戦国ちょっといい話50
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豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。
豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟に
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。
惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。
三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
三ヶ所の伏兵は命に従って死を免れた。そして薩摩の者達は、これによって他に伏兵はいないと考え、
再び探索することをせず、佐伯惟定を軽んずる思いを持った。
この時、惟定は騎士の伏兵を道路より二、三十町下がった山間に置き、豊久の軍が通過するのを待って、
廻ってその後ろに出た。
豊久の軍に対し、惟定は地の利を利用してこれを防いだ。豊久の軍は破ること出来ず徐々に疲労した。
これを窺って合図の法螺が吹かれた。一の騎馬の伏兵、法螺を聞いて左より俄に起き、豊久軍の横を
断とうとした。豊久の兵がこれに当たろうとすると、ニの騎馬の伏兵右より起こり、それぞれが
左右を衝こうとすると、そこに三の騎馬の伏兵が中より起こった。
ここで本陣の匡徳正兵となり惟定奇兵となって即座に進んで縦伐した。
豊久の兵は目が眩み志奪われ、大いに敗れ潰走した。
(志士清談)
佐伯惟定の策謀について 戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね 豊後の臼杵に、吉田一祐という者があった。力は片手で百斤(60kg)を挙げても重いとも思わず、
鎧は銃弾が穿つことも出来ないほど厚いものを着し、二尺七寸(約81cm)の腰刀、一尺八寸(約54cm)の
短刀は、それぞれ厚さ三寸半(約10cm:本文ママ)に作り、刃は蛤貝の耳の如くであり、挟み抜いて
これを振るに、竹を振るよりも軽々としていた。
ある年、薩摩の軍が豊後を攻めた時、味方が敗走した。これに一祐は怒り、声を上げて逃げる味方を
叱咤し励ましたがなお止まず、そこで一祐は彼等より先に走り退いて、土橋の前に来ると、
自身の三間柄(約5.5b)の鑓を横たえ、土橋を渡ろうとする味方を推し留めようとした。
鑓の柄の所まで逃げ掛って来た者が三、四十人。一祐は鑓の柄を握り、鎧の胸に当て、
「曳け!」という声とともに推し還すと、三、四十人の者達は後ろ足に成って推し還されること
二十歩ばかりであった。一祐は大声で呼びかけた
「私がここに在る以上、この橋を渡すことは出来ない。この橋を渡らねば、川は折節秋水漲り、
底も知れぬほど深い。ここに堕ちて溺死するか!
敵も人なり、我も人なり。怯者が負け勇者が勝つだけのことだ。どうして父祖の姓を汚し、子孫に
辱めを残すということを考えないのか!」
そう、跳ね上がり、地を踏み鳴らして諌め立てると、皆引き還し、迎撃に出て薩摩軍を退却させた。
(志士清談) 朝野雑載より毛利鎮実とその娘
永禄の頃、大友宗麟は筑前国午見の城を毛利兵部少輔鎮実に預けた。
天正七年、秋月の使いが「こちらに味方して欲しい、その場合は人質を出してもらいたい」と申し渡してきた。
鎮実は味方する気などなかったが、断ると龍造寺とともに秋月が攻めてくると考えたため、人質を出し、偽りの和議をし、その後に人質を取り返そうと考えた。
鎮実は十二歳の娘に「汝、幼少なれどもよく聞け。秋月種実より我々に人質を出すべしとの使い来る。
今彼が心にそむかば、この城に攻め来るべし。しからば一族皆滅び、汝も殺さるべし。
ただいま質を出せば城を敵に取られず、末までも無事なり。しかるゆえ汝を質に出すなり。
さありとても行く末、宗麟公へ逆心して、秋月と一味することはおもいよらず。
しからば後に必ず敵のために殺されん。その沙汰あらば人手にかからず自害すべし」
といい含め、脇差を渡して
「汝が捨てん命はお屋形様のため、または父が忠義の心ゆえと思うべし」と言い聞かせる。
そのとき母も涙をおさえて
母「高きも卑きも子を疎に思うはなかれども、今父のおおせのごとく、汝が命にかえても屋形さまに御敵はなさるまじ。
たとい娘の命を惜しみ、謀叛人となりても、父の冥加尽きてよきことさらにあるまじ。
父の家ほろびては汝が身にもや如何にしかるべきことはあるじ。
ただ偏に君に命を奉り、父の名をくださじと思いきらば、天の恵みありて命も助かり、父ももろともにさかゆべし」
娘、涙の下より申しけるは
「御心やすく思い候え。我が命は父に参らせ候。
城をよくお保ち、屋形様へ忠義の御奉公なされ候え。娘の命を惜しみ、御未練の心持ちあるべからず。
今かようのこと候わずば、我何としても屋形様の御為、または父の御為にならん」
と言って、涙をそれ以上は流さなかった。
鎮実は笑って「汝幼少といえども、志を感じいりたるぞ」と言って使者をつけて秋月に娘を送った。
しばらくしてのち、御手洗五郎三郎という覚えのある者が魚商人に扮し、魚の腹の中に鎮実の書状を入れて娘の局に遣わし、
「八月二十七日の夜に搦手より忍び入って盗み出す」と約し、その日に難なく娘を盗み出した。
のちに娘は坂本十郎の妻になったという。
宗麟は御手洗の功績を賞したということだ。 囲碁についての様々な話が書かれた「爛柯堂棋話」から
本能寺にて囲碁の事
天正十年、信長公、光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給わんとて、江州安土より御登り、京都本能寺に御座あり。
六月朔日、本因坊(算砂)と利玄坊(林利玄)の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。
子の刻過ぐる頃、両僧暇給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こるを聞き驚きしが、これ光秀が謀反にして、本能寺を囲むにてぞありける。
後に囲碁の事を思い出て、「前兆ということもあるものかな」と、みな言いあえりとぞ。
その時の棋譜なりとて、今も伝えり。この碁を思い見るに、利玄が隅の石を取らるるを見損じたる、本因坊が布置・手配りの様子、これまた前兆とも言うべきか。
有名な話ではあるものの残されている棋譜(128手まで)
https://i.imgur.com/alX3zFc.jpg
を見る限り、三劫の余地はないと思われるため捜索と考えられていた。
しかし
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab6176974f6bc9348e206a6426d2c13273407fc1
1万局に1回?本能寺の変前夜に出現の「三コウ」、出雲のプロ棋士が手順を発見
129手以降を考察した結果、159手目でついに三劫が出現する手順が見つかったらしい
棋譜については山陰中央新報を読まないとわからないようだが 或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。
与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。
その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。
家康公の御時に、針崎を始めとして寺院悉く背いた(三河一向一揆)。与太夫は針崎で成長し
人となったのであるからその恩は深かったが、それでも寺を去って家康公の味方に参り、度々の
戦忠を致した。
後に秀忠公・家光公はこの事を知り召され、与太夫の子である与三太夫を御咄の衆の末に
召し出され、舞い舞う事をも許され給おうとされたのであるが、程なく薨じられたために、
その事も止んだと言われる。
(新東鑑) 朝野雑載の幸若太夫の記事
幸若太夫は、往昔越中の守護桃井播磨守直常の末葉なり。
(南北朝で尊氏に属したがたいして褒賞が得られなかったため新田義貞に合力して能登・越中・越前三か国を領したがいつともなく衰微)
直常死去の後、子孫、浪浪の身となり、故郷の住居かないがたければ、各諸国に分散す。
その中に幸若丸という児叡山に登り、光林坊に入って学問す。
この児音曲器用なるによって、双紙より節を付けてうたう。
そのおもしろきこと感にたえたり。世人これを舞と称す。
