豊臣七将による石田三成襲撃事件を考察する
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加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興(研究者により池田輝政、加藤嘉明、脇坂安治の場合も有)が、
五大老である前田利家が亡くなった直後、石田三成を襲撃し、徳川家康の裁定で決着したとされてきた事件です
学者の論文などからも分るように研究者達の間でも様々な意見があり、事件の経過や襲撃なのか訴訟なのか、
原因は何なのか、史料はどう解釈すべきなのか等々多くの不明なところがある事件ですが、色々と考察してみましょう 白峰氏は「立て籠った」ではなく「謹慎処分を受けた」という意味だとしてるね(かなり苦しい気がするが…)
三成は大坂で襲われる前に脱出したからそういう意味では七将襲撃事件は無かった事は確か。でもそれは「七将が襲撃しなかった」事までは証明できん。 三成だけじゃなく、増田とかも一緒に立て籠もったはずなのに謹慎はどうだろうか 昔の俗説だと佐竹に匿われて三成は虎口を脱出したみたいな感じだったと思うが
今だと佐竹とかこの事件に関わったりしているのか? 佐竹とかに匿われたってのは慶長著聞集だったっけ。
三成が単独で虎口を脱するとは確かに考え難いし誰かに教えて貰ってるのは理屈に合う。
閏三月三日に利家が死んで四日には三成は伏見に来てる。
この時伏見には浅野長政が居たと思われていて(七将宛家康書状)これが三成の移動と関係していない訳が無い。
まず三成を大坂で襲撃して、同時に家康に訴訟というか陳情していたんだろう。 そもそも信頼に足る史料で、襲撃の記載はないという話。 まず間違いなく三成襲撃計画は実行されてる。これは三成自身が言ってるからまず間違いない。
そうでないと三成が伏見に逃げ込んだ理由や、毛利に挙兵を頼んだ理由が説明出来なくなる。まぁ説明は出来るんだがそれは「三成は自分が訴えられるとこれは襲撃だと叫んで軍事行動を起こそうとした」という大変不名誉な結論になるし。 別に当人が襲撃だと思ったから逃げたと
実際は襲撃ではなかったは矛盾しなくないか? そんな状況有り得るか…?しかもそうだとすると三成は「本当は自分に対してじゃないかもしれないけど挙兵を頼んだ」事になって尚のことヤバい奴になってしまうんじゃ。
現実、三成が大坂から伏見に逃げた事で七将の攻撃は空振りになってる。そういう意味では襲撃は無かった訳だが… そもそも襲撃を示す(信頼に足る)史料がないのに。
このスレは物語を議論するスレなの? そもそも襲撃を示す(信頼に足る)史料がないのに。
このスレは物語を議論するスレなの? >>9
『まず間違いなく三成襲撃計画は実行されてる』って、襲撃が前提になってるけど。
キミは何の史料を根拠にしてるの?
慶長年中卜斎記?(笑 >>9
うん、ぶっちゃけ現状だとその
当人が訴訟を襲撃だと思い込んで、武器持ち込んである自分の私邸に入った挙げ句毛利呼んだ
のがまだ筋通る 白峰氏が引っ張ってきた史料は、襲撃ではなく「申合」しかない。
つまりは訴訟。 慶長著聞集や卜斎記、看羊録に記載はあるらしいがそれより毛利の書状である所謂「46号文書」
ここでは三成が輝元に対して「ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる、於于今ハ仕合候条、自此方可被仕懸候、左候ハヽ、輝元天馬のことく罷下陣取…」と要請したとある。
つまり三成は自分が何者かに「ねらいたて」られたていてそれが失敗(一こう珍事なく、結句手おきたる)したと言っている。
これは訴訟のことか?それは考え難い。閏三月四日に三成が伏見に来てから始まった訴訟は十日に裁決が出る。つまりどの時点を切り取っても「結句手おきたる」とは言えない。
もっというと後段は凄いことを言ってる。「(敵方はこのザマだから)今はこちらから仕掛けるのが良い」と輝元の挙兵を頼んでる。これで尚更、訴訟のセンは無い。訴訟だとすると三成は訴えられただけでこれが自分への攻撃(ねらいたて)と叫び輝元に挙兵を頼むという暴挙に出たことになる。 >>17
46号文書のその訳は、光成氏のを引用してるんだろうけど、氏はそもそも襲撃を前提として訳してるからね。
文法的に、『仕り候』は、自己の動作の謙譲語だから、『(何者かに三成が)ねらいたてられた』という訳はおかしいよ。 つまり、『ねらいたて仕候者』は、前後関係を考えれば、家康を指すと思われるよ。三成が家康をねらいたてているという事。
白峰氏は、『狙い点』と茶の用語で説明してたけど、この場合でも『ねらいたて仕候者』は、家康を指すとしている。 それは「この襲撃の」黒幕は家康という三成の予測は意味するけど訴訟に関しては全く意味してない事になるけど…
要は石田三成が輝元に「挙兵を頼んだ」事の意味の大きさよ。単純な訴訟なら三成はとんでもない悪人だったという事になる。まぁ確かに三成は後にクーデターを起こしてるからあり得なくは無いが…
そのまま考えれば、狙い立てたというのは七将らの襲撃計画でありこれが失敗に終わった(三成が伏見城に逃げ込んだから)のでこちらから仕掛けたいというのが三成の要請だろう。
さ 「つかまつり そうろう」だと確かに謙譲語だけど
「つかえし こうしゃ」ではないの?
敵(背後にいる者を示唆)の尖兵として狙ってきたという意味で >>20
いや文法的にそう訳せないんだよ。『ねらいたて仕候』の主語は三成。また46号文書は、他に七将襲撃について触れている部分がない。
キミだって、『ねらいたて仕候者』の訳だけで襲撃があったと決めつけていて、それを元に文章全体の意訳を進めているわけでしょ? >>21
それは読み過ぎでは?
46号文書では、他に七将に触れたものが一切ないし、七将に加えて背後に家康がいることまで『ねらいたて仕候者』だけで読み取らせるのは流石にないでしょ。
また、『仕ふ』の活用とするなら、『仕し候者』と表記するのでは? これが訴訟だとしても上杉討伐だとしてもかなりの問題がある。
「ねらいたて仕候者」は「一こう珍事なく結句手置きたる」と三成は言ってる。つまり三成の目線では「ねらいたて」は不発に終わってなければならない。
ところが訴訟も上杉討伐もどちらとも「一こう珍事なく」とは言い難い。のみならず、訴訟も上杉討伐も家康が責任者として差配しそして家康の裁決通りに落着してる。
つまり三成が「私を狙った徳川家康の目論見は外れました!」と言ったところで輝元からすると
「何言ってんだコイツ」という感想しか出ないんじゃないか。その上で挙兵を求められたも応える筈もない。
では三成目線で失敗した計画は何かと言えば七将による襲撃計画しか無い。さもなくば三成が訴訟を武力でぶっ壊そうとするとんでもない悪奉行だったとするか… >>25
いや、全く問題ないよ。
大前提として、キミの主張する『七将襲撃』は、信頼に足る史料には全く存在していないという事。
一方で、七将による『申合』『申事』では、複数の同時代史料で存在している。
つまり、ここから先の議論は、キミの妄想に付き合う人がいるかどうかというだけ。
私は付き合えないし、キミは嘘をつくし、鬱陶しいので否定させてもらったわけね。 >>22
その訳はかなり問題がある。
46号文書は三成が輝元に送った内容なんだが、「ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきたる」の主語が三成だとすると「私は(何かを)しようとしましたが、何一つ出来ず、結局諦めました」という事になる。
つまりクーデター失敗の告白にしかならない。そんな意味不明な事を輝元に言う理由はどの時空にも無い。
明らかに三成は自分が被害者なのであって「ねらいたて」られそうになったが虎口を脱したという意味にしかとれん。この点は光成氏も白峰氏も同じ。
じゃあその「ねらいたて」た者は何を狙ったのか?それは明らかに三成襲撃計画しか無い。何故なら訴訟はこの書状が送られた時点で審理中で「結句手おきたる」とは言えないから。 >>27
キミの理解力が大問題だと思うよ。
『ねらいたて仕候』の主語は三成で、
「(三成が)ねらいたて仕候『者』=家康」なわけ。
で、家康は手をこまねいている状況。
>>19で説明してるけど。 ああ、それからまた嘘ついたね。
白峰氏は、『ねらいたて仕候者』は家康としているよ。
光成氏の訳とは全く違う。 その読み方は白峰氏の読み方とも違う、かなり珍妙な読み方をしてる事になるよ!
