今川氏真はどうすれば今川家滅亡を避けられたのか
一般的に今川氏真は暗愚であり、
そのために松平元康の独立を招き、
武田に裏切られ、滅亡したとされている
では、どうすれば今川家は滅亡を回避できたのか
そもそも回避することはできたのか
考えてみよう どんなに才能あろうが滅ぶ時は滅ぶし
明らかにお前おかしいやろって行動とってない限り家の興亡を当主個人の才覚のみで語るのは厳しいわ
今川氏真はそのよほどおかしいって程のポカはしてない 家はなくなったのに当主が江戸時代まで大事にされただけ凄いわ
武田家なんて恨まれてて皆殺しやん 氏真を降らせた時の駿河を取り返してやるとの約束もあるし
落ちぶれた元主君を養うのは世間体が良いしな 義元も雪斎いなければどれほどのとこまで行けたか
尾張侵攻まで持って行けず逆に長生きできたかも 今川継がずにお坊さんとして天寿を全うした可能性もあるな
兄二人が同日に死亡したのは暗殺の可能性が高いし お家として存続してるからには勝ち組って見方も出来るよね。
命あっての物種なわけだし 存続だけじゃなくて大事にされてる
究極の勝ち組やん >>220
実際やった(進言した)可能性は結構高いと思うぞ
兄弟揃って同じ日に突然死するか?
その後の手際とかも含めてもし暗殺なら一番怪しい 武田の相続問題を成功させて織田徳川と和睦以外は間違いなく滅亡確定だしなぁ
相続問題も成功の確率は低そうだし織田はともかく徳川は嫁問題もありかなり厳しそうだ >>223
いや義元は家督簒奪する気だったのかと?
兄当主と下の兄貴が死んだから家督相続に担がれただけで兄の死まで関与してるかなあ >>223
寿桂尼の存在を考えるとそんな危ない賭けをするとはちょっとなぁ 氏輝も彦五郎も義元の同母兄 暗殺疑惑なら玄広恵探のほうが妥当 同母の兄弟殺しって戦国時代じゃ珍しくもないけどな
身内に激甘な信長ですら(殺して当然の状況とはいえ)やってるし まずやった根拠が薄い推論だけでしょ?
そんなもんでやった前提で話進めるもんでもなし やった前提で話進めてるのって具体的に何レス目の人だ? 桶狭間戦記では雪斎によって謀殺されたことになってたね
まぁ、当主と後継順位1位の人物が同時に死んだら
誰だって暗殺を疑うが
今川良真が暗殺した可能性もないわけではないが、
もしその方向なら、良真が殺したって資料にはっきり書いてあるだろうし
まぁ義元側が殺ったと誰もが思うわな >>231
さっそく出て来たけど>>232 こういうの まぁ資料ろくすっぽ読んでないない連中ばかりだからね 俺なんかいまだに中高生の時に夢中だった学研の歴史群像がベースだぜ
今でもせいぜいウィキ程度だ 京都で氏真が主催した蹴鞠の会に信長まで参加してるとか、将軍になった家康にもタメ口聞いてたとか、そういう人柄だからこそ高家として生き残ったわけでむしろ勝ち組なのでは 氏真個人は勝ち組 武田経由含めて禄を保って徳川に鞍替えできた今川家臣も勝ち組
負け組は戦国大名今川家とそれに付き合って滅亡・衰退した今川旧臣 呉王闔閭じゃないけど、桶狭間で義元が瀕死の重傷後、氏真に信長への復讐を誓わせて死んだ場合どうなったんだろう 義元を討ち漏らすことがあるのなら信長も今川軍に包囲殲滅されそうだけど
今川諸隊が消滅したわけじゃないし勝ちを完確させないと清洲への帰還がおぼつかないのでは
仮に相打ちになった時に氏真と元康がどう動くかだね >>228
最近の研究だと義元は妾腹ってことになってるよ
寿桂尼の子と確定してるのは氏輝、瑞渓院、吉良義堯室、中御門宣綱室、彦五郎だけ
まあ俺は彦五郎も実は違うんじゃないかと思ってるけどね じゃあ義元と寿桂尼はイメージと違って疎遠だったのかもね 義元が妾腹という新説はあるけど確定ではない
そういう新説の類なら彦五郎が義元の弟だったとか花倉の乱で寿桂尼が玄広恵探側だったとかもある もし義元が妾腹で寿桂尼の存在が正統性の担保だったとしたなら氏真が何をやっても尼が死んだ時点でアウト 寿桂尼がもっと長生きしてても早期にアウト確定だったろうけどね 織田氏の本拠地は尾張国であり、
足利一門最高の家格を誇った管領筆頭・斯波武衛家の本拠地でもあった。
江戸時代になると、徳川御三家筆頭の尾張徳川家の所領になった。
つまり、それだけ尾張国は重要な地域。
そこを乗っ取った織田氏には、駿河の今川では絶対に勝てない。 >>246
そんな言い方しなくても、太閤検地で56万石だったってだけで十分でしょ
桶狭間の時点では信長は清須那古野末森ぐらいしか抑えられていなくて、
知多半島から鳴海沓掛あたりまでは今川に押し込まれていて、
弥富(服部)、犬山(織田信清)も掌握できていなかったから圧倒的に今川有利だった
ただ、桶狭間の後で信長が尾張全土を掌握してからだと厳しかっただろうね
更に三河で松平氏に独立されたのが致命的だった >>243
そもそも一次史料で氏輝彦五郎を兄弟と明記してるのは部外者の書いた勝山記だけで、氏輝と行動を共にしていた冷泉為和は「四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行」、高白斎記でも「十七日今川氏照同彦五郎同時ニ死ス」としか書かれてないんだよな
氏親の葬儀に参加できなかったのは生まれてすらいなかったからで、勝山記の兄弟という記述は誤りで氏輝彦五郎は親子だったんじゃないかと勝手に思ってるわ
これなら黒田先生の恵探次男説と大石先生の義元三男説いずれとも矛盾しないし
暗殺説とかもあるけど、天文5年に甲斐駿河国境の都留郡で疫病が大発生した記録が残ってるし、揃って疫病にかかって亡くなったと見るのが自然だよね >>247
義元は完全に信長をアシストしちゃったよな 桶狭間で武名爆上がり でも織田がバラバラだったあのタイミングで動かないとどのみち駄目だろ
信長が少しずつ反信長勢力潰していってたから時間かけたら差が無くなるし 義元が下手を打たなければ長篠前の武田みたいに脅威であり続けることはできたな
桶狭間と斎藤義龍の死が信長の伸長にブーストかけたのは間違いない ていうか桶狭間なかったら普通に織田家滅亡してたでしょ >>246
桶狭間時点での信長の尾張支配はかなり脆弱。
その後の美濃侵攻でも兵の動員数は万を越えてない。 「お前どうせすぐに死ぬんだろ?w スペア用意しておいたから安心して逝けやw」
氏輝カワイソス 自分が子供の頃は『谷底で休憩中していた今川の大軍が酒で浮かれていたところを雷雨に紛れた織田軍に急襲され義元は首を落とされた』と信長のカッコよさ全開な話を聞かされたもんだが
今の桶狭間は『織田の城をいくつか落として多少疲弊したところの今川軍がやぶれかぶれに突撃してくる織田軍にたまたま遭遇してしまった結果義元は首を落とされた』とまぁあまりかっこいいとは言えない話になってしまっておる
しかしいずれにせよ織田の勝利は奇跡に近いものだったことは確かなんだなぁ 逆だろ逆
今までの酔っ払い説だと信長が偉い話にしたかったはずなのに何故か義元がマヌケで死んだだけの話になってたやん
正面から戦った末に今川が崩れて義元の首取られた話の方が信長の戦での果断さや勇猛さが評価できると思うんだが 昔は大雨のせいで狭間で休憩していた今川軍を奇跡的に奇襲
今は丘の上に陣取ってた今川軍を正面攻撃
織田側の絶望感は昔のほうが強かったけどなあ 分散していたとはいえ正面攻撃で本隊を壊滅できる程度だったのかと
あと寡兵で奮戦するより奇襲のほうが世間受けが良い傾向があるね さすがに隘路で休憩とか宴会とか義元を貶めすぎやろ
結果的に信長の勝利も貶めてるやん
こんな作り話を参考に奇襲を繰り返した日本軍とかもゾッとするし そりゃ講談として広まったの江戸時代なんだし
織田を上げる必要も今川を上げる必要もない
話として盛り上がればいいってことで奇襲説なんだろ 宴会はともかく隘路で休憩は豪雨で進退窮まっただけでは
桶狭間にしろ田楽狭間にしろ隘路を連想させる地名だし 今川本隊って数多いんだから周辺状況がすぐ伝わるくらい
多数の斥候を配置してなかったのかよと不思議に思うんだよね >>262
前に出過ぎだよ
大将は後ろの砦で茶を飲んでいれば良い >>1
>>262
天候は関係ないと思う
晴れの日だと信長お得意の鉄砲隊仕えるし
晴れの日でも見えないように接近できる迂回で近づいたと思う
>>263
信長公記の記述も雨の日で本当は迂回路だったのを太田牛一が勘違いしたと思うね
柴田軍の太田もそんなに信用はされておらず作戦の全容は知らなかった
さらに清州城での出来事は信長が清州城の家臣を全く信用していなかった事の証拠になると思う
で本体は既に今川軍から完全に見えない位置に構えて信長を待っていたと思う
信長が清州城から出た時に周りに5騎しかいなかったと言うけど
まずそう簡単に追いつけないから
初めから迂回奇襲を知っていた本隊が存在しその本体は清州城に存在しなかったのは事実
信長は清州城に今川の間者が潜んでいるまたは内通している家臣がいることを知っており芝居を打ったのが本当のところだと思う >>1
信長は今川軍主力が前の砦2つを落としたところで出陣
始めから今川本体だけを強襲する予定だった
翌5月19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞『敦盛』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発[注釈 2]。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。
今川義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。
そこで百姓に化けた信長兵はあらかじめ用意していた振る舞い酒を村長と共に献上した
これは軍紀ものなどに書かれている内容そのもの
ここまで信長とその家臣は予想していた
そして今川義元の存在を確認したのちに奇襲をかけたと思う >>267
ここで信長にとって一番重要なのはそこに今川義元本人がいるという事の確認で
義元を逃がさないように周りを囲む事であった
酒を飲ませて油断させるのはおまけ
義元も武将だから昏迷するほど飲むはずもない
実際に義元はなかなか強かった 毛利新助だっけ?義元の首を切り落とす瞬間に指を噛み千切られた人
初めて聞いたときは義元の反撃の執念すげぇなって思ったけど実際に自分の喉に刃物を向けられたら誰だって死にものぐるいで阻止しようとするわな
義元もきっと目ガン開きで恐怖のあまりおしっこちびりながら指に噛み付いたんだろうなって 今川も二万とか言うけど、先頭の大高から沓掛、安城岡崎あたりまで分散しとったのちゃうか?
少ない護衛の本営に軍議で重臣集めててミッドウェーの敵降爆直上〜だろ。 ちなみに今川大本営の辺りにいた戦闘部隊は狸と朝比奈だけで他の国人衆は沓掛から岡崎あたりまど分散して行軍中とかな。 >>272
元康は丸根砦、朝比奈は鷲津砦の方まで出払ってる
瀬名氏俊も大高城の方に向かってて本隊とは別行動してたみたいね
本隊の付近にいたのは松井、井伊、飯尾、久野ら遠江勢だけど、ことごとく討たれてるよ 義元はわざと本隊を手薄にし、自らを囮にすることで信長を誘い出し、
各方面に分散した各部隊は時期を図って一挙反転、
信長を包囲殲滅することを企図した作戦であった。 なるほどね
ところが予想してたより遥かに早く信長が攻め寄せてきたことで結果的に手薄な本隊を叩き潰されたというわけか
川中島の武田信玄みたいなやらかしだな そういう攻防として描けば
義元も戦巧者だったが信長が想定より強すぎたという方向で持っていけるから面白い むしろ、鳴海城という最前線に岡部元信(ベア)がいたからインペリアルクロスだな
ノッブにソウルスティールされて氏真へ皇帝継承 信長って大軍の指揮はイマイチだったりするけど
2〜3000人を率いて突撃するとメッチャ強いよね
本願寺に囲まれた光秀を救出する時も少数で突発的に出撃して
包囲を突き破って砦で光秀と合流して、次はそこから打って出て
包囲を突破して帰還したり無茶やってるでしょ >>282
まぁ、多すぎると本人が指揮する部分より家臣が指揮する部分が多くなっていくからな
特に織田家は急拡大した寄せ集めの軍だから、
それを率いて戦うのは難しかったのだろう 時間のずれが一切出ない自分の声が直接届く範囲内の兵数で、高練度高士気の言ってしまえば近衛兵と同じな馬廻衆使って突撃するからそりゃあ強い
自分が討たれるリスクもでかいし馬廻衆自体が幹部候補生たちだからそれを失う可能性も高いハイリスクハイリターンだけども 信長って大軍の指揮がいまいちと言われるほど何か失敗したっけ? ちょっと特殊な例だけど長島ぐらい?
多数の河川と島で各部隊が孤立して指揮のしようがない戦場だけど。 金ヶ崎、姉川、野田福島、志賀の陣
はどれも信長にとってはしんどい戦いだったのでは
その他は雑賀攻めとかもゲリラ戦に苦しめられてたけど、
アレは信長というよりは家臣が苦戦してた 姉川で備えを何段も抜かれたって話はまだしも他の苦戦は指揮能力がどうこうでなく逆境なだけでは
しかもその逆境を切り抜けてるし >>287
俺が一番に考えたのは姉川なんだよね
対戦した浅井の三倍の兵力があって、それなりに開けた平地だったら
常道としては横に広く展開して数の優位を生かすところを
なぜか過度の従深陣にしたため正面兵力が同じくらいになってしまい
まず最前線が崩され、第二陣が敗残兵によって隊列を乱されたところに
また浅井軍が突入して崩されるというのが繰り返される雪崩現象を招いて
本陣目前まで迫られたとこに徳川の援軍で助かったといわれてるけど
それが本当なら大軍の運用は下手なのかなと
姉川にはその他にも、戦闘準備を終えてる浅井軍の目前で
隊列の再編成を始めてしまいそこに攻撃を受けて全軍が半壊に陥った
みたいな信長の大軍指揮能力を疑うような説もあるんだよね 姉川の経緯は一級史料にはほとんど残ってないがな……
講談的な言い伝えから推測されても…… >>291
俺も金ヶ崎や志賀みたいなのは戦術的な失敗とは違うと思うから
その辺は信長の戦術能力の考察に入れてない
というか、信長の指揮に疑問を持ったのはほぼ姉川だけで
それ以降、大兵力の指揮は万全の体制を取るようになったのかなという気がする
手取川なんかはほとんど参考にならないし 信長が戦下手だとは思わないけど他の戦上手とされる武将と比べると
ちょっと見劣りするのも確かだな >>292
逆に長篠の武田軍が陣城ができるまで何故仕掛けなかったのか不思議
降雨で進攻が厳しかったとしたら織田は幸運だった >>295
桶狭間までは少数の兵で多数の敵と戦っていたけど、
それ以降は敵より多数の兵を用意するようになっちゃったから
少数で多数の敵を倒すのが最高な人には不満だろう そもそも戦は兵家の常だから
信長が負けが多い(ように見える)のは、信長の戦績が深く研究されて広く知れ渡っているため
無敗と言われる上杉謙信とか吉川元春でもよく調べると普通に負けてるし、
えっ?っていうような戦い方をしていることもある >>297
別に向かい合ってる状況で織田軍がいそいそと柵を建て始めたわけじゃない
武田軍がここを通るだろうなって場所にあらかじめ陣を張っておいてから別働隊を出して武田軍の後方にある砦を落としたんだよ
だから武田軍としては直進して織田軍と総力戦にあたるか、もしくは織田軍に背を向けてせこせこ逃げながら砦を奪い返すかの二択だったのよ >>292
備えが何段も崩された話って江戸時代の元禄年間に書かれた浅井三代記だろ?
その戦を見てたやつが書いたんじゃなくて100年以上後に書かれた話な >>301
Save your breath, bitch 姉川は一次史料じゃ、
信長は馬廻と西美濃三人衆で浅井と
徳川と丹羽で朝倉と戦って
勝利したぐらいしかわからん。 >>302
むしろ姉川の後に浅井、朝倉軍の動きがやけに活発になってることから
姉川では浅井が横山城を取られた以外は大した戦闘は無かったんじゃないかとも言われてるね そうかな 浅井は織田と領土を隣接しながら小谷から出て移動範囲の最西端に当たる延暦寺まで朝倉と共に行ってるけど
朝倉は信玄西上の最重要な時に撤退したりして浅井より活動が消極的だと思うけどな 信玄が三方原に出てきたのって冬の話じゃなかったか
雪が深くなる季節に越前から出るとなると消耗も一段と激しかったはず
上手く行けば織田を潰せたかもしれないがそれでも織田の領地を切り取るのは武田と浅井、なら朝倉にとってあの場での最善の判断は撤退以外になかっただろう 志賀の陣はもう朝倉が主体だし
浅井が何もしなかった訳じゃないがあまり相手にされているとは言えない ここ氏真スレ >>282の信長の大軍指揮能力の話から脱線しすぎw では話を戻そうか
氏真はかなり厳しい状態でバトンを渡されてしまったが、
どれぐらいの人物なら劣勢を覆せたかな
流石に、項羽やハンニバルぐらいのクラスの名将なら余裕で家康や信長を蹴散らして上洛できたかな
信長や曹操が氏真の立場ならどうだったか