【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>198
現実の歴史に関してifを構えることは無意味かつ不可能だ。
ゲームでもやるような感覚で安直にそれを語りたいなら然るべき板/スレへ移動されたい。
附言。
全ての事象は;
1. x座標(空間方向座標)=同時代的な諸範疇の「構造」
2. y座標(時間方向座標)=時系列的な諸範疇の「因果律」
の交点に発生する。
当該事象にifを構えて改変するという行為は上記の少なくとも何れか、多くの場合は両方を改変することに他ならない。
然るに同時代的構造は物理実体構造同様に極めて危うい力学的平衡の上に成立するものであって、
たった一つの要素でも改変すれば平衡は忽ち崩壊する。
新たな平衡点に於ける諸様相は史実と全く異なるものになるだろう。
また時系列的因果律は単独で存在するものに非ず、
他の因果律と複雑に連関するのみかそれ自体多くの分岐を有している。
これを改変することはその全てを変えることであって、
当該事象発生時点に如何なる影響を及ぼすものか予測不能である。
即ちifを構えること自体が当該事象を評価する為の条件も要件も破壊してしまう。
当該事象のみを改変しつつ他の全てを史実の通り留め置くことが上記の通り不可能であってみれば、
改変行為そのものが改変行為を無意味化するというパラドクスに帰結せざるを得ない。
吾人が前書込に於いて「ifは無意味かつ不可能」と断じた所以である。
ああ、なんという子供らしい考え方だ! ああ、まるで純潔無邪気な赤ん坊の夢だ! >>198
氏康は天下人になる能力はあったと思う。
ただし氏政では天下を維持できない。 >>198
攻める大義名分は?
無いのにやると信玄と変わらない 信玄には室町幕府に逆らう今川を討伐するという立派な大義名分があったよ 大義名分とか考えてる時点で今どきの雑魚なんだよなw 後北条なら関東公方担いで
関東東北制覇が現実的方法だろ
西に行くのは向いていなさそう 秀吉が京に上った氏照と
会食の時、氏照の座席が
次の間にはみ出して蜂屋の隣だった
かわいそうだよな >>210
従来知られていなかった新事実を>>209氏は発掘したんだろう。
続報を刮目して俟とうじゃないか。 確かに蜂屋だけハブられているように見えなくもないけど国持の大大名が居並ぶ中、小大名の蜂屋が同席を許されたのだから
評価されていたと見るべきではなかろうか 武田に南方に目を向けさせないために
越後府内侵攻を助力すべく上野奪取、魚沼郡進駐に専念でワンチャン賭けるしかなかった
三国同盟成立を以って本拠を江戸に移転
最悪下総取られて古河を危機に晒しても上野優先
これで10年甲相駿で闘える >>214
江戸に本拠地を移すなら最低でも利根川を今の流域に造り替えないと城下町の発展は望めないし、仮想敵が西にいるとして江戸湾をバックに戦う前から背水の陣を敷くのは愚策以外のなんでもない 江戸に本拠地を移さないまでも
「第二小田原市」
みたいな感じで要衝にする選択肢はなかったのか? >>215
江戸と云う町の歴史について学び直した方が良い。
関西史観と権現様逆説的神格化のタッグが捏造した偽りの江戸史にいつまでも囚われていてはならない。 江戸って北条領内の第二都市くらいの発展はしていたのでは
鎌倉時代から貿易港として発展していた都市だしな 北條氏政は晩年江戸城を居館として執務していたと云う。
或いは所謂「両屋形」制を物理的にも展開してその一角とする構想でも存在したか。
当時既に里見は降伏して武総之海は完全に北條の海。
簗田も屈伏して関宿も北條直轄。
江戸そのものの繁栄の上にこれらの軍政状況も併せて、更なる発展への要件は満たされていた。
>>217
しかし利根川東遷事業が無いと江戸が大阪以上に
発展する事が無かったのも事実だろ。 >>220
大阪みたいに発展するのは無理だったろうが
小田原レベルになるのは可能だったと思う。
江戸に小田原城みたいな堅城を作っておけば
佐竹などを威圧できたのではないか? 江戸は内海だからある程度悪天候時でも里見に睨みが効くんじゃない
北関東出兵時に本軍帰還まで持ちこたえられればいいのだ >江戸に小田原城みたいな堅城を作っておけば
上洛費用の捻出にすら四苦八苦してるにのに無茶言うなよ
というか、家康入府以降に実施された数々の事業を逆算すれば
氏政期の江戸の開発レベルは概ねイメージできるだろうに >>220
どうだろうか。
関西を遥かに凌ぐスケールとスピードの中世関東河川水運の全体像は未解明と云って良い。
北條氏照が栗橋を差配していた頃、その配下だけでも三十隻からの大型水運船が回航していたとの記録もある。
船舶総数や運搬物量は厖大なものだったと考えるのが自然だろう。
だからこそ北條氏綱は江戸を速やかに攻略したし、北條氏康の「関宿は一国にも値する」と云う台詞にもなる。
利根川旧流路の下流域に於ける氾濫水害は慥かに深刻だったがそれも表裏を見る必要がある。
宗長や万里集九の記録した太田道灌の江戸の殷賑は、多摩川と隅田川(入間川)に加えて利根川の水運まで集める要湊だったが故のこととも解釈し得る。
今なお幅を効かせる関西ナショナリズムからは認め難いだろうが、
前近代の日本列島は現代よりも遙かな健全な多極社会だったことを認識されたい。
今から見たらなんで古河なんかにとおもえるが、
当時は水運の要所だったとかなんかとか
いやしらんけど 附記。
利根川東遷事業が全て徳川の仕事という「常識」も改められつつある。
それは早くも古河成氏の時代には部分的に始まっていた。
むしろ「利根川を如何にせむ」は古河、簗田、北條、徳川の枠を超えて引き継がれた関東社会の大課題であって、
徳川はその流れを絶つことなく優秀な継承者として振る舞ったと位置付けるのが的確だろう。
江戸幕府でも30年かかっている事業を戦乱期の一大名に求めるのもどうかと思うけどなあ ID:jfWRjDIjが何を主張したがってるのか分からんのだが
端的に1580年代の江戸をどのように評価してるんだ? >>228
> 1580年代の江戸をどのように評価してるんだ?
「関東の重要核都市の一つ」。
むしろ貴問の主意を測りかねている。
元々は>>215氏の古くて浅くて偏った認識の誤りがあって、
当方は上記の評価を前提としてそれを正す為に当時の江戸の属性や位置付けを述べたまでだ。
それは当方の>>219及び>>224から明らかに読み取れる筈だが。
偶然とは怖いもので、今日本屋でこの議論にぴったり嵌まる書籍を見つけて早速購入した。
『江戸 -平安時代から家康の建設へ』
中公新書で、著者は誰あろう、あの齋藤慎一氏。
面白くない訳が無い。
一昨年末の発行だから新刊ではないが、興味のある向きには奨めておきたい。 中世江戸ついては定量的データに乏しくて
特に氏政期の江戸の実態は「不明」と評価すべきと思っている
(道灌期の史料とかそのまま鵜呑みに出来るわけないし)
中世江戸に対する評価の違いをハッキリさせたかってことかな
>質問の主旨 島津も豊臣氏に楯突きながら所領一部安堵されたので
仮に負けても伊豆相模くらいは残してくれるだろうと
根拠なき前提の下で戦始めてしまったのかもしれんね。 徳川方の記録だと江戸は葦だらけの湿地で江戸城もオンボロで使い物にならんって北条下げの風評被害が酷い 北条というか
秀吉のせいで辺鄙な所に飛ばされて苦労したけど権現様のお陰で大都会になりました
権現様すごい!
というシナリオ 江戸時代だろうと現代だろうと
徳川以前の江戸が目くそだったか鼻くそだったかなんて話に多くの人は興味ないからね
そりゃあそういう筋立ての話も出てくるし定着もするよ
目くそでも鼻くそでも無く実は山椒でしたって実証主義的に論証できれば話も変わるだろうが 何で秀吉も北条にだけは厳しかったのだろう
信長も恭順しようとしている北条を絶対に許さなかったし
何か他の大名を苛立たせるものがあったのだろうか >>238
イラッとさせる顔か喋り方だったんだろうな そりゃ関東250万石だっけかが直接恭順の挨拶にもこないんなら秀吉の目の黒いうちに潰してしまうしかない >>238
> 信長も恭順しようとしている北条を絶対に許さなかった
それは何かの間違いだな。
織田信長が甲斐戦争に関する北條氏政の支援活動に一定の評価を与えた書状が遺っているし、
「織田と縁組をしてその属国となりたい」と云う氏政の申し出にも具体的に対応していた形跡がある。
結局の所、
織田が北條をどう考えていたかは不明と云うしかない。
甲斐戦争までの織田の戦争に関するスタンスは基本的に「殲滅」だった。
文字通り殲滅しないまでも在地の支配を完全に奪い取る。
毛利もこの措置を受ける途上にあった。
ところがどうしたことか、
武田殲滅後の関東仕置に於いて織田は、
関東の軍政構造を維持したまま瀧川を「管領」役として北條も佐竹もこれに出仕させる、
謂わば超越的暴力による在地暴力の封鎖=「惣無事」モドキという形を取った。
織田が全国一元統治を曲がりなりにも意識し始めたのは甲斐戦争後だと云う説もあるが、
それが本当ならば「殲滅」よりも現実的かつ効率的な覇業の手法として在地権力体群の包含を考えていたかもしれないし、
関東北條をその最初のテストケースにしたとしても不思議は無い。 >>242
当時の北條家の文書に北條と書いてある以上、当時のことを語るに際してはそれを採る。
現代を生きる北條家子孫の方々がどう書いているかまでは知らない。
>>244
俺はそうする、と云うだけの話。
お前さんにも他の人にも北條と書けなどと求めた覚えは無いんで、御随意にどうぞ。 >>243
そんなことを言ってるから馬鹿にされるんだよ >何で秀吉も北条に『だけ』は厳しかったのだろう
なんかそういうデータあるんですか?と言いたくなるレスだな >>250
ひろゆきってなんだかんだいっても
昔TVタックルに出た時の台詞しか有名じゃないよな >>250
徳川・・・全領安堵
毛利・・・全領安堵
長宗我部・・・本領安堵
島津・・・本領安堵
北条・・・切腹、獄門、改易
伊達・・・本領安堵
むしろ厳しくなかったという理由が知りたい
秀吉は優しさから氏政に腹を切らせて獄門にかけて改易したの? 石田が佐竹の取り次ぎだったから
豊臣体制の内部対立に巻き込まれた説
沼田問題が解決しそうだった時に北条安堵に危機感持った手紙が佐竹に送られてる
あと信州名胡桃と書かれた文書があるらしい
単なる誤字かもしれんけど 諸々の条件が違う案件をずらずら並べて何がしたいんだw
毛利・伊達は直接戦闘に至ってないし、長宗我部・島津は土佐薩摩に攻め込まれる前に降伏してるわけで北条の処分と単純に比較ができるわけないだろ いや比較できるだろ
北条は本拠地が西に寄っているから早い段階で小田原付近の戦闘になっただけで
その事によって処分に影響なんてある訳がない
まして伊達などはもはや潰す事は容易い状態であって北条よりも立場は悪かったのに大大名として存続できた事を考えると北条の処分は異常に重い
>>253
関東平定においても石田らと浅野らの内部闘争によって明暗が別れた大名は確かに多かった
お互いに自分が取次をしている大名はなるべく力を維持させて、敵対派閥が取次をしている大名はなんとか潰してやろうと躍起になっていた
佐竹なども実は伊達と対峙していたから参陣がかなり遅れていた
