【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>101
東京及びその近郊は前世紀に於いて、
震災(1923)
空襲(1945)
五輪(1964)
と三度に亘る壊滅的災厄を被った。
遺憾ながら残存の可能性は限りなく低い。 横浜市史編纂のために集めていた市内旧家の古文書が庁舎もろとも焼けてなくなる
関東大震災の嘘のような最悪な話 伊勢原市伯母様
白根郷伯母様村・坂戸村を領した布施弾正康則が
伯母(梅林理香大姉)の菩提を弔うため高岳院を再興したことにに由来
らしい 氏政って官位に叙された正式な記録ってあるんだっけ?
無位無官だよ派と違うよ派がいて、ちょろっと調べたがよくわからん >>107
「左京大夫」が公式のものか、氏康からの流れで自称したものかは研究者の間にさえ議論があるようだな。
「官位?何の役に立つ?虚名だよ。」
という宗瑞の冷笑が聞こえるような気もするが。
史料&遺構遺物ベースの真面目な議論を望む向きは下記にお越し下さい。
宗瑞の話題に限らず北條五代及びその前史・後史、いずれも歓迎します。
【祿壽應穩】伊勢早雲庵宗瑞 part02【針積玉碎】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1631281979/ やっぱり、まだ諸説ありの段階なんか
ありがとうです 川崎大師、西新井大師、成田山新勝寺って中世に全然見えなくて謎
北条・千葉の文書があっておかしくないのに 川崎大師、西新井大師、成田山新勝寺は今BSでやってる解体的な調査しても何も出てこないんだろうか 宗瑞を伊勢宗瑞っていう人は親鸞も日野親鸞ていうんだろうか >>113
少なくとも徳栄軒信玄を武田信玄、不識庵謙信を上杉謙信とは呼ぶ。 >>100
打線は誇張や曲解だったり逸話とか元ネタが何となくわかるものが多いが
これそういうのに全く心当たりがないデマなんだよな
まとめサイトとかで取り上げて拡散されてる。
誰かを貶めたり、持ち上げたりするデマも多いが
これは北条大河ドラマ化の動きでもあるのだろうか >>113
それまでの身分、すなわち名字も何もかも捨てて仏門に帰依するのが出家
だから親鸞には名字がないわけで日野親鸞と表記するのは誤りとなる
在家のまま生活スタイルを変えずに形式的に仏門に入るのが入道で、伊勢宗瑞、武田信玄、上杉謙信とかはこちらの方に当てはまる れっきとした僧侶なんで道鏡と書くべきところを、権威欲や性欲に溺れた悪僧ってことでそういうふうに呼ばれてるんじゃない?多分だけど 釈氏だから苗字は「釈」とも言える
明治維新のときに本当に釈を名字にしちゃった人々も 伊勢宗瑞は当時の史料だと
上杉顕定 → 伊勢新九郎入道、伊勢宗瑞
上杉憲房 → 伊勢新九郎入道宗瑞
三浦義同 → 伊勢入道
今川家中 → 早雲、早雲庵
敵味方ではっきり呼び方が分かれてるのが面白い
道号は諱みたいなもんかな >>121
> 伊勢早雲
私文書や聞書の類では、な。
出家後の公文書では「宗瑞」以外の呼称は用いていない。 >>122
山内顕定は「豆州」と記した例もあった筈。
これは本来山内管国であった伊豆國を長享ノ乱の方面戦争で奪った伊勢宗瑞を正当な國主として承認したことになる。
また更に後、山内家中の某が伊勢神宮参拝の旅に上るについて相模國内の街道の通行許可を宗瑞に求めている(取次は長尾景春!!)。
これも宗瑞を正当な相模國主と認めるものだ。
伊勢と敵対する上杉の総帥が意外にも柔軟な既成事実追認を繰り返しているのが面白い。 伊勢早雲だと武田徳栄・上杉不識って言ってるような感じ? >>125
そういうことになるな
北条宗哲を北条玄庵、後白河法皇を後白河院と呼ぶのと一緒
法体となったときに開基にどれだけ尽力したかで院、斎、軒、庵と追号の格が決まるという感じ
当時の人が失礼のないように呼ぶならこっちで、まあ官位名みたいなもんかな あと島津忠良や柳生宗厳も入道してそれぞれ日新斎、石舟斎と号しているのに人名事典だと俗名表記になっているのは、
可能なかぎり名字+諱or道号の表記を用いるというルールに基づいて道号の不明なものは俗名表記にしているからなんじゃね? 「伊勢氏綱社殿造営棟札」早雲寺殿天岳
「北条家朱印状」早雲寺殿 (奉者は山角、宛所は稲取片瀬代官、現所蔵は三島神社)
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「相模国先達衆言上状」早雲寺殿 (先達24人が奉行の江雪・長純に宛てた)
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
「仏像伽藍記」早雲 (藻原寺の古記録。永正期の僧による書写)
「快元僧都記」早雲寺 氏綱 氏康
「為広駿州下向記」早雲
「宗長手記」早雲庵 氏親/匠作 氏輝/龍王殿 義忠/長宝寺殿 北川殿
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (宗長からの聞き書き)
「今川本「太平記」奥書」伊勢新九郎…号早雲庵宗瑞/早雲庵/早雲庵主
「伊奈盛泰書状」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「上杉建芳〈朝良〉書状」早雲庵
「三不軒某書状」早雲
「鎌倉大日記」伊勢早雲
「勝山記」(生前)伊勢入道/早雲入道 (没後)早雲
「王代記」伊勢早雲
「学校答書」伊勢早雲庵主寄進之裏書 (1634年足利学校11世の記。孔子ら儒学者の肖像画について)
「上杉可諄〈顕定〉書状」伊勢宗瑞/宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好書状」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞 「北条氏康書状」武田信玄
「北条氏照書状」武田信玄/信玄
「小田氏治書状」信玄
「相馬治胤書状」信玄
「上杉輝虎書状」武田信玄/信玄
土屋昌続宛「宇都宮広綱書状」信玄
「織田信長書状」信玄
「板垣信安起請文」奉対信玄様/奉守信玄様 (両角昌守、小幡信実、越後国衆、信濃国衆の起請文も同じ)
「馬場篤親起請文案」奉対信玄 (馬場篤親は常陸佐竹家臣)
「某〈上杉憲政カ〉朱印状」武田信玄 輝虎 北条氏政 義重
1582年4月15日付「慈眼寺尊長武田勝頼廻向道具并金子注文」勝頼公 信玄公
「武田勝頼遺物目録」信虎公并信玄公寿像
北条高広・景広宛「佐竹義重書状」謙信 (上杉景勝宛も同じ)
正木憲時宛「佐竹賢哲〈義斯〉書状」謙信
直江景綱宛「里見義弘書状」謙信 (柿崎景家宛も同じ)
「宝鐘寺清胤書状」太守謙信 (高野山の僧)
「無量光院宥義書状」謙信法印御房 (高野山の僧)
1578年3月24日付・4月3日付・1579年2月14日付「上杉景勝書状」謙信
1578年5月29日付「上杉景虎書状」謙信
「長尾忠清書状」為謙信菩提
1579年2月14日付「中条景泰添状」謙信遠行
1579年4月25日付「飯田長家書状」謙信遠行…謙信為菩提
1578年4月20日付「本庄繁長書状」謙信様
1583年2月19日付「北条高広書状案」謙信様
「松平忠昌寄進状」前越守謙信墓所
伊勢早雲庵主(臨済) 家中=早雲寺殿、同盟国=早雲(庵)、敵国=宗瑞
武田信玄(天台) 家中=信玄様、同盟国=信玄、敵国=信玄
謙信(真言) 家中=謙信様、同盟国=謙信、敵国=謙信 >氏親/匠作 氏輝/龍王殿 義忠/長宝寺殿
氏親を「匠作」と呼んでいるのではなく
「氏親」「匠作」「氏輝」「龍王殿」「義忠」「長宝寺殿」が混在している
>>125
同時代史料をみると完全に違う
早雲は伊勢早雲
信玄は武田信玄
謙信は名字(上杉)・家号(山内殿)を付けずに謙信 宗瑞の事例群に、宗瑞自身が権力体の責任者として発行した公文書が一つも無いのは何故かな?
そこに何と署名してあるか。
それが全て。
それ以外に百万の例を持ち出しても全く無効。
己の結論ありき、で、都合の悪いものは無かったことにする。
まあ、典型的な文系脳の詐術だな。 花押を据えた文書や朱印状を私文書というようなバカは相手にしません 万人の共有し得る、恣意の介入の余地無き原理原則を立ててこれに基づいて議論をする。
この「科学の方法」に背を向けて俺ルールに自閉する文系脳はもはや独善的なカルトの範疇に在ると云うべきか。
度し難い。 古文書を見るなんていう非科学的なことやってちゃ駄目だよ君たち >>137
煽りのつもりなんだろうが、究極はそれだろう。
北條を語る上で不可避の「明応四年震災の論証」は、
恣意的な文献解釈が不毛な対立に陥るのを尻目に考古学の成果と地震学の数理計算が結合して歴史を確定してみせた。
この事例の如く人文学を介在させずに自然科学のみで実証するのが理想。
地震を否定していたのは文献史学ではなく科学者だど阿呆 >>139
いや、1980年代に当時中世史の権威だった何とかって文献史学者が四年震災を記載した『鎌倉大日記』(だったかな?)の史料価値を否定して、
それ以来「これは七年震災の誤記だ!」ってのが定説になった。
ところが今世紀に入ってからの自然科学研究成果として;
・伊豆半島東岸遺構の発掘調査で15世紀末~16世紀初の津波堆積層を標高7.8mから確認
・自治体ハザードマップ作製用の地震/津波被害試算から七年震災の地震形態では上記が有り得ないことが判明
・同じく試算から「相模トラフ起因の関東地震」のみがこれを生むことが判明
・以上から「七年震災と近接した時期にこれとは別個の関東地震が存在した」ことが確定
--という経緯だ。
四年震災否定に乗っかった文献史学者の多くは今も見苦しい沈黙を続けているが、な。
馬鹿だと思う。
文献解釈だの史料批判だのという文系脳の方法論で自然科学に逆らえるわけも無いのに。
書き忘れた。
明応七年震災は「南海・東南海・駿河トラフ三連動型地震」であることが確定している。
氏直が長生きして、大名に復帰後に
関ケ原や大坂の陣などで活躍して
伊豆くらい回復出来たらなあ >>142
氏直はともかく、徳川家康と幼馴染みの氏規がもっと長命ならその線があったかもしれない。
伊豆代官の江川家も北條遺臣だから徳川として北條を気に掛けていたのは事実だろう。
ifを語っても詮方無いが…。
後北条が崩壊して、重臣だった有力武将は家康にそこそこ拾われてたな。
今川旧臣より扱いが良かった記憶。 >>144
関東の在地支配を考えたら北條旧臣を活用しない手はない。
北條の統治システムは仕組も運用もよく機能していた。
乱暴な云い方をすると徳川家康の初期関東統治は北條システムを丸呑みしたとも云える。 未だに江戸は何も無い原野で関東は家康が入ってから開発されたかのように思われてるのが残念 >>146
世間はまだそんな認識か。
既に太田道灌の段階で重要拠点として相当整備されていたことが明らかになってから随分経つが。
北条て軍役ばかりで民の逃散や税の減免が横行してたよな
弱体化してる勝頼にボコられたり佐竹にすら負けるのそういう理由も大きそう >>145
敵軍のブレインを見抜いてそれを登用してたのは家康の上手いとこだわな >>145
家康の味方には北条家一門衆の氏規がいるから優秀な人物も登用しやすかっただろうな >>65
そういや最近みないな。3年くらい前までNHKラジオ第一の土曜朝の城歩きとかのコーナー担当してたのにな。 対決の東国史5 『山内上杉氏と扇谷上杉氏』(木下聡)
