>>541から承前)
 
ハ)について。
江戸には下記の要路群が集中交差していた。
道灌や北條の仕事と云うよりも歴史の必然、多くは自然環境条件の然らしむる所だったと云える。

 ・陸上交通: 鎌倉大道(下ノ道)、矢倉沢往還、国府路道(古甲州街道)、清戸道(古川越街道)、岩附道、浅草道、等々
 ・河川交通: 平川、旧石神井川、隅田川(入間川)、荒川、利根川、古川、多摩川、等々
 ・海上交通: 平川湊、江戸湊、品川湊、「武総之海」沿岸~外海
 
北條期に関して特筆すべきは、
利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。

就中、河川交通に注目したい。
それは陸運偏重の価値観を刷り込まれた我々現代人の盲点でもある。
上記の河川水運はそれだけでも重要な交通網となるが、
関宿~古河と云う要所経由で更にもう一つの世界=印旛沼香取之海水系~常陸外海への交通網と接続すれば壮大な陸水ネットワークを構成できる。
江戸は正にその要であって、
北條氏康・氏政の関宿攻略に懸けた執念は江戸の安定拠有を大前提とするものだったことを理解してこそ初めてその本義を知り得るだろう。
むしろ北條の江戸都市整備、牽いては関東全土制覇運動の動機が大半此処に在ったかとさえ思われる。
 
なお附言すると、
陸上の要路の江戸集中に関しては永享ノ乱以来の「鎌倉の地位低落・江戸の相対的抬頭」の趨勢による道路変遷の結果であると齋藤氏は論考している。
今日顕著な東京(江戸)中心の放射状道路網形成は既に漸く始まっていた、と。
鎌倉期の所謂「鎌倉往還」群と戦国期の主要道路群を比較してみれば氏の論旨は至当であると判断される。
 
何れにせよ江戸が中世特に北條期から重要都市だったことは疑いを容れない。
この切口からも「江戸は家康から」なる巷説の虚妄は明白と云える。
 
(続)