幸若丸が子孫、相次いでかの業を継ぎしを舞太夫という。この故に元祖幸若丸の名を取りて苗字とし、舞太夫となれり。
また幸岩太夫も、岩松次郎経家が末葉なり。
同じころ、幸石丸といいてともに叡山に籠りいたりしが、幸若丸と同じく舞を修行す。
今に至りて桃井・岩松の両氏族、舞太夫と呼ばるる。口惜しきことならずや。
桃井直常といえば足利直義派のはずだが
岩松経家については少年ジャンプの漫画でそろそろ中先代の乱が描かれるから知名度も上がるかも この「幸岩太夫」が>>10の「幸若与太夫」と同一人物と思われています 原大隅守の力の事
大友宗麟公の侍・原大隅守は吉野というところを領し、人より優れた力があった。
・ある時、肥後国・戸の口に南蛮國より石火矢500 挺来て、一挺16 人にて臼杵丹生島城の庭に並べた。
宗麟公は大隅を呼びて「一人して持ってみよ」と仰せければ、大隅筒先より起こし肩に乗せ庭を二、三度回りて元に戻す。
宗麟公、大力をまだご覧になりたいということなので、自然石の大きな手水鉢の場所を直させたが
満杯の水はこぼれなかったため、御感じになったということだ。
・ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが下向して勧進のため相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。
その後大隅のいる臼杵丹生島に来て大隅と業を争うとした。
雷は鹿の角をつまんで砕き、大隅に力を見せつけた。
大隅はでは相撲を取ろうと門前に植わっていた大竹を庭に出してきて、竹を一節ずつつまんで潰し、丸めて両端をくっつけて土俵とした。
これを見た雷も辻風も驚き「諸国をめぐったがこのような力は見たことがない」と降参した。
・そのころ武宮武蔵守という宗麟公のおそばに背丈が八尺の大男がいた。
ある時、大隅は肩衣袴姿で武宮を両手ですくい、座上になおしたという。
・ある時、三重で売買をしていた者どもが乱闘騒ぎを起こし、二百人と百六十人で斬り合っていた。
そこにたまたま行き合った大隅が柄が一丈、刀が六尺の大長刀を持って二百人の方へとびこみ、
「ここに原大隅というものあり、あぶれ者に申さん、狼藉はさせまじぞ!」
と追い散らすと、残りのものも「お屋形様のお側の大力の大隅殿だ」と双方ともに逃げてしまった。 出典書くのを忘れていた。「大友興廃記」からです
・ある時、大隅守は伊勢大社に宿願の儀あって宗麟公に暇をつげ、ついでに土佐の一条中納言康政公(「大友興廃記」は一条兼定を、文書発給をしていた源康政と間違えている)は、
宗麟公の婿で大力と聞こえたので力比べをしようと康政公のところに名前を隠して出た。
康政公は広間にて盤持(大石を持ち上げて力比べをすること)をしようと持ちかけた。大隅は手加減をしてわざと負けた。
その後、康政公は大筒を褒美に出してきたが、「これは思いもよらぬ事」と辞退をしているうちに康政公の力が尽きてきて鉄砲の先が降りてきたため、
大隅は指を筒先に入れて鉄砲を水平にして受け取り、三度頭を下げて鉄砲を置いて去った。
「あの怪力は豊後の原大隅守であろう、ほかにあれほどの怪力はおるまい」と噂になったということだ。
・土佐を出ると十六端の舟に乗って帆柱を肩にのせ、舟中の評判になった。
摂津国兵庫では新造の大船で七、八十人であつかうものを一人で海へ引っ張っていったため、「鬼か神か」と人々は言ったという。
・兵庫から大坂につくと六月二十九日の住吉の神事で相撲を取っていた。
大隅が大竹の節を潰して帯に結んで出ようとすると「角力の勝負はつきました。どの国のどなたですか?」と聞かれたがはぐらかした。
洛中では大きな牛車と行き合ったため片手で押し出して通り抜け、伊勢に参拝して豊後に下向した。
宗麟公は大隅から旅の話を面白く聞き、知行をあてがったが、二、三年して御勘気があった。
知行没収されそうなところを佐伯惟教が口添えしてくれたため元の如くに安堵された。 続き「大友興廃記」から原大隅が大力を得たわけ
大隅守の大力を得た由縁は、ある時、大隅、正善寺という寺からの帰り道に、柳?の下に女があって子を抱いていた。
なにか言いたそうだったため馬から降りると
女「この子を少しの間だけ抱いてください」
と言われたため、怪しく思い、脇差を抜いて口に咥えたまま子供を抱いた。
子供の力は強いように感じた。
しばらくすると女は帰ってきて子を受け取り、「望みはないか?」と聞いてきたので
大隅「我が屋敷に水が湧き出すようにしてほしい」
と言ったところ、女は「他に望みはないか?」と聞いてきたため
大隅「力も湧き出して欲しい」と言ったところこのような大力がついたということだ。
また一説には、大隅の母がよみがえって米を三粒持ち帰ったのを含むと体力となったということだ。
この大力は日田鬼太夫永勝以来だと人々は言った。
(このあと人皇六代孝安天皇の御代の日田永勝の相撲話)
いわゆるウブメの話ですな 訂正
含むと体力となった
→含むと大力となった
六代孝安天皇の時にいたのは永勝の先祖で
永勝は六十八代後一条天皇の頃の人物と書いていた
日田大蔵氏の日田鬼大夫大蔵朝臣永季、通称「日田どん」のことらしい
1.9mで相撲で無敗だったそうだからある意味、進撃の巨人(作者は日田出身) 悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。
愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5158.html
後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛と加藤嘉明のお話。
1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。
しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。
そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、そこで日々座禅をして過ごしていたという。
ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時本堂で座禅を組んでいた又兵衛はこれを聞いてかっと目を見開き
「殿様というのは、左馬助か。」
と、先走りに聞こえる声で呟いた。これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。
報告を受けた嘉明は
「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」
と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。
この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移りそこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。
今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。
なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは長泉寺に残されていたともいわれる。
またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。
そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり水を引くようにしたりして村人のために広い良い田を作ったので、
たいへん喜ばれたともいい、又兵衛夫妻の墓といわれるものが筒井の大智院(伊予郡松前町)にもある。
データベース『えひめの記憶』伊予市誌 四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)より
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/10150
四国八十八ヶ所霊場 第四十五番札所 岩屋寺
https://shikoku88-iwayaji.com/about.php 岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう >>19
この逸話、又兵衛の五男である後藤吉右衛門基が加藤嘉明に仕えてたという縁からだったりするのかな?
加藤家の会津転封にはついて行かずに伊予に土着して医師になったそうだし。 天文三年(1534)、芸州吉田、釜ヶ淵に化生の者が出て、近辺の男女児童を掴んで淵に引きずり込んだ。
民間の者達は恐れ、この地域の往来が絶えた。
大江(毛利)元就はこれを聞くと、「早く退治すべき」と下知をしたのだが、家中の者達は
「大蛇か、鬼のたぐいか」と衆議喧々にして、あえて進み出る者は無かった。
この時、荒源三郎元重という者が、「大蛇、鬼の類であっても、壮勇を以て退治すれば容易いことだ。」と、
この役目を引き受けた。彼は身長七尺(約210センチ)、十人力と言われる大男で、太刀を取って
釜ヶ淵に行き、裸に成って下帯に太刀を差し、水の中に入ると
「この淵の化生、確かに聞け!人民を悩ますその咎によって殺害の為、荒源三郎元重、主命を
承ってここへ来た。出て勝負せよ!」
そう大音に呼びかけると、淵の底鳴り響き、逆波立って水は岸に溢れ、源三郎の両足が水中より
ひしと取られ引きずり込まれんとした。源三郎は足を掴んでいるその両手を取って引き合ったが、
まるで山の如く動かなかった。その者の面を見ると、それは淵猿(河童)であった。
源三郎は兼ねて『淵猿は、頭頂部のくぼんだ所に水があると力があるが、水のないときは力がない』と
聞いており、これの頭を執ろうとしたが、滑って非常に執りにくかった。しかしどうにかして終に
頭を掴み、逆さまにして振り回すと、頭上の水が溢れて力が弱った。これを持ち上げて岸に上がり、
縛って城中へ連れ帰った。
元就は源三郎の勇猛を賞して、加増五十貫、来國行の太刀を賜った。しかしこれに源三郎
「私は数度の戦で敵を討ち取りましたが賞禄は少なく、ですが更に不足とは思いませんでした。
今、この畜類を生け捕ったとして過分の恩賞を頂くのは、却って不快です。」
そう打ち笑って、恩賞の刀を置いて退出した。源三郎にとってその功は誇るべきものでな無いのだろう、
と云われた。
(志士清談) http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3822.html
柳田國男も書いてるようだから調べたら
山島民譚集の「河童駒引」に「老媼茶話」にその話があると書かれていた。(自分が読んだ「老媼茶話」にはなかったが)
ついでに柳田國男によれば、
この話は仁徳天皇の御代に吉備の川島河の縁において笠臣の祖縣守という勇士がミズチを退治した話とよく似ているが偶然だろう。
「武家高名記」「陰徳太平記」「志士清談」にも同じ話があり(南方熊楠氏のご教示による)
芸藩通志の高田郡吉田村釜淵の条には、荒源三郎(井上元重)がカワワラワを生捕りした故跡と書かれている、らしい 秀吉による伴天連追放令の翌年、畿内キリシタン代表者たちよりイエズス会総長宛て書状
関白さまがこの教えを追放すべく命令されたので、畿内各所の教会は一挙に滅亡し、神父様修道士様方は舟本へ落ち延びて、美しく飾られた村が一夜にして滅びる様は言うも浅ましいほどです。
舟元は畿内からは程遠く、牧者に捨てられた羊(信者)たちがたちまち虎狼の餌食になるのも浅ましいことです。
しかしオルガンティノ神父様は羊たちを見捨てるに忍びなく、一人とどまって散らばった羊を集め、乾いたものには水を凍えたものには暖を与えるごとくにしておられます。
我らは、この上なお大きな試練が来るならば来い、聖なる殉教者の血がこの地に種として播かれるように、と祈っております。
どうか尊師が我らに祝福を垂れ給い、諸国の教会が一層繁栄し、尊き教えが広まりますように。アーメン。
1588年5月10日 日本国 都ならびに五畿内
小西如清ヘント、パウロ文太夫、シメオン丹後、ハスチアン瀬尾、レウゴ清水、サンチョ三箇、ジムアント蔵、ロマン真柄加介、了五了珪、ビセンテ了荷
総長さまならびに人々御中参る 猫を溺愛する伊達政宗
政宗が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てた書状
https://i.imgur.com/9T58nl0.jpg
猫
https://i.imgur.com/Yebwj2q.jpg
「独眼竜」が猫にデレデレ? 書状が伝える意外すぎる武将の一面(Sデジオリジナル記事)
山陰中央新報 2022/02/06
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/159624
以下抜粋
▼お礼の手紙で飼い猫をべた褒め
公開された書状は縦34・2センチ、横50・7センチ。政宗本人が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てたもの。岡学芸員によると、政宗は参勤交代で江戸にある屋敷にたびたび滞在したため、2人は見知った仲だったと思われるという。内容は現代語に訳すと、以下のようになる。
「猫の子をしっかりと預かりました。男ぶり(顔つき)が見事です。家来から『夜、(猫が)自身の体よりも大きいネズミを見事につかまえた』と聞きました。ますます大事に飼おうと思います。喉輪(首輪)もおしゃれで、一段と華やかに見えます。直接会ってお礼がしたいです」
書状の前後の流れは不明だが、政宗が四郎右衛門から猫を譲り受け、そのお礼の手紙とみられる。猫について「顔つきがりりしい」「大きなネズミが捕れるほど強く賢い」「首輪が似合う」と、べた褒めだ。独眼竜の名からは想像できない猫ラブな一面に、親しみを感じた。
(中略)
書状に年月日の記載はない。岡学芸員によると、時期によって形が変わる、花押(かおう)と呼ばれる署名の形から推測し、政宗が50歳を過ぎ、大坂の陣(1614〜1615年)も終わった1620〜21年頃のものと推測できるという。岡学芸員は「戦乱が終わった後なので、政宗も平凡な暮らしをしていたのかもしれない。よくこんな資料が残っていたものだ、と思う」と笑った。
▼政宗の書状、なぜ島根に?
岡学芸員によると、政宗は筆まめで有名で、書状は全国に約2千点残るが、猫に関するものは唯一だという。
(抜粋終了)
政宗が猫を可愛がる話はちょっと新鮮だったので。 野々村四郎右衛門
隆慶一郎「影武者徳川家康」で初っ端に出てきて、
暗殺者の甲斐の六郎に殺されて、すり替わった六郎が真の家康を殺しちゃったのを思い出した。 >>27
創作物の影武者徳川家康だとヤられてたけどまぁ、家康の前に馬乗り付けてぶち切れられた記録が残る使い番のあの人と同姓同名だから多分同一人物だよね。 影武者徳川家康でも徳川実記を引用しているからたぶん同一人物
政宗と猫といえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-314.html
伊達政宗と最上義光・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2735.html
まーくんがぐれました。
で最上義光あてに
「伯父貴援軍マジありがとな。で、オレ、城落としたら女も子供も犬も猫も
八百人くらいぶっ殺したから、マジでwwwww」
と書いたとかいう話が出ていたけど、
小手森城のなで斬りの時の書状だとしたら本当は
「五百餘討捕、其外女童におよばず、犬迄なで切に為成候条、以上千百餘人きらせ申候」
と書かれているようだから、猫好きは安心して 江戸初期までは猫が貴重な生き物だったと言うし、放し飼いなら一城撫切りになっても、繋がれた犬とかと違ってすばしっこい猫はそうそう頃されることがなかったんじゃなかろうか? 猫御前にライバルが
(調べたら猫御前って山岡荘八がつけた呼び名だったんだな) >>32
いやいや
どちらも食べちゃいたいほど好きなのだろう >>26
遠く離れていたって元領地とか子孫が移住したとかもあるけど、ただ単に好事家が古文書収集した結果というのもよくあるお話
武田信玄と朝倉のやり取りで有名な伊能文書も、朝倉ゆかりの家に伝わったというよりは、佐原の伊能家(忠敬の遠縁の同族)が手に入れただけっぽいし というようなことはちゃんとリンク先に書いてありましたね
余計なこと書きました
>美術品や古文書収集家の桑原羊次郎(1868〜1955年)が所有していたもの。桑原没後の昭和40年(1965年)代、
>島根県が遺品を譲り受けた際、書状も混じっており、そのまま長年保管されたそうだ。
>桑原家は代々、松江藩の両替商を務めた豪商。藩士が参勤交代で江戸に行った際、桑原家への土産として錦絵を
>買って帰ることが多く、昔から美術品が集まる家だった。桑原羊次郎は特に古文書の研究に熱心だったため、国内各所の資料を収集したという。 「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇
栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず) ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として
1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺
と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。 タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」
過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
「博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない 転生したらお殿様だったでござる の巻
どこかで見たこと有るようなタイトルだとかそういうことは置いといて、
四国・高知の足摺岬には足摺七不思議と言われる場所がある。
今日はその11番場所である「犬塚」(犬の墓)に伝わる話を物語りたい。
七不思議なのに11番ってどういうことだよ あーっ
と思った貴方、足摺の七不思議は21あると言われているんだ。悔しいだろうが仕方が無いんだ。
土佐清水市のホームページにも※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です。
と記載があるので言葉の意味はよく分からんが、とにかく足摺の七不思議は21あるんだと覚えておけばいいと思います。知らんけど。
さて、当地の看板には以下の様に記されている。
その昔、日の本が乱世の時代のこと、この地には一人のお坊様がいらっしゃった。
乱世を嘆くお坊様はある日、一つの願いを掛けて足摺岬から飛び降りたとも、補陀落渡海に出たともいわれている。
その願いはこうである。
「この乱世を立て直すため、一国一城の主となって生まれ来たらん」
お坊様はこういうと手のひらに南無阿弥陀仏の文字を書いて握りしめ、断崖から飛び降りた(または補陀落渡海に出た)という。
このお坊様を慕う一匹の犬がおり、犬はお坊様が姿を消したあと、その場を一歩も離れず飲まず食わずでその場にとどまりお坊様を待ち続けたという。
そして、遂にはその場で犬は息絶えてしまい哀れに思った近隣の村人たちはその場所に犬塚を建てたのだという。
それから幾百年の時が過ぎた・・・。
この土佐の地を治める殿様の手のひらには黒い生印があった。殿様はこの話を聞いて自分はこのお坊様の生まれ変わりではないか?
と、思うようになったという。その殿様の名は・・・
山
内
忠
義
土佐山内家の二代藩主にして、土佐の大酒豪様であり幕府の破戒者である。
江戸城で酒宴があれば飲み過ぎてゲーしたり二条城で酒を飲めば帰路、駕籠に仁王立ちになって京をの大路を練り歩き、
紀州徳川家屋敷で飲んで鎌髭の男を見れば髭を掴んで離さない悪絡み・・・
太平の世を築くことを願って足摺から飛んだあのお坊様は幾百年の月日を経て、この様に立派な酒らn・・お殿様に生まれ変わって土佐に戻って来たのである。
んなわけねーだろ
と言いたいところであるが、本人がそう言っているのでそういうことなんだろう。ひょっとするとこの話を聞いた際は一杯飲んだ後だったのかもしれない。
もしくは寄付するための口実というかその場のノリとか勢いだったのかもしれない。
(素面の時の)山内忠義公は足摺山金剛福寺を深く信仰し、度々参拝に訪れ本堂・仁王門・十三重の塔など数多くの寄進を行っている。
そしてこの時以降、金剛福寺は山内家と同じ三ツ柏の家紋を頂いているのである。
土佐静美氏 足摺の七不思議
https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_7fushiji.html
足摺の七不思議|足摺国際ホテル
https://www.ashizuri.co.jp/sightseeing/nanahusigi.html 「酒様」と呼びたいけど「鮭様」ほどには広がるまいな、先代ほどにはマイナーだし 細川澄元と細川高国は管領の職を相争い、畿内に於いて双方の与党の交戦が止むことは無かった。
ある時、高国が京都を去って丹波に逃れた事があった。澄元は威勢を京都に振るったが、高国は
散らばった兵を集め壮士を募って攻め上がり、船岡山に於いて相戦った。
この折、高国は謀として、弱兵を一陣とし、屈強の者達を二陣、強弓を選んで遊兵とした。
戦に当たり高国が激励したことで、一陣も弱兵ながら気を新たにし、敵と接するに及んで
一陣は澄元の前備えを衝き崩したが、中備えのために切り立てられた。
しかしこれによって澄元勢の前備え中備えが混乱している所に、高国の二陣の鋭兵が、
既に戦闘をして疲労していた澄元勢に当たった事で、澄元の部隊はいよいよ疲弊した。
ここに遊兵とした強弓の部隊が鏃を揃えて連ね放ち、箙を敲いて声を揚げ、軍勢甚だ盛んとなった。
澄元の兵は大いに敗れ、死傷者は数知れぬ程であった。
(志士清談)
戦に弱いと言われがちな細川高国が、巧みな戦術で細川澄元を破ったお話。 船岡山合戦のことなら大内義興と陶興房、尼子経久の率いる中国オールスターズが居ることを考慮したら高国側は負ける要素低い気もしないでもないですがどうでしょう? >>54
お前さあ頭悪く産んでごめんねって親から言われなかった? >>54
引きニの構ってちゃんレス貰えて嬉しそうやね 比企の仕送りだけでは足らず家主が上洛して留守中に
娘を孕ませて既成事実を作って養って貰おうと企むクズ
伊藤は工藤から家督簒奪において平家に恩義あるため失敗
逃亡先の北条でも同じ事をして既成事実からの寄生
神輿としての価値しかないクズで人一倍自尊心が高い
源氏支族の武田木曽を排除して戦功のあった弟たちも陥れて
結果血筋を絶やした 「大友興廃記」から高城川原の戦い(耳川の戦い)における「石宗討死」
石宗は軍配者であり「当年、日向へ大軍を出しても利は得られないでしょう。
また、島津公は初代が比企尼の娘の丹後内侍と頼朝公との間の子であり、大友家初代と兄弟ですので出陣は止めるべきです」
と申し上げたが宗麟公は用いたまわなかった。
また当陣においても、駆け引きの利を説いたものの田北鎮周は用いなかった。
十一日の暁に、味方の陣の東から気が立ち、敵城の内になびいたのを見た石宗は
「野石の気」であると考え、星野・蒲池が二心を抱いていると見抜いた。
また南に「血河の気」という雲気が立って、味方の上になびいたため、
石宗は「この気が味方に向かいくるは、河にてほろぶべき雲気なり」と考え
鎮周に使者を立たせ「この味方にかかりたる雲気が変わるまでは出陣あるまじ」と申したが
鎮周は「この鎮周、元来下人の生まれにて、雲の上の軍はつかまつらず。
雲のことは龍に伝えらるべしと思いつる」と聞き入れなかった。
「吉事はなく悪事のみで、味方の利となるべきことは一つもない。
先陣の大将・鎮周の軍法を破り、大守(宗麟)の指図の目利き虚しくなること、不忠の上の逆心というべきである。
このうえ諸軍が鎮周に同意するとなると天運の末、お家滅亡の兆しであろう」
と石宗は思い入り、秘伝の巻物を焼いて、平人として討死した。 この石宗、在世の時は道学をおさめ、玉泉(天台宗)の流れをくみ四教三観の月を我がものとしていた。
また韓信の武略に通じ、誠に真俗倚頼、文武の達人であった。
ある年、奈良に入ったついでに吉野蔵王権現の御宝前で祈っていたところ、虚空より脇差一振りが降りてきた。
石宗はこのような奇特は祈るまでないと谷に向かって投げたところ、谷から風が起こって脇差を虚空に浮き上げ、しまいには石宗のところに戻した。
石宗は三拝して宝前を去った。この脇差は今も石宗の子孫が所持しているそうだ。
またある時は虚空をかける鴉を呼び寄せ、ある時は竹の枝に止まっている雀をその状態のまま、枝を折った。
さまざまな神変奇特を起こした故、島津方の本郷忠左衛門尉が石宗を討ったあと、薩摩では石宗を大明神として崇めたということだ。 美濃菩提の城主竹中半兵衛重治が一ノ谷、明智左馬助秀俊が二ノ谷、柴田伊賀守勝豊が銕蓋が峯、
この三冑、二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという心をもって名付けたり。
矢田作十郎が鯉ノ冑、浦野若狭守が小水牛、黒田筑前守長政の大水牛、日根織部正が唐冠、
原隠岐守が十王、福島正則の四股鹿角、本田中書の忠信が冑、蒲生氏郷の鯰尾、伏見久内がワリ蛤、
細川三斎の山鳥、武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日ノ月、加藤清正の長烏帽子、藤堂新七郎が帽子、
秀忠公の角頭巾、各名ある?なり。
(志士清談)
志士清談からの引用が多いようなので、その投稿者さんとは別の者ですが同じく志士清談から。
『志士清談』は岡山藩士南条正修(1655-1724)の作で、蝦夷地探検で有名な近藤重蔵(1771-1829)が刊行本に寄せた
序文によれば、岡山藩の儒学者熊沢淡庵(1629-1691)が、同藩の吉田源之丞家の文書を整理したものが『武将感状記』で、
その残余を編集したものがこれであるという。
しかしながらほぼ同じものが過去まとめにあります。
総じて名物の兜というものは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11825.html
こちらの引用先『安斉随筆』は伊勢貞丈(1718-1784)の著作。これは貞丈が冒頭で『武隠叢話』の引用と書いてますね。
過去ログにも解説されていましたが、『武隠叢話(武辺話聞書)』は、会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、近世軍記などのタイトルと共に、
それぞれ延宝8年(1680)上杉景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものであります。
元ネタが何処にあったか、どう書写されていったか、いろいろ考えてみると楽しいかもしれません。 挟箱は明智日向守光秀が製に初れり、昔は竹に挟て持たせけるによって、挟箱の名に負けるとなん
(志士清談) >>66
末尾の文字化けは「務」の下に「金」で読みはボウです。 貝原益軒「朝野雑載」だとこんな感じ
秀忠公ご所望にて、細川越中守忠興より御召しの御胄差し上らる。
角頭巾の角屹と立たる形なり。その御胄を土井大炊頭利勝披露ありしに、秀忠公御意に叶い、御感ななめならず。
すなわち越中守を御前に召され、御懇意の御会遇なり。
御胄の忍の緒に、ねりくりの打緒を附けたるをよく見給いて
「忍の緒は麻布のくけひもがよきと聞き及びたり。此打緒がよきか」と御不審有しに、
越中守大炊頭に向いて、「打緒を付置候は御祝儀にて御座候。是は御肌に付候物故、別に仕置候」とて、
麻の忍の緒を入たる桐の匣を懐中より取出して差し上られければ、秀忠公いよいよ御機嫌克ち、「越中守心遣い満足なり」と仰せらる。
此御冑を大阪御陣にも召されけるとなり。
是より先、関ヶ原御陣の時、御先手より細川忠興ただ一騎御旗本へ参られけるが、山鳥の尾の冑に、銀の天衝の差物なり。是を遠見するに、さながら舞鶴の如し。
家康公御覧なされ「忠興武具のこのみ勝れて見事なり。なかんずく冑と立物の取合よし」と仰られしが、其後銀の天衝の差物は家康公御所望なされ、秀忠公へ進ぜられしとなり。
摂州一の谷二の谷は、ならびてそびえけるが、一の谷の絶頂を鐵蓋が峯というなり。
竹中半兵衛重次が胄は一の谷という。
明智左馬介が胄は、かの一の谷の胄に推ならびたる名物なりとて、二の谷という。
柴田伊賀守勝豊が胄は、一の谷より上なりとて、鐵蓋が峯という。
およそ世に名高き冑は武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日の月、加藤清正の長烏帽子、浦野若狭守が水牛、日根野織部が唐冠、原隠岐守が十王頭、休木久内が破蛤、
竹中半兵衛が一の谷、明智左馬介が二の谷、柴田伊賀守が鐵蓋が峯、矢田作十郎が鯉の冑、藤堂新七が帽子、蒲生氏郷の鯰尾、福島正則の鹿の四股角、本多忠勝の忠信が冑、黒田長政の大水牛、細川忠興の山鳥、秀忠公の角頭巾の御胄、
これらはみな世に隠れなき重器なり。 「朝野雑載」から八丈島の話
豆州の住人、朝比奈六郎知明という者、軍兵を集め、大船を催し、数年用意して、下田より船を出し、八丈島に着き、島中を従え、
今後より日本伊豆国の内なるべしと定め帰り、北条早雲へ申し、氏直まで五代領知し、日本の内となれり。下田より未申にあたる。
島の風俗、家主は女にて、男は入り婿なり。
女は髪長く、色白く、容艶にして、日本人にさしてかわることなし。
女は多く、男は少なし、女をうめば悦び、男をうめば捨てもののように思う。
知明渡海の頃は永正の初めなり。
おそらく「北条五代記」の記事をまとめたものと思われる。
「北条五代記」ではこのあと板部岡江雪斎の八丈島報告が書かれているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3820.html
板部岡江雪と「八丈島」
で出ていたのでそちらを参照 ついでに択捉島に立っていたロシアの十字架を倒して「大日本恵土呂府」の標識を立てて日本の領有権を主張した事で有名な、
近藤重蔵の息子である近藤富蔵は殺傷事件を起こし、八丈島に流され「八丈実記」を記しているが、その中の話で「綜嶼噺話」という書物を引用し、
「大津波が起きて妊婦一人だけが助かり、男子を生み、母子が交わって子孫を作った」
という、小松左京「日本沈没」でも言及されていることで有名な「丹那婆伝説」について書いているが、
実は引用元の「綜嶼噺話」には「妊婦は女子を産んだ、これが女護島のゆえんである」と書かれている。
本来は上の話にもあるように、女性中心の神秘的な島の始祖伝説のはずだったのに母子相姦の始祖伝説にされるとは >>70
現時点で史実とされる経緯とは大分相違している。
八丈島は山内上杉の所領だった。
朝比奈は三浦の被官で、山内方或いは扇谷方の奥山という者と共に八丈島の支配に当たっていた。
後に伊勢宗瑞方で下田に拠る御簾という者の強襲を受けて争った結果、敗北して下田に抑留された。
伊勢が対上杉宣戦に踏み切る伏線を成す在地抗争の一つとみられている。
『北條五代記』では論じても詮方無いが…。 そして室鳩巣の「鳩巣小説」から矢田作十郎の鯉の兜の話
権現様の御時、矢田作十郎と申す武勇の士あり。
阿部四郎五郎、作十郎にいいけるは
「その方、鯉の立ものの冑はさりとては見事なり。我にかせよ。
その冑を着て働かん」という。
作十郎いいけるは「腰抜けのいい分なり。さようなる腰抜けにはこの冑着すること叶わず」という。
四郎五郎気色損じて、腰抜けの仔細聞かんとて、すでに事出来んとす。
その時作十郎言いけるは「わが冑くれよといわば取らすべし。
かせよというは返さんということなり。
しからばその方は戦場に出る時、生きて帰る心得にてあらん。
この作十郎はこの冑を着て、ついに二度生きて帰る心得にて戦場に出ることなし。
この冑、その方かようなる腰抜けの覚悟のものは不相応なり」という。
その時阿部も流石のものなれば、ことのほか誤りたりとて謝しける。
士は一言も不吟味なるこというまじきことなり。
さて四郎五郎、右の冑を着て戦うに、敵見つけ、「いつもの鯉の立物ほどに武者ぶりなし」という。
その後、その冑を返すに死鯉になるとてうけとらず。
四郎五郎その働きの時、一緒に居合わせたる者どもに「少しも臆してるしかたはこれなき」といわせければ、その時右の冑をうけとりしとや。
作十郎はのちに、一揆(三河一向一揆)に与して権現様へ敵対して家滅せぬ。惜しきことなり。 >>74
阿部四郎五郎(阿倍忠政)は大久保忠世の従兄で、阿部氏に婿入りした人物。
あの面倒くさい大久保氏の人間と、さらに面倒くさいやり取りをする三河武士とは・・・
阿倍忠政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E5%BF%A0%E6%94%BF
あとは逸話を事実とすると、1560年ころには既に人目を引くような甲冑の飾りが流行ってたってことか 「朝野雑載」から
若山の城(陶氏の本拠地)に陶尾張守(晴賢)が嫡男、五郎(長房?鶴寿丸?)たて篭もりける。
陶五郎が家人、野田寺内(野上房忠?)、五郎を殺し、その頸を元就へもちきたる。
昔頼朝奥州の泰衡を討ち給いしとき、泰衡が家人河田次郎という者、主君を討ちてその頸を頼朝に献ず。
頼朝河田が悪逆をにくみて斬る。
しかれば元就も野田寺内を誅せらるべきなるに、何とて助けおかれけるぞ。
頼朝河田を斬るは天下定まるの時なり。
元就野田寺内を助けらるるは、国家いまだ定まらざるの故なり。
長房は自刃だし、鶴寿丸は野上房忠に殺されたとはいえ、房忠は主君に殉じてるしよくわからない 或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)
義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周ロという。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳もいぇ薨去された。霊陽院殿と諡す)
四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。
後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。
(新東鑑)
細川藤孝の出生などについて 新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで ある説に、大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いにおいて木村重成は多く疵を被り、
太刀を杖について、腰掛けて休息していたところに、井伊家家臣である安藤長三郎(重勝・この時十七歳))が
駆け来た。
彼は木村が疲れている様子を見て、持っていた鑓をからりと投げ捨て、太刀を抜いて迫ろうとした。
この時、木村が申した
「若者、不心得なり。鑓にて突けよ。」
そう言った所、安藤はすかさず、鑓を持って懸かった所、木村は少しも動ぜずして討たれたという。
(或る本に、首の取りようは、先ず鑓を以て右の脇壺を突き、次に刀を以て脇の下を突いて、俯せ
引き倒すものでああるという)
(新東鑑)
木村重成の最後について 秀頼の乳母兄弟だから木村重成このときで23前後か、若者と言ってる人も若いよね 大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いの後、大御所(徳川家康)の元に井伊直孝より、
大阪方の木村長門守(重成)、山口左馬介、内藤新十郎等の首がもたらされ献上された。
大御所は移動中であったが、平岡の一里ほど前にて御駕籠を止められ、それらの首を上覧された。
この時、木村重成の首からは甚だ香が薫じており、大御所の仰せに
「若輩なる長門守がかかる行跡、稀代の勇士、不憫の次第である。」
と宣われた。
記(難波戦記)に、この時大御所の近臣達は木村のことを評し、
「長門守は所労(病気)であったとの聞こえがあるが。今日も死を決意していなかったのだろうか、
月代を剃っていない」と、口々に申したのを、家康公は聞き召され
「月代には因るべからず。既に忍の緒を真結びにして、両端を切って捨てている。これは再びこの兜を
脱がないという心底であり、討死と極めていたという事である。汝らが申し分、無検議である。」
と仰せられたという。
或る本に、木村は討死の前日風呂に入り髪を洗い、頭に伽羅を留め、江口の曲舞なる、紅花の春の朝と謳い、
余念なく小鼓を打ったが、今日大御所は首実検をなされ涙を流され
「この若者は討死を決意し、髪に香を留めながら、月代を剃らなかったのだ。」
(此若者討死を極め、髪に香を留め乍ら、月代を剃らざりし)
と仰せに成られた。この時、重成の髪を梳き香を焼いた女は、江戸に於いて木原意運という外科医の伯母で
あり、常にこの事を語っていたという。
或る記に、長門守木村重成の墓は、河内国若江郡西郡村に有り、山口重政の墓と隣り合っているという。
木村の父は常陸介、母は豊臣秀頼公の乳母であった。
重成、時に二十五歳であったという。
(新東鑑)
木村重成の首実検について 長久手の役にて、池田勝入(恒興)、および嫡男の紀伊守(元助)が戦死したが、これに対し秀吉は、
「勝入は我に属すと言えども、その心中を察するに忠実では無かった。嗣を絶って勝入の家臣である
伊木清兵衛に六万国を与えよう。」
と、伊木清兵衛へその内意を伝えた。この伊木、元の氏は香川であったが、これより先、尾州伊木山の
群賊を滅ぼすという大きな武功を為した事を以て、苗字を伊木に改めたのである。
秀吉の内意に対し伊木は
「嫡男であった紀伊守様が既に没したと言えども、次男である古新様(輝政)には、将たるの器量が有ります。
願わくばこの古新様に勝入様の領地を賜り、池田の家を継がせて頂ければ、それは私のような田舎者を
大国に封ぜられるより超異の御恩となります。」
そう伝えたが秀吉は聴かず、これを受け入れるようしばしば厳命が下った。
伊木は大いに悩み
「命に従えば富貴を得、命に違えば死を選ぶか、追放されて亡ぶかのどちらかでしょう。
しかし主君の遺跡が絶えるのを患わず、自利を得るというのは、貧暴邪匿の凶人の成すことです。
そしてそのような者に郡邑を下されるというのは、偏に巨盗に下されるのと同じことであります。」
そのように歎き訴え続けると秀吉も、伊木の類い少ない忠貞節義に感じ入り、これによって
池田家の後継ぎとして古新を立てたのだという。
(志士清談) 近衛殿の御家令である、近藤兵部大輔が物語したことである。
島津家の事について、かつて、近衛殿に仕えた豊後の局という女性が、関東に下って源頼朝に仕えたが、
二位殿(北条政子)が彼女に嫉妬し、梶原景時に対し、「由比ヶ浜に沈めよ。」と命じた。
梶原はこれを請けて局を捕えた所、局はこのように訴えた
「私は京都に在った時、近衛殿の御憐れみを受けて既に懐妊しております。我が身がいかように成っても、
この子までを空しく成されることの悲しさよ。」
これには梶原も、佐殿(頼朝)がどのように思われるかも恐れ、殊に懐妊している事も憐れに覚えたため、
二位殿には「沈めました」と報告し、密かに鎌倉から落とした。そして摂津国難波のほとりの石の上にて
出産した。それは男子であった。この事を近衛殿に申し出ると、近衛殿は男子を慈しみ育て給った。
男子成長の後、関東にこの由が聞こえたため、頼朝は呼び迎え給うた。そして折節、薩州の島津に
継子が無かったため、この子を与えられた。
これにより島津は頼朝の御子の血筋とも申すが、実は近衛殿の御子の血筋なのである。
この男子出生の時の石のほとりには一社の産土の神が祝われ、今も島津家の上下共に、往来の度毎に
参詣しているという。
慶長・関ケ原の役で、島津家の人々を近衛殿は密かに家に隠された。その人々を隠し置かれた
土蔵は近年まで「島津蔵」と伝えていたのだが、現在では焼失したという。
(紳書抄)
島津家の由緒について 織田信長が(本能寺の変で)弑せられた時、加賀の前田利長は瀬田の橋に着いた辺りでその事が聞こえた。
すると付き従っていた諸卒は悉く逃散して、ただ七人程の他は利長に付き添う者は無かった。
現在でもその七人の子孫が残っているという。
逃散した人々も、何れも譜代の歴々であった。何故逃げたのかと言えば、この頃信長は既に天下を半ば
手に入れられていた以上、今度の上洛では諸国も次々平均して、皆人安楽になるだろうと思って上ったのだが、
そこでこのような事(本能寺の変)が起こったことで、又々天下の大乱となりいつ治まるかも知れず、
「早く国に帰って妻子の行衛をも見ん」為であったと伝え聞く。
私が覚えている話に、若輩の人が、「今は治まった世なので、武を用いるべき様が無い。」と言ったのを、
老武者で、度々武功のあった人物が曰く
「若き人々、何事を宣うのか。私もここかしこにおいて、例えば百人、二百人の内、漸く生き残った
一人二人の中に入った故に世に永らえた。もし明日にも変乱の事があれば、皆々も生き残るという事は
稀である。このような太平の世にめぐり逢ったのは、ありえないほどの事なのだ(かかる太平の世に
逢候事ハなりかたき事)。」と言われたという。
(紳書抄)
乱世というものについてのお話 丙申(1716年)三月十九日に、大村家の家老・富永五郎左衛門が申した事によると、今の大村伊勢守(純庸)は
藤原純友より三十三代の後裔であり、純友の子が伊予国に隠れ住み、その子の代に大村へ移った。
富永の先祖もこの時伊予から随臣した家人であったという。
南蛮人が我が国に来る始めは薩州種子島で、その後に豊後に来た。そして三度めに大村領に来たという。
現在もその地に、(キリスト教)寺院の跡がある。
これより、(大村)民部大輔純忠の代、元亀元年の春、南蛮人は初めて長崎に来た。この頃は長崎も
大村の所領であり、元々は長崎と称していた者の領地であった。
同二年三月、南蛮人は長崎に町々を建てて大村氏に対し地子三百目を出し、キリスト教の寺院を建てた。
その後秀吉の代に、南蛮人は博多に於いて秀吉の近習の者に無礼があったとして、長崎を追い出された。
(思うにこれは、薩摩陣(九州役)の時の事か)
この時、長崎は秀吉の御領となった。これは大村氏が地子銀を取って南蛮人に貸していたが、その南蛮人が
この地を没収された故であったという。
天正十六年に鍋島加賀守(直茂)に預けられたというが、それから四年ほどして、文禄元年より
寺沢志摩守(広高)を長崎の奉行とした。
(紳書抄)
大村氏の由来と長崎について。 そういえば長崎の地名の由来で怪しい説があって
鎌倉幕府滅亡の時、新田軍相手に面影という名刀を手に無双した後、行方知らずになった
長崎為基(長崎円喜の一族)が逃亡してきたためにその名がついた、てのがあったっけ 島原の乱までならスレチじゃないみたいなので
1628年に起きた浜田弥兵衛によるタイオワン事件を「朝野雑載」「可観小説」から(ほぼ同じ話)
長崎代官・末次平蔵という者の手代の大船が、紅毛人(オランダ人)の海賊に五七日(35日)の間居座られれたあげく、石火矢で脅されため船ごと奪われた。
平蔵が困っていると長崎の百姓、浜田弥兵衛と弟・新蔵(「可観小説」では五左衛門)が参り
「われらが台湾国に参って大将たるゼネル(「可観小説」では「せねれる」)を捕らえ、日本船と財宝を取り戻して見せましょう」と言った。
こうして弥兵衛は大船を造り、百姓数十人、農具や商品を積み、台湾に向かった。
台湾国の船が弥兵衛の船を取り囲み、石火矢や鉄砲を向けてきたが、弥兵衛は抵抗せず船の中を見せた。
紅毛人たちは、船中に武器がないとわかると弥兵衛たちを商人だと認め城中に案内した。
城主ゼネルが出てきたので、弥兵衛兄弟は先日の船の返却と犯人の引き渡しを談判したところ、ゼネルはおおいに怒った。
そこで弥兵衛はゼネルを地に打ち伏せ、新蔵が脇差をゼネルの胸に当て人質とした。
周りの紅毛人は一斉に鉄砲を、むけてきたが通詞が「鉄砲を撃つと城主の命がないぞ!」と言うとみな引っ込めた。
ゼネル「その犯人はここにはおりません。もし我がこの城を捨て日本に参れば、この国は乱が起きるでしょう。
我が息子を代わりの人質として日本にお連れください、その犯人も必ず詮索して引き渡します」
と言ったため、ゼネルの愛児を人質として日本に連行した。
(「可観小説」では、せねれるを助け出そうとした紅毛人2、3人を五左衛門たちが斬り、せねれるの子供の他に3人の人質もとり、台湾の金銀も大船に積み込んだとしている)
一年後、来日したゼネルは深く罪を謝し、愛児を受け取り台湾に帰って行った。
これ以降、紅毛人は日本の船を襲わず下知に従うようになり、日本の武名は海外に高まった。
(「可観小説」では、せねれるの子供は一年の間に長崎で病死し、それを知ったせねれるは悲しんだと言う)
ゼネル(せねれる)はオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツのはずだが、generalのことだろうか?(オランダ語ではヘネラルとなると思うが)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/タイオワン事件
とは前半はともかく、後半の内容がかなり異なる。 明智光秀の臣であった熊谷宅右衛門の子・宮内は、後に水戸光圀公に仕えた。
彼は不思議な人物で、能の達人であるという評判を光圀公が聞き召され、度々能を仰せ付けられたのだが、
兎角に病気などと申して、終に勤めなかった。
ある時、江戸にて客の接待が有った時、又々能を仰せ付けらてたのだが、この時は相勤める旨を申し上げた。
しかし光圀公は、当日に至って詐病を言い立てお断りを申すと思し召されていたのであるが、何事もなく
