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【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】

0378人間七七四年
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2023/07/29(土) 18:10:46.55ID:V44EndUL
>>377
謙信が越後と関東の軍勢合わせて10万くらいで
攻めてきたら信玄でも籠城したんじゃね。
0379人間七七四年
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2023/07/29(土) 18:47:42.62ID:yOedKcsW
>>378
武田なら先制攻撃しかけたろうな
そもそも籠城する城もないし
10万言うてもゲームじゃないのだから広い平原で10万人と同時に戦う訳ではないし
寄せ集めで統制も全く取れてないので脅威度は低い
名将と言われているような武将は3倍や5倍、中には10倍の敵を破っている武将もいるしな
0380人間七七四年
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2023/07/29(土) 18:50:25.22ID:V44EndUL
なんつうかあんたのそのレスこそゲーム脳では?
0381人間七七四年
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2023/07/29(土) 19:04:22.28ID:c+/8mwyz
城に籠るのがまずいなら、どこの大名も何で城なんか作るのさになっちゃうじゃないの。
籠城反対なんて、ドイツ参謀本部や、ナポレオン1世、第一次世界大戦前のフランス軍指揮官なら大賛成だろうけど。
大体小田城は由緒正しい元館みたいなところを改造した場所だから籠ってもなあって感じか否めない。
大体本当に小田氏は土着して長いんだから、それなりに縁者も多いだろうし、
そこがぽっと出の北条氏とはちがうわな。
0382人間七七四年
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2023/07/29(土) 19:10:30.42ID:SyxQfCTk
>>380
その人は毎日後北条を貶さないと死んじゃう病の人だから触っちゃダメ
スルーかNG推奨
0383人間七七四年
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2023/07/29(土) 22:22:04.17ID:tQxSAG7C
籠城てのは圧倒的に不利な状況でとる最後の手段
領内に敵を侵入させる事は最も下策であるから普通は極力回避しようとする
だから名将と言われるような人は常に外で戦った
北条が異常なのは十分な戦力があっても引き籠もる事だ
領民の犠牲を省みない不可解な戦略である
おそらく北条は百性だけでなく配下の国人達に対しても求心力が低くて
決戦に挑むような命令を下すことが出来なかったのではないかと思う
北条の発給した文書を見ると百性だけでなく国人領主も北条の圧政に苦しんでいた事が記されているので
0384人間七七四年
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2023/07/29(土) 22:38:15.67ID:V44EndUL
北条が籠城した戦いについて書いてみ。
0385人間七七四年
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2023/07/29(土) 22:48:38.51ID:c6BXYArf
北条って北関東の小領主寄せ集め軍と戦ってもパッとしないもんな
大概は睨み合いになって終わる
0386人間七七四年
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2023/07/30(日) 08:36:47.05ID:qNW/h6hu
上杉謙信が小田原城を落としてたらその後どうなったんだろ逆に混乱?
0387人間七七四年
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2023/07/30(日) 09:19:49.59ID:HxnGMzBA
>386
越後上杉景虎が関東管令就任
古河公方は足利藤氏再就任
関東は北条氏を滅ぼすか、完全屈服させた後
関東を安定化させた後、その勢力を背景に
上杉景虎が近衛前久と共に上洛し、畿内を安定化させる。
周辺の敵対勢力は古河公方の権威と関東管令の実力、近衛を通じた朝廷からの勅で押さえる。
という構想だったらしいけど、
下手すると史実の関東進攻の拡大版や大内氏の二の舞になるのでは無いか?
0388人間七七四年
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2023/07/30(日) 09:28:31.37ID:izjFNmCA
>>387
そんなこんなしてる間に武田に関東取られそう
0390人間七七四年
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2023/07/30(日) 13:05:42.45ID:OUlElLc5
>>386
謙信が関東衆を上手く扱えるかどうかだな
それには上手く藤氏を処遇できるかが重要
もしそれが出来たらエグい事になるわ
あの時点で15万くらい動かせる訳だから天下取れる
まあ、謙信にそんな人望も政治力もないから絶対に無理だけど
北条のポジションに謙信が入れ替わるだけで、上杉(関東管領派)対関東衆(古河公方派)の争いになっただけだろう
0391人間七七四年
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2023/07/30(日) 14:54:04.36ID:TFt6L/3C
>>390
そうなったら関東衆(古河公方派)は武田と結んで上杉に対抗するだろうね
0392人間七七四年
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2023/07/30(日) 16:32:55.15ID:kHlAff4h
第一次関東進攻の際に藤氏を奉じているので、そのままならかつての関東管令=古河公方体制の復活で問題無し。
そもそも関東がまとまらなかったのは関東管令=古河公方体制が崩れたのが大きいからここが解決できるなら大体大丈夫。
次に上杉氏内の争い(山内vs扇谷)だと思うが有力な越後上杉が乗り出して来ているのでこれも問題解決。
0393人間七七四年
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2023/07/30(日) 18:30:20.37ID:KxH/i8GQ
ここの詳しい人のおかげで関東諸将って扱いクソ面倒臭そうって学べたのは良かった
0394人間七七四年
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2023/07/30(日) 19:05:02.72ID:R/Dqifa9
関東の外交は平安時代から続くしがらみで複雑怪奇だからな
殆どの家が婚姻関係や本家分家の関係にあるので大名間だけでなく家中でも統制が極めて難しい
それに加えて関東府は独立性が高く、将軍家とは険悪で何度も討伐を受けている
関東管領も表向きは関東公方の補佐役であるが実態は将軍家が送り込んだ監視役で関東公方家との仲はすこぶる悪い
それによって関東は将軍派(関東管領派)と関東公方派で真っ二つに別れて争ったが
それは大名単位の話ではなく各大名家の家中でも管領派と公方派に別れて内戦になり
更に関東管領家と関東公方家も分家が乱立してそれぞれ宗家の座を巡って争ったのでカオスと化した
0395人間七七四年
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2023/07/31(月) 11:09:52.63ID:SE99SDgh
1560頃
関東公方
古河公方→藤氏派、義氏派
小弓公方→頼純
堀越公方→滅亡
関東管領
山内上杉→憲政(政虎)
扇谷上杉→憲勝
北条→氏康
0396人間七七四年
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2023/07/31(月) 12:12:31.55ID:EfLgy2f6
思ったんだが本能寺の黒幕って北条じゃね?
0398人間七七四年
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2023/07/31(月) 18:21:49.21ID:WZZrSV4y
>>396
火事場泥棒狙うも家康に1/4以下の兵でやられる北条が黒幕って…
まあ
0399人間七七四年
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2023/07/31(月) 21:05:56.90ID:tdqSQ6/c
一応第一次関東出兵の時には対北条としてまとまったけど
北条を滅ぼして扇谷上杉復活なんていっても山内上杉方は納得行かないだろうなあ。
謙信が生きている内は押さえこめても何回も上洛させられたりしている内に不満がたまって
そこを武田辺りに諜略されて結局元通りとかになるかも。
0400人間七七四年
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2023/07/31(月) 23:45:37.16ID:GvInbygL
北条が進出したから関東が混乱したんじゃなくて
関東が混乱していたから北条が進出した。
謙信が北条を排除したとしても、抑えの利く誰かを
据えておかないと元の木阿弥になる可能性は高い。
謙信自身は越後国衆の統制に苦労した側面があるほか
成田長泰の離反を招くなど力不足の感は否めない。
謙信で無理なら他に務まる人材はいない。
北条に任せておいた方が良かったという話になる。
0401人間七七四年
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2023/08/01(火) 07:31:21.55ID:4GhAYpPE
>400
越後国衆であれだけ苦労しているから、関東なんてもっと苦労しそうな気がする。
下手すると、京都→関東→越後をぐるぐるして過労死しそうだ。
古河公方と関東管領をきちんとすえなおしても謙信の後ろだては必要だろうしな。
0402人間七七四年
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2023/08/01(火) 07:44:43.34ID:C7aoCBhp
最大限上手くいったとして関東管領(越後在住)になるのかな
0403人間七七四年
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2023/08/01(火) 14:59:09.20ID:HEQ6BwS3
>>400
関東東北の騒乱はスポーツみたいなものだよ
決められたルールに則ってお互いにやりすぎないように行っていた恒例行事
北条や伊達が暴れなければ関東東北は大規模な争いもなく信長や秀吉に恭順して終わりだっただろう
0404人間七七四年
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2023/08/02(水) 00:03:44.83ID:9zjpE2m4
鎌倉公方は古河公方やら堀越公方やら小弓公方やらいるし
関東管領は関東管領で、山内上杉やら扇谷上杉やらいる上に、上杉氏以外でも足利義氏が北条氏康を補任したり織田信長が滝川一益を補任したりしてるし
0405人間七七四年
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2023/08/02(水) 07:18:49.12ID:KkfLli8T
北条が関東管領を自称した事で里見も関東副将軍、佐竹は管領を名乗ったりしてもはや訳分からん事に
0406人間七七四年
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2023/08/02(水) 08:39:50.50ID:PYwi2SRy
そもそも古河公方からして勝手に「公方」を自称してますし
0407人間七七四年
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2023/08/02(水) 09:56:44.27ID:EmDNJe14
呼称は自称だけど関東府長官の地位は正式なものだよ
0408人間七七四年
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2023/08/02(水) 12:45:27.62ID:BrIBFPqg
勝手に自称してるのは小弓公方だろ
0409人間七七四年
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2023/08/02(水) 18:32:30.71ID:XHfMyrhH
鎌倉公方足利成氏が幕府に逆らって父持氏みたいに
討伐されかけたから古河に逃げて、幕府が代わりの 
鎌倉公方として足利政知を関東に送り込んだけど、
関東武士が政知を全然支持しなかったから伊豆から東へは
入る事が出来ず、そのうち家督争いで滅んだから幕府が
成氏の古河公方を公認せざるを得なくなった。
0410人間七七四年
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2023/08/02(水) 19:49:06.07ID:BrIBFPqg
一方小弓公方ってのは足利義明が勝手に名乗ってただけで幕府は一切認めてない

ただ堀越公方と違って房総の真里谷や里見からさ支持されてたらしいが
0411人間七七四年
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2023/08/02(水) 20:27:36.62ID:A8tVmOw8
義明は血統的には正統な古河公方の血筋だしな
反高基派としては擁立するのに都合が良い
0412人間七七四年
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2023/08/02(水) 21:29:18.87ID:8hYF3BWA
A)鎌倉公方から派遣されたB)篠川公方(足利満貞)
とC)稲村公方(足利満直)
A)鎌倉公方が移動してD)古河公方に変化。
更にD)古河公方が分裂してE)小弓公方が発生

関東の混乱を押さえるため京都から派遣されたのがF)堀越公方(足利政知)
それぞれの時代がちがうとは言うものの6つも公方があり、
どれも混乱を押さえるために設立されたのに結局は押さえるどころかかえって混乱の種を
撒き散らす奴もいるのは皮肉だな。
0413人間七七四年
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2023/08/02(水) 22:47:26.46ID:A8tVmOw8
関東の戦国時代は関東公方のいざこざによって始まったからな
早い段階から騒乱が始まったけど、どこの家も大規模な内訌が起きて家中が混乱し本格的な戦国時代には乗り遅れて戦国大名化できなかったんだよな
その隙を北条に突かれて伸長を許してしまった
0414人間七七四年
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2023/08/02(水) 23:10:22.59ID:IUmuEtGy
こんなに面白いのに歴史好きの間でもマイナーで人気無いのが勿体ない
0415人間七七四年
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2023/08/02(水) 23:47:37.45ID:h6bfOvDh
>>413
> 戦国大名化できなかったんだよな

古河とその奉公衆、
山内、長尾諸家、扇谷、太田、…、
彼等は享徳ノ乱の過程で急激に地域権力へと遷移して行った。
規模の大小こそあれ、その権力構造は「戦国大名」と同質であったと考えられている。
特に太田道灌(を通しての扇谷)の動向はその典型と位置付けたい。

> その隙を北条に突かれて
 
北條に決定的な伸長の機会を与えたものは関東諸家の隙などではない。
諸家に「隙」を強要した原因、即ち「戦国」なる社会運動の発動をもたらした自然環境条件(気候変動及び地殻変動)だ。
大規模災害に対する危機管理政策を恒常化し得たことこそが北條抬頭の根本要因だった。
0416人間七七四年
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2023/08/03(木) 00:00:47.25ID:ei5KjuYN
少なくとも北関東や房総の大名は戦国大名化していない
彼らは豊臣政権の権威の元でようやく旧来の体制から脱する事が出来た
0417人間七七四年
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2023/08/03(木) 00:18:42.75ID:MtX4d6FJ
北条だってちゃんと古河公方の晴氏や義氏から関東管領に補任されてるから
0418人間七七四年
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2023/08/03(木) 00:36:37.78ID:AJR2u6Kj
>>416
北関東については見方の分かれる所だと思うが、学術水準では岩松は戦国大名化の先駆例と評価されている。

房総についてはむしろ小型戦国大名の見本市だった。
里見、真里谷、千葉、簗田、野田、…、
出自も経緯も様々だが暴力による直轄一円統治を行う在地権力、即ち戦国大名型権力体として自立を果たしていた。
 
0419人間七七四年
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2023/08/03(木) 00:43:52.78ID:FCno/MX9
そもそも関東管領の任命権って鎌倉公方にあったの?
0420人間七七四年
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2023/08/03(木) 12:36:54.60ID:gEO/ISId
>>419
鎌倉公方の執事である関東管領の任命を公方ができない理屈があるかよ
0421人間七七四年
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2023/08/03(木) 13:04:38.77ID:mCqFXRfL
Wikipediaにはこう書いてある

>関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。
>むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、康暦の政変直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、
>特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した長尾景仲ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が信濃国にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び後花園天皇の綸旨による関東管領任命が行われた。
>その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、
>上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する家職となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった。
0422人間七七四年
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2023/08/03(木) 21:46:58.92ID:pXnY2Tun
関東管領の設立目的の一つが鎌倉公方監視だから幕府に任免権があったんだろう。
(元々管領という役職だから幕府に任免権があるのかもしれないけど)
初期の京都と鎌倉の間に特に何もなかった頃は鎌倉の推薦してきた人間でも別に問題はなかったが、
関東がきな臭くなるとそうもいってられなくなったから、任免権をきちんと行使するようになったんだろうな。
0423人間七七四年
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2023/08/04(金) 01:20:44.98ID:SrdvvZPp
任命権が幕府にある、即ち直属の上司は幕府になるから憲実も幕府と鎌倉公方の板挟みになって辛い立場になったんやろ。
0424人間七七四年
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2023/08/04(金) 16:45:11.51ID:h4w9Olv2
関東の諸大名は関東公方を支持している
そこに将軍家の刺客として関東管領が送り込まれる訳だから結構大変だよね
他にも将軍家が直臣として取り込んだ家がいくつかあるけど、後ろ盾の将軍家は遥か上方にいてそっちもそっちで混乱していて当てにならないし
0425人間七七四年
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2023/08/04(金) 18:35:49.02ID:R3m22JNG
建前上幕府に任命権があるったって実際は山内上杉家が世襲してましたやん
0426人間七七四年
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2023/08/04(金) 19:22:13.40ID:Fwark7tN
室町幕府支配領域である越後に所領があって守護家とも繋がりが深い山内上杉家が関東管領になるのが幕府にとって都合がいいからな
0427人間七七四年
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2023/08/04(金) 20:12:15.83ID:PXYvkBTW
殆どの役職は世襲化していたからな
でも正式には将軍が任命するものだから他の家が将軍に任命されてしまうと負ける
だから北条が関東公方を傀儡化して関東管領を任命させた時は憲政も謙信も京まで上って将軍に拝謁している
0428人間七七四年
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2023/08/04(金) 21:13:08.82ID:CnBvwu2a
>>425
それは後になってからのこと。
鎌倉体制成立から永享ノ乱までは山内の世襲というわけではない。
名実共に家職となったのは山内顕定の超長期在任によるものだろう。
また顕定の代で山内も実質的に戦国大名化したから世襲以外の方法で管領を決めようとすると面倒くさいことになりかねない。
0429人間七七四年
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2023/08/04(金) 23:39:50.88ID:2fC12FjX
じゃ世襲で関東管領になった山内上杉憲政も古河公方から関東管領に補任された北条氏康も、本来の任命権者である幕府の任命を受けてないって意味ではどっちもどっちな訳だ
0430人間七七四年
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2023/08/04(金) 23:59:31.41ID:marz+B9K
少なくとも関東・越後における上杉氏の影響力は無視できないから観応の擾乱で討たれた後でも
関東管領に復活できた訳で幕府としてはこの影響力があれば鎌倉公方がいらんこと考えても押さえることが可能だと思ったんだろうな。
京都扶持衆がうまく働けば京都下りの関領でも良かったんだろうけど。
0431人間七七四年
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2023/08/05(土) 01:52:21.65ID:lfanlCWl
人為のみが肥大して共同幻想が全てを統御し得ると錯覚した室町システム。
気候変動と地殻変動の時代に直面してそれが無力無能を曝け出して崩壊するのは必然だった。

