黙っているのは得策じゃないだろう。
そもそも46号文書の「彼方衆」が徳川軍とは考え難いが(後段でわざわざ「内府かた」の記載があるから)万が一徳川へのクーデターだとするとその計画は全て家康の知るところであった。
と、言う事は家康は輝元・三成の叛意を知りつつ泳がせていた訳でその結果が関ヶ原って結論になってしまう。 >>576
三成との親しさなんて関係ない
寺沢自身が自分も加わってるクーデターについて
わざわざゲロするかって問題なんだって
あなたは陣営移動したら自動的に全ての情報が
共有されると思い込んでるようだけど
必ずしもそうとは限らない >>576
キミも、レスの中で徳川って言ってみたり、家康って言ってみたりしてるよ
別に文章に違和感ないけど? ついでに言うと内府と三成が戦争状態で
それが続く中で寺沢の陣営替えがあったという
その認識で物を見過ぎ
世の中歴史小説のように綺麗に陣営分かれてない >>577
奉行派と徳川派が争っていたとして、転向するんだから広高が知り得た情報は全て徳川に売られてると見るのが自然だぞ。実は広高が関与していればいるほどその可能性が高い。
仮に黙っていた場合、事が露見したら「何故広高は黙っていたんだ」と勘繰られてしまう。元々敵対してたんだから。
情報を提供すれば「徳川の味方」の証明にもなるしその情報が徳川の勝利に結び付けば一気に徳川忠義の侍まで駆け上がる。しかも広高は奉行。兵站維持や人事統制なんかで能力を発揮した人物。三成のクーデター計画の詳細つまり兵隊や物資計画、人間関係など徳川が垂涎の情報を山と持ってた事になる。 まぁ普通なら全部筒抜けになったと判断するわな。
石川数正が豊臣に寝返って徳川が軍制変更したんだっけ? >>580
「として」の過程の話に転向だのって
独自の用語を使って力説されても
あなたはそう思うのねとしか言いようないわ
クーデター自体は三成失脚で頓挫してるし
そもそも表沙汰にならなかった時点で
元々敵対していたというのもおかしい
あなたはまるで奉行派内府派なる
固い結束の派閥が強固にあって
常に争い合ってるとと言う前提で考え過ぎ
悪いがそれは関ヶ原の先入観で見過ぎ
なんかまるで安手のスパイ映画や
社内人事のサスペンスみたいに思ってるが
寺沢自身が歴とした大名なんだぞ
大名同士で全ての情報が共有されてるなんて
そんなわけないだろ >>581
そりゃ徳川家の重臣が引き抜かれたから
軍制を変えるって話だぞ
まさか奉行派を徳川家、寺沢をその重臣と
同じように考えているわけ? 寺沢は自分の仕事をするために動いてるだけじゃね
九州取次なんだから
豊臣のために石田と仕事したり家康と仕事してるだけ >>584
二人とも大名だし奉行派=豊臣家ではなく
徳川家康含む全国の大名全て豊臣家臣
まさか豊臣家vs徳川家で観てるの?
やっぱ認識おかしすぎだよ 島津のお家騒動もあるしな
対応を取り仕切ったのは家康のはず >>582
そもそも論としてクーデターを企図する事自体がかなりの危険行為だからなぁ。つまり「頓挫した」云々は何の意味も持たない。広高にも三成にも家康にもね。
46号文書によると寺沢広高は小西行長と三成の使者として若しくは三成と共に輝元の処に参上して増援を要求してる。
つまりこの一件の詳細を知っていた。もしクーデター計画だと広高はその作戦から三成派の人脈まで掴んでいた可能性が高い。
三成は広高の事をかなり高く評価していて奉行派だったのは間違いない(「いつから徳川派になったのか?」は諸説あるが最初は三成派だった事に疑問の余地は無い)。そいつが徳川派に鞍替えした訳で46号文書の会談の中身は全て徳川に抜かれてるのが当たり前で寧ろ知られてない方が異常になるかと。 >>585
石田三成のクーデター計画を輝元に伝えてる時点で豊臣公儀の職域を超越しとる。
例えば「石田三成が大坂で武断派に襲撃された。これは明らかな暴力行為なので討伐する。ついては毛利から兵を出して欲しい」とかならギリ職権範囲内かもしらんけど流石にクーデター計画となると「自分の仕事」の筈がないわな。 >>569
信長が非情と狂気で革新的なんて言われだしたのは400年どころか最近の話なんだが
信長人気だってわりと最近の話 >>588
その主張はさ、キミも指摘してるけど、寺沢がいつ鞍替えしたのか特定しなければ意味ないでしょ。
例えば三成挙兵後に鞍替えしたのなら、その情報が全部抜かれてたとしても、もはや無価値の段階。 >>589
そもそも46号文書が出された日付は特定できてるのか?
このスレでは光成準治氏が主張してる慶長4年閏3月の石田三成が伏見に籠もった時期として話を進めてるようだが白峰氏は慶長5年としてる
慶長4年3月に伊集院忠棟が伏見島津屋敷で殺されて寺沢はそっちの対応してるんじゃないのか?
>>590
信長は江戸時代は暴君扱いで人気無かったみたいね
幕末明治になって勤王ぶりを評価されたとか
革新的な信長は司馬遼太郎の影響が大きいか >>564
じゃあ、事件の結末は如何説明するの?
あの事件の結末って、石田が奉行から退き佐和山に帰国と、家康がどさくさ紛れに
伏見城入城
しかも、直前までの徳川前田の対立で国元からもってきてた増援其の儘入れるって
専横振り
結果から見れば政変だし、徳川独裁が成立してる訳なんですが? どさくさ(奉行の勧め&そもそも遺言でいるべきとされた位置) というか家康の伏見入城が専横だ云々に関しては散々例え話荒らしが強弁してきたけど、結局当人がろくすっぽ批判に対して反論できてないわ史料すらろくに持ってこないわで否定されてたな
ちょっと遡って読んで、それでも言えると思うならちゃんと史料と研究持ってきた上で言ってみ 家康の伏見入城は別に問題ではない(むしろ遺言実行)。
問題なのは、伏見在番の奉行を追い出したこと。
ねらいたて、の書状の年代比定の問題は各自認識すべきだと思う、
たしかに重要な部分だから。
だけど、 内々 たんき
白峰氏は「暖気」としてるが、
内々 たんき
これどう訳す?
たしかに非常に暑いなら閏三月は考えにくい。 >>594
私の、「七将襲撃が記載された史料はありません」(>>564)に対して、
キミの「じゃあ〜」以下は、家康の専横をどう説明するのか、という主旨でいいんだよね?
つまりキミの主張は、家康の専横が可能になったのは七将襲撃のおかげ、という事?
通説としても疑問符の家康黒幕説を主張してるの? >>597
伏見在番の奉行が追い出されたってなんの史料出典? >>593
白峰説はあり得ない。
まず白峰氏が主張する慶長五年六月だけどこの時期既に会津征伐は決定している。まず「結句手おきたる」状況では無い。
更に増田長盛が三成が身を退かないと云々の部分が意味不明になる(白峰氏は「三成が身を退かないと反徳川派の動きが増す」と訳してるけどなら毛利が徳川と戦うなら三成を切ってるはず)
更に更に長盛は「徳川と上杉が縁戚になる」と伝えてるけど慶長五年六月のタイミングではまずあり得ない大嘘で長盛がこんな嘘をつく筈もない。
で、もう一つ付け加えると寺沢広高は関ヶ原では東軍だった。その広高が三成の使者で居ると言う事は間違いなくこいつはスパイ。つまり西軍決起は家康の知るところであり三成も輝元も家康の掌中だったことになる。 >>601
ああごめん聞き方悪かった
内府ちがひの条々でそう言われてるけど裏付けって取れてる? >>603
わたしはその確認作業はしていない。
多少話の誇張はあるかもしれないが、
まったくの嘘言う陣営に味方しないでしょ、
そんな信用できないような陣営には。 >>604
その考え方は賛同できないかな
嘘で味方出兵させる例は浅井朝倉なんかでもよくあるし
何よりあれ賛同して味方したではなく、味方しなきゃ大軍に襲われるからってのも多いし 内府ちがひって…上杉討伐軍にはほとんど効果なかったのでは…
一旦西軍に所属した人たちも離脱が大量発生したし… 内府ちがひの条々にある
伏見城の留守居役を追い出した…
ってのがいつの事かはわからないけどまず閏三月五日より前では無い。この時家康は向島にいたし徳川軍が動いたって話も無い。
この後家康は本件を解決した事から輝元や長盛らに要請されて伏見城に入る(卜斎記によると「度重なる要請」とのこと)
これが閏三月十三日なのでおそらくこの時なんだろうけどこれ自体は輝元らの要請によるものだしなぁ… どこまでいってもあれは彼らの主観的な気持ち表明で
その内容が正しいのか、またその事実が起きてたとして彼らの言うような不当な行為と見なすべきなのかはちゃんと裏付け取らなきゃいけないと考える いやよく考えたら、伏見在番の奉行が追い出されて
西軍方がいなくなったから鳥居の守る伏見城攻めることになったんでしょ。
長束なり増田のいる曲輪が残っていれば
のんびり鉄砲の撃ち合いなんかやらずに
短期落城の目もあった。 以降のタイムスケジュールだいぶ繰り上げれるから
奉行の伏見在番をなんとか凌ぎきっていれば
西軍が勝てた可能性はけっこう高くなる。 追い出されてなのか大坂に家康が動座したとに合わせてなのかわからないよ >>588
頓挫したことが意味を持たない?
じゃあなおさら寺沢は自分が関わったことを
わざわざ蒸し返すのに慎重になるべきじゃん >>591
違うね
それはあくまで風聞
実際に襲撃があったとするなら
風聞ではないという根拠よろしく >>593
確実なことは出てくるメンツの顔ぶれから
利家の死後、三成の失脚前
それも「襲撃後」でないとまずいと
異様に頑張ってるやつがいるようだけど
普通に考えたらそれからじゃ
毛利挙兵は遅すぎる
時間的猶予考えたら三成が切腹を迫られたという
「風聞」から隠居決定までわずかに中一日
「ねらいたて仕候」てる三成が出兵促してから
三成を弾劾する動きが表面化したとする方が
ずっと自然な流れだと思うぞ >>612
謀反、クーデターは重過ぎる。未遂だろうが計画だろうが罪に問われる。だからこそ寺沢にとっては伝えるメリットがある。将来この計画が露見しないとは限らない。その時ではもう遅いからね。「何故黙っていた?」と言われたら物理的に首が飛ぶ。
逆にこれを密告すれば?「三成・輝元が謀反を企んでる」という情報は徳川にとって値千金。それを伝えた広高は徳川の大忠義者になる。しかもストーリーは広高が作れるときてる。更に広高は奉行。その情報は徳川の戦略を大きく前進させたろうさ。 >>614
七将宛家康書状より閏三月五日までに伏見に浅野幸長が兵を引き連れて到着してる事がわかっている。つまり「訴訟」が始まったのはこの時。三成の伏見移動が閏三月四日なので三成を追尾してる事がわかる。兵を連れている以上(しかもそれを家康に報告して許可を貰ってる)単なる用事じゃないのは明らか。
つまり襲撃にせよ訴訟にせよ三成は攻撃されると同時に伏見に逃げ込んだ事になる。また、本来大坂に居ないとならない浅野長政がこの時伏見、しかもおそらく向島にいる点も見逃せない。 >>597
同時代史料の暖気の用例
・(天正5年)1月22日付徳川家康宛織田信長黒印状
「即今深雪之時分候、属暖氣、必可待入候」
・(年未詳)11月7日付永興寺宛吉川如兼(広家)書状
「頃者暖氣ニ而、本望に存候」
46号文書
「内々たんきも此時候此時候」
前に内々とあるし暖気ではなく談儀(義)じゃないかな
上記の暖気の用例見ても、前後には暖気に繋がるような文言が使われてるし、
内々に談議が肝要なのは今この時ですと訳す方が自然な気がする 46号文書が閏三月だとすると文書の内容から石田三成は毛利も他の奉行衆も持て余すような相当ヤバい奴だってことになる
必死なのかもしれないが付き合わされる方は迷惑なのが三成本人はわかってないんだろうな
寺沢あたりは愛想が尽きたか >>617
情勢を伝えつつ意見を求めている書状だし、この訳しかないと思います
書状の最後に「緊迫してきたからよくよく相談して動こうね」って付け加えただけ 慶長5年とすると三成がこの時期に動いていたことになって、諸説ある西軍首謀者が三成で決定してしまう気もするんだよな 逆に言えば三成が首謀者だという結論があってこの書状の解釈なのかも
白峰氏の全部の論文を目を通したわけでは無いが 白峰氏は三成も輝元も家康に踊らされてたってスタンスだからなぁ。クーデターの相談だったら家康にバレバレだったって話になるだけだし。 現代でも、二重スパイ説濃厚の人って居るからね
同一人物が双方に情報流してたって解釈した方が現実的な人 でも寺沢広高には徳川には商品(三成の情報)あるけど
三成に売れる商品無いんだよなぁ
もし46号文書がクーデター計画だったとすると寺沢は行く道決めたことになるし
とはいえわざわざ「こいで、かたきりは内府かた」って書いてるから御城を制圧してるのも三成を狙ったのも内府じゃ無いっぽいんだよな 白峰は叩き台くらいには良いけど鵜呑みにはまるでできるもんじゃないわね、なんだよ茶道具ってとかツッコミ待ちみたいなの多いし
共著したことある高橋氏のがその辺バランス感覚いいかも 三成割と他奉行より過激派っぽい様子は随所にあるしね
誓詞の内容を後から修正させたりとか三成の書いた書状が他奉行連署より内容過激になってたりとか >>617
たしかに「談儀」のほうが「暖気」よりしっくりきますね、
わたしもその訳のほうが合ってると思います。
そうなると大谷の言ってる提言は、
下屋敷なんかに居てはいかん、向島に行って家康と直談判しろ(有利な解決策を探れ)あたりかな。
慶長5年なら西軍方総大将として大坂に入れ、って意味かとも思ったけど。 46号文書だとやたらと「今が大切」「選択を間違ったらダメ」って書いてあるから毛利としてもかなり危険な状況だったんだろう。
武断派との争いに巻き込まれると思ったのかもしれない。看羊録だと輝元は家康に面会して事態打開を依頼してるからこのことだったのかも。 でも「下屋敷にいるのは危ない」って具体的に何が危ないんだろう。家康クーデター計画に参加してると思われるなら辻褄合わせなんかじゃ足りんだろうし。
七将が伏見城を包囲してるにしてもまさかに毛利軍と戦争するとも思えんし。毛利は朝鮮出兵で秀吉に怒られないように立ち回ったらしいしそこら辺をつっかれるというのか? >>629
七将の襲撃はクーデターと捉えてたんじゃないかな?
それで下屋敷の守りでは危ないと。
それで毛利は普請を急がせ、
石田らは、輝元は尼崎に陣取りクーデターを鎮圧してくれと。 ループというか、本題に戻ったというか。
七将襲撃の同時代史料はない。第三者史料もない。
これに尽きる。
46号文書を襲撃の根拠として出した人がいたんだが、指摘にはことごとく回答しないで逃げた。
このスレの現状。 ループというか、本題に戻ったというか。
七将襲撃の同時代史料はない。第三者史料もない。
これに尽きる。
46号文書を襲撃の根拠として出した人がいたんだが、指摘にはことごとく回答しないで逃げた。
このスレの現状。 >>631
おそらくそうしたところなんだろう。
大谷吉継から下屋敷に居ると七将が攻撃してくると伝えられてたんだろうなぁ。 この時代は朝鮮遠征のあたりから武装兵が市中にいるのは当たり前だったのかな 当人たちが危ないと思ってたのと実際に危ないかはまた別だしなぁ
そういえば三成は伏見の自分の屋敷に勝手に武具持ち込んで問題視されてる書状が確かあったなぁ
あれはーなんかの計画があって持ち込んだんだろか >>631
今までの指摘をすっとぼけて自演しているのだとは思うけど。
46号文書は、その冒頭で、「三成が」「輝元に対して」「家康への挙兵」を促している事が記載されている。
それを受け、輝元が毛利元康に、毛利家の舵取りを相談した文書。 >>637
あんたの見解はそうかしれんけど、
わたしは、「石田・小西・寺沢らが言うには、」だと思うし、
輝元に対してはほぼ同意だが、
ねらいたては浅野長政で、
襲撃してきた、あるいはクーデターを起こした浅野派を鎮圧してくれと言ってきているが、
石田が様子を窺っていた浅野派は、クーデターを起こし襲撃してきたが、
伏見城を封鎖する程度で大した成果もなく手をこまねいている。
今ならば勝てるので尼崎に陣取り浅野派を鎮圧してほしい、
と、彼らは言っているが、実際にはそんな単純で間抜けなクーデターではなく…、
といったかんじがわたしの解釈。
この書状が慶長四年ならばね。 輝元も三成の言い分を完全に信用していないのはわかる
三成は話を大袈裟に盛るから輝元が大いに困っているという書状でいいと思う おそらく輝元は内心この件裏に内府の影とは思ってたフシはある。
「御城」は「彼方衆」の持物で「此方衆」は入れないのに「御城」の番人は「内府かた」とわざわざ伝えてる訳だし(もし彼方衆が内府かたなら書く必要は無いし、そもそも徳川軍が伏見若しくは大坂に入るのはもっと後)
まぁ下衆の勘繰りで本当は「御城は内府に応じる人もいるから安心だ」程度の意味なのかもしれないけど。 >>641
わたしもその点についてはそう思う。
わたしが引っ掛かってるのは、慶長四年ならば、
この緊張状態のなか、なんで景勝の話題出してくんのかなと。
今景勝は関係ないんじゃね?と。 ん、待てよ、毛利からしたら上杉が徳川派につかれたら
困るからってことかな。 元々政務預かりで官位も血縁もぶっちぎりな大諸侯が家康で、日記などからも京阪での家康人気やけに高いしな所で一悶着起きたら
事実かどうかはともかく自分たちに好意的じゃない人間は全部家康側かもって判断もするかな 慶長四年三月に利家が家康に利長の後見を依頼して家康は大坂にいた宇喜多秀家と起請文を交わしてる。これで徳川-前田-宇喜多は派閥を形成した。
それで上杉景勝が家康と縁戚を結ぶと大老四人が徳川派で固まってしまう。多分増田長盛が必死に伝えたのも「家康が多数派なんだから彼を頼らないと解決は無理」って感じだったんじゃなかろうか。
どうも増田長盛も訴訟の対象にされてたらしくこの一件をなんとか石田三成を生贄にして済ませたかったらしい(46号文書でも「三成が身を退かないとどうにもならん」って言ってるし) 宇喜多は派閥と言えるのか
むしろ前田徳川でいらん事をする宇喜多への牽制とも見受けられるが
ただ確か徳川と上杉との婚姻は模索されたのが確かあったか >>639
その話は既にしてるけど、最後まで文書を読み下せば、仮想敵が家康であることは明らか。
文書に一切出てこない浅野を『ねらいたて仕候者』とする訳は無理。
読解力の問題。
他に、毛利や三成の文書で、浅野を仮想敵としたものあるの? 御掟で大名小名問わず一切誓紙起請文の類は取り交わせない。十人衆はこれを回避する為に「十人衆間ならオーケー」とはしてるけど危険な行為には違いない。それを秀家はやった訳で家康派についたとみなされたんだろう(単に坊ちゃん坊ちゃんしてただけかもだが)
浅野長政が家康を頼ったとすると十人衆は五人が徳川派になる。数の上では平等でも石高という面で見ると圧倒的な差になってるし紛糾して実力行使されたら徳川派が動かないと収拾がつかんことにもなるし。 >>641
この話も既にしているが、文書中の呼称については、書き分けてて何が問題なの?
キミ自身も、レスの中で家康と言ったり徳川と言ったりしてるだろ?(>>576)と言っている。 御城つめニハ、こいて・かたきりなと居候、是ハ内府かたにて候、如此候時ハ、何もかもいらさる趣候
古文苦手なんだが「如此候時ハ、何もかもいらさる趣候」ってどういう事だろう?
何もかも苛さる(不愉快な)状況だ?
何もかも要らざる(問題ない)状況だ?
どういう意味なんだろうか。 いらざるは漢字だと「不入」で文字通り不必要なとか無益なって意味だろう
同時代史料で苛ざるという用例は見たことないな
「如此候時ハ、何もかもいらさる趣候」
直訳すると「このような時は何もかも不必要な状況に見える」
これだと意味が取りにくいから意訳すると「このような状況だとこちらでできることは何もないように思える」
又は「このような状況だとこちらで何か手を打とうとしても無意味に思える」って感じじゃないかな 片桐・小出は徳川派なんでどうにもならん。どうしょうもない。 成る程ありがとう!
小出も片桐も大坂城の門番だったらしいけど彼らが内府方であることで毛利は何が「どうしようもない」だったんだろうか。門番と言えど毛利を押しとどめるパワーがあるのか… >>613
直接見聞きしたのは当事者だけだから全て風聞になるのでは? >>657
当時の大都会の大阪伏見で何十という大名が関わり民衆公家寺社商人が多数巻き込まれるのは必然
目撃者も含めれば万は軽く超えるはずなのに噂以外の記録が無い 七将襲撃の有無を、毛利の46号文書でしか議論出来てない時点で言わずもがな
史料が本当にないことを証明している 訴訟とやらは兵を動員してやるものなのか?
少なくとも浅野幸長は兵を動員し伏見城を封鎖している。
言葉遊びみたいで嫌だが、襲撃事件はなかった。
しかし襲撃未遂事件はあった。
端から見れば兵が走り回っているから
なにかしらの騒動があったのだろうとは思うだろうが
未遂におわってりゃ当事者しか判らない。 >>656
その可能性もあるんだけど、だとするとそれは輝元もクーデターに意欲的だったことになる。そんな危険な書類を毛利家が残すとも思えないし。
片桐且元が秀頼にお目通り出来る立場だった事を考えると「輝元が三成を弁護する為に秀頼に会おうとしても小出・片桐が取り次がない」ってことなのかもしれない。 >>661
何の予備知識や事前知識もなく、浅野の件や伏見で兵が走り回ってる箇所だけを読んで、七将襲撃があったことなどは絶対にわからない。
七将のことなど書いてないわけだから。
つまり、あらかじめ事前知識がなきゃ、そういう論は組み立てられない。
で、その事前知識はどこから得たの?そんな史料はないですね、という話。 毛利は関ケ原後の大阪城退去の時にも色々と危険な書状を残して大減封をくらってる 輝元は関ヶ原で改易が決定された訳でそれこそ危険書類は全部粉砕したはず。この時代法律なんて無きに等しい訳で。
残ってるということはこの書状はそんなに危険じゃなかった事になる。 いや、関ヶ原時点では吉川からの報告であくまで毛利は西軍に巻き込まれた形だから領地半減ってのが近衛の書状から分かってる
その後巻き込まれどころか主犯格なのが判明して更に半減 毛利本家改易なのを吉川がウチの加増分でなんとか本家取り潰し勘弁してくださいってのは岩国藩が独立しようとしたりで大揉めした時の藩祖顕彰系のお話 処分しきれなかったぐらい危険書状があったんだろう
大阪の陣でも密かに武将送ってるし
毛利と豊臣の関係値は我々の想像をはるかに越えている 46号文書を都合よく意訳したいために、支離滅裂になってるね。
もはや論理性皆無。 >>665
それって10月2日付吉川広家宛黒田長政起請文にある内容だけど、
この書状って吉川家文書に伝来してなくて吉川家譜にしか出てこない
光成氏は偽文書の可能性を指摘してる >>669
だとしても46号文書は処分されてるはず。クーデターしてましたなんて事になったら首が無くなるもの。
しかも命拾いした後なら尚のことね。 うーん、書類が家中からそう表に出るもんでもなし都合の悪い書類なら絶対焼いてるはずだって考えは俺は賛同できないかな 勿論内容がクーデター計画じゃねぇでしょって考え方は否定する気はない
ただ、そう主張するならあくまでも書状内容からのアプローチであるべきで
都合悪いはずなのに焼いてないからこれは都合悪くない、は史学の筋道として悪手 電磁波犯罪被害者の症状
体が異常に熱い
ノドが異常に乾く
異常に疲れる
眠い→場所を移動するか頭の位置や方向をずらすと眠気が一気に引く(目に照射感がないか確認)
スマホを所持していないときは被害が軽減する 何しろ三成の使者は寺沢広高だからな
んで広高はバリバリの東軍だった、てことは46号文書の会談は家康に掴まれてる
減封食らった後この件について糺されたら死確定。書状を見つけられる可能性は低いけど書状が無ければ見つかる可能性はゼロになる 「読んだら火中に投じてね」って書いてある文書がいまでも残ってるくらいだし、権利関係以外の文書の取り扱いはいい加減でしょ
実際、関ヶ原の毛利首謀説なんかは毛利関係文書から提起されていると認識しているけどな
後生に前例として引用される前提の公家の日記なんかは一次史料ではあるが改竄されていたりするが >>676
寺沢が徳川に鞍替えした時期を特定できなければ、その主張は無理。 この46号文書といわれる年次不詳の毛利の書状だけど、
これが慶長五年のものだと思ってるひといる?
いるなら根拠を聞きたい。
個人的には慶長四年のような気がするんだけど、
慶長五年ではないと完全には否定できないような気もしてるから。 真田が武田滅亡前に北条に出した書状の返書みたいに返書は残っていたりするし、不都合だから残っていないというのは危険という考えには同意 ぶっちゃけ関ヶ原前後の家康の諸大名への裁定は会津征伐以外は甘々だから寺沢からの情報がいつであっても変わらん気がする 増田の
増右被申事ニ、とかく治少より身を引候ハてハ、すミ候ましく候、と被申たる由候、
ここからして慶長四年だよなぁとは思ってる。
慶長五年佐和山閉口中の石田がこれ以上身を引く?石田がさらになんかしたのか?
寺沢が出てくるのも五年では不自然だし。 >>615
「自分も企んでたクーデター」でなきゃな
>>616
訴訟のためにつれてきましたって内容じゃないよ >>624
既に何度も指摘されたように
三成を狙ったものなんて登場してない
三成が狙ったもの >>657
その通りでつまりあえて「風聞」と書かれるのは
書いた時点で事実ととられてるか微妙 >>678
寺沢広高は関ヶ原では最初から東軍についてる
だから間違いなく慶長五年には徳川派
俗に「秀吉の死後家康に接近」とされてるけどだとすると慶長四年には既に徳川派ということになる
どのみち46号文書の会談は徳川に筒抜けなのは明らか(途中まで西軍だったけど裏切って…ってパターンなら話してない可能性はあるんだが。尤もそれでも毛利輝元にとっては恐怖だろう) 寺沢がそのクーデターかもの話に関わったあと三成隠居で輝元は家康に父とも兄とも思いますって誓紙を書く形で決着ついた話な訳でしょ
んで争点はその後着信拒否寺沢が家康へ接近した際に上記の旨話したかどうかと >>686
『秀吉の死後、家康に接近』は当たり前なわけで、範囲広すぎて全然特定出来てない。
仮に、三成挙兵後に家康に鞍替したのなら、46号文書の会談内容が筒抜けであっても、もう意味のない段階でしょ?
って話も既にしていて、これで2回目。 実際には◯◯派とちう強固な派閥があって
会合なんかで細かい情報共有があった訳じゃなく
個々の大名同士の付き合いで得た情報元に
事件が起きた時身の処し方決めて
後にそれを観て派閥と言われてる
寺沢「今日から内府派です。奉行派の全情報共有します
自分が内府狙ったことも包み隠さず話します」
なんてことをしてたわけではないかと >>688
クーデターは企図する事自体が犯罪だぞ。これは古今を問わず。「関ヶ原は家康の陰謀」説が信憑性に欠けるのはこの時点で家康に三成や輝元のクーデター計画が入ってきてた可能性が史料上低いから。
ところが46号文書が家康へのクーデター計画だとすると風向きは変わる。寺沢広高は輝元と面会してる訳で三成の計画から輝元の態度といったところは勿論、下手すると兵力や戦略図まで掴んでいた可能性が高い人物。これは最重要情報でそしてそれがそのまま家康に伝わったとすると家康は最低でも「輝元と三成は徳川に叛意がある」事を掴んでいたことになる。更に「何故クーデターを実行しなかったのか」「実行したらどういう戦略をとったか」まで知っていた。 横からだけど、西軍挙兵後に話されたなら家康も気付けないでしょってのの反論にそれはズレてる気がする >>690
アプローチが逆だな。
その後に毛利や三成・小西・寺沢がクーデター画策で裁かれていないという事は、寺沢が家康にこのやりとりを話していない、というだけの事。
寺沢はスパイでもないし、状況の変化に合わせ東軍に与しただけの話。 「出陣したら毛利と三成が挙兵する」と知ってたり
その証拠や密告を受けて情報の確度が高いのであれば
普通ならその時点で挙兵なんかさせずに対応だわな そうなると46号文書での会談は家康へのクーデター計画では無かった事になるって話。何しろ広高は最初から東軍なのだからとっくに三成の動向は家康に伝えてたろう。
実はちょっとした事だけど、この場合毛利がかなり可哀想な事になる。吉川広家が必死の交渉で「輝元が担がれただけなら許してやる」という条件を引き出した訳だけど実はこの時既に家康は「輝元が主体となってる」事実を掴んでいた事になる。つまり広家は反故になる約束を掴まされた訳でご愁傷様ってことに。仮に証拠が確保出来なかったら広高の出番になってたんだろう。 >>695
自分に都合の良いレスだけ切り取りとらないように。
寺沢がいつ家康に鞍替えしたのか証明できなければ、キミの主張は成立しない。(3回目)
・寺沢が最初から家康のスパイのごとき存在なら、三成挙兵前に関係者は罰せられ、関ヶ原は起きない。
・三成挙兵後に、寺沢が家康に鞍替したのなら、その情報はすでに価値がない。
で、キミのズルいところは、46号文書の現代語訳から完全に逃げてること。
この文書は、明らかに「三成が」「輝元に」「家康への」挙兵を促している事が記載されている。
「ねらいたて仕候者」が七将ではないことは、もうキミには反論の余地がないはず。 寺沢広高は長崎奉行で庄内の乱でも家康から取次を命じられてる訳だけど、この時点で徳川派に転んだんだろう。徳川に従順なフリして土壇場で裏切った毛利輝元や増田長盛とかに比べれば態度は一貫してはいるが。
そういや広高は肥前に領土があるのに家康に同行して関ヶ原で戦ってるんだな。 >>696
明らかに三成が家康に挙兵を促してる…?