白峰氏は「ねらいたて仕候者」が「一こう珍事なく」としている。つまりねらいたてた奴ということ。
君の三成がねらいたてた奴、となると三成が何らかの運動でやり玉にあげてた奴がいることになる。この時期の三成がそんな事をしていたとは知らんかったがそりゃなんなんだい?
こういう珍妙な訳は普通の訳を外そうとするから発生する。正直、白峰訳もツッコミどころのオンパレードで説得力に欠けている。
仮に三成がそう言っていたとして、それが挙兵する理由に成るだろうか?正直かなり厳しいと思うが…
光成訳の通り、「私の命を狙った者」と訳するのが無駄な労力を省くことになるだろう。 >>30
珍妙なのはキミだな。古文の文法を無視して、感覚で訳している。
>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
また46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ないんだよ。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。 残念ながらその珍説は捨てた方が良いぞ。だってそうすると「三成はいつ、誰に、何をしてその結果毛利に挙兵を頼んだのか」を君が論じないといけない。
白峰氏はねらいたてたのは三成じゃなくて家康が上杉討伐をしようとした事だとしてる。まぁこれはかなりこじつけなんだけどね…
君の場合白峰氏よりも厳しい道になる。三成が何をしたのかから論を組み立てないといけない。だから論を組んだら教えてくれ。面白かったら小説にでもしようじゃないか。
46号文書では三成は輝元に挙兵を頼んでる。これは奉行として最悪の選択で要は謀反ってこと。仮に輝元に裏切られたら三成は良くて斬首だろう。つまりそれだけの危険を三成は味わった。
っていうとそれは各史料にある三成襲撃計画に他ならないだろう。それなら、三成がこの禁じ手を使おうとしたのも理解出来る。
まぁ、君の言うように「悪虐な石田三成は天道に逆らって徳川家康に刃向かおうとした」可能性も否定はしないけどね。そういう小説は嫌いじゃない。 >>32
文法の切り口で反論できない時点で、キミの主張は終わっている。
残念ながら、キミは古文をもっと勉強したほうが良い。
勉強不足、無知を自慢してどうする。
繰り返すが、46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。 白峰氏の言う通り「ねらいたて」が「狙い点」つまり「見せ場を作る」という茶道用語だとすると主語が三成というのは間違いなくおかしい。
何故なら「私が見せ場を作って差し上げたあの方」って事だろう?「あの方」が家康?
いやまぁ。そういう小説もあってもいいさ。『三成は本当は徳川の世を望んでいた!それで敬愛する家康の為に捨て石になったのだ!』うん。売れるかもね確かに。
でも詩学的よりもここは史学的に行こう。
三成はそんな事は言わない。つまり「ねらいたて」とは「命を狙った」という事になる。だがそれも意味は通じない。というか宿敵に真面目に謙譲する奴がいるかな?
つまりこの解釈は間違っている事になる。光成氏の様に「私の命を狙った輩」とでも訳すのが無理がない。無理にこれから外そうとするから厄介な事になる。
三成「が」何をしたのかから考えないとならなくなる。大変なことよ。 >>34
キミさ、ゴニョゴニョ言って逃げてるだけだよね。
こちらの指摘に全く回答しないもんね。
・文法的な誤訳。>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
まずはこれに回答して、自説の正しさを立証してよ。 凄い気になるんだけど、お前さんそんなに頑張ってどんなストーリーを思い浮かべてるわけ?
つまり「三成が46号文書で輝元に挙兵を頼んだ理由」は何だと考えてるのさ?
光成氏も白峰氏も、「ねらいたて仕候者」を「三成がねらいたてた」とは訳してない。そりゃ当たり前で話がおかしくなるから。
君は三成がどんな事を輝元に話したと思ってるのかな?
今の状態だと「三成襲撃事件があった事を否定したい」という為だけに頑張って屁理屈捏ねてるようにしか見えないんだが…
三成が「ねらいたてた」それはなに? >>36
ストーリーを思い浮かべるとか(笑
キミがこちらの指摘に回答せず逃げ回ってるという事は、キミ自身が誤りを認めているという事だ。
頑張っているというか、キミが答えられないのはわかってるから、同じ質問続けてればいいだけなので楽チンだよ。気にしなくてもいい。
ミスリードを一つしてるから言っとくけど、白峰氏は、『ねらいたて仕候者』は家康としてるので、私と同じだよ。なんならリンク先貼ってもいいけど?
では、再度指摘させてもらうよ。
・文法的な誤訳。>>18でも言っているが、『仕り候』は自己の動作の謙譲語。よって。『ねらいたて仕候』の主語は三成以外にない。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
まずはこれに回答して、自説の正しさを立証してよ。
どうせ逃げるんだろうけど(笑 「仕候」にそんな深い意味は無いよ。敢えて言えば単なる謙譲表現に過ぎん。ていうか光成氏はおろか白峰氏も気にもかけてない単語に良くそんなに拘るねぇ。
結論から言うと「私が…した」と訳するのは間違い。
何故なら「ねらいたて」が「命を狙った」(光成訳)でも「見せ場を作ろうとした」(白峰訳)でも主語が三成になると
「私が命を狙わせていただいた」「私が見せ場を作らせていただいた」となって不自然。
そうなるとまず「三成がいつ誰に何をしたのか」を説明しないといけなくなる。
光成説も白峰説も三成は被害者という点で一致してる。よほど「三成が仕掛けた、三成が悪いんだ!」と言いたいんだろうけど。
よくある「こう読める」系珍説はあまり言わない方が良いよ。余程知識が無いとボロが出てしまう。ていうかまず説にすらならんし。 白峰氏は従来の訳語解釈への批判がひとつの武器だけども、こじつけ過ぎと思うこともある たたき台としちゃ面白い人だけど、その分主張が雑な人だなぁって印象 >>39
キミが古文を全く知らない事を白状しなくてもいいから(笑
『仕候』に意味がないとか、単なる謙譲表現とか、古文の成績相当悪かったでしょ?
さらに言わせてもらうと、『ねらいたつ』なんて単語はないよ。
『ねらひ(他動詞狙うの連用形)+たて(補助動詞たつの連用形)』なわけ。意味は自分で調べな。特に『狙う』にはいろいろな意味があるから。自分の無知を恥じるんだね。
白峰氏は、『狙い点』と茶の用語で組み立てていたが、これは流石に如何かと思うし、光成氏の訳は10年以上も前の著書で七将襲撃の存在に全く疑問を持たれなかった時代の現代語訳だからね。その存在が疑問視されている只今現在で、当時の現代語訳を参照することに意味はない。 >>39
忘れてたよ。
・46号文書では、他に七将襲撃に触れている部分がない。つまり46号文書だけ読んだのでは七将襲撃の意訳は出来ない。
七将襲撃の事前知識があって初めてそういう意訳が可能になるという話。そして七将襲撃を示す信頼に足る史料は存在しない。
この文書だけでは、七将襲撃は確定できないけど、どう説明するのかな? >>41
なんだこいつ
君のターゲットでは俺はないぞ
「狙い点」なんて超訳はおかしいと言ってるだけだ >>43
いや、ゴメンゴメン。
アンカ先間違えましたね。
当の本人は自分に向けられてるとわかってるでしょうから、修正しないでいた次第。 46号文書では「三成が何者かに狙われたこと」「そして敵は失敗したこと」「故に毛利に挙兵を頼む」事が書かれてる。
(ちなみに毛利の調査で事態が深刻だと判明してる)
これに当て嵌まる事件は七将襲撃事件しか無い。
と、いうかそうでないと三成がとんでもない悪奉行になってしまう。
軍事攻撃されたわけでも無いのに挙兵を頼んだとすれば十人衆で一番のワルになる。
だから光成説が正しく、七将襲撃事件があったということになる。それ以外に説得力のある説は無いからね。 結局、七将襲撃ありきの主張ということか
三成がとんでもない悪奉行になってしまうから七将襲撃があったんだ、というのはおかしい ていうかそもそもそれ以外に説が無いからね。
「三成がこう言ったのはこうした事情があったから。それはこの史料に書かれてる」というのが説。
そうじゃなくて単なる言葉遊びに夢中ってんじゃ話にならん。子供じゃあるまいし。
史料を見つけて説を作らないと白峰説や光成説を批判する事もできんよ。
46号文書からは三成が七将に襲撃されこれに逆襲しようという姿勢がわかる。だが、これを封じるべく七将が予め「訴訟」しておいた。七将の方が一枚上手だったんだな。 >>47
いや、キミ何言ってるの?
正しい文法で読解して初めて正確に文意を理解することができるんだけど
『ねらいたて仕候』の誤訳をあくまで押し通すということで理解していいのかな?
そして白峰説は、七将襲撃の否定なんだけど >>48
だから君に聞いているだろう?
君は46号文書を読んで、それが何年何月のものと思ってるの?
三成がいう「ねらいたて仕候者、一こう珍事なく」とは何のことを意味してるの?
これを君が言わないなら光成説が正しいって事になるし、当然「ねらいたて仕候者」は「私の命を狙った者」で正しい。
「人は落ちこぼれると批判することに執着する」というけど君は落ちこぼれなのか?
頼むから君はどんな説を信じてるのか教えてくれ。僕は落ちこぼれですと言うなら取り敢えず日本史の教科書でも読んでおいてくれ…頼むから 白峰氏は46号文書の発給時期を慶長5年6月上旬に比定してる
これが事実だとすると輝元に援軍を頼む話はこの騒動とは無関係になるが、
白峰氏の年代否定に異儀を唱えてる研究者って他に誰かいるんかね >>49
少し落ち着けば?
まずはこちらの質問に答えてよ
『ねらいたて仕候』の誤訳をあくまで押し通すということで理解していいのかな?
キミの質問に答えたとしても、キミが誤訳をしていることに変わりはないよ
『ねらいたて仕候者』が誰を指すのかは、この議論の核心でしょ
で、>>41で高校一年生レベルの古文の読み方を抗議してあげたわけだけど、キミは誤訳を押し通すということでいいのかな
YES/NOで回答してよ 相手の批判しかせず自分の案を持たない人間がいて議論が一歩も前進しない典型例だな
仕事の会議ではなく5chなことが唯一の救いか 私の事?(笑
私の主張は、最初から『七将の騒動は、襲撃ではなく訴訟』ね
なぜなら、襲撃を示す信頼に足る史料が存在しないから
46号文書は襲撃の根拠にならないことを指摘するのは、自説の論拠になる話 46号文書が書かれた時期は実はかなり精密に導く事ができる。
まず「自治少・小西・寺沢被越候」とある通り三成と小西行長と共に寺沢広高が来ている。寺沢広高は元々奉行で名を馳せた男で故に三成と同じ文治派と見られていた。そんな彼は三成が失脚した慶長四年以降家康に急接近し盛んに奉公。関ヶ原では東軍について天草四万石に加増されている。
つまり寺沢が三成と行動を共にするのは慶長四年閏三月ぐらいまでという事になる。
次に46号文書では大坂城が徳川の手に落ちていると書かれている(「御城ハ彼方衆持候と聞え候」「御城つめニハ、こいてかたきりなと居候、是ハ内府かたにて候」)
大坂城は元々秀吉遺言で前田利家が入っていた。それが慶長四年三月八日、利家が家康を招いて利長の後見を依頼。家康はこれを請け前田家は徳川の勢力下に入る(利家公御代之覚書)
その後、家康は九月九日に秀頼に会いに大坂城に行くがここで家康暗殺計画を知らされ大坂城西の丸に入ることになる。
つまり「大坂城に内府の兵が入る」のは慶長四年三月から九月のことになる。 >>55
肝心の、46号文書の誤訳の件は回答してくれないのかね?
逃げたように見えるけど。 >>53
ちゃんとアンカーつけなよ
誰のことかわからないじゃん 暴れてる文法くんは、勝頼スレや史料スレで総スカンを喰らったコピペ連投荒らし。 反論が止まったら、別IDが荒らし認定を始めるのはお約束だなぁ という下手な返しもいつも通り
IDや文体を変えてもやることがナントカの一つ覚えだからすぐバレる 他板に比べると戦国板の荒らしはウブだねー
バレて指摘されるとテンプレの返ししかできなくなる 白峰氏も認めてる事だけど「七将襲撃事件は無かった」論の最大の弱点は「どうして三成が伏見に来たのか」を説明出来ないという点にある。何の問題も無いなら大坂を出る理由が無いからね。それで光成氏や笠谷和比古氏は七将襲撃事件はあったとしている。
46号文書は内容からして間違いなく七将に襲撃された三成からのSOSな訳だけど幾つか面白い点がある。
大谷吉継が輝元に「早く内府にあった方が良い」と忠告している(内府むかいつらに成候様)んだけど、看羊録では輝元が家康に和議斡旋を要請し家康がこれに同意、長束正家は三成を説得して家康に対して謝罪させて問題を解決させたという。
つまり挙兵を頼む三成の意に反して、周囲の人々は家康による解決を望んでいたことになる。 >>62
一応言っとくけど、別人ね
なので、何を言われても響かんけど >>63
じゃ、私の質問には回答できないということで逃亡ね
お疲れ様でした(笑 そもそも七将の襲撃として記載されている史料がないということでしょ
白峰がそれを掲げたみたいだけど、それに反論できなきゃその後の議論は意味ない 46号文書で三成が「自分が狙われた」事とそれを理由に毛利に挙兵を頼んでるから襲撃された事は間違いない。
ただ七将(正確には十人くらい居る)は予め家康に訴訟として話を持ち込んでいたから三成の計画は水泡に帰した。
笠谷和比古によるとこの時伏見城が七将らに包囲された可能性もあるらしく(46号文書にも似たような記述がある)
結局輝元も家康に和議斡旋を頼むしかなくなってしまった。 なんで三成が訴訟を襲撃という事にして毛利に挙兵要請したって可能性を低いと判断してるのかだけが気になる
毛利宛の内容も三成が自分に良いようにお手盛りしたって考えちゃいかんのかね? 訴訟だとすると「一こう珍事なく」「結句手おきたる」って情勢じゃないのが明らかだし挙兵頼むのもおかしい。
しかも訴訟は十人衆合議で決するのに家康と輝元に何故かねねを交えてお話し合いだし。 三成が、書状では毛利に挙兵してほしくてそう書いたけど実際は虚偽の状況じゃないの?って疑問に
書状にこうあるよは反論としてはちょっと変じゃない? 46号文書は、毛利元康あてに輝元が送った書状で、『 』は、三成の言葉。
自治少、小西、寺沢被越候ハ 『ねらいたて仕候者、一かう珍事なく、結句手おきた
る、於干今ハ仕合候条、・・・』
石田三成、小西行長、寺沢広高が来られまして、『(私が)ことさらに様子を窺っております者(=家康)は、一向に変わったこともなく、むしろ手をこまねいている今がよい機会ですので、・・・』
直訳したらこんな感じですかね。
問題の「ねらいたて仕候」は、『狙う』が「様子を窺う」、『たつ』が「ことさらに〜する」の訳が適当。
『仕る』は話し手(三成)の動作で、受身の語が使われてないので、「ねらわれた」の訳はない。
同じ文書で、家康を敵性大名と見做しているので、『ねらいたて仕候者』は、白峰氏も言っている通り家康。ただし、『狙い点』という茶道用語の引用には賛同出来ないな。
結論は、46号文書では、七将の襲撃か訴訟かは判断できない。 襲撃事件の他の史料とかになると慶長見聞書みたいなのになるしな かなり古くて申し訳ないんだけど、光成氏の「関ヶ原前夜」だと、三成が小西と寺沢を使いに出した事になってるんだけど、これはどうなんだろ 七将襲撃はなかった
なぜなら襲撃を示す史料がないから、ということでこのスレは終了 ねらわれた、なら「ねらいたてられ候」だろうね
仕るは入れないで、いったん文を切るんじゃないか >>74
46号文書からだろうからまず間違いない。
七将襲撃事件の時点では小西も寺沢も文治派だったから。
三人で行ったのか小西と寺沢が使いだったのかはわからんけど少なくともこの三人が連携してたのは確か。 >>74
一、冶少、小西、寺沢より越され候ハ
光成氏は三成は伏見にこもって動けないはずだから三成の使いで小西寺沢が使者として来たと解釈したんだと思うけど
これ単純に3人の連署状および密使が来たちゅう事じゃないかな 白峰氏は「狙いたて仕候者」を徳川家康としてるけど、
訴訟にしろ上杉討伐にしろその黒幕が家康ってのはかなり疑わしい(てが情勢上否定されてよい)
それに幾ら敵視しているとはいえ三成が「訴訟の黒幕は家康」っていうのも意味わからんと思うのよね。家康は訴訟を受理しただけだし。
しかも訴訟は始まったばかりでしかもどう見ても珍事ないなんて状況じゃないし。 三成は自分に都合のいいよう結構話盛るからそれかもしらん
宇都宮氏改易の時の書状も随分お手盛りしてたし 「三河物語」では、「七将襲撃事件」自体が無くて、狙われたのは家康で、三成は暗殺を目論んだ豊臣方の大名たちから
責任をなすりつけられた、的なことになってたと思うけど、それはどう考えられてるんだろう
「七将襲撃事件」なり「家康暗殺未遂事件」なり、とにかく「何かあった」のは間違いないんだろうけど 三河物語は襲撃なのかと思ってた
一体、襲撃として記載されている史料って何があるの?
冗談抜きでないような気がしてきた 実は三成襲撃計画は二つある。
一つめは閏三月三日に大坂で実行しようとしたもの。
二つめは閏三月九日に三成佐和山謹慎の道中に実行しようとしたもの。
46号文書が書いているのは最初の襲撃でこれは慶長著聞集や看羊録に書いてある。
三河物語では後者の襲撃計画を記している。それによると心変わりした諸将は三成に腹を切らせようとして家康の仲裁も聞き入れず、家康が三成を佐和山に謹慎とすると諸将は道へ押し掛けて三成を切腹させようとしたので家康は結城秀康を護衛につけたという。
何方の計画も未遂で終わったわけだけど、どのみち家康が居なかったら三成は死んでいたかもしれない。 46号文書には襲撃のことは書いてないみたいだし、
三河物語、看羊録、慶長著聞集とか、史実の議論で根拠にしたら恥ずかしい
史料では? 笠谷和比古とかは普通に信用してたな。
46号文書も三成襲撃事件の事でないという論は白峰氏の上杉討伐説しかないけど時期的にも内容的にもかなり厳しいし。
三成は普通に武力襲撃されたと見るべきかと。 そもそも46号文書に、7将襲撃が記載されていないって話でしょ。
上の人が『ねらいたて〜』の所をそんな感じで訳してたけど、どう考えても無理だと思うよ。 笠谷や光成の引用元は15年以上前の著書だよね。
七将襲撃があるとかないとか議論が存在しない時代。
あるのが当然の意訳だから、説とかそんな次元の話ではない。 でも他に46号文書の解釈でマトモなやつは無いからね。光成説を除くと白峰説だけどこれはかなり苦しいものだし。
三成襲撃計画は空振りに終わったから史料に残る難い(成功してたら残ってたろうね)ものだけどね。
何しろ三成襲撃が無かったとすると「どうして三成は大坂から伏見に来たのか?」を説明しないといけなくなってしまうし。白峰氏も「説明はできない」ってブン投げてる始末。 昔は光成と書けば三成の誤変換だった
頭の中にそう刻まれたから、研究者の光成氏がどうもゾワゾワする 証明なしでの理屈なんていくらでも付けられちゃうから、史料が先で解釈はそれに沿っていくべき、わからないなら無理に理屈つけずにわからないとする方が余程誠実だと思うがね
勿論白峰氏の解釈は無理が過ぎるが、かといって笠谷氏らの解釈も正直推論に過ぎる 今のところ確実に否定されてるのは「三成は敢えて家康を頼って伏見に逃げた」という逸話だけ。何故この閏三月四日に三成が大坂から伏見に逃げたのかは襲撃説以外説明が付いてない。
利家は死ぬ前に家康に利長の後見を依頼してここで大坂城は徳川の城となったので利家の死で襲われると思って逃げた…
みたいな説明もできなくは無いけどこっちは史料が無いからね。 研究者の説を待つまでもなく、自分で調べればいい。
古語辞典ひけば、誰でもわかるレベルの訳。
白峰に疑問を持てるんだから、光成や笠谷にだって疑問を持てるはず。
そうならないのは、キミが七将襲撃ありきからスタートしてるから。 なら信用できる史料には襲撃と書かれておらず現状は襲撃と言う可能性は低いでいいじゃん?
それこそ君が言ってた訴訟を襲撃と言う事にする為に逃げたって仮説で全然良くて、何故そこからいや説明つかないから襲撃はあったんだに短絡させたいのか
そこにみんなおかしいと言ってる訳でしょ 今のところ確実に肯定されているのは「七将襲撃」を示す信用できる史料は存在しないという事だけ。 15年くらい前っていうと、三成が七将に襲撃されて家康の懐に飛び込んだのが普通に史実だった頃だな。
七将の黒幕が家康で、七将を操っていたという。
清正・正則あたりの評価が、裏切者から家康にまんまと騙された脳筋にシフトし始めた頃。 三成襲撃がないとすると「三成が不名誉だから」とか
「三成が暴挙に出たことになるから」って理由で
襲撃だったはずと主張してるけど
普通に素直に読めばまさに三成は不名誉で
暴挙を企んでるようにしか読めないんだけどな >>91
その襲撃説の、根拠となる史料がないんだろ?
今まで頑張ってあげてた史料は全否定されてるし 白峰氏も「三成が大坂から伏見に移った理由は説明出来ない」って匙投げてるのが現状だし。七将の襲撃計画を知った三成が密かに脱出して伏見に逃げ込んだ以上の説は出てこないだろうなぁ。 >>98
白峰氏そんなこと言ってたっけ?
著書では騒動以前の閏3月4日に三成は大坂から伏見に移動してきており、
逃げてきたわけではないって主張だったと思うが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています