龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ3
生糸貿易をちょっと勉強しました
多くの諸大名がイエズス会に銀を預けて商売していたようですが
龍造寺は自分らで独自にマカオからの販路を開拓して生糸を国内に流通させていたようです
イエズス会が元から龍造寺に敵愾心が高いのは商売敵だったからかも? >>242
そんなことやってたのか
やるなあ熊さん 少弐と菊池の没落は本拠地の手狭さが原因の一つな気がしてきた
太宰府も隈府も当時の交通の要衝だけど内陸の狭い位置にあるから
少弐は大内に負け大宰府を失った不可抗力とは言え嘉瀬を抑えられる与賀に本拠地を移したので
菊池氏も上手く存続できていたら高瀬あたりに本拠地を移していたのではなかろうか 鍋島勝茂ってババアが41才で生んだんだろ
片足棺桶に突っ込んで力んだのか 龍造寺四天王の最後
◆成松遠江守信勝
軍(いくさ)奉行として「御先陣」にいたが手の者おびただしく討たれるなか 主従わずか十六人となりひとまず休息し、
周囲の同輩が討ち死にしていくのを見て立ち上がり「大将の御前にて討ち死にを遂げ生前に兼ねての御恩を奉り報いるべし」と、
金地に日の丸の扇をはためかせて「やあやあ、我こそは去んぬる年、豊後の大友八郎を討ち取ったる成松遠江守信勝なるぞッ。
目にもの見せてくれよう」と大声で名乗りを挙げ長刀を手に嫡男信実ほか残った家人と共に島津勢百人余りに挑み自ら七人をなぎ倒し八人目に討ち取られた。
◆百武志摩守賢兼
成松信勝同様 「御先陣」にて敵を防ぐ。混乱のなか主従四十人余りで隆信を囲っていたが 島津勢五十人ほどが横合いから急襲 さらに百人ほどが迫った。
もはやこれまでかと思った時 勝屋勝一軒が三十人ばかりの郎党を従え駆けつけたのを見て四〜五人の手兵と共に隆信を守り退却した。
あたりは累々とした折り重なる死屍の原を一町ばかり走って松の岩陰に隆信をかがませ 群がる島津勢の中へ駆け入り討ち取られた。
◆円城寺美濃守信胤
御側頭として隆信と同じ熊毛に覆われた甲冑を着て身辺警護をしていた。
突如島津勢が本陣に突入し 同じ御側頭の高木太栄斎 龍造寺家俊 龍造寺信明の各主従と御側衆、小姓等五十余人が次々と倒れるのを見て
もはやこれまでかとその場より駆け出し「われこそは総大将龍造寺山城守隆信なるぞッ」と大声で名乗りながら戦い郎党とともに討ち取られた。
◆江里口藤七兵衛信常
御大将討ち死にの怒声を聞き 討ち死した味方の首を切り取り、左手に提げ 髪を乱して 島津勢へ紛れ込む。
首を見参におよぶふりをし 馬上の島津家久に近づき 首を投げると同時に切りかかり 家久の腕とふくら脛の二箇所を斬る。
しかし家久の馬廻に取り囲まれ 家久が「無双の剛の者 助けよ!」と呼ばわる間もなく討ち取られた。
首を投げると同時に切りかかり 家久の腕とふくら脛の二箇所を斬る。しかし家久の馬廻に取り囲まれ
家久が「無双の剛の者 助けよ!」と呼ばわる間もなく討ち取られた。 武雄図書館で龍造寺鍋島展示やってるみたいだけど、見に行った人おる? 少弐はしぶといよね、滅亡したと思ったら旧臣に担がれお家再興の繰り返し。
地方的規模での足利将軍みたいな感じかね。 >>251
所用があって武雄に行ったついでに見てきたけど
1563年の龍造寺の勢力図が筑後全域とかいう凡ミス記載されててゲンナリした
指摘しようか迷ってやめたけど、誰かチェックしなかったのかねあれは なるほど
龍造寺メインの展示でそれはしんどそうだなあ あくまで信長の野望がメインの展示であって中身の質はお世辞にも良いとはいえない
朝倉でやってた秋月種実展と比較するのも失礼なくらい >>229
後藤家晴の長男清直も毛利家へいってるがこっちはそこを頼ってなのかなあ 頼純の子供なら隆信と同世代かちょい下か
1.粛清時に逃れていた
2.隆信の家督相続時の反対派だったから出奔
3.大寧寺の変後から隆信の佐賀復帰前までにリクルート
このぐらいじゃない? >>258
後藤は家信(武雄龍造寺)
清直の父はたしかに家晴(諫早氏) 龍造寺家純が寄進した天神絵図が鹿子天満宮で発見との事
小鳥居氏との関係は少なくとも家純の頃までは継続していたのか 波多親の養子にて、龍造寺政家が子孫、わたしが参ったぞ 波多も結構大きさ的にも重要国衆だけどなんか知名度低いね 今山の戦いの時の有馬党が水軍をどのように展開していたか分かりますか?
陸上では圧倒していても有馬の水軍戦力に龍造寺の水軍は中々勝ちきれてない印象があります 佐賀鍋島藩は、旧主家龍造寺やかつての同僚に引け目でもあったのか、藩直轄地はわずか十万のまま幕末まで推移し、近世大名への脱皮を果たしきれないまま明治維新を迎えた稀有な大名である。 鍋島閑叟直正の写真を見ると、岸部一徳に似ていると思いますので、岸部さん主演でドキュメント作品とか頼む 勝茂後期には実高で80万石
伊万里焼の売上だけで年間20万石相当
米以外の収入源は本藩に権利がある
佐賀本藩は設立当初から磁器や銃・刀剣輸出のロイヤリティで稼ぐ工業立国 【ロシア軍】 1945年以来、見たことのない攻撃準備
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/europa/1669515505/l50
少なくとも直轄領が少ないからお役目果たせませんという泣き言を鍋島家が言った事はない
例えば1725年の長崎会所からの借銀は佐賀藩1060貫に対して福岡藩が5076貫に達していて
長崎警護で同様の負担を負っている両藩でも江戸中期における財政の健全さは佐賀藩の方がマシな状況にあった 経費をケチってたのでフェートン号事件が起こったと思ってた 鍋島家が経費をケチッた末での失敗なのは間違いない>フェートン号事件
警備要員を減らしたのは斉直が細川家へ長崎警護の役を押し付けようと意図的なサボタージュを展開しての事だし 鍋島斉直の藩主就任時点の佐賀藩の借金は25万両
同時期の薩摩藩の借金500万両 佐賀藩は近代まで地方知行という中世の統治制度を存続させたが、立藩の経緯から藩全体の公会計と領主の私会計が分離しており
財政制度的には江戸時代初期から近代的財政の基盤が出来ていた >>276
いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ち 龍造寺四家に会計検査院みたいな事を依頼した事が勝茂最大の功績だと思う
他の家にこんな泣く子も黙る監査機関無いもの 江戸の鍋島家にあまり詳しくなかったけど龍造寺四家ってそんな立ち位置だったのね
それ考えても龍造寺と鍋島ってあらためて切っても切り離せないな 三部上地前の龍造寺四家は相対的に鍋島を上回る動員力を持つ大領主
三部上地後の龍造寺四家は軍権を大幅に縮小された代わりに藩全体(支藩含む)の財務に強力な監督権を得た領主 こういう意見があるがどうなんだろ?
↓
3 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/03(日) 02:00:05.20 ID:jnDInpqh
龍造寺隆信はIQが低そう。 勝茂は細かく指示を出したがるタイプなのか
家臣団が言われたことしかやらん連中なのか 薩摩琵琶歌を読むと沖田畷で川上が鍋島から情報を得て隆信を殺したと書いてるね で、それで龍造寺に重職として入り込んでた弟二人犠牲にしてまで隆信を島津に売ったって?
さすがに馬鹿も休み休み言えなおはなしだな。 隆信は12歳で成人の僧侶より博学で賢かったらしいから
そのままIQ換算すると180相当になる 鍋島って血統上は龍造寺の主君少弐氏の末裔だよね?
簒奪だの言われて少し気の毒
それはともかく鍋島家の財団が国宝や重要文化財ゴロゴロ所蔵しててビックリ
今でも旧大名家の威光を感じられる数少ない家 元は宇多源氏の長岡氏を名乗っていた家の者が肥前へ下向して鍋島と名乗るようになり
鍋島経直の代に鍋島の娘が与賀を本拠地にしていた頃の少弐教頼のお手つきになって
生まれた子供(経房)に鍋島の家督を継がせた
ホンマかいなという話だけど、この頃の少弐当主は流れ公方的というか
行動範囲がかなり特殊だから有り得ないとは言い切れないのがややこしい (´・`)v-。o○ヾ(||´ロ`)o=3ゲホゲホ 昭和の政商小佐野賢治の妻・英子は華族の出で血統を辿れば鍋島直茂に行きつく >>287
早熟だろ
佐賀城の戦いも鍋島のおかげだし