三成の敵は「彼方衆」であって家康とは明言されてないよ?
家康だっていうのは君の想像だろう?
しかも46号文書では家康は「内府かた」と記されてるので彼方衆は内府かたでは無い。つまり三成の敵は家康とは言えん。わざわざ二つに分けてるってことはそういうことよ。 >>696
わたしは>695じゃないけど、「明らかに」ではなく、あんたの見解でしょ?
わたしは「ねらいたて仕候者」は浅野長政だと思ってるけど、
この書状の年次比定どう考えてるの?
次に石田・小西・寺沢らが様子を窺っていた者が家康なら、
「一かう珍事なく、結句手おきたる、」
家康がどう成果を挙げることなく手をこまねいているとするの?
慶長四年に家康なにかしたの?なんのことを指してるの? >>698
キミの口から「想像だろう」って最高のギャグだな(笑
三成の仮想敵は、「ねらいたて仕候者」なのは今まで散々出てた話。
冒頭を簡単に。
・「『ねらいたて仕候者』が手をこまねいている今がチャンスであり、こちらから仕掛けるべき。輝元は尼崎に陣を敷くように。」と三成は言っています。
46号文書の内容は、そもそも家康の動向を踏まえ、毛利家の舵取りを相談したく輝元から元康に出された文書。
後段まで読み切れば、仮想敵が家康であることはバカでもわかる。読解力の問題。 >>698
キミの口から「想像だろう」って最高のギャグだな(笑
三成の仮想敵は、「ねらいたて仕候者」なのは今まで散々出てた話。
冒頭を簡単に。
・「『ねらいたて仕候者』が手をこまねいている今がチャンスであり、こちらから仕掛けるべき。輝元は尼崎に陣を敷くように。」と三成は言っています。
46号文書の内容は、そもそも家康の動向を踏まえ、毛利家の舵取りを相談したく輝元から元康に出された文書。
後段まで読み切れば、仮想敵が家康であることはバカでもわかる。読解力の問題。 >>699
また登場ですか。
浅野の説はさらにない。
この文書に浅野が登場した個所はないし、毛利・三成等が浅野を仮想敵とした史料はほかにあるんですか?
と以前も聞いたけど、回答しなかったのはキミ。 >>698
そうそう。
代名詞の使い分けについてだけど、キミ自身もレスの中で徳川って言ってみたり、家康って言ってみたりしてるよね。(>>576)
同一の対象を違う呼称を使うことの何が問題なのかさっぱりわからない。これ3回目ね。 >>703
>>489のひとが触れてくれているね。
>毛利・三成等が浅野を仮想敵とした史料はほかにあるんですか
石田はともかく、なにが「毛利」?もうここが書状ほんとに読んでるのかってところ。
そしてこの書状に「浅野」という人名は出てこないが、
出てようが出ていまいが「「ねらいたて仕候者」が誰であるとこの書状には書かれていないので
「ねらいたて仕候者」がだれであるのかは推測するしかない。
彼らが言うには○○だが、実際には○○で…
こんなもん答える必要もない事柄だけどなぁ、
じゃ>>699への返答どうぞ。 >>695
そうはならんだろ
寺沢が着いたら全ての情報が共有されるってのは
単なるあなたの妄想でしかないし
翌年の関ヶ原までのシナリオが三成陣営にあったとか
馬鹿馬鹿しくて話にならないんだから >>705
仮想敵の意味わかってる?
それは『仮想敵』ではなく、『仲が悪い』エビデンスでしょ。
『ねらいたて仕候者』は、同じ文書の中で特定できるわけ。
いきなり天から降ってくるかのごとく浅野を登場させる解釈はないわ。
浅野の線はないのに、全く必要のないキミの質問に答える必要はないでしょ。 >>707
じゃ書状の内容から「ねらいたて仕候者」が家康だと論理的に説明してみて。
できるわけない、書いてないんだから。 慶長五年なら「ねらいたて仕候者」が家康の可能性が高くなるとは思える要素はあるんだよ。
だが慶長四年なら浅野長政だとわたしは思う。 基本的に長束・増田・玄以は豊臣の奉行なんだから
大坂ないし伏見に出ることも入ることもできないというのは
特定の状況下じゃないかぎり考えられない。
だが毛利は豊臣の奉行でもないし在番を言い渡されたわけでもないので
なにかしらなければならない。 >>708
46号文書の『ねらいたて仕候者』を空欄にする。
46号文書を最後まで5回位読んで、自分に試験問題を出す。
「空欄に入る人名を答えなさい」
配点は2点くらいで。 >>713
高校生レベルの読解力があれば、家康が入ることはわかるよ。
2点程度の問題。 >>702
家康の動向なんて殆ど書いてないと思うんですが。
46号文書で「内府」について書かれてるところをピックアップすると
「増田長盛の媒介で内府と景勝の縁辺が成ったという」
「小出・片桐は内府かたである」
「大谷吉継によると下屋敷に居てはならない、内府と面談せよとの忠告である」
この中で「内府の動向」は上杉との婚姻しかないがこれは別にクーデター云々とは繋がらない。例えば徳川軍の動向を追っているならまだクーデターの可能性はあるが。 >>714
おそらく入らない。何故ならねらいたて仕候者は彼方衆であって内府かたでは無いから。これが内府を意味するとなると小出・片桐を内府かたと呼ぶのはおかしい。そもそも御城は彼方衆が押さえていて此方衆を排除してるんだぞ門番が彼方衆なら言う必要も無いし。
例えば徳川軍の行軍記録とかないの?御城が伏見か大坂か不明だけど徳川軍が押さえてるなら何らかの記録に残ってると思う(実際、騒動が大きいから動いていても不思議じゃない)
一次史料では浅野幸長が伏見を包囲してるって残ってるから徳川が動いていてもなんか残ってそうだが… >>714
>>708読め、説明しろ。できないならできないと言え。説明しろ。
>>715
このひとに言っても無駄かもしれんよ、家康だと強弁するだけで一切説明できてないから。
てか、書いてないんだから説明できるわけがないw
なにか珍妙な解釈でもするのかと思ったけど。 >>715
>699のわたしの質問にも
>浅野の線はないのに、全く必要のないキミの質問に答える必要はないでしょ。
こんなこと言って>>699の家康であった場合の説明もしていない。
ただ強弁するだけで説明していないから相手しないほうがいいかもしれん。 世間的にはこれを家康と訳すんだって研究者多い気がするけど、あれは何を根拠にしてんのかな >>719
白峰氏は慶長五年説で「家康」、光成氏が慶長四年説で「わたしの命を狙う者」と訳し、
「七将側あるいはその背後にいる家康」としている。
個人的には「様子を窺っていた」と訳すのが合ってると感じる。
こうなると石田を襲撃しただれか、だれかなら浅野長政かなと。 >>720
これは丁寧にありがとうございます、そのお二人以外の解釈も知りたいですね
どちらかというとお二方ともまだ説として若く、それに対する批判待ちな研究も多いから さらに補足すると「彼方」「此方」「内府かた」表記についても白峰氏は
以下引用抜粋
大坂城詰めとして小出秀政、片桐且元などがいるが、これは家康方(「内府かた」)
である、としている。この下線iは、上述した下線dにおける「御城ハ彼方衆持候と聞え候」と
同じことを述べている。この場合は、「彼方衆」ではなく、「内府かた」というように明確に記さ
れていることと、家康方として、小出秀政、片桐且元という名前が出てきている点が注意される。
このようにわざわざ「内府方」と表現されているので注意される、としている。 >>715
そりゃ、「ねらいたて仕候者」「彼方(衆)」を家康と解さないキミでは、そういう分析になるんだろう。
その議論に進むテーブルにも付いていない。意味のないレス。
>>716
代名詞の使い分けについてだけど、4回目ね。キミ自身もレスの中で徳川って言ってみたり、家康って言ってみたりしてるよね。(>>576)
同一の対象を違う呼称を使うことの何が問題なのかさっぱりわからない。 で、>>722の「彼方」「此方」「内府かた」と表記が違うのは、別勢力だから書き分けたと見れば
説明がつくと思ってる。
「御城」については伏見なのか大坂なのか同じ城なのか、
出入りできないのが伏見で、片桐・小出のほうが大坂かなという気がする。 >>719
無思考で俗説を参照したんじゃないか
具体的な資料が無いなら俗説のほうは関ヶ原からの逆算だろう >>725
ですかねー、とはいえまさかこの史料研究したのがそのお二人だけとは思えないので、ちょっと探した方が良さげですね >>717
>>718
でも結局、46号文書に浅野は一度も登場しないし、他の同時代史料で浅野を仮想敵とした史料も出ないんでしょ?浅野説は想像としか言えませんな(笑
こちらに何やら説明求めてるけど、それを回答しようがしまいが、浅野説の証明にはならんよ。史料を出せないことを誤魔化してるんでしょ?
面倒なことはやりたくないので、>>712をやってもらって終わりでしょ。 >>728
どこのことかと思って調べたけど、この部分かな?
自治少・小西・寺沢被越候ハねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、
於于今ハ仕合候条、自此方可被仕懸候、左候ハヽ、輝元天馬のことく罷下陣取、
あまさきへ持つゝけ候様ニと被申候事、
上記は白峰氏の論文から引用、
光成氏だと「自此方可被仕懸候、左候ハヽ、輝元天馬のことく罷下陣取、
あまさきへ持つゝけ候様ニと被申候事、」の部分は
「此方より仕懸けらるべく候、左候わば、
輝 も天馬のごとく罷り下り、陣取あまさきへ持ち続け候様にと申され候事」
としている。
これはニュアンスの問題というか、訳し方というか、
石田らが言うには、「此方」 こちらから、自陣営側から、石田・毛利派から、石田派から、
毛利から、
どの訳を当てはめるか、直訳か意訳か、直訳で意味が通らないなら意訳するしかないし。
輝元ないし輝は輝元を指しているので、輝元は、でいいと思うけど。
こちらから仕掛けるべき、あたりで意味が通ると思う。
で、問題なのは石田らは毛利を味方と思い、兵を出してくれと言ってるんだけど、
実際には○○な状況で、毛利としてはこの事態にどう対処すべきか、
石田らに合力すべきか、ってのがこの書状の内容。
慶長四年なら毛利は浅野派(武断派と言った方がいいのか?)を鎮圧はしていない。
慶長五年なら毛利は兵を出し西軍総大将として輝元は大坂入城してる。 >>728
該当の箇所は
面むきハさ様申候か、彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事、
「表向きにはその様ですが、彼ら(彼衆)が言うには御城は敵方(彼方衆)が持っており、此方の軍(此方衆)は一切出入り出来ないということです」
なのでここで新登場するのが「彼衆」になる。おそらく毛利軍じゃない(毛利なら指揮官の名前が出るはず)一番考えられるのは奉行派の誰かじゃないか。
つまり「三成は「私を狙った者は万策尽きたようです。ついては挙兵をお願いします」と言ってきましたが、奉行派によると「御城は敵方に取られて我ら奉行派の軍は出入り出来なくされてます」とのことです」
って感じになるのかと。後は「誰が言ったのか」だけど代名詞が直前の人物を指すなら小西行長か寺沢広高ってことになる。 >>729
ありがとうございます
何が言いたいのかと言いますと、表記が違うから別勢力、とは限らないのではないか、という事なんです >>731
それはあなたがどう思うか、解釈するかでいいと思うけど?
例えば、実は右筆がぼんくらで、意味もなく書き分けた説、とかを主張してもいいわけだし。 白峰氏も論文内では、内府かたは明確に示しただけで、彼方衆と同勢力の認識です 白峰氏は要は全部家康の策謀っていう思想が強いからね…
実際一次史料で徳川軍が伏見城か大坂城を押さえたってのを上げないとかなり厳しい主張になりそう。 しかし今調べてみたんですが、光成氏の著書でもそこは同勢力で捉えています 実際徳川軍が動いたって話は残ってるのかな?
一次史料だと浅野幸長が軍勢を引き連れて伏見に来てる事は確定してるが…そもそも徳川って大坂に拠点あったっけ?屋敷が無いから藤堂高虎の屋敷を借りたりしてなかった? いえ私がしたかった話は、表記が違うから別勢力、とは限らないのではないか、という事なんです 基本としては別勢力だと判じた方が良い。ただし他の史料お組み合わせて「実は同じ」と判ずることはできる。
この「彼方衆」が浅野軍だ、って可能性はかなり高い。浅野幸長が兵隊を連れて伏見に来てるので伏見城が封鎖されていた可能性は高いから。
問題は徳川軍だとすると史料上動きが少ない。「御城」が伏見城なら可能性は無くはないけど(家康が伏見向島城にいる)
大坂城だとするとかなり証明は難しい。まず大坂に徳川の拠点があったかなぁ。大坂城に入るのはもう少し後だし。 えーとですね
この文書において、少なくとも専門家2人は同勢力として捉えているわけです
ですので、表記が違うから別勢力、とは限らないのではないか、という事なんです >>738
同じ文書で「御城」と二度表記されていて、後段では「御城には小出、片桐らが詰めており、内府方だ」と明言している
ついでにこの場合、毛利らが「御城」と称する対象は「上様」がいる大坂城
これ以外、解釈できない だとすると尚のこと彼方衆が徳川とは言えないって話になってしまうのがなぁ。この時大坂には武断派諸将がいて伏見には浅野幸長が来てる(看羊録だと加藤清正が三成を追尾して伏見に来ているけど清正と幸長は朝鮮では戦友で師弟関係だったからおかしな話じゃない)。つまり七将が御城を包囲してる可能性は高い。
徳川は伏見城なら可能性はある。家康か向島城にいるのだからそこから兵を出したのだろう、と。だが大坂だとするとそもそも拠点があったかなあ。どのみち彼方衆は武断派諸将の事だろうね。 >>732
46号文書って大関ヶ原展に出陳されてて、図録には輝元自筆書状と記載があるけど右筆の手によるものなの?
