豊臣恩顧大名や武将について考察する2
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
いわゆる豊臣恩顧と呼ばれる大名や武将について、その定義や含まれる大名や武将の範囲、あるいは逆に含まれないのはどんな大名や武将なのかなどなど色々と考えてみましょう
前スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1639737819/ 豊鑑を描いたと言われる竹中重門がどの程度の豊臣恩顧になるか分らんが
三池純正氏に拠れば垂井、関ヶ原を領地にしていた重門が東軍に寝返った影響は
大きいとしているけど、実際どんなもんだろう あんな大軍でぶつかりあっただけの合戦に地の利もなんもない
織豊系の大名ならみんな行き来してて地形知ってただろうし おじさんが社長になったんで若くして重役になれたやつと、
親父の元上司が独立したら大企業になったんでコネで入れてもらったぐらいの感覚差はあるだろ 黒田長政の部隊は竹中家から抜け道か何かを教えてもらって島左近を狙撃したって話があったな 主戦場周辺を領地にしている竹中が寝返ったんで機密も持ってかれたんじゃないかって話じゃなかったかな 領地周辺まで東軍の勢力が及んだから
孤立の心配なくなって寝返っただけなんじゃ・・
それで戦況に大きな影響があったかと言われると?
恩顧具合という意味では竹中家としては
実は秀吉の与力であった重治とその子重門の系統は
信長直臣から鞍替えだからか大名にもなれなかった
重治死後にいち早く秀吉に仕えた
一族の重利の方が重用され大名に出世 息子の重門は黒田長政に誘われて東軍に入って、
甥の重利は黒田如水に恫喝されて東軍に入った
なんだかんだ繋がりあったんだね お主の手は何してたん?って黒田さんの逸話だっけ?
その割には徳川にべったりな気もするけど… ウチの殿様あのときなら天下ねらえたんだけどなー!(実際はそんなことない)
ってのが家譜の基本姿勢だからね 国会図書館デジタルコレクションで読める史籍集覧の13巻に利家夜話があるけど持ち上げているよな 家康一人勝ちになり残念と書状に書いてるから第三勢力の狙いはあったんだろうね
実際西軍だらけの九州がものの見事に東軍側にひっくり返ってたから >>19
へー、そんな書状あるのか知らなかった
広家宛に早く輝元の頭を内府に下げさせた方がいいと言ってるしむしろガッツリ東軍側として動いてる様子だから意外 10月4日付の吉川広家宛書状だな
「上方於美濃口御取相当月迄も御座候者、中国へ切上、花々と見知返し候而、
一合戦可仕と存候ニ、者やく内府御勝手ニ罷成残多候」
白峰氏もこの書状を根拠に表面上は家康に従いつつも、如水の本心は別の所にあったと言ってるけどどうなんだろうな
関ヶ原の時の如水は一貫して家康の御意に沿った行動を取ってるのは間違いない
ただ当該書状は第三勢力を狙うような意味にも取れるし、
中央で西軍首脳らと華々しく大戦ができずに残念だとも取れるし微妙だ 普通に「東軍として」と取らない理由は
上記の後世の逸話しかないような? というか天下云々はともかく漁夫の利狙いの第三勢力はそんなに否定するものでも無いんじゃ?
当時の状況は応仁の乱の再来とでも捉えられただろうし大乱に合わせた所領拡大は理に叶った話 領地拡張を狙った動きは輝元や景勝、政宗とかもしているしね 領土的野心もあったろうし
政治的野心もあったと思うよ
でもそれは東軍を離れた第三勢力として
ってのとは全く別の話
家康が畿内の動乱を収められずにいるうちに
九州をまとめて中国に攻め入れば
東軍勝利の立役者は黒田になる
その方が領土も政治的立身も約束されるじゃん 羽柴信吉(豊臣秀次)に仕えて小牧・長久手の戦いで戦死した木下雅楽助
(織田連枝衆としての名乗りは織田周防守)の「木下」って秀吉にもらったもの?
それとも別の木下氏?
息子の木下延重も所領は多くないけど、豊臣政権奉行衆では五奉行に次ぐ
十人衆に数えられる重臣だよね 東軍=徳川軍じゃないからな
むしろ東軍=豊臣公儀として行動してて
九州の黒田もその名目で戦ってる
木下雅楽助は織田家庶流で元織田薩摩守
信長初期の寵臣中川重政の弟
兄ともども家中で跡の絶えた家を継いだ
秀吉を織田庶流とする際の根拠だね
逆に秀吉が木下雅楽助の寄子で
信長に気に入られて名乗りを許された
と明智軍記にあるそうだが怪しい 秀吉、織田の氏族あたる遠江木下氏じゃねって話もあるっちゃあるね、遠江木下氏の仮名に藤三やら藤二郎ってのがいたり沢瀉紋使ってる共通点があったりで 遠江木下ていくつか名前が
文書に確認できる程度では?
織田の支族だとか家紋だとかて
何で確認できるの 遠江木下氏が織田の氏族であるって記述とその家紋が沢瀉紋ってのは姓氏家系大辞典に載ってますね 東軍に自分たちが徳川軍じゃない、と考えていたかはかなり微妙だと思う。だってその割には豊臣に御恩を感じてる連中が居ないんだもの。豊臣公儀に属して戦ったというならその奉公は豊臣にしたもので御恩は豊臣から貰ったものになる。
またそれなら御恩の提示は豊臣からされないとならないがそんな書類も無いし。
戦国大名にとって御恩と奉公はシビアな契約、誰からの御恩で誰に奉公してるかは厳格に取る。東軍諸将は徳川から提示された御恩を請けて奉公した。この時点で徳川軍となった。
諸将からすると御恩を出しもしない豊臣に恩なんか感じもしたいだろうし… >>32
URL先 キノの段22の番号のが遠江木下氏では? >>33
あなたのその感覚の方が微妙だと思う
御恩というのは恩に切るとかの感情面ではなく
御恩と奉公という社会的政治的な概念
厳格だからこそ御恩なき奉公はない
豊臣政権の大名は形の上で御恩は政権から
受けてたので東軍諸将は奉公(戦い)で応えた
それに対して政権トップの家康が論功行賞を行い
それが新恩となったわけ
その段階では家康の決定=豊臣政権の決定なので
東軍諸将は別に主を乗り換えたわけではない この徳川=豊臣政権の関係が崩れるのは
家康が将軍になり秀忠が継ぐ流れから
諸大名は江戸の将軍に出仕するようになる
それでも豊臣家と徳川家が敵対したわけではない >>34
その項目には遠江の氏族であるとは
何処にも書いてないよね?
遠江木下氏は10にあるがそこには
文書に名が見られるという以上の記載はない
この両者が同一だということのようだが
何か新史料によって結びついたのかな? >>37
あーなるほど、ご指摘理解しました
確かに結びつけがないか ごめん >>35
御恩と奉公が厳格ってのはその通りで、故に「厳格に」考えないといけない。つまり「誰が」御恩を提示したか?ってところをね。武士は提示された御恩を請けて奉公する。この時実はその相手は個人だったりする。そいつがどんな立場だとかは重要じゃない。つまり豊臣から諸将に奉公を命じる場合、前もって豊臣から御恩を提示してないとならん。ところが東軍諸将は家康から御恩を提示されこれに従ってる。これでは諸将は豊臣に奉公する道理がない。それで実際、「家康さまからの恩はあるが豊臣には無い」って言われているんじゃないか? >>39
いや実際には重視されるのは
「誰に恩を受けたか」ではなく
「誰が恩を授けてくれるか」
そして恩というのは現実的な
地位と領土の保証なんだよ だとすると秀頼からの恩給発付状があるなら豊臣への御恩があるけど家康からのしかなければ家康からの御恩って事になるんじゃないか?
法的政治的機構なんて武将には無関係であくまで誰がどんな恩賞をくれるのかが重要なんだし。家康があんまり「東軍こそ公儀」とかを押してないのも諸将のホンネがわかっていたからこそなのか…? 現実的にどう振る舞えば自分達の
地位と領土が保証されるか?
というのが判断基準なんで
そういう重箱の隅みたいな手続き論で
動いてる訳ではないんだよ
家康は元より豊臣政権の大老主席で
元より豊臣家と朝廷に支持されて
出征してる訳でそれが公儀でないとは
ちょっと不思議な論理だね
家康が豊臣を裏切り自分個人に忠節しろ
とでも言い出したら公儀でなくなるだろうが
勿論そんなことは一切言っておらず
西軍が挙兵したからと政治的立場が
変わってしまった訳ではない
単に大阪城を占拠しただけで豊臣家からさえ
支持を受けることができない西軍側の方が
むしろ政権を握る正当性的に厳しかろう 恩給発布は関ヶ原終わってから、なのになんでそれが関ヶ原前に遡るのか
またこっちこそ公儀って強弁も公儀でない側が糊塗する必要があるからやるわけで、実際に公儀であればやる必要薄いね
ついでに言うと西軍は秀頼がなんと言おうとと言う形て恩賞の発給を約束するものもあるので、その理屈だと西軍は建前としても建てられてない話にもなるね >>39
この場合の御恩と言うのは、領地の安堵と恩賞の事なのは理解できるよね
東軍大名は形式的には豊臣家の大名で、領地の安堵状は豊臣家の名義なんだからさ
これで豊臣家の御恩受けてないというのは詭弁だね
ま、家康がなかなか動けなかった理由もそれで東軍先鋒が其の儘全軍寝返っても何も
文句いえないからさ
あの時点では家康の方が反乱軍なのだから、豊臣政府軍に帰順しても道義的非難は >>43
バタフライエフェクトを頑固に否定する人って意外と居るからですよ
実際、後で全ての情報が見られる人から見れば「何でこうなるの?」的な出来事は普通に
頻繁に起きてるんですよね
家康が最後の勝利者って前提で物事を見てるから、その時点で客観的に如何みえてるのか
って事を無視してるのが原因かと
帝政ローマ時代の記録だと、カエサルの副将ラビエヌスは「神君カエサルを裏切った逆賊」と
書かれてますが、あの時点でカエサル軍の方が反乱軍なのでして
神君カエサルと、神君家康、似てるでしょ 絡んでくるな史料研究もってこいって毎回言ってるだろ、例え話荒らし
よくまあ恥ずかしげもなくこっちに絡んでこれるなお前、さっさと求められた根拠耳揃えて出せや 豊臣恩顧というより秀吉恩顧にした方がいいんじゃないか
でないと藤堂みたいな奴も豊臣恩顧になるからな そもそも豊臣恩顧なんて呼び方を今使うの後世からの歪んだ贔屓くらいでしか使わないし
秀長仕えが長いって理由からかは知らないが藤堂をそこかれ外すって考えても良くわからないが >>44
家康が反乱軍?ちょっと何言ってるかわからないな
ちゃんとした説明を頼む
家康の会津征伐軍は豊臣家も朝廷も支持した
まさに豊臣政府軍だよ
西軍はその留守に蜂起したけど
自分達以外に支持した権威はなくて
それで反乱軍じゃないとは? >>49
そいつは例え話荒らしとよく言われるかなりたちの悪い荒らしで
妄想を主張したあと、根拠になる史料や研究求められてるのに関係ない例え話を似てるからって理由で出して説明した気になっては毎回叱られてトンズラ、その後また同じ妄想たれ流しを繰り返してまともな人呆れさせてる頭おかしいやつだから構うだけ無駄
説明求めても関係一切しない例え話と根拠に全くなりえない自己基準の見える思うだけでしか答えないよ 実際西軍は内府ちかいの条々によって
政権の座にいる家康を弾劾した訳だけど
それが最もなことだと受け取られたかというと・・・
実際の歴史の動きは真逆なんよね
当の豊臣家がまず目の前に軍勢集められても
それを支持する声明さえ出していない
寺社や公家が西軍の蜂起を義挙として喜んだ
という記録も寡聞にして知らない
西軍こそ豊臣軍、豊臣公儀とする見方って
結局根拠は内府ちがひの条々しかないのよね 白峰氏あたりは三大老、四奉行が味方に付いたことが西軍が官軍の根拠じゃなかったっけ? 多数決による合議制がそもそも機能していないというか存在すら怪しいのに
数の論理を持ち出されてもなあ 白峰の説は正直白峰の中だけでしか通ってないからなぁ 別にそれによって西軍の方が正統だと
認識するのは個人の勝手なんだけど
当時そう認識されてたとは言い難いよね
ってだけの話やね
勿論勝った方が正義とされたという
単純な力の論理の側面もある訳だが
にしても当時西軍の正統が支持されたという
形跡も残ってないんよね
互いの勝因敗因からしてそれは言えることで
東軍には別に豊臣倒して家康に天下取らせよう
なんて言って活動してた奴はいないし
徳川家と譜代だけが家康を支持してたわけではなく
多くの「豊臣恩顧」の大名が活躍してた
西軍が自分達の正統性を訴えたのは確かだが
それが東軍より強く支持されたとは言い難いし
それによって強く結束した訳でもない 西軍最強の立花宗茂が戦場にいないとか色々間違えまくってんだよ西軍は
誰が立案したのか知らんけど 西軍は東軍諸将が動揺してると見ていたから戦線を拡大してた。あと清洲城が味方にならなかったので東の情報が入ってこなかったというのもあるんだとか。
そうしたら電撃的に岐阜城を落として西軍の戦略は瓦解、更に徳川の調略によって裏切りが多発(岐阜城が落ちたのもこれが一因でもある)戦略を立て直せないまま松尾山が小早川秀秋に取られて絶体絶命…
この有様だから根本的な戦略ミスを直せないと誰が居ても死人が増えてただけってオチになりそう。 自分たちが挙兵すれば会津征伐軍は瓦解するという間違った憶測から挙兵してるから、そもそもそれが間違いだと気づけるなら挙兵はしないっていう身も蓋もない話になってしまう 大津城の離反は絶対に放っておくわけにはいかないから
最強の札で取り返しに行ったとも言えるんじゃない
あの位置で粘られたら最悪だし >>59
大した力ないやん
あまりアテにならんのを宛がって塞いどけばそれでよかったんじゃないの 関ヶ原が起きたのは9/14に松尾山を小早川秀秋が占拠して大垣・佐和山ラインを東軍に潰された事が発端なので西軍からすると予想外の緊急事態だった。そうなると大津城に回した軍勢は緊急事態によって遊兵と化した訳でこれはどうしようもない不可抗力だったのでは… >>61
それは我々が関が原本戦がすぐに決着がついてしまうのを知ってるから言える話で
ただでさえ岐阜城の陥落で動揺が走っている状況なのだから
軍事的にも政治的にも要衝である大津城はさっさと取り返す必要がある
毛利元康や立花宗茂が派遣されて激戦になったのはそういうことじゃないかな 剛勇鎮西一と言われた人間が関ヶ原にいたからと言って戦況が変わるってもんでもなく、なんか考え方がゲームに寄り過ぎ 立花宗茂が家康から誘われて秀吉の恩義を理由に断ったってのは本当なの?
本当なら三成らの主張を無邪気に信じていたのか
家康の振る舞いを専横として苦々しく思う向きが奉行毛利ら以外にもあったということなのか 岐阜城が陥落して動揺し、家康からの調略によって裏切りが相次いでる。ここで大津城を見逃すと下手すりゃ国ごと東軍に転びかねない。そうなる前に決着させてしまおう、って訳でそんなに変な話でも無い気がするね。ところがもう既に崩壊が始まっていたと。 関ヶ原に兵力集中してたらとは言えるが
全軍率いる訳でもない1人の武将が
戦局ひっくり返すてのは夢想がすぎるな
他方面にいた予備兵力は東軍にもいた訳だし 結果はどうであれ、主戦場に立花宗茂と毛利秀包という二人がいると
いないとでは違いはあるだろう
宗茂だけでなく、毛利秀包も性格的も勇将タイプで、実戦経験と戦功は豊富
同い年の立花宗茂とは、肥後国人一揆の際に意気投合して義兄弟の契りをかわした仲で、
容姿が優れた秀包は宗茂と衆道の関係にあったとも言われるマブダチ
大津に貼り付けた毛利元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門の15000は、
南宮山の毛利秀元、吉川広家の16000は率いた戦力的に拮抗しているから、
歴史ファンが配置が逆であればなあと妄想したくなるのはしょうがないと思う ゲームと違ってタイプとかないんで
2人とも15000のうちごくごく一部しか指揮しないし
あと別に大津に張り付いてた訳じゃなく
大津城が東軍に着いたことで主戦場(と仮に言う)の
西軍が退路と連絡断たれるのを回復するために
絶対放置できない重要拠点落としに行っただけだし 少なくとも出典不明すぎるな宗茂のその逸話
また、あってもおかしくないとあったと断じれるは天と地ほどの差があるし
あったとするなら最低限あったとする側がその信憑性を提示しないとね 事績と実績から気性はわかるでしょ
それに二人とも13万石の独立した中堅大名だから3000〜5000人程度の直属の自家戦力を率いて参戦している まぁ立花さんが二万か三万率いていたら結構違ったかも知れないけど、立花さん一万くらいは連れていたのかな? 大津城攻めが毛利元康を大将として15000とされててそのうちに宗茂でしょ?
5000連れてたら頑張ってる方くらいの兵数かね どちらにせよ、猛将いたら戦況変わるような話かというと
関ヶ原最近は二重退きしてる最中に殿軍の毛利隊はさっさと東軍と結んでたので捕捉されて撃破された、とかも言われてるし 旧記雑録後編にある島津義弘書状によると、
「陣立ては長宗我部殿は二千人のところ五千人を、立花殿は千三百人のところ四千人を連れてくるそうです」とあるので居ても四千人かぁ…
絶妙に少ないな…居たらもしかしたら三成がもっと逃げれたかもしれん。
関ヶ原は向かいくる東軍を西軍が迎撃した戦じゃなくて松尾山を攻めようとした西軍の土手っ腹を東軍が食い破ってきた戦だから歴戦の猛者なら逃走を考えるんじゃないか? そもそもほとんどが日和見だったんじゃないの
そんな中で立花なんかは大坂城籠城を進言するほどやる気満々だったわけで、そういうやる気満々なのが優勢な空気を作ればどっちに転ぶかわからん大名はそれなりにいたんじゃないか テキトーな話だけどwikiの立花宗茂の項で宗茂の事績として載ってたもんで聞いてみたんだが
やっぱり軍記講談の類なわけね、wikiはそういうのをシレッとさも本当に言ったかのように書くからなあ
wikiがその辺低級なのは周知のことだけど一般ピープルはお手軽にそういうの読んで
また例え話荒らしみたく洗脳されてくから害悪でしかないな
秀吉の死から関ヶ原までの記述なんか明らかに旧来の家康悪人説で統一されてるし 4000人なら十分に多いよ
自国内または兵站が可能な隣国での戦いではない遠征軍、それも朝鮮出兵で
疲弊している大名の中で10000人動員できるのは徳川と前田ぐらいだ
そもそも中央統制の近代ならともかく、個々の大名は独立した友軍であって
支配下の兵じゃないあの当時で10000の指揮なんかそもそもありえない
西軍がまさにそうだし、東軍だって福島・池田たちは家康の指揮下にない
秀吉のような国家のトップでない限り、他の大名に指示できるのは
進行目標の提示や陣の配置調整ぐらいだ
「10000はないと・・」って、それこそ神の視点で全兵力を指揮できる
ゲーム脳だと思う >>80
あんた自身>>69で15000とかサバ読んでんじゃんw 大垣城の救援のために動いたら松尾山に小早川隊が陣取って、それ対処しようと松尾山近辺にいたところをすでに東軍と連絡済みの毛利隊が東軍素通ししてやられたって前提を無視して何を言っとるのか >>81
日本語読めないの?
大津に貼り付けた毛利元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門の15000
南宮山の毛利秀元、吉川広家の16000
これが、立花宗茂が15000率いているように見えるんだ? 秀忠時代以降
福島家加藤家だけ徹底的にそぎ落とされ
純粋豊臣恩顧の蜂須賀竹中黒田は普通に残ってる
福島加藤は秀吉親族だから狙われたのかな また湧いたよろくすっぽ調べないでテキトーに福島加藤が狙われたんだーとかいうやつ
笠谷の論文よめや >>83
読めるからタイプとか関係ないと突っ込んだんじゃん
最初は立花宗茂がいればとかアホ丸出しな話題だったのに
突っ込まれたら兵数の話にそらすのなんなん? IFの話はもうどうとでもゴールポストずれるわで話しても不毛になりがちだからそのへんでやめといたら?
歴史ファンでも自分のすきな武将活躍してればなぁって想像するのが楽しい人もいれば、史料研究から事実と解釈されるものを更新してくのが楽しいって人もいるし、その場合どうしたって噛み合わないから まぁ「もしあれがこうだったら」ってロマンは大事。
とは言え関ヶ原って謂わば処刑か見世物みたいなもんで毛利による三成切り捨ての儀式なんだよなぁ…
三成は二つの裏切りに遭ってしまった。一つは小早川秀秋で松尾山を占拠されたことで西軍の生命線に刃を突っ込まれてしまった。
二つ目が毛利で南宮山に布陣するという割と嫌がらせ的な行動に加えて東軍相手に微動だにしないことで東軍がストレートに関ヶ原に突っ込んできた。毛利はとっくに東軍に内通していたから当たり前ではあるんだけど。 京極高次の評価が低いからあんな奴に無駄な労力をって感じるだけで
戦後家康が評価したように高次を褒めればいいんだよね 京極高次は明智光秀に加担して負け組の悲哀を味わってるから
似たような状況の西軍に加担は出来ないと思うわ ちょっと前に竹中重門の裏切り効果の話題あったけど
その意味で評価されるべきは京極高次だよな
閨閥で出世したってのは早くから言われてたぽいが
大津という要衝を任される信頼は受けてたわけだし
周り西軍だらけの中でリスク冒して籠城戦選択して
寡兵で最大の効果をしっかり引き出してる
東軍先鋒には井伊本多らが目付についてたとは言え
東海道を任されてた「豊臣恩顧」の武将達が
同じことをしてたら流れ変わった可能性はある
が、そこまでして「西軍の大義」に殉じるものは
ついに現れなかった >>87
勝頼スレから流入してる気がするな
あそこ園児の砂場だから >>84
純粋豊臣恩顧??
蜂須賀も黒田も織田家時代に部下だっただけなのに >>86
自分の間違い指摘されると論点すり替えですか いや?オレは最初から
立花宗茂がいたかどうかは関係ない
と言う点で一貫してるぞ
それを兵数の問題にすり替えたのはあなたの方 誰それ強〜いとか、もしこうだったなら軍師おままごとはよそでやってほしい >>52
少し古いかも知れないけど白峰氏の論文
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363
石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた 推戴できてねーし補佐もなれてねーしで他はクーデターで火事場泥棒したからで豊臣から認められた訳でもないって考えると、根拠になってないよなぁこれ >>51
似たような状況で行くと、カエサルは本国ローマ占領して自分は元老院で執政官に選ばれたから
自分が正統ローマ軍だと主張してます。
でも元老院議員は600人もいて過半数はローマから逃亡してギリシャのポンペイウス陣営に
行ってる訳でして。
そして特に東方の、ローマの同盟都市や同盟部族や同盟王国はポンペイウスの方が正統ローマ軍だと
みなしてたようで「援軍だしてた」して
どう見てもファルサロスでポンペイウスの主力破るまではカエサルの方が反乱軍なのな。
内府違ひの条々みるとねえ... >>98
読んだけど牽強付会がすぎる
公儀と称した、実態のない宛行いを行ったとか
越中身上之義、 秀頼様より曲事
以下の文書も根拠にしているが、信じがたいし、2大老4奉行が揃ったことによって公儀が確立したのだとしたら秀頼の意向はあまり関係ない
まず石田、毛利政権なるものが秀頼をグリップしていたという根拠を示すべきだが、そこはなにも論証していない
単なるクーデター、秀頼の意向を騙ったとしか思えない
仮定に仮定を重ねるが、秀頼の意向を騙らねばならなかったとしたら、正統性ある公儀だと自らの陣営のことを思っていなかったんだろう >>99
同意見なんだが、レスポンスの速さからして論文の中身読んでないでしょ >>100
明確な主君である豊臣本家が西軍を相手にしてない時点でね
淀殿は西軍は謀反と認識して家康に通報してるし 結局たとえ話でしか語れない辺りほんとに一ミリも勉強せずに妄想だけで喋ってんのな
あれ似てる気がするだけで論拠になるなら燕に色目の似てるペンギンは空を飛ぶわな
どんだけアホな論陣はってんだあいつ ある意味で言うと豊臣を潰したのは西軍なんだよな。
力で押せば「公儀」になります、なんてのは政権として最悪の状況だわな。豊臣に天下人の資格なしと満天下に示してしまった。
毛利が大坂城を占拠した時点で豊臣公儀は崩壊し、徳川公儀が誕生したとすらいえる。 正統だと思うかどうかは
あなた自身の政治的立場の表明なので
好きにしてくれとしか言えない
が、あなたの(あなたがたの)政治的立場を
客観的な歴史上の事実と同一視はできないし
当時どう受け取られていたかも全く別の話だ
400年前の事象についてそんな視点で論じるのが
すでに正気の沙汰でないと言うのも理解して欲しい 木付城についても
其城之儀、大友方へ従 秀頼様被遣之由候て、差下之由候、上関辺迄被下候由、我等所へ申越候
石田、毛利政権なるものは秀頼の名前を出さないと動けない 単純にクーデター軍だって
正当性を主張してたというだけの話であって
だから何?としか言いようがない クーデターだの公儀だの、全部屁理屈を大真面目に語って白黒つけたがってるだけにしか見えないな クーデターとは暴力によって引き起こされる政変
なので西軍の挙兵はクーデターで間違いなかろう?
公儀とはおおやけ、公権力という意味で
当然政権を狙うものは我こそはと主張する
東軍は元々公議を担って出征した会津征伐軍だし
それを討とうとした西軍も主張した
ただそれだけの話だよ
政治闘争なのだから両者が正統性を主張する そもそもこういう事態での「公儀」なり政権の定義がなされていないからなあ
白峰氏としては条々と、敵方の書状に秀頼の意向が書いてあるといったところで攻めてるが
改易や宛行いを命じたといっても実効性が伴わないとだし
少なくとも上杉討伐軍は豊臣の公式な軍事行動で、朝廷も支持していた この時に秀頼が家康に救援要請して「恩賞は望むままに認める」と言っていたらせめて君主としての格は保てていたろうけど…公儀がコウモリ作戦をしちゃいかん。 上記の論文にしても「西軍が公儀を主張した」
のは確かだがそれによって
「家康の公儀が否定された」と結論付けてるのは
そりゃ西軍の論理においてはそうというだけよな
いまいち何がしたいんだろう?この人
って感想になる そりゃ白峰氏は「関ヶ原は家康の陰謀で三成は踊らされてた」って思想が強いお方ですし…
西軍が必死に正統性を演出してるときに徳川は既に諸将をまとめ上げていた訳でもう役者が違うわな。 この時点で豊臣家の中枢は権力者に付き従うしか道が無いんだから西軍が秀頼を手中に収めたなら西軍が公儀になるよ
逆に徳川が公儀と認められたのも同じこと
そんな上辺だけのあやふやなものだから理屈をこねたって意味を成さない
解釈次第でどっちも公儀と取れるだけ 公儀として手続きを整えて動いた会津征伐軍に対して自分ルールで豊臣棚上げで蜂起したのを豊臣が掣肘できてない時点で
豊臣の武威のなさがわかりやすい形で世に見えてしまったね
その上で豊臣が西軍の手中に収まっていたかというと最後まで西軍を豊臣が公儀として認定したってのもなくまた朝廷からのお墨付きも結局もらえてないので
収まってもいないしせいぜい西軍は公儀を自称した、程度にしかならないかな >>116
上辺で理屈こねてるだけだから解釈次第でどちらも公儀と取れるだけでしょ
そんな0か100かみたいな認識されても困る >>117
史料も提示しない単なる感想はいらないよ
「豊臣の武威」のなさとやらが世に見えたという主張、抽象的すぎてよく分からないんだが根拠史料は?
当然あるんだろ? >>118
あなたの論だと西軍が大坂城を実効支配していたのは間違いないんだから、この場合は西軍が公儀になってしまう
その上で公儀だのなんだの、そんなもの屁理屈だと言われても
同感なんだが、論立てが雑 根拠というか、クーデターが畿内で蜂起したのを掣肘できてないのは武威がなかったと言ってるのだけど、なにか? >>121
六歳の男児とその家政機関がクーデターをなんとかせいと
まあそこはともかく、武威なるもののなさが世の中に見えてしまったという根拠は?
いつもいろんな人に史料出せって言ってるんだから、出しなよ
いっとくけど一次史料じゃないとダメだよ
あなたいつもそうなんだから この件に関してはクーデターを鎮定できるだけの力が豊臣本家になかったというのが根拠、これで納得できないなら別に感想で結構
政権というのは自前の作った秩序を乱す人間を自前の指図で鎮圧できるだけの武力を持って成立つって考えから言ったが、そこに疑問があるなら別にいいよ
また勘違いしてるが、一次史料でも信用の置けないもの二次史料でも信用の置けるものもあるから一次史料に限ることはなんの意味もないよ、誰と勘違いしてんだか知らんが 東軍も西軍も豊臣政権のトップを
主張してるのは変わらん
(それがつまり公儀ということ)
ただそれによって豊臣政権のトップ(公儀)が
結局実力者の意のままになるもので
推戴される豊臣家、秀頼の意も
統治機構としての政権の枠組みも無力
ということがはっきりしてしまった >>123
近衛師団だけでなんとかしようというのか
北上した上杉討伐軍含めての「武威」だ
空白を突かれただけで、いずれにせよ東西は秀頼を名聞に戦っている
豊臣本家の軍事力より権威が重要な証左だろ
きみがいうように例え話は確かにうざいが、感想でいいというならきみも同じだろ
相手に求めるなら自分も実行しろ 軍事力より権威が重要というものでもなく両輪でいくら権威があろうと軍事力がなければ最終的には無力になるのは織田足利間で足利追放したあと織田が公儀として振る舞うことができなかったかと言うとノーでしょ
もちろん会津征伐軍も武威だが、じゃあお膝元でクーデター起きたのを鎮定できずに征伐軍帰ってくるまで恣にされて政権としての権威が傷ついてないかと言えばそれもノーでしょ
具体的な事例についてなら普段から根拠いくらでも出してるよ、あれに怒ってるのは常日頃から具体的事例にも根拠を一切出さないのが年単位で何度も繰り返されてるから、一度や二度根拠のない話されてカッカするほどの事はしてもいない
一度抽象的な話したからって噛み付いてこられるのは非常に心外だな >>126
いや、感想想像じゃなくて史料研究持ってきてよ
人に求めるんだから当然、あなたも義務を負うよね あー具代的な例というとまさしくこれか
関ヶ原のあと、豊臣ではなく徳川のもとへ人質を出す諸侯が格段に増えてってのも結局彼らの権益の保障をしてくれるのは乱時になにもしなかった(できなかった)権威の豊臣ではなく、直接指示をして武力によって秩序を乱したのを鎮定できた徳川だと判断したからでしょ?
