上杉景勝ってなんで上杉憲政を殺害したの?
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
番兵が間違って殺しちゃったんだからしょうがないじゃん(すっとぼけ) 最新説だと、最初は景勝の後継者継承でつつがなく進んでいた
御館の乱は神余親綱と景勝の対立が発端で、その仲をずっと取り持ってたのが上杉憲政
ところが景勝があまりに強硬に神余を処罰しようとするので仲介の面子潰された憲政がキレる、景勝の強硬さに反発してた上杉家臣団と合わさって景虎を擁立しようと景勝とバトル
ってことだったはず のこのこ出てきたら殺すしかないやろ そういう外道なんや景勝は まあ勢力弱体化してしまったし、今更もう関東には未練ないだろうなw >>8
追記
だとすると景虎の件が無ければ北条と対立する事は無くなっていたのかな? >>9
むしろ上杉憲政が付いてる景虎が上杉継いだ場合
北条との関係がどうなるのかが興味あるな
そもそも景虎は殺されても仕方ないような条件で上杉に人質で捨てられた身だし 上杉憲政って父親を北条家に殺されてるのになんで氏政の弟の景虎方についたんだろうな この人に関しては良い評価を聞いたことない 憲政が政景の変死に関わってるのかもな
実父の敵討ちだったりして〜 >>14
神余だって最初から景勝と不仲だったわけじゃないんでしょ?
むしろ神余の領地を浸食しだして対立するように動いた気配があるとか 御舘の乱に関しては謎の部分が多いんだよな いくら景勝が憲政憎しとも謙信の養父だった山内上杉家直径の憲政を殺すって何か裏があると思うんだよね あと景勝とか兼続って今でこそ義の武将とかいわれてるけど実際かなりえぐいことやってんだよな 景虎方に付いた謙信来の家臣や国人たちも粛正されてるし 御館の乱がおきて三国峠越えるような可能性がほぼ消えたから
上杉憲政は用無しになった
が一番シンプルだけどな
この頃には室町幕府も滅亡してるし関東管領なんてお飾りでしかない 憲政はやらかししかないからな 評価が低いのは仕方ない 上杉憲政みたいな大物を養うには金が掛かるから
謙信死んで関東管領も雲散霧消したらもうただの金食い虫だもんな
しかも北条系である景虎側に寝返った時点でもう助ける理由がない >>12
氏政としては弟が関東管領家を継ぐってのは政治的によろしくなかったろうね
乱のときの北条の動きの鈍さは氏政の無能さじゃなくて、そもそも積極的じゃない 関東管領になる事だけが大事なんじゃなく上杉姓をもらったのが重要
しかもわざわざ源氏の総本山の鎌倉鶴岡八幡宮で、平氏の長尾が藤原氏の上杉になる前代未聞のパフォーマンスを謙信は見事にやってのけた
民衆へのアピールは超抜群で正攻法をもって関東支配の大義名分を得た
しかもその前の段階で朝廷と室町将軍に直接会ってその事を認めてもらってる
そこが小田原北条氏とは違う
伊勢氏は関東管領になれなかったので勝手に昔の執権金沢北条氏になりすまし、北条姓を名乗り民衆を騙し関東の棟梁として認めてもらう事にした
そして足利公方を懐柔し関東管領山内上杉憲政を関東から追いやった 謙信がなぜ鎌倉鶴岡八幡宮にこだわったのかはもう1つ深い意味がある
謙信の先祖、長尾定景がまさにその場所で公暁を暗殺し源氏を滅亡に追い込んだ最悪の過去が、坂東八平末弟の長尾氏にはあったから
謙信は最悪の場所で堂々と長尾の姓を捨て上杉に乗り換えることに成功した
憲政が大事なのではなく上杉の姓が重要
坂東八平の下っ端の長尾より足利尊氏の実母の上杉姓の方が格上
武田信玄は謙信が上杉姓になっても嫉妬からずっと長尾と呼んでいたらしい 道満丸を抱え込んだ憲政を討つのは致し方なかったのかも?
本当は道満丸さえ殺せば良かったんだが・・・
憲政は超超ボンボン性質なので長野業正も必要以上に苦労したな
憲政の采配は謙信を頼ったこと以外は全て大ハズレだった
譜代の家臣団は大変だったろうな
憲政が残した最大の功績は現代まで名門上杉姓を残せたことかな
それ以外はなぁ〜んもない!
殺す価値もなかったんだが.......超超ボンボン性質なのでついついいつもみたいにジョーカー役をやりたがるもんで・・・
景勝もゆとりがなかったので殺しちゃったな >>23
なんか北条も東上野確保すればそれでよしって感じで
そこから三国峠越えて景虎支援するわけでもなく
景虎と氏政に密接な連携があったとは全く思えず
実際後で厩橋城の北条高広が息子が景虎側で戦死して
氏政の裏切り行為に激怒して武田に寝返る訳だし 上杉憲政が景虎側についたことでもし氏政の動きが鈍ったのなら
憲政の疫病神っぷりが凄いな
確かに弟とはいえ元関東管領上杉憲政がバックにいる景虎が
御舘の乱で勝利したら北条氏政の関東支配に矛盾が生じる
むしろ景虎が北条家も併呑してしまった方が大義名分も立つしw そう思うと景虎が一番気の毒だよなぁ 兄からの支援は消極的だし降伏しようとしても許されず嫡男は惨殺されるし とりあえず憲政は御舘の乱の頃になると何も実権ないし影響力はゼロ。飾りにもなってなかった。 全く商品価値がなく、むしろ景勝としては憲政を生かしておくと色々と不都合だったのかもしれない 元関東管領としてそれなりの水準の生活費面倒を見なきゃいけないし、金食い虫をこの際抹殺するという強いイシを感じた 憲政みたいなのは自分の立場もわきまえずしゃしゃり出て来るタイプだから
景勝が謀殺したくなるのはよくわかるw 憲政ってなんで越後にいたの?
自領に戻ればいいのに 景勝が勝っても平井には戻れない、景虎に味方して勝てば北条が恩に感じて平井に戻れると思ったかもな
氏政は絶対に認めないと思うけど 景虎が勝って織田と和睦して関東に攻め入ったら最高に面白かったな 景勝と家督の座を争って命を落とした、北条三郎氏秀の忘れ形見である。 謙信が後継者を明確に決めなかったことがなぁ たぶん景虎が後継者だったんだろうけど 景虎後継者説は景虎って名前が主たる要因になっているような 案外勝頼がでしゃばらなければ、
北条に関東管領と上野の上杉領を譲渡してなんだかんだで収まってたりして?w 勝頼が出しゃばらなかったらむしろ御舘の乱はもっと早く景勝の勝利で終ってた
勝頼は結果的には火事場泥棒しただけ
それは氏政もそうで東上野を制圧してる
景虎はピエロだったということ
さっさと関東に逃げればよかったのにね
帰れない事情があったんだろうけど 景虎って氏康の死後、一度小田原に帰っているそうだな >>44
いや景勝に上杉姓や官位を与えたりして謙信は明確に後継者を示している。あくまで道満丸の陣代だろうけど。
単に家督を継いだ景勝と重臣の間に亀裂が入り、重臣が景虎を擁立し跡目争いが始まった 後始末も大変で、毛利秀広、新発田重家、河田実親らの離反を招いた。
とくに毛利は、上杉家執務室に入ってきて直江信綱を殺害し、景勝の居間に近かったことから、以後、重臣と景勝の執務室は遠ざけられた >>49
北条氏が景虎を養子に出すときに上野支配権を上杉に譲ったことから、
景勝には越後国主、景虎には関東管領を継がせる構想があったのではという説もあったような。
北条氏政は景虎が滅ぼされたことを理由に上野の攻略を宣言している 氏政と景虎の仲ってどうだったの?あんまり仲が良いイメージないが 景勝は憲政を嫌っていて御館の乱勃後の書状のなかで、景勝は憲政のことをすごい無礼な呼び方してるのが気になる。敵ではあっても主筋であり(景勝の実家上田長尾家は、関東管領山内上杉家の越後の所領の代官)、謙信の養父としての敬意を払わなければならなかったはずなのに… 仲良いとか悪いとか、そういう現代的な感覚で当てはめてもな
本家嫡男と末弟ではまず境遇も立場も全然違うし、ずっと一緒にいたわけではないだろうし
ほぼ他人に近い感覚なんじゃないかと思うけどな
血縁関係であるから政治的に利用価値があるくらいなんじゃないかと 久々に良スレ、これほんと闇が深いよな
そもそも長尾家に「上杉」の看板くれた張本人
おまけに関東管領までくれた
上杉憲政は北条に追われて長尾に逃げ込んだのに
北条派殲滅させる景勝に巻き添えでころされちゃって
悲劇の人物すぎるだろ
謙信は上杉憲政を大事にしてたんだから
あの世で悲しんでると思うし
もちろん景虎が継ぐことによって
北条に上杉まるごととられるのも違うけど
何もころす事ないのだから
景勝が謙信を本当に尊敬してたかかなり怪しい >>57
景勝は謙信を尊敬してたよ
謙信の最初の出家名の《宗心》を法名にしたしね
巨大な織田が怖くて余裕がなかったから道満丸を抱え込んでる憲政までも殺した
憲政はまさか自分が殺されるとは思ってなかったんじゃないかな 内乱起きてる敵対側につけば殺されて当たり前だわな
別に景勝的には憲政は本来殺す必要はなかったけど 景勝が殺したって明確な史料があるのだろうか。
たまたま春日山城で落馬や心臓発作を起こして急死だとかの可能性もあるのかな 上杉憲政と知らなくて誤殺→『上杉家御年譜』
憲政は桐沢但馬守具繁、道満丸は内田伝之丞が殺害→『景勝一代略記』 『北条五代記』等
景勝の命令で殺害→『内田家書上』
『上杉家御年譜』→米沢藩4代藩主上杉綱憲が自身の傅役だった竹俣義秀を見舞う際に上杉家の記録が不十分であることを遺言として残したことから編纂作業が始まる。
本来は綱憲公御年譜など藩主と謙信それぞれに名称がわけてあるが総称して『上杉家御年譜』という。全部で417巻。
編纂作業の開始は延宝2年(1674年)から。いわゆる藩の公式見解
『北条五代記』→元和年間成立。話の中心は後北条氏
『内田家書上』→寛永16年(1639年)成立した内田家のいわゆる覚書 >上杉憲政と知らなくて誤殺
嘘つくにしろもうちょっとまともな嘘つけよw
モリカケの安倍レベルw 御館の乱スレッド読み直せよおまいら
話の流れがその時と同じで昔のスレ開いたかと思ったわ >>64
何回もループするのがこういうスレでしょうが。
「マッサン」では結婚出来なかったけど「風林火山」では夫婦だったというのを思い出した。放送順は逆だけど 上杉憲政の全存在の否定なんだから
「上杉」の名前は返すか捨てるかすべきだよな
長尾景勝、もしくは初名の長尾顕景を名乗れよ
大坂の陣前後に全国大名が羽柴名字 豊臣姓を一斉に捨てたようにさ
芸能人が所属事務所変えておきながら
都合よく芸名そのまま使いたいような狡猾さを感じるよ 憲政は殺害するけど、上杉姓は引き続き使用します。「定」「憲」の字も通字として使用します。 むしろ殺さざるをえないほど上杉家中での影響力が意外と強かったという事なのかな >>70 >>71
現代感覚では昔の戦国武将のほぼ全てが性格悪いってなるよね
当時の家来衆は自分達が生きていけたら、それだけで良いわけです、優秀なボスになるわけです
たとえどんな汚い手を使ってでも生き残ればそれだけで良い、そして有能評価になる
つまり関わったトコでは武田勝頼よりも、織田信長よりも、北条氏政よりも、豊臣秀頼よりも上杉景勝は優秀だったってこと
上杉の家臣達だけはそう思っていたに違いない さすがに関ヶ原後に30万石に大減封された時は
「景勝馬鹿じゃね?」と皆思ったと思う
直江は直江状を家康に送ったくせにいざ戦いが始まると
南下せずに最上攻撃するし
結局関ヶ原の原因作っただけで関ヶ原の戦い自体には何の影響も与えていない でも逆らって死んだ景虎の悪口も特に残していないし案外いいヤツかも >>74
それでもリストラされなかったから・・・
家臣団は景勝をバカにはしてないと思う
家康は前田と違って上杉に対してはどんな手を使ってもその力を削ぎたかったのでは
徳川にとって、あまりにも上杉は近すぎたってコト 後から思えば前田が明らかに徳川にいちゃもん付けられてた時に
毛利と上杉は何してたんだって話だよなぁ
ここで前田側に立って「これ以上は戦も辞せず」とやれば
徳川も手を引いただろうに
前田の成功体験で今度は上杉を潰しに来たんだから 憲政は韓国に置き換えてみればいい
米と北との調整役の振りして北の為に工作してる >>74
>南下せずに最上攻撃するし
そのお蔭で関ヶ原本戦に連座せずに済んで減封で済んだじゃない
でも講談ベースだと江戸の背後突きを主張した直江に景勝が首を縦に振らず
妥協案としての最上郡侵攻じゃなかったっけ?
まあ越後に存置部隊仕込んでた時点で最初から近隣しか目が無かったと思うけど
ほんとまさしく女の腐(ry >>76
リストラは戦前に済ませてたんだなw
個人事業主として再契約
成果を挙げたら再雇用
結果(ry
なんというブラック企業w
というか完全に女の(ry
復帰させたホワイト定勝公って本当に景勝の胤か? >>82
あれは笑うね
敵を背後から攻めるのは武士の〜とかw
手取川の謙信はもろ背後から襲ってるが
講談書く奴も義の上杉なんて自称してる上杉家を痛烈に皮肉ってるんだろうな 関ヶ原のきっかけを作った上杉が減封されて生き残ってるって滑稽だよな
江戸時代の上杉はまずはとにかく謙信伝説を強調
関ヶ原一連については直江の「義」と「武」をひたすら主張した
実際は義なんてないし石高半分以下の最上攻めも手こずったのに
最上が改易されていなくなったから上杉の言いたい放題なんだよなー 最上は自領内での追撃に失敗した池沼だから直江を褒めて自尊心守るしかないんだよなぁ 最上は支城を直江に落とされまくって滅亡寸前だったのに降伏を先伸ばしにしてたら関ヶ原のほうで西軍側が負けて直江が撤退して救われただけだからなぁ 直江は最上に追撃されて腹切ろうとして
本庄繁長にぶん殴られたという華麗な経歴を持つw もし景虎が勝ってたらどうなったんだろうな それの方が気になるし全く異なる歴史になったと思う どうだろうな北条の血統とはいえ上杉の当主になったら一線を引かないと家中に面倒くさいの多いし、周りと大した連携を取れないまま史実とそんな変わりなく行くかもな >>89
ほらこんな認識
上泉なんて戦の直前に雇われた浪人でしかないから上杉にとっては痛くも痒くもない
最上はこんなのしか打ち取れてないから上泉の討ち死にを過大に宣伝するが(笑) >>87
数を頼んだだけだな
関ヶ原決着の前に最上倒せないのが全て
直江信者はこれだから困る >>91
例えが北条高広なんかはどうなるんだろうね
厩橋城主だけど息子は景虎側で越後で戦ってる
御舘の乱の間は北条氏政が景虎を支援してるという構図だから
何の問題もなかったけど景虎が越後を掌握したら東上野は上杉のままなのか
それとも北条に割譲するのか?
上杉憲政が景虎側にいることでさらに複雑になりそう
まぁ結局景虎が勝っても憲政は謀殺されそうだなw 上杉景勝はそもそもなんで名将扱いなのよって話
柴田勝家ごときに滅亡寸前にやられてるよね
勝家にしたって手取川や賤ケ岳の記録だけでもたいした武将じゃないんだが >>93
なんだ数を頼んだだけってのは?
関ヶ原の決着前に、ってどこの誰が関ヶ原があんなに短時間で終わると分かっていたのかって話だし最上が支城を落とされまくり
虐殺されまくりなのにビビって決戦を避けてたのは事実じゃん。 >>95
運の良さと外交力かな
武田勝頼には決定的に欠けてた部分 三郎氏秀改め上杉景虎が上杉家督承継の暁には、混同により上杉・北条間の経緯は消滅するのが通説である。 >>94
北条は支援というほど支援はしてないだろ
景虎が勝てば当然上野は上杉が領有するよ >>99
東上野は北条が占領してるので景虎に返すとは思えんなぁ
かと言って上杉憲政がいる以上は東上野を失う訳にも行かない
北条高広の扱いの部分でもむしろ手放せない
案外景虎と氏政で戦始まってまた勝頼が板挟みの予感 >>92
どっかの誰かさんがブラックなせいで軍団崩壊しちゃって
こんなの(つーか上野国人の元謙信旗下じゃん)を大将にしなきゃならなくなったんでしょ >>94
義氏公方体制に従うってならまるっと収まるんじゃね
同盟誇示するためにも相越連合軍が下野・常陸を荒らして廻ったりね
道満丸と義氏娘を婚約させたりね そもそも弥五郎は傍流の仮名だしな
いらんやろあんなん
十郎が上条家嫡流 >>96
三国志じゃあるまいし少数とわかってて勝負挑む思考持つアホはお前くらいさ
徳川が西に向かったのに関東に向かえないチキン
そんなに最上が弱いなら長谷堂城くらい落として欲しかったね 景勝と新発田重家の関係も不思議だよな。
景勝はなんで新発田重家をあんなに冷遇したんだ?
https://i.imgur.com/ZQ19Ryb.png 新発田が上杉景勝家督承継に尽力したのは事実だが、いちいち恩賞で報いていては領国支配の貫徹ができないと、敢えてやり過ごしたという
安田顕元は腹を切って毛利秀広や新発田に詫びたが、彼らには通じなかった 一方仇敵本庄は洞ヶ峠決め込んだだけでなく
嫡男が敵方に廻ったのに褒賞を貰った
まあ普通怒るよね 実際上田衆がどれほどの活躍したんだって話だわな
蘆名と伊達の介入を撃破したのは新発田なんだから恩賞があって当然だろ?
だからこそ今後上杉家中で影響力増大するの恐れたっていうよくあるパターンかもしれないけどさ
直江兼続なんかが讒言しそうだよな
直江兼続なんて新発田にはボコられてるし最上にもボコられてる
こいつ口だけで勝ち戦あんのかよって言う
本庄も揚北衆だし上杉軍団の強さって揚北衆が支えてると言っても過言ではないよね? >>109
これ本当なら本能寺が起こらなかったら後世の景勝の評価どうなってたんだろ…… 景勝は権力持ちそうな奴に乱を起こさせるのだけは上手い 上田衆だけを優遇する政策に満腔の怒りを隠さない毛利秀広、新発田重家、上条政繁、河田実親 まぁでもある程度上田衆だけで固めていたからこそ
武田みたいに総崩れせずに済んだ面もあるしな
難しい所だな
まぁ武勇だけなら明らかに新発田>>>>上田衆だろうけど >>115
これ本当なの?