光成氏や白峰氏は自筆かどうかは触れてないようだけど >>741
年次比定の問題だよ
あれが慶長五年という部分は白峰さんに賛成 >>735
光成氏の訳だと、彼方衆は家康方、内府方は徳川派と訳してる。
「ねらいたて仕候者」については>>720
>>739
そりゃその可能性もあると思いますよ。
>>742
いや例えばの話なんで。わたしは自筆かどうかの確認はしてないです。 三成は狙われてるから身を守るために挙兵促した
自分から内府を狙ったりしていない!
てことにしないと都合が悪いんかな?
素直に読んだら普通に家康狙ってるべ わたしはこの書状においては4つの勢力、石田派(文治派、奉行派)、浅野派(武断派)、
毛利、徳川が登場していて、なのでこのような此方、彼方、内府かたという表記になったのではないかと
考えます。
これを2つの勢力の登場と解するならば、石田・毛利派と武断派+徳川派ということになるのでしょう。
白峰氏も光成氏も2つの勢力の登場と解してると思いますが、「内府かた」の訳については
光成氏は>>744、白峰氏は>>722と、微妙に訳が違ったり、注意を要するとしている。
白峰氏は慶長五年説、光成氏は慶長四年説。 その両者の訳は別に意見の食い違いはないでしょ
第三勢力が急に現れたりはしてない >>746
浅野なんて文書中には全く出てこないし、石田等を仮想敵とした史料も全くない。
何度も言っている話。
『内府かた』の訳も、二者は本質的に同じ。キミが曲解してるだけだな。 >>744
光成氏の訳で、家康方と徳川派の意味の違いがよくわからないんですが
同勢力で捉えていないと仰りたいのでしょうか >>750
もうちょっと意味を読み取りやすい日本語で書いてくれよ それはすみませんでした
それではわかりやすく
>>744
光成氏の訳だと、「彼方衆は家康方、内府方は徳川派と訳している」との事ですが、
訳されたこの家康方と徳川派の違いがわからないんですが?
私には、光成氏が表現を変えてるだけで、同勢力として認識しているとしか読めませんでした
貴方は、光成氏が同勢力で捉えていないとお考えなのですか? >>743
慶長五年って可能性はかなーり低い
理由は幾つかあるんだが、まず増田長盛が「三成から身を引かないと収まらない」と言ってるところ。慶長五年では三成は謹慎の身でこれ以上何処に引くって言うんだい?
次に「内府と景勝の縁辺が整った」というところで慶長五年から景勝に叛意有りの報告が来て六月には会津征伐が実行される。そんな時に徳川と上杉の縁辺が成るとは誰もが考えないし、ましてや白峰氏の主張する慶長五年六月は絶対に有り得ない。何しろ秀頼から家康に討伐指令が出てるんだもの。 >>749
自己レス
× 石田等を
○ 石田等が浅野を >>746
ミスリードややめようよ。
武断派なんて登場してないし、浅野も登場していない。
そもそも浅野派ってそんな派閥あるの?
誰が定義づけたの? >>749
長政と三成の不仲は当時から有名だった。日本年報には「(秀吉の死後)浅野長政と石田三成は心の底に隠していた憎悪を爆発させた」とあり宣教師にすら知られていたようだ。
その発端が何かは不明だが(一説には忍城攻めでの三成の策謀にあるとも)史料上は文禄四年の秀次事件が有名。
浅野長政公伝によると三成は元浅野家祐筆を金で誘って秀次との書状を偽造、これは祐筆が自白したが幸長が謹慎処分にされてしまう(これを救ったのが徳川家康というオチがつく)
その後慶長二年の宇都宮国綱改易では三成は佐竹に対して「検使の浅野長政には会うな」と忠告している。佐竹は結局お咎めなしだったがこれが長政の意に反する結末なのは明らかでもあった。 46号文書の「右分候時ハ、はや彼方へミな成候と聞へ候、此時ハかぢ之取さま肝心候間、」
この部分は彼方=浅野ってことになると、浅野方に諸将が鞍替えするって意味になるけど、それだと大仰過ぎるな
更に輝元はこの時の毛利の舵の取り方が肝要になると続けてる
百歩譲って秀吉の生前なら宇都宮改易事件の様に浅野主導である程度好きにできたこともあったろうが(それでも無理があるが)、
この時期浅野に派閥を形成するような力があったとは考えにくい 更にその後、慶長の役が終わると撤退の指揮役として石田三成・浅野長政が博多に向かう。ところがここで浅野長政は徳川家康にしきりに戦況報告をして指示を仰いでる。十人衆合議を進めたい三成への当て付けだったのかもしれない。そしてこの時、家康より命じられた後詰が藤堂高虎でもあった。
ちなみに朝鮮出兵において浅野幸長は加藤清正と共に戦っており長政は幸長に「清正を父と思え」と言ったともされる。
つまり長政は出征組とも親しいラインが出来ていたのである(ちなみに役目上徳川とも親しかった) 武断派文治派という派閥意識は
司馬遼太郎なんかが広めた誤りと
言ってもいいと思う
正直意味がない
政局が一気に傾くことを警戒して
軍事的勝利でひっくり返そうとするほどの
抗争相手としては当時普通に家康だわな
家康の権力を削いで何とか自分らの権益を
政権に残そうとしてきてた訳で
一気に完全排除を狙おうというのが
三成から毛利へ要請 浅野長政は秀吉古参の重臣であり現役の奉行
派閥持ちと言わなくても影響力はもってるはず
年下で親戚筋の加藤福島あたりが慕っていてもおかしくはない
いわゆる豊臣家武闘派の親玉に、豊臣譜代家臣団に食い込むのが難しいはずの家康がいきなりくるのもおかしな話だし >>756
それは不仲なだけで、仮想敵であった証明にはならん。
具体的に、浅野が石田を殺害しようとした計画なりを示してくれ。 >>760
『〜のはず』、『〜はおかしくない』『〜のようだ』、とか個人の想像はもういいから。 >>750
光成氏に聞いてくれとしか言えないが、わたしの想像だと、片桐・小出は派閥争いには
関しない存在だが、石田らと対立している家康方ではなく「親」徳川派という解釈なのかなぁ
という気はするが、真意は光成氏に聞いてくれとしか。
>>757
その部分はわたしも引っ掛かっています、慶長五年っぽいなぁと。
じゃあ慶長五年かというと慶長四年っぽい部分もあり、
まぁだから年次不詳とされてるんでしょうけど。 >>761>>762
ならば46号書状で徳川が仮想敵になってる根拠を掲示してくれ
>>712みたいな個人の想像はもういいから
はっきり明文化してる必要があるんだろ 秀吉存命政権時の家康の交友関係はかなり広い上に秀吉から東国惣無事としてフォローされてるから、秀吉死後いきなりではなく存命時からちゃんと交友してるのよね
特に東海地方周りの諸侯とは秀次の後ろ盾として江戸移封後からずっと親しくしてるし 家康は豊臣家譜代家臣団とは均等に交流してる印象だわ
クセのある浅野とも親しいし奉行衆とも大谷刑部あたりは親しくしてたそうだし三成増田のことは評価してる
利家死去時点では小説みたいにどちらかに偏ってるわけじゃなさそうなんだよな 秀吉死後に諸将を訪問したことが警戒の要因になっているようだが
あれは今まで付き合いなかったから? つーかそれは単なる難癖じゃねーか?
秀吉危篤の頃から急に奉行と三大老も政権に参加させら
以前の遺言の家康利家の寡頭制なんか認めんという
方針転換があり
秀吉死んでからは私婚問題以外にもあれこれ文句つけ
利家担いで排除しようとしたけど和解しちゃって
って流れの中での46号文書→三成隠居 前田利家はあまりそういった交友関係が広い様子がないのよね
奉行が前田パージして毛利に頼りだしたのも交友関係が西国に広い点かね >>765
それおかしくないかな、太閤の生前から東海道諸侯と仲が良いなら処分されかねない
状況って理解してます?
特に、死後に異常に頻繁に諸侯とあってるのは露骨に徳川派の旗揚げと見られても
しかたないぞ
記録でも確かめられるが、あの時期に異常に頻繁な訪問はそれだけで問題視されても
文句いえないのだが?
その直後に三大名家との私的婚姻やっちゃったので目立たないだけですよ >>764
『ならば』で接続される前後関係の全く意味わからんが(笑
46号文書自体がそうだとしか言えんな。
・1文目で、「(私三成が)『ねらいたて仕候』している者が手をこまねいているので、こちらから仕掛けろ」と促していること。
あとは、文書の彼方(衆)、内府方のあたりを精読して頂ければいいかと。
ねらいたて仕候者=彼方衆=内府方であることは明らか。
あとはキミの読解力次第。
>>712は、個人の想像とはちょっと違うんじゃないかな?
うまい事言ったつもりのところ申し訳ないけど。 >>770
別段東海諸将は家康の目付けでもなんでもなく
なんなら領地内での橋の建築や寺社の移築といった行為は逐一家康にお伺いを立ててしてる
死後異常に増えたという程でもなく元から家康は秀吉容認の元交友関係増やしてる、指摘は的外れよ
というか少しでも秀吉存命時の家康の豊臣政権下での行動調べてたらそういった言葉、出るはずがないですが、思い込みだけで喋ってませんか >>770
それはあなたの認識の方がおかしいんだよ
本当に秀吉の死の直前まで遺言体制は
家康利家の寡頭制で進んでた訳だけど
それが家中と仲良くしちゃいけない
なんてことは全くない
それが死の直前に覆ったからといって
家中との親交自体を禁ずるような法的根拠は何さ?
徳川は仮想敵だから仲良くしちゃダメだとでも? >>767
何でかわからんけど大老奉行は勝手に訪問しちゃいけないらしい。三成が家康に会った島津を詰問したっていう書状があるからそうなのかもしらんけど… 史料として秀吉が勝手に奉行と大老が諸侯と顔合わせちゃ駄目とか言った根拠がないならむしろ、勝手な理由で三成が権力を減じようとしたってことにならんかそれ 三成をsageる気はないのに、次から次に出てくるな 慶長三年九月三日十人衆起請文だと「傍輩中不可立其徒党候」の一文があり要は「派閥を作りません」ということなのでこれに抵触したと見做したんだろう、とのこと。
同じ文は同年七月十五日家康・利家宛起請文にもあるから十人衆がこれを再確認したものと思われる。ただし、この起請文は諸将が家康・利家に一方的に提出したものなので履行義務は諸将にしかない(つまり徳川閥・前田閥が作られる事は許されるということカ)。三成が直接家康に文句を言いに行かなかったのはここに理由があるんじゃないか。 家康利家宛てに起請文が一方通行で出されてることからもやっぱ豊臣家が家康利家を明確に他諸侯より上位の存在として扱おうとしてるよなぁ 少なくとも秀吉の死直前まではこの二人が特別視されてたのは疑問の余地は無いとのこと。
まぁ内大臣と大納言だしね。特別なのは仕方がない。 まあその二人が特別じゃないのであれば
官位による序列そのものが無意味だものな
政権秩序の破壊に等しい
急に奉行や他の大老に権力与えろというのは
なりふり構わない権力闘争に見えてもおかしくないし
実際にそう見られていたんだろうね
実際裏では軍事クーデターも画策してたし
訪問自体を派閥形成として咎めるというのも
そりゃ反感持たれるだろうという・・・ 武断派が結成されたのは豊臣政権の抱えたクラックが故らしいけど、
有力大名間の争い(加藤清正vs小西行長)
奉行間の争い(浅野長政vs石田三成)
そして政権担当者間の争い(大老vs奉行)
でこの分裂がゆっくり繋がって派閥になるという >>777
ありがとうございます、家康利家が起請文を差し出させた時点で特別扱いだった点は意義はありません
十人之衆の起請文でその拘束が全員に拡大したという認識です そうかなぁ?
局面局面で利害が一致してるか否か、だけではないかな 家康は関ヶ原直前まで武断派吏僚派に対して中立みたいだし 浅野長政は奉行でかつ甲斐を持ってる関係で家康とも親しいし、しかも息子が清正の弟子みたいなもんで武断派の重要メンバーでもある。三成討つべしの武断派は長政の人脈を頼ったんだろう(閏三月五日家康書状だと取次に浅野長政の名前がある)
三成も三成で輝元の起請文で奉行から長政を排除してるし五奉行がバラバラじゃん。 変に派閥って考え方は認識に歪み生みそうだし自分も状況によって離合集散してたって認識のがいいと思う
勿論一貫してその人物に従う人間、ってもの勿論いるけれども 派閥形成もあれば離合集散もありって形で、個々別で見てくしかないんじゃない? 三成を襲撃した七将には反三成という強い属性があるからね。普通に派閥と言って差し支えない。しかもこの連中、結局家康に従った訳でそれだけ三成が憎かったのか家康の人心掌握が完璧だったのか。そして裏切られまくりの輝元・三成は何してたのか。 >>777
そういう事だね、家康の行動は露骨に徳川派を作ろうとしてると解釈されても
仕方有りませんので
そして思うのは、家康は人間心理に非常に詳しく何処でこんなの習ったんだとすら
思うよ
目的は、「誰それは徳川と親しいらしいぞ、徳川派らしい」と言う評判建てる事
其の為に、太閤が死ねば行き成り押しかけ訪問繰り返してる
実に巧妙、大老の一人の訪問を「迷惑だから来るな」とはいえんだろ、実に老獪 秀吉の遺言で政権の首座が家康なんだから従うのは当然
豊臣家の信任も得られないクーデターを起こすほうがおかしい
淀君からも謀反と言われてるんだから なんなら七将の件、信憑性高い史料だけで組み立てるなら
毛利と連携して挙兵しようとすでに武具持ち込んである伏見の屋敷に三成が移動して、それをおかしいと判断した七将が石田の身動きとれないようにした
ともとれるしな なぜ後世に襲撃として記録されたかって観点でも興味深い
家康が三成を匿ったとかいう神君史観は見て見ぬふりで >>791
面白い説だけど
→ 毛利と連携して挙兵しようとすでに武具持ち込んである伏見の屋敷に三成が移動
この史料ってなんなんでしょうか? >>792
七将襲撃と、家康が匿ったのはセットじゃないかなぁ
三成の機転は見事!という逸話の仕立 >>783
武断派と文治派とか根本的な違いはないよな
福島加藤は元々政権中枢に近い一門と吏僚だし
後付けのストーリーでしかない >>794
面白い説だなと思って調べてみたけど、抜粋するとこれね。
去年七月十六日之夜半、伏見城下騒動之儀、其濫觴者石田治部少輔、
大野修理亮此兩人取入武具於居宅、
依被集家人奉行人并近臣之家々集兵被取入兵具之條、
何様謀反人有之哉之由疑之騒動、
其證據分明候得者、於僉議者尤可出證人、是等者有何用、
調兵具集兵、世上被令騒動候哉、可承其子細事
中村孝也著 徳川家康文書の研究より抜粋。
古いもんだから旧字体が多くて書き写すのが大変。
で、中村氏の見解。
本書は前田利家及び豊臣氏五奉行等に遣った覺書で、
慶長四年正月、利家等の詰問に應酬したものである。
上杉年譜にあるから採録して見たけど、これは僞作であると認める。
長いから省略するけど、この後偽作の理由とこの時期のものは偽書が多い等述べている。
偽書らしいが、慶長三年7月16日伏見城ってなんかあったっけ?
