秀吉の出自を徹底議論 Part.2
秀吉自身は卑賤の出から頂点にまで昇りつめたことを誇りに思っていたんだろうな
出自を恥じているならいくらでも脚色できたろうし
出自を改竄できるくらいの身分になった時にはもう周囲に知られまくっていたからできなかったのかもしれんけど >>170
誇りに思ってたということは、その嘘?を肯定してることになるよ
要は現在出自不明
農民、下民、武士、野武士いかなる説も不明 家柄とか出自とかうるさい連中に放言することによって面当てしているのか
出自を偽ろうとしているのか定かではないが
豊臣時代の秀吉には傲慢というか無神経というか
野放図な振る舞いをするような一面がある まぁ、家柄・血筋でマウント取ってる連中への牽制にはなるね
>>171
曲がりなりにも武士の出なら徳川家みたいに家系ロンダリングできるんじゃない? 戎光祥の大政所と北政所を読了。
読んで判ったのは「秀吉は徹底して自分の父方を否定し無視した」って事。
大政所没後秀吉がその追善供養の対象とした太閤様御先祖とは初期は大政所、直ぐ後に大政所の父母という栄雲院道円・栄光院妙円の二人に「変更」された。
この大政所父母とは大政所の実際の父母というより、関白任官記に登場した萩中納言とその妻を指すらしい。
大政所が本来の秀吉が設定した太閤様御先祖だったのだが、これは秀次事件でケチが付いてしまい大政所をそのまま豊臣家の家祖とすると都合が悪くなったのと
最初の大政所追善供養の千僧供養の各宗の段取りに手間取り、大政所月命日に執行出来なかったのが原因だとか。
この太閤様御先祖の中に木下弥右衛門にしろ竹阿弥にしろ全く父系は含まれず、完全に大政所の系統・秀吉の母系のみ対象にしている。
しかもわざわざこの大政所父母の命日とされる25日・29日に初期は毎月各宗から八百人の僧侶を集め千僧供養としていたという。
あの関白任官記の記述こそは秀吉の認定公表した公式出自であって、冗談でも何でもなかったのだ。
何だかここまで徹底すると、秀吉に取り実際の父の存在はすこぶる都合の悪い存在だったのかと勘繰りたくもなる。
本圀寺の豊臣家合祀位牌は日秀尼本人かその意向を承けた本圀寺サイドの造立で、全く秀吉や秀頼の意向は反映されてないようだ。 単にマザコンだったんじゃね
大政所が死んだときも大層嘆き悲しんだそうだ 実際大政所が家康の所に下向した時は、そのちょっと前まで病で臥せっていて
病み上がりの状態で出掛けてる。
秀吉は最愛の母もこき使ってるぞ。そのせいか大政所は秀長の所に長逗留する癖があったようだ。
対して北政所は家政に関しては秀吉と同格扱いで、北政所に口答えするのは秀吉に口答えしたのと同じ処罰とされた程。
豊臣家中は秀吉と北政所の二人がツートップで、その下に秀吉の肉親という感じ。 関白就任直後の有名な秀吉自筆の掟書だな
「秀吉・お祢ゝニくちこたえ候ハヽ、いちにち一やしはり可申事」 >>178
ということは秀長がNo2ってよく表現されるけど実際はNo3だったのか
豊臣家じゃなくて豊臣軍ではNo2かもしれんけど 確かに秀吉親族は北政所に次ぐ立場になるけど、秀長は少し別
秀吉親族の内、日秀尼と異父とはいえ秀長と家康継室のみがきょうだい関連で
その中で秀長ほど軍政共に秀吉政権中枢にて重きを為した者はいない。
後の日秀尼はその子らは秀吉の継承者に補されたが全て何等かの形で排されていき、家康継室は政治的に利用されたのみだ。
秀長はそんな秀吉に振り回されるだけの親族の中それなりに主体性を持って秀吉に関わり続けられた人物。
ただ秀吉の金銀を全て管理し、各大名家領内の太閤蔵入地から集められた財を
蔵に納めて以降それを周知したのは北政所とその配下のテクノクラートと言うべき女房衆。
いわば北政所は秀吉政権の経済力を統轄していた訳で、秀長(当然単なる配下の奉行も)はそれには触る事すら出来ず
秀長は知られる通りえげつない高利貸で財を成したが、それも莫大な豊臣の財を使えないのに
度々の秀吉の軍を催すのを受け対応するには郡山領だけでは追い付かないから、それで賄う必要があったからかもしれない。
少なくとも経済力では秀吉親族は秀長を含め北政所には遠くおよばなかった。 父親の事を毛嫌いしてたどころの話ではない
記録抹消刑にでもしたいぐらい憎悪の対象だったのではないか 実の父だけじゃなく義父の竹阿弥(秀長・旭の父)の話も少年期を除けばほぼ出てこないな
