【滝川一益】織田信長の家来を語るスレ【柴田勝家】
忠臣から謀反をおこした人まで、多彩なメンバーが集結しました。 バラエティ豊かなところが好き
ガンダムで例えると
佐久間信盛→ 旧ザク
柴田勝家→ ドム
丹羽長秀→ ザク
明智光秀→ ギャン
羽柴秀吉→ ゲルググ
滝川一益→ グフ
前田利家→ ズゴック
すまん、てきとーに書いただけだ 1(遊)羽柴秀吉
2(二)丹羽長秀
3(右)滝川一益
4(一)柴田勝家
5(三)佐久間信盛
6(左)佐々成政
7(捕)村井貞勝
8(中)池田恒興
9(投)明智光秀
監督 織田信長 河尻秀隆が甲斐に暴政を強いたというのはやはり徳川のプロパンガスで、実際には武田時代の高率な税は速やかに廃止している いかようにもオーダーが組める強力布陣。
4番ピッチャー・織田信長(監督兼任)という感じの顔をしているアノ方だが、
前面に出ないでベンチで鼻でもほじっていれば勝手に組織は機能する。 塙直政、坂井政尚、蜂屋頼隆、金森長近、菅谷長頼あたりって、いまいち語られないな 桶狭間で今川義元の首を取った毛利新助(良勝)は本能寺の変でひっそりと亡くなった
と最近知った。 荒木村重とか松永久秀とか、怪しい人が混じっているのも魅力的 >>1
柴田勝家→忠臣・ただ傲慢で人望に欠ける
丹羽長秀→小物・ちょっとよくかいて利用された。織田家滅亡の引き金を引いた
明智光秀→まじめ・いじめられてやっちゃいました
羽柴秀吉→謀反人・主君が死んで1年もたたずに主君のお方様や孫娘を殺して恩ある主家を乗っ取り主君を呼び捨てにする
滝川一益→忠臣・彼が力を失ったことで織田家は…
前田利家→誠実な顔をしたゲス。信長に寵愛されながら秀吉とともに織田家を乗っ取り、勝家を義父にしながら敵前逃亡 仮に信忠が生き残っててそれらを使いこなすことができたかどうか? でも秀吉よりも魅力的な人物は複数いる。
あくまでも個人的意見ではあるが。 > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 どこの宗派でもありませぬ。
「そんなもんにすがるなら、オレを拝め」と主君がうるさいですから。 左様か。次は、熱田あたりで繋ぎをつける。そこで、今川どのの本陣を教える。今川義元どのを、討たれよ。 あの肥満体のおっさんは、なかなか味があって、面白い方なんですよ。
あ、こんなこと言ってると手討ちにされる・・・・・・あの方に。 古田織部って武人としてはパッとしないのに武将としてはそこそこ有名な高山右近や中川清秀と義兄弟なんだな 来年の大河が明智になったけど誰が出るかな?
やっぱり信長か秀吉が悪者にされるんだろうか 最初の本格的謀反人は織田信行かな。
信勝とも言うらしいが。 >>33
この人は逆に信勝の家老だったけどノブに寝返ってる ノブちゃん、若かりし頃は、謀反人に対して、あんがい寛大だった。 謀反起こした信行の息子の信澄は一門として遇されてるよ
本能寺の後に信孝に殺されちゃったけど 光秀との通謀関係を良く確かめもせず、光秀女婿というだけで殺害する三七信孝に、天下を治めさせ給ふへき御器量なし 確か津田信澄だったかな。
この年(1582年)の死亡者は尋常でないほど多彩で凄かった。 >>4
プロパガンダとプロパンガス間違ってるひとはじめて見た。。 信忠と一緒に死んじゃった五男の勝長もそれなりに期待されてたんじゃないか説もあり
まだ若いから本格デビュー前だったけど どうでもいい信雄はしぶとく生き残る。
実は世渡り上手だったりして。 >>46
実はっていうか普通にそうでしょ
よく生き残ったよ ただアナルセックスするだけなら普通に女のアナル使えばいいだろ ニューハーフヘルスの醍醐味はやっぱ掘られる快感雌落ちに尽きる 信雄君の名誉のためにチョイカキコ
同時代史料だと「信長に一番似てる」だっけな?そこそこ褒め言葉もあった
太閤様が何が何でも引きづりおろしたし、
波風立たぬよう、褒め言葉は全部消して、暗愚って評価だけ残したんじゃなかろうか 似てるのは容姿だけ
信雄は江戸時代に大名として生き残ったからそれはない
大名として生き残ったらあまり悪いことは言えないのに
たくさん悪評が残っているのは相当の人だったということだろう 暗愚すぎて生かしておいても害を及ぼす力すら無いから、放って置かれたのだろう
まあ織田家の美しき流れが途絶えずに済んだのも怪我の功名ではなかろうか アナルセックスといえば信長は前田又左や森欄丸などと衆道関係にあったというが、この場合は権力者の信長が掘るの?現代的なイメージだと色白細面美形の信長がマッチョイメージの森兄弟や槍の又左に掘られる絵が似合うな。 >>12
信忠がふつうに逃げ延びてたら織田も多少は持ちこたえただろうし、面白い展開になったのにな
ちなみに、蒲生氏郷が信長の娘婿って、エピソードだけは聞くけど、史実ではないんだっけ?
ほんとに娘婿だったなら、一門格として扱われてたろうしなぁ 一門扱いの信澄も氏郷や堀秀政辺りと一緒に仕事してるよね
信忠>>>>>信雄信孝>>>>>その他の子供たちだよ >>56
信雄信孝は同列ではない二人の序列には大きな開きがあって間に信包が入るんでは?
信忠>>>信雄>>>>>信包信孝>>>他 >>51
>>52
たくさんって言うほど悪評は残ってないだろ
伊賀はしゃーないけどそれ以外はネガキャンばっかじゃん 氏郷を一門格でみてたなら、一門格の中で図抜けて有能だったろうし、信長はもっと重宝してたように思うんだよなぁ
信長、身内には能力不問で甘々だけど、娘まで与えたのなら、氏郷甘やかせばよかったのに…
まぁ、羽柴明智の対抗馬は厳しいし、娘を貰ってたとしてもそこまで甘やかせる血筋でもないか 長島でやられちゃったね
弟に服従後は、なかなかの外交官として活躍した模様って書いてる人いたな 斎藤義龍と結んで暗躍していた時期もあった。信長留守を狙って清州へ
出陣したが、留守番の佐脇藤右衛門が信長の言いつけを守って信広を
中に通さなかった。 >>3
秀吉って、ドカベンの漫画に例えると殿馬という感じがある。
岩鬼が信長。 秀吉って日本史上でもまれに見るマキャベリストだよね とくに本能寺の変後は >>79
30年ぐらい前、中学生になる頃にそういう話題ばかり集めた本を読んだなあ
その後は上杉謙信が女だったかもとかそういう話が出始めた時はもうその手の本は読まなくなったw 信長を諌めるために切腹とかありえないし
切腹しなきゃいけないほどの失態を犯したんだろ 平手氏の先祖って家康の記録上の源流になる世良田有親・松平親氏親子としてる系図があるんだな
後付け設定にしても随分思い切った事してる >>61
一門格には池田元助という高い壁があるからな…
弟の照もそれなりだったし姉妹は信長の命令で信房の側室になってたし
乳兄弟の子が変に優秀だとある意味周りはつらいよな >>85
所属が違うな。柴田勝家は軍団指揮官で、丹羽長秀はどちらかといえば近習 森可成(蘭丸の父)も忘れないでくれ
信長軍わずか700人の時の武将で1700人の弟+猛将柴田勝家から
信長を守った初期信長軍の唯一の猛将 森可成こと「攻めの三左」 通称 三左衛門
美濃国からきた猛将三左衛門を信長は配下にしたことで弟と柴田勝家に勝利できた
なんせ弟と柴田勝家は信長の手の内を全部知っていた
しかしこの新しい信長の家臣の三左衛門の事はよく知らなかった
それで信長は三左衛門の協力の下で柴田勝家を打ち負かした >>54
信長の野望や大河ドラマでは省かれる場面だが現実に主君と一部の家臣で実際あった話だからもっと語られてもいいのでは。
実際は主君が家臣に掘られる事は絶対無いの?