事実なら景勝の口の軽さと直江のクズさが凄いな 謙信は天国でこいつら何やってんだって思ってただろうね まぁ謙信が後継者を明確にしなかったのがいけなかったわけだけど景勝は憲政殺してるから謙信は景勝にお怒りだっただろうな 由良由繁→遠山康英密書にある家督相続とは誰の決定権で(少なくとも景虎側が主張として)為されたのかってのが問題
景虎派として落書にまず名を挙げられた山本寺は門外
憲当も労役の免除を泣きつかざる得ないぐらい発言力は落ちてる
なにより景虎方諸将が山内の名を正統性主張に使った形跡が全くない
これで密書の言う家督が憲当の名籍を継いだことと解釈するのは無理がある
それなりに越後国内で政治的発言力のある者の意思にによって家督相続が決められたからこそ
家中を二分する大乱にハッテンしたと見るべき でも「政治的発言力のある者」が謙信であるとは言ってないからね 景虎が継いで景勝がおとなしく景虎に従って上杉安定してたらどうなったんだろうという興味はある
武田は滅びて毛利長宗我部は追い込まれても
上杉北条連合は織田にとって毛利や石山本願寺以上の最大の脅威であり
信長が秀吉加勢のために中国に移動する余裕もなかっただろうし
本能寺の変も起きなかったかもしれない あの当時の上杉と北条が連合でもたいして脅威にはならないだろうな
もし景虎が家督継いでたら素直に北条と一緒に織田に従ったんじゃないか? 上杉と北条が組んでも北条は上杉がピンチになっても助けられないし、その逆もしかり
史実通り各個撃破な感じで進むように思う >>133
武田上杉北条の同盟はそもそも勝頼が目指したものなんだけど
上杉 上杉憲政が支援してる景虎が上杉継いだら
北条との関係上かなり微妙 上杉景勝の偉業ってのは謙信公なきあと
織田・豊臣・徳川の脅威から上杉を守りきった事にあるんだけども
長尾に上杉のタイトルくれた憲政張本人をどさくさまぎれにポアしてるんだから笑える、いや笑えない
景勝が生涯に1度も笑わなかったのも納得 >>131
>>132
御館の乱が起きなければ謙信不在とはいえ
川中島、小田原攻め、北陸制圧、手取川の経験ある上杉精鋭がそのまま温存されていたしまた違うのでは 川中島(信玄と渡り合ったのは凄いね、わかる)
小田原攻め(北条の本拠地に一気に攻め入ったのは凄い、わかる)
北陸制圧(加賀は半国だが越中能登は見事だったね、わかる)
手取川(・・・?) さてここで問題です
手取川の戦いで戦死した織田の武将を上げてください 景勝が笑わなかったって後世の創作ちゃうかった?
一次史料とかじゃ普通に笑ってるって聞いたけど 研究家の丸島氏は米沢藩が謙信の神格化に伴い景勝にも威厳が強かったエピソードを作ろうと考えた結果が無口で生涯笑わなかったと言う逸話だと指摘していたが
晩年、景勝は領地を減らされたせいか鬱になっていたと言う記録もあるからそこから発展した逸話の可能性もあるな 手取川では鯰江貞利が討ち取られてるね
情報戦に完敗した織田軍は加賀からの情報を得られず、目的だった七尾城の後詰めに失敗し追撃を受けて敗走 長岡のハズレの山城の国境守の家柄にしてみたら
30万石は上出来だろ
問題は15万石に半減された挙句とんだ金食い虫を引き入れてからだ >>147
その「目的だった七尾城の後詰め」ってよく考えりゃ無謀だよな
当時の織田の領域が加賀のどこまで及んでいたか、わかりやすく「手取川以南」だとして、
手取川から七尾までどんくらいあると思ってんだ?
織田の領国を離れた遠征だと長篠や高天神(失敗)があるけど、同盟の徳川領を通ってるしな
後詰めというには七尾はあまりにも遠くて目的にするには不自然すぎる 織田の主力を撤退に追い込むだけでも十分凄いけどな、上杉謙信。
普通の大名なら出てきた所を柴田勝家に返り討ちにされてるでしょ。 あのね?上杉も織田も戦略目標は七尾城の攻略・救援であって先に上杉が七尾城を攻略したから織田が撤退するのは自然なの
(あっさり退却を選択出来るのも織田の強大な経済力のおかげだが)
っで鯰江貞利が戦死したが、殿任せるにはあまりにも格が低すぎる
つまり大規模な会戦などなく小競り合い程度しかなかったと考えるのが普通
もしくは上杉の追撃がクソしょぼいのか、柴田の退却が実に見事だったのか、まぁ両方考えにくいな
しかし戦略目標を失い退却した織田が負けたのは「事実」で上杉は当然声を大にして宣伝する
「織田の大軍が上杉軍に敗北して逃げ帰った!」とね たらればになるが織田軍が七尾城に到着したら九分九厘上杉は負ける
基本的に城兵と援軍に挟まれたら余程の事がない限り敗北必至だからね
自軍の2倍の兵力と城兵に挟まれたら下手したら長篠の戦いの再現やからな うんそれができなかったんだね
情報戦の時点で完敗してたから まぁ手取川の結果加賀失ったわけでもないし
実際の被害は大したことないんだろうね
柴田は羽柴に滅亡させられてるからこの扱いは仕方ない 後詰めが成功してれば加賀まで版図に入っただろうから加賀争奪戦に負けたってことだ 能登からの情報が全く入ってこなくて進軍が思うように進まないと柴田らが信長に報告してる 越中を制圧した謙信、加賀南部まで勢力圏に治めた信長
七尾までの距離考えたら最初から上杉有利なのは明白だわな
一向宗も控えてるのに手取川から七尾まで直線距離でも80kmくらいありそうだが柴田は本気だったのかねw 秀吉が勝手に帰ったりした話もどこまで本当なんだろうな
後世に秀吉持ち上げるために柴田の猪っぷりを捏造したんじゃないかと思えてくる 太田牛一は秀吉が無断で撤退した話は書いたが柴田勝家が手取川で負けたとは書いてないはず
執筆経緯からすると秀吉を持ち上げる意図は絶対ある筈だけど、秀吉賢明・柴田猪突とする絶好の機会は逃してる
というかやはり手取川についてそんな重要という認識がなかったんじゃないかと 謙信に情報封鎖され動きを封じられて負けるべくして負けたという訳 手取川の戦い後、謙信が織田軍は大したことないって評した史料って本物なのだろうか。直江状なんかは近年の研究で後世の人物が創作したものと明らかになったわけだが。
まぁ織田軍は上杉軍と違って兵種別編成をしていないただの人数が多いだけの軍勢だから謙信が本当にそう感じた可能性もあるけど。
もしかしたら撤退した織田軍を一方的に上杉軍が追撃しただけなのかもね 敗走してるところを追撃したというのが書状の内容だね
書状自体は史料批判されてて良質な史料という扱い まあ実際に戦果あったら感状とか物証が残るんだけどね 敵に追いつかれる状態で撤退ってそれはもう敗走ではないだろうか 邪魔だったから
で結論でたしな
手取川については謙信スレでやればよろし 何の実権もなかったので殺す意味がない、なんてのも実際殺されたから言えること
殺される直前まで跡目争いを仲裁するという形で影響力を行使しようとしてたとも言えるしな 憲政が生きてたら、
江戸幕府では高家扱いだったかもな 謙信と景勝語るうえで手取川は外せないよ
謙信は柴田をボコボコにしたが
景勝は柴田にボコボコにされた
それからたった4年で信長によって上杉滅亡まで追い込まれた
その柴田が秀吉にあっさり倒され、景勝は徳川島津伊達より早く豊臣になびき豊臣5大老になったのに
豊臣破滅の関ヶ原のきっかけをつくり、その間減封されつつも戦国を生き残った
上杉景勝公は義の武将だ >>13
は?
父親の憲房は1525年に天寿を全うしている。
北条氏に殺されたとか、何言ってんの? >>115
新発田の乱はもともと揚北衆同士の闘争に端を発しているというのが最近の研究結果
景勝が仲裁しようとして上手くいかなかったのは事実 >>177
息子を殺されたのと勘違いしてるんじゃね >>176
手取川の詳細もわかってないのに外せないとかいう妄想 無能の代表みたいな扱いで名前残るくらいなら
無名の方がよくないか? 景勝がこれまで名将扱いされてたのが不思議だ・・・上杉家を残したのが評価らしいけど
関ヶ原後に豊臣様から徳川様に切り替えて幕末で存続した家なんてそんなのいくらでもころがってるだろ
自分の代で家を滅ぼしたとしても武田勝頼や斎藤竜興や北条氏政の方が戦国武将としてはるかに有能に見える 最近の研究では憲政は足利義昭レベルの陰謀家というか野心もあったようで長尾家は上手く転がされてたという評価も出てきた
憲政が何か企んでたか知らんが少なくとも敵方に担ぎ上げられる前に混乱に乗じて殺害されたな 具体的に誰の研究で憲政がうまく転がしてたなんて言ってるの? 「景勝の名将扱い」ってそんな言うほどされてるの?
江戸時代には上杉家の米沢藩に限らず何処の藩の藩祖もだいたい名将・名君扱いだろ? ていうか名将ってより義将扱いなんだろうけど
実際は関ヶ原の原因作ったくせに拘束できたのは結城秀康だけで
関ヶ原に何の寄与も出来なかったという意味で本当に義将なのかと
火事場泥棒に直江みたいな戦下手大将にして小城に手こずって大敗
直江は新発田との戦いでも壊滅してたり戦下手なのはわかってたはずだが
手柄立てさせてやろうとしたんだろうが裏目に出てるのは三成と被るな エンタメでは
コーエーのゲームは能力値高いし
NHK大河の葵三代、利家とまつ、天地人では名将として描かれた ゲームでの能力値的な話だと秀吉家康クラスとは明らかに格下で柴田勝家とかと比べて同じか下くらい
ドラマとかで描く同時代人的な評価でもその辺には比べられないが一目置かれてはいるってなるのは自然じゃね? >>192
流石にそれは……そもそも事前に相談もされてなかったみたいだし
むしろ共に上方の逆賊討ち果たしましょうと家康に協力すると言ったらどうなったんだろw 蜂起のタイミングがな
白河あたりで戦闘始まってから上方で蜂起しないと追撃しろっていっても無理があるし
でもそれだと多くの西軍武将が会津攻めに参加するので東軍側になっちゃう
完全に詰んでるな
唯一の可能性で言えば会津攻めに手こずって長期戦になった場合だな 上杉景勝の軌跡
御館の乱で前関東管領上杉憲政を殺害
織田信長軍の一部・柴田勝家北陸方面指令軍に連戦連敗
信長死後も柴田軍の一部・佐々成政に阻まれて越中を回復できず
秀吉にへりくだって協力もらってようやく新発田討伐
東北方面への取次は家康や浅野らに取って代わられる
家康に戦吹っかけておきながら実際に攻めたのは1/4の石高の最上領
江戸幕府成立後は本多正信のイヌになる
義に溢れた名将ですな それだけやって生き残れたんだから大したもんだよな。
対織田路線は謙信のものを引き継いだとして、強い者に巻かれるの苦でもなさそうだし徳川に対して前田路線もあったかね 景勝は織田軍と戦ってない
本国からの援護一切無しで越中在番衆だけで織田軍と戦ってた 本国の維持に精一杯で越中在番衆を見捨てたのさ。まさに勝頼における高天神城。 後詰めには行ってるが織田軍が大軍なんで攻撃を仕掛けることができなかった
後詰めを一切しなかった高天神城とは違う 最初から援軍が来ないのと
援軍が来たと喜んでいたら一戦もせずに逃げ出すのとでは
篭城兵のダメージはどちらがでかいだろうかw >>193
>天地人では名将として描かれた
北村一輝が可哀想になるくらいの描かれ方だったような >>203
>援軍が来たと喜んでいたら一戦もせず
刎頚の友の張耳と陳余は、これで殺し合いに発展したな 天知人は自称歴オタの妻夫木がNHKの番宣で「こんな脚本で本当にいいのかな?と思うことがある」
とマジで言ってたのがワロタ ちょうど>>202の状況で、兼続が天神山城から謎のワープで魚津城に入り篭城衆を説得するシーンがあった
失敗して史実通り篭城衆は死ぬんだけど、兼続は謎のワープで天神山城に帰還してた
そら妻夫木も苦悩するわなw >>208
直江なんて無能だろ。
あの時期の上杉は斎藤朝信と本庄繁長が柱だったはずだがなあ。 謙信期と景勝期では大分重臣も変わるよね。
景勝的には家臣の粛正に必要な御館の乱だったし憲政はついでに殺っとくかぐらいだったのかね 大河ドラマの上杉景勝といえば
それこそ最近の2016年真田丸で描かれた遠藤憲一の上杉景勝が
わりと史実に近い感じだな、いつも優柔不断で、ウジウジしていて直江頼り
極悪人ではなさそうだけど、何がすごいのかわからなかった
無名時代の真田信繁に対して見栄きってたのもリアル
脚本三谷幸喜は上杉景勝をよく研究しているといえよう その斉藤すら代替わりの機に失脚、放逐されちまうからな
景勝無能説は景勝を善人にとらえ過ぎ まあ善人にしとかないと三十万石に減封されちゃったの格好つかないからな
むしろ後世の上杉家の方で景勝をそういう方向に持っていったんでは? 頭下げて生き残るだけなら誰でも出来る
足利義昭や今川氏真だって景勝よりもいろいろやっていて
恨みかわれてどこかでやられても不思議じゃない状況だが生き残った 頭下げても許されなかった人も沢山いるじゃないですかー あと頭下げて自分だけが生き残るとかじゃなく半減とはいえ30万石のところか 秀吉・家康に何されたどころか
謙信時代の国力半減させて柴田勝家に追い込まれた男 輝元や景勝は、やばくなったら光秀やら三成みたいなのが現れて滅亡から救ってくれるという
一種の神風信仰に逃げているからな と考えると勝ち組は上杉憲政だな
殺されたけど上杉の名前は残した
やはり天才だな でも巡り合わせによっては斯波や土岐みたいに元名家として暮らす可能性もあったわけだしなー。
殺すほどの理由がやっぱりあったのかね。関東管領譲って20年近くでしょ。影響力あったのかなぁ 御館の乱のwiki見たけどびびったわ
勝頼滅亡後、越後の回りは敵だけしかいなく孤立してたんだな
本能寺イベントなかったら完全に滅ぼされてたのか
家康、氏政、政宗みたいに抵抗もせず、
すんなり豊臣傘下にくだったのも納得、それしか生き残る道がなかった
でも冬の陣ではイキってたなー景勝w 引退してるから影響力ないかというとそれは微妙で権威による影響力って新興勢力が従うかどうかだからね
景勝が殺したから全く何の影響力もなかったということになるけど調停案呑んじゃったらやはりまだ無視できないんだなってなる
調停案無視して憲政だけ生かした場合も政敵に利用される可能性は残るわけだし >>226
その三人の中で抵抗せずに降ったの政宗だけじゃないか >>228
あ、勘違いm(_ _)m
でも政宗は抵抗したかな? 森武蔵に春日山2kmまで迫られた男
長尾政景と同じように戦はそんなに上手くないのかもしれん 政宗は抵抗というか小田原で秀吉が失敗してのワンチャンを期待して時間稼ぎやっていただけだろう
他のみちのく大名と違って博打を打てるだけの体力は一応あったから
佐竹組が秀吉とずぶずぶだからそうそう簡単に降伏できない側面もあっただろうけど 佐竹ってノブヤボでもやたら評価高いけど
実際は大したことないよなw でも他の名門が消えてく中で生き残り続けた一族だからね。大したもんだよそれは 平安時代から江戸時代まで一定の勢力を維持し続けたのって
佐竹と島津くらいやん 島津も頼朝のご落胤でございます宣言しただけの地頭上がりだろう
南部に至っては晴政すら出自の怪しい部類で戦国乗り切ったのも近所の誰もが南部認定のたまものだ >>226
冬の陣の時点だと多くの大名・武将が初陣で景勝ら戦国武将上がりからみたら素人同然だろう >>239
わざわざ米沢から遠路はるばる大阪まで来て
神君家康公の前で張り切ってたよね景勝
結局何の恩賞もなかったけどw なんかそういうところも抜けてるよね。したたかさが無いというか 上杉家的には関ヶ原でやらかしてるから大阪はそりゃ張り切っていいとこ見せるでしょ
実際東軍に着いた外様大名でも難癖つけられて取り潰されてる訳で 頑張ってますを見せなかったら取りつぶしの格好の口実だからな 藤堂みたいに壊滅までして媚び売ったのに
幕末の鳥羽伏見であっさり裏切る奴w 結局さ上杉景勝って何した人なの?
と言われても答えようがないのがすべてだと思う まぁ関ヶ原でも景勝の名前出てこない人の方が多いし
上杉と言えば謙信か鷹山だよなぁ >>245
何をしたかというと御舘の乱でようやく上杉を戦国大名にしたぐらいじゃないかね
すぐ近世大名に切り替わるけど それ言ったら何かやったと明確に言える武将はかなり限られる。
何やったかのラインがそれぞれの私見だろうけど 中央集権出来ているかが基準なら謙信だって出来てるだろ恐怖なり武力なりで。
権力の安定譲渡を基準にするなら戦国大名はほぼ存在しないことになるわなぁ 謙信は恐怖と武力じゃなく権威と経済な
景勝のように物理的に権力者を殺すというのはあまりやっていない 景勝と勝頼だと、ノブヤボのパラだと戦闘で勝頼がわずかに勝る以外は景勝の勝ちなんだが、景勝あんなに有能なんかな? >>240-243
30万石のくせに1万5千くらい動員したのだっけ
120万石時代から家臣は減らさなかったらしいから人はいるだろうが金が無いだろうに >>249
一番わかりやすいのは築城かな
熊本城の清正とか +点
御館の乱で勝利した
武田を上座に置いたものの手玉に取った
織田が死んで秀吉が死ぬまでは最善の選択を選び続けた(大幅能力値加増)
庄内をぶんどった(景勝じゃないけど)
北条征伐で活躍した
関ヶ原の戦いは直江主導って事にして能力減点を免れる
前田慶次を圧する威圧感があるらしいので+査定
刀剣収集家であり目利き+査定
大坂の陣で石高以上の動員を行った
−点
御館の乱後の戦後処理に失敗した
新発田の乱が長期化した
越中を喪失し滅亡寸前になった
関ヶ原の戦いで大幅に所領を減らした
にも関わらず大坂の陣で石高以上の動員を行う歪な内政状態 そもそも関ヶ原の上杉は西軍なのか?
徳川と上杉の喧嘩に西軍が乗っただけじゃね
反東軍って意味なら間違ってないけど 知略75政治40くらいか
そのぶん兼続が政治90で 30万石で1万5千は5人役として計算すればほぼ全軍だけどそこまでおかしくはないとおもう 近場への出兵や防衛出動なら30万で1.5万はまだわかるけど
大坂くんだりまではどれほど負担あったことやらだね
しかも家康のマイナス評価をなんとか減らそうという戦で加増が期待できない状態で かなり無理して大軍なんて連れて行ったら忠義を示すどころか家康に警戒されるんじゃないのか >>261
家康のマイナス評価を減らそうとする措置ならそこまで批判されるものではないとおもう
あと、敵地は大坂城周辺だけだし圧倒的戦力差で短期決着も見込めるし
それ考えると秀吉の唐入りがどんだけキツかったかというね…
たしか九州は5人役で中国・四国は4人役だったんだよね 江戸時代の上杉家の財政困難見れば景勝の方針がアホだとわかるだろ >>264
江戸期の上杉の財政困難は大坂の陣の影響が原因だったんですか?
大坂に1万5千動員しようがしまいがあまり変わらなかったとおもうんだけど 国民軍でもあるまいし軍に1から10まで藩がカネ出さねえよ
江戸時代の参勤交代と江戸藩邸の維持の方がよほどカネがかかる 根本的には厳封された時にリストラしなかったからと言われてるね 輝元は農民になるの推奨したな
長州は半士半農だらけなんじゃ?
結果論だけどそれが維新の力になったとかなんかの本でみたぞ >>268
毛利は36万石に減封されたけど実高はそれ以上だった
それのほうが大きいのじゃないの? 表高が高かったかはどうかハッキリ分かんないねー
家格を高める為に無理して50万石あるよって言ったのかまじで50万石近くあったのかわからん >>265
景勝のアホな方針は家臣のリストラをしきれなかったことだよ
大坂の陣はその結果の1つに過ぎない 石高というのはあくまで米の収穫高のみであって漁獲高やその他の農産物収入は入らない
蝦夷の松前藩が遠国であるがゆえに参勤交代の頻度を減らすことを許された上に海産物取引で莫大な資産を持っていたんで石高以上に財政が潤っていた
他の藩も同様
ということを念頭に置けば上杉は石高=実際の藩の収入というその他の財源を確保できなかったことが一番大きい まぁ潤ってたから還元したわけじゃないし松浦は沿岸警備もあったから貧しい地域だけどな 石高
石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。
太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、
面積に石盛という一定の係数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。
このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や 海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。
(Wikipedia)
だってお 「内高」と「表高」も調べてみな
誰が編集したか知らんがwikiの内容は残念な感じだな 石高というのはあくまで米の収穫高のみ(キリリッ
残念な感じ満載だなw 誤解されてる太閤検地
https://togetter.com/li/333939
これ見ると江戸時代前期には石高の意味があやふやになってたみたいだな 大坂の陣は超豊臣恩顧大名のパワーを擦り減らす戦いでもあった、それも家康の狙い
陣取り見ればわかるけど木下時代からの前田・蜂須賀とか最前線に投入されている
上杉も羽柴時代からの付き合いなので 譜代も世代交代失敗したすっとこどっこい多いからな
外様にだけ仕事されたら沽券にかかわるからある程度武功挙げるというのはわかるけど
その線引きできずに無駄に死んだ本多とかその最たるものだろう 世代交代失敗も何も10年以上戦がなかったんだからそうなるだろ >>13
憲政は父は殺されてない。息子を殺されてる。 >>270
長州藩が幕末にあれだけ大規模な戦争できたのは、100万石と言われる経済力があったのが大きいけど、それは幕末の藩政改革が大きい。 上杉景勝は大坂冬の陣で5000の軍を引きつれて参加した。今福の戦いで佐竹義宣軍1500は壊滅寸前だったのを、上杉軍が救援に駆け付けて危うく全滅を免れた。 今福の戦いは渋江が死ぬとか佐竹の戦の中でもかなりの大打撃だな
1500じゃ緒戦で勝った後に今福を維持できるだけの戦力なかっただろうに 思えば上杉家が近世大名に脱皮する手始めになったのが憲政、景虎、道満丸一括デリートだったな。 wiki上杉景勝を読んだが武将としての功績でもっとも評価すべき点は大坂冬の陣で間違いなさそう。
セットにされる毛利輝元は自身が指導した具体的な戦績がないからそこで大きな差が生まれたといえよう。 どうしてお家騒動をやっちゃったのかねえ。
景虎を推し立てて北条と結び対織田交渉を進めるのが景勝陣営の楽な道にしか見えないけど。 景虎が家督相続したら、相模衆が景虎の周囲を固めて越後の生え抜きは隅に追いやられ、織田信長以前に、捨て石にされてしまう
甲斐の生まれではない武田勝頼に反対が根強かったのと一緒だ。 むざむざ他国者に国を取られて走狗に甘んじるか、国衆をまとめて一国の支配者になるかって話だからな
後者を選んで当然て人ばかりなら戦国乱世になんてならんでしょう 強力な外敵を目の前にしていながら
内部の主導権争いに夢中
実はそれほど珍しい事でもない 上杉憲政を生かしておいて、真田信繁と一緒に大坂城へ連れて行って、
秀吉に預けて、
「領地の政治が忙しいから」と言ってさっさと越後へ帰っておけば、
あとは秀吉次第。
とりあえず、馬回りとして信繁と一緒に、七本槍なのに冷遇されて性格がひねくれた
平野さんの部下としてこき使われる。 >>292
上田衆以外はたいして変わらないのでは
>>294
本能寺後織田家も似たようなものだしな すんなり景虎が継いでたら北条と一体化して上杉が消えるような 消えない
北条の関東統治の根拠は関東公方を抱えてるからであって
少なくとも越後直接統治は不可能
そもそも北条統治は原則北条権力の下での既存中間統治者の排除という特殊な形態だから
ジェノサイドでもやらない限りそのまま越後に導入するのは無理
ただでさえ面倒臭い阿賀北がいるのに
はっきりいって越後上杉に丸投げにするのが一番手っ取り早い 謙信在命中は関東管領ってまだ使える看板だったんだろうな。
景勝期になるともうそんな時代じゃない感凄いよな 室町幕府が滅亡した以上、関東管領ポストの渕源も消滅していますしねえ 景虎VS景勝の抗争で上杉弱体化はわかるけど
(これは謙信の責任もある)
本能寺のとき、織田軍が越中魚津城まで迫ってたというのは驚きだよ
春日山の目の前でしょうが・・・ 魚津兵は玉砕。死ぬ前に耳に穴をあけて木鑑を通し、誰が誰だか分かるようにしたという。
越中から佐々成政、飛騨から金森長近、信濃から森長可が迫り、佐竹義重宛てに死を覚悟する手紙を送っている。 越後越中の境は親不知子不知があるからそう簡単に攻め込めないだろう
為景や謙信が越中に手こずったのも兵站のせいだからね
そこで森による信濃からの侵入よ、これは堪えたみたいだ >>301
北条もそうだけど領地の西端に本拠地を置いたら隣国まで来られただけでそうなる
>>303も言ってるけど武田時代から海津城のほうが脅威だったろうな 森長可は妙高関山を越えて春日山近辺まで迫ったと聞いたが 関山神社はその時に一度森長可によって焼き払われたそうな 当たり前だろ
亡命してきた居候のくせに
あろうことか自分を追い出した奴の実子を支持して敵に回るとか
恩知らずにも程があるわ 豊臣政権になると上条政繁、河田長親が出奔している。
御舘の乱で憲政が赦免されていても、憲政に秀吉から誘いの手が伸びて出奔したかも たったその一点で鬱呼ばわりもどうかと思うが
おまえは香山リカかーwww 憲政が生き延びてたら一族は高家になる目はあったかもな
景勝家が長尾に戻らない以上は上杉正統を名乗るのに邪魔な存在だったのだろう 憲政はかっての仇敵に庇護求めるとか氏真さんの先駆け的存在なんだが、政治的な動きをしなかった氏真さんは処世術あるし、氏真さんは歴史的な評価より賢かったのかも 流石に秀吉も憲政には手を伸ばさんでしょ。
戦国時代の無能のレジェンドだぞ。
美人の娘か孫娘がいない限り。 わからんな、家康を関東に封じた後に嫌がらせで関東管領に復帰させるかもしれん そんな不安定化策とらんでしょ
唐入り控えてたし嫌がらせにしても露骨だし わからんぞ。織田信雄や山名豊国を御伽衆という耳学問と話し相手の役に命じておる。政治や軍事がダメでもそれくらいは憲政も、勤まろう でも関東の争乱に越後の長尾の軍事力を引き込んだ憲政の外交能力は再評価されている 謙信への家督譲渡はいかにも奇策って感じで評価難しいよな
ただそれによって血筋は絶えたが家名は残ったとも関東管領としての影響力も一時的とは言え回復したとも言えなくはない
越後統率も関東への遠征もやったのは謙信なんで謙信の手柄で間違いないところ
ただ憲政のこの奇策なきゃ同じように展開しなかったろうからそこをどう評価すべきかでは? >>318
単にそこしか逃げ道がなかっただけでは・・ ググったけど本能寺前夜の上杉周辺やばすぎで草
本能寺なければ本当に滅亡したかどうかは実際はわからんが
かなり高確率でやられていたが
それ以上に越後回り全部敵、春日山寸前まで織田軍が迫っているという事実は言い逃れ出来ない
景勝は明智光秀にに救われたんだなぁ 謙信(景虎)の上杉家督&関東管領継承ってその時点での反北条陣営にとってはウルトラCだったとは思うけど、そもそも憲政の発案・主導だったのかね 紆余曲折はあったと思うよ、憲政にとって長尾なんて血筋の上では格下も下だし
そら謙信も(本音か建前かは別として)即、承諾はしないだろう その辺憲政が落ち延びて来て譲ってくれましたみたくさらっと言われるけどよく考えると結構不思議
景虎も主筋の上杉の本家になることで利害関係が一致したとは思うけど無理筋で地位を要求した感じでもないよね
越後入りの仲介が前古河公方だったり謙信も上洛して義輝にあったり近衛前久が関東入りに従軍したりする
単に進退極まって地位を譲っただけじゃない方々巻き込んだ動きだと思うけどそのプロデューサーが憲政なら凄いと思う
その割に関東遠征後御館の乱まで空気になるのも不思議な気がする >>321
本能寺前夜の上杉は魚津城陥落が武田の高天神同様で詰んでると思うな
籠城する春日山城があるだけ武田よりマシというくらいか
権六の北陸軍を南から滝川・森に支援させれば織田親子が親征する必要すら無いな >>327
新発田も動くだろうしね
新発田の反乱は景勝の自業自得だし
本能寺なければ勝頼より下に評価されてたと思う 本能寺がなければ
ってさらっと言うけれどそれって信長に大きな奇跡が起きたってことだよね
それなのに景勝だけ史実のままって不公平すぎね 「本能寺回避すんのは信長にとって大きな奇跡」というより
「信長信忠まとめて殺せそうなチャンスが光秀の目の前に
転がり込んだのが大きな奇跡」じゃないかな その光秀の大きな奇跡が消えて信長の命が助かるんだから
信長にとっても大きな奇跡じゃん 確率論的にいや信長にとっちゃ本能寺は起きないのが当然、
勃発がありえないレベルの不幸なんで当たり前のように回避したら
上杉も粛々と潰されると考えるのが普通なのでは 確率論がどうこう言うのもおかしいか
とりあえず「もし本能寺が起きなければ」の先で
景勝にどんな奇跡が起きるのか仮定するのはさすがに不毛だし、
俗説としての評価なら >>328 くらいにまとまるのが妥当 信長のやり方が本能寺を招いたとすれば本能寺の確率は100%だよ 怨恨とか完全な思い付きが動機ならな
織田家の体制崩壊狙うなら信忠の動向いかんによっても
変化しうる 本能寺の変が起きないようにするには信忠を岐阜か安土に置いておけばいいだけだから、かなりイージーなんだよね。
光秀も信長と信忠を殺らないとすぐに謀反が鎮圧されてしまうわけだし。
信忠が生きていれば秀吉もあそこまで上手くやれないでしょ。 未来予知でもできない限りは行動を変えることなど出来ないんだから
イージーもハードもないだろう そもそも本能寺の変が回避された奇跡が起きた場合は景勝にはどんな奇跡があれば助かるんだろ
本能寺回避は信長の滞在場所とか他の部将の配置とかちょっとした信長の気まぐれがあれば可能だけど 勝頼に比べれば織田の敵意そこまで高くないから景勝がジャンピング土下座からの切腹で家名くらいは残るかもよ >>340
敵意が薄いなら荒木みたいに身一つで逃げ出せば生き延びられるかも そのまま武田みたいに滅ぼされてたら織田側から長尾呼ばわりされてた景勝は後世上杉景勝と呼ばれていたのだろうか そもそもその辺も後継争いに絡んでんじゃね?
織田家と協調模索してる北条の御曹司を戴くかどうかっていう >>339
景勝個人が助かるだけなら逃げればいいって話になるけど関東・東北の諸将は匿わないだろうしな
隣国の最上・芦名・北条らは敵対関係な上に親織田だろうし 船で蝦夷に逃亡するか 甲州崩れは織田徳川の調略だったが、新発田は景勝が自分で作った致命的反乱だからなぁ いろんな意見あるけどよ
本能寺あってもなくても景勝の評価には繋がらないし
本能寺があったから上杉まるごと生き延びたというのは事実
上杉が織田徳川連合により武田勝頼滅ぼされヤバイ事になった
本能寺で助かった
そのあと羽柴豊臣と結んで5大老とか関ヶ原全夜ギリまで豊臣代表としていい感じになったのに
最後の最後で救い主の羽柴豊臣切って徳川様ーと冬の陣で大活躍というのものどうなの >>343
外交チャンネルがあったことは否定しないけど
協調はまだ無い
つーか北条より佐竹のほうが先だから 新発田の反乱も御館の乱も景勝が原因で起きたことだし、織田軍が来てる時に何やってんだと >>151
柴田勝家に負かされた普通の大名てどんなのがいるの? >>348
御館の乱で破綻するまでは甲相同盟は生きてるか
タイミング勘違いだわすまん
北条的には信長との接近も視野に入れてたとしても越後の後継争いがその前提で動いてるというのは確かに無理あるわ >>346
お家取り潰しを免れた家康の御恩に報いただけだろ
それまでの関係や筋にこだわればお家が滅亡するというのは戦国時代の教訓とした成長の証だよ
上杉も大人になったんだよ >>346
本能寺無かったら一軍団に過ぎない柴田に滅ぼされて別所や波多野と同等の評価まで堕ちたかもな
関が原前は会津120万石で大大名の格はあったけど転封前は越後と周辺せいぜい60万石、本能寺時点なら30万石くらいじゃねえの
ただし当時の越後の石高がはっきりしないのよね そのせいで後に越後に入った松平忠輝家は推定石高に幅がある 内乱の挙げ句に柴田程度になすすべもなく滅ぼされるなら氏真以下の扱いかな そんな世界はお前の脳内にしかないからわざわざ出てバカ晒す必要はないんだぞゴミクズ 景勝が滅んでいたら甲陽軍鑑のお家を滅ぼす4人の大将が
5人になってただろうなw
馬鹿な大将=今川氏真
臆病な大将=上杉憲政
利口過ぎる大将=武田義信
強過ぎる大将=武田勝頼
強欲な大将=上杉景勝 強欲というより「策謀を好み過ぎる」って感じかな
全力で駆け回った結果滅んだ勝頼に比べて、
景勝は過程では賢そうなムーブしてる分
滅んだ時の落差デカくて評価低くなりそう >>353
転封前で越後45万石、信濃川中島18万石、佐渡14万石、出羽庄内14万石で計91万石と何かで読んだ記憶がある でも織田を切って一向一揆側につく外交判断をしたのは謙信なんだろ
景勝は外交の敗戦処理をさせられたようなもんじゃないか 中世越後の魅力は石高じゃなくて湊だからな
会津120万石なんて内陸部、実質左遷だよ >>358
佐渡島が14万石はあり得んのか?金山とかも石高換算しての数字とか? >>360
蒲生宇都宮にやった後長船明石付けて秀家を会津に入れて、
備前は戸川岡花房つけて詮家に与えるとかしてれば
もうちょい豊家はもったんじゃないかと思う >>361
あの頃は経済力を貨幣単位でなく米の取高に換算してたから、純粋な米生産量じゃないでしょ
米だけなら佐渡は確か1.7万石だから金山だろうね
会津120万石の内訳が旧蒲生領92万石(米沢含む)、出羽庄内14万石、佐渡14万石の筈 長過ぎてエラーでた…
関ヶ原で上杉が最上攻めたのは出羽庄内がほぼ飛び地だから、東西対決が長期戦となると思ってた景勝が各個撃破されないように最上領を奪って連絡路確保して備えようとしたってあったな >>363
軽くグーグル検索してみると佐渡金山が発見されたのは関ヶ原の翌年なんだよね
それ以前も銀山とかはあったみたいだけどそれだけで12万石分あったのかなあ? >>365
wikiなら上杉景勝の項で1595年に秀吉から越後佐渡の金銀山の支配を任せられたとあるし、コトバンク 佐渡鉱山の項では1598年に秀吉に運上金を納めたともあるよ
少なくとも鶴子銀山は1500年代半ばには発見されていた ゲームの話で申し訳ないが
景勝が信長の野望でやたら能力値が高いのが昔から不思議だった
毛利輝元とかはシリーズが進む度に適正評価に落ち着いていくが 輝元も景勝も野心や目標に現実がついてこれなかったのが残念だったな 砂金より交易収入でしょ
戦国時代は敦賀→山越え→琵琶湖→宇治川→京都の交易ルートが栄えていた >>368
先代や長尾上杉家自体の武門の家のイメージで戦闘力は底上げされてるのだろう
本能寺無しで滅びてたら政治・戦闘とも60前後くらいだったろうが 武力だけは柴田勝家よりちょい低めで他はどの能力値もそれなりだけどトップクラスではない
でも合計でランキング取ると割と上位って感じか 元亀天正の頃にもなって、経験積ませたり実績作らせたりして
後継者育てること考えないのって信玄と謙信くらいだよな
数が多い小勢力がひしめいてる時代なら、
敵もその敵に囲まれてて滅ぼしに来る余裕ないし
ぽっと出が当主になって手探りでやっていくこともできるけど
周りが大勢力に収束した時代は敵が全力で向かってきて
一回の負けが滅亡に直結する
自分が家を飛躍させた頃から時代が変わったことに気付けなかったのかね 信玄も謙信も身内下剋上で当主になっとるし、身内が優秀なのも不安やろ
適当だけど 武田の後継者は信勝で
上杉の後継者は道満丸
なんてな
とりあえず真田信幸は信勝からの偏諱 >>379
最上の鮭様や大友宗麟、肥前の熊も似たようなもんだけど
息子への段階的な権力移譲はしてたよな
(三者とも残念な結果になったが)
他に親や本家どかして家督継いで息子置物にしてたのは
…南部信直くらい? 三好長慶も政長を倒して身内下克上してるけど、義興が
病死してなければきっとうまくいってたはず 武田信玄は義信への継承を図ってて失敗した
謙信は権力移譲しようにもそこまで家中の統制ができてなかっただけなんじゃ?
実際謙信が死んだら内戦突入した訳で
あと人生50年とは言いつつもうちょっと生きれると思ってたかもね
謙信は早死にの家系だろって思っちゃうしよくわからんけど信玄の親父は全然健在だったらしいし その辺を探るための、1570〜78年の上杉家中の史料が驚くほど少ないんだよな
上杉家は現代まで残ってる家だから基本、史料は豊富なんだが、ここだけわからない 敢えて邪推するなら景虎への権力移譲が進んでて、
北条との手切れをきっかけにストップしたけど
どちらか正式に指名する前に謙信が死んだってところか
残ってる記録からだと景勝が不当に簒奪したようにしか見えなくなるから 謙信が何をしてたかはある程度把握できるんだよね、でも景勝はほとんどない
軍役帳では家中2位なのに謙信の関東、越中、能登での戦に名前が出ない
滅びた武田の勝頼だって、信玄存命時の記録も結構あるのに・・
上杉家文書は山内上杉時代の文書も豊富なのに、ちょっと不自然 景勝は謙信が謀殺したとの疑いがある政景の子だし、甥とはいえ与板衆に囲まれてたろうし微妙な空気でもあったのか 景勝は元々快活な性格だった(との記述がある)らしいが母親の仙桃院が景虎に付き従ったことがショックで寡黙な性格になってしまったというのは本当かね 斎藤朝信「大積にある神余領、近いから潰すわ」
安田「北条の睨みはまかしとき」
斎藤朝信「与板までの西山連峰周辺と曽地から長岡への街道にあたる城砦10数ヶ所全部開城したるわ」
安田「北条の睨みはまかしとき」
斎藤朝信「与板城が危ないわ、味方おらんやんけ!助け行くわ」
安田「北条の睨みはまかしとき、ついでに新発田味方にしたで」
斎藤朝信「武田家への外交一緒にやってくるわ」
安田「あ 北条景広しんだで」
斎藤朝信「ほな北条と隣同士のわしらも北条城追い詰めようや」
景勝「アッパレ、もうほんとアッパレアッパレ斎藤くんにはご褒美奮発しちゃうよ」
斎藤朝信「えへへ」
安田「ワシが説得した新発田くんも結構働いたから何かやってくれや」
景勝「でも働いたのは長敦だろ、いま長敦じゃないから…相続だけは認めるね、じゃ」
新発田「!?」
安田「立つ瀬ないし腹切るわ」
新発田「暴れるわ」
景勝くそやな 全国規模で同じようなことして反乱を起こさせなかった家康との器量の差よの >>384
>>386
スレチだけどそれよくあるやつで基本だね、消されてる
実際、真田信之と石田三成の手紙とか超厳重に保管されてたし
親友だった前田・蜂須賀と豊臣の書状が
前田・蜂須賀側に残ってないのも不自然とされる
秀吉が筆まめじゃなければもっと違う感じになってたろうねえ 勝頼のスレでは、なんやかんや議論やスレチあっても結局は「武田潰した勝頼は無能」との答えが大半だが、
景勝だって本能寺なければ滅んでるし、そうなれば今頃ここで勝頼以下の扱いだよな >>395
新発田重家に反乱おこされたのがかなりマイナスポイントだし、滅んだ場合はその点で愚かと呼ばれるだろうけど、
勝頼ほどじゃないよ。
勝頼は相次ぐ出兵で負担かけまくってる最中に新府城なんて無駄なもの作り始めたり、
武田攻め始まったら駿河信濃甲斐美濃上野にいた家臣がろくに戦うことなく1ヶ月余りで解散したほど求心力無くしてた。
景勝も東北の伊達や葦名、織田に完全包囲されて家督継いだ直後間違いなく滅びる結末ではあったが、
魚津城なんかみても家臣団が景勝の降伏しろとの指示を蹴ってまで粘り玉砕したり、信濃では島津勢が長沼一帯までを確保したり、東北方面では葦名ら東北大名の侵攻を阿賀北衆のみでボコボコにして返り討ちにしたりして各方面で家臣らはとても健闘している。
そのへん見ると景勝はみんなである程度戦いぬいて終わる結末、勝頼は木曽や穴山みたいな血族親戚が真っ先に裏切り見捨てられ終わった結末になる。
どちらが愚将か 武田勝頼と上杉景勝
大名としてはともかく「戦国武将」としては勝頼の評価の方が圧倒的
武田勝頼は信玄以上に領土の拡大に成功
長篠合戦敗北の瞬間までは織田信長・徳川家康にとって最大の脅威として君臨していたのは事実
一方、上杉景勝は織田(柴田)と交戦中であった事が幸いしてか
豊臣(羽柴)政権初期段階で早急に従い、5大老に位置付けられる
また豊臣政権が揺らいだ関ヶ原以後は
徳川家康に従い救世主豊臣政権を滅ぼす大坂の陣(冬)で
救世主豊臣相手にイキイキと攻撃し生き延びた
どんな手を使ってでも家を残す事を第一とする大名としての評価は勝頼以上ではある 初期段階で早急に従ったのに後から従った徳川家康や、信長の家臣であった前田利家、小早川の援助ありきの毛利輝元より格下なんだよな。
「上杉ブランド」のおかげでかろうじて末席に名を連ねてますって感じ。 てかなんでそこら辺より格上になると思ってんのか謎
上杉ブランドを過大評価しすぎじゃね? 徳川:秀吉に局地戦で勝った武名持ち
前田:織田政権時代からの付き合い
宇喜多:当主が秀吉の猶子
毛利:織田政権時代に十分叩いたので格付け済み、
交渉も長く続けてるので扱いやすい
上杉:敵の敵は味方理論で何となくくっついた
家格と石高以外豊臣政権内で重んじられるべき根拠が無いな 東北大名との取次も家康に取って変わられてるしね
ホント使えなかったんだなーって
兼続いなかったらどうなってたんだろ 他に50万石以上の実力あるとこだと
惣領無事令違反の前科ある島津と伊達、当主が若すぎる蒲生、
北条と伊達に潰されそうなとこ助けてやった佐竹くらいか
他よりマシ、くらいの理由で大老になれたのかな 単純にほかの諸侯より政権に近く有力だから大老とされてるだけだよ
数合わせ的な発想はなくその実力ないとみなされてたら入ってないでしょ >>395
勝頼無能論者が大半ってことは無いだろ
意地でも無能ってことにしたい人が一定数いるのは確かだが >>401
縁故抜きなら徳川>毛利>前田≧上杉>宇喜多かな
上杉以外は複数国をほぼまるごと所持してるってのもある 上杉も佐渡を一国扱いするなら二国+αではあるが 宝治合戦で三浦氏、毛利氏と一緒に没落した長尾氏に復興の手を差し伸べた恩人上杉氏を殺すなんてサイテー そのふたりは単純に早世しただけで健康で生き延びてたら大老扱いだったでしょ
堀秀政が生きてたら蒲生がそこまで出世してないとかはあるかもだけぉ 堀が生きてたら家康の代わりに関東入ってたってのはあくまでも俗説なのかね
関東で適度に中央のサポート貰いつつ統治システムの整備に取り組んだ経験が
家康と家臣団を天下運営できるレベルまで成長させちゃって
簒奪に繋がったと考えると豊家にとってはマジで惜しいな
関東移封で組織運営力や交渉力養わなかったら
家康も「戦強くて腰が低い真面目なオッサン」のまま終わってたかも 北条攻めが噂から確定になる段階で北条領は徳川にという噂も流れてたようだ(家忠日記)
それに現実的に見て20万石足らずの堀がいきなり200万石超の大名になるのは厳しいかろう、家臣が足りなさ過ぎる
蒲生氏郷が会津貰ってからの家臣団が他所の、既に滅亡した家の家臣を大量に抱えてるの見ても苦労がわかる 関東丸々ではなく関東を家康と堀で分けるというならわかる
例えば堀は上野下野で家康は残り関東と信濃甲斐とか
唐入りのために有能な者に関東を速攻で治めさせ
家康には中央から離れてもらう構想は十分達成できてるし 堀秀政が生きていたら会津若松を委ねるつもりだったという話なら聞いたことある。
それにしても会津若松の蒲生氏郷の石高ははじめ42万石でのちに92万石とされたが、別途50万石の加増があったのか、検地等の結果大幅な余剰が発覚して92万石になったのか、分からなかった 最初は旧蘆名領だけで、和賀一揆扇動の罪で政宗の旧領
召し上げたの加えたんじゃなかったっけ 堀の会津入りプランも関東入りプランも聴いたことはあるが風聞・俗説の類いじゃないの? >>401
前田:織田家臣時代のコネ
宇喜多:秀吉の子というコネ
徳川:戦で潰せなかったので取り込んだ
毛利:本能寺の変後の和議から続く相互不可侵を守る
上杉:北陸、北信濃、北関東で終始秀吉に従った
上杉も十分、五大老の資格あるじゃん 五大老といっても平等でなく、上杉と、小早川隆景の補佐を失った毛利はただの員数あわせで
宇喜多にいたっては見習いのようなもの
実際中央で何かやることより会津から関東を牽制すること以外
上杉には何も期待されてなかったと思う。 「秀吉に忠実だった」ってだけなら他にいくらでもいるしな
結局その他大勢と何が違ったかって言えば実力だけだろ
惣領無事令に抵触しかねない庄内への進軍特例で
認めてもらう程度には秀吉も気遣わなきゃいけなかったし
東北は親秀次の最上、問題児の伊達がいるし
実力ある上杉に格も与えてそいつら抑え込まなきゃいけなかった 実際大老としてなんかしたか?っていうと・・・だもんな 「大老として」っていうけどそんな役職ないでしょ?
「員数合わせ」というけど別に定員もなにもない
ちょっとなにを議論してんのかよくわからん 秀吉死後の中央には殆ど関わってないからな、関われないと言ったほうが正しいか >>417
前田は友達(旧織田家臣)代表 宇喜多は一門代表
徳川は潰すのが面倒だったのと旧主の同盟者ということで織田時代から考えたら付き合いは長い
あとは毛利と上杉だが秀吉との付き合いも天下取り時の貢献度も国力もすべて毛利が上だわな
上杉と島津や伊達との違いは降伏ではなく一応自発的に傘下に加わったくらいか じゃあ何で上杉なんだ?
ここで否定したって事実まで否定できないんだよなあ 単純に実力というか石高が高く、かつ伊達や最上といった爆弾に
睨み効かせられる位置にいたから 大御所扱いとして豊臣入りする前の戦績は
御館の乱の失態とVS柴田勝家により削られる結果しかないから
上杉ブランドというか謙信ブランドの栄光以外何ものでもない
「上杉謙信の後継者」というのは大きいよ
そんな景勝だが御館の乱ドサクサで
長尾景虎に関東管領と「上杉ブランド」を与えた張本人を討ってるってのがなあ
これでようやくスレッドタイトルの話に繋がる
ほんと景勝は毎回毎回何がしたかったんだ
批判とかではなく
御館の乱、柴田戦、豊臣入り、関ヶ原と
毎回の行動に謎がつきまとう戦国武将だなあと
ところで、勝頼と景勝の比較議論に戻ってしまうが
勝頼は武田征伐の本格化のさい、信長と和睦を試みるも拒絶されたとされるけど(1582年武田征伐wikiなど参照)
景勝は本能寺直前まで信長に追い込まれる中、信長に対して降伏・和睦の行動はしているんだろうか てか逆に「上杉家」の名前がそこまで重いならなおさら「上杉のご隠居」が生きていたらまずいじゃん
血も繋がってない上に政治的に対立した当代の惣領としては殺しといて正解ってことになるんじゃね? 上杉憲政が生きてる限りいつまでも長尾呼ばわりされるのが嫌だったんだろうというのは冗談で
まさに家中が乱れている最中でこれ以上乱れる元を置いておくわけにはいかないと判断して乱のドサクサで憲政を討つというのはこれ以上ないタイミングだと思うよ
これを逃すと他にチャンスがない 政敵を殺すのって別段不思議な行動でもなんでもないと思うがなぁ
上杉憲政をありえないくらい無能で無害だと思い込むから逆に不思議に観えるんじゃないかね?
後所謂「大老」って要は秀次処刑後に有力家臣代表として連署させられた訳だからブランドより実力と政権への協力度貢献度で決まってると思うよ
謙信死んで15年以上、室町幕府が滅んでそれ以上、中央政権に影響してたってのはさすがにちょっと >政権への協力度貢献度
ここが極めて疑問
さらに政敵だった徳川がいきなり豊臣閨閥に滑り込んできたもんだから
ポジション危ういし実際会津に飛ばされたし
やはり奉行衆との密約はあったか いや何が疑問?
他の人が言ってるように外様の大大名の中でいち早く従ってるぞ
徳川が来てポジション危うくなって会津な飛ばされた?
時系列おかしいしマジで大老って何だと思ってるんだ? 初期の時点で柴田方につく、もしくはどこにも与しないという判断を上杉が下せば秀吉の北陸から甲信越、関東侵攻、対徳川戦にかなりの影響があることを考えると、上杉の秀吉支持は秀吉にとって不慣れな東日本に楔を打つという点で地政学的にかなりの貢献をしている
戦の勝敗だけが貢献ではない >>433
憲政は謙信には上杉家督を譲ったけど、景勝にも与えるとは限らないからな
普通は謙信が決めることなんだろうけど、実子もいないし憲政が存命ならその意向は無視できまい 謙信の意向が必ずしもハッキリしなかった。それがために家督や管領職を謙信に譲った憲政が、はからずもクローズ・アップされることになった 上杉は佐々を牽制して封じ込めてるからそれなりの貢献はしてると思うが 景勝の官位の上がり方見れば秀吉のお気に入りってわかるだろ 小田原に至っては北國組は御叱りの御手紙まで頂いちゃって
慌てて八王子を撫で斬りにしちゃった 会津移封後は自業自得もあるけどほぼ全方位の大名と因縁できちゃったからなw 北国勢とかち合うのはむしろ押さえるのまで期待されての箔付け兼ねての転封でしょ
堀と揉めるのはある程度は何処でもありそうなトラブルだけどダーティーだよな
兼続は変に持ち上げられてるけど天下を見据えた深慮遠謀とかなかったろって思うわな 賤ヶ岳で佐々の越中勢を封じ込めたのはデカイね。つまり羽柴が実権を握る大事な戦いで素早く味方として貢献したのは評価を上げた要因だ。
あと金をめちゃくちゃ大量に献じたりしてる。 ※447
良い面としては永年地域に根差し頑固になった家臣団を引き剥がして無縁地に再配置刷新でき権力強化が捗る。
ただ立地としてやはり最上が邪魔なとこにいるし直江津、柏崎など謙信が整えた良港を失ったりするのは損失だな。
ただ佐渡や北部の金山銀山の多数はキープできたのは救い、まあ飛び地やら離れすぎなのが統治や守備に難点だが めっちゃ新田開発の余地のあった越後から寒冷地で上げ幅少ない会津だから大損ではある >>429
武田に黙ってこっそり和睦しようとしていたのがバレてもめてる へえ勝頼と景勝で揉めた事あるのか
ただこれは景勝有利なソースではあるね
武田征伐のさいは景勝は勝頼を助けるそぶりが特になかったのだから 助ける素振り見せたよ
(一応)一門筆頭上条宜順斎に一軍預けて送り出したよ
宜順斎が行かなかっただけでw
そりゃ行かないよなぁwww
全軍の編成権くれるならまだしも 普通に助けようとしてたよ。斎藤や上条に反対されて終わったけど。 援軍出すふりして川中島四郡を火の海にしてたら
信濃制圧後の鬼武蔵もすぐには越後に侵攻できなかったかな
まあそんなことしたら天正壬午で占領するのも無理だけど そもそも甲州征伐って勝頼死ぬまで一月程度、信長が美濃にいる間に終わったんじゃなかったっけ? そうだよ
武田の反抗が厳しいだろうから兵站には気をつけろよーって信長が手紙書いてたら、
信忠が速攻で攻めて軍事的な抵抗は一部しかなく制圧
援軍出したところで誰が味方で誰が敵かわからないから出す意味ないよ 武田征伐も結果的に滅亡までいっただけで当初からそこまで目的としてたかは疑問
信長も慎重だし京都の公家たちも勝てるかどうか怖がってるよね 木曽が造反しなければ武田征伐自体が無いか後回しでは 武田や豊臣滅ぼしたキーマンになってる感さえある
心強い味方を気取りつつ結局最後は裏切る
ただの裏切りではなくそれぞれの破滅へのきっかけになっている
武田→武田と北条同盟解消させ武田を弱らせる、支援も特になし
豊臣→関ヶ原のきっかけ、関ヶ原後は豊臣を捨て徳川支配下 当の信長ですら木曽の後詰めから始めて一気に武田家が滅ぶとまでは考えてなかったと思う
勝頼死んだとき信長はまだ信濃にすら入ってなかった
まして景勝からしたら晴天の霹靂だったろう 関ヶ原がなきゃ家康の権力掌握は史実より漸進的になるので
秀頼が徳川との対立を選んだ場合に大坂の陣より秀頼がましな陣容で戦えてたというのはあるのでは みなさんは上杉景勝のライバルといえば誰が浮かびますか?
上杉景虎
前田利家
武田勝頼
毛利輝元
新発田重家 >>464
結果的に武田領を一挙に占領したことが中央の空白を生み本能寺の遠因になったからなあ
>>467
伊達と最上 >>462
そして真田昌幸・信繁は両家が滅びるまで最後まで付き添うと。 >>474
関東でいえば佐野氏や小田氏等のクラスの国衆なのに、武田織田北条徳川上杉豊臣と力のある大名の臣下について存在感を示し遊泳術をはかったのも一つの才能か。 >>467
新発田重家こそ越後人って感じだな
溝口さんの重家へのリスペクト具合凄いしなあ 景勝を語るうえでは新発田重家の研究は避けて通れない
先代の上杉謙信へは忠臣で、あの川中島合戦で功績あげた有能武将だったわけで
上杉憲政をドサクサでやったのは、当時の景勝の精神的混乱も言い訳として通用するが
上杉忠臣で有能な新発田重家と揉めて潰したのは景勝のマジなわけで
そこが景勝ヲタにしろ景勝アンチにしろ評価の鍵となる 越後人は鹿毛カツとか銘打った馬肉のカツとか作らないの? 景虎にトドメ刺す戦で重家大活躍して、嬉しくて直筆書状で部下にお知らせしたんだよね景勝って
なんで重家潰してんだよw才能あり過ぎて恐れたのかね? 有力家臣であるという事は
いつそいつが自分に取って代わるかわからんって事よ
だから上杉は有力家臣の粛清ばっかりやってる 独立性の高い国人衆
徳川も越後は細切れにしたわけで、越後はそれで良かったんだよ
重家の下越は海もあるし広く開けてる
対して景勝の上田は山
気質も文化も変わるよ
謙信でさえ2度も叛いた繁長を潰さなかったわけで
景勝に謙信を継ぐ器はなかったと
憲政、仙桃院、謙信の一門となっていた加地氏が景虎についたのはそういう事だろう
そんな中本家加地氏に背いてでも景勝支持した重家潰すとかwww その辺謙信が国人に対して寛容というか強固な支配関係を構築してなかったので景勝の代でやり直し必要だったんだな
まあ関東管領上杉氏継いで不安定な家臣率いて大遠征しまくってた謙信のやり方ってそもそも真似できる?って感じだし時代も違うしな まあ所詮長尾は下剋上だもんな
為景の代も越後守護山内上杉氏を支えた揚北衆の筆頭格越後佐々木氏は長尾の仇、潰しておかなきゃならなかったんかねえ
米沢へ去ってくれてありがとう越後上田上杉氏
おかげさまで越後の民は堂々と佐々木重家公を弔うことができますので 武田勝頼にしろ、新発田重家にしろ、上杉景勝を気遣って支援しているんだよなあ
恩に報いてきっちり連携共闘していたらまったく違った未来があったろうに 武田が生き残って盛り返すとか考えにくいし重家に加増して家中統制に失敗してたらどうなってたか
確かに近世大名として一応の格式を守れる未来はなかったろうな なんで阿賀北衆は裏切ったり統制乱す前提なんだよw
働きに応じて公正公平に加増してもらったら、認めてもらったら、ますますお家の為に励んだって不思議じゃないだろうに 毛利や伊達や島津もそうだけど、なあなあで国人衆とやってて
巨大な中央権力のバックがついてはじめて粛清ができたわけだからね
それくらい後期にならないと迂闊に潰せなかったんでしょ 単にパワーバランスの問題だな
加増してくれたら尽くしてくれるって関係性だと右肩上がりで行かないとどこかで破綻する
破綻する前に主家を凌ぐ力量を得てコントロールできなくなることの方が多い
実際上杉家が代替わりと中央権力に押されての情勢変化で支配領域を縮小してく中加増が途切れて独立されそうになった訳でね 井上さんは大内派だったのに
その大内義隆が井上粛清にGOサイン出してたみたいなのよね
井上闕地を宍戸(元就娘婿)が受け取ることを承諾する書状が残ってる
きっと元就得意の讒言やろな
陶晴賢も江良房栄でやっちまったみたいに >>491
上田衆への偏りが極端でなければ済む話じゃね? >>493
景勝自身上田長尾家の出だからね
身内や譜代に力を集中させるのは主家に権力を集中させること
集権的な体制を整える一過程だね
それに不満な外様は不満を飲み込んで主家に尽くして地位改善を望むか、いっそ背いて独立を勝ち取るしかない
そして重家は後者を選んだわけだね >>477
上杉憲政をドサクサでやったのは景勝主導とは限らんしね
一門を粛清・追放したせいで上杉家は慢性的な後継者難になったし >>497
綱憲が子沢山になるまでは綱渡りすぎるし
実際に綱勝急死で終わりかけて領地半減されてるし >>495
結果すんなり重家潰せてたなら誰も疑問も文句も言わないんじゃない?
実際は放生橋で死にかけたり、攻める為に川掘るっていう地図に残る仕事頑張っちゃったり、秀吉に泣き付いたり散々じゃん
そりゃ越後追い出されても仕方ないよな
重家のせいじゃない
家中の統制強化とやらの時期とやり方違えた上田衆自身の責任だろうさ
ほんと上田長尾衆に越後統治続けられてたらと思うとゾッとするよ
謙信公は言いました、とか子供に学校で仕込むなんて発想は越後人には理解出来ないからさ すまん何と戦ってるのかわからん
別に上田衆と揚北衆のどっちがいいかとかなく単なる事実として上杉景勝が家中統率のために新発田重家を冷遇し
不満の重家はそれに背いて挑んでいいとこ行ったけど結局は滅ぼされたってだけの話でしょ 景勝は謙信が死んだ年齢時(48歳)に最初で最後の子供(長男)が産まれるという偶然
生涯に子供を1人しか生まない大名って他にもいるけど、だいたい本人が短命か妻一筋とか理由が或る
側室もいるし長生きもしてるのに子供1人か・・秀吉みたいだな、定勝も本当に実子かねえ? そりゃ重要でしょ
万が一周囲に知れてしまったら御家騒動になる 養子でも良かったのに上条一族が逃散しちゃったからな
上条が逃げたから後継者作る必要に迫られたのか
自分の後継者が欲しいから上条追い出したのかは知らんが
とりあえず上杉義勝は完全に無視されたようだ
山内自体が邪魔だったんだろう
上田にとっては代々偏諱受けたかつての主家なのに >>478
新潟って馬産地なのか?木曽馬は数少ないらしいし、高山のお家兼ミュージアムに居たけどでかかったわー。道お散歩してた >>501
側室って若いころからいたのか?
正室の武田氏と子ができないから仕方なく晩年に側室に産ませただけじゃね? >>501
金森長近の「82歳で半世紀ぶりの第二子」とかも
やっぱ怪しいのかな 世継ぎ争いで弱体した経験も持つ景勝が自身の世継ぎに無関心とはな 養子もらえばいいとどこかで思ってたんでしょ
謙信以来、やっぱり実子にはあまりこだわりがないよね まあ一般論として殿様が壮健なうちにその辺の話をするのは難しいのはあるね
適当な養子とって世継ぎとして届けた後で殿様に実子が生まれると揉める元になるしな
景勝→定勝の代は結果としてうまくいったわけだしね >>511
むしろ謙信も景勝も府中や上田の「長尾」家を捨ててるわけだが
たとえ適任者がいなかったとしても後継者すら置いてない >>512
当時の人間の平均寿命、乳幼児の死亡率考えたら完全に賭けだがな 俺もその辺十分飲み込めてないんだけど「景虎が長尾家から出て関東管領上杉家に養子に入った」って感覚じゃなく
変な言い方だけど「景虎の養子入りで法人格としての長尾家と関東管領上杉家が合併した」って捉え方なのかね
上田長尾家→上杉家としては
>>514
だからその辺は結果論だよね
史実通り養子を立てなかったせいで賭けに負けて断絶するリスクもあったけど
養子を建てたせいで権力の二重化、分裂の危機を招くリスクもあった 宗家としての上杉家と長尾家を分けることで権力の二重化は避けられるでしょ
徳川家と松平家みたいに
というか最終的に上杉家の当主を当主として認めるのは豊臣家または徳川家なんで一戦国大名時代とは事情は大きく異なる >>482
加地は景勝方だよ
武田への連名文書に名前があるし
新潟県史も上越市史も景勝方にしている
本庄宛、景虎書状に加地もこちらについたとあり、途中で裏切ったのかもしれないが、詳細は不明 >>479
重家の方が竹俣とごちゃごちゃやり始めた当初は、景勝は仲裁しようとしたじゃん >>516
それは徳川と松平家とか関係なく廃嫡した養子を分家するってだけの話だよね
その場合養子やその取り巻きが素直に聞けばそれでいいけど地位と権力に執着されちゃったり無用の混乱起こるリスクはあるよ
分家するにも所領与えなきゃいかんしね
戦国期と徳川幕府体制下の話の違いはもちろん踏まえて語られてると思ったけど混同してた? >>518
確認したら、本庄の息子と勘違いしてた
蘆名の小田切宛の景虎書状で、加地は新発田や五十公野と手切れをしたとある
文面通りにとれば、新発田らと戦争状態に入ったことになるけど、具体的にドンパチしたって一次史料なんかあったっけ?
御館当時の加地安芸守が春綱なのか秀綱なのかわからないぐらい加地の動静は不明 >>522
勘違いは誰にでもあるから大丈夫
加地氏っていうか、越後佐々木氏気になる
長尾や上杉より越後歴笑長いし、やっぱり頼朝側近の流れって別格のロマンがあるわ >>516
米沢新田藩を立てる時に長尾家を復活させようとは思わなかったのかね
当時は上杉自体も吉良系だしもはやそういう時代ではなかったのかもしれんが >>524
新田藩はあくまでも本家にもしものことがあった時のスペア扱いだから
白井長尾の流れなら侍組にいたんじゃなかったっけ
菊姫の姉の孫が上杉に召抱えられ際、将来は長尾姓を名乗るように景勝は遺言していたけど、本人が辞退したこともあったような >>522
春綱は為景時代に登場するから、天正時代に登場する加地安芸守は秀綱の可能性が高いと思うんだけど
今福氏も平山氏も景勝から武田への和睦要請の最初の返答書の宛名の加地安芸守を春綱にしているね
なんか根拠があるのかな >>526
秀綱の祖父にあたる人も春綱だった可能性も微レ存 >>513
出戻り小四郎くんの扱いは府内長尾じゃないの?
下田長尾かもしれんけど そもそも政敵が抹殺されただけの話で特に不思議はないからな 俺から見てもスレタイ趣旨からズレてるという書き込みはままあるけど
そもそも上杉景勝が上杉憲政をやっちゃった事実がズレてるのでそこまでズレたとは思わない
むしろスレタイ趣旨通り上杉景勝とはいったい何者かという議論について
かなりマジメに考察されてる気がする
新発田重家にしても上杉景勝研究で絶対外せない人物
NHK大河天地人で完全スルーされたのが不思議なレベル
戦国武将として有能な逸材だったのは否定のしようがないし
個人的には戦国上杉史に限れば
実体不明な宇佐美ナントカや過大評価の直江兼続以上の有能武将としてのパワーを感じる 新潟は外人頼みの糞サッカーと言われますが、上杉(長尾)も揚北衆頼みの○大名 有能だったから野心疑われたり独立を目指したんだろうしな 上杉景勝を語るうえで新発田重家は永遠について回る
そう
長尾景虎=上杉謙信を語るうえで上杉憲政を語る事が絶対に避けられないように >>535
新発田重家を過大評価しすぎ
御館の乱での活躍は兄長敦あってのものだし、乱が長引いたのも御館の乱の国内疲労、四面楚歌状態の対外状態によるものが大きい
信長が頓死してしまったから木曾義昌になれなかった 主演「こんな脚本じゃ歴史好きに叩かれるで(震え声)」 >>536
対外戦が無くなった秀吉臣従以降でもまだ2年かかってるわけだが
功あった藤田信吉さんはスパイの汚名着せられて頃されかけたので方々の体で上杉から逃げ出します
なんかこんなのばっかしやな上田さん >>536
そういう状態だったからこそ決起したんじゃないか?
そんでその状態は上田衆の失策によるものでしょ
新発田攻めのグズグズ感は長谷堂に通じるものがあるかもね
粛清しまくって弱体化しまくって外様揚北衆繁長頼みとか、上田衆半端ないってw 本能寺なんて予測不能なわけだし新発田は穴山や木曽と同じ判断しただけと言える
信長が死んだ後にごめんなさいしたら謙信時代なら許されてたけどな
新発田としては景勝が秀吉に臣従したのも誤算だったろうな
織田後継が誰だろうと景勝が臣従しない、させてくれないなら状況は同じだったろうし 伊達や芦名が内部事情で手を引いたのも大きいな
新発田が起った時点で周りは反上杉だらけだったから(親上杉だと瀕死の武田がいたけど) >>542
上カスが秀吉に臣従した後も重家助命路線じゃね?
なんてったって、先に信長秀吉路線に従ったのは重家なんだし
景勝は佐竹へのお手紙で宣言したように日の本敵に回して死ぬ機会を二度も逃しやがったねw
義って凄いねw >>544
両立できないなら大きい方に肩入れするという政治的判断 中立で当事者に任せて放置したとも言えるが
新発田が転封を呑むなら豊臣領に引き取るというケースもあり得たかもしれんが 交渉の窓口が柴田だったら、新発田本人の意思はともかく
上方の印象として反秀吉に組み込まれるんじゃないの
反上杉の連中が柴田に接近して孤立した結果
敵の敵は味方理論で上杉と秀吉が組むことになった 武田滅亡前みたいに敵が一方向なら景勝も華々しく迎え撃ったかもしれんが武田滅亡後や関が原後は四面楚歌でリンチされるだけだからなあ
上杉は改易を経ないで全盛期から一番落ちぶれた戦国大名の生き残りではなかろうかw
もちろん生き残ってることも凄いことだけど >>546
景勝が放生橋で死にかけた年に勝家は逝った >>548
一度貼られたレッテルはねえ
勝家が逝ったあとも佐々は生き残ってたし
家康が臣従するまでは上杉の利用価値は秀吉にはあっただろう
上杉が臣従するそぶりも無いなら佐々征伐の軍勢をそのまま越後に雪崩れ込ませたかもしれん >>549
まあね
ところで秀吉って重家殺す気だったの? 最終的に秀吉は景勝に降れば許すってスタンスでしょ
重家が上方との外交をうまく回せたら賤ヶ岳後の数年の間に降伏じゃない形の和睦を結んで近世大名として残れたかもな
その場合景勝も国持大名として面目を失い大老に名を連ねることもなかったろう
けど結果的に会津転封もないだろうし家康と対立することもなかったかもしれんので何が幸いかわからんな >>531
史実だけを見ていけば上杉家は「義」じゃ無いしな。
強いて言えば上杉家は「義の大名」ではなく「義というイメージを利用した大名」 最初に義の大安売りしたのは武田押しの本家に上杉押しで対抗した紀州家じゃないの?
それはそうと水戸家付け家老は北条押してくれんかったのか 同盟してる大名や従属してる国衆がピンチのときに助けるのは戦国の世でも普通のことだしな
謙信は北信濃と関東の国衆には頼られて「何度も」兵を出してるという、回数で見れば確かに義に厚い
だけど結果はどちらも目的を果たせず、晩年は関東では見放されつつあった
回数が多いのも、敵(北条)が撤退したらこっちも撤退→敵がまた侵攻してまた救援とイタチごっこしてただけ
大名との同盟にいたっては、今川・北条・徳川・織田と永禄末期から忙しなく相手したけど、どれも効果的な援助はない
言うことはでかいがアテにならない大名、それが上杉謙信 もし謙信が関東出兵のとき関東管領としてまやばしにそのまま留まっていたら歴史は変わったのかな? >>553
いや普通に上杉家自身じゃねだって「義の大名」ということにしとかないと
景勝の行動の顛末が格好悪すぎる 中身に上杉要素ゼロなのに上杉を箔付けに利用した長尾景虎
中身に義なんてないのに義を箔付けに利用した上杉景勝
上杉家の一番の得意技って、実は宣伝工作じゃないのか? 「義の人」とか「義将」とかって漫画や小説ではよく見るけど当時の一次資料でも確認できるプロパガンダなの?
「義の大名」という言い方はここで初めて観たかもしれないけど文脈的にみて江戸初期の米沢藩が使っていた用語なのかな??
なんとなく軍記物や講談、大衆文学によって形作られたイメージだと思ってたけど自己発信が今も生き続けてるってことなのかな >>559
義、義だの言いだしたのは明治になってからじゃね
米沢に上杉神社を建てて、謙信の一大プロバガンダを始めた頃からだろ 米沢って言えば、長らく景勝兼続主従は黒歴史扱いだったんだっけ?
上杉神社の景勝兼続主従の銅像も大河ドラマ決定以降に作ったもの? 謙信や政宗のブームもあって扱いが悪かったのは本当
学校には景勝の肖像画が飾られてたけどね >>562
!?
学校に景勝の肖像画ってw
の割に大河に影響されまくりの評価の上下動w
いやあ「義」ってほんと素晴らしいですねwww というか義云々はそもそも後世の虚像であって実在した大名とは関係ないという話になってなかったか 越後外で攻め込んだ土地の直轄領地化が極端に少なかったことから義将とされたんだろう それは当時からそのように言われてたということですか?
それとも後世の人がそう評したってことですか
直轄領の比率が例えば武田とどの程度違うかといった研究の結果はどこで見れますか? 謙信の書状では義という言葉は使わずに筋目と言ってるそうな。
自分は筋目を大事にする、という言い方ね。 現代の用語と違うから単純比較はできない
仮に同じ漢字でも意味が異なる場合も多い
筋目は書状などに出てるね
現代の用語で言えば義が近い そんな義を生業にしている人達がいるんだよなあ
嫌な感じ 上杉家が「義」がどうこう言った記録はない。単に「第一義」の意味を後世の人間が「義が一番大事」と勘違いしたのが大きい。
北条家とかは書状に「義」と言うワードが登場してた気がするな そりゃ為景さんは上司の家の房能さんをぬっ頃したし
顕景さんは上司の家の憲政さんをぬっ頃したけど
氏綱さんは晴氏さんを監禁するだけで頃さなかったとってもいい人(棒読み そもそも99%以上くらいの人が義の意味が分かっていない
言ってる事を見ると義じゃなくて善の事を言っている
義、不義と善悪は全く別のもの >>574
上杉オタと北条オタの醜い争いは有名だから 義理と人情と言うが義理と人情が同じ意味で使われてるのは時々見る 上杉に本当に義があるのなら同盟結んでた北条が武田に再鞍替えとかしないのじゃないかねえ 上杉謙信は上杉憲政の義理の息子
上杉景勝は上杉謙信の義理の息子
なんだどっちも義の人じゃないか 結局、新発田重家に対する舐めた扱いが
上杉景勝に対する余計な評価や誤解を拡散しちゃってる感じ
新発田重家をまじめ研究すれば
「あっ・・上杉景勝は世間では名将とされるけど、そういう人なんだ」
「上杉景勝は景虎はともかく、なんで上杉憲政をやっちゃったの? あっ・・そういう人だし不思議でもなんでもないか」
これで済むから
戦国や日本史に関心をもった
チビッコが最初に触れるであろう
NHK大河もコーエー歴史ゲームも学研の日本史漫画も
新発田重家をスルーなんだから
それにしてもネットの発展はありがたい
ニコニコ大百科に項目あって嬉しかった
逆にいえば新発田重家の研究が本格化したのはごく最近という事になるけどな 先代謙信時代のピークのおよそ十分の一に、してしまった、なのに、なってしまった、されてしまった、って感じが強くするよね上杉は
毛利も似たようなもんなんだろうけど、維新でリベンジ果たしたことで過去を消化出来たんだろう
対して上杉はなあ
上杉の居ない越後の方が維新においても存在感は圧倒的だし、過去を消化出来ないまま真面目に周囲を研究しちゃったら、自己愛崩壊してしまいそう
ざまあ、としか思わないけどねw 最近、富田林署脱走犯人による「感謝の手紙」の心理分析が話題になってるけど
景勝が本能寺前夜に佐竹へ送ったとされる書状を思い出した
これに近いものを読んだら武田勝頼も豊臣政権もコロっと信用するし大切にしてしまうよねと
いうまでもなくどちらも最後は裏切られたが
そういう才能とセンスは絶対あると思う 正義の義と思うから変なこじつけがいるようになるんで、ヤクザやチンピラの面子とか侠気とか思えばすんなり受け入れられる。 いや、ヤ○ザさんに失礼だよ
長谷堂撤退後責任とってあんなことやそんなこと出来ただろうにさ、あの主従は何もしてないじゃん 要は後世の虚像に過ぎない「義」というものを、自分なりに解釈した人らが本当はこんな人だ!つって恨んでるんだな
500年も前に死んだ歴史上の人物に今更自己愛もザマァもなかろうに >>561
明治以後異常に謙信をクローズアップしたせいだろう
江戸時代は景勝の月命日は謙信とともに藩士一同は慎む日とされていた
上杉家御廟所は今は謙信中心になっているが、江戸時代は景勝が中心になって、参道も景勝廟に向かって作られていた
明治になって無理矢理謙信を押し込んで、参道も作り変えている 主題に帰るとすると
最新の研究では、謙信の後継者は景勝に決まって家督宣言をしたものの、反景勝派が対立候補として景虎を擁立したという流れが主流ということでいいのかな
その見地でいえば、憲政は反主流派の片棒を担いだわけで、内乱のみならず対外勢力たちの越後侵略を招いた元凶の一人として殺されたということになる
前管領を殺したことに当時大して非難の声が出ていないことを考えると、殺されて当然のムードだったか完全に世間からは忘れ去られた人だったか
旧家臣たちも普通に景勝に使えてるしな >>587
どう読んだら過去の人に対してのものになるのか? >>589
・後継者は景勝で内外共に落ち着いていた
・その後、神余氏と景勝が揉める
・調停に当たった人がいたけど景勝は神余氏に対する強硬な姿勢を崩さず決裂、調停人たちの面子を潰す
・調停人たちが景虎を擁立 >>590
そりゃ今時謙信や景勝を本気で信奉してる人たいしていないしそれに粘着し続けるとか理解できないからよ 割と真面目に何でそこまで目の敵にしてんの?
何処もご当地の殿様をヒーロー扱いすんのって割とあるけど
変な聖人扱いは虚像に過ぎないのはわかりきってるでしょ? そもそも戦国武将なんてみんな人殺しなんだからわざわざ聖人じゃないなんて目くじら立てなくてもいいわ なんか上杉謙信アンチがしれっとしつこく混ざりこんでるようだけど
景勝とはまったくの別者なんだから他スレでどうぞ
景勝の公平的な検証の妨害だわ
謙信が無能なら武田信玄北条氏康があんなに翻弄されてないし
織田信長が謙信に恐怖や警戒の気持ちがないなら
あんな位置に安土城作らないし手取川に織田家オールスター派遣しないよ 世の中の人は義経がタッキーで民のことを考えていた聖人ぐらいの認識だろう >>589
でも憲政をはじめ、上杉一門は景勝に反抗してるんだよな。
景勝への家督継承は「上杉家」だったのかな?「長尾家」としての継承に過ぎなかった・・のでは?
謙信存命時に景勝に改名して弾正少弼も貰うが、上杉景勝というより長尾景勝っぽいんだよな。
御館の乱は長尾家と上杉家の絡みをもっと考えないといけないのではないか 近衛前久が関ヶ原で東軍勝利後の情勢を息子に知らせる手紙では長尾呼びなんだよなあ
謙信とはすごく親交あったのに 実際名字官途書き出し受けてるんだからニセ書状で無い限り上杉弾正少弼は動かない
とはいえ前公方との(長尾弾正少弼としての)由縁を語ってるんだから紛らわしい
更に言うと景勝には母系を遡って上条上杉弾正少弼を名乗る権利もあるもんだからややこしい
つーわけで謙信が悪いw
だいたい「深く忠臣の心馳あるにより」「下され候」てなら一刻も早く室町を再興せにゃならんやん
武田北条と和睦してww
やっぱり謙信が悪いwww >>604
島津の家臣も関ヶ原以後に長尾と書いた書状を残しているが上杉との関係には全く問題なかったので必ずしも侮蔑するために長尾を使用していたわけではない 謙信が死んで名実ともに関東管領が消滅した時点で上杉もクソも無いだろってのはあったのかもな >>603
正確には上田長尾家だな、長尾の敵対者はわかりやすい
御館の乱は長尾の主流争いの側面もある
上杉一族は景虎側が圧倒的かな、憲政の影響だろうか >>604
すごくってほどでもないだろ
近衛が贔屓にしてたのは島津じゃん 謙信とは謙信上洛時に血書を交わすほどの仲だぞ
それに関白在職のまま越後まで下向して謙信の関東侵攻にまで一緒について行ってるし >>609
上条十郎と上条弥五郎は別家と理解すべきだと思う >>611
なんでさっさと帰っちゃったのかしらん
輝虎が中央政界に興味無さそうだったから?
それとも関東公方にすらしてもらえそうに無かったから? >>613
現職関白が関東公方に成りたかったってこと? というか景虎の遠征と関東管領就任という事業がひと段落ついたから帰っただけじゃね?
さっさと帰ったというけど一生関東にいるような想定の方がちょっとしにくいのではないかね >>612
上条弥五郎家も不思議な家だよね
歴史に初めて登場する定憲も出自を研究者がいろいろ頭をひねって考えたけど結局不明のまま
一時は顕定の実子説が確定的だったけど、越後過去名簿が発見されて、定憲と長福院や上条少弼入道は別人であることが確定し、定憲の顕定実子説も不確定なものになった
本人は自分の方が憲房・憲政親子よりも上杉の嫡流だと書き残してるし、花押から顕定に近い人物であろうことは推定されてるけど
五郎は代々の越後上杉当主が名乗った通称なんだよ
最後の五郎は顕定の早逝した兄定昌
顕定は弥五郎定憲を定実に替えて、越後守護にするつもりだったそうだし であれば上条家が憲政に付かなかったのもわかるな
でも上杉一門の大半はまだまだ憲政の影響が強かったと言うことだ 当時の上杉一門と言っても憲政とその子たちと上条十郎家、弥五郎家、山浦家、山本寺家だろ
弥五郎家と山浦は景勝方だし、山本寺は兄弟(親子説あり)で別れたし、上条十郎は古志長尾出身らしいが、古志の家臣団は河田長親につけちゃったから、大して景虎の力になりそうもないな あと諸国衆御太刀之次第写では桃井が越十郎・山本寺と同じ並びなので
何らかの血縁があるのかもしれん
逆に上条入道山浦入道がヒラ国人枠なのも何らかの法則性があるんだろう
きっと 越十郎は古志長尾、山本寺も為景の姉妹が嫁いでいるから可能性はあるね
上条入道と山浦入道は本来の上杉一族の生き残りの可能性もあるけど、この上条入道と山浦入道の記載については要検討と言っている人もいたような 上条政繁が上条頼房の実子説を採るとして
仙洞院次女が政繁妻とするならば
イトコ婚になるのよね
やっぱり仙洞院次女は畠山義春室じゃないのかしら 上条頼房妻が為景娘ってWikipediaにもあるけど、根拠なんかあるのかな
片桐昭彦氏の論考によれば、仙洞院の同母姉妹は上条家に嫁いでいるそうだが、母は頼房の姉になるから叔父姪結婚になるよ
イトコ婚は日本では、武田義信夫妻や穴山梅雪夫妻、今川氏真夫妻みたいにむしろ奨励されてた感じだけど、叔父姪は天皇家以外では珍しいかも
おそらく頼房は上条少弼の後妻さんの子で仙洞院母とは異母みたいな感じだけどね
片桐氏は為景娘の上条夫人は政繁かその養父(頼房ではない)の夫人ではないかとしていた
それにしても為景時代にあんなにいた上条一族がその後歴史から消えているのはなんでなんだろう
八条家と違い、定憲と為景の抗争で一族が撲滅した感じもないのに >>308
天地人でも北村景勝がノイローゼになってダウンするシーンがある。 領地減らされたといっても坂戸時代に比べたら大儲けと言っていいだろう そんなんだから上田クーデター説がささやかれるんだよ
景虎への取次だった直江・山吉が先年先々年急死したり
柿崎晴家北条高定が暗殺されたり >>629
直江は養子が景勝についてるし後に兼続が娘婿になって継いでるしさすがに違うだろう
しかも謙信健在中だぜ 謙信死後の上杉家を憲政にまとめる力なんて全くなかったんやな 新発田ゆかりの浪人が、上杉当主の父を討つ
忠臣蔵っていい話だなあ >>642
分かりきったことだろうけど、ここで言う縁とは地縁だね
溝口さんちは重家居城跡を拠点として選んでるし、供養もしっかりしてくれている
安兵衛の、討ち入り強硬派のリーダー格ってところや47士中一の剛の者ってところも重家っぽいなw
ロマンあるわあw >>635
戦国期で主の家が家臣の家に家督を継承するって長尾・上杉の関係だけだと思うのだか間違ってるかな。豊臣は関白になったから改姓したし、徳川も先祖の土地から改姓したものだったと思うけど。 >>640
為景・謙信・景勝三代にわたる揚北衆との最終決戦との見方もできるね。 >>640
大石(浅野)対吉良(上杉)の関ヶ原の戦い東軍対立西軍対決別バージョンという解釈もできる。(笑) >>647
じゃあ主君が家臣の家に家督を継がせたのは斉藤氏と上杉氏でよいわけかな。 分家から主家の家督継いだらそれはどうなるんだ?
上杉家もそういう感じだと思うけど それは同名字で沢山居るし一族でしょ。
上杉と長尾は同族関係じゃないし 龍造寺乗っ取った鍋島とか
本家に成り代わったって意味なら織田や島津もそうだろうし
小早川も分家に養子に入った隆景が本家も継いで統合してるな
分家の当主が本家を継ぐだけなら江戸時代にいくらでもあるし 家臣筋から主家の名字になった、って意味なら斉藤も鍋島も入らないか。
主家に成り代わるならそれこそ下剋上で山程あるし。
武蔵や大和辺りであった気もするけど忘れた〜 単なる下克上の話をしてるわけじゃないだろうに
上杉氏の惣領である憲政が越後まで来て家督を譲ったのとそれで下克上的な言われ方をされないあたり特殊に感じる
ただ土岐氏家臣で美濃守護代の斎藤氏の勢力に陰りが見えた時にその有力家臣の長井が跡を継いで
土岐氏との関係そのまま継承したのと関東を維持できない関東管領家に長尾家が入ったのも同じパターンにも見える 氏康の代では家臣とは言えないがもともと北条は今川の家臣だから△でもいいと思う >>652
通説の道三は長井になった時と斉藤になった時に主筋を乗っ取っている >>653
下剋上じゃなく穏便に家督を他家に譲渡したのは長尾(景虎=上杉謙信)と上杉(憲政)のケースだけかな。やはり。 山内上杉と上田長尾は代々の諱を見るに主従関係にありますね
これは穏便でない家督譲渡と言ってもいいのではないだろうかw 義とか言ってるけどそれくらいしないと憲政を保護しなかったってのが実情かもな 為景景虎二代で考えなきゃならんよ
為景の代での上杉への無慈悲な仕打ちと
景虎の代でのいい人アピール
女殴ったと思ったら優しくしてヒモ化するDV男みたいなもん 上杉長尾の主従関係なんて話の大前提だろ
憲政が自ら越後にやってきて積極的に家督継承に動いてんのが特異に見えるって話だべ
家運の傾いた家が勢いのある家臣が継ぐ例自体はありそうな気がするけどぱっと出ないな 越後国
守護 上杉
守護代 長尾
まずこの関係を知ろう >>662
まず長尾氏は「坂東八平氏」として関東地方の平氏方の大庭氏に仕えた事がある。発祥は相模国長尾庄(現在の神奈川県横浜市栄区)。 上杉氏はなんで名門扱いなんだろね?
鎌倉武士団から見ればお飾り将軍の付き添いに過ぎないだろうし、後発の武家
尊氏生母の実家だけど、直義について尊氏の敵になってるし
ほんと越後にとっては長尾とともに疫病神みたいなもんだわ いや、曲がりなしにも関東管領を継げるのだから名門でしょうよ。 尊氏生母の実家だけどって言うてるけどそれが全てだろ じゃあなおさら長尾なんかに名跡継がせるべきじゃなかったね
あほな事するから越後で余計な混乱が起きたんだろうに
佐竹が憲政の申し出断ったってのがほんとなら佐竹かっこいいわ 長尾に譲っていいくらいのもんなら、北条の三男坊に譲ってもいいだろうねw
あ、やっぱり景勝怪しい・・・ ところで、どうして揚北衆って変わり者扱いなんだ?
割りと早い時期に戦国大名化を図って圧かけてきた上杉房能さん
空前絶後怒涛の守護関東管領コロしの長尾為景さん
毘沙門天だー不犯だーの長尾景虎さん
といった個性的な面々とお付き合いし、
府内ではなく上田の上杉景勝さんか、北条からの人質だった上杉景虎さんかの二択を迫られ
あんたのところも大変だったねえ、と労いの言葉をかけられこそすれ、
越後は国人衆がアレだから、みたいに罵られる筋合いはないのではないか、と常々思うんだが
上田衆の不手際のスケープゴートにされてる感じ? 佐竹って新羅三郎義光を祖とする源氏の超名門だし上杉なんて家名要らねえだろ
長尾とはそもそもの家の格が違い過ぎ 何処かで変わり者扱いされてんの?地元?
歴史的には単に度々反乱した国人領主ってだけだと思うが >>673
信玄にも「義光の正統後継はウチだかんね」と言い放ってるしな こういうところ?
他所と比べて反乱言うほど多いかなあ?
下剋上途上の長尾さんに刃向かったり、長尾さんの内輪揉めに巻き込まれたり、などはカウントされるの?
教えて下され ん?どういうとこだかまるでわからん
カウントって何に? 度々反乱したとあるけれど、他の所の国人衆と比べてそれは多いのかな、という疑問 厳密に回数数えてどうこうって考え方がちょっとズレてるんじゃね? でもまあ度々反乱したってのが本当に特徴なら、ひとつの目安として捉えてみてもいいでしょうに
当然その後は、じゃあなぜ反乱したのって考えたっていいわけだし
そうした方が色々見えてきて面白そう >新羅三郎義光を祖とする源氏の超名門
超ドキュソの名門
そもそも清和源氏は陽成源氏説あるし
なんか目撃しちゃいそう >>668
弱体化した家を立て直す方も格好いいでしょ。 >>672
鎌倉時代に越後に入部した和田三浦、佐々木、毛利などの名門御家人の末裔で、室町時代も守護上杉氏に対して独立傾向が強かったから >>670
憲政が佐竹や景虎に譲ろうとしたのは、北条と戦って欲しかったからでしょ
その点からみたら、憲政が三郎景虎を押したというのがほんとに謎、謎 >>690
好き嫌いで景虎>景勝だったか上田衆が嫌いだったのじゃね
それか越後国主を景勝、関東管領を景虎にってのが真実か 景勝が台頭していった天正3年前後から謙信の側近に新発田、竹俣といった揚北衆たちの名前が見え、権力中枢が変化している
新しい側近たちは御館の乱でもそのまま景勝方について、景虎側に本庄実乃の息子とか以前の側近のものがついていることから、新旧側近の対立の面もあるんじゃないかと指摘している研究者もいるよ
片桐昭彦氏の後継者移行説が最近多くの研究者に支持されているからね
謙信が兄の晴景に対して反乱を起こした行動に上杉定実がかなり関わっていたことも最近指摘されてるから、憲政は定実と同じことをしようとして失敗したとも 三条・上田長尾、北条の血を受け継いだ道満丸が上杉を名乗り関東管領に就いたら、東国に平和が訪れそうだよなあ 憲政的には越相同盟が成立した時点で北条憎しから方向転換してるんでしょ
その時点で関東の実権は北条が持つけどその庇護下に古河公方があって関東管領は上杉氏のままって形を取ってた
それもじきに解消されたけど謙信と景虎との養子関係は続いててその景虎に憲政は肩入れしてる訳で
憲政的には景虎が上杉氏を継げば越相同盟当時の当時の名目上の体制に実質的に回帰するのを期待もあったかもよ 憲政の前に古河公方家から養子入りした憲寛は実家に戻ってから上総で宮原氏の祖となり子孫は残った
つくづく憲政って不運な人だな >>696
そうですね。
歴史に名を残しているわりに。 貴景勝って上杉景勝から四股名とってんのね
兵庫県出身だけど なるほど師匠-弟子、親子関係からの命名なのね
知らんかったありがと 佐藤貴信って名前は武将感あるよね
義経の佐藤兄弟や相馬家の佐藤好信
同じ地域出身だし遠い親族かな? >>702
その佐藤兄弟の忠信の子孫を称していたよ
実際に血が繋がってるかは知らん 上杉景勝でよかったな
貴源治とか貴公俊みたいにならなくて 上杉影塚って、関ケ原の決戦で徳川に敗れ越前に逃亡はかり
その後南冲尋定を名乗って刀工として余生送った人ってイメージ。 何か名前に塚ってつける感覚がスゴい
三省堂大辞林には墓って意味もあると載ってるし、不吉と思わんかったんかな あらかじめ不吉なものをつけて、回避しようという考えもある >>672
基本的に越後国人の多数がぶっ飛んでるから揚北衆だけじゃないよ。
主だったジェントルマン国人は直江と斎藤くらいだよ。
たまたま揚北衆は春日山から離れているから単独で葦名や伊達と戦や外交やりあったり、庄内エリアに勢力つくって遊んだり自由度が高かっただけ。
北ジョー見てみなよ、国を離れて沼田行ってようやくやりたいこと見つけた感あるだろ?
越後てのは四方を天険に囲われた檻みたいなもんなんだよ。越後国人は虎!
遠くで監視が行き届かなかったり檻から放てば好き勝手するのは自然の摂理。
尻垂坂は日本のサバンナ 内乱で東上野を北条に抑えられた以上は
もう関東管領の肩書なんて何の役にも立たないから 上田長尾は何代にも渡って偏諱下してたほどの関係で
被官に家を乗っ取られるのが嫌だったんだろう 御館の乱で関東に寸土も持たなくなったし憲政が敵に回って殺した時点で関東管領を継承する大義名分もクソも無い 殺したせいで関東管領継承できなくなったってより
関東管領継承する旨味よりリスクのがデカくなったから殺されたんだろな とうに滅びた北条名乗って関東制圧しようとする輩のいる土地柄だし 信玄から勝頼とくらべるとひどい代替わりになったが、
武田は滅び、上杉はどうにか生き残ったというのが皮肉
結局運がすべてというのだろうか >>717
運もあるけど立地も大きい
織田・徳川オーススター相手にした武田に対して上杉はほぼ北陸軍だけだし
そもそも武田と織田(美濃制圧後)・徳川は最初から隣接してたわけで >>717
本能寺の変がもう少し遅れただけで景勝はダメだったと思う >>721
冬に入れるか微妙なところだったかもな
万全の態勢で春日山に籠城できれば織田は降雪撤退する憂き目にあったかもしれんが滅亡が来春に延びるだけ >>722
森長可に本能寺の報が届いた時には森はもう上越市にいたんだよなぁ >>723
そりゃ海津城から上越は目の鼻の先だからな
川中島なんか自領の武田勢のほうがよほど遠征になってる 上杉顕定の敗死は上田長尾に裏切られて退路絶たれたのが主因? >>718
織田視点で、武田と上杉のどっちから滅ぼすかを考えたら
「とりあえず武田から」になるのが自然な流れだわな。 >>724
川中島で思い出したけど、あんなとこまで北条が律儀に援軍送ってたのを最近知ってびっくりした
しかも派遣されてたの綱成っていう >>1
景勝のアイデンティティは越後上杉家だから。
景勝の母・仙洞院の母方の祖父が上条弾正少弼。
上田長尾房長の母方の祖父も上条上杉一族。
>>624
頼房の次代が政繁でしょうね(畠山から養子に入ったのは義春で別人)。
あとは上条家女系子孫の景勝しか残らなかったということでしょう。 二階堂盛隆も蘆名家の血は入ってたんだよね。
謙信に上杉の血が入ってたかどうかはわからないが、
景勝には上杉の血が入っていた。
姉小路→三木はワカンネ 普段から気に入らずついムシャクシャしてやってしまった
でも後悔はしていない
かげかつ >>736
娘が景虎の嫁だからな、むっつり無口な息子より娘の所の方がいいのは今も昔も一緒 てことは道満丸にも上条上杉氏の血が入っているわけか RYO/ヒスペディア @kidotakayosi74 2019/06/19 18:57:05
「上杉家ってあの謙信の?じゃあめっちゃ強いんじゃないの?」
上杉顕定「違うぞ」
上杉顕実「弱いです」
上杉憲房「力無いです」
上杉憲寛「負けっぱなし」
上杉憲政「謙信だけが異常」
北条氏康「謙信だけが異常」
武田信玄「謙信だけが異常」
織田信長「謙信だけが異常」
https://twitter.com/kidotakayosi74/status/1141283751504183297
右京 @garupankuro21 2019/07/03 2:53:30
上杉顕定は、ぶっちゃけ強いと思う。
興隆だった扇谷の勢いを、道灌を殺させることで減退させて、結果的に屈伏させたし。
関東側から越後に本格侵攻した唯一の武将じゃないかな。
その時も、長尾為景を二回撃退してるし。
https://twitter.com/garupankuro21/status/1146392748267728897
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>740
謙信は槍のイメージあんま無いな
三十五腰で太刀の方が そもそも憲政も謙信の父親に祖父を討たれ父親は命からがら逃げ帰ってきたくらいで山内上杉を衰退させた因縁が北条にも負けないくらいあるのに亡命してきたりするような奴。
ボンボン大名の典型で今川氏真によく似ているタイプ
そんなヤツでも謙信に家督譲ってから政治に介入しなくなり大人しく隠居させてたのに乱に関わってきやがって景勝もイラっときただろう。
ピリピリした状況で家臣の中には憲政を心底鬱陶しく思ったやつも少なくなかっただろうに >>89
上泉て新規雇用枠で浪人衆みたいなもんじゃなかった?大将級とはどだい思えないんだけど >>93
武田信玄でも毛利元就でもあの短期間では無理だわ >>110
新発田も出遅れだから恩賞なんて家督で十分。
比べて国人でも斎藤朝信は一番に景勝に与し武田への外交だけならずVSキタジョーや十郎景信に与している古志郡の諸城を攻めことごとく開城させた上、
与板城救援の血路まで開いている。
新発田も騙された経緯はわかるが働きが足りないよ働きが〜 >>113
阿賀北衆はもちろん、地域としてはかなり狭いが柏崎衆(宇佐美・上条・安田・佐野・北条・斎藤)も粒揃い
この2地域が主軸だろうな >>143
七尾を手際よく内部から落とし、
織田にギリギリまで落城の情報を漏らさない徹底した防諜。落城をようやく知った織田は数に優るも助ける相手を失い、これ以上深入りしすぎると不味いと判断、あわてて反転撤退
しかし一揆を味方につけ道中に不安のない上杉は少数ながらも素早く、撤退を始めた織田に追い付くことに成功し打撃を与え逃げ帰った織田軍は各城にこもり籠城支度。
戦闘行為そのものは織田の尻をつつくだけだがそこに至る電撃作戦はあまりに見事で、誰に手柄があったかもわからないが確実に地域の主導権を握った決定的かつ理想的な戦果。
謙信の真骨頂じゃないの? >>226
大阪陣では粛清し世代交代した代が成熟しきった時だからな。
強兵上杉軍団が光を取り戻したんだよ。
水原みたいな謙信時代の生え抜きにはまだまだ物足りなかったようだが >>280
枇杷島城、旗持城、上条城、安田城、赤田城、二田城、鎌田城、大崎城、町田城、南条城、黒滝城、矢田城、勝山城、聖ヶ崎砦、
柏崎ならこれくらいは見てこいやボケ!素人かよ! 上杉三郎が山内上杉家というか関東管領継ぐことになってたんだな >>724
春日山から海津は徒歩て100qの道程、目とはなの先は言い過ぎだな。
単純に信越国境までなら目とはなの先だがな >>750
いやだからその上杉領まで攻め込まれてるって話だわ
魚津城救援に出兵した隙に本拠地狙われて見殺しにする羽目になった >>749
周りが素人同然だっただけでは
あの時点で戦国生き残りなんてレジェンドだろう
スポーツでプロと高校生が勝負するようなもの >>743
親や家の仇と同盟組んだり縁組するというのは戦国時代〜江戸初期ではよくあることだよ
この時代は俺の親父を討ったすげえヤツと親の仇をワンランク見上げる風潮があった
今の感覚で物を考えると本質がボヤけてくる 佐久間盛政の娘が中川清秀の子に嫁いでいるのもそうだよな
清秀妻には嫌われてたようだけど >>754
春日山までかなり迫ってるのはわかるが春日山の二キロ手前と書いてあったからツッコむだろ
二キロてもうほぼ城下じゃん
国境を破り、田切城を落城させすぐ先の二本木まできた所で上条勢が一隊を率い出てきて交戦し追い払う。
しかし鳥坂城のすぐ近くで陣を張って以降は進んだ形跡がない。
二本木は春日山の25qほど手前でたしかに国境をやぶり15qほど進軍し、いよいよ春日山防衛ネットワークの城砦群に到達したのは景勝に大変な驚威を与えたが、春日山の二キロってもうほとんど抜かれてる訳で景勝遅すぎじゃんっていう。
武田勝頼が御館の乱で介入したときなら上杉は受け入れる形だったからすんなり春日山近郊まで軍勢通したけど森武蔵の時は小勢でも抵抗してるし二本木からはすんなりとはいかないだろ まあどっちにしろ春日山まで半日のとこまで追い詰められてるでしょ
まさかそれすら認めない感じ? >>762
それすら、て二キロ手前まで来たとかを認めろってか?
国境越え追い込んでるのは間違いないよ。
単身なら半日、無抵抗で通常の行軍なら25キロほどなら丸1日で着く至近。
二本木となりにある鳥坂城を攻めて落とせば、頸城平野が見渡せるから森軍は無理して支城群に首突っ込まなくても上杉を牽制でき春日山から身動き出来なくすることが可能 憲政って本当に山内上杉の血統だったのかな?
憲政の父憲房の父である周清って僧籍にあったこと以外なにも伝わってないし、
名前も周清だったり周晟だったり秀晟だったりで、実在の人物かどうかも疑わしい。
そもそも僧籍にあったのに子があるってどういうことよ? >>763
当時の価値観だと血統よりも家じゃないの
妻帯して子のいる僧なんていくらでもいるし 信濃島津氏の縁の地で武田氏・上杉氏双方の縁の地でもある、長野市穂保地域が今回の台風で水没。長沼城趾も水没して悲しい・・。 信濃島津氏の縁の地で武田氏・上杉氏双方の縁の地でもある、長野市穂保地域が今回の台風で水没。長沼城趾も水没して悲しい・・。 >>760
森長可が二本木迄でとどまったのは長野市豊野町の大倉城趾で島津氏・芋川氏・北信濃一向一揆が森氏を食い止めようとしたのも大きい。 >>760
森長可が二本木迄でとどまったのは長野市豊野町の大倉城趾で島津氏・芋川氏・北信濃一向一揆が森氏を食い止めようとしたのも大きい。 越後って当時は米どころではなかっただろうし、主要な産業って何だろう?日本海貿易だけ? 越後一国は戦国時代なら30万石くらいか
太閤検地で40万石
幕末に120万石
今は500万石(五百万石という米の銘柄があるはず) >>775
武田と上杉でなんであんなに経済格差があるのだろう
佐渡は完全には支配してなかっただろうし 海運がデカいのか? 江戸初期の松平忠輝の高田藩(越後・北信濃)の石高は45〜75万石と諸説あるが最大の説だと越後分は60万石はあるな >>763
周清は系図には堕落したとか書かれている
つまり出家して寺に入ったけど修行についていけなかったのか寺から逃げ出して妻帯したんだろう
正式に還俗もしなかったのか
その子の憲房は顕定のところに転がりこんでその庇護を受けた
通説では養子になっているけど、研究者は養子ではなかったのではないかとしている
顕定の元には憲房みたいに庇護を受けて食べさせてもらう上杉一族が集まっていたらしい
憲房、憲政父子より自分の方が上杉の正統だと書いている上条定憲の書状も残っている 武田の次男なんかも子がいて家を残してるから武将の子が僧になったからって子がいないとは限らない 堕落の定義によるので全ての僧は堕落してるという信念あるなら
その人にとってはいないのだろうね
が、文脈的には多分そんな極端な意味合いでは書いてないだろな 仙洞院(当時俗体)が上杉光徹に再嫁して家督問題に介入してきたから
光徹を斬首して仙洞院を仏門にブチ込んだ
、、、んじゃないかな? 憲政を殺すことは、山内上杉の後継にはならないことを意味する。
そもそも景勝は血統的には越後上条上杉なので、山内上杉を継ぐ気はなく、
越後守護家の後継という自覚だったのかもしれない。 景勝は上田長尾家で越後守護家上杉家を継げるのは
理屈に合わないでしょう
景勝はあくまで関東管領家を継いだ謙信の養子
守護家上杉家なんて景勝が生まれる前に断絶して
長尾為景が長尾性のまま守護に補任されてる >>799
ですよねえ
どうして長尾上杉なんて言葉創ったんでしょうね 家としては山内だけど謙信以降は別物という認識なのでは
血統的には綱憲以降は吉良上杉とも言えるが どういうニュアンスで別物なんだろう?
長尾より山内上杉のほうが格上だろうし
長尾は長尾でも上田長尾に過ぎないわけだし
景勝以降の米沢上杉です、が一番しっくりくる感じだけど そりゃ家名・役職以外にほぼ山内上杉要素が無いからでは
血統はもちろん家臣も領地領民もほぼ長尾家だし というか長尾上杉って言う?
このスレでも>>372くらいしかいないし
家の名としては米沢上杉氏だと思うが 昔別スレで長尾上杉知らないの?ってドヤってた人が居た気がする
米沢要素ゼロな謙信さんを祖にしてしまうという無理から長尾上杉なんかが出てきたのではないかな
府内長尾の謙信さんは憲政さんから山内上杉を受け継いだのにな 信長の野望界隈では普通に使うかな。データ的に別家なので >>804
ググったら山形県の生涯学習課も長尾上杉使ってて驚いた まぁ拘りさえなければ長尾上杉の方が分かりやすいしいいんじゃね 長尾上杉氏印章[晴景、謙信、景勝所用]ってあるけど、晴景も長尾上杉氏なんだね
なんか凄いな >>808
わかりやすいか?
長尾庄に居たの?ってならない? 山内上杉氏とか上田長尾氏みたいな
複数の家系の一つの呼び方としては違和感
長尾・上杉氏とか上杉氏(長尾氏)みたいな
途中で呼び名変わったから併記してるよ的な
ニュアンスで考えるとわかりやすいかもな 一般的な用法ではないってことだよね
山内とは違うんだって言うなら素直に米沢上杉でいいのにね
呼び方でさえ現代人を混乱させる上田衆
嫌悪感が募ります 土佐吉良氏も吉良親貞以降を長宗我部吉良氏と呼ぶことがあるみたいね なんか米沢上杉でいいって強硬に主張してる人が一人いるだけな気がする 米沢時代と同時期にべつの大名としての上杉家があれば米沢上杉家と呼ばれたかもしれん >>815
他になければ長尾上杉と呼ぶ必要もなく謙信が継いだ山内でおーけー? 米沢上杉氏は近世大名家の呼び方としては
藩名+家名というシンプルなもので
非常にオーソドックスで明快
ただ戦国時代の出来事を語る文脈では不自然
謙信が山内を継いでそれを景勝が継いだんだから
山内上杉氏で間違いない
憲政と対立したし景勝は謙信はともかく
関東管領家としての歴史をあまり主張しないので
別物と考えるのも別の呼び名欲しいという
考え方も分からなくはない 上杉→山内上杉→長尾上杉・米沢上杉
どれで呼んでも間違いでは無い 左側は右側を内包するし 光栄が長尾上杉使ってるのは御館の乱で
憲政-景虎方と区別するためでしょ?
最近作詳しくないから多分だけど
憲政-景虎を山内上杉、景勝を長尾上杉と
便宜上呼んでるってだけかと 信長の野望的には上杉謙信家と上杉憲政家は別家だし
養子イベントはあるけど上記2家が合流したりはしないし 旧憲政領は長野氏が大名になってたりする 三木氏も国司姉小路家と区別するために三木姉小路氏と呼ばれることがあるけど、それと同じようなもんちゃうの
三木氏のは単なる自称って言われてるけど、姉小路家の本家筋の小島時光が認めてんだし似たようなもんだろ >>821
御館の乱を山内VS長尾の対立構造視するのは勝手だけど光栄は全く関係ないな https://nobunagataishi.wiki.fc2.com/m/wiki/歴史イベント(上杉家)
例えば大志では謙信死亡でイベント「御館の乱」
その後「山内上杉を滅ぼす」ことで次のイベント 学術的には、上杉景虎を山内上杉、上杉景勝を長尾上杉という使い分けはしていない。
山内は扇谷や深谷などと区別するために使う。
長尾上杉は血統的に山内上杉ではない謙信がそれを継承したから、その独自性を明確化するために使う。 >>828
うん実の妹が旦那の為に兄なんか死ねばいいと思うぐらいかっこいい、まあ兄がクソ過ぎるってのもあるけど 憲政は息子を北条に殺されたのになぜ景虎側にいったのか 景虎側にはすでに嫡男がいたのも大きいかもな 仙桃院にとっては孫だし 景勝は上条上杉の血を引いていた。
一方で関東管領家には愛着が無かったのでは?
景勝が継いだのは、たぶん心情的には、
越後守護上杉家だったのかもしれない。 んな訳ない
あくまで養父上杉謙信の後継者だよ
すでに謙信が将軍から直々に越後支配を認められ
越後守護家は補任されず断絶して
一族は謙信の家臣として存続してる
それを継ぐ意味はなかろう 内心は上田長尾家が府中長尾(転じて山内上杉)家を乗っ取った感じじゃないか
関東管領職にこだわりは無さそうだが すんなり継げてたとしても北陸で織田とやりあっても関東遠征はしなさそう 関東管領も実質伴うなら色気出すだろうけど
越後一国も維持できるかわからん状況では重荷でしかない
その根拠は?とか馬鹿なこと聞かれそうだけどw 景勝は過大評価だと思うぞ。本能寺無ければ武田の次に消滅。
御舘の乱で家中割って国力低下。
120→30万石はいただけないでしょ 信長の野望オール80超政治だけやや下
みたいな感じは過大評価だろうな 軍事面では有能な武将だったと思うけどな
内政はようわからん 御館で自分の力量の限界を悟って小難しい事は直江に一任して要らん事せず生き残ったのは評価できるやろ
結果として所領は減らされても大名として幕末まで家を存続させたんだし 幕末まで家名を残したのは鷹山の功績が大きい
景勝はなにもしてない 直江の独裁体制から藩主直属支配に切り替えた定勝はもう少し評価されてもいい 逆に軍事面での実績がいまいちじゃね?
いち早く秀吉に臣従した政治面は言うまでもないし
御館の乱では柿崎謀殺に多数派工作から
勝頼懐柔して最後も堀江寝返りで決めたでしょ?
でもその後は秀吉に擦り寄るために越中攻めても
佐々成政単独に押し返されて奪われたまま
新発田重家に越後半分取られて平定に何年も掛けてと
むしろ軍事面での過大評価なんじゃないかな
軍事面での物足りなさを調略や政略で盛り返してる印象
軍神謙信の後継者的なイメージに引きずられてると思う 謙信後継とか名門上杉とか家格的にプライドが高そうなのに折れるところは折れることができるのは評価できる
折れることができなかったら秀吉や家康と滅亡するまで戦ってる
まあ許してくれたのは相手の都合が大なのだけど 越後一国で天下を相手に滅ぶのも辞さず
から秀吉にいち早く取り入って大老へ
折れるところは折れる、どころか
見事な変わり身だよね
外交や謀略こそ評価されるべき 外交が評価されるべきって…w
外交が上手いのならたった三年で120万石→30万石にはならんわ 秀吉には取り入れざるを得なかっただけで景勝の外交が上手いとはならんやろ
景勝はただ運が良かっただけや >>847
なにもしてなくはない
一応藩の礎は作ってる いや本能寺の変はマジで運が良かったし
お手本通りの遠交近攻だけど
本能寺後舵取り誤ったら滅んでたろ
てか逆に他に評価できるポイントで何? 御舘→越後国内どころか周辺勢力まで敵まみれ
信長の上杉攻め→越中、信濃方面から織田、越後国内では新発田重家の乱発生、会津米沢方面からは芦名伊達勢が織田と連動して攻められる
関ヶ原→西軍に与して減移封
運もあったのは認めるけどある程度の力量がなければいつ滅んでもおかしくなかったと思うけどな 少なくとも無能ではないと思うが 無能だと言ってる人はいないと思うけどな
>>853も外交ダメと言ってるだけで
信長の野望的な軍事的能力が優れてたと言いたいのでは?
それが何で言えるのか説明を求めたいところだけど 上杉と毛利は似てて、大幅削減され
家臣を選りすぐったのが毛利。
家臣を解雇せず帰農させて
全員米沢へが上杉。 生殖能力は景勝より輝元の方が上 どっちも後継が心配されるくらい遅い世継ぎ誕生だけど
景勝が1人しか子を成さなかったことが後の領地半減に響いてくるわけで 明確に景勝が軍事面で名をあげたのは冬の陣くらいかな?
上杉勢+援軍6000VS大坂方12000という半分の兵力差で勝ってしかもそのあと援軍で佐竹義宣の窮地救ってるし 全体としては20万vs9万のうちの局地戦か
でもその辺になるのかなぁ 大坂の陣だと初陣だらけの素人集団の中で無双したイメージ
相手した大坂方の将も一流どころはいなかったし 冬の陣では水原親憲が無双したからな
秀忠から感状もらってたくらいだし ・本能寺直後 上中越のみで30万石程度
・信濃と越中で若干の領地を回復
・秀吉に従い新発田を討つ(東蒲原を除く下越を回復)
・本庄(武藤)と呼応し庄内を得る
・秀吉の内戦禁止に関わらず佐渡に出兵で直轄化
・真田の豊臣大名化で上野沼田と信濃小県を失う
・新川と東蒲原の交換でようやく越後一国を領有
・会津移封
・関ヶ原で米沢(置賜)と福島(信夫)・梁川(伊達)30万石
元の木阿弥だな >>866
>・秀吉の内戦禁止に関わらず佐渡に出兵で直轄化
いやこれ、秀吉の命でやってるんだが…… むしろ上手くいかなかったら威儀に関わるぞって話だったかな
花の慶次で読んだ気がする 憲政は景勝からみれば義理ながら祖父にあたるわけだぞ 北条「勝頼くん、景虎が危ないっていうから一緒に助けに行こうぜ!」←わかる
北条「すまンゴヤボ用あって行けなくなったンゴ」←まぁわかる
北条「勝頼なに景虎見捨ててんじゃオラァァァ!こいつ裏切りやがったンゴォォォ!」←これひどくね? 謎の逆切れだよね。
おかげで密約だなんのと史料上に無い事が史実みたいに扱われてるけど、これが最後には小田原の陣につながる北条の身勝手さなんじゃないかな しかも勝頼は二万もの軍勢率いている最中に背後から徳川と織田に襲撃されてるっていう事情まであるのに…
どうみても武田を使い潰してやろうと思ってるんだよなぁ
だから多分景虎が勝ってたら武田に攻め込んでた気がする >>873
勝頼の援軍で勝ってたら景虎は勝頼に恩を感じそうではある
景虎が氏康の息子なら勝頼は妹婿になるし あー、そうか景虎の人格次第か。
御館の乱での北条の態度を見るに景虎が勝てば
北条「景虎!一緒に武田領食い潰そうぜ!どうせ織田と徳川に取られるんだ、仲の良かった(笑)俺たちが預かってやった方が武田も喜ぶだろ?」
って景虎に持ち掛けるのは必定な気がするのよね。
それを景虎が弾き返すか、飲み込むか… 北条の野望は関東にあり西は武田なり徳川なりを盾にしとけばいいと思ってそうだが
火事場泥棒できる状態でもないと積極的に甲信を欲しがるかねえ
景虎は景虎で家臣連中は北条の言うことなんか聞きたくないし西からは織田が迫ってるし
景勝派の殲滅と北陸戦線の失地回復は急務だろう 北条の考えは正直よくわからんけど、
御館の乱で武田と絶交して織田の甲州征伐では上野・駿河に攻め込んでるから領地的野望は間違いなくある。
甲斐をどれだけ欲していたかは不明だけど、武田を滅ぼさない限り武田領を手に入れる事は難しい訳で、
その危険な仕事を景虎にやらせたかった可能性はあるんじゃないかな。
景虎がそれを受けるかどうかはまた別だけど。 甲陽軍鑑を信じるとして
影虎は勝頼に、助けてもらう立場なのに北信濃4郡の割譲を求めてる
北信諸将の支持を得るためだろうが、武田にしてみたら怒り心頭の要求だろう
軍鑑は基本的に勝頼の失敗で武田滅亡というストーリーだが、ここについては勝頼が影虎を見捨てる正統性を与えているんで、信憑性はあると思われる なんか武田詰んでる気がするな。
上杉も北条も武田を使い潰す気満々で、
唯一武田に同情的っぽい景勝は役に立たないという。
景勝が武田に与えたのって金と土地だよな確か。 景勝が黄金2万と東上野を割譲し、武田は甲斐に撤兵しました 自分を毘沙門天の化身と信じてる奴が毎年関東に攻め込んで荒らしまる
北関東の小大名豪族達はそいつに臣従しても、化身が越後に帰ると北条傘下に戻る
それを繰り返し見てたから北条に付くべきってなったんじゃないか 越後勢は雪山讃歌を歌いながら、三国峠を越えて揚々と引き揚げていきました。関東からの略奪品の分配のため、越後は、第一復員庁と第二復員庁がてんてこまいです 最近は北陸と言えどそんなに雪降り積もらない印象だけど
戦国時代は行軍の妨げになるほど降ってたんかな?
温暖化の影響だろうか >>881
毎年必ず関東出兵してたのは1560年から67年迄。後は1570年・72年・74年・75年・77年迄 元々、略奪目的だったと言う説の提唱者の藤木久志先生は
「戦国時代の大名の合戦は飢えた雑兵を略奪で食わせる副次的目的があった。上杉謙信の関東遠征もその一例である」
と言う主張だったのに、ネットでは話が拗れて「上杉謙信だけが略奪で儲けてた」と勘違いしてる人が多いんだよな。
略奪は武田や北条だろうがどこでもやってる。
そもそも敵国に行っても敵国の領民は財産を持って寺や山に逃げるから必ず満足に略奪できるわけがないし
飢えてる側が裕福な国(そもそも関東が裕福な根拠がないが)に毎回毎回ボロ勝ちできる保証もないし。
素人の「なんで上杉謙信は領土を得ようとしないんだ?」と言う疑問に対し、分かった気にさせる答えが略奪目的説なのよね。
単に領土維持が立地的に困難だっただけ 農民に足軽として従軍を義務づける代償として、敵の城が落城したときは一定時間の略奪は黙認する慣習が伝統的に戦国大名家にはあった。織田家は違ったようだ >>886
どの戦国大名の軍勢もやってはいるが、
今のところそれを国主肝煎=国家意志としてやった一次史料が確認されているのは上杉謙信だけ、
という話。
因みに、
小氷期下の戦国時代の悲惨さは、
「飢えたる者が富める者から奪う」んじゃなくて
「飢えたる者が飢えたる者から奪う、それがまた飢餓を拡大再生産する」という救い難い図式にこそある。 雑兵の主体は武家や武家奉公人だし、織田家が略奪禁止なんてのは戦後に創作された信長神話では。
上洛の際に一銭切りした、なんて逸話を誇大解釈したもの >>890
こんなスレにいる人間が
永禄九年二月の小田城下の記録(別本和光院和漢合運)ぐらい知らないとは云わせない。
「カゲトラヨリ御意ヲモツテ」の一句は重い。
上杉謙信は「普通の戦国大名」「普通の国主」として、
自国民を喰わせていく為に他国での略奪事業を推進しただけだろう。
それがネット上で殊更に論われる理由は二つ。
一つ、謙信本人及び後世の粉飾で作り上げた「義将」幻想との乖離が大きいこと。
二つ、ゲームだかマンガだかラノベだか知らないが軽薄なメディアに脳をヤられたお前さんみたいな謙信ヲタの逆上が面白いこと。
安心しろ。
古今東西、国主たる者にとって絶対至上の正義は「自国民を喰わせていくこと」だ。
飢餓に喘ぐ他国民を蹂躙してでもそれを実現しようとした上杉謙信は立派な「義将」だよ。 >>892
便利な世の中だ、
それこそネット上で幾らでも言及されてるから検索してからまたおいで。
最低でも>>886氏の云う藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」ぐらいは読め。
賛否はあろうが、これが現在の戦国研究の座標原点だ。 ああやっぱり史料出せないのね…。
小田城開城の際の人身売買の記録も「景虎御意をもって」は「小田城開城」にのみかかる文章として藤木先生の教え子の今福匡先生が指摘してる。
「雑兵たちの戦場」ももう何十年前の著書だし 語るに落ちる。
>>886で懸命に冷静なフリのレスをしてたかと思えばすぐに尻尾を出す。
やっぱり謙信ヲタの逆上は面白え。 ええ…。謙信アンチのにわかが諭されてるようにしか見えんが… 結局、藤木先生の著書の名を借りただけでろくに根拠を出せず顔真っ赤に口汚く罵るだけでしたね…。
上杉謙信の話してるのに今福氏や乃至氏などの著書を読んでないのは致命的ですし
そもそも会話になってないと言う…。残念です >>899
藤木先生本人よりもその支持者及び配下の研究者の方々の性格?が陰湿だという事ですね。 >>900
陰湿と言うかシンプルに895が馬鹿だっただけでは >>894
藤木先生の教え子は今福先生じゃなく平山優先生だよ
今福先生の恩師は上総英郎先生
藤木先生は新潟生まれの新潟大学卒業と生粋の新潟県人なんだね
新潟の人の方が謙信には結構シビアな見方をする人が多いよね
盲目的な謙信ヲタはむしろ新潟県以外の人が多い気がする 結局のところ、実子がいなくて養子が複数という点は極めて高い確率で騒動が起きる
プラス
不用意に調停を買って出ると自分まで殺される 武田みたいに実子であっても跡継ぎトラブルは起きるし何とも 北条は実子がやたらと多い上に養子まで入れても内訌は皆無だった。
戦国の強豪の家としては稀少な例か。 >>908
武田は信濃の国衆に対して家臣や親族を送り込んで懐柔策で乗っ取った(例:望月氏・仁科氏・香坂氏等)のに対し、北条氏は関東の国衆に対してそこまで出来なかったからね。だから永禄年間の北条対上杉の争いに関東国衆が風見鶏的な立場になってしまったのはそうした一因もあると思う。 北条氏がやはり関東諸氏から「他国からの侵略者」と言うような評判・扱いだったからかな 滝山城の北条(大石)氏照、鉢形城の北条(藤田)氏邦は
それぞれ有力国衆に婿入りして取り込んでたりする 他にも葛山氏広、佐野氏忠、太田源五郎、千葉直重、千葉直胤とかおるしね 藤田家奪った奪った言われるけど
重連やられたの乙千代丸が家督継いだ20年後
御館の乱のどさくさ紛れ
こんなの謀反だろ 三郎景虎が勝ってたら上杉も北條に乗っ取られてたわけだ。
山内上杉がよりにもよって北條に、と思うと面白いが、
その場合でも憲政は…、まあ、消されてただろうなあ。
北條氏政は親父よりも上杉景勝よりも武田勝頼よりも荒武者だったと云うから。
政虎がいなくなった時点で詰んでたか、憲政。 景虎が勝って北條氏政が上杉家を牛耳っていたら−−
憲政が肚の底に北條への憎悪を呑んでいるのは明白
→何れ禍根になるかもしれない
→氏政、憲政消去
上杉謙信がもっと長生きしていたら−−
憲政「コラ政虎、北條に負けて逃げ出すなよ、もっと闘え、約束を守れ」
謙信「あ゙ー、人の傷口に塩を塗りやがって鬱陶しいっ」
→謙信、憲政消去
武田勝頼が積極介入してどさくさ紛れに越後をブン奪っていたら−−
勝頼「誰だこの爺ィ」
→勝頼、よく解らないが面倒くさいから憲政消去
前関東管領山内上杉憲政の、明日はどっちだ。 最近は乃至さんが「上杉憲政は本当に関東管領だったのか?」って言う仮説の考察をしてたな えー今更?
正規任官なんか無いでしょ
輝虎だって鶴ヶ岡では管領ごっこっであって追認でしょ 正規であろうとなかろうと、関東管領なんざ張り子の虎だと河越合戦でバレちゃったろう。
山内憲政はそれを一番よく知ってるくせに「管領」を餌に越後の田舎者を釣ったんだから罪深い。
政虎は立派な肩書を貰って張り切ってたんだろうが端っから関東諸将の意識とは笑えない温度差があったわけだ。
挙げ句、要らぬ苦労を強いられた政虎は早死しちゃった。
可哀想に、とんだ道化だったな。
越後長尾家にしてみりゃ騙されて家運を滅茶苦茶にされて天下に恥を晒して…。
御館の乱が無くても、景勝は憲政を殺ってたんじゃないか。
家の仇、養父の仇を討つってことで。 政虎も知ってて一大セレモニーやったと思うけど
なんせ越後守護家を滅ぼしちゃったんで替わりの神輿が要る
そのことを後から知った
まあこれは殆ど為景のせいなんだけど、それでも晴景はなんとかしようとしてた >>920
「日本外史」の頼山陽はそれに近い見方をしてるな。 長尾は為景以外にも上杉に謀反やらかしてるわけで、憲政の心の広さ、良い意味での無頓着さって魅力あるようにも思うけどな
景勝が家の仇親の仇として憲政やったとか、米沢史観に染まり過ぎじゃないかな >>919
黒田基樹先生は謙信の関東管領の任は北条の侵略を未然に防ぐ目的があったとか仰ってるし、
権威の上昇が越後国内統一に影響したとかメリットだってあるでしょ。
足利義輝からの要請でもあるし >>923
「北条の侵略を未然に防ぐ」って、越後への−−ってこと?
なるほど、慥かに北條にその意志が無かったとは云い切れないし、越後国主としては当然の危機管理か。
その意味では政虎にも利得はあったかもしれないな。
あながち騙されたばかりじゃなくて政虎としても損得勘定の算盤に乗る話だった、と。
損の方が多過ぎたのはあくまでも結果論として、だ。
しかし「関東管領」って何をする役職なのかと考えると、
何か根本的な所がどうしようもなく間違ってやしねえか…。 なんだかんだ越後の統制にも苦労してるし
守護家の本家筋をを継いだのも
家中統制に役立ってたんだと思うよ
卓越したカリスマと軍事的な才能を持った軍神
てイメージだと関東管領にならんでも
越後と周辺国を切り従えていけたと考えがちだが
そのどちらも関東管領になって発揮したもの 明日、また乃至さんが御館の乱について記事書くみたい。
多分ヤフーニュースコメント欄とかだと、また
「歴史は勝者が作るものだ」とかって無理やり情報強者ぶろうとするにわかとか
「謙信は略奪してた悪人だ」みたいな本筋に関係ないことを言う知ったかぶりのアホがたくさん現れそうだな 贔屓も過ぎれば引き倒し
ヲタはその辺の加減が解らない 乃至さんは道満丸後継者説なんだよねえ
単純に北条手切れで三郎の立ち位置が不明になって、新たに後継者に景勝をと地位を固める途中で謙信がおっ死んでしまっただけじゃないのか 乃至氏の意見はどーにも納得できんのだよなぁ
個々の部分は別だが >>928
>立ち位置が不明
仙洞院が女系相続した上条領の相続権が発生するよ
華渓院の婿として 上条領は長尾政景夫妻像にも戒名が書かれている、仙洞院の姉妹である上条夫人の夫か養子と推定される上条政繁のもんじゃないの?
華渓院の婿なら、貰えるなら上田長尾の領地だろうよ 弥五郎家は別家だよ
その証拠に御館の乱で上条政繁は上条城持ってない
刈羽郡上条城の他に魚沼郡の上条城がある
おそらくそちらなのではないか
坂戸城にもほど近い
長森原の対陣構図に沿ぐう 弥五郎家は上条定憲の跡を継いでるんだから、本拠地はやはり刈羽だろう
御館の乱で政繁が上条城に入らなかったのは、景勝の側近として春日山城に詰めていたから
城主不在の上条城は一時景虎方に落とされてしまうが、景勝方が奪還している >>934
今福氏か…。
予め結論ありき、その結論に都合のいい史料を寄せ集める人、という印象は拭えないな。 長尾景勝が上杉憲政を殺害した理由は明白(御館の乱の戦争目的からの必然、前代の負の遺産の清算)で議論の余地は少ない。
しかし、
そもそも前代即ち長尾景虎が憲政の亡命を受け入れたこと、ましてや山内家督や関東管領などという廃物を継承した動機が理解できない。
景虎は越後統一戦争に勝利して自身を「戦国大名」として確立したわけだが、山内や管領といった室町秩序に基づく旧システムは戦国大名の存在と論理的に相容れない筈だ。
現実レベルにおいて何か利用価値があると踏んだのかもしれないが、そのセンス自体もはや関東諸将の意識と甚だしく乖離していたことは遅くとも小田原攻囲軍瓦解の段階で景虎も悟っただろうに。
それでなくとも長尾為景という時代の前線を突っ走った革命家を父に持ちながら、何故景虎は自らを保守反動へと、「予定された敗北者」の位置へと堕としてしまったのだろうか。 謙信が関東管領を継がなきゃ誰が関東管領を継ぐことになるのかを考えてみよう 憲政が憎き北条の血を引いた三郎の側に付いたのが一番分からん
元々景勝側とは折り合いが悪かったのか >>936
上田長尾はじめ関東管領直参を自認する諸将が守護代支配に服しなかったので
自ら神輿になる必要に迫られたんだろ むしろ長尾景虎が無理くり急進的な下剋上進めて
安定しなかったツケを払い続けてたからな
小田原攻囲失敗で意識の違いを云々言うけど
そもそも関東管領との合体がなきゃ
小田原攻囲なんて無理
謙信の事績は一個人の武威でなされた
と観られがちだけどその武威自体が
外交的な立ち回りに支えられてた >>940
その景虎の亡国的な戦略過誤による敗北のツケが景勝に回された、か…。
「笑顔を見せたことが無い」人になったのも無理は無いな。 関東管領は武蔵守護も兼ねるのが慣例だから
就任すれば武蔵侵攻・支配の正当性を得られるんじゃないの あごめん940の1行目は
×景虎 ◯為景 だわ
為景の代は守護家を廃して下剋上で戦国大名化
(でも力で押さえつけて国人の反発を受ける)
→景虎(政虎・謙信)は上杉本家を継いで越後一国どころか
関東支配の正統性まで確保
(でも越後内紛の余地は抱え込んだまま戦線広げすぎ)
→景勝は謙信が抱え込んだ内紛の種その1跡目争い勝ち抜き
その2国人支配を中央政権と結んで達成
(でも中央の都合で転封、政争に首突っ込んで減封)
とまあ3代それぞれ前代の負の遺産に苦しみつつ
政略の転換で乗り切ってると思うんよね
んでそれぞれ異なる負の遺産を残す 為景は長尾″戦国無宿″景春・北條″善悪の彼岸″早雲と組んで上杉をズタズタにしてるんだな。
この同盟、野次馬視点では戦国史を通じて最高。
このブッ千切れた飛び道具的センスが景虎にも景勝にも無かったのが惜しまれる。 >>945
馬鹿みたいで、もとい馬鹿みたいに良かった 近年の大河は主役にされたら負けなケースが多い 典型的なのが直江 御館になだれ込んできた景虎だが、それを実際に匿った訳だし乱の首謀者の1人でもある。
中立を守るなら抜け出して寺にでも籠もるべきだが、そういった動きを見せず景虎に属していた。
景虎方には大義名分の旗印にもなったし、乱での景虎は勢いつき上田衆は春日山周辺のみならず、
本拠を景虎の実家北条氏に侵攻され、樺沢城まで落とされ、
自分たちが不在のなか残された家族らが坂戸城で懸命に防戦するを見守ることしか出来ない苦境を味わっている。
それほどの大乱に憲政が主体的に加担しているのだ。
お前のせいでこんなになったんやぞと怒る景勝方の心情からしたら大勢が決まり、
のうのうと和睦しようとやってきた憎い相手。
もし景勝と対面したら景勝の立場上無下に扱えない相手だし、
それなら会う前に誤殺ということにして始末してしまえとピリピリした家臣らが強硬してもおかしくない >>938
神余親綱と上杉景勝の対立が御館の乱発生の一番大きい訳だが
・神余は外交を担当をし憲政を取次したこともあった
・神余と同じく三条に所領があり武力行使をする場合、憲政も少なからず被害を受ける
・憲政、景信、山本寺定長が双方の許可を得て中人に入ったにも関わらず神余に対し強行であったことで3人は中人としての面目を失ったこと
などから景勝に不信感が生れた 憲政も江戸時代は神になった
毎月18日に45人の僧侶によって護摩勤行 >>950
そこに書かれてないのが一番大きい
・神余が蘆名軍の侵攻に備えて地下人から無断で徴兵した事
景勝はこれを違反として咎めてるが神余は謙信時代からその特権を与えられてたと反論
徴兵しなければ蘆名は防げないという見方
この時点で神余は後の新発田同様蘆名と通じていて不自然との見方
どちらも有るので景勝からすると難しい判断を迫られていた状況 REVELATION
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