上杉景勝ってなんで上杉憲政を殺害したの?
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そりゃ家名・役職以外にほぼ山内上杉要素が無いからでは
血統はもちろん家臣も領地領民もほぼ長尾家だし というか長尾上杉って言う?
このスレでも>>372くらいしかいないし
家の名としては米沢上杉氏だと思うが 昔別スレで長尾上杉知らないの?ってドヤってた人が居た気がする
米沢要素ゼロな謙信さんを祖にしてしまうという無理から長尾上杉なんかが出てきたのではないかな
府内長尾の謙信さんは憲政さんから山内上杉を受け継いだのにな 信長の野望界隈では普通に使うかな。データ的に別家なので >>804
ググったら山形県の生涯学習課も長尾上杉使ってて驚いた まぁ拘りさえなければ長尾上杉の方が分かりやすいしいいんじゃね 長尾上杉氏印章[晴景、謙信、景勝所用]ってあるけど、晴景も長尾上杉氏なんだね
なんか凄いな >>808
わかりやすいか?
長尾庄に居たの?ってならない? 山内上杉氏とか上田長尾氏みたいな
複数の家系の一つの呼び方としては違和感
長尾・上杉氏とか上杉氏(長尾氏)みたいな
途中で呼び名変わったから併記してるよ的な
ニュアンスで考えるとわかりやすいかもな 一般的な用法ではないってことだよね
山内とは違うんだって言うなら素直に米沢上杉でいいのにね
呼び方でさえ現代人を混乱させる上田衆
嫌悪感が募ります 土佐吉良氏も吉良親貞以降を長宗我部吉良氏と呼ぶことがあるみたいね なんか米沢上杉でいいって強硬に主張してる人が一人いるだけな気がする 米沢時代と同時期にべつの大名としての上杉家があれば米沢上杉家と呼ばれたかもしれん >>815
他になければ長尾上杉と呼ぶ必要もなく謙信が継いだ山内でおーけー? 米沢上杉氏は近世大名家の呼び方としては
藩名+家名というシンプルなもので
非常にオーソドックスで明快
ただ戦国時代の出来事を語る文脈では不自然
謙信が山内を継いでそれを景勝が継いだんだから
山内上杉氏で間違いない
憲政と対立したし景勝は謙信はともかく
関東管領家としての歴史をあまり主張しないので
別物と考えるのも別の呼び名欲しいという
考え方も分からなくはない 上杉→山内上杉→長尾上杉・米沢上杉
どれで呼んでも間違いでは無い 左側は右側を内包するし 光栄が長尾上杉使ってるのは御館の乱で
憲政-景虎方と区別するためでしょ?
最近作詳しくないから多分だけど
憲政-景虎を山内上杉、景勝を長尾上杉と
便宜上呼んでるってだけかと 信長の野望的には上杉謙信家と上杉憲政家は別家だし
養子イベントはあるけど上記2家が合流したりはしないし 旧憲政領は長野氏が大名になってたりする 三木氏も国司姉小路家と区別するために三木姉小路氏と呼ばれることがあるけど、それと同じようなもんちゃうの
三木氏のは単なる自称って言われてるけど、姉小路家の本家筋の小島時光が認めてんだし似たようなもんだろ >>821
御館の乱を山内VS長尾の対立構造視するのは勝手だけど光栄は全く関係ないな https://nobunagataishi.wiki.fc2.com/m/wiki/歴史イベント(上杉家)
例えば大志では謙信死亡でイベント「御館の乱」
その後「山内上杉を滅ぼす」ことで次のイベント 学術的には、上杉景虎を山内上杉、上杉景勝を長尾上杉という使い分けはしていない。
山内は扇谷や深谷などと区別するために使う。
長尾上杉は血統的に山内上杉ではない謙信がそれを継承したから、その独自性を明確化するために使う。 >>828
うん実の妹が旦那の為に兄なんか死ねばいいと思うぐらいかっこいい、まあ兄がクソ過ぎるってのもあるけど 憲政は息子を北条に殺されたのになぜ景虎側にいったのか 景虎側にはすでに嫡男がいたのも大きいかもな 仙桃院にとっては孫だし 景勝は上条上杉の血を引いていた。
一方で関東管領家には愛着が無かったのでは?
景勝が継いだのは、たぶん心情的には、
越後守護上杉家だったのかもしれない。 んな訳ない
あくまで養父上杉謙信の後継者だよ
すでに謙信が将軍から直々に越後支配を認められ
越後守護家は補任されず断絶して
一族は謙信の家臣として存続してる
それを継ぐ意味はなかろう 内心は上田長尾家が府中長尾(転じて山内上杉)家を乗っ取った感じじゃないか
関東管領職にこだわりは無さそうだが すんなり継げてたとしても北陸で織田とやりあっても関東遠征はしなさそう 関東管領も実質伴うなら色気出すだろうけど
越後一国も維持できるかわからん状況では重荷でしかない
その根拠は?とか馬鹿なこと聞かれそうだけどw 景勝は過大評価だと思うぞ。本能寺無ければ武田の次に消滅。
御舘の乱で家中割って国力低下。
120→30万石はいただけないでしょ 信長の野望オール80超政治だけやや下
みたいな感じは過大評価だろうな 軍事面では有能な武将だったと思うけどな
内政はようわからん 御館で自分の力量の限界を悟って小難しい事は直江に一任して要らん事せず生き残ったのは評価できるやろ
結果として所領は減らされても大名として幕末まで家を存続させたんだし 幕末まで家名を残したのは鷹山の功績が大きい
景勝はなにもしてない 直江の独裁体制から藩主直属支配に切り替えた定勝はもう少し評価されてもいい 逆に軍事面での実績がいまいちじゃね?
いち早く秀吉に臣従した政治面は言うまでもないし
御館の乱では柿崎謀殺に多数派工作から
勝頼懐柔して最後も堀江寝返りで決めたでしょ?
でもその後は秀吉に擦り寄るために越中攻めても
佐々成政単独に押し返されて奪われたまま
新発田重家に越後半分取られて平定に何年も掛けてと
むしろ軍事面での過大評価なんじゃないかな
軍事面での物足りなさを調略や政略で盛り返してる印象
軍神謙信の後継者的なイメージに引きずられてると思う 謙信後継とか名門上杉とか家格的にプライドが高そうなのに折れるところは折れることができるのは評価できる
折れることができなかったら秀吉や家康と滅亡するまで戦ってる
まあ許してくれたのは相手の都合が大なのだけど 越後一国で天下を相手に滅ぶのも辞さず
から秀吉にいち早く取り入って大老へ
折れるところは折れる、どころか
見事な変わり身だよね
外交や謀略こそ評価されるべき 外交が評価されるべきって…w
外交が上手いのならたった三年で120万石→30万石にはならんわ 秀吉には取り入れざるを得なかっただけで景勝の外交が上手いとはならんやろ
景勝はただ運が良かっただけや >>847
なにもしてなくはない
一応藩の礎は作ってる いや本能寺の変はマジで運が良かったし
お手本通りの遠交近攻だけど
本能寺後舵取り誤ったら滅んでたろ
てか逆に他に評価できるポイントで何? 御舘→越後国内どころか周辺勢力まで敵まみれ
信長の上杉攻め→越中、信濃方面から織田、越後国内では新発田重家の乱発生、会津米沢方面からは芦名伊達勢が織田と連動して攻められる
関ヶ原→西軍に与して減移封
運もあったのは認めるけどある程度の力量がなければいつ滅んでもおかしくなかったと思うけどな 少なくとも無能ではないと思うが 無能だと言ってる人はいないと思うけどな
>>853も外交ダメと言ってるだけで
信長の野望的な軍事的能力が優れてたと言いたいのでは?
それが何で言えるのか説明を求めたいところだけど 上杉と毛利は似てて、大幅削減され
家臣を選りすぐったのが毛利。
家臣を解雇せず帰農させて
全員米沢へが上杉。 生殖能力は景勝より輝元の方が上 どっちも後継が心配されるくらい遅い世継ぎ誕生だけど
景勝が1人しか子を成さなかったことが後の領地半減に響いてくるわけで 明確に景勝が軍事面で名をあげたのは冬の陣くらいかな?
上杉勢+援軍6000VS大坂方12000という半分の兵力差で勝ってしかもそのあと援軍で佐竹義宣の窮地救ってるし 全体としては20万vs9万のうちの局地戦か
でもその辺になるのかなぁ 大坂の陣だと初陣だらけの素人集団の中で無双したイメージ
相手した大坂方の将も一流どころはいなかったし 冬の陣では水原親憲が無双したからな
秀忠から感状もらってたくらいだし ・本能寺直後 上中越のみで30万石程度
・信濃と越中で若干の領地を回復
・秀吉に従い新発田を討つ(東蒲原を除く下越を回復)
・本庄(武藤)と呼応し庄内を得る
・秀吉の内戦禁止に関わらず佐渡に出兵で直轄化
・真田の豊臣大名化で上野沼田と信濃小県を失う
・新川と東蒲原の交換でようやく越後一国を領有
・会津移封
・関ヶ原で米沢(置賜)と福島(信夫)・梁川(伊達)30万石
元の木阿弥だな >>866
>・秀吉の内戦禁止に関わらず佐渡に出兵で直轄化
いやこれ、秀吉の命でやってるんだが…… むしろ上手くいかなかったら威儀に関わるぞって話だったかな
花の慶次で読んだ気がする 憲政は景勝からみれば義理ながら祖父にあたるわけだぞ 北条「勝頼くん、景虎が危ないっていうから一緒に助けに行こうぜ!」←わかる
北条「すまンゴヤボ用あって行けなくなったンゴ」←まぁわかる
北条「勝頼なに景虎見捨ててんじゃオラァァァ!こいつ裏切りやがったンゴォォォ!」←これひどくね? 謎の逆切れだよね。
おかげで密約だなんのと史料上に無い事が史実みたいに扱われてるけど、これが最後には小田原の陣につながる北条の身勝手さなんじゃないかな しかも勝頼は二万もの軍勢率いている最中に背後から徳川と織田に襲撃されてるっていう事情まであるのに…
どうみても武田を使い潰してやろうと思ってるんだよなぁ
だから多分景虎が勝ってたら武田に攻め込んでた気がする >>873
勝頼の援軍で勝ってたら景虎は勝頼に恩を感じそうではある
景虎が氏康の息子なら勝頼は妹婿になるし あー、そうか景虎の人格次第か。
御館の乱での北条の態度を見るに景虎が勝てば
北条「景虎!一緒に武田領食い潰そうぜ!どうせ織田と徳川に取られるんだ、仲の良かった(笑)俺たちが預かってやった方が武田も喜ぶだろ?」
って景虎に持ち掛けるのは必定な気がするのよね。
それを景虎が弾き返すか、飲み込むか… 北条の野望は関東にあり西は武田なり徳川なりを盾にしとけばいいと思ってそうだが
火事場泥棒できる状態でもないと積極的に甲信を欲しがるかねえ
景虎は景虎で家臣連中は北条の言うことなんか聞きたくないし西からは織田が迫ってるし
景勝派の殲滅と北陸戦線の失地回復は急務だろう 北条の考えは正直よくわからんけど、
御館の乱で武田と絶交して織田の甲州征伐では上野・駿河に攻め込んでるから領地的野望は間違いなくある。
甲斐をどれだけ欲していたかは不明だけど、武田を滅ぼさない限り武田領を手に入れる事は難しい訳で、
その危険な仕事を景虎にやらせたかった可能性はあるんじゃないかな。
景虎がそれを受けるかどうかはまた別だけど。 甲陽軍鑑を信じるとして
影虎は勝頼に、助けてもらう立場なのに北信濃4郡の割譲を求めてる
北信諸将の支持を得るためだろうが、武田にしてみたら怒り心頭の要求だろう
軍鑑は基本的に勝頼の失敗で武田滅亡というストーリーだが、ここについては勝頼が影虎を見捨てる正統性を与えているんで、信憑性はあると思われる なんか武田詰んでる気がするな。
上杉も北条も武田を使い潰す気満々で、
唯一武田に同情的っぽい景勝は役に立たないという。
景勝が武田に与えたのって金と土地だよな確か。 景勝が黄金2万と東上野を割譲し、武田は甲斐に撤兵しました 自分を毘沙門天の化身と信じてる奴が毎年関東に攻め込んで荒らしまる
北関東の小大名豪族達はそいつに臣従しても、化身が越後に帰ると北条傘下に戻る
それを繰り返し見てたから北条に付くべきってなったんじゃないか 越後勢は雪山讃歌を歌いながら、三国峠を越えて揚々と引き揚げていきました。関東からの略奪品の分配のため、越後は、第一復員庁と第二復員庁がてんてこまいです 最近は北陸と言えどそんなに雪降り積もらない印象だけど
戦国時代は行軍の妨げになるほど降ってたんかな?
温暖化の影響だろうか >>881
毎年必ず関東出兵してたのは1560年から67年迄。後は1570年・72年・74年・75年・77年迄 元々、略奪目的だったと言う説の提唱者の藤木久志先生は
「戦国時代の大名の合戦は飢えた雑兵を略奪で食わせる副次的目的があった。上杉謙信の関東遠征もその一例である」
と言う主張だったのに、ネットでは話が拗れて「上杉謙信だけが略奪で儲けてた」と勘違いしてる人が多いんだよな。
略奪は武田や北条だろうがどこでもやってる。
そもそも敵国に行っても敵国の領民は財産を持って寺や山に逃げるから必ず満足に略奪できるわけがないし
飢えてる側が裕福な国(そもそも関東が裕福な根拠がないが)に毎回毎回ボロ勝ちできる保証もないし。
素人の「なんで上杉謙信は領土を得ようとしないんだ?」と言う疑問に対し、分かった気にさせる答えが略奪目的説なのよね。
単に領土維持が立地的に困難だっただけ 農民に足軽として従軍を義務づける代償として、敵の城が落城したときは一定時間の略奪は黙認する慣習が伝統的に戦国大名家にはあった。織田家は違ったようだ >>886
どの戦国大名の軍勢もやってはいるが、
今のところそれを国主肝煎=国家意志としてやった一次史料が確認されているのは上杉謙信だけ、
という話。
因みに、
小氷期下の戦国時代の悲惨さは、
「飢えたる者が富める者から奪う」んじゃなくて
「飢えたる者が飢えたる者から奪う、それがまた飢餓を拡大再生産する」という救い難い図式にこそある。 雑兵の主体は武家や武家奉公人だし、織田家が略奪禁止なんてのは戦後に創作された信長神話では。
上洛の際に一銭切りした、なんて逸話を誇大解釈したもの >>890
こんなスレにいる人間が
永禄九年二月の小田城下の記録(別本和光院和漢合運)ぐらい知らないとは云わせない。
「カゲトラヨリ御意ヲモツテ」の一句は重い。
上杉謙信は「普通の戦国大名」「普通の国主」として、
自国民を喰わせていく為に他国での略奪事業を推進しただけだろう。
それがネット上で殊更に論われる理由は二つ。
一つ、謙信本人及び後世の粉飾で作り上げた「義将」幻想との乖離が大きいこと。
二つ、ゲームだかマンガだかラノベだか知らないが軽薄なメディアに脳をヤられたお前さんみたいな謙信ヲタの逆上が面白いこと。
安心しろ。
古今東西、国主たる者にとって絶対至上の正義は「自国民を喰わせていくこと」だ。
飢餓に喘ぐ他国民を蹂躙してでもそれを実現しようとした上杉謙信は立派な「義将」だよ。 >>892
便利な世の中だ、
それこそネット上で幾らでも言及されてるから検索してからまたおいで。
最低でも>>886氏の云う藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」ぐらいは読め。
賛否はあろうが、これが現在の戦国研究の座標原点だ。 ああやっぱり史料出せないのね…。
小田城開城の際の人身売買の記録も「景虎御意をもって」は「小田城開城」にのみかかる文章として藤木先生の教え子の今福匡先生が指摘してる。
「雑兵たちの戦場」ももう何十年前の著書だし 語るに落ちる。
>>886で懸命に冷静なフリのレスをしてたかと思えばすぐに尻尾を出す。
やっぱり謙信ヲタの逆上は面白え。 ええ…。謙信アンチのにわかが諭されてるようにしか見えんが… 結局、藤木先生の著書の名を借りただけでろくに根拠を出せず顔真っ赤に口汚く罵るだけでしたね…。
上杉謙信の話してるのに今福氏や乃至氏などの著書を読んでないのは致命的ですし
そもそも会話になってないと言う…。残念です >>899
藤木先生本人よりもその支持者及び配下の研究者の方々の性格?が陰湿だという事ですね。 >>900
陰湿と言うかシンプルに895が馬鹿だっただけでは レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。