もし徳川家康が関東に転封されなければ? [無断転載禁止]©2ch.net
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東海地方が基盤のままでも、やはり天下を取っていたでしょうか? その場合、関東がどうなってるかが大きいな
中規模大名で分割ならまだマシ
北条がでかいまま臣従して残ってるならかなり大変そう 場所よりも家康の政治的なポジションが重要だろう
秀頼の後見人かつ家老でなければ天下は取れないと思う
もし秀次がそのまま政権継いだならなおさら無理 関東に転封されたあとのことだが、さらにどこか(おそらく東北)に転封されるかもという噂はあったようだな どの道、秀吉が死ねば武将としてのキャリア・実績で家康の右に出る者はいないから、
やっぱ家康の天下になる。その場合恐らく浜松あたりが日本の首都だったわけか… 勘違いしている人がいるが家康が台頭したのは大老だったからだ
政治的に浮上できなけりゃただの大名
無理矢理でてくれば謀反人となって死ぬだけ 秀吉に臣従後はだいたい京大坂にいるし。駿遠三甲信で内大臣なら無問題。関ヶ原後に関東にいる大名を転封して自分が入ることもできる 家康に限らず幼君を奉って主家から徐々に力を抜いて簒奪するやり方って
のは珍しくも何ともない
それができるのは大義名分がいるから天下を取るかどうかはここに
かかってるな それでも移封がなけりゃ厳しくなる
なんせ大名としての力は130万石程度だから無理強いするには力が足らない
秀次が残れば家康は箸にも棒にも引っかからないだろうし、秀頼を利用できて
も力が心もとないし 関東は別に北条のままでもよくないか?
関東で引き篭もってるから秀吉死後も天下への野心は低いだろう
東海に置いておくのは危険だから、東北あたりに飛ばしたらどうだろう
もっといえば蝦夷地にやって、開拓を命じる
拒否したら信雄と同じく改易
これくらいしないと豊臣の安全は測れないなw 徳川家康が関東に転封されないというIFに
北条が滅びないないという、より大きなIF前提を重ねるのは良くない
スレの焦点が曖昧になる
堀秀政が若死しなかった等、家康転封以外はなるべく史実に即した前提で語るべきであろう うむ
北条が滅んでないと秀吉は東国の平定をしなかったレベルの仮想世界になるからな 堀秀政か上杉景勝か
あるいは織田信雄あたりか
いずれにせよ史実の家康ほどの大領は任せられないだろう 家康を東海に置いとくなら実際に東海に配置した大名を関東に置くだろ。山内や中村あたり。秀吉死後は天正壬午の乱よろしく大混乱ですわ >>7 その場合浜松からそれほど遠くもなく、鎌倉あたりを国政の中心にすると
思う。家康は源頼朝にあこがれてたらしいしな >>19
その場合、甲斐の浅野や信濃の仙石、石川あたりも関東だな
関東の旗頭は浅野長政あたりか なんというかアホすぎない?
家康の転封で空いた領地に入った奴らがそのまま関東に配属されるって本気で考えてるの? 東海甲信だけでも秀吉や利家死後に豊臣臣下で最高権力者になってれば
全国の大名に難癖付けまくって自分や親徳川の大名の領土増やしまくっていけるだろう
いずれ家康許さねえ、って反徳川連中が蜂起して関ヶ原に似た状態になる可能性が高いかな >>22
甲信東海の大名は秀吉子飼いや親族がほとんど
史実の結果を知らなければ、家康の代わりに加増転封で関東に入れてもおかしくないし
なにより史実との齟齬が一番少ない >>20
家康は三河政権たる鎌倉幕府、源頼朝の跡継ぎの正室の兄の血を引くからだろ
そりゃ三河の先輩だから尊敬もするだろう
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 >>19
あー確かにそいつらの置場所は関東しかなくなるのか この仮定って家康の領地は一切増やさない仮定なの?
秀吉の義弟が外様の毛利より石高少ないって微妙じゃないかな。
後の徳川のように一門が多ければ別にいいけど豊臣は一門が少ないから
家康はもうちょっと強化した方がいいと思うんだが。
具体的には尾張位加増してやるべきじゃないかな、と。 まあ名目上は「加増」転封だからな。据え置きならどこか増やさないと。 逆だろ
加増「転封」なんだから「転封」という負担がないなら加増も無用 >>29
うん、外様ならそれでいいと思うよ。
ただ、秀吉視点だと家康は外様とは言い難いんじゃないかな。
別に史実のように250万石もやれとは言わないよ。毛利より多い170〜180万石位は
やってもいいんじゃないのって話。
唐入りの事を考えると毛利を減らすのは微妙だし。 >>27
東海時代の家康は120万石の毛利より1割くらい多いはず
小田原後も伊豆を加増されると思ってたから尾張ほど大加増はないだろうね 関東への転封がないなら秀康も結城の養子無いかも
変わりに秀吉の養子として西国に十万石くらい貰ったり >>32
ああ、すいません。毛利の石高勘違いしてました。
多分伊豆加増で妥当だと思います。 北条滅んで家康入れないぽっかり空いた関東、やっぱ上杉でも置くのか。じゃあ越後はってなるし、伊達の抑えは史実通り蒲生か。んーやっぱ家康を関東に移して東海道を親豊臣にするほうが実利がありそうだなあ そもそも上杉なんだから関東でええやん
上杉旧領に転封という感じで 三河マンセーの関東統治は三河でなければ無理
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 >>31
下総の北部と常陸南部も良い、坂東平氏の末裔たちの統治はてこずる
佐竹には磐城を与える >>1
それは政治が極端に変わる
というかそれってありえなくて、なんで強い徳川に大関東任せたかって言うと、関東の経済が大きいから下手なやつをつかせると反乱させられる
結果頭脳と正確がまともで有力な徳川を東日本の棟梁にしないといけない
つまりそうじゃないと、幕府は東日本を管理できないって意味で、もしそれやらなかったら、西日本だけの統一しかできない、しないって意味
そうなると、経済的に農民経済のままの遅れた東日本が残るだけで、関東なんか坂東武士団筆頭に数百のバラバラな棟梁が収めるカオス
徳川以外の誰を送って話で、隣に本性があり、あそこから兵力遅れて、関東事情に明るい徳川以外棟梁にできないだろ >>39
北条も下総・常陸南部は協力はさせたが支配しきれてもなかった
あの辺の連中は上杉が来れば「お待ちしてました」北条が来れば「ご苦労様です」佐竹には「お疲れ」まあしたたか
清盛を排出した坂東平氏ながら頼朝担ぎ上げたり面倒な所
纏められたら矛先が西に向くのも歴史通り、豊臣は感じてなかったのかな? 家康が転封無しなら朝鮮の役参戦しただろう
疲弊するだろうし本人や重臣が病死する可能性もあるな あらためて、秀吉の配置はさすがだと思う。関東は家康じゃないと安定しなかったろう。 >>43
家康が断るだけ
東北でも嫌がるだろうし東海には居させたくない
結局落ち着く所は関東か 関東を安定させなおかつ奥羽に睨みを効かせる
や家神 家康とやらの先祖 源為朝のようにか?
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
家康とやらに源義家、源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)、足利義兼(初代源姓足利氏)、一色公深(初代一色氏)、今川国氏(初代今川氏)、吉良長氏(初代吉良氏)、源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子イン 関東に転封がなかった以外は史実どおり天下取ったとしたら幕府は何処に開いただろうな
岡崎駿府浜松→なじみあるけど微妙?
大阪→豊臣色が強すぎ?
伏見→同上
江戸→何処それ?
