>>238
> 信長も恭順しようとしている北条を絶対に許さなかった

それは何かの間違いだな。
織田信長が甲斐戦争に関する北條氏政の支援活動に一定の評価を与えた書状が遺っているし、
「織田と縁組をしてその属国となりたい」と云う氏政の申し出にも具体的に対応していた形跡がある。

結局の所、
織田が北條をどう考えていたかは不明と云うしかない。
甲斐戦争までの織田の戦争に関するスタンスは基本的に「殲滅」だった。
文字通り殲滅しないまでも在地の支配を完全に奪い取る。
毛利もこの措置を受ける途上にあった。
ところがどうしたことか、
武田殲滅後の関東仕置に於いて織田は、
関東の軍政構造を維持したまま瀧川を「管領」役として北條も佐竹もこれに出仕させる、
謂わば超越的暴力による在地暴力の封鎖=「惣無事」モドキという形を取った。

織田が全国一元統治を曲がりなりにも意識し始めたのは甲斐戦争後だと云う説もあるが、
それが本当ならば「殲滅」よりも現実的かつ効率的な覇業の手法として在地権力体群の包含を考えていたかもしれないし、
関東北條をその最初のテストケースにしたとしても不思議は無い。