戦国時代の琉球国・沖縄県
1609年の薩摩による征服、それまでの琉球王国による離島の征服、交易の実態などを語ってみましょう。 史書には内乱がやまなかったから
地方の軍閥を解体するために
集住させたと書いてある。
つまり盤石じゃないからこそ
行われた処置。
結果が良かったか悪かったかは知らない。
血の雨は減ったかもしれないが
国力に資したかどうかは怪しいもんだね。
あと中央集権がいいことだみたいな
アスペみたいな価値観は捨てた方がいいよ。
それぞれメリットデメリットあるし
状況に合わせてバランスとっていくのが大事。
現代日本も別に中央集権じゃないじゃん ただ島津氏の毛並みの良さは大きな武器だよね。
だって沖縄の歴史より古いからなwww
それに比べて尚氏は賤しい血筋だよね。
別に手柄もないし。
尚徳が死んでから奥さんと子供殺しただけで。
だから求心力なかったんじゃない。 最近、島津専門家で売り出してる研究者は、SNSでネトウヨガーをやって炎上してた馬鹿だから
そもそもまともな研究できてると思えなしいな
なんかいい本ないだろうか 島津氏は歴史が長いから焦点を絞りづらいんだよね。
全部しっかり書こうとしたら
ページがいくらあっても足りないし。 首里城再建寄付金に統一協会からの寄付が発覚か
テロ擁護したメディアの罪だなw ここが戦国時代板である建前からすると、中国からのサトウキビ伝来は奄美1610年、沖縄1623年なんで関係ないっすよ。
中国への地元沖縄産の進貢品は、沖縄本島の馬と硫黄鳥島産の硫黄。
日本や朝鮮への交易品は仕入れてきた東南アジア産品中心。
wikipedia琉球貿易
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%B2%BF%E6%98%93 14色のペン
教科書は間違いなの? 貿易国家・琉球王国の素顔に迫る
比嘉洋 毎日新聞 2022/10/14
https://mainichi.jp/articles/20221011/k00/00m/040/231000c
沖縄は150年近く前まで独立国でした。明治政府が武力で日本に組み入れ、沖縄県とした「琉球処分」(1879年)まで
450年以上続いたとされる琉球王国が、その独立国です。大海原にこぎ出し海洋貿易で栄えた王国――。沖縄出身の私は
そんな歴史観に誇りを抱いていましたが、「実際は自給自足の遅れた社会だった」と異議を唱える研究者がいます。
活発な貿易国家だったことは教科書にも出てくるのに? アイデンティティーが揺らぐ不安を抱えながら、琉球史研究の
「今」をのぞきました。【那覇支局・比嘉洋】
「琉球国は南の海の良いところにあり(中略)船で万国の津梁(しんりょう)、いわば架け橋となって貿易を行い、
国に宝物が満ちている」。首里城公園(那覇市)のホームページによると、かつて首里城正殿にあり、現在は複製が城郭内の
広場に架けられる「万国津梁の鐘」に漢文でこう記されている。鐘が造られたのは、日本だと室町時代の1458年。当時、
琉球は中国や日本、東南アジアをつなぐ中継貿易で繁栄したと伝えられ、こうした先人たちの姿は、歴史の教科書にも出てくる。
正殿は2019年10月の火災で焼失したが、今年11月に復元工事が始まる。その壮麗さ、今に伝わる王国時代の美術品や
工芸品の美しさ、城郭から那覇の街並みの向こうに見下ろせる青い海の輝きを見れば、王国のロマンを感じることができるだろう。
ところが、「貿易で栄えた時代があったとすれば、せいぜい鐘が造られた頃までの50年間ほどではないか」と
沖縄国際大名誉教授の来間(くりま)泰男さん(81)はくぎを刺す。繁栄は事実だとしても時期が限定されるのではないか、
というわけだ。史料によると、琉球王国の貿易船(進貢(しんこう)船)が中国と往来した頻度は、15世紀半ば以降明らかに減少しているという。 そりゃあ、明が海禁政策取ったらその分寂れただろうな
