【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>627
目安制はともかくとして、
「四公六民」というような税制は少なくとも北條領国を含む中世東国には存在しなかったものとみられる。
上記に縷々述べた如く、
北條税制は「単位耕地面積当り基準課税額」を基礎とする体系であって
「収穫高の何割」というものではなかった。
戦国時代板にもスレ立てスクリプト荒らしが来襲したようだ。
当スレも勢い上位とはいかず、流されて落ちるかもしれない。
スレ住人各位に於かれてはここまでのアーカイブを。
最近は改めて北條氏をはじめとする関東戦国大名の植林について調べたり考えたりしているage。
戦国時代板は極過疎状態で、
先刻までは2006年に立ったスレも残っていた。
そしてどういうわけか古いスレほど良質な議論の行われている印象がある。
そうしたスレ群がこの荒らしで幾つも落ちてしまうのは如何にも惜しいage。
「関東上杉」、「鎌倉&古河公方」、「里見」、「埼玉の武将」、「東京の武将」、「明応の政変」、「水軍」、等々の良スレ群。
何とか耐えて残ってもらいたいが…age。 スクリプトは一晩中一時間置きに繰り返すと云うわけか。
冬ごとに越山して来る越後勢のようだ。
彼等に痛撃を喰らわせて何度も煮え湯を呑ませてやった佐野、成田、北條、原にあやかってage。 >>640
荒らされる気持ちが分かったろう
反省してね 北條氏は相変わらず反省してないね
独りよがりの長文解説 他人を見下した貴君
荒らしと同類と言ってるのに理解できない北條氏 北條スレで北條を論ずる者を荒らし呼ばわりして、
己は何も論ぜず他人への誹謗を稚拙かつ粗雑な片言で垂れ流すのみ。
貴君如き輩を「荒らし」と云う。
北条が悪政で民衆を苦しめていたから家康はすんなりと受け入れられて得をしたな
その後も260年間安定統治できた 扇ガ谷上杉が北から南に攻めてくる記述とか読んでると
「何で小田急が通ってないのに来るんだよ」と思ってしまう件
京王だとそんなこと思わない 扇谷の行動経路は鎌倉往還とその間道。
今の府中街道や国道16号。
鉄道には疎いけど武蔵野線(南武線)、横浜線、八高線あたりか? 江戸を奪われてからは川越街道。
鉄道なら東武東上線。 小田原の陣により関東の名門は一度滅亡し、
河内狭山1万石の小禄を食いつないでいった。
督姫との間に男子がいれば、
ひょっとしたら因州池田に次ぐ准親藩、
国主格、大廊下下之御部屋席もありえた? 史実に対して if を構えることは無意味であるばかりか不可能でさえある(本質的にはパラドクスに陥る)。
止めた方が良い。
領土全然拡張してないのに頻繁に4万~6万の大軍で4ヶ月遠征。睨み合いで終わり退散頻繁にやってたから民から凄い恨み買ってたから。謙信、信玄いたころは国内蹂躙されてるのに引き篭もって迎撃しないへたれ
普通は国境付近で迎撃するのにこのヘタレは居城まで引き込む
謙信も信玄も容赦なく放火略奪して荒らし回った
民から相当恨み買ってる
民が税収めてるのは自分たちの暮らし守ってもらうために収めてる
なのにヘタレ北条は迎撃しないで本拠地まで攻められてるのに見て見ぬふり
敵が満足して引き上げる時点になってようやく出撃
考えてみろもし中国ロシアが攻めてきてるのに日本政府は自衛隊に迎撃させず首都に集結させ民家が焼かれ略奪されてるのに敵が飽きて帰るまでシカト
こんな政府誰も支持しないだろ
徳川北条と違って受け入れられたんだ
普通は余所者拒絶反応出て一揆の一つも起こる
信長生きてる頃に信濃に入った森長可なんかも一揆には苦しめられたし越前柴田も一揆起こされしばらく対処に時間かかった
越前入った堀も肥後に入った佐々もそう
関ヶ原なんか戦する国に一揆扇動当たり前だったからな。徳川では一揆が起きてない
民は徳川の政治が北条より良かったので起こす必要がなかった
小田原征伐前に秀吉と上野問題で仲介してもらい沼田寄こさない真田を悪者にしたが秀吉からしたら自分で切り取った領土でもないのに上野は北条のものと主張して何いってんだお前。徳川は自分で今の甲信地方を切り取った。お前は徳川に負けて撤退した。何いってんのお前はと相手にされず。
そりゃ当然のことだった 北条領の年貢は4割程度だったが他にも夫役や銭の納付も強要されて総額では7割に達していたという
そして納付期限に遅れれば斬首であり妻子と牛馬は召し上げという悪代官そのものだった
だから困窮した農民の逃散が相次ぐ結果になり焦った北条家は農民を連れ戻さないと領主をも処分すると脅した
その結果領主まで農民と一緒に逃亡するという事態に陥った
北条はヘタレというより失政により領内がボロボロで決戦できるだけの力が無かったんだよ >>634
細かい事に拘るなよ
歴史はセンス
考えるな、感じろ
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだけなのが三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>664と>>666は同じ人?顔真っ赤ですごい早口でしゃべってそう
いったい何と戦ってるの? >>666
北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。
北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。
また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。
しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。
結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。 「北条早雲」という呼称は、史実的には適切ではない場合が多く、フィクションの影響を受けている可能性があります。
北条早雲は、15世紀後半から16世紀前半にかけて活躍した武将です。本名は 伊勢盛時(いせ もりとき) または 北条早良(ほうじょう はやら) と言われています。「北条早雲」という名前は、江戸時代の軍学者・山岡元隣(やまおか もとなり)が著した『北条記』の中で初めて登場し、一般的に知られるようになりました。
しかし、北条早雲 という名前は、史料にはほとんど登場しません。伊勢盛時 や 北条早良 という名前の方が史料的に確実とされています。
さらに、北条早雲 という名前は、早雲城 という城の名前と結びついていることも指摘されています。早雲城 は、北条早雲が築城したとされる城ですが、実際には北条氏康の時代に築城されたことがわかっています。
このように、北条早雲 という呼称には、史実的な根拠が乏しい部分があります。そのため、史実を語る際には、伊勢盛時 や 北条早良 などの名前を使う方が適切と言えるでしょう。
ただし、北条早雲 という名前は、一般的に広く知られており、親しみやすいという側面もあります。そのため、あくまでも注意が必要であるという点を踏まえつつ、状況に応じて適切な呼称を使い分けることが重要です。 >>620
確かに、北条高広という名前から小田原北条氏を連想するのは自然ですよね。しかし、実際には越後の北条氏という別の一族で、小田原北条氏とは血縁関係がないんです。
北条高広は越後国刈羽郡北条(現在の新潟県柏崎市北条)の領主で、北条城を居城としていました。越後長尾氏(上杉氏)に仕え、戦功を積んで奉行として活躍するなど、優秀な武将だったんですよ。
しかし、天文23年(1554年)には、甲斐武田氏と通じて上杉謙信に反乱を起こすという波乱万丈な人生を送っています。その後、上杉謙信に降伏して再び仕えたという経緯もあり、まさにドラマのような武将と言えますよね。
名前の類似性から小田原北条氏と混同されがちですが、越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だったことは間違いありません。 >>670
恥ずかしながら寡聞にして「早良」は初見。
また伊勢盛時は生涯「北條」苗字を名乗ることは無かったと認識している。
差し支え無ければ「北條早良」の出典を御教示頂きたく。
>>669
そもそも戦国期の関東は貫高制であって、
且つ北條(主に氏康期)の税体系は630~632に示した如きものだから「収穫の何割」と云う捉え方自体が不可能。
村高は検地が改訂されない限り固定されているからそれが実際の収穫の何%に当たるかは不明だし、
当時の壊滅的な自然環境条件下で年毎の収穫も激しくブレたことが「半損」「皆損」等の表現で多くの史料に残る。
更に引方は北條と村々との海千山千の交渉で決まるものだから偏差が大きい。
同時期の他大名領国の状況と定量的に比較しないと評価は困難だろう。 >>671
> 越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だった
毛利北条高広も永禄九年(1566)、
臼井城合戦後に於ける関東諸将北條方転換の奔流に乗って北條に就いている。
上杉謙信の書状に残る驚愕と憤怒(「前代未聞」「天魔の所行」)を見ても、
また実際の軍事的/政治的効果からしても、
上杉の北関東戦争敗退に関して重要なメルクマールとなったことが窺える。
北条高広は何故か「上杉の忠臣」という虚像で語られがちだが、
その実像は生き残りを懸けて機を見るに敏、
典型的な北関東國衆だったように思われる。 大藤秀信って勝ち戦の援軍で戦死するとか
ほんとに運がない人だったんだな
どうやったら死ぬんだよ…足軽大将だから督戦でもしてたの 小田原に引きこもって温泉三昧
仕事は午前で終わらせて海水浴に魚釣り
まさにぬるま湯生活 >>675
こっちのスレでもあっちのスレでもネガキャンご苦労さま >>673
北条高広は永禄12年(1569)6月の越相同盟成立以降は後北条氏から上杉氏に帰参した。天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去するまで造反せず厩橋城代の務めをしていた。
高広の動向が流動的になるのは、天正7年(1579)3月に御館の乱で上杉三郎景虎が敗死してから。 二日待ったが結局>>670は>>672の問いに対して沈黙か。
やっぱり荒らしが文体を変えただけだったか。 >>677
天正二年(1574)の上杉謙信関東完全敗退後に於ける毛利北条の動向はどうだったのだろうか。
高広自身は同年に隠居してしまったとのことだし、
簗田も里見も潰れて北條独り勝ちに傾く関東で孤塁を守るのも困難だったろうが。
>>640
きっと友達もいない人なんだよ。
可哀想に。 >>679
正式な名前は「北条」なの?それとも「北条」なの?
ト-オモワレル君。 >>679
訂正。
「北条」が正式な姓なの?「北條」が正式な姓なの? 今川義元がいつもデブ扱いなのって
氏真の晩年の肖像のせいじゃないの? >>687
明治期の払い下げと河川改修工事--だったかと。
うろ憶え。 スレの主旨から些か逸脱するが、
関宿の衰退は明治以後の政策に起因する事案であって、
薩長軍閥政権の陸運偏重・水運軽視の象徴とも云える痛恨事だった。
太田扇谷北條徳川と承継された「水都」江戸のグロテスクな破壊改悪もこれと軌を一にする。
これらは本邦の文明史/文化史的重大損失と断ぜられる愚挙だった。
かの田舎者政権が如何に俯瞰的歴史観的を欠いた下衆なものであったか、
この一事を以てしても容易に知れる。
60年も持ってたなら太田扇谷当時とはだいぶ変わってるんだろうな>江戸城 >>690
齋藤慎一氏『江戸-平安時代から家康の建設へ-』に拠って>>535-537を書いた。
その要約。
太田道灌の江戸城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。
北條期の主要な江戸城域整備工事(つまり扇谷期と北條期の差異)として確定的に把握されているのは;
イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ
上記の結果、北條期江戸城の物理的構成は;
・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
このたび金沢に移住が決まり売却します
私が手にかけて育てた城です
田舎ですが、江戸城、河越城あと何だっけとか言わないでください
占領されてても気にしない方にお譲りします
うじくに 鉢形城。北條氏邦の城か。
暑くなる前に秩父ツーリングのついでにでも行ってみるかな。
ついでに行くなんて勿体ない
一日かけてジックリ散策すべし 戦国期小田原城の正体 −「難攻不落」と呼ばれる理由− 歴史文化ライブラリー
↑評判良いらしいけど誰か読んだ人いる 日本語の慣用句と云うものを知らない外国籍の人かな。
言葉尻の上げ足を取っても始まるまいに。 日本語理解してない奴が外人だろ
言ってる事が支離滅裂 小田原という都市は城下に何度も攻め込まれてるが
商業流通的にはどうだったんだろうな 包囲されたら外との行き来が出来ないのだから流通も何もないかと
上杉や武田は数日で引き上げたからどうという事もなかっただろうけど >>701
平時に於ける都市小田原の流通機能を論じようとしているのか、
それとも>>702の云う如く「攻囲されている最中の流通状況」を問題にしているのか。
当方は前者だと解釈したのだが如何。 城下の総構えはそれなりに出来ていたみたいだから小田原城下の被害は殆どなかったでしょ
城に籠ってしまって迎撃しなかったから相模の他の村々が略奪放火の憂き目に遭った訳で
どんなに堅城であってもやはり籠城は最後の最後に当主が腹を切るまでの時間稼ぎに行うべきだわな
兵がいるうちは国境まで出ていって戦うべき 話が>>701からズレまくっている。
まあ、彼が>>704に返答してくれないことには議論の進めようも無いわけだが。 その末文。
此虎之御印判ニ代官之判形を添、小事をも加被仰出、虎之御印判なくハ、郡代同雖有代官之判形、不可用之、於此上はうひを申懸者あらハ、交名をしるし、庭中ニ可申者也、仍如件
とにかく神奈川県が悪い 少しはロビー活動しないといけない しないのは山梨や長野や新潟を見下してるから 鼻持ちならない 東京の植民地のくせに 神奈川県民は偽北条なんて興味ない
岡山にあげるからそっちでやりたまえ 早雲が備中国荏原荘出身ってのもどうかなあ~
母の実家で生まれ育ったかも 京都生まれ京都育ち
こうなったら伊豆で行くしかねえ
するってえと静岡県か 最近家康と今川義元のダブル推ししてるからな
もうひとり増えても問題ないだろう がんばれ静岡 家康、義元、早雲だ >>710
童貞和尚ヲタ君、毎度。
相変わらず「恨・五百年」の粘着御苦労様。 >>711
伊勢宗瑞一代に限れば本拠は最後まで韮山だった。
またその身分も生涯「今川家御一門」「氏親後見人」「駿河國侍大将」のままだった。
静岡県と云うなら静岡県で全く問題無し。 >>711
もう一つ。
「早雲」なる虚構の存在はいざ知らず、
伊勢新九郎盛時は京都生まれ京都育ちと云うのが現在の主流学説。 北條氏、戦国板粘着御苦労様
現在の主流は
始まるまいに、云う如く、如何、於ける、駿河國
など使わんだろう
議論の進めようも無い 否定のないを漢字にするなよ >>715
貴君、相変わらず他人に対する誹謗以外の書込をする能力は無いと見える。
自分の意見や議論を提起したことが一度でもあるか?
スレッドの主旨に則った議論をするだけの知見も知識も知性も知能も皆無ならば無理をして書き込む必要は無い。
黙ってこの場を去ることだ。
北条と伊達政宗って同盟結んでただけあってそっくりだよな
周囲の諸将は秩序を維持する為にルールを守って大人しくしていたのに
一人だけルールを無視して大暴れして俺tueee!!と勘違いして調子に乗り格上にまで喧嘩売って潰された
ボクシングの試合に刃物を持って乱入して大暴れしていたら銃を持った警察に取り囲まれてゴメンナサイと土下座して投降みたいな 黒田氏は今までに北條五代のうち伊勢宗瑞、北條氏綱、北條氏政、北條氏直の単独本格評伝を上梓、
北條氏康を最後に残している。
一般知名度は五人の中で最も高い氏康だけに氏としても会心の作とすべく満を持しているものと拝察していた。
…所へ、いきなりこれが出る。
氏康をクロニクル形式で扱うならわざわざ氏を担ぎ出す必要があるのかと云う気はする。
過去の『図説』シリーズの事例から見て、
クロニクル形式の制約から外形事実経過の叙述が殆どで構造的考察は期待薄、
となると黒田氏の無駄遣い、正しい語義に於ける「役不足」の危惧を無しとしない(どうせ買うけどよ)。
ますます北條氏康の本格評伝が待ち遠しくなった。
北條氏康と云えば。
永禄七年(1564)の第二次国府台合戦は戦国史上屈指の激戦として著名だが、
実は永禄六年一月と七年一月、
丸一年の間を置いた二回の合戦を後世の軍記作者が混同して一回にしてしまったものという学説が有力になりつつある。
慥かに従来知られた劇的過ぎる展開よりもそんな真相の方が遥かに現実的ではある。
小生の知る限りこれを最初に提示したのは房総史研究で有名な千野原靖方氏だった。
氏は在野の人ではあるが徹底した博捜による実証の姿勢は正統アカデミズムに属する諸権威をも凌ぐものがある。
その地道な成果に陽が当たったことを、歴史に興味を持つ素人の一人として喜びたい。 「北条」ではなく「北條」が正しいんですかね。
某先生。 >>723
懲りもせず粘着御苦労様。
正しいとか間違っているとか以前に、
本人たちがそう書いていると云うだけの話。
それでも変換時に苦労して探さなきゃならない字なら考えてしまうが(豐とか德とか、な)、
北條など瞬時に出て来るんだからそっちを選ぶ。
別に北条では間違っているなどと主張する気もさらさら無いし、
他人の書いたものを引用する時はそのまま北条と書く。
逆に訊くが、
いちいちそんな重箱の隅にに突っ掛かってくるのは何故か?
むしろそれが不思議で仕方ない。
まさか真っ当な根拠も無しに何が何でも多数派に合わせろなどと云う衆愚の同調圧力でもあるまい。
常用漢字に條がないので教科書新聞雑誌では常用漢字にある略字の条を用いているだけの話だ
坂本龍馬が坂本竜馬に、芥川龍之介が芥川竜之介になったのと同じこと