【滝川一益】織田信長の家来を語るスレ【柴田勝家】
忠臣から謀反をおこした人まで、多彩なメンバーが集結しました。 京都の村井貞勝に信長に諫言できたという武井夕庵が2トップかな
菅谷堀長谷川は自立させて放出予定か 菅屋堀長谷川らは馬廻で普通に軍務にも当たってる
彼らを文官吏僚と言うとちょい違和感
前田佐々らの後任な訳だが彼らを吏僚とは言わない
何なら明智羽柴も同じような奉行をしてたけど
文官だなんて言われないでしょ 村井貞勝、武井夕庵、松井友閑、楠木正虎あたりが吏僚、右筆衆かな? >>234
??
232 人間七七四年 sage ▼ 2020/05/25(月) 12:34:11.64 ID:G1Sdy6Px [1回目]
>>231
ただ本能寺の変さえなければとんでもない権勢を誇っていただろうな
いや、あんたw 武井松井楠は右筆出身だね
村井は比較的高齢で文官として重宝されたから
前線出てないだけで武将じゃないかと 林秀貞なんかも武将だけど出陣は少なくて、奉行だったり取次がメイン? 信長の重臣たちって、実子が無いのが多いのは宦官だったからって説は有名? >>245
さすがに……だけどちょっとおもろいw
なるほど確かに、光秀、勝家、一益ら軍団長クラスの武将たち、みんな良い年してるけど
息子のキャラ立ちが薄い。秀吉もそうだし
信長「コイツ子どもいねー(あるいは幼い&病弱)から、裏切って王朝築くみたいな発想ならんだろ。よし出世させたろ」
っていう発想はあったかもしれない 林秀貞は息子の光時が存在感あったが伊勢長島で討死したが三男の一吉がいた
共に追放された
佐久間信盛も息子の信栄と親子で追放されたのは有名
しかし信栄は本能寺の変の年の初めに赦されてるんだよな 滝川は息子はいるししっかり現代まで血脈が続いてる。 次男は名将滝川一益の息子として大事にされたらしいから結構有名 >>249 >>250
だからこそ関東に遠ざけられたとも言えるかも? 主要家臣の息子世代で名を残したのはこんな感じか
細川忠興→池田輝政→前田利長→丹羽長重 戦国当時の子供が生まれて立派に育つ割合から見ればそんなもんだろ
結構な割合で生まれてすぐとか幼少期に死ぬよね
家系図の男とか女という記述は名前が付く前に死んだことを意味する 光秀の家臣に信長の元馬周りがいないのが謎すぎる
最後に裏切られるのも納得 それは必ずしも他の重臣達にもいなかったんじゃね?
光秀に与力したことある馬廻はいるし
>>257
関東の要職を任された滝川には成人した息子がいるで >>259
柴田には佐々、前田
秀吉には竹中重矩
滝川はいないか。明智なしと
やはり大名までなると監視役は必要だな だからそいつらは与力してるだけで家臣じゃないって
あと明智に馬廻が与力してる例は普通にある 例えば本能寺後に瀬田を渡ろうとする
明智の要請を断った山岡なんかも一時与力してた
明智は本能寺の頃には丹波攻略終えていて
与力を与えられる使命というのが特になく
逆にその時々必要なとこに援軍にいく
遊撃軍的な使われ方が多かっただけだね >>261
明智のとこにいた目付感ある馬廻りてたとえば誰? 猪子兵助とか天王寺の時に明智と同じ軍中にいるね
信長公記とかで明智の活躍は最小限に書かれてるだけかと 佐久間信盛が本当に無能なら、そんな無能が筆頭家老を20〜25年勤めて織田があんなに大発展する訳がない
織田の成功に対する功績は家中筆頭とされてもおかしくない >>265
猪子兵助ぐらいですか?天王寺って塙が戦死してやばい時だよね だから何?
ちょうど何が言いたいかわからないから整理して >>266
> 佐久間信盛が本当に無能なら、そんな無能が筆頭家老を20〜25年勤めて織田があんなに大発展する訳がない
それはある 佐久間盛政に撤収命令なんか出してないで
自分が本陣を賤ヶ岳まで進めてれば勝てたんと違う? 賤ヶ岳合戦は柴田にも勝つチャンスがあったはずだが。 統率 武勇 知略 政治 合計
<重臣・軍団長>
羽柴秀吉 94 78 97 99 368
明智光秀 95 85 93 91 364
滝川一益 86 78 89 62 315
柴田勝家 87 92 68 66 313
丹羽長秀 80 75 73 84 312
佐久間信盛 78 62 43 56 239
林秀貞 34 41 68 59 202
<中堅>
荒木村重 81 67 74 64 286
池田恒興 72 69 49 65 255
河尻秀隆 60 70 56 61 247
森可成 63 70 61 43 237
水野信元 ?