平地が広い、都も割と近い、良港がある、東西への睨みって条件だと尾張辺りと想像 >>48
関東の睨みとしては弱い尾張
問題起こす下総常陸
将門の出現で武家勢力台頭
下総常陸を睨んだ位置が鎌倉
隅田川の向こうは下総の江戸に本拠を置いた家康
明治維新は公武合体、京に武を入れては足利と同じで東をコントロール出来ない、江戸に公を加えるとバランスが良かった
中国ですらやや北東の北京じゃないとバランスが取れない 鎌倉なんて近世城郭作るのに全く適して無いだろ
秀吉の作った大阪の繁栄を見てる家康が数段落ちる規模の町しか作れん場所に幕府開くとは思えん 鎌倉には政庁だけ、近隣に都市を営む感じか。
藤沢や平塚辺りが候補かな 鎌倉よりは小田原のがずっと現実的だよ
将軍家の本拠が政庁だけとかありえん 実子に結城や武田の名を継がせた家康、関東支配に気を使った事がわかる
関ヶ原後必要無かったけど 関東関係ねーわ、結城は三河縁者だからに決まってんだろう
・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母、小山政光の後妻)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(三河県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→娘(初代吉見氏、源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
■本證寺(三河県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
・小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円) ・豊臣秀頼 220
・北条氏直 200(伊豆・上総を召し上げ)
・徳川家康 145(伊豆を加増)
・上杉景勝 120
・毛利輝元 112
・織田信雄 109
・前田利長 84
・伊達政宗 58
・宇喜多秀家 57
・島津義弘 56
・佐竹義宣 54
・小早川秀秋 37 千を秀頼の嫁にくれってのもスゴイな。
その子供が後継いだら家康というか秀忠が外祖父になって
徳川が強大な権限握ることになる。藤原もそうやって実権握った。
その時点で徳川に天下明け渡したも同然。 >>60
その点からみても、徳川が豊臣を最初から滅ぼすつもりだったとは思えんのだよな。
正直共存ルートはいくらでもあったと思うんだよ。
そりゃ飾り物や操り人形になる可能性は高いけどさ、滅亡よりよほどマシだと思うんだがなあ 秀頼の転封は一番お似合いなのは伊勢あたりかな
格をあるていど認めてやってあげくあの時点でもう主流とは言えない土地
大和とかももったいない 徳川としては秀頼に対してはかなり譲歩したけどそれを蹴ってのアレだからなぁ、まぁ流石にこれはスレチか 北条征伐で家康はそれなりの軍功を挙げているから、まあ伊豆か相模くらいは与えんといかんだろうな。となると、180万石くらいにはなる。
関東に誰を移すかが問題だが、豊臣家の没落は秀吉晩年の失政のツケも大きいから、そんなに変わらないと思う。 関東に決まってんやんそこしかないに決まってるじゃん
もし四国に移したとしたら長宗我部が関東?薩摩なら島津が関東?
ないないわざわざただでさえ身内少ない秀吉が敵を増やすような真似しないよ。 ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ >>60
淀さんは浅井の子が天下を取れれば良かったわけだな。徳川が藤原氏みたいになろうとも、妹の子と自分の子が夫婦になって浅井一族の血統による天下が続くことが目的だから徳川を頼みにすらしてた。しかし当の秀頼が徳川に対し強硬派だった。 関東転封がなければ
5大老石高
徳川 ちょい加増有で130万石〜140万石?
上杉 120万石
前田 83万石
毛利 120万石
宇喜多 57万石
こうやってみると実にバランスが良いな。
前田家に難癖つけにくいし会津征伐も難しい。
この状態で三成が揉めたら、前田上杉が堂々と
仲裁に出てきて関ヶ原のような勢力図にもならない。
天下とりにいくにも時間がかかりその間に秀頼も成長していく。 >>76
家康の関東転封が無ければ上杉の会津転封も無さそうな気がする
蒲生秀郷死後に会津入るのは誰かは分からないけど、たぶん縁者で甲斐国主の浅野あたりのような >>75
シエの息子の家光が将軍になり、その系統が7代目まで続いたんだから、望みは叶ったとも言える。 >>60
その辺は流動的だから何とも?
敵対する家筋だから政略結婚って下手すると相手の家に吸収されるんよね。
ハプスブルク家なんて、ハンガリー王家と縁組したら相手が断絶してハンガリーの王冠がね。
百年戦争の原因だって、以前の和約でフランス王女がイングランド王に嫁いだってのが原因だし。
つまり、現フランス王は分家の傍系、本家の外孫がイングランド王って形。
もし、秀忠の系統が断絶すれば逆に徳川を吸収出来る可能性も? >>60
この件もそうだし、関八州250石も与えてしまったこともそうだし、他の大名連中を朝鮮に出兵させて
疲弊させたうえに、家康だけ関東で太らせた件もそうだが、なんか秀吉のやったことって、家康にどうぞ
豊臣の天下を奪ってくださいっていってるの同じとしか思えないんだよなあ… 秀次事件で、関白左大臣欠員、右大臣晴季も連座、そこに家康を内大臣に昇進というのも、秀吉は家康リリーフを考えてたとしか思えない。
疑似公家政権である豊臣政権では、大臣人事は最重要事項だよね。 家康の関東移封についてはあの時点では最善手だぞ
・旧主筋で何かと目障りな信雄から領地を奪う
・家康を結びつきの強い土地から追い出して恩顧武将を東海道に配置
この二点に成功したことだけでもだけでも十分意味がある
さらに九州征伐以前から唐入りが念頭にあった秀吉にとっては家康に東国監視の役目を負わせたのも大きい
唐入り自体成功させる気だったんだから家康を手柄を立てる機会から遠ざけることにもなる
その辺が全部裏目になったのは秀次事件と秀吉の寿命が秀頼の成長を待たずに尽きたからこと >>80
現実問題として関東は大大名の配置が必要だった土地だよ
広範囲に渡る治水事業や河川の付け替えなど
小大名じゃ不可能な公共事業が急務だったわけだし そもそも250万石全部徳川領じゃないからな
組下に配置された与力大名や別家扱いの秀康とか含めての数字だし
秀吉の肝いりで10万石与えられてた本田・井伊・榊原は事実上の独立領主扱いやし
機があればそこらへんを完全に独立させて徳川の領地削っただろう
秀吉の頭が乾煎りでいっぱいだったからやらなかっただけで >>80
唐入り失敗前提っておかしいだろ。
秀吉からすりゃ唐入り成功前提での転封と国内待機組。 >>86
確かに文禄の役は成功前提でやった。
しかし、思ったほど成果が上がらないばかりか、病死で死屍累々の状態と
なった。実際に秀次は浅野幸長から惨状を聞いて、朝鮮出兵を止めさせ
ようとして悲劇となった。秀次は妻子ともども皆殺しとなり、浅野幸長、
菊亭晴季は配流、池田輝政は永蟄居となった。(池田は処刑される予定
だったが、家康の助命嘆願で辛うじて命拾いした)
慶長の役は、秀吉が完全に裸の王様状態だった。もう誰も成功するとは
思っていなかったが、暴君秀吉が怖かっただけ。秀次一党みたいになりたく
ないからね。 ついでに言うと、慶長は浅野幸長ら秀次一党の穴がデカかったと
言われている。浅野幸長は文禄で結構功績をあげてたからね。
で、慶長の間は能登で幽閉。 >>87
どっかで聞いた話で秀吉死後、家康が朝鮮出兵を
行おうとしてたみたい。
どう言う意図があったか知らないが関ヶ原で
中止になったらしい。 >>87
秀吉からしても無謀な慶長だとしたら
豊臣家(秀頼)にとって都合悪い秀次一派や家康を出兵させるだろ。
秀吉からすりゃ勝つ前提じゃ無きゃ辻褄合わないって。 慶長はもう乾煎り自体は無理ゲーってわかってるから
半島の南部だけでも掠め取る目的だったんでそれこそ子飼い以外には行かせたくないだろう
家康ほかに下手に手柄立てられると厄介だから
手柄立てそうになった秀秋はボロッくそにこき下ろされたし 鼻をそぐとかやったのが慶長の役だよね
よくもこの太閤を欺いたな、許さんっていう怒りの戦い
