【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>244
俺はそうする、と云うだけの話。
お前さんにも他の人にも北條と書けなどと求めた覚えは無いんで、御随意にどうぞ。 >>243
そんなことを言ってるから馬鹿にされるんだよ >何で秀吉も北条に『だけ』は厳しかったのだろう
なんかそういうデータあるんですか?と言いたくなるレスだな >>250
ひろゆきってなんだかんだいっても
昔TVタックルに出た時の台詞しか有名じゃないよな >>250
徳川・・・全領安堵
毛利・・・全領安堵
長宗我部・・・本領安堵
島津・・・本領安堵
北条・・・切腹、獄門、改易
伊達・・・本領安堵
むしろ厳しくなかったという理由が知りたい
秀吉は優しさから氏政に腹を切らせて獄門にかけて改易したの? 石田が佐竹の取り次ぎだったから
豊臣体制の内部対立に巻き込まれた説
沼田問題が解決しそうだった時に北条安堵に危機感持った手紙が佐竹に送られてる
あと信州名胡桃と書かれた文書があるらしい
単なる誤字かもしれんけど 諸々の条件が違う案件をずらずら並べて何がしたいんだw
毛利・伊達は直接戦闘に至ってないし、長宗我部・島津は土佐薩摩に攻め込まれる前に降伏してるわけで北条の処分と単純に比較ができるわけないだろ いや比較できるだろ
北条は本拠地が西に寄っているから早い段階で小田原付近の戦闘になっただけで
その事によって処分に影響なんてある訳がない
まして伊達などはもはや潰す事は容易い状態であって北条よりも立場は悪かったのに大大名として存続できた事を考えると北条の処分は異常に重い
>>253
関東平定においても石田らと浅野らの内部闘争によって明暗が別れた大名は確かに多かった
お互いに自分が取次をしている大名はなるべく力を維持させて、敵対派閥が取次をしている大名はなんとか潰してやろうと躍起になっていた
佐竹なども実は伊達と対峙していたから参陣がかなり遅れていた
更に名門ゆえに秀吉に対する侮りがあったのか謁見した時に無礼な態度を取って秀吉を激怒させている
でも石田の取り成しによって事無きを得てむしろ大幅な加増を受けているしな
取次役が誰であるかは非常に重要であった
北条は家康が取次の一人で婚姻関係もあった事が原因になっていたかもしれないね
北条を安堵してしまうと家康が力を持ちすぎるし 羽柴と北條の関係だけを取り上げて個別事案として見るから不可解に見える。
列島の中央政権が関西に在った時期を通じて、奴等は関東(坂東)を常に敵視・警戒し続けてきたと云う構造がある。
関東を敵視した理由は;
イ)列島の地理風土による「関東半独立」の可能性の高さ
ロ)潜在的な地域力=中央政権にとっての危険度の大きさ
関東の優越的権力体が奴等に敵対的であろうとなかろうと、
奴等はこの強迫観念的構造によって行動を規定され続けてきた。
北條に対する処遇もその一事例であると俯瞰すれば特異性は全く無い。
附記。
上述の図式は、関西政権トップの内実が関東由来の勢力であっても、また逆に関東権力体トップの内実が関西由来の勢力であっても飽きることもなく繰り返されてきた。
これが個別の「人」「家」「勢力」等々の間の関係性に因るものには非ず、それを超越した構造であったことが示されている。
半独立ゆうたら九州の方がパイセン
なんせ磐井のLANからの大留年 >>258
スレチだがちょっと乗る。
磐井ノ乱は、むしろアプリオリな状態としての「独立九州国家」の終わりと見た方が当たるように思う。
ヤマト王権統治後の「反乱」、半独立云々とするのは記紀史観に対して無批判過ぎやしないか。 政宗も切腹寸前だったじゃん
恭順の意を示さないやつには秀吉は厳しい 秀吉は北条氏政氏直父子の上洛を何度も催促して、
かなり長い間辛抱強く待ってただろ。
なのに秀吉が可愛がってた真田に襲いかかったから
堪忍袋の緒が切れた。 北条から秀吉に送られた手紙もかなり上から目線のモノばかりだしな。
そりゃ秀吉の北条への心象が悪くなるのも当然だろ。 >>259
太宰府が左遷視されたのも独立性故の統治困難さからでしょ
その後も尊氏担いだり直冬担いだり
なにかと中央に抗してみたりする まあ、確かに良く考えたら単に北条が状況も読めずに調子に乗って秀吉に喧嘩売ったから潰されただけか
他の大名の領地を取り上げて俺にくれとか、人質を寄越したら上洛してやるとか
仕舞いには仲介してくれていた家康に向かってお前使えねーなボケと罵声を浴びせる始末だったからな
そりゃ誰でも不快になるわ 北条と言えば名門みたいに聞こえるが、伊勢ふぜいが伊豆相模を掠め取って鎌倉時代の執権北条の姓を名乗ってるだけだけどな >>265
調子乗り過ぎだわな
そりゃ自刃させられるわ >>266
そう考えると、どこの百姓か分からない猿が主君の死を利用して天下を掠め盗り、豊臣なんて姓を名乗って上から目線で手紙を送ってきても、そりゃ無視したくもなるわな。 >>266
幕府申次衆の重味を理解していない。
また掠め取ったと云うのも事実に反する。
伊豆は幕命による公務、相模も少なくともその西半領有については扇谷麾下としての行動。
>>268
羽柴の出自に関して「どこの百姓かわからない」という巷説も近年の学術水準ではほぼ否定されている。
総じて、
伊勢宗瑞や羽柴秀吉について軍記講談の類に脳を犯され過ぎた御仁が今なお多いのは嘆かわしい。
学術知見は年々歳々更新され続けている。
秀吉は名実ともに天下人だから上から目線なのは当たり前
実際に一番上の人間だし
氏政達は実力が伴わない無駄に尊大な態度だったから滅びた
本当に意味不明
一体どういう考えだったのだろう 小田原城を過信してたとしか
あと伊達が燕軍に来てくれるとか夢想してたし >>272
上杉謙信や武田信玄でも落とせなかったと言ったって、どっちも本気でを落とすつもりで攻めたとは思えないからな 家康同様に優遇されて然るべきという考えはどこから出てきたんだろう
石高の違いなのか、松平なんて伊勢氏の被官だったじゃんという家格の問題なのか 謙信は本気で落とすつもりだったんじゃね
ただ長期化するのは想定外で準備不足だっただけで
冬ごもりの年中行事で関東に来るようになってからはそもそも小田原まで行く気が無かったろうけど 氏康亡き後氏政の判断ミスや戦下手が目立つよな
氏康が長生きしてたらああはならなかった 当時の秀吉は従一位関白で官職を極めて政権を開き、支配地域は西国から北陸東海まで数十ヵ国に及んでいるのに
どうして戦おうと思ったのか謎すぎる
仮に伊達が積極的に戦ったとしても焼け石に水だし勝算なんてはっきり言ってゼロ
上杉や武田の時みたいに籠城して長期戦に持ち込んで相手が撤退するのを待つというつもりだったのだろうけど
それやると領内は散々に荒らされて荒廃するし、仮に上手くいって上野の城を一つや二つ貰っても割に合わないと思うのだが >>275
メインの目的は鶴岡八幡宮での関東管領就任式だったんじゃ・・ 10万もの軍勢集めて敵地の奥まで入り込んで就任式だけやって解散とか頭おかしいだろw 長尾景虎の小田原攻囲というのも謎が多い。
まだ当時は難攻不落とは云い難かった小田原城を大軍で囲みながら内部崩壊して解陣、
鎌倉での関東管領継承後の帰路は何故か味方だった筈の諸将から追撃を受けて敗走同然に上州の奥地まで逃亡。
農繁期に掛かったが故の軍勢自壊はまだ解るにしても、攻撃されるほどの憎悪を買うとは一体何があったのか。
まあ、謙信は小田原を落として北条を滅ぼすつもりだったろうけど
敵地の最奥まで入り込んでいた訳だから略奪しまくっても兵站が維持できず
小田原どころか他の城も落とせなくてこれはもう駄目だから帰るわとみんな引き揚げ始まってしまったから
