秀吉の出自を徹底議論 Part.2
既に下級農民出というのは破綻しているのはこの板の皆が周知
では、なんだったのか?
そこをトコトン議論する。
※前スレ
秀吉の出自を徹底議論
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1610667352/ 秀吉の父とされる木下弥右衛門の位牌は山科本国寺に一応ある。
但し大政所や秀保らと合祀の体裁だそうで、今は殆ど現存しないが秀吉関係者の多くが
没後それぞれに寺院を建て菩提を弔われたのと比較すると、随分と扱いが低い。
大政所墓所だった大徳寺天瑞院が廃寺になってなければ、秀吉の父の位牌も合わせて供養されてたかもしれないが
天瑞院は消滅し、大政所墓所の覆堂も明治以降人手に渡り大政所の肖像画や五輪塔位しか大徳寺に現存してないのでは
父の位牌が大徳寺内に現存してるかは怪しいかも。 ✕天瑞院
○天瑞寺
現在墓所を護持している龍翔寺が非公開寺院なんで、五輪塔の写真すらねーな 「ちょうどいい機会だから一応やっとくか」くらいの扱いだな >>142
この場合には読み書きができるかどうかだけじゃ?
それだけでもある程度裕福じゃないと
この頃の識字率なんて10%無いでしょ 裕福とは言えない半農レベルの地侍でもある程度は読み書きはできたんじゃね 江戸時代だと
小藩の武士は文盲が珍しくないとか言われてたそうだけど 江戸時代の庶民が読み書き出来たってのも自分の名前くらいはわかるってレベルだったとかも聞いたことある
庶民と言ってもピンキリあるけど >>147
それって秀吉が作らせたんだよね?
なら秀吉の実の父親って木下弥右衛門で間違いないのかな それが本国寺に存在するのは知ってるんだが、これが何時奉納され回向の対象にされたかは知らんのよ。
ただ合祀されている面子からして秀吉没以前(秀次が無いのは秀吉存命中は罪人扱いなので許さない)なのは間違いない。
でも秀吉没後であっても、秀吉は別格で単独の位牌を作る事はあるが他と合祀はあり得んので実の所秀頼が作らせてても可笑しくない。
また本国寺が大政所所縁の寺院だと、本国寺独自で回向の為作ったのも充分ある。
少なくとも本国寺の解釈では「秀吉の父の名は木下弥右衛門」というのが明確なだけ。 寺側が気を利かせたか、大政所が生前お願いしていたって方が可能性高そうね 本圀寺(本国寺)は秀吉の姉瑞龍院日秀尼所縁の寺院だから
位牌造らせたのは日秀尼だろう。大政所や秀吉でなく。
となると秀吉と同父姉弟である日秀尼は自分と秀吉の父は木下弥右衛門だと認識してたという事。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 位牌自体の作成時期がはっきりして俗名が併記されてる訳でないなら
「日秀の父」=木下弥右衛門という解釈自体が後世史料を参照したもの
という可能性はふつうにあるか >>158
ひょっとしたら生前、秀吉に父の墓を作ってくれとお願いしたけど拒否されたりしたのかも
なので位牌だけでも自分で用意したとか
もしくは父親が違うので秀吉に頼むのは筋違いだと思って最初から頼んでいなかったりして 本圀寺に伝わる「木下弥右衛門」が日秀自身が自分の父として名指しした結果とすると
太閤素性記より古い有力な論拠になる
ただ江戸時代に本圀寺の僧が件の位牌を整理するとして
「日秀尼の父」をどう表現するかと言われると
それこそ太閤記や太閤素性記をあたって「木下弥右衛門」とする だろうしな 位牌が何時作成・誰が奉納かで秀吉の実父が誰なのか分かるかもしれないってのは楽しいな。
何せ秀吉自身が生前出生を捏造したプロパガンダやらかしてる程で、後の関係史料は大体が第一級とは言えない文献かはっきりしないかばかりだからな。
ただ秀吉は父に特別菩提寺建立をした記録がなく、「太閤様御先祖」なる存在に大政所没後供養はしてるらしい。
戎光祥の本で大政所と北政所とかいう本にあるそうだから読んでみるか。
でも木下弥右衛門が確定であっても、それだけでは身分がはっきりしないのは余り変わらんから貧農とかは無くとも
やっぱり当時の世間的に軽輩に近い存在なのかもな。 プロパガンダって父親が天皇であるってやつかな
さすがにあれは冗談みたいなもんでは
もし本気で捏造するならもうちょい現実的なこと言うだろう いやー、でも朝廷朝臣の頂点の関白がそれを書かせたってのは結構ムチャクチャだと思うぞ。
関白叙任のためにちゃんと近衛前久の猶子になったのはなんなのよ?て事なんだから。
それに関白という職は摂政と違い、実際は「成人した天皇に藤原氏の有力者が輔佐する為の令外官」 途中送信すまん
関白任官記のような自らが御落胤だから関白が相応しいなどと云う言い訳など本来無意味なんよな。
藤原氏の有力者のための専用職が関白だから。
摂政や征夷大将軍のような強い権力が付随するが、藤原氏以外の皇族や諸氏でも補されるのとは違うのだから。
冗談でも質が悪いだろう。案の定、後世では極端過ぎる秀吉ファン以外誰も信じず無視されたけどな。 酒の席でふざけて言ったのを真面目にとられた、とかそんな感じだったんじゃ 大村由己は秀吉祐筆、のち御伽衆
つまり秀吉に近似する側近でしかも一連と著作活動を秀吉の天下取りと並行してやってる
そして後に秀吉を主人公として本人が演じる新作能を創作する
つまりそれ自体が秀吉陣営→政権の大本営発表で「天下人秀吉」をプロデュースするもの
秀吉の生い立ちについては惟任退治記では「もとこれ貴ならず」と一貫してない
その辺の細かい経緯を信じさせたくて「秀吉は関白になる血筋だ」と言ってるんじゃなく
もっと漠然と「秀吉が天下を取るのは運命」という感じでしょ
当時の言葉で言うと天道ってやつ むしろそもそも無理があるし本気で主張すると皇族と公家に大迷惑だしで
配慮して創作されたのが御伽話じみた「萩中納言」なんだろね
御落胤説も明言は避ける 秀吉自身は卑賤の出から頂点にまで昇りつめたことを誇りに思っていたんだろうな
出自を恥じているならいくらでも脚色できたろうし
出自を改竄できるくらいの身分になった時にはもう周囲に知られまくっていたからできなかったのかもしれんけど >>170
誇りに思ってたということは、その嘘?を肯定してることになるよ
要は現在出自不明
農民、下民、武士、野武士いかなる説も不明 家柄とか出自とかうるさい連中に放言することによって面当てしているのか
出自を偽ろうとしているのか定かではないが
豊臣時代の秀吉には傲慢というか無神経というか
野放図な振る舞いをするような一面がある まぁ、家柄・血筋でマウント取ってる連中への牽制にはなるね
>>171
曲がりなりにも武士の出なら徳川家みたいに家系ロンダリングできるんじゃない? 戎光祥の大政所と北政所を読了。
読んで判ったのは「秀吉は徹底して自分の父方を否定し無視した」って事。
大政所没後秀吉がその追善供養の対象とした太閤様御先祖とは初期は大政所、直ぐ後に大政所の父母という栄雲院道円・栄光院妙円の二人に「変更」された。
この大政所父母とは大政所の実際の父母というより、関白任官記に登場した萩中納言とその妻を指すらしい。
大政所が本来の秀吉が設定した太閤様御先祖だったのだが、これは秀次事件でケチが付いてしまい大政所をそのまま豊臣家の家祖とすると都合が悪くなったのと
最初の大政所追善供養の千僧供養の各宗の段取りに手間取り、大政所月命日に執行出来なかったのが原因だとか。
この太閤様御先祖の中に木下弥右衛門にしろ竹阿弥にしろ全く父系は含まれず、完全に大政所の系統・秀吉の母系のみ対象にしている。
しかもわざわざこの大政所父母の命日とされる25日・29日に初期は毎月各宗から八百人の僧侶を集め千僧供養としていたという。
あの関白任官記の記述こそは秀吉の認定公表した公式出自であって、冗談でも何でもなかったのだ。
何だかここまで徹底すると、秀吉に取り実際の父の存在はすこぶる都合の悪い存在だったのかと勘繰りたくもなる。
本圀寺の豊臣家合祀位牌は日秀尼本人かその意向を承けた本圀寺サイドの造立で、全く秀吉や秀頼の意向は反映されてないようだ。 単にマザコンだったんじゃね
大政所が死んだときも大層嘆き悲しんだそうだ 実際大政所が家康の所に下向した時は、そのちょっと前まで病で臥せっていて
病み上がりの状態で出掛けてる。
秀吉は最愛の母もこき使ってるぞ。そのせいか大政所は秀長の所に長逗留する癖があったようだ。
対して北政所は家政に関しては秀吉と同格扱いで、北政所に口答えするのは秀吉に口答えしたのと同じ処罰とされた程。
豊臣家中は秀吉と北政所の二人がツートップで、その下に秀吉の肉親という感じ。 関白就任直後の有名な秀吉自筆の掟書だな
「秀吉・お祢ゝニくちこたえ候ハヽ、いちにち一やしはり可申事」 >>178
ということは秀長がNo2ってよく表現されるけど実際はNo3だったのか
豊臣家じゃなくて豊臣軍ではNo2かもしれんけど 確かに秀吉親族は北政所に次ぐ立場になるけど、秀長は少し別
秀吉親族の内、日秀尼と異父とはいえ秀長と家康継室のみがきょうだい関連で
その中で秀長ほど軍政共に秀吉政権中枢にて重きを為した者はいない。
後の日秀尼はその子らは秀吉の継承者に補されたが全て何等かの形で排されていき、家康継室は政治的に利用されたのみだ。
秀長はそんな秀吉に振り回されるだけの親族の中それなりに主体性を持って秀吉に関わり続けられた人物。
ただ秀吉の金銀を全て管理し、各大名家領内の太閤蔵入地から集められた財を
蔵に納めて以降それを周知したのは北政所とその配下のテクノクラートと言うべき女房衆。
いわば北政所は秀吉政権の経済力を統轄していた訳で、秀長(当然単なる配下の奉行も)はそれには触る事すら出来ず
秀長は知られる通りえげつない高利貸で財を成したが、それも莫大な豊臣の財を使えないのに
度々の秀吉の軍を催すのを受け対応するには郡山領だけでは追い付かないから、それで賄う必要があったからかもしれない。
少なくとも経済力では秀吉親族は秀長を含め北政所には遠くおよばなかった。 父親の事を毛嫌いしてたどころの話ではない
記録抹消刑にでもしたいぐらい憎悪の対象だったのではないか 実の父だけじゃなく義父の竹阿弥(秀長・旭の父)の話も少年期を除けばほぼ出てこないな
秀吉が織田家で出世する頃にはもう死んでいたって可能性あるけど
竹阿弥についても秀吉はほぼスルーしているのかな 恐らく織田家で頭角を現した頃には存命でなかった可能性もあってか
特に竹阿弥も何等かの特別扱いを受けた形跡はないね。
ただ豊臣関白家でなく大和大納言家としては家祖に当たるので、秀長が別に供養した可能性はあるが
大和大納言家が早くに絶家した為、どうしてたかは不詳。秀長菩提所の春岳院や大徳寺で秀長と共に供養されてるかもすら不明。
少なくとも生前の秀吉及び秀頼による追善供養の対象にはなってない。 その頃も存命だったけど放り出されていたりして
秀吉だけじゃなく実子の秀長からも嫌われるようなロクデナシだった可能性 BSの関口宏の番組見たけど、晩年はあんなに鬼畜だって初めて知った
なんでこうなってしまったのか 秀吉猶子の伊達兵五郎ちゃんは
豊臣政権続いてたら本家継げてたんだろうか それには豊臣政権というより秀吉か秀次が長寿で壮健、かつ政宗が史実より
早目に死去でないとどうやろな。
秀頼だと状況次第でどうするかわからないが、猶子にした秀吉本人や関係が深い秀次が存命なら
伊達家督相続を強く推すだろうから可能性は高い。
ただそれでも政宗存命だとそう簡単に隠居しないし、状況によってひっくり返し兼ねないから
政宗も早目に居なくなるならば、秀宗の相続確定とその血統が伊達嫡流となれたと思う。
そうなれば和霊騒動の拗らせた性格にもならないだろうから、史実よりマシな感じかも。 弟の秀長はなんであんなに優秀だったんだろ?農民やってたから? 単純に兄に似て有能だったんだろう
姉や妹も鍛えれば有能だったかも >>187
前からそういう気質だったけど
それまでは使えてる殿がいたり
同等の身分の大名がいたからリミッターかかかってる状態だったが天下人となって掣肘できる存在がなくなった やはり秀吉の出自は相当低い
ひいき目に見ても楠木や赤松と言った悪党らとそう変わらないとみてよい >>193
元々そういう気質だったけどこれじゃ人がついてこないと思って抑えていたのかな
だとしたら何十年も抑えていたわけだからすごい忍耐力だ 中国の長い戦乱を制した4つの王朝の内3つ(秦、晋、隋)はすぐに滅亡するか統一を維持できず一地方政権に没落した
日本も戦国時代を制した豊臣政権はすぐ滅んだな