この件は三成より小西行長が悪いらしい で、兵站破綻して引き上げまで苦労させられては子飼いの連中も豊臣をみかぎるわな さっさと日本統一して大陸出兵したかったんだろう。じゃないと家康のこの厚待遇がうなずけない >>94
三成も加担してるから同罪だろう。
だいたい、朝鮮での軍政担当が福原はじめ、三成に近い奴らばっかりだし。 >>98
そうか?どっちつかずなイメージがあるわ
まあ場所的にしかたないかもしれんが。 いっそのこと徳川にルソンでも攻めさせ
力を削ぐとか
それぐらいしないと秀吉没後の家康を
止めさせられないかな 出兵組がみんな数千万石になる中、徳川だけ二百万のまんま据え置きでザコ化する展開もありえた >>101
文禄の前は実際にそのような甘い夢を見ていた。
唯一、厳しい予想をして朝鮮出兵をやめさせようとしたのが千利休。
その結末はご存知の通り。
で、実際に出兵して、確かに戦争では勝つものの、疫病で将兵が
大勢死んでボロボロになった。その状況を秀次が得て、池田輝政、
木村重これ、前野長康と図って朝鮮出兵を辞めさせようとして、
秀次、木村、前野は妻子とともに皆殺し。池田もそうなる運命だったが
義父の家康の必死の助命嘆願で命だけは助かっている。 結果的に池田輝政を生かしたのは大失敗。関が原後、秀頼の隣国の
姫路に置かれて、秀頼に嫌がらせの限りを尽くしている。
石田三成、増田長盛の言う通り、家康は無視して池田輝政は督姫もろとも
族滅すべきだったね。 >>103
池田輝政を族滅したら、徳川家康に挙兵の大義名分を与える。李氏朝鮮で戦いながら、徳川家康と戦うなんて片手間でできるわけないと思うが。 会津には上杉、東海甲信越には親豊臣の大名がいますぜ >>107
当時の会津は蒲生秀行だよ。上杉景勝に代わったのは1598年正月。しかも秀行は家康の娘婿で、秀吉が家督相続直後に幼児を理由に減封しようとしたのを秀次が所領安堵して継がせようとしたから秀次に近い。
東海道筋のうち、山内、堀尾、中村、池田とかはみんな旧秀次派。南信濃松本は旧徳川の石川、甲斐の浅野は幸長が秀次派で処罰され、北信濃仙石は親徳川。
尾張の福島や近江の石田らは全員、秀次失脚で空いた領地に入った新規組で所領に見合った体制が1595年当時に築けていたのかかなり疑問。
大義名分与えたらヤバイと思う。族滅するなら家康の次女、督姫もやることになるし。 関東転封せずに領地据え置きなら史実みたいな他の大老の倍以上という圧倒的石高にはならない
関東に行かなければ関東武士団の吸収も無い
家臣団を本領から切り離せず近世大名化も不可能
転封を理由に回避できた朝鮮出陣も行かされるかも
ぶっちゃけ統治失敗を責められての改易さえ回避できれば家康にはいいことばかりだった >>106
それこそ石田三成、増田長盛の思う壺。
石田三成は秀次事件でグランドデザインを描いていた。
徳川家康を連座させ上野など一部領土を剥奪し、上野に大谷吉継を配備し、
更に、中村一氏(秀次事件で改易)、山内一豊(同改易)、堀尾吉晴(同改易)、
池田輝政(族滅)、田中吉政(族滅)の後を継ぎ自ら三河、遠江、駿河を領有し、
家康の抑えとなるつもりだった。
この上で、家康が挙兵しても、上杉景勝、佐竹義重、石田三成、大谷吉継、
及び動員された全国大名にフルボッコされるだけで、むしろ憂いが取り除かれ
万々歳となるだけだ。 ただでさえ秀次虐殺に朝鮮出兵で民心離れてる状態に
そんな無茶な事したら上杉や毛利だって離れる可能性高いぞ
明日は我が身なんだから >>106
秀吉の命令になるのだから挙兵の大義名分になる訳無いだろ。 秀吉は小牧長久手の敗戦を死人に口なしで池田恒興のせいにしてるんだよね
自業自得か 守将をフォローしきれない後詰めにも当然責任あるというか、むしろ秀吉が無責任なだけなんだけどな
森が突出しすぎた、ってのもあるが部下の責任にして責任のがれをするバカどもってイメージ >>115
小牧長久手は秀吉の勝ちだろ。
家康は野戦で勝って何を得たんだ?
てか野戦で勝ったのに御輿奪われ何の益も無い和議って戦略的には家康完敗じゃね。 >>117
信雄も家康も倒せていないで勝ったもなにもないもんだw >>117
は? 君は勉強しようね。
天下人がわずか5ヶ国の大名に母親と実妹を人質に差し出すなんて聞いたことがないよ。どこの歴史見ても。 公の天下を取るは、大坂にあらずして関ヶ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり。 >>118,119
野戦に勝って何を得たか具体的に述べてくれよ。
それに形式的には人質みたいだが小牧長久手の後で家康が秀吉に服属したんだけどw
戦いの後服属させられた方が勝ちって支離滅裂だわ。 >>121
何を得たか。
そうだね。圧倒的に兵力数で劣りながら、天下人に引けを取らなかった東海一の弓取り、と言ったところかね。
つまり、物質的には得るものはないが、人望とか勢威においてはあるいは軍事的な手腕においては、秀吉に引けを取らなかった名将、という地位を手に入れた、というところかな。
秀吉が服従後も家康に凄く気を使っていることからもわかるでしょそれは。石高だけでなく、官位は内大臣で秀吉に次ぐナンバー2、政権内では首席大老。
家康はあの戦いで勝利したことで、将来的な資本を手に入れた。 >>121
逆に秀吉も討伐にでて被害甚大、それで相手は殺せないとか勝ったとはいえない
あげく秀吉の寿命がつきるまで両者を厚遇せざるを得なくなってるあたりどんだけつけこまれてるんだよと。 >>122
小牧長久手前には秀吉と家康には序列は無かったんだぞ。
そして小牧長久手後に秀吉に服属する家康という序列になりました。
これで家康の勝ちってあり得ないわ。 >>124
まあ和議を結んでいるので痛み分け、がせいぜいではあるがな
ただ日本国内に武威をしめして服属させないといけない秀吉からすれば大きくケチのついた話
徳川自体弱いと西国の武家になめられていたのにそんな徳川をおとせなかった豊臣なぞと面従腹背の元となったわな >>125
織田家番頭に過ぎない秀吉と織田家と同盟してた家康が
小牧長久手後に番頭に服属しました。
同盟から服属で痛み分けってどういう理屈だよ。 家康は、小牧長久手の結果、自分を高く売ることに成功した。
あれがなかったら、甲斐、信濃あたりは難癖付けられて召し上げられたんじゃないの。 >>126
政治的な配慮が、わからないのかなあ。
仮に長久手で徳川家康が大敗して秀吉に降伏したらどうなる?
当時の秀吉はまだ政権をようやく掌握したばかりで基盤は脆弱だから、家康を処断するはない。
ただし、領国は削るだろうな。結果、徳川家は豊臣政権内でも中堅の大名として組み込まれ、大老になるなんて無理。政権内では下部に位置する外様の平大名。
勝利して自分の強さを示した上で服従してナンバー2の地位を確保するのと、敗れて失って下部に甘んじるのと、どちらがいいの? 同盟相手の信雄が勝手に秀吉に降ったもんだから大義名分がなくなって軍をひいたんで
小牧終了時点では軍事的に秀吉が家康を降したとは言えないな、家康の領国は無事だったし
秀吉は徳川再征伐の準備をしていたらしくこれが実施されていればさすがに家康も
城下の盟いをすることになっただろうけど、大地震が起きてそれどころでなくなり
妹を娶せ実母を人質にしてまで上洛を要請する譲歩をせざるを得なくなった
ここまでされた敵対大名は家康以外におらず、家康も外交的引き際を心得て
すんなり上洛、秀吉にそれ以上つけ入られる隙を与えず局地的だが秀吉軍の
有力武将を討ち取る快勝を唯一記録した大名という名誉を保ちつつ
ある意味特別な客分とも言うべき地位(秀吉に手厚く要請されたという意味で)で
豊臣政権に参加しその後五大老筆頭政務執行者に繋がる地歩を築いた
ということで短期的に見れば秀吉の外交的勝利(それも家康に譲歩してかなりの
ものを与えた)だが、長期的には家康の存在を天下に重からしめることにもなった >>127
小牧長久手前は独立した大名の家康から誰がどう召し上げるんだよ。
その独立してた家康が小牧長久手後に秀吉に服属しましたが史実。
独立から服属で勝ちとか痛み分けってどうかしてるわ。 >>128
家康は負けを最小限に抑えたんだろ。
だから負けたって言ってんだよ。
てか信雄さえ手元に置けば勝ちを野戦に負けた後でも実行出来た秀吉が一枚も二枚も上手だっただけだろ。 >>130
はい?