幕命に拠りながら明応四年、七年、九年と馬鹿馬鹿しいほど濫発する大震災群や常態化する飢饉状況との対峙を強要された伊豆の伊勢宗瑞権力体、
それがやがて抬頭の時を迎えるのもまた必然と云えば必然なのだが、
この事例を眺めて浮かんで来るのは人文系の言葉よりもむしろ「前適応」と云うダーウィニズムの術語だ。
畢竟、ヒトの歴史とやらも生物史の一部たることから逃れ得ない。
 
0432人間七七四年
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2023/08/05(土) 02:23:37.14ID:lfanlCWl
>>429
山内憲政の関東管領就任の正統性を疑う論潮はリアルタイムでもあったと云う。
 
古河晴氏が小弓義明討伐を北條氏綱に命じたのは何故か、
関東管領ではなくて何故よりにもよって「他国の逆徒」北條だったのか、
--と云う疑問がずっと引っ掛かっているのだが、憲政の正統性問題が案外大きな意味を持っていたのかもしれない。
 
0433人間七七四年
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2023/08/05(土) 13:27:11.01ID:anWPv6E3
>>429
正確に言えばどっちも自称だけど
山内上杉家の世襲職として認知されていたので憲政の関東管領就任は誰も疑っていない
北条は関東公方より任命される事で正統性を確保しようとしたけど関東公方には任命権がないし
関東衆も認めなったため結局は僭称状態に
0434人間七七四年
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2023/08/06(日) 09:29:01.74ID:tXjj5iht
1455 享徳の乱
足利成氏(鎌倉公方→古河公方)
足利政知(堀越公方)
1495 堀越公方滅亡
1510 永正の乱
足利政氏→足利高基(古河公方)
足利義明(小弓公方)
上杉顕実→上杉憲房(関東管領)
1531関東享禄の内乱
足利高基→足利晴氏(古河公方)
上杉憲寛→上杉憲政(関東管領)
1538小弓公方滅亡(第一次国府台合戦)
北条氏綱(関東管領(晴氏が補任))
1555
足利晴氏→足利義氏(古河公方)
北条氏康(関東管領(義氏が補任))
1561
上杉憲政→上杉政虎(関東管領)
0435人間七七四年
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2023/08/06(日) 09:57:17.39ID:ZYjU3n+v
>432
小弓公方討伐は新参者に対する瀬踏みの意味もあるんじゃないかな?
今まで小弓公方側だった北条氏がこちら側につきましたと言われもなかなか信用は難しいだろうし。
0436人間七七四年
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2023/08/06(日) 11:26:43.52ID:7QPwMbBI
その頃は既に小弓公方と北条は対立していたから何の不思議もない
古河公方としては目障りな小弓公方を攻撃させたいし北条としては小弓公方を滅ぼす大義名分が欲しいわけで利害が完全に一致している
0437人間七七四年
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2023/08/08(火) 22:10:36.73ID:PU+S2jZc
同じ小弓公方勢力の扇谷上杉と争いになったから
古河公方側に鞍替えして大義名分を整えたんだよな。
古河公方側としては敵が分裂して争ってくれるんだから
多少怪しいやつでもこっちの戦力を出さないですむなら
いくらでもウェルカムだと思う。
0438人間七七四年
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2023/08/08(火) 22:32:57.68ID:DfjiOpcH
北条って小弓公方と手を組んでいたの?
0439人間七七四年
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2023/08/08(火) 23:20:16.03ID:aGBzhyB0
>>438
就いたり離れたりを繰り返してきた。
伊勢が真里谷と組んだことで自動的に小弓方になったのが両者の最初の関係。
御蔭で当時絶讃全面抗争中の扇谷と味方になってしまうという大変気まずい(笑)事態になった。
氏綱期になって北條が里見内訌に介入する過程で敵対、その後和睦。
北條は当時古河にも誼を通じようとしたが、
古河の方が「アイツは何を考えてるか知れたもんじゃねえよ」(家中宛書状)と疑うぐらいには小弓寄りと見られていた。
国府台合戦前夜は稍々距離を置く形になっていたが積極的に喧嘩を売ることも無い状態だった。
 
0440人間七七四年
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2023/08/09(水) 11:31:21.24ID:kmqPlXD7
関東は外交関係が入り組んでいるから味方の味方は敵みたいな変な事がよくあるのだわ
0441人間七七四年
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2023/08/09(水) 17:04:09.58ID:JUdvUjPV
そもそも家中で争って古河か小弓につくかとなる場合もあるし、
家督争いで助けられても都合が悪くなればそね味方だった奴を叩くのもあるからなあ。
0442人間七七四年
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2023/08/09(水) 20:43:20.90ID:QoluW/VZ
足利義明はうまくのし上がったと思う
北条氏綱との国府台の戦いで勝ててたら能力バク上げだった
0444人間七七四年
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2023/08/10(木) 12:44:56.56ID:0/mJQyMS
>>442
足利将軍家に弓を引ける者などいるはずがないとか高を括って敵軍の渡河を簡単に許すような高慢で軽率なのが戦国を生き残れるはずがない
0445人間七七四年
垢版 |
2023/08/10(木) 18:48:30.68ID:d8e4lV7Y
軍記物の記述を真に受ける軽率さも大概だけどな。
千野原靖方氏の著書等、国府台合戦の戦闘実態について現地踏査や古地理史料に依拠した蓋然性の高い推定仮説も幾つか公刊されているのに。
 
0446人間七七四年
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2023/08/10(木) 19:57:16.01ID:p02qsVHW
>>445
史料に基けば第一次国府台合戦の敗因は北条軍が簡単に江戸川を渡河できたことだろ
実際義明が傲慢だったのか、足利将軍家の血を引く自分に云々と言ったかは知らんけど、いずれにしろ江戸川渡河中の北条軍を叩けなかったことから見るに無能であると言わざるを得ない
0447人間七七四年
垢版 |
2023/08/10(木) 21:04:27.14ID:d8e4lV7Y
>>446
国府台合戦の戦闘経過を具体的に詳述した一次史料は無い筈だが?
渡河云々は後世成立の軍記の記述だろう。

クラウゼヴィッツが「異なる手段による政治の継続」と喝破した通り、戦争とは「構造」であり多変数函数だ。
その勝敗を決める要因はそんなに単純なものではあり得ない。
国府台合戦は上記で議論した複雑な政治性や時代性もあるが、
そもそも両軍の数も兵装も具体的なことは何一つ確定できない「解らない戦争」でもある。

そんな戦争について、
たかだか戦場の一具象(それも虚実不明)を取り上げて「敗因はコレだ!」と判ったような気になってしまう思考停止が軽率・軽薄な軍記脳だと云っている。
ヴィトゲンシュタイン曰く、語り得ないことを語ってはならない、と。
 
0448人間七七四年
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2023/08/10(木) 23:13:23.03ID:FHSsnlsk
ミリタリーかじってれば一次史料もデタラメ(本人たちはそのつもりは無い)なの当たり前すぎるんだけどな
お前らもミリタリーかじれよ

日米だけでなくドイツもイギリスもソ連も戦果過大だからよ
双方の記録照らしあわせないで片方の言い分鵜呑みにする愚かさがいかに間抜けかわかるよ

二次大戦なんかどこの国も実際より三倍以上に戦果膨らんでるから

モンゴメリーなんてインパールに匹敵する兵站無視な馬鹿な作戦やって明らかな敗戦なのに勝利宣言してるしイギリス人もそう思ってて迷惑被ったアメリカ人から脳筋馬鹿と呼ばれてる
人間なんて自分の名誉のために平気でこういう事するから

イギリス系オーストラリア軍も零戦とダーウィンで10数回戦いコテンパンにやられたのに兵士の士気下げないためと国民不安にさせないために勝利宣言してる
0449人間七七四年
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2023/08/10(木) 23:40:41.80ID:crl8cpn1
中国も日本の台湾征伐の時に勝ったと記念日まで建てているけど
勝ったのに台湾取られてるとか意味不明w
0450人間七七四年
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2023/08/11(金) 10:01:02.36ID:0TgT//nd
軍記物をベースにした通説の歴史観を無視して、独自の推論を繰り広げると大河ドラマのどうする家康みたいになるぞ
0451人間七七四年
垢版 |
2023/08/11(金) 11:47:10.65ID:WcwHma6u
軍記物も資料として無価値ではない
一次資料の補完をするのに使えるし、当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れるので歴史研究をする上では必読と言える
単純に小説として読んでも面白いしね
0452人間七七四年
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2023/08/11(金) 16:18:03.19ID:1JIweijh
所沢にある滝の城で、合戦あったことありますか?
0453人間七七四年
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2023/08/11(金) 22:09:24.67ID:qB/m5OYS
>>452
「豊臣公儀」による関東制圧に際して合戦あり、落城と伝わる。
発掘調査による出土物件もこれを証明する。
 
少しは手前ェで調べろ。
調べれば瞬時に解る。
スレ住人はお前のパパじゃねえんだよ。
0454人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 03:09:23.55ID:MVnyZFBK
>>451
> 当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れる
 
読み取れるのはあくまでも当該の軍記の成立時点に於ける思考や価値観であることに注意されたい。
以前からよく指摘されてきたのは、多くの軍記が成立した江戸期の武士階級の価値観と戦国期のリアルなそれとの乖離だ。
武士はもとより「村」等在地勢力と大名権力体との関係を江戸期の価値観に引き寄せた軍記の記述は結果として実態に反する「歪曲」を生み出してしまった。
これを肯定することは実事求是であるべき歴史事実究明作業について百害あって一利無き先入観を与えるものと断じ得る。
 
あくまでも物証や数理計算によるものを第一、一次史料記述を第二とするべきであって、
軍記の類に対しては常に批判と疑念を以て向き合う態度を基本としなければならない。
 
0455人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 13:13:14.08ID:fTP0Q7zK
んなことはみんな分かってんだよ
アスペかよ
0456人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 15:09:42.99ID:YglgX3A8
>>453
そんなのWIKIで調べればすぐ出てくるんだよ なんか面白エピソード知ってる人いないかと思って聞いただけだよバーカ
0457人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 20:32:19.29ID:NNT5Ggki
第一次国府台合戦は足利・真里谷・里見連合軍と北条軍でそれぞれやる気が違っていたんじゃないかなあ。
足利:逆らう北条は討つ必要から出陣→ただし今までの経緯から適当なところで手打ちになるだろう。
真里谷:家中争いの解決の為出陣→北条に打撃を与えて北条を倒すか有利な条件を引き出したい。
里見:今までの状況から足利方についているから出陣→自分が家督を取るために組んでいたし、手打ちできないかな。
北条:扇谷上杉を倒す為には足利を討つ必要がある→家格でも勢力でも下だから相手に相当の打撃を与え
0458457
垢版 |
2023/08/12(土) 20:40:14.21ID:NNT5Ggki
る必要がある。
そうしないとこちらの言う事を聞いてもらえない。
また古河公方方にも信用してもらえない。
と言うところじゃなかろうか?
そうでもないと軍記に書かれてる足利方の油断の理由がわからない。
今まで古河公方に本気で対抗した奴は上杉や武田(信長)とかいたんだから。
0459人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 21:46:25.53ID:ucoLhtYk
第一次国府台合戦
北条→江戸城、葛西城へ進出し東武蔵から扇谷上杉を攻めると見せかけて、実は背後を脅かす小弓公方を討つのが狙いだった
小弓公方→国府台城まで進軍したが、北条軍の狙いはあくまで扇谷上杉と考え、千葉氏を抑えて、北の関宿、古河御所まで攻めようとしていた

→北条が千葉氏の内紛云々を口実に太日川を渡河したいとの申出を小弓公方は安易に許してしまった(里見は止めたが無視されたので戦意を失くし、合戦が始まると速攻で引き上げた)
おまけに形式上古河公方軍として戦ったので、小弓公方についた房総勢の戦意も低下して小弓公方軍は簡単に崩壊した
0460457
垢版 |
2023/08/13(日) 06:21:35.00ID:xeFaI22b
>459
なるほど、第一次国府台合戦の経緯がわかったけど、
小弓公方は味方の扇谷上杉を切り捨てるつもりだったんだろうか?
それともどこかで両者を和睦させて主の役割を果たすつもりだったんだろうか?
0461人間七七四年
垢版 |
2023/08/13(日) 10:34:55.13ID:bMFznljT
小弓公方つったって古河公方に比べたら正統性のかけらもないバッタモンに過ぎないからな
0462人間七七四年
垢版 |
2023/08/13(日) 11:04:35.29ID:4aruPHAP
まぁ勝てば官軍ですよ
古河公方だって反逆者だったのが幕府が折れて和睦したからな
0463人間七七四年
垢版 |
2023/08/13(日) 21:16:02.12ID:xeFaI22b
>462
京都に認められたのは一応関東管領の山内上杉とは和睦後ではなかったっけ?
0464人間七七四年
垢版 |
2023/09/01(金) 23:04:42.93ID:6SHfo4BU
100年前の今日
横浜市史編纂のために集められた古文書が市庁舎もろとも焼けて失われた
0466人間七七四年
垢版 |
2023/09/26(火) 10:50:03.99ID:lLqSvxzw
すでに告知されてたw

話が通じないと面倒なので家康と北条に興味ある人は見よう、明日だ
0467人間七七四年
垢版 |
2023/09/26(火) 10:55:06.63ID:Xt7s+Ox2
どうする家康の宣伝で終わらないことを祈る
0468人間七七四年
垢版 |
2023/09/26(火) 20:54:25.13ID:odKCwR6L
>>466
所詮は女子供向けの番組だから、むしろ当スレ住人にとっては;
 ・物足りない/浅い
 ・既に否定された古い通説
 ・軍記ベースでリアリティが無い
等々で鬱憤の溜まる番組になる可能性が高いんじゃないか。
 
北條の民生政策には或る程度言及するんだろうが、
その本質が気候変動(寒冷化)と地殻変動(大震災頻発)に対する危機管理の恒常化であることにまでは踏み込めないだろう。
宗瑞凄い!氏綱偉い!氏康万歳!で終わらなければ良いが…。
 
0469468
垢版 |
2023/09/28(木) 23:36:15.95ID:mDlDrffL
>>465
見た。

>>468で書いた予想はほぼ外れた。
意外にもハードウェアからの視座で製作された(一般向け教養番組としては)稍々硬派な内容で好感を持てた。
不足不満は多々あるものの総じて善戦したと云えるのではないか。

概略内容は;
 イ. 小田原城惣構の解説
 ロ. 寺社修造事業を通じた技術移転
 ハ. 北條時代の利根川東遷事業
--と云った所で、特にハ項を取り上げたことを評価したい。
そのうちぽつぽつと所感など書いていく。
 
0470人間七七四年
垢版 |
2023/10/07(土) 19:22:59.27ID:+GeX0L+N
今週の歴史探偵は上杉謙信が主役で
北条が関東で勢力を伸ばしていて越後にまで侵入を企てたとか言っていたが
北条が越後に侵攻しようとした事なんてあったっけ?
0471人間七七四年
垢版 |
2023/10/07(土) 20:30:53.25ID:WskJBxDi
>>470
無い。
少なくとも謙信期には無い。

何故か謙信原理教信者は学者も素人も北條恐怖症のあまりそういう被害妄想に囚われがちのようだ。
そもそも不識庵その人が何やらそんな強迫観念を抱いてもいたらしいが、山内憲政あたりに有ること無いこと吹き込まれたか。

当時の北條にしてみれば
「馬鹿野郎こちとら飢饉と大水の始末で大変なんだよサの字の付く面倒くせえ連中も絡んで来やがって忙しいんだよわざわざ山ァ越えてまで遊んでる余裕なんざあるかよ篦棒メ」
と云うのが身も蓋も無い現実だったろう。
現実には北條勢が越後侵入を果たしたのは御館ノ乱の時だから童貞和尚はもう仏になっていた。
0473人間七七四年
垢版 |
2023/10/08(日) 12:42:48.85ID:JRWlSt/P
関連イベント
特別講演会「戦国大名 北条氏綱を語る」
日時:
2023年12月2日(土)
13:00~17:00(開場12:00)

場所:
小田原三の丸ホール 大ホール

講師:
・黒田基樹氏(駿河台大学教授)
・浅倉直美氏(駒澤大学准教授)
・諏訪間順氏(小田原城天守閣館長)

定員:
1000名
※要事前申込

参加費:
500円(資料代)

申込方法:
11月10日より受付開始
0475人間七七四年
垢版 |
2023/10/12(木) 22:35:15.86ID:iwiN5K3J
歴史探偵上杉回が軍記頼りなの意味わからんな
0476人間七七四年
垢版 |
2023/10/12(木) 23:03:51.78ID:4A0Fqgez
>>475
考古学成果物や同時代文献などに依拠して実証考察なんかしてみろ、
謙信カルト信者に何をされるか分かったもんじゃねえぞ。
NHK職員だって命は惜しいし家族もいる、察してやれ。
0477人間七七四年
垢版 |
2023/10/13(金) 22:10:28.80ID:YqKfB59A
上杉家文書・歴代古案が泣いてるぜ
0478人間七七四年
垢版 |
2023/11/07(火) 00:27:10.18ID:/9YH9eMX
鎌倉市・古河市が協定で公方関係かと思ったら永井路子だった
0479人間七七四年
垢版 |
2023/11/13(月) 20:46:35.67ID:2YUlrMAN
>>476
まあ、それだけ現実よりも理想が好きな人が多い訳。
研究者やらの先生が力説しても無駄な事がある。

諦めた方がよいかな。
0480人間七七四年
垢版 |
2023/11/14(火) 18:34:12.36ID:aWrxtfl1
越相同盟で上杉謙信の関東での威信排除したのは大きかったね。
あれで佐竹、里見は上杉信用しなくなったわ
0481人間七七四年
垢版 |
2023/11/16(木) 10:14:23.91ID:MmX/ZtVl
北条と佐竹との対立が続き、交戦中のため1578年に謙信死去の際に上杉家中の内紛に同盟者の武田勝頼を派遣させたのはよかった。しかし、勝頼が景勝に取り込まれてしまい武田上杉の同盟が成立して北条と武田が対立したのは無駄だったね。
 あと、1562年3月に古河御所にいた足利藤氏と上杉憲政を襲撃したのはわかるが関白の近衛前久も滞在してたのであそこで北条が前久を拉致すれば前久を北条が支えて上杉謙信の関東進攻の大義名分を完全に失う事が出来たのに惜しかったね。
 後半についてはたられば論だが、上杉側の立場だけでなく北条側の古河での関白近衛前久襲撃を考察するものってないよね。
0482人間七七四年
垢版 |
2023/12/02(土) 11:07:20.69ID:Tk3AYbdo
>>476
北条早雲88歳死亡説を否定したアホも殺したいわ
0483人間七七四年
垢版 |
2023/12/04(月) 22:56:44.92ID:X96khq5T
典拠史料はボールペンで書かれた他家(北条家ではない)の過去帳です
0484人間七七四年
垢版 |
2023/12/10(日) 02:11:59.56ID:S26tY4UN
>>481
上杉謙信の関東侵攻の目的は越後國の飢民の救済事業だから「大義名分」などは無くても構わなかった。
そもそも山内憲政の亡命さえ単なる口実だからそれが無くても何れは越山しただろう。
他方で同じく「飢饉と災害の常態化」を前提にしながら北條の領民救済政策は上杉とは全く異なるイデオロギーに基づくものだった。
どの道、両者の激突は避けられなかった。
 
0485人間七七四年
垢版 |
2023/12/11(月) 09:39:23.19ID:GaokJvq6
資源を他国の略奪に求めた上杉
領民から搾り取る事に求めた北条
悲惨なのは西関東の農民だったな
上杉に略奪されるわ残ったものも北条に巻き上げられるわで
0486人間七七四年
垢版 |
2023/12/11(月) 12:37:43.97ID:02hADFfe
関東戦国ヲタクからすると
謙信が義の人とか侵略しなかったとか何を寝言ふかしてんだって話だよな
0487人間七七四年
垢版 |
2023/12/11(月) 13:21:14.66ID:Bwz5UlOm
謙信の関東攻めは略奪目的だったなんて
あほらしい説を信じてる人もいるぐらいだしな
0488人間七七四年
垢版 |
2023/12/11(月) 14:57:48.82ID:URtHpuBc
まあ、義があったと言えばあったけどな
日本人の大半は歴史に大して興味がないし漢学も忘れてしまっているから義の意味が分からない
義がどうこう言っている人の99%以上は善の事を言っているんだよな
学者でさえも
何せ正義の対義語を悪だとみんな言うし
正義の対義語は不義であって、悪の対義語は善だ
正義と善は全く別のものであって同時に存在する訳ではない
謙信の場合で言えば謙信は義の人であり悪人であるというのが正しい評価だろう
0489人間七七四年
垢版 |
2023/12/11(月) 20:11:30.67ID:LqfME3Pj
>>488
悪も善もない。
上杉謙信は小氷期の越後國の為政者として「越後の」飢民救済を図っただけ。
謙信の人格も関係ない。
或る構造の中で偶々そういう時機/立場に存在してしまっただけ。
越後人にとっては善、関東人にとっては悪と云って云えないこともないが所詮は相対的な言説に過ぎない。
ただ、客観的結果は無残なものだったから目的機能として「拙」とは云えるかもしれない。
 
対して北條氏康/氏政。
その意味では辛うじて「巧」と称するに足るか。
 
0490人間七七四年
垢版 |
2023/12/13(水) 21:34:17.82ID:ztbKdM66
>>486
関東つか上野、下野の国人領主から見たら北条も変わらん
0491人間七七四年
垢版 |
2023/12/13(水) 21:40:45.37ID:A/wdMyCk
>>490
慥かにどっちも大して変わらない筈なんだが、
正にその國衆たちが不識庵童貞和尚に不信任を突き付けて軒並み北條方になっちまったからこそ和尚は越山も出来なくなって敗退したわけだ。
 
0492人間七七四年
垢版 |
2023/12/13(水) 22:30:07.27ID:ztbKdM66
>>491
その書き方だと上杉が敗けて北条が勝ったように取れるけど実際には…
って話しになるけどね
0493人間七七四年
垢版 |
2023/12/13(水) 23:38:40.43ID:A/wdMyCk
>>492
正に北條の全面勝利、上杉の完全敗北。
それ以外に何がある?

戦国板に書くほどの御仁がまさか「戦争の勝敗」の定義や要件を知らないわけじゃあるまい。
それともクラウゼヴィッツ辺りを引用して説明する必要があるか?
 
0494人間七七四年
垢版 |
2023/12/13(水) 23:48:54.47ID:mu5Y8tiV
越相同盟なんて言ってるけど実質的に上杉の降伏だもんねアレ
一方的に北条優位の内容だし
0495人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 00:01:39.28ID:iXY3ovHx
>>494
あれはもう北関東戦争終了後のことだから相互に顔が立てば何でも良かったんだろう。
 
「戦争は、平時とは異なる手段に於ける政治の継続である。」
欧州語直訳らしい持って回った云い方をもう少し日本語らしくするならば
「戦争はあくまで政治目的を達成する為の手段である。」
 
北関東戦争に於いて北條と上杉の政治目的は何だったか。
それを達成したのは北條だったのか上杉だったのか。
戦争の勝敗はこの要件によってのみ判定される。
結果は明らかだ。

武田との北信戦争に於いても敗北しているが、
どうも上杉は「目的の下に行動を組織する」ことが拙劣だったように見える。 
 
0496人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 00:26:35.14ID:XpKL7UlL
くそみたいな小理屈いらないんだよ
戦は自分達が強く偉くなる為の手段でしかない
0497人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 01:32:43.00ID:iXY3ovHx
>>496
その思考自体がスレチ、否、板チだと気付け。
ここは苟くも歴史を語る板だ。
ゲームやマンガに受けた洗脳から脱して、
まともな学術研究論文の一つも読んでから出直して来い。
さもなきゃソッチ方面の板にでも行くんだな。
0498人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 03:59:48.60ID:xe6T65Xo
>>497
すまんがお前の書き込みも妄想してるやんな
学術レベルってなんの話だ?
笑わせないでw
0499人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 05:08:31.38ID:0z4vfyp3
荒れてると思ったらまた北條氏か 北条の話題だと必ず顔出すよねw
戦国板住民を馬鹿にして見下すのにいつまでもいる奴
北条擁護ばかりで子孫なのだろうか
0500人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 09:13:03.23ID:sJRFb9zU
北条氏のスレで北条の話を出すと荒れるってことはアンチが暴れているのか
0501人間七七四年
垢版 |
2023/12/14(木) 11:14:06.20ID:CQjEVeul
まあ、捏造伝説を何百年も垂れ流し続けている長尾上杉関係者の方がタチが悪いね
あれに比べたら北條君なんて可愛いもの
0503人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 10:32:28.83ID:e/G6fU/G
略奪者上杉は北条スレも自分のものだと思っているんだろうね
0504人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 11:39:38.49ID:DEWVKW7q
まあ北条スレだからと言って北条有能!
ってやる必要はないし、実際有能だったらあんな無様な最期にはならんと思うけどね
その無能な部分すらここでは北條氏のアクロバティックな擁護があるってだけで
0505人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 12:02:07.65ID:7f/q9VOc
最後が駄目なら低評価というのなら織田信長より六郷政乗や分部光嘉の方が有能って事になるのか
バカの理論ですね
当然落ちぶれた上杉景勝よりも領地を増やした六郷や分部の方が有能って事ですよね(笑)
0506人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 12:08:47.45ID:DEWVKW7q
>>505
最後じゃなくてその過程な
やっぱりアクロバティックな擁護するには、その過程無視するんだ?
0507人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 12:59:22.11ID:8UrH5NFG
過程なら北条は地方大名最強ですね
上杉の支配領域なんて北条の半分程度だし雑魚ですよ
0508人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 13:53:55.61ID:6UkSeAMJ
上杉は他所から人間拐って奴隷で稼ぐようなクズだから領地は必要最低限でいいんですよ
0509人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 15:50:33.57ID:Vg2egABZ
>>502
北条を北條と書いて嘘ばっかり書く荒らしが住み着いているんやで
0510人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 20:15:58.04ID:c0AG8Bkq
>>509
そこまで云い切るんなら、
当スレの俺の書込を全て抽出した上で何処が嘘か説明してもらおうか。
「嘘」と云うなら解釈や価値観の違いレベルじゃ済まない。
当該各項の全てに逐一物理的事実の根拠を付けて「虚偽であることの証明」をしてみろ。
他人に対して無礼な罵言を吐くからにはその罵言に責任を持て。
 
0511人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 20:30:10.25ID:Vg2egABZ
残念ながら荒らしは相手にしないよ
0512人間七七四年
垢版 |
2023/12/15(金) 20:46:06.06ID:c0AG8Bkq
>>511
北條スレで北條に関する考察を書く者を「荒らし」呼ばわりする。
これを荒らしと云う。

他人に喧嘩を売っておいて買われてしまうと恐慌を来して逃亡する。
これを卑怯者と呼ぶ。
 
…まあ、文面と文体で手前ェの素姓は割れた。
飽きもせずに粘着御苦労。
 
0514人間七七四年
垢版 |
2024/01/01(月) 03:02:48.25ID:TR1h41an
謹賀新年。

>>230に挙げた書籍が面白くて、もう十回以上読み返している。
道灌の江戸、北條の江戸、徳川の江戸、…、
実証研究が進めば進むほど中世(戦国)関東史に於ける江戸の重要性が増大してくる。
東京者としては素直に興趣を惹かれる。
近いうちに思う所を書きたい。
 
0515人間七七四年
垢版 |
2024/01/06(土) 12:16:42.05ID:aQzGIBoX
キモオタが書いた本は焚書坑儒せんとな
0516人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 05:34:13.96ID:ewN7YScj
江戸はちょくちょく大地震が来ることがわかっていたわけで。

大地震のリスクを考えると江戸を大都市にしたのは疑問手と言えば疑問手。
0517人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 08:50:38.32ID:v0JfTRxy
つまり江戸以降令和までの政権はすべて無能と
0518人間七七四年
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2024/01/11(木) 09:20:53.98ID:gBU409nG
ちょくちょくと言うほど来ないだろ
200~400年周期だし
災害が少なく江戸湾という大きな安定した海に接する江戸ほど大都市形成に適した土地はなかなかない
欠点としては地震よりも河川が集中しすぎて洪水が多発する事にあったけどそれも利根川の付け替えで改善できた
0519人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 13:51:08.67ID:ewN7YScj
帝国陸軍の調査では、大地震が来ても被害が少ない場所として八王子と加古川がリストアップされた。
0520人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 19:39:07.38ID:r88mbm2K
日本に大地震がない平野は存在しない
0521人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 21:43:00.27ID:/Q6ufMbO
>>518
例えば。
日本列島の「火山地帯」と云う属性は大地震を頻発させる一方で温泉その他多大な利点ももたらしてくれる。
自然環境条件には必ずそういう両義性(多義性)がある。

同様に、
大河川の集中は定期的に水害を招く一方で肥沃な土壌や高度な河川水運と云う大きな強味も与えてくれる。
特に後者は現代交通の陸運偏重の色眼鏡を通すと見え難いが、
中世社会の構造を考える時には絶対に欠かせない要素だ。
江戸、河越、関宿、古河の水運を一体的に掌握運用出来たなら海に直結する江戸は正にハブとしての絶大なポテンシャルを遺憾無く発現出来る。
少なくとも氏康期以降の北條の江戸重視はそういうグランドデザインに拠って立つ施策だったと考えられる。
 
0522人間七七四年
垢版 |
2024/01/11(木) 22:08:16.92ID:THtNv5KC
掘立て平屋と土の道路
地震で壊れようが洪水で壊れようが現代のような産廃は出ない
0523人間七七四年
垢版 |
2024/02/10(土) 00:58:57.85ID:TkBKmv3n
霞堤も現代ではゴミの処理が大変なんだそうで
0524人間七七四年
垢版 |
2024/02/11(日) 22:37:36.94ID:CyS/ab5q
>>523
西洋由来の「現代文明」なるものが如何に狂った方向へ走り続けてきたか、と云うことですな。
先人たちに顔向けできない。
 
0525人間七七四年
垢版 |
2024/03/05(火) 21:29:19.95ID:YLGEIvJm
江戸時代の系図に信玄の書は草
0526人間七七四年
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2024/03/05(火) 21:32:36.39ID:YLGEIvJm
系図 享禄
信玄の書 弘治

なお系図の書式は江戸時代

3000円
0527人間七七四年
垢版 |
2024/03/05(火) 23:13:56.54ID:ao1Drlz8
>考えられる。
長々書いて結局根拠史料も提示できない妄想か
0529人間七七四年
垢版 |
2024/03/08(金) 00:25:01.23ID:LYkva14Z
地元・北多摩地域の北條期について調べるうちにこんな資料を見つけた。
https://adeac.jp/kodaira-lib/text-list/d100020/ht000180
https://adeac.jp/kodaira-lib/texthtml/d100020/mp000010-100020/images/025.jpg
 
井戸の深いことで知られる武蔵野台地。
その深さが近世まで開発を限定してきた--と、俗説ではそういうことになっている。
しかし「地下水堆」「宙水」と呼ばれる浅井戸帯も少なからず存在していて、その地上には古来集落が営まれてきた。
上図は浅井戸帯の分布図の上に『北條所領役帳』所載の被官拠点集落(図中の「〇」)を記したもので、両者には見事な相関が認められる。
そこには我が町の名前も見える。

小生は元々武蔵野の中小河川群に強い関心を持つ者だが、
そのせいか斯様な図を見ると現代の武蔵野と北條期のそれとの間にか細い、しかし確かなリアリティの糸が繋がったように感じられる。
 
0530人間七七四年
垢版 |
2024/03/08(金) 05:37:52.28ID:7q13xiZ6
神奈川県立歴史博物館
@kanagawa_museum

当館では特別陳列「戦国大名北条氏と西相模・伊豆」を3月16日(土)から開催するぞ。
珍しい使われ方をしている北条家朱印状、伊勢宗瑞の動向を伝える古文書や、北条氏綱時代を知るための重要資料である「快元僧都記」など約20点を展示するのじゃ。
みなが来るのを楽しみに待っておるぞ。
0533人間七七四年
垢版 |
2024/03/10(日) 11:56:22.00ID:+ShwA+HF
前に子供に聞いたら「わかった!絵描きだ!」って言われたことがある
0534人間七七四年
垢版 |
2024/03/10(日) 13:17:19.54ID:WJdCfptB
正直自分も知らなかった
関東に上杉がいたことすら知られていない
0535人間七七四年
垢版 |
2024/03/10(日) 13:22:40.56ID:rNggP6C5
>>230に挙げた齋藤慎一氏の『江戸 -平安時代から家康の建設へ』に拠りつつ、
北條の江戸について。
 
巷間今なお抜き難い「江戸は家康から」なる虚構に反して、
北條は扇谷/太田から承け継いだ江戸城と城下町の拡充整備を継続的に施工していた。

先ずはその始点となった太田道灌の江戸。
城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。
今日の北ノ丸、吹上曲輪、西ノ丸下などは未だ存在しない。
平川が城の北から東へ巻き込むように流下、
南の平川湊で日比谷入江に注いでいた。
道灌濠(人工溝渠)、平川(自然河川)、日比谷入江(海)によって四方に水面の防御線を構える実戦的な城だった。
当時の城域は台上に限られていて段丘面から平川右岸低地、今日の二ノ丸・三ノ丸に当たる区画は城外だった。
大手は今日の平川橋でこれを「高橋」と云った。
今に姿を留める梅林坂は台上の城から段丘面を高橋に下りる道の名残で、
これは西方から城内を貫いて北東へ抜ける「鎌倉大道」の一区間でもあった。
高橋の上流側と下流側、両岸にわたって展開していた城下町「上平川」「下平川」或いは「平川宿」は、
鎌倉大道と平川舟運の交差する「舟車之会」を成して大いに繁栄していたと同時代文献は記す。
 
(続)
0536人間七七四年
垢版 |
2024/03/10(日) 13:24:16.22ID:rNggP6C5
(承前)
 
北條の江戸城、ハードウェア篇。

北條期の主要な城域整備工事として確定的に把握されているのは概ね以下の如くである。
 イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
 ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
 ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
 ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ
 
総じて城の東面の拡充強化に注力していたことが推察される。
内濠の整形、大手の位置と方向、後年の「大手前」相当区域の城下町化など、
今日の江戸城現地に土地勘のある人なら直観できると思うが、
徳川期江戸城内郭東面の祖形が漸く現れつつあったと云えるだろう。
 
他方、
城域南東面の日比谷入江は道灌期と概ね変わらぬ姿であったかと推測される。
大橋宿も平川宿と同様に繁華の巷となっていた由、舟が大橋まで上って来ていたことに疑いを容れない。
即ち日比谷入江が舟運通航可能な状態を留めていたことを意味する。
かつては「大橋」を常磐橋に比定して平川の流末付替--平川湊から江戸前島を挟んだ東方の江戸湊へ--を北條期の工事とする説もあったが、
これは通説通り徳川期の仕事と見て可のようだ。
 
(続)
0537人間七七四年
垢版 |
2024/03/10(日) 13:26:17.38ID:rNggP6C5
(承前)
 
明らかにならないのは西側即ち今日の吹上曲輪である。
吹上曲輪の西縁を限る内濠西半部の完成は勿論徳川期に入ってからのことだろう。
これは牛ヶ淵、千鳥ヶ淵、半蔵濠、桜田濠によって構成されるが、前三者は局沢川、桜田濠はまた別水系の小河川を原形とする。
つまり北條期までの吹上曲輪相当区域は東を道灌濠、西を上記諸河川の谷によって明確に区切られた台上の区画だったと云うことになる。

諸々の古記録や諸碩学の論考を見るに当時此処が城外であったことは間違いない。
しかし上の如く何らかの施設を構えるに究竟の一画を北條は勿論のこと太田道灌ともあろう者が原野のまま放置したとは素人目にも不可解の感を禁じ得ない。
これは全く無根拠の話になるが、
後述の理由によって少なくとも北條期に於けるこの区域は城外ながらも「準城域」とも云うべき占有地だったのではないかと想像している。

以上、北條期江戸城の物理的構成は;
 ・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
 ・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
 ・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
 ・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
 ・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
 ・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
 
(続)
0539人間七七四年
垢版 |
2024/03/12(火) 08:01:24.27ID:Xp9adjl7
>>538
條も正解だぞ。
0540人間七七四年
垢版 |
2024/03/12(火) 22:28:31.04ID:Q6tCiUu2
>>537から承前)
 
北條の江戸、ソフトウェア篇。

北條期に於ける江戸の位置付け・運用は概ね以下の諸点に要約される。
 イ)利根川水系戦線の前線基地
 ロ)大規模動員時の集合出撃拠点
 ハ)関東交通網のハブ都市
 ニ) 「鎌倉殿」御座所計画地
 ホ)北條領国両都体制計画地
 
イ)については元来江戸城が享徳ノ乱初期に於いて御所方の上総武田・千葉・安房里見等房総勢力群に対する攻守拠点として築城されたものであることを考えれば当然ではある。
皮肉にも扇谷から城を奪った北條もまた同じ勢力群を主敵とする「利根川戦争」構造に引き摺り込まれて行った。
ヒトの些末な意志など無化して類型行動を強要する「利根川」に魔性さえ感じるが、それはまた別途。
齋藤氏はこの軍事状況が北條期江戸城の大手移転=房総に向かう東面の「正面」化の動機であると考察する。
 
(続)
0541人間七七四年
垢版 |
2024/03/12(火) 22:32:23.48ID:Q6tCiUu2
(承前)
 
両度の国府台合戦に見る如くロ)はイ)を包括するが、
その他にも関宿や岩附方面の戦争等北條宗家直率軍が動く大規模軍事行動に際しては先ず江戸城に入城、
支領勢や近隣の味方國衆勢の集合並びに戦争機材の集積を待ちつつ情勢分析や軍議を尽くしてから出撃していた。
北條の江戸重視の証左であるが、
実はこれが上述の「吹上曲輪相当区域は準城域だったのではないか」と云う私見の切掛にもなっている。
北條の盛期に於いては上記の如き動員は四桁台後半、万に迫る軍勢を集めたことだろう。
その全てが当時の城内に集合し得たとは物理的に考えられない。
少なくとも数日間、厖大な人数の集中屯営できる空間が確保されていなければならない。
推考の仔細は割愛するが、
北條勢力圏の方角や主要道路/水路の筋等も勘案すると当時の江戸城至近でこの要求に堪え得る場所は吹上と神田の台くらいしか無かったものとみられる。
戦国期である以上斯様な軍事行動は頻繁に行われたわけだがその狭間に一般住民が居住・耕作等するようでは有事の運用に支障を来す。
一定以上の制限を設けた占有地的性格の空間ではなかったかと推測する所以である。
異論は勿論あろうかと思うが。
 
(続)
0542人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 13:22:00.18ID:LLCkxv6g
秀長を主人公に豊臣兄弟を作るなら幻庵を主人公にして北条一族も作ってくれ
0544人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 17:50:54.89ID:rEAVf+ko
>>542
伊勢宗瑞(北条早雲)は何故実現しない?
新説の幕府史僚出身は確定してるし。
0545人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 19:59:44.11ID:z4W9S6pm
戦国初期は人気がない
後の世代は見せ場ない
最後に至っては太閤記の引き立て役の存在でしかない
0546人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 21:59:01.15ID:j44XILT5
確定してないだろ
申次が将軍の側を離れてあっちゃこっちゃ遠国に滞在してる例が他にあるのか(ない)
0548人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 23:03:37.76ID:TnnXtZcw
確かに将軍の近くにいないと申次にならないなw
0549人間七七四年
垢版 |
2024/03/13(水) 23:46:05.81ID:KhtpbFyU
伊勢盛時は伊豆侵攻と殆ど重なるタイミングで「奉公衆」即ち将軍直属の暴力装置に編入されている。
堀越御所の内訌は勿論、
ドサクサ紛れに今川家督争奪戦争への介入についても法的正当性を遡及適用(法理学的には禁忌)せんとする幕府の意志が垣間見える。
 
いつの世も、役所は役所。
 
0550人間七七四年
垢版 |
2024/03/14(木) 00:40:02.49ID:HPR5V9p3
>>541から承前)
 
ハ)について。
江戸には下記の要路群が集中交差していた。
道灌や北條の仕事と云うよりも歴史の必然、多くは自然環境条件の然らしむる所だったと云える。

 ・陸上交通: 鎌倉大道(下ノ道)、矢倉沢往還、国府路道(古甲州街道)、清戸道(古川越街道)、岩附道、浅草道、等々
 ・河川交通: 平川、旧石神井川、隅田川(入間川)、荒川、利根川、古川、多摩川、等々
 ・海上交通: 平川湊、江戸湊、品川湊、「武総之海」沿岸~外海
 
北條期に関して特筆すべきは、
利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。

就中、河川交通に注目したい。
それは陸運偏重の価値観を刷り込まれた我々現代人の盲点でもある。
上記の河川水運はそれだけでも重要な交通網となるが、
関宿~古河と云う要所経由で更にもう一つの世界=印旛沼香取之海水系~常陸外海への交通網と接続すれば壮大な陸水ネットワークを構成できる。
江戸は正にその要であって、
北條氏康・氏政の関宿攻略に懸けた執念は江戸の安定拠有を大前提とするものだったことを理解してこそ初めてその本義を知り得るだろう。
むしろ北條の江戸都市整備、牽いては関東全土制覇運動の動機が大半此処に在ったかとさえ思われる。
 
なお附言すると、
陸上の要路の江戸集中に関しては永享ノ乱以来の「鎌倉の地位低落・江戸の相対的抬頭」の趨勢による道路変遷の結果であると齋藤氏は論考している。
今日顕著な東京(江戸)中心の放射状道路網形成は既に漸く始まっていた、と。
鎌倉期の所謂「鎌倉往還」群と戦国期の主要道路群を比較してみれば氏の論旨は至当であると判断される。
 
何れにせよ江戸が中世特に北條期から重要都市だったことは疑いを容れない。
この切口からも「江戸は家康から」なる巷説の虚妄は明白と云える。
 
(続)
0551人間七七四年
垢版 |
2024/03/14(木) 09:18:53.25ID:hGwf3Tju
豊臣兄弟かー
こんどこそ後北条と思ったのに
いったいなにが悪いんだろう 
伊豆は静岡県だけど、やっぱり徳川今川になるのかな
小田原は神奈川県 神奈川って後北条押してないのか?
もっとNHKにロビー活動しろよ
0552人間七七四年
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2024/03/14(木) 13:11:22.08ID:BtfEtW6+
神奈川は鎌倉幕府で何度もやっているので
この前も執権北条氏をやったばかりだしパチモン北条なんて興味ないです
0553人間七七四年
垢版 |
2024/03/14(木) 18:54:42.30ID:MQHQMlej
昔まことしやかに言われてたのは某宗教団体の名誉会長が北条が嫌いだからってのがあったね
0554人間七七四年
垢版 |
2024/03/14(木) 19:30:44.59ID:71ddNwZK
織田豊臣徳川あきたわ
何回擦るんだよ
0555人間七七四年
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2024/03/14(木) 20:32:28.12ID:OiNjhrXP
天下人はネタが豊富だから作りやすい
マイナー武将は大部分を創作ネタで補う事になるので微妙な内容にしかならない
0556人間七七四年
垢版 |
2024/03/15(金) 00:15:37.92ID:lTJ8WW2s
>>550から承前)
 
ニ)の足利義氏江戸移座計画は遅くとも永禄元年(1558)には北條氏康の下で準備実行段階に入っていた。
義氏自身の江戸入りが具体性を帯びるのは永禄四年(1561)即ち長尾景虎「越山」以後の軍事状況によるものだったが、
計画そのものはそれ以前から既定の政治工程だった。
諸条件に鑑みればその発端はどんなに遅くとも義氏「鎌倉殿」継承の天文二十一年(1552)、
或いは河越合戦で足利晴氏が北條に完全屈伏した天文十五年(1546)にまで遡るものとみられる。

永禄年間の発信書状に見る限り義氏は移座についてかなり前向き、むしろ前のめりだったようだ。
江戸を己の御座所として不足も不審も無しとの認識が窺える。
北條氏綱による江戸城接収から二十余年、
既に江戸は関東に於いて軍事・経済のみならず政治的にも特別な地位を占めるに至っていた。

(続)
0557人間七七四年
垢版 |
2024/03/15(金) 18:24:09.81ID:boFtcIWs
>>550
>北條期に関して特筆すべきは、
>利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。
こんな風に断言する根拠史料は何なのかが知りたい
0558人間七七四年
垢版 |
2024/03/15(金) 21:22:01.17ID:iCNLFQj7
>>557
中世関東の地理水文。
大橋及び大橋宿の構築。
北條氏康の言葉。
北條氏照の廻船政策。
北條氏政による両都化。
街道の付替。
そして何よりも物理法則と経済原理。
これだけ材料が揃っていればこれらの具象群を規定する函数を推考することは誰にでも出来る。
 
異論は歓迎する。
拙論に納得行かないのであれば貴君の想定する北條の国家モデルの体系的全体像を伺いたい。
 
なお、
以前から云う通り「史料」の片言隻句の些末な解釈に血道を上げる近視眼の玄人ゴッコに付き合うつもりは無い。
悪しからず。
 
0559人間七七四年
垢版 |
2024/03/15(金) 21:45:58.43ID:iCNLFQj7
「江戸」と云う範疇を超えるから一連の書込(もう幾つか書く)では触れなかったが、
北條氏照の廻船政策によって逆照射されるのは権力体の想定以上のレベルで留保されていた在地のポテンシャルだろう。
流域の一元掌握と云うトリガーを引くことでその解放がむしろ暴走し始めていたことを示すものとみられる。
 
