【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 6 【徳川】
水攻め説って初耳。しかも秀頼発案?とかちょっと俄に信じ難いわ
秀頼って無能のボンクラじゃん
確か淀に武将というより公家みたいに育てられてたはず
だから戦のこと何か全く分かるはずないし 実は冬の陣だと大坂城は落城寸前だった。
まず南口の担当織田がサボタージュをしてるから攻められ放題、
東と西からは横堀(塹壕)を掘り抜いて総攻撃を行う手筈になってた(藤堂書状) >>507
番組視てないけど父親が水攻め得意だったからその影響かね >>506
普通に攻城戦の事前砲撃段階で大坂方が屈しただけなので >>506
そうなのか
大河ドラマで本丸まで届いてたから
そのイメージが残ってたわ >>506
後、大砲は大から小まで色々な口径ある上に射距離で威力も異なる
例えば、小口径で遠距離なら瓦を割る程度だが、近距離なら土塀を抜いたり柱を折ることも可能
これが大口径・近距離なら土塁・石垣の破壊も可能になる 水攻め説っていうか
籠城側が決壊させてるんだから水守り? >>510
事前砲撃の意味は、通常は防御側の拠点を壊して防御力を下げる事。
しかし、この時代の大砲は城壁とか櫓とかを壊す効果はないんですよ。
大体、大砲がそんなに効果あるなら本丸狙うんじゃなくて攻城戦の主役で有った
南側で「真田丸とか」使えばよいじゃないですか。
大手門とか崩した方が良いでしょ。 >>512
国産の大砲は殆んど個人携帯用で、撃った瞬間に転がって反動逃がすとかだぞ。
狙う所じゃないんで、殆んど投石器と変わらん。
逆に言うと、本丸みたいな巨大な目標じゃないと当たりもしないって事。
有名な本丸の命中弾も、数百で毎日砲撃して有効弾一発ともいえる。 >>514
>>515
効果はあるのは先に触れた通り、大型の火縄銃の撃ち方も地面に置くとか、台座に固定するとか色々ある
また更に大型のだと木製の台座に固定して射撃する
ちなみに南方でも総構に対して普通に撃っていますよ大砲
それで土塀や櫓の狭間越しに相手を倒して射撃を難しくしつつ、塹壕を掘って近接している だから、大砲がそんなに効果出るのなら南の方で城方の総構え崩してるはずでしょ。
大手門とか砲撃で崩せるはずでね。でもそんな記録はない。
総構えは記録残ってないから具体的な規模は分からない。
でも効果あるのなら、普通に正攻法で突破出来るじゃないですか。
あのね、砲弾が届くのと攻城戦に意味があるかは別。
攻め込む為には、城門を崩さないと駄目でしょ。あの当時は城門は内側に桝形の
門が付いてる二重構造だぞ。この内側の門が攻城側から見えず砲撃するのが困難。
内側の門が壊れてないなら、近くによれば十字砲火。 >>517
砲撃による防御施設破壊は数週間というスパンで行う
破壊と補修のせめぎ合いな訳
で、完全破壊に至る前に大坂方が屈して和議になった
後、土塁の破壊は坑道戦としても行われ、これは土塁
直下に爆薬を設置して吹き飛ばすというもの
これも実行前に和議となった 南口は織田との密約で攻めなかっただけじゃないか?
豊内記に南口の織田がサボタージュしてて戦争にならんって話があったはず。 冬の陣前にわずか数十間まで接近されとるな、大坂城は
ギリギリ降伏に近い和睦で一命取り留めてるが、豊臣方から総堀の破却を申し出すほどには普通に豊臣の負け戦よ >>513
そう、蒋介石先生がやらかした黄河の堤防決壊作戦。
やられた側の東洋鬼が被災地の救援活動やらされる羽目になった。 虎口、桝形で検索して見な。大阪城の総構えも多分あの構造に成ってたはずだぞ。
土塁と水掘、そして二重構造の門、当時の築城方式からしてまず確実。
でね、単なる巨大な砲弾飛ばしてるだけの当時の大砲だと、二重構造の門は簡単に
崩せないぞ。
防御側に十分な兵力と火力が有れば、簡単に落とせないのは他の戦闘でも実証されてる。
そして一番の問題は火薬の原料の硝石。当時硝石は殆んど輸入物だから使い果たせば
簡単に補充出来ないんだよ。
正直、あれ以上砲撃続けられる火薬が幕府軍に有ったんですかね。
日本で大砲が普及しなかった理由に不経済「火縄銃の何千倍も必要なのに効果が薄い」も
あるのに。 サボタージュする将に下手言えば反乱起こしかねん浪人衆、備蓄を分配するノウハウのある片桐を追放してままならない状況
そら豊臣方の人間からすらも冬の陣和睦の時に秀頼が腹切ったと思ったと言われるわ >>522
なぜに城門の攻略にこだわる?
土塁上の塀や櫓を中小砲で破壊し、堀を埋め、更には土塁自体も大型砲や坑道戦で破壊する
火薬については特に幕府は従前から海外からも購入しているし、冬の陣中も大名・商人から
献納されている
むしろ火薬不足が深刻なのは大坂方で仕寄毎破壊するため、大型の鉄砲が多用された結果、
想定以上の火薬が使用され、欠乏した まぁこの時の徳川って実質全日本軍みたいなもんだしなぁ…兵糧にしろ火薬にしろ無尽蔵に引っ張ってくるでしょうな
確かに榴弾じゃないから破壊力は限定的だろうけど大砲弾は対策が出来ん。飛んできたら避けるしかない。それを防御拠点に放り込み続ければ下手な鉄砲なんとやら…
そうしておいて、塹壕を掘り抜いて突入戦の準備を進めておくと。 そもそもが天下の孤城で援軍の当ても皆無
関ヶ原後食い詰めた後の無い牢人が死に狂いで立てこもってるのが大坂方の実態
島原の乱や三菱銀行人質事件と同じで自ら雪隠詰めになってるだけなんだから幕府軍が無理押しする必要など全くない
持久戦心理戦で籠城側の戦意をくじき内部崩壊を誘発させるのが常道で相手の陣地に踏み込んだら勝ちの野戦と同じにするのがおかしい 丸島氏あたりがこの辺りの大砲と大鉄砲の効果について史料を用いて言及してたな確か
あれなんの史料だっけ、櫓の倒壊せしめたとか寄せ手がかなり接近してて豊臣方が普通に追い詰められてるみたいなのも書いてたよね 豊内記だったかなぁ
「冷たい飯と汁を啜り、聞こえてくる話と言えば誰それは敵と内通してるとか明日決戦になって皆討死にするとかそんな話ばかり。こうした状況だから次第に勇気は消え失せて今日は生きたい、明日も生きたいというそれのみしか考えなくなり…」
悲惨な籠城戦って感じの話が残ってたはず。
冬の陣時点では徳川のスパイも牢人衆に多数入り込んでいてこいつらが情報工作もしてたからもう疑心暗鬼の坩堝だったろうな。 家康は若い時から追い込まれると逆に強気のはったり「ブラフ」を出す癖があると
思いますよ。
この本丸の砲撃は如何にも家康らしい心理作戦って思うのですがね。
実際には攻城戦に意味がありそうな大砲は10門かそこいらなのですが、国産の大砲を
数百混ぜて砲撃させるとか。
実際には有効弾は数える程なのですが、砲撃音は物凄いでしょうね。
只、だからこそそんな無駄使いする程の火薬の備蓄があるのかと。
日本は硫黄は出るけど、硝石が出ない。 >>529
この時点で幕府保有の西洋砲なら、リーフデ号の備砲を含めて35門は確実、
更には12門追加される可能性があるが? 備蓄が無い方がおかしいじゃろ。
数万発分の弾薬を家臣に与えたりとかしとるのに 思う思うじゃのうて史料なり研究を出せ
事実積み重ねたいのか、自分の中だけの真実妄信したいのかどっちじゃ 『大坂冬の陣夏の陣』(岡本良一)によると
家康はポルトガル商人等から火薬や鉛を大量購入してる。
鉄砲鍛冶に小型大砲を大量生産させている。
オランダ商人から砲弾と大砲を購入している(四貫目玉、五貫目玉という大石火矢を十二台購入) コンスタンティノープルを陥落させたとされるウルヴァン砲も
そこまで決定的な被害を与えたわけではなく後世の大砲神話による神格化ではないか、と
心理的な影響は記述に残りにくくとも大きかったでしょうが >>535
コンスタンティノープルはメフメト2世の
金角湾に丸太並べて艦隊ごと山越えと
イエニチェリはじめ総攻撃の混乱で城門の鍵の閉め忘れ 家康が購入したカルヴァリン砲は14キログラムの砲弾を6キロ飛ばせるらしいけど、
これを家康は四門購入してる。代金はセーカー砲一門と併せて1400両とのこと。
こんだけのカネ掛けてる以上、火薬も弾もたっぷりあったんだろうなぁ。てか14キロって。結構怖いな。 参考にするのはイタリア戦争から八十年戦争で、この時期に大砲等で従来の城が次々落城、
その対策としてイタリア式築城術が生まれたが、これとて相応の装備と兵と時間があれば落城できた
もっとも大抵は冬の陣同様に不利を悟って開城のパターンだけど 当時って銃弾は自作していたらしいけど砲弾も自作していたのかな
さすがに海越えて持ってくるのは面倒だろうし鋳型でやればそこまで誤差でないか 当時の日本だと大型砲用の鋳鉄弾を作る技術も無かった可能性があるので、
鉛製か銅製の可能性もありそう、その場合は貫通力は下がるがダムダム弾の
ように破壊面積は増えそう >>540
普通に鉛だろ、何で火縄銃に鉛かって言うと柔らかくて変形するんで砲身と少し
ずれてても問題ないから。
鋼鉄製にすると少しのずれでも隙間からガスが抜けてしまい威力が落ちる。
でね、水平に撃って敵の戦列を崩すなら効果あると思うけどさ。
攻城戦では限定的じゃないかね。 >>541
鉛は柔らかすぎて腔発の危険性があるのよ
なお、近距離で撃つ無垢弾は恐ろしい威力がある
例えば33ポンドカノンは射距離180mで土塁に4〜7m侵徹する
48ポンドカノンは射距離120mで城壁に6m侵徹する
24ポンドカノンは射距離80mで土塁に4m侵徹する
土塁の場合は侵徹部後方が同心円状に抉れるので、土塁自体が崩壊する
土塁上部を狙えば、上部の土塀・櫓毎吹き飛ぶ 大砲なんてもともと岩ぶっ飛ばしてた訳でな
鉛だろうが鉄だろうがあの質量のもん飛んでくんだから、大砲対策がまだ不十分な過渡期の城相手なら十分効果あるわいな
自分に都合のよろしい大砲のデメリットを机上の空論せずに大坂の陣の際の大砲の効果について研究した本をまず読めばええんでないの まぁ現代の砲撃戦の様なド派手な威力は無かったろうし、効果は薄かったかもしれん。
でも問題は「敵は攻撃してくるのに此方は出来ない」という事態だと思うの。
6キロってのはもうどうにもできんもの。 つか天守とかじゃなくて大砲で普通に大阪城の城壁攻撃したぞ。 そもそも大砲で天守を攻撃云々というのは寛文12年(1672)成立の
『難波戦記』で初めて出てくるわけでな >>548
真田丸がある南口は密約交わした織田が守ってるから下手な事はできん。
織田がサボタージュを止めたら面倒なことになるし。 その事件発生から60年以上後に初めて記されたことを信用できるかと言えばノーでしょ 真田丸の戦いは大坂各所の砦をトントン拍子に陥落させてさぁ大坂城に取りかかりましょうっていう最初の時の話でしょ?
そこで初めて無理攻めだと厳しいとなって大砲と仕寄と坑道と戦術に切り替わるんじゃろ? 戦後の混乱を抜けて漸く史料編集したって言えば充分信用出来るようになるから不思議。
1800年辺りなら信用は難しいけど60年程度ならまぁあるんじゃないの。
大砲を購入してる以上使ってるのは当たり前だし >>552
家康は最初から正攻法での攻略を命じたけど、現場が大坂方の挑発とその場の勢いで
大した攻撃準備もせずに攻撃してしまった でかいイベントとはいえ60年も経てば記憶も薄れるでしょ、人間の記憶力なんて昨日の晩飯の献立すら怪しいんだから
ましてや難波戦記は戦記物、事実を正しく書こうってもんじゃなく手汗握るよう面白おかしく書いたもんなんだから
そこでしか出てこないものはあったと解釈するのは厳しい思うよ >>554
あー、そういう突発的な衝突なら余計に真田丸の戦いで大砲使ってないじゃんって批判は的が外れてるってことか
詳細ありがとー >>542
あの、もしもし、あの時代は鉄を溶かす技術は日本に無いはずですが。
鉄を溶かせないから、日本の火縄銃は鋳造ではないんですよね。
柔らかくした鉄の板を心棒に巻き付けるって製法で砲身作ってたはず。
鋼鉄製の砲弾は、それこそ輸入物って事になりますね。 >>556
記録だと、城内で内応させて簡単に正攻法で総構え突破する気だったみたい
所が、内応自体が計略だったのか直前にばれて処刑されたのか内応は起こらず。
まあ事前準備に時間かける家康らしいけど、最初につまずいてるのよな。
真田丸の激闘も、その流れから来てる部分有りそう。
予定の内応が起こらず、現場がいらついたのかも。 >>557
鋳鉄弾の製造は砲身より簡単なので鋳造されたが、どうしても品質に問題が生じた
なので江戸時代だと実戦の機会もなく回収も可能なので青銅製の弾も多くあった >>558
改めて調べたら丸島和洋氏は前田勢が鉄砲の挑発に引っかかり夜中に竹束などを持たず真田丸の堀に侵入、他部隊も功名心から乗り込んでいって被害
その時、石川康勝陣所で失火したのを南条の裏切りと判断した寄せ手がさらに被害拡大って形と言うてるな
発端は前田隊の抜け駆けやね 内応と言えば一次史料でも真田調略しようとしてる本多正純の自筆書状が残ってるな
弟の政重に真田信尹そっちに遣わしたからよく相談して信繁味方につけるようにって
書状の日付は12月14日だから真田丸の戦いの後になるが 徳川のおっかないところは多分これらの内応の狙いは単純な裏切りじゃないってこと。
「だれそれは徳川と内通してる」
って噂を流させて豊臣に戦術的な動きをさせないようにしたんじゃなかろうか。 >>562
それは秀吉の得意技
信雄との戦いの前に重臣3人が内通していると嘘の噂を流して
それを信じた馬鹿の信雄が3人を斬っている 海外交易、天下普請、鉱山開発、河川開発、街道整備等
大坂冬の陣は江戸幕府が手掛けたインフラ整備の成果で殴っているからコワイ それだけ中央政権として機能し実績を積み重ねてる幕府に喧嘩売った豊臣の世間知らずっぷりが際立つ 当人たちは喧嘩売ったという認識すらなく
ただただ淀派の片桐が御家の殆どの事をまとめてるのにムカついた秀頼派の大野が兵隊動かしたんで、仲裁したつもりで片桐追放処分にしたらえらい事なったくらいの認識だったんでしょ >>568
寧ろ、攻城側の方が食料不足に成ってますよ。
あの儘大砲の脅しで和議に成らない場合、長期の攻城戦出来たのかってのがね。
講和の交渉中も大砲の砲撃続けてますが、家康の性格からすると寧ろ焦り感じるけど。
「夜中に鬨の声上げて、城内寝不足にしよう」って寧ろ焦ってる気が >>570
それ大軍勢が集結した直後で、後続の兵糧輸送が届く前の一時的なものだが
まぁ、あれだけ言っても、全く考えが変わらない人にそんなこと言っても無駄か 少しは今進んでる研究読めばいいのに
それすらしないで自分の思うとか信じるしか妄信しないなら、そもそも議論したいんじゃなくて自分の思い込み押し付けたいだけじゃん、迷惑な でも実際、勝つならその時しか無かったよな。
動けなかったのが武運の尽きよ。 >>570
それでしたら、幕府が兵糧輸送に特別な対策建ててた資料ください。
食料不足の話は、ちゃんと資料にもある話ですが。 家康が十万石以上の米を送るよう命令した書状がなかったか?
その後特段問題が起きてないからこれで解決したと見做されるんじゃないか >>575
間違えた正確には
>>571
へのレス
中国の古典に、呉王不差の逸話ありますよね。
華北で諸侯と会盟したとき晋公と牛耳を争い一触即発状態だったと。
其処に国元から急使が来て越軍が呉の都を急襲中だとの知らせ。勿論飛んで帰りたいが
今帰ると晋軍の追撃を受ける可能性がる。
困った呉王は夜中に鬨の声上げさせて晋公を威圧、見事牛耳を取る事に成功。
そして全速力で帰国。
大坂の陣の時の家康ってこの逸話思い出すのよな。家康って若い時から不利な状況で
相手威圧する事してますし 丸島氏の研究読めよ、その兵糧の件においてもしっかり書いてあるから
あとまあ全く関係のない時代も国も関わってる人物も違う逸話を、自分が似てると思うからという理由で出してもなーんの正しさの担保にもならんよ というか、戦国期の再研究が著しい中
それらの研究の潮流を追いもしないで自分の古いままの話を他人に押し付けるの、普通にたち悪いからやめときな
批判するにしろなんにしろ興味があってそこの内容について人と喋りたいならある程度自分で調べておくのが筋だし、調べてないならこういうのがあるよって言われた時点で主張やめて読むなりしなよ この例え話くんは豊臣政権崩壊スレでも皆から史料なり研究なり出すよう散々指摘されてるのに
それ無視してずっと自分の妄想垂れ流すのやめないし荒らしみたいなもんだよ 上遡って見たら似たような全く関係のしない中国王朝から例え話を出してるの奴が
なんの本か忘れたけど豊臣の名前で本領安堵を出したと解説してるのがあるって言い出して、なんの本なのか聞かれてるのにトンズラかましてるのね
まずそれ出すのが先か出せないなら一旦主張引っ込めるなりが先じゃないの?
信用があって初めて話し合いって成り立つけど、最低限の信用を自分で捨ててるじゃん >>578
大昔から人間がやってる事はたいして変わってませんよ。この呉王不差が夜中に鬨の声
あげて威圧した話は、よく孫子の解説書なんかにも出てきます。
家康が長期の攻城戦をやれる状況だったのなら、何故そんな威圧する様な事するの?
交渉中に砲撃続けるとか、夜中に鬨の声上げて城方の睡眠妨げるとかさ。
別に和議が成立せずとも困らないならやらないでしょ。
家康って古典の教養あるからこの話知ってた可能性有りますよ。 >>581
徳川幕府が出す安堵状だけで済むのなら、豊臣家は只の65万石の大名ですよね。
家康が強引に秀頼を殺す必要ないじゃん。
豊臣家が明確に臣従してるなら、改易処分で済むわけで。 >>582
>>583
だーかーら
過去にそういう事がありました、自分はこれが似てる事案だと思います
だから同じこと考えてたに違いない
これが成り立つ訳ないだろ、論理としてすら破綻してるのわからない?
んで、ないんだな?安堵状について書かれた本なんてものは、自分で読んでて著者名すら出ないなんてことある訳ないし
また、秀頼を家康は無理に殺したわけでもない、これも昨今の大坂の陣研究をほんの少しでも齧ってればすぐにわかることでしょ
因果関係が違うものを無理に繋げた所で正しさの証明には決してならない
つまり君はろくに調べもしないで、完全な思い込みだけで他人に絡みまくってる訳だ
調べないならそれでいいけど、ちゃんと調べてる人に絡むべきじゃないし、絡みたいならちゃんと調べて昨今の研究事実を知っておく
なんら実証すらできてないものを他人に押し付けるな、大迷惑 老婆心ながら、相手怒るまでコレやる気ならマジで頭を疑うからちょっとはご自分の性格見直した方がいいよ
論の内容以前の問題だからね、君が今呆れられて顰蹙買ってるの 渡辺大門氏のコラムで
大坂の陣で松平信綱が女中を脱出させたってあるんだが
これの資料ってある?
信綱この頃まだ家光の小姓だよね?
養父の正綱かな >>586
別に無視するのは自由だが、わざわざ書き込む事じゃないですよ。
つまり、わざわざ荒らしだって書くと言う事は実はダメージがあると。 ごく普通に、豊臣家滅亡後に徳川幕府が朱印状大量に出してるでしょ。
もし、幕府が自分の権威のみで朱印状だしてるならこれは矛盾では? >>589
豊臣滅亡後でなく、家康が死んで秀忠の親政下になってから
つまり江戸幕府の慣例になる代替わり知行宛行の始まり >>589
徳川家が朱印状のみで発行するのは大名時代からの名残です、幕府権威の強弱と朱印状に因果関係はありません
そこに因果関係があると言い張るなら、またそれを紐づけしてる研究なりを出してからにしてください
言うだけ言ってをする前にまず立証の責任果たしてからにしなさい
次のコメントで、上で求めた研究の著者名すら出さないなら、あなたは人と関わるだけの品性すらない人間だと判断します あと、実際荒らしておいてNGしなさいって言う人にNGするからには後ろめたい事があるんだ、なんて論理破綻した事言うの自体、おかしな事言ってると自覚してください
いま、あなたは、調べもしないで自分の思い込みを他人に押し売りしてる完全な荒らしの状態です
そうじゃないんだと言い張りたいならまず、読んだと言う本の著者名程度は出すべきだし、なによりあなたは少しは人と研究内容について話す際に何をすべきで何をしてはいけないのか弁えるべきです >>587
あれ江戸城の火事のときの話だと思う
脱出繋がりで何か入れようとして推敲しそこねたんじゃないかな
主題のお菊さんは自己判断でいち早く脱出して常光院一行に合流したから助かったので 渡邊大門氏はもう最近は拙速のコラムばっかで歴史好きな素人でも間違いだとわかるもの出してて研究者としての信用面がなぁ
H郷レベルだなという感じ >>587
明暦の大火の時の江戸城での逸話だね
まあこれも出典が名将言行録なんで信憑性の程はお察し >>594
言っても本郷さんはド本流の研究者
専門外で露出するのがあれだが
そこらの在野と一緒にしては駄目だ >>593-596
ありがと
信綱は江戸城、正綱の話は駿府城だったかw >>590
家康はあの時点では隠居でしょ、徳川幕府が自分の権威のみでだしたのなら
秀忠が将軍就任時点のはずですよね。
豊臣家滅亡後の大量の朱印状の発行は、従来の物が無効に成ったからだと考えるべきでは。
まあ、建前の話ですがね。
従来の物が無効に成ったから新たに公文書出すよって風にしか。 >>598
持ってこいと言われたものをここまで経ってろくに持ってきもしない
貴方は人と話す資格はありませんね、そんな態度取る癖に話しかけるのやめて下さい
あなたの態度も論も、マトモじゃないし誰もそんなことしかできないあなたのことなんか認めませんよ 知識更新する気も事実を追求しようという気もないのだから、二度と歴史の話をしないで欲しい
自分の中だけの最強の歴史観という殻にこもっていたいなら殻に籠もれる場所でやってよ、ここでちゃんと事実追求してる人間に絡もうとしないで
自分が関心を持った研究著者名すらろくに出せないあなたの発言も、指摘を無視して反省すらできない品格も、ろくでもない人間だってご自分で発信し続けてるんですよ >>601
「普通」にすら遥かに劣るから問題なんだぞ てか朱印状ってそんな重要なの?
信長だって朱印状も、黒印状も書いてるやん アンチ徳川の豊臣信者が最後に縋るのがそういう形式主義なんだよ
秀頼に仕えるって誓詞出してるんだから裏切りだ謀反だとか
領知朱印状出せなかったから豊臣の権威の方が上だった、だから豊臣を滅ぼそうとしたんだとかさ
で、同じ誓詞出した毛利や上杉も豊臣を見捨ててるじゃんと言うと
それは徳川の強権に従わざるを得なかったからだ、だから徳川が悪いという論法 まあ、建前の問題で有る事は事実ではあるけどね。
只時系列として、家康は五大老五奉行の合議制を崩し邪魔な他の大老を戦争で滅ぼして
覇権握った。
只建前として、関ヶ原後の処置も秀頼様からの恩賞なんだぞ。朱印状とかも豊臣家の
名義じゃないと変でしょ。
実質は豊臣家の領地山分けでもね、建前はそうなんだから。
で、この豊臣家からの公文書回収して、これからは徳川の朱印状にするってイベントが
何処にあったの。
そんな物は無いので、建前としては大坂の陣前まで豊臣家の朱印状なのでは。 例えば、三国志の曹氏軍閥や孫氏軍閥の幹部は後漢王朝の官位名乗ってました。
勿論実質は曹操からの恩賞ですが、建前としては後漢王朝の皇帝から貰った物。
建前は後漢王朝の丞相で有る曹操が献帝に推挙して貰った官位ですね。
中国だと、官位の象徴は印綬ですがこの印綬は後漢王朝の物だぞ。
勿論いつまでもそのままでは無く、曹否が魏王朝作った時に回収しました。
そして、魏王朝の印綬配った訳です >>605
だからそれらの研究持ってこいって何度言えばわかるの、持ってこれないから無視しまーすって幼稚にも程があろうよ
日本において前政権の朱印状回収しますなんて慣習はない
また、自分で散々大坂の陣段階でも秀忠ではなく隠居した家康の名前を連呼して隠居した人物の影響力の高さ理解してる癖に、それの死亡時にはその影響がないと無視できる訳もないだろ
時代も状況も一切違う例え話持ち出す意味もないぞ
更には一度いまの研究がどう進んでるのか読んでから主張しろとも言ってるでしょ
君の喋りは長いだけでその実何一つも証明の担保になるものもなく、指摘にもろくに答えられてない
逃げるくらいなら主張しようとするな ろくに先達の研究一つも触れないで自分の中だけの妄想を開陳して押し付け続ける、妄想への指摘が自分に都合が悪ければ無視して逃げる
君の態度のどこに、あーこの人の主張は立証もなされてて理路整然としてるし信憑性が高いなーとなる要素がある?
違うと言いたいのなら正面切って、この主張は~~って研究者の主張で論拠としてる史料はこれですなり言いなさいよ、それが出来ないなら素直に勉強不足認めて一度勉強してきなさいよ
自分の言いたいことで他人に絡み続けます、でも他人からの指摘は聞きたくありません、論拠になるものも一切ないけど無視して押し付け続けますなんて勝手が通ると思うなよ 確かに幼稚な例え話を繰り返しているだけの馬鹿だが、ここはこういう人たち向けでしょ。
学術議論がしたいなら研究会でやるべきかもね。 >>609
このレベルを研究会だなんだ言ってるのは意味がわからない
主張するなら根拠出せってのと、その根拠になってる本は何かしか聞いてない
なんなら口を出してきたのは彼の方で、彼がどうやら思い込みだけのデタラメで私が喋ってるものにケチをつけてきたから、それをおかしくないか何が元ネタなのと聞いてるのだが 彼が、僕が勝手にそう思ってるだけで他人の考えに口を出す気はサラサラありませんって態度だったなら、ここまで言ってないよ
明確に自分から絡みに来るので、だったら根拠なんなのか出すか絡むのををやめろって話になってる訳 関ヶ原後に徳川が強制したわけでもないのに諸大名が競って江戸に参勤し屋敷を構えてるのは
関ヶ原の恩賞が実質誰からのものなのか、誰が諸大名の盟主として家と所領を安堵してくれる真の天下人なのか
諸侯が自ずから認識していた、彼ら自身が天下人を選んだということの証じゃないかな
諸侯からしたら何の益にもならぬ建前形式論より己の家と所領を本当に安堵してくれるのは誰なのかを見極めることのほうがずっと重要
それをおかしいというなら「豊臣家」自身が徳川家以上に諸侯から盟主として認められるような実力を持てばいいだけのこと
他家に依存したり寄生したりせずに 確かに、所領安堵状の件は読んだ記憶があるのですがね。
只まあ、こういう建前の話って実の所下克上の世界では余り重視されませんし。
しかし、建前の書き換えって余程の事が無いと「主君弑逆とか」普通なされない物でも
有ります。
太閤没後から大坂の陣での秀頼弑逆まで15年程度しか経過してないのに、諸大名の
朱印状の書き換えとかしてる訳ないと思いますよ。 別に家康が卓越した才能の持ち主で有る事を否定してる訳ではないですよ。
只、以前の関連スレで言うと、「五大老五奉行の合議制の証拠ない」とか言い出すのは
如何だろうかと。
常識的に言うと、合議制じゃないのなら何のために他の大老や奉行が居るんだって
事に成りますからね。
別スレで此処での事書いたらこういう助言が。
「その方の言い分は超時空大権現への信仰告白ですよ、信心だから」とな。 だから読んだ記憶があるはなんの証明にもならんから著者名くらい出せよ、著者名からお前が読んだであろう本をこっちが探すって最大限に譲歩してるんだから
お前が読んだと言い張ってるだけでこちらからは読んだんだろうと判断できる証明が一つもないんだわ
他のことも全てそう、思う思うというだけでまともな論拠にした研究なりを一つたりとて出してこない、それで他者がお前が読んだと思うのならきっと存在するから信用するわになると本気で思ってるのかよ?
朱印に関してもすでに指摘したことに反論できてもない
どうせ合議だなんだの時も同じように遺言のどこに書いてあるのか聞かれて逃げたんでしょ
形式が大事なんだよと言うなら、主張するなら聞かれたらソースも示すっていう当たり前の形式を守れよ >>614
別のスレでもそりゃ今回と同じようにまともな論拠も出してこないで、はずだ〜思う〜を繰り返して指摘されても省みることすらしなければ
証明がなされない限り疑う科学の精神から逸脱して妄信の域だし、そういう風にもバカにされるだろうね
まともな人なら論拠が出せなければ主張を一旦保留にするし、指摘を受けたら反省して調べ直すなりをするものなんですよ
自分で自分の前科ひけらかして何がしたいの?というかそれだけ言われてなおその態度取ってるの?それだけの時間があって自分が興味のある事柄に対してほんの少しも調べようと言う気が起きなかったの?
君がPCだかスマホ使ってるのか知らないけど、それ思い込みを書き込むだけじゃなくて図書館がどこにあるのかとか今研究がどういった潮流なのか、それについて書いた本はどれなのかも調べられる代物だからね? 秀キチくん、関ヶ原スレが過疎ったから今度はここに居ついたのか
キチガイが「常識的に言うと」とか冗談は顔だけにしろっていう >>606
NGじやすいようにコテハン付けてくれない? いわゆる豊臣恩顧の大名が誰一人味方に付かなかった時点で秀頼は悟っとくべきだったんだよな 牢人衆にジャックされてたんじゃないか。
豊内記とかだと牢人衆の言うままだし。 淀派の片桐追い出しの為に大坂城に兵入れてお家騒動に発展させて、幕府が武力介入する必要が生まれたそもそもの発端の人ですやんか、大野治長 伊達政宗の「お袋」への悪口が酷い。
自らの母親に重ね合わせて淀殿に
同情しなかったのか? 1615年、政宗のカーちゃんは、大坂に出陣する政宗に、手作りのカレーライスをふるまいました 女が口を出すと…
ってのよりも指揮系統が混乱するから良くない。現に混乱した訳で。
だから本来、息子が大きくなったなら指揮系統を一本化するべきだったのよ… 昔は母親の言いなりなだけの息子ってイメージだったけど、今だとむしろ茶々はある程度現実が観えていたけど、世間知らずでプライドだけは高い秀頼が主戦派連中や牢人達と暴走して自滅したって話だしな ただ正直牢人衆相手に指揮権発動するって相当難しいと思う
自前の軍隊の数が多く無いと下手すりゃクーデターだろうし というか、そもそも制御できないレベルで浪人を雇い入れしてる時点でなあ
家中で浪人の制御に関して意見したやつはいなかったのか? そんな意見が出るくらいならあんな無様な最期迎えていないだろう 秀頼が何かしら有名な事を決断した事があったのか疑問かな
ほとんど大野や片桐に丸投げしてたんじゃないの?
秀頼は蒲鉾さえ食べられれば文句なさそう 島津の書状にある「逃げざる者無し」とはどういう意味だろう
「逃げなかった者はいない」「逃げた者はいない」どっちだろう? 「逃げなかった者はいない」=みんな逃げた
だからこちらは違うんじゃね? そうなると島津の書状にあった旗本が逃げたという話を入手した後、
徳川家臣と面談した際に逃げた者はいないとの見解を受けていたのか 伊達政宗は有名なよからぬ輩に利用されないよう家康の手元で養育すべき発言といい何故か豊徳関係にかなり気をつかってるのが結構謎
しかも何故か高台院と積極的に文通してるし 秀頼はせめて夏の陣で城内に攻め込まれる前に家来や領民のために恥を忍んで降伏できたのなら未完の大器を感じさせなくもなかったけど、実際は身内と蔵に引きこもって自分たちだけ命乞いをして乱取りされてる民を見捨てていたのでいわゆる戦国時代の大名や領主の中でも最低最悪だった
能力を評価しようにもそれを裏付ける実績が何もない上に人間性も擁護不能のゲロ以下なら一体どこを再評価してやればよいのやら そもそも徳川家康を秀頼を助けようとしたという偽プロパンダのために
秀頼が蔵に隠れたということになっていたらしい
実際は千畳敷で徳川に降伏しょうとしたところ徳川軍がなだれ込んできて
うち時にしたらしいです 織田や徳川と違って豊臣宗家はこれからどれだけ研究が進もうが未来永劫最終的に悪だわ
大坂の陣に限っても大坂方にしか非がないじゃねえか 細川忠興の秀頼評、実際は母親の言うこと全く聞かないからお袋様専制は間違ってるけど、大人のくせに無能非力だから乳飲み子という評価は間違ってない 国松は豊臣家の庶長子に生まれてしまった以上もし仮に万が一豊臣家の天下が続いたとしても史実のほうがよっぽど幸せに思えるような人生が待ってる可能性高そう まあ秀頼なんていう、助ける気ならその厳命が行き届いてるはずの奴をうっかり殺すとかないから最初から殺す気だったのは知れる 2度も公儀に対して兵を挙げたんだからそりゃ生かしとけないでしょ
何度も生き残るチャンスはあったのにことごとく蹴ったのは豊臣の方
大坂の陣当時はもう主従関係ではなくなっているから豊臣はただの反逆者でしかない 徳川との婚姻関係とか少なからずいる恩顧の大名たちとか本来なら天下を失っても豊臣家を残すために大きなプラスになるはずのものだったのに、教育が先代からの甘やかし路線を継がざるを得なかったせいで秀頼が人間社会から隔絶された野生児と同レベルの非常識に育ったから悉くマイナスにしかならなかったのはもう芸術的ですらある 主君じゃないとか
暗君だったとか
未だに律儀とか信じてるのかね
素直に野心の為ですでいいと思うんだけど
何でこう言い訳ばかりなんだろ
未だに小説信じてるのだろうな。じぃさんは 表向きは○○の為と言いつつ野心の為で何もおかしくない時代だしな
バカは表向きの事だけ信じるのかもしれんが
和平交渉してる時は他の事を考えてはいけないんだとか1ビット脳な老人も居るし
大笑い 秀頼より取り柄のない人は日本史で見てもおそらく一人いるかいないかだけど、江戸時代が長らく平和だったのはある意味こいつが日本史上最悪レベルの暗愚だったおかげなんだよな 【水俣病】 被害者が死ぬのを待つ環境省 【銀歯】
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/nanbyou/1575029903/l50
大坂は物資の集積地だから幕府としては直轄化することになり、参加大名に功績があっても土地の配分はもう不可能で、かなりの部分を感状で済ませている。
藤堂や井伊が加増を受けたが、忠昌や忠輝は不満を表明した 大坂の陣に比べると、やる気ゼロの大名を大量に巻き込んで自爆することで
たった一日で日本の半分を配分できるようにした三成は凄いな
あんな奇跡みたいな自爆テロは繰り返せないのだから仕方がない 西軍についた大名矢面に使って功績立ててもこれでチャラなで逃げれば良かったのに
景勝なんて頼んでもいないのに大野軍12000相手に後退せず全力で戦ってくれちゃってしかも追い返しちゃって褒美は感状と絶賛コメントで家臣ともどもよろこんじゃってまー単純なこと
あわよくば当主死んでもらえてラッキー 寝返る可能性を捨てきれんだろ。実際輝元は一族を変名で城の中に送っていたし あれだけ国力差あって寝返る馬鹿なんていない
徳川がどーしょうもないほど無能で悪政しまくって民から恨み買ってたとかならまだしも名君家康いまだに健在
上杉軍のように西軍についた大名は徳川に気に入られてなんとかして取り潰しから逃れようと必死
あと寝返り組を先鋒で使うなんて当たり前のことだぞ
信長公記でも上洛戦で寝返り組の美濃三人衆が先鋒命じられるだろうから頑張ろうとしてたら後方待機命じられて信長様は不思議な方だと書かれてい?
伊達に寝返った猪苗代なんかも奮戦してただろ >>659
どうなんだろうな
あんなの送ってもなんの担保にもならんとおもうが 佐野道可って大坂の陣の20年以上前に毛利家追放されてて毛利家とは無関係
大坂に集まった多数の牢人の中の一人でしかないって説もあるんでしょ? ・片桐且元を西方が殺そうとしたから交渉打ち切りになった説
・片桐且元の裏切り説
どちらかによって評価が変わるわね 片桐且元はやるだけの事はやってそう
どのみち且元に裏切られるようでは秀頼に問題があると思う 要するに豊臣贔屓
信雄を裏切った三家老は正しい
秀頼を裏切った片桐は許せない 秀頼は引き籠りマザコンのイメージで誤魔化されているけど
実際は家臣の忠言に耳を貸さない暴君で、気に入らない人間を石垣から突き落として殺害とか平気でやるからな
片桐も暴君秀頼に精一杯尽くした方だろ 豊臣の外交姿勢に問題あったって話も。
正使が出てるのに女を送ったのが最高に良く無かった。どうあれ悪い結果しか招かん。 真田昌幸が大坂方10万人を率いていたら、徳川幕府軍に屍の山を築かせたのは
想像に難くなく、豊臣家は存続できたと思う。
ここで重要になるのは、真田昌幸に一切横やりを入れず、自由にやらせておくということ。
気候、地形、心理、情報、物、などあらゆる奇策・策略を用いて、圧勝すると思う。
馬上筒、地雷火、投擲弾、簡易型迫撃砲、空中炸裂弾など当時の技術力で作れるであろうから、
これら新兵器も真田昌幸は大胆に駆使して、徳川幕府軍を翻弄すると思う。 大坂の陣で立花宗茂や加藤清正が徳川方について豊臣方の真田昌幸と対決したら
どうなるかも気になるな。個人的には、真田昌幸に勝ってほしい。 まるで立花宗茂が大坂の陣に参陣してないような言い方じゃないか 飛騨守宗茂は御伽衆兼御書院番頭格として徳川方で参戦しておる。 乳子秀頼
片桐且元は無能では無いが力量不足
大野一族は論外
七手組は小物、裏切り者揃い
信雄、有楽斎は空気
木村重成は小僧
このラインナップで勝負するとか罰ゲームやろ 真田信繁は馬上筒、地雷火、投擲弾、簡易型迫撃砲、空中炸裂弾、
といった新兵器を開発できる才能がありそうだから、豊臣家からの援助で
ぜひ開発・生産してほしかった。 真田信繁って他の戦国武将とは一味違う魅力を感じるんですよね。
もちろん、徳川家康を追い詰めたっていうのはあるんですけど、
兵器開発でも優秀な気がします。 第一次世界大戦では、毒ガスが使用されたけど、大坂の陣当時は毒による暗殺も
近づいて、やろうと思えばできた。有名なのが徳川家康による加藤清正暗殺じゃないかな。もちろん、これは真相ははっきりしてないみたいだけど。
ただ、当時使われていた毒を毒ガスのように生成させることに成功すれば、
普通に使われていたと思う。
真田信繁は天才だから、何年かかけて開発できそうな気がする。 大坂の陣だと大坂城に徳川のスパイが紛れ込んでるのがなぁ
雇い者を大量に入れたらそうなるよ 大坂の陣当時に手動式のガトリンクガンがあれば良かったなと思う。
真田信繁にぜひとも有効活用してほしかった。 大坂の陣当時に原爆があれば良かったなと思う。
真田信繁にぜひとも有効活用してほしかった。 弩が復活したりしなかったのかな
火薬や鉛の節用になり矢の再利用も可
防衛側が使えば城壁の上から堀下に逃げた敵を狙えるし
練度も要らず最大の弱点である速射性もあまり問題にならない 明日の夜7時から大坂夏の陣で家康は幸村に撃たれて
死んでいたというのがテレビでやるよ 徳川家康が真田信繁に討たれていたとしても、普通に隠蔽されるよね。 真田信繁に突撃されて本陣から駕籠にのって逃げた家康であったが
前日に討ち死にした後藤又兵衛に討ち取られてしまうのであった 大坂冬の陣が始まる前に東へ向けて進軍していればどうなっていたか?
ここはひとつ、真田信繁に大坂方10万人の指揮権を授けて思いっきり暴れさせてやりたかったものだな。 なんで秀頼みたいな引き籠りデブのためにそんなことをするんだよ
これまでにも関白殺害を誘発したり奉行に大乱を起こさせたり
引き籠りデブのくせに日本中に迷惑をばらまいてきたんだから
せめてデブが死ぬ時くらい大坂の外に迷惑をかけるなよ >>687
包囲殲滅されて終了
はい次の真田ガイジ 真田に本陣を蹂躙された時も糞を漏らしたんだろうか? 気に入らない侍女を鞭打ち刑
邪魔な関白を妻子もろとも殺害
代わりに来た筆頭大老も気に入らないので軍を使って殺害を計画
大坂を出るのが嫌だからと浪人を集めて暴動
秀頼は周囲の忖度を含めると日本史上最悪レベルの暴君だろ
しかも本人は単なる無能ニートというのがさらに悪質と言える
秀頼なんて最初から生まれなければよかったのだけど
生まれたにしてももっと早く死んでほしかった 昨日のテレビ、信繁を一切使わず幸村で終始してたね(笑) テレビは見てないがあえて名前を幸村で通すのはそういうスタンスなんでしょ テレビによれば、徳川家康は後藤又兵衛に討ち取られたみたいだけど、
それはもっと有名になってもいいのではないかな。 アンチ秀頼の意見も分からないわけじゃないが。
秀次事件は秀頼自身の意志は関係ないだろ。ほかも二次史料依拠のネタを本気にしてもなあ。
今川家裏切り、一向宗弾圧、嫡男殺し、正室殺し、豊臣家根絶やしと家康もかなりエグいことはしてる。それでも家康が名将中の名将であることには変わりない。
秀頼レベルで史上最高レベルの暴君というのは違和感あるな。 ていうか、アンチ秀頼ではなくて、家康盲信派なのか?
史上最高レベルの暴君だから、死の床にあった旧主から頼む頼むと懇願されていた息子を殺してしまっても、孫を磔にしても仕方ないだろ、ということにしたいのかな。
単に家康も聖人君子ではなく、覇権のためには手段を選ばない権力者の一人だったというだけで、結果的に江戸時代の安定を導いたのだから、それでOKだった、でいいと思うけどな、 国松は磔じゃないな。
市中引き回しの上、斬首だったわ。すまん。 槇島昭光ってなんで負けたのに家康に許されて細川家に仕えられたんだろ? 秀頼本人は無能な引き籠りニートデブでしかないけど
そこに痴呆症になった親父、ヒステリーな母親、三成みたいな奸臣などが組み合わさって
生まれてきてはいけない放射性廃棄物レベルの迷惑なゴミが出来上がった
秀頼が大坂の陣まで生きていたこと自体が許されない犯罪だろう 不思議なのは、秀頼の首級が大坂の陣直後に発見されなかったことなんだよな。
資料を見ると、既に戦闘は終わってるし、井伊勢に囲まれてるし。 >>695
家康みたいに自分の意思で最善な手段と信じて実行したうえで成功したなら問題ないけど
秀頼の場合、本人はろくに意思のない脂肪の塊でしかないのに
周囲が脂肪の塊を忖度して勝手に虐殺や武装蜂起を繰り返して自滅していくからな
正直言って秀頼本人は有能か無能かのスタートラインにすら立っていない置物
周囲の忖度も含めるなら日本史上でもトップに君臨するほど迷惑な置物だけど まあ、情勢変化は本人のせいにはできないよ。長州征伐失敗は家茂のせいか、戊辰戦争は慶喜のせいかと考えれば、それぞれの責任はあるだろうが、個人で全てが変えられるわけじゃない。 個人ができることと言えばいかに情勢を見極めて身を処すかだが秀頼にはそれができなかった 徳川家にとってベストシナリオだったのかどうかといえば、大坂の陣は微妙だよな。
将軍職と関白職の流れを見れば、関ヶ原後、政権を豊臣に渡す気はなかったのは明白。 でも、関ヶ原後、15年経ってから滅ぼそうとは思ってなかったんじゃないか。
家康が先に死んでしまう可能性がある。
豊臣家をコントロール下に置きたかったなら、なぜ関ヶ原前に確保していた大坂城西の丸から出てしまったのか。 前田家に本多を置いたように、大坂城西の丸に譜代や久松松平とか置いておけば、もっとうまく豊臣家をコントロールできたのに。 アンチ秀頼の味方をするわけじゃないけど、秀頼側は外交努力が乏しすぎたよな。
自ら江戸屋敷をつくって豊臣家の威勢を見せつけるくらいで良かったのに。 江戸にいる大名たちのサロンに入っていかない時点で、いざという時の後詰めとか期待できない。
秀吉は敵勢力のたらし込みがうまかったのに。 片桐且元が「豊臣は江戸の普請を免除されました。一見豊臣を立てているように見えてその裏には大きな意味がある」って言ったらしいけど(慶元記)
徳川から意図的な仲間はずれ食らってたのか、豊臣を立てた結果そして豊臣が受身になった結果全てを失ったのか まあ、そこらへん徳川も陰湿ではあるよな。
もしかしたら豊臣の暴発は徳川の目論み通りだったのかもしれないが、だとしたら危険すぎる統治。
双方に犠牲も出たし、家康、秀忠が豊臣暴発より先に死んでたら動乱の時代に逆戻りしていたかもしれん。 俺らは結果を知ってるから、歴史はその通りに進んだに違いないと思いがちなバイアスかかりやすいけど、よーく調べてみると、結構危ない橋を渡ってたりするよな。 慶元記による片桐且元の指摘(全十一条)だと
1 秀忠の将軍宣下の時大坂に知らせが無かった
2 大坂にいる大小名に江戸参勤の命令が無かった
3 外国の大使が大坂に来ない
4 秀頼と千姫が不仲だと知っているのに関東から旗本一人が上ってくるだけ。
とか言われてるけど徳川の戦略なのか豊臣の失敗なのかが微妙にわからんのう 徳川の戦略だったという印象は強いけど、だからといって豊臣の失敗がなかったわけではないんだよなあ。
片桐はともかくとして、板倉や井伊とは親密な関係を築いておくべきだった。
トラブった時に弁護してくれる人物がいるかいないかで、随分違う。
自分たちは主筋という建前があるのなら、それこそ自分たちを凌駕する実力を持つ家来との関係には意をそそぐべきで、足利将軍家の事例を知らなかったわけじゃないだろうしね。 豊臣家の舐めた態度を止めれる人物が誰もいない時点で終わりやろ
加藤清正、浅野幸長、前田利長が生きていれば豊臣の挙兵は停めれたかもしれん
残ってるのが正則じゃな >>714
足利将軍家以前に父親である秀吉の事績を知らないわけがないだろうに
信雄とか長益とか織田家の人間が身近にいることに何も思わないんだから 別に現代社会での社長の息子でも相関関係がわからない、興味もないという人も多いから秀頼みたいな箱入り息子だとまともに育ってない気がする
学校すら行ってない訳だし 秀吉はその辺の社長と一緒にできるようなクラスではないし
秀頼のように早くに父親を亡くしてその生涯に興味を持たなかったら
周囲の人間も含めて人としてどうかしてる
当時は学校とかないからこそ武功話とかを先達に聞いて学習する時代で
主に貴族的な教養らしいが秀頼が教育を受けたという話は残ってるわけだし
大体父親の事績に関心がなければ徳川家に対して主筋だなんだという話にはならないだろう 利家死後、関ヶ原後は、徳川方の人間を教育係にすれば良かったのにな。
家康の異父弟とか、酒井、大久保、鳥居…。候補はいるんだから。
それだけで徳川に対する敵対意識は減殺し、暴発を防げた可能性もある。 豊臣家の孤立からの暴発を狙っていたとしたら、15年は長すぎる。
家康はもちろん、秀忠だって先に死んでたかもしれん。
家康が死ぬ直前に暴発してくれたのは、徳川にとってラッキーだったにすぎない。信玄みたいに戦場で倒れることもあんるだから。 家康は関ヶ原後豊臣を見捨てていくけどこれもどうとでも言えるから正解はわからんと思う。秀頼の養育係を決めるのは豊臣の仕事で徳川の仕事じゃないとか 片桐は武将としてはそれなりだけど、そんなに大物じゃないからなあ。
徳川と豊臣の取次役としても荷が重すぎる。 たとえ物凄く且元が有能だとしてもそれなりの地位と権限を与えないと無理 方広寺の件も片桐兄弟は殆ど触れなかったらしい
なのに尻拭きさせられる悲哀… そもそも縁故採用の大野一族が幅きかせてるのがもっとやばいでしょ コネが幅利かせるのは仕方ない。他に人材居ないのが悪い 松平定勝あたりを大坂城西ノ丸に入れとけば、いろいろうまくいったかもな。
秀頼の牙を抜いて、適当な頃合いで屋根の修理かなんかを理由に転封してもいい。
徳川の娘以外の正室を許さず、豊臣家は家康の子孫が継ぐ。絶えたら徳川家から養子。 状況としては圧倒的に有利なのに、大坂の陣は小田原の戦いに比べて攻撃側の犠牲が大きすぎる。
2段階に分けたのも一般には評価されることが多いが、本当は愚策だったんじゃないか。 氏政には切腹を受け入れる良識はあるが
淀・秀頼なんて自軍の犠牲がどうなろうが切腹する気なんて一切ないのだから比較にならないだろ
2段階に分けたのも砲弾が本丸に届いたことで淀・秀頼が怖くなったから一時的に講和になっただけで
豊臣が戦うかどうかなんて淀・秀頼の気分次第で決まるからな そりゃ裸の城にされたから
もうアカンとどんどん逃亡したから 冬の陣で勝てないと分かった離職組と豊臣が徳川と和睦したときの条件で牢人衆を解雇するって事になっていたのでクビにされた整理解雇組。あと最大閥の織田が抜けたからそれについていった連中、徳川から送り込まれたスパイが離脱。こんなところだろう。 ところが家康は外堀の一部を埋めるだけと約束したにも関わらず
内堀も全部埋めたから牢人共を解雇する必然性が無くなったんだよね 豊臣の同意無し説は否定されてなかった?豊臣が抗議した史料が全く無いから。元々全て埋めるのが和睦の条件だったからやっただけっていう。堀埋めるのは戦意無きを証明するものだから妥当ではある。なのに戦争吹っかけたのはアホの極みだけど。 >>736
NHKで特番があったのよね
オネエキャラの城郭研究家も出演していた
豊臣方は自ら内堀も埋めて浪人を自発的に退去させようとした 浪人が出ていかないなら豊臣秀頼が城から逃げ出せばよかったのだが、不可能だったのだろう 本当に浪人を排除したかったんなら、徳川方に要請すれば良かったと思うがなあ。堀の埋め立てをやってくれたんだから。
豊臣と真田、毛利ら浪人衆との関係は、そう単純ではなかったんじゃないかなあ。 言ってみれば秀頼はトラブルの元凶なのに
徳川家から何かを引き出そうと条件闘争したのがまずかった
ならいっそのことお前ごと葬ってくれようとなるわな 豊鑑だったかな。牢人衆の為の恩賞を徳川に頼んだら「牢人衆をクビにしないとかまだ戦うつもりなのか」って黙殺されて夏の陣になったとか。片桐兄弟が居ないから交渉も出来なくなってたんだろうか。 大坂の陣に参加した浪人の罪は不問にするけど
彼らに対する処遇を含めた責任は豊臣家でとってねというのが
講和の落としどころなのに幕府に負担を求めているわけだからね 浪人衆は戦力というだけではなく市中で暴行や略奪をすることが問題だった
初期の新撰組もそうよね 冬の陣で傾いた天守閣を秀頼が夏の陣までに作り直していたというのは真実ですか? ソースがわからんけどあってもおかしくはない…のかな 豊臣家は!牢人衆を養うために、戦をしているのでは無いっ! 根本的なことを言えば制御不能なレベルで浪人を雇い入れる時点でもう間違ってる
統制不可能な不穏分子の大軍なんてどうするつもりだったんだ
軍の指揮権を正規雇用ですらない一時雇いなんぞに渡せる訳ないんだから
軍勢をまともに出撃させることすら不可能だし、籠城するなら必要以上の人数など
物資の無用な消耗を強いるから邪魔なだけ、本当に何を考えていたんだか >747
有力家臣でもある片桐追放して浪人雇いまくったらバランス取れないんだよね
親族枠の織田も心中するつもりまではないし 古今東西、自分達を守る為に外部勢力を招き入れ瓦解していくのは定番やからな 片桐追放して家康の勧告はねつけて浪人雇い入れて決戦
それはそれでありだと思うが最期蔵に追い詰められた時助命嘆願の使者を出したのは情けなさすぎる
秀頼可愛さか自分の命惜しさか知らんが 片方の総大将たる秀頼がどんな戦略を持っていたのかとか何を考えていたのかとかどんな行動をしていたのかってのが不思議なくらい語られない
幼少ならともかく20歳超えてこれだけの大戦でここまで空気の総大将も珍しい 一挙手一投足淀の言いなりなら秀頼の意思なんて誰にも分からん
秀頼自身もわかってなかったろう 秀頼淀のロボット説ってどの辺からきてんだろね?
司馬遼太郎の「城塞」が有名だけど 秀頼の文書とか集めて調べたら人となりがわかるだろ
秀頼のはないの? 豊鑑だと淀君どころか牢人衆すら指揮できて無い描写がされてたが… 秀頼も若年ととは言え当時であれば元服もとうに終えた一介の武将
その秀頼の文書が一通も残っていないと あるにはあるけど人柄が伺い知れるようなもんじゃないな
一番有名なのは家康宛の自筆書状で家康から贈られた鷹の礼状でめっちゃ達筆
あと高台院宛の自筆書状で寒中見舞い状があるな
他には秀頼の黒印で発給してる知行宛行状が数通ある イギリスからカルバリン砲4門、セーカー砲1門が陸上げした瞬間
真田忍者達が奪う >>761
暗殺を試みるが半蔵に阻止される
だがこれは家康警護に目を向けさせる為の作戦
才蔵とサスケはイギリス製大砲を大阪城に持ち帰った 持ち帰ってどうする
そいつらの装填速度は?
流弾じゃないんだから大軍相手には嫌がらせにしかならんぞ 大正の円本の真田幸村は榴弾砲も戦車も装甲車も地雷も機雷も使うんだぜ 秀頼の人間性は夏の陣の終局で大坂の民を見殺しにして蔵に閉じこもって自分だけ助かろうとしたところに全てが現れてるから、やっぱり豊臣宗家の血筋は世のため人のためには根絶やしにされても仕方のない卑しく浅ましい邪悪の血統だわ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 方法は淀君が駿府翁の指示に従い、江戸下向、大坂を退去し、大和広隆寺に違法 米蔵に閉じこもって秀頼と淀殿の助命嘆願は情けない
どうする家康では描かなかったな 大坂冬の陣のあと、家康の提示に従い、大坂を明け渡し、大和西大寺、又は、伊勢朝熊山に異邦を受け付けるべきでした。また、淀君は駿府で人質を受け、秀頼は江戸に産近甲龍を 家康のこと何も分かってないな
生かしておくわけないだろ >>773
そりゃ秀頼みたいにまともな領国経営もできない無能なくせして二度も天下を乱す大乱を起こした挙句家臣や領民を見殺しにして自分だけ助かろうとするクズなんて生かしておく価値無いからな 心情的に豊臣方の勝利の目を幾分かは見立ててあげたい処だが、戦略戦術よりもまず兵站ですよ。
開戦前に確保に走っただけあって米だけは向こう1年弱は持つ計算があったけど矢弾の供給源が存在しない。
どこも売ってくれないから。矢を竹から切り出すのだって限界がある。
馬の飼料だって足りてたんだか足りてなかったんだか。
冬の寒さに城内で燃やせるものを壊して燃やしていたのも兵の戦意低下の一因となっている。
兵站面の不安を解消してはじめて勝つ為の戦略を定める処に前進できる。 >>776
その辺を問題にするのなら大量に浪人を雇い入れる時点でもう間違っているとしか…
必要以上の人数を城に入れたところで物資の無用な消耗を強いるから邪魔なだけだし
勝手なイメージだが飲み食いも派手にやりそうだ、腹が減っては戦が出来ぬというからな
運用も難しい、拠点の一部の防衛担当程度ならともかく出撃させるには信用がなさすぎる
夏の陣においてさえ、連携に失敗してるという話があるから戦術的にもあまり期待できないし >>777
■兵の質
関ヶ原改易家浪人から何から、日ノ本の中でもはや摂河泉しか潜む場所が無かったっていうね。もう14年も経ってるし。
島津でさえ大坂までは行かないという精神的で消極的な支援しか出来なかった。
■出撃策
初手から籠城した先に何があるのかというと、大御所が運悪く寿命で落命するかもしれない位で他に無いんだよね。
大御所あるいは将軍の首級ひとつのみ狙う出撃策はデメリットよりも可能姓の方が見込まれますかね。
朝廷公家などへの対外的な宣伝の意味でも。 本多忠勝も「平家物語を読んでみなさい。そこに諸国からかき集めた兵は簡単に逃げるとある」って牢人衆を雇う危険性を教えてたりするしそうした逸話は山ほどある。それでもやらないといけなくなるのが追い詰められた証か 本当に欲しかったのは西国の有力大名だろうけどどの大名も無視またはお祈り書状または八丈島から泳いでこなかったしね。 秀吉の威光なんかほんと大したことねーな
存命時も諸大名はボケた下賎の猿はやくしね、くらいにしか思ってなかっただろう
小牧長久手の時点ですでに
家康>秀吉の印象は全国に知れ渡っていたのでありましたw 御恩と奉公は一代限り、なので代替わりしたら新しく御恩を提示して人望を集めないといけない
一代で成り上がった豊臣にはそれしかなかったけど60万石では幕府には勝てない 関ヶ原敗戦直後であれば毛利は戦意は無いけど大坂城で大軍と健在、立花は戦意旺盛で軍勢もある、上杉だって気が変わる可能姓もある。
それから年月が経過して家康は将軍になり後継の秀忠に譲って日ノ本への支配体制が摂河泉を除いて盤石に。色々と無理よね。 天皇践祚の上洛を機会に、胸襟を開いて、歓談したいとの、御下知である。 小牧長久手の時点ですでに
家康>秀吉の印象は全国に知れ渡っていたのでありましたw
>秀吉に人質取られ、小牧で味方勢力だった長宗我部、雑賀、佐々を見殺し
小牧後こんなに無様で何言ってんだw 家康なんて三河の一向一揆や今川氏直の頃から約束なんて守ったことないのにな
こんなクズを信用する大阪方…… だが家康が明確に秀頼を殺そうとした同時代の史料って残ってないんよ。むしろ家名存続の為の逃げ道を提供している。
逆に秀忠が許さなかったし意を汲んだつもりの井伊隊が山里曲輪の隅矢倉を取り囲んで「○ね!○ね!」と
ドッカンドッカン撃ち放って自刃の圧をかけたので詮無しとみんな自刃して放火して滅亡したのが真相。
家康は自分の目が黒い内に豊臣家に滅んで欲しかった「のかもしれない」。だがそれを示す史料は無い。 家康は約束は守ったからな
その後豊臣が牢人衆から恩賞せびられて破産しても徳川の知ったことじゃないし 会いたければ、家康が大坂に出向くがよい。わが叔父、信長公に散々世話になった、三河の田舎大名めが!無礼であろう! >>789
朝廷の官位とか位階で考えると家康の方が立場上のはずだが、しかもそうしたのは秀吉だぞ
そこら辺に文句つけたいなら秀吉に言えばいい、大体関白にもなれなかった奴が何言ってんだ 冬の陣で荒れた大坂城を復興して戻す、復興相には松平下総守忠明を充てる。だから、秀頼は数年、大和か伊勢に移転せよとあれだけ駿府翁は言ったのに、秀頼は言うことを聞かなかったのである。 清洲同盟が真っ先に出てくるじゃろ。先入観や決めつけから一旦離れて自分の見解に疑問を挟む処からしなよ。 豊臣の命令で嫌々娘を秀次の側室に出したら連座で殺される
豊臣の命令で朝鮮出兵したら恩賞を貰うどころか讒言されて処罰を受ける
豊臣の命令で上杉征伐に出たら内府違いの条々で糾弾される
豊臣家ってのは約束を破るどころか命令に従った相手に嫌がらせするのが趣味なのか?
で、お次は
秀頼「豊臣の命令だ。諸大名は豊臣に従い徳川幕府を討て。従わない奴らは太閤殿下の恩を忘れた不忠者だ、裏切り者だ」
ってか?
誰が従うんだよ馬鹿馬鹿しい
実際滅んで当然の糞一族と思われてるから大名は誰も味方に付かず除名嘆願もしなかったんだろう 家康と秀吉じゃ現代人と原始人くらい知能の差があった
律儀者と死ぬまで信じ込む馬鹿が秀吉
チョロ過ぎ 少しでもまともな知能があれば律儀者なんて思わないよな
家康なんか 「思わないよな」じゃなくて同時代の資料ベースでそれを示さないと歴史に相対する正しい姿勢とはいえない。
不明瞭な処に無理して結論を急ぐ事はないですよ。それは歴史研究者が一番禁忌にしているやつ。 まあ、秀吉の隣にいたら誰でも律儀者に見えるだろうな
気分次第で人を嬲り殺すエテ公を「明るく陽気な人たらし」だなんて思い込む知能の低い人以外には 大坂の陣は豊臣家が間違った外交を続けた結果なので家康云々はどうでもいいレベル
家康から任命された執事でれっきとした大名を殺そうとしたらどうなるかわかってたろ ならぬ。家来の呼び出しに、何ゆえ主人が出向かねばならぬのじゃ。考えても見よ、家康は、亡き太閤殿下に、大老にまで取り立てていただいた御恩も忘れ、亡き太閤のおん血筋、秀頼公を二条城にまで呼びつけるとは、言語道断 大坂60万石で子飼いの兵力が1万5千
浪人が10万も押し寄せてきちゃうと思わなかったんじゃないの
せいぜい5千くらいだと思って呼んでみたら想像以上に膨れ上がって
収拾つかなくなったとか >>801
子飼いの兵って七手組よね?。実戦経験がまるでないし始めから徳川に内通する気満々の将も居たね。
日ノ本全国もう潜む処は摂河泉しかなかった訳で10万でよく済んだものよ。 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 この板どんな過疎スレでも家康批判したとたん何処からともなく家康厨が湧いてきて擁護しだすの最高にキモい
あの徳川の子孫とやらにバイト代貰って監視してるのか? そうなんです。俺のスパイクも、お袋が得川のパートで働いて買ってくれたもんなんです >>805
何言ってんの?。一次史料にもあたらず夢みたいな事を書き連ねるんだったらそこに徳川推しだの豊臣推しだのの区別はないよ。
比率で滅んだ方に夢見がちなのが多いから目立ってるだけ。 >>805
キモいのは感情論でしか物を見れないお前だよw
誰を批判したとか擁護したとかどうでもいいわ
異論があるなら史料を根拠に反論すればいいんだろうけど、この手のアホは
史料なんて当然見たこともないだろうし小説とか漫画が関の山ってとこかな 散々、徳川史観で歴史や思想、生活様式まで長年統制し歪めた側が同時代とか一次史料とか最高に笑わせてくれるw
流石は歴史学者さんの言うことは違うねw
まあ令和の時代になってもその呪縛に捕らわれてる知能の低い馬鹿がいるんだから素直に凄いわ >>810
ほんとに何言ってんの?本気?
「徳川史観で書かれた史料」が一次史料や同時代史料と呼ばれる訳ねーだろ・・・。
徳川史観と呼ばれる時点で「同時代の一次史料、例えば書状、第三者の日記、感状などの古文書」ですらないんだよ。
判り易い例でいうと『甲陽軍艦』は一次史料じゃないんですよ
生まれてから一度も「一次史料」「同時代史料」で用語の意味を調べた事すらないのが丸判り。
笑わないから今まで何の媒体で歴史に触れてきたのか書いてみ? 豊臣は徳川が鐘銘に難をつけてると思ってたかもしれないけど徳川が問題視してたのは豊臣が牢人衆集めてた事で次元が違う。豊臣は政治・外交を見る力が弱過ぎた >>810
境界知能くんは一次史料に触れたことないんだな
徳川史観とやらで書かれた一次史料って何?あるなら見せてよw >>813
境界知能くんの言う一次史料って
<徳川史観で書かれた一次史料>
山岡荘八著「徳川家康」
NHK「葵 徳川三代」
NHK「どうする家康」
他「水戸黄門」「暴れん坊将軍」等
<歴史の真実が書かれた一次史料>
司馬遼太郎作品全般
隆慶一郎著「影武者徳川家康」
NHK「秀吉」
NHK「真田丸」
他「花の慶次」「戦国無双」等
こんな感じかなw まてまて多分武将の能力基準はコーエーのぶやぼシリーズ準拠も入れてやらんと じゃあ当時の豊臣がなすべきだった正しい外交ってどんなの? ふつうに方広寺建てて
ふつうに右大臣やって
千姫とぱこぱこやって跡継ぎ作ってればよかった
なんで家康健在なのに大坂側から喧嘩うってんの?
バカなの? 死ぬの? >>817 単発IDくんは何か読んできたの?タイトルを教えてよ。
歴史を振り返って「正しい」だの「正解」だのは主観でしかないと思うけどね。
最大公約数で平たく言えば「片桐且元の持ち帰った条件のいずれかを飲んで徳川の覇権を認めて一大名として存続する」が
お家が生き残るにはベターな手だとは思うよ。滅ばされる口実を与えない事。関ヶ原から14年も経って誰も味方してくれなくなってる。 >>814
1次史料で出してきたのが現代の小説やドラマって……
こんな相手にレスしてたのが恥ずかしくなるくらいのド低能ぶりだな
信長公記とかにしても筆者の当時の主従関係やら何やらで必ず何かしらのバイアスがかかるということも理解出来ないんだろうな
頼むから俺にこれ以上レスするなよ
議論するレベルですらないから 片桐且元が徳川家に出した十一箇条の要請書の中に「我々は家康さまから執事をするよう言われてましたが全く役割を果たせてません、方広寺でも我々が関われず仕事になりません」と書いたというから既に豊臣家全体が危険な状態だったっぽいんだよな 真田という浪人が隊士を集め赤備えの甲冑まで揃えたことが信じがたい >>822
長野の個人宅で見つかった鉄製の部分に赤味が鮮明に遺る甲冑
(昭和9年の箱書きには「海野小太郎ご誕生の祝いの品として、京都から下賜(かし)され(た)」との記述がある。)だけど、
「降幡学芸員は「真田信之(信幸)が家臣に赤い甲冑を薦めた古文書が残るほか、
弟の信繁が赤備えを旗印にしたのも赤の派手さが勇猛さを演出することを理解していたからではないか。
真田家に伝わる赤備えは、血筋の正当性の証にもなっている」と話す。」と。
「大坂夏の陣で、徳川軍との激戦の末に散った信繁らが身につけていた赤備えは見つかっていない。」が
「見された赤い甲冑はそのルーツとして学術的な史料価値が高い。」と。
大河ドラマにも登場 「真田の赤備え」は幻ではなかった 赤い甲冑を発見 長野の個人宅で保管 真田宝物館で公開中
https://www.sankei.com/article/20170315-SOS2VJULBVLCPDUKNUXKKTAKDE/2/
数千人分の甲冑を赤く染めるのは無理にしても旗は赤く、主要な武者の甲冑は赤くは出来た可能姓もあるかもね。 この時代の浪人ってある程度の手勢を持っている場合もあるって聞いたことがあるな
浪人衆でも上位組はそういう奴らだった、らしい
本当かどうかは知らん >>824 大坂籠城衆の主立った将でいえばこんな感じ。実戦経験を積んでいたりある程度の指揮を任せられる「手勢」が居たかどうか怪しいよ。
・真田信繁:130人~300人の幅(家族や百姓を含む) ※Wikipedia
・後藤又兵衛:情報に到れず。乞食生活も経ていたので寄り添った家臣が居たかどうかすら怪しいレベル。
・長宗我部盛親:従者6人 ※Wikipedia
・毛利勝永:小舟で土佐を離れたので恐らく嫡男と次男と3人で。 ※『真田より活躍した男 毛利勝永』 / 今福匡
・明石全登:4,000? ※大西泰正氏「明石掃部の研究」には、「大坂御陣山口休庵咄」の中の、掃部が「四千の人数を率いて入城し、のちに素性不明の者を抱えた」という記述が取り上げられ(史料として一部が抜粋されています)、素性不明の者について、「それが或いはキリシタンかという想像もできなくはない」と書かれています。
※『大坂御陣山口休庵咄』は1639年~1727年にかけて発表されたもので同時代史料ではない。行き場を失ったキリシタンを引き連れたという解釈が自然。
主立った籠城諸将は大坂城に入城してからより格下の浪人衆を改めて麾下の将兵としてあてがわれたと考える方が自然だと思いますよ。 豊臣家は政権から転落してキリシタン弾圧の権限を失ったわけだが、キリシタン容認に変更したわけでもない。なのに明石全登が大坂方に与した理由がよく分からない。秀吉在世中は散々弾圧していたのに どのみちキリシタンが日本で生きてくには豊臣に味方するしかなかったんだろ
何もしないのはノーチャンス 現在進行形で禁止してる政権は徳川だし>>826によれば明石は手勢を率いてたようだから
戦力欲しい豊臣が勝った暁には信仰認めるとか何とか調子いいこと言ったんだろう
明石は豊臣だろうが徳川だろうがどうでもよくて信仰認めてくれさえすればよかっただけ >>830
同意だけど「手勢」じゃなくて「信徒」だと思うよ、老若男女込みね。明石ジュスト殿が我々を導いてくださるといった体でついてった辺りかと。
関ヶ原の後は黒田如水の弟でキリシタンの黒田直之にかくまわれていた時期もあったららしい。 他の大坂牢人五人衆と比べて目立った戦働きがないのは主体が実戦経験豊富な牢人ではなくて単なる信徒だったせいだろうか?
空振りに終わった夏の陣での精鋭300人がほんとの実戦力だったのかも 明石掃部は逃げ延びて仙台藩が匿ったとか、彦根藩兵に討ち取られたとか、諸説有ってまるでハッキリしない。困ったもんだ。 (慶長20年)6月7日付松井興長他宛細川忠興書状
「明石掃部于今行衛不知候、大略長崎へ可下かとの各推量ニ候、
自然其元舟付ニかゝり候事も可在之候間、急度可相改事肝要候」
戦後すぐの頃は明石は長崎へ下ったとの噂があったようで、忠興は船改めをするよう家臣たちに命じてるな 京都所司代板倉勝重の息子を豊臣家附家老として迎え、家政をすべて見て貰う。
豊国大明神の神号廃止を朝廷に頼み、摂家待遇を返上する。
また、淀君は江戸で人質として過ごし、
お拾は駿府にて養育を受ける
養育掛は本多出雲守忠朝、青山因幡守秘成、
松平下総守忠明が受け持つ。
このようにへりくだれば、徳川家も軟化し、ウフ様が死ぬこともなかったと存じます 喜連川足利家みたいに格式だけ上位で小藩として存続するなら生き延びる道もあったと思うけど、
摂津河内和泉六十万石と大坂城をどうするかという問題が。
大和転封という話があったけど、大和一国で四十万石くらいだから、大坂を離れることも含めて大減封になってしまう。
やっぱり穏便に徳川幕府体制に組み込まれていくのは難しいな となると完全に公家化ルートなんだが、これは五摂家が許さない。
折角秀吉逝去でほぼ回収出来た筈の摂関職をまた豊臣に掠め盗られる事態は何としても避けたい。
そして徳川も朝廷の統轄を五摂家に任せる方が楽だし後の公家諸法度の理念と朝廷・公家の統轄の実際は正にその路線。
摂家であるのはダメ、徳川が清華成だから同格は徳川的に嫌がるだろうが他にも清華成の武家は居るから多分通る
公家化ルートで収まろうとすると豊臣は所領の九割近くと居城の喪失と摂家から清華に落としてやっとでなかろうか。
一公家で数十万石クラスの所領の保有は江戸初期の公家徳川双方からして脅威でしかない。 >>838
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1601/18-2-3/1/0077?m=all&s=0077
近衛さんが徳川に怒ってますが
上記を読んで感想お願いしますね 淀、秀頼が大和で我慢できていれば姻族だしそのまま行けたんじゃないのかな
初期に紀州家と結びついたらどう転ぶかはわからんけど >>839
そういや豊臣はそもそも近衛の猶子として関白職に就いたから
近衛としては歴とした身内のままなんだよな、豊臣氏と賜姓され別家となっても
豊臣からも近衛からも最後まで絶縁してないので変わらず身内の家。
猶子は本家の家督相続なんかは基本無いが絶縁するまで完全に身内や親族扱いとする慣行だから。
近衛家的には身内の豊臣が摂家として尊重され続けるのは当然で、その身内を(理由はどうあれ)
攻撃した清華で武家の徳川は格上の自家を攻撃してきたも同然。
近衛家としては無礼かつ身内への攻撃で怒るのは至って自然だろうと思う。
ただ近衛はともかく他の四摂家の意向としてはどうかだし、また当時の政治力学的に
近衛が豊臣を全力カバーするのは当然無理な相談な訳で。結局怒りの声を挙げる程度しか出来なかったかと。
もっとも近衛を始めとする朝廷公家全体が大領を持つ武家としての豊臣を公家に取り込み
徳川ら武家に対抗していこうという意図が実はあったのなら話は別。
でも豊臣だけで徳川など武家を相手に回わすのなんて無謀だったのがこの大坂の陣なんで。 >>841
すいません
慶長六年の日記なんですけども
リンクを読んでないですね? 主計頭清正と紀伊守幸長は、やはり毒を飼われたとみるべきであろうや? >>844-846ってまさかのID切り替えながらの自演ですか?
それはどうでもいいんだけど陰謀論に傾くなら根拠や出典を添えてくれ。 根拠なくID切り替えを疑うのだって陰謀論じゃねえか フィクションや願望の話をしたいんだったら別の板に行けば? 家康様の批判する奴は許さない
出ていけ!ってかあ?
流石は陰険な家康の信者だわw またこいつか・・・。家康だろうが秀頼だろうが同時代史料ベースで語ってくれるなら同列だっつーの。何でそこが判らない。 じゃあ天王寺の戦いの話ししようぜ
何で東軍ってあんなに弱かったの
特に徳川軍
夏の陣全体:東軍16万5千 大坂方5万5千 3対1
天王寺・岡山の戦い:14万対3万5千(実質2万)7対1
家康本陣に突入した大坂方はどう多くても10対1を切っていただろう
それがあの有り様
圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
徳川軍のどこが精鋭だ?
家康のどこが野戦の名手だ?
最初から統一指揮が出来てれば大坂方が勝ってただろうな
こんな戦力差で首獲られてたら義元や隆信以上の無能として名が残っただろうに >>856
普通「天王寺の戦い」とは呼ばない。「天王寺・岡山の戦い」よ呼ぶ。自分で5行目に書いてんじゃん・・・。
両軍の兵力の出典は何?俺も目を通す。
他にも書きたい事はあるけどまずは順を追って。 >>856
開戦劈頭の大坂方の攻勢部分のみを切り取って見たらそう見えるだけ
軍事的に見て、最終的に大坂は全戦力を喪失して5万の兵力がおよそ3時間で壊滅し、総大将は自刃している
幕府方にも大名が複数討死するなど損害はあったが、大勢に影響はなかった
本陣に突入されたとか馬印が倒されたとかうんこ漏らしたとかどうでもいいのよ
結果的に完全勝利やろが >>856
もう少し尋ねたい。
>それがあの有り様
の処だけど具体的にはどこのどの部分?。
別に映像記録が残っている訳ではないけど通説では真田隊は幕府方の前線部隊を粉砕し壊滅させながら前進した訳ではなく
松平隊の備の角を掠めて又は削って家康本陣へと前進していった。
なので後から持ち直した幕府方の大軍に退路を断たれそうになったので真田隊は撤収した。
>圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
野戦では数が物を言うのは軍事の常識であるし(詭道で勝つのは極例外)「何とか」には共感するけども
大御所の首級を上げられなかったのでいずれ数で負けるのは至極予想された結果だよ。
>徳川軍
という呼称は辞めてくれ。外様も居ただろ・・・。
>どこが精鋭だ?
そんな事どこに書いてあったの?。豊臣方浪人衆の方が代替わりしてまるで実戦を経験してなかった幕府方大名よりも
実戦感覚を失ってなかったのは一般的な見解だよ。
>野戦の名手だ?
これ攻城戦なんだけど。もしかして「家康は野戦の名手だが城攻めは苦手に違いない」と巷間よく言われている
ステレオタイプを真に受けてる?(家康が出馬していない徳川軍が二度上田城を落とせなかった処も含めて)。
対今川戦、対武田勝頼との戦闘を細かく振り返ってみ?。家康は付城を用いて敵方の城を包囲して陥落させる実績に長けてるんだけど。
>最初から統一指揮が出来てれば
タラレバに付き合ってあげるけれども一応名目的には秀頼が総大将の体だし織田信雄・織田長益なんてのも居た。
天王寺・岡山の戦い当日は真田に軍配が預けられたけれども大野治長が前日から全軍に周知していた訳ではない。
この程度しか出来なかったのが大野治長の限界であり豊臣方の限界だったんですよ。 大事な事だけどこれだけの大軍に対して家康が「右翼前へ」とか細かな部隊への指示を出していた訳はもちろん無くて
各々の部隊の裁量に任せていたのは考えるまでもなく当たり前の事ですよ。そこに野戦の名手だのなんだのは関係無いです。
例えば長久手の戦い一つだけとってみてもいいけど豊臣方にそれに匹敵する戦果を挙げた事のある将が居たのかどうか。 フォローも入れておくけど昔司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』を読みふけっていた事は家康憎し豊臣方推しだったぞ。
今は歴史的事象を俯瞰して見る様になったし江戸期になってから書かれた軍記物やその他書物はまず疑ってかかる様にしている。
あと著作を買えまでは言わないけど(出来れば買ってほしいけど)現在進行系で研究を進めている歴史研究家の
先生方の論文や見解に目を通す様にした方がいい。 そもそも家康が戦上手なんて後世のファンタジー
生涯に二度も馬印を踏み潰されて逃げ回った武将なんてまずいない
関ヶ原だって数に劣るの石田宇喜多らに苦しんだし
だいたい戦国時代だって瀕死の今川を攻撃して遠江を手に入れたくらいしか実績がなく
格上を倒していって何ヶ国も切り取った著名な戦国武将達と比べると酷いものである 関ヶ原って開始早々小早川が裏切って一刻(2時間)でケリがついたというのが最近の主流な。
またID変えた?。聴かれた事にも答えずに? >>862は>>861をまるで読解出来てないのな。 そもそも小早川は別に石田や宇喜多の味方じゃない
勝手に行動していて指揮下には入っていない
というか身分的に石田が命令できる訳もないし
石田、宇喜多と大谷らの小部隊だけがいわゆる西軍の戦力なんだよ
それを徳川らが大軍でリンチしたという形
それでも数時間戦いが続いた そうだね。伏見城の戦いの事もあるから西軍の監視の目が強い時期には動くに動けなかった。
伊勢に流れて自由が効く様になってから好きに動き出したとみるべきか。
参謀本部編の関ヶ原布陣図も否定される見方が強い。 大坂の陣の殆どは後世の創作で豊臣方は大して対抗出来ず負けたって話だし 平山先生の説だと
家康が苦戦した理由て
合戦初期に敗退した本多・小笠原勢の一部が
後陣まで入ってきて陣形が乱れたんじゃなかったけ?(それを見て味方崩も連鎖でおこって)
立て直し後は押しつぶされて
豊臣方が壊滅したのは上で指摘されてる通り 大坂でも苦戦しまくり活躍したのは外様大名ばかりというね
伊達、藤堂、上杉いなかったら徳川本陣まで勢いづいた敵が乱入してひっくり返ってたかもしれん >>867
出たー後世の創作とか言っていっさいソース出さないやつ
お前そればっかだなw馬鹿だろ
お前それしか言えないの? >>867
お前のソース
ユーチューブ
正解だろ
お前簡単にコロっとなんでもホイホイ信じるもんなアホだから >>867
お前の好きそうなネタ
関ヶ原は短時間で終った
!New 大坂の陣は短時間で終った
次は何だい?
本能寺の黒幕?w
家康、秀吉、毛利、朝廷とか信じてそうこの馬鹿w >>872
「関ヶ原は短時間で終った」は単発IDとは違う俺が>>863で書いたんだけどね。
書状等を加味するとそうとしか解釈できない。英雄達の選択でも紹介されていたと思う。
>>867の「!New 大坂の陣は短時間で終った」
こっちは人生今まで生きてて初めて目にした。 大坂の陣で徳川が苦戦した、なんてのは後世の創作では出てくるけど一次史料には少ないし
関ヶ原で島津が家康本陣に突っ込んだ、みたいな逸話で面白いけど信じるかと言われたら眉唾みたいなね 浅井一政という近江浅井氏に連なるものが大坂方にいて『浅井一政自記』という戦功覚書を遺している。
この内容を現都立大の史学博士の堀智博先生が解析しているんだけどなかなかに興味深い。
・(恐らく毛利側ではなく真田側で)戦端を開いたのは浅井一政である(戦功誇張で持っている可能性有りかと)。
・戦端を開いた後も味方諸将と書簡のやり取りをしている(戦術的に味方の位置を把握する為と戦功申告の為の両面か)
・真田や毛利の突撃に触れている訳でもなく「(書簡の取り交わしの話の後に)その後豊臣方の軍勢が崩れ始め」とかなりあっさりしている。 家康信者ってほんと家康の分身みたいで気持ち悪いな
特に>>857とかのどうでもいいことに難癖つけるところは広寺鐘銘を連想させるし
>>859の一字一句に粘着的に反応するところが城内の餅の値段を小僧に直に聞いたり
せこせこと頻繁に味方を陣代えする神経質の家康そっくり
まあ家康そっくりってのは信者にとってはかえって褒め言葉かもしれんが
両軍の戦力比はWikipediaで充分だろ
Wikipedia(笑)というならお得意の同時代史料とやらで信()者の意に添う根拠や出典を添えてくれ
Wikipediaの参考資料となった「大日本史料」や「日本戦史 大坂の役」以上のな
そもそもこの戦いは一方が恥を晒して、一方がほとんど壊滅した混乱した戦場だったので客観的な史料なんてないだろうし徳川としてはひた隠しに葬りたい戦い
ただし戦力比に大きな矛盾はないはず
大野治長の本隊と明石全登隊は秀頼の出陣待ちと作戦ミスにより本戦には参加していないし幕府軍が圧倒的多数だったのは家康信者がいかに詭弁を弄しようとも変わらんよ
天王寺・岡山の本戦で戦ったの大坂方は天王寺口の真田信繁、毛利勝永ら14,500
岡山口の大野治房ら4,600のせいぜい2万弱だろう
対する幕府軍はどう少なめに見ても10万は遥かに越えてる
家康危うしなんて全て後世の創作だと信者は言いたいだろうが
勝ち戦にもかかわらず徳川家中の処分が大量に出てる時点で醜態は明らか >>876
あのさ、答えもしないで他人を貶める事に全力を出してないで真面目に答えろよ。それこそ周囲に呆れられるぞ。
自らが書いた>>876を他人の目線のつもりで読み直してみろ。
>Wikipediaで充分だろ
通常Wikipediaからのコピペは猛烈に馬鹿にされる。但し注釈で出典を添えているケースもあり、
その出典に辿り着いて資料名や史料名、著者名を書けっつってるの。手間を惜しむか惜しまないかだけの話だ。
少なくとも
・両軍兵力
・「それがあの有様」
・「どこが精鋭だ?」
この3点についての出典(Wikipediaが出典とした処でいいから)を出して。誰々の研究論文のPDFとかに辿り着いたりするから。
お前と俺らの複数の目でダブルチェック(社会では重要)を行いたいだけなんで。
それをやらないと「それってあなたの感想ですよね」案件にしかならないっつーの。
重要な事だが 俺 は 家 康 信 者 じ ゃ ね え
夢みたいな事を書いてもいいけど(江戸期編纂の軍記物とかだろうが)出典は添えろって話だ。 >>876
>一字一句に粘着的に反応するところ
アホか?書かれた事を一つ一つ検証するのは 当 た り 前 だ。
「城内の餅の値段を小僧に直に聞いたり」←出典を出せ(知ってるけど皆に周知させたい)
「せこせこと頻繁に味方を陣代え」←出典を出せ
「大日本史料」や「日本戦史 大坂の役」←関ヶ原布陣図も同じだが明治期のものは論外なんだよ
「そもそもこの戦いは一方が恥を晒して、一方がほとんど壊滅した混乱した戦場だった」←そこまで断言・名言する根拠は何?
以降は割愛するが別の機会に尋ねるかもしれん。
いいか?否定したくて神経質にあげつらってるんじゃねーぞ?
書いてる事を一つ一つ皆で検証する事が大事だから一つ一つについて出典を出せっつってるの。何で最初から添えない?
出典も添えずに何だかんだ書かれてもお前の感想でしかねーんだよ。
それは家康ageでも豊臣ageでも同じ話だ。それを判れ。 >>874
うろ覚えだけど
「日本一の兵で」有名な
島津家臣が国元にあてた手紙には
大御所様半分負けみたいなニュアンスのこと書いてなかったけ? >>879
→「真田日本一の兵」の手紙の主は島津忠恒『薩藩旧記雑録』(手紙は慶長二十年(1615年)六月十一日付け)。
島津は冬の陣も夏の陣も参陣していなくて忠恒は又聞きで真田信繁の評価を書いた。
→「大御所様半分負けみたいなニュアンスのこと」を書いたのは細川忠興のはず。
「はず」と書いたのは手持ちの書籍でもググってもなかなか該当する情報に到れなかったから。
豊臣方に細川興秋と毛利勝永が居て武勲を挙げているので盛っている処はあるかもしれん。
尚、忠興はかなりの手紙魔で関ヶ原の戦いより後だけでも2,000通の書状を出している。
俺は別に毛利と真田の大御所本陣への突撃を否定している訳じゃねーぞ。
「いつ」「誰が遺した」「何」をベースに歴史上の事象と向き合いながら語るべきだと主張してる。
ゲーム・アニメ・小説・偏って取材不足でステレオタイプな民法の歴史特番・結論有りきのYouTuberの動画、そしてコンビニに置いてある様な歴史カテゴリのムック本。
こういうのを論拠としても別にいいし責めもしないけどその見解なりの出典にしっかり辿り着いてから自分の意見を披露して欲しい。
あとな、歴史に絶対の正解とか無いんで少しでも不明瞭な点があればそれは「判らないままでいい」んですよ。
歴史研究家達は皆断言・明言を極端に避けてるぞ。 >>879
その書状にはないけど似たような記述なら細川忠興の書状にあるな
(慶長20年)5月7日付細川忠利宛細川忠興書状
今日七日午ノ刻ニ、大坂江少シ御寄被成候處ニ、茶磨山ゟ岡山迄取續六七萬も可在之候、「此方之人数を立、
自是ひた物無理ニ合戦を懸候處ニ及一戦候、数刻相支申候、半分ハ此方へ、半分ハ大坂江勝申候へ共、
此方之御人数之段数多ニ付御勝被成、不残相果候、」度々之せり合中々推量之外ニ候、本田雲州も討死、
小笠原兵部殿も手を負候、是ニ而推量可在之候、我等事先書ニ申入候様ニ、鉄炮頭三人其外小性計にて大坂へ参、相合戦候事、
「」の部分だけど大意は、こちらより人数を立て無理に敵へ攻めかかり、数刻の間攻撃を防ぎ戦った
半分はこちらが、半分は大坂方(豊臣方)が勝ったが、お味方多勢により勝利し敵を残らず討ち果たした
要するに局地戦で互角の勝負をしたってことだろうね
結局お味方多勢により勝利したと言ってるし
ただ後段では本多忠朝の討死や小笠原秀政の負傷を報じていて、敵の強さが想定外だったとも忠興は言ってるな >>881-882 貴重な書き込みを有り難う。助かります。 明石掃部、関ヶ原の戦いで敗れた西軍武将の一人として知られていますね。しかし、その最期は謎に包まれており、仙台藩に匿われたという説、彦根藩兵に討ち取られたという説など、諸説ある状況です。
近年、明石掃部に関する史料の調査が進み、その最期をめぐる研究も活発化しています。最新の研究成果によると、以下のような説が有力視されています。
1. 仙台藩に匿された説
従来から有力視されてきた説です。明石掃部は、旧主である宇喜多秀家と共に仙台藩に逃亡し、そこで匿われたというものです。この説を裏付ける史料として、仙台藩の記録に「明石掃部」という人物の名が記されていることが挙げられます。
しかし、この説には疑問も残されています。例えば、明石掃部が仙台藩に匿されたという明確な記述はなく、また、仙台藩がなぜ明石掃部を匿ったのかという理由も十分に説明されていません。
2. 彦根藩兵に討ち取られた説
近年有力視されている説です。明石掃部は、関ヶ原の戦いの後、各地を逃亡していましたが、最終的に彦根藩兵に追いつかれ、討ち取られたというものです。この説を裏付ける史料として、彦根藩の記録に「明石掃部」を討ち取ったという記述があることが挙げられます。
しかし、この説にも疑問点があります。例えば、明石掃部がいつ、どこで討ち取られたのかという具体的な記述はなく、また、討ち取られたという確証となる遺物なども発見されていません。
3. その他の説
上記以外にも、明石掃部は海を渡って海外に逃亡したという説や、農民に扮して身を潜めたという説など、様々な説があります。しかし、いずれの説も確たる証拠に基づいているわけではなく、真偽は不明のままです。 >>884はあちこちでテキトウなことをほざき散らかしている荒らし。
コピペの疑いもあり。