(承前)
 
両度の国府台合戦に見る如くロ)はイ)を包括するが、
その他にも関宿や岩附方面の戦争等北條宗家直率軍が動く大規模軍事行動に際しては先ず江戸城に入城、
支領勢や近隣の味方國衆勢の集合並びに戦争機材の集積を待ちつつ情勢分析や軍議を尽くしてから出撃していた。
北條の江戸重視の証左であるが、
実はこれが上述の「吹上曲輪相当区域は準城域だったのではないか」と云う私見の切掛にもなっている。
北條の盛期に於いては上記の如き動員は四桁台後半、万に迫る軍勢を集めたことだろう。
その全てが当時の城内に集合し得たとは物理的に考えられない。
少なくとも数日間、厖大な人数の集中屯営できる空間が確保されていなければならない。
推考の仔細は割愛するが、
北條勢力圏の方角や主要道路/水路の筋等も勘案すると当時の江戸城至近でこの要求に堪え得る場所は吹上と神田の台くらいしか無かったものとみられる。
戦国期である以上斯様な軍事行動は頻繁に行われたわけだがその狭間に一般住民が居住・耕作等するようでは有事の運用に支障を来す。
一定以上の制限を設けた占有地的性格の空間ではなかったかと推測する所以である。
異論は勿論あろうかと思うが。
 
(続)