0560人間七七四年
垢版 |
2024/03/15(金) 22:03:56.52ID:Ed5HLnVR
>>538
晒し上げ
0561人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 12:13:08.99ID:lGanvyte
江戸については岡野友彦氏の「家康はなぜ江戸を選んだか」って著書があった
北条氏の記述は限定的だったけど
0562人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 14:18:30.63ID:nrdgXy/4
>北條氏照の廻船政策
これは布施美作守宛書状と天正四年九月二十三日付書状のことを言っているのだろうか?
いずれにしても直接的な根拠史料があるわけではなくて、推測であることは良く分かったのでもういいです。
0563人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 16:17:28.90ID:HMHpVs42
北条水軍の関係者が海路、松島の瑞巌寺を参拝したことがある、
という論文を読んだ記憶があるのだが。

北条と伊達にとって佐竹は共通の敵なんだが、水面下で交渉はあったのかもしれない。
0564人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 17:14:43.04ID:ojvSK78y
>>563
> 海路、松島の瑞巌寺を参拝
 
事実であれば「里見降伏」が絶対的な要件になるから天正五年以降のことか。
佐竹水軍は河川警備隊程度の質・量に過ぎず里見や北條のそれと比べるようなシロモノではないと読んだことがある。

だとしても太平洋岸の沿岸航法、
潮に逆らって松島まで行くのはなかなか骨が折れたろうな…。
0565人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 17:18:13.32ID:ojvSK78y
>>561
ありがとう。
調べてみたら面白そうだ。
が、出版が99年。
新刊で買えるかなあ…。
 
0566人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 17:21:31.12ID:ojvSK78y
>>556から承前)
 
永禄十三年(1570)頃迄には御所重臣の移住も実現するほど進捗していた「鎌倉殿」江戸御座所計画は、
しかし相越同盟の「御座所は古河なるべし」との合意条項を以て未完のまま終焉する。

これを承けて北條はホ)の方向に動く。
江戸領を城代支配から一門衆支領へ、
更には小田原との両都化を思わせる存在へと引き上げて行く。

北條の江戸城と云えば遠山・富永・太田の城代三頭体制だが、
天正二年(1574)に至って地黄八幡こと北條綱成の子、北條氏秀が城主となった。
即ち江戸領を瀧山領、鉢形領等に次ぐ一門衆支配の支領格とした。
 
氏秀歿後(天正十一年[1583])、
事実上の江戸城主/江戸領主となったのは「御隠居様」北條氏政だった。
当時の家中には他に幾らも人材はあった筈だが、
敢えて氏政=実質的総帥の執政拠点化という措置からは当主北條氏直の小田原との両屋形/両都を視野に入れていた蓋然性が強く感じられる。
少なくとも例えば氏直の兄弟辺りでは済まされない程度の重要性を北條権力体が江戸に認めていたことは疑えない。
 
(続)
0567人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 17:29:10.02ID:ojvSK78y
(承前)
 
天正二年(1574)、北條の関宿接収。そして越後上杉の関東全面撤退。
天正五年(1577)、安房里見降伏。
天正十年(1582)、甲斐武田滅亡。踵を接して織田政権崩壊と北條の上野國制圧。
自然環境条件は依然厳しいが、
軍政上はもはや関東制覇に障碍無し--であるかに見えた--との状況現出を受けて、
北條はその領国構造を戦時体制から平時体制即ち「あるべき姿」へ漸次移行せんと指向したのではないか。
 
巷説に謂う。
北條は関東王国を目指しながらその首府として南西僻陬の小田原に固執し続けた、
これは地政的には明らかな誤謬・失敗であり北條の保守性・退嬰性を示すものである、
--と。
 
この巷説は否定せざるを得ない。
江戸を特別な都市とする施策はかなり早期から漸進的に実行されてきた。
地理水文や流通に於ける「関東中央」たる江戸を軍事のみならず政治の重要拠点とすることは既定のプログラムだった。
上に見る如く江戸が「平和」「安全」な場所となることで愈々顕現したそのプログラムの行方が「両都」化=より自然な領国構造と云う地点であったことは今や疑う方が難しい。
 
(続)
0569人間七七四年
垢版 |
2024/03/18(月) 08:24:14.47ID:qVLNSsgV
病気だよ 北條氏は自分のレスが荒らしになってるのが分かってない
誰が読むんだろうね 一人二人はいるか
0570人間七七四年
垢版 |
2024/03/20(水) 01:10:35.67ID:G+TaBu7l
(承前)
 
総論。
 
江戸なる都市は、戦争が生んだ。

それは「享徳ノ乱」なる大構造の重要構成要素として立ち上げられた。
しかし稀有の自然環境条件がこの地に与えた巨大なポテンシャルに鑑みれば、
究竟の軍事拠点などと云う位置付けは役不足も甚だしい。
太田道灌は江戸をその軛から解放せんとしたが彼に残された時間はあまりに少な過ぎた。
 
扇谷を経て北條が引き継いだのは道灌が遺した未完の都市建設事業だった。
関東戦国の業火が愈々燃え上がる中、
しかし北條領国の拡大と共に戦線は北へ、東へと遷って行く。
戦火から漸く遠ざかった武蔵野の涯、仮初めの平和を得た江戸で、
北條はその本来の可能性を解放し始める。
 
江戸なる都市が、生まれ変わろうとしていた。
 
後の顛末は史実に見る如くである。
北條にも残された時間は無かった。
北條から引き継いだ徳川の下で、江戸はそのポテンシャルを遺憾無く爆発させることになった。
平和なればこそのことである。
見誤ってはならないことは、
徳川が江戸に平和を齎したのではない、
徳川は北條から平和な江戸を承継したという事実である。
運命を知ってか知らずか、
徳川は説得を以て江戸城を開かせて城も町も焼くことは無かった。
 
(続)
0571人間七七四年
垢版 |
2024/03/20(水) 01:12:17.00ID:G+TaBu7l
(承前)
 
「北條の江戸」が何であったかは一言では語り難い。
様々な見方もあろう。
しかし、
「江戸の北條」が何であったかは一言で語り得る。
 
『戦争から平和へ』。
 
江戸なる都市の滔々たる発展史に於いてその構造に組み込まれた「北條」なる部品の果たした画期的機能はそれに尽きる。
而して北條はその成果を見ることなく去った。
不条理かもしれない。
が、
北條を否定せず丸呑みした徳川は当時に於いて世界水準を抜く都市と統治体制を築き上げて行くことになる。
末期北條の江戸に於ける仕事は恰かもその準備に自覚的であったかの如くである。
そうでなかったとしても生物進化学に謂う所の「前適応」という作用は十二分に果たした。
 
北條、以て瞑すべし。
 
(終)
0573人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:07:11.81ID:nYQMlBqg
このスレは妄想と願望をポエムする場所だからしゃーない。
まあポエポエするのは1人だけだけど
0574人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:54:18.57ID:5UtGHkGa
伊勢宗瑞と地震の関係。
先ずは対象となる三つの地震について。
 
【明応四(1495)年八月十五日 地震 津波】
『鎌倉大日記』『熊野年代記』等。
地震の推定M不明。津波の推定波高8m前後(鎌倉、東伊豆)。
由比ヶ浜で二百余人溺死、鎌倉大仏殿が流失したとの被害記述(実は誤読か)の残る震災。
古来著名な地震であったが1980年代に於ける文献史料批判に基づく研究によりその実在性に疑義が呈された。
近年は史料の記述は明応七年地震(後述)との混同、誤記であるとしてこの地震の存在を否定する見解が主流となるに至っていた。
しかし2010年代に入って歴史学の片桐昭彦、考古学の金子浩之、更には地震学の浦谷裕明等の各氏によって複数の学術分野から主流説に対する異論発表が相次いだ。
そこでは明応四年地震は相模トラフを震源とする関東地震(大正関東大震災等と同質)として実在した可能性が強く提起されている。
下記明応七年地震とは震源を異にすることに注意されたい。
これらの研究報告を読んだ上での私見だが、この地震の実在は肯定すべきものと考える。
 
(続)
0575人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:56:06.95ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【明応七(1498)年八月二十五日 地震 津波】
『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』『常在寺衆年代記』『日海記』他多数。
地震の推定M8.2~8.4。津波の推定波高6~10m(焼津、西伊豆)。
歴史地震の代表格とも称すべき大震災。
東は房総から西は四国まで東海道及び南海道の広範囲に亘って死者数万人、建屋被害数万戸とも謂う厖大な被害記録を同時代史料に残す。
考古学成果からもその実在は疑いの余地無く実証されている。
南海トラフ及び駿河トラフを震源とする南海・東南海・東海連動型の巨大地震とみられる。
なおこの地震から僅か三日後の八月二十八日には駿河湾を大型台風が襲った。
大震災と暴風雨の連擊による激甚災害は当該地域のヒト社会を潰滅状態に陥れた。
 
(続)
0576人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:57:49.94ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【明応九(1500)年六月四日 地震】
『勝山記(妙本寺記)』『王代記』等。
地震の推定M不明。津波の記録未発見。
『勝山記』に拠れば明応七年地震以上の震動であったと謂う。
甲斐國の史料にのみ記録が残り他国就中沿岸国の史料が確認されないことから内陸の直下型地震を思わせるが上記両史料にはそれぞれ
「この年までも大地震不絶。」(勝山記)
「此年迄三年震動ス。」(王代記)
とあって明応七年地震に連動するトラフ震源の群発地震であった可能性も否定できない。
『勝山記』の前年一月二日条に見える「大地震する也」との記事も或いはこれを傍証するか。
何れにせよこの地震の実在は疑いを容れないものの、現時点ではその全貌は不明と云う他は無い。
 
(続)
0577人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:01:33.87ID:5UtGHkGa
(承前)
 
次に、
伊勢宗瑞の小田原城接収や伊豆國全域制圧と地震との関連について。
 
【地震と小田原城接収】
伊勢宗瑞の小田原城接収は長享ノ乱に於ける扇谷上杉方与同勢力としての行動である。
その時期及び詳細経緯については未だ確定されず、明応四年説と明応九年説が対立している。

イ. 明応四年説
上述『鎌倉大日記』の八月条震災記事に続く九月条に「伊勢早雲攻落小田原城大森入道」との記事が見える。
震災による小田原の動揺混乱に乗じて宗瑞が攻め込んだとの理解であって、かつてはこれが学術水準に於ける定説だった。
しかし地震の実在性が疑われる中で四年説の前提が揺らぐ。
更に山内上杉顕定書状の解読から、
 ・明応五(1496)年七月時点で小田原城は扇谷上杉方の拠点であり城主はなお大森氏だった
 ・扇谷方勢力として長尾景春入道意玄及び伊勢弥次郎盛興(盛時弟)が援軍に入っていた
等を黒田基樹氏が指摘するに及んで四年説は殆ど否定された。
その後、地震自体の実在性が上述の如く強力な再評価を受ける中で四年説も再浮上しつつある(片桐氏、金子氏等)。
一定の説得力を有する仮説ではあるが、上記の山内文書との矛盾や当時同じ扇谷方に属した大森氏を宗瑞が攻めることの不自然さなどの課題に対して十分な解決を提供するには至っていない。

(続)
0578人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:02:58.90ID:5UtGHkGa
(承前)

ロ. 明応九年説
四年説同様、震災を奇貨として小田原城接収が為されたと云う理解であるが、その契機は明応九年地震だったとする。
四年説を否定した黒田氏は、史料に依拠する限りその時期は「上記明応五年七月から文亀元(1501)年三月(宗瑞の小田原掌握を明示する文書の初見)までの間の何時かとするしかない」として断定を避けた。
近年になって盛本昌弘氏は寺社棟札の研究から本件が明応九年地震の直後であったとの仮説を提起、黒田氏もこれを支持する。
上記文亀元年との時間的近接、宗瑞の伊豆制圧完遂(明応七[1498]年)との前後関係、そして五年七月に小田原城大森氏が山内方に転じたこととの連関性等から見て九年説の蓋然性は極めて高い。
但し九年説にも四年説の根拠たる『鎌倉大日記』の記事との矛盾を単に誤記として切り捨てるだけで十分な説明を為し得ていない、四年地震自体の「復活」には沈黙する、等の危うさや強引さは残る。

(続)
0579人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:05:16.37ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【地震と伊豆制圧戦争】
「幕府-扇谷上杉-今川-伊勢」対「堀越足利-山内上杉-武田」の対立構図による足掛け六年間に及ぶ戦争である。
将軍足利義澄の堀越足利茶々丸(=母と弟の仇)に対する復仇戦、幕府の関東直属拠点(堀越御所)回復運動、及び長享ノ乱の三つの要素が重層構造を成している。
明応二(1493)年伊勢宗瑞の侵攻に始まって同七(1498)年足利茶々丸の自害及び狩野道一の滅亡を以て終結した。
戦争期間中に明応四年震災と同七年震災及び台風を経験、当然ながら戦争の転機や帰趨は大規模自然災害によって不可抗的に規定されたものと考えられる。
但し災害と戦争との具体的な相関経過については上述の小田原城接収時期とも絡んで議論の対立がある。

(続)
0580人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:06:29.36ID:5UtGHkGa
(承前)

イ. 明応四年地震と戦局
伊勢宗瑞の侵攻以来二年間一進一退だった戦局はこの年、足利茶々丸が伊豆國から没落して大島に渡るという大転機を迎えた。
以下、明応四年地震実在の立場を取る片桐氏、金子氏等の仮説を踏まえて概観する。
四年地震が実在したとすると、考古学成果から茶々丸勢力圏(堀越~東伊豆)は甚大な震災被害を受けたと認められる。
茶々丸没落が震災前後何れのことかは不明であるが、後であったとすれば物理的に戦線維持が不可能になった結果と推測できる。
一方、当時宗瑞の軍勢は伊豆北西部又は駿東地域に在ったとみられる。
上述の如く四年地震が相模トラフ震源の関東地震であったならば宗瑞方の被害が相対的に小さかった蓋然性を十分に想定し得る。
これによって宗瑞が震災直後段階に於ける軍事的優位を確立し得たと考えると、一見唐突に思える戦局転換も納得が行く。
また、同年九月の小田原進出を肯定する場合にも茶々丸没落による伊豆戦線小康化を前提とすることで整合的な理解が可能になるように思われる。

(続)
0581人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:07:09.64ID:5UtGHkGa
(承前)

ロ. 明応五年及び六年の戦局
明応四年に一旦は伊勢宗瑞方優位が確立した伊豆戦線であるが、翌五年から六年にかけて足利茶々丸方が反転攻勢に出た。
大島亡命後程無く本土帰還を果たした茶々丸は武蔵國(山内顕定)や甲斐國(武田信縄)に仮寓しつつ彼等の支援を受けて北方から伊豆を窺う一方、伊豆國内に残る与同勢力とも連動して反撃を展開する。
五年七月には小田原城大森氏が山内上杉方に服属、「西郡一変」と云われる状況が現出する。
これを受けて翌六年になると茶々丸勢は駿河御厨地域まで進出、呼応して伊豆の旧臣狩野道一も攻撃を激化させる。
宗瑞方は一転して劣勢を余儀無くされて拠点死守が精一杯という状態に追い込まれた。
帰趨不明の激戦が続くその足下の地下深く、破局へのカウントダウンが進んでいたことを、伊勢宗瑞にせよ足利茶々丸にせよ神ならぬ人の身にして知る由も無かった。

(続)
0582人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:08:52.37ID:5UtGHkGa
(承前)
 