つかこの時期石田伏見に居たっけ? >>788
そりゃ佞臣丸出しの三成なんぞに付きたい奴なんてそうそう居ないだろうし、政権に近い将らがむしろこれを除こうと思うのは当然の成り行きだろう >>800
是斎重鑑の「九州下向記」によると慶長三年七月十五日に三成は山アから伏見に馬を走らせたとあるのでこれが事実なら伏見に居た可能性は高い。
とはいえ慶長三年ってのは些か時間が離れ過ぎてるなぁ。この時は丁度慶長の役に幕が降りそうな気配がある時期だし。秀吉が生きてる訳でその時の謀反は秀吉への謀反を意味するから危険すぎるし、死後は朝鮮からの撤退に十人衆が全力を出してる時期だし。 >>800
ありがとう、あとこの石田が屋敷に武具運んだって話は綿考輯録にもあるようです ん?7月16日っていうと、慶長五年なら意味が通じるが慶長三年ねぇ…。 >>800
慶長3年7月3日付島津忠恒宛石田三成書状から、この時期三成は筑前・筑後の
蔵入地の代官として九州に下国してて、7月3日の時点で博多に居たことが分かる
書中で「拙者儀も漸爰元明隙申候条、四五日中伏見へ可罷帰覚悟ニ候」とあり、
九州での用事が済んだので4,5日中には伏見へ帰るつもりだ、とあるから16日には伏見に居たと思われる >>788
正統性の面でもだけど、普通にちゃんと中央の公儀として秀吉没後各地で起きる問題やらを解決させてるのも家康で、足引っ張り合いに終始してた連中よりそりゃ信任も厚くなろうよ 慶長五年の書状なら完璧だった。慶長四年ではちょっと弱い気がする。とはいえ「三成が家康を襲撃しようとしてる」って噂はあったらしくそれで前田利家も家康に向島城に移るよう忠告した訳だけど。 七将が三成の家康襲撃計画を暴いたって言うのもちょっとおかしいんだよな。だとしたら謹慎では済まないし。家康は三成の謹慎に加えて朝鮮出兵の再査定と福原の懲戒も出してる。明らかな政治的取引って事を考えると七将は確証無く三成の処罰を要求したんじゃないか。
そうでないと家康が相当人が良いか完全に関ヶ原を読み切っての布石だったということになるし。 尼崎まで毛利の兵が来てる故に強い罰が与えられないとか?
そんで毛利には誓紙書かせて三成は政治的には失脚させたし、関ヶ原時にまた組むかどうかは読めないでしょ まぁ、関ケ原後に家康は三成の子を殺さなかったし
死罪が3人だけというのは、かなり甘いとは思う ちょっと全ての情報を家康が押さえてるて
前提に立ちすぎじゃないかね
寺沢が自分の敵対行為まで事細かに共有するはず
ってのもそうだけどもっと情報は錯綜するし
入ってくる時は断片的
家康としても結果見てどれが信用できるか
知ってる後世の視点は持ち合わせてない
7将が突然三成を弾劾したからといって
家康としてはどちらも豊臣と縁の深い大名で
しかも直前には利家の元に集まってたりした訳で
一方を全面的に信用できるかは微妙な上
片方を鵜呑みにしたらそれこそ贔屓と観られて
政権中枢の立場を問われかねない
>>808
証拠が揃ってたなら隠居で済まんだろうけど
単に騒動の中心として槍玉に上がって
責任取らされたって感じかと
まあ46号文書読む限り実際しっかり企んでた訳だが 46号文書だと三成・輝元が争っていた相手が徳川とは分からない。少なくとも徳川軍が伏見か大坂を包囲してたはずだけどその史料が無いことには話にならんのだ。七将が包囲したってのは一次史料にあるので三成(此方衆)に敵対していたのは七将ら武断派なんだろう。 46号文書には
「彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事」
とあって城は「彼方衆」に占拠されて「此方衆=彼衆」は一切出入りできない、とある。
つまり彼方衆は最低でも城の出入り口を封鎖してるししかも「此方衆」が強行突破出来ないのだからそれなりの軍勢を動かしている。
で問題は史料に徳川がそんな軍を動かしたって話が無いところなのよね。誰か知ってる方居たら教えてください… 慶長四年説で前段の「御城」が伏見城と仮定して言うが、
この場合、先にトリガー引いたのは浅野派(武断派、七将側)であろう。
浅野長政が兵を動員し伏見城を封鎖するというならまだ名分がないとは言えないが、
少なくとも浅野幸長が伏見城を封鎖している。
お前奉行でも伏見在番でもないだろと。
それとも長政の指示で封鎖したのか?
家康が事後承認してるのでクーデターとはされなかったが、
クーデター(謀反)とされてもおかしくない事案。
訴訟ということにして、多少の行き過ぎはあった、ということにしたのだろうと思われるが。 この文書自体の裏付けは実際どうなんだ?
七将の際に兵を動かした事について書かれてるのはこの文書以外で確認できるの? 徳川が兵動かして占拠っていうんじゃなくて
単に輝元-三成が味方と認識してない
(てか敵認定してる)連中がいるってだけでしょ
そもそも前提条件として利家と家康の手打ち後も
互いに兵を集めて一触即発の睨み合い状態
実際に城を包囲して占拠という明確な
戦争行為があったならその程度で終わらないよ >>816
「上様」は大坂を動いてないわけで、「御城」は伏見のわけないよ
お側の小出、片桐が秀頼ほっぽって揃って伏見に詰めているというのも不自然 「浅野派vs奉行戦争」があったというのは
かなり難しい(無理がある)説明じゃないかと
それなら普通に喧嘩両成敗で終わる話で
だから両者そんな無益なことしないw
毛利としてはそんな相談されても
「攻めたら勝てるいうけどどうだろう?」
以前に「それに勝って何の意味が・・・」 >>816
閏三月五日浅野幸長宛徳川家康書状だと浅野長政は「取次」になっている。そして「話は長政に聞け」とあるからどうも長政は伏見にいたらしい。これは「奉行のうち二人は大坂にいろ」という秀吉遺言に抵触してる。つまり理由のある移動だった。
幸長と一緒にやってきたとは考え難いから以前より話は通していたんだろうが。 そもそも奉行の在番規定を杓子定規に解釈したら
奉行は伏見大阪以外にいることができなくね?
三成が撤退指揮のために九州に降るのとかも
できなくなる訳で初めから無理
当然ある程度実情に即して運用されていたろうよ 浅野長政がいつから伏見入りしたのかがわからない
長束増田玄以あたりはいつから伏見にいるんだ?
特に遺言で伏見に在ること言われてない増田は なんなら合議だったという前提がこの在番からして無理のある話になるよね >>822
そりゃ国許に帰らず公儀の仕事しろってのが趣旨なんだから、仕事があれば出向くし茶の湯だなんだで出歩きもするわ
そんなの当たり前でしょ >>820
ん〜、いろいろ考えたんだけど、なぜ石田は伏見城に立て籠もったのか?
なぜ石田は大坂城に立て籠もらなかったのか?
なぜ浅野幸長は伏見城を封鎖したのか?
このあたりを考えたとき、まず家康は遺言で伏見城代的立場にあると解釈してるので
仮に武断派が伏見城を封鎖しても、家康がよしとしてしまえば問題にならない状況。
だから浅野幸長は伏見城を封鎖した。
ならばなぜ石田はそんな孤立しかねない伏見城より大坂城に立て籠もらなかったのか?
ここがよくわからん部分。
もし前段の「御城」が大坂城ならば、奉行である石田が大坂城に出入り不可能とは
どのような状況なのか?
数千単位の兵を動員した軍事クーデター?
大坂城を封鎖となるとそれなりの兵数が必要に思える。
それで石田は大坂城を諦め、伏見に向かったということだろうか?
そうではないならば前段の「御城」は伏見城を指しているのではないかというのがわたしの考え。
後段の「御城」については片桐・小出とある以上大坂城ではないかと思う。 >>816
この辺りの流れ、本能寺の変の後の甲斐信濃を思い出すね
この地に封じられた織田家の大名が抗戦したのは一揆で、建前では徳川軍じゃないんだけど
でも、直後に侵入してきた徳川軍に従ってるから...
建前上、同盟関係にある織田家の領地攻めたんじゃないって事になるが...
謀略にも、個人の個性出るんだなってのが正直な印象
「豊臣家の大名の内紛だよ、俺はしらん、でもどさくさ紛れに伏見城占領したけど」 >>820
ただ浅野長政と石田三成の政争だったら喧嘩両成敗だったかもしらん。問題は長政は武断派という派閥の一員だったことよ。
この武断派は大名も多い。三成を襲撃したという加藤清正ら七将は適当に合わせて八十万石もの石高を有してる。これに藤堂高虎らの賛同者を合わせると百万石に到達する。こいつらが訴訟というか強訴してきた訳で原理原則で「喧嘩両成敗ね」なんて言えない。下手な裁定で戦争になったら豊臣公儀が揺らぐ。しかも明・朝鮮との講和交渉してるこの時期に。こう見ればこの一件を収めてみせた徳川家康が天下人と呼ばれるのも納得よ。 わざわざ内府方やら彼方衆と使い分けてると考える割に御城だけは使い分けないって考え方は無理があろうよ >>827
いろいろこねくるのもいいんだけどさ
まずは古文書の読み方の基礎から学んだら?
英語読めない人に「この英字紙にはたぶんこう書いてある」って長々言われてもてんで響かないでしょ とりあえず史料にない、あるいはわからない部分を何故?で考えて埋めるのはやめた方がいい
理解したいんじゃなくて納得したいだけだもの、それ 最低限でも史料読んできた人ならね、最初の「御城」がどこかは大坂か伏見と推測
そのあと秀頼が出てきて、次いで同じ「御城」に小出、片桐が詰めていると出てきたら「ああ、御城は大坂か」と判断するんだよ
もちろん断定するには両者の当時の動きなんかも外せないわけだが
少なくとも同じ文書内の同じ「御城」を別物と考える人間は誰一人いない
少しでも史料を学んだ人なら わたしに対する反論は「この書状は慶長五年のものである」とすれば簡単に覆せる。
だが上の方でだれかが言っていたが、もしこの書状が慶長五年のものならば、
西軍挙兵の首謀者は、石田・小西・寺沢でほぼ断定されてしまうことになる。
西軍挙兵の首謀者がだれなのかという議論に終止符をうつことができるよ。 46号文書については、解釈のアプローチを誤ってると思う
代名詞が指す相手は誰なのかという問題は、この文書が毛利の私文書である以上、毛利の認識がどうなのか、で訳す必要がある
「史実とは違うから、徳川を指してはいない」ではないという事 あと前段の「御城」が大坂城であるならば、>>827の
もし前段の「御城」が大坂城ならば、奉行である石田が大坂城に出入り不可能とは
どのような状況なのか?
これを説明すべきだと思う。 >>834
いや、それ以前の問題だから
いろいろ指摘されて細々修正してるけど、よけいに無理が出ている
いいから半年ROMって古文書の読み方勉強しろ
質の高い議論ができる貴重なスレで邪魔、ノイズなんだよ >>837
そんなくだらんレスいらんから自説や見解でも述べたら? >>836
本丸の秀頼と淀殿に会えないってことでないの?
北政所ってこの時期どこにいたんだろ? いまちょうどいいからこちらが攻めかかりたい、輝元は陣取りして尼崎まで持ち続けるように
って表向きはそう言ってるけど実際は状況悪いよね、って話で
そりゃ兵挙げてきたなら大坂でも止めるでしょ、ましてや御城に詰めてる片桐と小出は内府方だと彼らは思ってるんだから 一つ厄介なのは
御城は彼方衆が〜の遥か後ろに「小出片桐は内府かた」とあるところ。輝元からすると御城に入れない云々と大坂城の門番が誰を支持してるかは別物だった可能性が高い。まぁ徳川って大坂に拠点が無い筈だからなぁ。 >>838
ID変わってるかもしれんが、「御城」は大坂以外にあり得ないと繰り返してますよ
史料に触れている人間なら誰でも分かること >>842
じゃ>>836
わからない、ですかぁ? >>843
横からで申し訳ないんですが、>>835で言いたい事はまさにこれなんですよ
>>836の史実性とか真偽とかどうでもいいんです
毛利は、そういう状況になってると認識しちゃってるんですよ
なので、この私文書の中では御城は大坂城以外有り得ないんです >>839
北政所が家康に大坂城西の丸を明け渡して京都三本木の邸に移るのは
慶長4年9月だからまだこの時点では大坂城にいるな >>843
私は慶長5年比定派なんだけどね
仮に4年としても、なんらかの騒動があって石田が大坂に入れないなんてのは不思議ではないでしょう
石田を憎む徳川寄りの勢力がいて、加えて秀頼を庇護する小出、片桐も内府方だからどうしようもねえと輝元は書面で嘆いているな
一方の石田は天馬のごとく輝元が馳せ参じてくれい、あいつらは手をこまねいていると要請している
大坂城には僕たち入れないんだけど、という前提を明かした上で
入ったら殺されかねない だいたい小出、片桐なんて秀頼の侍従長と皇宮警察兼任みたいなものでしょうよ
それが揃って伏見にいるなんて解釈できるのが不思議
あの人は後段だけ大坂だろうとしれっと修正してきたがw
46号を全部ちゃんと読みもしていなかったんだろう
言っちゃ悪いが、読んでいてもどうせ読めないから同じなんだけどね >>847
>>502これわたし。
>あの人は後段だけ大坂だろうとしれっと修正してきたがw >>848
これは失礼
いずれにせよ史料の読み方が恣意的
というか無茶苦茶
いくら身内への簡略表現でも「御城」を分かつのはあり得ない 『彼方衆が誰を指すのか』とか『御城は伏見城なのか』ってのは、結局『ねらいたて仕候者は誰なのか』に収束する話だと思うんだけどね
正直、古文としては本当に簡単な部類の文章なんで、家康としか言えないんだけど
仮に、家康以外(浅野派?)だとしたら、毛利ではなくて家康に解決図ってもらえば良い話だよね?
