武田家としては躑躅ヶ崎館は防衛拠点として心許なかったらしく防衛力の高い拠点の構築には信豊らも賛成していたらしい。
ただ勝頼が純粋に防衛拠点として新府城を作ったとは思えない。というのも勝頼は新府城が未完成の状態で入城してる。城が建前だけで入城すること自体は珍しくはないけど防衛拠点を求めていたならこの動きは矛盾してる。防衛拠点として完成されてたならまだ分かるけど新府城は明らかに防衛拠点としては機能出来ない状態だった。しかもこの時、躑躅ヶ崎館を破却してる。そんな事をする余裕があったとも思えんのだが…(ぶっ壊すのだってカネが必要かだろうに)
だから複合的理由で遷都したとしてもその優先度は軍事的動機<その他の要因、だった可能性がかなり高いんじゃないか?