相勤めた。
彼は元より音に聞こえたほどの上手であったので、大いに御感有った。
ところが能が終わって楽屋に入ると直ぐに、病と称し、その後五十日ほど罷り出でなかった。
その後は絶えて能を仰せ付けられることは無かったが、いかなる思召か、やがて足軽を御預けあった。
そして御鷹野などの節はいつも召し連れられた。
ある時、夜詰の折に様々の咄を申した諸に、芸の話になったのだが、宮内はこのように申した
「士は第一に、芸の為に名を奪われないことが大事なのです。これを悪しく心得ると、肩に出来た瘤が
首を押しのけるようなものです。芸ばかりになってその身は無用の人となってしまいます。」
と申すと甚だ御感あり、「流石にその親にその子である。」と仰せになった。
その後御側の衆に「宮内が私の申し付けた能を度々受けない事に、なにか思慮が有るのだろうと
思っていたが、私の所存の通りで満足である。」と仰せになり、宮内は一両年の内に政事にも
預かるようになった。
(紳書抄)
明智光秀の家臣、熊谷宅右衛門の子についての逸話 人から達人と思われていても本人が納得してなかったのなら披露できないよね 「朝野雑載」から前田利常の乳母の話
加賀中納言利長の弟の猿千代(継嗣となった1601年以降の幼名は犬千代)は幼少時、啞(おし)であった。
猿千代の舌は腮(あご、ここでは口腔内だろう)に着いていたが、乳母が切り離したところ、言語が明瞭となった。
のちに利長の跡を継いで利常と号した。 慶長五年(1600)七月二十六日
津田小平次(秀政)が、小山において徳川家康公の御前に罷り出でると、家康公は非常に御機嫌能く
「今度の合戦(関ヶ原)に勝てば、何であっても望みを叶えてやろう、今から約束をせよ。」
との御意があった。小平次は申し上げた
「御合戦は思召のままに御勝利致すでしょう。何も望むようなものは有りません。」
「人として、望みが無いということはありえない。何か望むように。」
この御意に小平次は
「左様でありましたら、安国寺恵瓊が所有している肩衝(安国寺肩衝)を下さりますように。」
と申し上げると、「いと易きこと。」と仰せになった。
この年の十一月末、大阪城に(関ケ原の結果処分された)安国寺恵瓊の闕所より諸道具が送られてきた。
書籍に関しては兌長老(西笑承兌)の学校に御前に於いて下され、小平次には「約束の肩衝である」と
安国寺肩衝が下された。この時小平次は
「小山にて当座の御挨拶に申し上げ、しっかり覚えてもいなかったのに拝領してしまった」
と、御前を退いた後、御次の間にて語った。
この安国寺肩衝、元々は細川幽斎が所持していたのだが、仔細が有って手放し、その後安国寺の所有となり、
そこから今回小平次に渡った。
この小平次が所持した肩衝を、細川三斎(忠興)が所望し、黄金を過分に返礼として出すと言ってきたが、
三斎と小平次は関係が良かったため、(黄金)五百枚にて譲った。三斎は満足し、『中山』と名を付け
秘蔵した。そして三斎が隠居した時、越中守(細川忠利)に譲られた。
寛永三年(1625)四月から八月まで旱魃が有り、越中守の家来の者達の生活も危うくなった。
そのため越中守は諸道具を手放し、これを売って家来の者達の生活を支えたいと、土井(大炊頭)利勝へ
訴えた。そして大炊頭肝煎りにて、安国寺肩衝は酒井宮内大輔(忠勝:酒井佐衛門尉家)の所に、
(黄金)千八百枚にて遣わされ、宮内大輔の所持となった。越中守はその黄金を家来の者達へ分配した。
ある人が、津田小平次にこのように申した。
「あなたが拝領した肩衝を他所に遣わすというのは如何であろうか。遺産として遺すべきではないか。」
これに対して小平次はこのように答えた
「それについては、もはや欠けること無く遺しているので入らぬ事である。秀忠公家光公の御代に、
一門三人に黄金を分け与え、自分には二十枚を、存命の茶代として残し置いた。知行についても、
五千石のうち三千石を跡目に譲り、二千石を隠居分として残し、死後に仕置を良くするようにと
しておいた。」
(慶長年中卜齋記)
安国寺肩衝についてのお話 その逸話は何らかの医学的な手術を反映しているのかな?
後の時代ですが、医療技術での沖縄でのお話。
琉球国中山王の尚益(1678年-1712年)はいわゆる兎唇であったが、祖父の尚貞が医師・通詞の高嶺徳明を中国に派遣し
補唇術を学ばせ、尚益の手術を成功させたという。
なお、高嶺は全身麻酔を行い、それが後に伝わって華岡青洲にパクられたという説があるが、定説にはなっていないそうで。
高嶺徳明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E5%BE%B3%E6%98%8E
なお、琉球国の医術は相当遅れており、1650年ころまで京都などに内科診療で留学しているようなので、その後に
外科を含めた中国式医療を急速に取り入れたってことでしょうか。
山崎二休
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E4%BA%8C%E4%BC%91 兎唇といえば映画「信虎」の山県昌景は兎唇だった、背は特に小さくなかったけど。
ついでに「翁草」巻二十七から「欠唇勇士」
唇が欠けた者には勇士が多く
上杉景勝の家中の川田監物信親、家康公の御家人本田百助正広、武田家臣の山県三郎兵衛昌景、福島正則の家臣長尾隼人佐一勝、
おのおの欠唇であり、皆世に名高き大剛の士であった。
中でも長尾隼人は元は山路久之丞といい、伊勢の神戸下総守友盛の旗下であり、北伊勢に隠れなき勇士であった。
のちに福島家で一万石を領し、安芸東條の城主となった。
大男で大力であり、十幅一丈の四つ目結の白絹の指物に、一間半とびだした銀の如意半月をとりつけていたという。
関ヶ原の陣の時、この隼人を「士中の人参なり」と家康公は御賞美したという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-608.html
徳川家康と一ノ宮城の本多百助・いい話
でも
>ちなみにこの本多百助、後世、「上杉には川田監物信親あり、福島正則には長尾隼人、
>武田信玄には山県三郎兵衛尉昌景、そして徳川家康には本多百助正広あり」と、呼ばれ
>勇将として天下に名をはせ、良く家康の覇業を助けた。
の話は出てたけど唇のことは書いてなかった。 長尾隼人については
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4046.html
伊豆韮山城攻めと福島家中の四人
では韮山城攻めの時に負傷したとしているので、後天的かもしれない
ついでに韮山城攻めの話とセットとして語られる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
福島正則とその家臣たち・いい話
に出てくる福島正則の三人の重臣はそれぞれ
足を引きずる=福島丹波、片目がない=尾関石見、口が裂けている=長尾隼人
のことだと思われる。
これとほぼ同じ、家康が福島正則の家老たちを称賛する話が「朝野雑載」に載っているが、
福島丹波=足萎え、尾関石見=片目、と同じであるが、
長尾隼人については「きはめて身のたけ短く、耳遠く、左の手かなひがたし」と、唇については書かれていない上、翁草の大兵(大男)という記述とは相違している。
まあ、大男か小男かであれこれ言っていたら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html
馬場美濃にたしなめられるかもしれないけど >>95
「士中の人参」は草
朝鮮人参のことなんだろうけど 「人中の人参」だったら
鼻と唇との間に細く赤く見えてるのを揶揄したのかと勘繰るところだった たしかに朝鮮人参なんでしょうが、ウマ娘ブームなんでちょっと笑ってしまったw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています