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戦国ちょっと悪い話49
0532人間七七四年
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2022/06/27(月) 17:15:18.86ID:ubDy3UJz
最上義光、やっぱり長身だった 山形大・松尾名誉教授「奥羽永慶軍記」で確認 山形新聞2022/06/25
https://www.yamagata-np.jp/news/202206/25/kj_2022062500674.php

初代山形藩主・最上義光の身長が180センチ以上と長身だったことを具体的に記した史料が存在することを
山形大の松尾剛次名誉教授が確認した。史料は義光が生きた時代の東北地方を描いた「奥羽永慶軍記」で、
東京大史料編纂所のデータベースから見つけた。同軍記から引用して義光の容姿に触れた本はあるが、
具体的にどのページを引用しているか分からなかった。今回の発見で義光の長身伝説が裏付けられた。

同軍記は天文から元和年間の東北全般の群雄争乱の跡を書いた軍記物語。義光の容貌が記されているのは
「巻二十五」の前半で、豊臣秀吉の命令で全国の大名が朝鮮出兵のため京都をたつ場面だ。
政宗の身長は以前、埋葬されている墓の発掘調査で159センチだったという結果が残っている。同軍記の記載と
矛盾がないことから義光の記載内容も「信ぴょう性が高い」と松尾名誉教授。義光は使っていた指揮棒が
刀2本分の重さで、背が高く、怪力だったとのエピソードが残っているがこれまで裏付ける史料が確認されていなかった。

同軍記は現在も活字本が流通しているが、内容が割愛されている部分も多く、今回松尾名誉教授が確認した
義光の部分はない場合が多い。理由について松尾名誉教授は「まず自筆本が現存しない」と指摘する。

(中略)

◆奥羽永慶軍記 秋田藩(現在の秋田県)の郷土史家戸部正直が記した軍記物語。元禄11(1698)年にまとめ上げた。
当時の東北地方の史料が少なく、物語ではあるが多くの歴史家が引用している。

※山形新聞ウェブサイトはPCからなら全文無料閲覧可ですが、スマホからだと有料です
0533人間七七四年
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2022/06/27(月) 17:20:01.16ID:ubDy3UJz
一応、一番下の永慶軍記の解説の通り、軍記物というのは承知の上であえてのお話でありますので・・・
0534人間七七四年
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2022/06/27(月) 20:23:11.28ID:g8wvbc94
「両豊記」から豊後に鉄炮が来た享禄三年(1530年)に起きた「賀来の騒動」

大友家の譜代外様家臣の姓は三つに分けられる。
大友の先祖から血筋がつながっている一族を「御紋の衆」と言う。
いにしえより九州にあった丹部(田部)、漆島(辛島)、宇佐、大島の四姓や、そののち土着した藤原氏や清原氏を「国衆」と言う。
大友家先祖・大友能直に従って当国に来た諸士の系統を「下り衆」と言う。
こうして三つの衆に分かれ、それぞれ同じ衆の者と交際していた。
府内の大番役所では諸士が当番・非番で交互に勤めていた。
享禄三年の春、家臣たちの勤務状況を記した帳面に何者かが墨で線をひき「御紋の衆」の姓名がいちいち塗りつぶされていた。
さてはこれは国衆の何者かがなしたことだろうと御紋の衆の若輩の者どもは腹を据えかねた。
大友義鑑公も案じたものの、かえって騒動になってはいけないとそのままにしていた。
ここに国衆ではあるが、大友家に忠義を尽くしたために取り立てられていた本荘・中村というものがあった。
二人は御紋の衆の妬みを買っていた。
そのため清田越後守という若者に率いられた御紋の衆の若輩者、二百人が二人の屋敷を襲撃した。
本荘・中村両人とも奮戦したが、力及ばず切腹した。
0535人間七七四年
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2022/06/27(月) 20:25:57.50ID:g8wvbc94
翌朝、調子に乗った清田たちは千五百余人で賀来左衛門太輔という大身の国衆を討ち果たそうと押し寄せた。
賀来氏は大神氏であり、同じく大神氏の橋爪・大津留に加勢を頼んでいた。
清田勢が賀来の宿所に鬨をあげて突入するまさにその時、駆けつけた橋爪丹後守は三百余騎を率いて清田勢を追い散らした。
清田勢は多勢であったが驚きあわてたため、我も我もと逃げようと
増水していた川に飛び込んでしまい、溺れた者は数知れなかった。
橋爪は敵三十二人を討ち取り、川を渡った残党も討ち果たそうと追いかけたが、清田配下の加南田兵部という侍が三人張りの弓で矢数五百を次々と射立ててきたため深追いはしなかった。
賀来は橋爪のおかげで難を逃れたとはいえ痛手を負っていたため、翌日死んでしまった。
橋爪は家人たちに「このたびの働きは言語に尽くしがたいほど見事であった。
しかし君命に従ってこの手柄ならば厚恩にも預かるべきであるのに、理由もない遺恨のせいでこのような闘諍におよぶとは嘆かわしいことよ。」
と涙ぐんだところに大津留常陸介鑑康が二百五十騎を連れて到着し
「そこもとからの伝令が遅れてしまい、やっと到着した。首尾やいかん」と問うてきた。
橋爪が合戦の経過を語ると、大津留は肝をつぶし「比類なき大手柄かな」と讃嘆した。
とはいえ大友義鑑公のお怒りは大きく、大津留、橋爪とも勘気をこうむった。
ただ大津留は一戦もしていないということでほどなく帰参を許された。
この府内の騒動は国内に伝わり、ここかしこから府内にそれぞれの一族が集まってきた。
しかし古老たちが「君の御安全が一番の大事である。また国中が騒動するだけでなく、他国の嘲笑の的となろう。
姓氏について取り沙汰するのはやめよ」と申したため、
双方共にしばらく出仕を止められただけで騒動はおさまった。
0536人間七七四年
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2022/07/01(金) 18:57:25.14ID:ZLDkYfIn
大阪籠城(大坂の陣)の砌、豊臣秀頼公は篠原又左衛門という者を召し、

「汝が生国は淡路であるから、能く案内を知っているだろう。また親類、好の者も有るだろうから、
それらとも語らい、同心の者があれば、由良城を攻め、かの島を固め、由良、岩屋表に番船を置き、
四国九州の往来を差し防ぐべし。」

と命ぜられた故に、篠原は内々これを謀ったが、大野修理亮(治長)がこれを聞いて

「海を隔てての働き心得ず、始めの手段を仕損じては如何なり。」

と制し、支度の船共を焼き捨てたため、篠原の謀略も徒になったという。

(新東鑑)

篠原というと、阿波三好家重臣の篠原氏の縁者なのかな?
0538人間七七四年
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2022/07/09(土) 21:34:26.58ID:2gq925Tz
「朝野雑載」から奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

太閤は薨ずる時に「喪を秘すように」と御遺言されたにもかかわらず、石田三成は家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が「太閤口切の茶壺です」といつものように家康公に持ってきたが
家康公は顔色を変えて「茶壺は庭に捨てよ」とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると
家康公「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、我が取り直したというのに忘れられたのか」
すると浅野長政が「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
そののち、家康公は西の丸に移られるということで増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。
0539人間七七四年
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2022/07/12(火) 19:22:02.94ID:q/RBtAIe
「朝野雑載」から福島正則改易

秀忠公が御家中の老中におっしゃることには
「福島正則の身上を取り潰せという家康公の上意であるが、当家に対して不忠もないのに身上を潰せとはどういうことであろう」
すると本多佐渡守(福島正則の改易自体は家康と本多正信の死後のはず)が進み出て言うことには
「仰せの通り、三成への七将攻めの折には家康公の裁定に従い、関ヶ原の折には黒田長政の勧め通りに居城を家康公に明け渡して御本陣にいたしました。
また秀頼公の二条城会見の折には、秀頼公が一番に頼りにした将でありながら仮病で罷り出でませんでした。
これらは徳川家に対して二心がないゆえであります。
しかし仁心がなく、武勇一辺倒であり、悪逆無道の挙動のみ多い方です。
とくに嫡子八助(福島正之)を殺したのは不仁の至りです。八助に罪があったとはいえ骨肉分身の儀を少しは思うべきです。
また入国の時に水主に「今日の風はなんという風だ?」と尋ねたところ
水主が「地あらし、という風でございます」と答えたため
「入国の際に地が荒れるとは何事だ!」とたちまち水主を誅戮したことがありました。
また、備後名物の畳を上様に進上したところ、他の大名たちより畳表が悪かったため、畳問屋を畳の上にうつ伏せにして、大槍で諸人の前で突き殺したことがありました。
このようなことは数えきれず、家中の士も大小に関わらず、心に叶わなければたちまち殺害、あるいは自身で打擲されました。
このゆえに福島正則の領地では歴々の士や人民を問わず、みな八大地獄の苦しみを味わっているということです。
かくなるうえは正則を滅ぼして人民を救うことこそ、天命に叶っていると言えるでしょう。
徳川家に忠であるからと言って天命に背くわけにはいきません」
と申したところ、秀忠公も納得し福島正則滅亡と決まった。
しかしながら世の人はこの趣きを知らないため、「福島正則が武勇に優れたのを忌みなさって無理やり滅ぼしたのだ」と言っている。
0540人間七七四年
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2022/07/12(火) 23:28:11.92ID:QkyA8lng
戸川家の濫觴は、その祖を塀右衛門秀安と云う(幼名平助)。備後国門田という所の産まれであり、
父は門田某(姓氏不肖)、天文七年に誕生し、五歳の時父が死に、母の介抱によって備前に漂白した。

二歳の妹があり、母はこれを懐にて養育していたが、母が熟考するに、「今、乱世に男子たるものは
運を天に任せていかなる立身をもすることができる。あわれ平助を世に在らせたい。」と念願し、
先ず、この女児を携えていては足手まといになり平助の妨げと成ると、とある池に女児を沈め殺した。

それより平助は独り息子となり、作州に富川某という入道があって、彼は母の姉婿であり名の有る者で
あったので、彼を頼もうと思い作州へ頼り行き、入道に事情を話すと、入道は平助を見て、
「未だ嬰児ながらただならぬ所がある、後に家を起こさないような者では無いだろう。」と思い、
甲斐甲斐しく請け合い、養子として富川を名乗らせた。
母は悦んで平助をそこに残し、自分は再び備前へと帰った。

その頃、宇喜多興家は備前の守護(原文ママ)・浦上備前守宗景に仕え、邑久郡音湖の内に於いて、僅かに
三百貫を領し小身であったが、次男忠家が産まれその乳母を求めており、かの平助の母を召し抱えた。
この女は生来才発にて主人の心にかなったため、興家は家事を尽く彼女に任せるほど甚だ寵愛した。

そのような中、作州では干戈が起こって富川入道も死に、その妻であった母の姉も死に臨んで、姉が
帰依している僧に平助を託した。この僧も了解し、平助を連れて備前に出て実母へと渡した。
主人である宇喜多興家はこれを憐れみ、母とともに召し使う事にした。幸い嫡子直家も未だ幼かったため、
平助は直家の伽として扶助した。(平助は直家の五歳下である)

忠家が成長すると、乳母であった母は宇喜多家来の岡惣兵衛方へ、主人より嫁ぐよう命ぜられた。
ここにて彼女は男子三人、女子三人を産んだが、その後は子供のことは大抵にして、母は秀安を
取り立てる心からか、彼女は女ながら軍陣にも慣れており、子供に具足を着せ、駆け引き進退の事なども
教えたという。

ある時、夫子供が留守しているのを知って、強盗が大勢来る音がしたが、そのまま絹張の箙を取り出し
矢束ねを解く音をさせ、その後静まり返って人を呼び集める体を成した。
強盗たちはこれを外で聞いて、恐怖して逃げ失せたという。

このようなけなげなる女ゆえに、秀安を思いのままに産み立て、後年宇喜多家の長臣となり、飽きるほどの
武功を立てたのは、偏に母の功であるという。

(中略)

秀安は後年受領して肥後守と云った。また富川を戸川と改めた。
そしてこの母は長寿にて、孫の肥後守達安が備中国庭瀬城に在った頃まで存命し、諸人に尊崇され、
慶長八年、九十三歳にて死去。法名妙珠と云う。

(戸川記)

戸川秀安とその母について。全体的にはいい話なのだけど、この母エグい
0541人間七七四年
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2022/07/16(土) 10:09:10.24ID:/LXbNVQQ
宇喜多忠家(直家弟・入道後、号安心)は、小野田四郎右衛門(直家家老分の者也)を討った。
これに直家は大いに怒り、忠家はそれを恐れて富山城へ引き籠もり、直家が呼び出しても
出てこなかった。その様子はもはや謀反であると見え、これについて重臣である
岡豊前(家利)、長船越中(貞親)などは、日頃忠家との関係が悪かった事もあり、これを幸いと
直家に「御果たすべきです。」との旨を讒言した。

しかし戸川秀安は、忠家の乳母の子であった故にこれを嘆き、
「この事、それがしにお任せ下さるように。」
との旨を直家に願い、富山城へ向かった。しかし彼は忠家に対して一言の教訓にも及ばず、
偏に城攻めの用意をして、富山城の周囲に仕寄を付け井楼を用意し、夥しい攻戦の勢いを
奮い見せた。

この勢いに忠家は辟易したのか、起請文を出して降参した。
秀安はこれを取り繕って和睦を整えた。

これは秀安が、忠家が日頃から物に驚くという気質を能く知っていたためこのようにしたのだという。

(戸川記)

直家の前に出る時鎖帷子を付けていたという忠家ですが、ガッツリ後ろ暗いことやってたんですね。
0542人間七七四年
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2022/07/16(土) 13:58:17.49ID:V+56qfjT
宇喜多は上から下まで悪い話ばっかりだな
0543人間七七四年
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2022/07/16(土) 16:16:43.39ID:wL7omZe+
そりゃあ防御を万全にしないと兄貴に会えんわな
0544人間七七四年
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2022/07/16(土) 19:12:18.40ID:KA9Iku8U
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね
0545人間七七四年
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2022/07/17(日) 13:02:25.89ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守忠政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

(新東鑑)
0546人間七七四年
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2022/07/19(火) 19:34:12.24ID:RWsIYOYi
「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。

秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。
0547人間七七四年
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2022/07/25(月) 17:21:07.54ID:Z+mqbH+B
「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。
0548人間七七四年
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2022/07/25(月) 17:23:12.83ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
「大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。
0549人間七七四年
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2022/07/26(火) 18:06:33.78ID:4M3K0vhM
「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。
0551人間七七四年
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2022/07/31(日) 10:27:01.49ID:VOy0t9jY
加藤清正の重臣であった飯田覚兵衛(直景)は、肥後加藤家改易の後、京に引き込んで、再び奉公を
する事もなく居た。この頃の覚兵衛が物語った事によると

「我が一生は清正に騙されたり。
最初、私が武辺を仕った時、その場を立ち去ってから確認してみると、私と同じ傍輩の者達は、
皆々鉄砲に当たり、或いは矢に当たって死んでいた。
「さてさて危うき事かな、最早これ限りにして、武士の奉公を止むべし」
と思い陣へ戻ると、帰ってくるやいなや

「さても今日の働きは神妙、言葉にも出来ないほどだ」

と、清正から腰の物を給わった。
私は戦場に出る度、毎回のように武士を止めようと思ったのだが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられた、故に諸傍輩も私を羨み、賛嘆したために、
それに引かれて引き込むことも出来ず、侍大将と言われるほどになってしまった。

一生清正に騙されて、我が本意を失いたり。」

と申したという。

(新東鑑)
0553人間七七四年
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2022/07/31(日) 11:28:36.20ID:VOy0t9jY
投稿者です。新東鑑ソースのものもあったのですね。確認不足でした、申し訳ありません
0554人間七七四年
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2022/08/01(月) 18:21:41.22ID:8IK/SbBS
「大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」

とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。
0555人間七七四年
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2022/08/01(月) 18:36:38.46ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘

義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。

宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助
0556人間七七四年
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2022/08/02(火) 17:28:40.91ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。
0557人間七七四年
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2022/08/02(火) 17:33:37.41ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。
0558sage
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2022/08/03(水) 16:02:14.92ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

(新東鑑)
0561人間七七四年
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2022/08/06(土) 18:39:09.97ID:ZiJm9/Jl
「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期

天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8059.html
柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。
0562人間七七四年
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2022/08/08(月) 21:56:34.05ID:+MRcn6H0
伊達政宗がある年、将軍家光公に供奉して上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院があった、
政宗はかの寺の檀那であったため、この儀式のために辻固めを出したのだが、これを
建仁寺の雄長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて、

 今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん

と戯れ歌を詠まれた。これは政宗が片目であることに依ったのである。政宗はこの歌を聞き伝えられたが

 ともすれば 吾名におひの固めをも 光らす身のかかる迷惑

と詠まれた。

(新東鑑)

なお、建仁寺の雄長老こと英甫永雄は狂歌で非常に有名な人物ですが、1602年に亡くなっているので
この話自体は後世に作られたものか、あったとしても家光ではなく秀吉の時代のものでしょうね。
0564人間七七四年
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2022/08/18(木) 21:22:34.43ID:VIhSpD76
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

(寒川入道筆記)
0565人間七七四年
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2022/08/19(金) 22:16:51.61ID:5B9ZDfFj
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

(寒川入道筆記)



悪逆をなした明智日向守(光秀)が召し使った、鑓かたげ(鑓持ち)の中間があった。
六尺ゆたか(約180センチ超)なる男で、あまりにも大きいと、人はみな「おふほとけ」(大仏という意味か)

と名をつけた。

この者、日向殿へ何やら不足があって、頭を剃って引き籠もった。日州これを聞いて、久しきもので
あるからと、不足を叶えて呼び返され、又鑓をかたげた。人々はこれを見て一首連ねた

「おふほとけ あたまをみれば また佛 これぞ二佛の中間といふ』

(寒川入道筆記)
0566人間七七四年
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2022/08/19(金) 22:17:36.32ID:5B9ZDfFj
>>565
すいません前半コピペミスです。失礼しました
0567人間七七四年
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2022/08/20(土) 11:53:16.25ID:09wOHaV6
にぶつ【二仏】 の 中間(ちゅうげん)
釈迦が入滅したのち、五六億七千万年を経て、彌勒菩薩が仏となって出現するまでの中間の時期。
この期間は、無仏の世であるから、地蔵菩薩が仏にかわって衆生を救うという。

検索してきた
0568人間七七四年
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2022/08/20(土) 21:02:08.00ID:bRKyMkPb
玄旨(細川幽斎)と里村紹巴が同道して鞍馬寺に花見へ御出の時に、岸より下人が飛び降りようとしていたが、
老足で心のままにならない様子を見られて

とぼうとぼうとするぞあぶなき 玄旨

人玉は やまひの床の休らひに 紹巴

(寒川入道筆記)
0569人間七七四年
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2022/08/21(日) 09:02:58.98ID:iOUIyI9Q
大(おお)は古語で「おほ」だったね。
0571人間七七四年
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2022/08/21(日) 21:39:56.39ID:2Xr6PBKW
かくれなき藤戸石(現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石)を、上京細川殿の御屋敷より、
室町畠山殿御屋敷へと、織田信長公が引かれたのだが(永禄12年の義昭二条城建設の時の輸送)、
これを引くのに数日間の御手間がかかった事について、京の徒者たちはこのように詠んだ

『花よりも 団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし』
                    ※いしいしは女房詞で団子の意味

この年の御普請には、江州衆が別して精を入れられたため、その事についても又徒者たちが

『なまなりの すしとぞ見ゆる あふみ衆 おもさの石をもたぬるはなし』

(寒川入道筆記)
0572人間七七四年
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2022/08/22(月) 20:02:50.47ID:2PWGfWst
藤堂高虎、連続婦女暴行殺人事件
0573人間七七四年
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2022/08/25(木) 17:45:17.86ID:Yw+Dje9+
天文九年(1540)、この春、世上では大飢饉があり、数千万もの難民が出た。
餓死者はその数を知れず、上京下京の間には、毎日六十人ばかりの死人が捨てられていたという。
誓願寺では非人施行(難民への支援)が春の間中行われた。

また、天下には大疫病が流行り。都鄙において死亡した者は幾千万とも知れなかった。ここ七百余年以来の
比類なき事態であった。春夏秋の間、諸人はこの疫病に患い、高野山や比叡山の輩も発病したもの
数多であったという。

(寺院関係者では)上醍醐に於いては二、三人が発病したとか。淡路は五ケ庄で、疫病で山上において死去、
角坊も疫病で散々となり、東寺観智院、同正覚院も発病し死去した。大変な事である。

二上大炊介もこれにて病死し、天徳西堂も同じく病死、四辻大納言も病死した。

『嚴助往年記』

天文の飢饉とそれに伴う疫病の流行について
0574人間七七四年
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2022/08/29(月) 21:54:28.55ID:OWgfTKX5
江戸幕府が出来た頃で人口が一千万ちょっとなのに、数千万の難民っていくらなんでも盛り過ぎ
0575人間七七四年
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2022/08/29(月) 23:36:30.94ID:oYsYmb4W
マジレスしますと幾千・(幾)万っすよ
0576人間七七四年
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2022/09/04(日) 14:37:58.97ID:sI3KCCJ6
天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。

但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。

(宇野主水記)
0577人間七七四年
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2022/09/05(月) 18:57:07.57ID:ufOQ8BTK
「小河内蔵之丞噺覚書写全」から

ある時、城内で栗山大膳と小河内蔵丞(小河之直)が出くわした。
二人とも乗物であったため、内蔵丞は乗物から降りて相応の会釈をしたが、
栗山大膳は乗物に乗ったまま「御免なされそうらえ」と言ったまま通りすぎた。
これを見た野村隼人(野村祐直。母里友信の甥)は、内蔵丞と対面した時に
「身代の差はあれど、小河様も栗山様も同じ家老であるのにあの態度とは、侮っているように見えます。
今後は小河様も乗物から降りて挨拶されるべきでしょう」と言った。
しかし内蔵丞は「あちらが無礼な振る舞いをしたのはあちらの過失であり、こちらは相応の礼をしたなら、こちらの一分は立ったと言えます。
相手方の無礼などどうでもいいことです」と言ったという。
0578人間七七四年
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2022/09/05(月) 20:16:33.08ID:qLR2uyJL
小河と栗山ごっちゃになってる?
0579人間七七四年
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2022/09/05(月) 20:28:19.88ID:ufOQ8BTK
訂正
×今後は小河様も乗物から降りて
◯今後は小河様も乗物に乗ったまま
すいません
0580人間七七四年
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2022/09/08(木) 17:56:38.17ID:9uwm008Y
豊後佐伯氏について書かれた「栂牟礼実録」「剣の巻」から「静御前の薙刀」についての話

源義経は京都堀川から緒方惟栄とともに鎮西に下った時に緒方惟栄に長刀(薙刀)を下賜した。
文治元年(1185年)に土佐坊昌俊が源義経を堀川の御所で夜討ちした時、静御前がこの薙刀をふるい敵を退けたといわれるもので、小屏風と名付けられていた。
穢れのある者がこれに触れると、身がすくむことがたびたびあった。
佐伯惟定の息子、佐伯惟重の時、元和八年(1622年)夏、少し錆び付いてきたため甚三郎という者が三日の精進の後に錆を落とした。
甚三郎は三日目に死んでしまった。
人々は薙刀のためだと言い合ったという。

なぜ弁慶ではなく静御前なのだろう
0581人間七七四年
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2022/09/15(木) 17:57:23.65ID:zmxQhNy+
貝原益軒「朝野雑載」から小野木縫殿介(小野木重勝)の妻

小野木縫殿介の妻は島左近の娘であった。
関ヶ原ののち縫殿介が切腹した知らせが届いたため、自害する気配であった。
(縫殿介は居城である福知山城を細川忠興らに対して開城したが、助命嘆願もむなしく細川忠興により切腹させられた)
縫殿介の妻は北政所に仕えていたため、宮仕えする女房たちは自殺をおしとどめ、そのそばを去らずにいた。
夜が更け、鶏が鳴く頃ひそかに守刀で自らののどを突き刺し失せた。
その際に書き置いていた辞世の句
「とりなきて いまにこえ行く 死手の山 関ありとても 我なとどめそ」

※キリシタンであったらしい
0582人間七七四年
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2022/09/17(土) 20:37:18.49ID:h8b46QYO
永禄十二年の年から、翌年七月ころまで、天に煙の出る星が出た。

武田信玄公が三十一歳の御時より召し置かれていた、江州石寺の博士があった。
彼は昔の安倍晴明の流れにある易者であった。中でも判を能く占うことで、「判の兵庫」と号した。
占いも正法に仕り、内典、外典、共に携わり。その上邪気些かもない人物であったので、
信州水内郡において、百貫の知行を代々宛てがわれる朱印が、この兵庫に下されていた。

信玄公はこの兵庫を毘沙門堂のくりまで召し寄せられ、武藤三河守、下曽根の両人を問者として、
この客星の吉凶を兵庫に占わせてみせた。彼は謹んで占い、書を以てこのように言上した。

『この星は天下怪異の客星ですが、しかしながら現在に当たって何れかの大名に悪しき事がある、
というような物ではありません。

これは末代に於いて、我が朝の古き高家が次第に滅して、遂に悉く無くなってしまい、武道においても
国中の武家が作法を取り失い、昨日の下人が今日の主人となり、女が男の出立を仕り、新家が立って、
例えば舞楽に至る迄、真なる事を見知らずして、嘲られるような事を用いる故に、本侍まで一世の間に
二度三度づつ作り名字をするような世になってしまうでしょう。

侍に限らず、仏法世法とこれ有る時は、寺方も久しき正法の宗旨は次第に衰微して、新しき宗旨などと
言って繁盛するでしょう。
百姓、商人、貧民までもこの如くなるでしょう。』

と書いて、先の武藤殿、下曽根殿に渡した。そして

「然らば、数にも入らないような私も、代々判を占っておりますが、この星の上は判占いも
私までのものとし、子孫は素人にしようと思っています。ですが、嫡子は現在二十あまりですので、
これは時々占いを致します。ですが孫については全く占いを止めさせます。
幸い私は、大僧正信玄公の大慈大悲の御恵を以て、信濃国にて所領を下され、年来蓄えた物を
譲り、孫を素人に仕立て、甲府に在住するように申し付けましょう。」

そして嫡子も孫とともに甲府に在るようにと言って、柳小路に屋敷を申し請け、子と孫は商人にさせ、
自分自身は知行を返却し、近江の国にまかり帰り、五年目に死去したという。


『甲陽軍鑑』

彗星(?)と武田信玄に仕えた占い師について。
0583人間七七四年
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2022/09/20(火) 22:39:06.11ID:urt3gmbm
北条家は早雲(宗瑞)公、氏綱公の二代にて伊豆、相模の領国を治め、しかもその年、享禄三年には
氏綱公子息・氏康公が十六歳にて初陣として、武蔵府中に出られた。敵は両上杉(山内・扇谷)であった。

北条家の果報いみじき故か、上杉家滅却の瑞相か、その頃両上杉は再び仲が悪くなり、
北条家との取り合いの事も、例えば三方論議(三人の者が互いに譲らないで論争すること)の如くであった。

されども上杉は、北条家を小身として卑しみ、氏康公は自ら出陣し、上杉家の人数二、三万に立ち向かい、
神奈川、品川、武蔵府中で戦い、また所沢、世田谷という所でも、氏康と両上杉は都合八年の間
取り合いをしたが、この間上杉憲政公は一度も自身で出てこなかった。

上杉は北条を小敵と卑しんだが、その上杉家は大将が出てこなかったために、大合戦にも小競り合いにも、
上杉衆はみな負けて、氏康は一度も勝たないという事は無かった。
誠に北条家は弓矢の時と輝き、万事政も宜しければ、上杉家の巧者達は「さてあぶなし」と囁いた。

されども管領憲政公家臣の両出頭である菅野大膳、上原兵庫は、そのような意見に対してこう申した。

「北条早雲は元来伊豆の、いかにも小さき所より出た者であり、その族である氏康にどれほど深い
事があるだろうか。彼が伊豆、相模両国を持っても、その北条を二、三人合わせたほどの大身衆は、
越後、関東、奥羽にかけては、憲政公旗下に五、六人も在る。

上杉家に伝わる衆にも北条ほどの者は無いが、彼らがはびこるようなら、憲政公が旗を出され、
ただ一合戦で北条家を誅罰するだろう。」

菅野、上原両人の発言に、若侍共は、憲政公が出馬され北条家を誅罰するのは今日明日のように
各々沙汰したが、憲政公は未練げであり、ちと臆病であられたのか、今年来年と申しても
結局山内殿が出馬することはなかった。

「管領の御馬にて出かねる。」という言葉は、この時代より始まったのである。

『甲陽軍鑑』
0584人間七七四年
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2022/09/22(木) 00:11:38.00ID:lW/Xp3Cx
「薩藩旧伝集」から大山三次の切腹
(彼を主人公とした海音寺潮五郎の短編小説「かたみの月」では大山巌の先祖・大山稲次の弟としている)

大山三次殿が江戸で何人も斬り殺したそうだ。
白昼の出来事であったため、ある御大名の長屋から「どこの者であろうか?」と見ていたところ、下手人が薩摩屋敷に入って行ったという。
薩摩の大山三次であると取り沙汰されたため、中納言様(島津忠恒)に対してある大名が
「貴殿のところに大山三次と申すものはいないだろうか?」と尋ねた。
中納言様が「どういうわけで尋ねられるのか?」とおっしゃると
大名は「その者が何人も斬り殺したそうである」と答えた。
中納言様は「そのような者はおりません」とお返事なさった。
そこでいそいで大山三次を大廻り船(貨物船)で薩摩に下そうということになった。
しかし命じられた大山三次は「理由もないのに武士たる者が大廻り船で下れましょうか。一分が立ちません」と申して切腹してしまった。
これを聞こしめした中納言様は「さても惜しいことだ。理由をきちんと申し聞かせたならば、切腹しなかったであろうに。
あたらよい武士を失ったものだ。」と御悔やみなさったそうだ。
0587人間七七四年
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2022/09/23(金) 20:51:57.40ID:ReeIpMuj
永禄七年七月十四日の夜、武田太郎義信公が長坂源五郎を御供にて、燈籠見物にことよせて
御城を御出になり、忍んで飯富兵部(虎昌)の所に御座なされた。そして乱鳥(一番鶏、二番鶏が
過ぎた後に、鶏たちが一斉に鳴き出すこと)まで談合なされた。

この様子を不審に存じ、御中間頭(横目衆)の荻原豊前が信玄公へ報告した。それより信玄公は不審に思われ、
義信公逆心の事顕れ、翌年、飯富兵部、長坂源五郎の両人が御成敗となり、太郎義信公は牢に
入れ参らされ、その上義信衆は御成敗、或いは御改易となった。そして義信公御守りの曽根周防は
荻原豊前に仰せ付けられ、放し討ちに討たれた。

このように、御父子の間に不審の立つことであっても少しも隠すこと無く、目付、横目が言上致すのは、
甲斐の他は何れの国であっても有るまじき事である。これはただ偏に、信玄公が人を能く召し使い給い、
能く人物を目利きなされて、能く采配を取り、能く仕置の法度、無類なる故であろう。

『甲陽軍鑑』
0588人間七七四年
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2022/09/24(土) 22:17:53.95ID:EyRy4RWD
また信長が南蛮胴着用してる・・・史実をこれでもかというぐらい盛り込んだマニアックな本は誰か書けないのか

https://twitter.com/CMeikan/status/1573603555180617733
信長名鑑_信長創作物研究@CMeikan
https://pbs.twimg.com/media/FdaPTQ0VsAAyHFf?format=jpg
「新・歴史人物伝 織田信長」読了。児童向けの伝記なのだけど、織田軍の動向、逸話、史実を
これでもかというぐらい盛り込んだマニアックな内容。歴史入門書というより、一連の流れを
把握している歴史好きな子が読んでニヨニヨするような印象でした。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0589人間七七四年
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2022/09/24(土) 23:02:24.31ID:4sFhVE5B
刀剣の展覧会のスレチとか貼り付けてるやつだろ
雑誌コーナーに並んでいるムックがお似合いだよ
0590人間七七四年
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2022/09/24(土) 23:09:27.51ID:EyRy4RWD
平山優に金陀美具足サイコーって大河ムック書いてもらえばいいんじゃね?
0593人間七七四年
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2022/09/25(日) 09:34:51.20ID:bQiBHZfx
信長の「南蛮甲冑」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

南蛮胴(西洋式鎧)は過去ログのこれのように、織田信長所用と伝わるものが現存するものの、後世に伝来が
作り上げられたものと考えられています。

史料上はあくまでも、1590年に帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰り、翌年秀吉に献上された目録上のものが
最古となりますので、信長は持ってなかっただろうというのが正直なところですね。

信長が上杉謙信に洛中洛外図屏風などと贈った西洋マントが上杉神社に現存しますが、同時に贈られた甲冑が
金小札色々威胴丸という華美だが若干古風で品の良いデザインのものです。
また最上義光には筋兜と実戦的な桶側胴を贈ったとされます。兜は最上義光歴史館に現存し有名ですけれども
この兜も古風な体裁だったものを実戦用に改造したのではないかという考察があります。

贈答品には相手があることですから、自分の趣味全開で贈ったりはしないでしょうけれども、珍奇なマントと一緒に
贈った甲冑が当時でも趣味の良いものだったというのは、信長の好みの一端が見えてこないでしょうか。

1570年代には存在したといわれている、九州中心に使用された桃型兜は、西洋のモリオン兜に似ているので
それまでに渡来したものがデザインの元となった説が有力ですが、これも確証はありません。

信長の時代までに西洋鎧が到着してそれを入手した可能性はありえますが、証拠は全くないというのが正しいようです。

実際に舶来品を愛用した証拠も遺品も豊富な徳川家康が、その点を来年大河でクローズアップされたりはするのでしょうか?



信長のビジュアルイメージに関しては、大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)の信長は月代頭に日本甲冑、
黒澤明の「影武者」(1980年)での信長が総髪髷に南蛮胴、大河ドラマ「徳川家康」(1983年)の信長は総髪髷に
(西洋鎧に影響受けたデザイン説がある)仏胴。
影武者がネタ元と思われますが、どの段階から広まったものか。
0594人間七七四年
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2022/09/25(日) 09:37:13.66ID:bQiBHZfx
なお東京国立博物館所蔵の伝明智光春所用の和製南蛮胴は実際には17世紀のもの、榊原康政所用の南蛮胴は舶来品改造のものと
長らく言われてきましたが、榊原のものの胴が和製と判明したために、その影響なのか明智の和製胴も館公式では安土桃山時代となってしまいました。

面倒ですよね、あったという証拠は全くないが、なかった証拠だってないでしょと言われたり。
0595人間七七四年
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2022/09/25(日) 10:44:57.96ID:Zo+L+aNk
その時歴史が動いた、で
家康はリーフデ号に積んでいた南蛮胴を持っていた
→家康は関ヶ原に南蛮胴を持ってきていた?
→家康はその南蛮胴を関ヶ原で着ていた?
→家康は南蛮胴を着たまま銃弾飛び交う戦場にいた?
(南蛮胴は銃弾に強いため)
→小早川秀秋は松尾山からこれを見て家康の勇姿に感動した?
→小早川秀秋が西軍を裏切ったのは南蛮胴のため?
→関ヶ原の戦いの帰趨を決めたのは南蛮胴?
とかやってたから家康の大河でもやりかねない
0596人間七七四年
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2022/09/25(日) 12:23:09.51ID:ZWe67ssy
大砲撃たれて爆風で飛ぶまでかワンセットにさらにプラスがあるのか
0597人間七七四年
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2022/09/25(日) 20:24:41.44ID:lGuhc/xt
そんな番組本当にあったのかよと思ったら本当だった

2000年10月4日放送 関ヶ原合戦 家康 なぞの大突撃 ~ヨーロッパ製甲冑の威力~
0598人間七七四年
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2022/09/25(日) 21:47:46.27ID:2kIRZglE
『渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将

・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった

・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある

・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた
0599人間七七四年
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2022/09/25(日) 23:28:07.87ID:2kIRZglE
『渡辺幸庵対話』より
怪翁が打ち明ける驚きの宇治茶由来

宇治の茶はもともと栂尾のものであった
丹波に上林峰養という者がおり、宇治の地面を見て赤土に砂が混じって茶の木に適した土地と気づいた
都にも近く販路にも適していると考え、峰養は栂尾の上林家に婿入りし、「茶を時々盗取」り宇治に植えていた
さて、育った茶を味の分かる者に試飲させてみると、味は一段といいという
ただ、苦味が少しあって「園香」は少ないという評価だった
初めてつくった茶に初と銘をつけた
この茶の種は栂尾のもので、榊という銘だった
葉の形が榊に似ていたからだ
峰養は常々「薗」(ガーデニング)を好んでつくらせていたところ、春雨が降ったので「(薗の草花に肥料として?)小便をかけなさい」と命じたが、家来は思い違いをして小便をすべての茶株に引っ掛けた
峰養は驚いたがどうしようもできず、その年の茶を試飲してみると、苦味は消えて園香はよかった
「不浄」を養分にして育てると味がよいことが分かり、すればするほどに茶の誉れが世間に広まった
0602人間七七四年
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2022/09/26(月) 23:23:57.94ID:ESVq42kt
『利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話

越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた

古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話
0603人間七七四年
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2022/09/27(火) 01:43:25.44ID:ulOgv5iB
勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか?
0604人間七七四年
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2022/09/27(火) 10:37:42.00ID:thuJaFyX
ならなんで遊びに行ったんだろう
0605人間七七四年
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2022/09/27(火) 19:51:33.44ID:X6fAHDOq
成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような
0606人間七七四年
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2022/09/27(火) 20:45:31.56ID:ExuB64pl
山県三郎兵衛(昌景)の同心に、北地と申す伊勢牢人が在り、身上は十六貫を取っていた。
しかし彼は「知行悪しき所なり」と山県三郎兵衛に種々訴訟をしたのだが、大場民部左衛門という
山県の取次が、「北地は他国者である。」と侮り、山県へ取り次がなかった。

そのような中、北地は仲の良い傍輩たちに申し聞かせ、置文をして腹を切ろうとした。
何故かと言えば、「他国より武田信玄公の御家を望んで来る者はあっても、出る者は一人も無し。
この御家を出るほどならば、何ぞ武道に悪しき事があるかと、余所の不審を受けるのも口惜しい。」
と考えての自害であった。

しかしこの事を知った傍輩たちは自害の直前で彼を取り押さえた。
これに北地は「腹を切るなどと言う事を侍が申出して、二度止まる事無し!」と言って
更に自害を試みたが、人々が彼に取りすがって腹を切ることが出来なかった。
そこで北地は膝の上の、『犬ほへず』という所を散々に十二、三度も切りつけ、それから三日目に死んだ。

北地の死に山県は大いに驚き、目付横目から信玄公に報告が上る前に、早々にこの事を言上した。
信玄公は殊の他に御立腹され是非に及ばず、山県三郎兵衛は困惑し、もはや改易されるかという
事態になったが、山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助に宛てて、熊野の牛王の裏に
誓紙を仕り、「北地五郎左衛門訴訟の旨を存じない。」という内容を申し上げた。
その後、信玄公が彼らを召して話を聞き、

「ならば、その頼まれた山県の内の者、大場民部左衛門を呼べ」

と有り、先の三人、原、曽根、三枝を以て尋問させたが、さらに長坂長閑、跡部大炊に
目付衆二人、横目衆二人まで添えられて詳しく尋ねられ、その上にてもうろんに思われ、
岩間大蔵左衛門を召して「物陰でこれを聞け」と仰せ付けられ、この件を詮索された。

すると山県が申し上げた如く、何れの者からも大場が取次を成さなかったため山県へ
北地の訴訟のことが伝わらなかったとの報告を受け、これによって大場は一類尽く
御成敗された。

山県三郎兵衛が御奉公申し上げた内で、これほど迷惑なる事は終に無かったという。

『甲陽軍鑑』
0608人間七七四年
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2022/09/28(水) 19:20:21.19ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
『利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに
0609人間七七四年
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2022/09/28(水) 22:19:39.72ID:TRfck96B
>>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね

一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです
0610人間七七四年
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2022/09/29(木) 16:32:47.56ID:iX+uE6Pw
この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば

これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫は武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。

歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。
0611人間七七四年
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2022/10/01(土) 21:26:17.40ID:3FqdchRh
「笹子落草紙」から武田信茂の最期

武田信長の嫡流である真里谷の武田氏は、武田信隆の代になると上総国中が乱れた。
ある日、堀内・国吉と申す新参の近臣たちが信隆に
「笹子城主で御一族の信茂殿が、君の伯叔である信秋・義信親子と謀って謀反を起こそうとしております」と告げた。
その讒言を信じた信隆は、信茂配下の後藤・鶴見に信茂を討つように命じた。
鶴見は城の自邸に兵を隠し置き、夜半になるのを待った。
何も知らない信茂は酒宴を催していたが、夜中に少しまどろんだところ悪夢を見た。
かっぱと起きた信茂が御台所に
「おかしな夢を見た。腰の刀が二つに折れ、白い鳩が一つがい枕の上に飛び乗って、髻の髪を抜いて西東に去っていったのだ。」
と夢の内容を言うと御台所は
「刀が二つになるのは干将・莫耶という雌雄剣もあることですし瑞相でしょう。
白い鳩は弓矢の守護神である石清水の化身で、あなた様を西や東の大将にするというこれまた瑞相でしょう。安心なされませ」と言った。
思えばこれが最後の言の葉のやりとりであった。
信茂が寝所に戻り、またまどろむと三十余の兵が鬨の声を上げて取り囲んだ。
信茂が「どうしたことだ?」というと
兵たちは「後藤・鶴見の兵でござる。謀叛のことは聞いております。介錯いたすから切腹なされよ」と口々にいった。
信茂は「前後不覚の者どもに釈明したところで無意味である」
と九尺五寸の刀をするりと抜き、腹を十文字に掻き切り、五臓をつかみ出して周囲の壁へ投げつけ
「当国の滅亡」と最後の言葉を発し、俯き伏した。
兵どもは謀反人といえど主君の一族ということでみな涙を流した。
さて「逆心なき人を害すれば怨敵となって害を加える」と仏の言葉にもあるように、それからまもなく信隆は死んだ。
0612人間七七四年
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2022/10/02(日) 00:41:09.77ID:BWfrvsk8
>>611
>九尺五寸の刀をするりと抜き
するりと抜けるもんなのか?
0613人間七七四年
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2022/10/02(日) 12:55:23.87ID:FY5nD3sY
おかしいと思ったら「九寸五分をするりと抜き」だった
0615人間七七四年
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2022/10/02(日) 19:18:16.99ID:j4G0KnUe
『清正記』より
「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

清正は侍従に任じられ肥後守になると、その後は方々への書状などには肥後守と認めた
ただ、何か後代まで残るものには主計頭と記した
ましてや遺言には好んで主計頭と署名した
清正が家中に申し渡した七ヶ条
大身小身によらず侍どもが覚悟すべき条々
一 奉公の道は油断してはならない。朝は辰の刻(午前八時前後)に起き、兵法を学び食事をし、弓鉄砲を射って馬に乗りなさい。武士の嗜みよき者には別に加増する
一 気晴らしに出るなら鷹狩り鹿狩り相撲など、このようなもので遊山しなさい
一 衣類は木綿紬にしなさい。衣類に金銀を費やし生計が成り立たぬ者は曲事である。身分相応に武具を揃える者に助成すべきで、軍用なら金銀を与えよ
一 普段、同僚と付き合うときは客一人、亭主一人以外では話をしてはいけない。(振る舞う)食事は黒飯にしなさい。ただし武芸を行うときは大人数でやりなさい
一 軍、礼、法が侍が知っておくべきことだ。いらざることに美麗を好む者は曲事である
一 乱舞は全面的に禁止すること。大小の刀を手に取れば人を斬ろうと思うものだ。しかる上は万事は心の置き所で決まるのだから、武芸のほかの乱舞稽古を行う者は切腹に処せよ
一 学問は情を入れて兵書を読み、(また)忠孝の心がけをもっぱらにすること。詩歌句歌を詠むことは禁止である。心の賑やかしだの風流だの弱きことを言う者はいかにも女のようになるものだ。武士の家に生まれた以上、大小の刀を手にとって死ぬる道こそ本意である。常々武道を吟味していないと潔い死に方はしにくいものなのだから、よくよく心に(自分は)武士だと刻むことが肝要である
右の条々、昼夜あい守り、もし右の条を守りがたいと思う輩があれば暇を与えよ。速やかに吟味を遂げ、男道ならざる者の験(しるし)をつけて追放することに疑いがあってはならない。よってくだんの如し
加藤主計頭清正在判
侍中


男道ならず者の印、いまに続く破門状の回付なのか、はたまた焼き印かなにかなのか
0616人間七七四年
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2022/10/03(月) 19:27:03.40ID:HQYAPPYE
『慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた
0617人間七七四年
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2022/10/05(水) 18:39:34.77ID:4d5Ktkl2
他国の家の事を聞くに、近江国佐々木殿(六角氏)の家が破れた理由について、
めがた(目賀田貞政カ)と申す重臣は、佐々木殿の御蔭にて、家中の諸侍、歴々の傍輩たちを、
皆めがたの縁類と成して時めいた。その後、おのれの寄子・麾下の争いにて、寄子の理であっても、
主人の時の権勢に任せ、主君である佐々木殿の意向も聞かなかった。
そしてめがたの居城は佐々木殿と別々と成り、家中は分裂した。

この様子を見て、浅井備前(長政)という者が、佐々木殿を押し破った。この備前は若年の頃
やうさる(幼名である猿夜叉丸の事か)と申した童であった。本来京極殿の侍であったのだが、
やうさるの父の代より、京極を捨てて佐々木殿に降参して被官となり、佐々木殿社参の時は
この浅井やうさるに太刀を持たせるほど心安く使っていた。しかし佐々木家が乱れる時勢を見て、
佐々木の知行を乗っ取って、今、浅井備前となった。

このように国持大将は、譜代の大身があまりに時めく事を押さえて、ただ主君の御為に能く在るよう
しなければならない。こういった事を万事に能く調えた大将は、信玄公にて留めたり。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える、武田家における観音寺騒動についての認識  
0618人間七七四年
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2022/10/05(水) 21:09:37.08ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた
0619人間七七四年
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2022/10/08(土) 19:06:37.52ID:10zWzOY3
尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。

しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した

『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。
0620人間七七四年
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2022/10/11(火) 21:00:09.80ID:LIz3lhCB
天文七年正月元日に、武田信虎公は子息晴信公に盃を遣わされず、次男次郎殿(信繁)へ御杯を
遣わされた。

そのような事があって正月二十日には、板垣信方を以て信虎公より嫡子・晴信公へ仰せ遣わされた。
その内容は、太郎殿(晴信)は駿河の(今川)義元の肝入を以て、信濃守・大膳大夫晴信と名乗られた事で、
この上は義元に付き添い、万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも学ぶように、との事であった。
晴信公はその返事に「ともかくも信虎公の御意次第」と仰せになった。

すると重ねて、飯富兵部ら二名を使いとして信虎公は仰せになった
「当三月より晴信は駿河へ行き、一両年も駿府においてよろず学問をするように。」
この事、ゆくゆくは次郎殿を惣領にするため、嫡子太郎殿を長く甲府へ返さないようにする、との
意図の模様であった。

これは晴信公十八歳の時の事である。

『甲陽軍鑑』

信玄廃嫡の危機についてのお話。
0621人間七七四年
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2022/10/11(火) 22:09:11.88ID:qTLjFlHc
『村越道伴物語留書』より
夏の陣を控えた権現様の癇癪

慶長二十年四月六日、家康は駿府を立った
(徳川義直の婚儀で)尾張を訪ねたついでに上洛(して大坂方を討伐)する企てだった
そのころ、去年今年と両度の出陣で旗本は困窮していたので、「少しは金銀でも下さるだろうか」と各々が愚痴を言っていたところ、本多正純が内々に耳にし、「もっともなことだ。おあちゃの局様が御前でよろしく沙汰されるべきだ。そのときに我らも言上に及ぼう」と内談した
あるとき家康が御咄の間に出てきて老中を召し、いろいろ話をした
あちゃは「笹ちまきの風味がよくございます」と三方に載せて御前へ差し出し、「去年の御出陣も首尾よく終わり、誠にめでたきことにございます。御婚儀も万端奉祝も終わり、諸侍に何か拝領されてはいかがでしょうか」
すると家康はにわかに機嫌を損ね、「言いたいことは分かるが、いまさら金銀を与えれば敵に恐怖したのかと万民が口にするだろう。金銀を与えなかったからといって逼迫して供もできない輩は好きにすればよい。わし一人でも上洛するわ。長篠のときも味方の軍勢を頼らず信長の軍勢を先に立てて勝利を遂げた。あるいは小田原攻めも粉骨砕身し、関ヶ原のときだって人の力を頼らず計策を以って勝利したのじゃ」
これらの話を引いてもっての他に激怒した
あちゃは言葉なく、「めでたしめでたし」とばかり口に出して退出した
「勿論本多上野介其外の面面、言語を発っせざるなり」

あちゃも旗本も見捨てる釣り天井の悪い話
0622人間七七四年
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2022/10/12(水) 21:25:04.54ID:pUCJxExe
同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。

信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。

信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。

『甲陽軍鑑』

武田信虎追放について。
0623人間七七四年
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2022/10/24(月) 20:06:31.59ID:gtM3Sfj3
その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。

信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。

羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は

『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』

との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。

このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。

(川角太閤記)

丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか
0624人間七七四年
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2022/10/24(月) 20:29:02.69ID:HhGvH5g8
6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破?
0625人間七七四年
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2022/10/25(火) 21:20:54.82ID:M68BXVm8
天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は

『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』

そう申し越したが、晴信公はその御返事に

『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。

であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。

もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』

この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は

『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』

と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。

この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。

『甲陽軍鑑』

天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。
0626人間七七四年
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2022/11/01(火) 11:20:20.48ID:wB7vPYTo
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。

この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。

しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。

『甲陽軍鑑』

武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。
0628人間七七四年
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2022/11/02(水) 14:11:51.69ID:JftvD/JF
一応座席ありの定員制だから、そこまで群衆押し寄せはしないんじゃないかと勝手に思うけど・・
噂に聞いてたもののキムタクすげーな
当初は申し込み人数と倍率だけ聞いてたから、そこそこ集客がある刀剣乱舞や戦国ファンにしても、桁が違うんで何が人気なのかわからなかった


岐阜新聞2022年10月31日

キムタク出演・信長まつり、ソウル雑踏事故受け警戒 岐阜市長「来場者も協力を」
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/152589
ソウルの繁華街で起きた雑踏事故を受け、柴橋正直岐阜市長は30日、俳優の木村拓哉さんらが出演し、
市中心部に大勢の来場者が見込まれる11月6日の「ぎふ信長まつり」の信長公騎馬武者行列について、
「県警と安全第一で準備を進めてきた。万全を期してあと1週間、入念に準備に取り組む」と述べ、実施する考えを示した。

柴橋市長はまつりを主催する実行委員会の名誉会長を務める。岐阜市内で本紙の取材に「安全を一番に考えている。
参加者の協力も必要。しっかり取り組みたい」と語り、事故防止に万全を期すことを強調した。

騎馬武者行列は96万6555人の観覧申し込みがあり、募集定員(1万5千人程度)の64・4倍に達するなど
関心を集めている。市はJR岐阜駅周辺で人々が折り重なって倒れる事故などを防ぐため、歩行者デッキの階段を
一時的に下り専用にしたり、帰りの客を駅の構内に順番に誘導したりする対策を県警などと確認している。
0629人間七七四年
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2022/11/02(水) 16:24:34.48ID:JftvD/JF
96万は申込数なんで実際はどうなるかですが、ちなみにGACKTが上杉謙信役(過去7回も)で出演した上越市謙信公祭りは、最大24万だったとか
0630人間七七四年
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2022/11/02(水) 18:38:08.64ID:Hwy3qHHU
「笹子落草紙」から鶴見の最期

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた)
0631人間七七四年
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2022/11/02(水) 18:41:28.92ID:Hwy3qHHU
鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。
0632人間七七四年
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2022/11/07(月) 14:15:59.44ID:w/hY/uup
岐阜新聞2022年11月7日
キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 信長まつり厳戒態勢、事故なし
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/155364

俳優の木村拓哉さんと、岐阜市出身の伊藤英明さんが出演した「信長公騎馬武者行列」が6日、
市中心部の金華橋通りで3年ぶりに開催された。木村さんは織田信長役、伊藤さんは信長の
正室・濃姫の侍従福富平太郎貞家役を務め、沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振り、一帯は
華やかな雰囲気に包まれた。

※岐阜市人口40万2千人
0633人間七七四年
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2022/11/10(木) 23:08:20.44ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

『甲陽軍鑑』
0634人間七七四年
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2022/11/12(土) 16:56:54.12ID:aUnd85+V
名古屋からクレームが入った模様


キムタク信長見たさに46万人が岐阜に…でも美濃といえば斎藤道三じゃないの?素朴な疑問をぶつけてみた
東京新聞2022年11月8日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/212582
俳優の木村拓哉さん(49)が出演し、46万人が集まった「ぎふ信長まつり」。あらためてキムタク人気を内外に示した形だ。
だが、「ちょ待てよ」。岐阜といえば織田信長よりあの男、斎藤道三の地ではないのか。ゆかりの人たちに聞いてみると…。

※東京新聞=中日新聞東京支社です
0636人間七七四年
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2022/11/13(日) 09:44:17.19ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。

一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。

一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
  勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
  諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
  以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。

一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
  越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
  分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。

一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
  おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
  長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
  信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
  これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
  信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。

一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。

この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。

『甲陽軍鑑』

飯富虎昌粛清について
0637人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 16:18:57.94ID:ihlR/lew
著者の小川盛弘氏は、日本で刀剣界大御所に師事した後に渡米して、ボストンやメトロポリタンでキュレーターを務めた方で、
2009年のサムライ展は過去例を見ない規模と質で、日本国内でも大層評判でしたね(もちろん依頼を受け日本からの協力もありました)

好きな人はマジで買うべきと思いますが、まあ適正な値段ではありますよ、こういうのとしてはねw

https://mobile.twitter.com/nhkpb_meito
NHK出版『名刀甲冑武具大鑑』予約受付中!@nhkpb_meito
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定価:66,000 円(本体60,000 円+税)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0638人間七七四年
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2022/11/16(水) 23:16:25.42ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期

後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
0639人間七七四年
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2022/11/16(水) 23:18:39.10ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
0640人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 23:39:32.43ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
0641人間七七四年
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2022/11/17(木) 09:22:20.07ID:EiBg5Aqx
https://pbs.twimg.com/media/Fhqa0wnUYAAOZ3_?format=jpg
https://twitter.com/tanomin/status/1592810284598853633
Kaori Ueno
@tanomin
本日の読売新聞から
筑後版なのでこういった形で紹介させてください
非常に無念ですが
今我々に出来る最善の方法と判断し
移管を決断しました
(公財)立花家史料館での展示は工夫しながら続けてゆきます

6:22 PM ・ Nov 16, 2022


九州柳川立花家史料館館長さんのツイート
収蔵庫の老朽化で今後が危ういというのは残念です

画像記事中でも先年のクラウドファンディングに触れられていますが
設備の更新は運営費とはまた違って大きいですしね・・・・


【柳川・立花家史料館への支援について】
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12790.html
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0642人間七七四年
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2022/11/21(月) 22:56:41.53ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

(川角太閤記)

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。
0643人間七七四年
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2022/11/23(水) 17:45:02.57ID:FQfy/CRW
「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久と長曾我部元親が混同されちゃったようだ
0644人間七七四年
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2022/11/26(土) 09:56:40.14ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

(川角太閤記)

有名な秀吉の「天下友達」のお話
0645人間七七四年
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2022/11/26(土) 15:07:44.73ID:x8ETrO4W
>>644
>侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てた

ちょっと気になって原典確認しましたが、こうですね?
×貴所うぃ 
〇貴所を
0647人間七七四年
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2022/11/29(火) 19:04:25.09ID:5dlPTUwI
これは要らぬ義ではあるが、蒲生飛弾(氏郷)殿の家は、代々癖があると言い習わされている。
飛弾殿の御父は兵衛允(蒲生賢秀)と申すが、彼は殊の外世間に疎い人物であった。
しかしその親(蒲生定秀)は殊の外利発であった。
この飛騨殿は何事にも武道第一と仕り、世に優れた利発人と聞こえている。

このように、代々(優秀な当主と無能な当主が)替るのだと承っている。

(川角太閤記)
0648人間七七四年
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2022/11/29(火) 20:14:34.32ID:sl6A3g/j
鍋島藩もそんなこと言われてたっけ>暗君と名君が一代ごと
0649人間七七四年
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2022/11/29(火) 20:33:47.21ID:F6uZeBw5
せめて明暗二人づつ出てから言って欲しいわ
0651人間七七四年
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2022/11/30(水) 20:04:03.92ID:Vlz34xuk
優れてるように見える当主は後継者を見る目がなく
暗愚とされる当主は後継者を見る目があるってこと?
0652人間七七四年
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2022/12/04(日) 12:11:43.76ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

(川角太閤記)

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も
0653人間七七四年
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2022/12/07(水) 16:45:30.46ID:/LNvPK4p
山形市最上義光歴史館 特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=520014

山形市最上義光歴史館では、先日より最上義光所縁の書状の数々を展示中です。伊達政宗のあの「皆殺しにしましたよ」書状も。
まだ日にちがありますのでぜひご来館ください。入館料は無料なので。

その中でも新公開がこちら。連歌を愛好した義光は里村紹巴一門と親しく付き合っており、里村昌叱(紹巴女婿)が知人に宛てたものです。


14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日

猶々、珍酒・珍味
非大方候、かしこ、

昨日者節日為
御礼義御出本望候、
殊一双 鮎十九
被持候、毎度御
懇情満足不浅候、
令他出不能面談、
御残多候、佳肴故
今朝俄ニ最上殿
申入候て、只今御帰候、
右御酒 佳肴至而
恨入候、大咲、如何
様以筆可
申述候、恐々謹言、

 玖月((九))十日 策庵
        昌(花押)

 宗澗公
   まいる
    □□□(吟意下)


知人より酒樽一双と鮎19尾を頂いたお礼の書状ですが、そこへ招待された義光が全て持ち帰ってしまったという顛末で、
学芸員諸氏のご解釈によりますと、

(最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは)残念です、(これだから田舎の人は)大笑い(大咲)ですね。

というような、どうも京都人による儀礼的な問いかけに、言葉通り乗ってしまったぶぶ漬けトラップ的な案件だったのではないかとのこと。
京都人こわい。
0655人間七七四年
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2022/12/08(木) 14:18:58.13ID:nCF+it7y
薩摩藩「本藩人物誌」から福永丹波守(福永祐友)の降伏

福永祐友は日向の伊藤義祐の寵臣で、島津との境目の野尻城代であった。
そのため薩摩方は内通の手紙をつくり、わざと佐土原に落とし、伊藤義祐の目に触れさせた。
義祐は手紙を信じ怒ったが、祐友は「逆心の考えはまったくありません」と弁明し、
祐友嫡子を「ちょうど十三になるので元服のお許しをいただきたい」と佐土原に送り、二心のないことを示した。
しかし五、六十日経っても元服の許しが得られず、戻ってきた。
さらに五、六十日佐土原に送ったが、今度も元服の許しは得られなかった。
祐友は恥辱に思い、このような主君では当家の行く末も暗いだろうとついに薩摩方への内応を決意した。
祐友は、天正五年十二月七日(1578年1月14日)までに祐友嫡子を差し出すとひそかに薩摩方に約した。
十二月六日、祐友は伊東からの監視番に
「御酒や肴を差し上げたいが今城内には珍物もございません。明日子供達を城から出して山で狩猟をさせようと思います」
と言って、翌七日に子供達を外に出し、嫡子を薩摩方の小姓と取り替えた。
そして夜になると、薩摩方の巧者三十人ばかりが本丸に忍び入り、侵入経路に城外から見えるように白紙をつけた。
それを目印に続々と都合三百人が忍び入った。
祐友の妻は「極寒のみぎり、ありがたく思います」と一人一人にみずから温かい粥を差し出した。
準備が整ったため祐友は本丸の矢倉に登り、大音声で
「伊東からの監視番の方々、昨日までは伊東方であったが、遺恨により只今より島津殿を奉戴する。
すでに薩摩勢三百人が城に入り、まもなく数千騎が城に押し寄せることになっている。
かくなる上は早々に開城なされよ」
それとともに薩摩勢が天地が振動するほど鬨の声を上げたため、監視番衆は周章狼狽し、何人も討ち死にしながら道具も捨てて逃げていった。
翌八日、忠平公(島津義弘)が御馬廻り二、三十騎を連れて城の近くまでいらっしゃった。
祐友は十文字の旗を見るや郎党どもを後ろに残し、一人で忠平公のそばにより、路傍で平伏した。
こうして忠平公からありがたいお言葉を頂戴した祐友は日向攻略においてその後も大いに働いた。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7638.html
こちらによれば手紙の計略は上原長門守(上原尚近)によるものだったとか
0657人間七七四年
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2022/12/08(木) 16:54:00.58ID:lD7ByqrZ
似たような名前の調教師がいるんだね
0658人間七七四年
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2022/12/08(木) 19:23:37.95ID:n3yFMfag
祐一本人のこと?
ちょうど免許取得して来年から調教師に転身するし
0660人間七七四年
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2022/12/08(木) 22:47:20.42ID:cyuyX5mr
福永家は高知の地主だったらしいよ
その縁で祐一は何度か高知競馬にいって乗ってた
ついでに武のほうの先祖は薩摩の武士やね
親族は明治期には国会議員も務めてるし日本の近代競馬草創期の重要人物
0661人間七七四年
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2022/12/11(日) 00:15:06.60ID:KFaUSJuD
「改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。

なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)
0662人間七七四年
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2022/12/18(日) 10:10:32.74ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

(川角太閤記)
0663人間七七四年
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2022/12/20(火) 18:17:36.88ID:5WV1esoO
「朝野雑載」から近衛応山(近衛信尋)と本阿弥某
近衛応山のところに本阿弥某という刀剣の目利き師が出入りしていた。
ある日、応山のところに仙洞(後水尾天皇、近衛信尋の兄)が御幸された時、本阿弥の幼子を召して猿楽を舞わせた。
翌日、本阿弥が来て「昨日、我が子を御前で舞わせていただきありがとうございます」と謝すと
応山は「汝の子であるが、昨日の舞は普段よりも不出来であった」と答えた。
本阿弥が「あなた様は猿楽をなさらないのになぜ不出来とわかるのです?」と尋ねると
応山「確かにそうだ。ところで汝に頼みたいことがある。
汝に、われにあった刀を一振り作ってもらいたい。」
本阿弥「われらは刀の目利きこそしますが、刀を自分で作ることはできません。」
応山「おやおや汝が刀の目利きが上手なのは自分で作るからだと思っていた。
刀を作らないで目利きをすると言うのなら、われが猿楽を舞わずとも、猿楽のよしあしがわかってもおかしくないだろう」
本阿弥はとうとう閉口したそうだ。

ついでに過去に出ていた「寛永の三筆」の近衛信尹(近衛信尋の養父)と本阿弥光悦の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10992.html
0664人間七七四年
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2022/12/21(水) 10:44:47.40ID:WROiu9Wo
サッカーの本並さんとは関係ないのだな
0665人間七七四年
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2022/12/21(水) 19:01:33.82ID:o5VOkXtJ
これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。

永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。

この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。

そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。

浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。

親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し

「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。

使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。

(川角太閤記)
0666人間七七四年
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2022/12/21(水) 20:02:33.26ID:6asqkaLX
「朝野雑載」から日比半右衛門と米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。
0667人間七七四年
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2022/12/23(金) 22:42:57.48ID:CLLYe5AS
上州は由良国繁の領地での話。
黒川谷と言う地を治めていた松島式部少輔と阿久沢能登守が武田勝頼に裏切ろうとしているという噂を聞きつけた国繁は、老臣との評定の結果、松島淡路守を使者として彼らの真意を聞こうとした。
松島は黒川谷へ向かおうとしたが、前夜の大雨によって渡良瀬川が大増水していた。急いでいた松島は無理やり渡ろうとした。
「大事の使者であるから、時刻をおくらせてはならぬ。つづけ」と共の者に下知し、川に乗り入れた。
松島自身は水練の達人ではあったが、供の者たちにすがられて自由を失い、松島を含めた使者16名全員溺死してしまった。

松島の水死を聞いた国繁は「この上は面倒だから黒川を攻め破れ」と藤生紀伊守と谷右京、金谷因幡守に銘じて千五百人ほどで攻めさせた。
金谷勢は藤生と谷と連絡を取ろうと石原与市右衛門たちを派遣した。
しかし黒川谷側へはせ参じようとした軍勢に見つかってしまい、突破しようとしたが不案内山中で道に迷ってしまい、全員うちとられてしまった。
それを知った金谷は驚き、慎重に連絡を取ろうとした結果、丸一日を費やした。

一方黒川谷側では、和を請おうと松島弥太郎を使者として、藤生の元へ派遣した。
結果的に和議はなったが、そこまでに手間取ってしまったため、不安になった黒川谷勢が金谷の陣まで押し寄せてしまった。
金谷側も「攻め手が敵に寄せられるとは恥辱である」と攻撃をしかけたため、激戦になってしまった。
その最中に和議を成立した知らせが届いたが、それを聞いて自陣まで戻った者や、それを追ってさらに攻めかかる者、逃げ散る者もあり、大混乱となった。
金谷が鐘をうたせてようやく戦が止まったが、結局使者の松島弥太郎を含め二百人ほどが討ち死にした。
最終的に松島、阿久沢の両名が陳謝し、由良の幕下に入った。

ぐだぐだな展開で無駄に死者が増えてしまったお話。新田伝記より
0668人間七七四年
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2022/12/23(金) 22:44:43.49ID:CLLYe5AS
武田信玄が長野業政が亡くなったのを機に上州を攻めた際のこと。
武田軍は一郷山城という牛伏山の東端に築かれた山城を落とそうとした。
数日にわたって偵察したところ、水の手が牛伏山の西側の見銘寺のところからとっていることが分かり、その寺をおさえ、水を汲みにくる城兵を弓、鉄砲で狙撃させた。
城主の安部中務之友は水の手を確保するべく、城兵に見銘寺の崖上から寺へ大石を落とさせて甲州勢諸共お堂を粉砕してしまった。
ところがそれによって寺から火が出てそれが北風にあおられて山の北側一帯が火事になってしまった
城兵は阿鼻叫喚の灼熱地獄に襲われた。
信玄は好機に乗じて総攻撃を命じた。その結果、城兵や女子供は皆、崖上から飛び降りたり、または火の中へ追い落とされた。
信玄は「これ皆、寺を壊した仏罰であろう」と要害が思いがけなく楽に落ちたことを喜んだという。

加沢記より
0669人間七七四年
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2022/12/24(土) 00:15:37.76ID:cWWrEB3o
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5082.html
武田信玄の西上州侵攻と見銘寺
過去に「箕輪軍記」出典(群書類従巻三百八十八・合戦部二十、上野国群馬郡箕輪軍記「長野信濃守業政卒去し事」)で同じ話が出てたから
「箕輪軍記」を読むと武田方に水を止められたということで、この話の直前に白米城(籠城側が馬の背に白米を流して、敵に水がまだあるように見せる)ネタがあった
0670人間七七四年
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2022/12/24(土) 01:29:27.04ID:LzXtJ3Ah
>>669
その米の噺、なあ…。
伊勢宗瑞の伊豆制圧戦に関する口碑伝承にもそっくり同じ噺があるんだよ。
登場人物の名前が替わっただけ。
元ネタがあるんだなと猿でも解るレベルの。
いずれ漢籍あたりに何かの原典があって様々にアレンジした上で流布された巷談俗説だろうよ。
 
と、思ってたんだが、
伊豆では考古学的証拠に近いブツが出ちまったから馬鹿には出来ねえな。
 
0671人間七七四年
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2023/01/05(木) 20:43:07.28ID:nzcqadR2
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真と徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。

さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。

『甲陽軍鑑』
0672人間七七四年
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2023/01/08(日) 23:13:42.74ID:8YxFmouY
「続武家閑談」から徳川家康と成瀬滝之助

あるとき権現様が
「召し使っている成瀬滝之助だが、近頃誰かと口論でもしなかったか?」と近侍の衆に尋ねられた
いずれも「そのようなことは存じておりません」と答えた
二、三日して成瀬が人を討って出奔した。
それを聞いた権現様は「その場の様子だが、馬手(めて)口であったか?」と尋ねられた。
「いいえ、馬手口ではありませんでした」と答えると
「大いに甲斐甲斐しいことだ」と仰られたそうだ
どうしてこのように仰られたのだろう

「紀伊國物語」出典の
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7439.html
「成瀬瀧之助は誰かと言い合いなどしなかったか?」
では「馬手口」ではなく「卑怯な振る舞い」となっている。
右から切りつけたと解釈したけど違うのかな
0673人間七七四年
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2023/01/09(月) 20:52:34.47ID:OpVMlt84
「続武家閑談」から大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

天正三年(1575年)、権現様三十四歳の時、近藤某に加増をなされた。
この加増は大賀弥四郎の代官所の管轄内であった。
大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、
岡崎城にも参って信康公の御用もなし、信康公も家来も「弥四郎は不可欠の人材だ」とみなした。
しかしいつのまにか身の程をわきまえず、驕り、武辺者でも気がいらなければ讒言したため、大勢に憎まれた。
そんな時、近藤某の加増がなされたため大賀弥四郎は近藤某を自邸に呼び
「今度の加増は我の取りなしによるものだ」と恩着せがましく言った。
近藤はそれを聞き大いに怒り、座を立ち、そのまま御家老衆のところへ直行し
「この度の加増は返上いたします」と告げた。
みなが驚きあきれ、近藤にわけを問うと
「旗本をなぶる大賀のような大悪人の取りなしで加増をされるようないわれはありませぬ」
と答えたため、御家老衆は仔細を尋ねた。
こうして弥四郎の悪事が次々と露見し、そのたしかな証拠も出てきた。
また弥四郎に仕える山田八蔵という者を詮議したところ、武田勝頼に内通して岡崎城を乗っ取ろうという計画が明らかになった。
そこですぐに大賀弥四郎夫妻と子供をからめとり、妻と子供は斬罪に、大賀弥四郎は浜松岡崎城下引き回しののち、岡崎の四辻に首より下は埋められ、竹鋸で引かれた。
0674人間七七四年
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2023/01/09(月) 20:57:30.33ID:OpVMlt84
さて右の近藤某であるが、権現様の御父上の松平広忠公の時、毎度軍忠に励んでいた。
あるとき広忠公が城下で御放鷹をなされた。
近藤は土民に混じって、自ら早苗を取って田植えの最中であったが、広忠公を見るや田の中に顔をつけて泥で顔を隠した。
しかし広忠公に「近藤ではないか」と言われたため
近藤はしかたなく顔をあげ、ところどころ破れた渋帷子という見すぼらしい有様で恥いっていると
広忠公は「主人が小身なために汝ら家中には功績に報いられず、人馬武具を備えるためにこうして苦労をさせてしまうこと、申し訳なく思う。
我も供の者も、人の前に苦労をして、人の後に楽しむべきであろう。
(「後楽園」の元になった「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からだろうか)
今日は我も供の者も早く帰るがよいぞ」
これを聞き、近藤はもちろん、お供のものも皆袖を濡らしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11040.html
かかるお情け深き主君のためには

後の話はだいたい同じ話が前にも出ていた(「三河物語」にも載っている)
0675人間七七四年
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2023/01/10(火) 23:45:44.82ID:L1ZwVHoT
永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。

都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。

この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」

高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。

この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。

近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」

これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。

『甲陽軍鑑』
0676人間七七四年
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2023/01/16(月) 16:19:32.25ID:Z0LWwUBl
そういや管理人氏のTLで見かけたこれ、唐の頭(ヤク毛飾り)がはたして永禄年間中に三河で入手できたかってとこが
知りたいですよね?
武田信玄の諏訪法性兜(白い毛がふわふわの例の兜)は後世の創作というのが明らかになってますが、徳川家の
唐の頭の初出はいつなのか。

https://twitter.com/yX3hO9ycHeJMdcn/status/1614595498371092482
史実の本多忠勝を世に広める会
@yX3hO9ycHeJMdcn
この狂歌は今まで三方ヶ原の戦い(正確には前哨戦の一言坂の戦い)の際に武田側の武士が
忠勝の武勇を見て、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」、すなわち家康には
もったいないものとして詠まれたとされていました。
実際は別の人物が若き日の忠勝を詠んだもののようです。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0677人間七七四年
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2023/01/17(火) 22:04:46.04ID:jYCDJFyo
元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。

御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。

諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。

しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。

しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。

『甲陽軍鑑』

いわゆる喧嘩両成敗の実態について
0678人間七七四年
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2023/01/20(金) 00:14:39.38ID:2hnP0MBz
「武家閑談」から結城秀康と出雲阿国の有名な話

慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので
0680人間七七四年
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2023/01/20(金) 12:06:05.28ID:tNBITfCz
今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・
0681人間七七四年
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2023/01/22(日) 16:37:30.54ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

『甲陽軍鑑』

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。
0682人間七七四年
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2023/01/28(土) 23:12:19.22ID:ODKO6Zvw
「大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。
0684人間七七四年
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2023/01/29(日) 10:15:22.26ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな
0685人間七七四年
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2023/01/31(火) 21:26:19.84ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

『甲陽軍鑑』

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。
0686人間七七四年
垢版 |
2023/02/01(水) 16:48:42.94ID:MGm2S+jR
K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。
ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。 #時代考証の呟き #どうする家康



金陀美具足とかで平山氏が叩かれてたのは、時代劇がフィクションだなんてことは全員わかった上の話で、
平山氏が普段は史実や史料を棍棒に他人を叩きまくっていたからだよなあ
SNS論客はどうしても攻撃的な言動、文章になるんだが、自分の過去の振る舞いが襲ってきたよね
0687人間七七四年
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2023/02/01(水) 16:53:26.78ID:MGm2S+jR
今回の大河も細かいところでは、おっと言うようなさりげない部分で注目すべきところを取り入れてるけど
実のところそういう頑張った考証は評判の悪い天地人とかでもあったんだよね

でもあの清州城の最終的な延長にある江戸・駿府・名古屋城にはどんな姿か期待してます
0688人間七七四年
垢版 |
2023/02/04(土) 23:44:31.35ID:HC5xTxLS
「武家閑談」から越前少将忠直御事

松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので
0689人間七七四年
垢版 |
2023/02/05(日) 21:49:48.55ID:48hh7H58
「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと

伊賀同心の働きは莫大である上に、天正十四年に真田を攻めた時には先手に加わり、千塚というところに陣を張った。
同十八年には小田原の陣にお供し、翌年の奥州の陣の時には高館表の衣川にまでお供した。
屋敷分として一人当たり永楽銭九貫文が知行として宛てられ、きっと吟味の上に取り立てて下さると言われていた。
名護屋の陣にもお供し、関ケ原のみぎりには大田原で城を守り、上杉景勝への備えをした。
「武徳安民記」に見えるようにのちには半蔵跡目石見守(服部正就)の組となった。
石見守は三千石を領し、松平隠岐守(久松松平初代の松平定勝)の婿となり威勢をほしいままとし、昔のことを気にかけず、一向に憐憫の情がなく、家僕同然に伊賀同心をこき使った。
同心どもは「たしかに伊賀の末裔の服部であるが、御家名の武辺場数をへて大身となられたのもわれらの働きがあったからなのに、下人被官のようにされるのは奇怪である」
と書状を石見守に差し出したが石見守はたいそう立腹し、同心どもを呼んで自分の屋敷の普請の手伝いをさせ、断れば扶持を没収した。
そのため二百人の者どもは妻子を片付け、奉行所に目安を差し出し、近くの寺に弓鉄砲を持って立てこもり「訴えをかなえねば討ち死にする」と抗議に及んだ。
このよしが上聞に及び「石見守不届きなり」ということで、石見守から同心が召しあげられた。
二百人の者どもはよろこび、四組に分けられ、大久保甚右衛門(大久保忠直)、服部仲(服部保正)、加藤勘右衛門(加藤正次)、久永源兵衛(久永重勝)に預けられた。
しかし石見守の願いにより二百人のうち十人を成敗することとなった。
0690人間七七四年
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2023/02/05(日) 21:51:38.56ID:48hh7H58
切腹しなかった者もあり、妻子を質にとられたため切腹した者もあり、十人中八人が死んで二人が逐電した。
石見守は人を回して逃げた二人を狙っていたが、あるとき自邸の門前を通ると聞いて馳せつけ斬ったところ、同心ではなく、伊奈備前守(伊奈忠次)の家来が使いにきたのであった。
しかたなく陳謝したが、そのころ江戸中に辻斬りがあり、公儀から黄金の懸賞金をかけて詮議の最中であったため、これまでの辻斬りも石見守のせいであろうということで改易された。
時に慶長十年極月二日であった。人々が石見守の不仁を憎んだことは言うまでもない。
戦国の頃は永楽何貫文として宛行されていたが、天正の末にようやく国がおさまり、石高制になった。
伊賀同心も九貫文の宛行で天正の末から元和岩年までの十年の間、戦場での奉公をおこたらず努めた。
しかし公儀からは「いずれは取り立てる」と恩賞が延引するうちに権現様が薨去された。
そして奥方御奉公に召し使われ、禄の沙汰を取り次ぐものもいず、無念ながら少ない扶持で奴僕の列に入り、女中などの使われ者となってしまった。
こうして秀忠公の御時には武辺者の伊賀侍もみな死ぬか失せてしまったいう。
0691人間七七四年
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2023/02/06(月) 09:17:06.97ID:RXawWonI
訂正:
天正の末から元和岩年までの十年→
天正の末から元和元年まで三十二年
0692人間七七四年
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2023/02/07(火) 18:36:01.12ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない
0693人間七七四年
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2023/02/07(火) 18:50:43.34ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
「古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

「管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない
0694人間七七四年
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2023/02/07(火) 20:59:36.20ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

『甲陽軍鑑』

野田城の戦いについて
0695人間七七四年
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2023/02/16(木) 18:52:52.58ID:7PzQHc1V
「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥(山岡景友、神君伊賀越えの協力したともいわれる山岡景隆・山岡景佐兄弟の弟)の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、名古屋丸を固めていたという。
また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵(宇治の茶師)がかためていた。
小早川秀秋は鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいためともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
伏見城の東は宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家(陣代は家所帯刀、武者奉行は伴五兵衛)などかれこれ一万人が攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、汝らに恩賞もあるだろう」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ」と返答した。
こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠(「家忠日記」の作者)も供とともに三度まで突き出たが討ち死にした。島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。
(このあと内藤家長、佐野綱正、鳥居元忠の奮戦と討ち死にの記述)
0696人間七七四年
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2023/02/16(木) 19:03:21.00ID:7PzQHc1V
長束正家配下の伴五兵衛については、同名の甲賀忍者が「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」によれば、島原合戦の時に敵陣を偵察している。
(落とし穴におっこちた甲賀忍者の望月与右衛門らを背負って脱出)
上ノ郷城の戦いについては大河に出ていた伴与七郎のほか(家康の感状がある)、鵜飼孫六という甲賀忍者も参戦していたとか。
伴も鵜飼も甲賀二十一家だけど、上ノ郷城攻めでは家康方として、伏見城攻めでは長束正家配下で西軍として戦ったことになる。
ついでに上ノ郷城攻めでは、神君伊賀越えの時に手助けしたとされる多羅尾光俊が甲賀忍者を派遣したと言われる。
0697人間七七四年
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2023/02/17(金) 19:32:35.76ID:GAjjKB9U
平山先生が上ノ郷城攻めについてツイートしているので
先生が言及している木村高敦による家康一代記「武徳編年集成」から該当部分を書いておく。多羅尾光俊の関与についても書かれてるし。
(木村高敦は「武家閑談」「続武家閑談」の著者でもある)

右衛門忠勝、松井左近忠次を以て上ノ郷城を囲ませらる。
この時忠次が従士石原芳心が子、三郎左衛門は江州甲賀の謀者伴中務盛景、同太郎左衛門、同与七郎と議して
兼ねて彼の国の多羅尾四郎兵衛光敏が忍の士十八人召よせ其組としけるが
今夜不意に城中へ入て焼立ければ、鵜殿父子三人逃走る所を伴与七郎伏兵としめ城外に待受。
三郎四郎氏長、其弟藤三郎氏次を虜とす。
父藤太郎は駿州へ奔る。
既上ノ郷の城陥りければ当城を神君より久松佐渡守俊勝に賜う。
0698人間七七四年
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2023/02/21(火) 21:32:02.19ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

『甲陽軍鑑』
0699人間七七四年
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2023/02/26(日) 20:07:30.52ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

『甲陽軍鑑』
0700人間七七四年
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2023/02/27(月) 20:05:01.88ID:Am4WQ7/T
17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について

天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。

△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。
0701人間七七四年
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2023/02/27(月) 21:08:02.84ID:Am4WQ7/T
訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。
0702人間七七四年
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2023/02/28(火) 22:50:36.52ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

『甲陽軍鑑』
0703人間七七四年
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2023/03/02(木) 16:47:03.26ID:SwTQ5Dg8
国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では

「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」

となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。
0704人間七七四年
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2023/03/06(月) 23:10:13.65ID:h0QaWSzD
「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。
0705人間七七四年
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2023/03/06(月) 23:41:23.47ID:h0QaWSzD
ついでにいい話スレに投稿した熊野北山一揆の話で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13841.html
「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

溝口五右衛門という人物が出ているが
>>507の「新東鑑」の話のように(「武家閑談」でも同じ話が上田宗箇の後にある)、同じく浅野家の亀田大隅守高綱も元は溝口半之丞と溝口姓
「木村又蔵」という講談では柴田勝家の元にいたときに産女(うぶめ)の妖怪に会って怪力を得たことになっている。
0706人間七七四年
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2023/03/07(火) 22:57:50.86ID:7zUYzkh2
先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自陣の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。

そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。

いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに
0707人間七七四年
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2023/03/10(金) 18:25:14.10ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。
0708人間七七四年
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2023/03/10(金) 18:27:57.91ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守�タ。右京のちに瑞エ左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。
0709人間七七四年
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2023/03/12(日) 15:33:30.91ID:fYuFhMfr
内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。

そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。

内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた

内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」

これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。

すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は

「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」

そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。

『甲陽軍鑑』
0711人間七七四年
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2023/03/14(火) 17:58:46.49ID:E2hhOYJD
「武徳編年集成」から飯尾豊前妻の奮戦
(「武徳編年集成」は「武家閑談」「後武家閑談」の作者、木村高敦による徳川家康の伝記)

永禄八年(1565年)十二月二十日
遠州引間城主、飯尾豊前守致実(飯尾連龍)の姪は今川氏真の寵愛を得ていたため、豊前守も厚遇されていた。
しかし神君に内応しているという風説があり、氏真は豊前守を駿河に召し寄せ、百騎ばかりで屋敷を囲み、攻めて皆殺しにした。
飯尾の武士二、三十騎が戦死し、寄せ手も多くが討ち死にしたという。
豊前守の妻(お田鶴の方)は無双の強力を奮った(これを駿府の小路軍と世に称す)。
豊前守の家来の江間安芸・江間加賀も引間の城を守り、神君に通じた。
しかし多勢に無勢だったため、今川に降ったという。
0712人間七七四年
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2023/03/14(火) 20:10:04.97ID:E2hhOYJD
17世紀後半に成立したとされる
「浜松御在城記」から飯尾連龍とその妻

遠州引間の城主、飯尾豊前守(飯尾連龍)は今川の先手として織田軍とたびたび戦っていたが、永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間で討ち死にした。
今川氏真は父の弔合戦を考えることなく、朝夕酒宴遊興に溺れたため、権現様は永禄四年に織田信長公と和議を結んだ。
遠州の飯尾豊前守、井伊谷の井伊肥後守(井伊直親)、嵩山城の奥村修理を始め大半が氏真に叛き、信長公や権現様に内通した。
これを知った氏真は永禄五年に井伊谷、引間、嵩山に軍勢を差し向けた。
井伊谷と嵩山は落ちたが、引間の城は堅固であり、寄せ手の大将の新野左馬助(新野親矩)が討ち死にした。
氏真は調略により飯尾豊前守を討つことにし、遠州二俣城主の松井左衛門(松井宗恒?)が豊前の姉婿であるため、松井をなかだちに駿府に豊前を呼び寄せ誅殺した。
引間城にいた豊前守の家来の江間安芸守、江間加賀守は城を保ち、権現様に援軍を依頼した。

永禄十一年、権現様は気賀の住人、名倉喜八郎の案内で引佐を通り、新庄に出て船に乗り、宇布見村にお着きになり、庄屋中村源左衛門の案内で小籔村の普済寺に移られた。
ここで引間城の家臣はもちろん、堀江城の大沢基胤、頭陀村の松下嘉兵衛之綱(秀吉の元主人)などが出仕した。
(原註:大沢基胤は永禄十二年に堀江城で敵対しているので堀川の誤りだろう。
また堀川の一揆の大将が原隼人という話があるが、武田軍による一揆の扇動の誤りだろう)
永禄十二年、武田信玄と大井川を境とし、駿河は武田、遠江は権現様がお切り取りなさると約した。
0713人間七七四年
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2023/03/14(火) 20:12:38.81ID:E2hhOYJD
菅沼貞盈らに菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷三人衆)を調略させ、井伊谷を味方とし、権現様は安間村に御陣を取られた。
そのころ引間城の江間安芸守は江間加賀守を殺した。
江間加賀守の家来の小野田彦右衛門は安芸守を殺し、権現様に御注進申し上げた。
権現様はさっそく引間城に乗り込み静謐にされた。
なお安芸守は武田の秋山信友(秋山虎繁)に内通していたという。
加賀守はかねてから権現様に忠節を誓っていたため、子孫は紀伊大納言様に仕えているという。

一説に、浜松は豊前守後室(お田鶴の方)が保っていたため、権現様は御使者を出し「城を明け渡せば家来は本領安堵する」と説得したが後室は応じなかったため、権現様は城を攻められた。
十二月二十四日から攻め、御味方は大軍だったため翌日には二の丸三の丸も攻め破った。
しかしこの時、御味方に手負・死人が三百人に及んだという。
城兵も二百余人が討ち死にし、豊前守後室も侍士を左右に引き連れ打って出、十八人がひとつ所で討ち死にしたと、板倉家の書にはある。
しかしこれは大河内兵庫助(1517年に引馬城で討ち死にした大河内貞綱)と間違ったのではないか。
もし御味方の手負・死人が三百人もいたら、少なくとも十人、二十人は討ち死にしているはずなのにその姓名が不明なのは不審である。
また豊前守の妻は今川の親類であり、松井左衛門が媒酌となり祝言を挙げていることを考えると、人質として駿府に置かれていたと思われる。
とするとこれは江間安芸守の妻のことではないか、詮索が必要である。
0715人間七七四年
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2023/03/16(木) 23:44:52.92ID:EK9u8NFn
https://news.yahoo.co.jp/articles/c83be0a1397225d3619b430d93954fd5e7e0ee46
烏山城についての記事があったので
「続武家閑談」から那須家について、その1

下野の那須資親には娘だけで男子がいなかったため、結城の子孫である白川義永の次男を養子とし、娘を嫁がせ資永となづけた。
しかし資久という実子が生まれたため、寵愛のあまりこちらを後継にしようと、家臣の大田原胤清・大田原資清の親子に
「資永を討ち、資久を後継に立てよ」と命じた。
このため大田原親子は資永の福原城を攻めようとした。
しかし資永は闇夜に甲士七、八人を黒羽城に忍ばせ、東出櫓に放火して注意をひき、そのすきに軍兵を忍び込ませて資久を生捕にして福原城に帰った。
ところが資永は敗北したため、資久を刺し殺し、自害した。
こうして上那須家は滅び、下那須家の那須資房が永正十三年(1516年)六月七日に上下那須を統一した。

岩城守隆は千余騎で資房の息子、那須政資の山田城を囲み、攻めた。
資房は後詰として永正十七年八月十二日に烏山城を出馬し宇都宮の援兵二百騎とともに山崎にかかった。
岩城は山田城攻めをやめ、山崎にむかったが、縄釣原で資房の伏兵二百騎にら突き立てられ、川岸に追い込まれ討ち取られていった。
岩城の羽翼である志賀備中・白土淡路は奮戦したが討ち死にした。
志賀の首を獲ったのは佐竹浪人の石沢五郎十七歳であった。
この時(1520年)、鉄砲というものがあり、岩城陣中に響き、天地を動かしたという。
0716人間七七四年
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2023/03/16(木) 23:47:09.31ID:EK9u8NFn
そののち宇都宮俊綱(宇都宮尚綱)は二千ばかりで喜連川五月乙女坂に陣を敷き、旗下の那須を滅ぼそうとした。
政資の後継の那須高資は三百余で烏山城を出馬し、天文十五年(1546年)五月十日、俊綱と矢合わせののち乱軍となった。
俊綱は伊王野(那須七騎の一人)配下の鮎ヶ瀬助右衛門(弥五郎とも)に射殺され敗軍した。
笠間の家人は主人に暇を告げ
「俊綱がすでに討たれなさったが、このまま爪痕も残さず手ぶらで退却するのは後代までの恥辱です。
わたし一人戦死をとげ、永く笠間の家名を高めましょう」
とと那須の陣中に駆け入り、敵三騎と力戦し、一騎を斬り落とし、討ち死にして名を万世に残した。(本人の名前は書かれていない)
戦後、五月乙女坂に俊綱の石塔を建てた。
(五月女坂は現在、俊綱を討った鮎ヶ瀬弥五郎の名前から弥五郎坂と呼ばれている)
宇都宮国綱(国綱は尚綱の孫、尚綱の息子の宇都宮広綱(当時7歳)の誤り)は俊綱の仇を討とうと、千本常陸介(千本資俊、那須七騎の一人)を調略して那須高資を殺そうとした。
那須高資は老母の元へ行き、千本の方へ行くことを告げたが
高資の老母は「昨日、千本親子がここに来ましたが、異心が見て取れました。千本へは行かぬように」と高資を止めた。
しかし運の尽きか高資は「裏切られる覚えなど関八州にもございません。お気遣いなさらぬよう」
と天文二十年正月二十三日、千本の城へ行き、常陸介に殺された。
嗣子がなかったため弟の那須資胤が遺領を継いだ。
千本は譜代の主を弑逆したにも関わらず、文谷・市花輪を領したため、諸人はこれを爪弾きし憎んだ。
0717人間七七四年
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2023/03/18(土) 11:08:49.65ID:AlcKgmcq
「続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。
0718人間七七四年
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2023/03/18(土) 11:15:25.66ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。
0719人間七七四年
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2023/03/18(土) 21:12:48.31ID:hUZBJPjA
「続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。
0720人間七七四年
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2023/03/18(土) 21:14:59.82ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。
0722人間七七四年
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2023/03/19(日) 08:52:03.01ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象
0723人間七七四年
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2023/03/19(日) 18:40:00.58ID:3oOcadZo
津村正恭の譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」
0724人間七七四年
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2023/03/19(日) 18:42:16.04ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。
0726人間七七四年
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2023/03/21(火) 22:11:36.43ID:U41itv3c
「続武家閑談」から小田氏治と上杉謙信の合戦

永禄二年(1559年)四月二十八日、常州信太郡小田城主、讃岐守氏治入道天庵と越後の上杉輝虎入道謙信が真壁部山王堂において合戦をした。
小田天庵は年来戦争に長けており、結城・佐竹・宇都宮をはじめ近辺の諸将どもが攻めあぐねたため
示し合わせて諸方から攻めたが、完全な勝利は得られなかった。
そこで謙信の使者が上州に来られたのを幸いとして諸将は謙信の出馬を乞い
「小田氏を退治してくだされば幕下に属する」と約束した。
謙信は早速同意されて「八幡出馬しむるべし」と自筆で短冊に書いて諸家の使者に授けた。
使者が昼夜行軍で返事を持参した時には、もう謙信の先手は宇都宮の氏家原にまで来ていた。
諸将は謙信の行軍が迅速なことに驚いた。
謙信は八千の軍で昼夜通し行軍し、四月二十八日の夜、山王堂に着陣し堂を本陣とした。
堂下の道と原との間は四町ほどの深泥であり、その向こうは三十町ほどの芦野であった。
小田天庵は二千ばかりの人数で居城よりうって出て筑輪川を渡り、背水の陣で深泥を前にして備えた。
辰の刻ごろに謙信の軍勢はしずしずと山王堂を降り、真一文字に深泥を越えて行った。
小田の先手は弓・鉄砲・槍・長刀で、打ち殺し、射殺し、突き倒ししたため謙信軍の手負、死人の人数は数知れなかった。
しかし越後勢は少しも怯まず、討たれた人馬を泥の中に埋めるように踏みつけ踏みつけし、ついに小田勢を原へ追い返した。
こうして申の刻までには小田は打ち負けて引き返した。
天庵は最前渡った筑輪川を乗馬にてわたり、居城に引き返そうとした。
しかしあまりに馬が疲れていたため、川上へ馬の頭を向ける、水を長い時間飲ませた。
越後勢は天庵を大将と見て、川端から矢や鉄砲玉を雨のように降らせたが天庵には当たらず、天庵は難なく川を渡り小田へ帰城した。
諸将は謙信の余りの迅速さと威厳を恐れ、城に引きこもっていたが、謙信が勝利ののちおいおいに参上して謝辞をのべた。
謙信は諸将たちを先手として小田城へ押し詰めた。
天庵は四、五日ほど籠城したが、大軍が名将の指揮によってとりまいて攻めてきているため、小田家老の信太鴨之介が
「防戦はもはや叶わないでしょう。
天庵様には藤沢の城へ退かれ、再起を図ってください。
それがしはこの城に残って切腹いたします」
と諫めたため天庵はひそかに退去し、鴨之助は自害した。
謙信は勝鬨を上げさせてそのまま上州に帰られた。
翌日、天庵は藤沢よりうち出て小田城を取り返し、元通りにした。
鴨之助はもともと宇都宮氏が持っていた坂戸城の城主であった。
近年小田方に攻め取られていたのを、鴨之助が切腹したのちは、小栗城にいた宇都宮家老の小宅三左衛門がすみやかに取り返し、宇都宮没落の時まで在住した。

「続武家閑談」といっても
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4877.html
で紹介されている「常陽四戦記」の文章そのままだった
0727人間七七四年
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2023/03/22(水) 12:58:52.19ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。
0728人間七七四年
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2023/03/24(金) 19:44:43.66ID:G01vG6zG
「常陽四戦記」から真壁久幹・太田資正と小田氏治の戦い
「続武家閑談」にもあるが「常陽四戦記」とまったく同じ文だった

真壁城の氏幹入道道無(真壁久幹)と小田天庵は長年あらそっていた。
元亀四年(1573年)四月、天庵が筑波山からつづく青柳山を越して、真壁と山ひとつ隔てた小幡村に出てきたため、道無は出兵した。
道無は、小田勢は真壁の西から攻めてくると聞いていたが、実は山を越えて小幡から攻めようというのであった。
太田三楽斎(太田資正)とその子梶原源太資晴(梶原政景)は柿岡に住んでいた。
資晴は佐竹の媒酌で道無の婿となっていたため、小勢ではあるが真壁に加勢することにした。
しかし小田勢は容易ならない相手であるので、真正面から当たることを避け、小幡の近辺にあった要害無双の古屋敷に入った。
太田勢は敵を突いては屋敷に戻ることを繰り返して時間稼ぎをした。
そうこうしているうちに道無勢が山を越えて来たのが旗でわかった。
天庵は太田親子を捨てて真壁勢に向かって備えた。
小幡の地は三方が山で囲まれ、平地は十町もない狭いところであった。
真壁勢は山から下って戦ったが、弓鉄砲は用いなかった。
これは小田勢の後ろの太田勢を討たせないためであった。
こうして小田勢は後ろから崩れて退却し、真壁勢は追い討ちをかけた。
道無の息子に安芸守十六歳と式部少輔十五歳がおり、坂本信濃守という剛のものがついていた。
安芸守は敵と組みつつ、山上から転がり落ちた。
安芸守の従者は助けようとしたが信濃守は叱って助けさせなかった。
とうとう平たいところまで落ちてきたが、敵が上になって安芸守の首を取ろうとしたため、馬取が敵の右手をとらえ、
吉田というものが駆け寄って安芸守に首を取らせた。
式部少輔も組み打ちの高名を得た。
こうして敗北した小田勢は、来る時に通った道を引き返した。
そこに真壁勢が山を登って追い打ちをかけたため、天庵は一度も振り向くことなしに四里の道を退いた。
三楽は追い打ちの軍には加わらず、小田勢の先回りをして先に小田城に乗り込み、門を固めて立て籠った。
天庵は小田城に入ることがかなわず、一里ほど離れた藤沢の城に入り、幾度も小田城を奪還するために競り合った。
三楽は高楼を建て、天庵の軍の動きを見張り、近い時は早鐘を、遠い時は狼煙を上げて真壁に知らせた。
こうして合図を定めて加勢を頼んだため、小田城を堅固に保ち、太閤の小田原の陣の時まで三楽とその息子の梶原資晴は小田城に在城したということだ。
0729人間七七四年
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2023/03/28(火) 19:17:16.21ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。
0730人間七七四年
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2023/03/28(火) 19:50:17.66ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱

「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている
0731人間七七四年
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2023/03/30(木) 23:47:50.84ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。

石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。

その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。

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「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

小田原の陣での話はこちらにもあった
0732人間七七四年
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2023/04/05(水) 16:32:14.17ID:OzRsC2U6
『異説まちまち』から松平忠輝のちょっと悪い話

忠輝公が諏訪に謫居されている時は、南ノ丸にあらせられた。厳密なこともなく、諏訪家の御家来の子供などが南ノ丸へ料理人として勤めに行くことがあるぐらいだった。昔、因幡守殿(諏訪頼水)の時代には、鷹狩にお連れして鷹を合わせる様子などもお見せしたが、憲廟(綱吉)のころ、出雲守殿(諏訪忠恒)の時代には、厳密に守護したてまつるようになった。忠輝公も因幡守の時代にはこうではなかったのに」と仰ったそうだ。
毎度のように、「政宗に騙されて口惜しい」仰っていたが、謫居されている間には、一伯公(松平忠直)のように手荒なことをされるご様子もなく、いたってご神妙にされていた。諏訪殿の末子の五郎左衛門殿(諏訪盛條、忠恒の四男)へ相撲取りの目貫を贈られ、今に残っている。「五郎左衛門、そなたは捩じ合いが好きゆえこれをあげよう」と仰って贈られたそうだ。
忠輝公に付き添いで来られた方は柾木左京と千本隼人という人で、左京が死去の時御使番が検死に来られた。それで、忠輝公がご死去のおりには、きっと厳密に検死されるだろうと諏訪では準備していたのに、思いのほか簡単な検死ですんだという話だ。
0733人間七七四年
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2023/04/07(金) 19:24:39.60ID:DDBB+4sJ
いい話スレで数日前に名前が出ていた「永禄日記」から元和元年から元和二年(1615-1616年ごろ)の大飢饉の描写

元和元年
稲穂が出てきた八月十六日(西暦では10月初旬)に大雪が降ったため国中の稲が黒くなった。
稲は残らず捨てることとなり、大飢饉となった。
殿様(弘前藩二代藩主の津軽信枚)が十二月二十七日に帰国した時、大間越の海岸筋は死人がおびただしかったため、飛び越え飛び越えして通過することになった。
これをご覧になった殿様は中村蔵之丞を急いで越後に遣わし、種籾や米を積んで戻ってくるよう仰せつけた。
元和二年、正月頃より町も在所も空き家ばかりになり、城のあたりも行き倒れの者が多く、国中に米が一切なかった。
雪中から沼の川骨(スイレン科の薬草)、草根を掘って、雪がだんだんと消えるまで、命をなんとかながらえていた。
城中でも米穀を召し上がるのは奥方(家康の姪の満天姫)だけで、そのほかの者はわらびの根餅、炒り大豆だけ食し、貴賤問わず米飯を食べないことが十四、五日続いた。
三月に入り、越後から米二百俵、商業用の米七百俵が着岸したため、四月下旬に米を給付した。
しかし久しく腹中に穀物を入れていなかったところに急に米飯を食べたことにより、死人がおびただしくでた。
城の四方の堀の近くに積み重なっている死人が数え切れず、目も当てられないほどであった。
これを餓莩(がひょう、餓死者のこと)山と言った。
同月十四日、公儀から拝領した米一万石が着岸したため、一人当たり八升ずつ救米として下した。
0734人間七七四年
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2023/04/08(土) 19:14:18.91ID:nf/qzOpj
江戸時代の北東北なんか稲作するべきじゃねえんだよな
ただ石高制を採用されたら国力を高めるためにしちゃうんだろうけど
実際津軽の実高って最終的には水戸藩越えてくるからずっと開発してたんだろうし
0735人間七七四年
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2023/04/08(土) 22:37:02.89ID:W1P9uE03
「朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

筑紫上野介(筑紫広門)は大阪に上って太閤に謁見した。
太閤「筑紫では我のことをどう言っておる?」
上野介「西国においては、上様については人ではなく神のように申しております。
また上様のようなお方を見出された信長公は、なおさら霊妙な御知恵だと申しております」
これを聞いた太閤は
「その方の申すとおりである。しかし信長は片目であった」とおっしゃった。
上野介「信長公が片目だとは聞いたことはありませんが」
太閤曰く「信長は片方の見えている方の眼では我のようなものを見出した。
しかし見えていない方の眼では明智のような悪人を良い者として取り立てたのだ。
まさしく片目ではないか?」
0736人間七七四年
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2023/04/08(土) 23:18:26.24ID:o/hog2M4
そりゃ美味くて高い作物と不味くて安い作物のどっちを選ぶかってのは百姓自身のプライドでもあるのよ
領主の命令なんてつまらないものではないのです
東北の農民と大名たちは効率意識がなかったというのはゆとりある現代人の視点
0737人間七七四年
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2023/04/10(月) 14:46:38.62ID:7bblbaYp
リフィーディング症候群は経験的に知られてたろうけど、こんなに苦しいなら飯を腹一杯食って死んでしまったほうがよいということかな
0738人間七七四年
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2023/04/10(月) 16:05:03.98ID:qx44f/74
最近の説だと野菜(植物)からのカリウム過多症での死亡ってのも多かったんじゃなかったかというのも
現代の健康食信奉者でも陥りやすいそうですね

一見して体によさそうなメニューでもそうなっちゃうとか
0739人間七七四年
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2023/04/11(火) 19:15:38.61ID:p4iyP/gj
「朝野雑載」から大坂冬の陣の和睦の際の落首

大坂陣の時の和睦は、京極忠高の母堂の常高院(浅井初)によるものだったので、落首が書かれた
茶臼山、ひきわけになるあつかひは 京極どののふくろちゃときく

阿茶局の方が名前的にぴったりだと思うけど
0740人間七七四年
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2023/04/12(水) 19:39:00.99ID:jFJFcP+c
放し囚人(めしうど)が家の中に籠もっている場合は、粗忽にその家に押し込むべきではない。
事前にその家の内に科人が何人居て、どんな武器を持っているのかを聞き定めるべきだし、その上
こちらの人数の中に慌て者がいれば、そういった者は敵も味方も見境なく切り突きするものなのだから、
慎重になるのは尤もな事なのである。

しかしながら、無案内なる人の沙汰に、名の高い武士がそういった場で、科人の居宅にすぐに押し込まない
事に対し、良き武士はその理由を説明しない故、これを幸いと思い、悪しき悪しきと非難するのは、
臆病な侍による女の批判というべきものであろう。そういった人を”あすならふ侍”という。

その仔細は、諸木の中に名の無い木が一本あった。この木が申すには
「杉より檜の方がまし、檜もこめなるは良し」などと沙汰した。
他の木々は問うた「ではそなたは何なのか}」
かの名のない木は「それがしは檜のぢゃう(定)にあすならふ」
と言ったが、ついに何者にもならなかった。

この木を”あすならふ”と名付けたように、良き武士を妬んで、手柄のない男は”あすならふ男”あすならふと
これを名付けたのだ。

そう、内藤修理(昌豊)は笑って言った。

『甲陽軍鑑』
0741人間七七四年
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2023/04/13(木) 10:12:26.79ID:d35Cttq/
「こめなる」はどう言った意味なんだろう?
0742人間七七四年
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2023/04/14(金) 16:51:10.92ID:q22LVapy
鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。
0743人間七七四年
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2023/04/14(金) 16:52:27.12ID:q22LVapy
秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。
0745人間七七四年
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2023/04/15(土) 14:51:50.33ID:oiuiA72G
放し囚人(めしうど)を討ち取る時、家の内、或いは外であっても、これを討つ者たち各々がかかった所で、
誰であっても最初にかかって切り結び、かかりつつ引きつつ、乱れて勝負をする時、脇や後ろから別人が
寄ってきて、刀、又は長道具、弓などでその科人を殺した場合、定めてこの殺した者が、放し囚人を仕留めたのだ、
とされるのは大きな非議である。

何故かと言えば、討つ相手に対して打ち手の者たちが寄りかねる所を。抜き出てかかる心というものは
優れており、その上切り合ってるところであれば、横からでも後ろからでもかかるのはやりやすいものである。
であるので、始めに先ず切り合った人の手柄を一番とする。二番目は殺した者だが、これは始めに勝負いたした
者に続いての手柄である。

このことについて、人がかからぬ時に一人勝負を始める意地は、人に優れてやさしく、こういった人物は
合戦、競り合いの時でも、放し討ちでこのようである以上、定めて一番鑓をするであろう。
さて又、人に戦わせておいて自分はやりやすい場所に参るような者は、先の人物から、はるばると間のある
意識である。故にこれを「ほそ心ばせ」と呼んでいる。

これは昔から今に至るまで、武士の作法である。

そのように馬場美濃守馬場美濃守(信春)が申し定めた。

『甲陽軍鑑』
0746人間七七四年
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2023/04/17(月) 20:56:35.24ID:NRGRbG2x
甘露寺親長「親長卿記」から後花園天皇の追号が決まるまで

文明三年(1470年)二月別記

旧院(後花園天皇)の追号について「後文徳」「後花園」のうちどれがいいか協議したところ、「後文徳」を推す意見が多かったため一度は「後文徳」に決まった。
しかし一条太閤(一条兼良)が「文徳は田村帝の諡号であり、「後」の字を諡号につけた先例はないとおっしゃったため協議が続いた。

最初の申詞(発言記録)
二条太閤(二条持通)書状
旧院の御追号については、諸卿の協議で決めることではあるが、私は以前から申している通り「後文徳」が御意にかなうと思う。
 
日野前内大臣(日野勝光)
後文徳がよいと思う

右大将
後文徳、後花園、どちらもよいが、「文徳」は「史記」に由緒があるのに対し、「花園」は由緒がないので「後文徳」がよいと思う。

中院大納言(中院通秀)
どちらもよいが、旧院の御治世を思うと「後文徳」を用いるべきだと思う。
 
予(甘露寺親長)
どちらもよいが、御一流(直系の先祖)でないのに後をつけることは問題があるかもしれない。(文徳も花園も直系ではない)
とはいえ後花園でも問題はないだろう。
 
勧修寺前大納言(勧修寺教秀)
文徳天皇の継体の君は清和天皇であり吉例である。
花園天皇は響きはいいが、次代が後醍醐天皇であり吉例とはいえない。
前後も含めて当代の規範となるか判断すべきである。
また旧院は往昔、文にも優れていたため後文徳がよいだろう。
0747人間七七四年
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2023/04/17(月) 20:58:04.70ID:NRGRbG2x
二度目の申詞

日野前内大臣
最初に申した通り、文徳で問題はあるまい

右大将
追号と諡号は趣旨が似ていて、「後」の字を諡号につけた例はないというが、同じ諡号を区別するために「後」を諡号につけるのは問題はないだろう。

中院大納言
そもそも諡号というものは周代に始まり、日本では神武から文武帝まで四十二代は淡海公(藤原不比等、実際は淡海三船)が作ったというが詳しいことはわかっていない。
そののち生前の徳行を諡号とし、院御所の地名を追号としたのだ。
子孫がどうのと言っているが、後朱雀、後冷泉、後三条帝などは直系の子孫ではない。
また柏原、深草、田村、水尾、小松帝などは桓武、仁明、文徳、清和、光孝帝といった諡号に後で追号したものだ。
また顕徳院をわざわざ後鳥羽と改めた例もある。よろしく聖断あれかし。


文徳は田村帝の諡号であり、後の字を諡号につける例は管見では見当たらない。
顕徳院を後鳥羽に改めた例があるなら、後文徳以外にするべきだろう。

勧修寺前中納言
元明天皇の勅令で国や郡名を諡号にしていることは明確である。
当然、山陵や御所名を諡号に準じることになるのだから、後文徳も問題なかろう。
0748人間七七四年
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2023/04/17(月) 21:00:19.20ID:NRGRbG2x
三度目の申詞

二条太閤
そもそも一度決まった旧院の御追号を後に改めることは、讃岐院を崇徳、顕徳院を後鳥羽、と改めた例があるが、ともに配流にあわれた例でありよろしくない。

久我前右大臣(久我通尚)
御追号が文徳院に決まったのを後近衛、後土御門、後花園のどれかに改めるという話だが、多数決に従おう。

今出川前内大臣(今出川教季)
三つとも由緒がないが、後花園でいいと思う。

日野前内大臣
改めるとしたら後土御門にするべきだ。

右大将
改めるのが決まった以上は、後土御門がよさそうだ。

中院大納言
土御門の土地は今の皇居があるところであり、差し障りがあるので後近衛がよいだろう。


土御門は現在の皇居の名であるため、以前も申した通り後花園で問題ないだろう。

勧修寺前中納言
土御門は皇居の地であり、天下静謐(応仁の乱の最中)になったのちに還御するのであるから使いにくい。
後花園は以前申した通り、次代が吉例ではない。
かといって後近衛は直系の先祖でもなければ由緒もない。
どうとでもなされよ。

太閤(一条兼良)に重ねて尋ねたところ、後花園がよいということになった。
0749人間七七四年
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2023/04/20(木) 15:55:48.48ID:PkBOkJ1I
『異説まちまち』からたぶん悪い話

高力小一郎は公儀からの付人だった。大阪の陣で、ある手負が苦しみに耐えかねて「もはや動かれぬ。誰か我が首を取ってくれ」と呼ばわっているところに、小一郎近づいて首を取らずに側の鉄砲を奪って戻った。

年代的には高力忠房が当てはまるけど、小一郎の名乗りがあったかは不明
0750人間七七四年
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2023/04/22(土) 20:28:49.01ID:HFxUyFUP
「朝野雑載」から石田三成と田中吉政
(前半は有名だけどついでに)

関ヶ原での敗戦後、田中吉政は石田三成の捕縛を命じられた。
吉政は「三成は風流ゆえ、もし途中に匂いのある鼻紙が落ちていたら気をつけろ」と下知した。
石田三成は古橋村の与次郎大夫のもとに匿われていたが、近辺の村まで吉政の追及が及んでいると知った三成は与次郎に自分を突き出すよう命じた。
与次郎は拒んだが、三成は「病が重く歩行もままならぬ。このまま探し出されるようなら汝も罰せられるだろう」と説得したため、与次郎はしかたなく訴え出た。

田中吉政は石田三成を乗り物に乗せて連れて来させ、対面した。
吉政は慇懃に挨拶したため、三成は太閤から賜った秘蔵の貞宗を吉政に授けた。
吉政は三成が下痢を患っていると聞いたため、韮雑炊と薬を勧めた。
三成は「こうなっては薬を服用しても意味があるまい。田兵もおかしなことを言うものだ」と言ったが、
吉政が「命を救うためではなくお苦しみを和らげるためです」と勧めたため、三成は承知して保養した。
三成が囚人となってもいつも通り「田兵(田中兵部大輔吉政)」と言ったのは、さすが秀吉の寵臣だけはある。

しかし太閤御在世の時に伏見城で家康公と田中吉政が碁を打っていた時、家康公に助言する者が多かったのを見た三成が
「この碁は敵が多いため、田兵の負けであろう」と言い捨てたのは、おのれの権威を誇って無礼をなす悪人と言うべきであろう。

また三成が小西行長、安国寺恵瓊とともに囚人となった時、家康公から服を与えられた。
小西は「これほどのご厚情を受けようとは」と恥ずかしがり、
安国寺は何も言わなかったのに対し
石田は取次に対して「この小袖は誰から賜ったものだ?上様から?秀頼公のほかに上様がいる者か」
とカラカラと笑ったため、みな石田を憎んだという。
0751人間七七四年
垢版 |
2023/04/24(月) 19:34:36.33ID:XQVv9F5c
ちょっと三成のこと好きになった
0753人間七七四年
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2023/04/26(水) 00:21:10.25ID:hsBCYKEj
くずし字の解読をした上でなので、不備があったらすみません
「続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

秀吉公の九州征伐の時、秋月家から聘使と偽って江利内蔵介というものを差し遣わした。
江利は広島で秀吉公にお目見えした。帰ったのちに主君である秋月種実に申すことには
「このたび秀吉殿下の軍勢は何十万騎と限りなく、四国中国はことごとく先手となっております。
九州の諸将からも聘使が集まっておりましたので、かくなる上は島津殿に御降参を勧めるべきでしょう」
すると種実・種長親子を始め、みな異口同音にどっと笑い
「汝は臆病か、またはよい脇差をもらったゆえに降伏をすすめるのか。
その猿冠者は下賤の者であり何ほどのことがある。
当家は漢の高祖の子孫で武勇で名高い。
(後漢の霊帝の孫、阿智王の子孫とされる。
阿智王の息子である阿多陪王が斉明天皇に三男子を産ませ、真ん中の子が大蔵氏(原田氏、秋月氏、高橋氏などの祖)となったという荒唐無稽な話も)
ことに八町坂の大切所は難所であり、日本・唐土の軍勢がひとつになって攻めてきても何ほどのことがあろうか」
とおのおの口々に申した。
内蔵助は重ねて「不肖の身で広言いたしますが、このままでは当家の運が傾きます。
もう一度同じことを申します」と言ったが
「憎き雑言をまだ言うか。腹を切れ」
と言われたため、切腹して果てた。
こうして秋月種実は八幡宮に詣でて、くじを引いたが「秀吉に従え」と出た。
すると板並左京進が進み出て「くじは三度引いてこそ吉凶が定まると申します」
とかねて用意した「一吉」「二吉」とすべて吉の字を書いたくじを取り出し、種実に引かせた。
こうして二つとも「島津に味方せよ」というくじであったため、秋月は薩摩方となることにした。
0754人間七七四年
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2023/04/27(木) 19:31:55.77ID:mjz2t1qD
「続武家閑談」から上の続き「秀吉公九州へ発向軍略の事」

秀吉公は豊前厳石城(岩石城)を始めとして大隈城以下を攻略し、大隈の城に陣をとった。
秋月の侍どもが姑所城(古処山城、秋月氏本拠)からながめると嘉麻一帯の寺部は山川残らず兵であふれ、夜になると篝火が万も焚かれ、灯会のようであった。
夜が明け、大隈城を見ると一夜のうちに腰板がうたれ、白土が塗られていた。
これは播磨の杉原紙を壁に貼り、家屋の戸板をはずして腰板になされたのであった。
秋月勢は「さてこそ天魔の仕業であろうか」と仰天した。
秋月種実親子も、江利内蔵介の忠言を今更ながら思い出し、降参した。
そして内蔵介を厚く葬り「鳴渡の観音」とあがめたのが、今でも残っている。
0755人間七七四年
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2023/04/30(日) 20:25:20.02ID:wzp3miEb
「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。
0756人間七七四年
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2023/05/15(月) 10:01:07.43ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。
0757人間七七四年
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2023/05/15(月) 10:05:37.68ID:ZDewH9ua
笹間良彦『甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html
0758人間七七四年
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2023/05/16(火) 21:01:32.73ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

『甲陽軍鑑』
0759人間七七四年
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2023/05/17(水) 11:52:46.46ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/
0760人間七七四年
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2023/05/21(日) 21:38:55.38ID:8ODzLh+/
貝原益軒「朝野雑載」から松平信康を介錯した天方通綱のその後
前半部分は有名だけど一応載せておく

天正七年(1579年)九月十五日、信康卿が二俣城で切腹することになり、渡辺半蔵(ママ)と天方山城守(通綱)が検使として遣わされた。
信康は両人に「いまさら申し上げても意味がないが、子供の身で親に逆心を起こすような人倫の道に外れたことがあろうか。
我が武田勝頼に心を合わせ当地に武田勢を引き入れよう話など、日本中の神々に誓っても言うが、虚説である。
我の死後、どうかこのよしを申してくれ」とおっしゃった。
両人とも承諾したため信康卿は御満悦のお顔で「半蔵は幼少の時分よりの馴染みなのでそなたに介錯を頼むぞ」とおっしゃった。
しかし腹をお切りになり「半蔵半蔵」と呼ぶも、半蔵は大いに震えどうにもならなかったため天方が介錯した。
両人が浜松に帰り信康卿の御遺言を申し上げたが、家康公は平生のお顔で何もおっしゃらなかった。
榊原康政、本多忠勝は声を上げて泣き出したため御前を退いた。
家康公は天方の脇差の銘をお尋ねになり、千鳥村正と聞くと
「我が祖父清康卿が殺害されたのも、我が幼少の時分駿河で削刀で手を切ったのも、村正であった。村正は当家に不吉である」
とおっしゃった。

そののち天方山城守は当家を逐電して高野山に遁世したという。
しかし年来天方と親しかった朋輩が有馬に湯治のついでに高野山に行ったところ天方に出くわした。
世間話をしたのち
朋輩「貴殿はどうして浜松を立ち退かれたのか?」と尋ねたところ
天方「別に理由もないが、貴殿も御存じのように若殿を手にかけ、その後世の中が味気なくなり鬱々としたためだ」
朋輩「戦国の世なのにさほどのことで無常を感じ気弱になるとは。ほかに理由があるのでは?」
天方「正直に言うと、渡辺半蔵が介錯の時に大いに震え、このままでは若殿もお苦しみだろうと見かねて介錯をした。
そののち家康公が我の脇差を見て
「千鳥村正は当家に不吉である」とおっしゃり、
そののち御近習との御雑談で家康公が
「渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれる武辺者であるが主人の子供の首を切る段においては腰を抜かしてふるえよった」
などとおっしゃったと聞くと、それでは我を主人の子供の首を切ったと思われるのか、と思うと御奉公もいらぬと思ったわけだ」
結城秀康卿はこのことをお聞きになり、不憫に思われたのか越前を拝領の時、高野山の天方を召し出され、高禄を与えて召し抱えられたということだ。
0761人間七七四年
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2023/05/22(月) 17:50:40.97ID:B5XhHAMH
「続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。
0765人間七七四年
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2023/05/24(水) 17:42:55.89ID:v+W2Lmab
成金金ピカ大好き秀吉の遺品が成金中国人に買われるのは秀吉らしい
0767人間七七四年
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2023/05/24(水) 18:37:04.70ID:VImIPFtI
そもそも長坂釣閑斎という人物は、武辺についても数度を成した人物ではあるのだが、無分別故に海尻の城を
開いて、大いに臆病者と言われた。

釣閑斎の仕形は御家の御為を考えず、自分に取り入ろうとするものを褒める。しかし、御用に立つ者というのは
あまり人に取り入ろうとはしないものだ。私(高坂弾正)が死んだ後は、武田家は釣閑斎の仕置となるだろう。

跡部大炊の分別は、信玄公の時代にはそのような事は無かったのに、勝頼公の時代になって三ヶ年、釣閑斎の
真似をして散々悪き分別をしている。

現在の彼ら両人の仕形では、私どもが亡き後は、自分たちに取り入ろうとする者達ばかりを召し上げるだろう。
しかし信玄公の時代より誉れを取った人々で、長篠での死に残りも少しは在るだろう。
他所の国において覚えの者が沢山在ると言われるより、当家で人が無いというのはまだましである。
しかしあのようでは、御用に立つ衆を労々の有様で恐怖を持たせ、皆御用に立たぬように成してしまうだろう。

素より釣閑斎、大炊介両人が取りなした衆は、荒川、村井の如く、大事の時分では尽く逃げ散る。
三略には、『招舉姦枉、抑挫仁賢、背公立私、同位相?、是謂亂源』
(姦枉を招まねき挙げ、仁賢を抑え挫じき、公に背き私を立たて、同位相謗る。是を乱の源と謂う)
と云う。

時には方々は、この書を披見されよ。これを読んで尤もだと思し召されたならば、大事は無いであろうが、
もし腹を立てられたなら、国は崩れて、武田の御家は二十八代目と申す当家屋形・勝頼公の御代に終に
やぶれて、滅却すること少しも疑いない。
人物についての目利きを能く成されることこそ尤もである。

『甲陽軍鑑』
0768人間七七四年
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2023/05/25(木) 09:19:00.51ID:UJbMz561
SNSで紹介されてたんで転載

山形県上山市 ふるさと散歩資料
https://www.kaminoyama-lib.jp/img/2022/furusatosanposiryou.pdf
「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」
上山藩主 藤井松平家には先祖代々伝わる、とてもすごいお宝がありました。
そのお宝とは、江戸時代の前の戦国の時代に、藤井松平家のご先祖(松平信一)が戦で大活躍したご褒美
として、あの歴史上の有名人 織田信長から与えられた、桐の紋章がついた立派な胴服(羽織)でした。
江戸時代の中ごろの文化年間(1804~1818の間)のある日、上山藩主の藤井松平家のもとに、信
州上田藩(現 長野県上田市)藩主で親戚の松平伊賀守から、信長からもらった胴服を貸してほしいとのお
願いがきます。
このお願いを上山藩主 松平信行は許し、城の蔵にしまってあった胴服を貸し出しました。
それからしばらくして、貸した胴服は上山に返ってきましたが、それを見た上山藩士 谷野市右衛門はあ
る異変に気づきます。
それは、胴服の襟の裏についているはずの印が無かったのです。この印は、胴服がすり替えられないよう、
貸し出す前に谷野がこっそりつけていたものでした。
上山藩主 松平信行は胴服の襟の裏に印が無いことを松平伊賀守に知らせます。
そうすると松平伊賀守は、胴服を借りた後、そっくりなレプリカ(偽物)を作り、本物とすり替えて上山
に返したといってきたのです。
その後、偽物の胴服は上田に返し、本物の胴服が上山に戻ってきましたが話はそれで終わりません。
それからしばらくして、上田藩は「我が藩主の先祖が藤井松平家(上山藩主)から分家するとき、信長か
らもらった胴服を貰い受けていた記録がある」と主張し、上田にある胴服が本物で、上山のものは偽物だと
言ってきたのです。
結局、どちらが本物か偽物かは決着がつかなかったようですが、それ以来、上山藩では、上田藩の者には
簡単に気を許してはいけないと固く決意したそうな。
【参考】上山市史編集資料28「森本家文書集」、上山市史編さん委員会、上山市、昭和54年8月
0769人間七七四年
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2023/05/25(木) 20:23:24.93ID:WbxQTDel
「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

享禄四年(1531年)の冬、小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、上杉政虎を頼むことにした。
おぬしはその間ここにとどまり、武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ」と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は嫡子又次郎長隆と次男孫次郎信定(実際は長時の弟)両人を連れて越後に行き、上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、長時は謙信に暇乞いして愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任され、
(貞慶の息子の小笠原秀政は)故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
今の小笠原右近太夫ならびに信濃守、山城守等の先祖である。
0770人間七七四年
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2023/05/26(金) 17:20:42.17ID:lClEifdb
はてさて?

https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0013-1.html
上田市立博物館 収蔵品
織田信長所用韋胴服

種別 国重文 工芸品
指定 昭和51年6月5日
所在地 上田市立博物館
所有者 上田市

  織田信長の遺品として、旧上田藩主の松平家〔まつだいらけ〕に伝わったもので、鹿の革〔かわ〕で作られています。
「韋〔かわ〕」とは「なめしがわ」とも読み、毛皮の毛と脂〔あぶら〕を取り除いて柔〔やわ〕らかにしたものです。
「胴服〔どうふく〕」とは後〔のち〕の羽織〔はおり〕のもとになった着物を言います。
表は全体に白い小さな模様が染め付けられていますが、これは小紋染〔こもんぞめ〕といい、
今でも和服の地〔じ〕によく用いられています。
0771人間七七四年
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2023/05/26(金) 18:27:01.89ID:sRKV6zV6
「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。
0772人間七七四年
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2023/05/27(土) 20:29:51.25ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)
0773人間七七四年
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2023/05/27(土) 20:37:28.02ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。
0774人間七七四年
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2023/05/30(火) 21:07:44.23ID:cZchWjGY
甲州武田は新羅三郎(義光)公より法性院機山信玄まで二十七代なれば、その継承された大将衆は四十年、三十年、
二十年、或いは十年、五年にて変わることもあるだろうが、多少取り合わせて二十年づつとしても、
五百四、五十年ばかり、甲斐国へ他国から乱入されることは無かった。故に、神社、仏閣、町地毛、
そのほか非人までも他国よりは少々富貴である。

猿、馬、牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬(のりくらうま)に乗り、下人を連れて連雀小路の玉屋という酒屋にて
代物(代金を出して酒を飲む時、おりふし向山同心である功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の
寄子である小宮山八左衛門という信玄公の御弓持の者、この両人がなにかの用があって、これもこの酒屋に参った。

所用が終わり酒坏が出て、暫く指しつ指されつ盃を巡らせていた所、かの皮剥も侍衆の中に混じり酒を飲んだ。
その後座を立つ時に、功力左太夫の仲間がこの皮剥を見知っていて、功力小宮山らの侍衆に
「この者は皮剥である!」と告げた

功力左太夫、小宮山八左衛門はこれに大いに腹を立て、宿の主人である玉屋権右衛門に抗議した。
権右衛門は件の皮剥に抗議した。

然れども小宮山八左衛門、功力左太夫は両人とも武道の心ばせ能き者共であった。
八左衛門は上州三ヶ尻合戦で鑓脇をよく射て信玄公の御証文一つを下されていた。
左太夫もさらに二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わっていた。
それ故理を以て町人などを、事を荒らげて脅すような事は聊かもなかった。しかしながら、皮剥のこつじきが、
侍の交わりに、富貴であるに任せてこのように交われば、貴賤、上下の隔たりも無く、さながら侍の作法も、
尽く皆要らざることになってしまうと、小宮山八左衛門、功力左太夫両人は書付を以て奉行衆に申し上げた。

そして奉行衆は、御蔵の前にて侍衆の訴え、町人の申し分、非人の物の言う事を確認し、公事(裁判)の
沙汰が有った。
この時、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑斎(長閑斎、友清)の三奉行の中でも、今福浄閑斎は物事の
良き功者であったので、この公事を沙汰いたした。

「先ず侍衆の訴えは道理至極である。また町人も、代物の限りに於いての酒商売の事である。
殊更、武田の御分国は富貴である故、かの非人までも宜しきなりをしているが、これらは万事逆ではなく、
順義の御仕置故、尽く安堵してあり、誠につたなき非人まで、侍のように騎鞍馬に乗る。
であれば、町人が(皮剥が非人である事を)見損なったのも道理である。

さて、しかし非人が代物限りであれば、へりくだるには及ばないと、至らぬ心より存ずる事は、大非義の仕形
である。ではあるが、今まで改めて、非人の装束などに定めが無い以上、いかに乞食であっても罪科には
なり難い。その理由を教えること無く殺すのは逆である、と云うときは、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿、
この三人の奉行の真似事に免じて堪えて頂きたい。

さて又町人には、いかに商売代物限りであるとしても、歴々の侍たちに非人を交らわせた事を見損なった科の
代償として、二人の侍衆に巻物を一つづつ持って、玉屋権右衛門は礼に参るべし。さもなくば入牢を申し付ける。
さらに又、非人の命は三奉行の詫び言を以て、両人の侍衆が助けられた。故にこれを有り難く存じて、
おのれが家の皮で艸履(草履)をしたため、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿に御礼に参り、これ以後
皮剥の道服、袖広、帷子にも牛と馬と両方に、中には艸履を付けて必ず着て歩くべし。さもなければ、
よき仕合にて己等は磔物とされるか、もしくは釜にて煎られると心得よ。」

そのように申し定めた事で、それ以降は皮剥も、どんなに良き馬に乗っても、上記のように着ている道服、
帷子の形で解るように、甲州、信濃、上野までも定められたのは、この今福浄閑斎の工夫の故である。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いについてのお話
0775人間七七四年
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2023/06/02(金) 16:52:39.65ID:F9+RQESR
「越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた、わ
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春が直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。
0776人間七七四年
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2023/06/02(金) 17:03:31.78ID:BmMBtXp/
すいません>>775
「自殺せしめた、わ」→「自殺せしめた。」

ついでに「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」

そのころ諸国干戈を争い、武辺場数の士はいちいち数えることができないほどであった。
その中でも徳川家には服部半蔵(服部正成)、北条家には松田孫太郎(松田康郷)というものたちが、諸国において鬼半蔵、鬼孫太郎と称されていた。
また少しほど経て羽柴秀吉の元に森庄蔵(後任武蔵守)という、鬼庄蔵(鬼勝蔵)と呼ばれたものがいた。

鬼武蔵は羽柴でなく織田のイメージではあるが。
0777人間七七四年
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2023/06/03(土) 10:15:41.22ID:Y/9Fy5IV
歌武蔵は三遊亭のイメージである。
0778人間七七四年
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2023/06/06(火) 21:28:53.52ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

『甲陽軍鑑』

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。
0779人間七七四年
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2023/06/10(土) 14:45:15.92ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

『甲陽軍鑑』
0780人間七七四年
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2023/06/12(月) 20:35:54.19ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条
0781人間七七四年
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2023/06/14(水) 19:54:47.90ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公が御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

『甲陽軍鑑』
0782人間七七四年
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2023/06/18(日) 15:29:30.47ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

『甲陽軍鑑』
0783人間七七四年
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2023/06/21(水) 20:19:14.13ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

『甲陽軍鑑』
0784人間七七四年
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2023/06/26(月) 22:49:28.43ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

『甲陽軍鑑』
0785人間七七四年
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2023/07/07(金) 21:35:31.65ID:7wWsJJNK
いまだにこのアフィカスの乞食スレもそれにせっせとネタ提供するアホもまだ存在したんだな
0786人間七七四年
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2023/07/08(土) 23:20:49.41ID:IITwcPqV
アフィってもう死システムだし死語だろ
0787人間七七四年
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2023/07/10(月) 10:21:27.16ID:6YrzPNHa
アフィってどれくらい儲かるの?
0789人間七七四年
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2023/07/23(日) 13:38:35.95ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

『甲陽軍鑑』

ネコについて
0790人間七七四年
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2023/08/01(火) 02:42:18.84ID:8PNhtesL
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担
0792人間七七四年
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2023/09/18(月) 16:37:20.04ID:PMYDQaQC
家康が家臣にしたヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムス
どちらも、ヨーステンとアダムス、と姓だけでも呼ばれがちですが・・・

ヤン・ヨーステンのフルネームは、ヤン・ヨーステン・フアン・ローデンステイン

ヨーステンは「ヨーストの子」の意味で、姓はあくまでもフアン・ローデンステインなのでした
(ヤンの父親の名はヨースト・ヤンシュ・フアン・ローデンステイン)

なお英語名のジョンソンなどと同じく、現在はヨーステンだけで名字の家もあります
0793人間七七四年
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2023/10/07(土) 18:35:12.68ID:TQcZy2/O
質問スレよりこっちのほうが知ってる人いそうなのでちょっと質問させて

島原の乱で板倉内膳重政が戦死したあと、一揆衆(あるいは京童)がそれを嘲る狂歌があったと思うんだけど、誰か知らない?

下の句が
”いのち板倉さらに内膳”、あるいは
”何を板倉いのち内膳”
みたいな感じで、重政の戦死を官名にかけて嘲る歌だったと思う。
0794人間七七四年
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2023/10/07(土) 19:27:07.75ID:PSz8Ksh9
板倉重昌を嘲る落首なら見つけたけど
0795人間七七四年
垢版 |
2023/10/07(土) 19:33:33.72ID:PSz8Ksh9
長崎県史 対外交渉編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3009885/1/110

“落城をいつまでとてか板倉や、心長門に難儀島原。
上使とてなに島原に板倉や、武道の心更に内膳。
胸板を打ちとおされて板倉や、即ちそこでいのち内膳。”
0796人間七七四年
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2023/10/07(土) 20:12:10.59ID:TQcZy2/O
>>795
早速ありがとう!! 宿便がおりてスッキリしました。
0798 警備員[Lv.9][初]
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2024/05/05(日) 03:19:01.01ID:ZeIjSgcu
井伊直政は島津と戦って討死したも同然ではあるけど島津の戦術一つをとってそれが原因で安堵は無かろう。
家康にとっては戦後の論功行賞はじめ状況を我が方有利にして落ちつかせるのが最優先で
一大名を討伐する為に大軍を編成して薩摩に送る余力も発想も無かったと思う。

島津は島津で防衛を固めながらも外交も駆使していたので手打ちをする落とし処もあった。
混乱が拡大すると如水が面倒臭い動きをする可能性もあった。
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