X



戦国ちょっといい話50
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0739人間七七四年
垢版 |
2023/03/26(日) 03:14:21.88ID:6QIuKyed
兎口って何て笑うんだろうな
不気味そう
0740人間七七四年
垢版 |
2023/03/26(日) 10:53:20.18ID:AqAmt3K9
まだ真田宝物館に旗があるようだ
0741人間七七四年
垢版 |
2023/03/27(月) 16:05:02.71ID:hF7jsEmB
指物ついでに
「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」

佐竹氏と北条氏康の下総境合戦のとき岡部権太夫は猪廉の指物をつけて、戦場で組討ちをして首を取った。
しかし気づいてみると背中の指物がなく、
「これは組討ちの最中に指物が抜けたのを敵が拾っていったのだろう」と岡部は無念に思った。
そこで取った首をぶら下げ、退却する敵の正面に回って
「これは北条家人下総の岡部権太夫と申すものなり。
ただいまの戦で組討ちをし、指物を取り落としてしまった。
おそらくどなたか拾いなさった人があるだろう。
指物は猪廉である。この首はいまだ首実検をしていないので、これと取り替えてくれ」と声高に言った。
敵が大いに感心していると、武者一騎が出てきて
「殊勝な御所望である。猪廉の指物は関八州でも珍らしので拾いおいた。
すぐにお返ししよう」と返した。
岡部はよろこび首を渡し「御芳志感謝いたす」と背中を向けて指物をささせ、一礼して立ち帰った。
「あっぱれ大剛の武士かな」と敵味方ともに感嘆したということだ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
北条家、岡部権太夫の指物・いい

こちらだと下野での争いになっているためか(沼尻合戦?)北条氏政カテゴリだった
0742人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 18:06:48.91ID:n94hwOxL
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/130sekigahara.html
米沢市上杉博物館 没後四〇〇年記念特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」

会 期:前期 4月22日(土)~5月21日(日)
    後期 5月27日(土)~6月25日(日)


定番の国宝「上杉本洛中洛外図屏風」原本展示以外にも、各所から貸し出しを受けた展示品が目白押しなのでぜひご来訪ください。

関が原関連の武将の没後400周年も、そろそろ打ち止めですかね。大阪の陣関連だと何年後までできるのか。




展示品のうち佐竹義宣の甲冑は、秋田市佐竹史料館が改築工事でお休みだからってのもあるんでしょう。
その他の貸出先が工事中ってわけではありませんが。
0743人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 18:40:36.33ID:QINr/QdV
スレチのバカって何でこんなに頭が悪いんだろうな
0744人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 18:59:41.95ID:0AUyz2EU
甲州武田の普代衆、隨分の(立派な)侍である今福浄閑という人物が在ったが、彼は若い頃より
ためし物(試し斬り)を能く斬る人で、しかも上手であった。据物を斬ってその頸が落ちる瞬間、
脇差しを以て傷口を貫いて、下に落とさぬよう落下の途中で上に上げるほどの手練であった。

彼はためし物の上手であったので武田家の侍衆は大身・小身共にそれを浄閑に頼んだ。
そのようであったので、年齢が四十六、七歳の頃までには、千人に及ぶほど斬ったと評された。
しかし実際には百人から二百人ほどであっただろう。

この人はどういうわけか、自身の能き子供が幾人も病死した。しかし今福浄閑は禅の参学などして
心も出来た人であったので、下劣な批判には取り合わず、子供が死ぬのも所詮因果に過ぎないとして、
すこしも取り合わなかった。

ある時、信州岩村田の法興和尚が甲州に御座あったが、今福浄閑はこの和尚に見廻(見舞)に参った。
この折、法興和尚は今福入道への教化として言った
「その方は良い齢であるのに、ためしもので罪を作るのは勿体ない。」

今福入道は
「私が斬るのはどこぞの囚人であり、その科が斬り参らすのです。」と言われた。

知識(和尚)は「それは先ず尤もである。」としばらく間を置き、法興和尚は仰せに成った
「今福入道、このいろりへ炭を入れてくれないだろうか。」
「畏まって候」と炭を持って炉辺へ寄った所、和尚は宣われた
「大きな炭を火箸にてはいかがであろうか。定めて、さすが武田の幕下歴々の今福入道であれば、
指を以て炭を入れてくれないだろうか。」

今福浄閑はまた、物の興のある人物で諸芸に達し、既に能などする時も、古保庄太夫などの能楽の者が
立ち会っていても、結句今福の方が優れているほどであった。そういった人であったので、この時も
炭をいかにも面白く入れられた。

さて、立ち退く時、浄閑は手を拭った。このとき和尚は宣わった「今福入道はどうして手を拭うのか。」
「今持った炭のために汚れたのです。」
「この炭を焼いた炭焼の手も、定めて汚れていたのであろうな。」

今福入道は申した「炭焼はこれを製造して出すのですから当然ですが、今はその炭を取った私の手が
汚れたのです。」

「さてこそ、先刻その方がためし物について、相手に科があると言ったが、それを究めて頸斬る今福浄閑にも、
(炭を取った手が汚れたように)その罪がまとわりつくのだ。」

このような法興和尚のすすめにて、今福入道はその後、ためし物を斬らなくなったという。

『甲陽軍鑑』
0745人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 19:02:03.64ID:atCz6vka
佐竹義宣が1633年没、伊達政宗が1636年没、あと十数年は400周年記念行事があるでしょうよ
0746人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 19:12:08.10ID:s91GNlX4
「甲陽軍鑑」といえば今川氏真を「馬嫁(ばか)なる大将」と書いてるけど
大河ドラマの早川殿はむしろ足が悪かった感じに
(徒歩で逃げたことに対して父の北条氏康が怒ったネタを使うため?)
なってたから馬の嫁、て感じではないな
0747人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 21:38:49.90ID:gONLVMMO
>>746
馬に嫁ぐと書くわけだから馬並みの巨根の小姓と懇ろという風聞があったんじゃないか?
0748人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 21:48:12.55ID:ttbfDJcS
「続武家閑談」から正重の疵
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7323.html
の元になった記事

掛川城攻めの時、信長公御家中の日根野備中(日根野弘就)の甥である日根野弥吉が落城時に城中にいた。
徳川軍が城中に攻め入ったところ、二の丸と本丸の間で太郎作(水野正重)が弥吉にであった。
弥吉が言うには「その方は家康家中のなんと申す者だ。
それがしは日根野備中の甥、日根野弥吉と申すものだ。
それがしのことはその方の主君の家康もよくご存知なので、わが首を得たならば家康に見参させよ。」
と名乗り、会釈もなく太郎作と組んで、首を取られた。
太郎作が弥吉の首を取って立ち上がったところを、敵一人が来て、一間半ほどのところから太郎作の腰のえびらを射通した。
重傷で苦しんでいたため、丸山清林という外科を大御所様は御前に召され
「水野太郎作の傷の具合はどうだ」とお尋ねになられた。
清林が申すには「急所に少しはずれましたのでそのうち楽になるでしょう」と申した。
大御所様は「なにとぞ、なにとぞ太郎作の命を救ってくれ」と重ね重ね清林に頼まれた。
冥加が至極あり御意のとおり完治した、と物語った。
(これは水野太郎作の息子が書き置いたものを写した話)

日根野弘就も甥と同様、当時今川方だが、水野太郎作の息子は当時も織田信長の家臣と認識したたのだろうか
0749人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 22:09:38.84ID:Em404pRp
>>748
甥の説明文として信長公御家中の日根野備中と書いてるだけだろ
書かれた時期とか考慮して読めよ
これだから中卒は‥
0750人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 22:12:47.14ID:Em404pRp
この時は2人とも今川方でした!って注釈いれないとバカには理解できないらしい
0751人間七七四年
垢版 |
2023/03/29(水) 22:56:38.93ID:G39ficZt
同書は信長の死後の天正十二年の蟹江城の合戦までの記事があり
水野太郎作が桶狭間の戦いの時に十六歳としているため
その息子が書いた年を考えると、信長死後だいぶ経ってからと思われます。
0752人間七七四年
垢版 |
2023/03/30(木) 09:12:20.35ID:PCZy94dg
伝世洋剣 水口レイピアの謎に挑む
小林公治 編
https://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=884
それは日本製の「洋剣」なのか?
滋賀県甲賀市の神社に伝わる一振の長剣、水口レイピア。美術史・理化学・文献史の研究者が多角的な視点から、
東洋と西洋が交差した大航海時代に誕生した比類なき伝世品の実像に迫る。



まとめの2019年度のこちらが書籍になったようです。編者は実際に調査された方ですので、詳細な経緯がわかりそうですね。

【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12141.html
0753人間七七四年
垢版 |
2023/03/30(木) 09:38:21.24ID:wJymD5x+
先月出た歴史文化ライブラリーの
北野信彦「天下人たちの文化戦略 科学の眼でみる桃山文化」
のテーマが桃山文化・寛永文化の技術における世界(中国、東南アジア、西洋)の資源や技術の応用だったから重なるか
レイピアの話はなかったけど
0754人間七七四年
垢版 |
2023/03/30(木) 11:50:57.41ID:/0xlCPcr
どこがいい話なんだスレチくん
スレ立ててそこでやってろよ
0755人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 09:26:50.50ID:uCy/L7mH
南北朝時代の錦旗が実在していたとは、文化財指定が40年前ということなのにさっぱり知らなかった
というか戦国時代に浪岡北畠氏は断絶したものとばかり・・



東欧日報2023年3月29日
北畠家の宝4品 板柳町に寄贈/現当主・顕浩さん
https://toonippo.ismcdn.jp/mwimgs/c/f/300m/img_cfea9b6a8b247878ffc8787dabb250b91012254.jpg
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1526629

浪岡北畠氏の子孫に当たる青森県板柳町出身の北畠顕浩さん(59)=盛岡市=が28日、板柳町役場を訪れ、
北畠家が所蔵する約700年前の錦旗(きんき)や、津軽最古の民間記録とされる永禄日記の原書など4品を町に寄贈した。
いずれも1984年に町第1号の文化財指定を受けた。町は郷土資料館などで保管、展示する方針。
0756人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 12:15:12.41ID:Et8oKEjV
>>755
死ね
0757人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 13:50:23.23ID:iY1J9mvs
スレ違いにしても死ねは言い過ぎ
0759人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 20:49:26.67ID:eLwg5cPw
https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/takii-date/photo_002b.jpg

こちらの青森県板柳町の解説によると、>>758の逸話の子孫が>>755の方らしいですね。
ただ、今回家宝を寄贈して盛岡在住ってことからすると、既にご一族は先祖代々の館跡から離れているのかな?
0760人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 21:15:56.89ID:qqupdpl3
「永禄日記」を読むと

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7067.html
津軽信建と天藤四兄弟
の話があって、てっきり津軽信建の悪逆ぶりが後世に盛られたのかと思ったら細部も同じで驚いた。

あと元和元年(慶長二十年)の記事に
大坂落城時の秀頼公御詠歌(辞世の句?)として
「アワレタゝウキトキツルゝトモゝカナ人ナサケハヨニアリシホト
(哀れただ 憂き時連るる 友もがな 人の情けは 世にありしほど?)」が載っていた
0761人間七七四年
垢版 |
2023/03/31(金) 22:21:57.29ID:eLwg5cPw
とりあえず「永禄日記」とはこういうものらしい。

?みちのく双書 第一集『永禄日記』昭和31年刊 ?
 『永禄日記』は浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏(浪岡落城後に山崎と姓を変えていましたが、明治十五年に北畠に復姓しています)の家記であるこの日記は、
「山崎記」或いは単に「記録」などと 題されて二百年にわたり代々書き伝えられていましたが、損傷が多くなり、宝暦十三(1763)年に、山崎立朴によって
整理・編纂一書としたものです。書かれている内容は、物価、天候、天変地異 から政治まで、多方面に亘っています。
0762人間七七四年
垢版 |
2023/04/01(土) 12:47:18.86ID:UeNMkdTv
お前ら先祖が最下層の農民や非人だったから俺ら華族に憧れがあるんだろ
残念だったな親ガチャ失敗してw
0763人間七七四年
垢版 |
2023/04/02(日) 16:24:46.07ID:0/464KFC
敵討ちのことについて。