正しく武威の存在によるものでは? >>129
他人には求めるんだから史料研究の出典を示してね
あーこれかじゃなくて
できるから暴言も吐くんだろうし
出典大事だよ、分かる? 随分幼稚な絡み方してくるんですね
例え話にむかっ腹立って日頃から史料研究が出てこない点について怒ったのがそんなに気に食わないか?
俺が程度が過ぎるほど史料研究出してないように見えたか?
普段から史料研究出した上で語ってるがそこまでバカにされるほどの事をした覚えはないぞ
一次史料と信憑性の高い史料を混同してるような輩に 公儀なんてものは関ヶ原に勝ってから決まるものだろ
西軍が公儀などというのは、五輪に行く前に自分は金メダリストだと自称しているようなもの
勝ってから言え、としか言いようがない >>131
少なくともきみの今日の書き込みについて、史料研究は一切示されていないな
他人には史料や出典を今日も求めているのに
これは推測だが、きみが史料読めるとも思えないんだよ笑 >>113
だからさ、家康は建前が何にしろ他の大老や奉行は無視して全部自分で決めてる訳だよ。
東軍は、家康と言う独裁者が指揮してて事実上の徳川軍なのでね。
これはさ、内乱時にカエサルが自分は正当ローマ軍だと主張してるのに事実上の独裁者で有る事と
似てませんか
カエサルが考える元老院は「独裁者カエサルに協力する機関」でしか無いんですよね
元老院派は自分たちが正統ローマで、ポンペイウスも元老院が選んだ軍事指揮官に過ぎないと言う
解釈です。
カエサルは全部自分で決めて良い「独裁者だし」んだけど、ポンペイウスはそうじゃない。
全部家康が決めてる時点で、秀頼が主君とか思ってないでしょ。 なら史料の用いなければならない話でもしようか?今日IFの話と白峰の話しか出てないから具体的な史料の出る話もなかったが
関ヶ原当日慶長5年9月15日の加藤清正から中川秀成宛起請文では秀吉の遺言を守るため秀頼への奉公のために家康の無二の御一味になることや公儀のためにといった言葉が出てて、公儀論には使えると思うがこの史料についてはどう考えてるの? この史料から家康を加藤清正が公儀だと判断して、家康へ別心することは秀吉の御遺言に背く行為としてると解釈されるものだと思うが、君はどう解釈する? >>134
家康が無視しているというより他の大老・奉行がまともに働いていないのが実情だろ
会津に引きこもって上洛も拒否する上杉とか
朝鮮から戻った武将に尊大な振る舞いで喧嘩を売る奉行とか
他の大老も含めて家康以外は真面目に働く気概が欠けていた
関ヶ原が短期で決着した根本的な原因も
返り咲きしたいという特殊な動機があった石田一派を除けば西軍大老・奉行にやる気がないからであり
独裁がどうこうだとか以前の問題だった >>137
そこまで家康を援護する必要あるか?
なんか公儀の正当性がどうって話も家康を肯定したいという思いありきで一方的なバイアス掛かってる気がする 擁護というか、史料上で実際そう見えるって話でなんでそこでどっちもどっち論持っていこうとするのかがあまりわからん 上杉征伐はあれ家康の横車じゃなくて景勝・兼続に不信感を持つ堀氏や周辺国の通報が原因だからなぁ。無視するはずもないし。 >>138
同意。豊臣政権内での家臣同士の主導権争いでしかない。結果徳川方が勝ったというだけで。
上杉征伐にしても奉行衆は反対した、しかし家康がごり押し強行したので
仕方なしに征伐軍の東海道での兵糧手配をした。
上杉にしても、条件付きで上洛すると言っているのに無条件で上洛せよと言われたので
征伐軍を迎え撃つ覚悟を決めた。
前田利長は家康暗殺計画の疑いをもたれ、仕方なしに江戸に人質を送った。
利家死後、家康が独裁していると言えばまさにその通りで、
独裁していないとは言えない。
それに不満をもった者たちが反家康として西軍として挙兵した。 >>137
誰が政権の指名後継者なのかという正統性の部分以外にも
諸侯からしたらちゃんと政務回せや、回そうとしてる足引っ張るなやって部分もでかいよね、これ回ってくれなきゃ領地の安全保障もままならないし 会津征伐前の奉行の反対はあくまで家康が直接会津征伐軍として動くことでは?
少なくとも上杉の行為はバリバリの惣無事違反でさらに上洛を拒否(まず政権として飲めない内容の条件を出した上)したもので、豊臣政権として誰が意思決定するにしても討伐せねばならないもので豊臣朝廷両者からお墨付きももらってる
前田の暗殺疑惑も奉行からの申告で疑惑がある以上裁定しなくちゃいけないものだし
中立意見の皮をかぶってるようで随分偏った見方してるよ
まあ私的にはそもそも徳川主導の政権運営が秀吉遺言の可能性高いから独裁的な分が問題行為とも思えんが >>134
いや流石に当時幼児だった秀頼に意思決定無理だし
代わりの意思決定するものがいたら主君と考えてない
という主張は無理矢理すぎるよ
西軍にしても秀頼の意思なんて全く無視してるしね >>138
逆にあなたは家康を無法な独裁者と
決め付けたがりすぎだよ
遺言でも家康の地位は保証されてて
それを制限するのは秀吉の死の間際になって
交わされた誓書だがそもそも御掟違反
実際家康側を公儀として東軍は付いてった >>135
結局双方が自分たちが公儀と主張してるんよね
(あるいは公儀と見做した側に着いてる)
その意味で西軍の公儀が成立して
家康の公儀が否定されたとするのは疑問
「単 なる「徒党」の「大将」にしかすぎなかった」
「当該期の家康(関ヶ原での勝利 以前)は公儀を
体現していなかったことは明らかである」
という結論ありきで西軍側の論理に立ちすぎている
西軍の抗議を認めず抵抗するものは
氏が西軍の公儀が認められていたする
畿内、西国にもいた訳だし そしてこの戦で家康がリーダーシップを発揮した事で誰もが家康を公儀と仰ぐようになってしまった、と… 関ヶ原の後諸大名が自主的に江戸に参勤するようになった
別に家康が強制したわけでもなく諸侯の方が徳川を武家の棟梁と認め公儀と見なした
諸侯が天下人としての豊臣を見限り徳川を推戴したような形だな
秀吉子飼い恩顧筆頭の加藤が率先して江戸に伺候したというのがまた 家康は元々公儀(豊臣政権)だよ
それが関が原後に公儀(徳川政権)に変わった >>145
だからね、家康が豊臣家の家中で権勢握りたいなら奉行や大老を自派に取り込んだり
自派閥の者を送り込んだりするでしょ
そうじゃ無くて、家康がしてるのは他の大老や奉行の存在自体の否定だ
実務は徳川家の家臣でやるから必要ないと、これ普通に謀反だろ
親会社の重役を自派で抑え込むんじゃ無くて、自分が社長してる子会社の重役を
使って業務行おうとしてる訳でね
放置すれば親会社の重役は飾り物になり、親会社そのものが抜け殻に
本当に家康が豊臣家の家臣のつもりなら欠けた大老や奉行の補充してるだろ 五奉行はまとめて五奉行としか言われておらず代役も決まってないよな、秀吉の遺言的に
しかも秀吉遺言で豊臣家は政務から外されて自分から豊臣家を実務に携わらないお飾りにしてるしで、そもそも徳川に実務丸投げ状態よな 家康であれ誰であれ独裁体制を確立しなきゃ豊臣政権の運営などできんよ 室町幕府なら義満の頃みたいに
幼君が宿老に助けられて成人て出来たんだけどな
あれは血統も歴史も家臣もいた足利だからな >>153
一代の成り上がりで秀吉がいる前提の政権でしかないから秀吉も理解した上で家康へ政務の丸投げしてんだね
で、丸投げされた家康が政務に関わらないようされてる豊臣を形の上でも蔑ろにしたかといえば、会津征伐も伺いを立ててやってるしでそんなこともない 本来なら五大老五奉行で政務を取り仕切る筈の政権
家康が独断で政務を行い敵対勢力の切り崩しを始めた時点で豊臣家の体裁は半ば崩れてる 本来が五奉行五大老が前提ってのが非常に怪しいってのが史料と研究からわかってる前提だよ 見方によってどうとでも解釈できるが客観的に見れば豊臣の天下の簒奪だよ
ただ家康からしたら唐入りの戦後処理なども含めて豊臣政権の中で俺以外仕切れる奴いないじゃんて思いだったのかもしれない
それは秀吉が織田家の天下を簒奪したのと一緒。あれだってまだ天下が定まっていない情勢で俺がまとめなきゃまたバラバラになると秀吉は思っていたのかもしれない
自衛した結果そうなったってだけだったのかもしれない 今は五奉行五大老制は論文の中だけだな
大老の名称も徳川幕府から
組織としても実態が無いのが分かってしまった 客観的にというか調べないで通説だけで言えばの間違いでしょ?
とりあえず前パートまで遡っていまこのスレがどういう前提に成り立ってるかくらいの確認してもいいんじゃないか 前パートでの前提を理解しないまま話そうとしてる人とで軽い揉めが発生してるだけ 秀吉は家康が最も天下人に近く故に望めば容易く天下簒奪出来ると考えて秀頼を家康に託した訳だけど、
この事を理解出来なかった者達によって豊臣の権威が失われてそして秀頼によって豊臣は終焉を迎えた。
皮肉な話だよな確かに。 >>146
私的な意見は君に非常に近く、白峰氏の主張に対して証明が不足してるってのの反証にもなる起請文だと考えてる
この清正起請文だと西軍らを家康に別心を持つもので秀吉の遺言違反であると記述してて、遺言による秀吉没後の体制構想についての解釈にも使えそうだね >>162
さも当然、事実であるかのように妄言を垂れ流すの草 >>164
公儀かどうかはどちらも主張しうる根拠はあったが、後はみんなそれぞれの勝ち馬に
賭けただけで、公儀かどうかなんて気にしていない気がするが >>166
このケースでどっちが公儀だとか認定するのがまずナンセンスなんだよ >>150
否定なんてしてないぞ
奉行達はちゃんと家康の下でも仕事してた
欠けた大老なんてそもそもいないし
補充なんて秀吉の遺言にも無いこと
それこそ専横以外の何者でも無い >>166
西軍の挙兵によって東軍が公儀であることが否定された云々が白峰氏の主張
それに対しての反証だと言ってる
少なくとも西軍は豊臣からも朝廷からも認められず、大名たちも挙兵時に巻き込まれたの以外は彼らに味方するのも少なくと、当時としちゃ同心するに値しづらいと判断されてるようだがね 利家のあとなら利長が継いでいるし隠居した三成の代わりに息子取り立てているしな 政権としては実質トップにいようと
奉行による問責→出頭→
弁明もできず高野山追放→切腹
という「前例」がある訳
奉行はかなり恐ろしい存在だったはずで
その意味では私婚問題も相当際どい
利長の家康暗殺疑惑も同様だが
家康はこの二つの政局を
ことを荒立てずに済ました
>>155
本来なら大老筆頭である家康に
「敵対勢力」がいるのがおかしいんだよ
遺言で政務任されてるはずの家康を
仮想敵にして権勢を奪おうとしてる方が
秀吉の遺言体制を解体して
政権の存続を危うくしてしまった 家康の行為については、専横かどうかは意見が別れるだろう。だからと言って、自称忠臣の西軍が好き勝手にやっていいということもないよな。 やったこと自体は簒奪だ。なんか家康は清廉潔白で何一つ悪くないって顔真っ赤にして熱弁してるのがいるっぽいけど、簒奪は簒奪としてそれが是か非かはまた別だからな
秀吉死後の情勢を考えると家康がトップに立つしかなかっただろうと思うけどね。朝鮮との交渉もあったし 崩壊した政権に変わって朝廷の許可を得て新たな政権を建てることが簒奪と言えるかどうか 簒奪とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること
あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事
ないしそれを批判的に表現した語
本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる 下剋上だよね
秀吉も家康も下剋上
家康が下剋上後に身分の固定化に成功したことでやっと日本の戦国時代は終わった 家康は朝廷から認められて新規に徳川政権をうちたてたのであって豊臣政権を継承したわけじゃないしな
だいたいべつに朝廷は秀吉の系統がずっと日本を支配するよう認めてたわけでもなく 信長死後の秀吉もそのパターンだしな
将軍追放後の信長も幕府を掌握するんではなく
新しい政権を準備中に死んだと取るのが妥当だろう
簒奪簒奪騒いでる人は戦国時代は
武力があれば全て奪える無法地帯か何かと
勘違いしてしまっている 領内で武力をもって影響力を強め実効支配する
↓
朝廷幕府などの権威に働きかけて統治を正当化してもらう
戦国時代の下剋上は全部このパターン。秀吉も家康も朝倉尼子他戦国時代に成り上がった戦国大名とやってることは変わらん 秀吉は小牧長久手で主君の織田信雄と戦い
織田政権を崩壊させているじゃん 小牧長久手は軍事的には秀吉負けてるよ
小牧長久手で織田と戦ったから天下取れたのではなく
その裏で朝廷を抱き込んで新しい政権を認めせてだ 負けてたら織田徳川側だけ人質を出すとはならないのでは 下克上の作法というなら実は結構多いのが
旧時代の権威を倒したり追放するのではなく
保存して自分をその中に位置付けるパターン
>>184
そうなったのは朝廷が秀吉の政権認めて
関白就任に繋がる昇官が始まってから >>165
なんで秀吉が家康に天下を任せたのかは外国人の記録に残ってるぞ
フランシスコ・パシオ師の「太閤秀吉臨終についての報告」では秀吉は諸将を前に彼を後継にしたと明記されてる 天下人に家康がなったとされるのは慶長4年に朝廷から三献の儀を受けたことから
で、じゃあその後豊臣をポイしたかというと上に立てた行動を取ってる
豊臣との上下関係は関ヶ原後に徐々に入れ替わって行ってるが、これは朝廷と諸侯から豊臣が公儀たり得ないと判断された部分がつよいかな、朝廷も諸侯も意思のないものではなく積極的にパトロンとして申し分ない人間探すしパトロンとして頼りなければ見捨てる 本当にアホだよな
最も危険な奴に託して
耄碌したのとしか思えない 他に人がいないんだろ
三成たちは了見が狭いし利家輝元秀家あたりは頼りない
秀頼が暴走することまでは流石に分からない 秀次が生きてたら家康の抑えにもなったけど秀吉が追い詰めたから
すべて秀吉の判断の結果 >>188
寧ろかなりキレてる動きだぞ。家康は名声実力共に群を抜いていて天下を望めば簡単に叶う。そんな家康を天下から遠ざけようと排除すれば却って家康は生き残りを懸けて敵を倒して天下を取ってしまう。つまり敵とは豊臣であって秀頼は死ぬ事になる。
ならば逆に家康に天下を与えてしまおう。そして秀頼を王冠、レガリアとして彼に与えておく。すると家康が天下を維持するのに秀頼は不可欠となりまた徳川家が政権を握り続ける為には「徳川が豊臣となる」か「秀頼が徳川になる」かの二者択一。どのみち秀頼は生き残る。つまり家康の力を認めた上で秀頼を天下人にする最適解をとった。 そもそもそれだけの実力と名声を与えたのは当の秀吉っての考えない人多いよな
秀吉の義弟かつ義父で200万石超えの所領があって官位も唯一の大臣職っての、秀吉が死んでからいきなりぽんとなった訳じゃないぞ 元々格上だった信雄が自爆しちゃったからな
秀吉の命令に背いた以上改易するしかなかったんだろうが、本来徳川より格上で、関東に飛ばした徳川の旧領に入って徳川を抑えるはずだったのが信雄 信雄が抑えとかなんの根拠?
双方ともに厚遇されてるのは見えるが抑えにしようなんて主張する研究者もおらんだろ >>168
だから、奉行を事実上の引退に追い込んで補充しないとかしてるだろうが?
豊臣の家臣のつもりなら、後任を決めて補充しないといけないよね。
それとだ、家康が全部自分一人で決めるのなら他の大老や奉行は何の為に居るんだよ。
全部徳川家の家臣で間に合うでしょうに。
そして、現職の大老の一人の上杉家を攻める為に遠征軍編成してて何言ってるの?
豊臣家尊重するなら、まず上杉を解任するのが筋だよね。
明らかに家康は、大老や奉行と言う自分と対等に口聞く存在否定したがってるじゃん 七将事件は北政所、輝元も裁定に加わった上でのことを省いて語るわ
五大老五奉行制である根拠もなく、また事実秀吉遺言にもないと言ってる人間に五奉行五大老のいる意味がないだろっていうの、そりゃそうだろ補強してくれてありがとう以外の意見出ないだろ カエサルの例あげたけど、片方が現体制の否定を目的にしてる場合少なくともその時点では
反乱軍じゃないんですかね。
ポンペイウスは元老院主導の共和制を支持する勢力に担がれただけで、当人は確かに
元老院の有力者だけど、独裁者ではないし成る気もない。
カエサルは元老院で立候補承認されて民会で承認されたと主張してるけど、幾ら記録調べても
出席した議員が何人いたかとかは書かれてない。
そりゃあ600人もいた議員の殆どはギリシャに逃げてる状況なんで、何人とはかけんよな。
つまり、カエサルの考える元老院は独裁者カエサルに承認の元に議決するだけで
元老院独自に動く権利とか認めてない。
つまり、事実上の帝政目指してるのがカエサルな訳でして。
西軍大名にも野望はあったでしょうが、飽く迄も野望の範囲が豊臣家中に限定されてる。
家康が望んでるのは、徳川独裁体制じゃないですか。 カエサルの例まじくその役にも立たんから全く関係ない事例引っ張ってこないでくれる?お前が似てると思ったらおんなじになる訳でもなんでもない、むしろ論拠薄いからこいつチェリーピッキングで誤魔化そうとしてんなって話にしかならん
んで、大老を解任する必要あんの?惣無事違反で豊臣家と政務執行者が征伐を認めた上での行動で、当時としてそんな慣習あんの?野望の範囲とかも含めて自分ルールで家康のやったこと全部アウトって駄々こねてるだけじゃん
史料と研究は? 前パートで根拠になる史料と研究付きで話されてた前提を自分ルール的には違うで通そうとする方がよほど議論やる意味ないよね
史料解釈的にそれは難しいって話をしてくれや、意味のないたとえ話と論旨ズラしとすでに否定された事を再反論できるだけの証明もしないで繰り返してないでさ 考えてみると十人衆で後任に言及されてるのは徳川と前田だけで後の連中は何も言われてないんだよな。 例えば上にも出てる白峰氏の論文ならここで色々見られるし
そういうのを基にして語れば少しは違うのに
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/itemselect.php?op=quicksearch&keyword=%E7%99%BD%E5%B3%B0%2C+%E6%97%AC&search_itemtype=all >>203
なんかリンクが変になったな、まあ白峰で検索すれば出てくるけど 白峰氏の論文を引用したら白峰氏は信用ならんて言われたわ、前スレで 白峰のここの部分がこういう理由で信用できないとか証明不足とかはそりゃ言われるでしょ
その上でいやそれはさらにこういう論拠があってってやってく訳よ 全スレの続きやってもいいけどやけに攻撃的な人がいるからな
補足を返信で入れてもスルーで荒らしに構うのが忙しいし >>208
論拠聞いても答えないで腐す方向に走るのもいるしだしね
ワッチョイあれば前日話してたの誰かとか常に荒らすような事してるの誰かとかわかるから、申請通るまで待っててもいいかもね >>195
なんで秀吉が遺言もしてない奉行を補充?
豊臣の家臣のつもりというか実際そうだったぞ
まるきり認識おかしいなあなた 家康が最初から簒奪を考えていたら三成をなんで助けたのか?って話になる気がする。確かに三成は謹慎の身になったけど石田家で見ると改易にも出仕停止にもなってない。
また、前田利長に家康暗殺計画の疑いが掛かった時に兵を出すよう命じられてるのも石田三成(九月二十一日島津忠恒宛義弘書状)つまり三成の影響力は残ってる。
もし家康が天下簒奪の意思があったら七将の要求を認めて石田三成・増田長盛を処刑(増田長盛も訴訟の対象になっていた疑惑がある)してたんじゃないか。こうすれば家康独裁に大いに前進する(この時点で前田は家康の支配下も同然で上杉・宇喜多は内外にトラブルを抱えてた)
そのような手法を採って無い事はよくよく考えないといけないかと。 簒奪簒奪言うけどいかなる地位を簒奪したんだ?
大老筆頭、豊臣家の長老たる地位は
他ならぬ秀吉自身が与えたもの
征夷大将軍は豊臣家のものではない
天下人の座も別に豊臣家が独占する筋合いはない 板が過疎るのも分かるな
ずっと同じ議論で同じ主張繰り返すだけだから 独占する筋合いはないから簒奪じゃないって頭おかしいのかこいつ 批判側が正直ただの難癖レベル繰り返してるのが多いからでしょ、荒らす目的もあるんだろうが
思い込みで喋ってるっぽいから根拠聞いたのに答えずにいたり、それでまた同じ批を繰り返すが多けりゃそりゃ堂々巡りにもなる 天下人の座についても
秀吉の遺言では事実上譲ってる
秀頼の成人までという時限付きだがね
(ただし成人後の秀頼の地位も遺言されてない)
豊臣の天下を守りたければ
主君は秀頼、執政は家康でよかったんよ
でも執政家康が不満で自分らも関わらせよと
御掟違反の徒党を組んでの誓詞を交わして
その権限を制限したのが五奉行制
まあ仕方ないよね
人間権力の味は一度味わうと手放せない言うし
秀吉側近達からしたら家康への権力移行は
決して許すことのできない暴挙だったわけでな 豊臣家は鎌倉時代の宮将軍にも成り得たが豊臣政権が未熟すぎて関ヶ原で木っ端微塵 神輿になるにも一種の能力がいるからねぇ…
西軍が大坂城を占拠した時に家康に西軍討伐要請と恩賞は望むままと全権委任していれば豊臣は神輿として存在しえたかもしれない。それが東軍とも西軍とも分かりにくい態度をとってしまった。一見クレバーな両建てに見えてこれは最悪の選択だった。自分の本拠地を武力支配されて軟化するような奴の下に誰が就こうか? それ言うなら西軍が蜂起したりしなけりゃ
秀頼の豊臣家に委任された内府による惣無事の戦
会津征伐がつつがなく終わってたはずなんよね 豊臣恩顧でも毛利吉成なんかは西軍についてるんだな
朝鮮出兵の主力格だったが七将辺りとは派閥が違ったのか 七将らそしてそれから生まれた東軍諸将の流れは複雑な繋がりがある訳だけど乱暴にその属性を挙げると
反小西/反石田/反秀吉、って感じになる
例えば加藤清正は文禄の時から小西・石田を弾劾していたし浅野幸長は石田三成を仇敵と憎む浅野長政の息子で清正の弟子、黒田長政と蜂須賀家政は朝鮮での戦いについて秀吉に叱責されてる。豊臣政権自体が複雑な組織構造になっていたからその歪みもまた複雑になっているんだとか。 毛利吉成の場合単純に会津討伐に参陣のために大坂にいたら西軍挙兵で巻き込まれた一人っぽいね まともな根拠による反論できないからネガティブキャンペーンか、下衆やね >>199
何故カエサルの例をあげたかというと、現体制の否定や打破を目的にしてるのなら
少なくともその時点では反乱軍だろって言いたい訳だよ
「現職執政官が二人ともローマに居ないんだから独裁官が必要な事態だよね、文句ある」
「独裁官は元老院の支持のもと執政官が任命するんだよね、でも執政官が居ないから仕方ない」
「カエサルを独裁官に任命する法案を提出させたぞ、あとは市民集会で可決するだけだな」
軍団兵はローマ市民権あるので、巨大な組織票あるカエサルが負けるわけがなく
「独裁官の権限で、次期執政官選出の市民集会開催したぞ、俺も立候補」独裁官の権限で、
各属州総督も任命すれば「こちらが官軍、自称属州総督討伐するぞ」とね
でもさ、抑々元老院議員の殆どがローマ逃げてて、現職執政官が二人とも逃亡してるの
だから「元老院なんて飾りです、ポンペイウスはそれがわからんのですよ」なのな >>226
もう少し補足
元老院主導のローマの共和体制って一人の人間に権限集中させないのが重要なポイント
なんですよ
でもね、カエサルもアウグストゥスも自分に権限集中させちゃった
集中させた権限は全て共和制時代から有るもので全て合法的な物ですが、それを同一人物が
兼任するなら事実上の独裁者なのでね
家康が全部自分一人の花押で文書出すなら、それは事実上の豊臣政権の否定でしょ
家康が伏見城占領した後、他の大老や奉行に相談してないでしょうが
抑々他の大老や奉行の様な「自分と対等に口聞ける存在」を否定してるじゃん >>211
あの時点で家康が望んでるのは、大老や奉行の有名無実化だからで矛盾はない
大老や奉行が自分と対等に口が聞けるって事実其の物を否定したいんだからさ
大体、直前まで大阪伏見で睨み合いしてたんだろが、その経緯何故無視してるんだよ
明らかに、自分詰問した大老奉行への報復でしょうが まず十人衆制を否定したのは家康ではなく景勝・利長。合議制を維持する為には政権担当者は何があろうとも首都かせめてその付近には居ないとならない。それを利長は家康に全権委任してるから良いとしても景勝は太閤遺言を盾に帰国してる。ここで合議制は崩壊した。
家康と利家が睨み合ったのは単なる政争で家康の内心とは無関係。更に言うと結局この一件は徳川・前田の和睦、利家からの利長後見の依頼で完全に和解になってる。もし家康に独裁の意思があったとすると利家もそれを許した(むしろ利長を後見してもらう訳で積極的にこれを進めた)事になるが… それが是か非かは別として徳川が豊臣から天下を簒奪して征夷大将軍任官で正当化したのは事実なのにそこから否定してるバカがいるんだから話しにならんな >>224
最初から簒奪のために計算してたとか
三成挙兵のためあえて活かしたとか
本当だったら最強すぎるよね漫画の世界 >>226
関ヶ原で現体制打倒を目指したのは西軍な 豊臣家は政権運営できてないし秀頼は関白でもなければ天下人でもない
徳川は空席になった天下を手に入れただけや いやまあ豊臣政権の運営は本来任されてたのが
家康のはずだったんだけどね
奉行や他の大老達に「俺たちも政権に噛ませろや」
と起請文を書かされて(御掟何処行った?)
次いで私婚だ!野心だ!御掟違反だ!と
弾劾されて(御掟生きてたの?!)
利家と和解したらその息子に命狙われてると
奉行が騒ぎ出して人質取って治めて
地方の大名の訴えに詮議拒否の上杉を
政権挙げて朝廷まで動かして攻めに行ったのに
留守の奉行と2大老が挙兵
とまあグダグダだったのは確か 秀吉が織田を乗っ取ったことを正当化するバカも過去にわんさかいたけどな
当時はまだ織田家は天下統一してないからいいんだとか訳のわからんすり替えして 不当だと思うなら資料をもとに
徳川の不当さを訴えりゃいいのよ >>213
専門板は全部こんなもん
人が多いのはニュースや実況だけ つまり家康はもともと豊臣政権の
No. 1なんだから簒奪する必要なんて
ないってことさ >>226
で?俺は史料と研究による証明を求めたのになにを何度も否定されたことを長ったらしく書いてんの?
お前が何度もおんなじこと言っては否定されてるの知らないで書いてると思ってるの?何故か今までの経緯全部無視してるのお前じゃん
ああー自分の中だけの自分だけで作り上げた盗将大権現だかのピカレスクロマンと自分の程度の低さを重ね合わせてロマンに浸ってるのか
だめだよ?物語と証明は別個に分けなきゃ そもそも「簒奪」ってのは君主の位を家臣が奪うことだから家康は簒奪者では無いよ。家康がなったのは征夷大将軍であって関白じゃない。
そうした見解は「秀吉もなれなかった将軍に家康がなった」つまり「関白より将軍の方が上」って理解から来てる。それはそれで必ずしも間違いじゃないんだけど、基本的に家康簒奪説はこの理解を前提としてるね。 史料や研究も出さないけどいま語られてる内容は簒奪だ!不当だ!
不当なのは今までの証明された前提まるっきり無視して研究やらの証明出さずに腐すことしかできてない方だよね、史料やら研究があれば議論にもなろうに出さねーんだもん
主張側が証明するフェイズ終わったんだから次は否定側が証明用の史料と研究なりで反論しないと、ディベートにもならないじゃん、野次してないでちょっとは出してくれよ、自分だけそういった努力もしないで無条件に主張通るとか無視のいい事思わないでよ 簒奪したけどそれが不当かどうかはまた別の話だろうよ
武家のトップは紛れもなく豊臣で、秀吉が生きてた頃には豊臣への次代以降の忠誠も誓ってたのにその座を奪ったbだから
ただだから家康は悪って話にはならないってこと。これは秀吉も一緒 簒奪ってことは朝廷が秀吉没後も豊臣の天下がいいとか言ってたの?
帝奪ってたり別の帝立てたりではなく、朝廷から徳川に近寄って行ってるが、朝廷の意思とか関係ないの?
あるいは支配権を奪うことらしいが諸侯が豊臣より徳川に従いに行ってるが、彼らの意思はない扱いなの? いや簒奪は簒奪だろうよ
ただそれが自然の流れであって特別悪逆と捉えられる話では無いってだけのこと
過剰に家康を正当化する必要も不当化する必要も存在しない
ただ力を持ったから豊臣に取って代わったというだけ 東西両軍とも、豊臣御為と掲げて戦ったわけだが、
その結果東軍が勝って史実の通りだが、
もし西軍の挙兵なく、上杉を征伐した後も
家康は豊臣政権を支え続けただろうか?
