武田勝頼 part46
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武田勝頼、武田信玄など、武田関係について語って下さい。
なお、このスレにはアンカーレスを多用する荒らしがよく現れますが、無視して下さい。この荒らしはリアル世界に友達がいないため、皆様に相手にしてほしいから全てのレスにコピペ返レスしているのです。少し前の放火事件のように現実世界に迷惑をかける可能性もあるため、皆様寛大な心で受け入れてあげて下さい。
ワッチョイ導入議論スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1644501787/
武田勝頼 part45
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1644187357/ 本日の汚物ID
ID:DbQLoxQW
注意してください 汚物はワッチョイが何のことかわかってるんだろうか? ウクライナ 武田
ベラルーシ 北条
ロシア 織田・徳川
果たしてウクライナは生き残れるだろうか 勝頼は家を継いだ時点でもう詰んでるとかいう最悪の状況だけど、甲斐近くでカネになりそうな新事業って何があるんだろう。一つは林業だがこれはそれなりにやってたらしいし。 信濃だが関東から畿内や西日本に赴く一行から通行税もそれなりに徴収してたろうな。 信濃、特に木曽あたりの材木は有名だったみたいだが、その運び先は主に濃尾だよね。思うように売れなかったのでは。 信長は家を継いだ時点でもう詰んでるとかいう最悪の状況だっだな。結局は意味なかったけど。 勝頼は産出が細くなった金山の稼働を増やす為に
「産出が少ない間は軍役を免除する」と約束してるけどこれも割と裏目ってる気がする。
稼働が少ない事に報酬を付けた訳だし。まぁ他に何が出来る?って言われたらどうしようもないんだけど(産出がないなら軍役アップとか言って反乱起こされたらそれこそオシマイだし) >>10
信長は中山道の通行規制、東国経済への流通規制を実施してたから
木曽の木材も当然のごとく規制対象かと カネが入ってこないよなぁ。駿河方面の開拓はどうなんだろう?もうそこしか残ってないが。
とはいえ駿河は穴山信君のものなんだよなどうしたものか。信君外して直営とか不可能だろうし。 武田領国は交通の要が多いから関東の諸侯等が西国へ移動の際に払う通行料と
手土産の津料は相応の収入になったんじゃないか。武田法で配下の領主達が
勝手に通行料を摂ることは禁じられてたはずだし。 史料によれば信長の父は晩年、信長の弟信勝に領国支配権の「分与」をすすめていた形跡がある。
例えば熱田社の統治権は弟に与えられていた。
この状況を解消するために、信長はわざと弟と抗争しついには暗殺に成功した。
信長は金が集まるところは一族であろうとも何ぐせをつけて強奪していった。 武田家の赤備えは、家臣団の中で、次男、三男など家を継がない者から、体力強健な人間が選ばれました。
後ろには下がれず、下がれば味方から突き殺されるというルールもあった。ただ前進あるのみ。
そうした切迫した中で、鍛え抜かれた次男、三男が選ばれたのです。
それが赤備えで、とにかく強いと評判でした。
武田の「赤備えが来た」と聞くと織田兵が逃げていく。実際に武田の兵が現れただけで逃走兵が後を立たず勝負が決まってしまったのです。
織田の城は武田に寝返るものも続出し、さしたる籠城戦はなく僅か数日で次々と武田軍に落とされていきました。 有名なアレか
織田の女城主(織田一族)が武田の家臣に寝取られたやつ 穴山信君が家康に内通して信長に謁見した時に金二千両出したって話だけど、だとすると穴山氏かなりの金持ちだよね?
まさかに全財産渡すとは思えないし最小でも四千、多けりゃ万両単位で持ってたことになる。一門衆だし妥当なのかな? そもそも金が無い金が無いと勝頼時代は少し酷すぎない金の無くなり方
あれは先代のツケが勝頼の時代にやって来たと言えるのかね? 信玄が信長らと断行してから約10年
ずっと総力戦状態で休みもないからねえ ID:wqacJWnz
何を断行したの?
まさかイフ?? >>22
信玄時代に主要な金山を堀つくしちまった結果だろ
金山収入に依存してたからそれが無くなったらカネが無くなるのは当然
清水の港を手に入れて何とか埋め合わせようとはしたけど
港運用のノウハウも無くドル箱の上方貿易を織田にケンカ売って潰しちまったから勝頼期は詰んだ 120万石あったのに貧乏
新府城作っただけで疲弊て
他大名普通に新規築城、既存の城増築してるのに武田しょぼいな そもそも信玄や勝頼の時代は連年戦争続きなのに、開発とか本当に行なわれていたのか?
120万石はそもそも太閤検地の数で、しかもあの検地は1反300町歩で割り出してるから、もっと減るんじゃないのか永禄や元亀だと >1反300町歩で割り出してるから
検地の基準は(高校の教科書レベルの話でなら)全国どこも一緒だから
実高がもっと減るとしてもそれは他の国も一緒で武田が貧乏という理由にはならないかと 基準は1反360町歩のはずだが
300と360で同じという根拠は?
あと、信玄と勝頼の時代は戦乱続きで、しかも長篠以降は農家の働き手も兵士になって
開発なんか行えていたのか? >>27
北條は荒蕪地の開拓や廃農地の再興については年貢賦役の減免や種子貸付等の優遇措置を実施してそれなりの成果を上げていたようだ。
武田はその類の政策は実施していないのか?
勝頼は長篠後に(泥縄とはいえ)各種改革を打ち出していたそうだからその一環として何かあっても良さそうなもんだが。 基本的に武田は攻める側だったから開発に支障はないだろ。
東海地方の様に台風被害も大きくなく越後のように豪雪地帯でもないし 北条の場合、武田は付いたり離れたりされた上に
上杉謙信に領内を荒らされたり基本的に狙われる立場だからな。 >>29
360歩だったのを300歩にするというのは全国どこも一緒だから
石高が実高より過大であってもそれは武田の領地だけが貧乏という理由にはならないってこと。 織田の場合は信長公記首巻などを信じるなら
美濃攻めでは数千の兵力で戦っているので国力から考えると余裕がある
武田の場合は国力考えると常に総動員に近い兵力で戦っているから
戦争での負担が大きいとか >>32
それは関連が薄いと思われる。
農地開拓や産業用植林の奨励政策は北條以外の大名にも事例が認められる。
何より当時の産業構造からすれば領国強化の基本中の基本だ。
他の大名にも増して四隣との戦争に明け暮れた(それが可能だった)武田が無策だったということはないんじゃないか。 産業も港がないと遠方に売りに行けないし
近くで売っても周りも同じように似たような物を作ってるから高く売れずに安く買い叩かれる
国内産業発展させても売るところがないとドン詰まり
商売の基本やで そう考えるとやはり駿河の穴山がネックなんだよな〜。
穴山は国替えか暗殺。その後駿河は直営。 一大消費地の京(今で例えると東京首都圏)に持っていけない時点で詰んでる
今川も徳川も木綿を京に運んでたのに 太田牛一は武田は重税と重い刑罰で民が疲弊して皆織田に治めてもらいたいと織田軍を歓迎したとか書いてたけどそんなに金がなかったの?それとも大袈裟に言ってるだけ? 織田は別に商業で金回りをよくしたわけでない
座は解体してないしな
民や商人や寺院から脅して強引に奪ってる
例えば信長は法隆寺から1000貫、石山本願寺からは5000貫をまきあげているし、摂津国尼崎に重税をかけた時は当然拒否や異議がでたが、それを口実に村々を焼き討ちし民から全てを強奪した
実に無理矢理、実に暴力的
そのツケは溜まりに溜まっていく 座の解体とか言ってる馬鹿は御用商人に支配させたのも理解してないから馬鹿のまま www
さすがにその解釈は無理ですわw
織田に統治されてやっと武田の良さを実感するので甲斐民度は低いのは認める 信長と家康は太平洋航路を規制し東国との流通を制限してた以上、
上杉謙信の様に日本海航路しか使えない制約が大きい 御用商人に統制させたから規制できたわけだからね
完全自由より敵対国に武器・必需品を行かせないように今のロシアにやってるのも同じ それに後に天下を獲る秀吉は御用商人と蜜月となって織田家の金回りの情報を完全に把握してたしな >>40
村民が信長を怒らせたのが悪い
それで詰んだ >>42
この場合の武田の良さってなんだ?
重税と刑罰? そうだな
商人を利用して金を得るなんて良くないよな
やっぱ武田みたいにやっと手に入れた商業港を破壊して放置が正義だよ 甲斐が山の中ってのもあるんじゃないか。
基本的に輸送代はタダにはならないし、しかも険しければ険しい程高くなるのも世の常。
水運である程度なんとかするにしてもどうしても陸運は使わねばならない。
織田・徳川は街道整備して問題を解決してたけど武田にはそもそも道が険しくて簡単に整備できなかったろうし、戦線が信濃と駿河と南北に長い。つまり出兵のコストが高いのに移動する距離まで長いという悪循環に陥っていた。 商人や流通で金を工面してたわけでない
信長は為替をいじった
信長は銀山を強奪し銀の価値を上げて(金の価値を下げる)膨大な為替差益をえた >>36
交易による利潤は副次的、補完的なものに過ぎない。
農地開拓や植林、或いは生産技術改善等の産業政策の目的は、一義的には生活、経済、軍事の自己完結性を高めることにある。
食糧や生活物資、戦争機材等を他国からの移入に頼らず自給する。
余剰が生まれれば更に生産の質・量の向上を図る為の原資とする。
中長期的には国力増強の源=人口増にも繋がる。
当時の第一次産業を基盤とする社会構造を現代のそれと同列には論じられない。 流通ルートが山岳地帯っていうのがメチャクチャ割高
海運に比べて人件費と維持費がバカ高くなるし冬場は雪に閉ざされる
河川ルートは基本的に一方通行だし 武田が駿河や商人を軽視したという事実はないよ
伊勢海賊を破格の条件で招聘し海軍強化して御用商人を優遇している
織田徳川に上方との交易邪魔されたのはまた別の話 >>55
> 河川ルートは基本的に一方通行だし
いや、あの、なあ、…。 >>54
これは本当にその通り
戦国時代の貨幣経済を過大評価しすぎ
米こそ一番の財産 「織田の高転びは当然だった」
とか言ってもそれより早く高転びしたのが武田だぞ >>56
とは言っても上方との交易を行うために多額の通行料を払ってまで
上杉領、武田領を通過してた関東の諸侯等よりはまだマシだろう >>62
相甲同盟が生きていた時期は北條武田領海間の船舶往来に金銭は掛からなかった(公認状は必要)ようだが、
まさか上杉は佐竹・宇都宮等の同盟勢力下の流通業者からもカネを毟っていたのか? >>63
関所が全廃されたのは明治に入ってからであって江戸時代になってからも
治安維持や街道の維持管理の為にもあちこちで関所は運用されていた。 >>64
その関に於いて重要同盟勢力への優遇措置は無かったのかという疑問。 >>66
上杉と反北条連合の関係って同盟ではないかと。 とはいえ上方に行くのには武田領だけ通るって話でもないからそこら辺の問題もあるだろうし、
何より問題なのは大抵の場合駿河を通るルートが選ばれる筈でだとすると武田宗家よりも穴山一族の出番って話になってたんじゃないかな。てことはそこらへんの甘い汁って殆ど穴山が吸ってやがったんじゃ。 勝頼は駿河御用商人を優遇して人質を免除したりしてるからそれはない 織田と徳川の経済封鎖もあって駿河は上方との交易には使えないけど
海産物を唯一、自給できる国だから勝頼も重視したんだろう 実は織田領のみならず関東でも、意外なことに戦国動乱が激化すると関は減っている。
北條を待たずして上杉の時代からの趨勢。
近世の関が治安装置であるのに対して中世の関は在地の経済装置(國衆クラスの権益装置)としての性格を有していた。
戦国大名が地域権力化して域内流通促進の為に関の廃止統合に動いたのは事実だろうが、
同時に直轄統治強化の為に國衆の経済力・影響力を殺ぐ構造改革でもあったのではないか。
穴山に代表される如く、武田は遅くまで古い領国社会構造を残していた印象が強い。
國衆クラスの権力を収奪できなかったことが急激な崩壊滅亡の一因でもあるか。 楽市楽座は市を自由に開き、座の特権を廃したものである。
史料によればこの政策自体はすでに六角氏などが実行しており、研究者の間では信長のオリジナルな政策でなかったことが定説となっている。 革新的な取り組みをやった大名なんて信長以外にもいくらでもいる。
信長は先人がやった施策もやったし新しい取り組みもやっただけ。
たまたま成果がでたものが認知されたにすぎない。
経済的基盤を比較したところで無意味な議論だ。
どんなに地政学的な有利や経済的基盤を持っていようと運が無けりゃ滅びるときには簡単に滅びる。
運が尽きればあっさり討たれて野心をひた隠していた家臣に家ごと乗っ取られてしまう。
織田家がまさにそのいい例だ。 武運の神を祀る諏訪(武田)と織田の混血児を討ち、諏訪大社を焼いたことで織田家の武運は尽きた。 一匹消えたと思いきや、キ印は次から次へと湧いて来る。
ボウフラみてえなもんか。
いや、同一人物なのか。
NG推奨ID:b1EHOfgm まあ菅沼がワッチョイスレで暴れてる時はこっちが過疎り
ワッチョイスレが過疎ったらこっちが盛り上がる
察するべし >>73
こういう昭和時代の教科書みたいな時代遅れの事を書いてる奴に限って馬鹿だよな
楽市楽座は素晴らしいと思ってる馬鹿の典型
信長も秀吉も家康も市場や座を支配する御用商人と結びつき、畿内での武器や物流を独占して、東国に武器が行くのを制限したり利益を貪っていた
現在でも経済制裁なんて物が存在してるのに
有力な御用商人を抱えたほうが強大になり敵対国を弱体化させられる
高木氏とかが書いてる貨幣や経済の本でも読んだら?
武田贔屓の平山でさえ信長の東国への物流制限の話を書いてるのに
いつまで昭和時代の認識してんだ? 楽市楽座
六角家が先。なお信長は実施は少ない
宗教分離
延暦寺と法華を武力で制裁しただけの中身の無い施策
先進的な築城技術の導入
これも六角家が先よ
貫高制で国人衆の所領の生産力・軍事力の把握
斎藤義龍たちが先
軍団制
どこの大名も行ってましたー残念
自らの手足となる親衛隊の編成
どこの大名もやってたのにねー
鉄砲の大量使用
堺・雑賀・六角などが先デス
大胆な抜擢人事
どこの大名もやってたって言ってるだろw
先進的な六角は武運がなかった
運が無ければ格下の雑魚に足元すくわれる 「織田の直轄領」ってのがどの範囲を指すかで変わってくる。
まず、本能寺の変直前の話で、「織田信長個人が直接管轄した土地」というのは非常に少ない。
これは、豊臣秀吉とは違い、織田信長は子供に恵まれたため、既に織田信忠や織田信雄といった自分の息子達に領土を分地していたから。
自身の住まう安土城のある近江ですら、明智光秀の坂本、羽柴秀吉の長浜、丹羽長秀の佐和山、蒲生氏郷の日野など分け与えてる。
安土城下も、実際には与力だった長谷川秀一らが統治していたぞw
駿府城時代の徳川家康みたいなもんで、まともな領地はほぼ持ってない。
「織田家を隠居した信長個人の直轄領」でいうなら30万石あるかないか。 信長より早く楽市をしたとされる今川の基本方針(今川仮名目録)
・今川家より商売することを認められた商人の営業税以上の額を支払ったとしても新規の商人参入は認めない。取り次いだ者は知行の10分の1を没収する。
つまり今川家の基本方針は今川の商人優遇(新規商人お断り)
今川が楽市をやった辺りの史料だと、今川の他の領主、寺社など権益を主張する者が複合的に重なりあって
押買狼藉など市場が混乱していたからそれらの権利を一時停止するために楽市令を出していただけ
様々な在地領主・寺社・公家の権利が重なり合って、下手にそいつらの権限を取り上げると面倒臭いから
楽市と言って一時凌ぎで混乱収拾させようとやったのが楽市楽座
そういう意味合いでやってる奴もいるのに未だに楽市楽座に幻想抱いてる人がいるんだなw
六角氏云々や誰のオリジナルの政策とか未だに言ってるのは頓珍漢すぎるw そもそも信玄の時代は神格化されてるから何も言われてないが、軍鑑にある西上作戦前に臨時税を課して7000両集めたというのが事実なら、武田領では1年に2度も大掛かりな搾取が行われていたことになる。しかも正規の年貢を徴収したのとほぼ変わらない時期に
これって数年後にじわじわ影響出てくる可能性ないの?
年貢の徴収がだいたい旧暦7月くらい
西上作戦は開始が10月だから、その1月前に徴収したとして9月
たった2か月、しかも冬が迫る時期に臨時税って、何徴収したんだろ
種籾とかも徴収したのかな
とにかく武田領は地獄だったとしか思えない 天正2年武田勝頼は3万の軍勢を率いて美濃国に侵攻する。
苗木城、串原城などの遠山十八子城は次々に陥落した。
信長は織田信忠に同等の3万の軍勢を与え鶴岡山へ遣わし布陣したが、勝頼といざ対峙すると武田の兵を前に信忠軍は怖気づく。
武田軍の山県昌景にちょいと退路を脅かされただけで後退し始め、あっけなく明知城まで落城した。
「信長は今見あてらや飯狭間 城を明知と告げの串原」
信長は城を明渡さないと浅はかに言ったが、つげぐしのようであると攻略した5つの城名を織り込んだ唄である。
武田兵はあまりの織田の弱さに笑いに笑ったと伝わる。
兵力が同じなら、織田軍は圧倒的に雑魚である。
結局、武田は17つの織田の城砦をサクッサクッと落とした。
弱すぎる(笑) >>86
織田兵が弱いのは事実
しかし、いくら弱いからってそれを甘く見て
長篠で少ない兵力を2つに分けて背後に敵を残して
進軍するという牟田口なみの決断をした武田もまた
頭が弱すぎるね
いくら織田が弱いからってなめすぎなんだよ >>86
というか、あんたみたいに勝頼も、そうやって「織田は弱い」と認識してしまって
結果的に翌年に世界史でも類を見ない大敗を喫したんだろうね
やはり、過信や盲信はホントに良くないね 税が高すぎると短期はともかく長期だと税収減るからなー 織田ガーやってみても結局織田より早く高転びして滅ぼされてるし織田より収奪して領民に離反されてるし織田に会戦で大敗北してるからなぁ
もはや精神的勝利しか残ってない 「織田が革新的先進的なんて嘘ニダ!」
って言っても武田がそうだったわけではないし
というか他国の先進的な施策を自分の所でパクってそれなりに運用できてるならそれは先進的で合ってるんじゃねえの?
別に導入の早さ競ってるわけでもあるまいし 別に先進的だから勝てるってわけじゃねーしな
それなら信長より前にその先進的なことを行っていた大名が天下を取ってないとおかしいし >>85
西上作戦時には農民も戦時の賦役も担うし戦費を臨時税で賄うとしたら商工業の座とか、
関東から上方を目指し武田領国を通過する御用商人に対する通行税の一時的な引上げとかじゃね。 >>91
そもそも信長が革新的というより、武田より遅れてるって学者の池上裕子が自著で言ってるでしょ >>93
そんなことしたら商人に離反される
マジでそんなことやったのかな? いくら完全に劣勢だったからってあそこまで無抵抗に国を挙げて降伏してくるとか勝頼の統治が余程酷かったんでしょ >>96
信長が安倍晋三とか言ってる基地外だからな
あんなのが今の代表的な日本史学者なんだから終わってる システムそのものは先進的だろ、
民衆にとっては最悪かもしれないけど。 代表的なのか
呉座さんの新書とかでボロカス言われてたけど 呉座もたいがいだがやらかしてるのは研究以外の面だからな
池上は研究でやらかしてる
そんな池上にもファンがいるようだから驚くわ >>101
というかあいつ本当に学者なの?
信長以外のも読んだけど、まるで中学生レベルの文書読んでるみたいだった 勝頼も駿府を焼き討ちされて商人が逃げてしまったから呼び戻すのに必死だったらしい
とはいえそこは穴山氏の支配下だからあれこれ言い難かったはず。信君が家康の使者と会っていても咎められないくらい信君には気を遣ってたわけで じゃやっぱ信長が家臣に討たれたーとか叩けないな
穴山に裏切られて詰んでるんだから >>81
こういうのが中身の無いレスという言う
やってる事は起源の早さで良し悪しを主張する半島人と同じ(笑) >>104
軍鑑にある穴山の息子と勝頼の娘を婚約させていたのに
信豊が介入してその婚約を破棄させて、信豊の息子と婚約させたって話
あれ事実なんだろうか。事実だとしたら勝頼って少し頭おかしいよな どこの大名も革新的なことをしているよな。
商業政策は特にな。
つまり、織田が拡大したのはそんな経済的な政策ではない。
朝廷や武家の権威の回復と拡大に貢献したためだ。
織田が武家の棟梁を追い出した時に織田家は大義を失いほぼ詰んだが、諏訪と織田の混血児が産まれていたので織田はまだ武運の神に加護されはいたようだ。
唯一織田が生き残ることができるなら、足利の代わりに甲斐源氏を御輿にすることだったな。 >>107
よそがしたよそがしたとよく言うが、その資料はどこにあるの?
出してみてよ おいおい
スピリチュアルな話になっちゃったぞ
誰か病院すすめろよ どこの大名もしてる
この論調やばくない逆に
毛利長曾我部大内三好などがやってたとかいう資料はあるの? 本日のNG推奨。
ID:Hpcg659V(昨日のID:b1EHOfgm)
ID:6g90Swjx 信長はスピチュアルな要素もある。
信長はわりと妖怪を信じていたし、刀好きで知られる信長の愛刀の中にも、鬼を斬ったとされるものがある。
北条泰時を病魔から救ったもので、足利斯波を経て信長へ。
その後、豊臣徳川に大切に扱われ天皇へ。 勝ったから先進的だったとか政策が優れていたとか思いたくなるけど、織田の強さのベースは猛烈パワハラ組織と尾張美濃の豊かさで十分
猛烈パワハラ組織というと聞こえが悪いけどオープンハウスみたいなもん
人をいかに限界まで効率よく働かせられるかはトップの課題である 織田の強さのベースは信長個人の強さだと思う
晩年に至るまで自ら率先して出張ってる
外見的にそういうイメージねえけど要するに猛将とか勇将の類 信長の商業政策は革新的でもないしオリジナルでもない
大名なら大抵のことはやってる
信長が強いて独自にやったとしたら金融政策だな
莫大に膨れあがっていく軍事費と借金返済資金を調達するために信長はある禁じ手を使った
しかも今ではありえないことで橋渡りのような政策だった
たまたま上手くはいったがバブルのようなもので、その泡がはじけることはもはや必然的
織田の覇権は虚像であり泡がはじけるまてひたすらに突き進んでいくしかなかった >>106
おそらくだけど真実じゃないと思う。
「野史」だと天正十年二月の事とされてるらしいけど武田徳川織田の史料では天正九年には信君は家康に内通してたとしてる。後、天正八年には勝頼が信君に「徳川からの使者が度々来ていると聞いたけど、本当なら何を持ちかけて来たのか教えてほしい」と書状を出してるから多分天正八年時には内通してたんじゃないかな。
婚姻云々にもバリエーションがあって、長坂らが反対して信豊に嫁がせたので信君と信君夫人が激怒して裏切りを決意した、なんてのもあるんだとか。 足利幕府や各地の戦国大名は経済政策のために、たびたび 撰銭令を出して悪銭の使用を禁じていた(金融政策が発達した現在でも常識)
しかし信長は度重なる戦の資金繰りのためにやむなく悪銭の使用を認めてまで貨幣の流通量を増やした。
商取引の現場では特に質が悪い悪銭「ビタ」が貨幣の最小単位になった。
「ビタ一文出さない」の「ビタ」である。
信長は配下の兵の宿泊費を「ビタ五文」と定めた織田軍令が残っている。 まぁ他大名は重臣の権限強すぎて大名がやりたくても反対されたら実行できないとかあるからな
重臣に嫌われたら子供擁立してクーデターされるし権力与えすぎると木沢長政、松永、井上元兼、赤松重臣、畠山重臣、揚北衆みたいな大名蔑ろにしてふてくされて非協力的で主家の預かりしないところで好き勝手し制御できない
信長はほぼ1からやり直しできたのがでかい
他大名だと親父の代から権力ありすぎる重臣が幅きかせてるので好きにできない 信長が悪銭の流通を認めて市場にさまざまな貨幣が混在するようになると、人びとは金など良銭を貯め、悪銭を使ってしまおうとした。
人々はビタを使おうと美濃などの織田領内に集まり、信長のおひざ元の美濃に悪銭が大量に大量に集まってしまった。
悪銭ばかりでは他国との取引の支払いは出来ない。
悪貨が良貨を駆逐する「グレシャムの法則」と呼ばれる問題である。
こうなっては他国に集まる良貨を求めて強奪するしかない。
また、信長は悪銭の納税を許さないことにし石高による米の納税に切り替えていった。
これが結果的に減税となったが、別に狙ってやったわけではなくたまたまだった。 ワッチョイ導入反対してたのはマッチポンプバレちゃうからか ビタの使用認めたのも信長のオリジナルでも無ければ初見でもないという。
浦長瀬氏によると甲斐でのインフレから甲斐に悪銭が大量に貯まったという見解だな。 「戦国の覇者を決めるのは経済力だ」ということにどこの大名も気づいていた。逆にいえばみんなやってるから、それが覇者を決める要素ではない。
領国内に黒川金山などの金山を持っていた信玄は、甲州金を通貨として流通させた。4 匁もんめを1両とし、1両を4文、1文を4朱、1朱を4糸目とする四進法の貨幣制度を定めた。今も使う「金に糸目はつけない」という言葉は、信玄の貨幣制度に由来する。
武田は金を利用し公共事業をすることで経済発展させた。
しかし、織田の悪銭流通容認は武田を間接的に苦しめることになる。
自国の良銭の価値が相対的に上がり、領民は良銭を溜め込むことを始めた。
信玄は悪銭の納税は認めなかったため、増税となった。 なんか信玄持ち上げ出したけどさぁ
武田の武運が尽きたのこそ諏訪の血筋を敬って勝頼に後継がせる準備してなかった信玄のせいだよね 武田領内は良銭の価格が上昇し、貨幣の流通は減り、領内は深刻なデフレに陥っていた
これが武田衰退の原因だ。
言うなれば、織田とよしみを交わしたことが武田滅亡に繋がったのかもしれない。
下賤な家系と血縁関係にならずに早いうちに滅ぼしておくべきだったな。
それが信玄の愚かなところだ。 甲斐がインフレしてんのは信長台頭以前からだから信長関係ない。
ちなみに畿内のインフレも信長以前からの話なんだよな
池上裕子は信長のせいにしてたけど。 >>128
そもそも諏訪宗家をつぶしたのは信玄だろ >>131
池上「信長のやり方では天下統一はできない」
「秀吉は最初はそうしたが、相手を取り込むやり方をやってわずか8年で統一した天才! キリッ」 信玄は甲州金を公共事業以外の経済政策に組み込まず、手柄のあった家臣への恩賞や敵の調略に使うことが多かった。
だから、産出量はさほど気にしなくていい。
国を越えた友好国織田領内での良銭流通を期待されたのに、信玄はそれをやらなかった。
領国内ですら流通せず、もっぱら蓄財に使われていわゆる「 億人」を生んだだけ。
甲州金は今の仮想通貨に似ている。 信長の悪銭利用か禁じ手で、希少な金は蓄財に使われるのが普通だ
武田は織田バブルの餌食になった
織田バブルがはじけるまでもう少しだったのに、勝頼は惜しかったな 勝頼がもう少し耐えてたら領民死に絶えるぞ
少なくとも織田家ではそんなことはなかった
それが全てだよ諦めな 織田の混血児を討った後、織田の治世は酷いものだと伝わる
織田の高転びがあと少し遅かったら一揆が多発し、武力で村々は根切りにされていただろう
危なかったな >>132
潰してないよ
信玄は諏訪惣領家を存続させているし勝頼は惣領家を継いでいない 「荒らしに構う者も荒らし」。
この原則を忘れずに。 信長は、銅銭と金や銀の交換レートを定めることで、金や銀に通貨価値を付与(金1両=銀7.5両=銭1.5貫)した。
さらに悪銭もそのレートに加える。
それほど台所事情は厳しかった。
商人は撰銭を禁じた諸大名から良貨を大量に仕入れ、これを融解して悪貨を作って、信長の統治地域に出これを使えば、莫大な利益が出た。悪銭ばかり信長統治地域に集まり大量にばら撒かれた。 他国では無価値で利用できないとされた質の悪い銭が、岐阜では信長の命令によって通用した。
信長が法で定めたことで悪銭だからといって、岐阜商人は悪銭での売買を拒否できなかったのである。
そうなると悪銭を持った人々がほうぼうから岐阜に集まってきて、それで商品を買い漁った。
織田領内は深刻な物不足が続いていた。
信長は家臣に対して土地の支配権を与えるから、お前の才覚で経営し兵や物資を集めろって言う丸投げになっていた。
物不足は信長の悪銭政策のせいなのは明らかだったが、家臣は当然不満も生まれた。 天正8年にいたっては市場での信長の命令はついに無視され決済拒否される悪銭は使用されなくなりはじめた。家臣は決済に困るようになる。
織田バブルの崩壊の兆しである。
高転びは目前に迫っていた。
事実、畿内では毛利の領土内通貨である石見銀の流通が活発化しだしたのだ。
いよいよ武田領内の良銭が信長による経済制裁を打ち破る時がきたのである。 そしてついに、織田バブル崩壊は起きた。
畿内から関東東国での銭での決済拒否が続出することになる。
畿内の外では良銭しか受け付けてくれない。
良銭の強奪が急務となるが、その最中に織田親子は死んだ。
この混乱がおさまるのは豊臣秀吉が撰銭令を撤廃し、金貨、銀貨、銅銭を鋳造し始めた後である。 秀吉は本能寺の前に生野銀山の開発に成功していたため、織田のバブル崩壊に巻き込まれなかった
織田家や柴田勢とは違って支払決済に問題のない秀吉
秀吉に対し堺の商人たちは秀吉の石高を遥かに超える莫大な軍資金を援助した
まさに銀の力で織田家を乗っ取ったのである 武田の場合、なまじ金という圧倒的な資源を有していたせいで戦略が苦しくなったって側面があるのがね。金を精製する過程で同量の鉛が必要になるから武田にとっては鉛と金は同価値だった。このせいで武田は銃弾に鉛を使えなかった。
対して織田・徳川は市場経済で資力をパンプアップさせたから鉛をそのまま銃弾に使う事も出来た。あと信長が他の武将に頼んで(命令して)弾薬を供出させたりとか。
割とこれで武田は鉄砲戦術に対応出来なくなってしまった感がある。リスキーな選択を強いられ続けた。 勝頼自身はそれなり以上に商業に力入れてたみたいだけどそれでなんとかなるなら苦労はしないわな 毛利の銀が市場に出回って織田の悪銭が使用不可になってきたので、織田は詰んだ
天正8年からは織田バブルの崩壊がはじまる
織田の最後の足掻きが始動 漫画のセンゴクにも似た話があったから、あっちからかもしれない 天正9年7月5日付の石見銀山納所高注文(『毛利家文書』)によると、大森銀山の納所高は一年分合わせて3万3072貫、銀子に換算すると3652枚であった。
1万貫は米に換算すれば100万石を下らない収入となる。
毛利氏が流浪の足利義昭を奉じれるほどの勢力を誇った要因に、この大森銀山に支えられた経済力があった。
銀の多くは朝廷や貴族に献上用としていたが天正8年頃より畿内で良銭として使われるようになる。 >>149 >>150
別にそんな事ないでしょ。軍鑑とか読んでも、信玄時代から武田氏はそれなりに商業的に豊かだったように思うし、領国に有力商人とかも普通にいたように思うけど。
勝頼が長篠で敗北して、御館で北条を敵にして数年間3勢力を敵にして戦争した事で、領国が疲弊するまで、普通に武田は勢力として相応に活動してるように思うけど、なんで君はそんな事を書いてるのかな。 >>77
何々?また菅沼認定してるの、君。
勝頼スレ37とかでも、菅沼認定厨さんがIDコロコロや複数回線とかをしていると思しき事とかが、
指摘されてたように思うけど、それでそんな事を君が書いてもしょうがないように思うけど。
同じく勝頼スレ37とかでも、菅沼認定厨さんが菅沼認定してる人々の特徴が違ってる事とかを指摘されて、
その矛盾にろくに答えられてないと思われるのが菅沼認定厨さんだと思うけど、これで何をどうやって菅沼認定をしようというのか、
答えて欲しいと思うかな。 >>156
武田領が豊かだとさ
冗談でもこいつはすげえや しかも商業的に豊かだって
つまり金山とかは関係ないんだな
甲信が商業的に豊かなんて冗談でもすげえぞ >>158 >>159
なんか変な風に悦に浸ってるように思えるけど、もともと>>149 >>150の人の話題の元は>>85の人が書いている軍鑑の話でしょ?
