>>220
どうだろうか。
関西を遥かに凌ぐスケールとスピードの中世関東河川水運の全体像は未解明と云って良い。
北條氏照が栗橋を差配していた頃、その配下だけでも三十隻からの大型水運船が回航していたとの記録もある。
船舶総数や運搬物量は厖大なものだったと考えるのが自然だろう。
だからこそ北條氏綱は江戸を速やかに攻略したし、北條氏康の「関宿は一国にも値する」と云う台詞にもなる。

利根川旧流路の下流域に於ける氾濫水害は慥かに深刻だったがそれも表裏を見る必要がある。
宗長や万里集九の記録した太田道灌の江戸の殷賑は、多摩川と隅田川(入間川)に加えて利根川の水運まで集める要湊だったが故のこととも解釈し得る。

今なお幅を効かせる関西ナショナリズムからは認め難いだろうが、
前近代の日本列島は現代よりも遙かな健全な多極社会だったことを認識されたい。