では今回はお開きにしましょうかみたいな感じで尻切れトンボになってしまったんだよな
勢いだけで突っ込んできた上杉より防衛体制を整えていた北条の方が上手だったと言う事だわ >>282
金品の略奪、農民を越後に拉致して奴隷化 >>282
だから成田を殴って恨みを買ったというような逸話も生まれたんだろうな
これ以降も謙信と関東衆は喧嘩を繰り返して最終的には誰も協力しなくなった
関東は独立性が高く関東公方を中心に独自の統治体制が構築されてそのルールの下で活動していたが
それを破壊する者として敵視されたのが北条であって関東公方や管領らが排除しようと戦い破れた
その後継者として期待されたのが謙信だったんだよな
だから初めはみんな集まった
だけど謙信は関東の大名ではないからその辺りの機微には疎く彼らのルールから逸脱する決定をしたから喧嘩になった
永禄3年の小田原包囲戦の時にも関東公方を巡っての争いがあったとも言われているけど
実際にその後も関東公方を巡って散々喧嘩をしているから、この時も離反者が続出したのは何かしらそういったトラブルがあったのだろう 自分達で「正義」とか言う連中って大体やばいからな。
ワンピースの海軍と同じよ。 関東史から見ると謙信が義の人とか持ち上げられての意味不明だよな 越後から解放軍が来てくれたと思ってたら
俺らを軍団化して畿内戦線に投入します
ってそりゃ怒るわ
発想が応仁の乱の大内軍団
100年古い そもそも古河公方派の人間は関東管領と敵対関係だったからな
北条という共通な敵というだけで関東管領になる予定の長尾と仲良くする気も鼻からない
また謙信も佐竹のこと家臣扱いし嫌われ協力的でなくなり、小弓公方派だった里見にも雑な態度取り
里見と敵対関係にある千葉氏(北条に従属してる)に味方し国境揉めてる里見と千葉の間に入り下総は千葉のものと後押し里見からキラワれる
また里見のこと名前知らないから太郎殿でいいやと里見が何度も失礼ですよと怒った手紙よこすもとうとう最後まで太郎殿呼ばわりだった
再び上杉北条が敵対関係になって佐竹里見に協力求めたがシカトされる >>290
結局それなんだよな
謙信にしてみれば上野周辺の上杉領を併呑できる大義名分が得られ、関東衆を動員でにる権力を獲得できる事に魅力を感じて山内上杉を継承し関東管領を名乗った訳だけど
権利と義務は表裏一体であるから関東管領を継承する事は関東の支配体制の保護をする義務も生じる
関東衆もそれを期待したから馳せ参じた訳だけど、北陸の大名であり戦国大名化していた謙信にとっては関東管領は自家勢力拡大の為の単なるツールであり
関東公方が誰であろうと、関東の支配体制が崩壊しようとどうでも良かったんだよな
その辺りの意識のズレが初めからあって、お互いに北条を倒す為には協力しなければならないから仕方なく妥協しながら付き合っていたけど
最後には妥協できない一線も越えてしまったから完全に破綻した 関東の農民達にすりゃ年貢が軽い後北条の方が
良いに決まってるからな。
後北条が関東を支配する正当性が「善政」だった。
だからこそ秀吉は家康に関東を押し付けたとも言える。
後北条を支持する農民達が一揆を起こしまくるのを期待して。 それは後世の創作でしょ
北条は籠城戦を度々行ったから領内は略奪の憂き目に遭って亡国と言われるほど荒廃してしまったし
関東では天候不良が続いて飢饉が度々発生し北条領内では年貢を拒否する村が多くでる有様だった
年貢を取らなかったのではなく取れなかったというのが正しい 北條善政伝説が形成され始めたのは対長尾戦争よりも遥か以前、伊勢宗瑞や北條氏綱の頃とみられている。
恒常的な飢饉や頻発する災害を背景として年貢の減免交渉に真摯に応じたこと、国主権力体が直接かつ明文規定に拠って対応したことなどがその伝説のコアを成していると考えられる。
そもそも論を云うと、
気候変動と地殻変動の激化による危機に際して無力無能を晒した室町体制=複線/複層統治構造に対するアンチテーゼ群の試行錯誤が「戦国」なる社会運動の実体だった。
そしてその典型事例の一つとして北條は在った。
この危機の中で領国の立ち行くような権力体系を確立すること、換言すれば室町体制とは異なる統治論理を具現化することが北條のアイデンティティだったわけで、それが「善政」と評価されたのは純然たる結果論に過ぎない。
そもそも他の大名の領国でも特に統治に差があったとは思えない
例えば室町体制を最後まで守ろうとして北条と対立していた佐竹も善政で知られていて400年経った今でも慕われているが
話の内容は北条と極めて似ている
だが戦国末期の関東は災害が多発して飢饉も発生し領民の暮らしはかなり苦しかった事は間違いない
それに加えて北条も佐竹も毎年のように戦を繰り返していたから賦役と年貢の負担はかなりのものであった事も疑いようがない
これらの善政伝説は江戸時代以降に語られるようになったもので
逼迫した江戸時代の諸藩の暮らしに対するアンチテーゼとして生み出された虚構に過ぎない >>297
> これらの善政伝説は江戸時代以降に語られるようになったもので
そう思いたい人にとっては甚だ遺憾なことではあるが、同時代史料にある。
本当に「善政」だったか否かは知らず、
「善政と評価されていた」ことは否定できない。
他國と北條の統治体系に差があったか無かったか、史料や研究論文を当たった上で貴君自ら判断されたい。
また関東の在地の荒廃は戦国末期に特に顕著だったわけではない。
遅く見積もっても享徳ノ乱の当時から荒廃を極めている。
その状況下で前代の統治者が十分な対応を取れなかった事実が北條善政伝説の前提になったことは想像に難くない。
また佐竹が室町体制を固守しようとしたとは初耳だ。
室町体制そのものの内訌を克服して「戦国大名」化を果たしたからこそ北條との間に実体利害の矛盾を生じて対立に至ったわけだし、
永年に渡って北條に対抗し得たのも佐竹が戦国大名だったからに外ならない。
佐竹もまた北條とは異なる形で旧秩序へのアンチテーゼを提示していた。
それは彼等に自覚があろうと無かろうと、客観事実として動かない。 >>298
それは全く違うよ
佐竹は戦国大名ではない
室町体制の中で洞中という新しい支配体系を構築していた
これはあくまで室町体制の延長でしかなく関東公方という権威が不可欠なものであるから擁立に最後まで固執した
里見、結城、宇都宮など他の関東衆にとってもこれは同じ事で
結局これが原因で長尾上杉と決別する事となる
北条の善政も伝説でしかない
北条は早くから検地を実施していたので領民の負担はとても大きいものであった
室町体制下の年貢などはザルで百姓がいくらでも誤魔化しが可能であったからむしろ北条支配以前の方が生活が楽であった
実際、北条家の検地帳とそれに関する覚書が実在しているが大幅な増税が記されている
隠田や年貢滞納は死罪とする厳しいお触れも出しているし免田であった土地も年貢の対象としている
その結果、北条領内では百姓による年貢の拒絶や一揆、逃散が相次いでいる
特筆すべきは百姓だけでなく地侍までも国外に逃亡している事だ
年貢が完納されない場合は徴収役の武士も連帯責任となっているのでそれを恐れて正に村ぐるみで逃亡した 黒田基樹によれば北条氏康時代に民衆が他国に流れるのに歯止めが止まらずまだ働き盛りなのに氏政に家督譲って徳政令やったってさ
善政してたのに民が他国に流れるのわけがない
借金無くすからなんとか出て行かないでとやって引き止めてたのが北条 いくら善政敷いてても、大水害で飢饉が起きたら仕方ないわな 後北条の善政を否定するなら、
まず4公6民を否定するソースを出せよ。 根本的なところから学んだ方がいいよ
そもそもそこで言う年貢というのは田畑など収穫に対して課されたものであって税率ではない
税はその他にも様々なものに課される
代表的なものでは棟別銭や夫役などであるが北条も棟別銭、陣夫、城米などたくさんの課税をしており総じて見ると税率は6割を超えている
しかも滞納すれば打首か妻子牛馬の召し上げという時代劇の悪代官のごとき厳しい処分であったため国外逃亡する者が後を断たなかった
これは北条が滅亡するまで慢性的に続いている 信虎、謙信、信玄に国内侵入許し荒らし回られても引き籠もって撃ってでない
思う存分暴れられてからやっと形ばかりの出陣するもボッコボコにやられ和睦する
領民からすりゃこんな大名に税金払いたくないわ
お前ら数年に一度中国が日本荒らし回って日本政府に不満持たないのかよ
そりゃ領民も逃げ出すわ 一つか二つで止めときゃいいのに調子に乗るから段々見えてくる尻尾 百姓「あと三日!あと三日だけお待ちくだせえ」
代官「ならん!ならん!払えぬのなら女は貰ってゆくぞ」
百姓「それだけはご勘弁くだせえ!」
代官「ええい!邪魔立てするなっ」
バサーッ
百姓「ぎゃああああ」
娘「いやあああ!」
北条領内の日常 上杉謙信の関東遠征は表向き義のためとか言ってるけど本質は略奪軍だったらしいよ ちゅーか真面目な話謙信、信玄が国内略奪放火しまくってるのに迎撃しないの領民からしたら糞大名だからな
税払った見返りに守らなきゃいけない
家失った、財産奪われた、田畑駄目にされた
これ全部北条が弁償したとは到底思えないんだよな
4公6民程度で名君呼ばわりする奴いるけどさ。もし中国がしょっちゅう攻めてきて日本の家、工場、ビル破壊しまくって自衛隊引き籠もって迎撃しなかったら日本政府糞すぎんでしょ
それと一緒 北条は大大名に成長したけど動きが鈍く決戦を避ける行動が多いのが不可解だったけど
北条が出している書状やお触れを見るに領民とその代表である地侍との関係が上手くいっていなかったから無理な命令は出来なかったのだろう そうか?
秀吉、家康の転封で余所者が配属されると一揆多発
徳川はまったく一揆起きてないので北条が特段優れてるというわけでは無い
そもそも前線の城で敵を抑えて迅速に軍勢集めて迎撃しない糞大名が人気あるわけがない
何回領内侵入され荒らし回られてるんだよ
しかも謙信、信玄共に上野から相模まで侵入許し居城まで迫られ放火されまくっても迎撃しない
そりゃ民も逃げ出すわ 北条だけなんだよ最初から敵が攻めてきたら迎撃しないでいずれ帰るだろうと二カ国突破許して居城までこられてもまだうってでないで城下までめちゃめちゃにされてるの。
民の家、田畑、財産どうなろうと知ったこっちゃない
織田で言えば浅井朝倉に美濃尾張突破され岐阜城下まで放火略奪されまくってるのに迎撃しないのと一緒
毛利だって備中、鳥取で敵の大軍雪崩込むの防いで頑張ってる
上杉も越中魚津城が本能寺まで粘りそのおかげで生き残れた
北条はヘタレで領民からすれば糞大名 もし日本の隣に地続きの国があって
中国が頻繁に日本破壊しまくって略奪しにきていずれ帰るからと日本政府は自衛隊に迎撃させず政府高官だけ自衛隊に守られ引き籠もってたら
そんな国見捨てて隣の国に逃げるだろ
北条の民もそれと一緒で逃亡しまくってた
なのにゲームのせいか北条は政治100とかわけわからん数値にされてる
民を守らない奴が政治100なわけねーだろ ロシアお得意の作戦ではある
1ナポレオン戦争
2独ソ戦 そんな多民族の戦争と一緒にすんなよ
それは征服されれば死ぬか奴隷にされるか強制疎開させられ強制労働なの知ってたから民衆も死に物狂いで国のために戦った
北条がそれに当てはまるか? >>319
じゃ中国が日本に略奪しにくる話と同じとか言わないでください 暴れてる人の素姓はだいたいわかった 相手にしたら負け >>320
略奪、放火は変わらんだろボケ
お前の言ってるような多民族の戦争がどうやったら日本国内の戦争に当てはまると思うのか馬鹿だねぇ君
それとも謙信、信玄軍はただ通過するだけで何もしなかったと?
北条は敵が来ると迎撃しないで民の家が放火略奪されてるのに引き籠もって引き返すの待ってたヘタレ
こんなのが政治凄かったとかアホすぎるわ 多民族間の戦争と日本国内の内戦一緒にしてるアホのことでしょ 政治凄かったのに民が略奪放火されてるのに迎撃しないで二カ国突破、国内縦断を指を加えて見てるだけで安全なところに引き籠もって敵が飽きて帰るの待ってただけのヘタレが政治凄いはねーわ
税納めた見返りに大名は民を守る責務があるのに北条はやらなかった糞大名です >>324
まず、>>317の中国が頻繁に日本を破壊、略奪された時に日本が何もしないのと同じって言う例えにおいてあなた自身が他民族間の戦争と日本国内の内戦を同じに考えてることに気付きましょう
ちなみに>>320の略奪、放火は変わらんと言うならナポレオン戦争や独ソ戦だって変わらんだと思いますよ 名将と言われる武将の殆どはどんなに不利な状況でも必ず敵地か国境付近に打って出て戦ったけど
度々国内に敵を入れて戦う北条は珍しい家ではある 国内に敵を入れてを例えると
危機を感じると引っ込む巻貝に…反撃がないな 亀か
反撃はするからボクシングのブロック、クリンチが上手い選手 上杉や武田が織田にやられて退場したから良かったものの
攻撃に晒され続けていたら北条も内部崩壊しただろうな
領民や配下の不満がかなりたまっていたようだし >>329
氏康ならもっと立ち回り上手かったと思う 本能寺後のあのチャンスに4万近い大軍で上野抑えて碓氷峠通って信濃に進出して
真田とかも呼応したのに結果的に1万程度の徳川軍に負けたって酷すぎね?
しかも信濃も全て失ってるし
ここで甲斐信濃も抑えてたなら250万石くらいあるだろ 滝川と戦った時は珍しく素早い出陣で勝ったけど
その後は結局いつも通りぐだぐだで弱かったな
徳川に完敗して甲信を断念し已む無く上野の切り取りを行う事になったけど、その上野すらも結局は制圧できなかった
そしてそれが北条滅亡の原因になるのだから確かに酷い有様だ
甲信を切り取って豊臣と対峙し有利な条件で臣従し天下取りの地盤を築いた徳川とは雲泥の差がついた >>331
でも氏康時代から悪化したからな
両上杉を倒す事には成功したけど領内は荒れ果てて更に天災と増税が追い打ちをかけて領民の生活は破綻した
それで国中で領民が逃亡という事態に陥って氏康は例の徳政令を出したが
この時、徳政令だけではなく減税処置も行って領民の帰還を促した
しかし結局僅か2年ほどで再び増税を行い数年で元に戻ってしまっている
だから領民の逃亡は収まる事はなく領主までもが逃亡する状態であった
その後も増税を繰り返し天正9年には一揆が起り、逃亡という言わば消極的反抗から一揆という積極的な反抗に変わっていくのだが 甲州征伐の時も結局駿東の国境付近しか切り取れなかったからね 必死に書いてるのに誰も相手にしてくれない→よしそれなら自演だ! 織田に瞬殺された末期の武田に一方的に押されてただけあって北条は弱い >>339
武田と断交して以降甲州征伐まで駿東も上野も切り取れてないとかどんだけ弱いんだよ 関東東北は室町体制が生きていて、そのルールの中でみんな戦っていたけど
北条や伊達はルール無視の何でもありで暴れたからお山の大将にはなれたが
戦国大名化した他の地域の勢力には全く歯が立たなかったんだよな 織田には平身低頭従った氏政が織田より巨大化してる秀吉に逆らった意図が分からんな
そもそも北条自体が秀吉馬鹿にするほど大した家系でもないだろうに