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戦国ちょっといい話50

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0102人間七七四年
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2022/03/27(日) 12:18:47.76ID:z0veYF8m
ふと思ったけど、セリ科のニンジンを家康は見たことあるんだろうか?
栽培始まるのこの頃だよね
0104人間七七四年
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2022/03/28(月) 18:00:38.53ID:oDQvJ5ak
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。

私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。

島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。

この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。

(医学天正記)

九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話
0108人間七七四年
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2022/03/30(水) 13:28:47.92ID:kZPCgRyv
「朝野雑載」より信長と蘭丸の話

信長公御座の間の窓に、突き上げ式の蔀(しとみ、日除け)があった。
信長公「おらんよ、これを下ろせ」
蘭丸は承って、まず小さな竹の杖で蔀の上を探ったところ、なにやら物があった。
踏み台を持ってきて蔀の上を見たところ、大茶碗に水がはったものが置かれていた。
蘭丸は静かに大茶碗を下ろし、そのうえで蔀を下げた。
もし何も考えずに蔀を下ろしたならば茶碗が割れ、水がこぼれていたであろう。
念を入れたために失敗せずにすんだ。
これは蘭丸を試そうと信長公がなさったことだそうだ。
0109人間七七四年
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2022/03/31(木) 04:59:27.68ID:fElweF8j
蘭丸なら敢えて主君の言う通りに行動するから、これは創作だな
0110人間七七四年
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2022/03/31(木) 08:30:55.01ID:jqlU58Ly
試したというよりお茶目なイタズラの可能性
0111人間七七四年
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2022/03/31(木) 09:29:17.42ID:BcTpjO6B
割ったら割ったで、詰問の上へし切られそう
0112人間七七四年
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2022/03/31(木) 20:10:22.57ID:un1TLJNU
ドアに黒板消し挟むレベルなことするかな
するかもしれんな
0114人間七七四年
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2022/04/01(金) 17:06:42.17ID:wHBWm+ci
天正二年
三月二十五日
織田信長が明後日こちら(奈良)に来るという。一体何事なのか
(信長明後日爰元ヘ下向也、如何ゞゞ)

二十七日
信長が多聞城に来た。人数は三千余りという。そして配下の者達に、奈良中の僧坊以下への陣取りを停止した。
宿所を縁を以て借りることも禁止した。一段の善政の下知に、奈良の上下は安堵した。

大乗院の新御所が、宇治まで昨日、迎えに出られたという。当国衆も悉く迎えに上がった。
(春日大社の)神人百人、地下衆は一町より十人づつ、肩衣・袴姿にて木津まで迎えに出た。
六方衆(興福寺末寺衆徒)少々が般若寺まで、公人(興福寺の下級職員)は専ら供の者を付けて
迎えに出た。事々しい事であった。大雨が降っていた。

二十八日
東大寺の蘭奢待が、信長へ切り取られた。五つ切り取り、再び三庫(三蔵)へ返し入れられた。その他のものは
取り出されることはなかった。勅使は三人。三庫に返されると再び勅符が付けられ封じられた。
蘭奢待全体の長さは五尺、直径一尺ほどの木であるという。
もう一つの香木である紅沈(紅沈香)も同じく取り出そうとしたが、これは切り取ることについて先規が無い
ということで返された。こちらは三尺あまりの沈香であるという。

三庫へ、東大寺満寺の衆が、法眼以下まで出仕しこれを見た。
蘭奢待は大仏師が切ったという。

四月一日
信長は今朝早々に帰った。先ず以て珍重である。
(信長今朝早々被帰、先以珍重ゞゞ

(多聞院日記)

多聞院日記から信長の蘭奢待切り取りの様子。奈良の人たちに対しても相当気を使っていた感じがしますね。
0115人間七七四年
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2022/04/01(金) 17:22:09.94ID:dU0uKnNY
三好と比較させて評判を上げようとしたんだろ
上洛の時にもやった使い古した手だよ
0116人間七七四年
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2022/04/01(金) 21:39:57.44ID:o1Yg8yHS
苗字についての本に載ってた話

ある時、武田信玄は病にかかっていたが秘密にし、袋に薬を忍ばせ隠れて服用していた。
あるとき薬袋を落としてしまったが、百姓が届けにきた。
信玄は百姓に「この中身を見たか?」と尋ねたが
百姓は「見ませんでした」と答えた。
そこで信玄は百姓に薬袋であることをあかし、褒美に百姓に「薬袋」という苗字を授けた。
なお「薬袋」の読み方は、百姓が中身を見なかったため「みない」とした、こうして「薬袋(みない)」という珍苗字ができたという。

ネットで調べたら名医の永田徳本が当時甲斐にいたから、薬袋などいらない=みない、という説も紹介されてたけど
どちらも創作だろう
0118人間七七四年
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2022/04/03(日) 13:25:58.33ID:PZfYpEcu
或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った

「片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」

そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。

これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。

しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。

(新東鑑)

大坂夏の陣での越前家の一コマ
0119人間七七四年
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2022/04/06(水) 22:39:17.57ID:CeypfKfb
「勢州軍記」から「諸木野弓の事」という、
織田と北畠具教・具房親子との戦いである大河内城の合戦の一コマ

あるとき信長卿本陣・桂瀬山にて、織田軍の一人が松の大木にもたれながら北畠軍の城中に向かって
「大腹御所(北畠具房、肥満体であったという)の餅食い!」
と嘲ったため、城兵たちは腹を立て「矢で射てしまえ!」と考えた。
その頃、大和秋山家の侍に射手が三人おり、諸木野弥三郎、秋山万助、秋山志摩介、といった。
その中でも諸木野が召し出され、諸木野弥三郎はおそれいりながら大弓に大きな矢をつがえ、射った。
敵味方ともに見物していたところ、矢はあやまたず四、五町(500m前後)を越えて、嘲った者を松の木ごと射抜いた。
信長卿は感心し、その矢を抜いて城中に返還した。
敵味方ともに大いに感悦したということだ。
0120人間七七四年
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2022/04/06(水) 23:55:03.22ID:Vw+cZHK+
よっぽど細い松の幹だったのか
あるいは作り話か
0121人間七七四年
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2022/04/07(木) 07:07:24.27ID:YDHzngnu
たぶん射抜いて松の木に突き刺さったのかと
0122人間七七四年
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2022/04/07(木) 07:37:33.95ID:oTEmwTn/
500mも離れて罵り合いしてたのか?
拡声器もない時代に
松だけに嘘松
0123人間七七四年
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2022/04/07(木) 07:39:37.33ID:YDHzngnu
ついでに原文では
彼人与松共射貫也(彼の人、松と共に射貫くなり)となってます
0124人間七七四年
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2022/04/10(日) 14:40:35.76ID:HpImF3ZA
或る本によると、本多飛騨守成重は、作左衛門重次の息である。童名仙千代。成人して丹下と称した。

父重次が故あって上総国小原荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時、御後に陣し、慶長十八年越前国丸岡の城を給わり、(松平)忠直朝臣に属した。

大阪夏の陣、五月七日に、一晩に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵二騎を斬って落とし、
大勢の敵を追い崩し、彼の部隊は首二百七十三を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より大阪城に乗り込み、
ここかしこに火をかけ、首二十八を斬った。
手の者共で討たれたのは五人、疵を被ったのは七人であった。

元和九年、忠直朝臣配流の後に、再び将軍家に召され、慶安四年十二月に卒した。時に六十二歳であったという。

(新東鑑)

有名な本多重次の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」こと本多成重について。
0125人間七七四年
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2022/04/16(土) 15:32:47.72ID:zIGJ4adC
或る本に、大阪夏の陣での大阪落城の時、細川玄蕃頭興元が、鑓を合わせたという事を
家康公が聞き召され、仰せになられた

「鑓を合わすという事は、再々に有るような事ではない。
かつて、この茶臼山の北に見える勝曼院の山に、佐久間不干(信栄)、筒井順慶、荒木村重が籠もって、
大阪の門跡が攻めてきた時、鑓を合わせたと聞いた。
その他に上方において、鑓を合わせたという話は聞き及んでいない。」

この時、佐久間備前守(安政)が罷り出て言った

「上意の如くに御座候。その日は、私は同姓不干の手に付き、両度の鑓がありました。
天正六年五月三日の事です。
朝は茶臼山の西に見える、難波の貝塚での合戦において。不干の与力の、佐久間久右衛門、同葵之助、
梶川弥三郎、水野源太夫、永岡小三郎、この六人(本文ママ)が鑓を合わせ、その晩、勝曼院の山において、
不干家中の志水天市、江原弥助、浮貝藤助、長瀬弥五右衛門の四本、鑓を合わせました。
長瀬は、只今は小右衛門と申し、加賀に居ります。」

と、申し上げたという。

(新東鑑)
0126人間七七四年
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2022/04/17(日) 16:54:42.08ID:sJ6g5wvU
或る本に、大阪夏の陣、五月七日の合戦で、徳川秀忠公の御先鋒・青山伯耆守(忠俊)の組の
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。

古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。

凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。

されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。

又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。

また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。

また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。

さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。

(新東鑑)

「鑓」についてのお話
0127人間七七四年
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2022/04/17(日) 19:41:45.90ID:F3beJKik
ベジタリアン?武田信玄が永禄十三年十一月九日に書いた起請文より抜粋

一、今度向于駿州出陣、則蒲原落城、興国寺岡前、駿州
円令静謐、達信玄本意者、従来庚午歳(永禄十四年)可学天台之化行
之事、
付、従己巳(永禄十三年)十一月禁肉食、(つけたり、己巳十一月より肉食を禁ず)

注目は最後で、信玄はこの月から肉食を絶っていた模様
駿河攻略という心願が成就すれば翌年から行うとした天台宗の修行に備え、身を清めていたんでしょうか
ほうとうには猪肉とかを入れたそうで、これもダメだし鯛も鶴もダメ
動物に優しい元肉食、信玄のちょっといい話
0129人間七七四年
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2022/04/17(日) 20:22:58.65ID:l6UsOGHj
ん?待って永禄13年は4月まで。永禄12年or元亀1年11月の間違い?
0130人間七七四年
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2022/04/17(日) 20:28:59.43ID:wytywmt5
己巳=永禄十二年のようだ
二脚羊が猿だとすると天台宗の守護神の山王の御使いだからもちろんだめだろう
蒲原駿河で猿はお似合いな気もするけど
0131人間七七四年
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2022/04/17(日) 20:29:45.53ID:F3beJKik
>>129
そこは所蔵者の上里町の年次に準拠した
確かに己巳年は検索すると永禄十二年なんだよね
迷ったけど東国独自の暦を反映してるとかあるかもしれないし、永禄十三年という比定基準で注釈入れた
0132人間七七四年
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2022/04/20(水) 18:59:23.26ID:JwisvsqA
「大友興廃記」から「戸次鑑連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事」

土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。
0133人間七七四年
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2022/04/20(水) 19:02:54.19ID:JwisvsqA
さて戸次伯耆守入道道雪の子息・山城守鑑連の陣所の隣家に軍配者・石宗は宿をとっていたため
戸次鑑連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ

石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」

鑑連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」
0134人間七七四年
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2022/04/20(水) 19:05:47.88ID:JwisvsqA
鑑連「では八陣についてですが、陣取りは八つに定まっているのでしょうか」
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鑑連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」

これは鑑連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鑑連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。
0135人間七七四年
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2022/04/21(木) 08:28:36.74ID:CX+G3e4b
同説に子息はいないから創作だろう
0136人間七七四年
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2022/04/21(木) 09:17:05.98ID:4iHUaxAG
失礼、戸次鎮連(道雪の猶子)でした
鑑連だと道雪本人だ
0137人間七七四年
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2022/04/21(木) 15:01:14.99ID:P7oGifBM
「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」

 戸田勝隆に旧領安堵と音物を携えた使者が訪れ、大津(大洲)まで出頭する事になった西園寺公広が出立前に残した時世の句です。

 この時、扈従する護衛十名は若輩の小姓も含めて全てが主君に殉じる覚悟の者ばかりで、公広自身が伯耆安綱の太刀を二尺六寸余りの無銘に大磨上げした刀を差し料として、斬り死を覚悟していたと。

 時世には、伊予西園寺家の滅亡は季節が移ろうように逆らい難いものであり、騙し討ちに遭うのも騙されて殺されるのではなく、避けがたい天命なのだと覚悟している心境を詠ったと。

 ……覚悟の上でも、呼び出しを無視して自害するのではなく、刺客を道連れに全力で斬り死する公家出身で僧侶上がりでも戦国大名だった西園寺公広の、戦国時代らしいお話。
0138人間七七四年
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2022/04/21(木) 15:02:50.43ID:P7oGifBM
↑訂正。

×時世

〇辞世

誤変換に気づきませんでした、掲載時にはお手数ですが修正をお願いします。
0139人間七七四年
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2022/04/22(金) 06:15:31.88ID:uQZkWR+e
NHKニュース|NHK NEWS WEB
WEB特集

徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
2022年4月21日 19時37分

徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
来年放送される大河ドラマ「どうする家康」に合わせて、静岡市に新たな歴史博物館がオープンします。
最大の呼び物は、当時の材料や技法を使って新たに制作が進められている国の重要文化財で、徳川家康が関ヶ原の戦いで身につけたとされる甲冑(かっちゅう)「歯朶具足(しだぐそく)」。その金物は当時の技術では困難だったとされる漆黒で出来ています。
金物はどのようにして作られたのか、甲府市の彫金師によってその謎が明らかになりました。(甲府放送局記者 飯田章彦)

漆黒の甲冑(かっちゅう) 家康の歯朶具足(しだぐそく)

徳川家康が天下統一を果たす大きな節目となった関ヶ原の戦い。
そこで身につけていたとされるのが漆黒の甲冑、歯朶具足です。

戦国時代、戦場での武功を示すために色鮮やかできらびやかな甲冑が主流だったなか、漆黒の色は天下人、家康の象徴ともいわれ、国の重要文化財に指定されています。
この歯朶具足を当時の材料や技法で新たに制作し、来年1月に静岡市にオープンする歴史博物館の呼び物として展示しようという取り組みが始まっています。

この歯朶具足の金物の復元を任されているのが甲府市の彫金師、穂坂雅喜さんです。

穂坂さんが生れ育ったのは、全国有数の宝石のまち・甲府市。
多くの宝飾品メーカーや職人が集まり、国内で流通する宝飾品のおよそ3分の1を生産しています。
家業を継いで宝飾職人となった穂坂さん