だったら、軍鑑の話で言うなら、信玄時代の甲斐が豊かで、
甲府で皮はぎの人が金持ってたので武士っぽい恰好して、武士と一緒に酒を飲んだ事で問題になって、裁判になってる話があったと思うから、
軍鑑の話で言うなら、信玄時代の甲府はそれなりに商業的に豊か、って事になるんじゃないの、と思うけど。 >>160
何でこれが豊かなことの根拠になるんだ……
頭のおかしい奴の考えはよくわからん >>161
軍鑑の話で言うなら、皮はぎの人でさえ金持ってて武士のような身なりができるのは、国が豊かな事が理由、みたいにその裁判をした奉行が言ってたと思うし、
実際に皮はぎの人でさえ、武士のような恰好ができるなら、それなりの金を皮はぎの人が商業活動で得てた、という風にしか思えないけど、
逆になんで君はそんな風に書いているのか、答えて欲しいと思うかな。 皮はぎって何のことかと思ったら、まさか罪人処刑後に死体を始末していた奴らのことか?
それとお前やけに「思う」「思う」と連発してるな
お前が思うなんかどうでもいい、学者の意見の1つでも出せよ >>163
動物の死体から皮をはいでた人達の事だと思う。
そんな事言ったら、君自体がそんな事してないだろうに。
こっちは軍鑑にある話を基にして話をしてるだけで、
君は君に聞かれてる事に答えて欲しいと思うかな。 >>163
そもそも君、400年以上前の見てきたわけでもない話を、確定的に断言できる根拠ってなんかあるの?
400年以上の前の、資料とかを基にして話をするなら、思う、という風になるのも自然なように思うけど。 >>163
そろそろ僕はひとまず切り上げるから、聞かれてる事に答えておいて欲しいと思うかな。 自分が言い出しといて
「400年以上前の見てきたわけでもない話を、確定的に断言できる根拠ってなんかあるの」かよ
話にならんな 悪銭は織田領内に集まり織田領内は慢性的な物不足にはなるが一時的に好景気
金銀良銭を持ってる奴は億り人になるので茶器など銘品収集が流行りだす
織田周辺国は相対的に金銀良銭の価値が高騰し貯蓄にまわる経済活動が停滞気味で不況になる
悪銭での納税を認めないので相対的に税負担が大きくなり生活が苦しい 天正8年頃から毛利の石見銀山や秀吉の生野銀山の大量の銀が市場に回り出すと市場は信長の命令の反して畿悪銭の支払い拒否がはじまる
信長が設定した為替固定レートの崩壊である
織田家の高転びだ
それを防ぐため織田は周辺国から良貨の強奪が急務となる
朝廷が求める天下静謐や惣無事令などする余裕はない
周辺国を武力で滅ぼして奪うしかない 毛利にそんな余裕あるなら、天正10年に輝元が「金ないどうしよ」なんて書状穂井田に出さんだろ
妄想もいい加減にしろ そもそも天正8年の時点でなぜ生野銀山が秀吉の物になってる
信長の管轄下だろ 信長を怒らせたから武田が滅びた
これは妄想ではないゾ!!😡 家臣の秀吉が管理してたから主人信長のものという考え方に過ぎない
天正 5年より同 10年までの代官は生熊左兵衛
生熊左兵衛は信長ではなく秀吉の指示を細く受けている記録がある
(秀吉が伊藤吉次という自分の出納担当の家来に宛てた指示書の中に登場する)
秀吉の指導の結果、生熊は金銀の運用投資にすぐれた実績をあげるようになる
秀吉だけでなく、その家臣、それに堺商人までが自分で利殖するより生熊に預けた方が高利回りを期待できるようになった 歴史の知識無い上に経済の知識も無いから書いていておかしいと思わないんだろうな >>159
まぁ江戸時代にはそれなりに豊かになったから…
でもそれって甲斐を頂戴した浅野長政の功績っぽいんだよな
上質な木材が採れるのは旨味だった訳だけどそれって川下や消費地との友好関係が無いとお話にならんし 長文菅沼の驚愕発言
軍鑑に甲斐は豊かそうに書いてるから
??????? 秀吉から信孝への書状の一節に
如御存知、上様御存生之御時も 〜 西国之先懸仕倹今播州致在陣候処ニ 〜 上様重々預御褒美御感状、共上但州金山、御茶湯道具以下迄取捕手皮下、御茶湯御政道我等被免置〜
とある。
秀吉の手で但馬一国が信長の勢力下に帰服した際、 天正 8年 頃に金山つまり生野銀山が茶器とともに秀吉の所領として与えられているのは史料により紛れもなく事実。 武田領が豊か???
金良銭を溜め込むだけで豊かじゃない
織田の固定レート崩壊で経済封鎖は解けてきたがな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった
まあ織田の最後の足掻きに巻き込まれてはどうしようもないが 兵士はきちんとコメは食えてたの?武田軍って
新田次郎の小説だとコメ一切食ってなくて越後兵が全員米を食べてるのを知って
信玄一同驚くシーンがあったけどあれは流石にフィクションとしても >>185
逆に米ではなくて何を食ってたんでしょうかね?
甲斐だと海産物は兵にいき渡るのは無理だから
イナゴ? 戦国時代の兵たちは必ずしも嫌々駆り出されてたわけではなく、
その日暮らしの民はむしろ喜んで駆り出されてたと考える歴史家もいるけど、
まず最低限、兵の目当ては飯。
武田の飯は元々貧弱だろうけど、長篠以降はその飯も期待できず、
乱捕り目当て? >>167
またそうやって君は>>162とか>>164とかで
君に聞かれてる事に必死に答えないようにしてるように思うけど、
そういう事しなくていいと思うんだよね。
そんな事言うなら、そもそも、400年以上前の事を確定的に断定できる論拠とやらを
提示して欲しいと思うから、それを答えて欲しいと思うかな。 >>189
さすがに、長篠以降も武田はあちこちに遠征してるように思うから、
兵糧はそれなりに支給されてるんじゃないの。
略奪だけで軍が維持できるとも思えないんだけど。
>>173
正確には、勝頼が長篠の戦いの時にわざわざ設楽にまで移動して、
大軍で陣地を守ってる織田徳川勢と決戦して敗北して東の優位がなくなった事、
その後で勝頼が御館で北条を敵にして、織田徳川に加えて北条まで敵にして、
数年間戦って領国が疲弊した事、が理由なような。 >>181 >>182
また変な菅沼認定しようとしてるように思うけどさ、>>157にもあるような感じで、
君こと菅沼認定厨さんは勝頼スレ37とかでも指摘されてきたように思うけど、
これまでに複数の特徴の違う人々を菅沼認定して、その矛盾についてろくに答えられてないように思われるから、
まずはそれについて答えて欲しいを思うかな。 >>181 >>182 >>180
>>160にも似た事書いたように、元々この話題は>>85の人が軍鑑の話を基にして、
>武田領は地獄だったとしか思えない
とか書いている事が元だと思うので、それなら、同じ軍鑑において、
武田領土が豊かだったように書いてあると思しき逸話を基にして、信玄時代の甲斐がそれなりに豊かだった、と考慮するのは、
それほど論理として不可解な話でもないように思うけど。
史実として、信玄時代の甲斐は他国に攻め込まれて戦場になっている事や略奪を受けている事がまずなかったように思うし、
そういった事がなく安定して商業活動や生産活動に従事できたなら、
戦乱の渦中にあった国よりは、それなりに豊かになっていてもおかしくないと思うけど。
信玄が他国を攻めて勝利して、その戦利品とかで甲斐が潤う事もあったと思うし、
信玄時代の武田はそこまで敗北数も多くないと思う。
なので、国が略奪とか受けない事により安定して商業や生産活動に従事できるメリット、
信玄が他国を攻めて勝利して得た戦利品とかの利益、
信玄時代の武田がそこまで敗北していない事によるマイナスの(総合的な)少なさ、
などを総合すれば、信玄時代の甲斐がそれなりに豊かだったとしてもおかしくないと思うけど。 信長については、銀について関心は薄く米の計量に関する統一規格・物流・石高制の原型で稼いだ
しかし、銀こそが天下の覇者を決める
石見銀山と生野銀山の「銀」が大きく畿内の通貨や流通、その取引物や量を変え、やがて世界も変えていった
勝頼はあと少し耐えていたら
惜しかったな 本日のNG推奨ID:cOxnmb/R
連鎖設定で更にスッキリ。 軍鑑って、山本勘助という本当は軍師でも何でもない男をモデルに、
架空の軍師を作り上げて主人公にした小説だろ?
小説をもとに語るのに何の意味があるの? >>196
少なくとも、史実的には山本勘助は信玄の意向を受けて使者を務め、
折衝を行うくらいには信玄の信頼を受け、その考えとかを知る立場にいた武将だと思うし、なんのかんのと軍鑑は香坂の口述を基にしたとされているように、
史実的に参考になると思われる所もいくつもあると思うから、一概にそういうものでもないと思うけど。
2次資料で自身の勢力側に都合よく書いたりするのは、信長公記でも志賀の陣とかでやってるように思うし、
面白いように話をつけたりするのも、信長公記の首巻とかの逸話とかでやってるように思うし、
2次資料はそういった事を考慮して使うように思うけど。 ついに圧倒的な軍事力を有した信長
後は朝廷の権威を利用し外交で天下静謐はできる
しかし信長は出来なかった
畿内に集中した悪銭が遂にデフォルトしたから
原因は金銀良銭銘品の高騰したところに銀の畿内流入で悪銭が信長の命令に反して市場で使われなくなった
織田の高転びが遂に始まった
信長には原因がわからないが、とにかく周辺国から良銭の強奪が急務となる
特に金を蓄財している甲信は格好の獲物となった
攻める大義はない
周辺国を滅ぼして全てを奪うだけ
それが終れば家臣の富を強奪する
粛正だ 秀吉は銀山をゲットした後、悪銭を家臣や堺商人からかき集め大量の銀に両替し高利回りで運用していた
そこに銀の高騰も加わり秀吉は莫大な富を得る
その富で高松城水攻めを成功させ、中国大返しの際に兵の逃亡離反を防ぎ山崎の戦いに勝利した
富の多くを放出したのにそれでも余裕が残ったのも、その後に堺商人から莫大な軍事費の援助があったのも、織田一派ではなく多くの武将が秀吉に味方したのも、秀吉が悪銭を放出し銀をおさえていたから
全ては金銀
勝頼は惜しかったな いくら金山銀山押さえても流通させられなきゃ意味ないやろ 織田家を転覆させるなら武田毛利が滅ぶ前
特に世界有数の石見銀山を織田がゲットしたら悪銭デフォルトの混乱はおさまっただろう
明智の決断が少し遅かったな
やるなら武田を攻め始めたタイミングだった
勝頼は惜しかったな >>200
悪銭デフォルトで市場は信長の命令に反し金銀良銭を持つ者との取引をする
市場が織田周辺国に対する経済封鎖を解く
勝頼は惜しかった そう考えると木曾氏の負担って無視出来んよな。
収入が木材なのに織田と戦争してるから簡単に売れない。なのに常に織田からプレッシャーとかやってられんわ。
岩村城が包囲された時に勝頼からの援助要請を資金不足を理由に拒否したって話だけどやっぱ周りからもカネ無さそうって思われてたんだろうか。 ジャベリンで次々とヘリや戦車を落とされる露軍はさながら
長篠の戦いで自決覚悟で突っ込んだ武田軍みたいなんだろうな >>203
ああ、そう言う意味か。勝頼にも財政建て直しの余地が生まれたかもって意味ね >>174
それ言うなら尾張人は土蜘蛛と呼ばれてた。
ツチグモって虫ですか? 武田、織田どっちかが優越してたらお前らの人生が報われるのか? 優越どうこう言うなら武田は織田に滅ぼされたという結果がある どっちもダメじゃないかw
どっちも同じ天正10年で終わり ツチグモと東夷。
どっちも京都人の差別用語。
アメリカの黒人がアフリカの黒人よりマシだと
言ってるようなもの。
京都人によって、愛知県人と山梨県人が争わされているようなもん。
もっというと朝廷はチョン系だから、
朝鮮人によって、愛知県人と山梨県人が争わされてるようなもん。 >>212
南九州の田舎者がヤマト吉野山中の田舎者を土蜘蛛と呼んだのが初出。
なお、その南九州の田舎者はヤマトの平野部の女をナンパしようとして
「顔のイレズミが気持ち悪いんだよ田舎者。」と痛罵された。 そもそも、最終的には織田も武田も敗北してるよね
織田の挫折を武田で例えると、義信事件が成功して信玄が死んで黒幕の穴山が義信を傀儡にして
武田家を乗っとる様なもん ツチグモのほうが嫌だな。
虫だし。害虫食べてくれるからいいけど・・・ 織田が嫌いだからって長文野郎みたいな低能が一気に増えてるな
土蜘蛛とか高転びとかまあもう何をかいわんやだ 織田は複数の大名が子爵になったけど武田は消えたよね 清和源氏の威光は消えない
高貴な血に織田如きの血を混ぜるから…威光が消えた 武田の母親の血筋とか全く知らないんだろうなこういう無知な奴は
信玄勝頼の時代の前とか 武田は山間地なんだから、人を集める政策をするべきだった
諏訪大社に善光寺に甲斐善光寺とかあったんだから、それで人集めできなかったのかな 山間地だからこそ早いうちに平野に出る必要があった。
信玄時代は中美濃、勝頼時代は掛川城を落とし遠江に。 >>184
悪銭の類いを鉄砲玉にしてたのに無知で馬鹿すぎる 信長と極めて友好的な関係だったんだから大人しく駿河を取ったところで内政にでも専念しときゃよかったんじゃないの 実際駿府に行きたかったんだろうけど、
織田徳川との最前線で北条に裏切られたら詰むっていう地形に二の足を踏んだんだろう。 早くワッチョイ導入されないかなぁ
菅沼は速攻で永久NG
菅沼第三者モードと高転び君と武田優位君のワッチョイもチェックしてぇな〜 長篠であれだけ人材を失ったのがやはり痛すぎるよな
戦死者見てると一線級、二線級だけでなく、その下の奴らも討ち死にしとる
普通、下の奴らが戦って上の奴らは逃げるはずなんだが、なぜ武田四天王クラスまで3人も討ち死にしとるのかなあ
馬場がしんがりしたとか信じられん
越前の時の織田の秀吉と違って馬場は完全に武田の重鎮なのに 先祖は神官出身
斯波の家臣のさらに分家だろ
成り上がりは運が尽きればあっという間に崩壊
どんなに石高や軍事力を持っても分をわきまえないとこうなるという教訓よ 分をわきまえてないのは武田だろ
無位無官で朝廷に対して挨拶もしない野蛮人が
三条さんとの繋がりが無くなった後、武田は朝廷と独自のパイプ持ってたのか?
徳川は織田を介して、上杉も近衛とかと繋がり持ってた
だが、武田は特に三条さん以外の公家と仲良くしてたとか話を聞かんな
三条さんが1551年に死んで断絶してるのに、随分朝廷とのつながり無視してるよな
幕府を介してたらいいとでも思ってたのか 武田を貶めても織田が賤しい血筋であることは変わらない
分をわきまえないから結局は史実のようになる 身分が高い武家ではないが賎しいと言える程の家柄かね?一応、足利一門筆頭格と言って差し支えない斯波の重臣だろ? ID:/Dg3T0sEにそんなことわからないんだろ
こいつ信玄勝頼の時代しか知識ないみたいだし
しかもゲームや小説系の >>232
馬場は太田牛一に戦いぶりを絶賛されてたな。どんな戦いだったのやら もっと卑しい豊臣、徳川に掻っ攫われたの棚に上げてて笑う じゃあ武田信満が足利持氏に反乱して滅ぼされたのも、卑しい武田が高貴な足利に逆らった報いとでもいいたいのか? 武田信義の一族が源頼朝にことごとく粛清されたのも、卑しい武田が高貴な嫡家の源氏に逆らったからか? そういや足利持氏が武田信満滅ぼした時も信満は天目山で自害してたな
東か南から侵攻した足利軍になぜ東に逃げたんだ信満は?
西に逃げたら良かったのに 将軍候補の信長を怒らせたから武田が滅びた
これは妄想ではないゾ!!😡 そもそもあれだけ税金と賦役かけたら領民は離反するだろ
侵略軍が来てるのによりによって侵略軍に協力するなんてどれだけひどいことやってたんだ勝頼は
公記にある「罪人なら大金払ったら許したりしてた」もあながち間違いじゃないのかね? うーん
戦続きは畠山義就に北条も上杉も毛利も島津もしてるから武田だけとやかくいうのはどうだろ
長篠以降明らかに疲弊したの見るに働き盛りを慌てて徴兵してしまったためによる国力低下だと思うけど 武田領は山が多く往来が不自由なのでそもそも輸送コストが高い。なのに信濃と駿河に戦線を持ってるから軍勢を南北に長く移動する必要があった為戦わずして軍事費が嵩み続ける。更に鉛を弾丸に使えないので鉄砲の威力が減少、攻防面で弱点を抱えてしまった。
収入源では金山が枯渇、西(信長)を敵に回してるので商業面も伸びにくいという窮地に陥る。後はもう増税するしかない訳でどうしようもない。 そもそも鉛が無いからな
灰吹法にも必要だから織田は豊富に輸入してたが武田は鉄・銅で鉄砲の玉を作ってた
慢性的な鉛不足 織田は悪銭デフォルトによる金融破綻で高転び
秀吉は保有銀山によるロンダリングで莫大な富を得る たかころび貨幣価値くんは
信忠スレの秀吉謀反のひとと同一人物だね そいつ秀吉が、信長やったことを引き継いで悪銭対策してたの知らない無知なんだろ
楽市楽座は市場を自由に開き、誰々のオリジナルの政策(キリッ ←プッ(笑)
越前とかでも悪銭レートをなぜ決められたかの経緯も知らない無知がドヤ顔してるだけ(笑) >>201,203
>勝頼は惜しかった
ぼくが かんがえた さいきょうの でふぉると なら勝頼は勝てたんだよ!ってこと?w
脳内妄想IFくんの新しい妄想www お江から将軍家に織田の血が混ざってるけど徳川普通に続いてるから武田が大したことなかっただけじゃね 母親が信長の姪ってだけなら家光もそうじゃん
単純に武田が大したことなかっただけじゃね 武田が滅んだ理由は朝敵認定されたのと
浅間山の噴火で身分の貴賤問わず領民の支持を失ったからだろ 織田は土台から崩壊を始めていた
勝頼は惜しかったな
あと少しだった そのもう少しを耐えたとして
領民の負担更に増やして徳川に反攻するのか? そもそも織田との混血が悪いなら信勝が当主なっちゃってる時点であと少し耐えようがどうにもならなくね
せめて一貫してくれ 強いて言うなら織田から嫁をもらうと、ろくなことがないよな >>262
君は人と会話したことあるか、家族以外で? 信長の劇薬とも禁じ手とも言われる悪銭政策
一時的な経済的繁栄をもたらすが貨幣制度崩壊もたらすのは避けられない
織田の高転びのはじまりである
経済破局の前には家臣の離反が起きる
悪銭デフォルトの影響と深刻さに気づくのは軍事費の調達と支払い現場の人間だからだ
勝頼は惜しかった
あと少しだったな さほど経済的混乱はなかったようにみえる
なぜか
秀吉によって石見銀山と生野銀山の莫大な量の銀が市場に供給されたからである
銀山を保有していた秀吉はロンダリングなどの金融政策で石高を遥かに越える莫大な富を得た
それも僅か数年でだ
その富は織田一派を制し10万の兵を長期間動かし巨城を複数建築してもなお余りあるものとなった
勝頼はあと少しだった
惜しかったな そのあと少しを耐えたとして
領民の負担更に増やして徳川に反攻するのか? 耐えるといっても木曽の離反は武田本家の自業自得
離反したら討伐軍は出さないといけないし
どうやって木曽を何とかするのか 木曾に資金を投入する
信濃戦線に兵を投入する
この二つしかないけどどっちとも難しいとなるとなぁ
岩殿城には兵隊送ってたらしいし信濃にも送っておけば少しは 人質とってたし勝頼に過失はない
裏切った奴が悪い
信長は明智から人質はとっていないし色々抜けてる
信長に重過失
信長が悪い 織田家は尾張だから金持ち?
信長は金持ちスタートで有利?
あなた、妄想癖のバカですね
若き日の信長の『信長公記』はこう記している
「御不弁限りなし」
不弁というのは、貧乏、という意味だ
どうやって家臣を養ったか
まず信長は隣接するものをなんぐせつけて敵に仕立てあげる
謀叛を企ててるとかなんでもいい
それを殲滅根切りにして全てを強奪し、それを近習800人に分け与えるという単純で野蛮な戦略をはじめた
つまり隣人から奪って家族(仲間)に分けるだけw
信長は天下統一の夢を抱いてもないし革新的でもない
深く考えてないウツケそのものである 信長が尾張を治めようとしてたころ領内は銭決済の取引が停滞し、商業活動が混乱して津島や熱田からの実入りが激減していた
さらに公式の貿易船が、16世紀に入ると激減
永楽通宝の中国銭の輸入量も当然ながら単純計算で3分の1程度に減少していた
領内は深刻な通貨不足であった
金集めが急務であった 奪って根切りにして分ける
悪銭だろうが永楽通宝とみなして使えと奨励
甲斐源氏には理解出来ないし真似もしない
こんな保守ですらない野蛮な政策はね 「不入」とされた地子、市場、寺社領への課税を課せばよかったかもしれんね
信長みたく手当たり次第に やり方云々言おうが「結局その織田に負けて滅ぼされてるじゃん」で終わる話 あと少し耐えてたら?