先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。

次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。

自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。

他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。

『甲陽軍鑑』
0764人間七七四年
垢版 |
2023/04/02(日) 19:29:49.48ID:mxpp21ER
今日の大河の将軍義昭の衣装、あれあの色の衣って許されてたんだっけ?
0765人間七七四年
垢版 |
2023/04/02(日) 20:52:25.50ID:IvYZ1SFj
ファンタジーに食いつくアホが釣れましたw
0766人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 09:10:38.20ID:d0SphvuW
>その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。

ここすき
0767人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 11:27:47.19ID:cFINril/
>>766
卑怯なジャップらしいわ
0768人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 21:14:50.13ID:Flu5Hexi
この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。
0769人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 21:21:31.29ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

『甲陽軍鑑』
0770人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 21:22:08.31ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ
0771人間七七四年
垢版 |
2023/04/04(火) 22:43:19.41ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ
0772人間七七四年
垢版 |
2023/04/05(水) 03:13:26.68ID:EsqAvUW1
なんで2回言ってんだ?
0773人間七七四年
垢版 |
2023/04/05(水) 09:43:17.78ID:IEEkKZDY
寒かっただけでとち狂った時代
やってる中身は今と変わらぬ時代
0774人間七七四年
垢版 |
2023/04/05(水) 09:49:39.59ID:OzRsC2U6
>>772
すまん
なぜか繰り返してしまった
0775人間七七四年
垢版 |
2023/04/05(水) 09:50:46.44ID:OzRsC2U6
お詫び(?)に『異説まちまち』から松平忠輝のいい話を

忠輝公に蟄居を仰せつけられる使者として中山助六が遣わされた。中山、無刀で忠輝公の御前にまかり出て蟄居の旨を申し上げると、忠輝公、「その方が刀を差してわが前に出てきたならば切って捨てようと思っていたが、無刀で出てきたことは天晴だ。お請けしよう」と仰った。
助六すぐさま後ろに飛び退って、「若様のご返事次第ではかように覚悟しておりました」と懐剣を出してお見せすると、忠輝公、「さてさて、上様はお人持ちであらせられる」と感服されたということだ。
0776人間七七四年
垢版 |
2023/04/05(水) 19:27:04.81ID:jWaTSmOW
貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌

大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ

雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり

蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり

天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは

この三首を奏聞したため、叡感があったという。

※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう

なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか
0779人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 12:18:07.62ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。
0781人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 12:31:22.08ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。
0782人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 16:53:04.10ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな
0783人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 17:56:51.72ID:zBrquiel
>>782
そんな有名な話をわざわざ言わんでも
最近知ったんか?w
0784人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 21:38:36.39ID:asQEHxFF
じゃあ他に果物が体に悪いって話ある?
0785人間七七四年
垢版 |
2023/04/06(木) 22:55:45.51ID:FhYovSIC
そもそも日本原産の果物って柿だけだろ?
戦国時代にあったのってかなり限られるんじゃね
0787人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 09:15:08.34ID:1D1H5gP+
林檎、小みかんとかも
姫林檎みたいな小さい種類だったと思うけど、浅井長政が苗をくれてありがとうという手紙を書いていたはず
0788人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 09:37:11.47ID:APLW2NFB
前に出ていたフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の16世紀末の様子

多くの大都市と無数の人口があり、景観は良い。米が特に豊かで、穀物、野菜、果物にも富んでいる。
特に皮ごと食べられるオレンジを含めた柑橘類を強調しよう。
オレンジは我々のレモンに似ており、cunebes(九年母?)と呼ばれる。また桜桃ほどの小さなレモンに似た柑橘類もあり、
これも皮ごと食べられるし、ジャムにしてもおいしい。
(この後フィレンチェに持ち帰った種の話あり)
梨もあり、非常に大きくて瑞々しい。皮は非常に薄く剥くことは難しい。梨、桃、杏は砂糖漬けにすると美味である。
ぶどうはほとんど見られないが、聖職者たちが見本市のためにワインを準備することもある。
メロンは多量に入手可能であるが、風味、品質は異なる。
皮ごと食べられ、キュウリのように切り分けられる。緑の状態で塩漬けされているので、保存可能である。
0789人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 09:54:45.06ID:AWtvDFWa
>>783
あったと言っただけでもいかんのか?
知ったのは何十年も前だけど何か?
なにをイキッてるのかな?
0790人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 10:01:01.12ID:Hd21G4Ga
>>785
これってみんなに話すと馬鹿にされるネタだよね?
0791人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 12:17:06.10ID:nrRDFYzI
>>789
知ったかのアホがイキってて草
0792人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 12:21:37.91ID:nrRDFYzI
イキッて→アホ

イキって→正常
0793人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 17:10:19.52ID:CU/qrO/6
(っ)でも(ッ)でもどっちでもいいご、要は誰かの話を聞いて
「あ、似たこんな話を思い出した」と誰でも知ってる話を例に挙げて、
「うん、その話ならおれも知ってる」
「おれも聞いたことある」
ってだけの話に
「そんな誰でも知ってる話をするな!」って噛みつかれても、「はぁ?」としかならんわけだが

何をイキッて空回りしてるのやら

マウントにも何にもなってないし
0794人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 18:28:24.12ID:9xyDb8cV
顔真っ赤にして草
どっちでもいいとかアホの言い訳丸出しやん
0795人間七七四年
垢版 |
2023/04/07(金) 18:57:41.83ID:MRBpmiHn
今は「的を射る」と「的を得る」をどっちでも使うから!「的を得る」でもいいんだ!って言ってるようなものだな
日本人なら本来の言い方を使うべきだし、謙虚な日本人なら素直に間違いは認めて謝罪してるとこ
チョンには日本人の心は理解できなかったようだね
0796人間七七四年
垢版 |
2023/04/08(土) 11:22:07.31ID:olOpq4Ad
はい論破、チョンのイキッて君弱すぎー
0798人間七七四年
垢版 |
2023/04/08(土) 20:23:22.77ID:M9OGZ0x1
正しく使えというのはわかるけど、結局は世間でどんなふうに使われていくかで変貌するのも仕方ないんじゃないの?
0799人間七七四年
垢版 |
2023/04/08(土) 20:40:36.65ID:wrawGclA
まあ繰り返し侵略されてきた半島人にとっては間違ってても受け入れる下地ができてるからね
0800人間七七四年
垢版 |
2023/04/09(日) 06:49:08.17ID:aEgFHgPX
なんかかかわっちゃいけない粘着質のヤツに絡まれちゃったみたい・・
0801人間七七四年
垢版 |
2023/04/09(日) 08:10:33.84ID:tNUQmptV
知ったかのイキッて君降臨www
0803人間七七四年
垢版 |
2023/04/09(日) 09:42:48.95ID:aEgFHgPX
1人でID変えて連投、ご苦労様です
0804人間七七四年
垢版 |
2023/04/09(日) 16:09:14.69ID:/w6d8Jbv
効いてる効いてる
0807人間七七四年
垢版 |
2023/04/10(月) 13:53:49.55ID:vHOpS6kB
イキッて君タイホ〜
0808人間七七四年
垢版 |
2023/04/15(土) 19:04:07.05ID:9+E2Bn0r
「博多記」から神屋宗湛

神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった
0809人間七七四年
垢版 |
2023/04/19(水) 17:24:36.68ID:S9OmN5yQ
『異説まちまち』からある時の秀吉と家康の会話

太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」

一応いい話に
0810人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 08:22:38.76ID:LWei7ilA
家康に使えたが棄教を拒み流刑、悲劇のキリシタン「ジュリアおたあ」初の直筆書状
読売新聞2023/04/20
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230420-OYT1T50048/
萩博物館(山口県萩市)は19日、豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮から連れてこられ、徳川家康に仕えたが棄教を拒んで
流刑となったとされるキリシタン女性「ジュリアおたあ」の直筆書状が初めて見つかったと発表した。同館は「悲劇の
キリシタン女性にまつわる貴重な史料」としている。

おたあは朝鮮出兵で捕らえられ、キリシタン大名として知られる小西行長の養女となった。関ヶ原の戦い後は家康に仕えたが、
幕府の禁教令後も信仰を捨てず、伊豆諸島に流されたという。

同館によると、書状は3通で長州藩士の村田家に伝わり、子孫が同館に寄贈した。村田家初代の村田安政はおたあの弟
だという長州藩の記録があり、2人のつながりを裏付ける発見としている。

江戸時代初期の1609年(慶長14年)8月19日付の書状は、安政が長州藩にいると知ったおたあが、体のあざの位置
などを記して本人確認する内容で、ほかの2通は弟と会いたいなどと望む内容だった。

このほか、村田家からは、おたあの仲介で安政が家康に面会した際に与えられたという家康の小袖(身丈121センチ、
裄ゆき 丈59センチ)も寄贈された。
0811人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 08:33:09.01ID:LWei7ilA
補足として、昨年こういう報告がありました。

第75回美術史学会全国大会(2022) 萩博物館所蔵「葵紋付亀甲模様小袖」の服飾史的位置付け 福島雅子(学習院女子大学)
https://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/2022-5/2022_D2.pdf

本小袖の伝来について検討する。上述の墨書のある畳紙には、本小袖とともに「大御所さま御内たあ」と「うんなき」との間で
交わされた書簡等が包まれていた。これらの関係史料の分析によれば、村田家の初代である村田五右衛門安政は、豊臣秀吉の
朝鮮出兵の際に捕らえられた朝鮮人捕虜であり、名は「うんなき」であったとされる。
また、安政の姉も日本に連れてこられ、大御所時代の徳川家康に奉公しており、姉を通じて駿府に召し出された際に、家康から
安政に馬や刀とともに「葵御紋付之御服」が下賜されたとの記述を『萩藩閥閲録』(享保 10 年成立)に見出せる。
この記述が、本小袖にあたると考えられる。
さらに、付属する書簡にみえる「大御所さま御内たあ」は安政の姉であり、近年の研究で指摘される「ジュリアおたあ」であったと考えられる。
朝鮮出兵の際の朝鮮人捕虜とされる「ジュリアおたあ」に関しては、これまでキリスト教信仰史等の面から研究が進められてきたが、
本小袖と付属する書簡類は、これまで指摘されていない新たな関係資料といえる。
0812人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 09:00:20.70ID:64i9wLrR
>>809
井戸に水を汲み入れるための桶などの容器は道具には入らないのかな?
0813人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 09:05:38.90ID:LWei7ilA
>>810
投稿してから気づいた、タイトルの使えた(ママ)は読売の間違いなんですが、今サイト見たら仕えたに訂正されてましたねw
0814人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 12:01:49.03ID:4JvXiGil
新聞から転載とはここのレベルも地に落ちたな
0816人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 13:04:38.18ID:+6bqh/8m
>>812
うわぁ久しぶりにバカをみた
そういうことじゃない
0819人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 18:06:48.40ID:gtI08+75
「博多記」から朝鮮人捕虜で桃山文化史でも重要な李文長関連の話

西昌山本岳寺は昔は今熊町にあった。
大友宗麟から筑前国別府村の土地、十五丁の寄進の文書が今もある。
また朝鮮人李文長という者が博多に来て滞留した。
本長寺(本岳寺?)についての寺記を書いたのが今もある。
李文長は慶長十九年(1614年)春に客星が出たことと、大坂城の天守から黒雲風が立って天を覆ったことから占ったそうだ。
(大坂の陣と豊臣滅亡について?)
また博多に滞留した時、あちこちの記事を書いた。
儒者で、占いもよくしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13618.html
秀頼薩摩落の事

この記事の、大坂城から後藤又兵衛と落ち延びた朝鮮人のことではないかというので前に出ていた。
0820人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 18:40:47.35ID:tB8DIojS
李文長が客星(彗星)について占ったことは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13254.html
大阪周辺の治安が悪すぎる
に、天守からの黒雲云々について占ったことは家康が肉人(ぬっへふほふ?)を見たことも書かれている
「一宵話」に以下のように書かれていた。

「一宵話」から「朝鮮の易者」

慶長の頃、朝鮮が降伏したため、俘虜たちを返還したなかで李文長はどういうわけか日本にとどまった。
甲寅の年(上記の1614年)、大坂に乱が起ころうとした時、城の殿主(天守)の上に火煙がいきなり燃え上がった。
城の内外が驚き騒ぎ、駆けつけて消そうとしたが、どこにも火は見えなかった。
そして人が静まったらまた燃え上がった。(原注:二月五日のことか?)
このようなことがたびたびあったため、片桐且元に命じて李文長に占わせた。
李文長「焦氏(焦延寿)の「易林」によって占うと
「艮が謙に変ぜり。艮益。尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷。奚予孟明。否謙。人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚璉。殷商絶祀。」と出ました」
籠城の始めから終わりまで、この占いにつゆも違わなかったとは、すぐれた易者であった。
焦氏易は昔から占いに多く使ったわけではないのに、李文長はよく伝えたものだ。
李文長は書法の達人でもあり、中楷で書かれた孝経を見たところ、たいへん見事であった。(浅井氏蔵書)
0821人間七七四年
垢版 |
2023/04/20(木) 20:31:12.80ID:PkBOkJ1I
三成関係ないのにフルボッコで草
異説まちまちに、成島道筑(錦江)がミツナリでなくミツヒラと読むと言っていたと書いてあった。
成をヒラと読む人誰かいたっけ
0824人間七七四年
垢版 |
2023/04/21(金) 04:29:48.88ID:tOJDGDR/
<(´ー`)♪三成 (´ー`)>です♪
0826人間七七四年
垢版 |
2023/04/21(金) 21:12:57.90ID:LUHBz44e
>>820
「易林」の引用部分が意味が分からなかったので調べてみた。
最初の「尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷」の部分は、艮之益の「秦兵爭強,失其貞良,敗於殽鄉」だと思う。
注に「秦穆公違蹇叔之諫,命孟明伐晉,師敗于殽」とあって、秦の穆公が諫めを用いず晋を攻めて(秦兵爭強)殽で大敗を喫し(敗於殽鄉)、
孟明視(百里奚の息子で名は視、字は孟明)ら三人の将軍が捕虜になったこと(失其貞良)を指すらしい。
秀頼が諫めを用いず戦をして将卒を失ったことを予言するのかな。
0827人間七七四年
垢版 |
2023/04/21(金) 21:31:36.16ID:LUHBz44e
途中で送信しちゃったので続き
「奚予孟明」はよくわからないけど、易林の本文にはないので注が混じったかなんかかな。
「人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚l。殷商絶祀」は否之謙に「人面鬼口,長舌為斧;斲破瑚l,殷商絕祀」というのがある。
「人面鬼口」は昔は鬼は九と通じたらしく、「人面九口」と同じらしい。「長舌為斧」と合わせて、口は災いの門とかそんな感じか。
「斲破瑚l,殷商絕祀」は注によると「商紂無道,微子抱祭器奔周,其後武王伐紂,遂滅商焉」で
無道な商が祭祀のための宝器も失い子孫も死滅したことを言うらしい。
大阪方の方針がなかなか決まらず無駄な軍議のみ重ねて最後は豊臣家が滅びたことを予言しているんだろう。
ただ、商の紂王を指してるのが本当だとしたら、わりとストレートに秀頼ディスってることになるけど大丈夫だったんだろうか。
0828人間七七四年
垢版 |
2023/04/21(金) 22:10:10.09ID:LUHBz44e
しつこくてすまんけど、「人面九口」もよく意味わからんからもう少し調べてみたら
どうも、「人面鬼口」「人面九口」も「八面九口」の意味っぽい。
これだと色んな人がてんでに自分の意見を言い合って話が全くまとまらないって感じなのかな。
0829人間七七四年
垢版 |
2023/04/21(金) 23:33:52.19ID:XSWnTD4j
人と八、鬼と九
字面が似てるけど間違えて覚えたやつが広まったのか?
0830人間七七四年
垢版 |
2023/04/22(土) 11:21:00.14ID:5o7Pygfj
李文長自体は豊臣家に重用されたけど、
占いにかこつけて秀吉を殷の紂王にたとえて朝鮮出兵を批判して、豊臣の祭祀が滅びるぞ、と言ったとか
0831人間七七四年
垢版 |
2023/04/22(土) 11:49:18.71ID:adN4jV/6
>>829
人と八はたぶんただの読み間違いor書き間違いだと思う。
鬼と九は、易林釈文の注に「陳第の毛詩古音考に人面九口を引用して
昔は九と鬼が通用して、例えば九候を鬼候とも書いた」と書いてあるんで、
これが正しければ、古い時代は鬼と九の音が似ていた(或いは同じだった)ために
同じ字として扱ったってことだと思う。
0832人間七七四年
垢版 |
2023/04/22(土) 13:00:01.55ID:l5yoKC5/
William M. BaxterとLaurent Sagartの「Old Chinese: A New Reconstruction」の鬼・九の上古音(「毛詩(詩経)」などをもとに再構築)
鬼: *k-ʔujʔ
九: *[k]uʔ

落合淳史「漢字の音」によればBaxterの再構成音は複雑だから当てにならないそうだけど
0833人間七七四年
垢版 |
2023/04/22(土) 13:14:46.93ID:adN4jV/6
支那語の上古音については無知なんで鬼と九が通ずるという説が正しいかどうかはわかんない。
ただ、易林には「人面鬼口」「人面九口」「八面九口」「八口九頭」「八面九口」という句が
だいたい「長舌為斧」「長舌破家」という句の前に出てくるみたいなんで、鬼=九は腑に落ちるかなと。
あと、この李文長の占いの逸話は日本外史にも載ってるみたいで、デジタルコレクションに「日本外史解義」
という本が収録されていて詳しい注釈があった。
0834人間七七四年
垢版 |
2023/04/25(火) 19:27:30.85ID:uI6jtdb3
「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。
0835人間七七四年
垢版 |
2023/04/25(火) 20:53:01.76ID:j79EwqPe
>>834
投稿する前に一度読め
そんなに日本語が難しいのか?
0836人間七七四年
垢版 |
2023/04/29(土) 16:39:29.88ID:LCBDHzIG
ある時、小山田弥三郎がこのように申した

「馬場(信春)殿、内藤(昌豊)殿、山縣(昌景)殿、高坂(虎綱)殿聞き給え。町人というものは
武辺の事についても、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、普広院殿(足利義教)を
討ち奉った赤松左京大夫(満祐)を、彼を贔屓する町人が褒めて書いた本の中で、この赤松が
『三百人力』であると書き付けておりました。」

そのように申して笑っていた所、馬場美濃が

「されば、我ら侍衆が商いの雑談を仕る時、あなたが言ったような無案内な事が多く、そういった侍を
町人たちは可笑しく思い笑っている。
その道々によって、家職と直接関係の無い事については、その取り沙汰もおかしなものなのだ。」

馬場はそのように言われたのである。

『甲陽軍鑑』
0838人間七七四年
垢版 |
2023/04/29(土) 18:55:55.05ID:LCBDHzIG
>>837
もうしわけありません。かわりにこちらはまだ出てないの思うので


高坂(虎綱)がある時、このように言った

「人が人を馳走する時、悪しき事が三ツある。

一つは、医者に相談することなく薬を与えること。
二つに、過馬(荒くて乗ることのできない馬)に人を乗せること。
三つに、フグを振る舞うこと。

この三ヶ条にて(馳走をした)傍輩に怪我が有った場合、腹を斬らねば見苦しい。
しかし死ぬというのも嫌なことで有るのだから、こういった事については常々遠慮をしておくのが尤もである。

『甲陽軍鑑』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況