【滝川一益】織田信長の家来を語るスレ【柴田勝家】
>>339
「先陣」で検索したらあっさり見つかりました。ありがとうございます。 >>338
454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 15:52:37 ID:sEUc/AFw
先鋒大将の心得
ある戦で、信長は柴田勝家を先鋒大将にしようとした。
勝家はしきりに固辞するも、信長があまりにしつこいので、
「それでは先鋒大将を仰せつかります」と答えた。
数日後、安土の城下で勝家と肩がぶつかった信長の家来の無礼を咎め、勝家は
その侍を斬り捨てた。
信長はその報告を聞いて激怒して、勝家を呼びつけた。
勝家は、
「だからこそ、先鋒大将の申しつけを強く辞退したのです。理由もなく辞退した
わけではありません。先鋒大将たるもの相応の威厳がないと、命令することもでき
ません。いかがでしょうか。」と答えた。
これには信長も返す言葉がなかったという。(名将言行録)
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-562.html
たぶんこっから来てるね 光秀は足利義昭からのスパイ
織田に仕えてはいたが、裏で足利義昭にも仕えていた
織田とは上辺だけの付き合いでどちらかと言うと足利義昭側の人間
本能寺の変は裏切りではなくたぶん義昭のため隙を見て信長やっちゃえと指示があらかじめあっただけと見てる
ソースはフロイスが言う裏表が激しく密会を好む光秀評と近年見つかった本能寺の変後光秀が諸勢力に義昭の復権サポートを依頼する手紙の内容から 今日は「あの日」から429年。
信長と同じ日にひっそりと亡くなってしまった人に毛利良勝(新助)がいる(-_-;) >>344
意外と忘れがちだな
ドラマで本能寺扱われても出てくることないよね いま海外では弥助が大注目されてるらしいよ
ネトフリのアニメとかハリウッド映画とか 人物叢書「高山右近」を読んでたら、池田恒興を信輝と書いていた
恒興が定着したのって、割と最近なのかな
>>343
光秀本人が義昭に近かったとして、家臣団は?
重臣が「なぜ殿が将軍のために?」と疑問を持ったら、信長殺しは実行できない NHKBSプレミアムで再放送中の大河ドラマ「黄金の日日」
高山右近を重友としている
この頃には右近の実名は未確定だったと思うんだが、よく重友にしたな 義昭の息子は織田家で面倒見ていたようだけど 誰が見てたのです? >>343
無い無い
義昭計画だったら毛利に計画教えてる
それがないってことは義昭は無関係 スパイというか元々幕臣だからね
でも晩年の力関係として義昭の計画に光秀が
身の危険を押して協力する理由はない
が旧幕臣でありかつての同僚を配下に組み込み
逆言えば光秀は旧幕臣の権益の代弁者でもあった
単純に義昭追放時点では存在感発揮できた旧幕臣が
織田政権が独自の統一政権として方向性を打ち出したら
相対的に権益を失うって状況はあったんでしょ
三職推任も四国政略の転換も滝川の東国経営への参画も
変後の公方への協力を要請する書状も
その一連の流れの中にあると考えた方が理解しやすい 森可成って生きてれば柴田、丹羽より地位上で方面軍だったのかな あのまま織田政権が続いてたら
そう遠からず統一されて戦線維持が不要になり
便宜上軍団長と呼ばれる存在も無くなってたかと
年齢的に老臣たちより重用されたり
所領が増えてた可能性はあるかもね 信長が完全に隠居したら、信忠に近い池田元助・森長可・細川忠興あたりがかなり重用されただろうなとは思う 軍団長って所が架空の役職だから
今で言う親戚一同と同類 坂井政尚も生きてたら方面軍司令官になってたかもな
大河とかゲームでまったく取り上げられないけど坂井、森が大河の柴田あたりの地位 可成が生きてたら、長可や蘭丸があそこまで出世できてたかな 長可の活躍の機会は減っただろうけど、森家全体としてはプラスじゃない
乱丸は長可の代わりに金山城主になる以外はあんまり変わらないのでは 普通に井伊直政、本多忠勝の息子の地位にはなってたでしょ
信長は譜代に一国プレゼントいとわないから池田輝政ぐらい出世しててもおかしくない >>364
池田恒興は譜代家臣で乳母兄弟の上に母ちゃんは信秀の愛人
信忠の補佐をしたりと一門衆扱いに近い扱い
森可成は美濃土岐氏に属してしたけど道三による土岐氏成敗後に信長に使えるようになった
仕え始めた時期としては滝川一益(母方がおそらく池田氏の血縁者)、秀吉とほぼ同じの外様
その働きによって重用されたのは間違いないけど池田家と同じようにというよりは
やっぱり滝川、秀吉、明智と同じ外様での扱いだろうね 永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉と坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した。
検索したらこんなの出てきたけど元就時代に信長と交流あったんだ
別のサイトではこの時の織田軍2万てあるけど
領地接してなさそうだけどほんまかいな 永禄11年秋に義昭を報じて上洛して周辺地域の三好方国人衆を降し始めて畿内の制圧に乗り出してる
翌年以降も畿内各地で三好方と交戦してて瀬戸内海を挟んで三好と隣接している毛利と「敵の敵は味方」外交をしても不思議はないね しかし1569年に毛利への援軍は信長公記に一切記載がない
1569年なんて丹波、丹後、播磨にまったく影響力無く胡散臭い
東三河もろくに支配してない頃の今川が
北条と交戦中でそれどころじゃ無いのに
西三河へすっとんでありえない言われる第一次小豆坂の戦いのように実在しない戦いだろう
攻められた側の記録があればともかく無いんだなこれが 「かかれ柴田に退き佐久間」という言葉から分かるように柴田勝家がただの脳筋バカ
ということは織田家中でも知れ渡っていた。
しかし信長は柴田勝家や森長可のような脳筋武将が大好きで明智光秀や佐久間信盛のような
インテリが大嫌いだったので脳筋ばかりが幅を利かせるようになった。 それって同時代史料にあるのかな?
柴田負けたから言われてるだけじゃね?
手取川の大敗も脳筋エピぽく言われるが
いまいち実態がはっきりしないしな >>370
明智光秀が嫌い?
嫌いなヤツを最初に国持大名にするか? 「織田信長家臣人名事典 第二版」バイブルだなあ
今でも入手可能らしいけど、発売してすぐ買ってよかった
>>325
しかも景勝は村上・高梨・島津・井上・須田と
信玄に追われ義父である謙信を頼った北信濃諸将を元の領地に返しているしね。義理を果たしたよ。敵対していた真田昌幸とも昌幸が徳川家康と沼田領を巡る争いになったとき、真田と上杉が同盟を組んで徳川軍を第一次上田合戦で倒してるし。格好よいよ。 小牧長久手を見ても滝川は有能だったと思う
だからこそ、秀吉は全く取り立てなかった
無能であればもう少し取り立てられたろうけど、まぁ、同格クラスが一掃されるのはしゃあないね 秀次の三河入りは完全に失敗だけど
蟹江合戦は秀吉の援軍さえ間に合えば
軍事的勝利の可能性あったからな
秀吉自身が京に引っ込んでたせいで
勝機を逃した戦の責任で滝川は嫡男追放
なのに次男は大名取り立てというのも
滝川家の扱いに苦慮してるように見える >>370
森長可はどうか知らんけど
森可成は知将でもあるからな
攻めの三左は初期信長の右腕だからな
三左衛門がいなければ信長は弟と柴田の軍にやられていたよ
光秀は森三左衛門が討死して出てきた武将だからな
知将というよりはご機嫌取りがうまい武将だった >>372
光秀はご機嫌取りに全力出していたからな
今でいうお歳暮も信長に送っていたし
延暦寺焼き討ちも他の武将は及び腰だったが光秀は信長の言うがまま
そこで初めて信長から領地を得た
まあ実はその領地は森可成のもので森三左衛門が死んでいなければ
光秀に出世の芽はなかった
だから子の蘭丸はその領地を欲しがっていた
蘭丸はまだ17-18歳で既に領地を5万石持っていたので
信長はその願いは却下した >>366
雲伯因三ヶ国合力として、則ち木下秀吉・坂井右近両人に五畿内二万ばかり相副えられ、日乗、検死として罷り出、但州において、銀山をはじめとして、子盗・垣屋城、十日の内、十八落去候
子盗は此隅山城のこと
検死の日乗が差出人
宛名が元就・輝元ら13人で
他浦上・三好・縁辺の話
というやつかな てっきり光秀が織田家初の国持ち大名かと思ってたら丹羽長秀なんだね >>317 >>337
どっしりとしたイメージの丹羽長秀さんですね。 文なイメージな丹羽さんは美濃攻略、上洛戦、浅井朝倉戦でチラホラ武功出てくるからほんとになんでもできる奴と気に入られてたんでしょう
築城まで得意なもんだから手元に置いときたいと方面軍司令官になれなかった 木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
米は大事だからな
でも秀吉が一番先なのな REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 丹羽さんは信長に煙たがられる事もなく同僚からも嫌われなかったし
能力以上に人格が優れていたのかもしれない