【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>377
謙信が越後と関東の軍勢合わせて10万くらいで
攻めてきたら信玄でも籠城したんじゃね。 >>378
武田なら先制攻撃しかけたろうな
そもそも籠城する城もないし
10万言うてもゲームじゃないのだから広い平原で10万人と同時に戦う訳ではないし
寄せ集めで統制も全く取れてないので脅威度は低い
名将と言われているような武将は3倍や5倍、中には10倍の敵を破っている武将もいるしな 城に籠るのがまずいなら、どこの大名も何で城なんか作るのさになっちゃうじゃないの。
籠城反対なんて、ドイツ参謀本部や、ナポレオン1世、第一次世界大戦前のフランス軍指揮官なら大賛成だろうけど。
大体小田城は由緒正しい元館みたいなところを改造した場所だから籠ってもなあって感じか否めない。
大体本当に小田氏は土着して長いんだから、それなりに縁者も多いだろうし、
そこがぽっと出の北条氏とはちがうわな。 >>380
その人は毎日後北条を貶さないと死んじゃう病の人だから触っちゃダメ
スルーかNG推奨 籠城てのは圧倒的に不利な状況でとる最後の手段
領内に敵を侵入させる事は最も下策であるから普通は極力回避しようとする
だから名将と言われるような人は常に外で戦った
北条が異常なのは十分な戦力があっても引き籠もる事だ
領民の犠牲を省みない不可解な戦略である
おそらく北条は百性だけでなく配下の国人達に対しても求心力が低くて
決戦に挑むような命令を下すことが出来なかったのではないかと思う
北条の発給した文書を見ると百性だけでなく国人領主も北条の圧政に苦しんでいた事が記されているので 北条って北関東の小領主寄せ集め軍と戦ってもパッとしないもんな
大概は睨み合いになって終わる 上杉謙信が小田原城を落としてたらその後どうなったんだろ逆に混乱? >386
越後上杉景虎が関東管令就任
古河公方は足利藤氏再就任
関東は北条氏を滅ぼすか、完全屈服させた後
関東を安定化させた後、その勢力を背景に
上杉景虎が近衛前久と共に上洛し、畿内を安定化させる。
周辺の敵対勢力は古河公方の権威と関東管令の実力、近衛を通じた朝廷からの勅で押さえる。
という構想だったらしいけど、
下手すると史実の関東進攻の拡大版や大内氏の二の舞になるのでは無いか? >>387
そんなこんなしてる間に武田に関東取られそう >>386
謙信が関東衆を上手く扱えるかどうかだな
それには上手く藤氏を処遇できるかが重要
もしそれが出来たらエグい事になるわ
あの時点で15万くらい動かせる訳だから天下取れる
まあ、謙信にそんな人望も政治力もないから絶対に無理だけど
北条のポジションに謙信が入れ替わるだけで、上杉(関東管領派)対関東衆(古河公方派)の争いになっただけだろう >>390
そうなったら関東衆(古河公方派)は武田と結んで上杉に対抗するだろうね 第一次関東進攻の際に藤氏を奉じているので、そのままならかつての関東管令=古河公方体制の復活で問題無し。
そもそも関東がまとまらなかったのは関東管令=古河公方体制が崩れたのが大きいからここが解決できるなら大体大丈夫。
次に上杉氏内の争い(山内vs扇谷)だと思うが有力な越後上杉が乗り出して来ているのでこれも問題解決。 ここの詳しい人のおかげで関東諸将って扱いクソ面倒臭そうって学べたのは良かった 関東の外交は平安時代から続くしがらみで複雑怪奇だからな
殆どの家が婚姻関係や本家分家の関係にあるので大名間だけでなく家中でも統制が極めて難しい
それに加えて関東府は独立性が高く、将軍家とは険悪で何度も討伐を受けている
関東管領も表向きは関東公方の補佐役であるが実態は将軍家が送り込んだ監視役で関東公方家との仲はすこぶる悪い
それによって関東は将軍派(関東管領派)と関東公方派で真っ二つに別れて争ったが
それは大名単位の話ではなく各大名家の家中でも管領派と公方派に別れて内戦になり
更に関東管領家と関東公方家も分家が乱立してそれぞれ宗家の座を巡って争ったのでカオスと化した 1560頃
関東公方
古河公方→藤氏派、義氏派
小弓公方→頼純
堀越公方→滅亡
関東管領
山内上杉→憲政(政虎)
扇谷上杉→憲勝
北条→氏康 >>396
火事場泥棒狙うも家康に1/4以下の兵でやられる北条が黒幕って…
まあ 一応第一次関東出兵の時には対北条としてまとまったけど
北条を滅ぼして扇谷上杉復活なんていっても山内上杉方は納得行かないだろうなあ。
謙信が生きている内は押さえこめても何回も上洛させられたりしている内に不満がたまって
そこを武田辺りに諜略されて結局元通りとかになるかも。 北条が進出したから関東が混乱したんじゃなくて
関東が混乱していたから北条が進出した。
謙信が北条を排除したとしても、抑えの利く誰かを
据えておかないと元の木阿弥になる可能性は高い。
謙信自身は越後国衆の統制に苦労した側面があるほか
成田長泰の離反を招くなど力不足の感は否めない。
謙信で無理なら他に務まる人材はいない。
北条に任せておいた方が良かったという話になる。 >400
越後国衆であれだけ苦労しているから、関東なんてもっと苦労しそうな気がする。
下手すると、京都→関東→越後をぐるぐるして過労死しそうだ。
古河公方と関東管領をきちんとすえなおしても謙信の後ろだては必要だろうしな。 最大限上手くいったとして関東管領(越後在住)になるのかな >>400
関東東北の騒乱はスポーツみたいなものだよ
決められたルールに則ってお互いにやりすぎないように行っていた恒例行事
北条や伊達が暴れなければ関東東北は大規模な争いもなく信長や秀吉に恭順して終わりだっただろう 鎌倉公方は古河公方やら堀越公方やら小弓公方やらいるし
関東管領は関東管領で、山内上杉やら扇谷上杉やらいる上に、上杉氏以外でも足利義氏が北条氏康を補任したり織田信長が滝川一益を補任したりしてるし 北条が関東管領を自称した事で里見も関東副将軍、佐竹は管領を名乗ったりしてもはや訳分からん事に そもそも古河公方からして勝手に「公方」を自称してますし 鎌倉公方足利成氏が幕府に逆らって父持氏みたいに
討伐されかけたから古河に逃げて、幕府が代わりの
鎌倉公方として足利政知を関東に送り込んだけど、
関東武士が政知を全然支持しなかったから伊豆から東へは
入る事が出来ず、そのうち家督争いで滅んだから幕府が
成氏の古河公方を公認せざるを得なくなった。 一方小弓公方ってのは足利義明が勝手に名乗ってただけで幕府は一切認めてない
ただ堀越公方と違って房総の真里谷や里見からさ支持されてたらしいが 義明は血統的には正統な古河公方の血筋だしな
反高基派としては擁立するのに都合が良い A)鎌倉公方から派遣されたB)篠川公方(足利満貞)
とC)稲村公方(足利満直)
A)鎌倉公方が移動してD)古河公方に変化。
更にD)古河公方が分裂してE)小弓公方が発生
、
関東の混乱を押さえるため京都から派遣されたのがF)堀越公方(足利政知)
それぞれの時代がちがうとは言うものの6つも公方があり、
どれも混乱を押さえるために設立されたのに結局は押さえるどころかかえって混乱の種を
撒き散らす奴もいるのは皮肉だな。 関東の戦国時代は関東公方のいざこざによって始まったからな
早い段階から騒乱が始まったけど、どこの家も大規模な内訌が起きて家中が混乱し本格的な戦国時代には乗り遅れて戦国大名化できなかったんだよな
その隙を北条に突かれて伸長を許してしまった こんなに面白いのに歴史好きの間でもマイナーで人気無いのが勿体ない >>413
> 戦国大名化できなかったんだよな
古河とその奉公衆、
山内、長尾諸家、扇谷、太田、…、
彼等は享徳ノ乱の過程で急激に地域権力へと遷移して行った。
規模の大小こそあれ、その権力構造は「戦国大名」と同質であったと考えられている。
特に太田道灌(を通しての扇谷)の動向はその典型と位置付けたい。
> その隙を北条に突かれて
北條に決定的な伸長の機会を与えたものは関東諸家の隙などではない。
諸家に「隙」を強要した原因、即ち「戦国」なる社会運動の発動をもたらした自然環境条件(気候変動及び地殻変動)だ。
大規模災害に対する危機管理政策を恒常化し得たことこそが北條抬頭の根本要因だった。 少なくとも北関東や房総の大名は戦国大名化していない
彼らは豊臣政権の権威の元でようやく旧来の体制から脱する事が出来た 北条だってちゃんと古河公方の晴氏や義氏から関東管領に補任されてるから >>416
北関東については見方の分かれる所だと思うが、学術水準では岩松は戦国大名化の先駆例と評価されている。
房総についてはむしろ小型戦国大名の見本市だった。
里見、真里谷、千葉、簗田、野田、…、
出自も経緯も様々だが暴力による直轄一円統治を行う在地権力、即ち戦国大名型権力体として自立を果たしていた。
>>419
鎌倉公方の執事である関東管領の任命を公方ができない理屈があるかよ Wikipediaにはこう書いてある
>関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。
>むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、康暦の政変直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、
>特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した長尾景仲ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が信濃国にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び後花園天皇の綸旨による関東管領任命が行われた。
>その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、
>上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する家職となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった。 関東管領の設立目的の一つが鎌倉公方監視だから幕府に任免権があったんだろう。
(元々管領という役職だから幕府に任免権があるのかもしれないけど)
初期の京都と鎌倉の間に特に何もなかった頃は鎌倉の推薦してきた人間でも別に問題はなかったが、
関東がきな臭くなるとそうもいってられなくなったから、任免権をきちんと行使するようになったんだろうな。 任命権が幕府にある、即ち直属の上司は幕府になるから憲実も幕府と鎌倉公方の板挟みになって辛い立場になったんやろ。 関東の諸大名は関東公方を支持している
そこに将軍家の刺客として関東管領が送り込まれる訳だから結構大変だよね
他にも将軍家が直臣として取り込んだ家がいくつかあるけど、後ろ盾の将軍家は遥か上方にいてそっちもそっちで混乱していて当てにならないし 建前上幕府に任命権があるったって実際は山内上杉家が世襲してましたやん 室町幕府支配領域である越後に所領があって守護家とも繋がりが深い山内上杉家が関東管領になるのが幕府にとって都合がいいからな 殆どの役職は世襲化していたからな
でも正式には将軍が任命するものだから他の家が将軍に任命されてしまうと負ける
だから北条が関東公方を傀儡化して関東管領を任命させた時は憲政も謙信も京まで上って将軍に拝謁している >>425
それは後になってからのこと。
鎌倉体制成立から永享ノ乱までは山内の世襲というわけではない。
名実共に家職となったのは山内顕定の超長期在任によるものだろう。
また顕定の代で山内も実質的に戦国大名化したから世襲以外の方法で管領を決めようとすると面倒くさいことになりかねない。 じゃ世襲で関東管領になった山内上杉憲政も古河公方から関東管領に補任された北条氏康も、本来の任命権者である幕府の任命を受けてないって意味ではどっちもどっちな訳だ 少なくとも関東・越後における上杉氏の影響力は無視できないから観応の擾乱で討たれた後でも
関東管領に復活できた訳で幕府としてはこの影響力があれば鎌倉公方がいらんこと考えても押さえることが可能だと思ったんだろうな。
京都扶持衆がうまく働けば京都下りの関領でも良かったんだろうけど。 人為のみが肥大して共同幻想が全てを統御し得ると錯覚した室町システム。
気候変動と地殻変動の時代に直面してそれが無力無能を曝け出して崩壊するのは必然だった。
幕命に拠りながら明応四年、七年、九年と馬鹿馬鹿しいほど濫発する大震災群や常態化する飢饉状況との対峙を強要された伊豆の伊勢宗瑞権力体、
それがやがて抬頭の時を迎えるのもまた必然と云えば必然なのだが、
この事例を眺めて浮かんで来るのは人文系の言葉よりもむしろ「前適応」と云うダーウィニズムの術語だ。
畢竟、ヒトの歴史とやらも生物史の一部たることから逃れ得ない。
>>429
山内憲政の関東管領就任の正統性を疑う論潮はリアルタイムでもあったと云う。
古河晴氏が小弓義明討伐を北條氏綱に命じたのは何故か、
関東管領ではなくて何故よりにもよって「他国の逆徒」北條だったのか、
--と云う疑問がずっと引っ掛かっているのだが、憲政の正統性問題が案外大きな意味を持っていたのかもしれない。
>>429
正確に言えばどっちも自称だけど
山内上杉家の世襲職として認知されていたので憲政の関東管領就任は誰も疑っていない
北条は関東公方より任命される事で正統性を確保しようとしたけど関東公方には任命権がないし
関東衆も認めなったため結局は僭称状態に 1455 享徳の乱
足利成氏(鎌倉公方→古河公方)
足利政知(堀越公方)
1495 堀越公方滅亡
1510 永正の乱
足利政氏→足利高基(古河公方)
足利義明(小弓公方)
上杉顕実→上杉憲房(関東管領)
1531関東享禄の内乱
足利高基→足利晴氏(古河公方)
上杉憲寛→上杉憲政(関東管領)
1538小弓公方滅亡(第一次国府台合戦)
北条氏綱(関東管領(晴氏が補任))
1555
足利晴氏→足利義氏(古河公方)
北条氏康(関東管領(義氏が補任))
1561
上杉憲政→上杉政虎(関東管領) >432
小弓公方討伐は新参者に対する瀬踏みの意味もあるんじゃないかな?
今まで小弓公方側だった北条氏がこちら側につきましたと言われもなかなか信用は難しいだろうし。 その頃は既に小弓公方と北条は対立していたから何の不思議もない
古河公方としては目障りな小弓公方を攻撃させたいし北条としては小弓公方を滅ぼす大義名分が欲しいわけで利害が完全に一致している 同じ小弓公方勢力の扇谷上杉と争いになったから
古河公方側に鞍替えして大義名分を整えたんだよな。
古河公方側としては敵が分裂して争ってくれるんだから
多少怪しいやつでもこっちの戦力を出さないですむなら
いくらでもウェルカムだと思う。 >>438
就いたり離れたりを繰り返してきた。
伊勢が真里谷と組んだことで自動的に小弓方になったのが両者の最初の関係。
御蔭で当時絶讃全面抗争中の扇谷と味方になってしまうという大変気まずい(笑)事態になった。
氏綱期になって北條が里見内訌に介入する過程で敵対、その後和睦。
北條は当時古河にも誼を通じようとしたが、
古河の方が「アイツは何を考えてるか知れたもんじゃねえよ」(家中宛書状)と疑うぐらいには小弓寄りと見られていた。
国府台合戦前夜は稍々距離を置く形になっていたが積極的に喧嘩を売ることも無い状態だった。
関東は外交関係が入り組んでいるから味方の味方は敵みたいな変な事がよくあるのだわ そもそも家中で争って古河か小弓につくかとなる場合もあるし、
家督争いで助けられても都合が悪くなればそね味方だった奴を叩くのもあるからなあ。 足利義明はうまくのし上がったと思う
北条氏綱との国府台の戦いで勝ててたら能力バク上げだった >>442
足利将軍家に弓を引ける者などいるはずがないとか高を括って敵軍の渡河を簡単に許すような高慢で軽率なのが戦国を生き残れるはずがない 軍記物の記述を真に受ける軽率さも大概だけどな。
千野原靖方氏の著書等、国府台合戦の戦闘実態について現地踏査や古地理史料に依拠した蓋然性の高い推定仮説も幾つか公刊されているのに。
>>445
史料に基けば第一次国府台合戦の敗因は北条軍が簡単に江戸川を渡河できたことだろ
実際義明が傲慢だったのか、足利将軍家の血を引く自分に云々と言ったかは知らんけど、いずれにしろ江戸川渡河中の北条軍を叩けなかったことから見るに無能であると言わざるを得ない >>446
国府台合戦の戦闘経過を具体的に詳述した一次史料は無い筈だが?
渡河云々は後世成立の軍記の記述だろう。
クラウゼヴィッツが「異なる手段による政治の継続」と喝破した通り、戦争とは「構造」であり多変数函数だ。
その勝敗を決める要因はそんなに単純なものではあり得ない。
国府台合戦は上記で議論した複雑な政治性や時代性もあるが、
そもそも両軍の数も兵装も具体的なことは何一つ確定できない「解らない戦争」でもある。
そんな戦争について、
たかだか戦場の一具象(それも虚実不明)を取り上げて「敗因はコレだ!」と判ったような気になってしまう思考停止が軽率・軽薄な軍記脳だと云っている。
ヴィトゲンシュタイン曰く、語り得ないことを語ってはならない、と。
ミリタリーかじってれば一次史料もデタラメ(本人たちはそのつもりは無い)なの当たり前すぎるんだけどな
お前らもミリタリーかじれよ
日米だけでなくドイツもイギリスもソ連も戦果過大だからよ
双方の記録照らしあわせないで片方の言い分鵜呑みにする愚かさがいかに間抜けかわかるよ
二次大戦なんかどこの国も実際より三倍以上に戦果膨らんでるから
モンゴメリーなんてインパールに匹敵する兵站無視な馬鹿な作戦やって明らかな敗戦なのに勝利宣言してるしイギリス人もそう思ってて迷惑被ったアメリカ人から脳筋馬鹿と呼ばれてる
人間なんて自分の名誉のために平気でこういう事するから
イギリス系オーストラリア軍も零戦とダーウィンで10数回戦いコテンパンにやられたのに兵士の士気下げないためと国民不安にさせないために勝利宣言してる 中国も日本の台湾征伐の時に勝ったと記念日まで建てているけど
勝ったのに台湾取られてるとか意味不明w 軍記物をベースにした通説の歴史観を無視して、独自の推論を繰り広げると大河ドラマのどうする家康みたいになるぞ 軍記物も資料として無価値ではない
一次資料の補完をするのに使えるし、当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れるので歴史研究をする上では必読と言える
単純に小説として読んでも面白いしね >>452
「豊臣公儀」による関東制圧に際して合戦あり、落城と伝わる。
発掘調査による出土物件もこれを証明する。
少しは手前ェで調べろ。
調べれば瞬時に解る。
スレ住人はお前のパパじゃねえんだよ。 >>451
> 当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れる
読み取れるのはあくまでも当該の軍記の成立時点に於ける思考や価値観であることに注意されたい。
以前からよく指摘されてきたのは、多くの軍記が成立した江戸期の武士階級の価値観と戦国期のリアルなそれとの乖離だ。
武士はもとより「村」等在地勢力と大名権力体との関係を江戸期の価値観に引き寄せた軍記の記述は結果として実態に反する「歪曲」を生み出してしまった。
これを肯定することは実事求是であるべき歴史事実究明作業について百害あって一利無き先入観を与えるものと断じ得る。
あくまでも物証や数理計算によるものを第一、一次史料記述を第二とするべきであって、
軍記の類に対しては常に批判と疑念を以て向き合う態度を基本としなければならない。
>>453
そんなのWIKIで調べればすぐ出てくるんだよ なんか面白エピソード知ってる人いないかと思って聞いただけだよバーカ 第一次国府台合戦は足利・真里谷・里見連合軍と北条軍でそれぞれやる気が違っていたんじゃないかなあ。
足利:逆らう北条は討つ必要から出陣→ただし今までの経緯から適当なところで手打ちになるだろう。
真里谷:家中争いの解決の為出陣→北条に打撃を与えて北条を倒すか有利な条件を引き出したい。
里見:今までの状況から足利方についているから出陣→自分が家督を取るために組んでいたし、手打ちできないかな。
北条:扇谷上杉を倒す為には足利を討つ必要がある→家格でも勢力でも下だから相手に相当の打撃を与え る必要がある。
そうしないとこちらの言う事を聞いてもらえない。
また古河公方方にも信用してもらえない。
と言うところじゃなかろうか?
そうでもないと軍記に書かれてる足利方の油断の理由がわからない。
今まで古河公方に本気で対抗した奴は上杉や武田(信長)とかいたんだから。 第一次国府台合戦
北条→江戸城、葛西城へ進出し東武蔵から扇谷上杉を攻めると見せかけて、実は背後を脅かす小弓公方を討つのが狙いだった
小弓公方→国府台城まで進軍したが、北条軍の狙いはあくまで扇谷上杉と考え、千葉氏を抑えて、北の関宿、古河御所まで攻めようとしていた
→北条が千葉氏の内紛云々を口実に太日川を渡河したいとの申出を小弓公方は安易に許してしまった(里見は止めたが無視されたので戦意を失くし、合戦が始まると速攻で引き上げた)
おまけに形式上古河公方軍として戦ったので、小弓公方についた房総勢の戦意も低下して小弓公方軍は簡単に崩壊した >459
なるほど、第一次国府台合戦の経緯がわかったけど、
小弓公方は味方の扇谷上杉を切り捨てるつもりだったんだろうか?
それともどこかで両者を和睦させて主の役割を果たすつもりだったんだろうか? 小弓公方つったって古河公方に比べたら正統性のかけらもないバッタモンに過ぎないからな まぁ勝てば官軍ですよ
古河公方だって反逆者だったのが幕府が折れて和睦したからな >462
京都に認められたのは一応関東管領の山内上杉とは和睦後ではなかったっけ? 100年前の今日
横浜市史編纂のために集められた古文書が市庁舎もろとも焼けて失われた 北条100年王国の秘密
初回放送日: 2023年9月27日
https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/ZWQ3ZJXM39/
あの家康が政治の手本にしたという戦国大名の北条氏。
新参者としてやって来た関東で五代百年にわたる繁栄を誇り、唯一無二の王国を作りあげた。
その驚きの力の秘密とは。 すでに告知されてたw
話が通じないと面倒なので家康と北条に興味ある人は見よう、明日だ >>466
所詮は女子供向けの番組だから、むしろ当スレ住人にとっては;
・物足りない/浅い
・既に否定された古い通説
・軍記ベースでリアリティが無い
等々で鬱憤の溜まる番組になる可能性が高いんじゃないか。
北條の民生政策には或る程度言及するんだろうが、
その本質が気候変動(寒冷化)と地殻変動(大震災頻発)に対する危機管理の恒常化であることにまでは踏み込めないだろう。
宗瑞凄い!氏綱偉い!氏康万歳!で終わらなければ良いが…。
>>465
見た。
>>468で書いた予想はほぼ外れた。
意外にもハードウェアからの視座で製作された(一般向け教養番組としては)稍々硬派な内容で好感を持てた。
不足不満は多々あるものの総じて善戦したと云えるのではないか。
概略内容は;
イ. 小田原城惣構の解説
ロ. 寺社修造事業を通じた技術移転
ハ. 北條時代の利根川東遷事業
--と云った所で、特にハ項を取り上げたことを評価したい。
そのうちぽつぽつと所感など書いていく。
今週の歴史探偵は上杉謙信が主役で
北条が関東で勢力を伸ばしていて越後にまで侵入を企てたとか言っていたが
北条が越後に侵攻しようとした事なんてあったっけ? >>470
無い。
少なくとも謙信期には無い。
何故か謙信原理教信者は学者も素人も北條恐怖症のあまりそういう被害妄想に囚われがちのようだ。
そもそも不識庵その人が何やらそんな強迫観念を抱いてもいたらしいが、山内憲政あたりに有ること無いこと吹き込まれたか。
当時の北條にしてみれば
「馬鹿野郎こちとら飢饉と大水の始末で大変なんだよサの字の付く面倒くせえ連中も絡んで来やがって忙しいんだよわざわざ山ァ越えてまで遊んでる余裕なんざあるかよ篦棒メ」
と云うのが身も蓋も無い現実だったろう。
現実には北條勢が越後侵入を果たしたのは御館ノ乱の時だから童貞和尚はもう仏になっていた。 【11/3~2025/1/14,神奈川県小田原市】
小田原城天守閣で特別展「小田原北条氏誕生500年 関東の雄 北条氏綱」開催
https://news.kojodan.jp/entry/2023/10/07/163510 関連イベント
特別講演会「戦国大名 北条氏綱を語る」
日時:
2023年12月2日(土)
13:00~17:00(開場12:00)
場所:
小田原三の丸ホール 大ホール
講師:
・黒田基樹氏(駿河台大学教授)
・浅倉直美氏(駒澤大学准教授)
・諏訪間順氏(小田原城天守閣館長)
定員:
1000名
※要事前申込
参加費:
500円(資料代)
申込方法:
11月10日より受付開始 >>472-473
告知多謝。
氏綱か。
これは是非とも行きたい。
>>475
考古学成果物や同時代文献などに依拠して実証考察なんかしてみろ、
謙信カルト信者に何をされるか分かったもんじゃねえぞ。
NHK職員だって命は惜しいし家族もいる、察してやれ。