龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ3
>>139
>毎度毎度鍋島家の陰謀だって言説はどこが論拠なんだ?
鍋島に乗っ取られてなければ今頃オレは…が論拠
悲しいね 龍造寺一族で後援しての直茂の立場だろうし
会津龍造寺の末裔の人も普通の人だし
なんかの本を真に受けたアホだろな 鍋島は沖田畷で真っ先に逃亡してるな
逃げ隠れた柳川で布団を被って震えてたのか 九州国割で龍造寺が筑後を奪われる謂れはないのに酷いよな秀吉 龍造寺は蒲池さんに酷いことをしたから仕方ないんだよ 田尻氏が龍造寺が筑後を追われても臣下で有り続けるくらいにはきちんと領土化してたからな まぁそういう感じで告げ口外交を展開されていただろうという事で
龍造寺の勢力維持の障害は大友勢力との外交関係の拗れっぷりだったんだろう
大友からしたらまず龍造寺なんてただの反乱勢力って立場だろうし >>145
蒲地は本家が12000町歩、分家が8000町歩だから一族合わせて約20万石も有った事に成る。
竜造寺が勢力弱めたいのは解るけど、手口がエグイしね。 石高的にみたら龍造寺が筑後の大部分を支配していても
外縁部に大友派や島津派がいたのが九州征伐直前の筑後情勢をややこしくしている >>139
鍋島はそういう陰謀をやらない人だから
秀吉や家康が信用していたと思う。 >>151
だから無知は困るんだよな
沖田畷の折、川上忠堅へ隆信の居場所を教えたのは鍋島ってはっきり書いてあるだろ >>109
あるよ耳下腺腫瘍とか真珠腫とか。死因になるかどうかわからないけど 500年後に
龍造寺氏も旭日旗が問題になるとは思ってもいなかっただろう
龍造寺氏は旭日旗ににた意匠の旗を使用 龍造寺「ちっ、耳削ぎ鼻削ぎが足らなかったようだな」 当代は日本のネットワーク技術の黎明期に関わっていた人なんだっけ? 鍋島は江戸末期以降の閨閥がハプスブルクかよってぐらい繁栄してるな何故か
やっぱり男系が続いてる家はこの分野強いわ >>161
尾張徳川家、堀田家、鷹司家も鍋島家の男系だからすごい >>163
鍋島家による尾張徳川家は当代で終わりだけどな 前田、尾張徳川、鍋島の三家は富豪華族同士スクラム組んで戦前戦後の資産流出危機を凌いでいるから 佐賀城本丸歴史館でテーマ展「佐賀城の殿様たち」を開催します
〜龍造寺家三代、鍋島佐賀藩歴代藩主の肖像画を一挙公開!〜
http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00369013/index.html 死ぬまで公式には帰国出来なかった高房を佐賀城主扱いとは酷なことだと思う かと言って高房を仲間外れにしたら天佑寺付近でまた怪奇現象が起きかねない 親戚が流されていないか不安や。
川の前に住んでるとか 佐賀鍋島藩は幕府軍最大兵35000を率いて島原反乱の鎮圧にあたりました。
たが、農兵、浪人兵も多数参加しており、彼らが、戦後、鍋島藩への仕官が叶ったかは、
定かでは、ありません。 島原の乱時の幕府軍13万というと流石徳川!と言われ、その内3万5千は鍋島兵というとそっちは嘘くさいと言われる
九州征伐時の豊臣軍22万というと流石豊臣!と言われ、その内3万7千は龍造寺というとそっちは嘘くさいと言われる 動員兵力の割には軽く見られがちだと思うなあ龍造寺鍋島は
関ヶ原でも伏見や安濃津で活躍したそこそこの規模の軍団なのに 35万石で3万5000人って総動員じゃん
防衛戦とか超近場での戦いならまあギリ有り得るか 有明海はほぼ鍋島の領海みたいなもので島原にも領地があるとなると鍋島家中にとって実質防衛戦 そもそも佐賀藩士はめちゃくちゃ人数多いとか
鍋島家中の被官システムのせいで「御国の大事」の時には士農工商問わず被官なら兵役義務が発生するとか
そこらへんの基礎知識があるなら理解はできるけど
いきなりただ兵数出されたら納得出来ないのも分かる 当時佐賀藩での軍役は「知行125石に付き、軍役6人に相定候事」とある。
そうなると佐賀藩は35万石だから普通なら1万6,800人が妥当。
勝茂が3万5,000人と2倍以上の軍役を課したのは、関ヶ原の失態が原因。 岡本大八事件で有馬が改易されてから松倉が入封されるまでの二年間
島原は鍋島・松浦・大村が代官出し合って治めていたってのが認知されてない >>180
島原の乱時はまだ伯庵事件の訴訟問題が継続中だから勝茂的にはこっちの方が心揺れてる
はず あの辺は浪人もしくは帰農した武士だらけだから簡単に人数集まっただろうよ
反乱側の兵力もまた然りで 布陣を見ると先陣は八院合戦と同じく深堀と横岳だったな
二陣は武雄に代わり多久の龍造寺系か 『歴史研究』の今月号の特集
「龍造寺一族の謎」だった。 九州三国志の主役は龍造寺隆信、という井手窪さんの主張には同意 >>179
九州の特殊事情で、国人や土豪を完全につぶした例が少ないんだよね。
そんで、竜造寺は家臣の領地替えで支配力を強めるってやってた。
で、そうやって肥前以外に領地移された家臣が、保々無禄状態に成った。
だけど、佐賀藩は浪人しても他所に行けないって二重鎖国システム。 二重鎖国という閉鎖的な国情と、長崎に近く進取に富んだ気質の双方を併せ持つ藩地の特徴に
興味があります >>189
他国に転封された家臣が、殆んど無禄に成ってしまったと言うのが大きいでしょうね。
で、他国なら浪人として他所に流れる所なのに、それを禁止したって無茶ぶり。
で、後で気が変わって取り立てするかも知れないからってさ。
まあ、家臣団に竜造寺の分家が有ったりする特殊事情あるからだろうけど。 >>190
鍋島も柳川のままだったり良かったのにな 時期的なものみたら須古城の普請より前に隆信は久留米城の普請をやってたんじゃねえかなと思うわけです
久留米の大隈氏が龍造寺に降ったのが、どうも天正3年の安武氏の降参より時期が早いみたいなので
多少前後するだろうけど
大石→大隈→安武→犬塚→(江上)→大木→蒲池の順で龍造寺に降っていったのかなと
まず長門石を支配下においてから対岸の久留米城を整備し、筑後北部の物流を龍造寺が掌握した
そこから河口の柳川まで支配圏を南下させて筑後南部の流通も抑えに向かった
この頃の大隈氏や大木氏の動向が北肥戦史で見えて来ないのは佐賀藩重臣として残っている 両家に対する配慮か 豊臣政権の九州支配について北西部に関しては龍造寺が支配整理してたから下地が整ってたところはあるのかな? 島原沖田畷に鍋島が来てなかったら隆信軍の大勝利だった!!
隆信から「柳川へ引っ込んでろ!!」と命令された鍋島が何で島原でウロチョロしてたの? フロイス説?だと鍋島隊が水軍で浜城へ上陸して直援しようと試みてたようだけど
この作戦が成功してると一気に浜城と隆信軍で連合軍を挟み討ちにできた
ちょうど長篠の戦いの鳶ヶ巣山砦奪取と似たような状況
というか丹坂峠の時の多久城奪取→有馬軍殲滅の焼き直し 北肥戦史だと龍造寺軍が三会に到達した時点で鍋島(政家)隊と隆信隊で配置を変えた話が出てくるけど
考えてみるとフロイス説とあまり矛盾しないかも
鍋島隊の上陸作戦が成功していた場合、森岳砦への平押しは家種・家信隊に任せて
隆信隊は本光寺方面を突破し森岳の側面および後方へ展開するつもりだった
しかし作戦が失敗したので鍋島隊が本光寺方面を突破する事になった >>196
ここでも鍋島の無能さが分かりますな。
隆信の機嫌取りで約50隻の船で5千の兵と向かったが待ち伏せていた島津有馬軍にコテンパにやられて
命からがら三会城まで逃げ帰るとはね。
完訳フロイスによると島津有馬軍は城門まで追いかけ周辺の村落を焼き払って引き揚げたとある。 1556年9月、龍造寺隆信は日本統一を果たした。
いっぽう、蒲池氏の子孫は今年も不倫で世を騒がせた。 本行寺の蒲池鎮並一行慰霊碑みてきた。
江藤新平の墓の外側に建ってた。
奥の方には成富茂安の墓もあった。 のち弟の家信は義長の偏諱を受け長信と改名したらしい 大内の影響の大きさと大寧寺の西国戦国史へのインパクトってわりと軽視されがちな気がする 毛利隆元、小早川隆景の隆も大内義隆からだからな。
安芸、備後から肥前までってほとんど西国王だな。
ちなみに松浦隆信も大内義隆からなの? 相良武任を重用したのが運の尽きか。
その一族が勝屋勝一軒てのは本当? ところで、龍造寺四天王の五人は佐賀藩で何石取りだったの? 平戸松浦は大内義興の頃から偏諱を受けてる(興信)から龍造寺より関係が深いぐらい
対明貿易では国内側の最重要勢力の一つだからね 応仁の乱に介入した大内が遣明船の権利を得て博多を貿易港にしたからこぞって大内になびいた
あと寧波の乱というのを明国の港で起こしてる
これが明の公式記録に残って海の向こうに非常に戦闘的な民族がいると明国が日本を認識した
後に秀吉が朝鮮出兵したときに明が朝鮮に大軍を送りこんできたのはその影響だともいわれてる >>208>>209
寛永5 元禄8 安政2(幕末)
百武 知行240石 知行1050石(物成420石) 物成172石
成松 知行300石 知行 162石(物成65石) 物成220石
円城寺 手明鑓 切米35石
江里口 知行71石 知行 50石(切米20石) 切米40石
木下 知行336石 知行 420石(物成168石) 物成168石
チョコット調べて見たが間違ってたらスマン 義隆の中央集権化に守護代家が反抗した形なんだっけ
大内家臣団ってどういう風に他勢力に吸収されていったんだろう
勝屋宗機もどういう人だったのかすごく気になる 江里口九郎右衛門兄弟(江里口信常の孫)と勝屋采女夫妻(勝一軒の子?)が伝高院に殉死しており
勝屋采女の享年から逆算すると勝一軒は隆信より年下、直茂と同年代か少し年上だったと思われる
采女の後は忰蔵人が継いだが程なくお家断絶、親族は佐賀藩内には居なかったか? 佐賀の戦国人名史この前久々にチラチラしてたら親族は筑後の方にいたとかなんとか
詳しく覚えてないけど 江里口九郎右衛門、於六兄妹は信常と兄弟ですよね。勝市軒の嫡子勝屋采女夫妻、龍造寺家親直系の藤井兵左衛門夫妻の
六人が伝高院に殉死したらしい。
勝屋家は采女の後外記(知行244石)ー紳士充ー孫大輔(知行305石)にて断絶。のち伝高院法要のおり、采女の娘の子孫より
新たに召出しとなり勝屋家再興が叶ったらしい。 >>215
誰の親族でしょうか?
龍造寺家一族だったら胤家ノ子 胤知親子が倉富姓を名乗っているけど。
大友×大内合戦に筑後へ出陣したが敗北後筑後に落居したと云う。 筑後鷹尾城主田尻鑑種の下に勝一軒の従弟で勝屋宗機という人物が居た
百武賢兼と仲がよかったらしい
田尻の移封に併せて佐賀に居を移したと思っていたけど、柳川に残ったのか 沖田畷で勝市軒が討死してるが、そのほか勝屋宗機の弟勝屋伊豆守とか
一族と見られる勝屋相五郎なども討死したらしい。 源氏だから島津?何をもって判断するかによるんじゃない? 娘が皇后になってる家と家臣筋が二代続けて皇后になった家か 龍造寺を秀郷流とする系図だと龍造寺は下野佐野氏から養子をもらって興した家 相木家は,本姓藤原。肥前龍造寺氏の一流で,龍造寺家門の三男頼純を祖とする。
頼純の嫡男数馬の時,龍造寺家を出奔して周防国霧山に来住し,毛利家に仕えた。
何時頃出奔のかね。 龍造寺頼純は周家と一緒に馬場頼周から粛清の対象にされて死亡してるから
胤栄に伴だって山口へ落ち延び、そのまま居着いて大内家臣→毛利家臣では (旧)佐賀藩が、真に天下を握る機会は、留守政府参議を肥前閥で固めたときでござる。 肥前はどこ行っても真水が少ないから中世以前だと肥後に人口面では太刀打ち出来んと思う 幕末の佐賀藩は大村藩や久留米藩に技術や物資の支援をして軍事面で強力な同盟国に成長させたけど
戦国時代でも似たような事をやっていた形跡あるよね 龍造寺領と千葉領合わせてそこそこの面積をしっかり有していたならそこそこは生産力ありそう? 16世紀だと肥後より肥前の方が概ね人口含めて国力高いと思う
というより播磨より西の国だと肥前が一番人口も物品も集まってる国だろう 朝鮮の時の直茂の発言とかもあるし、有明海沿岸は貿易の益もあったんじゃとはよく言われるね