領民国人への負担でそのあと少しを耐える余力もなかったんだから耐えられないよ あと少し耐えてたら、甲州征伐しながら信長は悲願の関東見物をするつもりだった
明智をお供に連れて 元々信長は武田と毛利は自分でぶっ殺す気満々だったからね
信玄が死んだ時も俺が直接ぶっ殺してやろうと思ってたのにと手紙に残してるぐらい >>280
それなのに息子が先走ってw
相当頭にきただろうね
信長のことだから時期をみて家督を召し上げただろうね 「不入」とされた地子、市場、寺社領への課税したのが今川とか武田なんだよなー
で信長はそういうことには消極的だったので某学者に遅れていると書かれる。 まあ濃尾、近江、畿内の宗教勢力なんかは自前で傭兵を雇い相応の戦力を有していたからな。 織田軍「先手之者共」を早急に甲斐国へ侵入させ、織田信忠も同様に進軍したことを通知し、織田信長は「出馬」しなくても今まで「関東見物」を望んでいたので良い機会であるから関東へ足を運ぶことにする 甲斐へ出陣する織田信長軍は近江国安土に至るまで続くほど多いこと、特にその中で明智光秀の軍勢は多くを占め「奇麗」であった。織田信長の出陣路次中には数千騎が配備され、その中には「帯武具」びた明智光秀の軍勢が多かった。 今川はその辺の既得権に手出したせいでもめたから
反面教師にしたんじゃね? >>279
もうその頃には明智光秀は寵愛されていないよ
長篠の戦いにも参加させていないし
信長が共にゆっくり関東を観光したかったのは息子の信忠や森蘭丸や兄の森長可など
実際には長篠の戦の後の明智光秀は信長に余計な事を言って足蹴りにされたりしていた
扱いはかなり悪かった
逆に信忠や鬼武蔵や蘭丸の待遇はすごくよかった
長可は20代で20万石で蘭丸はわずか18歳で5万石の領地を得ていた 甲州征伐の最中に関東で織田の親子が明智に討たれる
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>288
とはいえ光秀を最後まで信用していたのは信長
小姓の蘭丸は光秀の謀反を疑っていた
しかし主君の信長に説得されてそれに従った 明智も本拠地から遠く離れておまけに間に濃尾がある甲信で謀反起こす程馬鹿じゃないだろ
あと少し耐えても無駄だよ あと少しをメチャクチャ遠く設定してる時点で無理だと諦めてる というか耐えるのは領民と配下の国人だからな
高貴な武田家のために下賎の者は何されても死ぬまで耐えろってのがこいつの主張 関東見物の話は天正10年3月
甲州征伐の最中に予定していたようだ
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 木曾と穴山の寝返りをどうにかしないと耐えようがないよな
じゃどうすれば防げてたかって信濃駿河戦線があそこまで追い込まれてなければってなるわけで
そう考えると結局長篠だの北条との手切れからの関東戦線スタートだの勝頼のミスに行き着くので耐えれたも何も自分で自分の首締めるのやめてたらって感じ >>270みたいに木曾が悪いってことにしたとしてもじゃあそんな奴に寝返られたら詰む状況になる方が悪いし
そもそも誰が悪いとかじゃなくどうすりゃ防げてたかって話 君の武田は高貴だから思い付かなかったとかに対してはもうこの言葉しかないのよ
武田を言い訳つきの敗者に貶めないであげて
https://i.imgur.com/lORaMET.jpg 甲州征伐の最中にもかかわらず関東見物を企画していた信長。
油断にもほどがある
土岐源氏の末裔が関東で平家を名乗る織田親子の首をとって源頼朝公に供えたら面白かったのにな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 信長の命令どおりにな信忠はゆっくりやればなぁ
激オコの信長が直々に武田を倒したかったなら尚更
信長がバカ息子に育てた報いが武田にまわったのは不幸だが仕方ない
織田なんかから嫁をもらったからこうなる
にしても
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 菅沼が暴れなくなったら勝頼惜しかった脳内妄想IFマンが暴れるようになるw 信長も惜しかったな
あと少しだった
どうせ滅びることは逃れられないしせめて関東見物してからのほうがよかっただろうに 勝頼と全然関係ない話題やるなら自分でスレ立ててそこでやれ
ID:zmFtk53e あと少し
仮にあと少し耐えて本能寺起きても、信忠が高い確率で生き残ったら全く意味がない
あれだけ衰退している武田の力で織田領に逆侵攻できるとでも言いたいのかな? ここで菅沼がーって言っているのも荒しで放置で
そもそもコピペ連投なんてあぼーんにしてたらいいだけで
いちいち菅沼がーでスレ汚すなボケカス そもそも信玄には領土拡大の野心が相当にあったのは理解できるんだけど、領土のどこを取るのが
重要とかそういうことは理解してたのかな
昔の日本みたいにやみくもに拡大していけば大丈夫みたいな感じがぬぐえない
勝頼もそれは同じ。なぜ長篠なんかに進出したのか
吉田攻略に失敗したなら掛川にでも行って、掛川攻略に力を入れればよかったのに
長篠なんかとっても……あそこ価値ある?
東美濃に通じてはいるけれど、あの道進軍するのには不向きでは? 悪銭デフォルトで市場はもはや信長の命令はきかない
富は他者から奪うしかない状態だ
織田の十八番だ
仮に信忠が生き残っていたとしても、銀を制しロンダリングと運用で莫大な富を得ていた羽柴にあっけなく喰われる
水攻め、本能寺、中国大返し、山崎の戦い、山崎城築城、毛利と対峙しながら賤ヶ岳、その直後に大阪城築城開始からの小牧長久手、関白就任まで僅か2年半〜3年
石高では説明できまいw
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>309
構わずに黙ってNGへ。
連鎖設定も推奨。 >>307
寝返ったやつを放置しておくのは外聞がよくない 外聞ねえ……
それなら人質生かして再度調略したら良かったのに
なんでわざわざコストがかかることやるんだろ
奥平が受けるか受けないかはわからないけど、武田側にも奥平一族はいたんだから
人質さえ生かしとけば再度やり方はあったろうに 領土拡大で富を獲得するやり方では結局は羽柴に喰われるだけだ
金銀は蓄財贈答調略にしか使えなかった頭のふる〜い武士ではね
豊臣以降は身分格式が武家の価値を決める
甲斐源氏の武田が秀吉に頭を下げるだけで秀吉はご機嫌よ
武田が徳川のポジションになっていた可能性も高い
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 信長は流通を活発化させるより、手っ取り早く銭を得ることを優先している。資金回収の早さを優先した
たとえば琵琶湖の堅田衆が津銭(関所で税を徴収)を得る権益を認め、その代わり上納金を納めるよう指示したのが良い例だ
銀山経営も同様に、今井宗久を通じて上納金(たとえば千貫)を納めていればそれで良しとしていた
信玄勝頼の金山経営も同様である
秀吉が銀山を管理してから生産量は増大したが、ほとんどが秀吉のものとなった
高松城水攻めの堤を築くのに総額63万貫かかったとされるが、銀山により秀吉の財政が飛び抜けて潤っていたかがうかがえる
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 武田家の金山が枯渇は「新田次郎」という小説家が生み出した創作であり本人も後書きで強大な武田家が滅んだ原因の創作と釈明している。それが昭和期にあたかも事実のように喧伝されたことが、武田は貧乏という妄想を産み出した
金が高騰して実質的な上納金負担が重くなったので、金がとれない場合の上納免除の取り決めをしただけで採掘は江戸時代まで続いていた
金山の労働者街に移築した寺の記録によると、江戸時代初期が最盛期とされている
勝頼は惜しかったな
あと少しだった もし勝頼が生き残っていたら晩年に関東で星谷幕府を開いていた可能性は高いよな >>307
長篠は実は鉱脈地帯という事情がある。あそこの近くに鉛鉱山があって(確か睦平鉱山だったか)、徳川家康はこれを確保すると稼働させて長篠の戦いでも鉄砲玉に使用してる。
金鉱石を精製するのには金と同量の鉛が必要、それで武田家としては鉛鉱山の確保は最優先事項だった。あとこれは真偽不明なんだが「鉛の近くには金がある」っていう法則があるとかでそれを見込んだ可能性もある。
また戦略的に見ると奥三河を制する上で街道を押さえる長篠は取っておきたい、というかここを取られると三河・遠江・美濃の武田拠点は攻撃の危険に晒される。武田領から援軍を送り難い以上、長篠を押さえないと武田の対織田徳川戦略は画竜点睛を欠くということになる。 ちなみに武田の金山が枯渇していたというはたしか武田家印判状の天正五年黒川衆の「金山において黄金出来無く」が元だったはず。実際、勝頼は黒川衆に黄金が出てくるまで軍役を免除する旨を通達してるのでこれは真実と思われる。
また、鉱山は基本的にいきなり産出ゼロにはならない。だなら信玄の時代から鉱脈が細くなっていた可能性が高い。 舅が感情優先のクズで息子が織田の血を引いていたから滅んだ
織田の血はなんの役にも立たないことの証だな
強いて武田が滅んだ最大の理由をあげるなら織田から嫁をもらったことだ
最初から北条から嫁をもらえばよかった
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 織田から嫁をもらうのを決定したのは信玄
信玄が悪い これは金山の枯渇は小説家の妄想で、金良貨高騰による上納金負担増・人手不足・資材高騰による経費増で一時的な収益性の減少だ
金山は江戸時代にも稼働していたのは事実で枯渇はありえないと小説家が釈明している
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>320
それもそうだし信長が悪い
つまり勝頼は悪くない
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 勝頼は信玄の子供だったのが悪い
生まれてきたのが悪い 秀吉のように金山経営に細かく細かく指示書を出して実施的な経営者になるという発想が勝頼にはなかったんだろう
秀吉は銀山経営で家臣や商人の資産まで運用してあげて富を分配したからな
勝頼は利益の一部を上納金でゲットという発想のままだったことが失敗だった
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 菅沼みたいに同じ言葉コピペ連呼って菅沼と同じ病気なんだろうな >>307
西上作戦を継続するなら長篠や奥三河は価値があるけどそれ以外においては
掛川城一帯の方が遥かに価値は高い。滑稽な話だが勝頼というか
重心も含めて武田ではまだ西上作戦は終わっていなかったのだろう。 本能寺の変後、徳川は甲斐の内政を復興することになるが、武田遺臣らが釜無川や笛吹川の堤防復旧、新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で内政を復活することに成功した
復興に携わった武田遺臣の遺言には
「金の棺に自分の遺体を入れて甲斐に送り、国中の僧侶を集めて葬儀を華麗に執り行うように」
と残すほどであり、復興復興といいながら甲斐で荒稼ぎしたようだ
甲斐国は貧乏というのは小説家の妄想だ
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 信玄は頼みは信長殿しかいないと縋ってたからな
信長は上杉と武田の和睦の実現には熱心だったけど徳川と武田の同盟国同士がギスギスしてたことにはなぜか無干渉だったからな
西でも毛利と仲良くしておいて毛利包囲網の浦上を支援したりと信長の外交はよくわからんことがある 信長というより足利幕府の権威による仲介だろうな
信玄が頼ってたのは 本当に無干渉だったのか単に史料が残っていないだけか?
それとも直接的な行動に出ていないから動きようがなかっただけか 信玄が好き放題やったツケが勝頼に回ってきたから気の毒です
信忠はある意味救われた 当時(勝頼〜家康)甲州鉱山事業は、独占事業で特殊技能を持つ集団だけで、金銀を掘り出し上納金を納めている限りにおいては、いくら権勢を誇り豪奢な生活をしていてもお咎めなし
例えば、金をばら撒いて公家武家大名の間に強い人脈をつくってもいいし、ある武田遺臣は女好きで多数の側室を各地の鉱山視察に連れて回り黄金の棺に自分を埋葬するように遺言したのは有名な話
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 村上に2度の大敗して死者でまくったのに
川中島の戦いの時に2万もよく動員できたな
この頃から相当無理してたんでないの 信長は行き当たりばったりな政策で無理ばっかり
特に悪銭バブルで一時的な好景気でもはじけた時には高転び不可避
天正8年から市場は信長の命令を無視しだす
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 勝頼が討たれて信長いわく「どんなに優れた強者でも武運が尽きればこうなる」(三河物語)
天正10年6月信長親子の武運が尽きる
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>333
西上作戦すら予算を超越していて臨時税で賄ったくらいだから相当苦しかったのは確からしい。ホントよく保ったなと。 信長も堺の矢銭二万貫でなんとかなった
武力で脅して強奪とはホントよくやるよな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>336
というか、いつも信玄って最大動員してるよね
川中島も15000より下を切ったことないし
徳川攻める時も2万超えてる
長篠だけ15000だったけど
いつも最大動員かそれに近い兵力を動員してあの程度の戦果
しか挙げられないなら、そりゃ破綻するでしょ
あれだけ動員してそれだけに見合う戦果や領土を手に入れるならまだしもさ 長文基地外が消えたらあと少し基地外が出てくる
長文基地外が出てきたらあと少し基地外が消える
同一人物なのかな >>338
それはまぁ兵力少なかったら決戦になって死傷者増える可能性あるし
それでより戦わないで済むならそれが最良ってのはあるんじゃない? そりゃ古来から大軍で寡兵を攻めるのが上策というか常道だからな。 >>341
違うよ
信長みたいに桶狭間や長篠みたいな戦果挙げるか
氏康の川越、元就の厳島みたいな戦果を上げないといけないけど
信玄にそんな戦果って1度でもあった? >>343
ゲーム脳か…。
幾度かここに書いたことがあるが、
孫武やクラウゼヴィッツの箴言を百回復唱してから「戦果」とは何かを考え直せ。
北條氏康の河越、毛利元就の厳島、織田信長の桶狭間、
何れも彼等の事蹟全体の中ではあっても無くてもいいような些末な出来事に過ぎない。
武田信玄にゲーム脳の考えるような「戦果」が無いと云うのなら、そのこと自体が信玄期武田の成功を物語っている。 百戰百勝非善之善者也。
不戰而屈人之兵善之善者也。
−−孫武
戦争は平時に於けるとは異なる手段を以てする政治の継続である。
−−クラウゼヴィッツ >>344
いや河越厳島桶狭間はどれもその後考えたらなきゃ困るだろ 信玄には全く大勝が無い
ある小説家の作品で「引き分けで十分と考えてたんじゃないのか」なんて言ってたけど
引き分けて何の得があるの?
貧しい土地にいるからこそ打って出る必要があるのは理解できる
それで引き分けてどうするのよ
驚異的に引き分けてるから名将だ、なんて言われてるけど
引き分けて配下や民衆に何か得はあるの?
戦争やるのはただじゃないんだよ >>346
否。
織田も毛利も北條も大を成した要因は構造的なものであって、これらの偶発的な事件はさほど深い影響力を持っていない。
敢えて云うなら家運のヒステリシスループに於ける勃興方向の閾値を早く超える作用はしたかもしれないがそれは時間の問題でしかない。
むしろこんな博打を打たなければならなくなったこと自体、彼等は不覚と恥じていたかもしれない。 全ては信玄の脳味噌だからもうわからん話だけど、
一つは砥石崩れのトラウマがあったんじゃないかな。自軍より遥かに少ない相手に負けた事で信玄はリスクを嫌うようになった。
後本拠地が遠くまた道が整備され難い山道のせいですぐ拠点に逃げ込めないせいで常に大軍勢を率いるしかなかったとか。
で、敵対勢力が軒並み巨大で全力を出し続けるしか無いって面も >>348
歴史で大勢力を築いた奴らはみんな博打をしている
今やってる大河ドラマの頼朝ですら石橋山と富士川
義時は承久
足利尊氏が六波羅
クラウゼヴィッツの時代で言うなら、ロシアのアレクサンドルがモスクワ焼いてまで勝利してるだろ >>350
もう止せ。痛々しい。
お前は正にそのレスが象徴する如く書けば書くほど己のゲーム脳/マンガ脳を晒していることに気付け。
戦国大名権力体は何の為の共同幻想か。
その政治目的は何か。
その達成手段は如何にあるべきで、如何なる座標軸で評価さるべきなのか。
そうした基本的な考察に立脚することもなく軽薄な浅層知識を垂れ流しても恥の上塗りでしかないと知れ。 >>351
こいつはこいつでいつも痛々しいんだよ
大層な言葉は羅列するが、結局なにも語っていない
個別具体に触れる能力がないんだろう、一般論をおおげさに振りかざすだけで
たとえば中段に記した共同幻想だの政治目的だの、達成手段だのの、そしてそれを評価する座標軸っていうものの具体例を示してほしい
そもそも後生の人間が現代の価値観で過去を評価するってのが間違いだと思うけどな
そうじゃないならオシエテネ >>351
何でお前にそこまで侮辱されんといかんの?
まあ桶狭間も川越も厳島も些末な出来事とか言ってる低能に何言っても無駄か
悪かったよごめんね >>351
恥の上塗りしてるのはお前だろ
お前のレス全部中身がないゴミみたい内容なのによく人様に上から目線で物が言えるな >>352
近視眼的虫瞰図思想の典型だな。
一つ一つの具象は単体では意味を成さない。
構造の中の部品として見てこそ意味がある。
「自動車」を語るのにワイパーやテールランプやバッテリーを個々に論じる馬鹿はいない。
お前さんの主張はその手の愚行に等しい。
戦国大名権力体は現代の国家権力同様、第一義的には領国統治の為の権力体だ。
従ってその至上目的は領国の存立繁栄、可能ならば拡大であることもまた同じ。
甲斐武田も例外ではない。
その達成手段として最善のものは孫武の言にある如く戦わざること。
よって如何に少ない、或いは如何に限定的な戦争のみでこれを成したか、が評価の座標軸となる。
信玄期武田権力体はそれに先立つ信縄期、信虎期に比較すれば本国静定や領国拡大に於いて大きな達成を見た。
しかしながら戦争の件数が多過ぎることから見れば稚拙と云うべく、一方乾坤一擲の大戦など行わなかった、それこそ「大戦果」などに頼らなかった点は評価に値する。
孫武なら「次善」「小善」とでも評しただろうか。
但し今一歩深層に踏み込んで、これが甲斐國の自然環境条件や産業構造に照らしてどうであったかを考えれば、その評価はまた一変せざるを得ない。 >>356
本当に頭のいい人は小学生でも理解できるような文章を書くものだよ 信玄が晩年は病気でくるってたか衰えていた可能性はないのかな
信玄は結構前から発病はしていたみたいだし
当時は痛み止めなんてないから痛みに苦しんでいたかも 衰えた信玄に負けた織田・徳川軍が惨めになるだけやで 三方ヶ原や岩村で勝っても織田や徳川は全然こたえてなかったけどな
日本軍がアメリカたたいて喜んでたのによく似てる
それで長篠がミッドウェーになったし
惨めになるというなら武田だな
自分たちが勝ってると思ったら戦国史上でも類を見ない大被害を受けたんだし 勝ったと言いたいなら、名のある武将の首をせめてとれよ
織田も徳川も上杉も信玄は大した首ひとつもとれてないだろ
あれで勝ったといわれてもむなしいだけだ 悪銭バブルによる通貨危機が起きたら織田領内の経済は止まる
織田の天狗の高転びである
もはや周辺国を潰すか家臣の粛正で良貨を獲得するしかない
明智光秀が信長に国替えを命じられた居城の近江坂本は、実は貨幣の鋳造拠点都市としてまさに栄えようとしていた
信長は光秀に良貨とされる宋銭を真似て貨幣鋳造「私鋳銭」をつくらせていたのだが、光秀の指示が素晴らしく本物よりも優れた良貨として市場で評価され始めたのである
信長は高転びを防ぐため、一方的に光秀が育ててきた高度な貨幣製造拠点を召し上げた
主君を裏切る理由としては、不満や恨みより経済的利害の方が説得力がある
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 明智と羽柴は信長の悪銭バブル崩壊でむしろ莫大な富を築きあげ始めたのである
織田本軍の中でも特に明智が率いる軍勢は装備が充実し美しく、周りからみても『あれは明智の者』とわかるほど華やかであった
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 明智は貨幣製造拠点の坂本をおさえれば経済的優位にたてる
秀吉軍は水攻めの土木工事で財政破綻寸前であり信長の支援が途切れたとわかれば寄せ集めの兵はあっけなく秀吉から離反すると明智は読んでいた
しかし秀吉も既に悪銭バブル崩壊で莫大な富を築いていた
明智の大きな誤算である
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>343
言いたいことはわかる
本来10000ぐらいしか動員できないのに2万とかやってるから疲弊した
徳川なんか天正壬午の乱で駿河領土にしてても信濃に派遣できたの9000だからね
ボーナスタイムのラッキーチャンスでこんなもん
小牧・長久手の戦いでもお家存亡の危機でなりふりかまっていられないのに徳川兵少ない
あと武田の遠征は距離がとても長いうえに道も悪い
もちろん全てが甲斐からでは無いだろうけど兵の移動、物資輸送の苦労も半端では無かっただろ たしかに家康は関東に移るまで動員兵力は大したことないよな >>359
だからこそ西上作戦を実行したって見解もある事はある。
つまり武田の全てを握ってる自分が生きているうちに趨勢を決めたかったという。この時黒川金山は産出が減ってたから鉛鉱山のある長篠一帯はせめて取っておきたかった。
まぁ失敗したけど。戦略のミスは戦術で取り戻せないからね仕方ないね。 滅びる定めの織田は早々に見限って、武田は北条と共に法治国家を目指せばよかった
それか足利氏がもっと早く織田を見限れば武田上杉徳川は織田との同盟解消には動きやすかったのにな 家康は武田攻める時も牽制とか嫌がらせ目的だったとはいえ
岡崎衆動員することほとんどなかったもんな 隣人を滅ぼして全て丸ごと強奪してそれを家臣に分けるという発想が信長
成り上がりの野蛮なので クラウゼヴィッツを多用する海外例えガイジは菅沼の別人格と言われてたけど
信長過大評価スレで1日100レスしてたから
その通りなんだろうな >>369
新興勢力の大名はそんなもん。
織田でさえ万を超える兵数が動員可能になったのは美濃平定後だから。
大軍で敵国に攻め入るのが有利な事は子供でも分かる理屈だけど配下の国人達にしてみれば
新興勢力の大名は仕えるに値すると動員兵といった手の内を見せていいか見極めなくてはならない。 兵士にしてみりゃ大軍で戦わずに済むならぜひ出兵に参加したいんじゃねえの? 食いっぱぐれにならないように
参加するのが甲信越よ
勝頼の頃は税収鬼無茶で更に口減らしで動員が増えた模様かな あまり需要がなく献上贈答が主な目的だった金銀を一般商品取引で使おうと試みたのが信長である
宋銭通貨不足解消のためであるが、金銀の需要が市場で急激に高まったことで、結果的に銀山経営の秀吉が短期間で莫大な富を築くことになる
勝頼は金山を配下に任せていたが直営に切り替え、あとちょっと耐えていれば莫大な富を得るチャンスもあった
事実、武田遺臣は甲斐国の金で多岐に渡り人脈を築き徳川家内で上へ上とのしあがっていく
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 貨幣鋳造権は光秀にとって経済力の源であった。
そして信長と共有する大切な秘密でもあった。
新たな貨幣をつくって庶民(市場)の信用を得るのは、極めて困難なことで、信長と光秀の悲願でもある
ついに光秀が作った私鋳銭が良貨と見做されるほどサカモトに高い技術産業が育った
やっと日本独自の貨幣を大量生産しようとしたその矢先に、信長に丸ごと剥奪された
理不尽極まりない
信長にとっては高転びの延命であったが光秀からすれば主従の決別であった
光秀にとって謀反に至る強い動機となった
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>379
甲信越だけに限った話でもない。桶狭間の時の今川も国力に見合わない兵力を動員してる 二万で行きゃ戦わず降伏させられるものを一万で行って決戦になって死傷者出して
だと前者のが得なんじゃね
戦果が同じならだけど 「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」
4万で行って1万の敵にボコボコにされて死傷者溺死者を多数出すのが織田軍だから
都合の悪いことはまるでなかったことにするのも信長公記の特徴だよ なお、長篠みたいに重臣、幹部、エリート候補が多数死んだわけではなくw >>385
間違ったwikiの引用がダサい上に、この落首の原典がよく分からないんだよな
知っていたら教えてほしい 領主として甲斐に留まった秀隆は、甲斐支配にあたって、武力と恐怖をもって治めようとした
武田勝頼の時代から悪銭の納付を認めず重税であったが、織田家は甲斐の村々に対してそれ以上の重税を課し、それに反発して一揆を起こそうとする国人には軍勢を派遣し、徹底的な武力弾圧で略奪と処刑の暴挙にでたのである
あたかも猟師が巣穴の狐を煙で燻り出すが如く
甲州人達は川尻を憎悪し抜き、隙あらば一揆でも起こして殺してやりたいと常に云い合っていた
つまりジェノサイドへの報復の種は必然的に燻っていたのである
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>377
長篠をやらずに方針を変えて掛川城攻めに着手していたら
意外と楽に遠州は手に入れられたかもしれないな。相手は兵力に制限のある
新規勢力の徳川だし信長も安土から遥々やっては来ない 新甲州領主河尻のジェノサイドは甲斐国人をして「あの家康には従っても、織田には従うまい。」と思わしめるほどの重税と非道な仕置きであった
信長が討たれた知らせが河尻のもとに入ると2000人以上いた織田兵は河尻が寝ている隙に逃げ出し朝には88人にまで減った
やがて三井弥一郎率いる国人の一揆蜂起の知らせが入るとさらに50名以上が河尻の制止を振り切って逃げだした
これが織田当主信忠の家老格が育ててきた織田兵の本当の姿である
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 織田信忠と川尻秀隆の甲州攻めのやり方は騙し討ちに近かった。「大人しく降伏したものは身の安全を保障し、恩賞を与える。」とのあたかも誠実な丁寧な廻状を出して投降を呼びかけた
信忠の温情に感激して降伏し武装解除した武田家臣であったが、実際には信忠河尻降伏した者を家族女子幼児全てまとめて皆殺しにして財産もなにもかも没収した
(家康の書状をもらったものは信忠河尻のやり口を知って織田に投降せずに逃げ徳川領内へ亡命した)
武田氏並びに武田家臣団の残党、心ある甲斐の人々が信忠・秀隆を恨まない筈が無く復讐を誓った
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 織田の目的は甲州の統治でも天下静謐でもなく隣国への略奪であった
合理的な信長ならば感情論よりも経済的な動機のほうが確実である
それを勝頼が理解していれば別のやり方もあっただろうにな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 菅沼みたいなのって同じ言葉が好きだよな
病気なんだろうけど 手取川の戦い
感状が一切見つからない
あとはわかるね? 信玄公火葬塚の反対方向、つまり近くに織田家臣・河尻秀隆の墓がある
なぜだろうな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>395
研究論文を検索してみると、世に云う「手取川合戦」は殆ど正統的な学術研究の対象とされていないことが判る。
一つには信頼すべき同時代史料に欠けること、
二つには歴史の大流に何ら影響を及ぼさなかったこと、
要するに研究価値の無いことが理由と思われる。
メディアは大衆向けにこの合戦自体の存否を含めてやたらと喧伝しているが、
アカデミズムからはノイズのようなもの、相手にする価値も無いものとして事実上無視されている。 菅沼(仮)、ゲーム脳連呼、高転び
勝頼スレは濃いキャラが多いな
武田家には引き寄せる何かがあるんだろうな 悪銭は市場の信頼を失い崩壊が起きていた
天下目前の地位にいた織田信長が正親町天皇に献上した金銭のほとんどが悪銭だった事に、天皇が驚くとともに呆れたなんて逸話が残るほどに
信長が天皇を軽視して悪銭を献上したわけではなく信長のもとには大量の悪銭が集中し使い道に困るほど、畿内には全国からの悪銭が集中し巷にあふれかえってしまっていたのだ
織田の高転びだ
一方で私鋳銭が良貨として評価されるどに高度な技術を育んだ明智光秀は莫大な富を築いていた
光秀の率いる兵は織田本軍の中にいても誰の目から明智勢とわかるほど美しいと記録が残るほどに
土岐源氏が「皇朝十二銭」以来の和製貨幣を鋳造し正親町天皇に献上する日が近づいていた
しかし光秀のその悲願が信長に根こそぎ奪われた
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 織田が裕福であれば甲府にわざわざ勝頼より高税率をかけて圧政をする必要はない
仮に織田が武田憎しとしても討って滅んだ後であり、民衆にはもはや関係のない話だ
織田家はそれほどまでに金策に苦労するようになった
織田で裕福だったのは明智と羽柴の両雄だけだったのであろう
明智の経済基盤を根こそぎ奪ってやったにもかかわらず明智が家康にした接待や土産物が素晴らしく、金策を思案していた信長は我慢ならないほどイライラしたのかもしれない
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>384
ただ人間の食い扶持って意外とカネ掛かるからなぁ。
大量発注してコスト削減とかもやりにくい時代だし。 光秀の領国近江坂本の「鮒ずし」を家康に出して、不評を買う逸話が有名であるが、それが事実だとすれば「私鋳銭鋳造都市サカモトは俺のものだ」という明智の皮肉であると鮒ずしから信長は勘繰ったのかもしれない
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>404
この時代に死傷者への保障なんてあったのか?