更に名門ゆえに秀吉に対する侮りがあったのか謁見した時に無礼な態度を取って秀吉を激怒させている
でも石田の取り成しによって事無きを得てむしろ大幅な加増を受けているしな
取次役が誰であるかは非常に重要であった
北条は家康が取次の一人で婚姻関係もあった事が原因になっていたかもしれないね
北条を安堵してしまうと家康が力を持ちすぎるし 羽柴と北條の関係だけを取り上げて個別事案として見るから不可解に見える。
列島の中央政権が関西に在った時期を通じて、奴等は関東(坂東)を常に敵視・警戒し続けてきたと云う構造がある。
関東を敵視した理由は;
イ)列島の地理風土による「関東半独立」の可能性の高さ
ロ)潜在的な地域力=中央政権にとっての危険度の大きさ
関東の優越的権力体が奴等に敵対的であろうとなかろうと、
奴等はこの強迫観念的構造によって行動を規定され続けてきた。
北條に対する処遇もその一事例であると俯瞰すれば特異性は全く無い。
附記。
上述の図式は、関西政権トップの内実が関東由来の勢力であっても、また逆に関東権力体トップの内実が関西由来の勢力であっても飽きることもなく繰り返されてきた。
これが個別の「人」「家」「勢力」等々の間の関係性に因るものには非ず、それを超越した構造であったことが示されている。
半独立ゆうたら九州の方がパイセン
なんせ磐井のLANからの大留年 >>258
スレチだがちょっと乗る。
磐井ノ乱は、むしろアプリオリな状態としての「独立九州国家」の終わりと見た方が当たるように思う。
ヤマト王権統治後の「反乱」、半独立云々とするのは記紀史観に対して無批判過ぎやしないか。 政宗も切腹寸前だったじゃん
恭順の意を示さないやつには秀吉は厳しい 秀吉は北条氏政氏直父子の上洛を何度も催促して、
かなり長い間辛抱強く待ってただろ。
なのに秀吉が可愛がってた真田に襲いかかったから
堪忍袋の緒が切れた。 北条から秀吉に送られた手紙もかなり上から目線のモノばかりだしな。
そりゃ秀吉の北条への心象が悪くなるのも当然だろ。 >>259
太宰府が左遷視されたのも独立性故の統治困難さからでしょ
その後も尊氏担いだり直冬担いだり
なにかと中央に抗してみたりする まあ、確かに良く考えたら単に北条が状況も読めずに調子に乗って秀吉に喧嘩売ったから潰されただけか
他の大名の領地を取り上げて俺にくれとか、人質を寄越したら上洛してやるとか
仕舞いには仲介してくれていた家康に向かってお前使えねーなボケと罵声を浴びせる始末だったからな
そりゃ誰でも不快になるわ 北条と言えば名門みたいに聞こえるが、伊勢ふぜいが伊豆相模を掠め取って鎌倉時代の執権北条の姓を名乗ってるだけだけどな >>265
調子乗り過ぎだわな
そりゃ自刃させられるわ >>266
そう考えると、どこの百姓か分からない猿が主君の死を利用して天下を掠め盗り、豊臣なんて姓を名乗って上から目線で手紙を送ってきても、そりゃ無視したくもなるわな。 >>266
幕府申次衆の重味を理解していない。
また掠め取ったと云うのも事実に反する。
伊豆は幕命による公務、相模も少なくともその西半領有については扇谷麾下としての行動。
>>268
羽柴の出自に関して「どこの百姓かわからない」という巷説も近年の学術水準ではほぼ否定されている。
総じて、
伊勢宗瑞や羽柴秀吉について軍記講談の類に脳を犯され過ぎた御仁が今なお多いのは嘆かわしい。
学術知見は年々歳々更新され続けている。
秀吉は名実ともに天下人だから上から目線なのは当たり前
実際に一番上の人間だし
氏政達は実力が伴わない無駄に尊大な態度だったから滅びた
本当に意味不明
一体どういう考えだったのだろう 小田原城を過信してたとしか
あと伊達が燕軍に来てくれるとか夢想してたし >>272
上杉謙信や武田信玄でも落とせなかったと言ったって、どっちも本気でを落とすつもりで攻めたとは思えないからな 家康同様に優遇されて然るべきという考えはどこから出てきたんだろう
石高の違いなのか、松平なんて伊勢氏の被官だったじゃんという家格の問題なのか 謙信は本気で落とすつもりだったんじゃね
ただ長期化するのは想定外で準備不足だっただけで
冬ごもりの年中行事で関東に来るようになってからはそもそも小田原まで行く気が無かったろうけど 氏康亡き後氏政の判断ミスや戦下手が目立つよな
氏康が長生きしてたらああはならなかった 当時の秀吉は従一位関白で官職を極めて政権を開き、支配地域は西国から北陸東海まで数十ヵ国に及んでいるのに
どうして戦おうと思ったのか謎すぎる
仮に伊達が積極的に戦ったとしても焼け石に水だし勝算なんてはっきり言ってゼロ
上杉や武田の時みたいに籠城して長期戦に持ち込んで相手が撤退するのを待つというつもりだったのだろうけど
それやると領内は散々に荒らされて荒廃するし、仮に上手くいって上野の城を一つや二つ貰っても割に合わないと思うのだが >>275
メインの目的は鶴岡八幡宮での関東管領就任式だったんじゃ・・ 10万もの軍勢集めて敵地の奥まで入り込んで就任式だけやって解散とか頭おかしいだろw 長尾景虎の小田原攻囲というのも謎が多い。
まだ当時は難攻不落とは云い難かった小田原城を大軍で囲みながら内部崩壊して解陣、
鎌倉での関東管領継承後の帰路は何故か味方だった筈の諸将から追撃を受けて敗走同然に上州の奥地まで逃亡。
農繁期に掛かったが故の軍勢自壊はまだ解るにしても、攻撃されるほどの憎悪を買うとは一体何があったのか。
まあ、謙信は小田原を落として北条を滅ぼすつもりだったろうけど
敵地の最奥まで入り込んでいた訳だから略奪しまくっても兵站が維持できず
小田原どころか他の城も落とせなくてこれはもう駄目だから帰るわとみんな引き揚げ始まってしまったから
では今回はお開きにしましょうかみたいな感じで尻切れトンボになってしまったんだよな
勢いだけで突っ込んできた上杉より防衛体制を整えていた北条の方が上手だったと言う事だわ >>282
金品の略奪、農民を越後に拉致して奴隷化 >>282
だから成田を殴って恨みを買ったというような逸話も生まれたんだろうな
これ以降も謙信と関東衆は喧嘩を繰り返して最終的には誰も協力しなくなった
関東は独立性が高く関東公方を中心に独自の統治体制が構築されてそのルールの下で活動していたが
それを破壊する者として敵視されたのが北条であって関東公方や管領らが排除しようと戦い破れた
その後継者として期待されたのが謙信だったんだよな
だから初めはみんな集まった
だけど謙信は関東の大名ではないからその辺りの機微には疎く彼らのルールから逸脱する決定をしたから喧嘩になった
永禄3年の小田原包囲戦の時にも関東公方を巡っての争いがあったとも言われているけど
実際にその後も関東公方を巡って散々喧嘩をしているから、この時も離反者が続出したのは何かしらそういったトラブルがあったのだろう 自分達で「正義」とか言う連中って大体やばいからな。
ワンピースの海軍と同じよ。 関東史から見ると謙信が義の人とか持ち上げられての意味不明だよな 越後から解放軍が来てくれたと思ってたら
俺らを軍団化して畿内戦線に投入します
ってそりゃ怒るわ
発想が応仁の乱の大内軍団
100年古い そもそも古河公方派の人間は関東管領と敵対関係だったからな
北条という共通な敵というだけで関東管領になる予定の長尾と仲良くする気も鼻からない
また謙信も佐竹のこと家臣扱いし嫌われ協力的でなくなり、小弓公方派だった里見にも雑な態度取り
里見と敵対関係にある千葉氏(北条に従属してる)に味方し国境揉めてる里見と千葉の間に入り下総は千葉のものと後押し里見からキラワれる
また里見のこと名前知らないから太郎殿でいいやと里見が何度も失礼ですよと怒った手紙よこすもとうとう最後まで太郎殿呼ばわりだった
再び上杉北条が敵対関係になって佐竹里見に協力求めたがシカトされる >>290
結局それなんだよな
謙信にしてみれば上野周辺の上杉領を併呑できる大義名分が得られ、関東衆を動員でにる権力を獲得できる事に魅力を感じて山内上杉を継承し関東管領を名乗った訳だけど
権利と義務は表裏一体であるから関東管領を継承する事は関東の支配体制の保護をする義務も生じる
関東衆もそれを期待したから馳せ参じた訳だけど、北陸の大名であり戦国大名化していた謙信にとっては関東管領は自家勢力拡大の為の単なるツールであり
関東公方が誰であろうと、関東の支配体制が崩壊しようとどうでも良かったんだよな
その辺りの意識のズレが初めからあって、お互いに北条を倒す為には協力しなければならないから仕方なく妥協しながら付き合っていたけど
最後には妥協できない一線も越えてしまったから完全に破綻した 関東の農民達にすりゃ年貢が軽い後北条の方が
良いに決まってるからな。
後北条が関東を支配する正当性が「善政」だった。
だからこそ秀吉は家康に関東を押し付けたとも言える。
後北条を支持する農民達が一揆を起こしまくるのを期待して。 それは後世の創作でしょ
北条は籠城戦を度々行ったから領内は略奪の憂き目に遭って亡国と言われるほど荒廃してしまったし
関東では天候不良が続いて飢饉が度々発生し北条領内では年貢を拒否する村が多くでる有様だった
年貢を取らなかったのではなく取れなかったというのが正しい 北條善政伝説が形成され始めたのは対長尾戦争よりも遥か以前、伊勢宗瑞や北條氏綱の頃とみられている。
恒常的な飢饉や頻発する災害を背景として年貢の減免交渉に真摯に応じたこと、国主権力体が直接かつ明文規定に拠って対応したことなどがその伝説のコアを成していると考えられる。
そもそも論を云うと、
気候変動と地殻変動の激化による危機に際して無力無能を晒した室町体制=複線/複層統治構造に対するアンチテーゼ群の試行錯誤が「戦国」なる社会運動の実体だった。
そしてその典型事例の一つとして北條は在った。
この危機の中で領国の立ち行くような権力体系を確立すること、換言すれば室町体制とは異なる統治論理を具現化することが北條のアイデンティティだったわけで、それが「善政」と評価されたのは純然たる結果論に過ぎない。
そもそも他の大名の領国でも特に統治に差があったとは思えない
例えば室町体制を最後まで守ろうとして北条と対立していた佐竹も善政で知られていて400年経った今でも慕われているが
話の内容は北条と極めて似ている
だが戦国末期の関東は災害が多発して飢饉も発生し領民の暮らしはかなり苦しかった事は間違いない
それに加えて北条も佐竹も毎年のように戦を繰り返していたから賦役と年貢の負担はかなりのものであった事も疑いようがない
これらの善政伝説は江戸時代以降に語られるようになったもので
逼迫した江戸時代の諸藩の暮らしに対するアンチテーゼとして生み出された虚構に過ぎない >>297
> これらの善政伝説は江戸時代以降に語られるようになったもので
そう思いたい人にとっては甚だ遺憾なことではあるが、同時代史料にある。
本当に「善政」だったか否かは知らず、
「善政と評価されていた」ことは否定できない。
他國と北條の統治体系に差があったか無かったか、史料や研究論文を当たった上で貴君自ら判断されたい。
また関東の在地の荒廃は戦国末期に特に顕著だったわけではない。
遅く見積もっても享徳ノ乱の当時から荒廃を極めている。
その状況下で前代の統治者が十分な対応を取れなかった事実が北條善政伝説の前提になったことは想像に難くない。
また佐竹が室町体制を固守しようとしたとは初耳だ。
室町体制そのものの内訌を克服して「戦国大名」化を果たしたからこそ北條との間に実体利害の矛盾を生じて対立に至ったわけだし、
永年に渡って北條に対抗し得たのも佐竹が戦国大名だったからに外ならない。
佐竹もまた北條とは異なる形で旧秩序へのアンチテーゼを提示していた。
それは彼等に自覚があろうと無かろうと、客観事実として動かない。