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【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】

0584人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:12:57.80ID:5UtGHkGa
(承前)
 
ニ. 明応七年地震と戦局~伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
ここに於いても大災害が軍事行動を促進したか停止したかについての見解の相違がある。
何れにせよ、狩野道一の滅亡を以て伊豆戦争は終焉を迎える。
足掛け六年にも亘る戦争は劇的な決戦による終幕なども無いままに、自然の猛威が去った後の荒涼たる景色の中へとフェイドアウトして行った。
大震災が戦争という構造そのものを根こそぎ破壊し尽くした−−と云うべきか。

(続)
0585人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:15:44.37ID:5UtGHkGa
(承前)

しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
室町幕府の統治秩序に対するアンチテーゼ、即ち「戦国大名」の定義に他ならないこの政策を、宗瑞が何処までそれと意識していたのかは分からない。
しかし伊豆國からやがて相模國へと展開されるこの統治原理は、伊勢宗瑞を正に戦国大名の魁にして典型として位置付けることになる。
そして震災が生み出した−−むしろ強要した−−それは宗瑞のみならず北條五代をもその終焉に至るまで規定していく。

(続)
0586人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:29:49.92ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。

議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証が一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。

素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると小生は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。

(続)
0587人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:36:29.55ID:5UtGHkGa
(承前)

明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。

黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、
『理科年表』が2023年版から四年地震を記載するなど理工学系の知見からその実在が再肯定される中、
自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。

明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。

(続)
0588人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:41:09.97ID:5UtGHkGa
(承前)

明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。

しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
この場合、被害の偏差は生じ難いかむしろ逆であることさえあり得る。
今のところは留保が必要とするしかない。

何れにせよ、小田原城の攻防は伊勢宗瑞乾坤一擲の勝負などではなくて、より大きな戦争構造の中での要衝争奪だった。
それは少なくとも足掛け六年間の経緯の果てに明応九年を以て決着した。
その意味では「ありがちな」事例と云えるが、しかし稀に見る大震災の頻発に終始規定され尽くしたという点に於いて特筆すべきものであった。

(続)
0589人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:44:48.49ID:5UtGHkGa
(承前)

【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ--という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。

軍記等の呪縛から逃れ切っていない我々素人は勿論、研究者の間にさえ伊豆戦争と小田原城接収を分けて、或いは段階過程として考える傾向が今なお根強い。
しかし既述の如く、事実を再構成してみれば両者は一体不可分のものとして進行したのであって「長享ノ乱・西南戦線」としか云いようのないことが解る。
そこに於ける伊勢宗瑞(伊豆侵攻前後に出家)勢は終始一貫して「扇谷上杉方・伊豆箱根方面軍」として使役--むしろ酷使--され続けただけだった。
扇谷定正/朝良は宗瑞を与同勢力と云うよりも完全に麾下の一部将と思っていたかもしれない。

しかもその間、宗瑞は今川氏親の部下として参遠戦線にも幾度となく駆り出されている。
正にブラックを極める労働状態、よくぞ過労死しなかったものだと嘆息の他は無い。

(続)
0590人間七七四年
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2024/03/24(日) 20:47:09.39ID:5UtGHkGa
(承前)

どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった--。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。

それは「伊勢宗瑞の戦争」ではなかった。
少なくとも小田原領有の時点では、それは伊勢宗瑞の戦争ではなかった。
そう結論せざるを得ない。

他者の意志と大自然に翻弄され続けただけの日々が後付けの意味を付与されて北條五代草創神話と化すのは北條氏綱以後の事蹟から遡及した結果であって、
それは最早伊勢宗瑞の意志とは別の範疇に属する事になる。
 
(終)
0591人間七七四年
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2024/03/25(月) 01:00:26.73ID:fnvQbPny
名前付ければ?
読みたい人はまとめて読めて幸せ、読みたくない人はNG設定出来て幸せ
0592人間七七四年
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2024/03/26(火) 13:42:17.61ID:Cqi56RnL
文章が下手過ぎだろ
不必要な単語や 言い回しが多くて読みづらい
0593人間七七四年
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2024/03/28(木) 22:05:07.73ID:8UNaMSrO
一、八甫迄上船者商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候。
一、八甫之儀者当知行ニ候、然者無体ニ他之船可通子細ニ無之候、今迄
此穿鑿為如何不被申候、向後者一改可申付候、誰賦船通共改而可承候。

********************

>>559に云う商船政策を通達した北條氏照書状の抜粋。
これを改めてしげしげと眺めて今更気付いたことがあったので、
面白いから蛸壺系片言隻句ヲタクの皆様に付き合って近視眼的に重箱の隅を突っついてみる。
なお、四百五十年前の文書とは云え猿でも読めるほど解り易いから現代語訳は割愛する。
 
問題は第一項。
「早々可被戻」の対象は八甫に滞留する「卅艘」(以後、甲と称す)であると誰もが何となく理解して流してしまう所だし、
所謂専門家の諸碩学もその如く解釈している。
小生も無批判にそう読んでいた。
が、
実は純文法的に見るとこの解釈を絶対化できる文言は一つも無い。
 
対象は「其直ニ」「上候」所の「彼船」(以後、乙と称す)であると読んで読めないことはないのである。
だとすると何が云えるか。
何れの読みを採るかによって北條氏照権力体の政治的志向がガラッと違って見えると云う、
まあ、そんな与太噺になる。
 
(続)
0594人間七七四年
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2024/03/28(木) 22:06:41.32ID:8UNaMSrO
(承前)
 
通説に従って甲と読んだ場合、
氏照権力体の意志は「八甫湊をどんどん回転させろ。用の済んだ船はサッサと帰ってもらって湊を空けろ。」ということになる。
通商の空間的/時間的効率を最大化しろ、と。
 
他方、乙を採る場合、
既に八甫湊を利用して定着した「卅艘」を優先して
後からワラワラと押し掛ける有象無象の「彼船」は仮令彼等に瑕疵が無くとも追い返せということになる。
既得権益者を優遇しろ、と。
 
極めて乱暴に纏めると氏照権力体の志向は;
 ・甲なら自由主義的
 ・乙なら統制主義(国家社会主義)的
であると云える。
 
何れか迷う中で重箱或いは蛸壺に足を突っ込んでしまったのは第二項との整合性が気になったからだ。
第二項は誰がどう見ても強面の統制主義としか読めない。
となると、
これは意外と乙も有るのかと思ってしまう所だろう。
 
(続)
0595人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:10:03.06ID:8UNaMSrO
(承前)
 
正解は、知らない。
それこそ専門家ならぬ素人には何れか判じ難い。
但し、
北條の領国統治理念は周知の如くであるし、
農地管理以外にも山林資源、薪炭生産、船番匠などの管理に官製ギルドを導入していた実績に鑑みて乙を採っても荒唐無稽とまでは云えないのではないか。
 
そもそも北條の本質が「戦国大名」即ち戦時行政府であってみれば、
政策は本能的に統制主義へと向かって不思議は無い。
里見降伏と関宿開城を経て一気に放恣の度を強める民間と統制の手綱を緩めたくない行政府と、
何時の世にもある鬩ぎ合いの一幕と見るのも一興ではあるだろう。
 
(続)
0596人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:15:36.05ID:8UNaMSrO
(承前)
 
なお附言する。
 
甲乙何れであっても>>559の拙論旨に些かの影響も無い。

仮初めとは云え--それが仮初めであることを誰が知ろうか--「平和」の到来を触媒として
急激に運動エネルギーへと変換されて行く在地のポテンシャルエネルギーの総量規模と変換速度、
拙論の刮目する所はそこに在るからだ。
 
些末な文言解釈が甲であれ乙であれ、
八甫湊をオーバーフローさせつつある何者かの巨大さと暴走性は変わらない。
実はそれこそがこの氏照書状の発行と云う事案の「構造」そのものでもある。
 
(終)
0598人間七七四年
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2024/04/05(金) 21:02:54.83ID:ljzUjhCe
>>542

宗瑞が死ぬまで尽くした姉上(北川殿)と寿桂尼の今川女傑二代で今川の栄枯盛衰を。
0599人間七七四年
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2024/04/05(金) 21:28:42.57ID:HWrdgS2B
大河で今川やるなら義元を渡辺謙にして適当に北条絡めとけば一年持ちそう
0600人間七七四年
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2024/04/09(火) 12:31:48.61ID:zFdPJlw6
>>598
2017年の大河ドラマは井伊直虎ではなく、寿桂尼にでよかったのに。
0601人間七七四年
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2024/04/09(火) 13:19:48.44ID:sFFqhVk2
阿部寛はあと今川義元と北条氏康やってくれ
0602人間七七四年
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2024/04/10(水) 20:52:37.01ID:/dlS925D
北条氏が先進的な統治体制を持っていたのなら
何で豊臣氏に滅ぼされたのかって質問で
「旧東ドイツだって後進国のソ連に従属した」
って言われて納得できるようなできないような
0603人間七七四年
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2024/04/10(水) 21:27:26.06ID:/9gY+YKc
>>602
質問者が「先進的」と云う黴の生えた術語を使ったのだとしたら、
そもそもそれが近代西欧啓蒙主義の虚妄に堕ちている。
 
統治構造の相対的評価は、
地域の自然環境条件や時代の社会状況に如何に上手く適応したかという指標に過ぎない。
条件や状況が変われば「優劣」など簡単に逆転する。
生物の「進化evolution」(ダーウィンはこの単語を用いたことを後悔していた)と同じことだ。
 
北條の統治権力構造は十六世紀関東の現実に最も善く適応していた。
而してそれに留まった。
羽柴「豊臣公儀」は百四十年間の戦国争乱を前提として新たに生まれた全列島規模の需要を的確に捉えた。
その為の具体的方法も有していた。
 
故に北條は羽柴に超克された。
納得するもしないもない、単純な話だ。
 
0604人間七七四年
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2024/04/13(土) 11:17:22.53ID:S8SXKdON
茶々丸って元服できなかったの?
0605人間七七四年
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2024/04/13(土) 13:41:45.42ID:ZjUPyyUl
>>604
不明。
堀越茶々丸についてのまともな史料記録は伊勢宗瑞来襲後の事蹟に限られる。
それらに於いても元服云々の記述は全く無い。
江戸時代の文献に実名(じつみょう)を「政綱」と伝えるが根拠不明、
現在これを採用する研究者はいない。
0606人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:50:55.90ID:e6KzORKC
戦国時代に小田原北条氏の勢力下にあったという小机城の歴史を伝える「小机城址(じょうし)まつり」が14日、横浜市港北区の小机城址市民の森など3会場で開かれた。
武者姿の一行によるパレードや出陣式が披露されたほか、北条氏を陰で支えたとされる「風魔忍者」が小田原から駆け付け、迫力満点の殺陣で会場を盛り上げた。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1070848.html
0607人間七七四年
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2024/04/15(月) 06:52:56.10ID:e6KzORKC
>>602
近代的な憲法を持っていたフィンランドが帝政ロシアに併合されたことがある。
0608人間七七四年
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2024/04/15(月) 06:55:26.43ID:e6KzORKC
>>602
北条政権は強大とはいえまったくの地方政権だったので
京都を追放された足利義昭も放浪先候補として考えなかったとの説がある
0609人間七七四年
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2024/04/15(月) 08:32:30.18ID:qd2KWxyJ
そもそも北条は足利一門を殺して西関東を乗っ取った勢力なのにそんな所に行くわけない
0610人間七七四年
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2024/04/17(水) 21:44:38.53ID:gj7apGUE
>>609
その「足利一門」を殺せと下命したのが他ならぬ足利将軍家なんだが。
 
0611人間七七四年
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2024/04/18(木) 01:50:45.91ID:1EnOT8+x
足利一門を傀儡にして利用してる北条の所なんか危なくて行けないよな
0612人間七七四年
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2024/04/18(木) 09:29:04.99ID:LgwL8Rt+
官職も得ていなかったところを見るに足利将軍家との関係は良くなかったんだろうな
0613人間七七四年
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2024/04/18(木) 21:49:47.92ID:oS/0FvQJ
北條氏綱 従五位下 左京大夫
北條氏時 左馬助
北條宗哲 駿河守
北條氏康 従五位上 左京大夫 相模守
北條氏政 従四位下 左京大夫 相模守
北條氏照 陸奥守
北條氏邦 安房守
北條氏規 従五位下 美濃守 左馬助
北條氏直 従五位下 左京大夫

むしろ公式の官位官職受領等が伝えられていないのは伊勢宗瑞だけと云う方が当たっている。
その宗瑞は幕府奉公衆。
数多いる奉公衆の中からわざわざ将軍家御指命で伊豆に派遣された。
関係が悪いと想像する材料が無い。
 
また氏康以後の宗家当主は代々相伴衆に列せられている。
これも格別の扱いと云える。
 
0614人間七七四年
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2024/04/18(木) 22:04:05.57ID:oS/0FvQJ
公式論を云うと、
官職とは朝廷から与えられるものであって将軍家から貰うものではない。
もちろん将軍をはじめとする権力中枢と関係が良ければ何かと有利ではあるだろうが。

何れにせよ>>613に見る如く北條は朝廷とも幕府とも良好な関係を築いていたようだ。
 
0615人間七七四年
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2024/04/19(金) 14:41:48.00ID:w4/CcQ3D
徳川の関東移封時に北条遺臣で徳川入封を反対する一揆は起こりましたか?
0617人間七七四年
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2024/04/20(土) 16:23:50.16ID:HjKgQOMB
北条の統治は崩壊寸前だったし徳川は年貢を少なくしたから歓迎されただろうね
反発があった話も聞かないし
0619人間七七四年
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2024/04/22(月) 14:29:26.40ID:pOX6+FFQ
北条早雲は幕府高官だったから足利将軍家との関係が悪いとは考えにくいんだが、どうだろ?
0620人間七七四年
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2024/04/22(月) 16:52:22.97ID:K5v9BFBQ
越後上杉家臣で厩橋城主の北条高広が名前からして本物の北条かなと思ってたけど、
越後にある北条が本貫で関係ないんだね
0621人間七七四年
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2024/04/22(月) 21:04:00.46ID:Bw1qD7DD
>>620
そもそも毛利北條高廣は「キタジョウ」であって「ホウジョウ」ではない。
北條氏政から彼に宛てた書状にわざわざ「喜多條」と表記した例もある。
 
0622人間七七四年
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2024/04/22(月) 21:07:53.90ID:1fLYKQfv
しかし北条って源氏から権力を奪ってライバルを次々滅ぼして
ましてや室町時代なら太平記では敵役だし当時としてもイメージ良くなかったと思うけど
よく北条を名乗ろうと思ったな
0623人間七七四年
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2024/04/22(月) 21:11:58.30ID:Bw1qD7DD
>>619
元々悪くないし、
また悪くない状態を保てるように将軍が代わりそうな情勢(義澄→義尹)になると次期候補に微妙に乗り換えるという細かい芸まで見せている。
 
0624人間七七四年
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2024/04/22(月) 21:24:18.15ID:Bw1qD7DD
>>622
鎌倉北條は清盛流を除けば平氏の中で出世頭だったし、
最明寺入道以来の善政伝説や「天下の副将軍」の権威を纏っていた。
特に平氏の王国たる関東に於いてその存在感は絶大だったと謂う。
後世の源氏贔屓史観で当時を測ることはできない。

何よりも藤原氏(上杉)に正面から喧嘩を売る為には恰好の政治的プロパガンダだったろう。
 
0625人間七七四年
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2024/04/22(月) 21:27:53.61ID:Bw1qD7DD
>>619
老婆心ながら。
「北条早雲」は既にフィクションの中に封印された。
史実を語るなら使うべき呼称ではない。
 
0626人間七七四年
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2024/04/23(火) 17:07:15.50ID:cUruK38L
>>622
簒奪も成功すれば武功だからな
そういった武将は奸雄とも呼ばれ英雄視されるので悪役であっても嫌われる訳では無い
それに地生えの豪族で執権になった家だからな
関東を分国支配するには非常に都合の良い名前でもある
0627人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 15:59:51.17ID:KvC/4SbI
>>615-617
関東移封後の徳川は、地元民の反発対策に、北条体制をなるべく引き継いだからな

四公六民の税制や、農民の要望をお上に直訴できる目安箱も北条時代の物だし
0628人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 20:29:33.18ID:wr3/b9YW
>>627
北条時代は本年貢、役銭、夫役に普請と地域差が発生して重課税になってたよ
0629人間七七四年
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2024/04/28(日) 18:40:11.21ID:0D866+bB
>>627
徳川は三河時代からの統治体制だよ
北条って起源説を唱える韓国人みたいでキモいね
0630人間七七四年
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2024/04/28(日) 21:50:07.87ID:DE2pcz4V
>>628
特定の意図を抱いてわざと粗雑な書き方で印象操作か。
毎度々々飽きないことだ。

北條氏の天文二十一年(1552:氏康期)以降に於ける「百姓中」即ち農村を対象とした税体系について(「町人中」「職人衆」に対しては別体系)。

【事実篇】
1. 「年貢」=地方税
 直轄領は北條に、私領等は各領主に貢納する。
 検地で確定された田畠の面積に対して田一反500文又は300文、畠一反165文の基準額を掛けて機械的に算定された「村高」=基準額面税額を基本とする。
 但しこれが額面通り徴集された事例は少ない。
 村高から「引方」=免税額が差し引かれて「定納高」=実納税額が決定される。
 引方の項目は;
  ・夫役に対する反対給付分(日当)
  ・代官給料分
  ・灌漑施設等の維持費分
  ・寺社の維持費分
  ・荒地除外分
 等が含まれる。
 実例によれば結局のところ定納高は村高の65%~78%となると云う。
 また当時の壊滅的な自然環境条件による生産損失分の減免が村高の50%、時には全免となった事例もある。
 
(続)
0631人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:50:48.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
2. 「国役」=国税
 北條氏が領国内に一律に賦課する。

2-a 「役銭」
 従来様々な名目で都度徴発されていた臨時税を廃止して定額化した。
  ・反銭:田一反40文
  ・懸銭:畠貫高の6%
  ・棟別銭:屋敷地間口一間35文 但し対象となるのは特定の屋敷のみ
  ・城米銭:詳細不明
 
2-b 「夫役」
 定例の労役徴発。
 但し下記の労役に対して村高の10%が日当として北條から村へ給付される、即ち実質的な年貢控除分となる。
  ・大普請役:村高20貫文に就き一人/年10日
  ・陣夫役:村高40貫文に就き一人/一陣10~20日
 
2-c 臨時普請対応労役
 上記以外の臨時徴発。
 次年度の減税、或いは割増日当給付の対象となる。
 
総論として、
以上の如き税制が明文化/体系化されていたのが北條領国の特徴と云える。
なお、これらの構成は特異な産業構造を有する村に対しては臨機に最適化されたものの如くである。
 
(続)
0632人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:52:01.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
【解説篇】
幕藩体制下の近世大名領国の税制と北條はじめ戦国大名のそれとの決定的な相違は、
前者が完全なる上意下達であるのに対して後者が大名権力体や私領主と村との交渉に基づく契約行為であると云う一事に尽きる。
 
特に年貢村高決定の為の検地、引方決定の為の減免交渉は双方納得づくで合意・契約に至った。
北條の場合この減免交渉関係書類が多数遺されているが、
そこからは極めて細密で真摯な、時には笑ってしまうぐらい「いじましい」攻防が窺える。
その結果妥結する定納高が上述の「村高の65%~78%」であって、
これは単位耕地面積当り税額にして近世大名の85%~100%に相当するとの試算が為されている。
 
所謂「北條善政伝説」は伊豆時代即ち伊勢宗瑞期に於ける大震災直後の危機対応政策が核事実になったものと考えているが、
これに加えて北條氏康期以降に於ける上記税制の実運用、即ち村々の実状に応じた真摯で肌理細かい減免交渉対応の印象も少なからず加味されているのではなかろうか。
 
以上、
黒田基樹氏著『戦国大名』及び『百姓から見た戦国大名』に多く拠る。

(続)
0633人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:55:49.45ID:DE2pcz4V
(承前)

さて。
>>628に告ぐ。

小生は上記北條税制が他大名領国のそれと比較して「重い」か「軽い」かの評価を差し控えた。
容易に結論の出る問題ではないと考える故である。

一方、貴君は「重課税」と断定しながら以下の点に於いて意図的とも見える無視・歪曲を行っている。

 ・村高の22%~35%に及ぶ「引方」の存在
 ・「夫役」が実は反対給付即ち富の再分配システムであること
 ・税構成の地域差が地域毎の産業構造を反映したものであること
 
これらをどう考えるのかについて回答されたい。
なお「重課税」との主張を維持するのであれば他の戦国大名諸家の実例を示した上で「北條の重税」を 定 量 的 に 論証して頂こう。
 
(終)
0634人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:09:38.07ID:DE2pcz4V
>>629
徳川が「三河時代からの統治体制」を関東に於いても敷いたと云う貴見の論拠を提示されたい。
管見では徳川がどうしたか以前に、
関東従来の貫高制から近世の石高制への移行の具体的工程さえ明らかではないと認識しているが。
 
勿論徳川が北條の旧制を承継したとの根拠も軍記類以外には無い。
が、
江戸期になって編纂された『新篇武蔵風土記稿』等によれば、
当時なお多数の北條発給文書が村々に現存していた事実がある。
これは;
・村々の実統治を担う在地有力者(家)が北條期から変化していなかったこと
・上記書類が有効性を維持していたこと
等を暗示するものと多くの研究者が考えている。
これについて貴見を伺おう。
 
0635人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:14:06.93ID:DE2pcz4V
>>627
目安制はともかくとして、
「四公六民」というような税制は少なくとも北條領国を含む中世東国には存在しなかったものとみられる。
上記に縷々述べた如く、
北條税制は「単位耕地面積当り基準課税額」を基礎とする体系であって
「収穫高の何割」というものではなかった。
 
0636人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:04:41.78ID:DE2pcz4V
戦国時代板にもスレ立てスクリプト荒らしが来襲したようだ。
当スレも勢い上位とはいかず、流されて落ちるかもしれない。
スレ住人各位に於かれてはここまでのアーカイブを。
 
0638人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:16:06.46ID:DE2pcz4V
最近は改めて北條氏をはじめとする関東戦国大名の植林について調べたり考えたりしているage。
 
0639人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:28:46.97ID:M1i88Xue
変なスレだらけになってる
0640人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:57:58.11ID:DE2pcz4V
戦国時代板は極過疎状態で、
先刻までは2006年に立ったスレも残っていた。
そしてどういうわけか古いスレほど良質な議論の行われている印象がある。
そうしたスレ群がこの荒らしで幾つも落ちてしまうのは如何にも惜しいage。
 
0641人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:01:38.68ID:gvPMgFve
「関東上杉」、「鎌倉&古河公方」、「里見」、「埼玉の武将」、「東京の武将」、「明応の政変」、「水軍」、等々の良スレ群。
何とか耐えて残ってもらいたいが…age。
0642人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:13:05.01ID:gvPMgFve
一旦収まったと思ったらまた来やがったage。
0643人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 01:38:12.24ID:gvPMgFve
スクリプトは一晩中一時間置きに繰り返すと云うわけか。
冬ごとに越山して来る越後勢のようだ。
彼等に痛撃を喰らわせて何度も煮え湯を呑ませてやった佐野、成田、北條、原にあやかってage。
0645人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 10:35:40.78ID:uXP7nSEl
北條氏は相変わらず反省してないね
独りよがりの長文解説 他人を見下した貴君
荒らしと同類と言ってるのに理解できない北條氏
0646人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 12:10:03.99ID:gvPMgFve
北條スレで北條を論ずる者を荒らし呼ばわりして、
己は何も論ぜず他人への誹謗を稚拙かつ粗雑な片言で垂れ流すのみ。
貴君如き輩を「荒らし」と云う。
 
0653人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 09:17:29.61ID:xzmIYwrR
北条が悪政で民衆を苦しめていたから家康はすんなりと受け入れられて得をしたな
その後も260年間安定統治できた
0654人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 12:22:59.17ID:ukfuzqRm
あげ
0655人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 17:42:08.60ID:ukfuzqRm
揚げ
0656人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 20:49:30.10ID:ZBkwI0Bz
扇ガ谷上杉が北から南に攻めてくる記述とか読んでると
「何で小田急が通ってないのに来るんだよ」と思ってしまう件
京王だとそんなこと思わない
0657人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:42:39.53ID:EsCshIGv
扇谷の行動経路は鎌倉往還とその間道。
今の府中街道や国道16号。
鉄道には疎いけど武蔵野線(南武線)、横浜線、八高線あたりか?
0658人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:59:01.75ID:EsCshIGv
江戸を奪われてからは川越街道。
鉄道なら東武東上線。
0659人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 09:49:07.82ID:c2lFFL8A
対策
0660人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 20:15:45.03ID:c2lFFL8A
抗戦
0662人間七七四年
垢版 |
2024/05/04(土) 22:26:21.21ID:BDysN/yk
小田原の陣により関東の名門は一度滅亡し、
河内狭山1万石の小禄を食いつないでいった。
督姫との間に男子がいれば、
ひょっとしたら因州池田に次ぐ准親藩、
国主格、大廊下下之御部屋席もありえた?
0663人間七七四年
垢版 |
2024/05/04(土) 22:44:46.11ID:tMIWUADV
史実に対して if を構えることは無意味であるばかりか不可能でさえある(本質的にはパラドクスに陥る)。
止めた方が良い。
 
0664人間七七四年
垢版 |
2024/05/07(火) 22:55:22.80ID:d1w/Wt2A
領土全然拡張してないのに頻繁に4万~6万の大軍で4ヶ月遠征。睨み合いで終わり退散頻繁にやってたから民から凄い恨み買ってたから。謙信、信玄いたころは国内蹂躙されてるのに引き篭もって迎撃しないへたれ
普通は国境付近で迎撃するのにこのヘタレは居城まで引き込む
謙信も信玄も容赦なく放火略奪して荒らし回った
民から相当恨み買ってる
民が税収めてるのは自分たちの暮らし守ってもらうために収めてる
なのにヘタレ北条は迎撃しないで本拠地まで攻められてるのに見て見ぬふり
敵が満足して引き上げる時点になってようやく出撃

考えてみろもし中国ロシアが攻めてきてるのに日本政府は自衛隊に迎撃させず首都に集結させ民家が焼かれ略奪されてるのに敵が飽きて帰るまでシカト
こんな政府誰も支持しないだろ

徳川北条と違って受け入れられたんだ
普通は余所者拒絶反応出て一揆の一つも起こる
信長生きてる頃に信濃に入った森長可なんかも一揆には苦しめられたし越前柴田も一揆起こされしばらく対処に時間かかった
越前入った堀も肥後に入った佐々もそう
関ヶ原なんか戦する国に一揆扇動当たり前だったからな。徳川では一揆が起きてない
民は徳川の政治が北条より良かったので起こす必要がなかった

小田原征伐前に秀吉と上野問題で仲介してもらい沼田寄こさない真田を悪者にしたが秀吉からしたら自分で切り取った領土でもないのに上野は北条のものと主張して何いってんだお前。徳川は自分で今の甲信地方を切り取った。お前は徳川に負けて撤退した。何いってんのお前はと相手にされず。

そりゃ当然のことだった
0665人間七七四年
垢版 |
2024/05/07(火) 23:06:56.31ID:Zt7opfDs
上杉厨くん 長文乙
0666人間七七四年
垢版 |
2024/05/08(水) 00:21:52.59ID:HIWaTKIJ
北条領の年貢は4割程度だったが他にも夫役や銭の納付も強要されて総額では7割に達していたという
そして納付期限に遅れれば斬首であり妻子と牛馬は召し上げという悪代官そのものだった
だから困窮した農民の逃散が相次ぐ結果になり焦った北条家は農民を連れ戻さないと領主をも処分すると脅した
その結果領主まで農民と一緒に逃亡するという事態に陥った
北条はヘタレというより失政により領内がボロボロで決戦できるだけの力が無かったんだよ
0667人間七七四年
垢版 |
2024/05/08(水) 05:46:25.61ID:ZoYgIFlZ
>>634
細かい事に拘るなよ
歴史はセンス
考えるな、感じろ


三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだけなのが三河の徳川家康だ

三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない

滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像

全てはこの仏像に秘密がある



源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる

そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘

源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)

生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである


三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
0668人間七七四年
垢版 |
2024/05/08(水) 10:56:29.56ID:xp8uJ7FL
>>664>>666は同じ人?顔真っ赤ですごい早口でしゃべってそう
いったい何と戦ってるの?
0669人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 18:47:43.81ID:alDRgrCe
>>666

北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。

北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。

また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。

しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。

結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。
0670人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 18:49:57.48ID:alDRgrCe
「北条早雲」という呼称は、史実的には適切ではない場合が多く、フィクションの影響を受けている可能性があります。

北条早雲は、15世紀後半から16世紀前半にかけて活躍した武将です。本名は 伊勢盛時(いせ もりとき) または 北条早良(ほうじょう はやら) と言われています。「北条早雲」という名前は、江戸時代の軍学者・山岡元隣(やまおか もとなり)が著した『北条記』の中で初めて登場し、一般的に知られるようになりました。

しかし、北条早雲 という名前は、史料にはほとんど登場しません。伊勢盛時 や 北条早良 という名前の方が史料的に確実とされています。

さらに、北条早雲 という名前は、早雲城 という城の名前と結びついていることも指摘されています。早雲城 は、北条早雲が築城したとされる城ですが、実際には北条氏康の時代に築城されたことがわかっています。

このように、北条早雲 という呼称には、史実的な根拠が乏しい部分があります。そのため、史実を語る際には、伊勢盛時 や 北条早良 などの名前を使う方が適切と言えるでしょう。

ただし、北条早雲 という名前は、一般的に広く知られており、親しみやすいという側面もあります。そのため、あくまでも注意が必要であるという点を踏まえつつ、状況に応じて適切な呼称を使い分けることが重要です。
0671人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 18:57:34.06ID:alDRgrCe
>>620

確かに、北条高広という名前から小田原北条氏を連想するのは自然ですよね。しかし、実際には越後の北条氏という別の一族で、小田原北条氏とは血縁関係がないんです。

北条高広は越後国刈羽郡北条(現在の新潟県柏崎市北条)の領主で、北条城を居城としていました。越後長尾氏(上杉氏)に仕え、戦功を積んで奉行として活躍するなど、優秀な武将だったんですよ。

しかし、天文23年(1554年)には、甲斐武田氏と通じて上杉謙信に反乱を起こすという波乱万丈な人生を送っています。その後、上杉謙信に降伏して再び仕えたという経緯もあり、まさにドラマのような武将と言えますよね。

名前の類似性から小田原北条氏と混同されがちですが、越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だったことは間違いありません。
0672人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 21:22:44.76ID:eKx3CZRM
>>670
恥ずかしながら寡聞にして「早良」は初見。
また伊勢盛時は生涯「北條」苗字を名乗ることは無かったと認識している。
差し支え無ければ「北條早良」の出典を御教示頂きたく。

>>669
そもそも戦国期の関東は貫高制であって、
且つ北條(主に氏康期)の税体系は630~632に示した如きものだから「収穫の何割」と云う捉え方自体が不可能。
村高は検地が改訂されない限り固定されているからそれが実際の収穫の何%に当たるかは不明だし、
当時の壊滅的な自然環境条件下で年毎の収穫も激しくブレたことが「半損」「皆損」等の表現で多くの史料に残る。
更に引方は北條と村々との海千山千の交渉で決まるものだから偏差が大きい。
同時期の他大名領国の状況と定量的に比較しないと評価は困難だろう。
0673人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 22:48:13.24ID:eKx3CZRM
>>671
> 越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だった
 
毛利北条高広も永禄九年(1566)、
臼井城合戦後に於ける関東諸将北條方転換の奔流に乗って北條に就いている。
上杉謙信の書状に残る驚愕と憤怒(「前代未聞」「天魔の所行」)を見ても、
また実際の軍事的/政治的効果からしても、
上杉の北関東戦争敗退に関して重要なメルクマールとなったことが窺える。

北条高広は何故か「上杉の忠臣」という虚像で語られがちだが、
その実像は生き残りを懸けて機を見るに敏、
典型的な北関東國衆だったように思われる。
0674人間七七四年
垢版 |
2024/05/18(土) 23:20:49.72ID:n0L4fekC
大藤秀信って勝ち戦の援軍で戦死するとか
ほんとに運がない人だったんだな
どうやったら死ぬんだよ…足軽大将だから督戦でもしてたの
0675人間七七四年
垢版 |
2024/05/18(土) 23:36:58.23ID:n0L4fekC
小田原に引きこもって温泉三昧
仕事は午前で終わらせて海水浴に魚釣り
まさにぬるま湯生活
0676人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 01:40:58.74ID:XtDqhVZM
>>675
こっちのスレでもあっちのスレでもネガキャンご苦労さま
0677人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 06:40:10.49ID:tme++zWl
>>673
 北条高広は永禄12年(1569)6月の越相同盟成立以降は後北条氏から上杉氏に帰参した。天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去するまで造反せず厩橋城代の務めをしていた。
 高広の動向が流動的になるのは、天正7年(1579)3月に御館の乱で上杉三郎景虎が敗死してから。
0678人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 18:25:18.33ID:a8FObSB0
二日待ったが結局>>670>>672の問いに対して沈黙か。
やっぱり荒らしが文体を変えただけだったか。
0679人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 18:35:40.77ID:a8FObSB0
>>677
天正二年(1574)の上杉謙信関東完全敗退後に於ける毛利北条の動向はどうだったのだろうか。
高広自身は同年に隠居してしまったとのことだし、
簗田も里見も潰れて北條独り勝ちに傾く関東で孤塁を守るのも困難だったろうが。
 
0680人間七七四年
垢版 |
2024/05/20(月) 06:10:51.69ID:u9WYyh/g
>>678
一生待ってば
ト-オモワレル君www
0681人間七七四年
垢版 |
2024/05/20(月) 06:17:37.84ID:u9WYyh/g
>>640
きっと友達もいない人なんだよ。
可哀想に。
0682人間七七四年
垢版 |
2024/05/20(月) 06:26:17.22ID:u9WYyh/g
>>679
正式な名前は「北条」なの?それとも「北条」なの?
ト-オモワレル君。
0683人間七七四年
垢版 |
2024/05/20(月) 06:29:06.09ID:u9WYyh/g
>>679
訂正。
「北条」が正式な姓なの?「北條」が正式な姓なの?
0684人間七七四年
垢版 |
2024/05/20(月) 14:48:02.40ID:k72Y85ne
今川義元がいつもデブ扱いなのって
氏真の晩年の肖像のせいじゃないの?
レスを投稿する


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