二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.net
笠谷和比古等が主張する関ヶ原後も関白継承権を持った豊臣家が一定以上の権威と大名への影響力を有しており、
公儀は二重体制になっていたという論について色々と考えてみましょう つまり1603年時点では、
豊臣家の(権威としての)公儀性は、「11歳 関白秀頼」が問題視され無い程度には残っており、
権威者としては圧倒的実力を得た徳川よりも依然として上位であったため、
家康としても、将軍職を得て豊臣政権の枠外で新秩序を構築した方が効率が良かった。
ということ? 勿論、既に豊臣より徳川に従う諸大名が殆どだったろうし、
あくまで名目上の権威でしか無かっただろうけど。 >>502
まったく違うよ。
家康の将軍任官前には徳川公儀は既に全国政権として機能している。
秀頼は太閤秀吉の子として敬われ格別の扱いではあったが、関白位さえ家康の意向次第という状態で公儀性は皆無だった。 まあ慶長5年時点で九条兼孝が関白に再任してるし
慶長10年には秀吉への恨み深い近衛信尹が就任しているし
ゼロではないにしろ秀頼の関白就任の可能性は
かなり低いと言わざるを得ないだろうな
徳川に反感を持つ公家や民衆がどう考え噂してたかは別の話だが >>502
藤原摂関家が征夷大将軍より権威権力持ってたか?違うだろ。 鷹司信尚の後、高齢の二条昭実が関白に再任してるから
とくに徳川家と問題を起こしてなければ年齢的にはこの辺で秀頼が関白になれたんじゃないのかな
関白になったところで権威を振りかざして何かできるというものでも無いだろうが 渡邊大門あたりはせいぜい秀忠の将軍就任くらいまでって言っているんだっけ 残ってたのは秀吉の権威だけで豊臣家自体の権威は
もう無かったんだよ、過去に秀吉が決めた事はある程度
尊重されたが秀頼の言う事より幕府が最優先 関ケ原合戦のあとも、秀頼が成人した時には公儀の主宰者として君臨するということは、
当時の武家領主たちの間では常識であったのだが。
可能性が残っていたのは西軍が関ヶ原で惨敗するまでだな。
慶長五年に大坂で和睦が成立した直後から、家康の書札礼は尊大化して立場の変化は明白。
家康の意向をもって秀頼に関白位が与えられたとしても、栄典としての飾りであり
全国政権としての機能を喪失した豊臣家は公儀の主催者には到底成りえなかった。
明白な証拠としては秀頼の関白位就任の噂が出た際にも、天下を譲るなどという噂は
まったくでなかったからね。 関ケ原合戦後の和睦の盃ごとでは、淀殿と秀頼が上座、家康は下座だった。
家康は関ケ原合戦のあともあれこれ仕切っているが、所詮は秀頼の政務代行をやっているにすぎないということ。 その理屈で言うなら、豊臣政権は天皇の政務代行をやっているに過ぎないので、二重公儀どころか三重公儀となる 朝廷「豊臣がやられたか」
駿府「奴は我ら公儀四天王の中でも最弱」
江戸「公儀四天王の面汚しよ」 まるでってかヤクザは武家の作法を模倣してるんですけど >>1
笠谷和比古6月に宮帯出版社から徳川家康の本出したと思ったら
今度は12月にミネルヴァ書房から家康の本出すのか
家康、関ヶ原、大坂の陣をどれだけ喰いものにする積もりなんだか 去年は大坂落城400周年。今年は家康没後400周年。
出版社はこの時期をターゲットにして本を出すから、笠谷氏に限らず大量に出版されてる訳なのだが… 黒田が北条の、平山や丸島が真田や武田の本出しまくってるのと同じだろう 笠谷は家康、関ヶ原、大坂の陣の研究者だからそりゃ本を出し続けるだろ。何言ってんだか ミネルヴァの評伝シリーズは伝記だから、家康も関ケ原合戦や大坂の陣だけではすまないだろうよ。
どんな内容になるのか、お手並み拝見といったところ。 >>525 比較的最近で出した本で目次見比べると、そんなに内容被っていない気はするが
「歴史の虚像を衝く」教育出版 「徳川家康 その政治と文化・芸能」宮帯出版社 「徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助けべし」ミネルヴァ書房
目次 2015年12月 目次 2016年6月 目次 2016年12月予定
まえがき 〈序章総論〉徳川家康の統治原則……笠谷和比古 はじめに
〈第一章 政治〉 第一章 家康の誕生と幼少時代
第一章 歴史書における年号表記の誤り 三河大名としての徳川氏……………小宮山敏和 第二章 桶狭間の戦いと松平家の独立
はじめに 関ケ原合戦と大坂の陣………………笠谷和比古 第三章 織田・徳川同盟
諸事例年月日表記の虚実 徳川家康と朝廷…………………………野村 玄 第四章 豊臣政権への帰順
むすびに 「御三家」の成立と家康の戦略…………白根孝胤 第五章 関東移封と江戸入部
徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係 第六章 豊臣政権の分裂と秀吉の死
第二章 関ヶ原合戦をめぐる諸問題 家康の姉妹を中心に…………………門脇朋裕 第七章 関ヶ原合戦
はじめに 〈第二章 文化・外交〉 第八章 徳川幕府の成立
一節 豊臣七将の石田三成襲撃事件 徳川家康の外交 ― 外国の史料に見る家康像 第九章 大坂の陣と徳川幕藩体制の確立
-三成、家康屋敷に駆け込むの嘘 ……………………… フレデリック・クレインス 終 章 家康の政治と文化
二節 関ヶ原合戦の歴史的意義 徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫…揖斐 高 参考文献
三節 関ヶ原合戦の軍事的展開 徳川家康と本草学………………………宮本義己 あとがき
むすびに-関ヶ原合戦研究と幕藩体制論 徳川家康の武具…………………………宮崎隆旨 徳川家康略年譜
徳川家康と狩猟…………………………横山輝樹 事項索引
第三章 大坂の陣をめぐる諸問題 徳川家康の肖像…………………………松島 仁 人名索引
はじめに -問題提起として 〈第三章 芸能〉
一節 関ヶ原合戦後の秀頼と豊臣家の地位 徳川家康と能……………………………天野文雄
-「太閤様御置目の如く」 徳川家康と雅楽
二節 家康の将軍任官はどのような意味を持つか 元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの…武内恵美子
三節 豊臣・徳川の東西分有による二重公儀体制 徳川家康と茶の湯………………………佐藤豊三
四節 大坂の陣はどのようにして起こったのか 徳川家康が生きた時代のいけ花
むすびに たて花、抛入、立花……………………小林善帆
徳川家康と囲碁・将棋…………………増川宏一
第四章 大名改易と転封 〔付録〕徳川家康略年譜・徳川家系図・家康花押・旗指物・家紋など
はじめに-改易の意味とその実行理由
一節 福島正則の改易事件
二節 肥後加藤家の改易事件
三節 大名の転封
むすびに
終章 歴史認識をめぐる方法的基準- 本書の結語として
1.根拠を明示しない言明は無効である
2.結果利益をの観点から原因を遡及推測する思考法の戒め
3.合理的根拠に基づく事実関係の解明
4.第一次史料の例外的取り扱い
5.「歴史の見方は人によって異なる」という言説の危険性
あとがき なんかエラー防ぐ為に文字詰めた所為で
改行が無茶苦茶になったから三冊で分けるか
「歴史の虚像を衝く」教育出版 2015年12月
目次
まえがき
歴史書における年号表記の誤り
はじめに
諸事例年月日表記の虚実
むすびに
第二章 関ヶ原合戦をめぐる諸問題
はじめに
一節 豊臣七将の石田三成襲撃事件-三成、家康屋敷に駆け込むの嘘
二節 関ヶ原合戦の歴史的意義
三節 関ヶ原合戦の軍事的展開
むすびに-関ヶ原合戦研究と幕藩体制論
第三章 大坂の陣をめぐる諸問題
はじめに -問題提起として
一節 関ヶ原合戦後の秀頼と豊臣家の地位-「太閤様御置目の如く」
二節 家康の将軍任官はどのような意味を持つか
三節 豊臣・徳川の東西分有による二重公儀体制
四節 大坂の陣はどのようにして起こったのか
むすびに
第四章 大名改易と転封
はじめに-改易の意味とその実行理由
一節 福島正則の改易事件
二節 肥後加藤家の改易事件
三節 大名の転封
むすびに
終章 歴史認識をめぐる方法的基準- 本書の結語として
1.根拠を明示しない言明は無効である
2.結果利益をの観点から原因を遡及推測する思考法の戒め
3.合理的根拠に基づく事実関係の解明
4.第一次史料の例外的取り扱い
5.「歴史の見方は人によって異なる」という言説の危険性
あとがき 「徳川家康 その政治と文化・芸能」宮帯出版社 2016年6月
目次
〈序章総論〉
徳川家康の統治原則……………………笠谷和比古
〈第一章 政治〉
三河大名としての徳川氏………………小宮山敏和
関ケ原合戦と大坂の陣…………………笠谷和比古
徳川家康と朝廷……………………………野村 玄
「御三家」の成立と家康の戦略……………白根孝胤
徳川家康の兄弟姉妹とその血縁関係― 家康の姉妹を中心に……………………門脇朋裕
〈第二章 文化・外交〉
徳川家康の外交 ― 外国の史料に見る家康像………………………… フレデリック・クレインス
徳川家康の学問・儒学と紅葉山文庫……揖斐 高
徳川家康と本草学…………………………宮本義己
徳川家康の武具……………………………宮崎隆旨
徳川家康と狩猟……………………………横山輝樹
徳川家康の肖像……………………………松島 仁
〈第三章 芸能〉
徳川家康と能………………………………天野文雄
徳川家康と雅楽― 元和元年二条城舞楽上覧の意味するもの…武内恵美子
徳川家康と茶の湯…………………………佐藤豊三
徳川家康が生きた時代のいけ花- たて花、抛入、立花…………………………小林善帆
徳川家康と囲碁・将棋……………………増川宏一
〔付録〕徳川家康略年譜・徳川家系図・家康花押・旗指物・家紋など 「徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助けべし」ミネルヴァ書房 2016年12月予定
目次
はじめに
第一章 家康の誕生と幼少時代
第二章 桶狭間の戦いと松平家の独立
第三章 織田・徳川同盟
第四章 豊臣政権への帰順
第五章 関東移封と江戸入部
第六章 豊臣政権の分裂と秀吉の死
第七章 関ヶ原合戦
第八章 徳川幕府の成立
第九章 大坂の陣と徳川幕藩体制の確立
終 章 家康の政治と文化
参考文献
あとがき
徳川家康略年譜
事項索引
人名索引 ミネルヴァ書房の本の副題のわれ一人腹を切て、万民を助けべしって、
何か元ネタになる史料とか逸話ってあるの? ミネルヴァの副題は本の最初に出典を書くから読んでみればわかる >>528
笠谷が福島と加藤の改易は幕府の陰謀ではなく自滅だって
言っていたとか言うのはこの本かな >>534
おいおい、それは笠谷氏の論文「徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察」に出てくる話だろ。
1991年に発表されたものだぞ。 ずっと昔に書いた論文で幕府の謀略説を否定したのだけれど、
一般の認識としてはほとんど改まってるようには見えないので、
この本で、歴史の虚像の一例として取り上げたのだろうよ。 白峰旬も福島正則の改易事件について論文書いているみたいだけど
どんな内容なのかなぁ
ネットでググったが収録されてる本が高くて困る 白峰ははなばなしく登場したけれど、結局、問い鉄砲虚妄論も小山評定虚構論も、みんなつぶれてしまったな。 白峰氏の説は一見すると面白いものの論理の飛躍が激しくて検証が雑だからなぁ。
関ヶ原は史料が多いんだから、もっとキチンと掘り下げてから発表すりゃ良いのだろうが…そうすると自分で自分の説を否定しちゅう? >>538
基本的な根拠が一次史料が無いだけじゃなぁ 事件に近い時代の史料に書かれていないから嘘だという論法だけど、
事件から間を置いてからいろいろ明らかになって集まってくる情報だってあるんだから、
事件から時間の経った史料に書かれている事はすべて作り話という決めつけが誤りの元。 小山評定の否定は白峰が目立っているけど
そもそも書状の日付等に疑問を見いだしたのは
光成準治で白峰はそれを松平史観の否定に拘るあまり
間違った方向に飛躍的解釈しただけじゃ無いの >>545
あきらめなくても反論材料が無い。
悪あがきというもの あっさり肯定しちゃったらせっかくの自分の論文が無意味なものなっちゃうもの
なかなか認めないわな 認めないと言ってもなぁ…。
例えば小山の話はとっかかりの主張をガッツリ崩されてしまったからね。
もう一度キチンとした根拠を構築しないとどうしようもないですな。 どうこねくりまわしても小山の評定が無かったというような議論は成り立たない。
むしろ、あったことを裏付ける事実が相次いで出されている。 >>530
この本の中で笠谷は小山評定や二重公儀論
方広寺の鐘銘の件や冬の陣の勝敗、
大坂城の惣堀埋め立てとかどう書いたのか楽しみだ やはり大坂の陣が最大の難関だろうな。
家康の悪役、狸おやじイメージを作ってるのは、何と言っても大坂の陣。
どう描いているのか、それは楽しみではある。 >>550
お前はアンチという言葉を履き違えている 12月中だろう。家康没後400年の最後の最後。
それにしても家康イヤーのはずだのに、真田丸に振り回された感じ。 関ヶ原直後
・豊臣4:6家康
家康将軍任官
・豊臣3:7家康
大坂の陣直前
・豊臣2:8家康秀忠
家康死後
・豊臣?:?秀忠
朝廷、諸侯に対する影響力はこれくらい差があったんじゃない
徳川が豊臣を上回った関ヶ原後から徳川政権と言っていいけど
豊臣も旧主家として幾ばくかの影響力を行使していた
家康は0:10にして死なないと秀忠時代にもう一波乱あると考えたから
たいして影響力のない豊臣を潰しにかかったんじゃないの?
一大名に落とすか滅亡さすかは冬の陣まで決めかねていたかもしれないが 時間が経てば経つほど秀吉の記憶が薄れていくので秀頼自身に何らかの事績がなければ
家康が死んだからといって豊臣に擦り寄る大名が増えるとは思わん 秀忠ではねぇ。徳川の中でもついていかない奴が続出ではないの。
松平忠輝とか、松平忠直とか、忠輝に連動する伊達政宗とか。
豊臣よりも徳川の方に波乱要因満載といった印象。 秀忠無能論だが、結果は見ればご存知の通り、果断な将軍 秀忠だと波乱ですむが、秀頼なら崩壊だろ
どちらがベターかは一目瞭然 忠輝や忠直なんかが反乱起こしたって何の正統性もない上に秀忠より年少だからろくな実績がないし
両者とも家康生前に家中で騒動起きてるから能力的にも疑問符を付けざるをえない 担ぎ手が揉めた結果が家中騒動だぞ
忠輝なんかは担ぎ手に放り出されそうになっている 大久保忠隣なんてのもいる。
これは謀反をたくらんで、密告で粛清されている。
家康と秀忠と、両方とも始末しようと企てていたらしい。
豊臣には少なくとも、そんな危険分子は見当たらない。 伊達政宗なら100%やるだろう。
家康か死んだら、松平忠輝かついでクーデター。秀忠を失脚(殺害)させて二代将軍に擁立するだろうよ。
それが見えてるから、家康も忠輝の排除に踏み切らざるをえなかったということ 豊臣に危険分子一杯いるじゃん。
大野暗殺しようとしたり、堺焼き討ちしたり……
そもそも浪人連中が危険分子だろ。あいつらのせいで豊臣滅亡じゃねーか。
徳川の危険分子とやらは(危険とは思わんが)反乱すら起こしてねーじゃん。
比較にもならないね。 豊臣の中には秀頼に対して謀叛を企てるようなヤカラは見当たらない。
最後まで秀頼と共に殉じたような侍たちばかり
徳川とはその点で大違い 大久保忠隣が謀反を企てるなんて話有ったか?
家康と秀忠の暗殺を目論んでいたなら処罰が改易と他家預かりで済まされるわけ無いだろ なんだかんだで結局孫が小田原城主に復帰してるしね
大久保長安の息子は全員切腹させられて断絶してるけど >>574
豊臣に対して謀反を企てた西軍首謀者連中を家康が討伐したのが大きいな
豊臣は家康に感謝しても仕切れないだろう 宇都宮城釣天井事件は秀忠の在世中に濡れ衣だと判明している 濡れ衣でも、秀忠が密告を信じて宇都宮城の宿泊を避けたのは事実。
そしてその直後に、正純が改易されたのも事実だから。 その程度の危険分子なら豊臣政権でも掃いて捨てるほど居る
実質ただの内紛だからな いないだろう豊臣には、家臣が主君の暗殺をを企てたなんて話は聞いたことがない。 宇都宮城釣天井事件は濡れ衣だし大久保忠隣も政敵による讒言の類だろう
徳川家との内通を疑われて放逐された片桐且元や冬の陣の後襲撃された大野治長とかわらん 後、正純の改易は福島正則改易に反対したことや、一度は受けた宇都宮の加増を返上しようとしたため >>584,585
忠隣の改易は、家康に対する謀叛の密告を受けてのもの。
正純の改易は、秀忠の宿所に予定されていた宇都宮城内の御殿の作りに不審あり(釣り天井ではないけど)という密告を受けてのもの。
家康や秀忠は、これらの密告を受けて、小田原城や宇都宮城に立ち寄るのを取りやめている。
仮に濡れ衣だったとしても、こんな話を真に受けるというところに問題がある。 大久保彦左衛門は『三河物語』の中で、大久保忠隣の失脚について、大久保一族が徳川家に謀叛など働くはすがない、讒言による陥れだと力説している。
つまり、大久保忠隣の失脚は、謀反の嫌疑だったということ。 >>588
この場合は、謀反と言っても幕府の决定に逆らったこと 結局>>564の言うような秀頼の豊臣家より秀忠の徳川家が危険ってことはないんだよな
謀反の嫌疑を受けた連中でも従容として罪に服しているし
むしろ家中の過激派を抑えられず大坂の陣のきっかけを作ってしまった秀頼の方こそ問題がある 豊臣摂関家として、存続続ければ問題ない。
結局武家であり、摂関家であると中途半端が
滅ぼしたんだね。豊臣政権を徳川政権に渡し、
豊臣秀頼関白家として、公家化すれば良いんだよ。将軍家は徳川。公家は豊臣家。将軍より、
関白が上だから。豊臣家は上位で、大名でないから、改易問題も起こらない。 そもそも将軍より関白が上というのが間違い
令外の官だから時代によって変わるんだよ
江戸時代なんかは完全に関白より将軍の方が上 >>592
江戸時代で見るから、征夷大将軍が圧倒的という印象になる。
家康以降、将軍をインフレートとさせた。
家康までは将軍というのは、関白よりはるかに低い職位だった。 >>594
将軍だから名乗ったのではなくて、太政大臣あたりになってから名乗ってる。
征夷大将軍というのは五位相当なんだって。関白とは雲泥の差 豊臣家は関ヶ原以降、諸大名に対する指示や動員はしなかったでしょ?
徳川家康はあちこちに城をつくり、諸大名を動員したけど。
したがって二重公儀は言い過ぎ >>596
家康は全国の大名を支配しているけれど、それらに対して領地朱印状を出せていない。
また、それらに対して幕府の名前による法令というものを発布できてない。 >>599
加藤貞泰が慶長15年に米子へ転封した時は、朱印状自体は残っていないが、
江戸年寄連署に「猶以、御朱印之儀者、重而可被遣旨に御座候、以上」とある
後は、西国大名一円に大船を献上させているね >>596
家康が諸大名を動員していたのは豊臣公儀大老の立場でも
あったからだろ
少なくとも将軍になる前に天下普請で二条城作っているが
あれは形式的には秀頼の築城となる 笠谷氏はこんどの『徳川家康』でも、二重公儀体制の理論を使って、苦渋の末に大坂の陣を決断する家康の苦悩を描いているね。
やはり二重公儀論を入れないと、大坂の陣の理由は解けないのかも知れない。