生きている兵士の兵糧の世話は絶対に必要だけど >>402
食糧の調達と云っても結局は領内からの徴発収奪になるわけで、バランスを考えてやらないと何の為の戦争か解らなくなってしまう。
兵隊の喰い扶持を全部大名が持つかと云うと必ずしもそうとは限らず case by case だった。
他大名H(相模)の例だと或る合戦の陣触れの印判状に
「今度の戦は三日以内の電撃戦でやる。食糧も武具も当方から支給する。手ブラで来てくれ。」
とある。
大名支給の場合も参戦者自弁の場合もあったことを窺わせる。
また他大名U(越後)の例だとそもそも侵攻先での略奪が前提、と云うよりむしろそれを戦争目的としていたから最初から大名支給は自領内移動中の分に限られていただろう。
これは極端な例としても「乱取り勝手」は当時の全国的常識でもあった。
武田の場合も『甲陽軍鑑』に拠るならば信玄期にはかなり苛烈な敵領略奪を恒例としていたようだ。
或る限度までは大名支給とするが超過分は現地調達として負担を抑えていたとみるべきだろう。 >>405
一応「武士」より上なら相続とかの問題もあるし、
敵地での戦死だと「遺体を回収させてください」って敵将に金品を渡して許可を取らないといけないからそういうコストは確かにあるとは思う(穴山信君は長篠合戦での死者を回収するために独断で家康と交渉して許しを得てたりする)
でもそれより下の連中に戦死手当や年金があったかまでは知らないです。 兵数が少ないと今度は戦の期間が長引く問題が出てくる。
例えば二俣城は勝頼が2万の軍勢で一月足らずで落城させてるけど
動員数が少ない家康は二俣城攻めに半年を要してる。当然兵糧も戦闘期間が
長引くほど大量に消費するわけだしな その消費に余裕で耐えれるのが織田徳川の物量戦術、云わば金の力ですよ しかも織田・徳川は自領から近いから兵站維持も楽なんだが
武田は甲斐からとかになると簡単じゃないって問題があるからね。ここらへんはコストパフォーマンスの問題でもあるけど。
どのみち武田はかなりコスパ悪い戦いしてる感は否めない。勝ってる内はまだしも一撃喰らった後の回復は困難だし。 >>400
明智光秀は元々は浪人だし信長が引き立てなければ無名で死んでいった
美濃の明智城を追い出されて朝倉の元にいたのをどうにか引き取ってもらった身分
蘭丸の父の敵討ちの比叡山焼き討ちで功を成しようやく領地を貰えたのが光秀 そもそも光秀は自称土岐だろ
出自すら怪しいしな
秀吉も光秀も他の大名に仕えて取り立てはされても、万の軍勢を動かせる大名にまでなれたのは明らかに信長のおかげでしかない 勝頼はもう少しのために長篠後どうすりゃよかったんだ? 金山直営化がそのひとつか
おそらく鉱山衆が金が掘れるのに全く出ないことにして、採れた金をこっそり上方にまわして私腹を肥やしたり、上納金を免れようとしてたのだろう
事実、徳川時代に大規模な横領が発覚して鉱山管理の一族が処刑されてるしな
勝頼の頃から常習的に横領をやってたのだろう
勝頼が直営すれば大きな収入源になってたな
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 甲府などの金山管理を家康から任されていたある武田遺臣は横領で蓄財だけでも70万両(約700億円)あったと記録されている
勝頼は惜しかったな
あと少しだった >>415
こいつまさか武田の金山の総責任者が大久保長安
だとでも思ってるのか?
バカにもほどがあるだろ 勝頼も秀吉のように細かい指示書を出し横領を防ぎ、配下の資産も運用し分配すれば、莫大な富を産み出すと同時に信頼関係も強化出来たであろう
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 勝頼が金山衆と知り合いでも無いと実態把握は難しいだろう
何しろ専門職だし門外漢にはわからなくて当たり前。直営にしようがどうしようが余程仲良く無いと教えてくれない。
それに問題として金鉱石は鉛が無いと精製できん。鉛を掻き集めないといけないけどその鉛が少ないのよね。長篠の鉛鉱山を失ったのが痛い。 成果が悪いのは労働者が卑怯なことしてたせいだって発想がなんか彼もそういう環境で働いてるのかなって可哀想になった 「枯渇したなんて通説は嘘で、金はあってそれで回ってたけど織田の経済政策のせいで困窮させられてた」
↓
「労働者が卑怯なことしてたせいで金は出回ってなかった」
ほらソースが妄想だから前提になる状況設定もガタガタになるじゃん >>414
まずは遠江からの撤退だろうな。
特に飛び地となった高天神城は武田にとって維持が困難な不良債権になった。
その不良債権に多額の金と兵を注ぎ込んだ事が滅亡の一因となったし 更なる重税と圧政、武力による弾圧、重臣の利権剥奪など織田家のように手段を選ばないという選択もあったという意見もあろう
しかし勝頼は織田家のように禁じ手による政策で高転ぶほど追い詰められてなかった
織田の高転びに巻き込まれないためにも、せめて金山を直轄にするか秀吉のように細かい指示を出すぐらいしてもよかった
勝頼は惜しかったな
あと少しだった 高天神を制する者が遠江を制する、信玄も落とせなかった高天神、っていうネームバリューが大き過ぎた。時折こうしたネームバリューが合理的判断を上回るものよ。 日本が銅銭を輸出した話は、おそらく寛永通宝が最初だ
江戸時代初期に坂本で鋳造された和製通貨『寛永通宝』
その質があまりにも良かったため、オランダ商館が目をつけた
光秀は惜しかったな
あと少しだった >>423
ワロタ
さすがは「もう少し馬鹿」だな
本日も笑わしてくれ もう少しもう少し言うたびに、そいつが大したことないと思われるのがわからんのかコイツ
つまり勝頼も光秀も雑魚ってことか そう思ってる人が多いから本能寺黒幕説なんてものが大量に湧いて出てきたわけで
光秀みたいな小物が信長を討つなんて個人でやれるわけがないってね 菅沼がようやく元気になったのでここまでするか
菅沼も惜しかったな
あと少しだった 「ここまでにする」とわざわざ宣言する奴って前にも見たな >>431
光秀もそうだけど、老境にさしかかるとやはりそれまで
名将とかいわれていた奴は頭おかしくなるのかな
秀吉も晩年は酷過ぎたけど
信玄も光秀も秀吉も病気でおかしくなったのかね >>427
仮に勝頼に信玄のような合理的な判断が出来たら長篠もなく滅亡しなかったろうしな >>435
長篠は信玄なら殿を犠牲にしてでも逃げてただろうな
というか、信玄なら奥平の人質をわざわざ殺したかな
奥平一族はあの時点でまだ半分は武田についてたんだし
武田についてた奥平一族は離反した一族の人質殺されて何とも思わんかったんかな あの短気で激情型の信長すら、松永久秀の人質は説得失敗までは生かしてる
勝頼はすぐ殺す
勝頼は信長以上の短気な激情型だったのかな 人質を簡単に処刑するのは基本的に家中統制の弱さが理由。
勝頼は本来後継者じゃなかったところを義信の一件で繰り上がり昇格した立場で後継者としての立場は弱い(ていうか信勝が成人するまでの繋ぎだし)
だから裏切りに対しては死で対応しないと有力一門衆らに舐められたらそれこそ終わりっていう危機感があったんだろう。そこはまぁわからなくは無い。問題はその対応を信長や家康に逆手に取られてるってところなんだし。 諏訪に対する処置
高梨や村上からの信用無くなり信濃戦線長期化
信長が今後永久に武田と和を結ばないと激怒
家康の徹底抗戦
これらの原因作ったの信玄だしなぁ ワッチョイ導入議論スレでも同じ病気の人が暴れてたなぁ(棒 勝頼には殆ど出来る事は無かった訳だけど、いっそ駿府を本拠にしてたらなぁ。
まぁそうなると甲斐でクーデター起きそうだが 結局、ノブみたいに既得権持ちを力付くで押さえられるだけの権力も地盤も時間も無かったのが勝頼の不幸
やっぱ義信ブッ●したのが原因
すべて信玄が悪い そもそもクーデター起こすって誰が?
穴山信君や信廉にそんなことできるかな? 穴山と小山田、そして武田宗家が甲斐を三分してる。しかも穴山は今川・徳川との取次で小山田は北条の取次、つまり外部の力も得易い立場にある。しかも穴山信君って当時は武田信君と名乗っていて武田滅亡後には「人々は信君が武田を継ぐのが相応しいと望み」云々みたいな詩を詠んだって話だからその気充分だったろう。
こいつらがクーデター起こさないっていう保証は無いから気配りはしてたはず。 信勝が織田ではなく北条との血縁だったら
武田と北条は滅びなかった >>449
氏直「俺の母親は武田家の人なんだけど……」 >>450
信勝『母が織田家じゃなくていいなぁ…』 >>450
側室の子で、信玄の孫でないことが判明してる >>452
黒田は氏直は黄梅院と言ってるぞ
あいつの著書読んでみろ
それとも何の史料でそんなこと言ってるの?
黒田は確かに氏直の下の弟は黄梅院所生を否定しているがな 徳川家光「俺も母親が信長の姪だけど」
なんた武田が雑魚なだけじゃん >>453
wikiにすら書いてあるよ
信玄の孫ではない可能性高い、とね 武田が雑魚なのではない
義信を56し、織田に喧嘩を売った信玄が全て悪い >>454
春日局『は?あんな家柄の悪い女は無視よ無視w時期をみてあなたの弟も追放しましょう』
家 光『わかったンゴおおおおおおおおぉぉぉ』 封建社会の戦国時代において、信玄は世界に先駆けて日の本に『法律の下に君主を置く』という法治国家を造った
成り上がりの信長とは国造りに対する考え方の根本が違うわけだ
水と油の結婚が上手く行くはずがない >>455
Wikipediaね
やはりそんなの信用してるのか
しかも見てみたら言ってるのは浅倉直美だし
話にならん >>460
それなら信玄が全て悪いでOK?
織田との婚姻拒否してさっさと美濃を攻めなかった信玄が悪いね 天下を手中に収めたと思われた三好一族
「摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部・阿波・讃岐・淡路・伊予東部」とほぼ畿内を制圧していた
三好は当初は「足利将軍の名」を外交で用いいたが、一方で三好は将軍権威の切り崩しに取り組み、天下の実質的支配も強めていった
やがて三好が新しく始めた合戦は「三好氏に縁もゆかりもない地域を無理に奪う」というものに変化していった
武力を背景に三好家の家格は上昇していったが、同時に「分不相応だ」として諸大名の猛反発を招き、周辺国との争いは激しくなっていった
その争いの最中に、嫡男の病死や好臣松永の讒言などによる内部抗争の激化で天下人三好一族は内部から急激に崩壊していく 勝頼って義信の繰り上げで嫡男になったけど、仮に勝頼が早世した場合とかは
信玄は考えて義信処分したのかな
秀吉も秀次をぶっ殺して秀頼を後継者に据えたけど、万一の場合とか考えてたのかな
勝頼が死んだら信勝、になると絶対武田は割れる
となると盛信……なら何とかなるか? >>461
黒田氏もほぼ同調してるよ
ちゃんと読みなさい
何意地張ってるの? Wikipediaと北條研究の第一人者黒田基樹の意見が対立した場合に前者を採る馬鹿はいない。
所詮Wikipediaは乃至呉座レベル。
Wikipediaが乃至呉座程度には信用できると云っているのではない、
乃至呉座はWikipedia同等に信憑性が低いと云っている。 北条氏直のwikiちゃんと読めよ
黒田氏自身が著書で氏直は信玄の孫ではない可能性高いと書いてる
何くだらん意地張ってんだよ 信玄に攻められた今川氏真の養子が信玄の孫で氏真に承認されるか?
北条としてもこれから武田と本格的に開戦するにあたって信玄の孫を今川に送るのは違和感
氏直が信玄の孫ではないとすればスッキリする >>471
お前がそんなどうでもいいことを勝手に気にしているだけじゃん >>471
んなこと言ってたら他家はどうなるんだよ
大内義隆は最初の養子晴持が死んだら、敵対している大友氏の晴英(義長)を猶子にした(母が義隆の姉)
北条で言うなら今川とまだ敵対関係だった頃に北条氏親、次いで氏政と今川義元の姉所生の息子を嫡男にしている
武田も信長の姪を母親にする信勝をそのまま信玄が後継者指名した、信玄には息子は他にいるんだから別に無理にしなくてもいいんだよ
これは勝頼にもいえる、自分が滅ぼした諏訪の所生だし
敵対していたといっても女系なら大して問題視されないんだがな戦国時代は
そして何より浅倉直美だろ言ってるの
だから信用ならん >>473
おまえよりは信用できるよw
そもそも黒田も氏直は信玄の孫ではない可能性高いと書いてんだから間違ってたのはおまえ >>474
お前毎回ID変えてるけどどういうこと? >>474
455、466、470、471
全部ID違うな
同一人物と思える文章もあるし
ワッチョイがやはり必要だな >>477
勝手に変わるわけないだろ
故意に変えてるんだろうが >>480
電源切るかワイファイ入らない限り変わらないはずだが
こんなに短時間でワイファイ頻繁に変えたり電源切ってるのか? 反論する根拠を書いたり、氏直が信玄の孫だとする史料を提示すればいいだけのことを「朝倉直美は信用できない」なんて暴言書いちゃうあたり残念なお人だな
終いにはIDがどうのこうのだし >>482
またID変えたのか?
なぜこの短時間でそこまでコロコロ変わるんだ? >>483
知らんよ
勝手に変わるんだから
変わって何の不都合があるんだよ >>484
長文と同じこと言ってる
しかもまたID変更 長文でもコピペでもなく、多数決とってるわけでもないのにid変わって何が不満なんだろうね 細川政権(堺幕府の誕生)
↓
三好政権(畿内の覇者になり将軍家の傀儡化に成功)
↓
織田政権(三好の真似と将軍を京から追放)
↓
豊臣政権(細川の真似と将軍職を天皇に返還)
↓
徳川政権(石田三成の政策をパクリン) 信長は悪くない
信長がパクった三好政権が自己中の小悪党なだけ
畿内の先の覇者である天下人三好が全部悪い >>470
>黒田氏自身が著書で氏直は信玄の孫ではない可能性高いと書いてる
黒田基樹自身は書いていないだろ、
黒田が可能性が高いと言ってるのは
浅倉直美による論文の黄梅院が氏政と離縁したというのは間違いという部分じゃ。 >>495
まだ言ってんの?
2020年「中世関東武士の研究 北条氏直」黒田基樹編著 >>495
せめて文体を完全に別物にするぐらいの努力はしろ。
秒殺でバレるぞ。
それとも、バレると指摘して構ってもらいたいという歪んだ承認欲求か? 勝頼は武田有利な頃から和睦を申し出ていたら甲斐一国は確実に安堵されていただろうな >>498
「分裂の臨界点から統合へ」という当時の趨勢は列島史スケールのものであって人為如きでは変えようもない。
仮に甲斐武田が一時の安堵を得たとて遠からず中央権力の超越的暴力を以て隷従を強要されるか殲滅されるか、
何れにせよ末路は史実と大同小異だったろう。 秀吉は勝頼をわしがその時ノッブなら軍団長にしたと評価したし
家康は武田の家臣を密かに召し抱え軍法を引き継ぎ武田の家名を息子に与えて存続させようとした
キチガイノッブの嫌がらせさえ免れてたら甲斐源氏の血は守られてたと思うんだよなあ >>500
たかだか一つの家の「血統」(これ自体かなり怪しいが)が守られたとして、
それが豊臣権力体や江戸幕府、或いはこれらに相当する統合権力の動向や社会構造にノイズ以上の影響力を持ち得ただろうか?
そう考える時、蟲瞰図思考や白痴的IFの虚しさに脱力せざるを得ない。 織田政権は、細川政権・三好政権と同様に民衆から完全に忘れさられた
豊臣政権は例外
徳川政権になっても民衆に語り継がれた
武田信玄も例外
大権現が畏怖し尊敬した武将として主に徳川政権内の武家(武田遺臣)に語り継がれた
織田政権は戦後に妄想大衆小説によって民衆にノイズとして認知されはじめる
あたかも畿内で初めて覇者になった者ごとく 信長はポル・ポト政権と同じく知識層の虐殺を最も多く行ったから
江戸時代の学者や宗教関係者からは嫌われていたからな。 信玄が盲人を集めて焼き殺したとかと同じ話じゃない? 一例を挙げると信長は伊勢一向一揆の鎮圧で降伏した僧兵含む
知識層を何万人も虐殺してる。他にも滅ぼした大名家に仕えていた
領主層を他家とは比較にならないほど虐殺してる 中世期において守護代クラスの武将が中央でこれだけの勢力を築き上げた例はそれまでに無い
天下人『三好長慶』の才覚のほどがよくわかる
一方では、将軍権力を削ぎ落とし傀儡化に成功しつつも、三好本人は地方の大大名という立場から脱却しきれなかった
義興・義賢・十河一存ら勢力をまとめるべき有力一門武将を次々と失い、擁立した義栄の存在を活用することなくやがて派閥争いなどの内紛で分裂状態に陥いる
こうして畿内の覇者であった三好政権は短期間で崩壊する事になった
やがて三好一族は義昭を担ぐ新しい勢力(細川土岐など)の台頭で歴史から姿を消すことになる >>508
僧兵がなぜ知識層になるのかな
公家の日記にも呆れられて仏法破滅とまで言われてる奴らなのに
そもそもそれだけの知識層の奴らなら、伊勢であれだけのことしたら
逆襲を受けることくらいはわからないのかと思うがな
降伏して退去しようとしたのは許してくれると甘い判断してたんだろ
最後の伊勢長島攻めでも、信長に篠橋城から退去して長島城に入れてくれ
城内にいる奴ら説得するからと言って信長が許して退去させて入城させたら、
そいつら長島城で抵抗して信長騙してるし 信長は三好続き、畿内の二代目の覇者となったが、三好一族と同じように短期間で政権崩壊したことを考えると、領土拡大が安定政権の要素ではないことがよくわかります
織田一族が、三好一族と同じように武力を背景に領土拡大を計って戦線を拡げたことがむしろよくなかった
これが三好政権と織田政権が短期で政権崩壊する要因になったのだろう
そう考えると秀吉の惣無事令は絶妙なタイミングだった >>510
戦国時代は僧も略奪から寺社を守るために武装するのは当たり前の事。
あと逆襲としてもあそこまで知識層の虐殺する必要はない >>511
三好政権は領土拡大したといっても東播磨に
摂河泉に山城、大和、丹波くらいだぞ
あとは本国の阿讃淡だけ
これで拡大したと言われてもな
信長とはまるで比較にならない
信長みたいに全国的に拡張していたならともかく
そもそも三好は信長みたいに朝廷を政治的に利用していた形跡がまるでない
勅命講和もないし、地方に号令したり仲介した形跡もない
あれ政権と言えるのか
秀吉の場合はスタートが46歳で、しかもまともな後継者がいないから存命中に
統一できるかどうかわからないから焦りもあったんだろ
惣無事を出したのは確かに統一を早めるという点では良かったと思う
しかしそのため徳川毛利上杉らを強大な勢力のまま残すことになったから
結果的には良かったのかどうか疑問ではある >>512
伊勢長島は知識層と言ってもほとんどが信徒だろ
指導者層なんかわずかのはずだがな 信長が畿内の覇者となった期間は僅か数年だ
先の覇者である三好政権に比べて圧倒的に短い
名門源氏武田を滅ぼしたことで三職推任があったがその僅か2ヶ月ほどで死亡したことを考えると、信長が歴史に与えた影響はほんの僅かなものだ
豊臣政権の樹立で織田政権の存在が歴史から姿を消したのも頷ける
太閤豊臣という革新的な人物が人々の記憶に深く刻まれてたことがよかったな
娯楽商業的な狙いと妄想キャラ萌えネタとして『秀吉の元上司 信長 』という人物が現代で脚光を浴びることになる
三好も歴史上初の畿内覇者として脚光を浴びる日がくるかもしれない
イケメンキャラにして 秀吉の乗っ取りだともわからないゲーム脳全開は歴史も知らないアホな長文 >>514
三川一向一揆に家康の多くの家臣が加わった様に戦国時代の宗教の
信徒のなかには領主クラスの知識層も多数いたんだけどな。 領土拡大の国獲り物語で天下を目指すという大衆向けのわかりやすい宣伝が使える
三好も史上初の畿内の覇者として更なる領土拡大を狙った野心家として脚光を浴びるかもしれんね
やがて内部崩壊で高転びし苦悩し堕ちていく感じも平家一族っぽくていいしな この時代の宗教は今でいう新興ブルジョアが自らの既得権を
守ってもらうために入信することが多かったようだな。 清和源氏の流れを汲む土岐氏の出身とされる知識僧()たる快川紹喜は、京都の妙心寺などで修業し、美濃の崇福寺の住職を務めたのち、甲斐へいった
甲斐と美濃の外交関係などパイプ役としても活躍した
しかし、実は織田信長が武田より先に紹喜を招いていたにも関わらず、彼が誘いを断って甲斐に行ったので、信長の怒りは凄まじいものだったとされる
織田信忠は六角義治らを匿っているという冤罪(既に逃げた)を着せて甲斐恵林寺を焼き討ちした 信長の場合反抗しない一向宗寺院には何もしない普通に安全保障してるから
逆らったから処分されるってだけだな。 >>521
紹喜が甲斐に行ったのはどんなに遅くても永禄年間の中期
まだ美濃を支配していない信長が招いたとは考えにくいがな
そもそも既に沢彦というブレーンがいるのに そもそも反対勢力は信長に何がしたかったわけ?
信玄勝頼なんか特に
信長は少なくとも畿内に政権を建てようとしていた
長じてそれが全国規模になっていった
信玄勝頼は領土を拡大したいという目的があったのは理解できる
では領土を拡大したらその後はどうするとかプランはあったの?
例えば武田政権を立てるとかあるいは甲信東海で独立政権を立てるとか
それが無いなら昔の日本軍みたいに闇雲に目の前の利益だけを追いかけてたにすぎないんだが 甲州征伐は結果だけ見れば、織田信忠の大戦果であった
しかし、それは表面だけさらった浅い解釈である
織田信長は先行し続ける信忠軍の動きを常に危惧していた
信長が危惧したことが現実となった
信忠は信長の命令を堂々と粛々と無視したのである
信忠は信長を激しく怒らせてしまった
これで信忠は完全に終わった
信長は信忠を方面軍の大将から外し、皆の前で天下を譲ることを『まだ若輩者なので…』と断念させた
…城介わかく候て、此時一人粉骨をも尽之、名を可取と思気色相見候間、(略)我々進発候て可打果候、如此申出候上、万一楚忽之動候て、聊も越度候者、縦自身命いき候共、二度我々前ヘハ不可出候条…(2月15日滝川一益宛)
一、城介事、是も如言上、信長出馬之間ハ、むさとさきへ不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候、(2月23日河尻秀隆宛)
一、城介其外、滝川・小川・刈屋・高橋衆陣所之儀も聞届候、其よりさきへハ不可出候、猶様子可□(見届)候也、(3月1日河尻秀隆宛)
…我々事、近々出馬候間、示合手間不入可打果候、先剋河尻与兵衛かたへも此旨具申聞候き、可被成其意候也…(3月3日織田信忠宛) 勝頼にはもう信長と戦うしか道が無いからどうしようもない。勿論和睦の交渉はしてたけどそれは甲州征伐の時間稼ぎに使われるだけに終わってしまったし。かといってそれより前に交渉しても上首尾とはいかなかったと思う。仮に和睦が成立しても信長と家康がツーカーの仲な訳で家康に攻撃されるか家康への譲歩を迫られて滅ぼされました、ってオチになりそうだし…
信玄は多分、寿命が切れる前に重要領土を握りたかったんだろうけどいかんせん無道が過ぎた。 >>527
信長が天正5年に和睦を勝頼に申し出て来たときなんか
絶好の機会だと思うけど
条件として松姫の婚姻とか出して親戚になってさっさと
和睦したらいいのに拒否して千載一遇の機会を逃がした
日本軍のトラウトマンとか日米交渉そのものだと思うあれは 信忠軍が甲州に深入りを続けること自体に問題があったと見るべきである
その問題の端緒は、実は出陣の条々にすでに記載がある
…在陣中兵粮つゝき候様にあてかい簡要候…
織田信長が常に危惧していたのは、信忠軍が先行し続けることで補給が追い付かなくなることであった
この信長の危惧は杞憂ではない。事実、織田軍は3月中旬に兵糧の欠乏に陥り、脱走兵が出始めた
信長は現地で接収した甲州の食糧を分配を命じまた徳川家康・北条氏政から信忠軍へ兵糧の支給を受けることでこの危機を乗り切った 快川紹喜は義龍とは思いっきり対立していたが信長とは特に対立してないだろ、
妙心寺派とも上手くやってるし。 もしも勝頼がもう少し粘れていたなら、織田軍は兵糧問題から快進撃を続け得なかったと考えられる
そうなれば、あるいは逃走兵で瓦解し取り残された信忠軍は犠牲になり、信忠は討たれたであろう
信長が監視兼子守役の滝川に「信忠が下手な動きをしたら、生きて帰ってきても、二度とおまえに会わないからな」とまで言った背景とはこのようなことであった
滝川は係争地&僻地へと飛ばされた 滝川は信長を怒らせたので終わり
滝川も信忠同様に完全に終わった 補給が追い付かないから信忠は速攻したんだろう、
ゆっくり行軍して補給が何とかなるようなら信長本隊は諏訪ついてすぐ解散なんてしなかっただろうし。 >>532
鳥居峠で木曽単独で負けてるのに織田軍に
勝てるとか大丈夫か?
鳥居峠で負けた時点で最早どうしようもない
鳥居峠でもし武田が勝っていたならまだ巻き返しはできた >>534
速攻というけど、2月16日の鳥居峠まで織田軍は調略を主にして
ほとんど動いてない
結果的に調略で小笠原信嶺が寝返り、同時期に噴火が起こり
そして鳥居峠でぼろ負けして最早武田にはこの時点で抵抗力が無いから
速攻しても大丈夫と考えたんだろう
そもそも鳥居峠の後に武田に抵抗力があるなら、飯田の保科正直と大島の
武田信廉が抵抗していたはずだけど、こいつらどちらも戦わずに逃げてるんだし 甲州征伐の最大の功労者は調略と補給を支援した徳川と北条である
しかし武田を直接討ちたかった信長の怒りはそれは凄まじいものがあっただろう
信長の怒りを買った信忠河尻滝川徳川北条は完全に終わった >>537
2月22日まで何にも動いてない北条が補給?
笑わせるなよ >>529
長篠の敗戦後だからなぁ。心理的にも環境的にも難しいと思う。何しろ甲陽軍鑑によると信長は「長篠にて信玄討死」の報を喧伝してたらしくここで信長相手に勝利なく和睦に及ぶのは降伏と見られる可能性が高い。更に当時上杉謙信との間で反信長的同盟が模索されていた訳で舵取りが難しかったろうし。
しかも天正三年の岩村城の事を考えると軽々に事は運べないと思う。それだけ武田を憎んでいるなら降伏は死を意味するだろう。とはいえ、死を覚悟で降伏するしか無かった訳だが… 信長がいつ進軍したのか知らんのか
カスは黙ってろよ
喋るならID変えるなよ
あぼーんにするから >>536
そりゃ信忠本隊の岐阜出陣が12日なんだから当然のことじゃ? 今だって長野県の通過は面倒
できれば太平洋側か日本海側を通って長野県には入りたくない
そこをあっさり通過したんだから武田家がどれだけボロボロか信忠がしっかり情報を掴んでたかが伺える 「IDコロコロ」で検索するとヒットするのは…w
まあバレバレだよねw 甲州征伐の発動が2/12なのは本当に木曽が武田を裏切ったのかを確認したからに過ぎない気がする。
第一次鳥居峠の戦いが2/2で、ここで勝頼が木曾を攻撃したつまり義昌の内通は真実と露見して一気に甲州征伐作戦を発動したと。それまで信長はどちらかというと三河・遠江からを主眼に置いていたみたいだけど木曽の内通で話が簡単になった。 >>547
まだ織田方に木曽の人質を殺したという情報は
さすがに入ってなかったんかな?
なぜ人質をせめて木曾を翻意させるまで生かせる
とか勝頼はしないんだろうか
しかも人質で殺されたのは義昌の母と長男と娘だよね
長男と娘は正室信玄娘の所生ではないのかな? 織田軍にとって信長の命令は「絶対」的なものだ
安土城からきた甲府にきた家臣たちは信忠の命令違反・命令無視を見て
「信忠はバカなのか?謀叛でも起こす気か?」って内心思ったはずだ
その空気を読んだのか知らんがフォローをしようとした光秀が命令無視の怒りを抑え切れない信長にボコられたんじゃないかという説(妄想?)を見たことがある 天下を譲った後ならいざ知らず
神と崇めるべき信長の命令無視はやり過ぎたな >>552
>>543,545
他人に押し付けだして大草原w >>553
動揺するなよw菅沼ちゃん
ID3つ使い切ってるみたいだけど大丈夫かw 信長を怒らせたら終わりだ
信忠は信長の指摘通りまだまだ若輩者で天下を譲るには早かったということ
信忠は武田を滅ぼす最後の一手を家臣に任せ、それを言い訳にして逃げ切ろうとしたようだがw
信長に討たせて華を持たせなかった時点でアウト
その点、秀吉はよくわかってる 勝頼が愚将と言われないのは何故だ
長篠の総大将は間違いなく勝頼
前代未聞の死傷者出してなぜ愚将といわれないんだ? >>558
愚将というか分からんが、世間一般では脳筋と思われてるから大丈夫だよ >>559
信長みたいに不意打ちでしかも兵力なしで討たれたなら
まだ同情の余地はある
でも、勝頼の場合は事前に家臣が撤退まで進言したのを強行して
決戦してあれだけの大敗をして愚将扱いされない
というのは…… 脳筋も愚将も評価として大差ないって読めるけど?
上で勝頼は惜しかったとコピペみたいに連投してた荒らしが評価上げようとしただけで(笑) 戦国武将なら討死は覚悟の上だと思うけど、長篠は余りに死に過ぎてるよね
勝頼は家中や民衆から恨まれなかったのかな
余りに将兵が死に過ぎてるし なるほどな
一つはIDコロコロしちゃうのねw
固定に出来ないのは面倒だよなぁ菅沼 無駄だぞw菅沼
複数ID&勝手に変わるID持ちはワッチョイスレで検証済だからwww 長篠は正解の無い袋小路だから仕方ない。
逃走は追撃戦を覚悟しないといけないけどこれを迎撃する場所も無い。しかも城が遥か遠いところにあるからどこまで逃げれば安全かもわからない。
仮に逃げて数千人死なせれば「決戦していれば織田・徳川軍にも被害を与えてた」「意味もなく家臣を殺した」って言われて「長篠で武田は滅んだ、勝頼は愚将」って評されるのがオチよ。 >>562
むしろその後スピーディーに立て直したことが評価されてる。
長篠をうまく対処してればその必要も無かったんだけどな 脳筋と言われる勝頼が長篠かどこかで戦死したら、
武田の跡取りは盛信か信勝か?
信勝では武田をまとめるには若すぎるし
盛信では、ひと悶着ありそう。 >>567
長篠後、武田勝頼は北條今川の国制を模倣するカタチで急速に行政改革を進めた(盛本昌広氏等の研究)。
結果的にはそれが間に合わなかったことが最期の急激な崩壊を生むわけだが、
逆から見れば信玄期までに国制改革を成し遂げられなかったのは何故か、
我々素人はそういうことをこそ議論するべきかと思う。 信玄時代より1万少ないのは何でなんだろ
上杉への備えなんて信玄時代もやってるし
長篠って駿河上野衆も参加してるよね 長篠はあまりにも被害が大きすぎた。現役の大幹部はもちろんその下の幹部や幹部候補生までもが討ち死にし
所領もそれまで得ていた東海地方の三河や遠江の所領も殆どが徳川に奪われた。
また信長が自ら来ると事前に情報をキャッチしてたわけだし、普通なら自軍の方が寡兵な事も
分かってるだろうからあの時点では撤退しか選択肢はなかった。 起こった物なんて変えようが無いから考えるだけ無駄
今のウクライナ戦争だってデマが飛び交って真実が分からないんだから >>572
敵の大将が出馬してきたならチャンスだと思うみたいだよ。信長もチョイチョイそういう発言、動きを見せている >>571
アホ
半分じゃ
>>572
アホ
長島の一向一揆では織田信興は早速血祭りに会うし、信長は約5万の兵を率いて対決したがあっけなく何度も敗北した
その戦いに
「なんで信長は弟が血祭りにあうほどボロ負けするのに大軍で戦ったの?信長を怒らせたから?」って聞く奴はアホ
そしておまえはそれ以上のアホ >>566
説得力ナシ
そんな理由なら誰でも愚将の評価から逃れられる >>566
そうだよ
だから信長は愚将だというオチになるわけだ
石山本願寺との歴戦や謙信の織田軍への評価をみると信長軍が弱いこと明らかだし、重臣に裏切られて親子同時に討たれるなんて稀にみるウツケだよ
軍の強さもそうだ
羽柴軍や明智軍そして徳川軍の働きが信長の評価になっているだけで、それを含めないと織田本軍は弱すぎる というか信長の凄さを長篠の戦いは思い知らせている
1日であれだけの武将が死ぬ戦いなんてそうあったか?
しかも最高幹部を3人も一気に討ち取ってるし
武田の軍制に自分は欠陥があったのではないかと思う所もある
川中島でも最高幹部の信繁や両角が死んでるし >>577
謙信の評価
未だに手取川信じてる低能がいるのか >>577
しかも手取川は信長出陣してないのに
謙信は自分の書状で信長が出陣してたとか言ってるし
もし本気で信長出陣書いてるなら、上杉の諜報がやばいという話になる >>577
それだけ弱いのに勢力を拡げられるなんて周囲がどれだけアホ揃いなのかと
織田に直接滅ぼされた浅井朝倉武田なんてゴミだよな
武田は滅ぶべくして滅んだ なぜ信忠スレを捨ててこっちに来たのかが1番気になる 織田は都合の悪い記録は捏造したり残さないからねぇ
信長公記は眉唾物だよ 謙信「戦ってみると、織田軍は案外弱いwww」
謙信の信玄に対する評価と雲泥の差 >>583
公記読んで来い
軍鑑みたいに信玄神様にしているものよりずいぶんマシだから >>584
そんなに弱いなら上洛しろよ
口だけで撤退したのはどこの誰だよ
七尾城に1年以上もかけてるくせに >>581
足利氏の権威と徳川が優秀だっただけ
あと秀吉と光秀が優秀も含めてな
ウツケが上に立ってたから下克上となるのは必然 >>586
面倒くさいことは実質的な管領になった物好きな織田にやらせておけばいい
畿内まで勢力拡大した三好の二の舞だしな
急激に衰退して新勢力に入れ替わるだけ
史実はそうなったしw
信長はそんなこともわからなかった愚将だから油断したってことよ ・「IDコロコロ」という言葉を多用 ← 菅沼と同じ
・レス数が多い ← 菅沼と同じ
・ID変わることをやたら嫌悪する ← 菅沼と同じ
・>>537のように甲州征伐で北条が功労者と捏造を行ってる無知っぷりからして
ID:yVZ593x6が数え役満で菅沼ですかな?
正体隠そうとしても史料捏造する頭の悪さと病気は隠せないみたいだね
今日はどいつかな? >>591
今日はそのパターンでいくのか?菅沼w
暇なら遊んでやってもいいぞ ID:8XbRe7gt
今日のIDはやっぱこれか
単細胞の菅沼だから我慢できずにすぐ返事する(笑)
頭悪ッ というか史料少しくらい読めよ
いつも本能寺で親子が〜みたいな知識じゃ話にならん 切羽詰まった信長でなければ三好の時のように武田の降伏を認めただろう
まず勝頼は切腹か高野山へ追放
主要な城と砦は破却
織田の血をひく信勝に甲府を任せて方面軍大将信忠の与力にする
武田家臣団は信忠の配下におく
そんなとこだったろう
信忠は功に焦ってやり過ぎて信長の怒りを買ったウツケだな
まあ武田遺臣が主を見捨て勝頼を匿わなかったことに信忠がブチギレしたことを考慮したら、勝頼の逃避行は信忠の想定外だったのかもしれんがな
配下に置く予定だったが主を見捨てる奴はいらんとなる >>593
菅沼じゃないのか
遊んでやろうと思ったのに
じゃあ、おまえはあぼーんな
そのままID変えんなよ >>578
長篠は信長が凄いと言うより勝頼が駄目すぎ。
せっかく重臣達が撤退を奏上をしてくれたのに策もなくそれを無下にしたり
長篠城を落城させずに中途半端な包囲をして後詰め軍に全滅させられたりと話にもならない。 他人に押し付けようとするも長文癖もあり速攻で看破される菅沼ワロタw 菅沼は1人じゃない
菅沼的な思考回路を持つバカは複数いる >>598
勝頼の作戦
長篠城は包囲したまま放置
1万3000で設楽ヶ原に進出
織田軍は少ない
武田軍ツエー、織田軍ヨエー
だから1人が3人殺れば余裕で勝てる
以上 菅沼がイキイキして嬉しいぞ
菅沼以外で遊んで欲しい奴はいるか?
今日は暇だから相手してやるぞ というか勝頼って長篠だと数えで30、満でも28か29だよな
30近くになると普通は知的になるものだが……
20歳前半ならわかるけど、血の気が多すぎる性格してたのかなやはり 何歳になっても万事根拠もなく強気な人、見たいものしか見ようとしない人はいるものだよ(実体験) >>604
そんなものか?
10代や20代前半と違うんだがな
そもそも勝頼は実戦経験豊富なのにあんな決断したと
いうことは、経験がまるで役に立ってないということになるし 現代で国主の期間長いプーチンでもクリミアまでで我慢しときゃ良いものを
開戦前のゼレンスキーの支持率の低さから速攻でキエフ陥落という甘い計画とイエスマンからの情報しか聞かず
強気に行って戦争も経済も泥沼化を招いたという 撤退すると言っても無傷で帰れる保証は無い。ていうか砥石崩れの経験ある武田家では心理的に選び難い選択。
家臣が「某が殿に」って言ったってなら別だけど単に逃げましょうではね。
信長が来る前なら逃げられたけど武田軍が軍議を開いた時は信長到着後。もう間に合わなかった。 >>607
詭弁だな
そういう状況になってること自体が大将として無能と言ってるようなもの
誰でも使える言い訳は免罪符にならんよ なんでそんな地形の長篠を攻めたの
しかも援軍が来るまで落とせなかったのという話だな 実際、軍議した時点で逃げられないか?
あの辺り山だらけで結構入り組んでる
織田徳川が布陣したところには、川が前面にあるし
長篠城包囲に残す奴らをしんがりにしてすたこらさっさしたら、しんがりはまあ全滅するだろうが
あとは全て逃げられたんじゃ? >>607
そうだよ
だから信長は愚将だというオチになるわけだ
家臣の謀叛を把握出来ず親子で逃げ遅れて諦めて近臣が全滅なんて、そんな状況になったこと自体が愚将の証拠だよ
金ヶ崎の退き口の撤退戦で被害を出来る限り抑えたのは秀吉光秀家康でその働きが信長の評価になっているだけで、それを含めないと織田本軍は情けなさすぎる
勝頼を討てたのも家臣や同盟国が有能というだけ
上が愚将だと苦労するよね 秀吉謀反厨の頃から変わらないね
物事の認識が浅くて浅くて 妄想国盗物語やゲームが出る昭和まで信長なんて無名www
初代畿内覇者の三好のモノマネが正しい評価になるだろうね
成功した政策は他の大名のパクリだし愚策ばっかりだし
たまたま領土が拡大したのは将軍の権威や有能な家臣のおかげよ >>606
どっちかというとそれは勝頼より信玄の方が当てはまりそう 負けた時はそこに信長はいないからー
勝った時はそれは信長の命令だからー
こんな言い訳ばっかりするよね
バカなのかな? >>610
まず長篠から甲斐まで長過ぎる。あそこあたりで万単位の兵が入る城って45キロくらい走らないと無理。
そして川があると言っても渡河不可能って程のものじゃないからね。実際、武田軍もここを渡河してる。
街道が二つもあって進み易く守り難い。長篠城の重要性がわかるだろう。 >>612
今日は暇だからバカでも相手してやるよ
それを論破出来ないおまえは底割れしてんのよ
無知を自覚するため勉強しなさいって言ってあげたよね
無駄努力だから諦めるために頑張れ!
あー俺って優しい >>616
甲斐まで逃げる必要は無い
伊那郡に入れば織田徳川も追いかけられないだろう >>616
勝頼が撤退しなかった理由は面子が立たないからと書いてあるよ 狭い街道だから殿である程度時間を稼げたとして、ある程度の距離を稼げれば撤退は可能だろ。
追う方だって狭い山道抜けていくから大軍の利は活かせないし、
開けた部分で十分な準備して待ち伏せされたら逆に被害受ける。
まあその前提条件ないと刀根坂みたいになる可能性出てくるが。 その「逃げ場」ってどこよ?って問題よ。
長篠から逃げて万単位の兵が入る拠点としては武節城が最短だけどここまで46キロもある。これは現代の話だから当時は更に厳しい道のりだったろう。山道をフルマラソンして帰るってのは避けたい。しかし敵軍が迫ってきたら?夜襲でも受けたら最悪だがどうすれば良いのか? 更に問題なのは当時の戦争常識では万単位の軍が野戦しても五千人も死なないってのがある。例えば家康が無謀な戦をして大損害を被ったという三方ヶ原ですら二千人しか死んでない。信玄が余りの損害に恐怖したという川中島合戦でも四千人と言われてる。
勝頼は設楽原決戦にあたって別所街道の警備及び長篠城警戒の為に三千人を置いたというけど、撤退の時もこれより少ないという訳にはいかないだろう。下手すりゃ五千人くらい必要かもしれない。つまりただ逃げる為だけに合戦並みの損失を受ける訳でそんなことになれば勝頼の名声は失墜し士気も最低になる。
ここで「僅か数千人で万の敵軍を撃退」出来る剛勇の武将が居れば良かったんだが、勝頼にはそんな部下がいなかったのだ。 >>621
それが事実だとしても戦前から分かってることだし
敵が接近する前に撤退しなかった勝頼の無能さが際立つだけ 敵が接近してるのを気がつかなったから仕方ないという言い訳自体があり得ない
援軍が来るリスクを考えた上で長篠城攻めるという選択になるんだし、長篠城攻撃を決めたのは勝頼だ
こんな言い訳が通るなら奇襲で負けた側は誰もが落ち度がないという評価になる
勝頼は信長は高天神城でもノロノロしてたし、戦意がないから援軍に来ても野戦打ち破れるだろうと「慢心」していたのだろう
撤退はメンツが潰れるからそもそも念頭にない >>621
前提条件がクリアされてるなら、
狭い山道が続くからいろいろと迎撃地点はあるだろ、その場合は追撃側が不利になるし、
迎撃地点から後方は普通に撤退出来るわけだし。
これで駄目なら相手が追撃するなら退却できないと言ってるようなものだぞ。
>>622
川によって分断される地形で包囲するから三千人必要だったわけで、
狭い街道から撤退ならそんな兵力いらないだろ。
包囲部隊がバラバラに三方向に逃げるとかならそれぞれに殿必要とかになるかもしれないが。 勝頼の書状から織田徳川連合軍を過小評価して退くつもりがないのに、何を無駄な妄想してんだ? というより長篠城北、猿橋の辺りにでもしっかりと迎撃態勢整えた上で
武田本隊がそこを通過した後だと、追撃は多分無理というか非効率だろうな。 逃げるわけないじゃん
むしろ信長と家康が手詰まりで逃げると思ってやる気満々だったのに >>628
勝頼がどうしてそう思ったかが問題だな
兵力が少なく見えた、信長の偽装工作に騙されたらしいが……
でも浅井朝倉では常に3万は動かしていた信長が、なぜ自分らには
少ない兵力で来ていたなんて考える脳みそがあるんだろうか 痴呆なのかな?コイツ
同じ話題でどこかでみた論調ばかりが並ぶ
同じ人物が対談してると思うほどレベルが低い
なんかさ斬新な意見や発想ないの??
やっぱ威勢がよいのは煽りだけか
次はせめて暇潰しになるぐらいで頼む >>624
どこまで勝頼が信長の動きを掴んでいたかは史料上残って無いけど、勝頼が作戦開始した時は信長は三好康長を相手に戦争してたから「来れる筈が無い」とは思ってたはず。
でもその三好は信長に降伏して信長本隊が行動可能になったのが運の尽き。 信長が徳川からの援軍要請で異常に動きが遅かったのはその頃はまだ畿内に敵を抱えていたから武田と決戦したくなかったっていう説は見たことあるな
裏を返せば武田が徳川領に侵攻しようがそれが致命傷になることはないっていうのが信長には分かっていたんだろう 遅いって程遅くはないんだよな
武田側も織田が他に行ってる時期に徳川攻めているってのもあるし 前年の明智城攻めで寡兵ながら信長を撃退した成功体験が強烈だったんじゃね 三好攻めで十万もの軍勢を操っていた後に出撃だから準備期間としても妥当、ってのと三万もの軍勢だから理論上の最短ルートを通らないのも当たり前らしい。 河内から岐阜に帰還してから休息と兵糧や軍備を二週間で整えさせてしかも3万だからなぁ
根切り連呼しながら岐阜〜岡崎間を猛スピードで来てるのに異常に動きが遅いとは面白い冗談だよね
しかも玉薬調達、鉄砲隊を細川らに頼んで見切り発車で出陣してるのに 明知城攻めでは武田兵の姿を見ただけで織田軍は慌てふためき逃げ出したからな(爆)
武田勝頼の采配に、織田は武田の倍の兵力を動員したにもかかわらず手も足もだせないまま
そうこうしてると織田の5分の1しかない山県昌景隊6千が織田軍前衛に攻めかかると織田は総崩れになり撤退
こうして東美濃18城を勝頼にあっさりと奪われた >>633の話はどうみても軍鑑の長篠の話だよね
信長が決戦したくないという話からも >>632
「来れるはずがない」
こんな風に考えてるならまさしく脳筋だな
でも残念ながら勝頼は信長の動きを逐一調べてすぐ報告するよう家臣に指示出してるからそこまで脳筋じゃない
2週間も徳川相手に攻めてれば信長も戻る時間は十分あるんだし、そのことくらい勝頼も想定していただろう 創作溢れる甲陽軍鑑を一次史料と同等に扱う馬鹿が例の荒らしの特徴 甲陽軍鑑を使用しないでも、一次史料でも勝頼視点では以下のとおりになる
1.西上作戦で信長本人は援軍に来なかった(岐阜城に戻ってるにも関わらず。浅井朝倉がいるから仕方ないとはいえ、割と面目丸潰れ)
2.明智城の後詰めも城が落ちるとさっさと兵を引いた
3.高天神城後詰めも援軍に出陣するのが遅かった
これらから信長は西が主戦場であり、武田と直接戦うのは乗り気ではなく、戦意がないと勝頼は慢心してたということ
長篠城救援も形ばかりで戦意がない相手なら多少の兵力差があっても勝てる、と踏んだ
最もらしくも聞こえるんだけど、結局考えが浅くて都合良すぎという感想にしかならんけど >>638
74年も四月から摂津河内攻めてたぞ。
五月中旬も河内から人質取ったりしていたし。 >>641
その報告書が見つかってないのと、甲陽軍鑑含めた武田方史料に信長の動向が載ってないってのが厄介なのよ。
仮に信長立つの報が届いていたらその時点で軍議が開かれていた筈だがそれも無かった。
と、いうのもこの時設楽原は徳川に完全封鎖されてるので情報が入ってくる状況じゃなかった。また信長も尋常じゃない速度で長篠入りしてるので物見も働かなかったんだろう。 >>645
情報が全く入ってこないというのは貴方の勝手な推測だし、仮に入ってこない状況だったのならそれも勝頼の責任でしかない
聞いたことある?奇襲されて負けた側が情報が入ってこなかったから仕方ないなんて言い訳する人
お笑いだよ たしかにな
信長の最後の言葉は「是非も及ばず」だしな
お笑いだよ 最後に笑わせてもらったわ
ありがとなw
また暇なときに頼むな >>646
長篠は設楽原から入る以外だと山道を大きく迂回してくるしかないから迅速な連絡が取れない。だから設楽原を徳川に取られた時点で武田軍は孤島に閉じ込められた事になる。
武田軍が徳川攻撃を行なったのは作戦開始時点では三好康長や本願寺が織田と交戦していたから(タイミングが良過ぎるから連携していた可能性もある)なんだが、三好が降伏するとは考えてなかったろう。甲陽軍鑑によると織田・徳川軍は十万、これは信長が三好攻めで使った兵数と同じだから三好降伏の報は届いてた可能性はある。ところが信長が来てると言う話は届かなかった。 三好康長って本能寺のせいで歴史に埋没しちゃったけど信長に降伏した後の厚遇っぷりを見ても畿内の反織田勢力の要の1つだったんだろうというのは分かる >>651
作手、岩村、足助も含めて情報ゼロってのはない
情報戦で負けたのならそれも勝頼の責任としか言いようがないし
情報の部分は勝頼はノータッチで責任ないの?
いやいや、勝頼が一番重視してやらないといけないことでしょ ID:ByRWczgF
ID:Uxq7kDcz はクレーマーかよ
いつまで誰に対して責任ガー責任ガーって繰り返すんだ?
それともまた笑わせてくれるのかw そもそも敗戦の総括は武田内であった
例えば、高坂は梅雪・信豊に腹を切らせるよう献策したという話もある
責任論が浮上するくらいコイツらに戦略上の重過失があったのだろう
織田と違って武田は主だろうが一族だろうが責任を免れないとしていた
この時に穴山・信豊に戦犯として腹を切らせておけばよかったな
勝頼に過失があるとしたら織田のように敗戦後に武田一族に対して甘い処分をしたことだな 織田は信長の息子が命令違反したりミスしたら家臣がその責任をとるシステムだ ・織田の援軍の中に信長がいることを伝える
・織田の援軍兵力を過小に報告する
これで決戦を進言する奴が多数派になるのは間違いない
・その上で甲斐への退去を勝頼に進言する
これで好戦派が前面に配置されるので自分は撤退しやすい上、敗戦後は責任が問われにくい
・決戦では頃合いをみて独断で撤退を始める
こんな奴がもしいたら織田徳川と十中八九内通している
証拠は残してないだろうが戦犯として腹を切らせておいたほうが安全だろうな >>653
入らなかったものは仕方がない。武田軍が長篠で直面した想定外は三好康長が早期に降伏したこと、長篠城の防備が堅かったこと、長篠城が降伏しなかったこと、そして信長が直々に後詰にきたこと。これだけの想定外に晒された。
長篠城は武田に攻められたら即開城、徳川に攻められたら即開城という歴史を持つので武田軍も今回もそうなると踏んでたんだろう。ところが長篠城には奥平信昌が入っていてしかも防衛施設の強化が行われていた。攻めあぐねている内に信長が着いてしまって万事休す。甲陽軍鑑だと信長がついて軍議だから完全に虚をつかれたんだろう。 >>658
今川義元、龍造寺隆信、両上杉、陶晴賢等、歴史上の敗者はみんな「虚をつかれたから」「想定外だから」仕方ないと言ってるだけ
何の意味もない評価の仕方 ただの局地戦だが、上手く徳川家康を誘って野戦決戦に持ち込めたらラッキーという背景を理解してないとID:Uxq7kDcz のように拗らせてしまう
気をつけような 三方原で仕留め損ねたから今度こそはって思惑もあったかと もともと自分は勝頼は決戦に持ち込むのを希望し、撤退するつもりは毛頭なかったと書いてるですよ
それを気がついたら撤退できない所に信長がいたなんて間抜けな勝頼像を主張する人がいるから指摘してるだけで
それこそ一番ダメな勝頼像だろう >>660
ただの局地戦を決戦にしたのは勝頼
結果は武田の屋台骨がグシャッた 武田家は織田と違って主にも責任を追求出来る
勝頼を悪く言って責任追求したくなるのは、まあ仕方ないっちゃ仕方ない 勝頼が当主ではなく陣代なら責任追及されるのは当然
陣代にした信玄が悪い >>662
どの史料にそう書いてあるか知らんけど、敵の後詰が到着した時点で逃走は選択肢から外れる。合戦したのと同じ被害を出してまで逃げるってのは最悪だが敵の追撃で陣が破れて自分の命も危なくなる。勝頼が決戦を選んだのは常識的で当たり前。むしろ逃走の方がかなりイレギュラーな選択になる。だから信長は陣地構築して武田を待ち構える事ができた。 >>668
長篠城攻める時点で敵がより大軍で援軍に来ることは想定できる
三好攻めているからとはいえ、反転してくる可能性は常にあるのだから想定外なんて言い訳は通らない
情報が入らなかったというのも同様
こんな言い訳通るなら世の中愚将というものは存在しないくらいの詭弁 後詰が到着したならもうどうしようもない。一例を挙げると砥石崩れの時には「援軍が来る」と聞いて逃げ出した、つまり正確には後詰が成ってない時に逃走したのに追撃されて自軍の三分の一以下の敵軍にタコ殴りにされて信玄も身代わりを置いて逃げ出すという無様を晒す羽目になった。
長篠の場合敵軍後詰到着、兵力同等若しくは不利、別働隊の危険性大と逃げるリスクが大き過ぎる。砥石崩れをもう一度味わう訳にはいかないさ。 僕だったら長篠上手く逃げられたんだよ!って未来予知前提で脳内妄想してる現代の愚将はおるな 信長が到着するのを知らなかったというのが根拠ゼロ
軍鑑にしろ他の物語にしろ勝頼は決戦を望んでいて撤退は威信に関わるからしなかったと一致しとる >>670
まず織田は三好・本願寺相手に十万の兵を使って戦闘をしていた。これがそんな簡単に解決する筈が無いという予測があった。むしろ康長があっさりと降伏、信長がこれを気前良く受諾という流れを読め、って方が難易度高い。
次に信長の動向を掴もうにも長篠は場所が悪い。山の合間にあってかつ出口・設楽原は徳川に取られてる。しかも長篠城付近からは設楽原を観測出来ない(台地が二つもあるから)
そんな訳で「気付いたら織田軍が」という最悪のシチュエーションが生まれてしまった。これを防ぐってのはハチャメチャに難しかったと思う。 >>672
未来予知どころか当時の戦争は直接ぶつかることは稀でどちらかが出血を嫌がって撤退という戦が断然多いと思うが >>674
なんで勝頼が足助の家臣に信長の動きを伝えるよう命じていたと思う?信長が向かってくることを気にしていたからだろ
君みたいに向かって来ないと思い込んでたらこんな命令はしないし、思い込んでたらそれこそ勝頼は無能
観測にしても作手や足助の方からも見えるし、設楽が原への斥候が戻らないならそれ自体が重要なメッセージである なんか情報が封鎖されることを特別なことのように書いてるけど、この時代領内情報封鎖するのはどこもやってる常識である
それが常識だから情報はあまり入らないのが普通だし価値も高い
そして情報が入らないのを前提で戦略を考えないといけない
入らなかったから仕方ないでは済まされない 武田は総兵力で挑んでいると思ってるバカがいるが、これは徳川とだけ戦うことを前提にした兵数だ
大合戦覚悟であれば武田の兵力は通常2万越えを用意する
つまり信長が援軍にきて信長との野戦をすることまで想定して甲府から徳川領に出陣したわけではない
徳川を野戦に誘い込んで叩くことを想定した作戦だったのだろう
長篠城を落城寸前まで追い込んだものの何日も攻撃の手を止めて家康が後詰めにきて野戦に挑んでくるまで長篠城を放置したのも頷ける
信長が直々に目前まで出張ってきたのは想定外の大好機と捉えた者と当初の作戦とは違う事象が発生したのでここは自重すべきと考えた者に分かれたのだろう ID:6ZH5Skfy
>そして情報が入らないのを前提で戦略を考えないといけない
>入らなかったから仕方ないでは済まされない
誰に対して仕方ないで済まないのか言ってみろよカス
織田なら家臣だけが責任を取らされてヘマしても織田一族は免責だ >>677
厄介な事に武田軍は最悪のタイミングで最悪の状況に置かれてる。まず武田軍は逃走の機会である「信長が出発した」という情報を掴めなかった。次に「信長が来るかもしれないから観測しよう」という手段も取れなかった。長篠からは設楽原が見えないからね。また、長篠住民が反武田だったが故に彼等からの通報も無かった。
極め付けは「織田徳川軍十万」という報告は届いてしまったこと。おそらく四月二十日の三好康長降伏の報が届いてしまったんだろう。ここまで追い込まれたなら決戦しかない。 >>675
>>673で自分で答え書いてるのに馬鹿なのか?
お前らは勝頼でもないしタイムスリップもできない
脳内で僕の考えた勝頼なら逃げられたんだ!ぶぅーんと幼稚園児のような人形遊び玩具遊びを大の大人がやってるってことな >>676
甲陽軍鑑だと武田軍が決戦を決めたのは信長到着後なのでこの時点で織田軍進軍の報告が届いてなかった事になる。仮に届いていたとすると何ダラダラしてたのか武田軍の危機管理はどうなってるのかって話になる。また後詰が到着したのに逃げようとか言ってる馬場信春の名誉が無くなる。
次に設楽原は徳川軍が封鎖してるので物見が帰らない事を織田軍と繋げることは出来なかった。また徳川軍の事を考えれば下手に設楽原に観測所を作る事も出来なかったのだろう。 >>684
いやいや甲陽軍鑑だと面目失うから撤退しないとかいてあるんであんたの言い分とは正反対
軍鑑は時系列はメチャクチャなんだし
こんた恣意的な引用するならあんたは甲陽軍鑑に触れるべきではない ID:qx5E8Rvcのいうことが本当なら満場一致で撤退だなw お前ら未来予知の前提で「僕ならもっと上手くできたんだ!」って自分がまるで有能が如くアピールしてるけどさ
今のウクライナ戦争は未来予知できないから「本当に有能」ならデマやプロパガンダが飛び交う中から、未来予知の如く正しい情報をもちろん選択できるよな?