それなら長曾我部元親、島津義久はどうなりましたか? 秀吉に征伐される前は独立した大名でしたが、征伐され敗れて、所領を没収されていますけど。
貴方のいう勝利とは、どういう意味での勝利ですか? >>131
朝廷を当時抑えているのは秀吉。
いざとなれば勅命講和というカードも使えるんだから、手の内が秀吉に多いのは当たり前かと思いますが。 >>131
秀吉相手に負けを最小限に押さえるのがどれだけ大変かと言うことだね。
北条は家康と同じ待遇を求めてごねたんじゃないかという話もあるが、結果は見ての通り。 家康は北条相手でも寡兵で講和に持ち込んでる
今川・武田・北条と常に大国と戦ってきたからそういう経験値が違う
さすがに小田原並の多方面同時侵攻されたら東海五ヵ国なんか消し飛んだだろうけど >>126
家康が問題外なら、それなら信雄すら殺せてない、で秀吉の目的達成できなさぶりで負け同然ってことでおしまい >>130
服属っていってもそれからしばらく秀吉さん頭さげまくり人質だしまくりで家康さんなんとかひとつお願いしますとやってただけなんだがww
天下の泰平を理解して家康が従ったにすぎないわけで。 >>126
当時の人が、織田と徳川の同盟を対等と見てたかは疑問だと思うなあ?
娘を嫁がせて中立的勢力を取り込むは、徳川も奥平に対してやってるし。
それと、織田徳川の境目近辺に所領を持ってた水野一族は、両属みたいな奇妙な立場なんだよね?
もし、完全に対等ならおかしな話だしさ?
当時の認識では、織田の傘下に水野と徳川と言う従属大名が有るって認識じゃないかなあ?
だから、織田の家老と従属大名にそんな身分差有るのかな? まあフツーに徳川は織田の下風におかれてたわな
それはまあ仕方ない
武田も北条もいるところに緩衝材としておかれた徳川が織田に頼る面はあってもしかたない >>132
戦闘で負けたからだろw
小牧長久手(戦闘)前にどうやって所領取るんだ?
そして戦闘には勝ったけど結果は独立(同盟)から服属って完璧な負けじゃねえか。 信康事件あたりから徳川は織田に従属って感じじゃないかな >>142
最初から同盟とは名ばかりの従属だよ
一応織田としては武田北条への牽制として徳川があってほしいから同盟だけど、弱小徳川としては織田という後詰めあっての独立なので織田がないと成り立たない
織田が役にたたないなら武田と同様の関係をもつだけだったわけで徳川はかなり微妙な立場だった >>141
服属してから時期を待って覇権を掴んだ例はいくらでもあるけど、貴方は何が言いたいのかな? そもそも家康が服属したのは、天下人が自分の実母まで人質にどうぞ、と言って差し出したのに、これで拒否したら今度は家康の度量が問われる番になるのがわからないのかな? >>143
最初は名ばかりと違うよ。
徳川家康は武田信玄に遠州分割でコケにされた際、自分から武田信玄との同盟を破棄して上杉謙信と同盟を結んでいる。さらに、織田信長にも武田信玄との同盟を破棄して対抗しようと呼びかけている。
少なくとも当初は対等だった。 >>145
今川が徳川に攻め手をむけた時点で織田有利の同盟だったと思う
基本的に徳川は弱小すぎる >>146
武田信玄相手にあの国力で耐えている時点で大したもの。 >>145
毛利と三村みたいな関係じゃあ無いかな?
元々毛利は安芸の北東部に領地を持つ国人で対等に近い感じで安芸備後の国人の同盟の
盟主に成っただけだし。
その時東隣の備中の三村とも同盟を結んだ。
でも、その後毛利は周防長門と大内の旧領を併合し、返す刀で石見、出雲、伯耆って尼子も
滅ぼしたんで、何時のまにか毛利の家臣みたいな立場に。
そして、毛利が三村の頭越しに宇喜多を傘下に入れたんで挙兵して滅ぼされる。
三村と宇喜多は宿敵で、例えるなら徳川の頭越しに織田が武田の臣従を認めたみたいな物。 >>145
当初の頃を語るのに十数年後の外交状況を持ち出すのはどうなの?
遠州分割をめぐっての対立では、武田の書状に徳川は「織田の手先を号し」とあるから、
その頃にはもう弱い立場になってるんじゃないかな 小牧・長久手は家康は戦術勝利をおさめたが戦略的にはボロ負けだろ
同盟相手は切り崩されるわ重心の石川はヘッドハンティングされるわで散々
秀吉の妹なんか娶らされるのもある種、屈辱だったろうね
基本的に政略結婚なんてもんは嫁を出す側の方が格上もらう方が格下だし
妹と母親を人質に取ったぞとかドヤ顔してる奴は見当違いなこと言ってる だから後年の千姫を秀頼の嫁にくれって頼んだのは秀吉の方が家康に屈したともいえる
もう天下のことは家康にあげるから秀頼の命だけはって意味の泣き落とし
そこんとこの呼吸がわかってないやつがハッちゃけた性で意味なかったけど >>134
家康は濃尾地震と同等以上と言われる天正地震にも救われたからな
国力差では負け必至だったけど天下を取れる人間は
運も持ってると言う好例 >>150
あの国力でそこまでやらせた徳川家康の凄さがわからないものかね? 普通なら戦略戦術共にぼろ負けしていておかしくないのに。
徳川家康は武田勝頼にならず、劉秀や慕容垂の道を歩んだだけでも凄いといいたい。
あんたがいう徳川家康の戦略的勝利とは、どんなことを言うのかな? 武田と徳川ってもうお互い不倶戴天の敵になっちまったよな。けど、武田が滅んだ時に家康は寂しかったんじゃないかな。長年の宿敵がいなくなって。 >>153
つうか、本当に危ない橋だよなあ?