対決の東国史7 『小田原北条氏と越後上杉氏』(簗瀬大輔)
両書とも去年出版されたものだが、
前者は最終的に伊勢宗瑞の関東進出を生ずるに至った軍政状況の形成過程を詳述、
後者は北條と上杉の関東戦争を五つの対立軸で明確に解析して倦む所が無い。
両書とも面白い。
当スレを覗くほどの物数奇な諸兄には一読を奨める。
秀吉時代に毛利の様に生き残れなかったのは、小早川隆景ぐらい優秀な人間が北条にはいなかったからだろうね
それと、直接秀吉に対峙していなかったのも大きいか >>155
あまりに皮相的な見方だな。
これはシステム、構造の問題だ。
北條は大規模で優秀な戦国大名だった。而して戦国大名でしかなかった。
羽柴は戦国大名の止揚と云う統治原理を掲げる権力体だった。その具現化に足る暴力を保有してもいた。
両者の相対関係は明らかで、要するに北條はシステムとして羽柴に超克されたが故にその退場は必然だった。
本質を抽象すればこういうことになる。
毛利にせよ上杉にせよ島津にせよ伊達にせよこの本質は変わらない。
彼等もまた羽柴への屈従といっ形で戦国大名としての役割を終えた。
個々の「家」なる小さな共同幻想の消長など瑣末なノイズに過ぎない。
附言すると、
末期の北條も間違いなく「豊臣大名」として羽柴権力体の構造に組み込まれていた。
その為の政治的儀式も確定していた。
これは意外にもあまり知られていないが。
その状態が短期間で終わったことは名胡桃城奪取に始まる偶発事案でしかない。
上に云う如く、正に歴史のノイズだった。
>>156については、
齋藤慎一氏著『戦国時代の終焉』(中公新書)に多くを負っている。
軍記物かなんかでは氏直は国持ちになる可能性もあったんだっけか >>156
氏邦自体が宇都宮方面に進出してるから名胡桃云々じゃないし
惣無事令を甘く見てた訳で、その意味で秀吉の軍門に降るつもりもないし、それを持って北条が優秀ではないと思うよ >羽柴は戦国大名の止揚と云う統治原理を掲げる権力体だった
一時期流行った「豊臣平和令」論的なアレ? >>160
取り急ぎ、貴論は時系列事実経過の誤認に基づくものであることを指摘しておく。
近々、時間のある時に反論を書く。
早雲の父の実家で伯父が継いだ備中伊勢氏の方は、残ったのかな?
早雲が統治していた備中東荏原荘を買ったり
その後、毛利と織田との抗争に巻き込まれたくらいしか分からん 関東の片田舎で昔働いていた所に岡山出身の伊勢君って後輩がいたんだけど、その伊勢氏の末裔だったのかなあ?なあ >>164
それは宗家の伊勢守家。
163は、備中に残った分家の事を言ってる。 >>160
【事実篇】
1. 天正十四年(1586)五月
佐野、結城、佐竹ら北関東反北條連合の主要構成要素に羽柴「豊臣」権力体からの停戦命令伝達。
この段階で北條には未達。
2. 天正十四年(1586)十一月
徳川家康が羽柴/北條間の調停開始。
停戦命令が初めて北條まで到達。
3. 天正十五年(1587)
北條、対羽柴戦争準備。
4. 天正十六年(1588)正月
北條が対羽柴戦争方針を撤回。
和平=実質的には対羽柴従属方針へ転換。
5. 天正十六年(1588)八月
北條氏規が上洛、羽柴秀吉に出仕。
併せて北條から沼田問題についての羽柴の裁定を要請。
羽柴が北條に対する「御赦免」を表明、北関東反北條連合にも伝達。
同時期、関東では足利事件勃発。
北條氏照、氏邦着陣。
但し羽柴「豊臣」権力体としてこれを全く問題視せず。
6. 天正十七年(1589)二月~三月
沼田問題審議、裁定。
沼田領の2/3を北條領、1/3を真田領と決定。
羽柴は裁定の前提条件として北條氏政または氏直の上洛を要求。
7. 天正十七年(1589)三月
足利事件収束、足利城破却。
北條軍撤収。
同時期、石田三成が宇都宮国綱に上洛催促。
書中で羽柴「豊臣公儀」体制への北條の参入決定を明言。
8. 天正十七年(1589)六月
北條が「豊臣公儀」に対して氏政の翌年正月上洛(十二月に小田原出立)を確約。
9. 天正十七年(1589)七月~八月
沼田裁定執行完了。
北條が「豊臣公儀」からの執行使を歓待。
10. 天正十七年(1589)十一月
名胡桃城事件勃発。
羽柴秀吉が北條に対して宣戦布告。
「近年、北條事、公儀を蔑し…」
(【解説篇】に続) >>160
(>>168から承前)
【解説篇】
貴論に謂う
「惣無事令を甘く見ていた」
「氏邦自体が宇都宮方面に進出してる」
は前レスの1~2の事実経過に照らして成り立たない。
北條に惣無事令は届いていなかった以上は甘く見るも何もない。
北條は戦国大名として尋常の戦闘行為を続けていたのみである。
その後3を経て4の段階に至った時点で北條は羽柴「豊臣」権力体への従属を自ら決している。
実質を云うならばここで北條は戦国大名であることを終えて「豊臣大名」となった。
5の北條氏規出仕はこれを名実共に確定したイベントとして極めて明確である。
更に重要なのはこれと同時期に発生した足利事件を、羽柴が詳細を知りながら全く問題にしなかった事実だ。
見ようによっては羽柴が激怒暴発しても不思議の無い背信行為紛いの行動だが、これを不問に付したことの要点は二つ。
イ)羽柴「豊臣」権力体が「公儀」として惣無事を強要する対象はあくまでも大名領国境目の戦争に限られる
ロ)大名領国内部の擾乱及びその鎮圧に羽柴「豊臣」権力体は関与しない
即ち羽柴はこの時点に於いて足利地域は北條領国、事件は国内事案であると認定していたことが示されている。
無論北條もこの認識を共有している。
同時に北條から羽柴に対して沼田裁定を要請した事実も見逃せない。
これは正に北條が羽柴を超越的権力体即ち「公儀」と位置付けたことに他ならない。
これらを要するに、
天正十六年八月時点で「豊臣公儀」と「豊臣大名・北條」の関係は両者合意の上で完全に成立していたということだ。
6~9の経緯はこれを明確に証明している。
貴論に反論せざるを得ない所以である。
然る後に名胡桃事件の勃発を迎える。
何故これが「北條事、公儀を蔑し」となるのかは上記のイ及びロから明らかだろう。
名胡桃城奪取の実行者たる猪俣が何者であれ、惣無事令に反したという厳然たる事実の結果責任を北條は監督者として問われたのである。
これは直ちに小田原合戦の意義に繋がって行く。
それは戦国大名同士の闘争に非ず、
「公儀」がその法に背いた配下の者に行使する暴力、即ち「処罰」だった。
小田原合戦は「戦国の終焉を告げる合戦」などではなかった。
戦国は天正十六年八月に終結していた。
小田原合戦は「ポスト戦国の開始を告げる行政行為」だった。
以上。
>>169
天正19年9月に北条氏邦は宇都宮領に侵攻してんだけど惣無事令が北条に届いていないからOKって事ね、19月に撤退11月に名胡桃だけどね >>170
「天正19年9月」に北條氏邦は宇都宮領に侵攻できない。
それは物理学の許さざる所だ。
貴君の論は斯くの如く現実時空を超越した次元に在るものだったか。
>>173
先生大変お詳しいので是非ご教授下さいよ
1589年初頭に板部岡江雪斎を派遣して沼田問題が解決、これで豊臣方に組み込まれたら分かるんですが
その同年9月に氏邦自身が宇都宮領に侵攻してるんですよ。多気城焼討ちとかしてるし結局は落とせないまま撤退してるんですけど
本当に名胡桃事件の直前なんですけど
それで豊臣秀吉に従属したって言うのが理解出来ないのですが教えて貰えますか? >>174
その時点から宣戦布告、更に小田原合戦にまで至る経緯の中で当該事案が「豊臣公儀」によって問題視された事実は無い。
既述の如く宇都宮国綱と石田三成の間に連携が確立していたにも関わらず、だ。
となれば解釈は一つしかない。
「少なくとも当該事案は『豊臣公儀』が配下北條に課した制約に反する行動ではなかった」。
俺が知らないだけで、或いは本件を「豊臣公儀」の名の下に弾劾した史料があるのかもしれない。
そうであれば是非御提示願う。
一つ興味深いことがある。
>>168の7、宇都宮国綱宛石田三成書状の中で石田はかなり危機感を募らせている。
北條氏規出仕以来、北條の「豊臣公儀」への参入が着々と進展していること、
このまま推移すれば体制内に於ける北條の地位が宇都宮や佐竹などより上になるであろうこと、
等々を縷々述べて宇都宮の早期出仕を煽っている。
宇都宮らを引き立ててきた石田としても足下を洗われる想いがあったのだろう。
事態はそこまで進んでいた。
実際、沼田裁定の内容などは異例なまでに北條有利のものとなっている。
伊達政宗書状によれば「好条件過ぎて」北條が却って疑うほどだったと云う。
しかも裁定は実行された。
石田の危機感は現実化しつつあったと云える。
とどのつまり
今までの通説通り
秀吉は北条に名胡桃事件の頃まで譲歩していた
北条は秀吉を名胡桃事件以降も甘く見ていた
って言うだけの話。
秀吉から見て北条は従属していないのは氏直他複数の大名に送った宣戦布告の朱印状の言上から明らか >>177
嗚呼、
自分から争点を設定しておいてその論拠を求められれば答えぬまま頰被りで論点逸らしとは。
「とどのつまり」などと云う割に詰められたその議論の過程さえ提示しない。
正に論理の放棄そのものではないか。
結局「ぼくのかんがえたひでよしとほうじょう」に固執するばかりで、
その妄想に都合の悪い事実には目も耳も塞ぎ続けるのみ。
またその妄想が二十年前に書換済の旧き巷説を一歩も出ない辺りが度し難い。
軍記ベースの妄想を捨てて、
権力、暴力、統治システム、共同幻想、排除された第三項などの普遍原理から出発して論理的に思考することを奨める。
--などと云っても届きそうにないが…。
>>178
先生、自分論理的思考出来ないので是非教えて下さいよ
氏直宛の朱印状に
関東で好き勝手やってるって書かれているのでそのまま捉えていたんですが…
自分古い考えでアプデ出来ていないみたいです
22世紀くらいだと北条は豊臣政権下に組み込まれているんですか?若しくは別世界ですか?
領土貰って「早期に」上洛しろって言われているのを先延ばしして、その期間に惣無事令違反してたら自業自得としか思えないのですが >>179
日本語及び権力論を学習してから>>169を再読のこと。
特に北條側から羽柴に対して沼田裁定を要請したことは前者が後者を超越的権力即ち「排除された第三項」として設定/認定したことに他ならない。
この事実の決定的な意味を熟考のこと。
いま一つ、老婆心から忠告する。
議論の過程で>>174や179の如き感情的な態度に変じてネチネチと非論理的なカラミ方をすることは、
それだけで話者即ち貴君の敗北となるばかりか貴君の知性品性さえ疑われる結果となる。
人としての矜持を棄てる気がないのであれば注意されたい。 >>180
豊臣と言う権力を利用して沼田貰ったってだけで従ってないですよね?
って単純な話だと思うけど >>181
北條はかつて羽柴「豊臣」権力体から敵と認定されていた。
なおかつこの時点に於ける羽柴と真田の良好な関係も承知していた。
にも関わらずこのセンシティヴな案件について羽柴の裁定を要請した--当然、裁定には従うことが前提となる--ということの意味は限りなく重い。
現に既述の如く、実際の裁定結果は北條自身が困惑するほど北條有利のものだった、
裏返せばもっと真田有利の裁定を覚悟した上でそれに従うことまで折込済だった。
大名同士の紛争を「裁定」(仲裁ではない)できるのは何者か、論を俟たない所だ。
また貴君が拘る「関東で好き勝手やってる」から北條は許し難いと云う羽柴の論理自体、北條は「豊臣公儀」配下の存在であるとの認識の表出に他ならない。
羽柴の認識が斯くの如くであり北條の認識もまた「羽柴=『豊臣公儀』」であって、両者は間違いなく一つの共同幻想の中に在る。
そこに齟齬は無い。
名胡桃事件が両者にとって偶発事案であったことの傍証でもある。
鎌倉の方のが主人公の「逃げ上手の若君」がアニメ化か
「新九郎、奔る!」の方はまだか? > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>184
漫画化さえ悍ましいのに、ましてやアニメ化なんぞ金輪際御免蒙る。
白痴とヲタクが集って来るだけだ。 名胡桃城事件は猪俣邦憲の独断(少なくとも氏政は事前に知らなかった)とは思うが
結果として氏政は占拠を承認して、豊臣政権との対決に突っ込んでいく訳だから有能ムーブとは言えんわな
猪俣の首を秀吉に差し出せば北条家は助かったのか、という話は別にして >>187
名胡桃事件を受けた「宣戦布告」の段階でもなお、
「豊臣公儀」側の公式声明は「実行者の処断と北條氏政の上洛謝罪無くば北條を討伐する」だった。
裏を返せばそれが果たされれば少なくとも殲滅まではしない、とも読める。
北條権力体視点で「家」存続を至上命題とするならば史実に於ける北條の運動は確かに不適切だったとは云える。
とは云え、
社会史を俯瞰する視座からは天正十六年八月時点で既に北條の役割は終わっていた。
その先の謂わばノイズの部分で有能無能を論ずることに積極的意義があるとは思われない。
ましてやそれ以上の無意味なifなどは議論に価しないだろう。
毛利元就や三好長慶あたりのように、一代で大幅に領地を拡大ってことは無かったな >>187
>>188
秀吉は事件を知った際に、真田昌幸への手紙で「氏政が上洛してきても
名胡桃城を奪った張本人を処罰しないと赦免しない」と書いただけであって、
公式声明の段階では「北条とは対面しない」「逆賊として首を刎ねる」ことを
決定している。
昌幸への書状を根拠に、猪俣邦憲を処罰すれば北条家は助かった、と言う人がいるが、
上記の流れからその可能性がなかったことは明らかである。
また公式声明を受け取った北条家では、氏政・氏直が交渉を継続しようとしたが、
富田一白・津田盛月は取次を解任されていたうえ、家康も秀吉の命で上洛させられており、交渉の窓口そのものがなくなってしまっていた。
そして氏政や氏照が、猪俣邦憲への書状で沼田防衛について言及したのはその後の事で、
その時の北条家は秀吉と戦うしか道が無くなっていたのである。 >>190
前年の氏政上洛も約束反故にしてるし
沼田領あげるから早期に上洛しろ!上洛します1年後にってやってんだから秀吉も切れていたんだと思うよ。寧ろ名胡桃城事件は最後の一押しかと
更に悪手は北条に内通してるのでは?と疑われて拘禁されていた秀吉方の対北条外交官の妙音院を呼び寄せて匿う気配を見せて秀吉を激怒させているし 秀吉は沼田領引き渡しの条件として、氏政か氏直が上洛して出仕する、
という誓約書の提出を求めた。対して氏政は、その年の12月上旬に
出立するとした誓約書を提出し、沼田領が引き渡された。
これにより、「まだ100日も先だが遅れることはできない」として、
領内で上洛費用の徴収を行っていくのである。
ところが11月24日、北条家の討伐が決定した。
理由の1つとして「上洛してこない」とある。だがこの時点で上洛して
いないのは、取り決め通りであって、遅延・反故という評価はおかしい。 また事態を知った氏直は、冨田・津田の両人にあてて手紙をだしている。
その中に「年内の上洛は難しいので、来春中にしてもらえないか」との文言がある。
これは『去る夏の妙音院・一鴎軒との話し合いにおいて、「氏政が上洛するのは勿論だが、
時期は来春中にして欲しい」と懇願したが却下され、「12月中に出立し正月中には京都
に着くように」と言われた』という文意の中での文言である。
つまり「上洛してこない」という討伐理由に対し、上洛の期日は12月〜正月中であるし、
それを決めたのもそちら側でしょう、と確認、抗議をしているのである。 妙音院を招いたことで秀吉が激怒したという話は聞いたことがない。
匿おうとしていたというのも初耳だ。良ければ出展を教えてほしい。
事実としても討伐が決まった後のことだから、特に影響はなかっただろうと思う。 >>194
秀吉への返書でも述べてたと思うけど
つか貴女何も知らんよね 妙音院を匿おうとしたとか、それに秀吉が激怒したなんて、何を言ってるんだろう
と思ったが、この人が言ってるのはこういう事なんだろう。
冨田・津田への手紙の2日後、氏直から家康への手紙に、
「惑説の為、妙音院と一鴎軒を招いて、胸中を晴らそうと思っていたところ、
先月20何日のご立腹のお手紙で、本当に驚いております云々」とある。
惑説とは、上洛するとそのまま京から帰してもらえないとか、
国替えになるといった噂で、名胡桃城事件以降、方々から
もたらされていたことが、冨田・津田への手紙から分かる。
その為、妙音院を招き真偽を確認しようとしていたところに、
秀吉から北条討伐を告げる手紙=御腹立之御書付が届いたという、家康への説明である。
これを妙音院を匿おうとしたので秀吉が激怒した、と勘違いして
悪手だと評価しているのだろう。 氏康が信玄より前に駿河攻めて同時に上杉と同盟結んで上洛目指してたら北条は天下取れたのか? >>198
現実の歴史に関してifを構えることは無意味かつ不可能だ。
ゲームでもやるような感覚で安直にそれを語りたいなら然るべき板/スレへ移動されたい。
附言。
全ての事象は;
1. x座標(空間方向座標)=同時代的な諸範疇の「構造」
2. y座標(時間方向座標)=時系列的な諸範疇の「因果律」
の交点に発生する。
当該事象にifを構えて改変するという行為は上記の少なくとも何れか、多くの場合は両方を改変することに他ならない。
然るに同時代的構造は物理実体構造同様に極めて危うい力学的平衡の上に成立するものであって、
たった一つの要素でも改変すれば平衡は忽ち崩壊する。
新たな平衡点に於ける諸様相は史実と全く異なるものになるだろう。
また時系列的因果律は単独で存在するものに非ず、
他の因果律と複雑に連関するのみかそれ自体多くの分岐を有している。
これを改変することはその全てを変えることであって、
当該事象発生時点に如何なる影響を及ぼすものか予測不能である。
即ちifを構えること自体が当該事象を評価する為の条件も要件も破壊してしまう。
当該事象のみを改変しつつ他の全てを史実の通り留め置くことが上記の通り不可能であってみれば、
改変行為そのものが改変行為を無意味化するというパラドクスに帰結せざるを得ない。
吾人が前書込に於いて「ifは無意味かつ不可能」と断じた所以である。
ああ、なんという子供らしい考え方だ! ああ、まるで純潔無邪気な赤ん坊の夢だ!