あとロシアとウクライナがどう決着つくかも
後で答え合わせしてやるから >>684
武田軍の長篠城攻撃は5月13日か14日が最後
そこから18日の信長到着まで城攻めをしないで織田徳川に備えていたということ
だから到着後に軍議を開いたとか、撤退するにはもう遅かったというのは色々おかしい
迎撃するつもりが織田徳川が攻めて来ない、敵は戦意がないみたいだからこちらから攻めてやろう、が勝頼の心理だろ >>688
決着というのか分からんが、ウクライナの抵抗が激しくてプーチンが望んでいたウクライナ併合はどうしたって失敗するのは間違いというのがコンセンサス
失敗の原因はウクライナ国民の心理を読み誤っていたとか、欧州諸国の連携を軽視していたとか色々言われてるが、上の彼に言わせてもらうと「プーチンに正確な情報が入らなかったし、プーチンにとっては想定外だったから仕方ない」ということになるだろうか >>690
結局のところはプーチンの元にはイエスマンからの都合の良い情報しか上がって来なかったんじゃないかとも言われてるね
勝頼もそこらへんは実際のところどうなってかは不明
だから分からないことだらけ
都合の良い情報しか上がって来ないような状態だったら何回やっても特攻する
考えるだけ無駄やね
不明なことが多すぎて
現代でもお互い戦果報告もウクライナ側だとロシア軍1万人も死亡、ロシア側は1000人しか死んでないと主張、お互いがジェノサイドしてると主張し、敵軍撃退してるとも主張
未だに本当の情報がわかんねーよな >>685
甲陽軍鑑には色々バージョンがあるけど間違いなく軍議は信長到着によって起きてる事がわかる。と、いうのも「何故18に到着した織田徳川軍相手に21まで待ったのか?」という問題があるからね。
長篠城付近は狭くまた長篠城という徳川軍攻撃拠点があるからそこに布陣はしたくない。だから設楽原に前進する。これはわかる。だが何故それを数日間も待ったのか?これは徒に自軍を危険に晒す行動でしかない。織田軍が圧倒的兵力を有してる事は確実だから時間が掛かれば掛かるほど兵力差が広がる可能性が高い。故に逃げるにしろ攻めるにしろ即決即断が鉄則。それをのんびりと待っていたとすると
1 武田軍が完全に統制不能に陥っていた
2 信長の回し者が居て工作を行っていた
くらいしか解答が無くなってしまう。それで「信長が来るとは考えてなかったので対応が取れなかった」って話になる。 ロシアは国力を使い果たして力尽きるが
西側もウクライナ難民が大量に雪崩れ込んで共倒れになると予想
タダでさえ流入する移民を持て余してブレグジッドまで起きたんだ
これで難民が流入したらEUも生き残れるとは思えん >>692
長篠城付近に布陣したくないって何の根拠もない貴方のただの思い込み
信長公記も軍鑑もそっちに布陣してればマシだったと記してる 18日に信長到着して21日まで待った理由なんて明らかだよ
設楽が原より寒狭川を前にして布陣した方が地の利があるから
ところが信長が動かないから逼迫して手立を失ってると思って川を渡ったのが勝頼ね >>694
信長公記にはそんなこと書いて無いと思うんだが。「鳶ヶ巣山に篭っていたら」「その後の惨状を見る事は無かった」とはあるけど。
鳶ヶ巣山は長篠城を一望出来るけど間を激流が通っているので長篠城攻撃は不可能。逆に言えば長篠城から攻撃される可能性も少ない。とはいえ鳶ヶ巣山は大軍の収容を前提とした施設では無いしここに陣取ると有海原からの侵攻に無力だからここに陣取るのは遅滞的自殺だったろうが。 公記だと信長が兵を隠したことなどの情報を知ってる織田軍側の太田牛一の話だからね。
武田軍側、特に勝頼の書状からはそんな情報を分かっていなかったのか、織田徳川連合軍を過小評価して撤退する気が0だったから設楽原に進軍してきた。
それをすっ飛ばして、武田軍が全てを看破していて撤退が可能だったと主張しているのが菅沼。 >>696
横からだけど、君の言うような事は信長公記に書いてないと思うけど。
勝頼が鳶ケ巣山にいて川を前にして守っていれば、どっちも勝つ事ができなかったろう、みたいな意味じゃないの。
で、川を前にして守っていれば、織田勢はその川を前に守っている武田勢を突破しないと長篠城を救援にいけないし、三河物語とか読むと、
武田勢がいた長篠城周辺から設楽まで行くには、途中の川を渡る橋が一つしかなくて、その後も細い道が何キロもつづいてたように思えるから、
これらの細い道や橋を利用して武田勢が守っていれば、織田徳川勢は長篠城に救援に行けないでしょ。
そのまま対峙が続けば、順当に行けば、武田勢主力も織田徳川勢主力もどっちも相手を倒せなくて、そのまま長篠城が降伏でもして、
武田の戦略的勝利、って感じだったように思うけど。 >>697
ん?その菅沼って誰の事?僕は菅沼認定された事のある一人だけど、
君が言うような事は特に主張してないんだけど。
僕の長篠城関係についての主張は、>>698にあるような感じの事で、
三河物語の地形描写や、信長物語の文章などを合わせて考慮すると、
そのまま設楽に武田勢が行かないで、長篠城周辺で地形を利用して守っていれば、
織田徳川勢は長篠城救援ができなくて、そのまま長篠城の兵糧が尽きれば、
長篠城は降伏でもするしかなくて、武田の戦略的勝利になるんじゃないの、
みたいな主張だと思うけど。君は一体何を言ってるのかな?
それから、軍鑑とか読むと、普通に織田徳川勢の数が多い事は、
武田側も理解していたように思われるし、だから武田重臣達は設楽に行かずに、長篠城周辺で対峙に持ち込むか、
撤退するか、を主張していたように思われるんだけど。君は何を言ってるのかな?と思うんだけど。 >>699
また菅沼認定してるの?君。
実際には、>>157にあるような感じで、IDコロコロとかして、多数を装いながら、
自身に都合の主張によくない事を書いていると思われる複数の人々を菅沼認定して、
その矛盾にろくに答えられてないのが、菅沼認定厨さんの君だと思うけど、
君はそれでどうやって僕を菅沼認定するのか、是非とも答えて欲しいと思うかな。 >>703
おやまあ、>>697とか読むと、君こと菅沼認定厨さんは、僕と違う主張に対して、
菅沼認定していたかのように思われるけど、僕にだけそんな反応をする、っていうのは、
結局君の菅沼認定自体が、>>702にあるような感じで、君の主張にとって都合のよくない事を書いていると思しき人々をそう認定しているだけで、
君自身にとってもそれらの人々が別人だっていう事は判別がついているように思われるけど、
どうなのかな。 >>691 >>680 >>681
軍鑑読むと、普通に武田勢は織田徳川勢が多い事を知っていて、それを前提に軍議をしていて、
武田の重臣達は>>701にも似た事書いたように、撤退か、長篠城周辺で対峙していくか、を
主張してるように思われるけど。
当時の状況としては>>698にあるような感じで、長篠城周辺の地形を利用して守っていけば、
そもそも織田徳川勢は武田勢を突破して長篠城救援をする事自体が厳しい様に思われるし、
武田勢が撤退するのも、上記698にあるような感じの地形状況を利用すれば、十分に可能だと思われるけど、どうなのかな。 >>658
明知高天神でも信長自身が後詰しているし、
明知の時は一部先行させて自身は公家との会談後すぐ出陣
高天神の時は4月から河内攻めしていたが五月の後半に高天神攻められてるのを聞いて岐阜に帰還して出陣
掛川浜松攻めの時は長島落として岐阜に帰還
って感じだから長篠の時が特別早く終わらせて援軍出してきたという感じではないと思うが。 >>665
勝頼陣代説って同時代の資料とかじゃ、それを裏付ける物ってあったっけ?
織田側の信長公記とかでも、普通に勝頼を当主として扱ってるように思うけど。
>>667
武田が織田徳川と敵対したのは、徳川が上杉と同盟して、さらにそれに織田も参観させて武田包囲網を構築しようとしていたのを、
武田が織田に抗議しても、織田がそれを放置していた事から、
そのままだと織田徳川上杉に包囲されかねないと思って、包囲網勢力と同盟して戦っただけに思うけど。
それで実際に勝頼時代でも、長篠で敗北するまでは東において戦略的に優位な状況だったと思うし、
それがなくなったのは、>>191にも似た事書いたけど、勝頼が長篠において、設楽に移動して多数で守る織田徳川勢の陣地に攻めかかって決戦して敗北した事が理由のように思うけど、
それでそんな事を書くのはどうかと思う。 >>642
何々?誰の事言ってるの?このスレでも、軍鑑を基にして話をしてると思われる書き込みがいくつもあるように思うけど。
>>631
今度は誰を菅沼認定してるの、菅沼認定厨さん。
君はそんな事を書きつつも、>>704にあるような感じで、君が菅沼認定してる一人である僕が書き込むと、
急に>>703のように反論とかしないでNGにしようとしてるようだから、
君が菅沼認定してる人々が別人だっていう事と、それらの区別が君自身についているように思われるんだけど、どうなのかな。 >>614
別にそんな事はないんじゃないの。
>>701
の
>信長物語
は
信長公記、だね。訂正しなくてもわかるとは思うけど、一応訂正をしておく事にするね。 赤備の山県6000が織田30000の前衛にぶつかった時に織田は押し戻されただけでなく崩壊
数が少ない武田軍に対し織田の大群勢は逃亡した 東濃は西低東高だから武田の方が有利だからなあ。
また山間部の地形は武田の方が戦い慣れてる。 となれば、撤退したら織田軍は追ってこない
深入りは禁物 ID:GMPZRY4Q
信憑性のない史料を一次史料並みに扱う今日の菅沼 あいつもそいつもみんな菅沼
史料読まない読んでも間違い ID:yVZ593x6
こいつのことだな
↓確かにみんな菅沼
552 人間七七四年 [sage] 2022/03/19(土) 16:44:46.90 ID:yVZ593x6
>>550
黙れって言ってるだろ菅沼
↓IDコロコロという長文荒らしと同じ言葉多用する
543 人間七七四年 [sage] 2022/03/19(土) 14:03:22.85 ID:yVZ593x6
はいはい
IDコロコロお疲れ様
あぼーんな
537 人間七七四年 [sage] 2022/03/19(土) 13:32:09.31 ID:yVZ593x6
甲州征伐の最大の功労者は調略と補給を支援した徳川と北条である
しかし武田を直接討ちたかった信長の怒りはそれは凄まじいものがあっただろう
信長の怒りを買った信忠河尻滝川徳川北条は完全に終わった
>甲州征伐の最大の功労者は調略と補給を支援した徳川と北条である
という史料を全く読んでない捏造魔
未だに北条が功労者とする史料出せないw ID:QUTl2s0u
一次資料も恣意的に捻じ曲げる菅沼が偉そうにしやがって >>697
逃げるにしてもどこの城まで逃げるかから想定が必要だし長政城兵もいるから殿は玉砕戦を覚悟しないといけないしねぇ…しかも少数だと鎧袖一触に粉砕された挙句、勢いに乗った織田徳川軍に猛追撃を喰らうかもしれない。 ID:yVZ593x6
↓
ID:8XbRe7gt(翌日)
長文荒らしと言動が同じで、史料捏造する無知な捏造魔の特徴を覚えましょうw ID:CXVRu0w4
今日もカッとなって反応するお馬鹿さんw
戦国時代なら討ち取られる脳金っぷりw >>721
「一次資料」 ???
史料を資料って書く奴って菅沼だったよな?
ああ、昨日菅沼モード出して>>707で資料と書いたから今日は予測変換で出ちゃったか(笑) ID:ByRWczgF
コイツだコイツ
根に持ってたのかwww
しつこいwww
お笑いだよw こんにちは!だってよ
聞いたことある?
お笑いだよw 北条は、武田滅亡時に情報がつかめず、出遅れ。
武田領内がどうなっているか、確認する書状が複数残ってる。
信長の覚えも悪くて扱いも冷たかったようだ。 切り取った領土全部返還させられてるから相当覚えが悪かったらしいね北条…まぁ物の役にたたんかったらしいからしゃーない 2月25日、穴山信君は誘いに応じて、人質を連れ去る
2月27〜28日、勝頼が穴山の裏切りに気付き、新府城に撤退
2月28日、北条が駿河の徳倉城、三枚橋城を占拠、3月1日には深沢城占拠
穴山が裏切った後に攻め出した火事場泥棒したため信長に没収された
箕輪城も小山城も没収 >>722
長篠の開戦は勝頼が望んでいたこともあり待ちに待った機会として仕方ないとしても
その後6時間以上も突撃させてあの様なのは、幾らなんでも弁解の余地もない駄目さだろう。
普通は1〜2時間もあれば異常な状況だと気づいて兵を引かせるなり撤退させる。 北条は本能寺後も滝川に協力を約束しておいて信長の死の確証が取れた途端掌返して襲いかかったからな
あれも火事場泥棒みたいなもんだろ。家康はちゃんと織田家に一報してから兵を出してるのにほんと浅ましい奴らだ 織田の返事の前に織田領に侵攻してるけどね
お笑いだよ >>737
それに関しては名和弓雄が「甲斐武田軍団は何故壊滅したか?」で武田軍は状況を把握出来ず自分達が優勢だと誤解していたという説を出してるね。
実際武田軍は有効な観測所を見つけられなかったらしく何回か本陣を変えていたらしい。設楽原は丘陵地帯でもあるから一望する事が困難だった。それで武田軍は勝頼はおろか指揮していた重臣衆すら戦況が把握出来ず結果指揮官クラスがバタバタやられる地獄絵図になった。
もし戦況を掴めていたら指揮官、特に決戦に反対したという重臣衆はいのいちに勝頼に退却を進言するだろう。でもそうした話が余り残ってない(穴山信君が退却を進言したって話はあるらしいが)。甲陽軍鑑でも重臣衆は勝頼が退却するまで戦闘してるわけだしね。 さらに北条との戦いが激しくなって家康から再三援軍を求められても織田はそれを無視するw家康に援軍出すって約束したのに
お笑いだよ 武田一門衆は長篠においてほとんど犠牲者を出してない
譜代の宿将の多くを失っていてもも
穴山殿と左馬助信豊が急に戦線を離脱したことで総崩れ
譜代の宿将はその後にバタバタと討たれていく
戦犯が穴山なのは明らか
資料()をみればいいさ
重臣が把握出来なかったなんて武田は総括してないのに何言ってるんだろうな
お笑いだよ 惜しかったにしろお笑いにしろ
同じ言葉繰り返すの面白いと思ってるのかな 他人に菅沼を押し付けようとしたが、頭が悪いために速攻で看破されてヤケクソになってるだけだな 高坂らが穴山の責任を糾弾する動きがあることを穴山は知ってわざわざ甲斐に帰らず、任地である駿河で織田家康の動静を見守るとした
主や一族であっても責任を免れないとした信玄の法を勝頼は守るのか否か
勝頼は召喚に応じない穴山に対して討伐軍を送らないことを選んだ
織田に負けたことはたしかに痛いがまだなんとでもなった
しかし勝頼が一族に断固たる制裁をしなかったので勝頼は求心力を失った
武田が織田に負けたからって小学生なら嬉々としていうことをさも偉そうに
こいつが勝頼なら負けた途端にもう終わったと引き篭もるんだろうね
お笑いだよ >>737
6時間も戦いが続いたのは
1.設楽が原が武田にとって退路が狭い袋の中の鼠だから
2.後方の砦が陥落したから
設楽が原は持久戦には向かないから進出したら攻撃するしか道がなく、勝頼もそのつもりで進出したんだよ
だから無謀だと重臣達が反対したんだろうけど 長篠で戦死した武田方の武将のうち、織田・徳川連合軍が二重三重に作った馬防柵付近で死亡した者は意外と少ない
その大半は敵陣からかなり遠くの地点で戦死だ
つまり織田軍の伏兵、鉄砲攻撃、馬防柵の防御が強かったわけではない
織田が強いだなんて信じてる奴はまだいるのかな?
お笑いだよ >>740
だとしたら尚更勝頼は救いようがないな。何度も本陣を変えたら前線にいる
重臣達とも録に意志疎通が出来ず敵軍どころか自軍の状況さえも見えない。
そんな五里霧中の状況で闇雲に突撃させたらどうなるか分かりそうなものだけどな どちらにせよ長篠で重臣クラス大量に死なせてその上さらに家中統制もろくに出来てなかったってことじゃん >>747
馬防柵で殺すのなら弓矢でいいじゃんか
別に火縄銃の射程距離なんて必要ないだろうよ
逆に銃だからこそ遠くで射殺できたんだろうよ >>1
雑賀衆の孫一と激闘連戦を繰り広げた銃のスペシャリストの信長軍
悪いが勝頼では勝てんよ
家康もお手本にした戦闘のプロ集団だからな 戦わずに撤退:被害軽微
1時間で撤退:砥石崩れ程度の被害(約1000)
2時間で撤退:三方が原くらいの被害(2000)
3時間で撤退:第4次川中島くらいの被害(4000)
早いうちに勝頼に危機管理能力が働き川中島くらいの被害で済ませていたら
まだ再起の芽はあったかもしれないな。 >>750
こんな風に考えてるならまさしく脳筋だな
お笑いだよ 学者も素人も含めて「〇〇の戦で何千人討死」と書く人をよく見掛けるが、数字の根拠は何だろうか?
軍記は勿論当事者の書状等も必ず過大または過小に記すものだから根拠とするには難がある。
例えば戦域の一部を発掘して当該地層から出た明らかに不自然死とみられる人骨の存在密度から概算するとか、
或いは知られている情報からだけでも数理モデルを立ててシミュレートするとか、
理学的な検証を経た数値に拠らないと定量的議論ができないばかりか事実の評価を誤ることもあり得るのではないか。 >>753
信長公記では入れ代わり立ち代わり武田の軍が攻めてきて
その度に鉄砲で一斉射撃で敗走
何度も騎馬隊などが倒れてそのうちに兵数がみるみる減り勝頼らは撤退して
信長と家康は追撃したとあるけどね
鉄砲隊の前に敗北
何が違うのやら >>756
そういうお前も含めて幼稚園児と形容しているんだよ >>752
それな
山県昌景の第一陣で引いていればまだ軽傷で済んだだろうな
信長を甘く見て何度も進軍して何度も鉄砲の前に半壊で逃亡
これが敗因の原因
信長軍は百戦錬磨だからな 柵から離れたところで死んでるならむしろ白兵で討ち取られてることになるわけで
そっちの方が織田兵強いことにならないか >>760
どんだけ信長軍の銃の射程距離短いんだよ
弓矢なみか 撤退戦の知識がない奴ってこんなかんじかあ
お笑いだよ >>762
数多くの名将を失い、名馬まで忘れた大混乱の悲惨な撤退戦に何か意味あるのかよ 陣地落とせなくて撤退してる最中に討ち取られてるんなら結局織田軍の防御に跳ね返されてるじゃん
矛盾してて何言いたいか伝わらんのよ 結局考えが浅くて都合良すぎという感想にしかならんな
残念ながら勝頼は信長の動きを逐一調べてすぐ報告するよう家臣に指示出してる
にもかかわらず家臣が戦場で命令違反して逃亡したらそりゃ仕方ないよ
戦犯はそいつだもの
聞いたことある?息子が命令違反したり家臣に謀叛おこされ急襲されて負けた側が「是非に及ばず」なんて信長公記に最後の言葉を残した人のこと
そんな史実があっても仕方ないと言えないと脳筋を貫くなら
お笑いだよ 頭が悪すぎて話がごっちゃになってるな
まあ馬鹿の長文って奴だw 長文コピペばかりしてたからそうなっちまったんだろう
合掌 信長公記は嘘ばっかと主張してるのに軍鑑ベースにしてるの面白すぎるな お笑いなのは自分なんだけどね
笑われてるのは気がついてそうだけど、なぜ笑われるのかは理解できてないんだな
相手がバカだから理解されないと思ってそう 穴山は武田軍が織田の陣地に攻撃をかける前に命令違反して敵前逃亡した
そのせいで精強武田軍は戦わずして撤退を選択し卑怯な追撃戦食らって大損害
だけど勝頼は穴山に何の処分も行えなかったしむしろ駿河戦線の指揮官に任じて重用し続けた
だから織田は何もすごくないし穴山が全部悪い
だけど光秀の謀反は信長が全部悪い
ってことだろ
わけわかんねえな というか武将が陣地近くで死んでないのは通常の戦闘状態ならある程度後方で指揮するのが仕事なんだから当然では
秩序失って潰走したから武将格まで討たれることになるわけでそれをもって攻撃をかけてないとは言えない 他人が分かるように整合性が取れないのもアスペの特徴だからな >>752
戦わずに引いたら殿が全滅する事は覚悟しないといけない。
勝頼は長篠城の押さえと別所街道警戒で三千人割いてるから戦わず退いても三千人は死者を見込む必要がある。 >>748
本陣を変えてるのは決戦前の話。武田は長篠に詳しく無かったらしく何度か本陣を変えて最終的に最前線に近い赤ハゲに陣取っている。ところがここからでも設楽原は観測し難い。
対する信長は極楽寺に陣取った。極楽寺は設楽原を見渡す事が出来る絶好のスポットでここから防御陣地(というか殺戮陣地)の構築を指示、戦術の提案をしてる。決戦では信長は家康の処にきて共に戦況を見守った。家康はこれまた最前線にいたのでこれは信長の、勝利の瞬間武田根切りの瞬間を肌で感じたいという余裕の現れだった。 >>773
だからこそ武田軍指揮官が織田徳川陣地で多数死んでるのが異常なのよね。
甲陽軍鑑によると陣地内で死亡したのは「真田信綱と真田昌輝・土屋昌次」また徳川陣を攻撃した山県昌景も射殺されてる。これだけ討死したというのはかなり異質な事態で信長の構築した陣地がかなり巧妙なものだった証拠らしい。 山縣は織田徳川軍が柵から出て総攻撃仕掛けてきた後の武田側陣地付近で鉄砲で撃たれた
真田信綱は撤退戦の最中で殿として討死 信長公記では織田軍は一切名のある武将は戦わず柵の中から鉄砲隊が一方的に攻撃、武田軍は名のある武将が次々と突撃してきたがことごとく鉄砲隊に蹴散らされたとかそんなだったような 甲陽軍鑑では真田兄弟は馬防柵に攻め掛かるも鉄砲で撃ち抜かれて重傷、そのまま退却を図るも死亡したとある。甲陽軍鑑は作者によって書いてる事が違うけれども武田軍右翼は五つの軍団全てが柵に突撃してほぼ全ての軍に死者が出てる。
つまり突撃を敢行した真田・土屋隊が壊滅してるにも関わらず後続も突撃ししかもその中止を勝頼に進言していない。
一応穴山信君が「信玄重臣衆が軒並み討死にしてるから撤退してくれ」と言った、なる逸話があるけど… 武田は織田と違って主であっても責任追求される
長篠の戦犯が突撃を命じた勝頼にあるなら、勝頼を武田のトップから退かせることは容易い
勝頼を支持していた宿将らの多くは撤退戦で逝った
穴山は意気揚々と甲府に赴き勝頼を公の場で責めたて一族衆の支持を集めてあからさまに当主の座を狙ってきたであろう
だが、そうはならなかった
むしろ穴山は引き篭もった なぜIDが複数あるのか
複数の人間がいるとは思えないらしい
認識の歪みだね 「布陣して攻撃開始する前に穴山がいきなり撤退したせいで戦線崩壊、織田の卑怯な追撃を受けて死傷者が続出した」
新説・長篠の戦いだな 穴山信君に責任があるってのは武田が滅亡した事からの逆算で作られた話なのは明らかなんだけどね。甲陽軍鑑の当該箇所には何故か木曾義昌を領土変えしろ云々と書いてあるじゃろ?
現実なんで信君が甲斐に行かないかというと山県昌景が討死にしたから。山県は江尻城代で対徳川戦線司令官だった。そいつが徳川軍によって射殺された事で駿河に徳川軍が攻め込んでくる事は明らかだった。実際家康は駿府を焼き討ちするとたちどころに反攻作戦を実施してる。これに対処する為に信君が江尻に送られることになった。
実は穴山衆にも死者が出てるから信君にとってもダメージら大きかった。それでも武田の為に精一杯の虚栄を張ったワケ。ちなみに穴山と同じく小山田も被害ゼロと発表されてる。そんな小山田が「戦争から逃げた」と言われなかったのは小山田が重臣衆だったからなんだろう。 で勝頼は穴山に何の処分もできずむしろ駿河方面の指揮官を任せるしかできなかった
この時点でほぼ穴山に独立されてるよな
なのにそっちからの侵攻想定せず新府築城って通説よりアホじゃね菅沼版勝頼 長篠は織田のワンサイドゲームのように妄想されているが、武田宿将が高い士気を維持したまま長時間にわたる戦いを考えると一進一退の攻防であったのだろう
織田側にも戦いの詳細を記した史料がないことから、むしろ織田は総崩れのところの一歩手前だったのではないかと仮説をたてることも出来る
穴山ら一族衆が勝頼の命令に従い宿将らと同じ働きをしたのであれば勝てたはずで撤退戦で仲間を死なすこともなかった
そのように武田内の諸将が思っていたとすれば、穴山が責めを恐れて引き篭もるのも無理はない つまり、織田が長篠に勝てたのも甲州征伐の成功したのも織田が強かったわけでも革新的であったわけでもない
信長が言うように武田の武運が尽きただけ
正確には武田が衰退したのは穴山ら一族衆による内紛によるもので織田は棚ぼただっただけだ >>788
そもそも責任を問える話が無いからね。甲陽軍鑑の話はかなり悪質なデマ。戦わず退いたなら穴山衆に死者がいる筈もない。それに甲陽軍鑑品十四には一条・穴山が織田陣に討ち入った事が記載されてる。また、穴山が退いたから負けたってのは穴山衆が武田軍右翼に配置されてる事を無視してる。被害が軽微だから戦犯だと言うと小山田らの責任も問わないといけなくなる。 甲陽軍鑑って、勝頼が強すぎる大将で無謀な合戦に挑んだから長篠で負けそして滅亡したって後世に残したくて書いた書物
細かい時系列や内容は著者も適当と断りを入れているし、事実適当である
著者が一番伝えたかったメインストーリーを曲解して、著者にとってどうでもいい細かい時系列や内容を引用されたら著者も心外だろう
変な使い方するなら甲陽軍鑑なんか引用しない方がいい 他の史料とも付き合わせて使えば有用な史料でもある。てか甲陽軍鑑が無いとなると武田方史料が殆ど判らなくなって織田・徳川の史料つまり「武田軍は一方的に射殺された」しか残らなくなるっていう厄介な問題もあるからね…少なくとも陣形や配置といったところは信用できる。
勝頼が六月一日に田中城に出した書状によると「玄蕃頭・
左馬助・小山田・甘利を始めとし、諸頭諸卒恙無く候」としているけどこれが精一杯の虚勢だった。穴山衆も甘利も死者を出してる。ところがそれすら軽微に見えるほど武田軍は被害を受けていた。その敗因は武田軍全体の問題で一人二人に集約させることはできんわな。 「史料がないから総崩れの所の一歩手前だったのではと仮説を立てられる」
って論理がまずおかしくないか
それただの妄想じゃん
あと>>791の矛盾とかをどう説明すんの >>793
一方的に射殺された?
信長公記も追撃戦で戦果があったと書いてるし、柵のあたりで大損害→撤退戦で更に被害
大将級のほとんどは撤退戦で討死
このくらいで何も不自然なところはない
軍鑑とも大して矛盾しないし 穴山信君が戦ったと言い張ってるけど、被害が軽微なのは事実
穴山隊の弓鉄砲衆は選抜されて前線に配置されていた可能性高いから被害ゼロというのもあり得ないが、その他は予備隊なんだからそれほど戦わず撤退したんじゃないか
軍鑑のどうでもいい記述で揚げ足取りするようなことではない 「穴山の敵前逃亡で戦わずに撤退、追撃受けて被害甚大」
↓
「粘り強く攻撃続けて追い込んでたけど穴山が撤退して潰走、追撃受けて被害甚大」
また主張が変わってる
織田軍の陣地防御は総崩れを食い止めて穴山に撤退を決意させるだけの損害与えてる有効な戦術ってことじゃん
自分の主張の中ですら矛盾あるのどうにかしてくれ というか
白兵戦で一進一退の攻防繰り広げ穴山撤退させて追撃戦で大戦果ってのがこいつの中の長篠の戦いなのか?
それ普通に自軍を潰走させなかった信長の指導力の勝利じゃね アスペは白黒はっきりしてないと辛いよね
無理しなくていいぞ 反論できなくなるとアスペのレッテルか
なるほどお笑いだな 織田家の衰退は悪銭が畿内に溢れる天正8年頃から始まる
織田家衰退に向かう一方で明智と羽柴の両雄は金融政策で石高を超える莫大な富を得ていく
両軍の武装化は急速に進み織田本軍の中でも一際目立つほどになった
武田が衰退しようがそうでなかろうが、いずれ明智羽柴のどちらかから大規模な内紛を起こしていただろう
史実では信長が明智から貨幣鋳造都市サカモトを奪うことを決めた時がそのトリガーになったわけだが
さて信長は良貨獲得のため他国への侵略と家臣粛正が急務となった
勝頼はまさに転げ落ちるようとする信長に掴まれたというわけだ だが信長は武田滅ぼすことまでは考えてなかったとみる
武田憎しの感情論での侵攻ではなく経済的なやむえない理由だからだ
領土が欲しいわけでない、とにかく良貨だ(だから後任の河尻は甲州に大増税の圧政をする)
とはいえ勝頼は切腹か追放だろうが、織田の血をひく信勝は許し信忠の与力に入れてそのまま甲府を任せていただろう
真田が勝頼親子に岩櫃城での籠城をすすめたのも勝頼親子を保護しておけば信長との和睦が成立すると読んでのことだろうな >>780
あれ?ワッチョイスレで暴れてた菅沼と同じ病気の人がいる?w 「武田領では信玄時代と変わらず金が産出されていた」というifの話です 勝頼がとった様々な選択は最善手とは言えないし緩手も散見される
が、悪手はないな
武田家滅亡は必然ではなく巻き添え事故にあったようなものだ
織田は貨幣政策でポカった
これは完全な悪手
神にでもならない限りコントロール出来ない 766 人間七七四年 [sage] 2022/03/23(水) 00:48:57.15 ID:JfP9H3oW
結局考えが浅くて都合良すぎという感想にしかならんな
↓
789 人間七七四年 [sage] 2022/03/23(水) 12:57:03.42 ID:JfP9H3oW
長篠は織田のワンサイドゲームのように妄想されているが、武田宿将が高い士気を維持したまま長時間にわたる戦いを考えると一進一退の攻防であったのだろう
織田側にも戦いの詳細を記した史料がないことから、むしろ織田は総崩れのところの一歩手前だったのではないかと仮説をたてることも出来る
プッw
脳内妄想すぎてお茶吹く上に自己紹介もしてるw
こいつ甲州征伐で北条が功労者と捏造してた馬鹿だろ?スゲーなw >>796
穴山衆の鉄砲が、ってのは何の史料に書いてあるのだ? >>795
信長公記には
「最初に山県率いる兵がきた…が、鉄砲の前に散々に撃ちたてられ退く。ついで武田逍遥軒が来たが…下知通りの鉄砲射撃で過半を討ち取る。三番手…も身隠しの胸壁より射撃を加える織田徳川軍の前に大半を討たれて退く。四番手に黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩がくるも…同様にして討ち果たされた」
「武田軍は総軍入れ替わりで突撃してきたが織田徳川軍は一人とも前に出さず鉄砲のみで応じた」「五番手に馬場信春がくる…も同様に討ち取った」
「この戦は…未の刻まで続いた。その間武田軍は諸卒を突撃させたがその度に討ち果たされ次第次第に無人となっていった」
「それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した」
こう書いてあるはず。つまり武田軍は只管鉄砲射撃によって過半数を失い撤退したのだ、と。そして実はこの時追撃戦でどれほどの戦果を挙げたかについては馬場信春の話しか乗ってなかったりする(一応勝頼の馬を押収したって話もあるけど) 例えば山縣昌景は供養帳に死亡した時刻が午後2時前後と記録され、武田軍陣地に石碑が残ることから追撃戦で討ち取られたことが想像される
勿論、柵付近で武田に大きな被害が出ていたのは事実だろうが、侍大将級はさすがに前線に立たないから追撃戦で討ち取られたのが多いとみるのが妥当
生き残った武田軍の多くは戦場に取り残されて討死したんだろう
一つの戦いでこれだけ被害が出るのは珍しいが、それは武田にとって退路が狭隘で背水の陣だったから
引きたくても引けず無理な攻撃を仕掛けるしかなかった 『甲陽軍鑑』は論外だが『信長公記』も所詮は文献だから真に受けるわけにはいかない。
ブツか数字で傍証されないうちは『公記』の記事もまた「可能性のある仮説」でしかない。 >>811
こじらせてるなあ
だいたい数字で傍証ってなによw >>812
>>755参照。
その上で死者の死因を問題にするなら出土人骨中に鉄砲傷と思われる損傷を受けている人骨が占める割合とか、
広域的に発掘して出土人骨の存在分布と鉄砲弾のそれとの間に有意かつ正の相関が認められるかを検討するとか。
また判明しているデータから『公記』の記事のような戦闘経過が物理的に可能か否かを試算する方法もあるだろう。 自称理系のドカチンくん
菅沼が現れるスレに現れる馬鹿 >>810
その侍大将級すら鉄砲玉に当たって討死にしてるのが長篠の戦いな訳でかなり異質な戦争だった事が指摘されてる。
甲陽軍鑑曰く「まるで城攻めの如き戦で大将も鉄砲弾に当たり死ぬ」と記されてる。武田軍右翼では真田兄弟・土屋が、左翼では山県が射殺されているので撤退前に既にとんでもない大損害を被っており、しかもそれを武田軍は誰も認識してない。対して織田・徳川軍は武田軍の誰を撃ち殺したかは不明ながら敵軍の被害は確認してるので観測情報は織田・徳川軍の方が良かったらしい。 結局
織田領のインフレと経済崩壊の兆しってなんかの史料にソースあんの? >>815
しかも武田軍は誰も認識してない
↑ここ意味不明 >>537より
甲州征伐の功労者は北条(キリッ
↑
史料無しの妄想w
>>789より
織田側にも戦いの詳細を記した史料がないことから、むしろ織田は総崩れのところの一歩手前だったのではないかと仮説をたてることも出来る
↑
信長公記も見てない馬鹿、仮説(キリッと言ってるが全て妄想であるw
よくこの板に居れるなってくらいの無知
長文コピペばかりしていたから脳ミソが退化してしまったか? >>817
妄想であったと主張してるんならそら反論のしようがないよなぁ
ないソースなんて出せないんだし >>818
通常の戦では万単位の兵がぶつかって漸く数千人位が死ぬ。例えば川中島とかね。また、危険な状況になると部隊長が大将に退却を進言するからでもある。大将や部隊長は戦況を常に観測してるから危険な状況には敏感に反応する。
長篠の戦いは武田軍は一万の死者に対して織田・徳川軍は軽微という異常な戦。つまり武田軍は一方的に嬲り殺しにされてる。にも関わらず、誰も勝頼に退却を促してない。唯一ある逸話は穴山信君の話のみ。
信長公記によると信長が総攻撃を命じたのは武田軍が「過半を討ち取」られてから。つまりこうなるまで武田軍は全員、馬鹿みたいに突撃してたことになる。何故?って話。 >>813
はあ
そもそも犠牲者がずっと野ざらしで化石みたいに発掘されるとでも思ってるのか?
あらゆる角度からあり得ないし、実現も不可能でしょ
史学ってのは基本的にあくまで状況証拠の積み上げによる仮説の提示に過ぎないんだよ >>822
残存確率はある程度まで定数として扱える。
総数はそこからの推算が可能だろう。
一部の発掘結果から全体像を推定するには統計的手法を用いればいい。
史学が仮説の提示であるという現状は理解するが、
その仮説の論拠が「文献」という誤謬、虚偽、偏向、歪曲、誇張、隠蔽等を絶対的に含むものであって、
なおかつそれを読む者の主観や願望のフィルターを介していては客観的定量的な議論はできまい。
理学的検証はその不毛さを減ずる最有力の手段だ。 >>821
敵前でしかも背水の陣で引いたら大損害必至だからだよ
もっと端的にいうと損切りできなかったから
本格的な戦いは信長公記にもあるとおり鳶ノ巣が落ちてからで何時間も突撃し続けていたわけではない >>823
結局その推定推算の根拠になるのは文献だぞ まあそもそも勝頼オタが銃の事を何も知らないから
勝頼と同じで弓矢と銃の性能を同じに位にしか思っていないのな
だから武田軍は突撃繰り返して織田軍にやられたい放題だったんだけどな
織田軍は同じ銃の使い手の集団の雑賀衆の孫一と繰り返し戦っていて
銃の練度も高くいい標的になっただけなのにな 銃とか撃ったことがない人間にはわからないだろうけど
火縄銃でも現代の拳銃より射程距離は上だぞ
そこら辺からしてまず理解していないと思うわ >>821
サンクコスト効果ってやつだろう。
撤退すべき状況下でもこれまで費やしたコストを損切りできず無駄に突撃を続けさせた。
早めに損切りしておけば川中島くらいの損害で済んだかもしれなかったが結果として武田家滅亡の要因となった 設楽が原は田畑の耕作地だったから
住民が死骸を埋葬した
さもないと次の年に骨が埋まってちゃ
耕すこともできないだろう しかし菅沼呼ばわりは否定するがアスペは否定しないということは・・・ >>829
埋葬というより甲冑などの金目の物の身ぐるみ剥がしながら邪魔にならない所に運ぶ分別作業ともいう いずれにせよ
勝頼に長篠の責任を追求するのはおかしい
お笑いという意味でなく『頭が』という意味でな
当時長篠を総括をした者たちが、勝頼ではなく穴山ら武田一門を戦犯とした結論を出している
そこに議論の余地は全くないな 菅屋長頼や信長らが駐在軍の兵糧切れをしきりに気にするほど貧乏信忠軍に北条氏政は再び兵糧米1000俵を献上した
北条はやっぱり功労者w 前提が妄想じゃそりゃ会話が成り立たんよ
会話がしたいのか自作小説のプロット披露したいのかどっちなんだ ・勝頼が責任を追求されていないこと
・穴山が江尻に引っ込んだこと
この二つの状況証拠から「武田家中は勝頼の責任と見ておらず勝手に撤退した一門衆が悪いと思っていた」
という仮説を立ててるわけだ
信豊信廉は普通に戦闘してるしその後も活躍してるからこの場合の一門って要は穴山か? >>836
勝頼の首取られて武田滅んだ後の26日に馬の飼料として持ってきた話だろ?
頭悪すぎて大草原www >>833
>>819の、お前の史料捏造の責任は追及されるけどなw 1つ思うのはなぜこいつは信忠スレを捨ててこっちに移ってきたのかってこと >>838
おしいな
明後日あたり暇だから相手してやるよ
今日の朝と明日は忙しいんだよね
ゴルフで 合戦前と合戦後で寝返るのも処遇が全く違うと言われる時代に敵が滅んだ後にやった事が最大の功労者という奴を初めて見た… >>829
次の年の耕耘時期まで埋めたまんまにしとけば極上の肥やしになる。 >>825
場合による。
文献記述を検証するというスタンスで理学的検討が行われることもあれば、
伊勢宗瑞の伊豆戦争経過の如くゼロベースで実施された考古学的発掘成果と地震学の知見が一致して文献依拠の「定説」を破壊するような事例もある。 >>816
米の価格から武田領での超インフレと
1565年から畿内でのインフレと1575年以降は畿内は高価格だが米価は安定しているって論文なら
昔脇田氏が出していた 戦国時代だと半俵使っていたから5俵で一石
つまり1000俵だと200石
200石がどれぐらいの量かと考えると、
雑兵物語によると足軽には一日10合与える規定だったというが
それだと一石≒1,000合として一石は一日当たり100人分
200石だと2万人の兵士一日分ぐらいの兵糧ってことだろうか?
まあ半俵じゃないとか節約すればもっともつとか考慮しても
織田家全体からすれば誤差みたいな量といって問題ないだろう。 めんどくせぇ
しつこいwww
織田は兵糧の調達に至難してた
たかが米の配給が『ありがたい』と記録に残るほどにな
北条は多くのものを献上したが追加で米俵をまた献上する
献上品(馬など)の食料という名目でな
その米俵をわざわざ諏訪まで運んでと記録に残るほどにな
平時ならこんな事残す必要あるかい?
やっぱわからないか??
織田はよっぽどありがたく、そして困ってたんだよ
もう一度聞くぞ
追加で献上品として米俵を出したその意味わかる??
北条の配慮(まあ嫌味だが)が理解出来るかい?
物事を額面通りにしか理解出来ないんだよね
その場の空気や文章の行間を読めないんだろう??
な、アスペ 今暇じゃねーんだよ
これ以上こんなこと付き合う時間ないからな
あー俺って優しいなぁ
忙しいのにわざわざ教えてやるなんて
記録しとこう
平時じゃないから記録しとこう
アスペにははっきり伝えないと理解できないから
記録しとこう
暇になったら相手してやるよ 補足
織田『米の配給ありがてぇ』
北条『お困りの様子。兵糧がまだまだ足りてないなら分けますよ。献上品の追加として馬の飼料米とすれば織田の面目が立ちましょう。急ぎ諏訪まで運びますね』
織田『ありがたい事なので記録しとこ』
アスペ『馬の飼料だってよwwwウケるwww』 長篠での武田軍の損害は単純に算数すると、
長篠城・別所街道監視隊が三千。残りの一万二千の内勝頼本陣に二千人いるとして残りが一万人。
その一万人が波状攻撃を仕掛けるも軒並み「過半を討ち取」られてるから50-60%は死んでる。つまり撤退開始時点での残存兵力は攻撃隊の残り約五千人と勝頼の二千人(長篠城・別所街道監視隊は全滅してる)
長篠の戦いでの武田軍は一万人の死者を出してるので追撃戦では二千人が死んだ事になる。追撃戦としては砥石崩れが逃げる信玄七千人を千人が追撃して千人の死者を出させてるから大体二千人位が追撃したのだろうか。 ツッコむのも馬鹿らしいが、当時は非戦闘員が半分くらいいるんじゃなかったか そのソースがわからんけど甲陽軍鑑では「一万二千の兵で決戦」とあるので非戦闘員が半分も居たとは信じ難い気がする…
甲陽軍鑑品五十二での兵数は適当に挙げて馬場隊が七百、内藤隊が一千、山県が三千と書いてあるけどこの時点で四千七百、残りの部隊が千三百しかいないと言うのは絶望的な状況じゃないか?特に武田軍右翼は五つの軍団で構成されてるけど一つの軍団が四百人も居ないってのは流石に有り得ない気がするんだが…(しかもその場合、勝頼は非戦闘員に囲まれてた事になるし)
少なくとも「非戦闘員」というのは居なくて雑務を行う戦闘員が居たって話なんだろうけどそれでも長篠の戦いについて何か観点が変わるとかは無さそう。 非戦闘員といえど
明確な区別はどこまであったのやら
荷運びや労役って話で駆り出されたけど
石投げさせられたりしないのかね
長篠合戦屏風にも普段着の男が描かれていて、テレビで取り上げられたりしたが 物資の運搬にも関わる話だけど、後方部隊は本国から戦地までの行きの通路の確保。
また敗戦や何らかの事情で急遽、戦地から本国に安全に戻るための帰路の確保も行っていたようだ >>832
そのアホな認識が勝頼を敗北に追い込んだ
史料とか関係ないわ
どんだけアホなんだよ >>853
辺境のスレのことはどうでもいいよ
2〜5人の馬鹿がマッチポンプで回してたんだろ
ここも同じだよ その辺境で回してたバカがこのスレにも来てるそうだぞ >>857
ソースが提示されるまでわからんけど基本的に雑務係も戦闘に参加するのが自然で非戦闘員を半分も連れてるってのはかなり異質な状況だと思う。戦争では非戦闘員ってタダ飯食らいな訳でそんな余裕あったんかな?
だから多分、長篠後の新生武田軍団の話じゃないかなと思う。長篠で一万人もの死者を出した武田軍は織田・徳川軍の大規模反攻作戦を前に軍団の再編成が急務だった。そこで勝頼は百姓や商人、坊主まで徴兵したという。甲陽軍鑑によると「かくて八月になり候へば、勝頼公ハ甲州・信州・上野ぜい、名有ルものゝ子・孫、或ハ弟など、出家になり、町人になり罷有ルをミなよび出し、人数を弐万あまりつくり」とある。また、天正五年にはそれまで知行役の侍衆のみに課してた軍役を身分問わず十五以上六十以下の男全員に拡大させてる(三箇条軍役定書)
つまり長篠後、武田軍は半数以上が元非戦闘員で構成されてた訳でその事を言っているのかもしれない。 辺境の板だからな
ワッチョイの承認はいつのなるのやら >>848
信長「北条、お前の功績ないから城没収な」
糖質やアスペは史料読めなくて勝手に脳内妄想しちゃうらしい(笑)
ブーメランすぎて笑える(笑) >>854
車両や鉄道などの輜重隊に革新が起こらない限り徒歩による輜重隊の革新はない
だから豊臣政権や徳川政権の軍役の非戦闘員の割合は全国大差ないだろうってのが流れ
平均すると遠征時の非戦闘員の割合は4割前後 >>852
信忠スレって信忠が脱出なんとやらのスレ?
見てきたら長文コピペ荒らしも居た
同じ長文で、暴れるスレも共通してるんだな
察するべしか 馬の世話、草履や飼料運び
兵の武具や兵糧運び
僧侶や文官
いざとなれば戦えると言われてもな… まあ繰り返すけど
あまり鉄砲の事を知らない勝頼だから負けたのな
ここでも弓矢と鉄砲を同一視している無知がいるし 信長公記にも書かれているけど
武田軍は鉄砲の攻撃によりバタバタと倒れていった
にも拘わらずに武田軍は何度も突撃を繰り返し最後は撤退していったのが事実 その信長公記に武田軍が総攻撃始めたのは鳶ノ巣砦が落ちた後と書いてあるから退路が塞がれて撤退困難になって突撃始めたんです
死中に活を求めた結果、ああなったってこと >>865
5割に足りないやんけ!だとしても結局戦闘に参加した人数に大差は無さそう。というのも一万五千の内五千人しか生き残れなかった戦で非戦闘員の数とか僅かな影響しか与えてないし。更に言うとそいつらが真実「非戦闘」だとするとどこに居たのかとか何故逃げ出さんとかなんで連れてきたのかとか色々問題が… 甲陽軍鑑の人数より非戦闘員が多くいたことの方が信用できるよ
甲陽軍鑑引用は勝ち目ないからやめとけよ そもそも軍鑑参考にしても武田法性院信玄公御代惣人数之事で計算しても主戦力は9121騎+足軽約6000
それを防衛しないといけない各城に守備兵として配置した残りが遠征時に使える戦闘員だろう
遠征で戦闘員が15000もいないのが分かる 鳶ヶ巣山砦が落ちて背水の陣だった、という説は実は半分しか真実じゃない。つまり武田軍が鳶ヶ巣山砦が攻撃される危険性を認識していたか?という観点が抜けてる。
勝頼が長篠城を包囲したとき医王寺山に本陣を置いてる。ここは設楽原こそ観測困難だが別所街道には目が行き届くから武田軍は別所街道が攻撃に使われる可能性は予期してた事になる。なら、武田本隊が設楽原に移動したら何が起こるかなんてのは分かりきってたはず。むしろ分かってなかったなら武田軍首脳部はヤバい。
つまり鳶ヶ巣山砦が攻撃される事は折り込み済みだった。それは危険でもあるが好機でもある。何故なら攻撃隊の分だけ本陣は薄くなるから。そして長篠には三千人もの兵を置いてある。防戦すれば勝ち目があると踏んでもおかしくない。 >>874
君さ、もともと武田軍が寒狭川渡る前でも撤退したら追撃されるから撤退できないと言い張ってる人だろ
そんなんなら設楽が原に進出したら尚更敵前で撤退なんかできないわけで、壊滅するまで突撃続けるしかない
鳶ノ巣砦の有無以前に設楽が原は袋地で武田軍の退路は一本道で極めて狭く、緒戦不利だからといって簡単に撤退なんかできない
勝頼は川を渡った時に既に撤退するつもりなんかなく、無二の決戦するつもりだった
地形も勝頼の決意も背水の陣で合ってる
君の大好きな甲陽軍鑑のとおり、強すぎる大将そのまんまだよ >>865
今、仮に「非戦闘員率0.4」を採用する。
また戦争研究に於いてしばしば「壊滅」=組織的戦闘の継続が不可能となる状態の閾値「損耗率0.5」も仮に採用する。
長篠の武田軍が「壊滅」する損耗数は、
15000×0.4×0.5 = 3000
即ち3000人の戦闘員が戦闘から離脱した段階で武田軍は組織的戦闘能力を喪失して潰乱に陥る。
ここで注意すべきは上記が「死者数」ではなくて「損耗数」であること。
負傷、逃亡、投降等を含めて3000人ということになる。
しかも複数の指摘があるように武田軍は公称総数の15000人を全て戦場に投入したわけではない。
更に武田軍は潰乱したのではなくて殿軍がある程度まで機能する状態で撤退したとの見方もある。
また0.5という数字は規律も組織も確立された近代軍隊の話で、中世の軍勢の閾値はもっと低いとみるのが妥当だろう。
とすると、勝敗が決した時点での武田軍の死者数は3000未満と考えることが可能だ。
無論その後の時間帯にも勝者による追撃戦や残敵掃討、地元住民による落武者狩り、現場から動けない重傷者の事後死などはあったろうから
上記の数字はやや増えるかもしれないが二倍にも三倍にもなることはまずない。
「武田軍10000人討死」は『信長公記』に拠る説らしいが、これは甚だしい誇張である蓋然性が高い。 失礼。
上記式中の「×0.4」は「×(1-0.4)」の間違い。
従って文中の「3000」を「4500」と読み替える。 士気が低い兵は負けが込むと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す
だから殿軍は士気の高い精兵しか受け持てない
殿軍でポコポコ侍格が死ぬのはそういうことやね
精兵の壊滅は致命傷
武田四天王とやらも来ていたのが全員討死 >>823
武田はけっこう軍役状が残っているけど陣夫の人数を指定しているのは見たことがない
必要な分はてめえらで勝手に連れてこいってスタイルだったようだ
軍鑑の数字がどうかは知らない >>879
武田以外だと残ってるんかね>陣夫の数指定
豊臣のは知ってるけど >>880
北條は指示書が遺っている。
人数から軍装、旗幟まで規定していて、しかも知行高に対して累進的な負担制度になっている。
細か過ぎて簡単に要約できない♪ >>881
さんきゅ
やっぱ、きっちり数やその他を指定しておかないと困るよねぇ
豊臣のは動員800人で陣夫300人とかだったかなぁ >>881の関連論文を読み直していたらちょっと面白い話を改めて見つけた。
北條の場合、
そうやって統一規定で掻き集めた各軍勢をそのまんまの寄合所帯として連れ歩くんじゃなくて、
家や身分の枠を外して役割や軍装ごとに再編成する動向が一部に認められる、と。
そしてそれは武田にもまた明確に見出されるそうだ。
(則竹雄一氏、平山優氏など)
つまり一元的・体系的な軍団構成、謂わば近代軍制への遷移の萌芽が戦国の世に芽生え始めていたと見ることも出来る。
中世、侮り難し。 >>883
西股さんも同様のことに言及してるんだけど根拠に乏しいと感じたんだよなあ
長篠で信長が鉄砲衆引っこ抜いたりしてるけど、それは諸兵科連合とはいわないのと同じ 豊臣の軍制は近世大名の先駆けだから戦国大名とは一線を画す代物 なお全国統一するまでは普通に兵をできるだけ連れてこいとそこらの大名と同じことを言っていたのである >>878
武田四天王は一応生き残りおるやん。小山田信茂が… >>887
大規模な水運を使える豊臣と山道の陸送しかない武田を比べることがナンセンスだしな。 甲陽軍鑑排除か
菅沼ルール絶賛発動中だな
織田スレで「信長公記を排除」は有り得ない
同様に武田スレで甲陽軍鑑を排除するのはね
少なくとも「信長公記を最重視」はないな >>881
へえ
武田は逆に大身ほど軍役の負担が軽くなる、小身ほど重いというのを紹介した論文があった
おもしろいもんだけど、武田ダメだろそりゃw
家臣団にガバナンスが効いていない(重臣に配慮)ととるか、効いてる(言うこと聞かせてる)ととるか
まあ、こういうのも北条、武田の残存史料が豊富ゆえの話だな >>895
割と聞いたことある
大物に負担を重たくすると寝返るから気を使わざるを得なかったとかなんとか 複数の人がいると信じたくないんだね
お薬飲んでる? >>896
武田家は集権化が進んでるのか進んでないのかよく分からないよね
勝頼が新府移転しようとしたのは守護大名から戦国大名への真の脱皮を図ろうとしたからと思ってる
最終的に穴山と小山田が裏切るのは皮肉なもんだ 穴山氏とか持ってる力が武田宗家並みだからどうしようも無いし マッチポンプはいつものこと過ぎて気にもならないよ
バレてないと思ってるのはやってる本人だけじゃないかな??? >>904
甲斐武田が室町的統治秩序を脱したのは信縄期まで遡る。
他方、戦国大名の定義に適う一元的支配を目指す行政改革は勝頼期の長篠敗戦後まで続いている。
それは結局果たされずに滅亡を迎えることになる。
武田の戦国大名化は信縄、信虎、信玄、勝頼と異様に長い過渡期に在るまま未完に終わったと考えられる。 そもそも集権化も糞もないでしょ
長篠であれだけ人材失って
手足を無くして集権なんて絶対無理 長篠後にむしろ勝頼の統制力は増してるんだとか。と、言うのも書状(奉書式朱印状)の奏者は従来重臣衆が多かったところ、長篠後には勝頼側近衆(跡部)が奏者となってる。また、勝頼が相続の面倒を見た事で家臣団との繋がりも強くなった。皮肉な事に長篠の戦いは勝頼政権の樹立を助けたのだという。 勝頼相変わらず重臣に反対されると自分のやりたいことできてない
1579年黄瀬川の戦い
北条軍は武田から決戦状来るも応じず不戦
そこに徳川軍来襲報告。
勝頼は北条が戦う意志がないのを確信し
徳川と決戦決意する
武田軍15000、徳川軍8000
勝頼は決戦したかったのに重臣連中から長篠のこと持ち出され撤退
兵力差2倍ここで徳川叩いとけば歴史は変わってた 戦略的近視が滅びの原因
織田も武田も共に重臣の裏切りと内部からの瓦解という目の前の脅威を見過ごした
ロシアウクライナ問題がどうなるか気にしているようだが、日本も織田武田と同じ戦略的近視状況である
閣僚らの判断ミスで日米同盟や自衛隊が機能せずあっと言う間に中朝韓ロに陸海空の主導権を奪われ日本の主要都市と首都が陥落するかもね
いくら日本が世界有数の軍事力を持ってもあっけなく >>913
家忠日記でそれな
北条が徳川に使者出して明確に打ち合わせしてるんだよ
勝頼は馬鹿みたいに東奔西走させられただけ
徳川北条は相手にする気はない
武田を走らせたら勝利なんだからな >>915
中国のどこにそんな強力な海軍あるんだよ
ひと昔前のボロ艦隊なのに
そもそも日本が占領されたら次は間違いなくアメリカの番
おまけに太平洋の制海権を同時に失うからアメリカはマジになるぞ
核兵器の使用も最早ためらわんだろうな >>915
お前は敵の戦力分析をキッチリやれ
誇大妄想がすぎる。左翼寄りのマスゴミに騙されすぎなんだよ
中国の軍事力は実際はロシアのお下がりが多くハリボテだしな ロシア製戦車買った国、ポンコツなのがバレて顔真っ青だろうな
爆発反応装甲がジャベリンに対して無力なのバレちゃったから動く棺桶状態 落ちつけよ
斜陽の日本経済は武田と同じだしアメリカの同盟を過信するのは禁物
まあ同盟関係だけみればアメリカは徳川ではなく日本が徳川だけども
善戦抵抗すら出来ない役立たずなら切り捨てる
お忘れなく 中国の国力は日本の2.5倍
まもなく3倍になる
戦車とかの話は知らんけどサイバー関係は相手の方が圧倒的に上 >>920
いくら何でも武田の経済を今の日本の経済と同じにするのは異常だわ
あと、アメリカが基地のある日本を見捨てました、となるとほかの同盟国も
アメリカから離れるんだよ。外交上手のアメリカがそれをわからないほど馬鹿じゃない
そもそも日本にいる米国人はどうするんだよ
かなりの数になるのに >>921
中国の経済報告は国家による無理やりのものが多く、実情はかなり疑わしい
しかもあの国は一人っ子政策の失敗で高齢化が迫ってる
サイバー関係?