小牧長久手の時は、背後の北条との同盟だけじゃあ無くて、雑賀衆や長曾我部や佐々と同盟してた
しね。
単独講和で見捨てる形に成ってるし。
九州征伐の後位に、徳川に言い掛かりでもおかしく無いんよね。
兎も角野戦で勝利の看板は大きいし。 あらためて徳川に難癖つけるとその他大勢が徳川につく可能性もあるからな >>153
それ小牧長久手で家康は負けてない
って言ってるヤツが明らかにする事だぞ。 結果論的にも、徳川が秀吉に負けてない実績だよな
小牧長久手の戦
局長戦とはいうものの、その後の豊臣の攻めての弱さ、といい結局徳川頼みの政策といい、豊臣は完全に徳川にきゃんといって腹をさらした結果しかない
豊臣は徳川に助けられて一時期政権をになえただけで徳川の世になるのも自明の理だったわな >>158
服属しましたで負けてないってどんな理屈だよ。
転封を命じる者と命じられる者になった戦いどちらが勝ちですかw 外交や政治を勝ちか負けかの1ビット判断で
評価しようとするのはちょっと単純に過ぎると思う >>159
戦いの結果服属したんじゃなくて、戦いの後に妹や母やら出して官職も与えた結果服属したんだよ
小牧長久手でケチのつけられない勝利を秀吉がしてれば、母も妹も官職も与える必要もなかった、どころか徳川減封だって出来た
ケチのつけられない勝利を秀吉がした島津北条奥州の仕置みてみ 大政所を人質に差し出された時点で臣従上洛しなければ、徳川家康は天下にその狭量を問われて滅亡していただろうな。あの時点での服従は妥当だよ。 >>162
それだよな
小牧長久手の後も別に家康は臣下の礼をとらなかった
ただし秀吉が今後さらに力をつけるのは明白、いつまでも反目していてもいずれはやばいことになる
秀吉も力攻めで時間をかけてはいずれ徳川以外が蜂起するかもしれないから懐柔するしかない
お互いに利害が一致したからこその結果だよなあ ぶっちゃけ家康の勝因は寿命の一言に尽きる
秀吉の方が長生きしてたら徳川は適当に解体させられてたわ
本多、井伊、榊原→大友配下の立花よろしく独立大名化
家康の遺領→秀康、秀忠、忠吉にそれぞれ分割相続
ってな感じで >>164
普通に臣下の礼とってますけど
つうか家康が天下取った一番の大義名分が豊臣第一の家臣なんですけど 普通にってwww秀吉頭さげまくりでようやくとったお義理の話なのにな 秀吉の北条討伐で領民は上方(大坂)に恨み持ってたから(農民武士ともに)
そんなところの領主に据えりゃいつかそいつら引き連れて
復讐にくるなんてわかりきってる。
脅威を取り除くために家康を遠ざけたというのはないだろう。 >>168
だから、そういう面倒な地を家康に押し付けるという目的もあった。
一揆なんて起こしてもらったら、減俸できるしね。
あと、家康を封印する目的もね。箱根を封じてしまえばかなり守りやすいし、
その上駿府(静岡)に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、吉田(豊橋)
に池田輝政、岡崎に田中吉政といった信頼がおける譜代を置いている。いずれも
家康を警戒してのことだ。
で、この防衛線を破壊したのは秀吉自身。1594年に家康=輝政を結びつける
あらゆる意味で狂気の沙汰としか思えないあり得ない縁組を行った。更に翌年には
秀次事件で、上記の5大名(すべてが秀次派)を全て領土をそのままで処罰した
ため、憎しみと恨みのみを残し、防衛線を無意味なものにした。 >>171
池田輝政は豊臣秀次の義兄(正室の兄)で秀次のナンバーツー。
豊臣家の重鎮で一門扱い。(秀次事件で一門待遇は剥奪されたけど) 池田は意外と地元人気ある大物らしいな
ソースは歴史街道
真偽はしらん >>173
若い頃は期待された。事実、豊臣秀次をナンバーツーとして補佐し、
政務軍事を問題なく支えた。
ただ、秀次事件に連座し一線から排除されたからな。
力を発揮することなく死んでいったことは無念だっただろうね。 織田政権下:恒興が信長の乳兄弟、準一門待遇
豊臣政権下:輝政が秀次の義兄、準一門待遇&大大名
徳川政権下:輝政が家康の娘婿、準一門待遇&大大名+分家も大名
考えてみると池田家スゲー >>176
信長存命時はそれほどでもないけどね
池田や丹羽が宿老クラスになったのは清須会議以降
勝ち馬の秀吉に乗ったおかげ
それ以前は秀吉や光秀といった軍団長クラスよりは一段格下 信長にも買われてたよ池田
もちろん光秀秀吉柴田丹羽あたりとはレベルが違うが。 あのころの関東のめんどくささって頼朝どころか平将門のころからの名家がごろごろいる上に、将門公や承久の乱以来のアンチ京都感情(豊臣政権は天皇権威を背景にしている)がある。
さらに反乱の神輿として足利の名を継ぐ旧八屋形みたいなのがいる。しかも、近隣の東北は津軽と南部、浅利氏に伊達や最上と問題児がたくさん。
というか常陸の佐竹だってスターリン級の大粛清をやっていることを考えれば関東だって不安定さがある。
一番調子のいい時の秀吉が、徳川家康という天下人クラスの人財でないと関東を治められないと判断したんだから、その判断は尊重したほうがいいかと。
家康なき関東と東北がどれだけ安定しているのか。
しかも唐入りをやっているということは「背後からの一突き」を関東からされかねないということ。
それに、史実では東海地方に領土を渡した豊臣恩顧の奉行衆にはどうやって行政実務の財源をやるのか。(街道の整備すら怪しい時代には税を輸送するだけでも大変)
関東をだれに統治させるにせよ、足利義昭擁立の戦で三河から尾張美濃近江を経て畿内へ進軍した経験ならやってる。
関東から畿内にいくよりも三河から畿内に行く方が近いんだから。関ヶ原の戦いで西軍がさらに不利になる可能性だってあるぞ。
>>165
どの時点での寿命かはわからんが必ずしも長生きできていればというのは違うと思う。
輝元や景勝よりも長生きしないと、下手に徳川家康遺領を分割相続をさせたら毛利と上杉が反乱を起こしかねない。
例えば清朝初期の三藩の乱の事例だってある。豊臣政権が室町幕府以上に大大名の連立政権色の強いことを無視できない。
大友から立花を独立させたことは大友家が事実上滅亡していたことを前提にしないと。 秀吉死後石田三成と福島正則が太閤の遺命であるとして
毛利輝元に分割(本家70万石と穂井田系譜の秀元50万で)迫り輝元も前向きだったのに
毛利秀元と家康で図って阻止したんじゃなかったか あれは輝元に実子できたから秀元に分地して独立させたいという毛利側の要望を
家康他が認可しただけだぞ 家康より上杉景勝が怒ったろう。
自分は賤ヶ岳のころから付き従ってるのに
小牧長久手まで反抗してた栄康が
なぜそんな厚遇されるのかと。
しかも関東はもともと関東管領上杉氏の領土で
自分が本来治めるべき土地と。
その後は僅かな加増で会津に飛ばされるわ
秀吉存命中は抑えてたが
秀吉死後一機に不満が爆発したってところだろう。
つまり最初から上杉氏を関東に移しとけば
上杉氏は大満足で
関ケ原は起こらなかった 上杉の越後から会津移転は、55万石から120万石への加増ともいわれるが、内陸部の領有になったことに不満がなかっただろうか >>184
倍増程度ならどこに移されても不満はあっただろうな
ましてや越後は石高以上に実入りはいいはず >>183
しかし、上杉氏の関東移封となると越後を放棄することにならんか?
越後と関東のどっちをとるかという話になりそうだし。 上野・武蔵で120万石か伊豆・相模・武蔵で100万石くらいでいいのじゃない
後者は石高は低いが小田原城付き >>185
やっぱ不満があったと思います。飛び地でしたからそれが最上氏討伐(失敗)に繋がる 佐渡はともかく庄内を飛び地で残したのはわけわからんな
村上義明の領地も与えとけばよかったのに 唐入りで忙しかったから東北の領地を適当に与えたとかそんなんじゃないの。
例えは悪いけど、信長の野望で最後に残った僻地を超適当にプレイして
好き勝手に領地配分したような、そんな感じ。 会津若松は東国の旗頭をめぐり徳川家康と権益が抵触する地であり、そう適当に領国配分を決定できるものとも思えない。
家康よりかは役者は劣るが、堀秀政、蒲生氏郷らが封じられた、封じられようとした地である >>192
ああいや、そこじゃなくてさ。
飛び地なんかわざわざ与えた理由の方の話。
秀吉にそこまで深い理由があったとも思えないって事。 惣無事令が出たものの秀吉が小田原攻めを始める前のどさくさ紛れに攻め取った土地だとは聞いたな。上杉は、大宝寺氏以来、長年狙っていたらしい。荘内を 関東仕置では扱いに注意すべき信雄ですらあの始末だし
秀吉が上杉に気を使ってやらないといけない理由がないから
ただ単に大大名である上杉に足枷をはめただけでは 上杉は会津転封の際農民は一人たりとも連れてってはいかんと
秀吉に命令されてたらしい。
そりゃ怒るわな >>193
わざわざ与えたじゃなくて深く考えずに残したって感じかな
上杉としては海運とか佐渡への渡航とか価値はあったのだろうけど
意図してやったのじゃなければ国替えパズルの結果か 会津転封さえなければ加賀征伐時点で上杉・前田同盟とかありえたのに
越後からの関東侵攻も慣れてるし >>184
実質的には減俸だよ
会津は表高に対して実高低いから百万石もあったか怪しい
先祖伝来の越後奪われて領国経営一からやり直し
元々、伊達や蒲生の領地だったから領内に当然そいつらのシンパも多く
下手すりゃ工作されほうだい
実入りの多い庄内・佐渡が飛び地になったので最上を併呑しないことには死に地
120万石といわれた上杉も実際の国力は70万石もあったか怪しいレベル >>184
55万石程度じゃねえよ
移封前の上杉は越後・佐渡・庄内・川中島で90万石相当
そこから越後と川中島で60万石近く削られた代わりに会津の90万石足して120万石だけど
増えた90万石のうち半分近くが伊達の先祖伝来の領地でやろうと思えば伊達が工作し放題
残りの半分が伊達に荒らされ、蒲生が内輪もめで乱れに乱れた会津とかいう×ゲーム >>200
秀吉と直接のコネクションがあったか否かの差
早いうちから先行投資かけた毛利と勝ち馬に乗っただけの上杉じゃそりゃ違う
本能寺時点で毛利はまだ余力あったのに対して上杉はもう三か月遅かったら武田と同じ運命辿ってた 秀吉政権は強力な大名家は加増転封の体で先祖代々の土地から引き剥がしたり
有力家臣を直臣扱いして主家との間に軋轢を生じさせたりして勢力削減しようとしているから
毛利も小早川は秀秋の代で縁が切れたし吉川は秀元の相続問題で割を食わされそうになったりしてるから
秀包と恵瓊の分を足しても下手したら赤字じゃないかな >>200
毛利、優遇なんかされてないと思うがな。
豊臣政権に対する貢献を考えたら、秀吉死後の政治体制を徳川・前田の二頭体制ではなく
徳川・毛利・前田の三頭体制にしてもいい位だろう。官位ももっと高くていい。
ところが実際は上杉や宇喜多と同格扱いだ。まあ宇喜多は秀吉との関係を考えればともかく
(とはいえ、かつての直家と毛利の関係を考えれば毛利の家臣団は秀家と輝元が同格なのは不満だったろうが)
上杉と同格なのはちょっとなあ。 官位は毛利が冷遇されてるよね
宇喜多と上杉は宰相中将→中納言だが、毛利は中将を兼任せず昇進も後
秀次失脚後は前田の家格が上昇し追い抜かれるし 領地は大名家に対して与えられるものだけど
官位は大名に対して与えられるものだから
輝元が他の大名ほど優秀ではなかったのでは >>205
そもそも秀吉政権って織田政権の後継だから
織田時代からの有力者が優遇されるのは自然
織田時代の敵だった上杉・毛利は大領は安堵されても政治の中枢には
まず入り込めない枠組み
徳川政権下の外様の大大名と似たような扱い 秀吉存命中の昇進ルート
中将→権中納言
秀頼
参議兼中将→権中納言
秀次
秀長、秀保
秀忠
秀家
景勝
参議→権中納言
秀俊
輝元
隆景
利家、利勝
秀信 毛利は隆景と大老2人出してるように優遇されてないってことはないかと
上杉なんか隆景の後任で大老に滑り込めたわけだし
ただ信頼の対象は隆景だった感は否めないね 小早川隆景の厚遇は本人の能力もさることながら秀秋の養子入りも大きな要因の一つだから
豊臣家による有力家臣の取り込みという側面もあるわけでこの辺をどう評価するかで分かれるんじゃない
個人的には隆景の死後に秀秋が関ヶ原で果たした役割まで含めて考えるとマイナスといったところ >>214
秀秋養子以前から隆景は厚遇されてると思うが
むしろ隆景だから秀秋を強奪して毛利を救えた
他の奴が同じことしようとしたら秀吉の怒りを買って自分の改易は濃厚 本家も危ない >>215
そりゃ隆景は秀吉に器量を評価されて厚遇されているけど
小早川の家格が上がって大老入りしたのは秀秋の養子入りの後だからね
秀秋を毛利の養子にしない為に輝元の実子誕生を待たずに秀元を養子にしたことが
後に吉川も巻き込んだ相続問題につながって家中不和の火種になり
小早川家自体は秀秋の代で毛利とは縁が切れて独立されているから
>>212の言うような輝元だけではなく隆景も大老であること=毛利の優遇という図式にはならず
むしろ勢力削減されたんじゃないかという話 散々豊臣政権に尽くしたのに、領地は大して増えず、小早川を乗っ取られ、
唐入りでの恩賞も手に入らず、扱いはただの平大老、おまけに周りの評価は隆景のオマケ扱いか。
こんなの輝元がぶち切れて当たり前だと思う。
関ヶ原の時の毛利ってどう見ても自領拡大の動きがメインになってるせいで、別スレだと
もっとやる気出せだの何だの散々な言われようだけどこんな扱いされて何が豊臣御為だと思うわ。
だったらもっと毛利が感謝したくなるような待遇しろって話だ。
それと個人的な意見だが、輝元を隆景の付属品みたいな扱いする人結構いるけど、
隆景って輝元をそういう扱いするのを凄く嫌がりそうな気がする。 >>216
秀秋養子入り前に大老という制度は存在しない 大老制度はその翌年から >>218
その位分かってるよ
>>212が小早川の大老入りが毛利優遇の証だといってるから触れたわけだが
そもそも秀秋の養子入りが毛利の乗っ取りを視野に入れた話なんだから
隆景が自分の養子にすることでダメージコントロールしたところで毛利の優遇にはならないでしょ >>219
隆景が秀秋の件だけで大老になったってならそうだろうね 景勝は隆景の後任って話は何が元なんだろうね?
清華成=大老なら景勝は後任ではないし
御掟に連署した大名が大老なら隆景存命中は6人だ
その後で隆景が亡くなって秀吉の遺言にある五人の衆が五大老と呼ばれるようになったんだろ?
隆景死去後に追加されるべきは秀秋だろ
失脚してたから五人の衆に含まれなかったんだろうけどな >>217
小早川は独立大名だから乗っ取られようが毛利本体へのダメージはない。
むしろ毛利本体に秀秋が送り込まれそうになったのを
小早川隆景が機転を利かせて秀秋を引き取り
毛利本体を守った。 実際は秀秋の養子入り以前から毛利の跡目に関しちゃ秀元が秀吉の承認受けてるんで
隆景が盾になった云々はただの俗説だぞ
むしろ秀頼の対抗馬として邪魔な秀俊の引き取り先を自分から名乗りでることで恩を売った形 >>223
小早川が独立大名になろうが毛利の従属大名ならダメージは無いが乗っ取られて従属関係が無くなったらダメージがあるだろ
毛利勢力にしてみれば事実上50万石の減封 これが関が原にも響いたわけだし まあ吉川も内通してたけど 秀吉の視点でものを考えると秀秋おくりこんで毛利乗っ取りはあり得ない。
なぜならこの当時、秀秋は秀次に次いで秀吉のお拾いのためにぶっ殺したい奴リスト上位に来てる。
そんな奴が大国毛利の後釜に座ったら自分が死んだ後に毛利が秀秋旗頭にして秀頼倒しに動くのが目に見える。
秀吉がもう数年、長生きしてたら秀秋はなんやかんや理由付けて秀次同様に殺されただろうね。 表高で120万石、実高で200万石以上はあろうかという毛利のトップに秀秋がついちゃったら
そらもう秀頼の強力すぎる対抗馬ですわ 秀次殺しただけじゃ足りなくなる
そう考えると秀吉の家康偏重、毛利スルーは毛利が万が一でも
一門当主の秀秋を神輿に担がないようにするための保険だったのかもなあ 今までの貢献ゆえに大封を与えてるけど輝元の器量的に頼るに値しないと思われてたのかも
秀吉がもっと長生きしてたら織田信雄家や丹羽家のように改易・大封もありえたかも
まあ晩年の秀吉は外様対策より一門対策と朝鮮出陣に目が行ってたわけだけど 器量重視で領土を与えるってのはある程度で本来は自重すべきなんだけどね。
何故なら配下からみた場合、自分の領地や利益が後継者に受け継がれるとは限らないのなら、
その政権に従う理由は何?って話になってしまうから。後継者が必ず有能であるとは限らないからな。
有害ならともかく、無能や凡君程度なら領地や利益、役職なんかは先代からの地位を保証した方が
その政権に対して忠誠を持ちやすいのだがなあ。もちろんやりすぎると組織の硬直化や腐敗を招くけど。 だから蒲生の一件じゃ家康他が秀次と一緒になって猛反対したんで一度は思いとどまった
けど蒲生の家臣たちが散々やらかすものだから結局は改易 江戸幕府も要地任せる譜代大名は新当主が幼少だと国替えしまくったけどな >>233
譜代ならまあいいんだよ。少々厳しい扱いでも。(限度はあるが)
元々その御家に仕えるのが当たり前って認識になりやすいから。
けれど豊臣政権の場合、そもそも譜代なんている訳ないんだからまず
『この政権を維持し、主家を守るのが当然なのだ』って意識を植え付けるところから始めないと。
そうしないと『弱くなったんならもうこいつら支えても先がないし、別の強い奴に従ったろ』ってなっちゃう。
だから少々物足りなくても甘く裁定をしてやったりする事で『そこまで我らを評価してくれるのなら…』
って思わせるのが肝要だと思う。 丹羽長重や蒲生秀行の大減封、これは秀吉死後、秀頼ではなく、器量のあるものが天下を引き継げる、ということにつき黙示の承認を与えてしまったわけか。 >>235
それ以前に織田秀信という最たる例があるしな >>236
それもあるが、決定的なのはやはり秀次事件。秀次は一応家督を継承して関白に就任している。
勿論実際の権力は秀吉>秀次ではあるし、秀頼に何としても家督を継がせたいのなら秀次処分も選択肢ではある。
だが、これは同時に器量を重視するというルールが豊臣家当主にさえも適用されるという事だ。
つまり、豊臣家の当主が幼少&器量なしであった場合……。 秀吉の失敗は相応の年齢じゃなきゃなれない関白職を選んでしまったこと
将軍なら幼年時に就任してもいくらでも前例あるからねえ
基本年功序列な官位制度を武家に組み込むとどうしたって年長者が格上になる
臣下である家康他の方が無位無官の秀頼より格上になるという
まあ、秀吉が関白についた当時は後になって実子が生まれるとかそういうの考えてなかったんだろうけど
あと将軍は歴代の室町将軍があまりに情けなさ過ぎて株価がストップ安なのを嫌ったのもあると思う
信長に追放された征夷大将軍では信長より上に立ったことを示せないからねえ
信長の方が室町将軍より官位上だったし 徳川270年の最後を見ても、有能無能を問わずに領地を与えても、結果はあんまり変わらないって気がするがな
人間なんて一旦不利になったら誰もアテにはできんよ。誰もが弱者を見捨てる理由を探しだすもんさ 江戸はそれでも250年以上続いたからな。
ありゃ制度疲労と組織の腐敗、及び組織の硬直化がだいぶ進んでたしね。
あれだけ続いたなら組織としては合格点でしょ。終わり方もそこまで悲惨じゃないし。
少なくとも、半世紀すら政権を維持できず、末路も哀れな豊臣政権と一緒にしちゃいかんよ。 織田家の重臣が本能寺以後の内乱で相次いで死んで当主代わりして
秀吉としては格上の存在が消えてやりやすくなったと思うが
織田の家臣扱いされてた徳川が勢力を広げて残ったの扱いが面倒そう
天下人一歩手前とはいえ今までの関係性が完全にリセットされたわけじゃないし >>240
つまり恩だなんだと言ったところで制度疲労と腐敗にかてなかったって自分で認めてんじゃん
恩をうけた奴等の子孫が腐敗して、恩をうけた奴等の子孫が制度疲労を起こすんでしょ
結局さ、人間社会はこっちを塞げばあっちが漏れるし、昨日正しかったことが今日も正しいとは限らないようにできてんの
なにをやっても滅亡の理由が変わるだけで、それがどれぐらい先伸ばしできるかの理由の最後は運だよ
過去から全てを学べるんなら、このスレにいる連中がそろそろ天下取ってなきゃおかしいって そもそも徳川にとって代わった維新政府が徳川の1/3も持たずに国ごと滅亡したという件について 関ヶ原で戦った井伊直政の兵は上野の兵
つまり関東の兵が戦ったわけだが当然動員兵力なんかも変わってくる
徳川全体でも動員兵力は減るだろうからより豊臣恩顧の大名に頼らざるを得ないことになる
仮に幕府を開けたとしても室町幕府のような幕府にならざるを得ないんじゃないかな >>247
東海五カ国のままなら単純に半減かな 秀忠の別働隊に3万とかは当然無理だね そもそも家康を関東においた理由はそんだけ力のある大名置かないと
ヒャッハー世紀末な惨状になるだけでおちおち安心して唐入りもできないからだよ
つまり秀吉が唐入りを最初から諦めていれば家康に関東任せる必要もなかった それなら北条を減封くらいに留めといて唐入りでこき使えば良かっただけでは 佐竹という、源氏の正統な末裔が隣にいる状況をどう感じただろうか >>252
100万石に満たない領土しか安堵してもらえなかったのか
北条の評価低すぎだな
これでは家臣が納得しない
やはり小牧長久手までに秀吉陣営につかなければどうしようもなかった 当初の噂では東海5ヶ国に加え、豆州加増ではなかったか >>235
それは例えどんなに貢献した譜代でも幼君だと大封を与えないって政権基本方針の表れだから
全方位から信用を失う事の方が影響大きかった話だと思う >>257
秀吉に譜代なんかいるわけないだろ。
つーか、そんな方針絶対やっちゃ駄目だぞ。秀頼が後を継いだ豊臣家はどうなるんだよ。
君主だけは特別なんて理屈、通らないからな。 >>251
そもそも家康は秀吉の義弟で一族一門扱いだからね
なんの縁もない北条とは立場が全然違うのよ
二重、三重に縁戚組んでるし末期の秀吉は案外ガチで家康に天下譲るつもりだったかも
天下あげますからどうかお拾いの命だけはお頼み申すって感じ
まあ、思いっきり反故にされるんだけど秀頼も秀頼で喧嘩上等でイキりまくってたからしゃあないわ 歴史の、たられば、を言うやつはウザイ
と、まことは言った
なのに、この56歳ニートのクソジジイは「もし」
というスレッドを多発している
まことには、こういう矛盾したところがある 関東に転封されないということは、大陸出兵も免ぜられないということだろうから、
シベリアを切り取り次第にしようw 三河の兵は魂がないといわれるほど弱兵だったからなー
使ってる上の連中も無能が大半だったし 5か国(川中島のぞく)119万石に伊豆7万石を加増されてもなあ 健康オタクを極めた家康のことだから
関東の連れ小便で秀吉の小便の状態を観察した家康は
その時点で秀吉の寿命がそう長くないこと悟って国変えに快く応じたんだろうな。
この分ならいずれすぐ三河も取り戻せると。 家康に勝てる人物なんて当時いなからな
仮に関東を豊臣家の直轄領にしていても同じだろ
まあ関東をもらったことでさらに家康の力が上がったのは事実だが >>267
元気なら秀長に関東を任せればよかったのかもしれんが
史実の東海道筋の連中に関東を与えてもねえ 本能寺の変て 秀吉が得したイメージだけど
家康も得しているんだよなw
なんせ信長支配下だと 三河駿河遠江 これ以上地続きで
領土拡張するなら北条とガチバトルするしかないw
けど信長は当時は北条を手駒に使役する腹つもりだったからな
後は信長に手伝って九州か東北(越後含む)に分国でも褒美にもらうくらいだろうな 明智の山陰転封が事実なら徳川も加増を名目に僻地に飛ばされてもおかしくはないな
実際に秀吉はそれをやったわけだし 浜松幕府か駿府幕府になっていた?
そして今頃は静岡県が日本の首都になっていた いや家康は天下を取れずに毛利辺りが大坂と京都を押さえて
大坂幕府になっていたかと。東海地方と甲信地方だけの石高じゃ開幕は無理 とはいえ関ケ原も徳川軍本体より豊臣政権五大老筆頭としての動員権で勝ったわけだし
小田原征伐後に家康には伊豆(+相模)を加増、関東は諸大名や豊臣領に分割して
あとは史実通り展開でも結局は、家康が政権簒奪に成功したんじゃないの?
徳川旧領に恩顧大名を並べても、誰も秀頼のためには働かず家康についたし。 史実の場合は石高で他の大老の2倍という突出度が効いたと思う
家康が東海五か国のまんまなら前田利長だって簡単に屈服しないでしょ
それ以前に太閤死後の利家と家康の対立のパワーバランスも変わるはず
あの時点で家康の失脚もあり得るし太閤の遺言も利家と家康の両者を立てるのではなく利家を中心に大老が合議で秀頼を補佐するくらいに変わるかも 関東は上杉に任せるのが1番バランスいいよ
関東管領家だし、家康の牽制にもなる >>276
そいつらは豊臣政権にいないじゃんw
家康牽制役ならもちろん大老クラスじゃないと話にならん
前田か上杉なら関東に縁がある上杉だろ >>279
>>278はアンカーミス
>>277へのレスと思われる。 里見は江戸時代初期まで安房に居座り続けたけどな
関ヶ原後にでも転封を願い出れば悲惨な最後は無かったろうしオマケで加増もしてくれたやもしれん 目障りな存在だったんだろうな
逆に言えば滅んだからこそ、南総里見八犬伝がうまれたわけで 佐竹や里見は地元に居続けたいなら西軍を勝たせるしか選択肢が無かった 無理ゲーすぎてやらなかったけど 関東に引っ越した事により
大名権力が大きくなったのも大きいだろうな
何気に秀吉は家康好き。結果論 輝基の対抗馬として家康に大幅な加増転封をしたんだろうな >>283
岩明均の漫画『雪の峠・剣の舞』では確か、秋田に添付された佐竹家中で
「もし明確に東軍に味方して、常陸のまま加増になってたら、徳川にとって
目障りすぎて取り潰されてたかも知れんね」みたいな会話をしていたような気がする。
家柄的にも、インチキ源氏の徳川とは段違いの名門だし。 明確に東軍に味方してたら会津90万石くらいに飛ばされてたのじゃないかな
本来は蒲生は旧領復帰してやるほど働いてないだろうし
里見みたいに東軍に付いたけど加増転封するほどじゃないのが一番始末が悪かったのかも
減らすにしろ増やすにしろ要地から転封する口実が必要だったのでは やらかしたとはいえ越後の堀も後に潰されてる >>288
上杉義憲が養子に入っているから藤原氏なんだけどなw
関ケ原の後の当主の系譜は伊達(藤原)とか岩城とか相馬
似非源氏と言ってもいいだろうw >>289
明確に東軍に味方しても秋田に20万石だろうなw
伊達(婚姻関係の)で2万石しかくれない相手だからなw >>290
養子の血統で文句を言い出したら幕末の多くの諸侯は初代と縁もゆかりもない家に成り果ててるだろ
>>292
明確に東軍に味方して戦後処理で減封喰らうわけ無いだろ 恩賞で出羽に飛ばすのならそれこそ出羽丸ごとだろうが最上がいるから不可能 >>293
関ヶ原の直接の論功行賞で東軍だったのに減封という意味ではなく、
常陸のまま加増されてたら徳川将軍家にとって脅威だから、難癖つけて
取り潰されかねなかった−−という意味だよ。
江戸時代初期は、東軍についた外様どころか、松平一門や譜代も潰されてる。
江戸へ数日の場所に、戦慣れした家臣を多数抱えた名門外様の大藩が存在することは
さすがに幕府は許容しない。もし佐竹が東軍でガチ参戦していても、よくて、遠方へ
加増で追いやられるパターンだっただろう。 >>294
江戸初期の出羽って大雑把に計算すると最上57万石・米沢藩領15万石・佐竹20万石の93万石で合ってるのかね >>295
いやだから>>292だと遠方で加増じゃなく
遠方で半減以下の史実と同じ大減封になってるよ
って話をしてるんかと >>298
加増されるかは別として常陸に居座ってたら難癖付けられて下手したら改易、結局史実と同じ秋田に減封って言いたいのじゃないの?
最初が言葉足らずで後出しにも程があるけど 佐竹が全力で東軍に味方したら上杉は苦境に陥って史実以上の減封を喰らうだろうから佐竹が加増されるとしたらその分かな
美濃に連れて行かないのなら恩賞は上杉領切り取り次第かもしれんし
宇都宮残留の秀康軍が睨みを効かせながら佐竹・伊達・最上が三方攻めしたら徐々に削られるでしょ 安房の里見氏程度でも大久保忠隣失脚に連座して安房を没収だかんね
江戸に脅威を与えうる場所に外様はおけないよ 「佐竹家」がどうしても常陸に残りたいのなら鶴千代丸(頼房)でも養子に貰うとか
家康の生存中は水戸家の御三家構想なんか無く、ある時点までは水戸家は同母兄の紀州家の分家と見られてたらしいし
もちろん頼房がある程度成長するまで佐竹家が常陸に居座ること前提だけど >>293
分家の方が血筋良かったりしてw
>>302
佐竹が実質徳川になり、岩城が実質佐竹になればいい >>295
そういう事、佐竹が常陸に居座る事は不可能。
当時の石高で約50万石、近隣の姻戚加えて70万石の勢力はおけない。
家康は、政治的必要で嫁でも息子でも眉一つ動かず消せる化け物 関東に50万石ぐらいで北条残しとけば、家康も動きずらかったろうし、仮に関東200万石でも家康は転封断れなかったろ 開城交渉当初は相模伊豆安堵だったのだっけ
北条がヘマやったのか秀吉の気が変わったのか交渉の実務者の手落ちか
四国や九州の前例だと本国安堵だけどそいつらは本国に侵入される前に降伏したからね
幕末の庄内藩と会津藩の扱いの差みたいなもの 家康、小牧長久手の時は、唯一の明るい外的要因として、長曽我部にめちゃくちゃ頼ったし、利用したのに、完全に切り捨てたよな
苦しい時期を共に戦った戦友とか、勝ち馬に乗りにきただけのウジムシより遥かに価値あるだろうに、長宗我部に対する冷遇ほようわからんわ >>308
盛親が関ヶ原で西軍に味方するわ、その後のどさくさで兄貴を殺すわ
領内で一揆がおきて家中統制も出来とらんことが判明するわではしゃーないと思うが
大坂の陣にも浪人として城に入場しちゃって、夏まで参加するんだから救いようがないよ
別に西軍の首脳部でもなんでもなかったんだから、どっかの大名に頭でも下げて
伝手やコネを総動員して何とか養ってもらって再起の為の運動でもすればよかったのに
いっちゃなんだけど15年もの間、当主も旧臣も何してやがったって話だろ
別にそういった活動の全てを徳川や山内が妨害してたわけじゃあるまいし >>305
家康が頑張ったから250万石になったんやで >>309
コネなら盛親は春日局の従兄弟だぜ 元親に正室が斎藤利三の妹
現に香宗我部家は春日局縁戚の堀田氏の家臣になってる
大阪の陣で陣借りでもして東軍に付いてれば充分チャンスはあった >>296
表高ならそのくらいだが
実高なら佐竹40・最上100・上杉38で出羽一国138万石くらい >>312
最上が改易された時に分割した諸藩の石高の合計はおおよそ最上時代の石高らしいけど
山形の実入がそんなに良いのなら転封された会津松平家は実質減封にならんのかな
小藩に落ちたとはいえ山形藩は山形城の維持にすら困る有様だったららしいし
まあ実入がいいのは庄内藩領とかだったのかもしれんけど >>312
上杉が陸奥分を除いて半分としても138万石だと計算が合わんぞ 158万石の間違い? ご指摘の通りですね
最上百万石まつりという行事が今もあるし
置賜の実高18万石の記録も上杉家文書に残ってる(毛利と異なり何故か高直しは敢えてしなかった)
佐竹の40万石はやや甘い気もするが
158万石の計算ミスです
因みに今は出羽一国と秋田県にある陸中(一部)を合わせて
1000万石を越しているようです 秀吉が征討する場合、
四国 長曾我部 土佐
九州 島津 薩摩・大隅(大隅は長曾我部が辞退した?)
とくれば
関東 北条 相模・伊豆
となると、北条の首脳部も思ってたんじゃないのかな
実際、氏直が家康のところに、わずかな供回りで行ったスキを秀吉に突かれて
和議を反故にされたのでしょう。
氏直は、すぐに亡くなってるけど自分のミスを苦にしてたんだと思う。 長宗我部や島津の場合は本国に侵攻されてないから本領安堵
北条の場合は支城をほぼ全て落とされて小田原城も実質落城だから相模伊豆を充てがうなら征服地を返還することになる
小田原城の周辺10万石(江戸期の小田原藩の規模)程度の安堵ならともかく2カ国要求は北条首脳がお花畑としか
山里廓に籠った豊臣秀頼が投降するから領地よこせと言うくらい無理筋
北条が長宗我部や島津に倣うのなら箱根や伊豆で徹底抗戦して負けたところで降伏しかなかった 案外北条の全領地召し上げと氏直の早世は秀吉としては当てが外れたのかもな
本当は舅の徳川領を削ってそこに押し込むつもりだったのなら
似た話で豊臣滅亡後に前田領から10万石を割いて宇喜多秀家を復帰させる話があったらしいが秀家が固辞したらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています