豊臣秀吉と家臣について考察するスレ
基本的に秀吉は「武士」だと思っている
農民出身なんて史料は特にない、 信長家臣団
佐久間信盛
佐々成政
前田利家
佐久間盛政
丹羽長秀
村井貞勝
彼らの共通点は尾張の土豪衆である、秀吉だけが
「農民出身で異例の出世を遂げた人物」となるのはおかしい
そもそも信長は守旧的な人物であり、農民や商人を引き立てるような人事はろくにしておらず
尾張の譜代衆ばっかり引き上げていたからだ。
例外は明智光秀と、滝川一益くらいであろうが、どちらも武士である。
そう考えると豊臣秀吉も佐久間や佐々と同じように尾張の領主層出身だと考えたほうが謎は解決できる 尾張中村の昔話によると木下氏は中村村長だったが若死してしまった。とある。
やはりそう考えたほうがしっくりくるものだ。 秀吉の血縁は浅井の庶流との説もあり複数の史料から出ている
木下氏は中村に所領を持ち今川、那須野、信秀、信長に仕えた。
水野氏を義父に持っており、単なる貧農でないのがわかる、 秀次も土豪出身と見てもいい。
秀次の父の三輪弥助は馬引きでもなんでもなく土豪であると思われる。
一時期長尾を名乗っていたみたいだが、単なる馬引きが名乗る必要が無いこと、
秀次の変わりに城代をしていた叔父とされる人物も三輪氏なことから、ほぼ土豪で確定であろう、
当時は土豪同士で婚姻が行われていたことがよくわかる事例である。 小出秀政
>豊臣秀吉とは同郷で、正室は秀吉の母大政所の妹・栄松院であり、秀政は秀吉の叔父(叔母婿)にあたる。
これでほぼ秀吉の出自の答えが出てるような気がする、
姉妹で婚姻待遇に差があるわけが無い、むしろ当時の感覚からして姉も似たような身分に嫁ぐだろうと。 秀吉は尾張中村方面の代表的な人物だったのでは?
だからあっさり義父との折り合いが悪く家出したときには信長の家臣になることが出来
織田を出奔してもあっさり許され、1565年には安堵状すら出せる身分だった。
前田なんて出奔した時、帰参するために苦労してるし、どれだけ有力者だったかわかるものだ。 それなりの家系だとすると父系親族が薄いのは気になるところ 父系親族衆が少なく見えるのは秀吉が秀次事件で処分したからです 姉の縁者と異父弟だか同父弟だかはっきりしない秀長しかでてこないわけでそれが薄いってこと
母方はおじとか従兄弟とか又従兄とか取り立ててるのに
通常母方より重視されるはずの父方のそれは異説レベルでしかいないのは不自然でしょう
それなりの家柄であるなら尚の事
秀次事件で族滅レベルで処刑したとして記録が全く残らないってのはちょっとね 秀次さんだとか三好吉房さんだとか三輪吉高さんだとか普通にいますって 城代を務めた木下昌利さんもそうですよ
秀吉の弟です だからそれは全部兄弟姉妹の関係者でしょう
それ以外に父方の親戚はおらんのかって話ですよ
父親の兄弟姉妹とか従兄弟とか
それなりの家柄なら記録が残ってる可能性があるし
出世した後の秀吉に取り立てられてもおかしくない 秀次さんだとか三好吉房さんだとか三輪吉高さんとか
普通に父方の関係者なのですが、何を言ってるのですか? 蜂須賀正勝に至っては父の妹の旦那の娘の旦那なわけだから普通に父方親族衆でしょうって だからそれは秀吉の姉が嫁いだ事によって出来た縁者じゃないの
木下家がそれなりの家柄だというなら
秀吉の父弥兵衛(便宜上)の兄弟とか姉妹とかそういう縁者はいないのか、っていう話 秀吉の出自は領主層でいいと思いますよ
苗字が無かったり雇い足軽の貧農が関兼貞の娘なんてとれないですって
貧農説はどれだけ凄いこと言ってるかわかります?
秀吉が長浜を有したのも、
浅井氏の家臣を取り込んでるのも関氏や近江との縁があったと見るべきで
秀吉は当時隠してもいなかったと思いますし、天下とった後ですら近江閥だとか尾張閥だとかで
出自の問題が見え隠れするのだから土豪時代からの人間関係からは自由にならなかったってことですね
というより秀吉が農民の子供を自称したことなんて無いですし、
当時の記録にも「農民出身がー」なんてないですし
秀吉は大名たちに対しても家格ですら卑屈になったりしてませんってば 父方という意味では福島さんもいますし星野氏もいますね
星野氏は鎌倉時代に遡れる家で、熱田神宮の家です。
そこから養子を取れる福島氏が桶屋なんてのはありえない話だと思いますが、
福島正則は父方親族集でいいと思う 尾張福島氏は今川の重臣の福島の血縁でもないかと思いますね
福島正則は正の通字も引いてますし、伝承によると福島正則は同じ福島の北条綱成との関係もあったようですし
星野二郎成政は今川福島氏の兄弟で、福島正則も星野氏からの養子ですし
星野氏は織田氏や前田氏どころか御三家にすら仕えてます
桶屋なんて家系ではないことが明白ですね なんか豊臣スレ見ると
「父方の譜代が少ないから農民だ」とか飛躍説を流してた人いましたが
このスレで同じこと言ってた人と同じだと思いますね
普通に姉の家系も親類集でいいと思いますが、何故無視するのかよくわかりません
そもそもそれ言ったら池田氏とか前田氏とかでさえろくに譜代家臣なんていませんが 別に秀吉の出自を農民と決め付けるつもりはないが
秀吉の親族って言うと大体なかの方の縁者だからな
弥兵衛の方の縁者の話が全然出てこないのは不思議の一言
それなりの家柄なら親類縁者がいないって事はないだろうから
秀吉に取り立てられてもおかしくないのに だから父方親族なら福島氏だとか馬廻りの星野氏がいるって普通に言ってる
小出氏だとか佐久間氏だの池田氏だとか前田氏ですら譜代なんてろくにおらず大名になった後に
父方親族を取り立てたなんて話普通にあります?
ないからって、彼らが農民になんてなりませんからね、池田ですら母方親族だとか新規取立てやってますが 福島氏はもう父系だという事になっちゃったの?
正則の母はなかの妹だから母系のつながりだと思うんだけど
その人たちは弥右衛門(弥兵衛と間違えてました)とはどういう血縁関係なの? 木下弥右衛門の妹の息子という説がある
いずれにせよ、
前田家や池田家が父方親族を取り立てた話なんてのは無い以上
木下家が取り立てて無くてもおかしくは無いと思うけど それは別に確定した説ではないからなあ
なぜ池田や前田に限定するのかも良くわからない
一族の出世頭に親類が仕官するってのはままあることだし なんかこの人ID変わってるね
いいから質問に答えてほしいのですが
前田や池田や佐々に父方親族衆に仕官したって話を
よくあるならとっとと出してほしいですね 信長なんぞ、後年になるまで明智光秀と滝川以外は尾張譜代だけをやたらと引き立てており
実力主義とは程遠い縁故で地位につける行為しかしてなかった後進的な大名
北陸軍団の顔ぶれでも、柴田、佐々、前田、佐久間、
本願寺攻めでも原田、佐久間、摂津では池田、遊撃軍、援軍衆には丹羽
奉行衆でも林、村井と要職はほぼ尾張のみで固められてる
明智光秀だけが例外だが美濃出身でかなりの名家だしな
そんな中、木下秀吉だけが下層から引き立てられたなんてことは100%ありえず、
大好きな尾張衆だったから登用されたと見るのが自然
尾張衆以外には要職付けないくせに農民の子供を要職に付けるなんて信長には眼中すらないでしょうに なんで佐々が加わるのか分からんわ
加賀八家の前田長種とかそうじゃないの
もともと利家の本家筋だって話だし これだけ時間あげて一人しか探してこれないんですね
それなら姉の親族衆の秀次さんでばっちりですが母方でもなんでもないでしょうに。
佐々さんは普通に領主出身でしょうって 子供秀吉「父とそりが会わないから仕えさせてよー」
信長「わかった」
これを下層の人間が出来るわけ無かろうに、
青年秀吉「うつけに仕えるのはうんざりだ、出奔する」
信長「秀吉はどこ行った」
青年秀吉「やっぱり帰参させてー」
信長「わかった、」
随分秀吉に甘いですね、
1565年には安堵状出してますし、下層農民にしては凄い出世ですね
その後も上杉戦で勝手に撤退したり、宇喜多と無許可で同盟結んだり、
信忠家臣団が普請しに来てくれたり下層だの貧農出身にしては随分わがままやってるようですね
何もしてなくても殺された家臣なんて大量にいるのに だって前田池田佐々に限定されてるんだもんw
そんな全国の家臣団の経歴暗記してるわけじゃあるまいし調べる時間くらい頂戴よ
これも最終的には前田家臣だけど堀秀政の弟の多賀秀種が関ヶ原で改易されて
甥の堀秀治(つまり秀治から見て父方)を頼ってるな やっと時間かけて二例目ですね。
しかもそれ改易されたのと父に以前仕えていたという。 ここは戦国史検定会場かなにか?
もう時間しかこだわるところなくなってるやん 秀吉さんが下層農民だの
姓無しなんてありえないんですってば
後進的な古臭い織田信長が譜代ばっかに依存してたからこそ秀吉が明らかに
野心も有り性格もおかしく残酷で命令違反しても
信長には譜代しか拠り所が無いから大きな立場を保持してたんですってば
当然、信長も晩年はそれから脱しようとして佐久間やらを追放したり
明智や滝川を要職に付けたら謀反されて死んでしまい危惧したとおり秀吉に乗っ取られ
譜代衆には背かれてしまいましたがそれが限界だったのでしょう 信玄に秀吉がやったらこうなってる
秀吉「仕えさせてー」
信玄「わかった」
秀吉「出奔するわ」
秀吉「やっぱり復帰させて」
信玄「二度と武田の門を通さるつもりはない、出て行け!」(殺しはしない)
川中島合戦で上杉戦で内藤と言い争い勝手に撤退
信玄「勝手に持ち場を守らずに撤退するとは、戦をなんだと思ってる許さん」
普通に斬首でしょうね
秀吉「上杉と戦うために長野さん和睦しない?」
信玄「勝手に外交を行うな、お前はこの信玄ではない、成敗する」
と3回は追放なり殺されてると思いますが、
武田家は謀反や離反も殆どありませんでしたし
おべっかだの贈り物が通じる相手ではないから出世不可能だと思う
最後まで武田は下克上をゆるさなかった 北条早雲も室町幕府のエリート官僚だったのに江戸時代の小説で伊勢の身分なき素浪人にされてしまい、それで定着してしまった。
歴史は大衆娯楽小説家に都合のいいように捏造されていく。 秀吉の出奔って織田に仕官しないで諸国を渡り歩いたこと? いつごろのことかわかったら教えてほしい
秀吉の史料での最初の登場は京都で代官かと思ってたけど
坪内氏の安堵状がその前になりそうなんかな 坪内文書の信頼性とかわからんけど >(秀吉は)壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってとくにぬきんでるところもないまま、
関東に逃走して数年を過ごし、また戻って(信長のもとに)自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった 看羊録
秀吉はせがれの頃から信長に仕えて、出奔して松下氏に仕えてまた戻ったのがわかる経緯
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる ありがとう
>>44が看羊録の記述?
看羊録だと出奔があったとされるころより時間が経ちすぎているし、
李氏朝鮮の儒者が書いたものだから誤解とかが訂正されていなくて根拠としてうーん
輝元宛の書状はせがれを何歳ころまでがせがれと称するかだから補強には弱い せがれって今でも当時でも少年期でしょうに
せがれの頃信長に仕えてること、松下氏に仕えてることその後織田氏に仕えてることから
ほぼ確定でしょうが
無理に否定しなくていいですよカス子さん また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。 補強としている両方とも若いころから信長に仕えたっていうのは異論はないよ
ただ織田家を出奔したということが根拠として弱いって言っている 信用におけると思いますが
秀吉在世中のことですし情報くらいは手に入るのではないかと 同時代だからどうこうでいうと賎民説の否定にはならないからなあ 賎民が織田家に仕えられるのですか
凄い発想してますね だったら島津が秀吉の出自が低いと書いたのも恵瓊が秀吉が乞食をしていたのも事実
というか織田家自体が守護代の三奉行の一家ということでそこまで出自高くないし 由緒正しい島津家にとっては、土豪出身だろうが家格は低く見えるってだけでは出奔して浪人してたときに
乞食になってたのではないかと考えられる
強引にいちゃもんつけたいだけでしょあんた 逆を言えば島津氏みたいな超名門しか出自は卑しいとしか言ってないんだよね
島津から見たら佐々だろうが藤堂だろうが卑しく見えるのでは
織田家中の同僚が賎民呼ばわりしてした史料なんて絶無といっていい >>1
農民にもいろいろおるやろ
小作農と田畑持ちは全然違うし、当時の農民の上流層は土豪・武士と被っている 母方の嫁ぎ先もすごい
大政所
前夫は木下弥右衛門。何者であれ姓持ち
織田信秀の同朋衆・竹阿弥が入り婿(大政所が嫁には行ったのではない。その逆)
妹の栄松院
織田家の家臣小出氏の小出秀政の室。小出吉政・小出秀家の母。
妹の大恩院
美濃の豪族・青木氏の室。青木一矩の母。
妹の松雲院
桶屋(自営業で職人じゃない)の嫁。
従妹の伊都(鍛冶屋清兵衛の娘)
元・斎藤道三家臣で刀鍛冶・加藤清忠の妻。 松雲院は父方という説もある
桶屋ってのは史料が無いし実家の星野氏は城持ちですが
http://mfj.co.jp/hoshinoshinorekishi/#1 福島の話には面白い話があって、城持ち土豪星野氏の息子として生まれたが
大工を殺害してしまい駿河の福島氏を頼らせたという話が寺に伝わってるらしい
こっちのほうがしっくりくる 今後こっちでやろう
そろそろねぇが武田スレに復帰して欲しいなぁ
信長を恐れてたとか珍説が登場してるし さてこっちでやろうねぇ
武田スレにねぇが帰ってくるのはそろそろかな? それより、三輪三人衆の末裔が今でも伊勢にいて武士は嫌だって帰農した話があるらしい
いつごろの話なのか知らないが ろくに功績も無いくせに生駒家長を使い走りにする若年の秀吉だから織田家は能力主義ではないだろう
土豪関係の研究が全く進んでいないのは史料偏重主義なんだよな
民俗学のように歩いて聞いて城郭巡って検証してなど情報を集めたりせず書状がーとかそんなんばっかりだから
研究が進まない、隠された史料が出てくるかもしれないからフィールドワークするべきだ ありそうなのは遠江木下氏が織田家の縁戚で、
戦で父が死に孤児になり織田家を頼って使えたのだろう親族衆ともいえる
信長が織田一族と戦ってる時に親類衆として仕えてくれたから心強かっただろうし
その後の扱いも親族衆に準じる扱いがなされてるのでこの説は黒田?が提唱してるのだろうが
あながち外れてもいないだろう 小牧・長久手の戦いで秀次を守って死んだ木下助左衛門祐久・木下勘解由利匡って
秀吉とはまったく血縁のない木下氏?
それとも別姓だったけど秀吉に木下姓をもらったのかな? そこらへんが織田家の家臣になってるから当時、木下一族は尾張の土豪でもしてたのではと思われるわけで その二人って秀吉というよりねね系の血縁って説があるんじゃなかったか
あと秀次の祖父だか叔父だかっていう説もどこでかは忘れたが見た気がする 秀吉の晩年に尾張から兄弟姉妹と名乗る連中が来たのを
全員処刑したという話があるけど
信憑性は? 秀吉書状
「200文ありがとう、更に代わりに一貫分の年貢取ってきて、
使いの者に渡してね、悪銭は駄目だよ良銭で渡して。生駒家長さんお願いします」
これを20歳くらいで書く秀吉っていったい。 太閤記のせいか、秀吉の家臣団は身分が低く書かれるのが難点
蜂須賀なんて普通に城主なのに、夜盗の親分扱いされているし
川俣衆なんて武功夜話にしか出てこない。
蜂須賀が秀吉についた背景には姉の旦那の妹の旦那という遠い親族衆だからで
姉の人脈もしっかり秀次事件までは役に立っている。