もしそれだけ圧倒的に上なら、なぜノーベル賞候補すら未だに出てこないのよ
外国から技術盗み取るだけで何にも生産しないからだろ、あの国は >>922
だから
経済も防衛力も同盟国も過信すんなって
おまえは戦略的近視だぞw >>924
お前に言われたくないわ
ここ30年で人民元の下落は600%を超える
ここ10年で住宅価格の上昇は500%を超える(何度かの不動産バブル崩壊があったのに・・・)。
都市と農村の貧富の差が広がっていて、1978年は1.8:1だったのが2009年には3.5:1となっている。
政府支出のうち財政支出が占める割合は、中国は30%で日本は4%だ。
100万ドルごとのGDPの財政支出人員は中国が39人、日本は1.38人。
中国の正社員の平均賃金はアメリカの6%なのに中国の平均住宅価格は既にアメリカを越えている。 中国はハッキリ言って武田に近い
ハリボテで塗り固めた経済
結果を上げなかった地方には容赦ない粛正する文革以来の伝統
だから地方も結果を中央に過大報告している
戦果をろくに挙げてないのに無理ばかりして経済に負担かけまくってる
信玄はほぼ毎年2万の動員かけて得たのがあれだけ
話にならないだろ
それで豊かなように装って内実は勝頼の時代に破綻した >>923
思考回路が勝頼みたいw
米国さんは日本飛び越えて中国ばかり見てるよ
中国が脅威だからね 戦国時代と現代を無理矢理繋げるとしたらどちらの時代も情報が重要
勝頼もプーチンは見誤ったからな
中国のサイバー技術は脅威だから高市が危機感持って対策しようと言ってんだよ >>913
信玄「後詰が来る?!逃げるぞー!」→追撃されて大損害を受ける。
勝頼「後詰が来た?!もう逃げられない!ここは決戦するぞ!」→信長に読まれてて一万人討死にの大損害
って感じにどっちを選んでも死っていう経験してるから正解が分からなくなってたんだろう。引いて負けて押して負けてではなぁ。 >>929
偉そうなこというなら統計出してみろ
そうやって口だけの奴は絶対に統計出さないよな >>931
足軽大将1人2人失った戦いと、重臣の大半失った戦いを同一にしてしまうのが脳筋 >>929
中国が脅威?
ああ確かに脅威だな
恒大がドル建て債でデフォルトに陥ってるし。
かつてのリーマンみたいなことになったら厄介だから注目はしてるだろうな >>933
信玄その前の上田原でも重臣数名失ってるからな
しかも同じ相手に >>932
GDPくらいググれカス
経済は中国市場抜きには語れない
見たくないものは信用できないで済ますのが勝頼脳 >>933
さっさと撤退してたら軽微な損害で済んだのにな。
信長にしたって浅井長政が裏切ったときは一目散に撤退のしてる。 織田=アメリカときたら
徳川=日本
武田=中国
北条=ロシア
佐竹ら反北条連合=NATO
にしかならない >>936
だからそのGDPが当てにならないんだよ
あの国は中央政府が絶対で情報統制しまくってる
地方は粛正を恐れて中央に過大な結果を挙げてる可能性が非常に高い
海南航空集団が破産手続きに入る
華夏幸福が53億元近い銀行や信託会社からの融資遅延を発表、デフォルトに陥る可能性大
永城煤電ホールディングスグループの10億元の社債デフォルト
渤海鉄鋼、海鑫鉄鋼、東北特鋼、達州鉄鋼、四川煤炭集団、天津物産集団などの大型鉄鋼、エネルギー総合集団企業。青海省投資集団、雨潤集団、方正集団もデフォルト
お前こそカスだろ
それだけ偉そうなこというなら統計出せ
悪口しか言えないカスが >>939
何年も中国崩壊すると言い続けてるネトウヨ経済学w
現実は中国のGDPは日本の3倍
アメリカを抜く
GDPの統計も信用できないと見たくないものは見ないw
アメリカの要人達は日本を無視して中国にしか目が向いてないというのに >>942
統計出すのは君の方の義務だろw
真のGDPの統計をどうぞ >>943
全く統計を出さないカス
左翼っていつも口だけ >>916
こうやって片方の言い分しか見ないアホ
ミリタリーも好きなやつは双方の記録みて照らし合わせる
北条が動けなかったのは佐竹が武田に呼応したからだ
甲州征伐始まるまで北条は包囲網敷かれ信長に泣きつき武田攻めてくれの催促
北条こそどこにも主力向かわせられない状態だった
天正壬午の乱でも北条は4万プラス援軍1万もいたのに9000しかない徳川に佐竹が動き出したため信濃甲斐譲る大幅譲歩で和睦して撤退
北条って多方面に敵いるから長期間一つの勢力と戦い続けるの無理なんだわ NGID:DmbsvPC2
NGID:M9CWg7/3
連鎖設定も付けてスッキリ。 >>945
家忠日記の内容を読んだ上で言ってるのか?
で、貴方が言ってる武田、佐竹の資料とは何? 実際に史料とか統計出さずにえらそうなことだけ言うやつ多すぎだろ >>950
お前みたいに言うやつに限って口だけなんだよな 中国の統計ならNo.2の李克強でさえ信用してないから今のロシア軍と同じで実際の推移を見るしかない 北条が当方滅亡って書いたのは武田との同盟決裂後に由良が寝返った時のだろ、
その後は再度由良を服属させてる >>803 >>804
僕はその人じゃないけど、実際にワッチョイスレだと、
菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロしまくって、
他人を装ってる事が指摘されてたように思うけど、
それでそんな風に書くのはどうかと思う。
その菅沼認定って、>>157とかにあるような矛盾に、
菅沼認定をしている菅沼認定厨さん自身が答えられてない時点で、
そんな事を書いてもしょうがないように思うけど、どうなのかな。
>>783 >>784
上記のように菅沼認定厨さんがIDコロコロとか他人装いとかをしている事が、
可能性高いと思われる状況で、同じような事を書いて、同じように自身の気に入らない意見とかを抽象的にくさそうとしたり、菅沼認定とかに躍起になってるようなレスがあったら、そう疑う人が出てくるのも仕方がない様に思うけど、どうなの。 >>711
ん?それって僕の事書いてるの?僕は>>698とかにあるように、普通に信長公記や三河物語とかも使ってるように思うし、
軍鑑には信用できると思しき所も普通にあると思うし、
軍鑑で同時代の資料と比較して信用出来ないと思う所は、>>707にあるように、
僕は普通に否定してるように思うんだけど、なんで君はそんな事を書いているのか、
答えて欲しいと思うかな。
>>720
実際には、>>157にあるような感じで、矛盾しまくってるように思われる菅沼認定をして、
その矛盾にろくに答えられてないと思われる、勝頼スレ37とかでIDコロコロとかをしている可能性が高い事を指摘されていると思しき、
菅沼認定厨さんの事を、その人は言ってるだけじゃないのかな。 >>717
今度はその人を菅沼認定なの、菅沼認定厨さん。
とりあえず、僕の軍鑑についてのスタンスは、>>955のような感じだし、
>>704にも似た事書いたように、菅沼認定厨さんは僕と明らかに特徴の違う人を菅沼認定したりする割には、
君が菅沼認定している一人である僕が書き込みをすると、>>703を見ると、
急に書き込みをやめてNGにしようとしてる事からして、明らかに他の菅沼認定をされてる人と対応が違うように思われるから、
上記704のような感じで、君は君が菅沼認定してる人々がそれぞれ違う複数の人達だっていうのは、普通に気が付いてるように思うんだけど、どうなのかな。
>>724
何々?今度はその人を僕と同じ人認定してるのかな。普通に特徴が僕とは違うように思えて、
共通項があるとすれば、やたらと異常に信長持ち上げをしていて、信玄や武田叩きをする事に躍起になっているように思われる、
菅沼認定厨さんに都合のよくない事を書いている、というだけにしか思えないけど、
これでどうやって同じ人認定するのかな。上記717宛に書いてある事と合わせて答えて欲しいと思うかな。 >>937
敵が来てからだと遅過ぎるし。
信玄も後詰が着いてない時に逃げ出したけど追いつかれて自軍の三分の一の敵にボコボコにされた。逃走戦は好条件を揃えないと自殺行為にしかならない。 >>726
>>73 >>77を読むと、菅沼認定厨さんは、史料、と書く人も普通に菅沼認定してるように思うんだけど、
そうやって無理があると思しき言い方で菅沼認定するの、いい加減やめた方がいいと思うんだけど、どうなのかな。
>>722
別にそんな事しなくていいと思うけど。>>698にあるような感じで、
三河物語にあるような地形的状況と、信長公記にあるような評価を考慮すれば、
武田が長篠城周辺から動かないで、周辺地形を利用していけば、、そもそも撤退する必要すらなくて、
織田徳川が長篠城の救援に来る事を妨害する事は極めて容易に思うけど。
仮に撤退するにしても、上記698にあるような感じで、三河物語を基にするなら、
長篠城周辺から設楽まで行く途中の川を渡るには、橋が一つしかなかったようだから、
それを壊してから撤退すれば、普通に武田勢は織田徳川勢に追いつかれる事なく撤収可能だと思う。 >>959
なんで撤退するかしないかの二択でしか考えられないのかな?
撤退すると見せかけて迎撃したのが三方ヶ原だし、撤退すると見せかけて伏兵を置くのは島津の戦法
敵だって分かってるから撤退したら必ず追撃するなんて単細胞なものじゃないよ
戦国時代のほとんどの戦いは睨み合って決着もつかずどちらかが撤退して終わりなのを忘れないようにね
君の言い分だと城攻めてる時に後詰めが来たら必敗かのような書き方 >>959
>>960にあるような感じで、三河物語が記述する長篠城周辺地形と、
信長公記にある評価を基にすれば、そもそも撤退する必要すらないと思うけど。
仮に撤退するとしても、これまた上記960にあるような感じで、
三河物語を基にした場合、長篠城周辺から設楽まで行くには、途中の川を渡る為の橋が一つしかなかったように思われるから、
この橋を壊した上で撤退すれば、織田徳川勢主力が武田勢が撤収している事に気が付いて、
追撃を始めるタイムラグ、その橋まで移動するタイムラグ、壊された橋を修復するタイムラグ、
を考慮すれば、武田勢主力は織田徳川勢主力に追いつかれる事なく、武田領国まで撤収可能だと思うけど。
>>740
さすがにそれだと、軍鑑でも信長公記でも、武田勢が織田徳川勢の陣地を攻めて撃退され、というのを
何度も繰り返しているように思われるので、普通に撃退されて戻ってきた将兵が敵陣地の様子とかを報告するんじゃないの?
と思うんだけどどうなの。
そんな敵陣地の様子が分からない状況で、武田勢が無意味に突撃をさせるとも考えにくいと思うし、
軍鑑を読んでも、武田勢は織田徳川勢の陣地の柵とかに注目してるように思うし、
これまた軍鑑だと山県勢は徳川勢の柵を回り込んで戦おうとしてるように思われるので、
様子が分かってないとは思えないんだけど。 >>961
「迎撃すればよかった」って言うのは余り言わない方が良い
何故なら「何処で迎え撃つつもりなの?」って質問が絶対飛んでくるししかもそれに答えられた奴を見た事がない。
逃走戦での迎撃は考えるほど簡単じゃ無い。最初からそれを想定して地形を熟知した上で訓練をしてないと絶対無理。
現に武田信玄すら出来てない。信玄に出来ない事を勝頼にさせるってのも酷だろう。しかも条件は砥石崩れより悪い。 >>963
君の意見は
・戦争は先に戦場に着いていた方が有利(実際織田に陣城を作られたのが敗因だった)。特に守りを固められたら尚更
・戦う場所は武田が決められる
二つが抜けてるから説得力がない
前者なんか孫子に書いてある常識
迎撃する場所なんて設楽が原以外ならどこでも史実よりマシだろうよ
最悪の場所が設楽が原 >>744
いい加減、菅沼認定厨さんの菅沼認定については、>>157や>>704にあるような矛盾について、
ちゃんと答える事から始めた方がいいと思う。
>>751
史実の長篠の戦いのように、勝頼が設楽で大軍で陣地を作って待っている織田徳川勢に
寡兵で攻撃を仕掛ける、なんていう状況にならなければ、そんな鉄砲がどうとかいう話になったか疑問なんだけど。
武田は織田徳川相手に長篠までは複数の戦略的勝利を得てるように思うけど。
>戦闘のプロ集団
そもそも、徳川が参考にしたのは武田の方なんじゃ。織田も参考にはしてるだろうけど。
それから、織田勢は佐久間折檻状とか読むと各武将がどれだけの軍勢を整えるかは、
武将達それぞれに任せられていたように思われるし、武田のように具体的な軍役命令とかしてなかったようい思われるから、
とてもそんな感じではなかったように思われるんだけど、どうなの。
>>758
まじめに、そこまでの状況で、菅沼認定厨さんが菅沼認定されてきたすべてを菅沼認定して、
同じ人認定するのは、無理があるように思うんだけど、どうなの。 残念ながらゲームの様に簡単にはいかないのよ。
まず先に着いたほうが云々というのは意味が無いので無視して「織田に防御を固められていたから負けた」というのは間違い。正確には「織田が殺戮陣地を構築しているのが分からなかったから負けた」となる。と、いうのも長篠からは設楽原が見えない。また武田軍(連吾川西)から観ると織田・徳川陣は柵しか見えない。つまり武田軍には織田・徳川軍が巧妙な陣地を作っているとは分かってなかった。
「戦う場所は武田が決められる」事は武田軍にとって何の助けにもならない。と、いうのも武田軍には信長の「設楽原を要塞化し武田軍を粉砕する」作戦が見えていない。武田が攻められていないのは信長が攻めてこないからに過ぎん。そして信長が攻めてくる時は武田を確実に滅ぼせる時という予想はあったろう。そして否定する材料もなかった。
つまり、武田軍にとって先に着いてるのがどうとか戦う場所がどうとかは机上の空論、生きるか死ぬかの場面では何の価値もないものだったのよ。 >>963
>>698 >>962にあるような感じで、三河物語、信長公記を基にすれば、
そもそも武田勢が長篠城周辺から動かないで守っていれば、
三河物語にあるような、長篠城周辺から設楽まで行くのに途中の川を渡る為の橋が一つで、
それを越えた後も細い道が何キロも続いているように思われる状況で、
その細い道や橋を利用して守れば、織田徳川勢を防ぐ事は極めて容易に思うけど。
実際に、信長公記を読むと、信長は武田勢が設楽まで来た事に大喜びしてるように思うから、
信長も勝頼が設楽まで来るとはそこまで思ってなかったように思うし、
そのまま攻めて勝つのが厳しいと信長も思っていたからこそ、信長は設楽で陣地作って守ってたと思うんだけど。
撤退するにしても、上記962にあるような感じで、三河物語を基にすれば、
途中の川を渡るのに橋が一つしかなかったように思われるので、その橋を壊してさえしまえば、いくらでも撤退が可能だと思うけど。 >>966
なんか信長を無理に持ち上げようとしすぎじゃないの。
普通は物見とかを派遣すると思うし、物見が仮に帰ってこれないなら、
それだけ厳重な防備の要塞だっていう話になるとおもう。
>信長が攻めてこないからに過ぎん。
何を言ってるのかと思うけど、実際には、>>698 >>967にあるような感じで、
信長公記とかを基にしても、信長はそのままだと武田勢の妨害を突破して長篠城を救援するのが厳しいと思ってたからこそ、
陣地を設楽に作って守っていて、設楽に勝頼が来てくれた事で大喜びしているように思うんだけど。
信長だってそれまでの戦歴で、朝倉浅井相手の志賀の陣とか、1572年の対峙とかで、
険阻な地形を利用した敵に手が出せなくて、対峙戦になっていた事は複数あったんだから、
信長が強力な勢力が守る地形を超越して勝利をほしいままにできるとは、信長自身でさえ思ってないように思うし、
それまで織田徳川相手に複数の戦略的勝利を得てきた敵側の武田はもっと思ってないように思うけど。 >>966
「分からなかったから負けた」
それ何の言い訳にもならないからこそリスクを抑えるため先に戦場に着いていた方が有利という法則が生まれてるのに何言ってんの?
戦いは地形を生かすことが肝要という常識すら君には抜け落ちてるし
繰り返すけど知らなかったから仕方ないって最高に勝頼をバカした言い訳だぞ
知らないなら知らないなりのやり方もあるんだし
一番やらないといけない仕事を怠っていたということだからな >>965
の
>>758
は
>>756
宛。ごめんごめん。訂正をしておくね。菅沼認定厨さんは、菅沼認定をするなら、
上記965とかで聞かれていることに、答えて欲しいと思うかな。 >>760
追撃戦でやられてる、って事じゃないの。推測だけど。
>>765 >>767 >>768
菅沼認定厨さんの、菅沼認定について、>>965で聞かれているような事に答えて欲しいと思うかな。
このスレだけでも随分な人々が菅沼認定されていて、その矛盾について、菅沼認定厨さんは上記965とかで聞かれているような事に、
ろくに答えられてないように思うけど。
僕は菅沼認定厨さんが今認定しようとしている人とは違うけど、僕は菅沼認定厨さんが、
提示されている菅沼認定厨さんにとって都合がよくないと思しき事に答えずに、同じような事書いたり、
同じような菅沼認定をしたりするから、その事の提示をしていく事もある種しょうがないと思うけど、
そんな事を書くなら、上記965とかで聞かれているような、菅沼認定の矛盾について、
答えて欲しいと思うかな。 >>963
>何故なら「何処で迎え撃つつもりなの?」って質問が絶対飛んでくるししかもそれに答えられた奴を見た事がない。
答えてる奴は今までいっぱいいるだろ、それで上手くいくかは別として。
・寒狭川で迎え撃つ
・鳶の巣山で迎え撃つ
・長篠城落としてそこで迎え撃つ
・猿橋辺りで陣地築いて迎え撃つ
ぱっと思い出せるのでこれぐらい出てた。 今川義元、陶晴賢、関東上杉、龍造寺、武田勝頼、石田三成「知らなかったから負けました」
何の言い訳にもなってない
同情する面はあったとしても評価としては残念だね、という話 >>777
普通に考えたら、信長公記を基にしてさえ、織田徳川勢が少なくとも3万程、
武田勢が1万5千程、っていう状況に思われるから、
少なくとも倍くらいの軍勢が陣地作って守ってる所に、
長時間にわたって攻めていけば、そりゃ、武将の数人は倒されそうに思うけど。
軍鑑の話で言うなら、第4次川中島の方は普通の野戦で何人もの武将が倒されてるように思うけど。
>>774
つまり、>>157や>>704にあるような矛盾について、ろくに答えられてないように思われるのに、
執拗に複数の人々に菅沼認定をしていると思しき菅沼認定厨さんは、そうなってしまう、という事かな。
>>787
軍鑑とか読んでも、穴山勢の損害って比較的少ない様に思われるけど、どうなの。 >>775
>>967にあるような感じで、長篠城周辺の地形を利用すれば、防衛も撤退も容易だと思う。
>>776
>>962にあるような感じで、軍鑑や信長公記を基にした場合、
武田勢は長時間に渡って織田徳川勢の陣地に攻撃を仕掛けて撃退され、
というのを繰り返しているように思うので、普通どっかで戦況報告が入るんじゃないの、と思うけど。
信長が移動したのは、戦況把握がしやすく、指揮もしやすい最前線に近い所に移動しただけに思うけど。
>>792
むしろ、軍鑑の勝頼時代の事って織田側の信長公記と突き合わせても、符号する所とかあると思うけど。東美濃攻防とか。 >>788 >>814
菅沼認定厨さんの菅沼認定については、>>157 >>704にあるような矛盾とかに、
ろくに答えられてないように思われるので、それに答えて欲しいと思うかな。
>>830
僕の事を言ってるのだとしたら、そんな勝手な認定をされても困るかな、と。 >>972
川で迎え撃つ→別所街道からくる敵軍に対応出来ないし目と鼻の先の長篠城から攻撃されるから死ぬ
鳶ヶ巣山で迎え撃つ→伊奈街道を通ってくる敵軍に対応出来ないので完全に孤立して死ぬ
長篠城を落とす→攻城中に敵軍が来たら死ぬ
お前さんが考えつくことくらいは馬場信春だって考えてるんだよなぁ…それが出来ないから攻めたってだけで >>978
どれも後方の砦落とされて、陣城に突撃よりずっと良いじゃん
どっちの地形が良いかなんて明らかじゃん >>976
僕が>>709で書き込みをやめて、今日>>954で書き込みを始めるまで、
何人もの人々が菅沼認定をされてるように思うけど、仮に僕がその菅沼とか言う人なら、
菅沼認定厨さんの中では、僕はずっとこのスレにいて、書き込みをしてた、って事になると思うんだけど、
僕が書き込みをした時にだけ、そんな反応をするのは一体どういう事なのかな、っていう事に
答えて欲しいと思うかな。
>>791
軍鑑の品十四を基にするなら、武田勢右翼で戦ったのは、
馬場、真田兄弟、土屋、穴山、一条、の軍勢に思えるけど、このうち、
真田兄弟、土屋、は織田陣地を攻めて倒され、馬場は殿戦で倒され、
一条も倒されはしなかったけど、馬場と一緒に殿戦を戦ってたようだし、
これらを考慮すると、穴山は軍鑑では殿戦でろくに戦わずに撤退したように思えるし、
陣地を攻める時もそこまでの被害を受けてるように思えないので、
右翼での戦いに参加した武田勢においては、そんなに被害を受けてない、っていう感じになると思うけど、
どうなの。 >>978
だからあ、そんな事できるなら、信長がとっくにやってるでしょ。
>>968にあるような感じで、信長公記とか読んでも、信長自身がそのままだと武田勢の妨害を突破して、
長篠城を救援するのが厳しいと思ってたからこそ、設楽で陣地を作って守ってたように思うんだけど。
そもそも、三河物語を基にすると、長篠城周辺から設楽まで行くのに、橋が一つしかなかったように思われるのに、
どうやって回り込むの、って思うんだけど。
長篠城兵なんか、もうすでに武田勢の攻撃で消耗してたように思われるし、
武田だって千とか2千とかの抑えは置くだろうから、出撃してきた所で撃退されるだけに思うけど。 >>979
武田軍には織田・徳川軍が陣地構築して待ってるという情報が無いからその発想自体現実離れしたもの。根拠が無い。
これは仕方ない。当時の武田軍には織田・徳川軍の陣地を観測する手段が皆無だから。
つまるところ未来予知か妄想で戦術を選べば勝ってたという荒唐無稽も甚だしい状況なのが長篠での武田ってわけ。 >>982
一次史料や甲陽軍鑑否定してまで君はどんな勝頼像を描きたいの?
敵の援軍なんか来ないと思い込んで長篠城攻めていたら気がついたら背後に織田徳川軍がいて、撤退できないから仕方ないから要害の地から出て設楽が原に突撃?
あらゆる説の中で一番間抜けでおバカな勝頼なんだけど、それでいいの? >>983
どんな史料にも「武田軍は織田・徳川軍陣地の様子がわかっていた」というのは無かったはずだが。そもそも武田軍は織田・徳川軍の兵数すら把握しきれてないのに?
設楽原に行くのは当たり前で長篠城が敵側である以上そこに留まるのは危険過ぎる。更に短期決戦に持ち込まないと補給路が弱く兵力に劣る武田軍の不利は広がるばかりだろう?
しかも街道が二つ走っているので武田軍はその両方を守らないといけない。これは最悪の不利を背負ってる。
「攻めたのは間違い」ってのは信長の作戦から兵力布陣全て分かっているが故の結論で武田軍のリアル、「敵兵力十万、川の向こうに柵があるのみ、長篠城は開城拒否」ってところからすれば決戦以外選び難い。勇敢な男なら部下を見殺しにして逃走したろうが… >>983
一次史料なら勝頼は織田徳川軍を過小評価して突撃する気満々の勝頼しか無いが? >>984
信長書状「敵は要害の地にいる。鉄砲隊を派遣したがうまくいかなかった」
信長公記「勝頼は川を渡らなければどうってことなかったのにわざわざ渡ってきた」
勝頼書状「敵は手立を失い、逼迫してるからこちらから突撃する」
三河物語「設楽が原から長篠城まで狭い道が一本しかない」
甲陽軍鑑「撤退は面目失うからしない。強すぎる大将勝頼が敵を侮ったから負けた」
君の主張は上記記録を全部無視した暴論 >>986
一次史料だけに関して言うと
一番上は信長陣営側の情報であって武田側に共有されてる情報じゃないよね? 長期戦ができない
防衛ができない立地
それらが仮に事実だったとして、じゃあ勝頼はどうするつもりで長篠城攻撃始めて援軍が来た時どう対応するつもりだったんですか?
城攻め始める時に長期戦できるかどうか、援軍を迎撃できるかどうか検討もしなかったんですか?
それで気がついたら背後に織田徳川軍がいたの?
嘘でしょ、そんな暗愚な勝頼像は >>987
武田は自分が要害の地にいると気がついてない?
武田は狭い一本道を通過して撤退がより困難に設楽が原に進出することが危ないと分かってない?
マジで書いてるの? >>989
>>985
勝頼の当時の手紙な
なぜ一次史料や史実を否定してんだ?
>>983で自分で一次史料を否定するなっていってるのに >>988
長篠城は信玄に囲まれたら即開城し、家康に囲まれなら即開城という歴史を持ってる。また、城は激流を堀に使っているとはいえかなりお粗末な代物だった。だから囲めばまた呆気なく開城すると踏んでいたんだろう。
ところが家康はここに奥平信昌を配置しており、また信昌は長篠城を改造して防衛能力を増強していた。それでいきなり計画が狂った。 >>982 >>984
横からだけど、軍鑑読む限り、武田は織田徳川勢が大軍だという事は普通にわかってたように思うけど。
それがわかるなら、相手側の陣地の様子もある程度わかってるでしょ。
>>968にも似た事書いたように、普通は物見とかを派遣するだろうし、
物見が帰ってこれないほどの厳重な体制なら、相当な陣地だと警戒するでしょ。
>>698 >>967にあるような感じで、君の言うのとは違って、
信長側の信長公記でさえ、織田側は勝頼が設楽まで来なければよかった、みたいに思ってたと思うし、
軍鑑でも武田側は多くの重臣がそう思ってたように思われるのに、なんで君はそんな事を書くのかな、と思うんだけど。 >>990
簡単だよ
武田は当初は川を渡る前の要害の地で迎撃するつもりだった
しかし織田徳川は攻めてこなかった
勝頼は長篠城一つ犠牲増やして落としても大勢に影響もなく、信長家康と決戦することが本意だから川を渡ることにした
織田は助太刀だから戦意がないし、思ったより兵も少ない
これで勝てると考えた >>991
横からだけど、>>992にも書いたように、武田側が設楽の方に行かないで、持久戦をしてればよかった、
というのは、織田側の信長公記でも、武田側の軍鑑でも、共通してるように思われるんだけど、
君がそんな事を書いてもしょうがないと思うんだけど。 >>993
一次史料の内容は>>985だよ
つまり決戦する気満々で退く気が0
史実通り 何かスレが伸びてるなと思ったら
ああ、そうか今日は>>842の馬鹿が暴れる日だったか
と思ったら今日菅沼が暴れてるw
ああそういうことねw
菅沼は3月20日あたりから遡って、俺の菅沼呼びには全レス反応してるくせに
ID:8XbRe7gt (3月20日)
ID:CXVRu0w4 (3月22日)
↑のIDも菅沼呼びしているのに、このIDには一切レスしてないよなぁ菅沼
菅沼呼びしているのにw
自分にレスするのはやっぱり手間か?w >>991
長篠城は西上作戦で奥平が武田側について自動的に武田側になったもの
信玄の療養もその時期の武田軍の在陣も長篠城中心に行われているからあの辺り無知だったとは言えない
北側に土塁が多く設置され改修されていることなんか攻城戦1日目で分かることなのに、その時援軍が来たらどうするという頭なかったの?
どっちにしろダメじゃん 菅沼だけじゃなく、菅沼と呼んでなく間接的に悪口に言ってるのにも反応してるのに全く反応してないIDあるよなぁw
菅沼呼びしてるのにw そして、なぜお互い菅沼呼びしてるのに見分けられてるんだ?
おかしいなぁw このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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