【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
国内に敵を入れてを例えると
危機を感じると引っ込む巻貝に…反撃がないな 亀か
反撃はするからボクシングのブロック、クリンチが上手い選手 上杉や武田が織田にやられて退場したから良かったものの
攻撃に晒され続けていたら北条も内部崩壊しただろうな
領民や配下の不満がかなりたまっていたようだし >>329
氏康ならもっと立ち回り上手かったと思う 本能寺後のあのチャンスに4万近い大軍で上野抑えて碓氷峠通って信濃に進出して
真田とかも呼応したのに結果的に1万程度の徳川軍に負けたって酷すぎね?
しかも信濃も全て失ってるし
ここで甲斐信濃も抑えてたなら250万石くらいあるだろ 滝川と戦った時は珍しく素早い出陣で勝ったけど
その後は結局いつも通りぐだぐだで弱かったな
徳川に完敗して甲信を断念し已む無く上野の切り取りを行う事になったけど、その上野すらも結局は制圧できなかった
そしてそれが北条滅亡の原因になるのだから確かに酷い有様だ
甲信を切り取って豊臣と対峙し有利な条件で臣従し天下取りの地盤を築いた徳川とは雲泥の差がついた >>331
でも氏康時代から悪化したからな
両上杉を倒す事には成功したけど領内は荒れ果てて更に天災と増税が追い打ちをかけて領民の生活は破綻した
それで国中で領民が逃亡という事態に陥って氏康は例の徳政令を出したが
この時、徳政令だけではなく減税処置も行って領民の帰還を促した
しかし結局僅か2年ほどで再び増税を行い数年で元に戻ってしまっている
だから領民の逃亡は収まる事はなく領主までもが逃亡する状態であった
その後も増税を繰り返し天正9年には一揆が起り、逃亡という言わば消極的反抗から一揆という積極的な反抗に変わっていくのだが 甲州征伐の時も結局駿東の国境付近しか切り取れなかったからね 必死に書いてるのに誰も相手にしてくれない→よしそれなら自演だ! 織田に瞬殺された末期の武田に一方的に押されてただけあって北条は弱い >>339
武田と断交して以降甲州征伐まで駿東も上野も切り取れてないとかどんだけ弱いんだよ 関東東北は室町体制が生きていて、そのルールの中でみんな戦っていたけど
北条や伊達はルール無視の何でもありで暴れたからお山の大将にはなれたが
戦国大名化した他の地域の勢力には全く歯が立たなかったんだよな 織田には平身低頭従った氏政が織田より巨大化してる秀吉に逆らった意図が分からんな
そもそも北条自体が秀吉馬鹿にするほど大した家系でもないだろうに >>342
ほんと意味が分からないな
当時の豊臣は織田より地位も戦力も圧倒的に上だったのに何であんなに強気だったのだろうか
領内の統治も不安定だったし
中国韓国北朝鮮みたいな政策だったのだろうか
内政が上手く行かないときは敵を作って国民の意識を逸らす的な 強気の原因
長期の籠城に耐えられ小田原城は落とせない これが一番でしょ
徳川と縁戚 これが二番 交渉は何とかなる
伊達もいる これを当てにしてたら滅んで当然 強気というか面子の問題なんだろうね
徳川以上の自負があるから、妹や母を差し出されたのと
同等の扱いか官位の約束が欲しかった、とかが真相に近そう 家臣の面子もあるから自分の面子だけの問題じゃないよね 逆に言うと謙信の時は関東衆だけでも小田原を囲まれてしまったのに
西国と東海北陸関東まで支配下に置く秀吉は謙信など比較にならないほどの規模で攻めて来る事は子供でも分かると思うのだがね
それで勝算があると考えるのはやはり謎だ
家康についても北条はボロクソに悪口を言って家康を仲介した交渉のパイプを自ら切るような事をしている
この家康に対する態度も秀吉を激怒させた一因になった
伊達についても不可解
仮に伊達が本気で豊臣と戦うつもりであったとしても常陸や下野などに豊臣方の勢力が多数いて通れない
これを攻め滅ぼしながら向かうなどと悠長な事をしていたら何年かかるか分からない
戦略的に伊達との同盟はさほど意味があるものではない
せいぜい北関東の諸将を足止めできるくらいがメリットであろう
家康もメンツがあるから豊臣の情報は詳細に伝えていただろうし氏規も上洛しているのに
あまりにも現実を無視した言動は謎すぎる 伊勢も色々あるので
宗家なら名門だけど早雲は何だか良く分かっていない 織田に従ったのに武田攻めの恩賞はロクに貰えないわ上野は取られるわで懲りたんだろうな >>354
一説によると
領地あげます、従属します
って言っておきながら上洛もしてこない北条に信長がキレてたらしい。
そう考えると名胡桃に対しての秀吉への対応含めて北条って何だかなぁって思える 氏康も武田の駿河侵攻でかたくなに今川側に立って無駄な抗争繰り返してたし
北条も大概な感じはするな
その結果上杉に後の景虎を人質に出して御館の乱で北条と武田が全面抗争になる遠因も作ってるし REVELATION
資金源
フロント/天下り
フィクサー
汚職/集団ストーカー/盗聴/盗撮/揉み消し
揉み消し加担 >>354
上野は甲州征伐まで武田領だから、取られたというより出遅れて取り損ねたと言う方が正しい 全然関係ない下野の領地も手放す事を強要されているし
武蔵の国衆なんかも織田の臣下に組み込まれてしまっていたので
上野を取ったとしても直ぐに巻き上げられただけだわな まぁ武田にあれだけ押されてた北条だから
まさか武田が1か月で滅亡するなんて思わずに
チンタラしてたのを信長が許さなかったってことだろうね
滝川を上野に入れたのも北条への圧迫だろうし >>65
信長に追放された足利義昭が小田原ではなく鞆に行った理由の一つは
「北条氏は完全な地方政権であるから天下を左右する力はまったくないので」
と言われているな。 著名な戦国大名の殆どは上方へ向って勢力を伸ばそうとしたけど
北条は真逆の北東に向かったという点では非常に珍しい
この事を見ただけでも北条は短絡的で先見性が全くなかったと言えるな 将門といい奥州藤原氏といい
中央政権から距離を置いて独立した勢力圏を成立させようとしたとかロマンがあるじゃないか
結果的にみんな失敗したけどそういう男達がいたと事に熱い思いがこみ上げてくる 勢力拡大したら結局は中央政権と戦わざるを得ない事は子供でも分かる事
だから生き残るには中央を目指して覇権を握るしか無い
しかし北条は目先の領土拡張しか頭になく、北関東の田舎でチマチマといつまでも争っていてタイムオーバーとか
全くもって無駄な戦いだったと言わざるを得ない
関東衆なんてなあなあでプロレスみたいな戦をやっていただけだし、北条の方から喧嘩を売らなければ積極的には動かないのだから
どうせ大志もないなら変な欲をかかずに相模と武蔵の半分くらいを維持していれば生き残れた可能性が高かったものを 家康への配慮もあって秀吉もだいぶ譲歩してくれなのにな
あそこで調子に乗って逆に喧嘩を売る意味が分からない >>368
河越の戦いで返して今川と和睦してるから無意味だったな そもそも今川との関係がこじれて攻撃しただけだからな
上方を目指そうとかそんな考えは微塵もない >>364
鎌倉幕府だって最初は東国の独立政権からスタートしてるからな 徳川家の関東転封で一揆が起きない。
→北条氏は余所者だからどうしようもない。
従来の鎌倉以来とか鎌倉公方以来の国衆 に
比べれば求心力はないから、
いなくなりました→ああそうかいぐらいの感覚だろうな。
我々の感覚だと地元の駅前百貨店が無くなりましただと少なくとも地域ニュースにはなるけど、ジャスコがイオンに変わったぐらいだとニュースにはならないぐらいじゃないかな。
北条氏の善政>
せいぜい実際統治している役人がよけいな負担をさせにくいように制度を整えている程度。
(税負担を分かりやすくするのとかあらかじめ公印が無い負担は認めないとか目安箱ぐらい)
黒田先生か、小野田先生かが税負担は他の大名と変わらないと言われてたから凄い善政とは言えないと思う。
ただ北条氏が旧来の土着勢力より増しだと思われていたからその統治下では一揆とかは起きなかったんだと考えられる。
まあ、一揆の中心に
なる
中央志向>
毛利元就は普段から天下を望むなといっていたわけだから家や場所によると思う。
島津氏や大友氏、長曽我部氏が天下を望んでいるとも思えないし。
>引きこもり
北条氏統治前の関東の庶民には地元が戦場なのはよくあることだからなあ。
大体、相手が上杉謙信に武田信玄じゃ相手が悪い。
滅ぼされないだけましだと思う。
そもそもそんなに北条が弱かったら、何回も対抗できないし、
上杉になびいた他の国衆に滅ぼされているだろうな。 追加
一揆の中心になる国衆は北条が排除しているせいもあると思うけど。 戦国最弱なんて言われてしまっている小田氏治でさえ謙信に攻められた時は侵攻を阻止するために打って出て戦っているのにそんな言い訳は通用しませんわ
武田も北条と同じく上杉と何度も死闘を繰り広げたけど引き籠もって領内を荒らさせるなんて事は一度もなかったし
北条の善政なんてものは軍記物語ネタであって一次資料から見えるのは北条の圧政でしかない >>377
謙信が越後と関東の軍勢合わせて10万くらいで
攻めてきたら信玄でも籠城したんじゃね。 >>378
武田なら先制攻撃しかけたろうな
そもそも籠城する城もないし
10万言うてもゲームじゃないのだから広い平原で10万人と同時に戦う訳ではないし
寄せ集めで統制も全く取れてないので脅威度は低い
名将と言われているような武将は3倍や5倍、中には10倍の敵を破っている武将もいるしな 城に籠るのがまずいなら、どこの大名も何で城なんか作るのさになっちゃうじゃないの。
籠城反対なんて、ドイツ参謀本部や、ナポレオン1世、第一次世界大戦前のフランス軍指揮官なら大賛成だろうけど。
大体小田城は由緒正しい元館みたいなところを改造した場所だから籠ってもなあって感じか否めない。
大体本当に小田氏は土着して長いんだから、それなりに縁者も多いだろうし、
そこがぽっと出の北条氏とはちがうわな。 >>380
その人は毎日後北条を貶さないと死んじゃう病の人だから触っちゃダメ
スルーかNG推奨 籠城てのは圧倒的に不利な状況でとる最後の手段
領内に敵を侵入させる事は最も下策であるから普通は極力回避しようとする
だから名将と言われるような人は常に外で戦った
北条が異常なのは十分な戦力があっても引き籠もる事だ
領民の犠牲を省みない不可解な戦略である
おそらく北条は百性だけでなく配下の国人達に対しても求心力が低くて
決戦に挑むような命令を下すことが出来なかったのではないかと思う
北条の発給した文書を見ると百性だけでなく国人領主も北条の圧政に苦しんでいた事が記されているので 北条って北関東の小領主寄せ集め軍と戦ってもパッとしないもんな
大概は睨み合いになって終わる 上杉謙信が小田原城を落としてたらその後どうなったんだろ逆に混乱? >386
越後上杉景虎が関東管令就任
古河公方は足利藤氏再就任
関東は北条氏を滅ぼすか、完全屈服させた後
関東を安定化させた後、その勢力を背景に
上杉景虎が近衛前久と共に上洛し、畿内を安定化させる。
周辺の敵対勢力は古河公方の権威と関東管令の実力、近衛を通じた朝廷からの勅で押さえる。
という構想だったらしいけど、
下手すると史実の関東進攻の拡大版や大内氏の二の舞になるのでは無いか? >>387
そんなこんなしてる間に武田に関東取られそう >>386
謙信が関東衆を上手く扱えるかどうかだな
それには上手く藤氏を処遇できるかが重要
もしそれが出来たらエグい事になるわ
あの時点で15万くらい動かせる訳だから天下取れる
まあ、謙信にそんな人望も政治力もないから絶対に無理だけど
北条のポジションに謙信が入れ替わるだけで、上杉(関東管領派)対関東衆(古河公方派)の争いになっただけだろう >>390
そうなったら関東衆(古河公方派)は武田と結んで上杉に対抗するだろうね 第一次関東進攻の際に藤氏を奉じているので、そのままならかつての関東管令=古河公方体制の復活で問題無し。
そもそも関東がまとまらなかったのは関東管令=古河公方体制が崩れたのが大きいからここが解決できるなら大体大丈夫。
次に上杉氏内の争い(山内vs扇谷)だと思うが有力な越後上杉が乗り出して来ているのでこれも問題解決。 ここの詳しい人のおかげで関東諸将って扱いクソ面倒臭そうって学べたのは良かった 関東の外交は平安時代から続くしがらみで複雑怪奇だからな
殆どの家が婚姻関係や本家分家の関係にあるので大名間だけでなく家中でも統制が極めて難しい
それに加えて関東府は独立性が高く、将軍家とは険悪で何度も討伐を受けている
関東管領も表向きは関東公方の補佐役であるが実態は将軍家が送り込んだ監視役で関東公方家との仲はすこぶる悪い
それによって関東は将軍派(関東管領派)と関東公方派で真っ二つに別れて争ったが
それは大名単位の話ではなく各大名家の家中でも管領派と公方派に別れて内戦になり
更に関東管領家と関東公方家も分家が乱立してそれぞれ宗家の座を巡って争ったのでカオスと化した 1560頃
関東公方
古河公方→藤氏派、義氏派
小弓公方→頼純
堀越公方→滅亡
関東管領
山内上杉→憲政(政虎)
扇谷上杉→憲勝
北条→氏康 >>396
火事場泥棒狙うも家康に1/4以下の兵でやられる北条が黒幕って…
まあ 一応第一次関東出兵の時には対北条としてまとまったけど
北条を滅ぼして扇谷上杉復活なんていっても山内上杉方は納得行かないだろうなあ。
謙信が生きている内は押さえこめても何回も上洛させられたりしている内に不満がたまって
そこを武田辺りに諜略されて結局元通りとかになるかも。 北条が進出したから関東が混乱したんじゃなくて
関東が混乱していたから北条が進出した。
謙信が北条を排除したとしても、抑えの利く誰かを
据えておかないと元の木阿弥になる可能性は高い。
謙信自身は越後国衆の統制に苦労した側面があるほか
成田長泰の離反を招くなど力不足の感は否めない。
謙信で無理なら他に務まる人材はいない。
北条に任せておいた方が良かったという話になる。 >400
越後国衆であれだけ苦労しているから、関東なんてもっと苦労しそうな気がする。
下手すると、京都→関東→越後をぐるぐるして過労死しそうだ。
古河公方と関東管領をきちんとすえなおしても謙信の後ろだては必要だろうしな。 最大限上手くいったとして関東管領(越後在住)になるのかな >>400
関東東北の騒乱はスポーツみたいなものだよ
決められたルールに則ってお互いにやりすぎないように行っていた恒例行事
北条や伊達が暴れなければ関東東北は大規模な争いもなく信長や秀吉に恭順して終わりだっただろう 鎌倉公方は古河公方やら堀越公方やら小弓公方やらいるし
関東管領は関東管領で、山内上杉やら扇谷上杉やらいる上に、上杉氏以外でも足利義氏が北条氏康を補任したり織田信長が滝川一益を補任したりしてるし 北条が関東管領を自称した事で里見も関東副将軍、佐竹は管領を名乗ったりしてもはや訳分からん事に そもそも古河公方からして勝手に「公方」を自称してますし 鎌倉公方足利成氏が幕府に逆らって父持氏みたいに
討伐されかけたから古河に逃げて、幕府が代わりの
鎌倉公方として足利政知を関東に送り込んだけど、
関東武士が政知を全然支持しなかったから伊豆から東へは
入る事が出来ず、そのうち家督争いで滅んだから幕府が
成氏の古河公方を公認せざるを得なくなった。 一方小弓公方ってのは足利義明が勝手に名乗ってただけで幕府は一切認めてない
ただ堀越公方と違って房総の真里谷や里見からさ支持されてたらしいが 義明は血統的には正統な古河公方の血筋だしな
反高基派としては擁立するのに都合が良い A)鎌倉公方から派遣されたB)篠川公方(足利満貞)
とC)稲村公方(足利満直)
A)鎌倉公方が移動してD)古河公方に変化。
更にD)古河公方が分裂してE)小弓公方が発生
、
関東の混乱を押さえるため京都から派遣されたのがF)堀越公方(足利政知)
それぞれの時代がちがうとは言うものの6つも公方があり、
どれも混乱を押さえるために設立されたのに結局は押さえるどころかかえって混乱の種を
撒き散らす奴もいるのは皮肉だな。 関東の戦国時代は関東公方のいざこざによって始まったからな
早い段階から騒乱が始まったけど、どこの家も大規模な内訌が起きて家中が混乱し本格的な戦国時代には乗り遅れて戦国大名化できなかったんだよな
その隙を北条に突かれて伸長を許してしまった こんなに面白いのに歴史好きの間でもマイナーで人気無いのが勿体ない >>413
> 戦国大名化できなかったんだよな
古河とその奉公衆、
山内、長尾諸家、扇谷、太田、…、
彼等は享徳ノ乱の過程で急激に地域権力へと遷移して行った。
規模の大小こそあれ、その権力構造は「戦国大名」と同質であったと考えられている。
特に太田道灌(を通しての扇谷)の動向はその典型と位置付けたい。
> その隙を北条に突かれて
北條に決定的な伸長の機会を与えたものは関東諸家の隙などではない。
諸家に「隙」を強要した原因、即ち「戦国」なる社会運動の発動をもたらした自然環境条件(気候変動及び地殻変動)だ。
大規模災害に対する危機管理政策を恒常化し得たことこそが北條抬頭の根本要因だった。 少なくとも北関東や房総の大名は戦国大名化していない
彼らは豊臣政権の権威の元でようやく旧来の体制から脱する事が出来た 北条だってちゃんと古河公方の晴氏や義氏から関東管領に補任されてるから >>416
北関東については見方の分かれる所だと思うが、学術水準では岩松は戦国大名化の先駆例と評価されている。
房総についてはむしろ小型戦国大名の見本市だった。
里見、真里谷、千葉、簗田、野田、…、
出自も経緯も様々だが暴力による直轄一円統治を行う在地権力、即ち戦国大名型権力体として自立を果たしていた。
>>419
鎌倉公方の執事である関東管領の任命を公方ができない理屈があるかよ Wikipediaにはこう書いてある
>関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。
>むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、康暦の政変直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、
>特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した長尾景仲ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が信濃国にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び後花園天皇の綸旨による関東管領任命が行われた。
>その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、
>上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する家職となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった。 関東管領の設立目的の一つが鎌倉公方監視だから幕府に任免権があったんだろう。
(元々管領という役職だから幕府に任免権があるのかもしれないけど)
初期の京都と鎌倉の間に特に何もなかった頃は鎌倉の推薦してきた人間でも別に問題はなかったが、
関東がきな臭くなるとそうもいってられなくなったから、任免権をきちんと行使するようになったんだろうな。 任命権が幕府にある、即ち直属の上司は幕府になるから憲実も幕府と鎌倉公方の板挟みになって辛い立場になったんやろ。 関東の諸大名は関東公方を支持している
そこに将軍家の刺客として関東管領が送り込まれる訳だから結構大変だよね
他にも将軍家が直臣として取り込んだ家がいくつかあるけど、後ろ盾の将軍家は遥か上方にいてそっちもそっちで混乱していて当てにならないし 建前上幕府に任命権があるったって実際は山内上杉家が世襲してましたやん 室町幕府支配領域である越後に所領があって守護家とも繋がりが深い山内上杉家が関東管領になるのが幕府にとって都合がいいからな 殆どの役職は世襲化していたからな
でも正式には将軍が任命するものだから他の家が将軍に任命されてしまうと負ける
だから北条が関東公方を傀儡化して関東管領を任命させた時は憲政も謙信も京まで上って将軍に拝謁している >>425
それは後になってからのこと。
鎌倉体制成立から永享ノ乱までは山内の世襲というわけではない。
名実共に家職となったのは山内顕定の超長期在任によるものだろう。
また顕定の代で山内も実質的に戦国大名化したから世襲以外の方法で管領を決めようとすると面倒くさいことになりかねない。