>>550から承前)
 
ニ)の足利義氏江戸移座計画は遅くとも永禄元年(1558)には北條氏康の下で準備実行段階に入っていた。
義氏自身の江戸入りが具体性を帯びるのは永禄四年(1561)即ち長尾景虎「越山」以後の軍事状況によるものだったが、
計画そのものはそれ以前から既定の政治工程だった。
諸条件に鑑みればその発端はどんなに遅くとも義氏「鎌倉殿」継承の天文二十一年(1552)、
或いは河越合戦で足利晴氏が北條に完全屈伏した天文十五年(1546)にまで遡るものとみられる。

永禄年間の発信書状に見る限り義氏は移座についてかなり前向き、むしろ前のめりだったようだ。
江戸を己の御座所として不足も不審も無しとの認識が窺える。
北條氏綱による江戸城接収から二十余年、
既に江戸は関東に於いて軍事・経済のみならず政治的にも特別な地位を占めるに至っていた。

(続)