坂井政尚 ?
中川重政 ?
<与力・国衆>
松永久秀 82 67 93 90 332
細川藤孝 77 77 85 90 329
前田利家 80 84 71 78 313
稲葉良通 76 67 71 70 284
佐々成政 75 80 59 65 279
筒井順慶 55 53 76 77 261
九鬼嘉隆 76 70 59 48 253
金森長近 62 57 65 60 244
氏家卜全 67 62 55 54 238
安藤守就 46 52 73 58 229
簗田政綱 39 61 70 59 229
蒲生賢秀 51 56 62 59 228
蜂屋頼隆 56 68 46 34 204
野間長前 ? >>275
九鬼は特殊能力「水軍」がある。
あと金森長近がないぞ。 単独や大きな功績は伝わらないが歴戦で国持までなってるから
池田恒興と同クラスで美濃三人衆より上あたりが妥当かな >>272
目の前の敵が見えないの?
信長が育てた堀秀政がいるだろ
一番前の砦すら落とせないのに敵中をどうやって攻め込むんだよ 江の柴田勝家は肖像画にかなり似せようと努力してるのがいいね。 >>275
森三左衛門可成は早くに戦死しているだけで初期信長の重臣なんだけどね
信長の若い時の右腕的存在で羽柴秀吉や明智光秀よりずっと古参
そして信長軍を引っ張ってきた牽引力
それは信長がまだ尾張の大うつけと呼ばれて700人しか集められずにいた時代からの主戦力だった
本当はここには柴田勝家が入るはずだったけど勝家は弟の信勝側についている
今の風潮を作り出したもので一番悪いのは司馬遼太郎と明智光秀の子孫
小説の中で邪魔な森三左衛門をそもそも出さないからね
だから信長公記をまともに読まずに司馬遼太郎の歴史小説を読んでドラマや漫画などを制作したものは司馬遼太郎歴史観で人物像を捏造するのな
実際には初期の信長軍では筆頭に来るのは攻めの三左こと森三左衛門
そして退き佐久間こと佐久間信盛と米五郎左の丹羽長秀そして犬千代こと前田利家
この中では犬千代は拾阿弥を斬殺し出仕停止処分をくらう
本当は死罪だったが森三左衛門と柴田勝家の嘆願で減刑される
柴田勝家は昔からの家臣だったが弟の信勝について信長と戦う
ここで信長を救ったのが森三左衛門
で秀吉が信長についたのは後の事
さらに光秀が信長に仕えたのはその更に後の事
ただ森三左衛門が早くに死んだためにスライド式で柴田勝家や秀吉や光秀の地位が上がったまで
美濃出身の光秀が出世できたのも本当は美濃の森三左衛門がいたから
美濃攻略では美濃の森三左衛門が信長の右腕だったので美濃の武将の多くは信長についた
そして信長は森三左衛門の功績を忘れずにいたので森長可や森蘭丸(お乱)を重用した >>275
森三左衛門と明智光秀は能力値をそのまま変えた方が正しい
それプラス柴田の武勇を加える
明智光秀は信長に取り入るのがうまかったので政治力だけは高いままでいい
そもそも美濃の森三左衛門がいなければ明智光秀も信長に取り立ててもらう事すらできなかった
その事を明智光秀は自覚していなかったから本能寺の変を起こしたんだけどね >>1
はっきりいうと光秀はいてもいなくても信長の天下統一には関係なかった
しかし森三左衛門がいなければ信長は桶狭間の戦いどころか
弟の信勝の戦いで林兄弟と柴田勝家の軍に敗北して戦死していた可能性が極めて高い
そんな重要な位置に森三左衛門はいて信長の前期の主要な戦いには姿を見せている
清州城の家臣は全く信用していなかった信長
しかし美濃の森三左衛門とは深い信頼で繋がっていた
信長の腹心中の腹心だったのが森三左衛門だった
また森三左衛門も命を懸けて信長のために戦っていた
現代ではありえないくらい評価は低いけどね >>284
はっきりいうと光秀はいてもいなくても一緒で信長の天下統一には関係なかった
と言うか光秀クラスの武将は他にたくさんいたから しかし信長は光秀をかなり信用していた
それが致命傷になったのだけれども
あと明智光秀は古参ではないのでなぜに信長が蘭丸や長可を重用するのかが理解できないでいた 浅井朝倉や長島願証寺との戦いで森可成や氏家卜全や林通政や信長の一門衆の多くが亡くなった
それは彼らが勇猛だったからだと思うよ私は >>287
森三左衛門は千の軍勢で浅井朝倉3万の軍勢を退けているよ
それで浅井朝倉軍は延暦寺の僧兵4千に援軍を頼んでいる
そして数日後にまた戦いを仕掛けて信長の弟と森三左衛門を打倒した
信長正規軍の森三左衛門とは言え
千VS3万浅井朝倉+延暦寺の僧兵だからね
負けて当然なんだよ
これで信長がかなり怒ってあの有名な延暦寺焼き討ちをやってしまう
これに参加して出世したのが光秀なんだよな
金ヶ崎の戦いのしんがりもあるけどね
まあともかく美濃の森三左衛門がいなければ光秀も信長に信用してもらう事はなかったし出世もできなかった
本能寺の変を扱うなら森三左衛門を出さないとね
まあなーんも知らないマニアのドラマなら森三左衛門も長可も蘭丸も出さないだろうね
最近はそんな奴多いからね 山岡荘八の織田信長では森長可の扱いは大きかった
なぜなら尾張統一戦の比重の高い小説なので 1992年の大河ドラマ「信長 キングオブジパング」には森可成出てたな
「麒麟がくる」には出てこないけど >>293
森三左衛門の扱いは酷すぎるね
信長の青年期には必ず出さねければ物語が成立しないんだけど存在自体が知られていない
特に明美光秀の本能寺の変を扱うには欠かせない
美濃の森三左衛門の重用とそれに伴う光秀などの美濃の武将の積極的登用
信長の佐久間追放と明智光秀
信長の佐久間の子孫を許して登用
信長が蘭丸への城と5万石与えたこと長可には20代で20万石の領地を与えた事
そして終盤での諸々の事件での光秀へのきつめの待遇
信長と光秀のいろいろな場面でのすれ違い
光秀の失敗は主に森三左衛門の存在をあまり知らなかったことに要約されると思う
だから信長が長可や蘭丸をかなり贔屓していた理由がわからなかった
そもそも光秀は自分がなぜ登用されていろいろな恩恵を受けたのかがわからなかった
なんか明智光秀の子孫がいろいろ言っているけどあまりに光秀を庇うあまりに周りが見えていないのが目を曇らせている第一の要因に見える
実際には森三左衛門は信長の片腕で三左衛門がいなければ信長は早い時期に死んでいた
それを信長が一番わかっていた
だから蘭丸を若いのに重用し城まで与えた
森三左衛門の存在を消すことで何もかもわからなくしてしまっているのが今の本能寺の変のごちゃませ黒幕説の真相
実際には光秀の勘違いが引き起こしたのが真相でそこには本当は悲しいドラマがあると思うんだけどね >>1
ついでに明智光秀自身の領地は34万石だった
ちなみに羽柴 秀吉こと豊臣秀吉は桶狭間の戦い前からの家来で桶狭間の戦いにも参加しており光秀よりいろいろと知っており
信長を崇拝していた
森三左衛門の事も周知していた
だから蘭丸や長可に不満がそこまであるわけではなくただ信長の天下統一のために尽力していたと思う >>295
永吉が死んだ時は敵も味方も喜んだって言うね
どんだけ嫌われてるのw 光秀と信長の関係が良かったのは
御ツマキの存在の影響だと思う >>297
光秀の義理の妹と考えられる人物で信長の側室かと考えられてる 光秀が織田家に下ったきっかけは、これまで信長正室の濃姫の縁からだとも
言われていた(光秀と濃姫が従妹の関係である可能性があって)。
しかし最近の研究では、織田家による妻木城攻略後に妻木家の娘が、織田家の
女房衆の一人として仕えるようになり、これが御妻木殿との説が有力。
この妻木城城主の妻木氏は、光秀の正室の妻木煕子の実家であることから、
煕子の妹または従妹ではないかとも言われている。御妻木殿が信長の女房衆の
一人であることは間違いないが、側室であったかどうかははっきりしない。
御妻木殿は光秀の坂本城へも度々出向いているし、信長の遣いとして政治的な
動きもしている記録がある。側室であればそのように動くこともないだろうことから、
女性秘書的な存在だったのではないかと、私も思っている。 側室扱いはされてないから女房だろうけど
坂本城に度々出向いているってのはどの記録?
珍しく名前の残る信長の女房衆だけど
そもそもそんなに記録あるんだっけ? >>301
光秀と濃姫はイトコでなかったにしても
何らかの血縁ではあったと思う。 >>297
御ツマキは信長に仕えていたかもしれないけどそんなに影響力はないと思うな
本能寺の変の一年前に死んで光秀ががっかりしたのは本当だと思うけど
信長の頭の中は戦の事がほとんど占めていたと思う
光秀は腰が低く金ヶ崎のしんがりと延暦寺焼き討ちで信頼されたんだろうね
佐久間への信長による19ヶ条の折檻状でも光秀はかなり褒められているね
でも実際には森三左衛門の功績の方がはるかに上だったと思うね
だから晩年の光秀が調子こいて威張っていたところでの信長の仕打ちがあったと思う >>305
だから晩年の光秀が調子こいて威張っていたところでの信長の仕打ちがあったと思う
信長の仕打ちって何?
光秀が威張っていたのはわかる。多聞院日記だか兼見卿記だかにあったよね。 >甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。
>フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。 明智軍記は史料ではなく物語だから、そのエピは歴史家の方々は信じていないというのを良く聞きます。テレビドラマでは鉄板でこのシーンやるけどね。
フロイスの話しも実際に彼が見たわけではないので、本当に足蹴りくらわしたのかどうか解らないと。フロイスはキリスト教に理解があるかどうかで、登場人物の評価をしているからね。 フロイスは「人々の語るところ」と書いてすぐ
「二人だけの間での出来事であったので、
後々まで民衆の噂に残ることはなかった」
とも書いててどうにも歯切れが悪い
その事件が実際あった場合それを知り得るような
ある程度地位のある人から聴いたのであれば
その名前を挙げて書くだろう
なのであくまでそんなに確度の高くない噂として
(人々の語るところ)そう言う話を聴いた
それも当時そこまで広く信じられたわけでもない
(噂に残ることはなかった)という感じじゃないかな
「そんな話もあったなあ」程度の噂はあって
軍記物での足蹴打擲の話はその程度のものに
尾鰭を付けてるだけなんじゃないか >>1
これも有名だよね
>天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した。
>光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。
それでも信長は最後の最後まで光秀を信じていた 光秀は酷い裏切りをしたよね
サイコパスだった可能性はないのか?
たとえば平気で人を殺害するような… サイコパスというよりは、当時にすれば普通よりちょっとだけ強迫観念みたいな
心境に、一瞬陥った感じではないのかな。なぜならば、変後に起こりえる背景を
恵さんできていなかったから。安土への帰還路の閉鎖すらしていなかった。
叡山焼き討ちも、信長よりも光秀が積極的に実施している可能性が高いしね。 光秀がハッスルしたから比叡山の麓の坂本を与えられたんじゃないかとか言われてるよな
後は稲葉から家臣を1度ならず2度までも引き抜いて信長にブチ切れられたとか
当時でも元の家に承諾を取ってから移籍するのが当然のマナーだったらしいから光秀がおかしい。光秀は信長様に貢献するためのことで私心からではないとか釈明したってなってるが 光秀は一応出世頭だったから
次々と追い抜かれて嫌になっただけじゃない?
自分のこととして考えれば
こんな会社どうなってもいいやって気にもなる 信長から見れば光秀は要らなかった
光秀からすると丹波攻めとかいろいろとあるんだろうが
他の武将でも問題なく達成できただろう 1(中)滝川一益 .285 17
2(遊)羽柴秀吉 .308 6
3(三)明智光秀 .302 15
4(右)柴田勝家 .275 32
5(一)佐久間信盛 .264 24
6(二)森可成 .246 8
7(左)池田恒興 .253 5
8(捕)丹羽長秀 .236 8 滝川一益って本能寺の変を知ってからの動きがのんびりすぎるけど何で秀吉みたいに迅速に動かなかったんだ? あと現に攻められかねない状況だった
(そして実際攻められた)のはデカいでしょ
柴田は魚津城落としたところで
羽柴は高松城落とす寸前で
撤退するには容易な状況ではあった 毛利はもうぼろぼろだった。北条は戦力十分。
北条は織田に臣従しようとしていたが信長の態度に不信感を感じていた
これで和睦するなら最低でも上野を与えないと駄目やろな 関東の豪族の去就も定かじゃないだろうし
あたふたしてりゃ足元から火がつく 18000もの軍勢を擁しながら北条氏直のようなバカ殿相手に神流川で惨敗を喫した滝川一益は無能過ぎる。
上杉景勝はわずか4000で北条氏直を撃退して北信濃20万石を手に入れた。
上杉景勝は名将だ。 18000もの軍勢って言っても北条側は同じ史料じゃ50000の大軍じゃないの
流石に多過ぎるい気もするけど
それに滝川勢って関東の豪族連中含んだ数じゃないの?
烏合の衆に近い様にも思うが 毛利と違って北条はこの時の同盟破りで織田後継政権との関係が一度切れてしまったのが結局は後々まで響いてるよな
まあここで一気に甲信越での存在感を増せれば、政権に直に影響を及ぼせる位置に進出するチャンスだったんだろうけど
見事に失敗してほぼ何も得られなかったが 50000の動員力があっても上杉、徳川を降せなかった氏政さん >>329
北条の場合は合議制を採っていて、武田氏のように当主に最終的決定権がなかったんでしょ?
加えて当時は氏政・氏直の両頭体制だったから、意思決定のスピードが遅くなるのは必然で何事も後手後手に回ってたんちゃうの 「プレジール福島」1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務 昭和62年うまれ)は怖い住民。井本寛(いもとかん)の壁ドンが横行、住んだら絶対ダメ!そんなマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、トランクルームとしても役立たない下水臭いマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、安かろう悪かろうがモットーの商都が運営する賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27),
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「プレジール福島」 1002号室の井本寛の持病 性器ヘルペス ソープで感染 井本寛(いもとかん)のペニスに毎日大江橋クリニックで処方された軟膏を塗る生活
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「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 東 利則(茨木市小川町9−211) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
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「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 西口 昌宏(岸和田市八幡町10−15) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 飯尾 義弘(神戸市灘区八幡町4-9-27) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 葉山 大樹 葉山 真里 葉山 結里奈(東成区深江北3−15−14) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 立花 直輝 立花 智美 立花 和美 (住吉区山之内1−17−13) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か?? 44 >>317
方面軍司令官クラスは打者というより先発ローテーションピッチャーなイメージやけど 知名度が低い隠れた織田軍の名将
武藤舜秀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%88%9C%E7%A7%80
>・兵法・軍略に長じていたといわれ、しばしば軍議に参与したとされる。
> 干戈の事あるとき、信長は先ず舜秀に議していた。(『武家事紀』)
>・1577年(天正5年)8月、上杉謙信が能登へ進出した報を受け、信長は勝家に秀吉・長秀・一益ら
> の武将を付けて加賀へ送り込んだ。(秀吉は途中で帰陣)ところが、加賀の農民たちが
> 上杉方に味方し、織田軍は手探り状態で進軍する羽目になった。
> その苦境を、信長側近・堀秀政にあてた連署状がある。
> 連署状の署名は、勝家・長秀・一益・そして舜秀の四人であった。
> これにより、舜秀が、同陣している西美濃三人衆よりも地位が上であったと考えられる。(『宮川文書』)
>・1579年(天正7年)6月20日、有岡城の包囲戦が長期にわたり、信長は在陣している者に
> 鷂を贈って慰労している。
> その恩典に浴したのは長秀・滝川一益・蜂屋頼隆・福富秀勝・舜秀の五人であった。
> 織田家の代表的な家臣・側近と同列に扱われていることは、信長が舜秀を重用していることを
> 十分に窺うことができる。(『信長公記』)
毛利秀頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E9%A0%BC
>・織田家中でも武功をもって知られた武将であり、名将言行録には信長が長篠の戦いの直前に
> 家康に加勢を送るべきかを、武辺の誉れある秀頼と分別の厚い佐久間信盛の両人を召して
> 相談したという逸話が収録されている。 久しぶりに山岡荘八著の「織田信長」を読みたくなった。 >>317
信長青年期
1(中)滝川一益 .285
2(遊)羽柴秀吉 .308
3(三)森可成 .302
4(右)柴田勝家 .275
5(一)佐久間信盛 .264
6(二)明智光秀 .246
7(左)池田恒興 .253
8(捕)丹羽長秀 .236
信長終盤
1(中)滝川一益 .295
2(遊)明智光秀 .285
3(三)羽柴秀吉 .302
4(右)柴田勝家 .275
5(一)徳川家康 .305
6(二)森長可 .296
7(左)池田恒興 .253
8(捕)丹羽長秀 .236 暴れん坊将軍の再放送見てたら、悪代官がかの柴田勝家の言った言葉として
「センジン(戦陣か?)の将たるものイゲン(威厳か異言か?)無きときは下知行わざるものなり」
というのを引用してたんですが、ネットでは見つけられませんでした。
これって脚本家の捏造でしょうかね?それともなにか出展があるんでしょうか。