戦国ちょっといい話50
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久松家家宝・?蛇頭(りょうじゃとう)
https://adeac.jp/tako-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/images/1-kuchie007-2.jpg
天正十四年(一五八六)康俊の女に家康から?蛇頭(りょうじゃとう)(口絵参照)を賜っている。松平家では代々これを伝え、現在は
同家から多古町に寄贈され町役場で保管している。それにまつわる伝承が口述書として付けられており、それによれば、「この竜頭は
その昔京都御所に夜な夜な怪物が出現し、そのため御所内で病魔が絶えなかった。それで当家(久松)の先祖がこれを弓で射落とした。
その為に病魔が絶えたとの由、それを記念し久松家に下し賜ったものである。また明治の初期に旱魃(かんばつ)が続き、農民が
困っている時に、この竜頭にお供えをし酒をかけてやり雨乞いをしたら大雨が降り農民に大いに喜ばれたとの由」(昭和五十三年十月六日書)とある。
https://adeac.jp/tako-town/text-list/d100010/ht000720
こちらは多古町史の該当部分 >>634の続き
「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」
伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。
「伊賀者由緒書」を参考にしているようだ >>636
ああ、異母弟じゃないや、久松は異父弟ですねw ある時武田信玄公はこのように言われた
「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。
人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」
そのように信玄公は仰っしゃられたのである。
『甲陽軍鑑』 「朝野雑載」から島左近の息子たち
島左近の嫡子新吉(島信勝)は関ヶ原で討ち死にした。
次男三男は戦を逃れ、妻子眷属五、六人ほどを山里に引き連れて隠れていた。
十年ほど兄弟で母を養っていたがとうとう家の煙も絶えそうになった。
そこで兄弟は密談し、弟を島左近の息子として縄をかけて駿府に参った。
これは恩賞を得て兄が母を養おうとする計略であった。
こうして弟は牢に入り、兄は褒美を得た。
しかし兄は弟と離れるのが悲しかったのか、そのまま駿府にとどまり夜な夜な弟の牢の様子を見に行った。
とうとう牢の番人に見咎められ、逃れないと思った兄は
「実は私も島左近の息子です。母を養うためこのようにはからいました。
どうか私たち兄弟が死罪にあったのちは、母に憐れみをたれてください」と申した。
家康公は兄弟の孝行心に感心し、母も駿河に召し寄せ、母子三人に長く御扶助を与えなさったという。 >>644
仙石久勝(兄)と仙石秀久(弟)
本多正純(兄)と本多政重(弟)
どちらも兄の方が晩年ヘタ打ったからそう見えるだけかもしれんけど 「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」
平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。
「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい 途中まで順風満帆だったが主君の改易に巻き込まれて一度破滅した久勝みたいな生き方は嫌いじゃない >>641
よくわからないんだが分別ちゃんとある人は才覚においてもよく行うという結論なのに冒頭に分別あっても才覚のない人を挙げるのはどういうわけなんだろう また現代文の成績が悪かったアホがいるのか
これって中卒でも分かるんじゃないのか? 人に教えを乞う前に調べろよバカ
いっその事小学校からやり直せ https://dl.ndl.go.jp/pid/2563278/1/60
「甲陽軍鑑」巻四十から原文書き出した
なおこの直前に信玄は分別と才覚は別という話も言ってる
或時信玄公
世中の人々色々有。
既に分別有て才覚なき人有。
才覚有て遠慮なき人有。
遠慮有て慈悲のなき人に有。
慈悲有て人を見しらぬ人有。
人を見しらぬ者は大身は崇敬する者共十人の内八人役にたたぬ者多。
小身は其入魂する傍輩のあしきつれに近付也。
如此色々様々替てみゆれ共それは只分別のいたらぬ心也。
分別さへ能々すくれて有人は才覚にも遠慮にも人をしるにも切をなすにも何事に付てもよからん。
さる程に人間は分別の二字諸色の本と存知朝に心さし夕へにおもふても分別を能せよと
信玄公宣也 口語訳 わかりません
原 文 わかります
やっぱり現代文の成績が悪かったんだなw 前に現代文の成績悪かった方ですか?と嘲られてから取り入れててえらい ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。
「武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。
そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。
そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」
『甲陽軍鑑』 武田信玄公が二十八歳の時の事。
山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。
その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。
これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。
惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。
『甲陽軍鑑』 「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」
榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。
秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。 「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子
大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政、加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政の嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政・加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。 >長政の嘉明はお目見えのために通路へ出た。
は
>長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
です。すいません 「武家閑談」から真田大助
五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。 大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。 「武家閑談」から真田大助と三人の小姓
秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。 「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣
寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。 「武家閑談」から黒田彦左衛門
大坂城落城の時、大坂方の赤母衣衆を榊原康勝家臣の黒田彦左衛門が討ち、首を取ろうとした。
そこへ同輩の三枝勘兵衛がやってきて
「彦左衛門よ、その首はともに討ったことにしよう」と言うと彦左衛門は首を打ち捨て、先に行った。
勘兵衛は恥じ「この首は彦左衛門が取った首だ」と声をかけたが彦左衛門は振り向かなかった。
論功行賞の時、三枝勘兵衛は「この首は黒田彦左衛門が取った首です」とことのあらましを言ったため
黒田彦左衛門を呼んで首のことを尋ねたが、彦左衛門は「まったく覚えのないことです」と答えた。
勘兵衛は事情をつぶさに述べて、彦左衛門に何度も認めさせようとしたが彦左衛門は「覚えがない」としか答えなかった。
このことが両御所(家康と秀忠)の上聞に達し、まことに感心なされたということだ。
孟之反が殿軍をしても「進んで殿軍をしたのではなく、馬が進まなかったからだ」と語り(「論語」に見える)、
馮異が光武帝の元で度々手柄を立てたにも関わらず功を誇らなかったようなものだ。 「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌
頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。
浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。 「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」
大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。
信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。 「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗
江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話) というわけで>>682
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。
なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。 「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆
広島浪人所持覚書によれば、浅野但馬守長晟が大坂に在陣している最中に熊野北山一揆が起きた。
一揆の大将は、大嶽の前鬼津具および山室という者だったという。
長晟より熊沢兵庫を大将として討手を派遣した。
前鬼津具は熊沢が大軍だったため新宮から西の川へ逃れ、雪に降り込まれ凍え死にした。
和州川井村の一揆の大将山室は北山へ逃れたため、熊沢が追いかけると、山室は一揆勢に下知して二、三度防戦して退いた。
熊沢兵庫はそれでも追いかけ、大沼村・竹平村の間に迫った。
山室は川を渡り上り、岩の陰で隠れ、熊沢を待ち受け、太刀打ち、組み打ってるうちに兵庫が下となった。
そこに長田作兵衛が駆けつけ、山室を突き倒し、首を取った。
兵庫と作兵衛が山室の首をそれぞれ自分のものだと主張したため、溝口五右衛門は進み出て
「兵庫が初め太刀打ち、組み打ちしていたのだから作兵衛は援助したということになる。
高名は兵庫のものだ」と山室の首を兵庫に渡した。
溝口の裁判が良いと思ったため、書き留める。 「和歌山県史 近世史料三」の「七 一揆・騒動」に収録されている、慶長の時にまとめられた「北山一揆等取集書付」にも同じ話が見える
「熊沢兵庫川井村山室討候節ハ互ニ太刀打致、夫ゟ組合兵庫を組伏候所へ永井作兵衛出合山室を鑓にて突首を取、
其時兵庫と作兵衛論ニ成を溝口五右衛門と云者申候ハ、作兵衛手柄之程我等見申候、
首ハ兵庫組之旨兵庫へ首ハ渡候へと被申」
また後呂忠一「北山一揆について」という論文から孫引きとなるが
「自得公済美録」(浅野家の家史「済美録」の浅野長晟の代)に北山一揆についても記されていて
・河井村の山室、善鬼の津久、堀内将監、中村某、小中某は五鬼として知られていた
・熊沢兵庫が大沼村へ行こうとした所、五十才ばかりの夫婦を見つけ打ち取ろうとしたが、甲冑をつけていたために逆に組み敷かれ、女が持ち出した松割包丁で殺されそうになった。
そこへ新宮の住人永田五郎左衛門に助けられ相手の首を打ち取った。
首を調べるとそれは一揆の首謀者の一人、山室鬼助であった。
と書かれているとか。 2021年1月6日の朝日新聞デジタルの記事に五鬼について書かれていた
「私は鬼の末裔」記者に断言 熊野「五鬼」姓の謎を追え
>伝承の舞台は奈良県は下北山村の前鬼(ぜんき)集落。
>今から約1300年前、前鬼、後鬼(ごき)という鬼の夫婦がいた。この夫婦は山で修行する修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の姿に心動かされ、仕えるようになった。
>そして「里へ下りて人として生活しなさい」との命を受けて暮らしはじめたのが前鬼集落だったという。
>前鬼と後鬼の5人の子は、修験者を世話する五つの宿坊を開いた。それぞれ「五鬼童(ごきどう)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼助(ごきじょ)」そして「五鬼熊」と名乗った。 ここから戦国時代にどう繋げるのかなと思ったんだけど終わりなのかな? IDが変わっていて、わかりづらくてすいません
朝日新聞の五鬼の記事について書いたのは、熊野北山一揆の指導者とされる
「河合村の山室(五鬼助?)」と「善鬼の津久(前鬼継)」がともに「済美録」では五鬼とされていて
五鬼の由来が役行者にまつわるという話がおもしろいため、付け足しただけです またIDが変わってる。
>>685->>687は自分です 「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い
>>685の次の話
同じく広島浪人の覚書の樫井の一戦によれば
(大坂夏の陣の一戦、熊野北山一揆と同じ頃)
紀州勢(浅野)は八丁畷から樫井町に入り、亀田大隅守(亀田高綱)は大梨打の兜、鷺の芦毛の羽織で人数に下知し殿軍した。
その武者使いはなかなか見事であり、良き大将に見えた。
樫井町に三丁ばかり乗り入れた所に大坂方がやってきたため亀田が向かうと、岡部大学(岡部則綱)がこの口にかかってきた。
亀田が町内に引き取ると、塙団右衛門(塙直之)勢、七、八十人ばかりが入ってきた。
上田主水(上田重安)は二十騎ほどで樫井町に潜んでいたため、塙勢が入ってきたところに一番槍で槍を合わせた。
上田主水配下の高川原小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門が五、六人程で大坂方を追い立てると、亀田大隅守も上田主水に合流した。
大坂方は引き返し、塙団右衛門の家来の坂田庄次郎が真っ先に主水にかかってきたが、主水は槍で突き伏せ、小姓の横関新三郎に首を切らせ、足軽に命じて浅野長晟本陣に首を持って帰らせた。
また亀田勢は大坂方の山田五郎左衛門や金丸小膳以下数多を突き立てた。 橋のたもとで塙の家来、山形三郎右衛門(山縣昌重。山縣昌景の息子)が上田主水と槍を合わせたが、亀田大隅勢が大坂方を追い立ててきたため少し下がった。
主水が「上田主水である。引き返して勝負せよ」と山形に声をかけたため、山形も引き返した。
主水は槍で打ったが、槍の柄が真ん中から折れてしまった。
間髪入れず山形は主水を組み伏せた。
小姓の横関は主人を助けようと山形にかかったが、山形は横関をも同様に押し伏せてしまった。
上田主水配下の横井平左衛門は大坂方の一人を家の軒下に突き伏せつつ、主水に呼びかけたが返答がなかった。
振り返ると主人の主水は組み伏せられ、半月の立物も落ちていたため、突き伏せていた敵を捨て、平左衛門は主水の上に乗っている山形の高股(たかもも)を切り落とし、引き倒した。
主水は起き上がり「その首は小姓の新三郎に取らせよ」と命じたため、新三郎の高名となった。
横井は山形の下人をも切り伏せ、先程の首と合わせ二つ高名をなした。
塙団右衛門は田子助左衛門と渡り合っていたが、田子が放った矢が団右衛門の上帯に当たり、いきりたった団右衛門は十文字槍で田子の弓の弦を切った。
そこへ八木新左衛門が来て渡り合い、団右衛門は手負であったが果敢に戦い討ち死にし八木が首をとった。
こうして大坂方の討ち死には、芦田左内、横井治左衛門、山田権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠太夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、山形三郎右衛門、そのほか四人で都合十二の兜首となった。
首を二条城へ持ち帰り、浅野長晟からこの旨報告した。 >>690
ああ、前の話への付記だったのね
こちらこそきちんと見てなくてごめん いえいえ気になさらず
「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。 「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄
天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。 「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり
庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。 清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。 >>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。 馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ 「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。
宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死) おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。
ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。
原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。 >>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。 各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか 土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた
「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」
山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」
山県三郎兵衛はそのように申された。
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね
『甲陽軍鑑』 「続武家閑談」から本多正信について
本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話
正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。 このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを
の話だけど微妙に違うので一応書いておく。
ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。 「戦国武将の子孫」を公言していて驚く芸能人ランキング 3位は藤堂高虎の末裔「ゆってぃ」2位に明智光秀の末裔「クリス・ペプラー」 [muffin★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1678880086/1 >>716
徳川譜代は四天王クラスで10〜20万石程度だからなあ。
2万石で十分としないと、やっかまれる。 秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ 信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。 まあ、生みすぎで「こいつそのままにしとくと秀頼が危ねえ…」となったんだろうな。 子沢山の秀次が秀頼を後継ぎにするとは思えないからね。何せ秀吉が秀次押し退けてでも秀頼を後継ぎにしようとしてるくらいなのだから いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。
阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。
ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 「どうする家康」の紀行で「浜松まつり」が取り上げられていたので、
浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について
佐橋甚五郎と凧揚げの関連について1974年の「濱松市史」に引用されている
酒井真邑「浜松城記」(お田鶴の方が引間城で戦ったと記す「浜松御在城記」とは別)という徳川御秘書の一つ(実在するか不明)、から抜粋すると
一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
この子孫曳馬野に住する也、義広(豊前守長子)殿御誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る
(中略)
一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る、
永野、小松の旗本来り大に争ふ
とされていて佐橋甚五郎は浜松の入野の人間となっている。
ただ佐橋甚五郎の父は系図では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13835.html
三河一向一揆で水野忠重に討たれた(「三河物語」によれば)佐橋甚五郎吉実とされる http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13751.html
「改正三河国後風土記」では、このように松平信康に仕えていたものの同役を討ち果たしたために逐電
そののち武田軍の甘利信恒の首を手土産に帰参。
甲斐の黒駒合戦(1582年)で活躍するも家康に憎まれていたため再び出奔
慶長年間に朝鮮の使節として来日している
(この話を元に小説「佐橋甚五郎」を書いた森鴎外は「続武家閑話」を元にした、と記していて、
山崎一穎「『佐橋甚五郎』攷」でも「続武家閑談」巻十三に「改正三河国後風土記」の元になった話があるとしていたが
国立公文書館の「続武家閑談」では見つからなかった)
黒駒合戦での活躍については
「続武家閑談」巻十二(編者の木村高敦によれば、この巻は「水野勝成覚書」そのもの)の「甲府新府中合戦のこと」によれば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
この話の前半部はほぼ同じで
「この佐橋甚五郎と申すものは三郎様(松平信康)に召し使われていた者でございました。
三郎様が御他界なされたあと、何かしら悪いことをしでかして出奔していたのですが、どうしたことかそのときには拙者の前にいました。
木の橋の側でよく弓を射ていたので、「これは射手であろう」と思っておりました。
重藤の弓でございましたが鉄砲で打ち折られたため捨てました。
甚五郎が「もはや弓も折れ、是非に及ばず」と申したので
拙者が「弓が打ち折れても槍があるだろう」と申すと
甚五郎は「手前には槍もなくこの刀だけです。是非なし」
とかたのごとく刀を振うと、見事な働きで、競り合いに打ち勝ちました。
茂野善十郎、落合左平次、この三人が大いに働きました。
(中略)落合左平次、茂野善十郎らはその後紀伊大納言様へ権現様御意にてつけられたそうです」
なお「三河後風土記」だとこの勇猛ぶりが家康の耳に達するが、家康は佐橋甚五郎を不義の者と憎んでいたため、阿部正勝に誅殺させており、出奔して朝鮮に、とかは出てこない。 「浜松城記」の記述が正しいことにして佐橋甚五郎についてまとめると、
・永禄六年(1563年)ごろ、三河一向一揆で水野忠重に父を殺されたため、浜松の入野に住む
・飯尾連龍が氏真に殺された永禄八年(1565年)までに、引間城の飯尾連龍とお田鶴の方の間に長男が生まれたことを祝して大凧を揚げる
・引間城落城後、松平信康に仕えるが天正四年(1576年)までに同輩を殺して出奔
・天正四年(1576年)、武田の甘利信恒に取り行って寵愛を受けるが、甘利の寝首を掻いて徳川帰参
・天正十年(1582年)の黒駒合戦では、父の仇である水野忠重の嫡男の水野勝成と共闘
・しかし家康に疎まれ、阿部正勝に誅殺される
・もしくは再び出奔し朝鮮に渡り、慶長九年(1604年)に朝鮮使節として来日し、浜松で自分の大凧揚げが由来となった凧揚げを見て笑う
ところが家康に甚五郎だと見破られ、一族との文通も禁じられた
(はずだが佐橋家にはなぜか上等の人参がたくさんあったという)
なかなか波瀾万丈 譚海に、さらにツッコミどころ満載の秀頼生存説がもう一つあったので
享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。
樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。 日吉権現に願ったら猿似の男子が生まれたため日吉丸と名付けた
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう 秀頼生存説も良い話というより、百姓より天下人になった秀吉の子供である秀頼は天下人から百姓になった、という天道説的没落物語っぽくてなんか… 一方生まれながらの将軍は女に目覚めてからは百姓女とパコパコするのが好きな変態だったという 甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された
・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし 聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ 達磨大師
『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。
凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。
件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。
さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』
と宣われたのである。
『甲陽軍鑑』
信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。 「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」
謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという (続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。
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武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話
後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています