戦国ちょっといい話50
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大河第一話
派手な金濃具足は太守義元からの、元康(と三河衆)への信頼の証としての贈り物って演出はいいですね 岡崎城代山田景隆に名乗らせたのは、過去の「直虎」ネタかそれとも将来的な井伊直政につなげるためかな?
山田の子の川手良則は「直虎」ラストで一瞬だけ出番あったし 家康と信長が仲の良い幼馴染ではなく、記憶がフラッシュバックして身震いするほどのいじめられっ子と
お気に入りのいじめ相手を見つけたいじめっ子というのも斬新か >>535
紛瘤みたいな物だったのかね…?
それはそうと片眼で跛の醜男って根に持ってないですか権現様 あんなクソドラマ見てる奴がこのスレにいるなんてな
きっとジャニオタのお花畑なんだろ
尿潤で喜んじゃうんだし どうした、なんかあったのか?
女にでもふられたか? 葵つかさにふられたジャニタレがいたんですよ〜
なーにーやっちまったなぁ! 太閤となった豊臣秀吉が諸将を招き、自ら茶を立てた時のこと。
そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。
有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より しみけんが淋病マンコをクンニした時のエピを思い出したわ 「続武家閑談」から小坂新助の武勇
遠州掛川天王山の戦いにおいて、柵のそばに敵の手負いの者がいた。
味方の勇士が敵の首を取ろうと心がけたものの、敵陣のすぐ側でありあきらめていたところに、
三河衆の小坂新助が難なく行って敵の首を取って帰ってきた。
これは霧の中の働きであった。
後日、権現様が新助に「首を取ったところは、敵味方の距離はいかほどあったか?」と尋ねたところ
新助は「十四、五間ほど(25mほど)だったと思います」と申し上げた。
そこで権現様が柵まで行って距離を計らせたところ弓杖2たけばかりであったため、いよいよ感心なされたということだ。 「続武家閑談」と同じ著者による、木村高敦「武家閑談」から「徳川家康の大高城兵糧入れ」
今川義元は妹婿の鵜殿長持を織田信長の抑えとして大高城に置いていた。
しかし信長は丸根城、鷲津城を築き、大高城を孤立させ、その上に寺部城、挙母城、広瀬城の三城にも兵を置いたため大高城への兵糧搬入ができなかった。
そのため今川から権現様に永禄二年?(1559年)四月十日に兵糧を入れるよう命がくだった。
権現様は岡崎をうちいでたが、酒井正親、酒井忠次、石川数正らは
「信長勢が籠る城々の前で兵糧を運ぶなど不可能です」と諫めた。
権現様は当時十八であったが、家臣の言葉を用いなさらず
「我に考えがあるから言う通りにいたせ」とおっしゃった。
さて権現様は九日の夜半に酒井正親・石川数正に四千騎を率いさせ、大高城を囲む鷲津・丸根の両城も無視して寺部城を攻めさせた。
一方で権現様は八百騎で小荷駄千二百疋を引き連れ自ら大高城に向かった。
寺部城の織田兵は「なぜ敵勢ははるか奥のこの寺部城に取り掛かるのだろう?」と不思議に思いながらもとりあえず防戦した。
九日の丑時のため、暗さも暗く、三河兵はある程度攻めてさっと引き返し、
近くの梅ヶ坪城を攻めて二の丸、三の丸まで押し入って火をつけた。 火は闇夜を煌々と輝かせた。
鷲津・丸根の兵どもはこの光景を見て
「寺部城、梅ヶ坪城の守りをしろ!」と駆け出した。
こうして権現様は何の障害もなく思いのままに兵糧を大高城に運び入れた。
大高城への兵糧搬入を見た鷲津・丸根両城の守備兵たちは手を打って驚き、頭を掻いて悔やんだ。
石川・酒井も無事に引き返し、権現様とともに岡崎城に帰還した。
帰城後、みなみな権現様の御前に出て
「さて今朝は見事に兵糧を大高城に運び入れられましたが、なぜ我々に寺部城・梅ヶ坪城を攻めさせたのです?」と尋ねた。
権現様の仰せには「鷲津城・丸根城は大高城への兵糧入れを阻止するための城であるが、寺部城・梅ヶ坪城からの後詰めを頼りとしておる。
もし寺部城・梅ヶ坪城が落城したなら鷲津城・丸根城も干上がるのだから、両城が攻められたと聞けばそちらに兵を向けるだろう。
その隙に我は攻められる心配をせずに兵糧を大高城に運び入れられた、というわけだ。
「兵法は神速を尊ぶ」と言うが、人の予想外を突くのが肝要である。」
これを聞いた家老衆は
「君は幼い時より臨済寺の太原雪斎に習い、兵書を読まれたと聞いておりましたが、十八にしてこれほどの知略とは。
まさに生来の名将で御座います。後々たのもしく思います。」
と口々に言ったという。
なおこの大高城への兵糧入れが権現様の御手物の初めだそうだ。 「武家閑談」より徳川家康の謙譲の美徳
権現様は天下一統ののちも、いにしえにかわることなく、奢侈のお振る舞いはなさらなかった。
信玄の娘の賢性院(信玄次女で穴山梅雪正室の見性院)と御目見のときは、いつも上段から降って会釈をなさった。
また御放鷹で、今川義元戦死の場である桶狭間の田楽が窪の近くを通る際には毎度下馬なさった。
誠に謙譲の御心が深いこと、言葉にできないほどである。 「武家閑談」より加藤清正の片鎌槍について
天正十六年(1588年)霜月五日、加藤清正は天草伊豆守(天草種元)との一戦の時に十文字槍を突き折ってしまった。
それ以来、片鎌になったことは天下が一同に知るところである。
もっとも、元々片鎌だったという説もある。
寺沢兵庫頭忠高(寺沢堅高)の家人が物語るには、清正が鎌を折ったのは仏木坂という所で、その折れた片鎌が今でも仏木坂の社に保管されているという。
所望の人がいれば取り出すことができるそうだ。
また清正の片鎌槍を見た人の話によれば、十文字の月剣であり、志津の作で直刃、さやの穂は熊の毛、横手は黒ラシャだという。
瘧(おこり)を患っている者がいれば、熊の毛を1本抜いて頭に載せれば瘧が落ちるという。 「武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定
永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。
単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど 田舎の三河より駿府好きと明言したとこもいい
1年間突っ込みながら楽めるとこがSNS中毒者向けっぽいか 「朝野雑載」から徳川家康誕生
家康公は天文十一年壬寅十二月二十二日(通説では二十六日で壬寅の日)、三河国岡崎の城にて御誕生された。
胎内に十二ヶ月いらっしゃったという。
家康公と御母君が離別されたのち、御母君は小川の同心久松佐渡守(久松俊勝)に再嫁され、三男二女をもうけられた。
家康公には一生一腹(同父かつ同母?)の男子の兄弟がなかったので、みな松平の姓を賜って弟となり、敵味方の人質証人として、実の兄弟と変わらぬ憐れみようであったという。
神格化のためか胎内に十二ヶ月いたという伝説が。
なお家康自身が書いた願文では天文十二年生まれとして年齢を数えているので、実際は寅年ではなく卯年だったのかもしれない 中日新聞 家康公に迫る 静岡市歴史博物館きょう全面開館2023年1月13日
https://www.chunichi.co.jp/article/616759
https://scmh.jp/
新規に建設された静岡市歴史博物館(旧・静岡市文化財資料館)がグランドオープンします。
期間中限定の展示もありますので、ぜひお出でください。
館の常設展示の目玉は、今回綿密な調査で横浜の西岡甲冑工房により作製された、徳川家康の最初と最後の甲冑の複製品です。
鎧の着初めに今川義元より贈られたという「紅糸威腹巻」(静岡浅間神社所蔵)
大坂の陣で着用したといわれる「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(久能山東照宮所蔵)
この赤と黒の色彩の二つですね。
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/images/%E7%B4%85.JPG
https://static.chunichi.co.jp/image/article/size1/5/2/2/a/522acac13bc5790445fe0176db300055_1.jpg
紅糸威腹巻の実物は威毛(おどしげ、糸)の退色が酷く、正直しょぼい見た目なんですけれども
複製品の鮮やかな紅は見事なものです。やはり写真より現物を見ていただきたいですね。
駿河今川氏の美意識や、家康への期待が見て取れるような気がしました。
調査時の記録
(仮称)静岡市歴史文化施設の展示に向けて、家康公の甲冑を調査しました!
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2018/06/post-4.html
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2019/04/201916.html 知事と市長のいざこざは地元民の方でお願いですねw
インフラと展示の正当性云々と費用問題はホントどこでも同じ。 永禄十二年十二月、駿府の今川殿館に岡部次郎右衛門(正綱)と申す三百貫の知行取りは、今川家の
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された
「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。
『甲陽軍鑑』 「武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」
権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。
また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆 「武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」
権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」
「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣
「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする 「武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている) 「武家閑談」から玉虫次郎九郎の物見について
権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。 「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)
「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六、所藤内、近藤平太、内藤久五郎、勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。 「どうする家康」大森南朋 「海老すくい」で紅白出演狙う? 「あれに賭けている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f52f893b94ca2e020c1575907d8d39e9e91900f
大森は酒井忠次が得意としていた舞「海老すくい」を初回放送で披露したことについて
「2カ月くらい前から心の準備をして練習した」と説明。その上で「どこまで宴会芸として
成立させられるか…。カットされているところもあるが、賭けている。今年の紅白に
あれで出ようと思っている」と冗談まじりに話した。
たしかに海老すくいの出番多いよなまだ数回だけなのに・・
今のご当主は踊れないみたいなのにイベントで強要されるたりするんだろうか?
酒井忠次の妙技海老すくい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8634.html >>571の続き
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)
また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。 城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述) >>573
>名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
>酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
>「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
>思います。とのことでした。
>あ、それから、踊れないそうです(笑
海老すくいは現当主のこの言葉に尽きるな
史実と逸話の違いっていうのも肝に命じますよ >>577
史実と創作な、だから無知って言われるんだよ 史実厨だけどここ楽しんでるよ
とはいえ史実厨なもんで書き込むときは史実の可能性がある聞き書きとかだけにしてるけど
えびすくいはどうなんだろな ちょっと検索したらすぐ一次史料がでてきたぞ
ツイッターのパクりサイトだけど
ttps://togetter.com/li/1178178
一、御酒宴之内、御隠居様・家康度ゝ御座敷舞後者、御二方連テ御舞、無終も御乱酒、酒井左衛門尉羽衣舞、海老すくゐ川之舞名仁ニ候之間、幾度も御所望候、賀様之双方御会面、百年已来者無御座候之由、於府内上下万民唱ニ候、以上
天正14年の徳川北条面会を伝える西山本門寺文書の一部
酒井が海老すくいの名人ってのは史実と考えてよかろう
一次史料に明記された珍しいケース あ、素性が分からないんで日記としたら一次史料ってことね 午の年(元亀元年)の極月に武田信玄公は、馬場美濃、内藤修理、山縣三郎兵衛、高坂弾正、
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。
「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」
高坂承り
「掃部が申すことによると、
『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』
このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」
信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」
高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した
「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」
信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。
しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」
また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」
馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。
信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した
『甲陽軍鑑』
武田家における信長の軍略についての認識について 高野山過去帳の酒井忠次卒去の記事に記された、北条家との婚姻の場面での◯すくい
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1596/17-3-1/10/0030?m=all&s=0019&n=20
大権現氏政と惣河原にて参集したまひ、酒宴あるのとき、たわふれ(たわむれ)に、蜆(しじみ)すくひ川をまふ(舞う)、氏政悦のあまり、一文字の腰物貞宗をさすく(授く)
しじみだか海老だかはともかく、史実だったと考えてよかろ だがそれがいい
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/img_2023012400647.jpg
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/kj_2023012400631.php?utm_content=uzou_5&utm_source=uzou
慶次、兼続ら米沢を走る ラッピングバス、きょう24日から運行
山形新聞2023/1/24
米沢で晩年を過ごした戦国武将・前田慶次の漫画キャラクターを描いたラッピングバスの引き渡し式が23日、
市役所前で行われた。24日に運行を開始し、慶次ゆかりの堂森善光寺がある同市万世地区の住民らの生活路線で
運用されるほか、観光誘客にも一役買う。
万世地区を経由し、市役所と米沢スキー場を結ぶ市民バス万世線の新車両となる。車両更新を機に誘客の
起爆剤にしようと、両側面に前田慶次をはじめ、伊達政宗、直江兼続など漫画「花の慶次」に登場する
米沢ゆかりの戦国武将らを描いた。1日17便中10便で使われ、イベントなどにも登場する予定だ。事業費は約270万円で、
このほかに、漫画を管理するコアミックス(東京)への使用料がかかる。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 悪いスレで名前にだしたので
「大友興廃記」から「生の松原合戦の事」
筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。 どうする やっぱ最高に面白かったな
氏真がイケメンだし次週の合戦シーンが楽しみ
ヘタレの家康なんか脱糞させちゃえ 産経新聞2023.01.29
徳川19代、家督継承を報告 親族らに「未来へつなぐ」
https://www.sankei.com/article/20230129-GK2FGRVSJVIFHIV224P75RHLYE/
徳川家康から続く徳川宗家19代目当主として1月1日に家督を継いだ徳川家広氏(57)が29日、東京都港区の増上寺で開かれた「継宗の儀」で、
親族ら関係者に代替わりを報告した。儀式後の記者会見では「責任の重さに身が引き締まる。(先代の)父が守ってきたものを未来につないでいく」と意気込んだ。
儀式は非公開で、徳川や松平の一門など400人以上が参加。家広氏は父で18代目当主の恒孝氏(82)から家督相続の際に引き継ぐ品を受け取ったという。
会見で、放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」について問われ「人間らしく若者らしい家康公になっている。感情移入してもっと理解してもらえればうれしい」と語った。
当主の交代は60年ぶり。
東京都出身の家広氏は政治経済評論家や翻訳家として活動し、徳川記念財団の理事長を務める。2019年の参院選で立憲民主党公認候補として静岡選挙区から出馬し、落選した。 >>576の続き
「武家閑談」から第二次上田合戦
本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。 というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役 子供のころは松平元信が松平元康になって徳川家康になるのはなんとなく納得してたが
神子上典膳が小野忠明になるのはなんか釈然としなかった
でもまあ木下藤吉郎が豊臣秀吉になるようなものだと思ったらそうでもなくなった >>598
家康も秀吉も、なんなら人斬り半次郎でも派手な改名なのに、神子上さんは地味な方に変えてるから違和感あるのかも? 【速報】 第18代徳川家当主、徳川恒孝さん(82)、引退 19代目は長男の家広さん(57) [886559449]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1675134268/1 なんで通字じゃないの?
嫡流じゃないなら虫けら同然じゃん 「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出
真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
「武家閑談」真田信繁の大坂城入城
真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。 わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう >>612
取り次ぎもせずに通す訳がないだろ
一般企業なら受付がいるから分かりそうなものだがw
もしかして無職か現場の人かな? 信玄公、人の御使いなされよう
信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。
信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。
『甲陽軍鑑』 >>613
それとわざわざ山伏の格好してうろんな奴と思われるのは別ですよね
現代文の成績が悪かった方ですか? 無職か底辺の奴が今ごろ何か言ってら
よっぽど口惜しかったのかねw と 負け犬が顔真っ赤にして恥の上塗りをするのであった🤭 まぁ所詮作り話なんだからカッカしなさんな
それはそれとして豊臣からすりゃたっぷり前払い金渡してるんだから立派な身なりで来て欲しかっただろうけど どうせ刀に金を使ってしまい奇を衒って山伏の格好で現れたんだろ
こういう奴何処にでもいるよな 「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」
大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。 まぁ現実にはちゃんとした格好で入ったはず。てかわざわざ味方をおちょくって何が利益になるかと言えば… >>622
床の下に入るのにちゃんとした格好って何だよボケ
所詮作り話なのにいつまでカッカしてんだ?
そんなんだからいつまで経っても無職なんだよ 火事を起こして混乱してる最中に殺す計画だったんでしょ
そんなことも分からないから人生経験の乏しい無職って言われるんだろうね 期待通りのレスがきて笑うわ
そんなとこはわざわざ文字にしなくてもおわかりですよね?って話なのに 無職が期待通りの反応をしてくれて笑った
わざわざレスしてくれなくても知ってるのに 古田織部ついでに
「続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」
古田織部正が大坂へ返り忠をなしたが、「(家康の意向で?)切腹の義は暫し引き延ばすように」という内容の糊付けにした書状が板倉伊賀守勝重に遣わされた。
伊賀守は書状を読み、「このような急を要することは常々の書状とは違い、糊付けするに及ばない」と申したそうだ。
(大坂城落城後の)六月十一日、織部正は切腹となり、鳥井土佐守(鳥居成次?)と内藤右衛門が検使としてやってきたという。 「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」
天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。 服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。 小学生だから現代文の成績が悪いのは当然だね
まあ単に頭悪いだけな気もするがw >>585
徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。
歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf
さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。 そら熱田で南蛮と貿易してる信長サンだもの
家奴もアンテナ高いっしょ♪ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています