>>35
永禄12年の時点で既に武田はさまざまに軍装とか軍役についての命令をしてると思うんだけど。
軍鑑を読んでも、武田家臣の軍勢動員数が基本的には定められていたように思われる。
むしろ、武田は戦国武将達の中で、法度などの制定をはじめとしての領国統治や、軍役の命令については、意欲的な方だと思う。
織田とか信長公記とか読むと、1580年の佐久間折檻状を考慮するに、
佐久間追放の時点でも、家臣の武将達に信長が具体的な軍役の命令をできていたのか疑問に思うけど。

長篠についても、そんなに織田と武田の圧倒的な差とやらは伺えないように思えるかな。
織田側の信長公記を考慮しても、勝頼がわざわざ設楽にやってこないで、
長篠城周辺の地形を利用して守っていたら、織田徳川勢が長篠城を救援するのは厳しかったように思われるし、武田側の軍鑑を読んでも、幾人もの重臣達が設楽に移動して織田徳川勢と決戦する事に反対していたように思われるので、
勝頼が設楽に移動しなかったら勝敗が違っていたように思われる事から、
長篠の戦いの勝敗を織田と武田の決定的な差を伺わせる材料にするのは厳しい様に思うかな。