もしくは、毛利を介して家康でもいい
秘匿する文書である必要はないし、家康は仮想敵ではない前提なわけだから、一番現実的なルートだよね >>827
それ以前に大名衆が配下武装させて集まったり
という状況がそこかしこにあった訳でしょ
それは利家と家康が対立した時点でそうだったし
両者が手打ちした後も実際は解消されず
三成からして軍事クーデター画策してる訳
あなたは三成は受け池だったはずと思い込み過ぎ >>829
いや派閥があろうと互いに争ったら
普通に惣無事違反で政権に逆らう喧嘩騒動だよ
だから襲撃はした時点でした方の落ち度
なのに一次史料にない襲撃やら包囲やら占拠やら
軍事行動を前提に考えてるのが不思議 >>833
史料というか日本語というか文章を
理解できたら普通そうなるな >>863
簡単な話で三成自身がクーデター企んだりして
政情不安定なため仮想敵がいるところには
行けなくなっている >>851
七将を毛利に攻めさせるより、家康に裁いてもらう方が組織では当然だな。
つか、毛利が七将を攻撃しなきゃいけない理由とか、メリットとかあるのかねぇ。
仮想敵でもない家康をスルーして、私戦を起こす意味がわからない。 言われ方が強い口調で否定というかもはや罵倒だったしでカチンの来てるのも分かるんだけども
少なくとも彼方衆を浅野、御城を大坂と伏見で使い分けないって解釈は
毛利と石田ら間でその前提が共有されてますってなってなきゃ書状として不完全すぎて双方の意思疎通がややこしくなるだけなので、現象ある史料からだと非常に難しい解釈です
その解釈を通すには、これより前の史料で毛利ー石田ら間で浅野を彼方衆と呼んだり御城を伏見にも大坂にも同じ書状の上で明らかに呼び分けてるようなものがないと厳しい
勿論史料比定なり精査はやった前提でだけど
解釈は史料に沿わせるべきもので、解釈のために史料内のものを無理読みするのは史料読みとしてやっちゃダメな行為だしあまり強弁なさると癇に障って口が悪くなる方もいるから、そこは注意なさって下さい >>851
たしかにそれは言える。なぜ石田は家康を頼らなかったのか?
光成氏の解釈のように、七将の背後には家康がいる、
だから家康を頼っても有利な裁定はされないだろうと思ったから、あたりだろうか。
>>853
慶長四年閏3月5日付浅野幸長宛徳川家康書状、
慶長四年閏3月5日付細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・
浅野幸長宛徳川家康書状あたり。
>>855
閏3月5日から急にそうなるの?
>>857
根本的にこの書状は慶長四年とも五年とも受け取れる表記ないし内容だから
確定がされてないわけでしょ?だから>816の冒頭に
>慶長四年説で前段の「御城」が伏見城と仮定して言うが、
と仮定して述べている。
前段の「御城」を大坂城と仮定してもいいけど、その場合の疑問は>836で、
七将側がそれなりの兵数を動員し大坂城を封鎖した、という可能性が高くなると思う。
同時に、白峰氏も指摘しているが、ではなぜ同じ内容の文章
大坂城は七将側が押さえている、大坂城の片桐・小出は徳川派なので…、と一文にまとめず
わざわざ二文に分割して書いているのか?という疑問が出てくる。 彼衆がいう「御城」については
1 彼衆は何故御城に入ろうとしてるのか?
2 御城を占拠してる彼方衆とは何者か?
この二つを考えないといけない。
御城が伏見城だとすると説明は簡単なんだが問題は大坂城だとするとまず彼方衆は必然的に武断派七将で確定してしまう。徳川は大坂に拠点が無いのだから大坂城を封鎖出来たとは思えないから。
そして「何故彼衆は大坂城に入ろうとしているのか?」というに至っては説明出来ないと思う。 七将襲撃が存在したことの根拠を46号文書としていたのに、
46号文書の解釈が七将襲撃あった事が前提なのは全く説明になってないぞ 疑問だからって余計に変な読み方して良い訳でもない
今ある史料でわからないならわからないでいいが、自分が納得するためだけに史料に無茶苦茶な解釈をつけるべきじゃあないな >>859
『彼方衆は必然的に武断派七将で確定』しないよ
「徳川は大坂に拠点が無いのだから大坂城を封鎖出来たとは思えない」のはキミの判断
この文書は毛利の私文書なので、毛利が大坂城のつもりで書いていれば、この文書内では大坂城の訳となる
それくらいはわかりますよね? この文書における、毛利の判断・意向の推測は、この文書内の情報で完結させなくてはならない
(または他の毛利文書でも同じ表現を使用している場合)
この文書に記載されていない事や、文書外の情報は、後世の読み手の判断・推測になるからね
七将や浅野のことなど。毛利は文書内で全く触れていないのに、毛利の思考であるがごとく翻訳するのは誤り 御城が伏見なら問題は無い。伏見向島城には徳川軍が詰めてるからそこから兵が出た(それで史料に残らなかった)と説明は出来る。
大坂だと徳川には拠点が無いから兵を置く場所が無い。必然的に誰かが手を貸した筈だがそれは誰なのか?徳川軍が大坂を包囲すればそれは七将より遥かに目立った筈なのに何故史料にも残らないのか?そうしたところを説明しないといけなくなるので「大坂城に徳川が」説はかなり厳しい道のりになる。 向こうがそう思っていた、あるいは自分に味方じゃないのを全部一括に認識してたって考えててもおかしくないよね
って話を散々されてるのにそれを個人的に納得できないからって同じ事繰り返すのは正直荒らしに片脚突っ込んでるから大概にしなさいよ >>867
納得と理解は別の話な上に
納得したいからって無茶な読み方かます位ならわからんまま置いとく方がいいってのが私の考え、というか補強できる史料が少なくてわからないものをわからないとして置いておくことすらできないなら史学なんてやらない方がいい
少なくとも彼方衆を書状内で出てこない浅野と読んだり御城を大坂も伏見も両方指すなんて無茶苦茶なやり方は、今現存してる史料からの解釈としてわからないなりにそれはないだろって立場 >>868
ふーん、なるほどね。
少なくともわたしや>>865のひとは自説を述べ、理由の説明をしている。>>1にあるように。
わかりませんで済ますならこのスレいらないんじゃないの?
わかりませんじゃ議論にならんし、
考察になるの?
色々可能性考えてみるのが考察じゃないの? 可能性だけで語るならなんとでも言えてしまう、それは考察というか妄想の陳列であってお互いに納得できるかできないかの不毛でしかない話にしかならん、実際そうなってるし
史料根拠を交えて話すべきで、じゃあ浅野を彼方衆と読んでる毛利家書状は他にあるのかとか、御城を大坂も伏見もひっくるめて読んでるような史料は他にあるのかとか、そっちに話伸ばしたらいいでしょ
それならその主張に史料的根拠も生まれるんだから、それすらせず煽られた!じゃあお前はどー考えてんだよとかするのこそ、考察の邪魔 46号文書が慶長四年とするとこの時の伏見・大坂では伏見には輝元・景勝・三成・玄以・正家・長森、向島に家康・長政(と幸長)がいる。大坂には利長・秀家そして武断派諸将らがいる。
文書だと此方衆(=彼衆)は彼方衆に妨害されて御城に出入り出来てないという。それはどの集団か?というと御城が大坂城だとすると徳川は除外されてしまう。徳川だと言う為には「徳川軍が動いた」史料を持って来ないといけない。でも家康は大坂の情勢を藤堂高虎に諮問してるからなぁ。大坂城を押さえていたとは言えん気がするが。 それにもし「彼方衆」が徳川なら、なんで内府違いの条々にその一件を書いてないのだろう?
「此方衆」が何者であれ城を実力で封鎖するなんてかなり傲慢なやり方でしかも御城が大坂城なら秀頼御膝元を占拠したことになる。正当性を主張したい西軍特に三成からすれば非難する価値はあったはずだけど。 その上に気になるのが、なんでこの人は頑なに毛利勢が誤認をしていたなりの話を意図的に無視してんのかってところよね
誤認してなかったと思うなら毛利が当時大坂の状況を正確に把握できてたよってのをお出ししなきゃいけねーでしょ?
それをしないからくっそ不毛な話になる >>871
横からで申し訳ないんだけど
キミが言っていることは、当時の状況分析だよね?
しかし46号文書における仮想敵は誰か、つまり彼方衆・ねらいたて仕候者が誰であるかというのは、
毛利がどう捉えているかであって、極論すれば史実は関係ない >>869
1+1は3だと言い張られてもそれは考察に当たらない
証拠までは求めないが、最初の御城が伏見で次の御城が大坂であるとする根拠を述べてほしいね
それと徳川軍が大坂城にどうのというが、小出と片桐が御城に詰めていて、こいつらは内府の味方だとしか書かれていない
それでも十分でしょ 横からだが小出と片桐は「内府かた」と書かれてるが豊臣本家のこと以外は基本的に政権を託された家康に従うものだからねえ
三成と武闘派の私闘に関わり合うわけにはいかない
まあ三成たちからしたら自分たち以外は全て敵という感覚だったのかもしれないが ウクライナ侵攻作戦が現実で起きてる訳だが?
本音と建前の乱舞が見てて興味深いな、本当宣伝戦って戦いの一部だね >>858
その書状に三成襲撃したと書いてるという解釈? >>858
1日で政情不安になったてどういう解釈
それ以前から諸大名が利家と家康の元に集まったり
って流れからにきまってるでしょ >>877
そうだねそしてそれが世界的に記録され続けてる
なのに何故記録されてない襲撃があったと? 同時期の一次史料に記録がないのは不思議だが
だからといって虚構だという最近の風潮は行き過ぎだと感じる
なぜその虚構が生まれたかには興味があるが
そして現代と過去を事情を抜きに比較するのはナンセンス 同時代史料、第三者史料にも存在しない。ただそれだけの話。
ないものはない。 46号文書が慶長五年だとすると三成がかなりのピエロになるんだよなぁ。寺沢広高がいるからね。こいつ関ヶ原では初めから東軍だし徳川家康の指令で動いてる。そいつが居たって事はつまりこいつ家康のスパイ。西軍決起計画は全部家康に筒抜けだし輝元の立場もバレバレだった、って話に。
てことになるから慶長四年の、しかも三成襲撃事件直後の話になるのが一番理にかなってると思う。襲撃にしろ訴訟にしろ三成と敵対してるのは武断派七将であって家康じゃない。
そいつらに攻撃されて家康へクーデターをしようってのは合理的じゃないからね。 >>883
仮に、家康以外(七将?)だとしたら、毛利ではなくて家康に解決図ってもらえば良い話でしょ
もしくは、毛利を介して家康でもいい
家康は仮想敵ではない前提なわけだから、秘匿する文書である必要はないし、一番現実的なルートだろ
仮にも政権の奉行が、惣無事に反する私戦を毛利に促すとかあり得ない。 >>885
三成は家康を頼れなかったろうさ。だって三成は明らかに反家康を企図した政治工作を行なっていて輝元を奉行派の頭首に担ぎ上げてる。これは慶長三年八月以降の起請文、特に八月二十八日四奉行宛毛利輝元起請文を見ても明らか。だから三成は家康も俺を嫌っていると思ってたはず(皮肉なことに家康は三成を高く評価していたフシがある)
そんでもって武断派七将はその家康と親密な関係にある。そして武断派にして三成の仇敵・浅野長政も家康に親しい。この状況で家康が助けてくれるなんて考えられたら大したタマよ。普通なら「家康に切られる」と思う。
七将が襲撃を仕掛けたならそれは謀反だから輝元に協力要請をする事自体はおかしくない。問題はこれが初めから訴訟だったとすると三成は訴訟してきた七将を力で倒そうとしたことになり明らかな私戦行為になる。だがその対象に家康を入れるほど愚かじゃ無いと思うけどね。 >>886
いや何言ってんの?
キミが『三成と敵対してるのは武断派七将であって家康じゃない。』(>>883)
と言ったのはキミでしょ?(笑
で、46号文書がまさにキミの言う『反家康を企図した政治工作』の書状。
家康への挙兵を輝元に依頼している点も矛盾はない。 それに輝元に家康の仲介を頼むってのも出来なかったはず。だってそれは「お前じゃ解決出来ねぇだろ」って放言するに等しい。自分の上司にそんなこと言える?ちょっと無理よ。
だから三成からするとどうやっても輝元にイニシアチブを握って欲しいしそう要請するしかない。それで輝元もそれなりにはヤル気だったはず。ところが周囲(増田長盛・大谷吉継)から全力で止められて家康に頼んで解決するしかなかった。これは仕方ないが、輝元じゃ解決できんと周囲は思ってたってのはやっぱり輝元は輝元だったのだろうか。 てか46号文書が家康へのクーデターだとしたら
彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり、不入立之由候事、
この「御城」は伏見ってことになるよね。だって慶長四年閏三月だと家康は伏見向島城にいる。家康へのクーデターなら狙うべきは伏見。向島の家康を討ち取って徳川を混乱させて毛利が天下を奪るって算段になるのが普通。ここで大坂城を気にする必要はゼロ。てかこの時大坂城には前田家が入っている。徳川倒そうとして前田に戦争吹っかけるのって戦略的に支離滅裂だろうし。
慶長五年なら大坂城で問題は無いけどそうなると「御城はやつらが占拠してて入れない」なんて当たり前をどうして彼衆が言ってるのかが気になる。 長い上に自分の仮定で喋りすぎててしんどいわこの人の話 >>888
それ、全く逆
仮に、七将が奉行相手に襲撃を行うという暴挙があったとしてだ
家康を上司とするなら、三成からの報告は絶対に伝えなきゃならん話
キミ、社会人じゃないでしょ? >>889
本当しつこいね
46号文書について、現代視点のキミの分析は意味ないんだよ
毛利の私文書なんだから、毛利がどう捉えていたか、なんだよ
理解力ないの? なんかツッコミ受けるたびに主張がグラグラして
何が言いたいのかよくわからなくなってね?
三成が家康と敵対してたというのであれば
46号文書はまさにその相談とする方が素直だ >>889
書いてないからわかりませんで済ますひとたちは
相手しても意味ないよ、年次比定する気がないってことだから。
日付がないからわかりません、って結論だろうから。
帰ったら色々書きますわ。 年次比定したいなら他史料以てするべきだよね
結局やりたいこと僕の考えた最強の史観の押し付けで、その解釈無理あるでしょって言われるたびに癇癪起こしてるって感じ 書状が御城が大坂と伏見なんで一緒のもん指してんの文書としておかしくねとか
なんで書状内で一度も出てきてない浅野が急に出てくんのよ、これら以前から毛利と石田の間で話してる書状の中で共有できてる前提だとするならその書状出そうよ、でもないんだよね?ならその前提成り立たなくねっていう批判を
全うとも思わずじゃあお前はどう考えてんだよ、どーせ考えてないんでしょはい僕の勝ちーってするのは、議論じゃないし批判的思考も批判も受け入れる気のないおままごとなら一人でやれやって、そろそろ思うよ あそこら辺の書状は元康の体調を気遣い、下屋敷の修繕を一貫して促している
同時期の書状とみていい
ならば慶長5年だろう あの書状、最初に先の書状でも言ったんですけどこういう使いを遣わせたいんですけどそいつは忙しくってみたいな旨を書いてるよね
その先の書状で書かれた忙しい人物は誰かとかを特定してく方がええんでないの >>898
いや、人名は書いてあるじゃないか
それがどういう人物かは知らないが、単なる使いのものを調べても意味ないです
毛利家臣に田総(たぶさ)っているからこの系統の人かな >>892
毛利の認識が〜とかいうけど、そんなこと言うと一次史料全てが解析不能になるやんけ。君は霊能力でもあるの?輝元の霊を呼び寄せてるのか?
46号文書が家康へのクーデター計画なら、その「御城」は伏見以外考えられない。何故なら慶長四年時点で家康は伏見向島城にいるから。わざわざ大坂を攻める理由は皆無だろう。
慶長五年だというのはかなり厳しい。論理的問題もあるけど何より寺沢広高の存在が大きい。 >>899
そっかー、田総の動向は詳細にはつかめないか
他史料と重ねた上で誤認してないかどうかの確認は十分できるでしょ、つかそれを史料批判と精査でやるんじゃん >>900
では小出、片桐が詰めていたのも伏見ということですか?
そもそも「御」の意味分かってますか? 最低限伏見が御城と呼ばれてる書状とかねーんか、それすら調べず僕は大坂をわざわざこの時期に狙う理由がないと思うからこれは伏見!ってやんの筋道の立て方がおかしいだろ
むしろこれが同書内で片桐と小出のいる場所と同名用いられてるから大坂と指してると考えて、じゃあ何が狙いだったんでしょ、秀頼の身柄かなぁとか考えてくのが、結果があってるかはともかく筋道の立て方 >>901
30、43、45、46号に共通するのは下屋敷(大坂か伏見かは不明)の修繕を急がせていることと、元康の体調を気遣っていること
よほど気にしていたのか、毎度その二点は記している
対して、三成閉居に触れて明確に慶長4年と認められる44号にはそれらの記述が一切ない
襲撃か訴訟かはともかく、30、43、45、46号はその前後の書状とは考えがたい一連の流れがある >>904
ありがとう、そういった所から解釈してく方がよほど腑に落ちますね
下屋敷の修繕期間や元康の体調崩しだした時期がわかればもっと補強できそうだと考えますが、末次元康の体調の変化の確認できる自筆書状などは心当たりございませんか? >>900
なるわけないだろ(笑
輝元が書いた書状なんだから、その現代語訳は真偽に関わらず毛利の認識に準ずるのは当然
史実と違ったら、記載内容を改変して訳しても構わないのか?
馬鹿馬鹿しすぎる >>900
なるわけないだろ(笑
輝元が書いた書状なんだから、その現代語訳は真偽に関わらず毛利の認識に準ずるのは当然
史実と違ったら、記載内容を改変して訳しても構わないのか?
馬鹿馬鹿しすぎる >>905
知らんがな
まず自分で読んでみたら?
「46号文書 毛利」で白峰氏が各書状の翻刻載せた論文のPDF出てくるから
ところどころ解釈が強引で疑問符はつくが、そういうのも自分で読まないと分からないでしょう
三成がさほ山にいんきよすると報じた44号はどう考えても慶長4年
この44号では増田の処分はなくて済みそうだ(でもこのままじゃいられないよね、とも記している)と輝元は述べているが、46号ではその増田が徳川、上杉間の「調」に当たっている
同時期の書状とはどう考えても認められない >>908
勿論素人ながらいま俎上に上がってる46号文書は読んでますよ
その上であなたの解釈の補強になる史料はないかと確認したかったのですが、ご存知ないようですね 了解しました >>902
つまるところ、三成クーデター説はおかしいってオチになるんだろ。家康へのクーデターならその攻撃対象は伏見以外あり得ん。それがお前さんの言う通り「大坂城」なら家康へのクーデターではない。
この時大坂にいるのは前田・宇喜多・そして武断派七将。つまり城を封鎖してるのももっというと三成を狙った若しくは三成が狙ってた相手もこのいずれかになる。 居所集成だと閏3月4日に福島正則が「石田三成を襲撃して伏見の屋敷に追い込む」ってなっているけど
これは出どころどこだろ?
福島正則の編者は穴井綾香って方みたいだが >>911
私は慶長5年説なんです、ID変わってるかもしれないが、下屋敷と元康の体調への言及が44号にはないので
それに仮に4年だとしてもだ、46号文書は家康の居場所に言及なんてしていない
「御城」には小出、片桐が詰めていて家康方だとしか
というか、あなたの主張がよく分からないよ
結論はなんなの?
率直に記してくださいね ていうか46号で三成が促すような軍事行動起こすなら
大阪城にいる人物が目的であるかは関係なく
正当性確保のために秀頼の身柄押さえる必要あるので
大阪城にいるのは味方じゃないから無理じゃね?
って話になるでしょう >>913
慶長四年閏三月の家康の居場所が伏見向島城ってのは確定した情報じゃないの?三月に大坂の利家と面会した家康は利家より「伏見の屋敷は危険過ぎる。より安全な向島に移った方が良い」と忠告されこれに従って向島城に移った(当代記によると三月十九日の出来事らしいが)
問題は46号文書の時期だけど寺沢広高の存在、増田長盛の提案を鑑みるとこの七将襲撃事件の直後くらいしか論理的説明が難しくなってしまう。てことは46号文書が家康クーデター計画なら「御城」は向島城若しくは伏見城って事になる。
大坂城だとすると慶長五年以降は確かに家康の居所は合うんだが今度は文章が現実を乖離しだしてしまうし。 いや軍事クーデターを企んでるんだから
目標とは別に大阪城も押さえなきゃダメてだけ なんでその年代だと解釈するとここの辻褄が合わねぇなってなって、その後のやり方が無理な読み方しようなのか意味わからん
ならそもそも自分の持ってる前提知識がおかしいかもとか考えもせんのか >>903
毛利に関連した書状ではないが、同時期に御城=伏見としている書状はあるよ
慶長4年閏3月25日付真田信幸宛徳川秀忠書状
「然者御城へ内府被相移候由、蒙仰段、得其意祝着至候、尚上洛節可申述候、」
この書状は伏見に居た真田信幸が江戸の秀忠に、家康が御城(伏見城)に移った旨を報告したことに対する返書
ここでは家康が向島から伏見に移ったことを言ってるんだろう
ただ46号文書に関しては自分も御城=大坂城だと思ってる
1月に秀頼が大坂城に移ったばかりなのに、小出・片桐が伏見に詰めてるとは考えにくいし そういえば織豊期主要人物居所集成だと浅野長政の七将事件の時にいる場所大坂になってたよね >>915
>>55
↑これアンタでしょ?ブレ過ぎ そういえば石田三成って、
浅野長政に属していた旧那須家の家臣那須七騎が長政の計らいで帰国したところを秀吉に密告したって話があるらしいね。
危うく成敗されるところだったけど徳川家康に救って貰った。関ヶ原の戦いでは東軍に属したってことで三成さん…また無駄に敵を作って。 46号文書の「御城」は二つあるけど、一つは彼衆が言う御城でもう一つは輝元が調査した御城。後者が大坂城なのは間違いないけど前者が何処なのかはわからない。
七将襲撃に対する反撃だという光成説なら伏見も大坂もあり得る。大坂にいる七将を討伐するか伏見の三成を援護するかの戦略選択になる。
問題は家康へのクーデターだとすると伏見以外あり得なくなってしまう。この時大坂城には前田・宇喜多もいる。そこに兵を送ったのではこの二家も敵に回すしそうなるの反豊臣公儀の烙印を押される。あまり合理的とは言えん。大坂城だとするならそこにいた勢力への攻撃なのは確かだから徳川は除外する必要があるだろう。 文書内で同一単語が別のもの指すなんて解釈誰もしないって話ずっとされてるのになおその書き方するの、わざと荒らしたがってるのかってレベルだから人の話まともに聞く気があるなら素直に反省して欲しい
そうじゃないなら話聞く気もないのに書き込むな以外に言うことない >>922
文書では、普通に大坂城としか読めないよ。
日本語読解力の問題。
次の段階で、大坂なのか伏見なのか当時の状況を検証し、毛利の誤認を立証するのはご自由にどうぞ、って話。 >>922
ここのやり口はわかったから、46号慶長四年説の主張よりも、慶長五年説の否定をやってやればいいよ。 その作業で七将襲撃があった事を証明出来るんなら頑張ればいいと思うよ
というか、完全に目的見失ってるよね(笑 >>924
大坂城だとすると三成クーデター説は完全に否定する事になるけどそれで良いってことかな? >>927
なぜ?
三成は、家康(ねらいたて仕候者=彼方(衆))に対する挙兵を輝元に依頼してるけど。 家康を狙えと三成は言ってるけど
大阪城内が味方じゃないから
(秀頼の身柄押さえて正当性主張できないので)
無理だよね
って言ってるだけだろ まず慶長四年だとすると家康に対するクーデターなら攻めるべきは伏見であって大坂ではない。この時は大坂には前田・宇喜多そして秀頼がいる。そこを攻撃してもクーデターにはならない。それどころか豊臣への謀叛になってしまう。つまり「御城」が大坂城なら敵は徳川ではない(また、クーデターでも無いだろう)
慶長五年だとすると寺沢広高によってクーデター計画はバレバレというオチになる。更に増田長盛の「三成から身を引かないとこのままじゃ済まない(とかく治少より身を引候ハてハ、すミ候ましく候)」「内府と景勝の縁辺が整った」という報告の解釈が難しい。具体的にどの事件かを提示せんといかんが正直見つからない。白峰氏は会津征伐だとするがそれは幾ら何でも遅過ぎるし。 >>929
46号文書には一言も「家康が敵」とは書いてないし、
何より問題なのは大坂には前田と宇喜多がいるからそもそも秀頼の身柄とか押さえられる筈もない。家康が大坂城に入ってから尚更押さえようとか考える方がどうかしてるわな。 他書状で御城だけじゃなくていいや
書状内で同一の指示語が違うものを指してる事例ってあるの?前提なしで >>931
であれば、46号文書には浅野・七将のいずれも一言も敵と書かれていないな
一体、三成は誰を攻めろと言ってるんだ??(笑 >>933
浅野と武断派とは険悪なようだが家康と険悪というのは聞いたことがない >>934
でなくて。
直接家康と書かれていなければ敵とされないなら、浅野・七将も書かれてませんよね?という話 >>935
断定できなければ推測するしかないですな
三成が妄言を吐いて輝元が乗ってしまった可能性もありえますが >>936
推測というより、読解力の問題。
毛利の私文書を正確に読み下す。次の段階で、当時の状況を検証し毛利の誤認を立証するのは、ご自由にどうぞ、という事。 >>931
攻めろとは言ってるけど敵が誰とも言ってないから
誰か人を攻めるつもりはなかった!とでも?
おもしろいこというねw
ていうか誰を攻めようとそれは政権にとって
あってはならない事態なんだよ
一大名が勝手な軍事行動で目的達成しちゃうとか
武家政権として機能してないことになる訳で
その時点で討伐対象になるのは免れない
それを避けるためには政権中枢を握って
反対するもの全て黙らす必要ある
そのためには大阪の「御城」を押さえなきゃならない
実際関ヶ原の時もそうしたろ? 今リアルタイムでウクライナ侵攻が起きてるが、情報が混乱してて何が起きてるのか
良く分からない
首都のキエフ近郊で既に戦闘が起きてるみたいだが、何方が優勢なのか何処をどちらが
占領してるのかすら分からない
リアルタイムでSNSで情報が拡散してる現代ですら、軍事侵攻ってのはこんな物だぞ
確実なのはウクライナの空軍が無力化されてる事と、キエフで戦闘起きてる事程度
これが現実なのに、確実な一次資料無いからなかったも極端だろ
この事件の結果が、徳川独裁が成立した政変ってのを無視するのはおかしいだろ >>11
というか明確に軍事クーデターを促してる訳で
どっちにしてもヤバい奴でしょ >>939
その通りで今のウクライナ情勢は細かくはわからないが
戦闘が起きてることだけはこれだけはっきりと
大量に記録され続けてるってのに
三成襲撃が記録されてないのはおかし過ぎだよな 史実でもそうなんだけど、家康排斥を目的とした西軍の初手は、家康不在の大阪城占拠、秀頼確保だよね
46号文書の、仮想敵家康で、家康がいない大坂城を攻撃もしくは占拠対象とすることに全く違和感ないんだけど 普通の読解力、思考力、素直さを持った人なら、「御城」が両方とも大坂城であることはわかってる。 マカロニウェスタンやマッドマックスじゃあるまいし
殺したもの勝ちの無法地帯ではないんよね
政争の相手を表立って殺してしまおうってんだから
ヤルからには一気に政権を握ってしまって
逆らう奴は討伐できるとこまで持ち込まなきゃね
狙いは内府だから大阪なんてどうでも良い
ってことにはならないしむしろ毛利としては
家康と戦争するなら勝てば政権を握れるって
保証は必須だよ >>851
>自治少・小西・寺沢被越候ハねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、
この一文で、石田・小西・寺沢らが様子を窺っていて手をこまねいてるのはだれか、というのを
可能性が高そう、あるいは可能性がなくはないと思えるのを列挙すると、
・慶長四年閏3月の浅野長政、
・慶長四年1月の徳川家康、
:慶長五年5〜6月頃の徳川家康、
慶長四年閏3月の徳川家康、
・慶長四年9月の前田利長、あるいは浅野長政、
このあたりではないかと思う。
個人的には書状内の整合性から一番可能性が高そうなのが慶長四年閏3月の浅野長政でははいかと考える。
慶長四年1月の徳川家康は、利家を差し置いて石田・毛利がというのどうなのか?
慶長五年の徳川家康は上杉征伐がうまくいきそうになかったか?
慶長四年9月の前田利長あるいは浅野長政は兵を動員するまでもないように思える。
慶長四年閏3月の徳川家康は、七将の背後に徳川家康がいると見るなら成立する。 >>944
慶長四年からの大坂城は八月までは前田が、九月からは徳川が入ってるから攻撃する必要は全く無い、ていうか論理的に考えれば攻められない。前田・徳川軍が入っているのにそこに兵を向ければ即豊臣への叛逆になるからね。秀頼を確保するには前田も徳川も居ない時期を狙うしかないがそれもかなりリスキー。例えば「大坂の兵に軍事攻撃されたのでそいつを討伐する」とかなら不可能じゃないだろうけど。
46号文書の「御城」が大坂城だとすると三成の狙いは徳川じゃ無かったことになる。 実際リスキーだから本文中で無理っぽいなこれって感じで書かれてないかね、あの文章 >>946
最後の結論書くためだけに長文捏ね回したのよく伝わるわ
前田利家は秀頼傅役として大阪城に入ったけども
潤3年に没したのは大阪城下の前田邸
めっちゃお隣だが城内ではないのがポイントな
前田と徳川の手打ち後家康が利家を見舞ったのも前田邸
この期間なおも三成が家康狙ってて毛利挙兵促して
大阪抑えられないから無理ゲーで言われてんのが
46号文書という理解だね >>945
書状『内』の整合性で、唯一の可能性は家康としか言えない。
二文目「面むきハさ様申候か、彼衆申候所ハ御城ハ彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入と
まり、不入立之由候事、」が一文目と接続しない。
二文目文頭の「表面上はそう申したのでしょうが」により、二文目は一文目と接続された文である事がわかるが、
(一文目)「小西・寺沢」=(二文目)「彼衆」
(一文目)「ねらいたて仕候者」=(二文目)「彼方(衆)」
また後段で、「御城」=大坂城、「彼方衆」=「内府方」なのは明らか。
キミの整合性は、『文書内』の整合性ではなく、『当時の状況』を後世からみた整合性なわけ。 >>945
途中で切れました。
何回も言ってますが、『文書の整合性』という観点で、浅野・七将は46号文書で全く登場しませんし、
他の毛利文書で、彼等を仮想敵とした文書がありますか?まだ回答もらってないですよね?
また、46号文書は七将襲撃の存在をい証明する史料として、過去に提示されたものです。
「七将の背後に徳川家康がいると見るなら成立する」のは、主客転倒な話なわけです。
もうアホらしくて仕方ないんですが、ならば七将の背後に徳川家康がいる史料を示してください、という事なんですよ。 >>950
じゃああなたは家康だとみなしていればいいんじゃない?
>>951
あほらしいならレスしなきゃいいじゃん、>945は>>851にレスしたんだから。 >>953
>自治少・小西・寺沢被越候ハねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、
これが慶長四年閏3月の家康に該当しないとするならば、いつの時期の家康なのか。
七将の背後に家康はいるわけではない、中立だとするなら、
「一かう珍事なく、結句手おきたる、」とはならない。
慶長四年1月か、慶長五年5〜6月頃か、あるいはそれ以外の時期か。 >>954
質問を質問で返すなよ(笑
まずは、自分が『七将の背後に家康がいる』史料出しなよ。
七将襲撃の有無から話を逸らすつもりはない。
いつの家康とかどうでもいいわ。
『文書内の整合性』で家康と言っている。
キミの言っているのは、『史実との整合性』。
毛利誤認の指摘は、別でやってくれ。 >>955
徳川家康だと主張するならば、主張する者が説明すべきこと。
「ねらいたて仕候者は徳川家康です。でもなぜ家康が
一かう珍事なく、結句手おきたるのかはわかりません。」
あなたの主張がこうだということはわかりました。
>自治少・小西・寺沢被越候ハねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、 >>956
徳川家康の根拠は出してるけど?(>>950)
文書内の整合性で説明している。
キミ、ズルいよね。
浅野を仮想敵とする史料だって出さないままフェードアウトして、只今現在だって出していない。
忘れた頃に、何事もなかったかのように、回答なしのまま、同じ主張を繰り返す。 >>956
キミの主張がなぜ妄想なのかは、こんな感じで説明できる。
・46号文書に、浅野・七将の記載はありますか?。 ⇒ 全くありません。
・他の毛利文書で、浅野・七将を仮想敵とする史料は、ありますか? ⇒ ありません。
・状況証拠から、七将襲撃を説明できますか? ⇒ できません。七将襲撃が存在するという事前知識があって初めて組み立てることができます。
・では、七将襲撃が記載されている同時代史料を示してください。 ⇒ ありません。 >>949
前田利家は太閤遺言で大坂城を預かってる。そしてその地位は徳川家康が後見する形で前田利長が承継してる。
つまり大坂城を攻撃されたら前田家の面子は丸潰れだぞ?秀吉から預かった城を守れなかったことになるから。更に宇喜多秀家も激怒するだろう。彼もまた大坂を守護するよう言われてたって話だから。余程の理由、例えば七将が三成を殺そうとした謀反人だからとかの理由を付けないと軍事行動は許されん。 >>947
臆病者のでしゃばり、輝元の地がよく出てるよな >>959
勝手に軍を動かして政敵葬り去った時点で
政権を預かる徳川も前田も
面子なんて潰されるんだって
だから政権握ってしまってそいつらを
黙らす、逆らったら討伐する
(又は最初の軍事行動で潰す)
それは46号文書みたいな相談の時点で元より必須
そんな認識もなくただ政敵殺せば良いと思ってるとか
マジで当時の政情をマッドマックス並みの
無法地帯とでも思ってんのか?って不思議なくらいだわ そもそも元からして三成らは前田焚きつけて
家康糾弾しようとしてたわけじゃん?
それが手打ちになって雪解けムードのはずが
利家の死に前後して急に緊張が高まって
結果三成が責任取らされて隠居
そして46号文書には毛利巻き込んだ
家康襲撃軍事クーデターをお誘い
そんな計画そもそも味方以外の大老の
面子なんてはなから潰す覚悟でなきゃできんわ 30、43、45、46号はどう見ても一連の文書
44号だけは、こちらはどう見ても慶長4年の文書
想像、妄想じゃなくて読みなさい >>963
読め読めうるさいから再度読んでみたけど、43号文書と言われる書状のこの部分、
増右・治少より被申分ニハ、景勝・我等覚悟次第、
何に分ニも可相定との儀候条、景勝申談候而異見申候、
可有分別哉と存候、趣可申候、
この「景勝申談候而異見申候、可有分別哉と存候、趣可申候、」
これなんて訳す?
輝元が景勝と話して意見を述べた。
こんなかんじの意味なら少なくともこの43号は慶長四年8月以前のもの、となる。
他の書状群も同時期と見なすならば、同じく慶長四年8月以前となる。 >>962
雪解けて何勘違いしてるんだよ、家康がやったのは私的婚姻で豊臣公儀の面子潰したんだぞ
豊臣家の権威低下と、徳川の権威向上目的なのは明らか
しかし、一時形勢が悪くなったので時間稼ぎしただけだろ
前田が重病って情報は当然掴んでただろうし、露骨な時間稼ぎしただけ 豊臣のもはや最大手の姻族だろ徳川
むしろ徳川の権威の向上と豊臣の権威向上は一心同体な所までしっかりお膳立てしてあるって何回も言われてるよな例え話荒らし >>965
勘違い?何が?利家家康間の和解知らないの?
豊臣公儀の面子も何もこの二人が豊臣公儀の代表じゃん 確かに、いわゆる徳川私婚問題の相手先って、伊達を除いて豊臣子飼・恩顧ばかり。
豊臣公儀の権威低下などではなく、豊臣徳川の関係強化の観点で全然問題ではない。 秀次が生きていれば余裕で娘や養女を嫁がせられたのにな >>964
なぜよ
増田と石田が徳川打倒の覚悟固めろと言ってきた、それで輝元は(主戦論の)景勝に異見した
分別が大事だと思いますが、元康はどう思いますか?ってとこ
すべて書状のやり取りだ、だから景勝の反応が示されていない
続く山名については「夕部禅高被越候而かたり被申候」とあるから、これは明確に面会だ
その上で山名は家康ととんでもなく仲がいい、その山名が神文かわすのがいいよといったので異議なく安心したとしている
一貫して輝元は家康と景勝の対立に慎重で、巻き込まれたくない様子
ここまで対立が先鋭化して神文かわせというような時期は慶長5年と解釈する >>964
上杉文書によると、慶長4年11月5日付けで景勝宛て家康書状があり、「こっちは油断なくやってるから安心してね」と報じたりしている
「調」だのの雰囲気はない、まだ表面上は喧嘩してないので
家康昵懇のものが神文かわすのがいいってことは、当然対立が表面化してないとおかしいでしょ
慶長5年3月からごちゃごちゃしだした、そこら辺以降の書状だよ >>971
手紙のやり取りの表現で、申談って使うの?
会話のやり取りの表現かと思ったけど。
言った、発言した、なら聴いた、
つまり話したと解釈したけど。 >>964
慶長4年8月に景勝が帰国すると、秀忠が「近くだから立ち寄ってくれると思ったのに直ちに御下国されて残念です」なんて書状を出している
「一段御残多存知候」ってね、上杉文書引用
家康昵懇衆が神文かわせとまでいう対立がその前にあったように感じられないし、かわして和解したなんて事実も聞いたことがない >>973
ちょっと調べてみたが、手紙でのやり取りであっても「申談」は使われてるな
慶長5年7月29日付真田昌幸宛宇喜多秀家書状、同日付真田昌幸宛毛利輝元書状
「景勝申談上者、関東之儀可属平均事案之内候」
慶長5年7月29日付真田昌幸宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状
「其上景勝申談候者、関東即時ニ破滅たるへく候」 >>973
分かりやすいのでいうと、以下の顕如が朝倉に宛てた書状、元亀2年ね
去年夏頃絵二幅〈舜挙筆〉・盆一枚贈給候、依路次不合期、只今到来、懇信之儀祝着之至候、毎事於向後、弥可申談候、旁自是可申展候、委細之趣頼総法印可申入候、々/二月七日 々/朝倉左衛門督(義景)殿
面談という意味で使われていない
ちょっと43号文書とは使い方が違うが >>975
>>976
なるほど、かならずしも輝元が景勝と会話したとは限らないわけですか。
断定(限定)材料になるかと思ったけど、年次未詳は伊達じゃないってわけか。
47号だと、
「内府へも被参候而万被申談候へかしと申候、」とかあるけど。
スレタイと離れるからあまり触れるべきではないんだけど、
慶長四年1月の線についてはどう思いますか?
利家について全く触れられていない点が大きな疑問になるけど。 皆が皆、三成憎しで動いてたわけじゃない
じゃなきゃ多くの信長の息子が西軍に与するわけがない
★西軍側
信包(信長の弟)、信高(信長の七男)信吉(信長の八男)信貞(信長の九男)長次(信長の十一男)
秀信(信忠の子)
☆東軍側
長益(信長の弟)
▲中立
信雄(信長の二男) 所領がもろ近畿側でその殆どが一万に満たない少禄、大きくて兵庫に3万石の信包ってのが今挙げられた秀信、信雄、有楽以外の織田の血族
そんな状態のが畿内で大軍勢挙がってそれに与しないで生き残れるのか、ちゃんと考えてから書いたか? 三成と武断派の争いなら勝手にやってくれで済むんだが徳川と毛利の戦争になったからな
信雄なんか中立でも改易くらうんだから立場表明は大事 勝手にやってじゃすまんでしょ
普通に喧嘩両成敗で討伐対象だよ
でも実際には三成vs武断派なんていう
「七将三成襲撃」というフィクションに
基づく対立構造ではなかったてだけ >>981
だから七将は事前に徳川家康に話は通してある。その為に浅野長政が伏見まで行ってた訳で。
ただ、石田三成が大坂から伏見に移動する理由は全く無い。だから大坂で七将による三成襲撃計画があってそれで退避する必要があったという話になる。仮に徳川に対するクーデターを企てていたとしても大坂の屋敷に兵を集めたかったろうにそれを棄てたわけだからね。 >>965
慶長四年三月八日に前田利家は徳川家康に息子利長の後見を依頼してる(利家公御代覚書)。これは同日に宇喜多秀家・徳川家康の起請文で確認されてるからおそらく事実と思われる。
つまり利家は家康と完全に和解するばかりか更に前田家を徳川に預けた事になる。この後三月二十八日には利長が徳川秀忠に「お取立てをお願いする」という書状を出してる。こうなったのは細川忠興の存在が大きかったらしく忠興は利長に「徳川と前田の仲を裂こうとしてるのは石田三成だ。何故なら利家が死んで家康も死ねば自分が天下を取れると思ってるからだ」と説得して両家の和睦を媒介したという。 >>983
七将襲撃が記載された史料は、第三者史料も含め一切ない。
これほどの大事件が、一切残っていない違和感。
一方で、訴訟とする史料は複数現存している。
キミの主張は、七将襲撃ありきのシナリオ。 襲撃失敗したからだろ
未遂だったから全容がわからなくて記録に残らんかった それならもっとやったのに未遂に終わりましたって証明が必要でしょ
記録にないのにやったんだは陰謀論じゃん >>967
大名の場合、縁組は実質的には人質交換ですよ
だから「政権の許可が無い私的婚姻は禁止する」は、極めて普通の規定でして
そして太閤の遺言を普通に解釈するなら徳川と前田の連立政権で有る以上あれは喧嘩売ってるのと
同じ意味しかない
少なくとも、前田に話通してないから大阪と伏見の睨み合いになったんでしょ
これで家康の悪意が見えないなら病気だぞ 病気はお前だ例え話荒らし
何回否定された話ろくな根拠持ってこず出してくんだお前 婚姻はその後も解消されることもなく、つつがなく豊臣とその後見である徳川の関係強化に至ったわな >>988
あなたが言う通り連立政権であるならば
一方の決定権が家康にはあるし
その家康と結びつくのは政権の安定のためになる
あなたは「家康の悪意」ありきで考えすぎて
悪意しか見えなくなってるよ 家康の私婚問題は完全に家康勝利で終わったって話だしなんとも言えない。間違いなく言えるのは慶長四年三月に徳川と前田は和睦、家康は利長の後見人になったってこと。
その結果徳川の力は最大になった。 浅野長政は七将事件時に伏見行ってないぞ、居所集成だと
なにを根拠に伏見に行ったと言ってるんだ?勝手に伏見行ったと思い込んでないか 元々秀吉死後や豊臣系大名とかのスレで何かとレス食いつぶす話題なので対策として立てたスレだけど、次スレいるのかな 秀吉死後の情勢スレでやってていい話だと思うの、スレ乱発したところで話す人間ある程度固定されてるんだから
やたらスレを細分化する必要はなかったんじゃないか? 結局ここまで議論してきて、この事件?に関して資料から確実にありそうと読み取れることってなんだろう。
@このあと三成は、家康裁定により謹慎処分となった。
Aこのとき三成は、誰かに対抗するために兵士の派遣を要求した。
あたりかしら。 このときなのか慶長5年なのか結局わかってない
まあ研究者ですら断定できてないものを1000レス程度で、しかもちょくちょく根拠なく話戻そうとする妨害屋がいながら断定出来るわけもなく
とはいえしっかり史料出し合った上でわからないはそれはそれとして貴重な知識と思うが このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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