秀吉が織田家で出世する頃にはもう死んでいたって可能性あるけど
竹阿弥についても秀吉はほぼスルーしているのかな 恐らく織田家で頭角を現した頃には存命でなかった可能性もあってか
特に竹阿弥も何等かの特別扱いを受けた形跡はないね。
ただ豊臣関白家でなく大和大納言家としては家祖に当たるので、秀長が別に供養した可能性はあるが
大和大納言家が早くに絶家した為、どうしてたかは不詳。秀長菩提所の春岳院や大徳寺で秀長と共に供養されてるかもすら不明。
少なくとも生前の秀吉及び秀頼による追善供養の対象にはなってない。 その頃も存命だったけど放り出されていたりして
秀吉だけじゃなく実子の秀長からも嫌われるようなロクデナシだった可能性 BSの関口宏の番組見たけど、晩年はあんなに鬼畜だって初めて知った
なんでこうなってしまったのか 秀吉猶子の伊達兵五郎ちゃんは
豊臣政権続いてたら本家継げてたんだろうか それには豊臣政権というより秀吉か秀次が長寿で壮健、かつ政宗が史実より
早目に死去でないとどうやろな。
秀頼だと状況次第でどうするかわからないが、猶子にした秀吉本人や関係が深い秀次が存命なら
伊達家督相続を強く推すだろうから可能性は高い。
ただそれでも政宗存命だとそう簡単に隠居しないし、状況によってひっくり返し兼ねないから
政宗も早目に居なくなるならば、秀宗の相続確定とその血統が伊達嫡流となれたと思う。
そうなれば和霊騒動の拗らせた性格にもならないだろうから、史実よりマシな感じかも。 弟の秀長はなんであんなに優秀だったんだろ?農民やってたから? 単純に兄に似て有能だったんだろう
姉や妹も鍛えれば有能だったかも >>187
前からそういう気質だったけど
それまでは使えてる殿がいたり
同等の身分の大名がいたからリミッターかかかってる状態だったが天下人となって掣肘できる存在がなくなった やはり秀吉の出自は相当低い
ひいき目に見ても楠木や赤松と言った悪党らとそう変わらないとみてよい >>193
元々そういう気質だったけどこれじゃ人がついてこないと思って抑えていたのかな
だとしたら何十年も抑えていたわけだからすごい忍耐力だ 中国の長い戦乱を制した4つの王朝の内3つ(秦、晋、隋)はすぐに滅亡するか統一を維持できず一地方政権に没落した
日本も戦国時代を制した豊臣政権はすぐ滅んだな 江戸幕府にしても鎖国で引きこもったから長続きできただけ。 >>187
認知症だよ。
認知症になると被害妄想的になる。
当時は認知症という概念がなかったから秀吉が病気であることに誰も気づけなかった。 議論しても意味ないだろ。本人が証拠隠滅してるだろうし。 現存史料からではねえ。流石に考古学的な新史料も出る可能性は薄い。
比較的早いのが「出自はあやしい」次があからさまに母方の出自の捏造とぼかしたご落胤説。
それから後やっと巷説レベルの可能性な父の名やその身分。
本人が如何に存命中徹底的に本来の出自情報を潰して回ったのかが窺えるようだ。
母の大政所や弟姉妹にも箝口を強いたのか、彼等からの関連史料からすらも辿れない。
豊臣家の所蔵してたであろう書類の多くが隠滅してしまった今、確められないのはその通り。 秀吉が自分の出自を隠蔽したなら豊臣家の保存文書なんて残ってても突き止められないんじゃね 父親抜きで母親が太祖って言うのはちょっと異様
乱交パーティ祭りで生まれたんで誰が父親かわからんってことじゃないよな 本圀寺に秀吉の位牌が安置されているのは事実だけど、最新の研究では日秀尼が建立したのではなく、秀頼もしくは淀殿が建立した可能性が高いんだって。となると、日秀尼は自分と秀吉の父親を木下弥右衛門だと認識していたのかどうかは、もう少し詳しく調べてみる必要があるね。 秀吉の出自については、最新の研究では様々な見解が提示されており、単純に「相当低い」と断言することは難しい。
確かに、秀吉の出自は、一般的に武士階級とは見なされない階層であると考えられている。しかし、近年では、当時の社会情勢や身分制度を踏まえると、必ずしも「低い」とは言い切れないという見方も有力になっている。
例えば、秀吉の父親とされる木下弥右衛門は、足軽であったと考えられている。足軽は戦闘員としての役割を担っており、武士階級の一員と見なされることもあった。また、秀吉の母親である仲は、尾張国の名家である竹阿弥の娘であったという説もある。竹阿弥は商人であり、経済力のある存在だった。
このように、秀吉の出自については、様々な要素が複雑に絡み合っており、単純な図式で捉えることはできない。
楠木や赤松といった人物との比較についても、注意が必要だ。楠木や赤松は、朝廷や幕府に反旗を翻した人物であり、必ずしも秀吉と同一視できるわけではない。むしろ、秀吉は彼らとは対照的に、既存の権力体制に取り入って、最終的には天下人へと上り詰めた人物と言えるだろう。 まぁたしかにそんな貧しい家出身で読み書きどころか士官して短期間で奉行できて美濃攻略戦では部隊を率いることが可能なのだろうかという疑問はあるよな
上洛して翌年には毛利の援軍の副将までやってるし。
部隊率いるのだってだれかに師事されなきゃ無理だろ。
武家の生まれだったら幼少から訓練受けてるけど百性が部隊運用、陣地作成、野戦のやり方、攻城戦のやり方、籠城戦のやり方、兵糧武具の補給できるわけねーわ
補修や築上もそこらへんの中卒がビル立てるから責任者やれって言われても無理
個人の戦闘力で名のある武将の首取って足軽から脱却できた藤堂高虎みたいな人とは違い個人の武力はからっきしの秀吉が個人戦闘でのし上がるのは無理なのでそこそこの家の出じゃねーの
劉邦は最初から蕭何や曹参たち凄い人物いたり劉備は盧植に師事受けてたから義勇軍率いることができた
なんの知己も無しでなんの経験もない百性には無理 >>142
字が下手だったのは下記の通り確かに秀吉本人が言ってることだけど
それが教養がないこととイコールにはならんと思うけどね
当時の識字率考えると読み書きできるだけでも中々のもんでしょ
(天正6年)7月23日付黒田孝高宛羽柴秀吉自筆書状
「此文ミゑもすましく候間、さけすミにて御よミあるへく候」
この書状は読みにくいだろうから推量して読んでください
(天正9年)5月17日付今井宗久宛羽柴秀吉書状
※秀吉自筆は追伸部分のみ
「はしかきハ我等てにて候まゝ、ミゑ申ましく候間、ミなミなと御たんかう候て御らん候へく候」
追伸は私が書きました。読みにくいので皆で相談して読んでください 代々の部下が存在しないから身分が低いことは間違いない
底辺ではないだけで いざとなったら身を挺してくれる家臣にあたる存在はいなかったってことか 読み書きだけでも3年は必要だし、部隊運用、補給の概念、統率など誰かの下に居ないと無理だからな
となるとある程度の地位は最初からあったと言うこと
字が下手な武将なんてたくさんいるし、それがどうしたのってこと 何と比べるかの問題だけど、鎌倉時代や平安時代まで先祖がわかってるのが普通だった国人階級と比べるならめちゃくちゃ低いだろ。足軽なんて武士と呼べるのか微妙だし。少なくとも侍階級ではない。 >>212
それわかってないだけだろ
資料がなければ今のところ不明 考えも無しに後継ぎをぶっ殺して勝手に詰んだり百姓丸出しだったなw
織田や徳川みたいな武家統治のメソッドを知らん野生動物 妻子皆殺しは異常な残虐だったが
養子とった後に実子ができて
実子に継がせようとして派手にもめると言うのは他家でよくあることだからな >>213
侍ってのは名字の地や官位がある階級のこと。秀吉は明らかに違うだろ。 >>216
それもわかってないでしょって話
不明なのが多すぎるんだよ スレの流れ見てるとある程度の地位にあったはずと言い出して
それにしては「〜がない」からそんな高いとは思えないと反論されると
資料がないから不明と言ってるな
秀吉の出自が高いという資料も無いのに 惟任退治記
「秀吉所生、元是非貴」
貴、をどう捉えるか次第ではあるが、まだ秀吉が絶対的な地位におらず、プロパガンダとして書かせた史料
成立は事件直後の天正十年十月
自分の出自を知っている同輩がうようよまだいたわけで、武士だったら武士と書かせたと思うけどな 武士と言っても戦の時以外はほぼ農民と変わらん生活している層もいるが
自分のことはちゃんと武士って名乗るだろうしな
他人どころか自分自身の目から見ても武士とは名乗れない身分だったとは思う 惟任退治記は天正記の一部です…
天正記については、秀吉の出自などに、公家の血筋などという分かりやすい大ウソはあり、他にも秀吉びいきだとされてますが、おおむね信頼度は高い方の史料とされています 針を売って旅したという逸話あるから
戦場で足軽相手に商売していた
家の出身では >>222
少なくても土地に根付いた商売(農民含む)をしていたわけじゃないだろう