ハ. 明応七年地震と戦局~足利茶々丸の滅亡
明応六年は足利茶々丸方優位の裡に推移したが、翌七年に戦局は再び大転換、伊豆戦線は同年の内に伊勢宗瑞方の勝利で最終決着を見る。
この転換の直接契機が茶々丸の滅亡であったことは疑いを容れない。
その時期は『王代記』に拠れば正に大震災と台風の明応七年八月であったと謂うが、震災が茶々丸滅亡を如何にして決定付けたかについては研究者の間でも意見の分かれる所である。
かつては宗瑞方が震災後の大混乱に乗じて茶々丸を追い詰めたとする見解が主流であった。
決戦の機会を虎視眈々と狙っていた宗瑞が震災後間髪を容れず一気に総力を投入して反転攻勢を掛けたと云う。
後述の異説によってやや後退したものの、金子氏等は今もこの立場を維持している。

(続)
0583人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:10:50.13ID:5UtGHkGa
(承前)

これに対して家永遵嗣氏は大地震、津波とこれに追い討ちを掛けた台風の壊滅的災害下では大規模軍事行動やその準備作業は物理的にも時間的にも不可能であると指摘する。
黒田氏等は家永氏の指摘を肯定した上で、伊豆七島の津波記録の解析から宗瑞方が伊豆國全域に於いて再び優位を確立したのは震災以前だったとして金子氏等と見解を異にしている。
この前提に立って震災の茶々丸滅亡決定過程については甲斐國武田信縄の動向を重視する。
ここまで茶々丸を擁して伊豆戦線に激しく干渉してきた信縄は、震災と時期を同じくして殆ど唐突に今川/伊勢と和睦を遂げている。
甲斐國に於いても激甚であった震災被害下、内訌をも抱える信縄が多方面戦争体制を維持し得なくなって和睦に踏み切った蓋然性は高い。
和睦に際して一つの「落とし前」として茶々丸の身柄或いは首級を差し出した、謂わば茶々丸は武田権力体に捨てられた--のではないか。
黒田氏は慎重な云い回しで断定を避けつつこういう経緯を想定している。
大震災が伊豆國を巡る大規模軍事行動を誘発したのか停止を強要したのか。
金子説(従来説)と黒田説の対立の本質はこれに集約されると云える。
 
(続)
0584人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:12:57.80ID:5UtGHkGa
(承前)
 
ニ. 明応七年地震と戦局~伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
ここに於いても大災害が軍事行動を促進したか停止したかについての見解の相違がある。
何れにせよ、狩野道一の滅亡を以て伊豆戦争は終焉を迎える。
足掛け六年にも亘る戦争は劇的な決戦による終幕なども無いままに、自然の猛威が去った後の荒涼たる景色の中へとフェイドアウトして行った。
大震災が戦争という構造そのものを根こそぎ破壊し尽くした−−と云うべきか。

(続)
0585人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:15:44.37ID:5UtGHkGa
(承前)

しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
室町幕府の統治秩序に対するアンチテーゼ、即ち「戦国大名」の定義に他ならないこの政策を、宗瑞が何処までそれと意識していたのかは分からない。
しかし伊豆國からやがて相模國へと展開されるこの統治原理は、伊勢宗瑞を正に戦国大名の魁にして典型として位置付けることになる。
そして震災が生み出した−−むしろ強要した−−それは宗瑞のみならず北條五代をもその終焉に至るまで規定していく。

(続)
0586人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:29:49.92ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。

議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証が一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。

素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると小生は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。

(続)
0587人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:36:29.55ID:5UtGHkGa
(承前)

明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。

黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、
『理科年表』が2023年版から四年地震を記載するなど理工学系の知見からその実在が再肯定される中、
自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。

明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。

(続)
0588人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:41:09.97ID:5UtGHkGa
(承前)

明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。

しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
この場合、被害の偏差は生じ難いかむしろ逆であることさえあり得る。
今のところは留保が必要とするしかない。

何れにせよ、小田原城の攻防は伊勢宗瑞乾坤一擲の勝負などではなくて、より大きな戦争構造の中での要衝争奪だった。
それは少なくとも足掛け六年間の経緯の果てに明応九年を以て決着した。
その意味では「ありがちな」事例と云えるが、しかし稀に見る大震災の頻発に終始規定され尽くしたという点に於いて特筆すべきものであった。

(続)
0589人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:44:48.49ID:5UtGHkGa
(承前)

【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ--という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。

軍記等の呪縛から逃れ切っていない我々素人は勿論、研究者の間にさえ伊豆戦争と小田原城接収を分けて、或いは段階過程として考える傾向が今なお根強い。
しかし既述の如く、事実を再構成してみれば両者は一体不可分のものとして進行したのであって「長享ノ乱・西南戦線」としか云いようのないことが解る。
そこに於ける伊勢宗瑞(伊豆侵攻前後に出家)勢は終始一貫して「扇谷上杉方・伊豆箱根方面軍」として使役--むしろ酷使--され続けただけだった。
扇谷定正/朝良は宗瑞を与同勢力と云うよりも完全に麾下の一部将と思っていたかもしれない。

しかもその間、宗瑞は今川氏親の部下として参遠戦線にも幾度となく駆り出されている。
正にブラックを極める労働状態、よくぞ過労死しなかったものだと嘆息の他は無い。

(続)
0590人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:47:09.39ID:5UtGHkGa
(承前)

どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった--。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。

それは「伊勢宗瑞の戦争」ではなかった。
少なくとも小田原領有の時点では、それは伊勢宗瑞の戦争ではなかった。
そう結論せざるを得ない。

他者の意志と大自然に翻弄され続けただけの日々が後付けの意味を付与されて北條五代草創神話と化すのは北條氏綱以後の事蹟から遡及した結果であって、
それは最早伊勢宗瑞の意志とは別の範疇に属する事になる。
 
(終)
0591人間七七四年
垢版 |
2024/03/25(月) 01:00:26.73ID:fnvQbPny
名前付ければ?
読みたい人はまとめて読めて幸せ、読みたくない人はNG設定出来て幸せ
0592人間七七四年
垢版 |
2024/03/26(火) 13:42:17.61ID:Cqi56RnL
文章が下手過ぎだろ
不必要な単語や 言い回しが多くて読みづらい
0593人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:05:07.73ID:8UNaMSrO
一、八甫迄上船者商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候。
一、八甫之儀者当知行ニ候、然者無体ニ他之船可通子細ニ無之候、今迄
此穿鑿為如何不被申候、向後者一改可申付候、誰賦船通共改而可承候。

********************

>>559に云う商船政策を通達した北條氏照書状の抜粋。
これを改めてしげしげと眺めて今更気付いたことがあったので、
面白いから蛸壺系片言隻句ヲタクの皆様に付き合って近視眼的に重箱の隅を突っついてみる。
なお、四百五十年前の文書とは云え猿でも読めるほど解り易いから現代語訳は割愛する。
 
問題は第一項。
「早々可被戻」の対象は八甫に滞留する「卅艘」(以後、甲と称す)であると誰もが何となく理解して流してしまう所だし、
所謂専門家の諸碩学もその如く解釈している。
小生も無批判にそう読んでいた。
が、
実は純文法的に見るとこの解釈を絶対化できる文言は一つも無い。
 
対象は「其直ニ」「上候」所の「彼船」(以後、乙と称す)であると読んで読めないことはないのである。
だとすると何が云えるか。
何れの読みを採るかによって北條氏照権力体の政治的志向がガラッと違って見えると云う、
まあ、そんな与太噺になる。
 
(続)
0594人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:06:41.32ID:8UNaMSrO
(承前)
 
通説に従って甲と読んだ場合、
氏照権力体の意志は「八甫湊をどんどん回転させろ。用の済んだ船はサッサと帰ってもらって湊を空けろ。」ということになる。
通商の空間的/時間的効率を最大化しろ、と。
 
他方、乙を採る場合、
既に八甫湊を利用して定着した「卅艘」を優先して
後からワラワラと押し掛ける有象無象の「彼船」は仮令彼等に瑕疵が無くとも追い返せということになる。
既得権益者を優遇しろ、と。
 
極めて乱暴に纏めると氏照権力体の志向は;
 ・甲なら自由主義的
 ・乙なら統制主義(国家社会主義)的
であると云える。
 
何れか迷う中で重箱或いは蛸壺に足を突っ込んでしまったのは第二項との整合性が気になったからだ。
第二項は誰がどう見ても強面の統制主義としか読めない。
となると、
これは意外と乙も有るのかと思ってしまう所だろう。
 
(続)
0595人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:10:03.06ID:8UNaMSrO
(承前)
 
正解は、知らない。
それこそ専門家ならぬ素人には何れか判じ難い。
但し、
北條の領国統治理念は周知の如くであるし、
農地管理以外にも山林資源、薪炭生産、船番匠などの管理に官製ギルドを導入していた実績に鑑みて乙を採っても荒唐無稽とまでは云えないのではないか。
 
そもそも北條の本質が「戦国大名」即ち戦時行政府であってみれば、
政策は本能的に統制主義へと向かって不思議は無い。
里見降伏と関宿開城を経て一気に放恣の度を強める民間と統制の手綱を緩めたくない行政府と、
何時の世にもある鬩ぎ合いの一幕と見るのも一興ではあるだろう。
 
(続)
0596人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:15:36.05ID:8UNaMSrO
(承前)
 
なお附言する。
 
甲乙何れであっても>>559の拙論旨に些かの影響も無い。

仮初めとは云え--それが仮初めであることを誰が知ろうか--「平和」の到来を触媒として
急激に運動エネルギーへと変換されて行く在地のポテンシャルエネルギーの総量規模と変換速度、
拙論の刮目する所はそこに在るからだ。
 
些末な文言解釈が甲であれ乙であれ、
八甫湊をオーバーフローさせつつある何者かの巨大さと暴走性は変わらない。
実はそれこそがこの氏照書状の発行と云う事案の「構造」そのものでもある。
 
(終)
0598人間七七四年
垢版 |
2024/04/05(金) 21:02:54.83ID:ljzUjhCe
>>542

宗瑞が死ぬまで尽くした姉上(北川殿)と寿桂尼の今川女傑二代で今川の栄枯盛衰を。
0599人間七七四年
垢版 |
2024/04/05(金) 21:28:42.57ID:HWrdgS2B
大河で今川やるなら義元を渡辺謙にして適当に北条絡めとけば一年持ちそう
0600人間七七四年
垢版 |
2024/04/09(火) 12:31:48.61ID:zFdPJlw6
>>598
2017年の大河ドラマは井伊直虎ではなく、寿桂尼にでよかったのに。
0601人間七七四年
垢版 |
2024/04/09(火) 13:19:48.44ID:sFFqhVk2
阿部寛はあと今川義元と北条氏康やってくれ
0602人間七七四年
垢版 |
2024/04/10(水) 20:52:37.01ID:/dlS925D
北条氏が先進的な統治体制を持っていたのなら
何で豊臣氏に滅ぼされたのかって質問で
「旧東ドイツだって後進国のソ連に従属した」
って言われて納得できるようなできないような
0603人間七七四年
垢版 |
2024/04/10(水) 21:27:26.06ID:/9gY+YKc
>>602
質問者が「先進的」と云う黴の生えた術語を使ったのだとしたら、
そもそもそれが近代西欧啓蒙主義の虚妄に堕ちている。
 
統治構造の相対的評価は、
地域の自然環境条件や時代の社会状況に如何に上手く適応したかという指標に過ぎない。
条件や状況が変われば「優劣」など簡単に逆転する。
生物の「進化evolution」(ダーウィンはこの単語を用いたことを後悔していた)と同じことだ。
 
北條の統治権力構造は十六世紀関東の現実に最も善く適応していた。
而してそれに留まった。
羽柴「豊臣公儀」は百四十年間の戦国争乱を前提として新たに生まれた全列島規模の需要を的確に捉えた。
その為の具体的方法も有していた。
 
故に北條は羽柴に超克された。
納得するもしないもない、単純な話だ。
 
0604人間七七四年
垢版 |
2024/04/13(土) 11:17:22.53ID:S8SXKdON
茶々丸って元服できなかったの?
0605人間七七四年
垢版 |
2024/04/13(土) 13:41:45.42ID:ZjUPyyUl
>>604
不明。
堀越茶々丸についてのまともな史料記録は伊勢宗瑞来襲後の事蹟に限られる。
それらに於いても元服云々の記述は全く無い。
江戸時代の文献に実名(じつみょう)を「政綱」と伝えるが根拠不明、
現在これを採用する研究者はいない。
0606人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:50:55.90ID:e6KzORKC
戦国時代に小田原北条氏の勢力下にあったという小机城の歴史を伝える「小机城址(じょうし)まつり」が14日、横浜市港北区の小机城址市民の森など3会場で開かれた。
武者姿の一行によるパレードや出陣式が披露されたほか、北条氏を陰で支えたとされる「風魔忍者」が小田原から駆け付け、迫力満点の殺陣で会場を盛り上げた。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1070848.html
0607人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:52:56.10ID:e6KzORKC
>>602
近代的な憲法を持っていたフィンランドが帝政ロシアに併合されたことがある。
0608人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:55:26.43ID:e6KzORKC
>>602
北条政権は強大とはいえまったくの地方政権だったので
京都を追放された足利義昭も放浪先候補として考えなかったとの説がある
0609人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 08:32:30.18ID:qd2KWxyJ
そもそも北条は足利一門を殺して西関東を乗っ取った勢力なのにそんな所に行くわけない
0610人間七七四年
垢版 |
2024/04/17(水) 21:44:38.53ID:gj7apGUE
>>609
その「足利一門」を殺せと下命したのが他ならぬ足利将軍家なんだが。
 
0611人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 01:50:45.91ID:1EnOT8+x
足利一門を傀儡にして利用してる北条の所なんか危なくて行けないよな
0612人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 09:29:04.99ID:LgwL8Rt+
官職も得ていなかったところを見るに足利将軍家との関係は良くなかったんだろうな
0613人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 21:49:47.92ID:oS/0FvQJ
北條氏綱 従五位下 左京大夫
北條氏時 左馬助
北條宗哲 駿河守
北條氏康 従五位上 左京大夫 相模守
北條氏政 従四位下 左京大夫 相模守
北條氏照 陸奥守
北條氏邦 安房守
北條氏規 従五位下 美濃守 左馬助
北條氏直 従五位下 左京大夫

むしろ公式の官位官職受領等が伝えられていないのは伊勢宗瑞だけと云う方が当たっている。
その宗瑞は幕府奉公衆。
数多いる奉公衆の中からわざわざ将軍家御指命で伊豆に派遣された。
関係が悪いと想像する材料が無い。
 
また氏康以後の宗家当主は代々相伴衆に列せられている。
これも格別の扱いと云える。
 
0614人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 22:04:05.57ID:oS/0FvQJ
公式論を云うと、
官職とは朝廷から与えられるものであって将軍家から貰うものではない。
もちろん将軍をはじめとする権力中枢と関係が良ければ何かと有利ではあるだろうが。

何れにせよ>>613に見る如く北條は朝廷とも幕府とも良好な関係を築いていたようだ。
 
0615人間七七四年
垢版 |
2024/04/19(金) 14:41:48.00ID:w4/CcQ3D
徳川の関東移封時に北条遺臣で徳川入封を反対する一揆は起こりましたか?
0617人間七七四年
垢版 |
2024/04/20(土) 16:23:50.16ID:HjKgQOMB
北条の統治は崩壊寸前だったし徳川は年貢を少なくしたから歓迎されただろうね
反発があった話も聞かないし
0619人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 14:29:26.40ID:pOX6+FFQ
北条早雲は幕府高官だったから足利将軍家との関係が悪いとは考えにくいんだが、どうだろ?
0620人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 16:52:22.97ID:K5v9BFBQ
越後上杉家臣で厩橋城主の北条高広が名前からして本物の北条かなと思ってたけど、
越後にある北条が本貫で関係ないんだね
0621人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:04:00.46ID:Bw1qD7DD
>>620
そもそも毛利北條高廣は「キタジョウ」であって「ホウジョウ」ではない。
北條氏政から彼に宛てた書状にわざわざ「喜多條」と表記した例もある。
 
0622人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:07:53.90ID:1fLYKQfv
しかし北条って源氏から権力を奪ってライバルを次々滅ぼして
ましてや室町時代なら太平記では敵役だし当時としてもイメージ良くなかったと思うけど
よく北条を名乗ろうと思ったな
0623人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:11:58.30ID:Bw1qD7DD
>>619
元々悪くないし、
また悪くない状態を保てるように将軍が代わりそうな情勢(義澄→義尹)になると次期候補に微妙に乗り換えるという細かい芸まで見せている。
 
0624人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:24:18.15ID:Bw1qD7DD
>>622
鎌倉北條は清盛流を除けば平氏の中で出世頭だったし、
最明寺入道以来の善政伝説や「天下の副将軍」の権威を纏っていた。
特に平氏の王国たる関東に於いてその存在感は絶大だったと謂う。
後世の源氏贔屓史観で当時を測ることはできない。

何よりも藤原氏(上杉)に正面から喧嘩を売る為には恰好の政治的プロパガンダだったろう。
 
0625人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:27:53.61ID:Bw1qD7DD
>>619
老婆心ながら。
「北条早雲」は既にフィクションの中に封印された。
史実を語るなら使うべき呼称ではない。
 
0626人間七七四年
垢版 |
2024/04/23(火) 17:07:15.50ID:cUruK38L
>>622
簒奪も成功すれば武功だからな
そういった武将は奸雄とも呼ばれ英雄視されるので悪役であっても嫌われる訳では無い
それに地生えの豪族で執権になった家だからな
関東を分国支配するには非常に都合の良い名前でもある
0627人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 15:59:51.17ID:KvC/4SbI
>>615-617
関東移封後の徳川は、地元民の反発対策に、北条体制をなるべく引き継いだからな

四公六民の税制や、農民の要望をお上に直訴できる目安箱も北条時代の物だし
0628人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 20:29:33.18ID:wr3/b9YW
>>627
北条時代は本年貢、役銭、夫役に普請と地域差が発生して重課税になってたよ
0629人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 18:40:11.21ID:0D866+bB
>>627
徳川は三河時代からの統治体制だよ
北条って起源説を唱える韓国人みたいでキモいね
0630人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:50:07.87ID:DE2pcz4V
>>628
特定の意図を抱いてわざと粗雑な書き方で印象操作か。
毎度々々飽きないことだ。

北條氏の天文二十一年(1552:氏康期)以降に於ける「百姓中」即ち農村を対象とした税体系について(「町人中」「職人衆」に対しては別体系)。

【事実篇】
1. 「年貢」=地方税
 直轄領は北條に、私領等は各領主に貢納する。
 検地で確定された田畠の面積に対して田一反500文又は300文、畠一反165文の基準額を掛けて機械的に算定された「村高」=基準額面税額を基本とする。
 但しこれが額面通り徴集された事例は少ない。
 村高から「引方」=免税額が差し引かれて「定納高」=実納税額が決定される。
 引方の項目は;
  ・夫役に対する反対給付分(日当)
  ・代官給料分
  ・灌漑施設等の維持費分
  ・寺社の維持費分
  ・荒地除外分
 等が含まれる。
 実例によれば結局のところ定納高は村高の65%~78%となると云う。
 また当時の壊滅的な自然環境条件による生産損失分の減免が村高の50%、時には全免となった事例もある。
 
(続)
0631人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:50:48.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
2. 「国役」=国税
 北條氏が領国内に一律に賦課する。

2-a 「役銭」
 従来様々な名目で都度徴発されていた臨時税を廃止して定額化した。
  ・反銭:田一反40文
  ・懸銭:畠貫高の6%
  ・棟別銭:屋敷地間口一間35文 但し対象となるのは特定の屋敷のみ
  ・城米銭:詳細不明
 
2-b 「夫役」
 定例の労役徴発。
 但し下記の労役に対して村高の10%が日当として北條から村へ給付される、即ち実質的な年貢控除分となる。
  ・大普請役:村高20貫文に就き一人/年10日
  ・陣夫役:村高40貫文に就き一人/一陣10~20日
 
2-c 臨時普請対応労役
 上記以外の臨時徴発。
 次年度の減税、或いは割増日当給付の対象となる。
 
総論として、
以上の如き税制が明文化/体系化されていたのが北條領国の特徴と云える。
なお、これらの構成は特異な産業構造を有する村に対しては臨機に最適化されたものの如くである。
 
(続)
0632人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:52:01.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
【解説篇】
幕藩体制下の近世大名領国の税制と北條はじめ戦国大名のそれとの決定的な相違は、
前者が完全なる上意下達であるのに対して後者が大名権力体や私領主と村との交渉に基づく契約行為であると云う一事に尽きる。
 
特に年貢村高決定の為の検地、引方決定の為の減免交渉は双方納得づくで合意・契約に至った。
北條の場合この減免交渉関係書類が多数遺されているが、
そこからは極めて細密で真摯な、時には笑ってしまうぐらい「いじましい」攻防が窺える。
その結果妥結する定納高が上述の「村高の65%~78%」であって、
これは単位耕地面積当り税額にして近世大名の85%~100%に相当するとの試算が為されている。
 
所謂「北條善政伝説」は伊豆時代即ち伊勢宗瑞期に於ける大震災直後の危機対応政策が核事実になったものと考えているが、
これに加えて北條氏康期以降に於ける上記税制の実運用、即ち村々の実状に応じた真摯で肌理細かい減免交渉対応の印象も少なからず加味されているのではなかろうか。
 
以上、
黒田基樹氏著『戦国大名』及び『百姓から見た戦国大名』に多く拠る。

(続)
0633人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:55:49.45ID:DE2pcz4V
(承前)

さて。
>>628に告ぐ。

小生は上記北條税制が他大名領国のそれと比較して「重い」か「軽い」かの評価を差し控えた。
容易に結論の出る問題ではないと考える故である。

一方、貴君は「重課税」と断定しながら以下の点に於いて意図的とも見える無視・歪曲を行っている。

 ・村高の22%~35%に及ぶ「引方」の存在
 ・「夫役」が実は反対給付即ち富の再分配システムであること
 ・税構成の地域差が地域毎の産業構造を反映したものであること
 
これらをどう考えるのかについて回答されたい。
なお「重課税」との主張を維持するのであれば他の戦国大名諸家の実例を示した上で「北條の重税」を 定 量 的 に 論証して頂こう。
 
(終)
0634人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:09:38.07ID:DE2pcz4V
>>629
徳川が「三河時代からの統治体制」を関東に於いても敷いたと云う貴見の論拠を提示されたい。
管見では徳川がどうしたか以前に、
関東従来の貫高制から近世の石高制への移行の具体的工程さえ明らかではないと認識しているが。
 
勿論徳川が北條の旧制を承継したとの根拠も軍記類以外には無い。
が、
江戸期になって編纂された『新篇武蔵風土記稿』等によれば、
当時なお多数の北條発給文書が村々に現存していた事実がある。
これは;
・村々の実統治を担う在地有力者(家)が北條期から変化していなかったこと
・上記書類が有効性を維持していたこと
等を暗示するものと多くの研究者が考えている。
これについて貴見を伺おう。
 
0635人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:14:06.93ID:DE2pcz4V
>>627
目安制はともかくとして、
「四公六民」というような税制は少なくとも北條領国を含む中世東国には存在しなかったものとみられる。
上記に縷々述べた如く、
北條税制は「単位耕地面積当り基準課税額」を基礎とする体系であって
「収穫高の何割」というものではなかった。
 
0636人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:04:41.78ID:DE2pcz4V
戦国時代板にもスレ立てスクリプト荒らしが来襲したようだ。
当スレも勢い上位とはいかず、流されて落ちるかもしれない。
スレ住人各位に於かれてはここまでのアーカイブを。
 
0638人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:16:06.46ID:DE2pcz4V
最近は改めて北條氏をはじめとする関東戦国大名の植林について調べたり考えたりしているage。
 
0639人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:28:46.97ID:M1i88Xue
変なスレだらけになってる
0640人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:57:58.11ID:DE2pcz4V
戦国時代板は極過疎状態で、
先刻までは2006年に立ったスレも残っていた。
そしてどういうわけか古いスレほど良質な議論の行われている印象がある。
そうしたスレ群がこの荒らしで幾つも落ちてしまうのは如何にも惜しいage。
 
0641人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:01:38.68ID:gvPMgFve
「関東上杉」、「鎌倉&古河公方」、「里見」、「埼玉の武将」、「東京の武将」、「明応の政変」、「水軍」、等々の良スレ群。
何とか耐えて残ってもらいたいが…age。
0642人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:13:05.01ID:gvPMgFve
一旦収まったと思ったらまた来やがったage。
0643人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 01:38:12.24ID:gvPMgFve
スクリプトは一晩中一時間置きに繰り返すと云うわけか。
冬ごとに越山して来る越後勢のようだ。
彼等に痛撃を喰らわせて何度も煮え湯を呑ませてやった佐野、成田、北條、原にあやかってage。
0645人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 10:35:40.78ID:uXP7nSEl
北條氏は相変わらず反省してないね
独りよがりの長文解説 他人を見下した貴君
荒らしと同類と言ってるのに理解できない北條氏
0646人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 12:10:03.99ID:gvPMgFve
北條スレで北條を論ずる者を荒らし呼ばわりして、
己は何も論ぜず他人への誹謗を稚拙かつ粗雑な片言で垂れ流すのみ。
貴君如き輩を「荒らし」と云う。
 
0653人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 09:17:29.61ID:xzmIYwrR
北条が悪政で民衆を苦しめていたから家康はすんなりと受け入れられて得をしたな
その後も260年間安定統治できた
0654人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 12:22:59.17ID:ukfuzqRm
あげ
0655人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 17:42:08.60ID:ukfuzqRm
揚げ
0656人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 20:49:30.10ID:ZBkwI0Bz
扇ガ谷上杉が北から南に攻めてくる記述とか読んでると
「何で小田急が通ってないのに来るんだよ」と思ってしまう件
京王だとそんなこと思わない
0657人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:42:39.53ID:EsCshIGv
扇谷の行動経路は鎌倉往還とその間道。
今の府中街道や国道16号。
鉄道には疎いけど武蔵野線(南武線)、横浜線、八高線あたりか?
0658人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:59:01.75ID:EsCshIGv
江戸を奪われてからは川越街道。
鉄道なら東武東上線。
0659人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 09:49:07.82ID:c2lFFL8A
対策
0660人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 20:15:45.03ID:c2lFFL8A
抗戦
0662人間七七四年
垢版 |
2024/05/04(土) 22:26:21.21ID:BDysN/yk
小田原の陣により関東の名門は一度滅亡し、
河内狭山1万石の小禄を食いつないでいった。
督姫との間に男子がいれば、
ひょっとしたら因州池田に次ぐ准親藩、
国主格、大廊下下之御部屋席もありえた?
0663人間七七四年
垢版 |
2024/05/04(土) 22:44:46.11ID:tMIWUADV
史実に対して if を構えることは無意味であるばかりか不可能でさえある(本質的にはパラドクスに陥る)。
止めた方が良い。
 
0664人間七七四年
垢版 |
2024/05/07(火) 22:55:22.80ID:d1w/Wt2A
領土全然拡張してないのに頻繁に4万~6万の大軍で4ヶ月遠征。睨み合いで終わり退散頻繁にやってたから民から凄い恨み買ってたから。謙信、信玄いたころは国内蹂躙されてるのに引き篭もって迎撃しないへたれ
普通は国境付近で迎撃するのにこのヘタレは居城まで引き込む
謙信も信玄も容赦なく放火略奪して荒らし回った
民から相当恨み買ってる
民が税収めてるのは自分たちの暮らし守ってもらうために収めてる
なのにヘタレ北条は迎撃しないで本拠地まで攻められてるのに見て見ぬふり
敵が満足して引き上げる時点になってようやく出撃

考えてみろもし中国ロシアが攻めてきてるのに日本政府は自衛隊に迎撃させず首都に集結させ民家が焼かれ略奪されてるのに敵が飽きて帰るまでシカト
こんな政府誰も支持しないだろ

徳川北条と違って受け入れられたんだ
普通は余所者拒絶反応出て一揆の一つも起こる
信長生きてる頃に信濃に入った森長可なんかも一揆には苦しめられたし越前柴田も一揆起こされしばらく対処に時間かかった
越前入った堀も肥後に入った佐々もそう
関ヶ原なんか戦する国に一揆扇動当たり前だったからな。徳川では一揆が起きてない
民は徳川の政治が北条より良かったので起こす必要がなかった

小田原征伐前に秀吉と上野問題で仲介してもらい沼田寄こさない真田を悪者にしたが秀吉からしたら自分で切り取った領土でもないのに上野は北条のものと主張して何いってんだお前。徳川は自分で今の甲信地方を切り取った。お前は徳川に負けて撤退した。何いってんのお前はと相手にされず。

そりゃ当然のことだった
0665人間七七四年
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2024/05/07(火) 23:06:56.31ID:Zt7opfDs
上杉厨くん 長文乙
0666人間七七四年
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2024/05/08(水) 00:21:52.59ID:HIWaTKIJ
北条領の年貢は4割程度だったが他にも夫役や銭の納付も強要されて総額では7割に達していたという
そして納付期限に遅れれば斬首であり妻子と牛馬は召し上げという悪代官そのものだった
だから困窮した農民の逃散が相次ぐ結果になり焦った北条家は農民を連れ戻さないと領主をも処分すると脅した
その結果領主まで農民と一緒に逃亡するという事態に陥った
北条はヘタレというより失政により領内がボロボロで決戦できるだけの力が無かったんだよ
0667人間七七四年
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2024/05/08(水) 05:46:25.61ID:ZoYgIFlZ
>>634
細かい事に拘るなよ
歴史はセンス
考えるな、感じろ


三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだけなのが三河の徳川家康だ

三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない

滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像

全てはこの仏像に秘密がある



源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる

そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘

源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)

生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである


三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
0668人間七七四年
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2024/05/08(水) 10:56:29.56ID:xp8uJ7FL
>>664>>666は同じ人?顔真っ赤ですごい早口でしゃべってそう
いったい何と戦ってるの?
0669人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:47:43.81ID:alDRgrCe
>>666

北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。

北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。

また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。

しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。

結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。
0670人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:49:57.48ID:alDRgrCe
「北条早雲」という呼称は、史実的には適切ではない場合が多く、フィクションの影響を受けている可能性があります。

北条早雲は、15世紀後半から16世紀前半にかけて活躍した武将です。本名は 伊勢盛時(いせ もりとき) または 北条早良(ほうじょう はやら) と言われています。「北条早雲」という名前は、江戸時代の軍学者・山岡元隣(やまおか もとなり)が著した『北条記』の中で初めて登場し、一般的に知られるようになりました。

しかし、北条早雲 という名前は、史料にはほとんど登場しません。伊勢盛時 や 北条早良 という名前の方が史料的に確実とされています。

さらに、北条早雲 という名前は、早雲城 という城の名前と結びついていることも指摘されています。早雲城 は、北条早雲が築城したとされる城ですが、実際には北条氏康の時代に築城されたことがわかっています。

このように、北条早雲 という呼称には、史実的な根拠が乏しい部分があります。そのため、史実を語る際には、伊勢盛時 や 北条早良 などの名前を使う方が適切と言えるでしょう。

ただし、北条早雲 という名前は、一般的に広く知られており、親しみやすいという側面もあります。そのため、あくまでも注意が必要であるという点を踏まえつつ、状況に応じて適切な呼称を使い分けることが重要です。
0671人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:57:34.06ID:alDRgrCe
>>620

確かに、北条高広という名前から小田原北条氏を連想するのは自然ですよね。しかし、実際には越後の北条氏という別の一族で、小田原北条氏とは血縁関係がないんです。

北条高広は越後国刈羽郡北条(現在の新潟県柏崎市北条)の領主で、北条城を居城としていました。越後長尾氏(上杉氏)に仕え、戦功を積んで奉行として活躍するなど、優秀な武将だったんですよ。

しかし、天文23年(1554年)には、甲斐武田氏と通じて上杉謙信に反乱を起こすという波乱万丈な人生を送っています。その後、上杉謙信に降伏して再び仕えたという経緯もあり、まさにドラマのような武将と言えますよね。

名前の類似性から小田原北条氏と混同されがちですが、越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だったことは間違いありません。
0672人間七七四年
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2024/05/17(金) 21:22:44.76ID:eKx3CZRM
>>670
恥ずかしながら寡聞にして「早良」は初見。
また伊勢盛時は生涯「北條」苗字を名乗ることは無かったと認識している。
差し支え無ければ「北條早良」の出典を御教示頂きたく。

>>669
そもそも戦国期の関東は貫高制であって、
且つ北條(主に氏康期)の税体系は630~632に示した如きものだから「収穫の何割」と云う捉え方自体が不可能。
村高は検地が改訂されない限り固定されているからそれが実際の収穫の何%に当たるかは不明だし、
当時の壊滅的な自然環境条件下で年毎の収穫も激しくブレたことが「半損」「皆損」等の表現で多くの史料に残る。
更に引方は北條と村々との海千山千の交渉で決まるものだから偏差が大きい。
同時期の他大名領国の状況と定量的に比較しないと評価は困難だろう。
0673人間七七四年
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2024/05/17(金) 22:48:13.24ID:eKx3CZRM
>>671
> 越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だった
 
毛利北条高広も永禄九年(1566)、
臼井城合戦後に於ける関東諸将北條方転換の奔流に乗って北條に就いている。
上杉謙信の書状に残る驚愕と憤怒(「前代未聞」「天魔の所行」)を見ても、
また実際の軍事的/政治的効果からしても、
上杉の北関東戦争敗退に関して重要なメルクマールとなったことが窺える。

北条高広は何故か「上杉の忠臣」という虚像で語られがちだが、
その実像は生き残りを懸けて機を見るに敏、
典型的な北関東國衆だったように思われる。
0674人間七七四年
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2024/05/18(土) 23:20:49.72ID:n0L4fekC
大藤秀信って勝ち戦の援軍で戦死するとか
ほんとに運がない人だったんだな
どうやったら死ぬんだよ…足軽大将だから督戦でもしてたの
0675人間七七四年
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2024/05/18(土) 23:36:58.23ID:n0L4fekC
小田原に引きこもって温泉三昧
仕事は午前で終わらせて海水浴に魚釣り
まさにぬるま湯生活
0676人間七七四年
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2024/05/19(日) 01:40:58.74ID:XtDqhVZM
>>675
こっちのスレでもあっちのスレでもネガキャンご苦労さま
0677人間七七四年
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2024/05/19(日) 06:40:10.49ID:tme++zWl
>>673
 北条高広は永禄12年(1569)6月の越相同盟成立以降は後北条氏から上杉氏に帰参した。天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去するまで造反せず厩橋城代の務めをしていた。
 高広の動向が流動的になるのは、天正7年(1579)3月に御館の乱で上杉三郎景虎が敗死してから。
0678人間七七四年
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2024/05/19(日) 18:25:18.33ID:a8FObSB0
二日待ったが結局>>670>>672の問いに対して沈黙か。
やっぱり荒らしが文体を変えただけだったか。
0679人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 18:35:40.77ID:a8FObSB0
>>677
天正二年(1574)の上杉謙信関東完全敗退後に於ける毛利北条の動向はどうだったのだろうか。
高広自身は同年に隠居してしまったとのことだし、
簗田も里見も潰れて北條独り勝ちに傾く関東で孤塁を守るのも困難だったろうが。
 
0680人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:10:51.69ID:u9WYyh/g
>>678
一生待ってば
ト-オモワレル君www
0681人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:17:37.84ID:u9WYyh/g
>>640
きっと友達もいない人なんだよ。
可哀想に。
0682人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:26:17.22ID:u9WYyh/g
>>679
正式な名前は「北条」なの?それとも「北条」なの?
ト-オモワレル君。
0683人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:29:06.09ID:u9WYyh/g
>>679
訂正。
「北条」が正式な姓なの?「北條」が正式な姓なの?
0684人間七七四年
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2024/05/20(月) 14:48:02.40ID:k72Y85ne
今川義元がいつもデブ扱いなのって
氏真の晩年の肖像のせいじゃないの?
0685人間七七四年
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2024/05/20(月) 20:49:31.51ID:VSrIIeX+
スレチ
0686人間七七四年
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2024/05/26(日) 19:00:20.82ID:a+BrIVKF
今更ながら江戸城奪取五百周年。
0687人間七七四年
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2024/05/29(水) 22:55:14.25ID:GeTe7y+q
なぜ江戸城は残り関宿城は残らなかったのか
0688人間七七四年
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2024/05/30(木) 00:09:58.58ID:A9b7GREU
>>687
明治期の払い下げと河川改修工事--だったかと。
うろ憶え。
0689人間七七四年
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2024/05/30(木) 00:42:36.11ID:xYspQh52
スレの主旨から些か逸脱するが、
関宿の衰退は明治以後の政策に起因する事案であって、
薩長軍閥政権の陸運偏重・水運軽視の象徴とも云える痛恨事だった。
太田扇谷北條徳川と承継された「水都」江戸のグロテスクな破壊改悪もこれと軌を一にする。
これらは本邦の文明史/文化史的重大損失と断ぜられる愚挙だった。

かの田舎者政権が如何に俯瞰的歴史観的を欠いた下衆なものであったか、
この一事を以てしても容易に知れる。
 
0690人間七七四年
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2024/05/30(木) 14:28:09.06ID:OaJkhnZi
60年も持ってたなら太田扇谷当時とはだいぶ変わってるんだろうな>江戸城
0691人間七七四年
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2024/05/30(木) 21:12:40.81ID:5ZgxwbEq
>>690
齋藤慎一氏『江戸-平安時代から家康の建設へ-』に拠って>>535-537を書いた。
その要約。
 
太田道灌の江戸城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。
 
北條期の主要な江戸城域整備工事(つまり扇谷期と北條期の差異)として確定的に把握されているのは;
 イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
 ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
 ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
 ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ
 
上記の結果、北條期江戸城の物理的構成は;
 ・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
 ・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
 ・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
 ・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
 ・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
 ・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
 
0692人間七七四年
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2024/05/31(金) 17:49:59.41ID:8uYwi0xp
このたび金沢に移住が決まり売却します
私が手にかけて育てた城です
田舎ですが、江戸城、河越城あと何だっけとか言わないでください
占領されてても気にしない方にお譲りします
うじくに
0693人間七七四年
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2024/06/01(土) 15:43:21.12ID:NgF9JCeB
鉢形城。北條氏邦の城か。
暑くなる前に秩父ツーリングのついでにでも行ってみるかな。
 
0694人間七七四年
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2024/06/01(土) 17:19:32.20ID:iVhsxRZP
ついでに行くなんて勿体ない
一日かけてジックリ散策すべし
0695人間七七四年
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2024/06/02(日) 18:12:08.24ID:yLq9g1KA
秩父は蒸し暑くて何もいいことがない
0697人間七七四年
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2024/06/08(土) 04:43:19.49ID:rRHxl9L2
戦国期小田原城の正体 −「難攻不落」と呼ばれる理由− 歴史文化ライブラリー
↑評判良いらしいけど誰か読んだ人いる
0699人間七七四年
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2024/06/08(土) 12:56:29.64ID:lnYOFhqd
日本語の慣用句と云うものを知らない外国籍の人かな。
言葉尻の上げ足を取っても始まるまいに。
0700人間七七四年
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2024/06/08(土) 14:43:41.11ID:c9mPscXP
日本語理解してない奴が外人だろ
言ってる事が支離滅裂
0701人間七七四年
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2024/06/09(日) 14:12:54.84ID:9cLVai4e
小田原という都市は城下に何度も攻め込まれてるが
商業流通的にはどうだったんだろうな
0702人間七七四年
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2024/06/09(日) 14:45:26.24ID:T3mupmg4
包囲されたら外との行き来が出来ないのだから流通も何もないかと
上杉や武田は数日で引き上げたからどうという事もなかっただろうけど
0704人間七七四年
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2024/06/09(日) 15:09:57.18ID:twJ76P+t
>>701
平時に於ける都市小田原の流通機能を論じようとしているのか、
それとも>>702の云う如く「攻囲されている最中の流通状況」を問題にしているのか。

当方は前者だと解釈したのだが如何。
0705人間七七四年
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2024/06/10(月) 09:09:32.12ID:ilhK+Rzo
城下の総構えはそれなりに出来ていたみたいだから小田原城下の被害は殆どなかったでしょ
城に籠ってしまって迎撃しなかったから相模の他の村々が略奪放火の憂き目に遭った訳で
どんなに堅城であってもやはり籠城は最後の最後に当主が腹を切るまでの時間稼ぎに行うべきだわな
兵がいるうちは国境まで出ていって戦うべき
0706人間七七四年
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2024/06/10(月) 22:14:01.04ID:t2fnQ/5v
話が>>701からズレまくっている。
まあ、彼が>>704に返答してくれないことには議論の進めようも無いわけだが。
0708人間七七四年
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2024/06/15(土) 23:47:43.23ID:QVDLNYES
その末文。

此虎之御印判ニ代官之判形を添、小事をも加被仰出、虎之御印判なくハ、郡代同雖有代官之判形、不可用之、於此上はうひを申懸者あらハ、交名をしるし、庭中ニ可申者也、仍如件
 
0709人間七七四年
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2024/06/17(月) 07:25:08.27ID:SfIlvI0T
とにかく神奈川県が悪い 少しはロビー活動しないといけない しないのは山梨や長野や新潟を見下してるから 鼻持ちならない 東京の植民地のくせに
0710人間七七四年
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2024/06/17(月) 10:41:50.10ID:gaEAb0Qf
神奈川県民は偽北条なんて興味ない
岡山にあげるからそっちでやりたまえ
0711人間七七四年
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2024/06/17(月) 13:03:08.37ID:SfIlvI0T
早雲が備中国荏原荘出身ってのもどうかなあ~ 
母の実家で生まれ育ったかも 京都生まれ京都育ち
こうなったら伊豆で行くしかねえ
するってえと静岡県か 最近家康と今川義元のダブル推ししてるからな 
もうひとり増えても問題ないだろう がんばれ静岡 家康、義元、早雲だ
0712人間七七四年
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2024/06/17(月) 21:53:11.49ID:oSsOqVTC
>>710
童貞和尚ヲタ君、毎度。
相変わらず「恨・五百年」の粘着御苦労様。
0713人間七七四年
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2024/06/17(月) 21:56:37.48ID:oSsOqVTC
>>711
伊勢宗瑞一代に限れば本拠は最後まで韮山だった。
またその身分も生涯「今川家御一門」「氏親後見人」「駿河國侍大将」のままだった。
静岡県と云うなら静岡県で全く問題無し。
0714人間七七四年
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2024/06/17(月) 22:03:09.27ID:oSsOqVTC
>>711
もう一つ。
「早雲」なる虚構の存在はいざ知らず、
伊勢新九郎盛時は京都生まれ京都育ちと云うのが現在の主流学説。
0715人間七七四年
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2024/06/18(火) 23:41:31.99ID:F4jbu8/q
北條氏、戦国板粘着御苦労様

現在の主流は
始まるまいに、云う如く、如何、於ける、駿河國
など使わんだろう

議論の進めようも無い 否定のないを漢字にするなよ
0716人間七七四年
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2024/06/19(水) 00:00:10.51ID:EVBZFswX
>>715
貴君、相変わらず他人に対する誹謗以外の書込をする能力は無いと見える。
自分の意見や議論を提起したことが一度でもあるか?
スレッドの主旨に則った議論をするだけの知見も知識も知性も知能も皆無ならば無理をして書き込む必要は無い。
黙ってこの場を去ることだ。
 
0718人間七七四年
垢版 |
2024/06/19(水) 18:08:50.02ID:WN3C1eiJ
喧嘩すなや
0719人間七七四年
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2024/06/19(水) 19:16:19.56ID:XtgauSgX
北条と伊達政宗って同盟結んでただけあってそっくりだよな
周囲の諸将は秩序を維持する為にルールを守って大人しくしていたのに
一人だけルールを無視して大暴れして俺tueee!!と勘違いして調子に乗り格上にまで喧嘩売って潰された
ボクシングの試合に刃物を持って乱入して大暴れしていたら銃を持った警察に取り囲まれてゴメンナサイと土下座して投降みたいな
0721人間七七四年
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2024/06/19(水) 19:41:39.45ID:voJzpLqp
黒田氏は今までに北條五代のうち伊勢宗瑞、北條氏綱、北條氏政、北條氏直の単独本格評伝を上梓、
北條氏康を最後に残している。
一般知名度は五人の中で最も高い氏康だけに氏としても会心の作とすべく満を持しているものと拝察していた。
 
…所へ、いきなりこれが出る。
氏康をクロニクル形式で扱うならわざわざ氏を担ぎ出す必要があるのかと云う気はする。
過去の『図説』シリーズの事例から見て、
クロニクル形式の制約から外形事実経過の叙述が殆どで構造的考察は期待薄、
となると黒田氏の無駄遣い、正しい語義に於ける「役不足」の危惧を無しとしない(どうせ買うけどよ)。
 
ますます北條氏康の本格評伝が待ち遠しくなった。
 
0722人間七七四年
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2024/06/21(金) 22:48:28.67ID:+uAi2r2A
北條氏康と云えば。
永禄七年(1564)の第二次国府台合戦は戦国史上屈指の激戦として著名だが、
実は永禄六年一月と七年一月、
丸一年の間を置いた二回の合戦を後世の軍記作者が混同して一回にしてしまったものという学説が有力になりつつある。
慥かに従来知られた劇的過ぎる展開よりもそんな真相の方が遥かに現実的ではある。

小生の知る限りこれを最初に提示したのは房総史研究で有名な千野原靖方氏だった。
氏は在野の人ではあるが徹底した博捜による実証の姿勢は正統アカデミズムに属する諸権威をも凌ぐものがある。
その地道な成果に陽が当たったことを、歴史に興味を持つ素人の一人として喜びたい。
0723人間七七四年
垢版 |
2024/06/25(火) 16:26:59.25ID:/0utrIly
「北条」ではなく「北條」が正しいんですかね。
某先生。
0724人間七七四年
垢版 |
2024/06/25(火) 18:17:57.57ID:VgLlBy4U
新撰組と新選組の違いみたいなもんじゃね
0725人間七七四年
垢版 |
2024/06/26(水) 01:29:27.84ID:Wpv6osAa
>>723
懲りもせず粘着御苦労様。
 
正しいとか間違っているとか以前に、
本人たちがそう書いていると云うだけの話。
それでも変換時に苦労して探さなきゃならない字なら考えてしまうが(豐とか德とか、な)、
北條など瞬時に出て来るんだからそっちを選ぶ。
別に北条では間違っているなどと主張する気もさらさら無いし、
他人の書いたものを引用する時はそのまま北条と書く。
 
逆に訊くが、
いちいちそんな重箱の隅にに突っ掛かってくるのは何故か?
むしろそれが不思議で仕方ない。
まさか真っ当な根拠も無しに何が何でも多数派に合わせろなどと云う衆愚の同調圧力でもあるまい。
 
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