宝飾職人の家に生まれ、大学卒業後、家業を継いだ穂坂さんですが、高い技術力が認められ、彫金師として甲冑の金物の復元に携わるようになりました。

彫金師とは、“たがね”といわれる伝統工具を使って金属の装飾などを施す職人のことです。

彫金師として歩み出した穂坂さんの転機となったのが、ふるさと山梨の国宝、楯無鎧(たてなしのよろい)の復元でした。

甲斐源氏の祖、源義光の生き様やこだわり、それを制作した彫金師の技術や苦労を想像しながら復元していくことに魅力を感じたといいます。

「武将にとって甲冑(かっちゅう)は死に装束みたいなもの。当時の最高の技術を結集して制作されています。それに携われることが魅力だと感じています」
0140人間七七四年
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2022/04/22(金) 06:16:58.61ID:uQZkWR+e
それから10年あまり。
多くの金物を復元してきた技術が評価され、穂坂さんは歯朶具足の金物の復元を任されることになりました。

金物は、革や鉄を素材にした板などをつなげたり、表面に模様を精緻に彫りあげ、甲冑を華やかに彩るものです。

このため金や銀など派手な色のものが多くみられますが、歯朶具足の金物は黒、しかも漆を塗ったような深い黒が特徴です。

穂坂さんによりますと、当時は金物を黒い色にするのは技術的に難しかったといいます。

文献に残っている銅に金を混ぜる「赤銅」という技法では、青みがかった黒しか表現できませんでした。

このため穂坂さんは、黒をどのようにして出したのかを東京芸術大学と検証することにしました。

そこで金属の含有量や成分を調べる装置を使って分析すると、銅に微量の銀が含まれていることがわかりました。

この分析を基に、穂坂さんは漆黒を復元する実験を始めました。

実験では「湯床吹き」といわれる当時の技法を用い、1000度以上に加熱したるつぼで溶かした金属をお湯に流し入れて塊にします。

銀の添加量を変えながら金物の制作を繰り返すなかで、銀を入れすぎると表面に浮き出てしまい、黒くならないこともわかりました。

およそ4年、試行錯誤を繰り返した結果たどり着いたのが2%の銀。

できあがった鉄板を60度のお湯で溶かした硫黄につけると、硫化反応で漆黒に変化することを発見しました。
2%の銀を含んだ鉄板を硫黄の湯につける
穂坂さんによりますと、銀を銅に入れて金物を漆黒にする技法はこれまで見つかっていなかったということです。

当時の技法を解明した穂坂さん。
いよいよ復元が本格的に始まりました。

職人が施した模様をたがねを使って忠実に再現。
「唐草」や魚の卵をかたどった「ななこ」の模様を入れていきます。
仕上げに硫化反応をさせると、1つ目の金具が完成しました。

「家康の思いや美意識、甲冑の制作に携わった当時の職人の思いを共有し、私の持てる技術と知識を総動員して復元制作にのぞみたいです」

甲冑は当時の権力者が最高の技術や材料、人材を集めて作らせたもので、歴史をひもとく貴重な資料です。

しかし、武将が命をかけて戦いに臨む際に身につけた神聖なものであるため、これまで博物館などで大切に保存され、科学的な調査はほとんど行われてきませんでした。

今回、家康の歯朶具足の金物を科学的なアプローチで調査し、新たな技法が発見されたことで、甲冑や当時使われていた金属製品の研究が進み、家康が生きた時代をさらに詳しく知ることにつながるのではないかと、歴史学者の平山優さんは評価します。

「銀を使う技法が日本独自に生み出されたものなのか、海外の技術が輸入されて甲冑(かっちゅう)に用いられたのか、研究が広まる大きなスケールを持った発見だと考えています。当時の国際交易の広がりや甲冑研究が進むことに期待したいと思います」
家康の甲冑の金物に海外の技術が使われたとすれば、当時の新たな事実を知る大きな発見と言えるかもしれません。

今回の調査をきっかけに、この時代の研究が進むことに期待したいと思います。
0141人間七七四年
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2022/04/22(金) 08:32:52.58ID:PcKV0DTx
なんで結論が海外になるんだよ
奈良の漢國神社にも納めたんだしいうてそれほど貴重でもなかったんだろ
その後その技術が廃れただけ
0142人間七七四年
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2022/04/22(金) 10:31:05.46ID:0WRzKbEH
弟子のみに伝えたか一子相伝か、職人の技能って必ず廃れるね
0143人間七七四年
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2022/04/22(金) 11:56:50.04ID:PcKV0DTx
現に新々刀で掘り起こしたときも古の鍛刀術が廃れてたしね
0144人間七七四年
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2022/04/22(金) 12:27:30.84ID:BLpusYEu
「大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」

薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。

島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話
0145人間七七四年
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2022/04/22(金) 14:26:21.25ID:yvMRKNQz
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ4M6D4YQ45UUHB00K.html
オランダの哲学者像がなぜ妖怪「小豆とぎ婆」像に 400年の謎
>17世紀に九州に漂着したオランダ船の船尾にあった像を400年余り守り継いできた栃木県佐野市の龍江院で、地元の人たちが像を紹介する資料館を開いた。
>今は東京国立博物館に寄託されている「木造エラスムス立像」(国重要文化財)がたどってきた、数奇な運命の物語を広く知ってもらうのが狙いだ。



http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12894.html
栃木のエラスムス木像
でも紹介されていた、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)のリーフデ号に載っていたエラスムス像の資料館ができたようだ
記事には小豆とぎ婆にされてしまった理由(あくまで一説)についても触れている
0146人間七七四年
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2022/04/23(土) 21:51:27.66ID:5fJXLANX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6484.html
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は

上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿

「大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。
0147人間七七四年
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2022/04/23(土) 21:53:24.81ID:5fJXLANX
道馮「それはそうですが、上代に咲く花は末代にも咲くのは道理です。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。
0148人間七七四年
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2022/04/23(土) 21:55:09.45ID:5fJXLANX
また異国でもそのようなことがあります。
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」
0149人間七七四年
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2022/04/23(土) 22:00:10.93ID:5fJXLANX
と和漢の名木の奇特を述べたところ、元親も近習ももっともだとは思ったものの、来春咲くまでは承諾できかねる、と言い合った。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。
0150人間七七四年
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2022/04/24(日) 19:18:43.37ID:oi+Wmvg6
慶長二十年(1615)五月七日、大御所(徳川家康)は茶臼山より四、五丁という所まで至った時、
大阪城本丸の辺りから煙が立ち上った。
丁度この頃、小出大隅守三尹が大御所のもとに馳せ来た。
大御所は大隅守に「かの煙を見よ」と仰せになった。
これに三尹答えて曰く

「近頃笑止なる事に御座候(最近になく気の毒なことです)」

と申し上げた。群臣たちは「奇怪の詞かな」とささやきあったが、家康公は仰せられた

「汝は秀頼に筋目があるのだから、尤もの一言である。」
そして、哀れに思し召す御気色にさえ見えた。

この様子に、大阪落城の悦びを申し遅れじと、ここに参り集まった人々の中でも、豊臣家の御恩を被った輩は、
世に恥ずかしきことに思ったという。
この後も大御所は、宿老の者に向かって「大隅守が申した事、神妙の至りである。」と、
御感最も浅からざる様子であった。

或る本に、小出大隅守の父秀政は、尾州中村の人であり、秀吉公と同じ地に生まれたため、
幼い頃より相親しく、その後秀吉公に仕えて奉公の労を積み、ついに泉州岸和田を給わったという。

また或る本に、新井白石先生曰く、小出播磨守(秀政)は大政所の妹(栄松院)を妻にしたという。

(新東鑑)
0151人間七七四年
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2022/04/24(日) 19:53:20.62ID:VIZvEaiS
笑止は現代の意味で捉えちゃうと危ういなホントw
0156人間七七四年
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2022/04/26(火) 19:47:04.65ID:eBmPl9pu
ちゃんとした学者でも笑止の捉え方が怪しい人いまだにいるからなぁ
0157人間七七四年
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2022/04/26(火) 20:21:48.09ID:xmJK+njz
乃至政彦氏の「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」p113
で西笑承兌は家康のブレーンではなく兼続の友人の立場で書状を送ったとして
その根拠の一つに、書状の冒頭で公使が派遣される事態を「笑止」と書いていることを挙げていて
「公使の派遣を「笑止」と蔑む手紙を、公使自身が携えたと考えるのは無理がある。」
と書いてたっけ
0158人間七七四年
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2022/04/27(水) 22:36:49.46ID:2M22ybcL
昔むかし、島津家の当主が十五代貴久の頃の話。
貴久の元に仕える一人の若者がいた。
とある娘がその若者に恋をした。

ある時、若者が戦で大怪我を負ったとの知らせ
が娘のところに届いた。
驚いた娘は、何も持たず大急ぎで若者ところへ
向かった。
しかし、どんどん日が暮れあたりは暗くなり曇り空で月も星も見えず、ついに何も見えなくな
り娘は一歩も進むことが出来なくなった。
その時、娘は祈りを捧げると雲が動き月が見え月明かりを頼りに娘は無事に若者の所に辿り着くことができました。

後日、この話をを聞いた貴久は娘が祈った場所を「乙女月」と名付けました。
鹿児島県日置市の地名「乙女月」の由来の話。
(南日本新聞に載っていた話)

ちなみに「乙女月」バス停まで天文館から1時間ほどかかるそうです。
0159人間七七四年
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2022/04/28(木) 11:10:25.26ID:ZqnN/qCm
で、その二人は結ばれたのだろうか・・
0160人間七七四年
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2022/04/28(木) 15:35:02.06ID:HeXbkUKV
慶長二十年(1615)五月七日、大阪夏の陣、徳川頼宣卿は大御所(徳川家康)の元に向かうため
頻りに諸軍を進めていたが、喉の乾きを凌ぎかね、馬上より水を乞われた所、三浦長門守邦時の付け人である
柾木清兵衛という者が、馬柄杓にて水を汲んで差し出すと忽ち飲んだ。

大御所に御対面されると、大御所は頼宣卿の髪を撫でられ
「今日はその方等に首を取り飽かせる事が出来なかった。残念である。」と仰せになった。

頼宣卿答えて
「御先手を承らなかった故に、詮無き道に刻を移し、戦に臨めなかったこと、無念至極です。」
と申された。

これを聞いた松平右衛門太夫(正綱)が、
「今日、手に合わすことが出来なかったとしても、御若年なのですから、今後幾度も合戦に遭うでしょう。」
と慰めたのだが、頼宣卿は

「私が十四歳のこの時は、再びは無いのだ!(予が十四歳の事が複あるべきか)」
と、頻りに落涙あって、怒り給いけるとかや。

(新東鑑)
0162人間七七四年
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2022/04/29(金) 17:58:46.21ID:EA4ErCyW
或る本に、慶長二十年(1615)五月十日の事であったが、和泉国今井の小物屋、長左衛門という者、
親の忌日に当たるとして、近隣の姥嫁等を集め茶を入れ、四方山の物語をしていた所、
年齢二十歳余りの武士、彼は着込みの上に帷子、并びに軍羽織を着し、旅装束にて長左衛門のもとに来て。、
傘を脱ぐと

「御無心ながら、この葛籠をしばらくここに置いて頂きたい。」

との言葉も終わらぬうちに、中間に持たせた葛籠を門内に投げ入れて立ち去った。
長左衛門は人を出して彼を追いかけさせ、「御知己でも無いのに、むやみに預かるようなことは
罷りなりません。早々に持ち帰ってください!」と伝えようとしたのであるが、かの武士と中間は共に、
早くも行方が知れず、遣わした者も空しく帰った。

その場に集まり居た者達は口々に、「これは定めて大阪の落人であろう。路次にて盗賊に逢っては
難儀する故に、この荷物をここに置き、身を軽くして働かんと思い、このようにしたのだろう。
今日はあなたの御親父の忌日なれば、仏神があなたに、福を与え給ったのではないだろうか。」

そのように申したが、長左衛門は眉をひそめ
「いやいや、それは事によるべし。落ちているものを拾うのさえ、心ある人は善しとしない。
いわんや、人が預けたものに手を出すなど有るべき事ではない。たとえ主人は殺されたのだとしても、
世の人の聞くところは如何であろうか。」

そう言って、下人三、四人を召し連れ、股引脚絆(旅装束)して、目当てもなく国府の方へ
尋ね行った所、一里ばかりも進だ場所にある、堤の陰にあたる溝の端に、最前の武士が、
数ヶ所に手傷を負って、死んでいた。

せめて共にあった中間になりとも、尋ね逢わんと思っていた所、畔の上に、年のほど十七、八と見える婦人、
一練の帷子に、生絹に秋の野を描いたものを引き重ね、生まれて五十日ばかりの子を抱いて倒れていた。
彼女は喉元を突かれ、朱に染まって死んでいた。その傍らに、引き破られた駕も打ち捨てられていた。

彼女の抱いている赤子の生死は如何かと窺ったが、これも、飢えて死んだのだろうか、息もしておらず、
成すべきことも無かった。

長左衛門は、それより十町ばかり南の山寄に知っている僧が在ったので、急ぎ使いを以てこの趣を知らせ、
彼らを葬らせた。

さて、長左衛門はそれから一年ほども過ぎた後に、かの葛籠の蓋を開けた。
その中には婦人の衣服、并びに正宗の脇差し一腰、その他、竹流し金があった。これ故、いよいよこれは、
あの場で死んでいた女性の荷物に相違無いと考え、この衣服から幡を仕立て、金など、とかの僧の庵室へ寄付し、
件の脇差しは家の重宝とした。

長左衛門の家はそれよりますます富み栄え、代々有徳にて暮らした。
また、武士の差していた大小は、これを弔った僧が売り、これによって追善の営みを最も懇ろにしたという。

この話は、津川左近(近治)の事ではないかと考えられ、よってここに記す。

(新東鑑)
0163人間七七四年
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2022/04/30(土) 16:26:03.18ID:SqHdkmEL
各地の戦国関連のお祭りがようやく3年ぶりに動きつつありますが、みなさんのところはいかがでしょうか?
感染エチケットに気を配って大いに観光(と飲食)を楽しみたいものです。



朝日新聞 29日から米沢上杉まつり3年ぶり開催 5月3日にメインの川中島合戦
2022年4月23日
https://www.asahi.com/articles/ASQ4Q72HDQ4QUZHB008.html
山形県米沢市の春の風物詩「米沢上杉まつり」について、主催する米沢四季のまつり委員会(会長=中川勝市長)は22日、
29日~5月3日に3年ぶりに開催すると発表した。コロナ禍で一昨年、昨年は中止だった。出演者は例年より少なくなる。


米沢市上杉博物館
特別展「戦国京都と上杉家」
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/124kyouto.html
会 期:前期 4月16日(土)~5月15日(日)
    後期 5月21日(土)~6月19日(日)

※「五虎退」刀剣乱舞コラボ企画は後期より
0164人間七七四年
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2022/04/30(土) 17:13:12.13ID:BtnZy3Uu
>>163
感染拡大させんなゴミカス
0165人間七七四年
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2022/05/03(火) 09:46:10.21ID:rJTBUjzh
「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(五大院宗繁)の話

・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」

ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。

ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。
0166人間七七四年
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2022/05/03(火) 09:49:10.13ID:rJTBUjzh
五大院宗繁じゃなかった、
後醍院宗重だ
0168人間七七四年
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2022/05/04(水) 17:34:58.60ID:Rtv2PDY4
慶長二十年五月十一日、高力摂津守忠房は命ぜられて、和泉国に入って大阪の残党を捜索した。
高木筑後守正次、山田十太夫重利を監使として、和州の諸将である桑山、別所、松倉等が相共に探った。

大阪の城兵であった山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝は、八幡の瀧本坊に忍んでいたが、
同十二日、かの山に落人が隠れているという風聞ががあったため、秋元但馬守泰朝に命じて尋ね捜させた。
この時、山本、北側の両人は、瀧本坊の法印に申した
「御詮議が有った場合、これに言い訳することも出来ないでしょう。なので我ら両人は罷り出で、切腹仕ります。」

これに対して法印は
「もし幕府からのお尋ねが在れば、『一宿は致させましたが、その後は何処へ参ったのか存じません。』と
申し上げます。その上でのお計らい次第にすべきであり、返す返すも両人とも、切腹のことは思い止まって下さい。」

そう申したため、山川、北川らはすぐに逐電した。しかしこれによって幕府方は瀧本坊を捕え、
板倉伊賀守(勝重)の元に召し籠められた

或る本に、同十七日、山川帯刀、北川治郎兵衛は本能寺へ来て、
「我ら両人は大阪の落人であり、先に瀧本坊の所に隠れ居たのだが、かの僧が京都に生け捕られたと承った。
願わくば我ら両人が死刑に遭い、瀧本坊の赦免を乞い奉る!」

そのように言い、この旨は本能寺より京都所司代へ訴えられた。

この時、本多上野介(正純)が大御所(徳川家康)に対し、「訴え出てきた落人を、何方へか召し預ける
べきでしょうか」と窺った所、仰せに
「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」
と、そのまま本能寺に差し置かれた。

その後、大御所は「両人の者共は、大阪にて良い茶を呑みつけただろうから、寺で出される質の悪い茶には
迷惑するであろう。この茶を取らせよ。」と仰せられ、手づから正純へ遣わされた。正純はこの茶を
御使の何某に渡し、何某は受取ってかの寺へ行って、山川、北川の両人に
「すぐに切腹が仰せ付けられるだろう。その心得あるべし。」と、上意の趣を言い渡したが、
その後、大阪の様子、並びに国大名、大身小身に寄らず、心を通じた者は無かったかと尋ねたが、両人は

「それがしは外様者故、何も存じません。」

と答えた。
そのため使いの者は、「左様に申し上げたい事だが、上様にそのような返答は罷りならない。
一ヶ条であっても申し上げられるべし。」と言ったが、両人は重ねて
「されど存ぜぬことは、申されません。」と言った。

上使は又言った「両人の事をそれがしが能きように執り成すので、私の言う通り申し上げられよ。」

これに山川帯刀は立腹して「豊臣家滅亡の上は、頼り入りたい事はこれ無し!然るを、
人も頼まぬことを取り持ちたがる人、私はその方を頼む人を取り持ってやろう!」
そう言って様々に悪口したため、上使も大いに怒り、「さらばその通りを言上すべし!」と申し、
立ち返って大御所へ一々に申し上げ、散々に悪く言った。

ところが家康公は聞かぬ御顔にて、
「彼ら両人は、大阪に於いて勇者と呼ばれた者達だ。一度知らぬと申し出たのを、重ねて問うことがあるか!」
と、使いの者を強く叱りつけた。

かの両人には切腹を仰せ付けられるべしとの御沙汰であったのだが、如何なる事か、八月三日、還御の時に
御赦免あって、両人共に京都に住んだが、翌年、大御所が薨去されると、同年八月、京都の浪人払のため、
山川帯刀は平戸に、北川治郎兵衛は大村へ遣わされたという。

(新東鑑)
0169人間七七四年
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2022/05/04(水) 21:24:12.40ID:/7YhvoxA
「薩藩旧伝集」から
後醍院宗重、関ヶ原にて

・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。

・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。

後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて
0170人間七七四年
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2022/05/05(木) 22:36:45.19ID:2DXCFnUB
「薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある

「薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。
0171人間七七四年
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2022/05/05(木) 22:39:45.94ID:2DXCFnUB
そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。
0172人間七七四年
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2022/05/07(土) 18:21:40.53ID:vcsZqKO6
慶長二十年五月二十日、大野修理亮(治長)の重臣で、大阪落城後捕えられた米村権右衛門が
召し出され、大阪城中に貯えた金銀についての巨細を尋ねられた。米村は、知らないという事を
申したが、これを聞いた奉行は「汝は修理亮の寵士である。どうして知らないという事があるか!」
と罵った。

それまで米村は稽首(頭を深くたれて地につけること)していたが、この言葉を聞くや額を上げ、

「これは御奉行の言葉とも覚えぬものかな!それがしは卑賎であったのを、主人の憐れみを以て、
士の中に入れて頂いた(別記に、米村は大野治長の草履取りだったとも言われる)。
その主人は大阪に在って、軍陣の成敗を執られていた以上、運命の存亡をこそ朝夕に計り続け、
曾て金銀財貨を心とせず。これを以て下賤の者と言えども、敵を討ち首をとらんとのみ思い、
他に思慮を巡らす事はなかった。これによって金銀財貨を見ること、芥の如し。

理を以て申せば、城中が戦に負けた時は、首領をも保つことは出来ず、千万の財貨が有ったとしても
何の役に立つだろうか。そして、もし勝軍いたせば、両将軍(家康・秀忠)の御腰の物までも皆
我らの物となり、求めずして財貨は飽き充るだろう。

言うべき旨があれば厭おうとは思わない。しかし言うべき理がないのなら、口を裂かれ
舌を抜かれても、何を述べようか!」

そう、憚る気色無く申したことを、大御所も聞き召され、「無類の剛の者なり」と、御赦免あった。

(新東鑑)
0173人間七七四年
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2022/05/08(日) 00:48:29.51ID:xEsd93HH
薩摩藩「本藩人物志」「薩州旧伝集」から>>170の浜田経重の話

「本藩人物志」の浜田民部左衛門経重入道栄臨の記述
村田越前守経定(村田銃の開発者、村田経芳の祖先だろうか?)の附衆であったが軍功抜群のゆえ、竜伯公(島津義久)が鹿児島に召された。
秀吉公が九州に出陣された時は台聴に達し、お目見えが許され、御手槍を下賜された。
(原注:金房正次(政次?)作で一尺二寸。子孫に伝来されている)
知行五百石を拝領するよつ仰せつかったが、一年で竜伯公に返上した。
慶長十六年の竜伯公御逝去の時には殉死した十五人の一人となった。
辞世の句
二つなき、命を君に奉る こころのうちは、澄める月かな
もののふの取り伝へたる梓弓 君にひかるる、後の世までも

村田越前守の配下の時は城攻めの際、敵中や城中に忍び行って武功をあげた。
貴久公、義久公の御代まで出陣し、ことに忍びの武功があった。
0174人間七七四年
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2022/05/08(日) 00:51:23.78ID:xEsd93HH
「薩州旧伝集」の浜田経重の話
浜田民部左衛門は吉野を通った時、猪に出くわしたので木に登って通り過ぎるのを待った。
そこへ二才衆が通りかかって猪を取り押さえ
「民部左衛門殿ほどの方がなぜそのような卑怯の真似をなさるのですか?」と笑った。
民部左衛門「この身は御用のためにあるので、猪などを取り押さえる際に怪我をしては残念ですからな」
と答えたという。

ある人が浜田民部左衛門の刀を拝見したいと言ってきたので差し出したところ、抜こうとしたが抜けなかった。
民部左衛門が自分で抜いてみると赤錆だらけだったので
ある人「これではいざという時役に立ちますまい」
と笑ったところ
民部左衛門「そうですね。しかし戦というものは急には起きないものです。数十日の間がありますのでそのうちに研ぎましょう。
それに武士というものは喧嘩などしないものです。万一刀が必要なことがあれば、わたしは相手を鞘のまま叩き殺しましょう。
あなたは研いでいた方がいいでしょうが」
と答えたため、相手は閉口してしまったという。
0175人間七七四年
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2022/05/08(日) 12:49:48.35ID:bHdxuNpE
村田銃といえばゴールデンカムイでマタギが使ってたっけ
0176人間七七四年
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2022/05/08(日) 20:01:35.59ID:MyNSl0Sh
>>174
あんまり薩摩の人っぽくない性格してらっしゃる
0178人間七七四年
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2022/05/09(月) 16:03:41.70ID:AbK5L8LX
「薩州旧伝集」から押川強兵衛(押川公近、浜田経重の娘婿)の話

あるとき、押川強兵衛はじめ多くの者が疲労のために野外でしばらく寝ることにした。
番をしていた者が寝ている者の陰嚢を探ったところ、たいていは縮みこんでいた。
強兵衛は高いびきをかいて寝ていたが、「強兵衛は剛強の人だからどんなものだろう」と探ったところ、硬くなってなかったため
さすがは勇強の人である、と感心したということだ

なお薩摩藩「本藩人物志」によれば押川公近の活躍として
関ヶ原後に伊吹山に島津兵二百人で籠り、公近と浜田主水(浜田経重の息子)が食糧を確保して皆に配った。
そののち石田三成からもらった黄金を隠して落ち延びようとしたところを捕らえられたが、島津と親しい山口直友により救助され、大小の刀を貰った。
そしてこっそり直友の屋敷から丸腰で出立し、隠していた黄金を取った後、疲労のため道端のお堂で眠った。
睡眠中、鰐口の音に気づき起きると、大脇差の男が斬りかかってきたため、その刀を奪い、男の首を切り落とし、京都に行き近衛様の屋敷に駆け込んだ。
帰国後、三虚空蔵参りの名目で島津豊久の行方や諸国情勢を探った。
そののち帰国後、桐野九郎左衛門(桐野利秋の先祖)の案内で平田増宗(琉球征伐の副将)を上意に従い暗殺した。
といったことが書かれている
0179人間七七四年
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2022/05/09(月) 17:06:39.50ID:AbK5L8LX
最初読んだ時、「鰐口の音」は刀を抜いた時の「鯉口の音」とか「鍔の音」の間違いかと思ったけど
目を覚ますほどの音はしないから、お寺のお堂だし「鰐口の音」でいいはず
0180人間七七四年
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2022/05/09(月) 20:37:22.33ID:tcJFYPPt
或る本に、大野修理亮(治長)の娘は天樹院殿(千姫)に召し仕え、大野修理亮の重臣である
米村権右衛門の娘は、この大野の娘に仕えた。

大阪夏の陣後、米村が浪人した後に、折々(千姫の)御屋鋪へ行くと、衣服、黄金等の拝領物などがあった。
然るに、治長の娘が病を煩い、「生きているうちに、寺詣など致して相果てたい」との願いにより、
御暇を下され、その上に米村権右衛門を召され、
「その方が召し連れ罷り上がり、隨分に養生を致させよ。」
と、関所手形。道中の雑用等も潤沢に給わり、自身の娘とともに供して京に上がり、様々に養生を
なしたのであるが、終に相果てた。

故に火葬としたのであるが、この時権右衛門が妙心寺の方へ行っている間に、彼の娘が治長の娘を
焼く火の中に飛び入り、棺に抱きついて焼死した。

権右衛門は帰ってきて大いに驚いたが、為す術もなく、そのような状況だったので主従の骨を
分けることも出来ず、一所にして高野山へ持ち登り、骨堂に納めた。そして剃髪して自ら権入と
名を改め、京都妙心寺の内、嶺南和尚に随事し、その後江戸に下り、芝の東禅寺に在って掃除などしていた。

ある日、沢庵和尚と嶺南和尚が同道し、浅野因幡守長治(長晟二男)に招かれたのだが、沢庵曰く
「御亭主には随分の人数を持たれていますが、嶺南和尚の持たれているような人は無いでしょう。」
と言った。長治は聞いて「そては何と申す人でしょうか。」と「尋ねると。
沢庵答えて

「大野修理が家老・米村権右衛門と申す者です。かの者は修理の配所への供をも相勤め、関ヶ原合戦の砌、
宇喜多中納言(秀家)家来・高知七郎右衛門と申す者を組み討ちに致し、その後大阪冬陣で御和談の折、
織田有楽、大野修理亮方へ、交渉のため物を心得た侍を一人づつ出すようにとあった時、有楽よりは村田吉蔵、
そして修理よりは彼を出しました。彼は度々城中より出て交渉を行い、御和談が成立すると、茶臼山の
御陣所において、大御所(徳川家康)に御目見得仕り、殊の外御賞美に預かりました。

現在は武士を止め、嶺南和尚の方に罷り有ります。」

これに長治
「その権右衛門は世間に隠れ無き者です。拙者、彼を召し抱えたく思います。修理方での知行は
いかほどであったかご存知ないでしょうか。」

これに両和尚共に、「先知は二百石であったと聞き及んでおります」とあり、因幡守は
「では四百石遣わし申すべし。」と言うと、沢庵は「どうしても、五百石を遣わされるべきです。」
と申した。これに対し

「五百石という知行については。少々差し合い申す仔細もあります、その代わりに足軽を
預けましょう。又、彼は今道心者の体でありますから、腰刀も無いでしょう。
私は、もう月末ではありますが、当年の物成を支度料として遣わしましょう。」

これによって米村は、終に浅野長治の家来と成った。

(新東鑑)
0181人間七七四年
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2022/05/09(月) 22:08:23.88ID:V0Qof8cd
槐記より秀吉の話

享保九年 九月七日の日記

太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。
0182人間
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2022/05/10(火) 21:03:38.91ID:XPxiA+Ql
槐記の享保十年九月十六日の記事から 秀吉と曾呂利の話

進藤夕翁(泰通)の話に、太閤秀吉天下一統ののち、西明寺殿(北条時頼)をまねて日本廻国を思い立ち、側近たちにひそかに語った。側近たちが「あきれたことだが、日ごろの御気性では止めたとてお聞き入れあるまい」と陰で噂しているのが四人衆の耳に入った。丹羽五郎左衛門(原文七郎左衛門)などはどうにかして止めようと思ったが手立てがなかった。時に曾呂利という冗談のうまい奇人がいて、太閤の気に入りだった。五郎左衛門はこの男に「太閤殿下が日本廻国を思い立たれたが、お前が見事止めおおせればこの上ない忠勤であるぞ」と頼み込むと、「心得ました。折を見て申し上げましょう」と曽呂利は請け合った。

ある時、曽呂利が御前に出たときに、「何か変わったことはないか」と問われると、答えて、「最近変わったことといえば、この頃以ての外に博奕が流行っております。東国からも西国からも、都下に大勢人が集まって、そこここで賭場を開いては勝負を争っております。近頃、東国と西国との勝負を一気につけようと、清滝のあたりに集まっているところへ、旅人と見える山伏のどこからともなく現れて勝負を見物しておりました。
少しして『私も人数に加え給え。一勝負いたそう』と山伏が言うと、親分衆これを聞いて『まずは元手をお見せなさい』と言う。山伏、『元手には及ぶまい。諸君らの如き下手を相手にすれば、座中の賭金はすべて我が物となろうが、いくらかは元手も懐中している』と金三百両を出してこれを質として勝負しました。言葉に違わず山伏は大いに勝ちまくって座中の金をことごとく巻き上げてしまいました。東西の親分衆、腰を抜かすほど驚いて『あなたはどこの国の方ですか』と問うと、『俺はこの山麓に住まう、天下を思いのままにする博奕の大親分だ。侮るまいぞ』と言えば、座中の者みな再拝稽首します。
さらに山伏語っていわく、『博奕に限らず、俺は天地をひとつかみにし、山川を自在に操り、高からんと欲せばこの愛宕山頂と頭を並べ、長からんと欲せばそこの君の東国よりそちらの君の西国に届くまで長くなる。大ならんと欲せば天地に充満し、小ならんと欲せば煮豆ほどに小さくなる』と語りますと、一人進み出て、『さてさて世にも稀な話です。何としても煎り豆ほどになるのを見たいものでございます』と乞うと、一瞬のうちに煎り豆となったところを取って口に入れ、ポリポリとかみ砕き、『これで一安心だ』と喜んだということでございます」と語った。
秀吉大いに感心して、「さてさて、汝は愛い奴じゃ。余が近頃廻国を思い立ったことを聞いて諫めたのだな。お前の言うこともっともである。余は天下を有しているといえども、天下人の位にあってその職を守ればこそ安んじていられるが、身一つでいては思いもよらぬ目に会わぬとも限らぬ」と思い止まられたということです。
この話の虚実はともかく、甚だ美談であると、水戸黄門の儒官のなにがしの著わした曽呂利の伝記に載せてあります、近いうちにお目にかけましょうと夕翁が申し上げた。
0183人間七七四年
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2022/05/12(木) 18:00:36.77ID:cmrYwXvY
浅野因幡守長治の家来と成った米村権右衛門は、八十有余の年齢に及ぶまで相勤めていたが、
家中に槇尾又兵衛という町奉行役があった。この者は、元は故薄田隼人正(兼相)の近習で、
利発なる者故、因幡守が目をかけて使われていた。

ある時、長治が大阪落城の時、天樹院殿(千姫)が城中を出給いし折の事をお尋ねになった所、
槇尾又兵衛承り、世上にて取り沙汰されている通り、「本来秀頼と御一所にあるべきはずなるを、
御女儀とは申しながら、甲斐なき御事であると、その頃より申し触られています。」と言った。

程過ぎてから米村権右衛門はこの話を聞いて大いに怒り、家内の諸道具までも悉く取り片付け、
その上でこのように訴え出た

「槇尾又兵衛について、去る頃、御前において天樹院様の御噂を申したと承りました。
城中を御出遊ばされた事は、豊臣公御母子助命の儀をお願い下さるようにと、大野修理亮がたって
申し上げた故であります。又兵衛が申す内容では、天樹院様に悪名を取らせます。またそのようでは、
修理亮の身にとっても大いに迷惑仕ります。

然し乍らこのような片田舎に於いて、又兵衛を相手にして裁許に預かったとしても、世上への申し訳には
なりません。

そこで、私は御暇を頂き、江戸表に参り、公儀に相願い、天樹院様恥辱の申し訳を仕らなければ、
故主である修理亮への奉公も相立ちません!」

これに、家老の山田監物、矢島若狭も大いに難儀し、内々にて様々に説得したが、米村は得心しなかった。
このため因幡守にこの事を申し上げると、因幡守は槇尾又兵衛を内々に召して
「その方の故主である隼人正は六日に討ち死にし、その家来は同日晩方に城中を立ち退いたという。
然れば、天樹院殿の儀は七日の事であるから、お前は定めて、世上一統の取り沙汰を申したに過ぎないだろう。

その方は如才無く気が利いているのだから、米村権右衛門へそれについて断りを申して合点致させ、
内々に事を済ませるのがこの方の為なのだから、宜しく取り計らうように。」

とあった故に、又兵衛は米村に対し
「近頃、無調法の至り、迷惑を仕らせました。」
との事を述べて謝罪し、米村もこれにて堪忍したという。

(新東鑑)
0184人間七七四年
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2022/05/13(金) 16:58:04.81ID:uwclWyl4
「大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」

永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。
0185人間七七四年
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2022/05/14(土) 14:09:06.03ID:p90IDzup
(氏家内膳(行広)とその子三兄弟の切腹の後)大御所(徳川家康)は二条城に入られたが、この時
南光坊天海は小僧を召し連れ御前に出、

「氏家内膳正は御敵を成したるに依って、その子供を殺害されたことは御理であります。
ですが、この小僧はその内膳の子(三男)でありますが、拙僧の弟子となり申しました。ですので、
一向御免下さるべし。」と言った。

家康公はこの旨を聞かれ
「氏家が主君の恩を報じる為に一命を捨てたのだから、出家させた子供に罪をかける道理はない。
心安く思うように。」
と仰せになった。

或る記に、かの小僧は南光坊天海に従って、武州東叡山に居た。その頃、東叡山寛永寺には一人の浪人が
在ったのだが、俄に狂乱し、刀を抜いて本坊へ切入った。これに児喝食は言うに及ばず、齢長けた僧も
逃げ走ったが、内膳正の三男の若僧はかの狂人を組み伏せ、抜いた刀を奪い取った。

後に、山城国愛宕山康楽寺の住持となったという。

(新東鑑)
0186人間七七四年
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2022/05/15(日) 18:59:32.65ID:Davxrel8
越後の大関城主に大関盛憲という人物がいた。

盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。

そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。
0187人間七七四年
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2022/05/15(日) 20:02:59.75ID:w74wCBni
越後にも強姦婚があったんやな
さすが奴隷市の開催国やで
0188人間七七四年
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2022/05/17(火) 16:15:21.99ID:g40oUKwA
或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、

『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』

という旨を下知すべしと議定した。

その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。

正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!

人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」

そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。

新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。

(新東鑑)
0189人間七七四年
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2022/05/17(火) 16:37:38.40ID:pgI56b42
嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな
0190人間七七四年
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2022/05/18(水) 21:31:30.49ID:dj1xSr2p
槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝

茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」
0191人間七七四年
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2022/05/19(木) 12:49:07.64ID:1Lx5XXEG
割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな
0192人間七七四年
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2022/05/19(木) 23:13:26.62ID:ra+2wtGb
槐記享保十二年十月十五日の記事から 金森宗和と加藤某

中井主水常覚が常修院殿(慈胤法親王)にこうお話し申し上げた。「昔、加藤越中守は武威天下に隠れなき者だったが、茶の湯のことはさほど世に聞こえておりませんでした。ある時、金森宗和に茶の湯を所望して、甚だ賞嘆して、『宗和の茶は名人と言うべきである。私は茶の湯を所望したのではない。その気のひっぱるところを見たいと欲したゆえである。ぬっと炭取を持って来られたところから一礼されるところまで、隙あらば鑓を入れようと狙っていたが、気が満ちていて一毛の入る隙もなく、ついに鑓を入れることが出来なかった』と語ったそうです。誠にお上手であったと承り及んでいます」こう常覚が常修院殿に語ると、「誠にそうであったろう」と常修院殿は大いに嬉しがられた。

「ひっぱる」「ぬっと」は原文ママ。面白い表現なので訳さずそのままで。

加藤越中守には適当する人物がいないので、名前か官位に誤りがあるのは確か。加藤越中守は肥前守としてある異本もあるそうで、岩波の日本古典文学大系の近世随想集では、肥前守は肥後守の誤りで清正のことかとしている。清正と宗和では年齢がかなり離れているので、あるいは清正と宗和の父可重との話か。ウィキペディアの宗和の項では加藤泰興との話としているが、泰興は出羽守で、出典も書かれていない。
0193人間七七四年
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2022/05/20(金) 11:21:24.27ID:0N1cL2JJ
清正だと決めて掛かってるから考察がおかしくなる
そういう学者が行き詰まったときにやるのは捏造な
チョンがいい例
0194人間七七四年
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2022/05/22(日) 20:19:15.64ID:U8GqlHSQ
「朝野雑載」から秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣や牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。
0195人間七七四年
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2022/05/22(日) 23:42:55.82ID:N8u6mvGT
槐記享保十三年七月十二日の記事より 木下勝俊と春日局

長嘯子は歴々の者と見える。中井常覚の話に。
昔、春日局が上洛したおりに、板倉周防守がお誘いして祇園の清水へ参ったが、当時私(常覚)は十三歳でお供仕ったが、瀧の下の腰掛けに一同腰掛けて瀧を賞翫していたところ、その瀧で足を洗っていた熊野比丘尼が春日局を見て、「実に久しいことお目にかかっておりませんでしたが、お上がりなさるよしを承りまして、つい今しがた熊野から参ったところで、未だ御挨拶申し上げませんでした」と申せば、
「この尼の申す通りです。故あって懇意にしているのですが、京の建仁寺のあたりに住居しているとのよし、周防守様も常々お目にかけて下さいませ。この者と会ってふと思い出しましたが、長嘯様のいらっしゃる霊山はこの近くにございますので、参りてお会いしたく存じます」と、私を連れてそちらに向かわれた。周防守は、今日は東本願寺の門主が主人になって祇園林で宴席を張って待っているとのことなので、一足先ににそちらに向かわれた。
さて、長嘯子のところへ参ると、長嘯は紙子の軽装で気軽に縁側に出て、「よくこそいらっしゃった。二階の方が景色が良いから上がり給え。茶の一杯も振る舞うべきだが、あなたのお持ちの茶の方が上等でしょう」と言った。茶弁当なども二階へ上げて主客ともに楽しまれたが、周防守から「東本願寺の門主がお待ちかねです。早くお出で下さい」と幾度も使いが参ったので、立ち帰られた。彼の春日局に対する態度はまるで主人であるかのようだった。
さて、祇園へ参ると、林一面に畳を敷いて杉折の提重おびただしく、饗応の限りを尽くされたこと言語に絶していた。こう常覚が申し上げると、家煕様も、そのような話を聞いたことがあると仰られた。
0196人間七七四年
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2022/05/23(月) 19:42:12.20ID:tGyeQDo6
「朝野雑載」より、第二次上田合戦時の戸田左門(戸田一西)の進言

慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも御目見の御沙汰があります」
と申し送りされたため、翌朝秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、御迷惑におぼしめされていることでしょう」
家康公「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、相手方に石がいくらあろうが相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」と尋ねられた。
秀忠公が「同じことを戸田左門(一西)も申しておりました」
と仰られたところ、
家康公は「なんと申したのだ?」と重ねてお尋ねになったので
秀忠公は左門の進言の委細を仰られた。
家康公は御家人列座の方を御覧なさり左門を召されたが、末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は声高に「内府公は左門をお召しだ!」と仰られると、左門はすぐ御前近くに出た。
家康公はおそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い
家康公「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう」とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため
秀忠公が代わりに「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけないしあわせに存じております」と仰られたという。
0197人間七七四年
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2022/05/23(月) 21:21:46.50ID:pFEDWaRQ
槐記享保十二年五月十八日の記事より 遠州と黒田長政

この頃岡崎が話した二、三の話の中に。
「故筑前守(黒田長政)は古遠州の門人でとりわけ茶道に熱心であったが、ある時江戸で筑前守が遠州に、『利休、織部といえども、時にはこれは嫌な物数寄だ、どういう訳でこんなことをされるのだと思うことがありましたが、遠州のなされることは一つとして嫌らしいことはなく、いちいちその訳が合点出来ます。お上手と申し上げるも愚かです』と申し上げた。
遠州、『それは貴殿の茶の湯にまだ至らぬところがあるからそう思われるのです』と答えた。ただ『はい』と答えて筑前守は下がられたが、合点がゆかなかったので、出入りの町人を通してそれとなく真意を問われたけれども、何も答えを得られなかった。
ほどなくお暇下されて遠州は伏見へ帰られることになったが、筑前守が『私もおっつけお暇下されるでしょう。帰る途中伏見によりますからお茶をいただきたいものです』と申し上げると、『いかにも進上いたしましょう』と約束して遠州は京に帰った。
いくばくも無く『明日伏見を通りますので、お茶をいただくことはできますか』と申しよこすと、『何はさておき差し上げましょう』と遠州は約束されたが、その日は東福門院のご用で上京されるところだったので、家来の何某に『明日は筑前守がいらっしゃるから、庭の掃除をはじめ、かくかくしかじかの準備をしておくように』と言いつけて上京された。
夜を徹して帰ってから一度庭を見回って大いに気に入ったが、囲居に入ると大いに不機嫌になって、筑前守に使者を立てて、『明日の茶は囲居で差し上げることが出来なくなりましたので、書院にて差し上げましょう。羽織にてお出で下さい。私もそういたしますから』と言ってよこした。筑前守は意外に思ったが羽織で参ると、遠州も羽織で出迎え、玄関より書院に通し、料理も型のごとく、濃茶も出された。
すべて終わって、筑前守が『本日はどういう訳で囲居ではなかったのでしょうか』と問われると、『そのことです。昨日はご用を仰せつかって上京したために、留守の者に今日の準備を申し付けておいたのですが、囲居の畳替えをはじめとして窓竹まで真新しいものに交換してしまいました。そのために囲居でお茶を進上しなかったのです』
『それはどういうことですか』『いや、そこです。いつぞや私めは利休や織部たちには及ばないと申し上げたことをご合点下さい。貴殿は江戸でほうぼうの結構な囲居での茶会にはご出席し尽されていますから、私のところでは虫喰い竹に古畳でお茶を進ぜようと思っていたのに、案に相違して囲居でお茶を進上できなかった点こそ、利休織部の両名に私が及ばぬところなのです』と申された」と岡崎が語った。(家煕様は)一段ともっともなことだと仰った。
0198人間七七四年
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2022/05/24(火) 15:39:42.57ID:emE/uutk
>>196
家康が約束した通り
戸田一西は翌年近江で三万石の大名になり、小身ではなくなる
0199人間七七四年
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2022/05/24(火) 17:26:34.67ID:bJqQkG0r
本多正信も進言したのになかったことにされてる
0200人間七七四年
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2022/05/24(火) 21:54:11.27ID:UW7pG4Rp
槐記享保十年八月十三日の記事より

近衛信尋と伊達政宗と福島正則 後半部分は既出ですが

この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」

「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」

信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。
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