龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ3
>>2
good
やっぱり龍造寺家と江藤新平だよな 隆信御馬廻衆の石井源次郎は無双の荒武者4将の内1人らしいけど残り3将って誰だろ 馬渡刑部少輔=馬渡俊孝?
倉町太郎五郎=倉町信俊?
石井刑部少輔=石井常忠?
石井源次郎=石井忠修? 今日読んでみたけど物語調でイマイチだった
川上左京取り上げてたのはよかったと思うが >>8
遅くなったけどThanks
戦国九州軍記の一部を初心者向けに書いたような内容で得るものは無かった
次号は鍋島閑叟らしいが期待せずに買ってみようと思う 四天王
四本槍柱 両彈ニ島
無双の荒武者四将
四の数とは縁起がいいんだろか 今山の戦いの後信周が人質になったあと返還されたのっていつなんだろう 大友の軍勢が無事に撤退するまでの保証人みたいなものだから
一ヶ月ぐらいで帰ってきてる 隆信が死ななければ損耗大きくても押し切れたと思うな
森岳城手前まで隆信が出ずにいれば忠堅の特攻受けなかったのかな >>16
勝てないまでも引き分けには持ち込めたかもしれない。 やはり隆信の出過ぎが良くなかったのかな。
隆信は前線に出たがるタイプだったのかな?
輿に乗っていたら、なおさら危険と思うんだけどな 先陣の勝ちは次陣の勝ち先陣の負けは次陣の負けが軍律だし
崩れた浜手側を自ら後援した形なのかな ≫18 数では、龍造寺が勝ってますので押し切れるのではないかと。
≫20 そのような軍律があるとは知りませんでした その場で寝返られたらヤバイのはわかるけど結構酷い話よね 福岡のテレビで入学式が流れてたが新入生の名前が龍造寺だったw 鍋島侯爵家は目立つから足跡はすぐわかるけど子爵家や男爵家はよくわからんね 百武は賜姓した時に縁遠い一族まで改名したのかね
賢兼兄弟が改姓しただけじゃここまで百武姓増えんでしょ? 幕末明治期における百武賢兼系の正嫡は洋画家の百武兼行だが
兼行の父兼貞は成松家からの養子なので血筋的には成松信勝の子孫にあたる 寺院のほうの龍造寺だが、最盛期には大きな寺だったの? 寺院としては行基の時代が最盛期っぽいんで詳しいこと分かりません 高寺山龍造寺って龍造寺時代は龍造寺城の中に建立していたんだよね。
ただ龍造寺家が建立した訳ではなく菩提寺ではなかった >>36
> ただ龍造寺家が建立した訳ではなく菩提寺ではなかった
それは意外 56歳ニートなのに
上に立つ者は孤独ギリギリ
まことには、こういう空気が読めないところがある >>31
それを言うと賢兼の跡目自体が石井家の人間が継いでいるので百武の子孫ではないような 佐賀藩の藩祖鍋島直茂は龍造寺家兼(剛忠)の女系子孫
龍造寺家兼(剛忠)→龍造寺家純→華渓(鍋島清房正室)→鍋島直茂 1568年ぐらいからの北部九州情勢って他所の視点から見ると龍造寺が暴れ散らしてるみたいな書き方されてるけど
ぶっちゃけ龍造寺からすると秋月からの貰い事故みたいなもんで当初大友と戦うつもりは無かったっぽいよね 鍋島直正(閑叟)は池田忠雄の女系子孫で蜂須賀至鎮の女系子孫
池田忠雄→池田光仲→池田仲澄→池田吉泰→池田宗泰→池田重寛→池田治道→幸→鍋島直正
蜂須賀至鎮→三保姫→池田光仲→池田仲澄→池田吉泰→池田宗泰→池田重寛→池田治道→幸→鍋島直正 にしても人足が主君の輿を戦場に置き捨てて、自分達だけ逃げてしまうとか、冷静になって考えて
みたらすごいよなwどんだけ人望なかったんだろ?結局逃げた人足ってそのあとどういう運命をたどった
んだろ? 同時代的に有名なエピソードは隆信のそばで最後まで戦って死んだ鴨打新九郎、田中善九郎、福地千の小姓衆の話なんだけど
これは生き残りの小姓が島津方に捕縛された後に佐賀へ帰されているので双方に証言が残っている
御輿を放り出されて家臣に逃げ出されたという逸話の出元って何か逆に聞きたい 沖田畷は後世の脚色と当時の記録とそういうの分けるとこからすら始まってない状況だよね
戦国ブームも九州の方まで波及しなかったなあ >>46
敵が激しく槍で突いてきたので担いでいた連中が隆信を放置し始めたってのは
同時代人が記したフロイス日本史にも書いてあるぞ
それとは別に逃げずに一緒に斬り殺された家来のことも書かれている
輿を担ぐような下卒は忠誠心も低く逃げたんじゃないのかな?
宣教師たちはキリシタンの有馬氏を通して戦況を聞けたし大砲を操作した連中など
戦いに参加していたイエズス会の外国人もいるくらいなのでこの件に関しては情報の信頼性も高い >>49
うん、槍で突かれて〜の記述部分は知ってる
それがどうして『主君の輿を戦場に置き捨てて、自分達だけ逃げてしまう』という解釈に至るのかがわからない
何かの版の訳がそうなってるのか >>45
まあ、かなり残酷な事してるしね。
大体さあ、大友に土下座して助命して貰ったのに全然恩義に思うてないとか?
柳川の蒲地一族に対する仕打ちとか?
戦国時代基準でも、冷酷な人って評価だよ。 晩年は鍋島すら鬱陶しくなった(?)とかは幾ら何でも言い過ぎだよな
言いたい放題言われすぎな気も 直茂って勝一軒の件とかのように結構人に好かれない性格しているよな >>54
直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評されたという。
(ウィキペディア)
であるので、秀吉からも家康からも危険人物扱いされなかったのだと思う。 >>53
蒲地家は、本家と分家が有り、本家12000町歩、分家8000町歩だもんなあ。
一町歩は、大体約10石換算みたいだし、筑後が約30万石だとすれば約20万石分が蒲地一族。
確かに新興の竜造寺としては勢力弱めたいだろうけど、手口が残忍すぎる。
其れに、蒲地一族には二回も匿って貰ってるしね、先祖とかじゃ無くて当人が。 蒲地は悪くない。
跡を継いだボンボンがボンクラだっただけ。 >>56
龍造寺の着到状でそうなっているということは龍造寺―蒲池間の安堵内容でそうなっているというだけで
蒲池がそのまま20万石の大名と言えるかというとそれは話が違う
鎮漣の志向はおそらくそこへ向いていたと思うが すでに一度対立して何百日も戦やってるわけでもあるしなあ 龍造寺家兼は90歳すぎまで生きていたが
龍造寺家は長寿の家系なのか? 姉川のことも忘れないでね。おばあちゃんのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんが小さいときに神埼から武雄までぽっくりぽっくりみんなで馬に乗って引越ししていったそうな。(原文の儘) 姉川家は横岳氏攻略のときに目達原へ移されたんじゃなかった >おばあちゃんのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんが小さいときに
明治の頃の話じゃねぇー 姉川鍋島の家系は今も寺やってる、寺より幼稚園経営がメインだけど 口伝えなのだが、
姫がブッとオナラをしたら側使えのお清という人が「失礼をいたしました」とさも自分がしたように謝ったそうな。
姫がどの人だったか? お清という人が誰だったか? どんどん情報が消えていくのはさびしい。 鍋島家の姫様方は戦国時代から現代まで話題に事欠かないということはわかった 村田安良、氏久親子の所領内寺院に対する安堵状
https://imgur.com/a/Vzr1hpK
https://imgur.com/a/PKaLxrC
骨董屋で見つけて
「誰の書状かわからんし虫喰いもあるから2通2000円でいいよ」と購入したもの >>56
恩が有ろうが無かろうが、島津に通じてると噂されてる奴が柳川の要所に居ることが大問題
どこの大名家であっても謀殺されてるだろ 今山の戦い。
結果的には勝ったが、籠城策はまずかったんじゃないの? 籠城と言うよりも内線の利を活かした防衛線と言われてるね
一番本拠に寄られたときも撃退してるし
…しかし二年続けて大包囲網しかれると収穫とかできずにヤバかったのかなやっぱり >>73
> …しかし二年続けて大包囲網しかれると収穫とかできずにヤバかったのかなやっぱり
当時の九州は兵農未分離だから
農繁期には大々的な包囲戦ができなかったのではないか?
どうだろう? そもそも戦国時代の兵農分離というものは江戸後期に想像されたものだったんじゃ… 確か包囲されてたのは春から夏にかけてだしだいたい農繁期じゃないかな? 毛利の筑前攻勢のおかげで豊後三老の初撃時から再侵攻まで半年以上の時間的猶予があったわけで
物資集積は相当に進めていたのではないかと
仮に物資を城に収奪しきって民政に打撃が出ても攻撃してくる大友に責任転嫁できた 普通の大将なら城に籠ってるところを
なぜ肥前の熊は籠らず自ら軍を率いて迎撃し続けるというオカシイ事をやったのか
語るならむしろこっち 毛利の後方攪乱が当てにならなくなったから
とにかく積極的に戦わなくてはならなかったからとか? 不利な戦況のなか家臣が裏切らないように眼を光らせる必要があったんだろう。 >>78
籠城はそのうち援軍が来て包囲軍の背後を突いてくれるから成立するのであって
このときには援軍が来る気配がなかったのではなかったか? >>81
相手を攻め滅ぼすっていうよほどの強い意志を持って侵攻しない限り、農繁期前には適当に講話して撤退していくもんでは。 大友が撤退したのは旧暦十月だから農繁期というより本格的な冬が来る前に退散したかったのでしょ 質問だが。
戦国時代の籠城戦で、
城が包囲された期間がもっとも長くて
なおかつ籠城した側がなんとか持ちこたえて落城しなかったケースというとどこになるの? 第一次月山富田城の戦い
尼子vs大内、期間約1年、籠城側の尼子が勝利
敗れた大内はこの被害が元で滅亡まっしぐら
第二次月山富田城の戦い
毛利vs尼子、全体の戦役で2年、攻城側の毛利が勝利
敗れた尼子は大名としては終わった
尼子再興軍の月山富田城攻略戦
毛利vs尼子再興軍、約半年、篭城側の毛利が辛うじて勝利 柳川の鎮並攻めたときもだいぶ長い期間じゃなかったっけ 蒲池鎮漣が城主の時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることができなかった。
柳川の蒲池氏滅亡後は、蒲池氏時代の造作のままの柳川城に龍造寺氏の武将である鍋島直茂や龍造寺家晴が入り、
居城とした。
大友氏の勇将立花道雪は、柳川城を懸命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。
ウィキペディアには包囲期間は書いていないなあ。 北肥戦誌ヨリ
天正8年02月13日 龍造寺隆信、其党筑後柳川城蒲池鎮並の背くに依り、子鎮賢等を遣して之を同城に攻めしむ。
筑後鷹尾城主田尻鑑種より隆信へ注進あり。
天正8年11月28日 龍造寺氏の兵、筑後蒲池鎮並を攻む、是日、鎮並、之と和す。
300日余り籠城したって事だね。隆信娘玉鶴との婚姻を約束
天正9年05月29日 龍造寺隆信の党筑後柳河城蒲池鎮並、島津氏に通ず、是日、隆信、之を誘殺す。
與賀の馬場での待ち伏せは小河、石井、水町、秀島等、鍋島の息がかかった手勢ばかり。
蒲池鎮並始め、300余名中、173名が討死、此の外負傷する者、生捕りされる者多数。 北肥戦誌を通しで読んだことがある人なら分かると思うのだが
大部分は編年体で構成組んであって読みやすいのだけど
鍋島直茂が関わってくる事柄になると、歴史小説のような文体に構成が変わる
蒲池鎮漣を与賀馬場で包囲する場面でもそれが出てきて
北肥戦誌だと鎮漣に「汚き龍造寺が仕業かな」という台詞を言わせた直後に
直茂からの書状を蒲池鎮久に破り捨てさせる場面が挿入されている
北肥戦誌で小説っぽくなっているところは佐賀藩から直々に脚色しろと作者の馬渡が言い渡されてたんじゃないかと想像する 悪名を恐れただけで、鍋島家は最初っから佐賀藩を乗っ取る気満々 沖田畷で内通したってのは何が根拠?
内通したからって山手攻めてる直茂がどうやったら浜手側にいる隆信討ち取れるように内通できるの?
寡聞にしてわからないから是非是非ご教授願いたい 豊臣、徳川、時の権力者と上手く立ち回って、佐賀の支配権を勝ち取ったでいいじゃん
竜造寺には力が無かった >>97
隆信は山手の予定だったんだがな。何故か変更された。 >>99
それが直茂によるものだって言うのかな?
具体的にはどこでそう言われてるの? 安倍さん達は日本を支配したい気持ちが強くて、日本を支配している気になっている普通の日本人と気が合い支持されてるわけじゃん
日本を変えたいとか日本を良くしたいなんて殊勝な日本人は殆ど居ないんだよ
そういった空気読まないやつが支持されるわけがない 龍造寺隆信は性格的に秀吉や家康とうまくやっていけないから
どこかの時点で福島正則みたいに改易されたと思う。 鍋島が言論封鎖や操作をその後してるんだろう。勝者の歴史。隆信が討ち取られたあとに自害しょうとしたとかワザとらしさしか感じない。 島津を主君とか言うけどあいつマジでそんな態度じゃねえぞ
島津四兄弟と九州統一戦読んだらマジで食えねえ 鍋ちゃんは処世上手ではあるが、松永久秀みたいな陰謀家ではないだろ。 鍋島直茂は耳に腫瘍ができて病死したとあるが
耳のガンなんてあるの? 人間の体は髪の毛と爪以外はどの部位でも癌になるらしい。 >>107
龍造寺視点でみたら大友と戦う時にまで一々邪魔してくる島津がなに考えてるか分からんし
龍造寺の領内を散々荒らしまわった憎き高橋紹雲を退治出来れば島津に協力する動機が無くなる
立花山城攻め失敗時点ですぐ島津の後方遮断に出て、今まで良い同盟関係だった秋月まで攻撃対象にするのはやられた側は堪ったものじゃないだろうけど 馬場頼周が討ち取られた神社ってどこ?、連休中行ってみたい
祇園岳城跡にも >>115
佐賀市大和町川上の與止日女神社
龍造寺家兼の長男家純、次男家門、家純の三男純家が頼周の命で暗殺されたのも同地
家純は龍造寺隆信と鍋島直茂の祖父に当たる ということで、行ってきました與止日女神社!
令和初日ということで車がたくさん止まっていた。川上峡の鯉のぼり目当ての子供もたくさん。唐揚げやカルメラなどの屋台も出ていた。
神社の人に芋釜のことを聞いたがわからないようだった。
その後北上して三瀬城跡へ行った。神代勝利の居城。
駐車場から本丸までの距離は30分弱くらいだが、滑り台みたいな急傾斜の上落ち葉だらけで登りにくかった。帰りに滑っちゃったし。
本丸は土塁で囲ってある珍しい形。二の丸の外に野面石の石垣あり。
勢福寺城跡にも足を伸ばしたかったが時間切れ。 神社の人には自分の所の出来事くらいは抑えてくれないと困るなあ
佐賀の歴史は弥生時代や幕末維新だけじゃないのに
ともあれ充実したGWを過ごすことができたようで何よりです 鍋島家の男系は少弐氏だけど
祖先の武藤資頼の出自が不詳
松平家の徳阿弥と並んで謎の人物 鍋島氏って同族であるはずの少弐氏追討に加担してるんだな そもそも少弐潰しは大友主導で肥前国衆動員してやってるっぽいな >>120
鍋島女が武藤(小弐)の妾になって子を産んだって話かな >>123
まあ、都合良過ぎる話だしね。
ゲームなんかでは、竜造寺家兼は少弐家臣では無くて同盟勢力にされる事も多いけど、少弐
譜代の郎党だった事は事実だしな。
何か、微妙な動きしてたんで大内に寝返ったと思うわれて竜造寺排斥だけどさ。
竜造寺家を乗っ取った鍋島が少弐庶流はねえ?
少なくとも、戦国時代にそう思われてたとは? 戦国時代に鍋島が少弐庶流と誰一人思ってないだろ
勝茂が適当に作ったニセだと江戸300諸侯が知ってることだからw 本人たちも佐々木の後裔を自認していたんじゃないの? 天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君で
ある少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼
周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後
国の蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546年)、家兼は蒲池
鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興す
るが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円
月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐよ
うにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は、重臣石井
兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り、
水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。しかし胤信が
水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れ
た。そこで八幡宮に詣でて籤を三度引き神意を問うたが、籤は三
度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという。
(ウィキペディア)
↑
なぜ家兼の遺言があったにもかかわらず
相続が揉めたのか?
普通は遺言を最優先するはずだが。 いつの世も自分に都合のよい人物を推す訳ですな
この時、反対派だった鍋島の首を取ってればよかったのにな >>131
> いつの世も自分に都合のよい人物を推す訳ですな
それは前当主が遺言を残さないまま死んだ場合であって
遺言があればイヤイヤながらも従うのが日本人。 鍋島はその時にはイヤイヤながらも従ったってことか
だから後の沖田畷で鍋島は本懐を遂げた訳ね 康房や信俊も死んでるのに鍋島家の陰謀みたいな訳がねえだろ 400年たっても龍造寺一族の逆恨みは消えてないって事ですな 康房や信俊は鍋島の陰謀で養子に出されたからな
さらに2人とも沖田畷で鍋島の裏切りのせいで戦死とはね 南無 武藤氏→少弐氏→鍋島氏だと思ってたけど
経房が少弐氏から鍋島氏を継いだのが怪しいの? 毎度毎度鍋島家の陰謀だって言説はどこが論拠なんだ? 少弐氏(しょうにし、旧字体: 少貳氏)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。
少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。
その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになる。
同時に、資頼は藤原道長の後裔と称し、代々が武蔵国に知行を持ち、武藤氏を称したという[1]。
さらに、鎮西豪族の興亡を記した戦記物によると、「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武藤中将と称した。
その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。
これによれば、頼氏の子孫とする資頼は道長の後裔ということになる[2]。 >>139
>毎度毎度鍋島家の陰謀だって言説はどこが論拠なんだ?
鍋島に乗っ取られてなければ今頃オレは…が論拠
悲しいね 龍造寺一族で後援しての直茂の立場だろうし
会津龍造寺の末裔の人も普通の人だし
なんかの本を真に受けたアホだろな 鍋島は沖田畷で真っ先に逃亡してるな
逃げ隠れた柳川で布団を被って震えてたのか 九州国割で龍造寺が筑後を奪われる謂れはないのに酷いよな秀吉 龍造寺は蒲池さんに酷いことをしたから仕方ないんだよ 田尻氏が龍造寺が筑後を追われても臣下で有り続けるくらいにはきちんと領土化してたからな まぁそういう感じで告げ口外交を展開されていただろうという事で
龍造寺の勢力維持の障害は大友勢力との外交関係の拗れっぷりだったんだろう
大友からしたらまず龍造寺なんてただの反乱勢力って立場だろうし >>145
蒲地は本家が12000町歩、分家が8000町歩だから一族合わせて約20万石も有った事に成る。
竜造寺が勢力弱めたいのは解るけど、手口がエグイしね。 石高的にみたら龍造寺が筑後の大部分を支配していても
外縁部に大友派や島津派がいたのが九州征伐直前の筑後情勢をややこしくしている >>139
鍋島はそういう陰謀をやらない人だから
秀吉や家康が信用していたと思う。 >>151
だから無知は困るんだよな
沖田畷の折、川上忠堅へ隆信の居場所を教えたのは鍋島ってはっきり書いてあるだろ >>109
あるよ耳下腺腫瘍とか真珠腫とか。死因になるかどうかわからないけど 500年後に
龍造寺氏も旭日旗が問題になるとは思ってもいなかっただろう
龍造寺氏は旭日旗ににた意匠の旗を使用 龍造寺「ちっ、耳削ぎ鼻削ぎが足らなかったようだな」 当代は日本のネットワーク技術の黎明期に関わっていた人なんだっけ? 鍋島は江戸末期以降の閨閥がハプスブルクかよってぐらい繁栄してるな何故か
やっぱり男系が続いてる家はこの分野強いわ >>161
尾張徳川家、堀田家、鷹司家も鍋島家の男系だからすごい >>163
鍋島家による尾張徳川家は当代で終わりだけどな 前田、尾張徳川、鍋島の三家は富豪華族同士スクラム組んで戦前戦後の資産流出危機を凌いでいるから 佐賀城本丸歴史館でテーマ展「佐賀城の殿様たち」を開催します
〜龍造寺家三代、鍋島佐賀藩歴代藩主の肖像画を一挙公開!〜
http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00369013/index.html 死ぬまで公式には帰国出来なかった高房を佐賀城主扱いとは酷なことだと思う かと言って高房を仲間外れにしたら天佑寺付近でまた怪奇現象が起きかねない 親戚が流されていないか不安や。
川の前に住んでるとか 佐賀鍋島藩は幕府軍最大兵35000を率いて島原反乱の鎮圧にあたりました。
たが、農兵、浪人兵も多数参加しており、彼らが、戦後、鍋島藩への仕官が叶ったかは、
定かでは、ありません。 島原の乱時の幕府軍13万というと流石徳川!と言われ、その内3万5千は鍋島兵というとそっちは嘘くさいと言われる
九州征伐時の豊臣軍22万というと流石豊臣!と言われ、その内3万7千は龍造寺というとそっちは嘘くさいと言われる 動員兵力の割には軽く見られがちだと思うなあ龍造寺鍋島は
関ヶ原でも伏見や安濃津で活躍したそこそこの規模の軍団なのに 35万石で3万5000人って総動員じゃん
防衛戦とか超近場での戦いならまあギリ有り得るか 有明海はほぼ鍋島の領海みたいなもので島原にも領地があるとなると鍋島家中にとって実質防衛戦 そもそも佐賀藩士はめちゃくちゃ人数多いとか
鍋島家中の被官システムのせいで「御国の大事」の時には士農工商問わず被官なら兵役義務が発生するとか
そこらへんの基礎知識があるなら理解はできるけど
いきなりただ兵数出されたら納得出来ないのも分かる 当時佐賀藩での軍役は「知行125石に付き、軍役6人に相定候事」とある。
そうなると佐賀藩は35万石だから普通なら1万6,800人が妥当。
勝茂が3万5,000人と2倍以上の軍役を課したのは、関ヶ原の失態が原因。 岡本大八事件で有馬が改易されてから松倉が入封されるまでの二年間
島原は鍋島・松浦・大村が代官出し合って治めていたってのが認知されてない >>180
島原の乱時はまだ伯庵事件の訴訟問題が継続中だから勝茂的にはこっちの方が心揺れてる
はず あの辺は浪人もしくは帰農した武士だらけだから簡単に人数集まっただろうよ
反乱側の兵力もまた然りで 布陣を見ると先陣は八院合戦と同じく深堀と横岳だったな
二陣は武雄に代わり多久の龍造寺系か 『歴史研究』の今月号の特集
「龍造寺一族の謎」だった。 九州三国志の主役は龍造寺隆信、という井手窪さんの主張には同意 >>179
九州の特殊事情で、国人や土豪を完全につぶした例が少ないんだよね。
そんで、竜造寺は家臣の領地替えで支配力を強めるってやってた。
で、そうやって肥前以外に領地移された家臣が、保々無禄状態に成った。
だけど、佐賀藩は浪人しても他所に行けないって二重鎖国システム。 二重鎖国という閉鎖的な国情と、長崎に近く進取に富んだ気質の双方を併せ持つ藩地の特徴に
興味があります >>189
他国に転封された家臣が、殆んど無禄に成ってしまったと言うのが大きいでしょうね。
で、他国なら浪人として他所に流れる所なのに、それを禁止したって無茶ぶり。
で、後で気が変わって取り立てするかも知れないからってさ。
まあ、家臣団に竜造寺の分家が有ったりする特殊事情あるからだろうけど。 >>190
鍋島も柳川のままだったり良かったのにな 時期的なものみたら須古城の普請より前に隆信は久留米城の普請をやってたんじゃねえかなと思うわけです
久留米の大隈氏が龍造寺に降ったのが、どうも天正3年の安武氏の降参より時期が早いみたいなので
多少前後するだろうけど
大石→大隈→安武→犬塚→(江上)→大木→蒲池の順で龍造寺に降っていったのかなと
まず長門石を支配下においてから対岸の久留米城を整備し、筑後北部の物流を龍造寺が掌握した
そこから河口の柳川まで支配圏を南下させて筑後南部の流通も抑えに向かった
この頃の大隈氏や大木氏の動向が北肥戦史で見えて来ないのは佐賀藩重臣として残っている 両家に対する配慮か 豊臣政権の九州支配について北西部に関しては龍造寺が支配整理してたから下地が整ってたところはあるのかな? 島原沖田畷に鍋島が来てなかったら隆信軍の大勝利だった!!
隆信から「柳川へ引っ込んでろ!!」と命令された鍋島が何で島原でウロチョロしてたの? フロイス説?だと鍋島隊が水軍で浜城へ上陸して直援しようと試みてたようだけど
この作戦が成功してると一気に浜城と隆信軍で連合軍を挟み討ちにできた
ちょうど長篠の戦いの鳶ヶ巣山砦奪取と似たような状況
というか丹坂峠の時の多久城奪取→有馬軍殲滅の焼き直し 北肥戦史だと龍造寺軍が三会に到達した時点で鍋島(政家)隊と隆信隊で配置を変えた話が出てくるけど
考えてみるとフロイス説とあまり矛盾しないかも
鍋島隊の上陸作戦が成功していた場合、森岳砦への平押しは家種・家信隊に任せて
隆信隊は本光寺方面を突破し森岳の側面および後方へ展開するつもりだった
しかし作戦が失敗したので鍋島隊が本光寺方面を突破する事になった >>196
ここでも鍋島の無能さが分かりますな。
隆信の機嫌取りで約50隻の船で5千の兵と向かったが待ち伏せていた島津有馬軍にコテンパにやられて
命からがら三会城まで逃げ帰るとはね。
完訳フロイスによると島津有馬軍は城門まで追いかけ周辺の村落を焼き払って引き揚げたとある。 1556年9月、龍造寺隆信は日本統一を果たした。
いっぽう、蒲池氏の子孫は今年も不倫で世を騒がせた。 本行寺の蒲池鎮並一行慰霊碑みてきた。
江藤新平の墓の外側に建ってた。
奥の方には成富茂安の墓もあった。 のち弟の家信は義長の偏諱を受け長信と改名したらしい 大内の影響の大きさと大寧寺の西国戦国史へのインパクトってわりと軽視されがちな気がする 毛利隆元、小早川隆景の隆も大内義隆からだからな。
安芸、備後から肥前までってほとんど西国王だな。
ちなみに松浦隆信も大内義隆からなの? 相良武任を重用したのが運の尽きか。
その一族が勝屋勝一軒てのは本当? ところで、龍造寺四天王の五人は佐賀藩で何石取りだったの? 平戸松浦は大内義興の頃から偏諱を受けてる(興信)から龍造寺より関係が深いぐらい
対明貿易では国内側の最重要勢力の一つだからね 応仁の乱に介入した大内が遣明船の権利を得て博多を貿易港にしたからこぞって大内になびいた
あと寧波の乱というのを明国の港で起こしてる
これが明の公式記録に残って海の向こうに非常に戦闘的な民族がいると明国が日本を認識した
後に秀吉が朝鮮出兵したときに明が朝鮮に大軍を送りこんできたのはその影響だともいわれてる >>208>>209
寛永5 元禄8 安政2(幕末)
百武 知行240石 知行1050石(物成420石) 物成172石
成松 知行300石 知行 162石(物成65石) 物成220石
円城寺 手明鑓 切米35石
江里口 知行71石 知行 50石(切米20石) 切米40石
木下 知行336石 知行 420石(物成168石) 物成168石
チョコット調べて見たが間違ってたらスマン 義隆の中央集権化に守護代家が反抗した形なんだっけ
大内家臣団ってどういう風に他勢力に吸収されていったんだろう
勝屋宗機もどういう人だったのかすごく気になる 江里口九郎右衛門兄弟(江里口信常の孫)と勝屋采女夫妻(勝一軒の子?)が伝高院に殉死しており
勝屋采女の享年から逆算すると勝一軒は隆信より年下、直茂と同年代か少し年上だったと思われる
采女の後は忰蔵人が継いだが程なくお家断絶、親族は佐賀藩内には居なかったか? 佐賀の戦国人名史この前久々にチラチラしてたら親族は筑後の方にいたとかなんとか
詳しく覚えてないけど 江里口九郎右衛門、於六兄妹は信常と兄弟ですよね。勝市軒の嫡子勝屋采女夫妻、龍造寺家親直系の藤井兵左衛門夫妻の
六人が伝高院に殉死したらしい。
勝屋家は采女の後外記(知行244石)ー紳士充ー孫大輔(知行305石)にて断絶。のち伝高院法要のおり、采女の娘の子孫より
新たに召出しとなり勝屋家再興が叶ったらしい。 >>215
誰の親族でしょうか?
龍造寺家一族だったら胤家ノ子 胤知親子が倉富姓を名乗っているけど。
大友×大内合戦に筑後へ出陣したが敗北後筑後に落居したと云う。 筑後鷹尾城主田尻鑑種の下に勝一軒の従弟で勝屋宗機という人物が居た
百武賢兼と仲がよかったらしい
田尻の移封に併せて佐賀に居を移したと思っていたけど、柳川に残ったのか 沖田畷で勝市軒が討死してるが、そのほか勝屋宗機の弟勝屋伊豆守とか
一族と見られる勝屋相五郎なども討死したらしい。 源氏だから島津?何をもって判断するかによるんじゃない? 娘が皇后になってる家と家臣筋が二代続けて皇后になった家か 龍造寺を秀郷流とする系図だと龍造寺は下野佐野氏から養子をもらって興した家 相木家は,本姓藤原。肥前龍造寺氏の一流で,龍造寺家門の三男頼純を祖とする。
頼純の嫡男数馬の時,龍造寺家を出奔して周防国霧山に来住し,毛利家に仕えた。
何時頃出奔のかね。 龍造寺頼純は周家と一緒に馬場頼周から粛清の対象にされて死亡してるから
胤栄に伴だって山口へ落ち延び、そのまま居着いて大内家臣→毛利家臣では (旧)佐賀藩が、真に天下を握る機会は、留守政府参議を肥前閥で固めたときでござる。 肥前はどこ行っても真水が少ないから中世以前だと肥後に人口面では太刀打ち出来んと思う 幕末の佐賀藩は大村藩や久留米藩に技術や物資の支援をして軍事面で強力な同盟国に成長させたけど
戦国時代でも似たような事をやっていた形跡あるよね 龍造寺領と千葉領合わせてそこそこの面積をしっかり有していたならそこそこは生産力ありそう? 16世紀だと肥後より肥前の方が概ね人口含めて国力高いと思う
というより播磨より西の国だと肥前が一番人口も物品も集まってる国だろう 朝鮮の時の直茂の発言とかもあるし、有明海沿岸は貿易の益もあったんじゃとはよく言われるね 生糸貿易をちょっと勉強しました
多くの諸大名がイエズス会に銀を預けて商売していたようですが
龍造寺は自分らで独自にマカオからの販路を開拓して生糸を国内に流通させていたようです
イエズス会が元から龍造寺に敵愾心が高いのは商売敵だったからかも? >>242
そんなことやってたのか
やるなあ熊さん 少弐と菊池の没落は本拠地の手狭さが原因の一つな気がしてきた
太宰府も隈府も当時の交通の要衝だけど内陸の狭い位置にあるから
少弐は大内に負け大宰府を失った不可抗力とは言え嘉瀬を抑えられる与賀に本拠地を移したので
菊池氏も上手く存続できていたら高瀬あたりに本拠地を移していたのではなかろうか 鍋島勝茂ってババアが41才で生んだんだろ
片足棺桶に突っ込んで力んだのか 龍造寺四天王の最後
◆成松遠江守信勝
軍(いくさ)奉行として「御先陣」にいたが手の者おびただしく討たれるなか 主従わずか十六人となりひとまず休息し、
周囲の同輩が討ち死にしていくのを見て立ち上がり「大将の御前にて討ち死にを遂げ生前に兼ねての御恩を奉り報いるべし」と、
金地に日の丸の扇をはためかせて「やあやあ、我こそは去んぬる年、豊後の大友八郎を討ち取ったる成松遠江守信勝なるぞッ。
目にもの見せてくれよう」と大声で名乗りを挙げ長刀を手に嫡男信実ほか残った家人と共に島津勢百人余りに挑み自ら七人をなぎ倒し八人目に討ち取られた。
◆百武志摩守賢兼
成松信勝同様 「御先陣」にて敵を防ぐ。混乱のなか主従四十人余りで隆信を囲っていたが 島津勢五十人ほどが横合いから急襲 さらに百人ほどが迫った。
もはやこれまでかと思った時 勝屋勝一軒が三十人ばかりの郎党を従え駆けつけたのを見て四〜五人の手兵と共に隆信を守り退却した。
あたりは累々とした折り重なる死屍の原を一町ばかり走って松の岩陰に隆信をかがませ 群がる島津勢の中へ駆け入り討ち取られた。
◆円城寺美濃守信胤
御側頭として隆信と同じ熊毛に覆われた甲冑を着て身辺警護をしていた。
突如島津勢が本陣に突入し 同じ御側頭の高木太栄斎 龍造寺家俊 龍造寺信明の各主従と御側衆、小姓等五十余人が次々と倒れるのを見て
もはやこれまでかとその場より駆け出し「われこそは総大将龍造寺山城守隆信なるぞッ」と大声で名乗りながら戦い郎党とともに討ち取られた。
◆江里口藤七兵衛信常
御大将討ち死にの怒声を聞き 討ち死した味方の首を切り取り、左手に提げ 髪を乱して 島津勢へ紛れ込む。
首を見参におよぶふりをし 馬上の島津家久に近づき 首を投げると同時に切りかかり 家久の腕とふくら脛の二箇所を斬る。
しかし家久の馬廻に取り囲まれ 家久が「無双の剛の者 助けよ!」と呼ばわる間もなく討ち取られた。
首を投げると同時に切りかかり 家久の腕とふくら脛の二箇所を斬る。しかし家久の馬廻に取り囲まれ
家久が「無双の剛の者 助けよ!」と呼ばわる間もなく討ち取られた。 武雄図書館で龍造寺鍋島展示やってるみたいだけど、見に行った人おる? 少弐はしぶといよね、滅亡したと思ったら旧臣に担がれお家再興の繰り返し。
地方的規模での足利将軍みたいな感じかね。 >>251
所用があって武雄に行ったついでに見てきたけど
1563年の龍造寺の勢力図が筑後全域とかいう凡ミス記載されててゲンナリした
指摘しようか迷ってやめたけど、誰かチェックしなかったのかねあれは なるほど
龍造寺メインの展示でそれはしんどそうだなあ あくまで信長の野望がメインの展示であって中身の質はお世辞にも良いとはいえない
朝倉でやってた秋月種実展と比較するのも失礼なくらい >>229
後藤家晴の長男清直も毛利家へいってるがこっちはそこを頼ってなのかなあ 頼純の子供なら隆信と同世代かちょい下か
1.粛清時に逃れていた
2.隆信の家督相続時の反対派だったから出奔
3.大寧寺の変後から隆信の佐賀復帰前までにリクルート
このぐらいじゃない? >>258
後藤は家信(武雄龍造寺)
清直の父はたしかに家晴(諫早氏) 龍造寺家純が寄進した天神絵図が鹿子天満宮で発見との事
小鳥居氏との関係は少なくとも家純の頃までは継続していたのか 波多親の養子にて、龍造寺政家が子孫、わたしが参ったぞ 波多も結構大きさ的にも重要国衆だけどなんか知名度低いね 今山の戦いの時の有馬党が水軍をどのように展開していたか分かりますか?
陸上では圧倒していても有馬の水軍戦力に龍造寺の水軍は中々勝ちきれてない印象があります 佐賀鍋島藩は、旧主家龍造寺やかつての同僚に引け目でもあったのか、藩直轄地はわずか十万のまま幕末まで推移し、近世大名への脱皮を果たしきれないまま明治維新を迎えた稀有な大名である。 鍋島閑叟直正の写真を見ると、岸部一徳に似ていると思いますので、岸部さん主演でドキュメント作品とか頼む 勝茂後期には実高で80万石
伊万里焼の売上だけで年間20万石相当
米以外の収入源は本藩に権利がある
佐賀本藩は設立当初から磁器や銃・刀剣輸出のロイヤリティで稼ぐ工業立国 【ロシア軍】 1945年以来、見たことのない攻撃準備
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/europa/1669515505/l50
少なくとも直轄領が少ないからお役目果たせませんという泣き言を鍋島家が言った事はない
例えば1725年の長崎会所からの借銀は佐賀藩1060貫に対して福岡藩が5076貫に達していて
長崎警護で同様の負担を負っている両藩でも江戸中期における財政の健全さは佐賀藩の方がマシな状況にあった 経費をケチってたのでフェートン号事件が起こったと思ってた 鍋島家が経費をケチッた末での失敗なのは間違いない>フェートン号事件
警備要員を減らしたのは斉直が細川家へ長崎警護の役を押し付けようと意図的なサボタージュを展開しての事だし 鍋島斉直の藩主就任時点の佐賀藩の借金は25万両
同時期の薩摩藩の借金500万両 佐賀藩は近代まで地方知行という中世の統治制度を存続させたが、立藩の経緯から藩全体の公会計と領主の私会計が分離しており
財政制度的には江戸時代初期から近代的財政の基盤が出来ていた >>276
いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ち 龍造寺四家に会計検査院みたいな事を依頼した事が勝茂最大の功績だと思う
他の家にこんな泣く子も黙る監査機関無いもの 江戸の鍋島家にあまり詳しくなかったけど龍造寺四家ってそんな立ち位置だったのね
それ考えても龍造寺と鍋島ってあらためて切っても切り離せないな 三部上地前の龍造寺四家は相対的に鍋島を上回る動員力を持つ大領主
三部上地後の龍造寺四家は軍権を大幅に縮小された代わりに藩全体(支藩含む)の財務に強力な監督権を得た領主 こういう意見があるがどうなんだろ?
↓
3 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/03(日) 02:00:05.20 ID:jnDInpqh
龍造寺隆信はIQが低そう。 勝茂は細かく指示を出したがるタイプなのか
家臣団が言われたことしかやらん連中なのか 薩摩琵琶歌を読むと沖田畷で川上が鍋島から情報を得て隆信を殺したと書いてるね で、それで龍造寺に重職として入り込んでた弟二人犠牲にしてまで隆信を島津に売ったって?
さすがに馬鹿も休み休み言えなおはなしだな。 隆信は12歳で成人の僧侶より博学で賢かったらしいから
そのままIQ換算すると180相当になる 鍋島って血統上は龍造寺の主君少弐氏の末裔だよね?
簒奪だの言われて少し気の毒
それはともかく鍋島家の財団が国宝や重要文化財ゴロゴロ所蔵しててビックリ
今でも旧大名家の威光を感じられる数少ない家 元は宇多源氏の長岡氏を名乗っていた家の者が肥前へ下向して鍋島と名乗るようになり
鍋島経直の代に鍋島の娘が与賀を本拠地にしていた頃の少弐教頼のお手つきになって
生まれた子供(経房)に鍋島の家督を継がせた
ホンマかいなという話だけど、この頃の少弐当主は流れ公方的というか
行動範囲がかなり特殊だから有り得ないとは言い切れないのがややこしい (´・`)v-。o○ヾ(||´ロ`)o=3ゲホゲホ 昭和の政商小佐野賢治の妻・英子は華族の出で血統を辿れば鍋島直茂に行きつく >>287
早熟だろ
佐賀城の戦いも鍋島のおかげだし