史実のように幕府を開いて豊臣を見限るだろうか? 簒奪って言葉自体が多分に批判的な意味合いが強い割になにを奪ったのかがふわふわなまま喋っても、反感買うだけでは >>244
簒奪とは「君主の資格が(本来)無い者が君主の資格を奪う」ことを意味する。秀吉は関白、家康は将軍なので得た資格が全く違う。つまり「簒奪が〜」ってのは当てはまらない。
言葉はしっかり使いましょうって話なのさ。 簒奪って批判的な意味合いしかないやん
わざわざそれを使う時点で公平を装って結局暗に批判したいだけ
往生際が悪すぎなんだよ >>235
家康はべつに豊臣宗家を乗っ取ったわけじゃないしなあ
それに徳川は従属国衆みたいなもので織田と秀吉の関係とは違うんじゃないかな 家康のような別の政権が樹立することまで簒奪といえば日本の歴史は簒奪者まみれになる。秀吉の簒奪、信長も簒奪、足利も簒奪、北条も簒奪…とね。簒奪ってのはそんなに広い意味を持たない。簒奪とは君主の位を無資格の者が奪取すること。故に君主の位とは別の位に着いたならそれは簒奪とは呼べない。
家康の場合、言葉は「革命を起こした」つまり易姓革命が起きたというのが適切。革命とは天命が革まるということで天下人が変わる事を意味する。 >>245
関ヶ原前から勝手に豊臣の蔵入地を削って知行宛行しまくってたからね
ちょっとズレても最終的には同じ事になってたんじゃないかな
結局武家のトップって肩書きじゃなくて戦争に強くてご褒美をちゃんとくれる人の事だから
豊臣の領土を削って恩を売りまくれるんだから家康としたらウハウハですよ >>249
秀吉も織田家を乗っ取ったわけじゃないよ
織田家を立てながら織田家の力を自分のものにして与党を増やし、機が熟したところで朝廷を利用して織田家の上に立った。家康とやってることは一緒
ただその後秀吉は織田家を厚遇して織田家臣をそのまま自分の政権でも起用したけど家康は豊臣を滅ぼして豊臣政権のメンツは領土を削ったり遠隔地に飛ばしたりして徳川家中だけで政権を運営したからそこは違うかな 豊臣滅んだのは豊臣が当時としても意味不明レベルの取次追放するわ和睦案守らないわのまじで暴走したからだしね、なんなら領地経営上手く行ってないからって豊臣の年貢徴収などに15年近く京都所司代の役人派遣して手伝わせてるくらいにはド厚遇してる
信雄も秀信もこのレベルの意味不明な行動を臣従後にとった訳でもない
以前上に立ってた人間の行動を無視して語るべきではないよね 日本において簒奪とは皇位を奪うことだろうな
厳密にはな 勝手に蔵入地削ったとか例え話みたいなこと言ってるけど、奉行派遣しての行為だしって話何度もされてるよね
ましてや蔵入地を政権のために政権の長とされた人が分けるのになんの問題もないしで、やっぱり意図的に確認しておくべき前提無視して歪んだ見方してるだけよね 秀吉的には執権北条とか外戚の藤原氏みたいな豊臣の名前の下で実力のある徳川が政治を行う構想を自身の没後の徳川に期待してたけど、西軍の挙兵でおじゃんになって領地保障をしてほしい諸侯も天下の差配を任せたい朝廷も徳川が徳川の名で政治を行う体制を求め出したんしょ?
豊臣が諸侯からも朝廷からも名義として期待されなくなった、って言い方のが実情じゃね それもまた一方に都合の良い解釈し過ぎでは?
秀吉は秀頼が政務を取れるようになるまでを家康や諸大名に支えてくれとその真心に賭けた
ただ他の大名家からすればそこまで豊臣に義理立てする必要も無いし一方的な願望を押し付けられただけだった >>252
秀吉の場合、織田家を冷遇したのが不義理とは言われてるね。信長が立てた全盛期織田領を与えないのは仕方ないにしても嫡子が十万石クラスというのは幾らなんでも少な過ぎる。
尤もその不義理は西軍に与した織田秀信が大軍動員が出来ない結果になりそれが岐阜一日落城、引いては西軍敗北からの徳川幕府樹立に繋がって正に「因果応報」ということでゆるされてる >>257
西軍の挙兵が起きなきゃそうなれたんじゃない?豊臣と徳川の関係がよほど険悪にならなければ
少なくとも新しく諸侯や朝廷が徳川の名前による直接政治を求めだしたのは西軍の挙兵で豊臣名義が信用おけないって判断された部分が大きいし、奪うってニュアンスは外れてるねっていう >>259
家督の信雄に徳川旧領全部与えようとしたじゃん。官位序列も徳川家康や豊臣秀長より上
秀信だってあの年齢で中納言、織田家が失ってた岐阜城も与えられた。どこが冷遇なんだか >>261
少なくとも徳川の秀頼に対する扱いよりは冷遇してるね
石高は秀頼の5分の1程度、官位も右大臣(信長の就任した最高位)より遥かに下だ
織田家の最大の居城だった安土城も返還してないし
つまり、旧主に対する配慮としては徳川>豊臣になる
秀頼、秀信共に身の程をわきまえず、現実を受け入れようとしなかった点は共通してるけど >>252
なんか、まさにものは言いような気がするよね
織田家臣を政権で厚遇って悪い見方すりゃそれこそ政権の構成員乗っ取ったとも言えちゃうし
結局のところなにをどうしたら奪ったなのかちゃんと決めずに奪った奪った言っても言葉遊びの悪口合戦にしかならんね >>261
武士にとって「代わりの土地」なんてありがた迷惑でしか無いぞ。信雄にしろ秀信にしろ望みは旧領復帰以外無い。
しかも秀吉は加増を辞退した信雄を改易にしてる。これも不義理と言われる点の一つ(同じく辞退した石田三成は特に罰が無かった事から織田潰しが目的だったのかもしれないけど)
秀信の冷遇に至っては酷いもので岐阜13万石というのは少な過ぎる。何しろ秀吉子飼衆と同程度なのだから。
とは言えその冷遇の報いは秀頼が受ける事になった。それで許されてる面が強い。 秀信は岐阜城を持ってたけど岐阜城は籠城戦が出来なくて敵の侵攻を迎撃する事に強みがあるかなり上級者向けの城だし
前提として大軍動員が出来ないと上級者でも無理っていう。
そこに東軍は福島正則と池田輝政らで秀信以上の兵数で襲い掛かったわけでそりゃ負けるよっていう。 秀信が秀吉からの扱いを不満に思ってた可能性はあるね
重臣の反対を押し切ってまで濃尾二か国の加増の見返りで西軍に参加したわけだから
父親のことを考えると本来そのくらい貰っていてもおかしくないと考えてたとしてもおかしくない さすがにそれは穿った見方な気がするしおかしくないはそうだったではないから、ちょい先走り過ぎかな
信雄にせよ秀頼にせよ冷遇と言い張れるほどのものはなく官位としちゃ厚遇されてるレベルで、秀頼に至っては年貢の面倒まで見てもらってる
ただし元主家への厚遇にも限度があって、当時の社会通念としておかしなことをしでかしたら秩序として罰されるし、なおやらかすならいくら元主家であっても許されないラインがあるってだけ >>255
だから、重要ポイント無視して見かけだけ体裁整えても意味がないと言ってる
大老奉行の合議制崩壊して、家康が自分一人の判断で決済してるだろうが
封建制度の社会で重要な下克上ポイントって、主君の直轄地を自分一人の判断で
削るってことでしてね
恩賞って建前だけど、主君の領地削ってますからね、実質
そして御恩って自分の領地の安堵の保証なんですからこの意味は大きい
「豊臣秀頼って家康に領地横領されても文句言えないのか」
「自分の領地すら守れない秀頼様が、俺の領地安堵してくれるわけないよな」 「官位が優遇されてる」ってのは武将としてはあんま意味無い気がする。そりゃ高い方が気持ちは良いかもしらんが戦国武将の基盤は土地だろう。石高が収入で兵力なんだし。
しかも冷静に考えると前田利家以下だし… >>268
お前の主観極まりない感想はいらん、史料と研究を出せ
合議であることも否定されてる経緯の中お前はひとつも否定できる論拠出せてないのにそれを前提にする訳がないだろ
ほれ、話反らしてないでさっさと出せよ
著者名忘れたか? 重要ポイントも抑えないで見かけだけ抑えても仕方がない、ええこと言うわ
重要なのは主張が信憑性あるとするための研究なんだな
自分の中の盗将大権現ごっこしてないでほら早く自分でいった通り重要ポイントを抑えた研究出してよ >>272
序列なんてクソの役にも立たないんだよなぁ >>273
許す許されないとかどうでもいいことを書き込むな
また、現代の価値観で当時を見るな
出てけ 官位による諸国の武家の序列化は
他ならぬ豊臣政権の政策ですよ
徳川幕府も武家官位と公家のものを分けて
大盤振る舞いを避けて採用した
もちろん序列だけで全てが決まりはしないが
実際のところ序列通りに徳川の元に
支持が集まったので機能したとも言える まあこの板で有名な織田アンチのアレよりはマシだけどこのスレの家康信者もかなり気持ち悪いな
信者かアンチかってだけで書き込みの内容とかそっくりだけど >>275
序列通りに支持が集まったってなに?
説明してね 反論出来なくなると家康アンチの例え話君は家康信者のレッテル貼りにすぐ走るから
バレバレだな >>278
関係ないんだが、すぐ透視するのは馬鹿のすることだぞ
あ、馬鹿だから仕方ないのか
めんごめんご >>252
織田家臣をそのまま自分の政権でも起用したというのは信長につけてもらった寄騎達のことかなそりゃ秀吉には譜代がいないんだからそうするしかないでしょう
まあ主家の家督を簒奪したとかなら分かるんだけど天下を簒奪したというのはなんか違うというか、そもそも天下の本来の所有者は朝廷というか皇室なわけでその朝廷が天下の差配をしてもいいと認めているのに天下を簒奪したとかいうのはどうなんかね >>277
え?
何がわからないのかわからないくらいなんだが
まさか豊臣政権での官位による序列が
どうなってたかわかってない? >>281
言葉が足りなかったね
序列通りに「徳川のもとに」支持が集まったので「機能」した
ここへの詳細な説明ね
分かる? そもそも、秀頼が官職をもらえてない関ヶ原時点の豊臣家に、天下人としての資格がないんじゃね? >>274
いきなり発狂して大丈夫か?
織田秀信は中納言ではあったがそれよりも僅か13万石しか無いという事実の方が重要。何故なら戦国武将にとって領土つまり石高が武力と資力を支えているから。年収100万の貴族と年収1億の平民、どっちになりたいか?って考えればわかるんじゃないか。カネが無いのはクビが無いのと同じ。これは変わらない。
秀吉の秀信への冷遇が一種許されてるのは、それによって豊臣が滅んだという自業自得、因果応報の説話になってるから。つまり悪行の報いは受けたから指摘されて無いだけよ。ここで秀信に領土を与えていれば歴史は変わっていた。 >>283
当時秀頼は中将を経た中納言であり
参議を経ない摂関家の扱い
加えて >>186であげられている報告書では
秀頼が大きくなったら政権を返すように頼んでいる >>282
元々序列通りに統制しようと言う制度なので
序列トップに周りが従がうのは正常だぞ
せいぜいが従五位下に過ぎない奉行達が
諸大名に指図できていたのは建前上
従一位関白太政大臣(→太閤)からの命令を
「奉じて行う」からなんよね
文字通りの意味で そもそもの政権のシステムは別に
家康を排除するようにはできてない
どころかむしろ成立過程から
家康(徳川家)が上位にいることを
織り込んで機能してきた そもそも武家官位制が導入されたのは武家諸法度以降だろう 秀吉は徳川をあくまで豊臣政権内に留めようと苦心したんだと思うがね この徳川狂信者の理屈が通じるなら人類の歴史から謀反や簒奪という行為は消え失せることになるなw 例え話荒らしの同類が単発IDで捨てレスするようになってきたな 豊臣家に対する忠誠という観点では、どんなに家康というか、徳川を貶めても西軍の行為は正当化は出来ないと思うけどね。 三法師に与えた諱「秀信」は「秀」を織田家の通字「信」の上に置いてるし
官位こそ正三位権中納言まで昇進させてるが清華家にはせず政権にも一切参画させてない
どう見ても織田家によくしてるというより徹底的に秀吉の下に織田家を置き体よく遠ざけてるとしか思えない
秀吉が織田家をどう思っていたのかよくわかる
ただの踏み台に過ぎず織田家に対して何の感傷もなかった しかし凄いメンタルだな
たった一人で反論し続けるなんて >>285
だから家康は豊臣公儀を返したぞ。秀頼は一応豊氏長者だからね。
当たり前だけど、関白によってなる豊臣公儀と将軍によってなる徳川幕府では性質が全く違う。ここに二重公儀の論議がある。ただし、豊臣公儀は関白が支配する。つまり秀頼が関白にならない限り最早公儀としては機能し得ない。
また豊臣公儀の威信は西軍決起によって破壊されていた。そこでより強い徳川幕府に皆従った。つまるところ天命が革ったのよ。 >>293
秀吉は秀と吉とどっちを与えるか相手の格で明確に分けている
秀が与えられてるのは結城秀康や小早川秀秋、宇喜多秀家に織田秀信など身内と言っていい人間だけだよ >>293
まぁその報いは結局豊臣が払ったし…考えてみると秀信も哀れな男で
当初は東軍入りを考えるも秀吉に奪われていた美濃・尾張宛行という三成の甘言に乗せられて西軍入り→国人衆らを集めるも兵力は一万に満たず三成からの援軍でなんとか万を超える→そこに東軍が襲来、その数三万六千以上しかも元岐阜城主池田輝政がいる始末→籠城戦は死と打って出るも数の差があり過ぎる+裏切者続出で戦線崩壊→西軍からの援軍も東軍に迎撃されむしろ押し込まれる→降伏
とモロ秀吉とその取巻き衆に弄ばれた一生であった >>296
身内扱いだろうが何だろうが「秀」を上にした諱を名乗らせたことが重要だよ
秀吉が結城秀康小早川秀秋宇喜多秀家同様に旧主織田家を家臣に置いたことを示すことなんだから
それでも清華家にもせず一門にもせず政権にも一切近づけず
絶対反抗しようがない中規模程度の石高で抑えて織田家の存在感をできるだけ薄めようとしてる
まあその辺秀吉は巧妙ではあった >>292
西軍を貶めても家康が正当化されるわけでもないしね 西軍に関しては見通しが甘すぎて豊臣家ごと自爆するとは何を考えてたんだろうなとしか思わん
何もしなければ秀吉遺言体制は動かず上杉だけの没落で済んだのに
なお五奉行五大老制は最初から無かったよ そしたら家康が切り崩し続行するだけ
この流れ永遠ループしてるな まず秀吉は政権を秀頼と共に家康に預ける事を考えてこれを公表した。それで次期政権担当者が徳川家康というのは周知となった。ところが秀頼は大坂城に預けられる事になって家康と切り離されたことが豊臣崩壊の序曲だった。
つまり実は家康に全てを預けていれば上手くいったのだがそれを阻もうとした結果むしろ家康を天下人にするという皮肉な話なのであった。 織田悪銭論者とたとえ話の五奉行五大老信者は人の話は聞かないし史料も出さないから
そろそろNGでいいかなと思ってる
まだ菅沼認定までする気はない >>302
家康が豊臣政権の第一人者としてその行動をとるのなら、させればいいじゃない
そうすれば豊臣政権の権威自体が、徳川の力でますます高まるのに何が不満なのさ?
史実では関ヶ原を反家康派が仕掛けた事で、事態を収拾出来なかった豊臣の権威が低下し、
その結果徳川が幕府を開くしかなくなった(そうしないと徳川の立場が安定しない)のだから
家康が政権を主導し続ける状態の方が、よっぽど豊臣政権は安定するぞ
まあ御家を背負う武家のトップとして権益や立場を失いたくない、というのは一つの見方だが、
その場合反家康派は『主家、天下政権の安定<御家の立場、権益』という選択を
事実上取った事になるので、忠義でもなんでもなくただの野心家の集団ということになる
当然政権の立場からしても追討されるべき存在であり、ただの謀反人と扱ってよいだろう
まあ勝てば多少は話が変わるが、その場合は第二次戦国時代だな、秀吉の苦労がパアだ >>295
報告書の訳文把握済みだと思うので引用したりはしませんが
秀吉は、秀頼が政権を担うに足りるようになったら政権を返却するようにと頼んでいます
関ヶ原後にまだ七歳、家康征夷大将軍就任時にやっと十歳というべき秀頼にまだその能力が
あるとは思えず返却したから問題なしは時期尚早かと思われます
秀吉は関白ともいっておらず日本全土の統治を委ねるとしかいっていないので
そのように解釈するのは一面的にすぎないかと 別に同じ史料に違う解釈があってもいいはずですが
攻撃的に過ぎる書き込みが多すぎる 家康が全部正しいんだよ!
って言いたいだけだもんな 史料解釈なしに腐す
>>309
こういうのとか例え話とか何度もやられたら攻撃的にもなると思うよ
少なくとも否定したいならしたいで論拠もってこいって言ってるのに持ってこないままバカにする態度取ってるのが多いしね まあそれも踏まえて、言葉通じてない荒らしより言葉通じそうな方に対して言ってると思うけども 徳川が幕府を開いて独立したのは朝廷の要請も大きいと思うけどね
官位の問題で朝廷が動けなかったみたいだから
武家も公家も秀頼の成人までは流石に待てない ああ九条関白の件は将軍就任の前ね
将軍就任は朝廷からの論功行賞とか色々ありそう 朝廷は朝廷の意思で頼りなくなったパトロンより頼りがいのあるパトロン欲しいだろしね
慶長4年の段階で他天下人と同じ扱いの三献の儀を家康に行ってるし 調停のそのへんをまとめてある研究あったら教えてほしい なんだろうなあ、盗将大権現の知略を否定する信者ってのも困りものだね
誤解の無い様に言っとくけど、卓越した才能の持ち主で有る事は認めていますよ
謀略にも個人の性格出るけど、家康のは相互の憎しみや嫉妬心を故意に煽る所が
特徴ですね
そして人間の心の弱さを良く理解してるのもポイント
只、こういう謀略の使い手って個人的には不幸なんじゃないかと思います
人間の光の部分を信じてないんだもん >>307
だから「豊臣公儀は」返したって話。
関白を中心とする豊臣公儀と将軍を中心とする徳川幕府だと政治の性質が違い過ぎる。家康が秀吉から預かったのはあくまで豊臣公儀であってその後に家康が任命された征夷大将軍とそれに伴う幕府は対象外。
というのも徳川幕府は源氏を血統にしてるから秀頼は豊臣を捨てないとならない。秀頼が徳川に頭を下げて頼み込まない限りそんなことが成るはずもなく… 以前からいろんなスレで書いてるがそもそも秀吉の関白就任は五摂家からだまし取ったもの
その後五摂家に何の手当もしていないどころか秀次事件で流罪にしたり秀頼成人まで官位叙任停止させたり
恨みを買うようなことしかやってない
秀吉の死後家康がだまされた近衛をはじめとする五摂家から何とかしてくれと泣きつかれた可能性は十分以上にある 簒奪者とするには豊臣家は天下を持ってなかった
というのは俺もその通りだと思うのだけども
「豊臣公儀返却論」も無理があると思うよ
関白就任も摂関家が担うようになってたし
最終的に通常の武家としての幕府への服属を求めた
もちろんそうなるのには豊臣家自身の振る舞いに
起因して仕方ない部分もあるとしても 世の中から簒奪という行為がなくなる
優しい世界が生まれそうだな 簒奪という定義に当てはまるかどうかの話じゃないのか 簒奪とは継承順位を無視して権力の座を奪うこと
豊臣家着くべき権力の座に家康がついたわけではなく
家康の豊臣政権トップの座は秀吉が保証したもの
漠然とした「天下人の座」のようなものを
想定してそれが豊臣家が独占すべきものであると
考える政治的立場を取るのであれば簒奪といえるか
政治的信条の自由は我が国では保証されてるので
そう主張するのも自由だと思いますよ
ただ俺はそのような政治的立場は取らないと言うだけ 秀吉も信長も三好も簒奪じゃないよね
朝廷が認めてるし 鎌倉幕府も室町も軍事勢力を朝廷が追認しただけだよね
室町幕府は追認してくれる天皇からコントロールしたわけだが 織田家直臣の秀吉が主家の織田家に対して行った事はいろいろあるかもしれんがまあ天下に関しては朝廷に認められたのなら簒奪とほ言えないんじゃないか 日本の場合、権力の保証としての権威は朝廷が与えて政治を対象者に委任するという形だから
簒奪というよりは、権力や権威が別の相手に『移譲された』と見る方が適切かもしれない というか、日本でこのスレが認めざるを得ないような簒奪ってあるのか?
光秀のクーデターすら朝廷に京都の治安維持を要請されてるから光秀は織田の天下を簒奪したわけじゃないって成り立ちそう 元の主君が移譲する意思がないところをぶんどっておいて移譲されたって凄えよな
じゃあ中華の禅譲も全部簒奪じゃないってことになるな。実際は力で抑えつけられただけだけど表面上は元の主君が譲ってきたから受け取っただけって形だし 中華は三国時代までは禅譲した元皇帝も新国家でそれなりの領土をもらいそれなりの待遇を受けて天寿を全うした
ただ、南北朝時代になって北族が中華に侵入してきて国家を樹立し皇帝を称するようになると禅譲した元皇帝は殺されるようになった
織田家を遇した秀吉は漢民族的、豊臣秀頼とその後継の男子を根絶やしにした家康は北族的と言えるな そりゃ日本は中華と違って、権威を与えるのはずっと変わらず朝廷だもの
自ら権威を名乗るのではなく、朝廷から特定の位を与えられたから天下人となって、
日本の政治を行うという形式をとってるからな、だから『移譲』という表現を使った 位を与えられたから天下人じゃないよね
天下人になった武士を朝廷が追認して擦り寄ってるのが実状だ
だから今各幕府の成立年についての議論がされているんだろう >>329
幕府開いた後でも豊臣家は残していたでしょ秀頼が自爆しただけで
秀吉も織田宗家の信雄を転封拒否したからと改易したけどこのとき信雄がおとなしく受け入れたから死なずにすんだだけで秀頼が予想の斜め下の判断能力だっのがなあ 少なくとも関ヶ原の結果本来藤原氏のために創設された家職である関白が五摂家に戻り
秀吉により停止させられた官位叙任は復活して朝議もできるようになり朝廷は正常化した
さらには官位が公家と武家に分かれることでかち合ってあぶれることもなくなり
秀吉のもたらした混乱を家康が収拾することで公武共に万々歳となった
秀吉の天下って結局自己都合と我儘で周りに迷惑かけるばっかりだった でも家康は信長や秀吉と違って朝廷に優しくなかったよな 長い目で見れば朝廷に取り込んだ豊臣が武家を仕切ってくれた方が朝廷も色々優遇してもらえただろうね 秀吉は別に朝廷に優しかったわけでなく自分の権力のための道具程度にしか思ってない
さもなきゃ完全に自分の都合だけで官位叙任を停止させるなんてとても朝廷を尊重してるとは思えないことはしない 少なくとも秀頼生まれたんならはよ八条宮返せ言われてるのに返すの渋りまくったりで尊重してるとは言い難いかな >>322
これがみんな言ってることで、それでもなお奪った奪った言うなら具体的に何が奪われたのか言えって言ってるのに頑なに言わないよね、荒らしたいのだか知らんが >>316
君が盗将大権現が好きとか嫌いとかの話も聞いてない、好きな人物像壊すなっていう主観の引き倒しをみんなにも共有したいんですと訴えても、ここにいるまともな人たちは証明のされてすらいないものを無条件で信じるような頭の悪さしていない
主張してることの証明になる史料と研究はなんなのか、そこしか誰も聞いてない
論文書けって言われて長々と感想文書いても証明になってなきゃ突っ返されるだろ、参考文献や引用箇所書いてなきゃしこたま指導教員に怒られるだろ?論文書いたこともないかい?
言い訳よりも史料と研究早く出す、出せないなら主張できるほどのもんじゃないから引っ込める
ぼくの理想の人物像壊すなーって駄々こねないの、一人前の人間として扱ってほしいなら >>309
正しいというより、家康は何も悪くないのよ
反乱を鎮圧しただけ 異論があるかもしれんがあえて簒奪という言葉を使うなら秀吉にこそふさわしい
本来つけるはずのなかった関白を五摂家の争論に乗じて横取りし
いずれ近衛に譲るという約束を反故にし世襲化して完全に強奪しだまし取った
清盛ですらやらなかった暴挙で秀吉には朝廷の伝統を尊重する気など微塵もなく
ただ自らの権力欲にまかせて土足で荒らし回っただけ
それで朝廷の大改革でもやるならまだ評価できたが一番大事な足元固めを怠る政治感覚のなさ
大体恩義ある織田家への態度を見ても秀吉が唯我独尊恩知らずの冷酷な男なのははっきりしている
加藤福島ら子飼いの武将も別に政権で重んじられたとは言えずただ道具扱いしていただけなんだろう
上にも下にも冷酷なのが秀吉という男で到底武家の棟梁という器ではなかった パシオの報告書にも秀吉が簒奪を恐れという記述があり、この記述がパシオかパシオに情報提供したものの考えかはわかりかねるが当時にそういう考えがあったことの証左 >>342
その命奪わないといけなくなるくらい当時の社会通念としてもおかしな行動を取り続けた豊臣方の行動を抜きにして考えるべきではないかな
誰がそれやらかしても滅ぼされるってのを一度許された上でまだやらかしたのを処すのは、もう奪うだどうだではなくね
冬の陣後に取次への襲撃を許すわ、和睦の条件守らないどころか浪人衆に堺焼かせるわで豊臣方が自分の家臣とした人間の制御もろくにできてない中、常光院を派遣してなんとか助命を図ってる
それすらも飲めないって蹴った結果だから、さすがに旧主への慮りの限度超えてるというか冬の陣前の行動が一回許されてるのがとんでもなく寛容 家康に同情すべき点があるというのは同意だが、全く悪くないというのは言い過ぎ
信長の先進的だった守旧的だったみたいに時が経てば落ち着くと思うがそんなの評価する人次第 次あるならスレタイ変えた方がいいね
豊臣恩顧について語るじゃなく
徳川家康を可能な限り肯定してみるスレ >>347
そういう将棋盤ひっくり返して「こんなことやって何になるの?馬鹿馬鹿しい」
みたいな冷笑的な態度はちょっとどうかと
わざわざスレを覗いてるんだからもっと頑張って論陣を張っていただきたい そもそも天下の所有者は皇室だし
基本的には天下を争うような人間はすでに官職持ちで天皇の臣下という点では同じ立場だからね 基本的に批判する側が論陣を張らずにいるから大揉めしてるわけで、ちゃんと論理と史料研究とで語ってくれって何度も言われてるのにやらないんだよ
それをやらないのにぼくの意見通したいんだーは荒らしか子供の駄々っ子だろと
しょうもない単発の煽りと具体性のないふんわりしたお気持ち表明とで何か語った気にならないで欲しい 実際今の話題が論議と言えないレベルで低質だから仕方無い
上っ面の理屈を捏ね回してどうとでも取れる解釈を自分の好きな方に持っていってるだけ
その先で何がしたいの?といえば誰が悪い悪くないという正にどうでも良い善悪論
歴史考察をしてるつもりかもしれないが実際にやってるのは表面的な罪の擦りつけ合い 秀頼さまから褒賞出たでと書状を出してるが、ここに豊臣家の意思がどれだけ載せられてるのかが重要点よねこれ、直接の感状じゃないしで
これで豊臣家から太閤遺言を無視して挙兵した西軍に行政権が認めますといった書状なりがあれば豊臣公儀となったと証明になるんだが 徳川家康が主君の一族を滅ぼして天下を握ったのは事実なのにそこを否定されたら議論もクソもないよな
時代を考えてもその結果日本がどうなったかの方が大事だろうに現代の価値観で家康は何一つ瑕疵がない清らかな男なんだと言われてもなって感じ 前提も何も聞かずにしかも流れ変えようとしてくれてるのまでぶった切ってクソみたいな煽りつけるだけなんだから楽だな 下克上にも一応作法があるんだよ、三国志の曹操ですらそれなりに気を使ってるのが
事実なんでね
曹操の言い分としては、黄巾の乱で後漢王朝の天下は崩れたし董卓が洛陽に入った時点で
地方官は後漢の権威認めてない状況に成り乱世に
華北を平定した後で「お前の家は後漢王朝の譜代だろ」というのも虫が良いでしょって
言い分だろね、祖父の曹騰は皇帝の学友だから後漢恩顧の家ではあるけど
それでも自分の代では下克上してないし祖父が受けた恩顧は意識してたと思われ
曹操ですら、後漢王朝に多少の感傷があったのが良く分かるからさ >>340
> >>316
> 君が盗将大権現が好きとか嫌いとかの話も聞いてない、好きな人物像壊すなっていう主観の引き倒しをみんなにも共有したいんですと訴えても、ここにいるまともな人たちは証明のされてすらいないものを無条件で信じるような頭の悪さしていない
> 主張してることの証明になる史料と研究はなんなのか、そこしか誰も聞いてない
> 論文書けって言われて長々と感想文書いても証明になってなきゃ突っ返されるだろ、参考文献や引用箇所書いてなきゃしこたま指導教員に怒られるだろ?論文書いたこともないかい?