密貿易盛んだったけど海外進出盛んだった鄭和の時代のころのようにはいかんだろ 薩摩藩に支配されてからの琉球を独立国と呼べるのだろうか 今の感覚だと僻地だけど
日本の歴史のほとんどの期間で先進地域だよな 沖縄は貝塚時代と呼ばれる狩猟採集生活が平安時代末期まで続いてたし、農耕そのものもそのころの喜界島から
本土系移住者が伝播したというのが確実だしね
交易が盛んな時代も実務は華僑集団が担ってたし、その時期もその後も庶民層はほぼ実質的な農奴状態だし
独自にいいとこはあったけど、残念ながら辺境らしい遅れた地域だったよ 鹿児島・徳之島で生産 中世前期の琉球列島に広く流通した硬質陶器カムィヤキ 交易の対価…博多 生産を主導か
読売新聞2022/12/10
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20221209-OYTNT50102/
中世前期の琉球列島に広く流通した硬質陶器「カムィヤキ」が生産された鹿児島県・徳之島で、 壺つぼ などの形や
年代の分析と沿岸の水中遺跡確認調査が進んでいる。後の琉球王国につながる琉球文化圏の成立に大きな影響を与えた陶器の、
謎に包まれていた生産や流通の主体が明らかになってきた。(北村真)
九州から400キロ離れた徳之島の南部、亜熱帯の森が広がる標高211メートルのヒラスク山一帯に国史跡
「徳之島カムィヤキ陶器窯跡」がある。「斜面をトンネル状にくりぬいた窯跡が確認されており、その数は未発掘分を含めて
100基を超えると推測されています」。11月の現地説明会で、伊仙町歴史民俗資料館の與嶺友紀也さんは語った。
カムィヤキは11世紀後半にここで生産が始まった 無釉むゆう で灰色の陶器だ。それ以前の在地の土器より丈夫で保水力に
優れることから貯蔵用の壺として重宝され、琉球王国成立以前の琉球列島一円に14世紀前半にかけて流通した。
九州の須恵器や朝鮮半島の無釉陶器の影響がうかがえるが、文献に記録がなく成立事情はわかっていなかった。
同資料館は2016年度から、出土したカムィヤキ片を接合して元の形に復元して形や文様、タタキなどの技法の変遷を
たどる調査を進めている。その結果、製法や分布範囲が13世紀中頃を境に二分されることがわかった。 前期の器は高温で硬く焼き締められ、表面のタタキや波状の文様も丁寧な仕上げだ。このタイプ(A群)は九州西岸の
遺跡でも見つかっており、中国産白磁や西九州産の石鍋とともに出土していることから、日宋貿易の拠点だった
博多(福岡市)との関係が浮かび上がってきた。
日宋貿易の輸出品としては薩摩硫黄島(鹿児島県三島村)の硫黄が知られている。與嶺さんはさらに南下して 螺鈿らでん
の原料となるヤコウガイや日本刀の 柄つか にするアカギなど琉球列島の産物が調達された可能性を指摘する。
「カムィヤキはこれらを調達する対価として博多商人の関与のもと生産された可能性がある。陶土に適した土壌は他にもあり、
徳之島に窯業を営む力を持った有力者がいたのかもしれない」
これと関連して伊仙、徳之島、天城の島内3町が17年度から進めている沿岸の水中調査の成果が注目される。
木製いかりの重りである角柱状の石( 碇石いかりいし )が徳之島町山港沖で4基確認され、うち2基が引き揚げられた。
窯跡に近い伊仙町本川沖など3か所でも同種の加工石が見つかっている。碇石は博多湾や五島列島など日宋貿易の拠点や
ルート上に分布しており、徳之島にも商船が寄港していた可能性が高くなった。
13世紀後半以降のカムィヤキ(B群)は、強度が弱く厚手で仕上げも粗くなる。分布域は奄美大島以南に限られており、
博多の影響を離れて在地化したことがわかる。B群の流通を通して琉球列島は後の琉球王国の最大版図と重なる一つの
経済圏・文化圏となり、中国との結びつきを強めていくことになる。
琉球列島ではカムィヤキの流通と並行して農耕や鉄器生産が本格化し、やがて各地に 按司あじ と呼ばれる有力者が出現する。
新里亮人・熊本大助教(考古学)は、「琉球王国の中心だった沖縄島ではなく、周辺の島で重要な遺跡が見つかったことは
沖縄島中心の歴史観を見直すもの。これが15世紀の王国成立にどう影響したのかが今後の調査のポイントとなる」と話している。 月間戦車模型誌アーマーモデリングで、東郷隆・上田信コンビが明治以前の武装を考証した「アーマー of JAPAN」って記事が
毎月1ページ連載されてんだけど、今は琉球編
イラストで尚円(金丸)は高良倉吉考証の例の銅像のやつ、尚徳と琉球勢は完全に日本式そのままでちゃんと描かれてますな
髪型は頭頂部のカタカシラなので何とも言えない、まあ髪型は金丸像参考のままなんでしょう
次回は薩摩の侵攻の話らしいので、果たして「那覇要塞砲撃戦」を出しちゃうのか否かが楽しみ 沖縄本島やその周辺諸島が尚氏の勢力によって統一されようとしている頃
与那国島のサンアイ・イソバは島内の天然要塞ティンダ・ハナタに本拠地を構えて
尚氏勢力の兵たちを次々と返り討ちにしていったらしい 村長レベルでも女首長って、沖縄抜きでも珍しいよね
でもオヤケアカハチの乱(1500)のついでに制圧されてなかった?
宮古勢による与那国制圧(1522)の鬼虎との関係もどうなんだかな >>139
アーマーモデリングの連載、やはり那覇港砲撃戦入ってました・・・
この件での一次史料(というか同時代史料)的な扱いをされる『琉球渡海日々記』、『喜安日記』では
沖縄本島での戦闘でそれらしい記述がなく、それに準ずる扱いの『琉球軍記(琉球入ノ記)』にしか書かれていない
琉球軍記はトカラ列島船頭衆が功績を誇るために話を膨らませたものと見なされていて、そのまま取り入れるわけには
いかないのが真っ当な姿勢かと思われます
wikipediaでさえも、その点は注意を払って書かれてますね
wikipedia琉球侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
沖縄では高良倉吉、上里隆史の師弟が、琉球は軍備も充実した強い国家だったという、沖縄民族主義に則った歴史観で
様々な研究で成果をあげていますが、沖縄凄かった論のために史料を精査しないで無批判で取り入れる部分がおありかと思われます
那覇港砲撃戦がその一部ですね
お二人とも沖縄民族主義者だから、本土の視点では反日的なことも言うんだけど、じゃあ左扱いかっていうと
同じ沖縄民族主義者のサヨク活動家化からは、武器を持たない平和国家琉球の名を汚す不届きな連中と攻撃されてるんですね
どちらも沖縄民族主義者として琉球は特別な存在としているだけなのに 上里隆史氏の一番の功績は、その著作で古琉球の実態を解説した以上に、本土の歴史マニアに
沖縄はサンゴ礁が発達していて中近世でも大型船舶が停泊できる港は限られていた、という知見を知らしめたことにあると思います 沖縄ででかい港って運天、泊、
那覇、中城、糸満、、
言うほど少ないか?多くね?
しかも、薩摩軍が
実際に上陸に使った比謝川下流域は
台風のときの風除け場だけど、
あそこがああ使えるなら
羽地湾もプラスされるね。 まあ中部から北部への
徒歩での移動は当時は
一部岩礁づたいにいかないといけないから
大軍の移動は無理で
北部の港で上陸しても意味ないから
北部ノーカンとしても
中南部だけでも多くね? しかも薩摩の船って別にでかくないし。
3000人が300艘って
尚徳の喜界島遠征軍と割合変わらんしな。
その気になれば
他の小さな港にも入れるはずよ。
樺山は各個撃破されるのが心配だったかもしれないけど
琉球人は徳之島人よりはるかに弱い
徳之島人に複数の港につけるやり方で
勝ってるんだから、本島でも問題ない。 >>131
沖縄の馬は遺伝的に
対馬馬→喜界馬の子孫なんだよね
さて、朝貢されていた馬は
本当に沖縄本島産だったのでしょうか?
硫黄鳥島の硫黄もそう。
三山全部が朝貢してたんだけど、
そうなると一体どこが管理してたの?
恐らく馬と一緒に喜界島経由で内地の商人が
供給してたんだよ。
三山時代には本島の勢力は硫黄鳥島には
及んでないと考えるのが自然。
硫黄を確実に琉球がおさえられたのは
尚徳の喜界島遠征のとき。
その直後に那覇に硫黄倉庫が作られてるから。 日本本土の港湾だって、去年話題になった鎌倉がああいう面倒な海岸だったわけで
どこでもいいとはいかないね 本土商人の供給っても、そこを押さえてた本土の大名なり国衆っていたのかな? そういうのが嫌な人たちが
南西諸島に下ってると考えては?
事実として喜界島は琉球から自立的だった。
また、碌な産物がなく
内地からの商品がないと朝貢できない
朝貢すればするほど内地への借金が増えるのは
その後も永続する課題で珍しいことではない。
まあ本人たちは課題とは思ってないけどな。
有り金吐き出すのが朝貢の本質で
本人たちももとからそのつもり。 朝鮮王朝実録には
トカラ列島を日本と琉球で分け合ってると
書かれている。
ショウタイキュウくらいの頃ね。
相手の日本が具体的にどういう勢力なのかは
明記されてない。 蝦夷本土と一緒に、信長の野望にちゃんと出して欲しいわ
三国志ゲーの異民族勢力扱いでいいから 太閤立志伝5には交易地として出番あるけどね琉球と朝鮮と中国とルソン
蝦夷地はないな 城主・大名としての蠣崎松前氏と宇須岸の町はありますが、アイヌ関連は何もないってことです太閤立志伝 ところで沖縄の泡盛ってタイ米原料だそうですが、戦前もタイ米だったんですか?
琉球時代も沖縄は長粒種米を栽培してたんかな? 本来の日ノ本の範囲は最北端は大間崎、最東端は青ヶ島、最西端は男女群島、最南端は種子島・屋久島までだから、琉球なんていらないと感じるのが正直な話です。
北海道は日本列島の首にあたる部分だから日ノ本の一部としてあるべきですが、
その際、アイヌ人はいらないから北方4島に追放するか、それが嫌ならアメリカにでも行けって感じです。 タイ米使うのは結構最近らしい。
沖縄で栽培されてたのはジャポニカ米だけど、
ヤンバルや八重山の一部でしか栽培できない。
米作自体レア。泡盛はさらにレアで
同時代人は大半が関心ないから実体は不明。 普通の沖縄人は
部落の酒造り名人のおばさんが作った
ドブロクを飲んでた
泡盛なんて存在すらしらなかった 米も取れないし海外輸入もしてないとなると琉球民は何喰ってたんだろうか
薩摩経由でなんかあったかな 粟や稗です。つか戦後しばらくまでそれが普通だったよ 琉球では日本甲冑が使用され、補修用や追加装飾用の部品を自作していたことが首里城発掘品からわかるそうで、
本土では見られないデザインのものも発見されているとか。
沖縄県立埋蔵文化財センター 2009 『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書49:首里城跡』
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21990
https://pbs.twimg.com/media/FL9TI0XVcAMADQv?format=jpg
前立(額飾り)の構成はあくまでも仮説なんで、あくまでも想像図ですが、実際に復元しちゃったひとがいたんですな。
発注先の丸武産業は、時代劇撮影用の甲冑で有名な工房です。
https://pbs.twimg.com/media/FL9PzUWVkAAlxJp?format=jpg
https://pbs.twimg.com/media/FL9QDewVkAAi4Jn?format=jpg
https://pbs.twimg.com/media/FL9QGESVcAI0kEb?format=jpg
https://twitter.com/KoufuSamurais/status/1495006867042365444
躑躅ヶ崎歴史案内隊@KoufuSamurais
首里城跡で発掘された琉球前立を兜込みで作ってもらいました。前立と既製兜の組み合わせで
「それっぽく作っちゃいましたテヘペロー?」と言うつもりが、丸武さんが本気出して笠??(しころ)まで再現。
たぶん日本初にして唯一の #琉球兜 の復元模型を生み出したかもと、ただひたすら震えてます。)(E)
午後9:06 ・ 2022年2月19日
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 「うるま」の語意がどんどん広がって夢いっぱいっすねw
https://m-hikiage-museum.jp/contents/?p=7427
2023年1月16日
第4回企画展「うるまの島の引き揚げ~もう一つの引き揚げ~」開催
「うるま」とは沖縄の古語で「美しい」などを指す言葉です。 言わんこっちゃない・・
【台北共同】対台湾窓口機関、日本台湾交流協会は4日、首里城再建の建材として
台湾紅ヒノキを沖縄側に引き渡す5日の式典が中止になったと明らかにした。
台湾側から連絡があったというが理由は不明。 ところがこの和々ってひとの出した旧版・琉球戦国列伝(上里隆史:著・監修/和々:画)っていうのが
有力豪族の格好が後世の演劇(組踊)の衣装そのままだったり、先島の首長は縄文人っぽい異装だったり酷い代物でした。
責任は考証担当の上里氏なんでしょうが、そこらへんしれっと知らない顔で描き直しているのが改訂版です。
ネット上だと首里天楼という店で公開してる琉球歴史絵巻もご注意。
現状で琉球の甲冑様式・出土品について詳細に書かれているのは、『琉球の金工 日本の美術 第533号』だけかなと思われます。
あとは沖縄県博の出土品図録、ネット上で読めるPDF報告書くらい?
https://twitter.com/KoufuSamurais/status/1706657635637109154
躑躅ヶ崎歴史案内隊
@KoufuSamurais
(古琉球の鎧兜は沖縄に現存しません。ただ、断片的に出土する小札、金物、前立等のパーツは
日本様式の甲冑のそれと同一で、時代背景などから鎌倉~南北朝の大鎧や胴丸、腹巻スタイル
であったと推定されます。元ツイの和々さんは考証に基づく武将絵を描き、その普及に尽力しておられます。)(E)
https://twitter.com/thejimwatkins ことばの波止場
特集「危機」と「ルーツ」A : 日本語と琉球諸語のルーツをひもとく
https://kotobaken.jp/digest/13-1/d-13-02/
琉球祖語の話者は、いつ琉球列島へ移住したのでしょうか。
ペラール:9〜11世紀ごろだと考えられています。琉球諸語には日本語から入ってきた多くの漢語が見られます。
漢語が日本列島に入ってきて普及したのは、奈良時代以降です。琉球祖語が日本語と分岐したのは奈良時代以前
ということと矛盾しているのでは?と思うかもしれません。琉球祖語の話者は九州にしばらく暮らしていて、
中国語から漢語を借用した日本語から、その漢語を借用して琉球列島に移住したと考えられます。言語として
分岐した後、時間がたってから、その話し手が移動したのです。9〜11世紀ごろというのは、琉球列島で
グスク文化が発展し、狩猟採集文化から農耕文化へと変化した時代です。琉球祖語の話者が琉球列島に移住して
グスク文化の担い手になり、そこで話されていた言語を置き換えていったと考えられています。 >琉球祖語の話者は九州にしばらく暮らしていて
要は南九州人の一部が沖縄移住したってことなんですが、そこで博多商人の南海交易網や喜界島城久遺跡の住人のお話も
してくれないとよくわからないですよね。
沖縄貝塚時代の狩猟採集民が移住者の指導ですんなり農耕へ移行できたのか、それとも入れ替わってるのかとかも。
インタビューもう片方の五十嵐陽介というひとは、2018年の論文で沖縄方言と佐賀方言に共通性を見つけ出して、
日本語を大きく日本語族として大きく三つに分け、沖縄語をその中の南日本語派、更に南九州・琉球語群に分類する
というのをやってたひとですな。その後の研究の進展はどうなったかな。
日本語祖語の源流が大陸にあるなんて言うのは、日本語と高句麗語の類似性はそれこそハングル板でずっと論議主張
されていたことで、ようやっとSNSがハン板に追いついたとこだろなあ。 奈良県1位で沖縄県最下位というのは、普段語られてる縄文弥生系がどうこうのイメージでは確かに意外過ぎるわ。
あくまでも遺伝子だから、出現率はちょっとわからんけど。
産経新聞2023/11/28二重まぶたの遺伝子タイプが多い都道府県ランキング 通説とは違う意外な結果
https://www.sankei.com/article/20231128-UC6V7NICMFDVRD3ZRYXNACZXW4/
https://www.sankei.com/resizer/EigqaoAuWpsXzhOTMPN8-x9FhSY=/1200x0/filters:focal(637x316:647x326):quality(40)/cloudfront-ap-northeast-1.images.arcpublishing.com/sankei/KAKFZW2LLVAJRAMTLAY2JS5QTY.jpg >>161
なんとなく他所と違っててかっこよさそうってのはいいんだが
甲冑の製作や用法も本土と同じということは、兜の前立てに込められた意味も
「神仏のシンボルを額に飾ることでその加護を受ける」というのも同じはずで
その枝っぽいのが何であるか、何かの宗教と関係があるのかってのが大事よね
有名な直江兼続の愛の兜も、神仏(愛宕権現)の頭文字なわけです
『琉球の金工』には儒教信仰の祭具と似た形と書いてあったが、さてどういう神様と
関係があるのか
沖縄人は深いこと考えないでなんか適当に造形したってことはないでしょうよ https://www.dailyshincho.jp/article/2024/01300556/
デイリー新潮「実子がいるのに、夫婦養子に儀式を…」 琉球王朝「尚家」のお家騒動、何が起きているのか
2024年01月30日 これは本当に良かったね
でもまた粗雑に扱って燃やすなよ?
現県政だとマジで心配だわ
産経2024.3.15
沖縄戦で流出の琉球国王の肖像画、米国で発見され返還 玉城知事「沖縄の宝」
県によると、見つかったのは琉球国王の肖像画である「第十三代尚敬王御後絵(おごえ)」や
「第十八代尚育王御後絵」のほか、磁器や陶器など沖縄由来の流出文化財22点。
御後絵は琉球王国を代表する貴重な文化遺産で、沖縄戦の混乱で焼失したものと考えられていたという。
県の担当者は「白黒写真しか残っていなかった肖像画の現物が見つかり、往時の色彩を確認できた。
今後の科学鑑定で顔料などの分析が進めば、琉球・沖縄の美術史や文化史研究を進める上で
大変重要な手がかりになるだろう」と話した。 折口信夫が唱えた琉球王家の先祖の地?熊本・八代の古麓城と佐敷城を訪ねた
読売新聞2024/03/15
民俗学者・折口信夫は、沖縄を初めて統一した王家「第一尚氏」について「熊本県から沖縄県に渡った一族の出身」という説を唱えた。
その一族がかつて統治していた熊本県内ゆかりの地を訪ねてみた。 沖縄人の主要なルーツは平安後期に移住してきた九州人と人類学と考古学でわかってきたらしい
古代の九州人が琉球という国つくって現代の九州人とアイデンティティも別になったわけだからなんか感慨深い >>168
西日本は喜界島カルデラの噴火で一度まっさらになってるからだろうか >>171
亡くなった退役軍人の家の屋根裏から家族が見つけ、FBIの捜査リストと照合して返還を申し出たそうだが
本人は太平洋戦線に出征していないというのが謎だな