自分もケツの快楽を求めたくなってとか無いの?
歴史詳しい人教えてください 掘られることを好んだ家光は「女々しい」ってことで諸大名の顰蹙買ってたらしい 古代ローマの受け手が恥っていうのと同じか
カエサルがディスられてた 蘭丸って後世の当て字で同時代の史料ではないんだよねたしか
乱が正しいみたいだけど、読みは同じだから信繁(幸村)ほど言及もされない感じ まだ蘭の花自体も日本になかったそうな
兄弟みんな雄々しいのに一人だけそんな名前にしないよねw 蒲生氏郷の鶴千代と堀秀政の菊千代が美少年っぽい
ヤンデレ美男子の細川忠興は熊千代
強そうw >>91
史実であったからといって今以上に語る必要もないんでは?
そういうレスを見かけることが増えたけどそんなことよりもっと
語ったほうがいいことはあるとおも
例えば戦国期は主三度変えて真の武みたいなのが普通だったとか
なぜいちいちそこばかり注目せなあかんのかとw >>97
そこばかり注目する必要はないが頑なに避ける必要もないだろ?主人と家来を語る事になってる。そればっかはどうかと思うけどな。 避けるとか被害妄想酷すぎて笑える
鍵屋の辻の決闘のきっかけになったなぜそこまで池田忠雄!
みたいな検証とかなら必要なことかもしれんがそうでないなら
知ってる人は知ってる程度で十分なんじゃね?
あなたが言うほど避けているようにも見えないけどな
逆に聞くけど上記のような場合以外でそこまで出さないといけない理由って何さ?
知ったところで茶化されるかおかしな方向での検証評価で終わるだけだぞ 農民が武士になることってほぼ無くない?
秀吉ですら別に純粋な農民じゃないし
農地を耕してたとか言い出したら地侍なんかも農民になりかねない
足軽は農民ではないので論外だし、組織的な農兵なんてものも存在しない だけど男同士の性行は掘られてこそなんだよなあ 掘るのは女のけつでもできる訳で 一度掘られる喜ぶ覚えるともう二度と後戻りできない
だよね? >>101
金森も河尻も美濃の土豪出身だね。
>>102
戦国時代は、農民と武士の区別は曖昧で
純粋な農民って言うのは、刀狩で出来たもの。
地侍は兼業農家そのものだし
足軽は、常勤の兵もいれば、流れ者や農民を臨時で雇う場合もある。 金森って大名は気の毒すぎます。材木資源に眼をつけた幕府から飛騨を逐われ、挙げ句とりつぶし 原田直政が討ち死にしなければな
光秀の謀叛もなかったろうに 柴田勝家て謀反人だろ
そのうち林とか佐久間みたいに乞食になって餓死だったなw いい武将だったが後継者にめぐまれなかった
それを思うと前田利長は立派 父利家の業績をみごとに引き継いだ >>115
信長の主要家臣で親子の年齢差が
ちょうどよかったのは前田・池田・細川ぐらいか 子供の頃、裏山に信長の家来の城があったと聞いて心踊ったが
最近、地元歴史家の本を読んだら
自分の祖先がの家臣であったと知りビビった その信長に親戚いっぱい殺された子孫がここに甲斐源氏は外も中も地獄だぜフハハー >>47
信長の血を唯一幕末まで大名として残したのは評価できる 家系は残ってるけど何代目かで織田家とは関係ない母方の実家から
養子貰って継いだので信長の血筋そのものは途絶えてるらしい
母方の家系も遡れば信長の血が混じってるのかも知れんが 来年の大河「麒麟がくる」では、林秀貞の名前はどうなるんだろう?
ちゃんと「秀貞」で扱われるだろうか >>95
日本原産の蘭はたくさんあるよ。
少彦薬根とか聞いたことない? 長身で屈強な乱丸だと苦情が来るらしいねw
当時の人たちは乱って書いてるのに 明智(秀吉)>>>>滝川>>柴田>>丹羽>>(佐久間)
なイメージ
派手さで言うと >>139
佐久間は軍団長だが、丹羽は遊撃軍の隊長
丹羽が佐久間より上とかありえない あくまで「派手かどうか」の個人的なイメージなので・・・
鉄砲上手かったり水軍率たり茶器スキーだったり
滝川は結構派手なイメージあるわ 勝家は無骨者、一益は知将、長秀は能吏なイメージ
どれも派手という感じはしないが
画像検索して萌え絵が多いのは意外と長秀 信長公記を読むと内政も軍事も織田家の前半を支えていたのは丹羽長秀というのがよく分かるぞ >>144
信長の幼なじみなのがいいんだろ
柴田滝川はおっさんだし >>145
丹羽は出世が頭打ちになってしまったのである
(谷口克広・談)
明智や羽柴などが軍団長なのに対し、丹羽は遊撃軍の隊長止まり 幼馴染というなら池田だろうなぁ
歳が近いから丹羽もそんな感じに扱う作品あるかもだが
信長に仕えたのは元服の前後と推定される 丹羽は軍事以外にも使い勝手が良かったのが仇になったのかね 丹羽は側に置いときたかったんじゃないの
息子たちの世話もしてくれるし 米五郎左は信長にとって使い勝手のいい配下だったんだろな
秀吉の長浜拝領とほぼ同時に若狭の国持ち大名になってるし
その後も佐和山城は維持してるし厚遇は変わらない 織田政権は一国がサラリーキャップだった可能性が
北陸制圧した後は与力に一国ずつ分割されて北陸方面軍の柴田は結局越前一国
旧武田領も分割されて五カ国率いた秀吉も領地は播磨だけ。本能寺まで2か国持ちは皆無(信忠除く)
丹羽は一番最初にキャップに到達したので一番最初に出世が止まった的な感じじゃねーかな
もっと勢力伸ばして辺境行けば2か国持ちも出てきただろうけど でも佐久間、柴田、明智、羽柴、滝川のような軍団長にはなれなかったんだよな、丹羽 まあでも豊臣政権の加藤清正、福島正則、黒田長政と石田三成みたいな関係になってないのは丹羽の人徳でしょう 軍団長連中ほど戦は強くなく奉行衆ほどの才覚もない
戦も政治もできる光秀の下位互換なかんじ >>156
>145
信長入京あたりまでの前半戦はめちゃくちゃ活躍してるぞ
ダテに佐和山城をもらっていない 奉行衆という固定された階層は当時なくて
重臣や馬廻が適宜任命されてるよ
流石に地方攻略に固定されると減るけど
秀吉や勝家ももちろん長秀も多くの奉行を務めてきてる
長秀で有名なのは安土普請の総奉行(総責任者) 良く言えばオールマイティ、悪く言えば器用貧乏というイメージは確かにある
でも同じ幼なじみ枠の池田に比べたら段違いに優秀だと思う >>159
佐久間信盛の折檻状では、池田は出ているが、丹羽は出てこない
信長の評価は、そんなものだったのでは 丹羽は安土城建てたら茶器もらえたし
滝川さん散々やん 村井貞勝とか行政官僚系の家臣って所領は貰えなかったのかな? 蒲生氏郷について調べてるんですけど、馬の小雲雀を信長から拝領したという逸話の出典ってどなたかご存知ですか?
調べても「拝領したと言われている」止まりで出典がわからなくて
氏郷スレがなかったもので、スレチ失礼します ミネルヴァの「蒲生氏郷」は?
著者が藤田だから、あまりおススメできないが >>168
織田金左衛門からじゃないですか?それなら名将言行録の蒲生氏郷のとこに載ってます >>170
やはりそれが元なのでしょうかね
この時代にネットで引っかからないので史実ではないと思っていたのですが、前田慶次の松風ほどはっきり名前の出た拝領関係の逸話もないので不思議に思っていました。これから伝聞のように広まったんですかね
名将言行録も読み込んでみます。169さんもありがとうございました >>171
織田つながりで金左衛門と信長を混同して伝わっていったのでは、ということです
ただそれだと数ある信長の馬の中からなぜ小雲雀だったのかがひっかかるのですが。もう少し調べてみます >>173
前田は一度勘当されてる
手柄がなければ帰参を許されないだろう 前田家は江戸時代大大名として残ったから
比較的事績が伝わってる方だと思うが 出奔から馬廻時代のどの戦いで幾つ首級を上げみたいな
小身の頃の手柄は他の武将と比べてもよく知られてる方かと
75年は多分転機の年で長篠での鉄砲奉行の1人を勤め上げ
越前一向一揆を滅ぼすと府中三人衆として
北ノ庄の柴田勝家の目付けと地方行政の経験を積む
その辺なんとなく与力された柴田の功績としてよく語られるが
三人衆は信長直参で勝家に与力する立場で勝家とは別個に
政治も取るし北陸離れて上方に参戦もする
実際本願寺との講和から北陸戦線が北に押し上げられると
佐々成政とともに国持ち大名に出世してる
これは馬廻出身者としてはトップグループの評価 賤ヶ岳でいち早く戦線離脱したことが勝敗を決したと言うし
実際その功績で秀吉政権下での地位は確立したのは間違いない
ただそもそも戦力比は羽柴のが優位だし突出した佐久間が
潰走するのは時間の問題では?という気がするし
ろくに戦わず引いたのは他の諸将も実は一緒
その後秀吉と敵対した佐々をほぼ単独で防いだこと九州征伐で
畿内の留守を守ったことも秀吉にとっては手柄
さらに小田原では上野経由の別働隊の総大将として
上杉や真田を率いて快進撃
伊達や南部の帰順においても取次の任を果たしてる
その後豊臣の宿老として家康とともに秀吉の側近くで
朝鮮への都 渡海を押しとどめるような存在になったが
では他に誰がその地位に相応しいかとなると他にいないだろう 利家は長秀が1585年に死んだ後の後釜にうまく居座れた >>163>>164
評価云々とよく言われるけど書状の特性上信長の評価というより
佐久間が読んだ時に心にくる人間をチョイスしたんじゃね?
現代でもそうだけどこういうお叱り文書ってもらった側の心理を
良くも悪くも揺さぶる人間を出すのが定石だから評価云々でいうなら
信長というより佐久間から見た評価を信長が上手く利用したようにオモ
言い換えれば普段佐久間が良くも悪くも口にすることが多かった連中 >>179
丹羽家も長秀が120万石近くまでなってしまったことが逆に息子の代での粛清の対象になった訳で前田も秀吉存命で利家が先に亡くなっていたら兄弟で分割されていたかもと思う 政権早期にはありえたかもね
ただそれは正直家康なんかも同じだろうね
秀吉の晩年には遺言でも家康の後継は秀忠
利家の後継は利長と名指しされて
政権内に位置付けられてるけど 蒲生氏郷の方が何で出世したかわかんなくね?
有能だったというのはよく言われるけど91万石となると
総大将や単独での武功なくて大抜擢に見える 秀吉のことだし、後世のネットでの批判云々よりも確かな見る目があっての転封なんじゃ?
とも思ったり
僻地へ追いやりたかったなんて見方もあるけど、それで身上が5倍ほどにもなるのだろうか
しくじったところを取り潰すため、なんて推測もないこともないかもだけど 小田原で堀が死んだ
蒲生50堀50ならおかしくない そもそも会津91万石になったのは検地を経てのことで
元々の表高42万石で考えたらまだ納得感ないかな?
どちらかというと奥州(対伊達)の抑えのためというなら
功績に報いるというより先行投資的な移封かと
>>185
ネット評価的には氏郷ってかなり名将扱いじゃね? 功績への評価というより動員兵力としてその石高じゃないと東北の押さえにならないということでしょ
上方からそう簡単に後詰めできる場所じゃないので 信長の家臣てだいたい子供いないとか少ないよね
セックス出来ないほどブラックな会社と考えると謀反したくなるわ >>189
森さん家は男子だけで6人だよw
他に女の子も数人いるはず
利家も子沢山
イケメン説がある人は子供多いイメージ これだけ子沢山の家臣を召抱えているとこなんて全国的にも珍しくね?
池田恒興 9人
佐々成政 11人
前田利家 19人
滝川一益 8人
丹羽長秀 14人
前田玄以 7人
稲葉良通 11人
稲葉貞通 8人
安藤守就 11人
森可成 8人
蒲生賢秀 9人
九鬼嘉隆 11人 でも勝家、光秀、秀吉という最前線の司令官は男子おらん
言い換えれば相続者を織田家もしくは織田家の意向で他家との養子縁組で作れる人に任せていたのはポイントかもしれん >>192
勝家も2人男子おったけど早逝してなかった? 勝家は嫁もいないよね
亡くなったんだろうけど
秀吉は種なしだろうな 一夫多妻みたいなもんだから好きな奴は子供たくさんいるだろ 大阪城に女を300人ほど囲ってたっていう人は?
信長に女遊びをたしなめられてる手紙も残ってるくらいだから子供たくさんいるのかな?
当時は避妊もできないしね 大河ドラマ見てる人いる?
最初は見てたけどつまんなくて見るのやめちゃった
>>210
意外か? >>211
素性定からずな光秀、一益、秀吉らが成り上がっていくのが面白いのに、信長ばかりか家康とも面識あるとかファンタジーにも程がある・・・もちろんもう観てないw あれは令和版国盗り物語(後編)だろ
国盗り物語をベースにしてそれに色々新要素を付け足してると考えれば十分面白い
司馬遼太郎が嫌いな人は楽しめないだろうけど >>217
「保守」ではなく中身のあること書けよ
スレが伸びてるから覗いてみたら「保守」(´・ω・`) 滝川一益って老いて衰えたっていうけど
どう考えても運がなかっただけだよね
周りの評価も高いままだったし 衰えてなかったら敵地孤立した神流川勝てるんか?とか
衰えてて信雄家康のど真ん中蟹江落とすんかい?とか 調略、戦闘、行政手腕といずれも当時の織田家中で屈指
ただ政局を読んで自身の身の振り方をどうするかという点、つまり大名としては上手くはなかったということかな
秀吉はずば抜けいているとしては丹羽には及ばず柴田と並び明智には勝る
この点では柴田与力だった前田に劣る そういう立ち回りは前田がトップだったな
恒興もまあまあだったが死んでしまっては……
こいつはバカだったのか不運だったのかわからん……
丹羽は戦も強くバランスとれてたが病で家が安定する前に……
やはり運か 滝川家臣団というより与力がみんな逃げてしまったからだろう
東部方面は実質信忠軍団に再編されてたし >>223
池田さんは強い乳首のお母さんの力でしょうな 信長やその嫡子信忠存命の時はそうでも本能寺の変でその力は一回切れたと思うけどな
秀吉としては池田母の実家滝川家と更に滝川と柴田の3人がまとまらないようにする必要があった
特に池田は摂津を領していて中国地方から帰還し摂津、山城で決戦になりそうな対明智戦では重要な存在
池田の取り込みは山崎の合戦の勝敗をほぼ決するほど影響があったと思うけどね 池田が明智討ち拒否って明智に付く要素はないだろう
その後はおかんの縁から信長の息子達支援するのが筋だが
信孝糾弾する羽柴に賛同したのは本人の判断だろ 恒興も長可も揃って討死してしまったから無能っぽさがあるがほとんど兵力は伯仲してたそうだから元助もろとも討たれてしまったのはよほど運が悪かったんやろね
それか信雄が本当は実力者だったか
いやでも総大将たる信雄と家康が目の前にいたら欲に目が眩んで前に出過ぎてしまうかもしれん 予想外の不意打ちを狙うのが奇襲
突然焼き働してもいきなり落城させても奇襲 滝川一益はやっぱ関東に配置されたのが運の尽きだったんだろう。
本拠から遠く離れてるし、土地勘も全然無いし、与力武士の忠誠度も低いし。
「関東の領地なんか貰うより、有名茶器を貰う方がマシだ」
と言いたくなる気持ちも理解出来る。 >>231
ただ本能寺の変さえなければとんでもない権勢を誇っていただろうな >>232
それは微妙では?
本能寺の変の時点で
柴田勝家が55〜60歳(推定)
滝川一益が57歳
明智光秀が54歳(66歳、48歳説もある)
織田信長が49歳
羽柴秀吉が46歳
丹羽長秀が47歳
池田恒興が46歳
年齢だけで言うともう第一線で指揮を取れる最終期。
信忠の乳母をつとめた慈徳院が滝川一族の出という話もあるから遠からず信忠のお伽衆になる可能性はあっても前線に残り続けた可能性は高くなさそう。
信忠の側近には斎藤道三の息子で濃姫の弟とされる斎藤利治が既にいた。
利治は本能寺の変で死去した時に41歳。
出自と織田家に加わってからのキャリアは基本的に信長近習からのし上がり美濃の有力国人佐藤家を継いで加治田城主。
その後は各地を転戦し連戦連勝、若い頃の一益や秀吉並みの働き。
更に重用されて長篠の戦前後からは信忠与力として動き、本能寺の変前夜は信忠に従って妙覚寺に宿泊。
そのため本能寺の変で落命。
一益より15歳ほど若く実戦でも信忠麾下で長く働いたこの人がいたら一益の影響力が強くなり過ぎるのも嫌がられてそれ程恵まれた境遇になったとは思えないけどね。 >>233
滝川一益は織田政権の韓信か彭越くらいの立場だってのがわからないの? 斎藤利治は越中での大将としての軍功もあるし、信忠政権下では、丹羽長秀みたいに本拠地近くで遊軍的ななってたかな。 信長は執事や管領のような自身の代理的な
役職をおかなかったしあるとしたらそれだな
20年後に信忠健康なら働き盛りだけど
その時は斉藤も隠居だろうしな 文官というか吏僚衆や右筆とかの序列ってどうなってたんだろ? 京都の村井貞勝に信長に諫言できたという武井夕庵が2トップかな
菅谷堀長谷川は自立させて放出予定か 菅屋堀長谷川らは馬廻で普通に軍務にも当たってる
彼らを文官吏僚と言うとちょい違和感
前田佐々らの後任な訳だが彼らを吏僚とは言わない
何なら明智羽柴も同じような奉行をしてたけど
文官だなんて言われないでしょ 村井貞勝、武井夕庵、松井友閑、楠木正虎あたりが吏僚、右筆衆かな? >>234
??
232 人間七七四年 sage ▼ 2020/05/25(月) 12:34:11.64 ID:G1Sdy6Px [1回目]
>>231
ただ本能寺の変さえなければとんでもない権勢を誇っていただろうな
いや、あんたw 武井松井楠は右筆出身だね
村井は比較的高齢で文官として重宝されたから
前線出てないだけで武将じゃないかと 林秀貞なんかも武将だけど出陣は少なくて、奉行だったり取次がメイン? 信長の重臣たちって、実子が無いのが多いのは宦官だったからって説は有名? >>245
さすがに……だけどちょっとおもろいw
なるほど確かに、光秀、勝家、一益ら軍団長クラスの武将たち、みんな良い年してるけど
息子のキャラ立ちが薄い。秀吉もそうだし
信長「コイツ子どもいねー(あるいは幼い&病弱)から、裏切って王朝築くみたいな発想ならんだろ。よし出世させたろ」
っていう発想はあったかもしれない 林秀貞は息子の光時が存在感あったが伊勢長島で討死したが三男の一吉がいた
共に追放された
佐久間信盛も息子の信栄と親子で追放されたのは有名
しかし信栄は本能寺の変の年の初めに赦されてるんだよな 滝川は息子はいるししっかり現代まで血脈が続いてる。 次男は名将滝川一益の息子として大事にされたらしいから結構有名 >>249 >>250
だからこそ関東に遠ざけられたとも言えるかも? 主要家臣の息子世代で名を残したのはこんな感じか
細川忠興→池田輝政→前田利長→丹羽長重 戦国当時の子供が生まれて立派に育つ割合から見ればそんなもんだろ
結構な割合で生まれてすぐとか幼少期に死ぬよね
家系図の男とか女という記述は名前が付く前に死んだことを意味する 光秀の家臣に信長の元馬周りがいないのが謎すぎる
最後に裏切られるのも納得 それは必ずしも他の重臣達にもいなかったんじゃね?
光秀に与力したことある馬廻はいるし
>>257
関東の要職を任された滝川には成人した息子がいるで >>259
柴田には佐々、前田
秀吉には竹中重矩
滝川はいないか。明智なしと
やはり大名までなると監視役は必要だな だからそいつらは与力してるだけで家臣じゃないって
あと明智に馬廻が与力してる例は普通にある 例えば本能寺後に瀬田を渡ろうとする
明智の要請を断った山岡なんかも一時与力してた
明智は本能寺の頃には丹波攻略終えていて
与力を与えられる使命というのが特になく
逆にその時々必要なとこに援軍にいく
遊撃軍的な使われ方が多かっただけだね >>261
明智のとこにいた目付感ある馬廻りてたとえば誰? 猪子兵助とか天王寺の時に明智と同じ軍中にいるね
信長公記とかで明智の活躍は最小限に書かれてるだけかと 佐久間信盛が本当に無能なら、そんな無能が筆頭家老を20〜25年勤めて織田があんなに大発展する訳がない
織田の成功に対する功績は家中筆頭とされてもおかしくない >>265
猪子兵助ぐらいですか?天王寺って塙が戦死してやばい時だよね だから何?
ちょうど何が言いたいかわからないから整理して >>266
> 佐久間信盛が本当に無能なら、そんな無能が筆頭家老を20〜25年勤めて織田があんなに大発展する訳がない
それはある 佐久間盛政に撤収命令なんか出してないで
自分が本陣を賤ヶ岳まで進めてれば勝てたんと違う? 賤ヶ岳合戦は柴田にも勝つチャンスがあったはずだが。 統率 武勇 知略 政治 合計
<重臣・軍団長>
羽柴秀吉 94 78 97 99 368
明智光秀 95 85 93 91 364
滝川一益 86 78 89 62 315
柴田勝家 87 92 68 66 313
丹羽長秀 80 75 73 84 312
佐久間信盛 78 62 43 56 239
林秀貞 34 41 68 59 202
<中堅>
荒木村重 81 67 74 64 286
池田恒興 72 69 49 65 255
河尻秀隆 60 70 56 61 247
森可成 63 70 61 43 237
水野信元 ?
坂井政尚 ?
中川重政 ?
<与力・国衆>
松永久秀 82 67 93 90 332
細川藤孝 77 77 85 90 329
前田利家 80 84 71 78 313
稲葉良通 76 67 71 70 284
佐々成政 75 80 59 65 279
筒井順慶 55 53 76 77 261
九鬼嘉隆 76 70 59 48 253
金森長近 62 57 65 60 244
氏家卜全 67 62 55 54 238
安藤守就 46 52 73 58 229
簗田政綱 39 61 70 59 229
蒲生賢秀 51 56 62 59 228
蜂屋頼隆 56 68 46 34 204
野間長前 ? >>275
九鬼は特殊能力「水軍」がある。
あと金森長近がないぞ。 単独や大きな功績は伝わらないが歴戦で国持までなってるから
池田恒興と同クラスで美濃三人衆より上あたりが妥当かな >>272
目の前の敵が見えないの?
信長が育てた堀秀政がいるだろ
一番前の砦すら落とせないのに敵中をどうやって攻め込むんだよ 江の柴田勝家は肖像画にかなり似せようと努力してるのがいいね。 >>275
森三左衛門可成は早くに戦死しているだけで初期信長の重臣なんだけどね
信長の若い時の右腕的存在で羽柴秀吉や明智光秀よりずっと古参
そして信長軍を引っ張ってきた牽引力
それは信長がまだ尾張の大うつけと呼ばれて700人しか集められずにいた時代からの主戦力だった
本当はここには柴田勝家が入るはずだったけど勝家は弟の信勝側についている
今の風潮を作り出したもので一番悪いのは司馬遼太郎と明智光秀の子孫
小説の中で邪魔な森三左衛門をそもそも出さないからね
だから信長公記をまともに読まずに司馬遼太郎の歴史小説を読んでドラマや漫画などを制作したものは司馬遼太郎歴史観で人物像を捏造するのな
実際には初期の信長軍では筆頭に来るのは攻めの三左こと森三左衛門
そして退き佐久間こと佐久間信盛と米五郎左の丹羽長秀そして犬千代こと前田利家
この中では犬千代は拾阿弥を斬殺し出仕停止処分をくらう
本当は死罪だったが森三左衛門と柴田勝家の嘆願で減刑される
柴田勝家は昔からの家臣だったが弟の信勝について信長と戦う
ここで信長を救ったのが森三左衛門
で秀吉が信長についたのは後の事
さらに光秀が信長に仕えたのはその更に後の事
ただ森三左衛門が早くに死んだためにスライド式で柴田勝家や秀吉や光秀の地位が上がったまで
美濃出身の光秀が出世できたのも本当は美濃の森三左衛門がいたから
美濃攻略では美濃の森三左衛門が信長の右腕だったので美濃の武将の多くは信長についた
そして信長は森三左衛門の功績を忘れずにいたので森長可や森蘭丸(お乱)を重用した >>275
森三左衛門と明智光秀は能力値をそのまま変えた方が正しい
それプラス柴田の武勇を加える
明智光秀は信長に取り入るのがうまかったので政治力だけは高いままでいい
そもそも美濃の森三左衛門がいなければ明智光秀も信長に取り立ててもらう事すらできなかった
その事を明智光秀は自覚していなかったから本能寺の変を起こしたんだけどね >>1
はっきりいうと光秀はいてもいなくても信長の天下統一には関係なかった
しかし森三左衛門がいなければ信長は桶狭間の戦いどころか
弟の信勝の戦いで林兄弟と柴田勝家の軍に敗北して戦死していた可能性が極めて高い
そんな重要な位置に森三左衛門はいて信長の前期の主要な戦いには姿を見せている
清州城の家臣は全く信用していなかった信長
しかし美濃の森三左衛門とは深い信頼で繋がっていた
信長の腹心中の腹心だったのが森三左衛門だった
また森三左衛門も命を懸けて信長のために戦っていた
現代ではありえないくらい評価は低いけどね >>284
はっきりいうと光秀はいてもいなくても一緒で信長の天下統一には関係なかった
と言うか光秀クラスの武将は他にたくさんいたから しかし信長は光秀をかなり信用していた
それが致命傷になったのだけれども
あと明智光秀は古参ではないのでなぜに信長が蘭丸や長可を重用するのかが理解できないでいた 浅井朝倉や長島願証寺との戦いで森可成や氏家卜全や林通政や信長の一門衆の多くが亡くなった
それは彼らが勇猛だったからだと思うよ私は >>287
森三左衛門は千の軍勢で浅井朝倉3万の軍勢を退けているよ
それで浅井朝倉軍は延暦寺の僧兵4千に援軍を頼んでいる
そして数日後にまた戦いを仕掛けて信長の弟と森三左衛門を打倒した
信長正規軍の森三左衛門とは言え
千VS3万浅井朝倉+延暦寺の僧兵だからね
負けて当然なんだよ
これで信長がかなり怒ってあの有名な延暦寺焼き討ちをやってしまう
これに参加して出世したのが光秀なんだよな
金ヶ崎の戦いのしんがりもあるけどね
まあともかく美濃の森三左衛門がいなければ光秀も信長に信用してもらう事はなかったし出世もできなかった
本能寺の変を扱うなら森三左衛門を出さないとね
まあなーんも知らないマニアのドラマなら森三左衛門も長可も蘭丸も出さないだろうね
最近はそんな奴多いからね 山岡荘八の織田信長では森長可の扱いは大きかった
なぜなら尾張統一戦の比重の高い小説なので 1992年の大河ドラマ「信長 キングオブジパング」には森可成出てたな
「麒麟がくる」には出てこないけど >>293
森三左衛門の扱いは酷すぎるね
信長の青年期には必ず出さねければ物語が成立しないんだけど存在自体が知られていない
特に明美光秀の本能寺の変を扱うには欠かせない
美濃の森三左衛門の重用とそれに伴う光秀などの美濃の武将の積極的登用
信長の佐久間追放と明智光秀
信長の佐久間の子孫を許して登用
信長が蘭丸への城と5万石与えたこと長可には20代で20万石の領地を与えた事
そして終盤での諸々の事件での光秀へのきつめの待遇
信長と光秀のいろいろな場面でのすれ違い
光秀の失敗は主に森三左衛門の存在をあまり知らなかったことに要約されると思う
だから信長が長可や蘭丸をかなり贔屓していた理由がわからなかった
そもそも光秀は自分がなぜ登用されていろいろな恩恵を受けたのかがわからなかった
なんか明智光秀の子孫がいろいろ言っているけどあまりに光秀を庇うあまりに周りが見えていないのが目を曇らせている第一の要因に見える
実際には森三左衛門は信長の片腕で三左衛門がいなければ信長は早い時期に死んでいた
それを信長が一番わかっていた
だから蘭丸を若いのに重用し城まで与えた
森三左衛門の存在を消すことで何もかもわからなくしてしまっているのが今の本能寺の変のごちゃませ黒幕説の真相
実際には光秀の勘違いが引き起こしたのが真相でそこには本当は悲しいドラマがあると思うんだけどね >>1
ついでに明智光秀自身の領地は34万石だった
ちなみに羽柴 秀吉こと豊臣秀吉は桶狭間の戦い前からの家来で桶狭間の戦いにも参加しており光秀よりいろいろと知っており
信長を崇拝していた
森三左衛門の事も周知していた
だから蘭丸や長可に不満がそこまであるわけではなくただ信長の天下統一のために尽力していたと思う >>295
永吉が死んだ時は敵も味方も喜んだって言うね
どんだけ嫌われてるのw 光秀と信長の関係が良かったのは
御ツマキの存在の影響だと思う >>297
光秀の義理の妹と考えられる人物で信長の側室かと考えられてる 光秀が織田家に下ったきっかけは、これまで信長正室の濃姫の縁からだとも
言われていた(光秀と濃姫が従妹の関係である可能性があって)。
しかし最近の研究では、織田家による妻木城攻略後に妻木家の娘が、織田家の
女房衆の一人として仕えるようになり、これが御妻木殿との説が有力。
この妻木城城主の妻木氏は、光秀の正室の妻木煕子の実家であることから、
煕子の妹または従妹ではないかとも言われている。御妻木殿が信長の女房衆の
一人であることは間違いないが、側室であったかどうかははっきりしない。
御妻木殿は光秀の坂本城へも度々出向いているし、信長の遣いとして政治的な
動きもしている記録がある。側室であればそのように動くこともないだろうことから、
女性秘書的な存在だったのではないかと、私も思っている。 側室扱いはされてないから女房だろうけど
坂本城に度々出向いているってのはどの記録?
珍しく名前の残る信長の女房衆だけど
そもそもそんなに記録あるんだっけ? >>301
光秀と濃姫はイトコでなかったにしても
何らかの血縁ではあったと思う。 >>297
御ツマキは信長に仕えていたかもしれないけどそんなに影響力はないと思うな
本能寺の変の一年前に死んで光秀ががっかりしたのは本当だと思うけど
信長の頭の中は戦の事がほとんど占めていたと思う
光秀は腰が低く金ヶ崎のしんがりと延暦寺焼き討ちで信頼されたんだろうね
佐久間への信長による19ヶ条の折檻状でも光秀はかなり褒められているね
でも実際には森三左衛門の功績の方がはるかに上だったと思うね
だから晩年の光秀が調子こいて威張っていたところでの信長の仕打ちがあったと思う >>305
だから晩年の光秀が調子こいて威張っていたところでの信長の仕打ちがあったと思う
信長の仕打ちって何?
光秀が威張っていたのはわかる。多聞院日記だか兼見卿記だかにあったよね。 >甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。
>フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。 明智軍記は史料ではなく物語だから、そのエピは歴史家の方々は信じていないというのを良く聞きます。テレビドラマでは鉄板でこのシーンやるけどね。
フロイスの話しも実際に彼が見たわけではないので、本当に足蹴りくらわしたのかどうか解らないと。フロイスはキリスト教に理解があるかどうかで、登場人物の評価をしているからね。 フロイスは「人々の語るところ」と書いてすぐ
「二人だけの間での出来事であったので、
後々まで民衆の噂に残ることはなかった」
とも書いててどうにも歯切れが悪い
その事件が実際あった場合それを知り得るような
ある程度地位のある人から聴いたのであれば
その名前を挙げて書くだろう
なのであくまでそんなに確度の高くない噂として
(人々の語るところ)そう言う話を聴いた
それも当時そこまで広く信じられたわけでもない
(噂に残ることはなかった)という感じじゃないかな
「そんな話もあったなあ」程度の噂はあって
軍記物での足蹴打擲の話はその程度のものに
尾鰭を付けてるだけなんじゃないか >>1
これも有名だよね
>天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した。
>光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。
それでも信長は最後の最後まで光秀を信じていた 光秀は酷い裏切りをしたよね
サイコパスだった可能性はないのか?
たとえば平気で人を殺害するような… サイコパスというよりは、当時にすれば普通よりちょっとだけ強迫観念みたいな
心境に、一瞬陥った感じではないのかな。なぜならば、変後に起こりえる背景を
恵さんできていなかったから。安土への帰還路の閉鎖すらしていなかった。
叡山焼き討ちも、信長よりも光秀が積極的に実施している可能性が高いしね。 光秀がハッスルしたから比叡山の麓の坂本を与えられたんじゃないかとか言われてるよな
後は稲葉から家臣を1度ならず2度までも引き抜いて信長にブチ切れられたとか
当時でも元の家に承諾を取ってから移籍するのが当然のマナーだったらしいから光秀がおかしい。光秀は信長様に貢献するためのことで私心からではないとか釈明したってなってるが 光秀は一応出世頭だったから
次々と追い抜かれて嫌になっただけじゃない?
自分のこととして考えれば
こんな会社どうなってもいいやって気にもなる 信長から見れば光秀は要らなかった
光秀からすると丹波攻めとかいろいろとあるんだろうが
他の武将でも問題なく達成できただろう 1(中)滝川一益 .285 17
2(遊)羽柴秀吉 .308 6
3(三)明智光秀 .302 15
4(右)柴田勝家 .275 32
5(一)佐久間信盛 .264 24
6(二)森可成 .246 8
7(左)池田恒興 .253 5
8(捕)丹羽長秀 .236 8 滝川一益って本能寺の変を知ってからの動きがのんびりすぎるけど何で秀吉みたいに迅速に動かなかったんだ? あと現に攻められかねない状況だった
(そして実際攻められた)のはデカいでしょ
柴田は魚津城落としたところで
羽柴は高松城落とす寸前で
撤退するには容易な状況ではあった 毛利はもうぼろぼろだった。北条は戦力十分。
北条は織田に臣従しようとしていたが信長の態度に不信感を感じていた
これで和睦するなら最低でも上野を与えないと駄目やろな 関東の豪族の去就も定かじゃないだろうし
あたふたしてりゃ足元から火がつく 18000もの軍勢を擁しながら北条氏直のようなバカ殿相手に神流川で惨敗を喫した滝川一益は無能過ぎる。
上杉景勝はわずか4000で北条氏直を撃退して北信濃20万石を手に入れた。
上杉景勝は名将だ。 18000もの軍勢って言っても北条側は同じ史料じゃ50000の大軍じゃないの
流石に多過ぎるい気もするけど
それに滝川勢って関東の豪族連中含んだ数じゃないの?
烏合の衆に近い様にも思うが 毛利と違って北条はこの時の同盟破りで織田後継政権との関係が一度切れてしまったのが結局は後々まで響いてるよな
まあここで一気に甲信越での存在感を増せれば、政権に直に影響を及ぼせる位置に進出するチャンスだったんだろうけど
見事に失敗してほぼ何も得られなかったが 50000の動員力があっても上杉、徳川を降せなかった氏政さん >>329
北条の場合は合議制を採っていて、武田氏のように当主に最終的決定権がなかったんでしょ?
加えて当時は氏政・氏直の両頭体制だったから、意思決定のスピードが遅くなるのは必然で何事も後手後手に回ってたんちゃうの 「プレジール福島」1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務 昭和62年うまれ)は怖い住民。井本寛(いもとかん)の壁ドンが横行、住んだら絶対ダメ!そんなマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、トランクルームとしても役立たない下水臭いマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、安かろう悪かろうがモットーの商都が運営する賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27),
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「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 井本廉 井本もも 井本梅香(杉並区成田東1-11-6-102) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛の持病 性器ヘルペス ソープで感染 井本寛(いもとかん)のペニスに毎日大江橋クリニックで処方された軟膏を塗る生活
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 柳 恒太郎(豊中市北緑2−1−18−1115) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 船越 明生(門真市上島町6−12) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 東 利則(茨木市小川町9−211) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 田岡 亜弥(横浜市都筑区牛久保東1−26−43) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 西口 昌宏(岸和田市八幡町10−15) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 飯尾 義弘(神戸市灘区八幡町4-9-27) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 葉山 大樹 葉山 真里 葉山 結里奈(東成区深江北3−15−14) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 立花 直輝 立花 智美 立花 和美 (住吉区山之内1−17−13) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か?? 44 >>317
方面軍司令官クラスは打者というより先発ローテーションピッチャーなイメージやけど 知名度が低い隠れた織田軍の名将
武藤舜秀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%88%9C%E7%A7%80
>・兵法・軍略に長じていたといわれ、しばしば軍議に参与したとされる。
> 干戈の事あるとき、信長は先ず舜秀に議していた。(『武家事紀』)
>・1577年(天正5年)8月、上杉謙信が能登へ進出した報を受け、信長は勝家に秀吉・長秀・一益ら
> の武将を付けて加賀へ送り込んだ。(秀吉は途中で帰陣)ところが、加賀の農民たちが
> 上杉方に味方し、織田軍は手探り状態で進軍する羽目になった。
> その苦境を、信長側近・堀秀政にあてた連署状がある。
> 連署状の署名は、勝家・長秀・一益・そして舜秀の四人であった。
> これにより、舜秀が、同陣している西美濃三人衆よりも地位が上であったと考えられる。(『宮川文書』)
>・1579年(天正7年)6月20日、有岡城の包囲戦が長期にわたり、信長は在陣している者に
> 鷂を贈って慰労している。
> その恩典に浴したのは長秀・滝川一益・蜂屋頼隆・福富秀勝・舜秀の五人であった。
> 織田家の代表的な家臣・側近と同列に扱われていることは、信長が舜秀を重用していることを
> 十分に窺うことができる。(『信長公記』)
毛利秀頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E9%A0%BC
>・織田家中でも武功をもって知られた武将であり、名将言行録には信長が長篠の戦いの直前に
> 家康に加勢を送るべきかを、武辺の誉れある秀頼と分別の厚い佐久間信盛の両人を召して
> 相談したという逸話が収録されている。 久しぶりに山岡荘八著の「織田信長」を読みたくなった。 >>317
信長青年期
1(中)滝川一益 .285
2(遊)羽柴秀吉 .308
3(三)森可成 .302
4(右)柴田勝家 .275
5(一)佐久間信盛 .264
6(二)明智光秀 .246
7(左)池田恒興 .253
8(捕)丹羽長秀 .236
信長終盤
1(中)滝川一益 .295
2(遊)明智光秀 .285
3(三)羽柴秀吉 .302
4(右)柴田勝家 .275
5(一)徳川家康 .305
6(二)森長可 .296
7(左)池田恒興 .253
8(捕)丹羽長秀 .236 暴れん坊将軍の再放送見てたら、悪代官がかの柴田勝家の言った言葉として
「センジン(戦陣か?)の将たるものイゲン(威厳か異言か?)無きときは下知行わざるものなり」
というのを引用してたんですが、ネットでは見つけられませんでした。
これって脚本家の捏造でしょうかね?それともなにか出展があるんでしょうか。 >>339
「先陣」で検索したらあっさり見つかりました。ありがとうございます。 >>338
454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 15:52:37 ID:sEUc/AFw
先鋒大将の心得
ある戦で、信長は柴田勝家を先鋒大将にしようとした。
勝家はしきりに固辞するも、信長があまりにしつこいので、
「それでは先鋒大将を仰せつかります」と答えた。
数日後、安土の城下で勝家と肩がぶつかった信長の家来の無礼を咎め、勝家は
その侍を斬り捨てた。
信長はその報告を聞いて激怒して、勝家を呼びつけた。
勝家は、
「だからこそ、先鋒大将の申しつけを強く辞退したのです。理由もなく辞退した
わけではありません。先鋒大将たるもの相応の威厳がないと、命令することもでき
ません。いかがでしょうか。」と答えた。
これには信長も返す言葉がなかったという。(名将言行録)
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-562.html
たぶんこっから来てるね 光秀は足利義昭からのスパイ
織田に仕えてはいたが、裏で足利義昭にも仕えていた
織田とは上辺だけの付き合いでどちらかと言うと足利義昭側の人間
本能寺の変は裏切りではなくたぶん義昭のため隙を見て信長やっちゃえと指示があらかじめあっただけと見てる
ソースはフロイスが言う裏表が激しく密会を好む光秀評と近年見つかった本能寺の変後光秀が諸勢力に義昭の復権サポートを依頼する手紙の内容から 今日は「あの日」から429年。
信長と同じ日にひっそりと亡くなってしまった人に毛利良勝(新助)がいる(-_-;) >>344
意外と忘れがちだな
ドラマで本能寺扱われても出てくることないよね いま海外では弥助が大注目されてるらしいよ
ネトフリのアニメとかハリウッド映画とか 人物叢書「高山右近」を読んでたら、池田恒興を信輝と書いていた
恒興が定着したのって、割と最近なのかな
>>343
光秀本人が義昭に近かったとして、家臣団は?
重臣が「なぜ殿が将軍のために?」と疑問を持ったら、信長殺しは実行できない NHKBSプレミアムで再放送中の大河ドラマ「黄金の日日」
高山右近を重友としている
この頃には右近の実名は未確定だったと思うんだが、よく重友にしたな 義昭の息子は織田家で面倒見ていたようだけど 誰が見てたのです? >>343
無い無い
義昭計画だったら毛利に計画教えてる
それがないってことは義昭は無関係 スパイというか元々幕臣だからね
でも晩年の力関係として義昭の計画に光秀が
身の危険を押して協力する理由はない
が旧幕臣でありかつての同僚を配下に組み込み
逆言えば光秀は旧幕臣の権益の代弁者でもあった
単純に義昭追放時点では存在感発揮できた旧幕臣が
織田政権が独自の統一政権として方向性を打ち出したら
相対的に権益を失うって状況はあったんでしょ
三職推任も四国政略の転換も滝川の東国経営への参画も
変後の公方への協力を要請する書状も
その一連の流れの中にあると考えた方が理解しやすい 森可成って生きてれば柴田、丹羽より地位上で方面軍だったのかな あのまま織田政権が続いてたら
そう遠からず統一されて戦線維持が不要になり
便宜上軍団長と呼ばれる存在も無くなってたかと
年齢的に老臣たちより重用されたり
所領が増えてた可能性はあるかもね 信長が完全に隠居したら、信忠に近い池田元助・森長可・細川忠興あたりがかなり重用されただろうなとは思う 軍団長って所が架空の役職だから
今で言う親戚一同と同類 坂井政尚も生きてたら方面軍司令官になってたかもな
大河とかゲームでまったく取り上げられないけど坂井、森が大河の柴田あたりの地位 可成が生きてたら、長可や蘭丸があそこまで出世できてたかな 長可の活躍の機会は減っただろうけど、森家全体としてはプラスじゃない
乱丸は長可の代わりに金山城主になる以外はあんまり変わらないのでは 普通に井伊直政、本多忠勝の息子の地位にはなってたでしょ
信長は譜代に一国プレゼントいとわないから池田輝政ぐらい出世しててもおかしくない >>364
池田恒興は譜代家臣で乳母兄弟の上に母ちゃんは信秀の愛人
信忠の補佐をしたりと一門衆扱いに近い扱い
森可成は美濃土岐氏に属してしたけど道三による土岐氏成敗後に信長に使えるようになった
仕え始めた時期としては滝川一益(母方がおそらく池田氏の血縁者)、秀吉とほぼ同じの外様
その働きによって重用されたのは間違いないけど池田家と同じようにというよりは
やっぱり滝川、秀吉、明智と同じ外様での扱いだろうね 永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉と坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した。
検索したらこんなの出てきたけど元就時代に信長と交流あったんだ
別のサイトではこの時の織田軍2万てあるけど
領地接してなさそうだけどほんまかいな 永禄11年秋に義昭を報じて上洛して周辺地域の三好方国人衆を降し始めて畿内の制圧に乗り出してる
翌年以降も畿内各地で三好方と交戦してて瀬戸内海を挟んで三好と隣接している毛利と「敵の敵は味方」外交をしても不思議はないね しかし1569年に毛利への援軍は信長公記に一切記載がない
1569年なんて丹波、丹後、播磨にまったく影響力無く胡散臭い
東三河もろくに支配してない頃の今川が
北条と交戦中でそれどころじゃ無いのに
西三河へすっとんでありえない言われる第一次小豆坂の戦いのように実在しない戦いだろう
攻められた側の記録があればともかく無いんだなこれが 「かかれ柴田に退き佐久間」という言葉から分かるように柴田勝家がただの脳筋バカ
ということは織田家中でも知れ渡っていた。
しかし信長は柴田勝家や森長可のような脳筋武将が大好きで明智光秀や佐久間信盛のような
インテリが大嫌いだったので脳筋ばかりが幅を利かせるようになった。 それって同時代史料にあるのかな?
柴田負けたから言われてるだけじゃね?
手取川の大敗も脳筋エピぽく言われるが
いまいち実態がはっきりしないしな >>370
明智光秀が嫌い?
嫌いなヤツを最初に国持大名にするか? 「織田信長家臣人名事典 第二版」バイブルだなあ
今でも入手可能らしいけど、発売してすぐ買ってよかった
>>325
しかも景勝は村上・高梨・島津・井上・須田と
信玄に追われ義父である謙信を頼った北信濃諸将を元の領地に返しているしね。義理を果たしたよ。敵対していた真田昌幸とも昌幸が徳川家康と沼田領を巡る争いになったとき、真田と上杉が同盟を組んで徳川軍を第一次上田合戦で倒してるし。格好よいよ。 小牧長久手を見ても滝川は有能だったと思う
だからこそ、秀吉は全く取り立てなかった
無能であればもう少し取り立てられたろうけど、まぁ、同格クラスが一掃されるのはしゃあないね 秀次の三河入りは完全に失敗だけど
蟹江合戦は秀吉の援軍さえ間に合えば
軍事的勝利の可能性あったからな
秀吉自身が京に引っ込んでたせいで
勝機を逃した戦の責任で滝川は嫡男追放
なのに次男は大名取り立てというのも
滝川家の扱いに苦慮してるように見える >>370
森長可はどうか知らんけど
森可成は知将でもあるからな
攻めの三左は初期信長の右腕だからな
三左衛門がいなければ信長は弟と柴田の軍にやられていたよ
光秀は森三左衛門が討死して出てきた武将だからな
知将というよりはご機嫌取りがうまい武将だった >>372
光秀はご機嫌取りに全力出していたからな
今でいうお歳暮も信長に送っていたし
延暦寺焼き討ちも他の武将は及び腰だったが光秀は信長の言うがまま
そこで初めて信長から領地を得た
まあ実はその領地は森可成のもので森三左衛門が死んでいなければ
光秀に出世の芽はなかった
だから子の蘭丸はその領地を欲しがっていた
蘭丸はまだ17-18歳で既に領地を5万石持っていたので
信長はその願いは却下した >>366
雲伯因三ヶ国合力として、則ち木下秀吉・坂井右近両人に五畿内二万ばかり相副えられ、日乗、検死として罷り出、但州において、銀山をはじめとして、子盗・垣屋城、十日の内、十八落去候
子盗は此隅山城のこと
検死の日乗が差出人
宛名が元就・輝元ら13人で
他浦上・三好・縁辺の話
というやつかな てっきり光秀が織田家初の国持ち大名かと思ってたら丹羽長秀なんだね >>317 >>337
どっしりとしたイメージの丹羽長秀さんですね。 文なイメージな丹羽さんは美濃攻略、上洛戦、浅井朝倉戦でチラホラ武功出てくるからほんとになんでもできる奴と気に入られてたんでしょう
築城まで得意なもんだから手元に置いときたいと方面軍司令官になれなかった 木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
米は大事だからな
でも秀吉が一番先なのな REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 丹羽さんは信長に煙たがられる事もなく同僚からも嫌われなかったし
能力以上に人格が優れていたのかもしれない