【滝川一益】織田信長の家来を語るスレ【柴田勝家】
忠臣から謀反をおこした人まで、多彩なメンバーが集結しました。 明智(秀吉)>>>>滝川>>柴田>>丹羽>>(佐久間)
なイメージ
派手さで言うと >>139
佐久間は軍団長だが、丹羽は遊撃軍の隊長
丹羽が佐久間より上とかありえない あくまで「派手かどうか」の個人的なイメージなので・・・
鉄砲上手かったり水軍率たり茶器スキーだったり
滝川は結構派手なイメージあるわ 勝家は無骨者、一益は知将、長秀は能吏なイメージ
どれも派手という感じはしないが
画像検索して萌え絵が多いのは意外と長秀 信長公記を読むと内政も軍事も織田家の前半を支えていたのは丹羽長秀というのがよく分かるぞ >>144
信長の幼なじみなのがいいんだろ
柴田滝川はおっさんだし >>145
丹羽は出世が頭打ちになってしまったのである
(谷口克広・談)
明智や羽柴などが軍団長なのに対し、丹羽は遊撃軍の隊長止まり 幼馴染というなら池田だろうなぁ
歳が近いから丹羽もそんな感じに扱う作品あるかもだが
信長に仕えたのは元服の前後と推定される 丹羽は軍事以外にも使い勝手が良かったのが仇になったのかね 丹羽は側に置いときたかったんじゃないの
息子たちの世話もしてくれるし 米五郎左は信長にとって使い勝手のいい配下だったんだろな
秀吉の長浜拝領とほぼ同時に若狭の国持ち大名になってるし
その後も佐和山城は維持してるし厚遇は変わらない 織田政権は一国がサラリーキャップだった可能性が
北陸制圧した後は与力に一国ずつ分割されて北陸方面軍の柴田は結局越前一国
旧武田領も分割されて五カ国率いた秀吉も領地は播磨だけ。本能寺まで2か国持ちは皆無(信忠除く)
丹羽は一番最初にキャップに到達したので一番最初に出世が止まった的な感じじゃねーかな
もっと勢力伸ばして辺境行けば2か国持ちも出てきただろうけど でも佐久間、柴田、明智、羽柴、滝川のような軍団長にはなれなかったんだよな、丹羽 まあでも豊臣政権の加藤清正、福島正則、黒田長政と石田三成みたいな関係になってないのは丹羽の人徳でしょう 軍団長連中ほど戦は強くなく奉行衆ほどの才覚もない
戦も政治もできる光秀の下位互換なかんじ >>156
>145
信長入京あたりまでの前半戦はめちゃくちゃ活躍してるぞ
ダテに佐和山城をもらっていない 奉行衆という固定された階層は当時なくて
重臣や馬廻が適宜任命されてるよ
流石に地方攻略に固定されると減るけど
秀吉や勝家ももちろん長秀も多くの奉行を務めてきてる
長秀で有名なのは安土普請の総奉行(総責任者) 良く言えばオールマイティ、悪く言えば器用貧乏というイメージは確かにある
でも同じ幼なじみ枠の池田に比べたら段違いに優秀だと思う >>159
佐久間信盛の折檻状では、池田は出ているが、丹羽は出てこない
信長の評価は、そんなものだったのでは 丹羽は安土城建てたら茶器もらえたし
滝川さん散々やん 村井貞勝とか行政官僚系の家臣って所領は貰えなかったのかな? 蒲生氏郷について調べてるんですけど、馬の小雲雀を信長から拝領したという逸話の出典ってどなたかご存知ですか?
調べても「拝領したと言われている」止まりで出典がわからなくて
氏郷スレがなかったもので、スレチ失礼します ミネルヴァの「蒲生氏郷」は?
著者が藤田だから、あまりおススメできないが >>168
織田金左衛門からじゃないですか?それなら名将言行録の蒲生氏郷のとこに載ってます >>170
やはりそれが元なのでしょうかね
この時代にネットで引っかからないので史実ではないと思っていたのですが、前田慶次の松風ほどはっきり名前の出た拝領関係の逸話もないので不思議に思っていました。これから伝聞のように広まったんですかね
名将言行録も読み込んでみます。169さんもありがとうございました >>171
織田つながりで金左衛門と信長を混同して伝わっていったのでは、ということです
ただそれだと数ある信長の馬の中からなぜ小雲雀だったのかがひっかかるのですが。もう少し調べてみます >>173
前田は一度勘当されてる
手柄がなければ帰参を許されないだろう 前田家は江戸時代大大名として残ったから
比較的事績が伝わってる方だと思うが 出奔から馬廻時代のどの戦いで幾つ首級を上げみたいな
小身の頃の手柄は他の武将と比べてもよく知られてる方かと
75年は多分転機の年で長篠での鉄砲奉行の1人を勤め上げ
越前一向一揆を滅ぼすと府中三人衆として
北ノ庄の柴田勝家の目付けと地方行政の経験を積む
その辺なんとなく与力された柴田の功績としてよく語られるが
三人衆は信長直参で勝家に与力する立場で勝家とは別個に
政治も取るし北陸離れて上方に参戦もする
実際本願寺との講和から北陸戦線が北に押し上げられると
佐々成政とともに国持ち大名に出世してる
これは馬廻出身者としてはトップグループの評価 賤ヶ岳でいち早く戦線離脱したことが勝敗を決したと言うし
実際その功績で秀吉政権下での地位は確立したのは間違いない
ただそもそも戦力比は羽柴のが優位だし突出した佐久間が
潰走するのは時間の問題では?という気がするし
ろくに戦わず引いたのは他の諸将も実は一緒
その後秀吉と敵対した佐々をほぼ単独で防いだこと九州征伐で
畿内の留守を守ったことも秀吉にとっては手柄
さらに小田原では上野経由の別働隊の総大将として
上杉や真田を率いて快進撃
伊達や南部の帰順においても取次の任を果たしてる
その後豊臣の宿老として家康とともに秀吉の側近くで
朝鮮への都 渡海を押しとどめるような存在になったが
では他に誰がその地位に相応しいかとなると他にいないだろう 利家は長秀が1585年に死んだ後の後釜にうまく居座れた >>163>>164
評価云々とよく言われるけど書状の特性上信長の評価というより
佐久間が読んだ時に心にくる人間をチョイスしたんじゃね?
現代でもそうだけどこういうお叱り文書ってもらった側の心理を
良くも悪くも揺さぶる人間を出すのが定石だから評価云々でいうなら
信長というより佐久間から見た評価を信長が上手く利用したようにオモ
言い換えれば普段佐久間が良くも悪くも口にすることが多かった連中 >>179
丹羽家も長秀が120万石近くまでなってしまったことが逆に息子の代での粛清の対象になった訳で前田も秀吉存命で利家が先に亡くなっていたら兄弟で分割されていたかもと思う 政権早期にはありえたかもね
ただそれは正直家康なんかも同じだろうね
秀吉の晩年には遺言でも家康の後継は秀忠
利家の後継は利長と名指しされて
政権内に位置付けられてるけど 蒲生氏郷の方が何で出世したかわかんなくね?
有能だったというのはよく言われるけど91万石となると
総大将や単独での武功なくて大抜擢に見える 秀吉のことだし、後世のネットでの批判云々よりも確かな見る目があっての転封なんじゃ?
とも思ったり
僻地へ追いやりたかったなんて見方もあるけど、それで身上が5倍ほどにもなるのだろうか
しくじったところを取り潰すため、なんて推測もないこともないかもだけど 小田原で堀が死んだ
蒲生50堀50ならおかしくない そもそも会津91万石になったのは検地を経てのことで
元々の表高42万石で考えたらまだ納得感ないかな?
どちらかというと奥州(対伊達)の抑えのためというなら
功績に報いるというより先行投資的な移封かと
>>185
ネット評価的には氏郷ってかなり名将扱いじゃね? 功績への評価というより動員兵力としてその石高じゃないと東北の押さえにならないということでしょ
上方からそう簡単に後詰めできる場所じゃないので 信長の家臣てだいたい子供いないとか少ないよね
セックス出来ないほどブラックな会社と考えると謀反したくなるわ >>189
森さん家は男子だけで6人だよw
他に女の子も数人いるはず
利家も子沢山
イケメン説がある人は子供多いイメージ これだけ子沢山の家臣を召抱えているとこなんて全国的にも珍しくね?
池田恒興 9人
佐々成政 11人
前田利家 19人
滝川一益 8人
丹羽長秀 14人
前田玄以 7人
稲葉良通 11人
稲葉貞通 8人
安藤守就 11人
森可成 8人
蒲生賢秀 9人
九鬼嘉隆 11人 でも勝家、光秀、秀吉という最前線の司令官は男子おらん
言い換えれば相続者を織田家もしくは織田家の意向で他家との養子縁組で作れる人に任せていたのはポイントかもしれん >>192
勝家も2人男子おったけど早逝してなかった? 勝家は嫁もいないよね
亡くなったんだろうけど
秀吉は種なしだろうな 一夫多妻みたいなもんだから好きな奴は子供たくさんいるだろ 大阪城に女を300人ほど囲ってたっていう人は?
信長に女遊びをたしなめられてる手紙も残ってるくらいだから子供たくさんいるのかな?
当時は避妊もできないしね 大河ドラマ見てる人いる?
最初は見てたけどつまんなくて見るのやめちゃった
>>210
意外か? >>211
素性定からずな光秀、一益、秀吉らが成り上がっていくのが面白いのに、信長ばかりか家康とも面識あるとかファンタジーにも程がある・・・もちろんもう観てないw あれは令和版国盗り物語(後編)だろ
国盗り物語をベースにしてそれに色々新要素を付け足してると考えれば十分面白い
司馬遼太郎が嫌いな人は楽しめないだろうけど >>217
「保守」ではなく中身のあること書けよ
スレが伸びてるから覗いてみたら「保守」(´・ω・`) 滝川一益って老いて衰えたっていうけど
どう考えても運がなかっただけだよね
周りの評価も高いままだったし 衰えてなかったら敵地孤立した神流川勝てるんか?とか
衰えてて信雄家康のど真ん中蟹江落とすんかい?とか 調略、戦闘、行政手腕といずれも当時の織田家中で屈指
ただ政局を読んで自身の身の振り方をどうするかという点、つまり大名としては上手くはなかったということかな
秀吉はずば抜けいているとしては丹羽には及ばず柴田と並び明智には勝る
この点では柴田与力だった前田に劣る そういう立ち回りは前田がトップだったな
恒興もまあまあだったが死んでしまっては……
こいつはバカだったのか不運だったのかわからん……
丹羽は戦も強くバランスとれてたが病で家が安定する前に……
やはり運か 滝川家臣団というより与力がみんな逃げてしまったからだろう
東部方面は実質信忠軍団に再編されてたし >>223
池田さんは強い乳首のお母さんの力でしょうな 信長やその嫡子信忠存命の時はそうでも本能寺の変でその力は一回切れたと思うけどな
秀吉としては池田母の実家滝川家と更に滝川と柴田の3人がまとまらないようにする必要があった
特に池田は摂津を領していて中国地方から帰還し摂津、山城で決戦になりそうな対明智戦では重要な存在
池田の取り込みは山崎の合戦の勝敗をほぼ決するほど影響があったと思うけどね 池田が明智討ち拒否って明智に付く要素はないだろう
その後はおかんの縁から信長の息子達支援するのが筋だが
信孝糾弾する羽柴に賛同したのは本人の判断だろ 恒興も長可も揃って討死してしまったから無能っぽさがあるがほとんど兵力は伯仲してたそうだから元助もろとも討たれてしまったのはよほど運が悪かったんやろね
それか信雄が本当は実力者だったか
いやでも総大将たる信雄と家康が目の前にいたら欲に目が眩んで前に出過ぎてしまうかもしれん 予想外の不意打ちを狙うのが奇襲
突然焼き働してもいきなり落城させても奇襲 滝川一益はやっぱ関東に配置されたのが運の尽きだったんだろう。
本拠から遠く離れてるし、土地勘も全然無いし、与力武士の忠誠度も低いし。
「関東の領地なんか貰うより、有名茶器を貰う方がマシだ」
と言いたくなる気持ちも理解出来る。 >>231
ただ本能寺の変さえなければとんでもない権勢を誇っていただろうな >>232
それは微妙では?
本能寺の変の時点で
柴田勝家が55〜60歳(推定)
滝川一益が57歳
明智光秀が54歳(66歳、48歳説もある)
織田信長が49歳
羽柴秀吉が46歳
丹羽長秀が47歳
池田恒興が46歳
年齢だけで言うともう第一線で指揮を取れる最終期。
信忠の乳母をつとめた慈徳院が滝川一族の出という話もあるから遠からず信忠のお伽衆になる可能性はあっても前線に残り続けた可能性は高くなさそう。
信忠の側近には斎藤道三の息子で濃姫の弟とされる斎藤利治が既にいた。
利治は本能寺の変で死去した時に41歳。
出自と織田家に加わってからのキャリアは基本的に信長近習からのし上がり美濃の有力国人佐藤家を継いで加治田城主。
その後は各地を転戦し連戦連勝、若い頃の一益や秀吉並みの働き。
更に重用されて長篠の戦前後からは信忠与力として動き、本能寺の変前夜は信忠に従って妙覚寺に宿泊。
そのため本能寺の変で落命。
一益より15歳ほど若く実戦でも信忠麾下で長く働いたこの人がいたら一益の影響力が強くなり過ぎるのも嫌がられてそれ程恵まれた境遇になったとは思えないけどね。 >>233
滝川一益は織田政権の韓信か彭越くらいの立場だってのがわからないの? 斎藤利治は越中での大将としての軍功もあるし、信忠政権下では、丹羽長秀みたいに本拠地近くで遊軍的ななってたかな。 信長は執事や管領のような自身の代理的な
役職をおかなかったしあるとしたらそれだな
20年後に信忠健康なら働き盛りだけど
その時は斉藤も隠居だろうしな 文官というか吏僚衆や右筆とかの序列ってどうなってたんだろ?