> 言い訳よりも史料と研究早く出す、出せないなら主張できるほどのもんじゃないから引っ込める
> ぼくの理想の人物像壊すなーって駄々こねないの、一人前の人間として扱ってほしいなら
これ言ってもなお要求された史料研究を出さないでしかも例え話繰り返すんだから、つまり裏付けも何もない思い込みで証明を要求されても出さないまま駄々こね続ける程まともな判断能力がない知能が著しく低いやつ、と自分を位置づけたい訳ね、そう判断してほしい訳ね
理解 家康を天下人にしたのは朝廷だしなぁ。
秀吉が家康を将軍にしていたら簒奪と言えるけどそうした動きは一切無いし。 どうも朝廷としては豊臣より徳川を天下人に据えたかったフシまであるしね 白峰さんは大好きな西軍寄りの人なんだから、その論拠を補強する形で語れば良いものを >>354
秀頼自身が発給した知行宛行自体写しも含めて6通しかないしなあ
しかもそれらは全て慶長17年以降のものだし
これだと奉行衆が勝手に秀頼の名前出して褒章与えることで、殊更西軍の正当性を強調してるだけにしか見えないわな よかった。この国には簒奪者なんていなかったんだね! 簒奪ってのは君主の位を奪うこと。だから日本だと非常に難しい。
下克上の戦国時代の、小さな国なら兎も角それが政権ともなると防御機構が働くからね。また、日本の最高権威である朝廷がお墨付きを与える関係で簒奪はまず発生しない。
秀吉は確かに織田家を蔑ろにしたけど簒奪とまでは言えない。秀吉は自力で関白になったのだから。同じ様に家康も簒奪とは言えん。家康は将軍になって天下人になった。関白と将軍は全く違うもの。 簒奪って言葉にこだわるから反論されるんじゃないか
豊臣家の権威が失墜したので、豊臣家に取って代わる政権を築いたとかでいいのでは >>356
景勝呼び捨て説好き
政宗なんかもそうだけど、変わり者は呼び捨てにされるのか >>356
しかし、呼称を問題にするならラテン語の原文に当たらないと意味ないと思うんだけどな ラテン語の敬称がなんなのかは知らないけど、家康や景勝が呼び捨てなのに対し
秀吉は勿論、利家や輝元、秀家は敬称付きみたいだしな >>372
まあそこは本論じゃないからいいんだろうけど
結局、石田、毛利政権になんでも結び付けてるわけだが、白峰さんの言う「公儀」や「政権」ってなんなんだろな
宛がいや改易が実行されたわけでもないだろうし、事実細川は拒否って戦うわけで
先の論文でもあったが、秀頼の命ってのを石田、毛利政権ってものがことさら強調しているのもおかしい
小学校低学年の肥満児(は関係ない)の権威出さねば家康に対抗できなかったということだし、そもそも文書中の秀頼の命を無批判で採用しているのもどうなのか
推戴したとかさらっと流してるけど >>372
なんにせよ言葉遊びしかしない連中の中で材料出してくれるのは助かります
自分が出せればいいんだけど、よく知らない分野なので 西軍が「豊臣公儀として振る舞った」ことに
別段何の疑問もないのだよ
でも東軍も元々「豊臣公儀として振る舞ってる」
>>355
時系列の認識が根本からおかしい
それ普通に日本史のテストで減点な >>317
パウロの報告書を元に話しているのでその前提ですが
家康が秀吉の言う「日本の全土の統治」を返却したということですか
前提が食い違っていると思うのでいつ返却したと想定しているんでしょうか 発端の>>283の話に戻せば
秀頼は当時官職を得ており、豊臣家は家康を始めとした諸将の後見をもって天下人の資格を持っていたという認識です 豊臣秀次が織田常真のように出家して生きることを許されていた場合
関ケ原 冬の陣
豊臣秀次 33 47
豊臣仙千代丸11 25
豊臣百丸 9 23
豊臣十丸 8 22
豊臣土丸 6 20 >>370
盗将宮の唐門に、舜帝の彫刻あるしね
盗将大権現は簒奪したのでも、弑逆したのでもないといいたいんだろな
まあ、わざわざそう言う物作ったんだから秀忠や家光は本音では気にしてたんだろう >>379
お前まじでイカれてるからはよ病院行きなさい 自分のしでかしてる事が理解出来てないんだから、ほんとに子供の遣い以下の判断力しかないよ君 にしても、白峰氏は毎回研究証明の爪が甘い論説が多いな、上に挙がってる論をここの人がザッと見ただけでも問題点洗い出されてるし
どの論文か忘れたが本多隆成氏あたりが白峰の説に批判点を挙げてた記憶があるが、あれへの更に返答の論とか出してるのかな (易性)革命も簒奪もある政権の移行についての
道義的・政治的評価を与える言葉なんよね
革命という時点で道義にかない
政治的に支持できる政権移行であるという
簒奪という時点で同義に叛いた
政治的に批判すべき政権移行であるという
主張を含んでしまうのでマジで注意だよ
少なくともそう取られかねない表現なので
本当にフラットに観たいのなら言葉は選ぶべき まあ簒奪だよね
織田も豊臣も抵抗して戦争を挑んでる 豊臣は親政したけりゃ手足であった奉行を守らなきゃいけなかったね
それを見殺しにした時点で家康に天下を譲ったに等しい >>376
秀吉が家康に与えたのは豊臣公儀。だから家康は秀頼が成人したらそれを返した。それで秀頼は辛うじて蔵入地の支配等が出来ていた(尤も、豊臣は自国領の支配すら出来ない程に落ちぶれていたのだが)
家康の建てた徳川公儀は豊臣公儀と本質から異なる。家康を天下人にしたのは朝廷で、それは征夷大将軍・源氏長者任命によって成った。これは関白によって成立した豊臣公儀とは全く異なる。また家康を将軍にしたのは朝廷であって秀吉では無いので秀頼に返却する類のものじゃない(返却する相手は朝廷)
当たり前だが、秀吉から貰ったものでないなら豊臣に返す道理は無い。それで家康は豊臣公儀は返したけれども天下人として天下を差配した。 詭弁過ぎて草も生えない
過去のあらゆる下剋上のあった家に置き換えても使えそうなコピペみたいな長文だな >>386
パウロの報告書は読みましたか?あの記述は豊臣家の公儀と限定していないですし、他の遺言などを見てもそのようには読み取れなかったです
あなたの見解以外にそのような史料や研究があれば提示してください しかし関ヶ原後の豊臣家の人材の貧困は何なんだろうな
蔵入地は大名丸投げだったろうが直轄地は秀吉在世時から租税徴収の役人いたはずだから
関ヶ原で奉行がいなくなったとしても残った家臣で役人を差配できるはずなんだが
片桐をはじめとしてそういう差配ができるような人材がいなかったのか
何らかの理由で役人がいなくなってしまっていたのか >>386
>>376でたずねた返却の時期についても回答お願いします 簒奪論も豊臣殺害後政権奪取論もだが
豊臣公儀返却論もだいぶ認識おかしいと思うわ
単純に豊臣公儀は秀吉死後の政情不安定で信用を失い
関ヶ原の西軍挙兵で統一政権として治安維持を
担えないことがハッキリしてしまい
それに変わる公儀が必要とされて
徳川幕府が生まれたというだけかと 西軍は忠臣だ、家康は悪人だと言って思考停止して騒いでるひとは、その行為がものすごく西軍の連中を貶めて馬鹿にしてることに気がついてるのかな。
その観点でしか見なければ、西軍は家康の挑発に乗って安易にクーデターを起こし、豊臣政権崩壊の原因を作った道化役しかない。 西軍は忠臣だとも家康は悪人だとも言ってねーよな
勝手に簒奪を悪だと決めつけて家康は悪じゃないんだい!って発狂してるのはいるみたいだけど 悪かどうかにに拘ってる時点で
400年も前の歴史の見方として十分歪 簒奪派は議論すら出来ないようだし
簒奪じゃなかったで終了やな >>389
そういう建前の話するから嫌われる訳でね
権現様が摂津河内和泉以外の蔵入地山分けしてるでしょうが
誰だって命は惜しいよ、豊臣家に同情的な素振り見せたら死亡フラグなのに 豊臣家に同情して死亡て何のことだ?
まさかいきなり話が大阪城が浪人集めて
戦争準備してる時まで飛んでるのか? なんというか言葉遊びで頑張って相手を主張を曲げようとしてるだけだな
これを当人たちは歴史考察の議論だと真面目に思ってるんだろうか なんというか言葉遊びで頑張って相手を主張を曲げようとしてるだけだな
これを当人たちは歴史考察の議論だと真面目に思ってるんだろうか >>392
歴史上の出来事に善悪は無いよ
わざと隙見せて相手を嵌める事は良くあるし、逆に陽動のつもりが其の儘敗北する事も
良くある
関ヶ原に付いて言えば、挙兵が起きる事は当然予想してたと思うぞ、普通に謀略のセンスが
あるなら予想出来るし、この方面では達人の称号持ちの人だし
只、それでも勝てるって予想でしょうね、当初の予想では
ナポレオンなんかでも、わざと隙みせて敵軍が食いついた瞬間「この時をまってたぜ」を
狙って見事にカウンター決める「例、アウステリッツ」事は得意技です
只関ヶ原は予想外に火事が大きくなって危うく焼死かと >>388
パウロの報告書では秀吉は明確に「豊臣公儀」を家康に渡している(秀頼が「王国」を支配するまでの間国政を預けた)
つまり家康は豊臣公儀の支配者になった。そしてこの地位は確かに秀頼に返却された。返却されてなかったら豊臣は蔵入地も自国領も失っていたろうさ。
ところがここで一つ忘れてはならない事がある。それは日本の真の支配者は天皇、朝廷だということ。そして朝廷は己の意思で日本の支配者を決められる。朝廷は家康を選んだ。パウロの言葉に従えば「徳川王国」を作らせた。 ここに二重公儀論の意義がある。つまり豊臣公儀と徳川公儀が両立した時期であった。ところが豊臣公儀は西軍のクーデターで瓦解しておりまた豊臣公儀は当主に関白が必要なところ秀頼は関白になれなかった。これは割と重要で朝廷が豊臣公儀を否定した事を意味する。朝廷に認められた徳川公儀と見放された豊臣公儀。優劣は明らかだった。
秀頼の選択肢は少ない。公家となって関白を狙うか、豊臣公儀を畳んで徳川公儀の支配下になるか。さもなくば戦争をして徳川公儀を倒すか。史実では秀頼は最後の選択を行い、結果滅んでしまったが。 >朝廷は己の意思で日本の支配者を決められる。
んなわけないじゃん 401みたいな主張が、西軍はマヌケで馬鹿だと貶めてると言ってるのだが… 盗将例え話くんは人の言ってる事の意味を認知できないから
知識のベクトルが我欲と偏見で歪んで知恵になってない とりあえず一人だけ間違いなく頭のおかしいこと言うてるのは盗将くんだから 朝廷が認めたから簒奪じゃない!って日本人の発想とは思えんなw
じゃあ信長に媚び売ってた朝廷がそれから一週間もしない内に信長に謀反した明智光秀も朝廷に認められたから謀反じゃないってことかな?
秀吉も朝廷に認められて関白になったから簒奪じゃないってことか
越前朝倉、美濃斎藤なども朝廷に認められたから乗っ取りじゃないってことだね >>409
日本語おかしくなってるわ
信長に媚を売ってた朝廷が信長を殺して一週間もしない内に明智光秀を認めてたからこれは謀反じゃないってことだな 朝廷が認めたから論者ている?
そうじゃなくて単純に明智の本能寺にあたる
「主人への謀反して成り代わってない」て
とこがキモじゃね?
関ヶ原がそれと言うなら
別に豊臣に弓引く戦じゃなかったし
大阪の陣がそうだと言うなら
すでに徳川幕府が成立していた >>367、403、360、331
いっぱいあるからキリがないな 戦の是非において建前が重要なのは分かるんだが、それをさも家康の真心として語るのは違くないか?
現に家康がやってたのは建前を使った豊臣潰しなのだから
どうとでも取れる言葉のあやを真面目に語ってるのもおかしい >>389
直轄地は激減したのに、広大な土地を所有していた時の家臣団は維持できんでしょ >>378
秀次が生きていて信雄や有楽のように親族として秀頼のもとに侍っていたなら、どうなっていただろうな
秀次の子供たちも全員20代か >>415
秀吉が唐入りのために九州に出張ったことでお飾りだった秀次の畿内での影響力は増してたからね
朝廷とも上手くやってたし摂家から関白返して!って要請されたらどうしたのかなあとはちょっと思う >>413
建前が建前として見え見えなのに、人前では反吐が出る様な綺麗事を押し通すってのが
この人の謀略の特徴
実際、封建制の社会において主君からの恩賞なのか主君の領地を勝者として割譲要求してるのか
は微妙な問題でしてね
フランスのノルマンディー公爵初代のロロは、建前では「西フランク王に討伐されて臣従した」と
成りますが、実際は彼の方が勝者だったみたいで
フランク王「占領地を建前上領地として下賜するから形式的に臣従してね」だったみたい
「臣従の誓いとして足にキスしろ」と言われて「足首握って逆さにした」とかまで言われる
それでも、公式記録では「西フランク王からノルマンディー公領を与えられ臣従した」になる
何度も言うように、自分一人の花押で蔵入地削るなら、勝者として恐喝したになる >>404
決められるに決まってるだろう。仮に力で押しても朝廷は時機来るとなればあっという間に押し潰す。それで豊臣は滅ぼされたんだし。 簒奪は簒奪だろその是非は別として
↓
家康にそういう悪い言葉を使うな!家康は潔白!
このやり取りが延々と続いてる地獄 決められるなら信長が官を辞した後右往左往しないだろ >>402
パウロの報告書に目を通していただいたみたいありがとうございます
王国の一語をもって明確に豊臣公儀と限定して持論につなげるのは理解できません
全文を読めば国政を委ねる、日本全土の統治を委ねるなどの文もあります
特に家康が秀頼が政権を担うに足るようになったから公儀を返却したような出来事もありません
他の方が言っていたように関ヶ原で政情不安定になり新たな公儀が求められたということではないかと >>409
簒奪って言葉の意味から考えればすぐ判るじゃろ。
簒奪とは「君主の地位を本来相応しくない者が奪う」こと。
秀吉は朝廷より関白に任命されて豊臣政権を作った。
家康は朝廷より将軍に任命されて徳川幕府を開いた。
関白と将軍は全く違う職。だから簒奪では無い。簒奪という為には家康が関白になってなければならないがそうした事実は無いからね。
正しくは「易姓革命(天命が革まり正しい者が王朝を拓いた)」となる。 勝手に蔵入地から子分に知行与えまくってただろ家康ってw 同じやりとりを続けてスレを占拠してしまうのも心苦しいので
特になければ自分からは以上にしたいと思います >>422
天下人は肩書きで決まるものじゃないでしょ 天下人は実力で決まるとなると幼少の秀頼に実力も権力もないとなってしまう
少なくとも朝廷は相手にできない >>421
秀吉の「王国」ってのは何か?それは朝廷より関白に任ぜられて作ったもの。はっきりいえば「豊臣公儀」ってこと。
そして秀吉はそれを家康に託した。ここまではそう。
問題はその豊臣公儀は西軍のクーデターで完全に崩壊してしまった。更に朝廷は家康を征夷大将軍に任命した。この時点で徳川は自分の「王国」を作ってしまったワケ。
これは秀吉とは全く関係ない政治的運動の結果なので豊臣に返すとかは筋違いの話。そして家康は秀頼に秀吉の王国を返した。もう何一つ残ってない荒野だったけど。 >>428
戦争に勝って子分に土地を配る人、あるいは子分の土地を保証する人
頼朝も尊氏も皆肩書きもらう前から天下人だよ。だから鎌倉幕府の成立年も変わったんだ 朝廷は追認するだけだよ
権威しかないんだから下手に動けん 信長の三職推任問題も朝廷が天下人への影響力を保持し権威を確保したいがためだし 右大臣を辞されて左大臣推任も断られて村井貞勝に泣きついてたぐらいだからな
朝廷が天下人を決められるなら信長が断るなんて出来ないでしょ >>431
その頃にもなると信長は増長しすぎて朝廷をないがしろにした態度をとってきたし
天下統一したら朝廷を滅ぼしてしまう可能性もあった 信長が朝廷を蔑ろにした行為とか
今はなされてるのとか具体的にどれをどう解釈してるとか話さずふんわりイメージで語っても違ういやそうだにしかならんに決まってるだろ
論じたいなら個別事例上げながら語れ >>382
貼るのは別に構わないけど、今のこのスレの流れで意味があるのかな >>435
こないだまでの七将スレが変なの湧きづらくてこれがこんだけ無駄に荒れるの、話題の広さのせいで具体性と専門性が薄く感じられて調べてないのでも通説程度の知識で行けるだろ位に思われてんじゃねーかって気がするから
いやちゃんと論文を基にしてますっての繰り返してたら場違いさに気づけるやつは気づくんじゃねーかな、七将スレですら荒らしてた例え話みたいな狂人はともかく 俺も本多隆成氏とか藤井譲治氏やらの論文を張りたいんだが、なんかネット内で論説を公開してるの白峰が多いのよねー 結論まで参考にしなくても
使ってる資料や読み方を部分的に参照するにはいいね >>427
武家の主君って家来の領地の安堵をする人だからね
所が、盗将大権現さまが豊臣家の領地を自分一人の花押で削り始めた
勿論憤激する奴も出るけど、そんな奴は盗将大権現様が武力で蹴散らすから問題ないと
これが関ヶ原直前の状況だぞ、「豊臣家の領地?俺が自由に処分して良いんだよ」が本音 家康が嫌らしいのは、建前とは別に本音の宣伝も露骨な事でしてね
豊臣秀頼の領地堂々と横領してるから「自分の領地守れない豊臣家がお前の領地安堵してくれるの」って
当然なるよね
この本音の宣伝をし捲りながら、同時に綺麗事も言う嫌らしさが持ち味 >>440
盗将例え話五大老くんは具体的な史料をもってこようね
司馬遼太郎の小説以外で >>440
家康一人じゃないよ。
例えば森忠政の加増では奉行衆が動いてる事が確認されてる。そもそもこの時には中央で指揮取れる大老が家康しか居ないっていう豊臣政権末期でもある。奉行衆が動いている以上、豊臣政権としての行動であることは明らかになっている。 >>440
豊臣は朝鮮で武将たちを散々こき使った分の代金を踏み倒そうとしていたからな
むしろ家康が豊臣に借金を返済させていたというのが実情だろう
家康がいなくなったら開き直った豊臣は借金を踏み倒し放題になってしまう
だから三成がどれだけわめこうが諸大名は家康を勝たせる道を選んだ
家康のおかげで豊臣は借金を完済することができたわけ >>441
むしろ逆で長束や増田といった奉行たちが豊臣の金銀を堂々と横領していた
現実にこいつらの城からは横領した大量の金銀が見つかっている
奉行からですら自分の財産を守れない豊臣家が俺たちの領地安堵してくれるのか?と
諸大名が不安に陥るのも無理はない
家康が関ヶ原で悪徳奉行を一掃したものの豊臣は失った信用を取り戻せなかった
奉行たちの豊臣家に対する横領は許しがたい裏切り行為と言える >>440
別に家康嫌いでもいいけど捏造はいかんでしょ
あんたずっと妄想と例え話だけで話してるけど自分が浮いてるって自覚ないんか? >>441
征夷大将軍任官もな
公家や外様に圧をかけて周りから徳川様は将軍に任官なさらないのですか?と言わせて周囲に推されたから重い腰を上げて将軍になったという形を取った
疚しいところがないならわざわざそんな工作なんてする必要がないからね どんな圧力だよ、具体的にどんな事例があったんだよ
捏造か そういえば七将スレってあれは話してた内容なんか続くものあったっけ
あったならそれの続きやりゃいいんじゃないか、こんな何月何日にこういうことが起きたと書かれてる史料があってみたいな事例一つ出ない浪費よかあっちの続きがやれるならやりたいが
確か日時不明の毛利家文書46号の話で書状内で病気を気遣う記述の連続性から慶長5年のものじゃねーのって話出てたね また汚い言葉を使っても自分は悪くないです、か
くだらない煽りしているのも荒らしなんだからどっかいってくれ あれ隔離スレだろ
やりたきゃ新スレ建ててそっちで頼むわ 家康が征夷大将軍になった時に秀頼は内大臣になっている。その後秀頼は関白になるんじゃないかと世間では言われていた
そこで家康は早々に将軍職を息子に譲り、徳川が握った天下を秀頼が成人し関白になっても返上する気がないことを世間に示した
自分の孫娘を嫁がせた相手を遮二無二滅ぼした奴に自分は疚しいことをしているという自覚がないわけないわな >>413
真心どうこう言い出すと誰の行動も
裏でどう思っていたかなんて知れない
だから建前とかじゃなく行動で観てる訳でしょ 徳川の天下が続くことを世間に示すのはなにも疚しいことじゃないよ 信長は朝廷を蔑ろにした
秀吉が天下取るために織田を滅ぼした
家康が天下取るために豊臣を滅ぼした
古臭い小説まんま 少なくとも家康は豊臣恩顧大名とは言えんわな、
家康の話しかしない奴はスレ違い。 資料上に記された行動をそのままストレートに解釈するのもどうなんだろうな
人間本音と建前がある訳で文献に残りやすいのは打算を隠した建前の部分
今やってるのはその建前を一面的に事実と捉えたある種歪んだ資料の見方に見える 秀頼が関白になるのと徳川が将軍になるのは並立できるんじゃないの
豊臣家は関白として朝廷の最高役職につくが武家を統制するのは将軍である徳川の役目
そもそも朝廷と武家は成り立ちからして原理的に相容れないんだから
公家と武家で官位を分けたように豊臣は公家の公儀、徳川は武家の公儀として並立させる
ただ秀吉が反故にした五摂家への約束があるから豊臣の関白独占世襲は非現実的
豊臣の関白世襲は「叡慮次第」つまり天皇の意向次第ということだったし
後々のトラブルを避けるためにも豊臣は摂家の一員六摂家メンバーとして五摂家と関白を回り持ちする
豊臣は徳川の親類だから五摂家も流石にそれは拒否れないだろう
てのが家康の構想で落としどころだったのでは
実際家康は昵懇衆の公家で明経博士の舟橋秀賢を秀頼の教育に派遣したらしく
秀頼を公家として教育しようとした形跡がある
秀頼が嫌がったらしく数回の教授で終わったようだが >>459
あなたも常に行動と言動から判断されてる
世界中の人間全てがそう
あえて何の材料もないのに
行動と言動を切り離して解釈する方が
どうなんだ? 史料にないものを勝手に読み取りますとかどんだけイカれたこと言ってるのかすら理解できてないバカまで湧いてる始末だしな
>>461
後陽成天皇から叡慮次第の言葉引き出すために八条宮を返すの渋ってたしね秀吉 というか同時代の人間達も行動と言動から
判断して関わってる訳でな 家康の基盤は東国にしかなかった
だから西国では家康の将軍就任後も秀頼が関白になって豊臣の世が続くのだろうと思う人も多かった >>465
後鳥羽上皇「北条の基盤は東国にしかないから自分たちの世が続く」
後醍醐天皇「尊氏の基盤は東国にしかないから自分たちの世が続く」
豊臣秀頼「家康の基盤は東国にしかないから自分たちの世が続く」
中世の西国人は学習能力がないのかな? 中世の混乱は関東から始まる
室町幕府も如何に関東を治めるかが命題だった >>446
横領とかなんの根拠がもとでいってんの? >>465
きいてんの?外様や公家へ言わせた工作ってどれだつってんの 史料に書いてない悪意を前提にしよう
どで言い出す原動力の方が知りたい 天下を取るために豊臣を滅ぼしたんじゃないなら何のために難癖つけて滅ぼしたんだ? 家康擁護のためなのかしらんが根拠なしで奉行を貶めたいだけのやつも害悪だから消えてほしい 以前も想像で三成がルール改変したとか主張していたし 根拠なりうる史料なしで想像かますバカは何主張してようがクソでしかねーだけの話でしょ そう、あいつが暴れて別の荒らしがそいつに絡んででエンドレス >>472
歴史的に見て西国勢力というのは東国勢力に過剰反応して自滅するパターンが多い
後鳥羽や後醍醐も北条や足利が直接的な敵対行為をしていない段階から過剰反応で暴走して自滅した
秀吉死後の豊臣も家康に対して過剰反応を繰り返して制御不能になっていった
歴史的に何度も繰り返されてきた豊臣側の自滅行為と言える 難癖って何のこと指して言ってるの?
鐘銘事件についてなら滅ぼすためじゃなく
戦争準備を咎める最中出てきた事件だし
妥協案飲んだら戦争にならない案件 >>472
家康が将軍になった時点で天下は取っているよ 奉行の横領については俺もソース知りたいわ
秀長の蓄財エピソードとかとごっちゃになってね? >>454
家康が将軍に任命された時点で秀頼が天下人になるには関白になるしかないから秀忠の将軍宣下とかはあんま関係無いぞ。むしろこれは朝廷による「秀頼追放運動」の一環で「秀頼を関白にさせない」って狙いはあったけど。 徳川家康は天下人としての権力確立のため豊臣政権の切り崩しを行いそれを盤石とするため豊臣家を滅ぼした
これに何か問題あるか?
一次資料にそんな事書いてない、家康は豊臣を守る為に動いてるって言いたいの?
あれこれ理屈並べてるけどこの話の着地点が全然分からん そりゃ前提で喋られてることも今どんな研究が進んでるのかも知らないでこのパート流し読みしたってわからんだろ 建前の話を大前提で語るから、おかしな事に成る訳でして
帝政ローマでも執政官は選ばれてたし、別に官職が廃止された訳でもなんでもないのな
建前としては最高の官職でも、実際はそれを無効化する権限持ってた人が居る為に
無意味になってしまった
皇帝が全ローマ軍の指揮官で、執政官や前執政官に優先する権限を持ち、護民官特権を
持ってるから実質本国担当総督になっただけで
更にのちには属州総督や軍団長「基本的に前執政官が望ましいとされた」に任命する為に
短期間執政官を務めて、直ぐ辞任「本来の任期一年」する風習まで
これでも建前は、ローマ最高の官職な訳ですよ
実際には、実は消えていて何の意味も無いのに「軍団長や属州総督に成れる資格ってだけ」
家康が自分一人の花押で決済してるのに、奉行衆がかかわった記録っていみないでしょ
他の大老の承認を得たのか、他の大老の花押がある文書だしてるのかが重要な所
それが無いなら、豊臣の領地横領と見られてもしかたない 豊臣政権のトップにいながら自分の与党を増やしていったんだろ?豊臣の領土をばらまいたり、自分に靡いた大名の妻子を返してやったりして
自分のためであって豊臣のためじゃないよね? でも具体的に誰の事だろうな?諸将の中で徳川に親しいから妻子を返された奴って。
てか西軍はそう言いながら諸将の人質を私物化しようとしてるからねぇ…完全な悪党よ。 政権のトップが与党増やしたり活躍した人間に豊臣家の許可得て褒美として領地撒くのがアウトなのか。へー
つまり豊臣政権のトップは自分の領地切り崩して与党増やしていくらしいぞ、それのがよほど政権ほしいままにしてるな
この時代について知らなくても、最低限度政権のトップがなにするのかくらいはわかっとけ、無知にも程があるわ 秀吉は知行宛行は秀頼成人まで止めろと言ってたんじゃなかったっけ? 8/8日起請文にある
御知行方之儀 秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、ゥ家御奉公之淺深ニヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公義之御為ニ候條、内府○長衆五人致相談、多分ニ付○随其、可有其賞罰候、但手前之儀者、少モ申分無御座事
これを前提にしたいんか、禁止ではないな >>493
お前みたいにレッテル貼って煽ってなーんにも根拠ないけど断定する無能のバカが入ればやられた相手はいくらか攻撃的にもなるよなー、双方ともに
煽りたいなら史料自前で出すなり研究出すなりして、少しは役に立ってから煽れや、一言二言お小言言っただけでいい事言ったわーってお気持ちよくなりたいだけなのもいらねーの、わかるか? >>489
そりゃトップにいるんだから
与党は増やしていくだろうよw 知行宛行は禁止したくても出来んはず。朝鮮出兵が失敗に終わったとはいえ「日本敗北」を否定する為にも恩賞は出さないといけない。そうしないとそれこそ公儀の威信が地に堕ちる。そんでその外征組が頼みにしてるのが徳川家康。
十人衆(というか奉行派)が知行訴訟は合議制でとか言い出してるのもこの問題と関係あるだろう。
ただ家康がその気になったら奉行派なんて一捻りで潰せた訳で大分パワーを押さえてた訳だが。その事を分かってない三成とかが… >>489
家康自身に権力がなければ豊臣政権の運営などできん トップにいる家康を孤立させたかったのが
結局西軍の首謀者達ってことでしょ
そんなん言い訳不能の背信であり
謀反そのもので即首が飛ぶ行為な訳だけど 豊臣家の領地が削られても、もらう方は困らない
そもそもあちこちに飛び地設置するより、畿内をがっつり旗本、3万石未満の小大名の
自家直営大名で押さえておくべきだった >>486
関ヶ原後に増田長盛の居城から金1900枚と銀5000枚が見つかっている時点で横領確定
奉行信者は一生懸命貯金したものと弁明するけど
実際の奉行の腐敗は深刻な惨状だった 豊臣家の執政たる家康が豊臣家の領地から土地を与えるのが豊臣からの恩賞だろ
家康が徳川家の領地から土地を与えてたら、それは豊臣家の執政としての行為ではなくなり、貰う側が徳川の家臣になる事を意味する行為になる その分、西軍の領地のいくらかを豊臣の直轄領にすれば良かった気もするが、もしくは恩賞を西軍の旧領から出す
豊臣政権を守る気が失せたのかな
豊臣から恩賞をだすのはいいけど、西軍の旧領とることで、変わらないか、豊臣の領地が増えるべきとも思うが >>377
中納言で天下人、っていくらなんでも無理がありませんか?
そもそも、摂関家で回り持ちする摂政・関白に就任することで
末代まで天下を保とうとしたことに無理があった。
幼少でも周囲がフォローすればいい将軍と違って、
摂政・関白は天皇を補佐する職務なんだから、幼少では
補任できないし、空位にすれば朝議が回らない >>504
豊臣政権を続けるにしても豊臣は傀儡のままで
徳川が支配する体制を維持しなきゃいけないのだから
豊臣家の領地はもっと減らしていかないといけない デカくなりすぎると自衛のためにそう動くしかなかったっていう家康の考えは分かる
結局主を脅かすほどデカくなっちゃったら食うか食われるかの関係になるのは避けられないからな 関ヶ原前の話を前提にしてたのになんで急に西軍の挙兵で条件がころっと変わった関ヶ原後の話になってんだい? 関ヶ原前の話を前提にしてたのになんで急に西軍の挙兵で条件がころっと変わった関ヶ原後の話になってんだい? >>484
史料になかったらないだろw
史料にないのにあると言うなら
そのソースや根拠はなんだよ? 横領と言えば豊臣が横領してるって話もあったな。
豊臣の財力を浪費させる為に家康が淀君に寺社仏閣の修繕を勧めた、って逸話があるけど実際家康がそんな話をしたって史料は無いらしい。つまり寺社仏閣の建築は豊臣の意思。
ところがそれだけカネを遣った割には大坂城には金銀が残ってた。どうも豊臣、秀吉恩顧の連中に寄付をさせてそのカネをピンハネしてた疑惑があるらしい(それで徳川は警戒して豊臣の動向を監視していた)
まぁ少なくとも家康が勧めた、って話は疑うべきなんだろう。 >>502といい金が残ってたら横領とかすごいですね
是非その説を提唱した人を教えて下さい 三成は逆に金が全く無かったって逸話は聞いたことがある
さぞ、貯め込んでいるだろうと思われていたが戦後調べたらスッカラカンだったとか何とか 増田長盛が横領していたかというのは判断難しいな。長盛は二十万石の大名であるから持っていてもおかしくは無さそうだけど金1900枚ってのは多過ぎる気もする(石田三成がすっからかんなら尚更)
とはいえ増田長盛は豊臣蔵入地の全てを支配していたらしいしそこから少しちょろまかしてもバレる事は無い。だからあいつは…とでも思われてたんじゃなかろうか。 秀吉存命時から既に徳川派が形成されつつあるからねぇ。秀吉死後様々な勢力が反奉行派の為に徳川の旗を頼った、そして豊臣が西軍のクーデターで主体的に動けなかった結果徳川家康の力が最大になっただけで。秀吉がいっそ家康を関白にしてりゃ問題は難しくなったかもしれないけど(まぁ朝廷から将軍を貰って関白は棄てる、って形に決着かもしらんが) 三成がスッカラカンだったのも単に挙兵時に使っちゃったとかじゃないのか?増田長盛はべつに関ヶ原時に軍勢を動員したとかなにか積極的な行動をしたとかの話も聞かないし 三成は最近見つかった書状でも金は溜め込むんじゃなく使うべきって書いてるらしいしそういう奴ではあったんじゃない 三成はもう後がないから今使わないでどうするって状況だからね
増田長盛の場合は使う状況なのかどうか
そんなことしなくても勝てると思っていたけど
岐阜城が落ちてからなにか手を打つには時間が足りないように思える 三成は武張った家臣も名がしれているけど、増田は渡辺勘兵衛くらいしか知られてないしそこら辺の違いもありそう
増田のwikipediaにその記述の引用元書籍があったが近くで蔵書がないし確認は時間かかる、勘兵衛の開城後のことだろうし接収した藤堂側の記録とかかな >>521
それが奉行職よ。普通の武将なら武器が立派ならそれで良い、精々兵糧代が有ればなお良いだけど奉行は戦略的観点例えば兵站の管理や他家との外交まで受け持つ。必然的に清濁併せ呑む事になるし周りからの評判も悪くなる。家康が独立した時も奉行が貯めたヘソクリがあってなんとかなった、って美談があるけどあれも悪く言えば横領に片足突っ込んでるし。
そういや石田三成は「主人から預かった金が足りなくなるのは無能、残したら横領」って言ってたとかいう逸話があったなぁ >>507
大権現様の思考の流れはある意味良く分かるのよな、太閤生前には本当に綱渡りな気持ちで
生活してたんだろうし
「自分ならこんな大きな大名はどんな手を使っても消す」という考えが脳裏にこびりついて
はなれなかったのだろう
自分なら絶対に許さないからね お、さんざん盗将とか言ってたの馬鹿にされたからか大権現に変えとる
どっちにしろ思考がクズのままだけど 自分の浅い知識からの主観と当時の人物の考え一体化できると思ってるバカ一人いるってのの話でしかねーな
少なくとも太閤生前に潰されるかもといった状態になるどころか、政権の中でも重い責任とそれに見合うだけの立場を任された上で秀吉と能をたびたび見て遊ぶ程には仲の良い状態で、潰されるかもといった状態を読み取れるところはねーな、司馬の小説じゃあるまいに 五大老五奉行の十人衆政治、と言ったところで五奉行がまず致命的に仲悪いんだよなぁ。
具体的に言うと浅野長政と石田三成。こいつらが仲良かったって話が一個も無い気がするんだが…
パシオ師の報告だと元々奉行は四人だったのを長政が加わって五奉行にしたらしいけど、秀吉のそのココロはなんだったのか。 >>531
そもそも十人衆で政治しなさいってのが秀吉から直接言われてるものが存在せず、あるのが死の直前の起請文と死後の起請文
それ以前は明確に家康へ権力集中させつつ内藤周竹書状にもあるように政策決定を秀吉家康間で相談して決めたり伊達家文書には上杉伊達間の調停を家康に頼んだり伏見を任せる遺言の際も唯一秀吉が敬語を用いてたりと、政権の後継を家康にする形でお膳立てが整ってたと
死の直前の起請文だけが浮いてるのよね
その上で十人衆で政治しようにも大老の一人は会津に秀吉の許可を得て帰国してるしと、十人衆の政治構想は無理のあるものが大きくて秀吉の意思がほんとに乗ってるのかが非常に怪しいってところ >>528
良くも悪くも政治的人間である人に対して甘すぎるかと
必要とあれば、嫁も息子も見捨てる事の出来る人だぞ
自分が逆の立場なら絶対に許さないが、如何してもあるだろ >>533
なんかいっつもそのその嫁と息子云々持ち出すよね
もうそれしか残ってないの? >>532
多分間違いなく十人衆は秀吉の想定外だよなぁ。
そこで秀吉は浅野長政を奉行にしてる。この人事には何か理由があるのかな?石田三成のライバルだってのは秀吉だって分かってたはずだし… 当時の記録からして潰されるかもしれんと怯える様子もなければ仲良くしてるぞに対して身内殺したことあるぞなの、反論にすらなってないんだわ
身内を殺したことのある大名なんざ枚挙にいとまがないレベルだがそいつら全員厚遇されてても内心ヒヤヒヤでいつか絶対やり返したらぁおもってましたよとか言い出したいのか?
当時として関係不和が見えないつってるもんに反論したいなら、不和な関係に見える史料記録を持ってくるであるべきだろ
文法すら理解すらできてないんか533のオツムは
自分の立場ならどうしても許せないって正しくお前の浅い知識と当時の人間の思考が一致してると思ってるバカで大当たりじゃねーか >>535
東国取次として東国惣無事と長いこと付き合いがあるため家康と奉行の関係を保つのを期待したか、あるいは腐っても縁戚を入れる事で奉行の多少の発言力強化を目指したか
現状ある少ない情報だけだとどうとでも取れてしまうし、直接抜擢の理由を書いた秀吉書状でもない限りいくらでも論をこじつけられてしまう以上、史料もなしに勝手な思い込み挟むべきじゃないと思うんで何故か現状理由わからんけど選んだで留めておくべきかと 五奉行で一番最初に消えたのって石田三成だっけ?
浅野長政が隠居したのは家康暗殺計画の時だし。尤もその後も影響力バリバリ残ってたけど。 脱徳川史観が叫ばれてる昨今にここまで徳川史観ズッポリの人が暴れてるのは面白い 脱徳川史観は結構だがそれは史料全部無視して語っていいなんてアホな考えじゃねぇ
これまでの江戸期の史料を無批判に受け入れるではなく
史学の基本に沿って史料批判と精査をした上で史料を基に解釈してくことを言ってんだよ
その上で十人衆制が怪しいって話になってるのに史料もろくすっぽ読んでもねぇバカが知った口聞いてんなや 徳川が自分の天下になった後に織田や豊臣との関係で色々自分達を正当化したんだろうなっていうのは分かってきたよね 後事を託された主君の息子を本人だけじゃなく一族諸共根絶やしにして自分の天下の安泰を図るとか人間としては最低のクズ野郎だと思うけど為政者としては悪ではないんだよな
政権運営能力がなくなってた主君の天下を簒奪し、一族も根絶やしにしたけどそれによって日本に恒久的な平和が訪れた。家康個人は地獄に落ちたかもしれないが多くの日本の庶民は安定を得た。素晴らしいことだよ いや?そんなもんもわかってないな
どちらかといえば江戸期の史観はうちの藩祖こんだけ苦労して家康を天下人にしたんやでとか、ほんとは天下取れるだけの実力あったけど運なくて天下譲ったったわー
みたいなののがよほど多いな各家の家譜を菅見する限り
なにかしらの研究や史料読んだ上だとはとてもおもえねーんだよな、ここで史料出した上で喋ってるのにケチつけてるだけのやつ >>543
そもそも豊臣の一族を根絶やしにしたのは秀吉。
そして謀叛人は基本的に死ぬ定めにあるのが日本の歴史よ。 あることについて語るのに前提となる研究も張られた資料もろくすっぽに読まないでなんかを語れると思える愉快な頭を持ってるバカも地獄に落ちるんじゃねーかな 江戸時代の東照大権現を神格化した史観が
今も残ってるかと言うと正直そうでもないぞ
明治維新でかなり大々的に否定が進んで
将軍を否定した勤王家としての信長、秀吉が
大きくクローズアップされた
戦後もその流れは実は続いてここでも度々
そのままの人物造形で家康が描写される
司馬遼太郎なんかも陰謀家の簒奪者としてた
今は具体的な史料批判の上に
その史観が果たして妥当かという
作業がだいぶ進んできてる >>540
どこで叫ばれてるの?
具体的に教えてくれ 想像だけで書き込んでいる徳川擁護は相変わらずスルーなスレ >>543
天国地獄があるとすれば家康は確実に天国行きだよ 想像だけで書いてるやつはどっちも叱られてるはずだがな、散々史料や研究もってこいとまで言われ続けてるの無視してついに相手の口が悪くなったらそれを取り沙汰すあたり、随分自己に都合のいいものの見方しかしてないんやねとしか言いようないわな、妄想史観くんは とりあえず、ケチつけたいならつけられる史料なり研究なり持ってきてみろよ、イメージと思い込みだけでしゃべってねーで
そのことについて具体的に話す際にその内容勉強もせずに口出すアホがいたらどこでだって叱られるわな 研究をもって語ればいいんじゃない
空気を悪くしているのは確実にあなただが >>553
だからあなたは何が言いたいのよ
一般論ばかりで何がいいたいのか、あなたの持論を語れば賛否の史料なり研究は出てくるでしょう 少なくとも俺は昼間ID違うとはいえ伊達家文書や内藤周竹書状などの名前を挙げて十人衆主導の政治体制が秀吉の本意だった可能性の薄さを指摘しとるが?
少なくともそれに対して徳川史観だのゴミみたいなイチャモンつけてきた連中はそれらを目を通したんか?なにか史料一つでも上げたか?つってんの
しかも前からも秀吉遺言なんかの史料の話もしてんだわ
それら資料や研究を否定側が読んだ形跡すらなく何度も何度も同じようなケチつけられりゃ態度も悪くなるわな 少なくとも俺は昼間ID違うとはいえ伊達家文書や内藤周竹書状などの名前を挙げて十人衆主導の政治体制が秀吉の本意だった可能性の薄さを指摘しとるが?
少なくともそれに対して徳川史観だのゴミみたいなイチャモンつけてきた連中はそれらを目を通したんか?なにか史料一つでも上げたか?つってんの
しかも前からも秀吉遺言なんかの史料の話もしてんだわ
それら資料や研究を否定側が読んだ形跡すらなく何度も何度も同じようなケチつけられりゃ態度も悪くなるわな いいよなー単発IDで調べもしない通説語ってりゃまるで通ぶれるんだから
実際はそうじゃねぇだろ、お前は徳川史観だって言いたいなら出された内藤周竹書状や伊達家所蔵の遺言なんかの信憑性の多寡について批判入れてきゃいいだろ、それもしないでこんなに徳川史観がーだの完全に史料上から読み取れもしないような性格だの出してくるバカ相手にキレるなと?空気悪くしてるのは誰だだと?
空気悪くしてるウンヌン抜かすならまともな資料と研究も持ってこず煽るだけのバカに言えや >>532のこと?
時間取れるときに確認してみるんで両書状の日付わかったら教えて下さい
あと前も聞いたことの繰り返しになってしまうんですが、敬語関連を解説している研究者わかったら教えて下さい
前スレで教えてもらった本多隆也氏の近年の単著見てみたがそれらしい記述はわからなかったので >>559
少なくとも被がなににかかるかについてだから文法の話だし、古文の読み方で読めばいいと思うぞ敬語の部分は、前回も聞かれたから被がなににかかってるのかの説明しなかったっけ?
あと本多隆成氏だからね
内藤周竹書状は慶長3年8月14日か慶長3年8月19日だったか、伊達家所蔵のは石田三成宛ので慶長3年7月1日 あー、IDまた変わってるが意図してではなく移動中にWi-Fi拾って変わってしまってる
その点だけは申し訳ない、ワッチョイついてくれりゃこういうのも変に単発で荒らしてるやつも少しは減るだろうに >>560
こっちも出先だったからID変わってたらすみません
559、554です
書状は確認してみます、ありがとうございます
古文は詳しい人に教えてもらいながら自分でも調べてみたけどわからなかったんで
それを提唱した人の解説読んでみたいと思うので、誤変換はすみません >>560
細かいことだが慶長3年7月1日付石田三成宛伊達政宗書状写は伊達家文書には収録されてない
諸家所蔵文書写に収録されてる文書
翻刻は仙台市史の伊達政宗文書2巻にも収録されてるな >>560
浅野家文書のこと言ってるなら
一江戸中納言殿ハ 秀頼様御しうとになされ候條、 内府御年もよられ 、 御煩気にも御成候者、 内府のことく、 秀頼様之儀 、 被成御肝煎候へと 、 右之衆居申所にて被成 御意候事
秀吉は秀忠にも敬語使ったことになっちまうぞ
いや、家康首班体制だったという理解には同意なんだが >>563
出先で詳細を確認できないまま答えてたから訂正マジで助かる、ありがとう
>>562
んじゃとりあえず被がある位置が違うってのだけはわかってくれたらいいや、それなら書状読むだけでも明らかに違うのわかるしょ、提唱ってほどのもんじゃなく被のかかる行動をしてるのが誰なのかだからそんな大仰なもんじゃないが >>564
そうか、となると秀忠家康の両名へ秀吉が敬語を用いたって形なのか
逆に大納言らへの言伝にはあくまで秀吉の行動に対してしか被がついていないと、言う形になるわけだ
なら秀忠がすでに席次の上で他の中納言より上にされてるのも踏まえて、家康首班体制になにかあっても秀忠というバックアップを期待してるって感じか >>563
ありがとうございます、そちらにあたってみます
>>565
前スレも含めてもう一回読み直してきます
これは特定の研究者が発言しているってことではないってことなんすかね >>566
いや、よく読み返すと家康に秀忠の件を頼んだときの発言だから秀忠への敬語ではないな
そこ撤回します、この場は年寄と女房衆しかいなかったみたいだから 400年以上も前の人物に地獄に落ちるだのってちょっと引くんだけど
アンチ家康の人たちの人たちって宗教がかってて恐いわ >>566
後段については五人の年寄がいたときに話したとわざわざ強調してるからね
家康が病気になっても秀忠が命を奉じろと
同様の記述があるのは家康と利家だけ(こっちは度々がつく)
この文書がいつつくられたのか、原本なのか写しなのかもしらないが >>567
そうですね、どちからといえばなされる(被成)と言われてるのが誰なのかって話だからね
>>568
内府のように秀頼さまの件、御肝入りなさりさぶらえと右の衆が居申すところにて(秀吉が)御意をなされそうろう事だからこれは秀忠に対して秀吉が敬語を用いてるでいいんじゃないかね この敬語関連について研究者が言及しているなら
浅野文書の成立年代や記述者などについても触れられていないか?って思う >>543
韓非子には逆臣の典型例として田常「田斉の事実上の始祖」が何度も出て来るんだよね。
何故、姜斉は滅んだのかなぜ田斉が出来たのかを何度も執拗に分析してる
結論として、龍は雲に乗るから龍なので雲を失えば龍は只の蛇で簡単に撃ち殺されると
雲というのは、論功行賞の権限でそれを失えば君主は龍では無くて小蛇だという事
臣下に勝手な事させて放置すれば直ぐに徒党くまれて謀反起こされるぞって事
韓非子が明治のひとなら、田常ではなくて盗将大権現を例にしたでしょう
太閤没後の政治闘争見ていくと、本当なんていうか物凄い スレ違いで前提から不毛な歴史考察ごっこまだ続いてたんだ
ここでやるんじゃなく他で徳川家康に関するスレを立てればどうかな >>571
自分が間違えておいてなんだが、右の衆はその前に記されている内府以下五人の年寄にかかっているので秀忠が直接掛けられたものじゃない
大事なのは以下の内容と並び順かね(面倒なので引用はしない)
1 家康に秀頼の将来を頼む 利家以下年寄五人の前で何度も口にする
2 利家に秀頼の将来を頼む 家康以下年寄五人の前で何度も口にする
3 家康も年取って病気するかもなんだから秀忠も同じように頼むよ 右の衆の前で口にする
このほかだと輝元には直接語った、会津の景勝にも伝えといてね、ってのがあるくらいで冒頭の3条が異様
家康への遺言は何度も利家も聞いてたぞ、利家の遺言は家康も何度も聞いてたぞ、と牽制しつつ、秀忠に言及したのは五人も聞いてたよと
利長にはどうも言及がなかったぞと
又聞きで書いてるのは浅野家だから、だからどうしたと言われれば面目ないがね また、内藤周竹の書状だと(秀吉が)家康と仰せ合わされ仔細を殿様にお物語りなさりそうろうで、その内容が以下に続く家康輝元が東西の、利家が北の五奉行が畿内のってなってたから
政策を秀吉と家康とで相談しあって決定してることがわかるって感じだね >>576
それを如何読めば、家康の独裁権の肯定になるのか教えてくれますか?
五大老の合議としか取れないし、抑々家康が独裁権持ってるのなら他の大老は何のために
居るんだって事になる
完全に対等じゃ無いにしても、他の大老の花押付の文書出てこないと駄目だよね
なのに家康一人の花押で出してるという事で
これでさ、何故合議制の資料が無いとか屁理屈こねるの >>576
ちょっと言ってる意味が把握しづらいが
御肝入りをなさりさぶらえは秀吉が秀忠に向けた発言でしょ >>580
あ、再度の訂正
年寄だから五奉行だ
恥ずかしいので消えまーす >>576
最後の文が本当に同感
敬語の問題は浅野家側からの表現ではないかという >>579
数年近く百回くらい通して説明してる上にこれのどこに全員で政策決定してくださいねなんて書いてあるのか読み取れるいかれた目してんだって話だが
伏見には内府が御座りさぶろうて、諸職御肝入りなさりさぶらえと(秀吉が)御意候つってんだろ
その上で伏見が政務を行う地点として秀吉が移動させられていない点、この遺言内のなされるが用いられてるのが家康秀忠に対してである点、他にも内藤や伊達書状の話も出したうえで喋ってんな
お前の合議の理由になる証明さっさと出せや、書きくだしてもらってなおろくに読み取りのできないバカさらしてないで >>582
いや右の衆が居申すところにて御意をなされた秀吉の発言が御肝入りなさりさぶらえだから
秀吉の発言内にてなされと用いられてるって読まないといけないわこれ、御意をなされたの部分は浅野家側からの表現で全然いいが >>583
屁理屈にしか聞こえないのですがね
この時代に良くある制度として、加判衆ってのが有るのは知ってますよね
主君が文書を出す時に、主君と一諸に判子押したり花押書く人の事
この場合、合議制に主君が入ってるのですから完全に対等とは言えないでしょう
でも、主君が公文書出す時に有力重臣の承認が必要と言う制度ですね
五大老五奉行制度は、普通に加判衆制度を連想させるものだと思いますよ
構想段階では五大老連署の文書出す気だったとしか
なのに家康は自分一人の花押で文書出してる訳で 中世の武士にはそういうの馴染まなかったんだろうな
清須会議後だって4人の宿老の合議体制で行うことが確認されたけど4人の連署の文書なんてごく初期にチョロッとあるだけだからね
すぐ1番の実力者だった秀吉単独のものに取って代わられた >>585
聞いてるのはこの浅野家所蔵遺言のどこをどう読んだら合議制に見えるのかだ
お前のなんか加判衆と似てる気がするとかいう屁理屈は聞いてねぇ、早くどの箇所で十人衆の合議が命じられてるのか箇所出せ ああ失礼五大老の合議つってんだな、どちらにせよどこに合議で政策決定してけって書いてあんのかさっさと出せ 浅野家所蔵遺言には合議にしか取れないレベルの記述がある上にこちらの記述からの主張は屁理屈にしか見えないレベルのお粗末さなんだろ?
そう言い張れるくらいわかりやすく書いてあんだな
俺には一切そんな箇所は読み取れないが、見ただけでわかるレベルじゃなければ合議制にしか取れないなんて書き方はしないだろうし、まさかそのレベルにわかりやすいのがどこの箇所なのか答えもしないでID変わる日付までトンズラこいたり話すり替えるなんてありえないな
楽しみに待ってるわID:Kpk8IXwp 家信イキリ倒してて草
武田スレといい歴史上の人物の信者とかアンチとかって何を拗らせたらなるんだろうな 秀頼をお願いします
→政権の意思決定に参加してください
と言う読み方はできないわな
あと加判衆がいることを持って「合議制」
とするのもかなり無理矢理な論理展開に思える
あくまで上意を示して執行を保証するもの
日本のはんこ社会で今もそうだけど
これ正式な文書にするためには
誰と誰と誰のはんこが必要て決まりはあるけど
それがちゃんと話し合って決めるかは別だし
なんなら明確に拒否権あるかも曖昧だったりする >>590
史料ろくに読みもしないでイキってるバカよりはマシだと自負してるぞ、クソガキ 十人衆が合議制を取ったのはあるんだろうが現実に即してるかというと…
そもそも秀吉死後は浅野長政と石田三成が博多にいるから合議とか不可能だし、それが終わったら上杉景勝が「太閤からの遺言で」本国に帰りたがってるんだぜ。もう合議とかやる気になってないじゃろ 武士は自分の領土が1番大事だからな。上杉なんて国替えしたばっかりだし
まさに下剋上して成り上がった上杉からしてみたら自領を空けっ放しにするのは怖いだろうしなあ
常に10人揃わなきゃ合議できないってのは無理があるわな。江戸幕府みたいに当番制とかだったなら分かるが 浅野文書に絞るなら合議はせいぜい五年寄の間の話とまでしか読めない
しかも合議というより仲良くやれという子供の躾けかよという文章で厳密な合議制まで踏み込んでもいない
他の五大名と秀忠と利長は別格扱いで特に家康に政務をまかせ利家を秀頼の守役として五年寄の上位に置いている
首尾一貫してるのは秀頼を頼むということ
>>595
運営は要望に対するリアクションが遅いので時間がかかるのは覚悟しよう 遺言には朝鮮遠征組について触れてないんだよな
あれが公式に近いものだとすると遠征組の不満がたまるのはしょうがない 自分の命令で前線に行かせさんざん苦労してる将兵のことを嘘でも気にかけることなく
頭にあるのは秀頼のことばかりだからな、ひどい話だ
そりゃこんな政権見限られるよ まぁもう朝鮮の事とか考えることも出来ないぐらいの瀬戸際だし…
もっとももし明・朝鮮が日本に侵攻とかやってきたら最悪の事態になってたけどね パウロの報告書に和平のことが書かれており死後すぐに撤退に入ったことからも
何らかの指示はあったとみえる まぁ撤退については敵の出方もあるから軽々に言えんし。
とはいえ苦労した連中についてしっかり言い残しておかなかったのは良くなかった気がする 上の人の感想はさておき
浅野家文書は各大老と年寄に向けて発せられたものを書いたものだから
政務全般に関わることは家康なり五人のしゅへ言い渡してあったんだろう
上の人が言っている通り撤退など軍事にかかわることは秘されないといけないし 朝鮮出兵では外征組は軒並みかなり苦労した訳で例えば加藤清正なんて人も食糧も足りず領内は一揆寸前(実際には逃散が相次いだぐらいで済んだけど)まで追い込まれてた。
なら彼等に対する恩賞については一言書いとかないといかんはずだがそれぶん投げたのは割と痛い気が。まぁ恩賞って豊臣の土地が削れる訳だけど秀吉がやるのとその他がやるんじゃ意味合いが違うし この人最後にレスした方が価値とか思ってんだろうな
秀吉生前の形見分けで在陣中の主だった将には重く与えられているし、まだ終わってない戦の恩賞を遺言に明記しておかないとか
そもそも覚書や浅野家文書は書き留めたもので、公開されていないから内容教えてくれみたいな話もなかったか 政権の性質上「太閤の遺命」と言う名目か
少なくとも「太閤の遺志にかなってる」ことが
撤退命令のために必要だったろう
でも本当に生前の秀吉が撤退を表明してたんなら
それを秀吉の死まで延引しなきゃならない理由
何かあったんか?
まともに政治の話ができる状態になかったか
うまくいってない朝鮮の話を切り出すような
怒りを買うが政治的には必要なリスクを
あえて取るような側近がいなかった
というのが実情じゃないんかね?
秀吉の衰退や命令が変わるから動くのは危険
と言った状況を示す書状は残ってる訳で んで秀吉がそう言う状態になってく中
曖昧でころころ変わりかねない体制について
大老奉行連署とかで相互に確認してた訳でしょ
それは太閤の命令で作られたというより
不明瞭な上意をもとに関係者が綱引きした結果
と見るべきと思うがなあ 別に思うのは自由だが自分で前提を作ってそれに仮定を重ねられてもなあ 命令が変わることは秀吉含め首脳陣に共通していたんだろう、それゆえ秀吉の死で撤退と決まっていた >>605
その生前の形見わけっていつの話?
黒田長政とかに至っては減封されてるんですが… >>608
思わないのは勝手だけど
何故そう思わないのかは知りたいね
撤退命令出てるのに死ぬまで延引した理由は?
十人合議命令出てるのに秀吉の命として
文書化しなかった理由は?
死ぬ寸前まで意識がしっかりしてたなら
命令が変わるとか警戒されちゃってた理由は? >>610
横からだけど
秀吉の形見分けについては慶長3年7月16日西笑承兌書状にあったことが書いてあるはず
また形見内容も甫庵太閤記にて詳細が書かれてる 一応、甫庵の名護屋在陣大名のリストやこの太閤記内にある秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之は信憑性の高いものとされてる
あいつがエピソードとして書いたものじゃないしね、あれがエピソードとして書いた部分は小説と言っていいレベルで信用置けないが >>611
逆に聞きたいが遺言には撤退について触れられなければいけないものなの? >>615
朝鮮出兵には多くの武将が参加しているから必要性はかなり高い。少なくとも恩賞について残しておかないと絶対にモメるしそうなると差配するのは当然徳川家康だけどそれは諸将が家康に御恩を感じる事に繋がりかねない。
形見わけは恩賞じゃなくて単なるボーナスだから何の慰めにもならないので不適切な例だしね。もしこれが恩賞だとすると前線で死ぬ思いで戦ってる加藤清正が金三十枚で内地で事務作業してる石田三成が金五十枚に刀っていうとんでもない爆弾になっちゃうし。 >>617
自分が死ぬと思ってなかったんだろね、秀次粛清からでも三年程度
あの時期から論功行賞すると、盗将大権現様が強引に出しゃばり豊臣の蔵入地を大幅に
削るとかしかねない
豊臣の領地は減るけど、私恩は徳川に感じるって最悪の状況に成りかねないし
まあ実際に、太閤死後に突然変貌した事知ってれば仕方ないと言う印象に
普段の鈍いようにすら見える動きと、自分の瞬間「時が」来たと思った時の素早さ
本能寺の変の甲斐信濃でも思うけど、この人切り替えの早さが凄い 秀吉の晩年期は正直最悪の状況でもう家康に丸投げするしかなかった。これは家康にとっても最悪で明・朝鮮相手に敗北した軍団を可能な限り無傷で、しかも出来れば「勝利」したかのように引き返させないとならない。
下手すれば明・朝鮮軍が日本に侵攻しかねないという最悪の戦況を引き継いでしまった訳でそこから「日本軍戦術的勝利」を勝ち取って和睦までもっていった家康の手腕が凄い。
(家康が後継者に指名されたのもこの一因と言われてるらしく家康は「源家康」と名乗っていた。これは日本国王を表す言葉だから「簒奪者・豊臣秀吉が死んで正統後継者・徳川家康が政権を奪還した」と説明されていたらしい) >>620
朝鮮は北にやべーのがいたからそれに備えないといけなかった
だから家康の和睦の条件が気に入らなかったけどまあそれでいいわしょうがないってなった >>613
太閤記は物語性重視のせいで却って信頼度が下がってるって言う。
にしてもこの形見わけが恩賞ってのはとんでもない話よ。福島正則なんて刀だけだぜ?戦地で命懸けに戦った恩賞が刀一本っておま…しかも奉行は金まで貰ってるのに。 形見分けを唐入りの恩賞としたつもりはなく、またそのように誤解を与える表現だったなら申し訳ないです
曲解はやめてほしいですが
>>617
あなたは昨日からレスし合ってたひとですか? >>618
見てわかるレベルつった遺言の箇所も持ってこれないのに二度と物喋られると思うな、キチガイ 遡って読んでも別段形見分けが恩賞なんて言っておらず、一貫して資料にもないもんを仮定してんじゃねぇしか言われてないよな >>615
遺言限定にした理由は?
秀吉生前に秀吉がしっかりとした判断力を維持して
撤退を決断したなら遺言とかじゃなくて
その時点で撤退命令出してるだろ
ってだけの話だぞ
何故そうしなかったのか? >>626
話の発端が
>>597など遺言で遠征組について触れていないのがおかしいということだったので、遺言に限定させてもらいました
なのであなたが昨日から書き込んでいる人なのか確認をしました
それでよければあなたの問いにも返答させてもらいます 形見わけで外征組が優遇されてるってどこが根拠なんだろう?見た感じ豊臣政権の序列通りに見えるが…
外征してる加藤清正が奉行の石田三成よりも下だし福島正則に至っては刀しか無いし >>627
俺は昨日も書き込んだが>>597は俺じゃないし
>>597以降では今朝まで書き込んでないよ
撤退に関する秀吉の「何らかの指示」の存在や
「秘され」たからそれが残ってないと言う見方は
疑問だと思ってるのでそう書いただけ
1.秀吉はっきりとした政治判断と表明ができる状況で
2.撤退を決断し3.十人合議体制を構想しそれを命じて
にも関わらず4.その命令を公式に出さなかった
というのはかなり無理あるよ >>629
そうですね
確かに秀吉は蔚山城の戦い以後に戦線縮小案に反対していましたし、秀吉のいう和平とは慶長の役開始時の構想の朝鮮半島南部を領有した状態での和平の意だと思えます。
少し熱くなっていましたので反省します。 つまり秀吉から合議も撤退を命じた様子も見受けられないし、公式に言ってなかっただけってのも、はっきり政治的な表明を出来る場を設けてるのに言ってないのは解釈として無理がありすぎるだろってことか
秘したなら秘したでそれが隠されてたっていう証明が必要だし、それなしであってそれ隠されてたもんは勇み足だし強弁するなら陰謀論と変わらんかな 秀吉がどれくらい朝鮮出兵の現状を把握していたかが問題なんだよな
負けてると知っていたのかどうか
外征組は秀吉の怒りを恐れて正しい戦況報告をして無かったから秀吉には戦況がわかってなかった。だから死ぬ直前も勝ってるうちにやめとこう程度の認識だった可能性が高い 正しい戦況報告がされてなかったとか戦況をわかってなかったとかは何が出典なの? そもそも秀吉は朝鮮に居ないから戦況を把握出来ない。
朝鮮出兵での指揮系統は現地から報告→名護屋若しくは京の秀吉が受け取る→秀吉が指揮書を出す→現地が受け取る、
とこうなる。そして指揮書の日付から文禄で片道2-3日、慶長で約14日掛かってる。だから戦況を把握出来ないし正しい指揮も出来ない。三日前の情報から三日後の戦況を予測して指示するなんて人間技じゃないもの。慶長の二週間なんてまるで論外よ。
その上、現地諸将は秀吉に正しい報告をしてない。名護屋博物館所蔵の文禄の三奉行(三成・吉次・長盛)が長束らに宛てた書状には「名護屋で受けていた御注進の内容とは異なり、朝鮮は全く静謐になっていない」と書いてある。
つまり秀吉は適切な指示が出せない指揮系統を作ってしまい、しかもそのうえ間違った情報を受け取っていた。その為その齟齬はどんどんと悪化していくことになった。 じゃあこの「御注進」が単純な戦況報告の齟齬だったのか、諸将の改ざんだったのか?というと、
吉川広家が面白い話を残してる。
広家は毛利に都合の悪い話が秀吉のところにいかないように根回ししていて、これには安国寺も「(勧進帳の)弁慶みたいだ」と褒め称えた、って話なんだがおそらくこれが真相だろう(確か吉川家文書か何かが出典だったはず)
つまり諸将は秀吉が気に入りそうな話(戦果)ばかりを報告し気に入らなさそうな話(損害)は隠していた。
例えば蔚山城救援を褒める書状では秀吉は一言も蔚山城に籠って飢えと渇きに苦しんだ城兵に触れていない。明・朝鮮の大軍に囲まれた加藤清正ら日本兵は小便すら飲むほどの窮地だったにも関わらず。秀吉が鈍感だったのか?報告されてなかったというのが適切ではないか。 秀吉が乱取り禁止と言っていたのに朝鮮人を拉致しまくってたからな
都合の悪いことは一切秀吉に報告していなかったのは容易に想定できる >>634
その三奉行連署状は年次未詳だけど名護屋城博物館に拠ると天正20年7月か8月に比定されてる
朝鮮上陸から僅か3〜4ヶ月でこれだから、かなり早い時期からずっと都合の悪い情報は隠蔽されてそれが常態化してたんだろうな >>634
なるほど、そういった書状が
勉強になります 周囲からとめられて断念したが自身渡海しようとしたそうだから
それが本当なら司令官は現地にいるべきなのはわかっていたはずだけど
かといって遠征軍の総司令官に全権を委ねるということもしなかった
秀長が健在だったら四国征伐の例があるから任せていたかも知れないな >>639
信長の失敗を見たからか身内にしか任せなかったからね 三成は秀吉の渡航を要請した、って話もあるから三成は「秀吉なら自分の目で戦況を観れば適切な指示が出せる」って思ってたんだろうけどこれは頓挫。
ついで関白秀次が出撃するって話だったけどこれは延期した挙句秀次事件。で、司令官なき戦争をする羽目になった。
秀吉が外征組をあんま気に掛けてないのは最期まで朝鮮の戦況を知らなかったからなのかもしれない。 >>639
その話は慶長2年8月10日付秀吉朱印状(鍋島直茂、島津義弘等宛)で触れてるな
「先年渡海するべく愛馬まで釜山に遣わしたが、皆がやめるように言うので中止した。
今になって思えば無念である。今回は注進次第で必ず渡海する覚悟だから、空き船を名護屋まで寄越すように」と言ってる
ちなみに文禄の時の秀吉書状や奉行衆の書状を追っていくと、
秀吉の渡海予定は文禄2年3月→4〜5月に延期→それ以降は秀吉渡海予定の記述なし ま、信長の後を急遽引き継いだだけだからな秀吉って
その間に頼りになる有力な将帥達を蹴落としてきたわけで
本来戦国時代終了後に唐入りするなら信長の号令で秀吉たちが半島に乗り込んでるはずだった >>543
クズかなあ?
秀頼がアホなことしなければ、生き残れるチャンスはいくらでもあったのに自分で滅びの道を選んだ
そもそも、敵の子供に情けをかけたせいで滅んだ平家の物語が教養の時代に、後世の価値観を押し付けても仕方ない >>644
だね、強引にでも徳川取り潰してればよかっただけでして
無理に三男後継にしてるから、介入するネタには困らなかっただろうに 奉行が秀吉死後も権勢を握れると勘違いしてしまったのが豊臣崩壊の原因だった
秀吉の庇護あっての権勢なのだという現実を奉行が理解して謙虚になれば豊臣は崩壊しなかった
奉行の無知と傲慢が豊臣を滅ぼしたといえる 前田増田長束は西軍側にありがちななし崩しで巻き込まれたって可能性もあるけどな
この3奉行は家康の会津遠征までずっと家康に忠実に職務を遂行してた。内府ちがいの条々に3奉行の名前があったということも家康は最初疑ってた 三成も真田宛書状で三奉行は信用出来んとか言ってた気がする。日和見的立場だったのか脅されてたのかはわからんけど。 >>649
そんな内容の書状あったっけ?
真田宛の三成書状は7月30日、8月5日、8月6日、8月10日とあるけどどれにもそんこと書いてなかったと思うが 三成があいつらやる気ない!って言ってたので知ってるのは奉行じゃなく大谷とか宇喜多相手のやつかなぁ
ただ長盛は西軍の謀議を伝えてたり玄以はあくまで秀頼警護という形で直接的対立は避けてるようで、三成ほど積極的な行動取ってるのは少ないか 文禄の三軍目付に対して慶長の三軍目付はなんかパッとしない連中ばかりだけどなんでなのか… 内府ちがひの条々も三奉行連名だし
それに先立つ毛利の大阪入りも
三奉行連名で要請してんじゃなかったっけ
巻き込まれたというには主導的でないか? >>652
慶長の役は朝鮮半島南部の領有が目的で
文禄の役に比べて奥深くまで侵攻するつもりがなかったから身分の軽いもので良かったんだろう やっぱり秀吉の中で朝鮮戦況が軽かったんかなぁ。
それで秀吉の家臣団が苦しんだんだから世話は無いが… 上で言われているように奥深くまで進軍すると戦況把握と命令伝達に支障が出るから
半島南部領有に切り替えたのだろう、戦況が軽いか重いかわからないが 三軍目付て俺あまり知らんのだが一般的な呼び名?
ぐぐったら文禄の時の石田増田大谷を
そう呼ぶ文脈があるようだけど 秀吉「添状」の発給者
天正11年〜14年
蜂須賀正勝(小六・彦右衛門尉)
杉原家次(七郎左衛門尉)
黒田孝高(官兵衛尉・勘解由次官)
前田玄以(民部卿法印・徳善院)
浅野長吉(弥兵衛・弾正少弼)
増田長盛(仁右衛門尉・右衛門尉)
石田三成(佐吉・治部少輔)
長束正家(新三郎・大蔵大輔)
小西行長(弥九郎・日向守・摂津守)
大谷吉継(紀介・刑部少輔)
富田一白(半右衛門・左近将監)
宮部継潤 (善坊・中務卿法印)
木下吉隆(半介・大膳大夫)
施薬院全宗
石田正澄(弥三・木工頭)
片桐且元(助作・東市頭)
片桐貞隆(加兵衛・主膳正)
安国寺恵瓊
細井正成(新介・中務少輔)
安威守佐(五左衛門尉・摂津守)
尾藤知宣(甚左衛門尉・左衛門尉)
森 吉成(壱岐守)
森 高政(勘八・民部大輔)
森 重政(兵吉・兵橘・豊後守)
天正15年〜19年
前田利家(加賀宰相・羽柴筑前守)
細川〔長岡〕藤孝(兵部大輔・幽斎)
蒲生氏郷(会津少将)
蜂須賀家政(彦右衛門尉・阿波守)
戸田勝隆(三郎四郎・民部少輔)
中江直澄(二蔵・式部大輔)
杉原長房(弥兵衛・伯耆守)
山口正弘(甚兵衛・玄蕃頭)
早川長政(喜八郎・主馬首)
山中長俊(橘内・山城守)
木食応其 「奉行」の序列 (谷徹也「豊臣氏奉行発給文書考」 )
@ 前田玄以(1540年生)
宮部継潤(?)
A 浅野長吉〔長政〕(1548年生)
B 増田長盛(1545年生?)
石田三成(1560年生)
富田一白(?)
大谷吉継(?)
C 長束正家(1562年生?)
D 木下吉隆(?)
E 山中長俊(1547年生) 五奉行に次ぐ官僚十人衆
富田一白
佐々行政
寺西正勝
毛利吉成
堀田一継
石田正澄
片桐貞隆
石川光元
山中長俊
木下延重 >>651
増田の書状は日付みると、毛利軍が大阪に来る前ですね
要するに、毛利が乗るか不安で二股賭けたと解釈すべきだと思います
こういう記録残ってるのは東軍勝利だからで、西軍勝利なら東軍大名の内応の手紙が
沢山出てきたと思いますぞ >>657
軍目付は文字通り軍の目付役で要は督戦や軍紀監督を行う役職。文禄・慶長で送られた3人は奉行よりも秀吉の命令を実行する意味合いが強いから軍目付として扱われてるんじゃないか。 いやそういう話じゃなくて
文禄で軍目付勤めたのはほかに竹中太田らいて
何故慶長文禄共に、三人だけ抜き出して
変化を問うような使い方されてるのかなと 多分それは文禄の三軍目付がその他に比べて別格だからなんだと思う。
中野等か誰かの受け売りではあるんだが、豊臣政権の軍事指揮権は関白が持ちつまり秀吉(か秀次)しか作戦指揮が出来ない。だからいかなる作戦行動も秀吉の許可が要る。でもそんなのを往復一週間も掛かる朝鮮で正直に守っていたら勝てる筈もない。そこで現地組は現地で作戦を決定してそれを秀吉に事後報告して追認を受けるという指揮系統を作った。
それをしたのが文禄の三軍目付で彼等は割と高度な行動裁量を与えられていたらしい。それで特にこの三人を三軍目付と呼ぶんだろう。 文禄の三軍目付て言い方があるらしいのはわかるが
慶長の三軍目付?というのはちょっとわからん
多分福原あたりがそうなんだろうとは予想するが
文禄における石田らの地位や職責を受け継いだ
という訳ではないだろし 増田の書状有名だけど、これ本来は密書で表に出るのおかしいんだよな
つまり、政治的宣伝で故意に情報拡散したって事で流石だな
家康のピカレスクな魅力が炸裂してますね そいつなんの根拠もないもん見ればわかるとまで言った捏造荒らしだからかまうな 唐入りあたりの研究知るのははやっぱ中野等あたりが一番いいのかな
もうひとりくらい有名どころの研究者いた記憶があるが >>667
抑々、密書の内容が広く拡散して記録残ってる方が異常でしょ、書いた人が周囲に
広める目的で書いたお手紙じゃないんだぞ
丁度、今ウクライナでやってるような政治的宣伝としか思えない
家康は、他にも花房助兵衛に「佐竹が西軍に付かないって誓詞書け」とか言ってるし
こういう事してまで、東軍大名の動揺抑えようとしてる訳ですよ >>671
「読んだら火中に必ず投じてね」なんて書いてあるのがざらな世界だぞ
広く写しが残っている書状なら意図して広めた可能性が指摘されるけど
たしか足利義昭に信長が突きつけた十七ヶ条の意見書なんかはそう
増田のケースはそうじゃーない 西軍は既に徳川に切り崩されていた訳だけど、それにしちゃ石田三成らの戦略がお粗末さんなんだよな。
ていうか清洲城が味方にならなかったのになんで岐阜城をもっと手厚く守らなかったのか >>666はその以上な状況を前提にしてるよな?
で、そのような異常な状況は何によって伺えるの?
て俺は聞いただけなんだがね
それには何故答えようとしないの? 本来は密書で表に出るのがおかしいなら当時は表に出ず、後世になって表に出たが自然な読み方だな
当時、表に出たというなら証拠が要る 当時の軍事機密や私的な手紙だって後世に残っているんじゃないのか
それが後世表に出たからって、って当時世間一般に流布したと思う人は普通居ない 元々の思考が歪んだ結論を導く為に、こじつけあるいは捏造をよくしてる例え話荒らしじゃん
証明出せって言ってもまた日を跨いで前にも否定された話を性懲りもなくしだすだけ、それを何年もやってる筋金入りの頭のおかしなやつよ
そんなもん構ってないで、普通に史料ベースで話したほうがいいよ
>>670
少なくとも交遊があったとはあまりされないが、嫌いだったから対立したとかそういう考えは抜いておいた方がいいと思うよ >>677
まったくだ
なにか面白い史料の投下よろしく、期待してますよ なんか期待されたので
年不明ながら宇喜多秀家宛石田三成書状
早々いへやすへ御出被成候へく候各はや御出候由にて候。我等・あさたん・長大も参候。増右・とくせん八御城御用にて不参候。此者御申候。
かしく
七日 三成
「はやく罷出候かしく」
「下」秀家様 「上」三成 上のはやくは繰り返しの符号の読み間違いみたいだからはやはや罷出候かしくが正しいみたいね >>679
慶長3年じゃないのか、これ
そのタイミングしかないように思える
伏見に置かれた家康に挨拶しといてねと
「御城」はもちろん秀頼のいる大坂 >>661
東軍大名の内応の手紙がたくさんあったのなら三成たちが東軍の動向をまったく把握出来てなかったのは不自然じゃない? >>681
慶長3か4年なのは確かだろうね
挨拶ってのはどの辺りからの判断で? 保険のために、内応の手紙だけ送って情報を教えてない可能性もあるけど、それはそれでリスクがあるからな…
戦に勝ったあとに、味方の内応の手紙を全部焼き捨てさせた帝王も昔いたそうだが。 それならそれで焼いたという資料の記述も残るしな
都合の悪い情報抜きにして都合のいい情報を都合のいいよう組み合わせていったらなんとでも言えるってだけの話 そも東軍に西につきそうな連中がどんだけいるかって問題もあるしなぁ。
西軍は全く東軍の動きが読めてなくて岐阜城を見殺しにしてしまった。対して東軍は西軍の内通者によって戦術を整えてる。どっちが情報戦に勝っていたかというと… >>683
伏見を遺言で任された家康に各々挨拶でもしてるのかと思ったが、よく読むとあまりに内容が簡略で「いまも城で待ってるから早く来てください、いますぐに」みたいにも読めるね
五奉行の出欠に触れながら秀家への書状で他の大老の動静書いてないのが謎だけど >>687
城の名前でもなく家康の所へと名指ししてるってのは結構な肝になりそうね、仰る通り基本的には挨拶なんかでも格上のもとへ挨拶に行くもんだし
序列の判断の一助になりそうと思って貼らせてもらった >>688
定例でない挨拶なら慶長3年かなと思っただけで、挨拶じゃなくて誓詞の取り交わしとかかもしれないし、年次比定がされていない理由はあるんだろうね
なんにせよ家康の優越的地位は揺るがないと思うけど >>679
大阪城天守閣による解説だと慶長3年9月か慶長4年1月に比定してるね
「各はや御出候由にて候」の「各」=大老としてるから家康、利家、輝元、景勝は既に城に集まってるってことになるね 重家が東軍に加わっていたら石田家は存続したんだろうに惜しい事をしたのぅ >>684
それ確か曹操の逸話のはず、官渡の戦いの後袁紹軍の本陣を落とした時に袁紹の手文庫を
見つけたけど、全部見ないで焼き捨てさせたと
「俺だって勝てると思わなかったんだから、内応の手紙で責めるのは」だったはず
只実は、その時点でも袁氏の残存勢力は可成り大きかったんで下手に処分しようとすれば
藪蛇の可能性があったのも大きいかと 自分で出した主張の根拠持ってこないまま話をまたずらしたな、例え話荒らしくん
己の過ちを認められない人間が何喋ってももう誰からも相手にもされんよ、論語読んでたなら学んどくべきだったな 西軍が優勢を装えた時間ってそんなにないでしょ
福島らが清州に帰ってきてから岐阜城が落ちるまで半月くらいしかない
その間にできる交渉事などたかが知れてるのでは 黒田如水も輝元の大阪入城に対しては
書状を送って祝っているしそういうものでしょ
政治対立が起きた時いきなりどちらかに肩入れして
他方へ断交やら敵対やらかますとは限らない
ひとまず事態を注視するにも
繋がりを作っておいて損はない 祝意と言ってもその書状でやばいから輝元に頭下げさせなさいと広家に伝えてるのでむしろ明確に東軍としての行動だがね
戦争は外交の一種な部分もあるので交渉切らさないのもそれはそう
その上で史料解釈上、西軍は東国の情報遮断されてなんなら福島にそっちつくかもとちらつかされて判断完全に誤ってたから、出来ることはないわね
その判断が間違ってるのに気づいて、とか後世からの後付のIF戦記やりたいなら知らんが 内通があれば情報を拾えてただろうにそれも出来てないからね。家康の戦略がズバリだったのかもしらんけど。 頭下げろってのはもう少し後の書状だったと思う
同じだったっけ? 8月1日付の書状で同じだね
・輝元が大坂城に移られ目出度い
・長政の人質は輝元ではなく広家に預かって欲しい
・内府上洛の際は広家の肝煎りで輝元が無事済むよう力添え頼む どうも黒田・吉川の両人には「内府が上洛したら西軍はイチコロ。だからその時の言い訳は考えておこう」って共通認識あったっぽいんだよなぁ。 >>700
ありがと
何故か別と思い込んでた
人質の扱い踏まえて下手に出ての社交辞令
て感じもしてくるな そりゃまあ
「義は豊臣を支える奉行にこそある」的な
小説的視点を除いてみると西軍て要は
政権トップの留守に起こしたクーデター
元々の経済的、軍事的な有力さでも
政治的正当性でも差はあるわな 独裁者69歳死亡説 オープニング 後編 MUTube(ムー チューブ) 2022年5月号 #2
https://youtu.be/WmOBL2ohaQk?t=232
>>704
クーデターは標的を電撃的に殺害か拘束、最低でも軍を掌握できないようにする必要があるけど
家康は自分の領地で自軍と親派の大軍を保持している状態だから
西軍の行動はクーデターですらないよ
例えるなら信長が東国に出かけている間に日頃のうっぷん晴らしに本能寺を燃やしたようなもの
後先を考えない一時的なストレス解消でしかない 豊臣公儀に対するクーデターでそれは成功したから…
その結果豊臣公儀がぶっ壊れた?知らんな。 大阪に軍勢入れて秀頼の身柄さえ押さえれば
自分達が正統と認めさせて政権握れる
徳川を逆賊に仕立てることもできる
と考えてたんだろうけど安易だったよな 三成を襲撃した七将ってだれなの?
加藤×2,福島、黒田、細川、池田、浅野 家康が閏三月五日に書状を送った七人と言われてる。
仰る通り、細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長。これに後三人くらいが参加した大騒動ではあったけど。 out じゃない方の加藤、池田
in 蜂須賀、藤堂
ってことですか
どうもです ただ徳川実紀では加藤嘉明・池田輝政だから彼らも一枚噛んでいた可能性はかなり高いと思う >>708
皮肉な事に、誰もが考えていた「豊臣公儀じゃなくて徳川公儀なんじゃないか」「実権あるのは家康で秀頼はお飾りなんじゃないか」という観念をよりにもよって石田三成が証明しちゃったっていう。 秀吉が徳川の豊臣政権における立場をしっかり保証していたからこそ
家康が政権運営を引き受けていたのに、関ヶ原でそれ全部ぶっ壊れちゃったからね
関白も摂関家にとられちゃって、豊臣の権威による保証すらなくなってしまったし
やっぱ関ヶ原起こしちゃ駄目だよな >>714
というか三成たちの行動がまさに
豊臣公儀なとなくただのお飾りを証明してた
横から兵起こして掻っ攫えばいいモノだと NHKが関ヶ原の地形解析で山城跡を見つけて「関ヶ原に際して石田は秀頼を迎えるべき山城に布陣していたが小早川の離反の動きに対応すべく関ヶ原を決戦地として布陣し直さねばならなかったのではないか」と考証してましたが皆さんどう思いますか 玉城でしょ?
あれは千田先生の先走りだと思う、堀切の向きと縄割の古さとか指摘されてるのに無視してロマンに走りすぎ なんだ? 豊臣公儀て
豊臣家が武家を統括するシステム=豊臣政権は、
秀吉が存命中に、秀吉自身がブチ壊した
秀次切腹後に、新たな統治システムを構築し直せば
第二次豊臣公儀が生まれただろうに…
そうはならず、「秀吉独裁体制」に移行したまま、秀吉は死んだ
秀頼が引き継いだ公儀なんて存在しない
独裁体制の残滓の中、独裁者の腰巾着だった三成たちが号令を出そうとしたが、
反感を覚える者も多く、上手くいかなかった 腰巾着が秀吉没後のこの荒れっぷりなら俺も本能寺後の秀吉みたいに主家牛耳れるかもをした結果、順当に多数がついてこなくて主家の看板に消せないほど大きな傷残してった 西軍の動きでよく言われてるのは何故岐阜城を防衛出来なかったのか?って点。確かに西軍首脳部の戦略能力に問題があったのかもしれないけどそれだけとも思えん。
三成が秀頼を迎える城に気が入ってたのは飛躍し過ぎかもしれんけど、岐阜城に注意が向かってなかった一因としてはあり得るのかもしれない。 >>722
思えんとかあり得るかもとか主観を主軸にされてるけど、そう断定されて然るべきという根拠になる資料なり研究なりがあるの? 仮に秀頼成人してから秀吉のお望み通りに家康が政権を返したとして
どういう政権を秀吉は想定していたんだろう
自分と同じように国家を豊臣の私物化し思いつきで国家を博打の元手に外征できるような独裁体制か
もともと公私の区別がつかない、というかわかっていない秀吉だからその可能性が高いが
そんなん豊臣恩顧の大名でももう真っ平御免だったろうな >>722
川を渡るって簡単じゃないですからね
堅固な陣地や要塞手に入れる前に有力な敵軍が出てきたら致命傷負いかねない
秀信って何故野戦とかしたのかな?別に全滅するまで籠城しろじゃなくて西軍の援軍が
来るまで5日かそこいら持たせれば良いと思うのに >>723
資料も何も岐阜城が落ちた後から西軍がこぞって徳川に降りたのは周知の事実やん…むしろ関係ないって方が説明難しい気がするぞ。
史料上、岐阜城が落ちた8/23を境に毛利・小早川とキーパーソンが内通・和議を申し出て京極も裏切りを決意。しかも徳川家康も岐阜城が落ちてから出撃してる。岐阜落城以外にどんな戦況転換があったのか?ってのも面白いところだが。 >>726
いや岐阜城を西軍が疎かにしててってのはわかるが
君の言い方だと東国からの情報が遮断されたことや福島の去就に惑わされてっての以外が有り得そうとかそれだけとは思えんって内容でしょ?
それに関する話に根拠となるものがあるのかと聞いてるの >>725
岐阜城は詰められたら負けだからじゃないの。岐阜城って長期籠城戦よりも敵軍が渡河するところを強撃して撃退するのがセオリーっぽいし。(縄張図見ると城が狭い)しかも東軍は岐阜城の倍以上の兵力で攻めてきてるから尚の事籠城戦は避けたかったはず。敵将には岐阜城主池田輝政までいるから。
それで秀信本隊は主力で池田輝政隊を木曽川で迎撃して福島隊は竹ヶ鼻城で防ぐ、その内に西軍の救援を待つって戦術を取った。そしたら渡河防止出来ずに負け、竹ヶ鼻城は内通者が出て落城、頼みの救援は犬山城が内通して大垣からしか来ない、その大垣からの救援も東軍に迎撃(渡河を妨害)されどころか逆に赤坂まで押し込まれる始末、と全部裏目っていう。しかま竹ヶ鼻城なんて三成からの援軍が裏切ってやがるし…どうしようもなくない? 大老筆頭徳川家康による統治が豊臣政権であり
当時の言葉で言うと公儀であった
会津征伐は朝廷も認めてる >>725
相手に渡河を叩く兵力がいないなら簡単だよ >>728
だから、別に長期籠城なんかしなくて良いんだよ、西軍の後詰めが来るまで籠城出来れば
良いんでして
史実の流れは野戦で敗北して士気が落ちた状態での籠城ってのがあるからね
最初から岐阜籠城で良いじゃんって思うんだけど 岐阜城って籠城戦したことあったっけ?基本的に木曽渡河の瞬間を迎撃するのが鉄板の戦略だった気がする。龍興にせよ信孝にせよ囲まれたらサレンダーしてるのはそういうことだろう。一応、美濃に大軍がいるなら引きつけての籠城戦もあり得なくは無いけどこの時期って大垣城に一万五千、岐阜城周辺に一万二千とかじゃなかった?そうなると総数で東軍に負けてる訳でちょっと籠城は取りにくい。てかそもそも石田三成に岐阜で東軍と大戦するつもりが無いと見殺しもあり得るリスキーな選択だし。 そいつ説明しても多分自分の意見を肯定することしか聞かんぞ、いつもの例え話荒らしだろ そうなんか…荒らしさんなのねん。
東軍が大軍なのは岐阜城からは丸見えだった事で逆に戦術が狭まった可能性が高い。敵が大軍なら渡河を叩く以外勝ち目が無いもの。
でも呆れるのは竹ヶ鼻城主でここには三成から送られてた援軍が入ってたらしいけどそいつらが福島正則と知人で笠を掲げおったってのが…三成さんも人事というか身元調査が甘ァイ!まぁ知古の無い奴の方が少ないんだろうけどさ… >>732
木下藤吉郎が堀尾茂助を案内に立てて、稲葉山城の裏門から…
って話が本当なら囲まれた瞬間に降参はしてないな。
竹中半兵衛に瞬殺された城に籠りたいとは思わんけど。 >>734
単純に戦力不足で、渡河点の一方はほぼ抑え込んだ代わりに、もう片方が手薄になって抜かれてる。
逆に言えば、秀信の手元に倍の兵力があれば、川で防衛に成功してた。 >>734
だから勝つ必要なんて無いんだって言ってるんですが
味方の後詰めが来るまで拠点維持出来れば、戦略的には勝利でしょ
なんで、東軍先鋒に勝つ必要があるの? 西軍の援軍がどの程度の日時・勢力で見込めるのかを秀信がどの程度知る事ができていたのか
そういうのまずしらべてから書けばいいじゃん、他人の知識にフリーライドしてないで じゃあなんでその行動取らなかったのかと批判的思考をもって最低限調べてそれでもなお疑問に思って詳しい人に聞くならわかるが
少なくとも調べてもなさげで他人からこういう理由で無理じゃねって言われたのに文句つけるの、そりゃ筋が違うだろ 荒らしさんには構っちゃいけないんだろうが
まず味方の後詰とやらが期待出来ない。木曽渡河前で東軍は約四万(正確には三万五千だがそこまで正確には把握できない)大垣城には一万五千しか居ない訳で石田三成が東軍の先鋒相手に手持ちの全兵力を投入してくれないと勝てない、てかそれでも勝てない。東軍の岐阜城攻撃に備えても居ない男がそんな博打を打ってくれるかわからんかったはず(実際打たなかった)
次に後詰が来るまでに拠点を維持出来ない。東軍は三万強、これは岐阜・竹ヶ鼻の総兵力の三倍(これは最大値でもし俗に言われてるように合わせて六千なら約六倍)の戦力差になる。
まず岐阜城にそんな兵が入るスペースがあるのか?って問題があるけど仮にあってもこの兵力差は致命的過ぎる。しかも敵には池田輝政がいる。こいつが岐阜城に到着すれば負けるって危機感があった(事実輝政は一撃で本丸を包囲してる) 最後に史料上西軍は東軍の動きを掴めてない。つまり岐阜城攻撃隊にも援軍がある可能性が高かった(少なくとも否定する事は出来なかったろう)仮にそいつらが二万人もいたら大垣城からの救援は絶望的、同時に岐阜城の命運も尽きる。
城が籠城向きで無いのに後詰も期待薄。敵は大軍でその背後には更なる増援もあり得る。玉砕戦をするしかないけど秀信にはその家来が数十人しかおらんかった。 実の所、十分な兵力と火力がある城塞は簡単に落とせんのは大坂の陣で実証されてる
んですよね
真田丸なんて、300×300とか言われてる程度の急造出丸なのに 別に大坂の陣をたとえに出さなくてもその城に於いて必要な兵数と火力がある城は落とすのが難しいってのはそれ以前からでも枚挙に暇がないぞ、実のところとか言わんでもここの人間大概理解してる 援軍さんは頑なに軽視し続けてるけど
大津城の籠城で近江美濃の西軍は
政権中枢で盟主輝元のいる大阪との
連絡が絶たれている
そちらへの対応は当然必要だった
北陸も浅井畷で押し返したとは言え
彼我兵力差が覆ったわけでも
前田が上洛を諦めたわけでもない
頼みの大軍を持つ毛利秀元は
岐阜城の戦いの時にはまだ
安濃津城攻めの最中
とてもじゃないが速やかに
援軍が来ると安心できる状況じゃない 「転生したら京極高次だった。石田三成に妹のオマケってバカにされて東軍に付いたけど大津籠城で大活躍。
西軍に戻ってきてくれと懇願されたけどもう遅い。
関ケ原の戦いのヒーローとなって若狭の海で釣りを楽しむスローライフを満喫します!」 そもそも真田丸って背後に大坂城(約十万人)の砦の一つに過ぎんし。
岐阜城って無茶苦茶狭いから籠城戦する場所からして厳しいからね。そんな中自軍の三倍以上の敵軍と籠城戦なんて正気の沙汰じゃない。秀信自身に数万の動員が可能ならまだしも全く指揮系統の違う相手に自分の命委ねるのは出来ん。
秀信に非があるならそれは本来東軍の襲来を察知した時点で救援要請を打つべきところを木曽川を渡られてからしたっていう点ぐらいだろう。尤も、その後の救援が石田三成(一千人)とかいう規模だからハナから論外っぽい感じもあるけど。 >>747
大津城の離反は、時系列的に岐阜落城後だと思うんですが?
