【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>146
世間はまだそんな認識か。
既に太田道灌の段階で重要拠点として相当整備されていたことが明らかになってから随分経つが。
北条て軍役ばかりで民の逃散や税の減免が横行してたよな
弱体化してる勝頼にボコられたり佐竹にすら負けるのそういう理由も大きそう >>145
敵軍のブレインを見抜いてそれを登用してたのは家康の上手いとこだわな >>145
家康の味方には北条家一門衆の氏規がいるから優秀な人物も登用しやすかっただろうな >>65
そういや最近みないな。3年くらい前までNHKラジオ第一の土曜朝の城歩きとかのコーナー担当してたのにな。 対決の東国史5 『山内上杉氏と扇谷上杉氏』(木下聡)
対決の東国史7 『小田原北条氏と越後上杉氏』(簗瀬大輔)
両書とも去年出版されたものだが、
前者は最終的に伊勢宗瑞の関東進出を生ずるに至った軍政状況の形成過程を詳述、
後者は北條と上杉の関東戦争を五つの対立軸で明確に解析して倦む所が無い。
両書とも面白い。
当スレを覗くほどの物数奇な諸兄には一読を奨める。
秀吉時代に毛利の様に生き残れなかったのは、小早川隆景ぐらい優秀な人間が北条にはいなかったからだろうね
それと、直接秀吉に対峙していなかったのも大きいか >>155
あまりに皮相的な見方だな。
これはシステム、構造の問題だ。
北條は大規模で優秀な戦国大名だった。而して戦国大名でしかなかった。
羽柴は戦国大名の止揚と云う統治原理を掲げる権力体だった。その具現化に足る暴力を保有してもいた。
両者の相対関係は明らかで、要するに北條はシステムとして羽柴に超克されたが故にその退場は必然だった。
本質を抽象すればこういうことになる。
毛利にせよ上杉にせよ島津にせよ伊達にせよこの本質は変わらない。
彼等もまた羽柴への屈従といっ形で戦国大名としての役割を終えた。
個々の「家」なる小さな共同幻想の消長など瑣末なノイズに過ぎない。
附言すると、
末期の北條も間違いなく「豊臣大名」として羽柴権力体の構造に組み込まれていた。
その為の政治的儀式も確定していた。
これは意外にもあまり知られていないが。
その状態が短期間で終わったことは名胡桃城奪取に始まる偶発事案でしかない。
上に云う如く、正に歴史のノイズだった。
>>156については、
齋藤慎一氏著『戦国時代の終焉』(中公新書)に多くを負っている。
軍記物かなんかでは氏直は国持ちになる可能性もあったんだっけか >>156
氏邦自体が宇都宮方面に進出してるから名胡桃云々じゃないし
惣無事令を甘く見てた訳で、その意味で秀吉の軍門に降るつもりもないし、それを持って北条が優秀ではないと思うよ >羽柴は戦国大名の止揚と云う統治原理を掲げる権力体だった
一時期流行った「豊臣平和令」論的なアレ? >>160
取り急ぎ、貴論は時系列事実経過の誤認に基づくものであることを指摘しておく。
近々、時間のある時に反論を書く。
早雲の父の実家で伯父が継いだ備中伊勢氏の方は、残ったのかな?
早雲が統治していた備中東荏原荘を買ったり
その後、毛利と織田との抗争に巻き込まれたくらいしか分からん 関東の片田舎で昔働いていた所に岡山出身の伊勢君って後輩がいたんだけど、その伊勢氏の末裔だったのかなあ?なあ >>164
それは宗家の伊勢守家。
163は、備中に残った分家の事を言ってる。 >>160
【事実篇】
1. 天正十四年(1586)五月
佐野、結城、佐竹ら北関東反北條連合の主要構成要素に羽柴「豊臣」権力体からの停戦命令伝達。
この段階で北條には未達。
2. 天正十四年(1586)十一月
徳川家康が羽柴/北條間の調停開始。
停戦命令が初めて北條まで到達。
3. 天正十五年(1587)
北條、対羽柴戦争準備。
4. 天正十六年(1588)正月
北條が対羽柴戦争方針を撤回。
和平=実質的には対羽柴従属方針へ転換。
5. 天正十六年(1588)八月
北條氏規が上洛、羽柴秀吉に出仕。
併せて北條から沼田問題についての羽柴の裁定を要請。
羽柴が北條に対する「御赦免」を表明、北関東反北條連合にも伝達。
同時期、関東では足利事件勃発。
北條氏照、氏邦着陣。
但し羽柴「豊臣」権力体としてこれを全く問題視せず。
6. 天正十七年(1589)二月~三月
沼田問題審議、裁定。
沼田領の2/3を北條領、1/3を真田領と決定。
羽柴は裁定の前提条件として北條氏政または氏直の上洛を要求。
7. 天正十七年(1589)三月
足利事件収束、足利城破却。
北條軍撤収。
同時期、石田三成が宇都宮国綱に上洛催促。
書中で羽柴「豊臣公儀」体制への北條の参入決定を明言。
8. 天正十七年(1589)六月
北條が「豊臣公儀」に対して氏政の翌年正月上洛(十二月に小田原出立)を確約。
9. 天正十七年(1589)七月~八月
沼田裁定執行完了。
北條が「豊臣公儀」からの執行使を歓待。
10. 天正十七年(1589)十一月
名胡桃城事件勃発。
羽柴秀吉が北條に対して宣戦布告。
「近年、北條事、公儀を蔑し…」
(【解説篇】に続) >>160
(>>168から承前)
【解説篇】
貴論に謂う
「惣無事令を甘く見ていた」
「氏邦自体が宇都宮方面に進出してる」
は前レスの1~2の事実経過に照らして成り立たない。
北條に惣無事令は届いていなかった以上は甘く見るも何もない。
北條は戦国大名として尋常の戦闘行為を続けていたのみである。
その後3を経て4の段階に至った時点で北條は羽柴「豊臣」権力体への従属を自ら決している。
実質を云うならばここで北條は戦国大名であることを終えて「豊臣大名」となった。
5の北條氏規出仕はこれを名実共に確定したイベントとして極めて明確である。
更に重要なのはこれと同時期に発生した足利事件を、羽柴が詳細を知りながら全く問題にしなかった事実だ。
見ようによっては羽柴が激怒暴発しても不思議の無い背信行為紛いの行動だが、これを不問に付したことの要点は二つ。
イ)羽柴「豊臣」権力体が「公儀」として惣無事を強要する対象はあくまでも大名領国境目の戦争に限られる
ロ)大名領国内部の擾乱及びその鎮圧に羽柴「豊臣」権力体は関与しない
即ち羽柴はこの時点に於いて足利地域は北條領国、事件は国内事案であると認定していたことが示されている。
無論北條もこの認識を共有している。
同時に北條から羽柴に対して沼田裁定を要請した事実も見逃せない。
これは正に北條が羽柴を超越的権力体即ち「公儀」と位置付けたことに他ならない。
これらを要するに、
天正十六年八月時点で「豊臣公儀」と「豊臣大名・北條」の関係は両者合意の上で完全に成立していたということだ。
6~9の経緯はこれを明確に証明している。
貴論に反論せざるを得ない所以である。
然る後に名胡桃事件の勃発を迎える。
何故これが「北條事、公儀を蔑し」となるのかは上記のイ及びロから明らかだろう。
名胡桃城奪取の実行者たる猪俣が何者であれ、惣無事令に反したという厳然たる事実の結果責任を北條は監督者として問われたのである。
これは直ちに小田原合戦の意義に繋がって行く。
それは戦国大名同士の闘争に非ず、
「公儀」がその法に背いた配下の者に行使する暴力、即ち「処罰」だった。
小田原合戦は「戦国の終焉を告げる合戦」などではなかった。
戦国は天正十六年八月に終結していた。
小田原合戦は「ポスト戦国の開始を告げる行政行為」だった。
以上。
>>169
天正19年9月に北条氏邦は宇都宮領に侵攻してんだけど惣無事令が北条に届いていないからOKって事ね、19月に撤退11月に名胡桃だけどね >>170
「天正19年9月」に北條氏邦は宇都宮領に侵攻できない。
それは物理学の許さざる所だ。
貴君の論は斯くの如く現実時空を超越した次元に在るものだったか。
>>173
先生大変お詳しいので是非ご教授下さいよ
1589年初頭に板部岡江雪斎を派遣して沼田問題が解決、これで豊臣方に組み込まれたら分かるんですが
その同年9月に氏邦自身が宇都宮領に侵攻してるんですよ。多気城焼討ちとかしてるし結局は落とせないまま撤退してるんですけど
本当に名胡桃事件の直前なんですけど
それで豊臣秀吉に従属したって言うのが理解出来ないのですが教えて貰えますか? >>174
その時点から宣戦布告、更に小田原合戦にまで至る経緯の中で当該事案が「豊臣公儀」によって問題視された事実は無い。
既述の如く宇都宮国綱と石田三成の間に連携が確立していたにも関わらず、だ。
となれば解釈は一つしかない。
「少なくとも当該事案は『豊臣公儀』が配下北條に課した制約に反する行動ではなかった」。
俺が知らないだけで、或いは本件を「豊臣公儀」の名の下に弾劾した史料があるのかもしれない。
そうであれば是非御提示願う。
一つ興味深いことがある。
>>168の7、宇都宮国綱宛石田三成書状の中で石田はかなり危機感を募らせている。
北條氏規出仕以来、北條の「豊臣公儀」への参入が着々と進展していること、
このまま推移すれば体制内に於ける北條の地位が宇都宮や佐竹などより上になるであろうこと、
等々を縷々述べて宇都宮の早期出仕を煽っている。
宇都宮らを引き立ててきた石田としても足下を洗われる想いがあったのだろう。
事態はそこまで進んでいた。
実際、沼田裁定の内容などは異例なまでに北條有利のものとなっている。
伊達政宗書状によれば「好条件過ぎて」北條が却って疑うほどだったと云う。
しかも裁定は実行された。
石田の危機感は現実化しつつあったと云える。
とどのつまり
今までの通説通り
秀吉は北条に名胡桃事件の頃まで譲歩していた
北条は秀吉を名胡桃事件以降も甘く見ていた
って言うだけの話。
秀吉から見て北条は従属していないのは氏直他複数の大名に送った宣戦布告の朱印状の言上から明らか >>177
嗚呼、
自分から争点を設定しておいてその論拠を求められれば答えぬまま頰被りで論点逸らしとは。
「とどのつまり」などと云う割に詰められたその議論の過程さえ提示しない。
正に論理の放棄そのものではないか。
結局「ぼくのかんがえたひでよしとほうじょう」に固執するばかりで、
その妄想に都合の悪い事実には目も耳も塞ぎ続けるのみ。
またその妄想が二十年前に書換済の旧き巷説を一歩も出ない辺りが度し難い。
軍記ベースの妄想を捨てて、
権力、暴力、統治システム、共同幻想、排除された第三項などの普遍原理から出発して論理的に思考することを奨める。
--などと云っても届きそうにないが…。
>>178
先生、自分論理的思考出来ないので是非教えて下さいよ
氏直宛の朱印状に
関東で好き勝手やってるって書かれているのでそのまま捉えていたんですが…
自分古い考えでアプデ出来ていないみたいです
22世紀くらいだと北条は豊臣政権下に組み込まれているんですか?若しくは別世界ですか?
領土貰って「早期に」上洛しろって言われているのを先延ばしして、その期間に惣無事令違反してたら自業自得としか思えないのですが >>179
日本語及び権力論を学習してから>>169を再読のこと。
特に北條側から羽柴に対して沼田裁定を要請したことは前者が後者を超越的権力即ち「排除された第三項」として設定/認定したことに他ならない。
この事実の決定的な意味を熟考のこと。
いま一つ、老婆心から忠告する。
議論の過程で>>174や179の如き感情的な態度に変じてネチネチと非論理的なカラミ方をすることは、
それだけで話者即ち貴君の敗北となるばかりか貴君の知性品性さえ疑われる結果となる。
人としての矜持を棄てる気がないのであれば注意されたい。 >>180
豊臣と言う権力を利用して沼田貰ったってだけで従ってないですよね?
って単純な話だと思うけど >>181
北條はかつて羽柴「豊臣」権力体から敵と認定されていた。
なおかつこの時点に於ける羽柴と真田の良好な関係も承知していた。
にも関わらずこのセンシティヴな案件について羽柴の裁定を要請した--当然、裁定には従うことが前提となる--ということの意味は限りなく重い。
現に既述の如く、実際の裁定結果は北條自身が困惑するほど北條有利のものだった、
裏返せばもっと真田有利の裁定を覚悟した上でそれに従うことまで折込済だった。
大名同士の紛争を「裁定」(仲裁ではない)できるのは何者か、論を俟たない所だ。
また貴君が拘る「関東で好き勝手やってる」から北條は許し難いと云う羽柴の論理自体、北條は「豊臣公儀」配下の存在であるとの認識の表出に他ならない。
羽柴の認識が斯くの如くであり北條の認識もまた「羽柴=『豊臣公儀』」であって、両者は間違いなく一つの共同幻想の中に在る。
そこに齟齬は無い。
名胡桃事件が両者にとって偶発事案であったことの傍証でもある。
鎌倉の方のが主人公の「逃げ上手の若君」がアニメ化か
「新九郎、奔る!」の方はまだか? > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>184
漫画化さえ悍ましいのに、ましてやアニメ化なんぞ金輪際御免蒙る。
白痴とヲタクが集って来るだけだ。 名胡桃城事件は猪俣邦憲の独断(少なくとも氏政は事前に知らなかった)とは思うが
結果として氏政は占拠を承認して、豊臣政権との対決に突っ込んでいく訳だから有能ムーブとは言えんわな
猪俣の首を秀吉に差し出せば北条家は助かったのか、という話は別にして >>187
名胡桃事件を受けた「宣戦布告」の段階でもなお、
「豊臣公儀」側の公式声明は「実行者の処断と北條氏政の上洛謝罪無くば北條を討伐する」だった。
裏を返せばそれが果たされれば少なくとも殲滅まではしない、とも読める。
北條権力体視点で「家」存続を至上命題とするならば史実に於ける北條の運動は確かに不適切だったとは云える。
とは云え、
社会史を俯瞰する視座からは天正十六年八月時点で既に北條の役割は終わっていた。
その先の謂わばノイズの部分で有能無能を論ずることに積極的意義があるとは思われない。
ましてやそれ以上の無意味なifなどは議論に価しないだろう。
毛利元就や三好長慶あたりのように、一代で大幅に領地を拡大ってことは無かったな >>187
>>188
秀吉は事件を知った際に、真田昌幸への手紙で「氏政が上洛してきても
名胡桃城を奪った張本人を処罰しないと赦免しない」と書いただけであって、
公式声明の段階では「北条とは対面しない」「逆賊として首を刎ねる」ことを
決定している。
昌幸への書状を根拠に、猪俣邦憲を処罰すれば北条家は助かった、と言う人がいるが、
上記の流れからその可能性がなかったことは明らかである。
また公式声明を受け取った北条家では、氏政・氏直が交渉を継続しようとしたが、
富田一白・津田盛月は取次を解任されていたうえ、家康も秀吉の命で上洛させられており、交渉の窓口そのものがなくなってしまっていた。
そして氏政や氏照が、猪俣邦憲への書状で沼田防衛について言及したのはその後の事で、
その時の北条家は秀吉と戦うしか道が無くなっていたのである。 >>190
前年の氏政上洛も約束反故にしてるし
沼田領あげるから早期に上洛しろ!上洛します1年後にってやってんだから秀吉も切れていたんだと思うよ。寧ろ名胡桃城事件は最後の一押しかと
更に悪手は北条に内通してるのでは?と疑われて拘禁されていた秀吉方の対北条外交官の妙音院を呼び寄せて匿う気配を見せて秀吉を激怒させているし 秀吉は沼田領引き渡しの条件として、氏政か氏直が上洛して出仕する、
という誓約書の提出を求めた。対して氏政は、その年の12月上旬に
出立するとした誓約書を提出し、沼田領が引き渡された。
これにより、「まだ100日も先だが遅れることはできない」として、
領内で上洛費用の徴収を行っていくのである。
ところが11月24日、北条家の討伐が決定した。
理由の1つとして「上洛してこない」とある。だがこの時点で上洛して
いないのは、取り決め通りであって、遅延・反故という評価はおかしい。 また事態を知った氏直は、冨田・津田の両人にあてて手紙をだしている。
その中に「年内の上洛は難しいので、来春中にしてもらえないか」との文言がある。
これは『去る夏の妙音院・一鴎軒との話し合いにおいて、「氏政が上洛するのは勿論だが、
時期は来春中にして欲しい」と懇願したが却下され、「12月中に出立し正月中には京都
に着くように」と言われた』という文意の中での文言である。
つまり「上洛してこない」という討伐理由に対し、上洛の期日は12月〜正月中であるし、
それを決めたのもそちら側でしょう、と確認、抗議をしているのである。 妙音院を招いたことで秀吉が激怒したという話は聞いたことがない。
匿おうとしていたというのも初耳だ。良ければ出展を教えてほしい。
事実としても討伐が決まった後のことだから、特に影響はなかっただろうと思う。 >>194
秀吉への返書でも述べてたと思うけど
つか貴女何も知らんよね 妙音院を匿おうとしたとか、それに秀吉が激怒したなんて、何を言ってるんだろう
と思ったが、この人が言ってるのはこういう事なんだろう。
冨田・津田への手紙の2日後、氏直から家康への手紙に、
「惑説の為、妙音院と一鴎軒を招いて、胸中を晴らそうと思っていたところ、
先月20何日のご立腹のお手紙で、本当に驚いております云々」とある。
惑説とは、上洛するとそのまま京から帰してもらえないとか、
国替えになるといった噂で、名胡桃城事件以降、方々から
もたらされていたことが、冨田・津田への手紙から分かる。
その為、妙音院を招き真偽を確認しようとしていたところに、
秀吉から北条討伐を告げる手紙=御腹立之御書付が届いたという、家康への説明である。
これを妙音院を匿おうとしたので秀吉が激怒した、と勘違いして
悪手だと評価しているのだろう。 氏康が信玄より前に駿河攻めて同時に上杉と同盟結んで上洛目指してたら北条は天下取れたのか? >>198
現実の歴史に関してifを構えることは無意味かつ不可能だ。
ゲームでもやるような感覚で安直にそれを語りたいなら然るべき板/スレへ移動されたい。
附言。
全ての事象は;
1. x座標(空間方向座標)=同時代的な諸範疇の「構造」
2. y座標(時間方向座標)=時系列的な諸範疇の「因果律」
の交点に発生する。
当該事象にifを構えて改変するという行為は上記の少なくとも何れか、多くの場合は両方を改変することに他ならない。
然るに同時代的構造は物理実体構造同様に極めて危うい力学的平衡の上に成立するものであって、
たった一つの要素でも改変すれば平衡は忽ち崩壊する。
新たな平衡点に於ける諸様相は史実と全く異なるものになるだろう。
また時系列的因果律は単独で存在するものに非ず、
他の因果律と複雑に連関するのみかそれ自体多くの分岐を有している。
これを改変することはその全てを変えることであって、
当該事象発生時点に如何なる影響を及ぼすものか予測不能である。
即ちifを構えること自体が当該事象を評価する為の条件も要件も破壊してしまう。
当該事象のみを改変しつつ他の全てを史実の通り留め置くことが上記の通り不可能であってみれば、
改変行為そのものが改変行為を無意味化するというパラドクスに帰結せざるを得ない。
吾人が前書込に於いて「ifは無意味かつ不可能」と断じた所以である。
ああ、なんという子供らしい考え方だ! ああ、まるで純潔無邪気な赤ん坊の夢だ! >>198
氏康は天下人になる能力はあったと思う。
ただし氏政では天下を維持できない。 >>198
攻める大義名分は?
無いのにやると信玄と変わらない 信玄には室町幕府に逆らう今川を討伐するという立派な大義名分があったよ 大義名分とか考えてる時点で今どきの雑魚なんだよなw 後北条なら関東公方担いで
関東東北制覇が現実的方法だろ
西に行くのは向いていなさそう 秀吉が京に上った氏照と
会食の時、氏照の座席が
次の間にはみ出して蜂屋の隣だった
かわいそうだよな >>210
従来知られていなかった新事実を>>209氏は発掘したんだろう。
続報を刮目して俟とうじゃないか。 確かに蜂屋だけハブられているように見えなくもないけど国持の大大名が居並ぶ中、小大名の蜂屋が同席を許されたのだから
評価されていたと見るべきではなかろうか 武田に南方に目を向けさせないために
越後府内侵攻を助力すべく上野奪取、魚沼郡進駐に専念でワンチャン賭けるしかなかった
三国同盟成立を以って本拠を江戸に移転
最悪下総取られて古河を危機に晒しても上野優先
これで10年甲相駿で闘える >>214
江戸に本拠地を移すなら最低でも利根川を今の流域に造り替えないと城下町の発展は望めないし、仮想敵が西にいるとして江戸湾をバックに戦う前から背水の陣を敷くのは愚策以外のなんでもない 江戸に本拠地を移さないまでも
「第二小田原市」
みたいな感じで要衝にする選択肢はなかったのか? >>215
江戸と云う町の歴史について学び直した方が良い。
関西史観と権現様逆説的神格化のタッグが捏造した偽りの江戸史にいつまでも囚われていてはならない。 江戸って北条領内の第二都市くらいの発展はしていたのでは
鎌倉時代から貿易港として発展していた都市だしな 北條氏政は晩年江戸城を居館として執務していたと云う。
或いは所謂「両屋形」制を物理的にも展開してその一角とする構想でも存在したか。
当時既に里見は降伏して武総之海は完全に北條の海。
簗田も屈伏して関宿も北條直轄。
江戸そのものの繁栄の上にこれらの軍政状況も併せて、更なる発展への要件は満たされていた。
>>217
しかし利根川東遷事業が無いと江戸が大阪以上に
発展する事が無かったのも事実だろ。 >>220
大阪みたいに発展するのは無理だったろうが
小田原レベルになるのは可能だったと思う。
江戸に小田原城みたいな堅城を作っておけば
佐竹などを威圧できたのではないか? 江戸は内海だからある程度悪天候時でも里見に睨みが効くんじゃない
北関東出兵時に本軍帰還まで持ちこたえられればいいのだ >江戸に小田原城みたいな堅城を作っておけば
上洛費用の捻出にすら四苦八苦してるにのに無茶言うなよ
というか、家康入府以降に実施された数々の事業を逆算すれば
氏政期の江戸の開発レベルは概ねイメージできるだろうに >>220
どうだろうか。
関西を遥かに凌ぐスケールとスピードの中世関東河川水運の全体像は未解明と云って良い。
北條氏照が栗橋を差配していた頃、その配下だけでも三十隻からの大型水運船が回航していたとの記録もある。
船舶総数や運搬物量は厖大なものだったと考えるのが自然だろう。
だからこそ北條氏綱は江戸を速やかに攻略したし、北條氏康の「関宿は一国にも値する」と云う台詞にもなる。
利根川旧流路の下流域に於ける氾濫水害は慥かに深刻だったがそれも表裏を見る必要がある。
宗長や万里集九の記録した太田道灌の江戸の殷賑は、多摩川と隅田川(入間川)に加えて利根川の水運まで集める要湊だったが故のこととも解釈し得る。
今なお幅を効かせる関西ナショナリズムからは認め難いだろうが、
前近代の日本列島は現代よりも遙かな健全な多極社会だったことを認識されたい。
今から見たらなんで古河なんかにとおもえるが、
当時は水運の要所だったとかなんかとか
いやしらんけど 附記。
利根川東遷事業が全て徳川の仕事という「常識」も改められつつある。
それは早くも古河成氏の時代には部分的に始まっていた。
むしろ「利根川を如何にせむ」は古河、簗田、北條、徳川の枠を超えて引き継がれた関東社会の大課題であって、
徳川はその流れを絶つことなく優秀な継承者として振る舞ったと位置付けるのが的確だろう。
江戸幕府でも30年かかっている事業を戦乱期の一大名に求めるのもどうかと思うけどなあ ID:jfWRjDIjが何を主張したがってるのか分からんのだが
端的に1580年代の江戸をどのように評価してるんだ? >>228
> 1580年代の江戸をどのように評価してるんだ?
「関東の重要核都市の一つ」。
むしろ貴問の主意を測りかねている。
元々は>>215氏の古くて浅くて偏った認識の誤りがあって、
当方は上記の評価を前提としてそれを正す為に当時の江戸の属性や位置付けを述べたまでだ。
それは当方の>>219及び>>224から明らかに読み取れる筈だが。
偶然とは怖いもので、今日本屋でこの議論にぴったり嵌まる書籍を見つけて早速購入した。
『江戸 -平安時代から家康の建設へ』
中公新書で、著者は誰あろう、あの齋藤慎一氏。
面白くない訳が無い。
一昨年末の発行だから新刊ではないが、興味のある向きには奨めておきたい。 中世江戸ついては定量的データに乏しくて
特に氏政期の江戸の実態は「不明」と評価すべきと思っている
(道灌期の史料とかそのまま鵜呑みに出来るわけないし)
中世江戸に対する評価の違いをハッキリさせたかってことかな
>質問の主旨 島津も豊臣氏に楯突きながら所領一部安堵されたので
仮に負けても伊豆相模くらいは残してくれるだろうと
根拠なき前提の下で戦始めてしまったのかもしれんね。 徳川方の記録だと江戸は葦だらけの湿地で江戸城もオンボロで使い物にならんって北条下げの風評被害が酷い 北条というか
秀吉のせいで辺鄙な所に飛ばされて苦労したけど権現様のお陰で大都会になりました
権現様すごい!
というシナリオ 江戸時代だろうと現代だろうと
徳川以前の江戸が目くそだったか鼻くそだったかなんて話に多くの人は興味ないからね
そりゃあそういう筋立ての話も出てくるし定着もするよ
目くそでも鼻くそでも無く実は山椒でしたって実証主義的に論証できれば話も変わるだろうが 何で秀吉も北条にだけは厳しかったのだろう
信長も恭順しようとしている北条を絶対に許さなかったし
何か他の大名を苛立たせるものがあったのだろうか >>238
イラッとさせる顔か喋り方だったんだろうな そりゃ関東250万石だっけかが直接恭順の挨拶にもこないんなら秀吉の目の黒いうちに潰してしまうしかない >>238
> 信長も恭順しようとしている北条を絶対に許さなかった
それは何かの間違いだな。
織田信長が甲斐戦争に関する北條氏政の支援活動に一定の評価を与えた書状が遺っているし、
「織田と縁組をしてその属国となりたい」と云う氏政の申し出にも具体的に対応していた形跡がある。
結局の所、
織田が北條をどう考えていたかは不明と云うしかない。
甲斐戦争までの織田の戦争に関するスタンスは基本的に「殲滅」だった。
文字通り殲滅しないまでも在地の支配を完全に奪い取る。
毛利もこの措置を受ける途上にあった。
ところがどうしたことか、
武田殲滅後の関東仕置に於いて織田は、
関東の軍政構造を維持したまま瀧川を「管領」役として北條も佐竹もこれに出仕させる、
謂わば超越的暴力による在地暴力の封鎖=「惣無事」モドキという形を取った。
織田が全国一元統治を曲がりなりにも意識し始めたのは甲斐戦争後だと云う説もあるが、
それが本当ならば「殲滅」よりも現実的かつ効率的な覇業の手法として在地権力体群の包含を考えていたかもしれないし、
関東北條をその最初のテストケースにしたとしても不思議は無い。 >>242
当時の北條家の文書に北條と書いてある以上、当時のことを語るに際してはそれを採る。
現代を生きる北條家子孫の方々がどう書いているかまでは知らない。
>>244
俺はそうする、と云うだけの話。
お前さんにも他の人にも北條と書けなどと求めた覚えは無いんで、御随意にどうぞ。 >>243
そんなことを言ってるから馬鹿にされるんだよ