>>187
>>188
秀吉は事件を知った際に、真田昌幸への手紙で「氏政が上洛してきても
名胡桃城を奪った張本人を処罰しないと赦免しない」と書いただけであって、
公式声明の段階では「北条とは対面しない」「逆賊として首を刎ねる」ことを
決定している。

昌幸への書状を根拠に、猪俣邦憲を処罰すれば北条家は助かった、と言う人がいるが、
上記の流れからその可能性がなかったことは明らかである。

また公式声明を受け取った北条家では、氏政・氏直が交渉を継続しようとしたが、
富田一白・津田盛月は取次を解任されていたうえ、家康も秀吉の命で上洛させられており、交渉の窓口そのものがなくなってしまっていた。

そして氏政や氏照が、猪俣邦憲への書状で沼田防衛について言及したのはその後の事で、
その時の北条家は秀吉と戦うしか道が無くなっていたのである。