最初から籠城してたらって話に出すのはおかしい気がするんだよね 8/23時点で西軍の軍勢って
岐阜城→6000〜12000
大垣城→15000
伊勢方面軍(毛利主力隊)→80000
宇喜多隊→10000
ざっくばらんに言うとこんな感じだよね。
秀信はどこまで頼りにできるんだ?まず大垣城はアテに出来ない。東軍が三万強で来てるから大垣城と岐阜城の総力を挙げてなお負けてる。この場面で大垣城の最善の手は岐阜城を見殺しにして大垣の兵を温存、伊勢方面軍と宇喜多隊の増派を待つことになる。助けにはならない。
後、これは秀信は知らんかったかも知らんが毛利秀元ら30000の軍勢が安濃津城(1700)に攻め込んで2日掛かっても落とせず交渉でなんとか開城させてる始末。伊勢方面軍もあんまり頼りにはならなそう。と、なると宇喜多隊が最後の希望だけどこいつのんびり行軍なうだしなぁ… 家康の来援が遅れるのがわかったのが
村越直吉の到着した19日だとして岐阜城を攻めたのが22日
この間に清州勢の動きが察知できなかったっつーことは
諜報力がどうかしてたか内通者がいないレベルで支持されてなかったってことだから
秀信や三成の判断でどうにかなるレベルではないような 結局秀信が東西両軍の情報全部知ってる前提とかいう謎の前提じゃないとなんともならんし
そんな前提で後世視点で軍師まがいのことしだすやつがろくでもないだけでは 東軍の進出が早すぎた&西軍の動きが緩慢だっただけで、岐阜城はもともと最前線に立つ予定じゃなかった その岐阜をワンパンされて戦争が決まったんだから西軍の予想が甘いと言うか徳川家康の戦略眼が凄いというか…
織田秀信がもっと大国を預かっていて自力で何万と動かせるなら兎も角、手元には一万も居なくて敵は四万近く、しかもそれは徳川軍じゃないから増加の可能性も有り。なのに大垣城には兵が一万から二万までしかいなくて主力は伊勢にいます、なんていう状況。後詰が来るか不透明でその上瞬殺もあり得ます。なんていう… 細川忠興を豊臣恩顧の武将扱いしていたテレビ番組を観たときは唖然とした
ここからは推理
加藤清正や福島正則のような正真正銘の豊臣恩顧武将と行動を共にする機会が多かった
彼らとは大体同年代である上に交流もあり、セットにして語られることが多い
秀吉も、忠興を清正や正則らと対等と見做し、扱った
ゆえに、豊臣恩顧武将グループとして認知する際、うっかり忠興も恩顧武将に混ぜてしまった 結局のところ織田秀信を厚遇しなかった秀吉の行いが巡り巡って三成を滅ぼしてその結果豊臣まで滅ぼした。っていうと中々に運命的なものではある。
ていうか秀吉は晩年のやらかしで打った手が殆ど裏目ってるんだよなぁ… 豊臣の滅びと三成とか、全く関係ないだろ
何でもかんでも結び付けて皮肉とかするの、見方歪めてるのと変わらない >>759
君の豊臣恩顧の定義書けばいいよ
秀吉が関白なってから大名になった人?
だったら羽柴秀長とかアウトやな >>760
秀信厚遇してるやん
甥の豊臣秀勝の後継者扱いやで? 冷遇してたのが巡り巡ってという結論にしたいために歪んだ見方してるんでしょ、このスレの前の方でも同じこと言っていや冷遇ってほどじゃないだろも指摘されてもまだ言うヤバいやつだよ >>764
岐阜城が僅か1日で落ちたのは織田秀信が僅か13万石しか領せずその動員力が一万も無かったから。これが50万とかなら話が変わっていた。結局戦国大名ってのは領土が重要で秀信は冷遇されてたというはなし。その報いが豊臣を撃っただけで。 >>760
長いな
結果として三成厚遇した秀吉の行いが豊臣滅ぼした 三成のせいで豊臣60万石に減らされ全国にあった蔵入地も配分されたのに無関係なの? >>759
わかる
信長時代に秀吉関係なく大名なってた家は違うよな
豊臣恩顧は信長時代でも秀吉の部隊に配属され秀吉時代に大名になった連中だな 関ヶ原が無ければ無いで外征の恩賞問題はずっと燻り続けてたわけで
三成らの自爆のおかげでそれも一気にカタがついた
三成たちも徳川を潰すことでその解決を狙ってたのかもしれんが 三成のせいにしている人は、関ヶ原の戦いがなければ徳川家康は秀頼の領地を奪うこと無く、秀頼に従順に仕えつづけたとでも言うのか 豊臣政権の内紛
人望がなく弱いくせに立ち上がってしまった石田が悪い 西軍決起が無かった方が家康にとって面倒だったのは確かだからね。その場合、上杉討伐を通じて恩賞配分するしかないけどこれは秀頼の命令でもあるから諸将が家康に恩を感じるかは不明。朝廷が反豊臣工作で家康を将軍にする訳だけどこの徳川幕府にどれくらい諸将が従ってくれるかも不明。
それらの問題点を三成が解決してくれた。 家康は何も無ければ豊臣政権筆頭の執権管領クラスで後継ぎの秀忠の身分も秀吉の遺言でなかば保証されてるから
それを壊そうとして行動をおこして豊臣本家ごと自爆したのが三成たち >>771
悪魔の証明言われてもな
実際に三成放棄するまで豊臣領地が削られた事実なんて無いんだけど
お前の方こそ証明しろよ 蔵入地も豊臣政権が奉行を派遣した上での分配で問題視するもんでもないしなぁ
起きなかったイフ勝手に想定してってのはマジで論外 >>775
三成居る時から豊臣の土地は削られてね? つうか、秀吉が死ぬ直前の豊臣領を明確に示してもらわんと >>778
家康の采配で豊臣の蔵入地がバンバンばらまかれてた 多分川中島なんかの蔵入り地の分配を言ってるんだと思うが
豊臣政権の決定権を握る人物が豊臣政権の下にいる人間に手続きを踏んで蔵入り地を分配するのは領地が減ったになるのか?
領地と蔵入地は別で、織田家の実領地が濃尾程度だったのと一緒で豊臣の実領地は摂河泉くらいじゃ? んで、蔵入地を配ってたから豊臣家を蔑ろにしてんだ!って主張なんだろうが
上でも言うように蔵入り地を手続き踏んで豊臣政権の決定権を握る人間が豊臣政権の人間に分配する事がどういう根拠で問題だと主張してんだ?
政権の長でも蔵入地は絶対削っちゃダメだもん、なんてのがあるのか?
それとも結果として豊臣が滅んだことから過程完全に無視して雑に言ってるだけ? 例えば小早川秀秋が筑前・筑後に戻されてるけどこれは蔵入地の削減には入らんのか?
確か秀秋の減封に伴って筑前筑後は蔵入地になってたはず。
これが五大老によって戻されてる訳だが。 >>781
そもそも秀吉は秀頼成人まで止めろと言っていたこと ふむ、じゃあ秀秋の復領ところからすでに遺言違反な訳だ
その上豊臣家はそんな大老に恣にしてるやつに上杉討伐だの頼むんだ、へー >>784
島津も宗も加増されてるんですが、それは
別に奉行側も豊臣家もこれを問題視などしていないが 秀吉が秀頼の成人まで云々なんて言ったとはとても思えないんだけどなぁ。
だってこれから朝鮮出兵の清算が始まる。外征は多額の資材を使ったから諸将は窮してる。それで恩賞は出さないとマズい。一応「日本は負けました。だから恩賞は全く出せません」って言い訳する事は出来るけどそれは公儀の権威を無にしてしまう。だからどうあれ、土地の分配は避けられない。
秀頼が成人するまでなんて待ってられんでしょ、諸将は。 江戸幕府が大名らを減封・改易して幕府領を増やしていったように
この先豊臣領を増やすことはできるのだから一時的に減ったとてそう問題ではない
それに政治・軍事は徳川が担っているのだから豊臣家に必要以上の領地は必要ないしね 以下テンプレ
・家康は勝手に大名に領地を加増していた、秀吉の遺言違反だ!
→朝鮮役の論功行賞をやらないわけにいかないだろ
豊臣公儀として当然の行動だ
→家康が勝手にやった。簒奪のためだ!
→家康が公儀の大老として決定して、実行したのは奉行だけど? テンプレというかおんなじ話題堂々巡りしてるの確かだからせめて前におんなじ話出てないか位は見てほしい、その手法よくやる荒らしもいるし
前の指摘確認した上でいやいや違う根拠があってーってやるならまだしも、前と同じ主張と根拠のままならそりゃ前と同じ指摘受けて終わるだけなのよ テンプレというかおんなじ話題堂々巡りしてるの確かだからせめて前におんなじ話出てないか位は見てほしい、その手法よくやる荒らしもいるし
前の指摘確認した上でいやいや違う根拠があってーってやるならまだしも、前と同じ主張と根拠のままならそりゃ前と同じ指摘受けて終わるだけなのよ 割と真面目に黒幕家康て司馬史観なんよな
豊臣政権における加増なのだから
新占領地や改易された大名がない以上
豊臣の領地からなされるのは当然なのよね
もちろん豊臣家の領地が削れたと言えば
その通りなのだけどもものは言いようよね
>>773
その場合豊臣政権のトップとして
普通に基盤を固めるだけで別に困らなくね?
もちろん将軍宣下もなく幕府も開かれない >>794
それを言うのなら
なぜ家康の領地を与えなかったの?
家康は朝鮮征伐で何もしなかったのだから
削減されても全然おかしくないよ 家康名護屋の陣で秀吉の警護任されてるぞ
つか出兵も命じられてないのすら知らないのか?
いくらなんでも言ってることが無知にも程がある >>795
それは政権として正式な加増だからだよ
家康が自分の所領を大名に与えてしまうと
それは豊臣政権を差し置いて(無視して)
徳川家がその大名と主従関係を結ぶことになる
それはつまり豊臣政権に対する謀反
政権トップとして本当にあり得ない事態 秀吉死去、幼君擁立、唐入りと豊臣体制がガタガタなんだから絶対に豊臣家から御恩を与える必要がある >>759
秀吉は忠興と清正・正則を普通に区別して扱ってるだろ 前提からズレてるよねこの話題
上辺の善悪論を頑張って突き詰めてるだけだから >>799
反論のポイントが意味不明なのだが…?
混同しているのはテレビ番組制作社であって、秀吉ではない
秀吉は、北条潰しというか、小田原の陣では忠興を清正らと同格の武将のように扱っていた
上下を付けた扱いには見えない
秀吉とは無関係に家格が高い武家の御曹司だった忠興…に対し…
秀吉自らが子供時代から目をかけ、武将デビューさせた清正ら「恩顧武将」を
忠興と同格にまで引き上げたことがはっきり判るのが小田原の陣だな、と考える 豊臣恩顧って明確な定義が無いんじゃないか
元々それなりに大身だった池田や細川はどう扱われるのかってのが調べてもよく分からん 多分、厳密に捉えるなら「御恩と奉公の関係にあった者」でしかも秀吉が召し抱えた者を豊臣恩顧というべきなんだろうけど。広義の恩顧でいくと秀吉は天下人になった訳で豊臣政権建てて本領安堵した時点で戦国武将ほぼ全員豊臣恩顧って話になるし…ただ冷静に見ると徳川幕府も同じ様に本領安堵してる(豊臣以外)わけででもそれで例えば加藤清正を徳川恩顧とは言わんよな…? さすがにもうちょっとハイレベルな話できないの?
ここは床屋か?
ハイレベルというか、小説レベルの脱却というか 秀吉が恩義を与えられたのは成り上がる意思があったから
成り上がる気のない百姓猿だったら誰も秀吉に用などない
豊臣恩顧とは成り上がる意思のある奴から恩賞を貰う代わりに協力して天下を取らせる人間のことを指す
たまたま名前が豊臣秀吉だったので豊臣恩顧という名称だったに過ぎない
朝鮮出兵が失敗に終わり豊臣にこれ以上成り上がる気力が失われたのなら
別の成り上がる意思のある人間に協力するのが豊臣恩顧として正しい姿なんだよ
豊臣恩顧の意味が根本から勘違いされているといえる 自分だけの定義をみなもご存知の通りみたいに言われても困るし邪魔 >>804
5chだよ
お前が思うハイレベルなことがしたいなら大学でも行け レベルが云々とか言いながら自分の考えを言わない辺り
小説か何かを真実と思い込んでいてボコられたトラウマでもあるんかなと >>803
シンプルに「秀吉が関白政権樹立後に、秀吉から加増された者」でいいんじゃね? >>803
そうだよみんな豊臣恩顧だし関ケ原後はみんな徳川恩顧だよ
それで終わる話なんだよ 豊臣恩顧ってのは秀吉に若い頃から取り立ててもらって
ひとかどの大名になった奴だろ >>810
それね
新しい史学用語として「豊臣恩顧」なんて定義する必要性も感じないし >>797
自分一人の花押で決済したら同じ事でしょ、徳川に対する私的恩顧になるから
で削ったのが豊臣の蔵入地なら、建前は別として実際は秀頼の領地の山分け
つまり秀頼<<<<<盗将大権現となる
自分一人の花押で決済の意味は、文句いう奴は徳川の武力で蹴散らすの意味に成る
秀頼とて、その例外ではないという事 >>813
同じなんてことなく全く違うんだよ
徳川家が他の大名に加増して家臣にするなんて
政権に対する単逆行為でそれはしてない
建前でも実質でも豊臣家の加増なんだから
その形式を守っているのが大事なこと
豊臣政権の首班である家康の声望が高まろうと
豊臣政権にとって何も悪いことではない
winwinの関係
関ヶ原後の仕置や論功行賞も豊臣政権のもの
征夷大将軍になって江戸に参府するようになって
はじめて名実ともに主従関係が成立した 秀吉も勝手に領土分配とかしてたからな
秀吉が簒奪じゃないなら家康も簒奪じゃないし秀吉が簒奪なら家康も簒奪
それだけのこと 建前も違えば手続きも全く違うもんを味噌もクソも一緒くたに語ろうとするなよ
花押の件も散々否定されてしかも自分は資料の捏造までしておいてどの面下げて同じ主張しにきてんの、この荒らし
はよ自分で言ってのけた見てわかるレベルの資料持ってこいよ、あるなら つってもここでも大概の人間は考え違いしてたならちゃんと訂正する程度のことはするぞ、まぁ人として最低限やって当たり前のことだけれども
そういった自分の間違いを認めて改めることもしないでずっと同じ主張を根拠をずっと持ってこないまま壊れたレコードみたいに繰り返すのは異常だよ 家康が花押を云々ってのがどの史料がわからんけど、時期的には仕方ない時期もあるんじゃないか。 秀吉も清須会議で宿老の合議制と定めたのにその直後から蒲生やら長岡やらに畿内とその周辺で知行を与えてるからな
家康と一緒で名目上は主家からのということになるがそう思う武士はおらんよね 家康は秀吉から政治を任されたのだから秀吉とは状況が違うよ 豊臣政権(のトップである家康)による加増
これは本来何の矛盾もなく成立してるのよ
豊臣政権と家康は対立する関係にはないのだから
家康がトップでは嫌だと言う連中が
政争を拡大させて政権自体の価値が暴落したけど ここまで無意味な話を永遠続けてるのも久しぶりに見た
一次資料から見た史実と言いながら誰が良い悪いという結論を根底に求めてる不毛さに気付かないのか >>825
せっかくみんなで話題を出して作っていくスレだ
野次馬根性丸出しでケチつけるだけじゃなくここは一つ、話題を変えられるような史料の一つでもだしてみてくれ そりゃこれまで豊臣〜徳川期は講談や小説でさんざん家康が悪いって結論を根底に語られてきたわけだからね
後世の創作を出来るだけ排して当時の史料や
あまり知られてこなかった史料(奉行と毛利の密約など)をもとに再検討した結果
旧来の俗説通説の一方的な誰が良い悪い論が相対化されてきてるということ >>825
誰が良い悪いという結論を根底に求めてる 簒奪は悪だと決めつけて発狂してるアホがいるだけのスレだよな
その単純な発想が歴史の考察のは向いてないと思うんだが
家康の秀吉死後の動きは朝倉など数多の武士達が行ってきた典型的な下剋上の工程なのにな ミスった。
家康絶対悪の人にそうじゃないよと教えてあげているんだよ ていうか十人衆合議って上杉景勝と前田利長が帰国した事で完全崩壊しとるやん >>829
お前もお前で史料通して秀吉の構想が十人衆合議っぽくねーぞって話散々されてる中全く理解できてないで思い込みで喋ってるアホだよ >>831
私婚問題の時点でダメだよ
前田徳川の二者間の手打ちで問題解決してるから
秀吉遺言ツートップ体制の確認作業になった >>829
いや正当な政権移動は簒奪とは言わない
正当でない以上不当だと言う非難のニュアンスを含む
散々説明されてもあなたが理解できてないだけ
世間もここの人もあなたのお母さんじゃないから
あなたが悪い意味で使ってるかどうかとか
そんなことじゃなく言葉の意味で捉える 家宰、守護代になる
↓
知行宛行を通して自分の家臣化を進める
↓
朝廷の権威を利用して主家を超越する
下剋上のパターンですね。信長も秀吉も家康も一緒 知行宛行を通して家臣化が進んだとすれば関ヶ原後だぞ、って話も散々されてるな
ほんとに話聞かないな 信長も別に義昭を追放する前提で担いでた訳でもなく、かなり長い間蜜月の関係が続いてたが義昭が信玄の挙兵に際して敵対したから最終的に追放せざるを得なくなった
ってのも知らないの、偉そうなこと言って例に出す癖に研究がどう進んでるのか追ってなさすぎて無知晒すだけよ 秀吉は自分のコピーを作る事で秀頼の生存を図ってそれで家康に任せたんだろうけど、それがよりにもよって豊臣配下の石田三成らによって破壊されるとかいう皮肉。 武功派をもっと政権中枢に据えればよかったのにな
加藤清正なんか使い捨てみたいな感すらある 徳川体制下では大老はそんなに大身ではなかったんだよね
それなら大老は清正か正則でも良かったんだよ >>837
義昭には子分に配る知行なんてなかったからな。結局信長がそれを行うしかなかったわけで、そうなったら明智や長岡みたいに有力な武士は信長を選ぶよね
これはあらゆる下剋上すべて同じ。三好長慶が足利家なしで天下を主宰する先例を作り、信長以降は金と力を持った武士が天下を担うことになった
秀吉も家康もその流れを引き継いだに過ぎず?最終的に家康が主家を根絶やしにするという強引な手段を行使してまた天下人を世襲化することに成功した 当時は徳川以外に天下統治を継承できる家は無かった
徳川は家康以前の松平家が100年以上の「家」の形成の歴史と蓄積があるし
関東移封で中世的な土地に根ざした一族譜代連合体制から近世的な徳川集権体制に脱皮できたのが大きい
その点は毛利や島津でも当時はそこまでいってなかったのでは
毛利は皮肉にも萩移封により豪族連合から脱却できた >>841
少なくとも大坂の陣の経緯といった研究をろくに読んでないのだけはしっかり伝わった 有力な武士が上に担いだ人間を支える上で権力が増大していく部分と最終的な仲違いの理由とを混同させて、しかも結果から過程に遡って意図があったとするのは強引すぎというか散々否定される逆説の考えじゃん
すべての下剋上は同じ?自分で思い込んだ型に当てはめて差異見なければそりゃ流れもなんもかんも同じに自分は見えるだろうね >>839
武功派で国政が出来るだけの人物がおらんし…
豊臣恩顧で外様に石高で勝てる奴が居ないから政治中枢に入れるのは却って危険を招くだけ。それで石高をパンプアップさせようと朝鮮に出兵したと。 家康の場合分かりにくいけど豊臣とは関係無く天下人になってるからね。将軍に就任したわけで。
その過程に豊臣が関与出来なかったのと関ヶ原で見せ掛けの君主たることもできんかったのが豊臣を滅ぼしてしまった。 >>841
大坂の陣でもまだ豊臣政権が続いていて徳川は家来だったと思っているの?
あほ過ぎ 日本人のほとんどはフィクションの
影響で家康が悪いと思ってるだろうね
かくいう俺もこのスレ見て知ったくらい >>849
そうでもない。大阪か非大阪かの違いであって、
日本人のほとんどという訳ではない
大阪には大阪のみで通用する独特の歴史観があって、
秀頼が天下人だった等、珍妙な妄説を信仰している まぁちょいと考えれば小学生でもわかるじゃろ。
秀頼に天下を、なんて織田信長の子供に天下を触らせもしなかったのにそんなムシの良い願いする方が悪いし、
寿命を知った家康がーとか徳川家康が天下の名医になっちまう 意味のわからんレッテルである属性を持つ人間を貶めるのはアンタが一番嫌ってるであろう徳川信者がどうのとやってる事変わらんから二度とすんな まあでもYahooやYouTubeのコメントなんかでも
いまだに司馬遼太郎の知識解釈止まりでしたり顔に書き込んでるのが多い
創作捏造当たり前のエンタメ作家としては不世出だっただけにその影響は根強いよ 簒奪=悪みたいなアホみたいな発想があるから家康は悪くないんだい!みたいなガキみたいな反論になるんだろうよ
秀吉がやらなきゃ、家康がやらなきゃ日本はしばらく分裂の時代が続いただろうからな 随分大人びた言い方しとるが、資料解釈からその判断が難しいって言われてる中資料出しもしないで僕の思い込みがさも正しいってやる方がよほどガキっぽいぞ、話の流れも追ってないようだし この戦国時代板でさえ他のスレでは
家康悪いと思ってる人が普通にいる
このスレとか
↓
戦国最強って結局秀吉だよな?
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1505822101/ 簒奪だーっ!って言う人はまず簒奪の意味を教えないといけないからなぁ…面倒面倒。 簒奪というかまあよくある下剋上だよな
信長がやったことだってあの時代よくあった下剋上の1つに過ぎないわけだし >>858
・家康は関白になっていない
・唯一の大臣職+既に秀吉の生前に家康のもとへ勅使が下向し朝廷から天下人認定されている
・三成らの暴発→関ヶ原の結果十人衆体制どころか秀吉の遺言覚書体制も崩壊し新たな公儀の創設が求められた
一地方の守護大名レベルの下克上とは全く性質が違う 自分の観測範囲だと最近の人気投票順位では家康>秀吉な印象がある このスレの理屈じゃ家康は天下を望んで行動していなかったとする訳か?
秀吉死後の立ち回りも全部豊臣政権を守る為の行為だったと どこの大名も自家の安寧が一番だよ
家康の場合は一番の実力者だったから
豊臣政権の第一人者という地位が否定されたら天下人になる他なかった つかさー、何度も同じ話させてないでスレ遡って読む程度のことしろよほんとに
その程度のこともしないものぐさが資料やら研究やら読んでるわけもないし
無知がたまたま本質つくようなこと言えるはずだとかのぼせた事思うのやめろや >>861
豊臣政権という天下政権において徳川が得た立場を維持し、守るための行動だった、かな
政権に対する忠義というよりは、与えられた以上、義理は通すというやり方だろう
ただし、これは政権側がそういう立場を維持し続けなければならないという事でもある
つまり結果的に徳川一人勝ちになったとしても、天下政権としての権威を維持し、
政権崩壊の動きを助長させるような行動は避けねばならないということだ
早い話が関ヶ原を起こすのは論外だ、そんな事したら政権そのものが崩壊してしまう >>845
福島も加藤も、賤ケ岳以降ほとんど武功がなく、内政で功績を上げてるわけですが、
それは? >>861
家康が秀頼の代理人として、豊臣公儀システムを必死に回してるのに、
豊臣公儀の存続を目指していない、ってどうすれば考えられるの?
存続させる気がないなら、さっさと秀頼ぶっ殺せばいいじゃない。
秀頼のかたき討ちしようなんて考えるのは、福島・加藤・片桐・石田・大谷
ぐらいしないないだろ、合計しても徳川の石高に遠く及ばない。 何をもって「天下を狙っていた」かによるんじゃないか
家康は秀吉から政権を任されてる。政権トップが天下人なら家康はこの時点で天下人よ。とはいえそれは豊臣政権という箱があってのこと。
ただ、その後家康は将軍になった。つまりこの時点で豊臣は不要になった。これが天下取りなら何時から志していたか?それはわからん。 >>865
まず加藤も福島も石高が足りない。石高と戦闘力は比例していてまず百万石は無いと豊臣政権みたいな複雑な政権だとリーダーシップを取れない。何らかの問題が起きた時におのれ一人で解決できますくらいの兵隊が要る。
次に豊臣政権はまがりなりにも関白がトップなのでそれ相応の官位がいる。これも武断派には無い。
最低でも武断派の石高増強が必要だし、それに伴う家格の向上が無いと無理やった。 >>861
徳川の独裁政権を作らなければ豊臣政権を維持することは出来ない
家康がどちらの考えであっても上杉攻めまでの流れは変らんってことだよ
関ケ原後は自動的に天下人になってしまったしね >>859
信長は室町将軍相手にも下剋上してるわけだが >>870
お、資料一つ研究一つも出せないまま雑な認識だけで他人をバカにできると思ってるマジモンのバカがおる 他人の史料や研究からの前提をバカにする割に批判側からまじで研究者の名前一つも出なけりゃ史料一つも出てこない辺りが、まあ底の浅さが知れるよね ほんとアホみたいだな
研究者ごっこしたいならこんな匿名掲示板でイキってないで大学の史学科にでも通え >>874
前提にされてる話もろくに読まないで根拠求められた程度で史学科行けとか、その方がよほどアホだよ
話聞く気そもそもないでーす僕ちんの思い込みを無条件で受け入れてくれないとイヤなのーしたいの?
話し合いじゃねーな、金払って甘やかしてもらえる所で散々甘やかしてもらえば?頭悪いなぁ 少なくとも資料や研究を基にした話し合いのなか前提が出来てたところに横からしゃしゃり出てきたやつの言い訳としちゃ下の下だね
しゃしゃり出てくるなら相応に前提踏まえて来いよ、それともこの程度のスレ遡って話読む程度の知能もないのか?その程度の知能もないのに話にしゃしゃり出て来て一家言ぶったら周りが総出で歓迎してくれると思ってんのか?
めでたい頭してんなあ 盗将大権現が権力掌握していく所って余り有名じゃないので、多くの人は私婚問題からの
大阪伏見の対立、そして伏見城パクリとかの流れ知らないと思う
行き成り関ヶ原が出て来るので、何でそこで他の大老や奉行が挙兵したのかもね
権力の本質って問題を理解するのにこれ以上の教材は有りませんよ
本当、この人の智謀は本当に物凄いと思うよ、只他の奴は真似ができないでしょうが 三国志を最初に読んだ時、行き成り後漢王朝の権威が崩壊して乱世になって行ったのが
非常に不思議でした
黄巾の乱以降でも霊帝は論功行賞してるし、地方官の任免も普通にしてるんですよね
だから霊帝生前は乱れてても乱世とは言えない訳で
問題は董卓が洛陽占領して皇帝廃立して、勝手に宰相名乗って地方官の任免をしようと
した事でして
これ受けたら、完全に董卓の私的恩顧受けた事になり董卓派閥に組み込まれてしまう
でも拒否したら、皇帝の命令を無視した事になり後漢王朝の統制からはずれてしまい
対立皇帝を袁紹が建てれば別ですが、それしてない以上各地の地方官が統制はずれて
勝手な事するの止められない、だって命令できる人が居ないからね
要するに、後漢の皇帝は論功行賞する実力失ったから乱世なんですよ 董卓=家康とでも言いたいのかな?
皇帝廃位した董卓はどちらかというと将軍を追い出した信長だ
家康は秀頼を上に頂いたままで、あえて言うなら漢王朝を頂いた曹操なんだが
しかも日本には藤原摂政鎌倉執権室町管領の前例があり、武家政権とは別に朝廷もある
例え話にもなってない まあ室町将軍は色々な大名に政争の具にされて明応の政変で実質トドメだけどな そいつ例え話荒らしだろ、関係のない例えと資料捏造までして聞かれたらトンズラを繰り返してる
流れ知らないとか言ってるが、散々自分でおんなじ話出してきては毎回批判されてる記憶も都合よくなくなるらしい
智謀だなんだと言う前に自分の下劣な上にバレバレのやり口見直せばいいのに >>877
伏見城? 秀吉の遺言で伏見で政務をとれって言われてるのに? 秀吉の遺言も知らんのでしょう。少なくとも司馬遼太郎は知らなかったみたいだしね。
家康が伏見、利家が大坂で政治をするのが秀吉の遺言。別に伏見城を占拠したって話じゃ無い(そうなると前田利家は大坂城を占拠したってことになる) 伏見の話も何度も否定されてんのよ、奉行からの要請で改めて伏見に入った点なんかも
その上で都合よく忘れてまた同じ主張繰り返してんのよ
で、その上で史料的根拠や研究はなんだと聞いたら話そらすか2,3日空けて逃げる
何度も何度もそれ繰り返してる
こないだは見ればわかるほど秀吉の遺言には合議制について書かれてるとかで豪語した癖に箇所聞いたら逃げてたし、秀吉遺言にて知行についての研究著書があるとかいうから著者名聞いたら忘れたけど絶対あるとか寝ぼけた事も言ってたな
例え話と論点ズラしする前にとりあえずこの2つ、ちゃんと答えてみろよID:m7CX/yPm
そういうの答えられもしないし出せない事について反省もできないのに自分の意見だけは無条件に通してほしいとか舐めた事思ってないでさ >>883
伏見城じゃなくて大坂城だよね
西の丸を北政所からぶんどって天守閣と同等のものを作った >>885
その前に大坂城で傅役をするはずだった前田を追い出してるよね 大坂城に入ったのは本来大坂に詰めていないといけない前田利長が帰国して豊臣公儀の中心地が空になったからじゃん。
このまま家康が伏見で政治をすると大坂城は秀頼がいる「だけ」になって諸将は伏見に集うことになる。そうなれば豊臣は面白くないだろうしそれが大乱の基になりかねん。だから大坂城に移動して政治機構を大坂に一本化したんじゃろ。
合議制は上杉景勝が帰国して崩壊したし。 秀家が遺言違反の大坂詰めをしてたり秀頼周辺での悪事に対応するために大坂に移動してんね
また西の丸天守も淀が喜んだという記述が確か義演の日記だかにあるはずだね
分捕るだの追い出しだの、史料について話半分の中途半端に齧っただけの誤った知識で語るべきでないな
前田の帰国についての記述が何に書かれててその史料がいつ頃出来てどの程度信憑性あるのかとか調べてないだろ スレ立てた人間が史料データベースまで載せてくれてんのにそれすら活用しないで思い込みで喋るの、ちょっと頭がまわってなさすぎだよ
まあ、スレ主も頭の悪い荒らしの隔離部屋としてここを用意してるようだがね 前田利長の帰国も追い出されたかは不明、ってか多分追い出されたとかじゃないはず。諸説あるけど、増田長盛からの勧め/徳川家康からの勧め/無断帰国
のどれか。
看羊録だと利長の帰国は無断帰国でその真意は家康への反乱だったとしてるけどそう見られても仕方のない状況だった訳で故に長盛ら奉行派の陰謀って説もあるが…(看羊録で利長無断帰国を報告したのは石田三成で実際に利長への備えを命じられたのが大谷吉治と石田三成)ただその陰謀の狙いもよく分からんから個人的には長盛のミスコミュニケーションだったんじゃないかと思う。 勝手に帰ったは他に上杉家譜
奉行の勧めで帰ったは細川家譜
徳川の勧めは江戸中期の三壺聞書
少なくとも江戸中期までしか遡れず史料的根拠の最も薄い三壺聞書を基に話すのは論外だし追い出されたとかどこで聞き齧ったデマなのか不明 >>835
ところがそうでもない
例えば三好長慶は官位で将軍よりはるか下位
細川京兆京とは同格
斎藤道三なども官位で土岐氏を上回りはしない
そして大事なのはそのパターンで精力伸ばしても
主家と対立、追放等に及ぶと案外遠からず
支持が得られなくなり衰えたり滅んだりする
下克上のパターンというならそこまで >>891
ありがとう。同じ帰国組の上杉が無断帰国と認識しているのは面白いな。家康に阿らない我々!って言いたかったのか。それとも上杉が帰国手続してるのに前田はそんな仕草も無く帰っていったのか。 >>889
じゃあその隔離部屋にわざわざ顔を出すの止めたらどうなんですかね >>894
隔離されなきゃいけないレベルの頭の悪さひけらかすのやめたらどうなんですかね なんだここ隔離スレだったのかよ
じゃあ隔離スレでギャーギャー文句言ってる奴はただのアホだなw たしかに2に他を荒らされたくないからって書いてあるんだな。全然見てなかったわ 他を荒らされたくないから渋々隔離を作らざるを得ないだけで、そもそも荒らすなって話だけどね、史料データベースなんかも貼ってるあたり本来は史料前提で話したいんだろうし
ましてや開き直るとか無いぞ
というか遡って読むことも出来てませんと自分の間抜けさを自己紹介してどうする このスレはそういうスレなんだろ?その荒らされたくないスレで高尚な話はすればよかろう 仮に上杉・前田が帰国した後家康が伏見に居続けたらどうなったろう。諸将は家康に裁可を願うだろうし実際秀頼にはまだそんな解決能力は無い。皆が伏見に集って大坂は放置される。のみならず変な過激派が集まって異常な事態になる。
反徳川派が大坂城を占拠するかもしれんし、秀頼を暗殺しようなんて事も起こるかもしれない。そう考えると大坂城に移るのは自然な行動に思えるが。
もし秀頼を超えようとしてたら逆に秀頼を伏見に連れてくるんじゃないか。 というかそもそも秀頼と家康が
大阪、伏見に別れたとこから
一連の政変が起きた訳なので 結局仮定はなんとでも自分に都合のよろしい風に引っ張ってこれるんだから、史料のこれから引っ張ってきましたなりこの研究から引っ張ってきましたなりじゃなきゃ意味ないわな
ソースなしで僕こう思ってますが通る訳がない
本田隆成氏あたりの論文もっと読みやすい状態なってれば引っ張って来やすいんだがなぁ 伏見からは奉行衆を追い出し、自身の家臣を入れ占拠している。
謹慎した奉行、石田、浅野の代替者を置かない、
大老前田、上杉を征伐しようとし、
前田からの人質は大坂ではなく江戸に置かせた。
これらの点からは、豊臣の弱体化と自身の専横強化と
言われても仕方がない。
伏見占拠については、追い出された奉行が
追い出されたと内府違いの条々で言っている。 伏見占拠についても奉行が勧めたことって話は特に何度も出てる、内府違いの条々は彼らの犯行声明文のようなものだから黒くない行為でも黒だと言い張ってる可能性も高く鵜呑みにできるものではない
奉行に代替する人物を置かなければならないなんてものも決まってないし謀反の疑いが出た以上前田や上杉の征伐をせねばならないのは政権として当たり前
何度も話として出てるのにその話がどう進んだのかを無視した上でめちゃくちゃ贔屓の引き倒ししてて到底客観視できてるとは言えない
主張したいならおんなじ話されてないかとかその話がどう否定されてるのかとかちょっとくらい遡って確認してから書くべきだし、そのぐらいの注意が払えない人間がマトモな意見言えてると思わないで欲しい 家康が言い訳してるみたいだな
まあ隔離スレで偉そうなことギャーギャー言ってないで荒らされたくないっていうスレで存分に語り合って来いよ 俺は家康でもないし、何度も話題として否定されてる話を確認もしないで出してくるのはアホのする行為だろ
お前は話し合いに途中から割り込んできてどういう話が進んでたのかも確認しないまま何度も話題に出てる話をまた言い出して怒られたら開き直るのか
隔離スレだからとかぎゃーぎゃー言い訳してないで少しはまともに人とお話する勉強でもしたらどうだ、荒らしはどこまで行こうが荒らしでしかないぞ そもそもに戻るなら、家康が伏見で政務を見てるのに、奉行や他の大老が大坂にいる、って
意味がわからんな。
大坂には守役の前田だけおいて、他の大老・奉行は伏見にいないと合議のしようがないじゃないか。 >>906
奉行の代わりを置く権限が家康にあると認めるの?
その時点で家康に豊臣政権の最高決定権があると認めることになるんだけど。 奉行って秀忠や利長と違って秀吉遺言でも後継が決められてるものでもないしで必ず引き継がなきゃならない職掌ではないよな >>907
奉行衆は家康に対し伏見入城は勧めたかもしれないが、伏見城占拠を勧めたわけではない。
伏見在番の奉行衆と同居していれば占拠ではないが、
伏見在番の奉行衆を追い出し徳川の家臣を入れれば
徳川が伏見城を占拠したとしか言えない。
また、追い出された本人が追い出されたと言っているのに
追い出されていないとはどういうことか。
追い出されていないのなら関ヶ原開幕初頭で伏見は早期制圧されてる。 伏見入城については卜斎記が記してたな。
「三奉行(長束・前田・増田)が「向島におられるのは良くない。伏見の城を明けるのでお移りいただきたい」と頻りに言ってきた。大谷吉継が肝煎となって段取りが組まれ、そして家康は伏見城に入った」
三奉行は「城を明ける」と言ってきてるのでこれは伏見城を完全に明け渡すという意思表示であり、また大谷吉継が仲介してるので豊臣公儀としての行動だったことに疑問は無い。 >>914
彼らはクーデターを起こした以上何が何でも家康が悪人で僕たちはヒーローだと訴えなければならない、少なくとも彼らの一方的な主張を鵜呑みにするのは客観視できてるとは到底言えない、長篠後に勝頼が部下に向けて織田徳川勢蹴散らしたと記述してるが、当人が勝ったと言ってるから勝ったになるのか?史料を客観的に読むというのは一つの史料鵜呑みにすることじゃない
そして書いてくれてる人がいるが卜斎記にある通り明渡しである それ言うなら江戸期から昭和にかけて三成が義のために動いただのなんだのは水戸藩が言い出して続いてる話だね
正当化されてるだろうから信憑性なんて無視して徳川に都合のいい史料は嘘っぱちで都合の悪い史料こそ真実だ、なんてことにはならん、大事なのは史料の信憑性を測って良質な史料から解釈すること 内府違いの条々なんて所詮はクーデター軍の怪文書だからね
欺瞞と自己保身の塊よ。
例えば「奉行を二人勝手に罷免した」ってのは一人は石田三成なんだろうけどこれは家康・輝元・政所と三人の合議で決まったもので家康が独断でやったものじゃない。
「景勝に咎はない」というけど景勝は豊臣公儀からの出頭命令に拒否してる訳でこれは当然罪になるし景勝討伐を決定した秀頼を否定することになる。
「五大老が連署すべき書状に一人で署名」したというが上杉景勝や前田利長が帰国してる以上連署状なんか作成できん。何ヶ月掛かることになるんねん。 基盤のない寒門出身者は恩義を感じる感じないにかかわらず主君に殉じるしかないんだが
後継者の秀頼は幼少で誰も奉行の権力を担保してくれなかったから
奉行は自分の権力を守るために家康(と他大老)との対立か屈服かを選ぶことになった
で屈服しても旨味はないと暴挙に出たと スレタイに沿わない話題を永遠同じ事言って続けられるのも凄いな 豊臣恩顧の話になっても徳川に戻るだけだから次があるならスレタイ変えればいい
もうそういう人達が集まってる場所だから 豊臣恩顧って言っても語る事はあんま無いからね。秀吉が後継に家康を指名した事で家康とも繋がりがあるししかも豊臣は滅ぶ訳で尚の事さ そもそも三成が忠義と言っているやつこのスレでいない
言われたところで反論してきてくれ なんせ家康は秀吉に100万石以上の加増してもらったもんね
これほどの加増は家康以外にいない
豊臣恩顧というのなら家康がその筆頭だろ 信雄が失脚して秀次を始末したせいで徳川が一門衆筆頭でありちょっと抜けた大大名になってしまったのがね
信雄がアホで織田も豊臣も天下を失ったというしょうもない話 なってしまっていた
ではなくて秀吉がそうして
政権もそうやって動いてきた
秀吉死後にそれが気に入らん連中が
排除に動いてやらかしただけで 豊臣政権は中央集権じゃなくて秀吉集権の独裁システム
秀吉が死んだらシステムがうまくいくわけない
秀吉は死期を悟ってからは秀頼のことしか頭になかったみたいで遺言も細部は指示せず不明瞭だったようだし
唐入りという余計な爆弾まで残してグダグダに死んでいった感じ >>932
なってしまっただろ
本当は上位に置いておくはずだった織田と身内を排除せざるを得なくなっちゃったんだから
最初から家康様を引き立てるために動いてたとでも思ってんの?気持ち悪 御恩と奉公からすると別に家康は秀吉に恩は無いってのが面白いところだよな >>935
えっ?
100万石も貰っておいて恩を感じないのか?
アホと違うかお前 秀次の後見を家康にしてるから、少なくとも信雄排斥後には豊臣政権の要石になってるぞ 噛みつくような話ではなくもともと政権において重要な人物で、言ってるように信雄改易や秀次追放で比重が増して行った >>934
その後どれだけ時間があったと?
秀次の仕置き自体がそもそも政権としてのもので
不慮の事故とするのは無理がある解釈
(切腹命令がなかったとする説はあるが
少なくとも失脚自体は予定通り)
その後でも前田を上席に据えることもできたし
小早川秀明ら一門を秀次の後釜にすることもできた
でも秀吉の選択は家康最上席で
その上後釜の秀忠まで指名してる >>936
それは現代人の感覚で戦国時代の「御恩と奉公」は全く違う概念だってそれ何度も言われてるから…
現代人は「奉公したら御恩がある」ってサラリー感覚で捉えがちだが当時は「御恩があるから奉公する」のが御恩と奉公。つまり御恩(報酬提示)が先にあってそれの対価で奉公する。しかもこれは基本一回限りで持続しない(更に「家」ではなく個人を対象にする)
家康は秀吉から国替えされたけどこれは御恩と奉公には当て嵌まらない。戦国時代の御恩と奉公って無茶苦茶シビアなビジネス感覚で「一回の御恩に報いるべく…」ってのは江戸時代の朱子学によるものよ。 豊臣恩顧って、家康の安祥譜代・岡崎譜代・駿河譜代・・・になぞらえて言うと、
・木下譜代、羽柴譜代、豊臣譜代
・木下譜代、長浜譜代、姫路譜代、大坂譜代、秀頼譜代
って感じなんですかね?
豊臣恩顧武将について、秀吉に随身・寄騎・従属した時期や世代に応じた分類ってあるんでしたっけ? そもそも譜代と呼べるほど代を重ねてないから
恩顧っていうふわっとした分類になってるんじゃなかった?
だから個々人によって定義が違うし不毛な争いになる 祖父または父が秀吉の早期家臣で、子または孫が大坂の陣まで豊臣家に付き従って世代を重ねた家臣の家って
伊東長久-長実
真野助宗-頼包
山口宗永-弘定
平塚為広-為景
毛利勝信-勝永-勝家
堀田正道-正貞-盛重
福島正信-長則-正鎮
青木一矩-俊矩-久矩
木村定重-重茲-重成
杉原定利-木下家定-秀規
ぐらい? >>941
御恩と奉公の御恩って、具体的には領地の安堵と新規加増「新恩」の事だよ。
でね、封建制の社会での領地の安堵とは具体的に言うとこういう感じ
1 少なくとも主君からは攻められない、同じ主君に仕える領主からも攻められない
自分の方も同じ主君に仕える領主を攻められない「主君の領地を攻める事に成る」
2 敵に攻められた時に、主君の後詰めが期待できる。
こう考えれば、盗将大権現の会津征伐が如何に問題か分かるでしょ
豊臣家が領地安堵してる大老上杉家を、自分一人の判断でせめてるんだから
要するに、秀頼に領地安堵する力なんてないんだって宣伝 上杉景勝が軍備拡張してるって通報が豊臣政権に参与してる周辺国から来てて弁明に来いと言っても無視してたらそりゃ討伐されるに決まってるじゃん。公儀への明確な謀叛だし。 >>946
否定何度もされてろくな反論もできてないもの持ってきてデマ流してないで見ればわかるとまで言い切った秀吉遺言の箇所や見たけど著者名すらわからないとかいう本何ぞなく資料捏造してましたとか謝ったらどうなの?
反省した態度もなく根拠すら捏造してデマ流し続けてる訳でしょ?
しかも今回も豊臣が認めた行為を問題だと根拠皆無で言ってるんだろ?
人として問題だらけなのはお前の態度なんだけど? 家康の会津征伐は豊臣政権のなんよ
「豊臣譜代」について言うと詳しくないのだけど
そういう区別は観られないのではないかな
羽柴家-豊臣家の家臣はその所領から禄や
所領を与えらてて特に大身になると大名となる
それとは別に元々別家の主人であって帰順して
所領を安堵された大名たちがいる
この両者の間に政権参画の権利について
明確な区分はないように見えるな
江戸幕府のような整理は進んでない
>>945
その辺も左端の代が元々秀吉の家臣だったのか
出世に伴い付けられた与力から家臣化したのか
息子の縁で取り立てられたのか
混在してたりよくわからなかったりするでしょ 御恩と奉公は一代限りだから「秀吉恩顧」はいても「豊臣恩顧」は確かにかなり限られてしまうな。秀吉に恩義があっても秀頼には無いってのが秀吉死後の諸将の考えだし。
その最たるもんが西軍によるクーデター、大坂城占拠だもんなぁ。主君の城を軍事力で乗っ取った挙句公儀への人質を私利私欲で利用しようとするなんざ悪党極まれりよ。もうちょいやり方あったろうに。 そもそも政権のお膝元でこんな大それた騒動起こす奴が秀頼成人後に忠実に仕えるとはとても思えんな
もし秀頼と仲違いでもしたら速攻でまたクーデター起こすと思うわ
こういうのは成功したらしたで成功体験になってクセになるからな
毛利という外部勢力引き込んでるしろくなもんじゃない >>861
天下人として全国に差配することと
幕府を打ち立てて豊臣政権を廃すのは別
天下人家康が豊臣政権のトップになる
というのが秀吉晩年の構想だったはずが
死ぬ直前に遺言にも残らない
大老、奉行の連署という形で覆った 戦争で勝ったこともないし、
自分の母親を人質に送り込んで臣従していただいたわけだから 豊臣政権が有力大名による連盟政権だった、ってのが誰かの本に書いてあったけど徳川幕府の様に豊臣家のみで政権運営はできんもんだったのか。まぁ出来なかったから唐入りして石高をパンプさせようとしたんだろうけど… >>955
で、秀次死後の豊臣家って誰がおるわけ? 徳川幕府もそれぞれの大名が自領を治める
連盟政権なのは変わらないし
政権運営は基本的には豊臣家と
そこから禄を食むものが行ってたよ
家康だって秀吉からしたら一門筆頭だし
政権の中枢に誰がいるべきかの権力争いの結果
政権自体が機能不全起こしただけで 家康は織田には誠実で忠実だったけどそれが秀吉にも当て嵌まるものではないわなあ
家督継承者になった信雄を助けたけど信雄が秀吉に屈服した結果徳川も秀吉に屈服したという事実を秀吉は忘れたんじゃないの?こんなのを一門筆頭にするとか 筆頭にせざるを得ないよ。豊臣政権は朝廷の権威をそのまま使った関係で官位が非常に重要。でこの時官位が高いのは軒並み大国の主で(当たり前だが)確かナンバーワンが徳川家康。
石高も人望も戦闘力もあるから下手に家康の上に人を置くのは却って危ない。 >>957
中井均だったかなぁ。豊臣政権は東国衆と西国衆の連盟だったって説。確かに秀吉在命時からその命令に関わってるのは家康・利家な訳で徳川幕府にはこうした動きはあんま無かったよなとは思った。 一門筆頭におけるくらいに信用と実力のある人間、あの中だと家康しかいないし実際その期待には応えてるしね
こんなのとか言い出すのがどの程度認識してるのかしらんけど 織田に対して誠実だった人間がなぜ織田から簒奪した秀吉の子孫に対して誠実だと思えたのかねw
頭おかしいんじゃないか やった行動として関ヶ原後も年貢の面倒まで見てるのを見て誠実じゃないなら何見ても誠実じゃないんじゃない?
頭足りてないんじゃないか なんか無理矢理因果応報論に当てはめたいのかもしらんが、そのために織田から簒奪した豊臣に対して誠実な訳がないってバイアスをかけて見てく行為が客観性を担保してるわけもない 新しい知識を拒否するお爺ちゃんは司馬信者ではないかと思うようになってきた >>947
あのな、他の大老奉行と根回ししてやってるなら兎も角、家康一人で決めてるだろうが
つか、この状況を無理やり正当化するのわからんな
下克上のテンプレでしょうが、これ >>967
お前は合議前提にしてるがまずその前提にできる証明資料を捏造した上にその後トンズラこいてまったく信憑性がない
テンプレートというなら地方諸侯が軍備整えて上洛命令すら拒否するのがまさに地方反乱のテンプレートだな
家康が政務担当として奉行らに通達、豊臣と朝廷から許可を受けた上での行動で根回しをする必要もない
お前まず反論する前に自説の根拠になる資料を捏造せずちゃんともってこい、それもしないでクソを垂れるな 証明もなしに自説のゴリ押しのがよほど無理やり正当化なんだわ
人に説教できるような事ができてもないんだから自分のしでかしてるサマをちゃんと理解してマトモに会話の成り立つ前提を作れ 未だに上杉が謀反とか言ってるアホがいるのか
領内の整備にすぎないってのに
浪人を雇ったのは加増されたのに多くの家臣が越後に残ったから家臣が大幅に減ったから、築城にしても予定通りであるし、その城にしても戦争向きというよりも権威重視の城だったのがわかっている
むしろそういう状況だったから家康が勝機とみて攻め込んだんでしょ >>968
家康に上洛命令をする権限などない、
軍備も上杉は増強などしていない。あれを軍備増強とかいうなら家康は北条家臣を養ったので軍備増強して謀反を企んでいるとかいうくらいの話
家康は政務担当者でもないし。もっといえば10人の誓紙による合議で運営することが決まっている
家康に正統性などかけらもないわ >>954
未だにこんな遅れた知識の人間がいるとは
家康は戦争で負けて降伏したんだよ
信雄が降伏したから家康が降伏したというのは江戸幕府の創作にすぎん
脇坂文書の発見で、家康も信雄も双方が子供を人質に差し出して降伏を願い出ており、
秀吉はまだまだ戦果を拡大したいから拒否をして、脇坂に伊賀に侵攻しろと指示していた
十分な戦果をあげたところでやっと降伏を認めたというだけにすぎん >>968
家康が、私婚問題の時持って来た増援を勝手に伏見に入れてる状況ですよ、あの時期
豊臣家の城代も兵も居たのに、強引に占領してた訳で
つか、事実上の徳川の軍事クーデターでしょあの状況
其れ棚に上げて、言いがかりワロタ >>958
家康は織田に誠実であったのなら信雄担いで秀信にたいして謀反などしていないがな
そして信雄が降伏したから家康が降伏したのではなくて、双方が降伏しようとしていた。
家康は異父弟と子供を人質にだすからとね。
家康は秀吉に真っ先に下った大名
毛利や上杉よりも早く秀吉に従っている。
輝元や景勝の上洛した日付と比べてみろ
最初に下ったので妹を嫁にもらえたのさ >>971
また位置から離さないと理解もできないバカがスレが終わる直前に連投でもして言い負かせないから勝ち逃げーって態度取ろうとしてるんだろうが
十人衆の合議が記述されたのは秀吉没後、それ以前の遺言だと家康に政務を任せることが伊達文書や内藤周竹の書状などにも書かれてると何度も話してる、さかのぼって読む程度も知能がないから噛みついてるんだろうが
また朱印状違反の越後に家臣を残していること、築城など普通に軍備増強と取られてしかるべき、堀からの訴えもあるしね、その上でその弁明のために上洛しろという豊臣政権からの命令を拒否している
遅れた知識とか舐めた事言う前にスレ遡って反論点ちゃんとまとめて来い、おんなじ説明何度もさせるな >>973
お前が棚上げを語るのか
棚上げにした秀吉遺言に書かれてる合議が決まったって記述は?
しかも伏見入りの話もちょっと前にさかのぼれば奉行からの要請だと書いてあるよな
それに対しても明確な証明による反論もできてないよな、他人煽る前にまともな反論を一つでもしてみろよ、史料や研究を出してさ 著者名忘れたってまた言い訳してみるか? >>960
それは間違いだな。
家康が取次をやっていたのは関東や東北の大名で、利家も同じくそちらの担当
西国の取次をやっているのは別の人間だ
その家康利家にしてもすべての関東東北の大名の取次をしていたわけでもなく、
石田や浅野らと共同で担当しているにすぎない。
秀吉存命中の彼らには独自の権限はほぼない、石田ら奉行とともに取次をしていただけだ
家康らも「奉行」と呼ばれていたことがわかっているしな >>975
間抜けな事言っているな、
それらの遺言は8月五日の時点ではとっくに上書きされており、
毛利家に残るものでは、家康輝元が東西を、前田が北国を、奉行が五畿内と分権体制に改められている。
そして10人誓紙で書かれているように合議制と決まった
家康利家を中心ってのは古い遺言にすぎない。 浅野が取次をしている旨を家康が秀吉に報告する書状など、東国の取次はやはり家康が統括してるね
また内藤周竹書状の秀吉遺言にある通り、秀吉と政権構想を家康が相談して決めるなど独自の権限がほぼないどころか充分に権限を有していることもわかるね 遡っている時点で間違いだと気づかない時点で愚かすぎる
秀吉の遺言が家康利家に任せる形から、合議制へと推移していったのは最近では常識なのに古い知識に固執して、
新しい知識を受け付けない爺はこれだからw >>978
まさしくその遺言が家康と秀吉とが相談して決めた区分ね
その書状の文を通しで読んでたらまず知ってるはずだが、どうせ史料読まないで一部の情報を聞きかじったからその歪んだ知識になってるんだろうが >>979
お前のいう毛利家に残されているもので家康の全権は否定されているのだよ
輝元に西国の事を任せていたと記されているし、最後に東西は輝元家康とあるだろうが、
家康と相談した政権構想ってなんだよw
内藤の書状に書かれていないものを勝手に妄想で補ってもらっても困るんだがw >>980
新しい知識とか常識とか言いながら出してくるのはすでに否定されている知識で
しかも新旧にこだわって説の信ぴょう性すら考えてないんでしょ、底の浅さが透けて見える >>982
へー、お前が出した内藤周竹の文の家康輝元両人に東西任せるとか書いてある条の最初に
「家康と被仰合候子細をハ殿様へ被成御物語之由候」
って書いてあるのもろくすっぽ読んでないのか、とんだ史料読みもいたものだね 全文読めば合議制にしかならんわ
だからその後10人誓紙へとつながるんだよ
秀吉の遺言で家康利家体制となったのを、なんで石田らが秀吉死んだあとに覆せると考えているのかね?
もしそうなら、かれら奉行こそが豊臣家の全権をもっており、家康利家はそれに従わざるを得ないことになるだろうが
少しは合理的な思考をしろ >>985
出来るわけないからきっとそうじゃないとかそれこそ合理的でもなんでもないな
書いてあるものに自分でバイアスかけてますって自白してるじゃん
んで?お前さんの語る新しい常識とかいう寝ぼけた主張はどの研究者の論を基にしてんの >>984
だからその話し合った内容を書いてみろっていってんだよw
逆に輝元と秀吉が話し合ったことは記されているがね。そこで西国之儀被任置之由候
とある。
これでわかるのは輝元に西国任せ、秀家の処断もまかされた。輝元が処断しない場合、
初めて家康が処断することができる。
だから「東西」は家康輝元、北国は利家、五畿内は奉行の分権型となる >>983
否定しているのは世界でお前だけだ馬鹿か
史料にあることは否定する馬鹿はお前だけだからな >>987
は?お前マジで理解してないのかよ
家康輝元に東西両国、利家に北国、奉行に畿内を任せることを家康と秀吉とが相談して決めたって書いてあるだろ
またその処罰に関しても輝元が秀家を成敗しなかった場合は家康に任せるなど、西国の処遇に対しても分権してなお手を出すほど優遇されてる
都合のいい部分しか読まないとかしないでまず全文読んでから書き込んで来いよ >>988
またバカなこと言ってる、このスレで合議制についての否定を書いてるの俺だけだと思ってるの?
遡ってちょっとでも読めばわかる事もわからないで余計に自分の底の浅さ晒してどうする >>986
毛利家に残されているものに書いてある通り、すでに分権型になっている
誓紙で定められた通りになったようにそれは証明されている。
お前さんの妄想だと、大老よりも実力も能力もなく、秀吉の遺言という正統性もないのに、
秀吉が死んだら、即座に合議制になり、家康はそれに従ったということかw
奉行すげえなw
こういう珍説唱えている研究者誰だ?名前上げられるんだろうなw >>991
なってたとしても家康と秀吉との相談の上でなってるなと書いてるな
一応機能はしているようだし
また伊達家所蔵秀吉遺言などでもわかる通りそれでもなお家康の特権は認められてるね上杉と伊達の仲直し(惣無事)を秀吉から命ぜられたりね
すごいな、先に尋ねられてる研究者の名前は出さないまま自分は研究者名求めるのか、どんな頭してるんだろ
少なくとも合議制の否定は本多隆成氏が行って、白峰などの説にも随時疑問点や反論を行ってるな 多分さっさとスレ埋めて勝ち逃げ―みたいなことを画策してるんだろうけども
まず聞かれた研究者名ちゃんと出せよ、あと内藤周竹の書状もっかい頭からちゃんと読み直せ >>989
そんなことは書かれていない、
書かれているのは二人で相談したことを輝元に伝えたとあるだけ。その内容は不明だ
子細は殿様へとあるだろうが、なんでこれで子細がそのあとの話だと誤読できるのかw
ついでにその前に家康への御意は輝元と話し合ったことを伝えたとあるだろうが
つまり輝元と秀吉で話し合って決めたことを家康に命じたんだよ
むしろ政権構想は輝元と秀吉が話し合って決めて、それを家康に命じたという部分はあるのにそれは一切無視するんだなw >>994
そうは全く読めないな、お前どんな誤読をしてるんだよ
少なくともこっちは該当記述部をちゃんと書いて出したがお前それを出してきもしないよね
同じ条の一番最初に仔細を決め合ったと書いてあるのにその後そのまま続く文が仔細の内容だと理解出来てないの、そもそも書状の読み方ができてないじゃん つまり馬鹿な事を書いたのは本多ということか?
論文名はなに?
検証してやるよ
未だに秀吉死後の合議制体制や誓紙体制を否定する馬鹿だから読むだけ無駄そうだが、
批判するだけの価値はありそうだ >>996
この辺りの研究で本多隆成も知らないとかマジもんの無知だろ
とりあえずciniiで調べてみ、いくらか論文出てくるだろ
あとは藤井譲治氏なんかも読んどきゃいいんじゃないか
そんでお前が先に尋ねられてる研究者名答えろ >>995
家康と被迎合候子細をハ殿様へ
とあるだろうが、子細はそもそも記述されてないんだよ
馬鹿なの? >>998
お前それがその条の最初に出ててしかも誰宛の書状なのかわからんまま書いてるの? >>972
別に脇坂家文書の発見前からそんなことはとっくに知られてるだろ
伊木忠次宛や土蔵四郎兵衛宛の秀吉書状にも脇坂家文書と同様のことが書かれてるし このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 39日 5時間 41分 21秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。